叛骨・中野正剛

――主観的な覚え書き

尾崎士郎




 年譜によると、中野正剛が、衆議院議員に初当選したのは大正九年五月だった。議会における処女演説が、新人政治家としての彼の存在に鮮烈な印象をあたえたのは、同じ年の七月に召集された第四十三特別議会である。
 このとき、中野と時をおなじゅうして初当選し、同じ議会で処女演説を行ったのが彼と同門の早稲田出身である永井柳太郎であったことが、両者の後輩である私の心に深い感銘を残している。
 このとき、永井は四十歳、中野は三十五歳であるから、年齢には相当の開きがあったとはいえ、両者ともに一般民衆の心に青春の象徴というかんじをあたえたことだけは確かである。
 永井柳太郎に私淑して少年の一時期を過した私は、中学時代から、偶然の機縁で相識の間柄であったが、この両者に対する魅力は、過ぐる年、入幕当時の好敵手、柏戸、大鵬という表現が、もっとも適当しているようである。

対蹠的な好敵手

 大正九年であるから、私は二十三歳で、学籍はまだ早稲田大学に置いていた。
 時の内閣総理大臣は原敬であるから、もちろん政友会内閣であるが、この二人を迎えた議会が急に明るい輝きを加えたことは、ひとり私だけの感慨ではない。私が早稲田の学生時代に、永井はすでに教授であったが、中野は大先輩とはいえ、やっと東京日日新聞(現在の毎日新聞)に入社したばかりのときだった。
 私の頭の中では、現在もそうであるが、その頃から、時代的に対立する二つの花やかな人間像としてうかんでくる。
 永井は、明治四十一年、オックスフォード大学留学中(二十八歳)に片足を切断したが、中野もまた大正十五年、左足の整形手術を誤って隻脚となった。学生時代の中野の声名が、私たちの予科生(現在の高等学校)時代においても、全校を圧倒していたのは、彼の人間内容や、識見抱負よりも、むしろ柔道の選手としてであった。あの頃、日本の柔道界に不世出の存在として知られ、しばしば暴力沙汰を起して儕輩さいはいのあいだに畏怖と敬遠の的にされていた徳三宝との試合に勝ったということが、中野に対する人気を湧き立たせたのは当然であろう。
 学生時代の私は、もちろん、この肩で風を切って学生街を闊歩する大先輩と親しく話し合う機会なぞのあるべき筈もなかったが、いつも洗いざらしの紺絣の着物に、小倉の袴を裾短かにはき、心持ち左肩をそびやかすようにして歩いてくる中野正剛の姿を仰ぎ見るような思いで眺めたものである。
 そのかんじは、一見、無造作で、何の屈託もないような豪放闊達な印象にみちみちてはいたが、しかし、よく観察すると、一挙一動に意識的な誇張があり、微妙で神経的な技巧がかくされていた。
 これも、私一人だけの記憶をかすめる印象ではなく、一種のスタイルを否定したスタイリストというかんじが、ほかの学生たちの眼にも映っていたらしい。
 それは、しかし、決して、作為に終始するかんじではなく、むしろ、知性のもつ独特の生活態度をそのまま反映しているというかんじでもあった。
 そういう日常生活の習性においても、永井と中野とは、まったく対蹠的だった。スタイリストという意味をもってすれば、永井は自ら、自分にふさわしいスタイルを考案し、それがために応接室の一隅に大鏡をおいて、一つ一つ効果をたしかめようと試みたことさえあるくらいだから、悠揚ゆうよう迫らざる演説の抑揚や、ゼスチュアまで、ことごとく完備した型を持っていたが、しかし、それにもかかわらず、どこかに穴のあいたような気楽なところがあり、そこに自ら巧まざる親和力が、ひとりでに、かもしだされていたように思われる。
 いずれにしても、大正九年、四十三議会における、この二人の若き政治家の登場ほど、はなやかなものはなかった。
 このときの永井の演説は、原(敬)総理大臣に対する正面を切っての弾劾だんがい演説だけに、議会を大混乱に陥れ、ついに懲罰問題をひき起す結果を生じたが、それだけに永井は完全に目的を達したといっていいかも知れぬ。

西にレーニン、東に原敬

 あの頃、合言葉としてつたえられている「西にレーニン、東に原敬」――という言葉が懲罰の端緒をつくった。永井の主張は普通選挙の即時実施であり、それが、階級闘争を誘発するというのが重要な論点となったらしい。
 これとくらべると、中野の演説は、「尼港ニコラエフスク問題審査会設置決議案」の提出を主題とするものであるから、永井のような大上段にふりかざした演説ではない。
 その演説内容も、実質的であって、彼は、シベリヤ出兵を徹底的に批難し、革命進行中のロシヤに対する干渉に反対して、レーニン政府の承認を主張した。これは、中野にとっては、急速につくった思いつきの理論ではなく、年来の主張であるだけに、一貫した論理が、すくなからず好感をもって迎えられた。
 演説においてもそうであるが、政治的態度と処世方針においても、中野は永井とは対蹠的であり、しかも、それでいながら、二人とも、どこかに共通したものがあった。私の見解を率直にいえば、革命家とまではゆかないとしても、単なる政治家として安定した地位を求めようとしなかった中野には改革運動者としての尖鋭な感情が常に彼の政治行動を支配もすれば制肘せいちゅうもしていたといえるかも知れぬ。おそらく、彼は永井の存在を眼中においてはいなかったであろう。
 ただ、奇異な感銘を残すのは、この二人は政治的立場において、共通した方向を示していたにもかかわらず、二人が相結んで事に当るということのまったくなかったことである。
 中野の親友であり、同志であり、同郷の人間関係をもつ緒方竹虎が、中野のヒロイズムについて、「中野君の一生は修道者の一生であった。人生、字を知る憂患の初めといわれる。彼は政治を志したけれども、力を獲ることよりは義に合わんことを求め、そのため、現実の政治家としては決して成功ではなかった。修道者である中野君は政治上の岐路に立つごとに、読書尚友、東西古今の英雄豪傑と語って自らの反省の資にしようとした。したがって、彼の文章には人物論が多く、人を論ずるときに、彼の文気はもっとも精彩を発した。多い彼の人物論のうち私は、「西郷南洲」、「大塩中斎(平八郎)」及び「進藤喜平太」を好む」といっているのは、中野の反政治家的稟質ひんしつを的確に表現しつくしているというべきであろう。
 昭和十八年、十月二十七日、中野が自決した日の机の上に『大西郷全伝』(中野泰雄氏の執筆されたものによると、著者は雑賀博愛となっているが、緒方竹虎氏の文章では、下中弥三郎となっている)が開いたまま載せてあったという。
 緒方氏の説かれる修道者という意味は、一種の精神主義を暗示するものであろう。中野正剛は情熱の使徒ではあっても宗教的な信仰の所有者ではなかったようである。

政治家たるべく余りに純情

 私は、彼について考えるごとに、若き一生を非業の死によって無残にも自ら滅ぼしていった米沢藩士、雲井竜雄を想起する。必ずしも特別な理由があるわけではない。情熱に殉じて桁をはずしながら、しかも、人間的には終始一貫して求道的な冷徹さを失わなかったところが共通しているのである。
 雲井竜雄は陽明学によって思想の基盤を築きあげたが、中野は、陽明学の影響をうけても、その中に味到することは出来なかった。
 此処ここに情熱と知性の矛盾と相剋が明瞭な形をもってあらわれてくる。情熱というものは、一つの系譜を持っているといえるかも知れぬ。中野が、西郷の「敬天愛人」という言葉に感激し、大塩平八郎に傾倒したと同じように、雲井竜雄もまた、彼の思想の発展的径路に同じ方向をたどっている。同時に、私が、更に興味を覚えるのは、しばしば引合いに出した永井柳太郎が、本質的なフェミニストでありながら、西郷を慕い、大塩平八郎を崇拝していることである。しかし、永井の場合は、対象化されている人間とのあいだに一定の距離があり、いかに大塩に陶酔しても永井柳太郎の本質を逸脱することはなかった。彼は人間的気宇においても、大隈重信の影響をつよくうけただけあって茫洋たる機略と、護身的処世法を体得していた。中野は、これとくらべると徹頭徹尾、直情径行であり、知的感覚においてもはるかに深く鋭いものを持っていながら、彼の内にひそむ改革者的情熱は、しばしば激情にまかして飛躍するとともに、自ら進んで窮地に陥ることを避けるだけの余裕と術策とに欠けていた。
 自分に対して厳烈であった彼は、他を批判する場合に寛容な態度をとることができず、ひとたび敬愛と信頼を捧げた人物に対しても、感情の角度の変るにつれて、認識を一変するだけではなく、これを敝履へいりのごとく捨てて顧みないというようなことも幾度いくたびとなく繰返された。
 理想と抱負と、これを行うに足るべき勇気の持主である彼が、政治力を結集することのできなかった理由が此処にあり、これを他の一面から論究すれば、彼は政治家たるべく、あまりに詩人的純情に禍されすぎたともいえよう。

日章旗、影うすし

 私が、はじめて彼の文章を読んで感動したのは、大正八年一月、パリでひらかれた講和会議に、自分の経営下にある東方時論の特派員の資格で参加した彼の眼に、当時の日本の全権団が列国代表の前で、中国全権、顧維鈞、王正廷等の若き外交官によって、完膚なきまでに、たたきつけられ、翻奔されるのを眼のあたり見たときの怒りと嘆きとの結晶によって成る通信記事である。彼は満腔まんこうの悲憤を抑えるに忍びず、自ら小パンフレットをつくって、これを知不知のあいだに配布した。「日章旗、影うすし」という題であったと思う。一字一句、挑みかかるような文字によってうずめられた小冊子を読んで、外交事情に迂遠な私は、唯、彼の文章のもつ格調の高さに心をうたれた。少年の頃、二十代の荒畑寒村の書いた『谷中村滅亡史』を読んで感奮興起したときのかんじと似ている。
 中野は、その頃、すでに朝日新聞社を去って、自ら東方時論社の経営に乗りだし、大正六年、四月の衆議院議員選挙には郷里の福岡から立候補して落選していた。時を同うして、永井柳太郎も、郷里の金沢から立候補し、次点で落選した。両者ともに選挙が終ると、それぞれ別の意図をもって外遊の途にのぼった。
 しかし、最初の選挙に敗れたことは、かえって中野の人気を沸騰させ、特に進歩的な立場をもつ青年層の彼に対する支持は全国的にひろがっていった。
 これは永井の場合と、まったく符を一にしている。金沢では永井の落選と、彼の反対の立場に立って、対立候補者である財閥の雄、中橋徳五郎を後援したH新聞社が暴徒によって焼打ちされた。
 両者のうけとった運命は、外見的には、まったく共通しているが、しかし、仔細に点検すると、中野を支持する空気と永井を支持する空気とのあいだには相当に大きな開きがあった。
 この二人の運命の、もつれてゆくすがたはそれだけで、大正、昭和をつなぐ時代を背景とする一篇の小説であるが、永井が年毎に、政治家的な機略と、終始一貫して、時の大政党である憲政会(民政党)を背景にして、政権に近づき、彼の理想を政策の上に実現する機運にめぐまれようとしているとき、中野は、無所属倶楽部を結成して、少数派の立場を遵守し、もっとも尖鋭的な改革派としての主張をつらぬきとおした。『明治民権史論』の著者は、年齢も若かったが、常に打ってひびく革新的情熱に生きて、議会の内部よりも、むしろ、対民衆運動の指導者たるべきことを信条とするもののように見えた。

辛亥革命を望見して

 大正十一年、彼は、はじめて革新倶楽部に入党して犬養毅の傘下に位置を占める政治的立場を確立したが、それも長続きはせず、彼が外遊より得た確信が、日独伊同盟の理想を念願するようになり、次第にヒトラー、ムッソリーニの人間的影響をつよくうけ入れるようになったことだけは事実であろう。これを、しかし、今日の立場から批判することは大きな錯覚であって、中野がヒトラーに傾倒したことは、独裁者としての権勢を操縦する能力を持ったヒトラーではなくて、民族の改革と独立に全精力を注入して、いわゆる政治主義の欺瞞と誤謬から民衆を解放しようと企てたヒトラーであることを知らねばならぬ。
 その由来するところは、彼が青年期に、頭山満、進藤喜平太等の玄洋社の先輩によってつちかわれた日本主義と、中国の辛亥しんがい革命に乗りだし、現地で親しく孫文や黄興の活躍する姿を望見し、親しく彼等の意見を聞いて、アジア解放の理想を実現するために一生を捧げようと決意するにいたってからである。
 当時、二十代であった、もっとも感受性のつよい青年中野の胸にきざみつけられた幻像は彼の一生を終る日まで消ゆることはなかったであろう。
 私は、緒方竹虎が、彼の人間性について論じている次ぎの言葉の中に、中野正剛の真実の姿をハッキリと見透すことが出来る。「(前略)残忍なことを忌むこと中野君より甚しいものはないのである。中野君は一面、勇敢である。何物をも怖れない勇者として知られている。それは確かに事実である。しかし、中野君は、その半面、血を見ることが非常に嫌いであった。中野君ぐらい一生の中にたびたび大手術を受けた人は尠い。その、とどのつまりは左脚を失うにいたったのであるが、それでいて中野君は、他人の手術など、身をふるわして厭がった。民族が民族と血を流し合う戦争など、それだけに中野君が、よろこぶわけがない。太平洋戦争開始の朝、中野君が、いうにいわれぬ憂鬱をかんじたろうことが、私には、はっきりと想像されるのである。戦争が勝つとか敗けるとかよりも、戦争が当然にもたらすであろう戦争の悲惨事については、中野君のヒューメンな心が惻々そくそくと動いたからである。軍の中の腐敗情実、少しく気概あり智略ある将領しょうりょうが、次々に退けられてゆく軍の近情を見て、果して戦争が出来るかという危惧もあったろうが、それよりも、本能的に戦争を嫌ったのである。私の眼にうつる中野君は、馬車馬的の勇者、才気の奔溢する中野君ではなくて、慈愛にみちた、残忍なことは、それこそ虫一つ殺すにさえ堪え得ない、極めてデリケートな心の持ち主であった」

「我観」が捲き起した衝激

 私が、はじめて中野正剛に会ったのは、大正十二年、秋、関東大震災直後のある日である。
 場所は、内幸町の、現在東京新聞社のある側に、小路をへだてたところにあった木造二階建の洋館だった。これが、彼の岳父であり、恩師である三宅雪嶺とともに創刊した「我観社」の事務所だった。
 東京の市街は、ほとんど震災の厄を蒙っていたが、あのへん一帯だけは旧態のまま、災害をまぬがれていた。私の記憶も、現在となると、おぼろに霞んでしまっているが、たしか、その建築が、鉄道大臣として在職中、収賄事件に連坐して失脚した小川平吉邸のあとだったように思う。後年、この家は改造されて、満州映画協会の東京支社になったが、その頃は、壁や床も崩れかけた文字どおりのボロ建築だった。
「我観」は、その前、明治時代からつづいていた「日本及日本人」を基盤として新装一変した綜合雑誌で、中野正剛独力の経営によるものであった。
 その頃、おもだった一流の綜合雑誌といえば「中央公論」「改造」「解放」「中外」等を数えるくらいのものだったが、「解放」と「中外」は、経営困難に陥って廃刊し、僅かに存在を保っているものは「中央公論」と「改造」だけである。
 当時の常識からいっても、綜合雑誌の経営は、よほどの財力を注入しなければ、ほとんど不可能とされていた。前に、中野の関係していた「東方時論」や、「大学評論」の廃刊もすべて主要な原因は財力の不足にあった。そういう時代的環境の中へ、何の先きぶれもなしに、大判で五、六百頁の部厚な綜合雑誌が突如として創刊されたのだから、異常なセンセイションをき起したことはいうまでもない。
 そのとき、編集長として起用されたのが、大正十一年、私が上海放浪中に親しくなった中山栄三という中国研究家だったので、私は彼の好意にそそのかされて、創作欄に百枚ちかい小説を執筆することになった。雑誌の計画はその年の七月頃から進められていたので、私が原稿を渡したのは八月三十日頃だったと思うが、私は中山君に懇請して、原稿と引換えに原稿料を支払ってもらった。その頃、「中央公論」の稿料が一枚五円だというので、文壇の事情に通暁しない中山君は、無名の新人である私にも五円の原稿料を支払った。これが「凶夢」という小説で、意外にも、その頃まったく未知の人だった川端康成が時事新報の文芸時評で、一日分を費して高く評価してくれた。
 中山君も、これに気をよくしたらしく、つづいて翌年の新年号に短篇の執筆を依頼してきた。ところが、社内に、いろいろ面倒ないきさつがあったらしく、一ト月と経たないうちに、中山君は経営不振の責を負って退社してしまった。そのとき、同君から、私のことは後任者に伝達してあるからそのように御承知願いたい、――という意味の手紙が来た。私は、その頃、馬込村に住んでいたが、およそ二ヶ月を、その仕事に没頭し、やっと完成したので、「我観社」にあてて、中山君から依頼された原稿の出来たことを通告した。すると、Mという、これは後年、私とも親しく往来するようになった男であるが、このMが中山に代って編集長代理ということになっていたらしい(これは私の想像であるが、文芸欄の担当は中野正剛氏の実弟である秀人ひでと君であったが彼は朝日新聞の学芸部に在勤中だったので実際問題には関与せず、彼の推薦したM君がその衝にあたっていたらしい)
 ところが、そのM君から、私にあてて、実に不遜にして無礼きわまる手紙が来た。文句は忘れたが、そんな原稿を頼んだ覚えもなければ、前任者から何の引継もない、神に誓って偽りなし、右まで、――といったような、不愉快きわまる返事に激怒した私は、原稿の問題は別として、貴様のような不屈至極な無礼者は断じてゆるすわけにはゆかぬ、明日、訪問するから待っていろ、という意味の手紙を速達で出し、私は翌日、時間どおり内幸町の「我観社」へ出かけていった。

物やわらかな印象

 うす曇った日で、時間は、たしか二時か三時頃だったと思う。私はすぐ二階の編集室に通された。
 がらんとした編集室には、事務を扱っている老人が一人と、もうひとり、正面にならんでいる机の一つに、二十五、六の、髪の毛を長く伸ばした、一見して精悍な、才気溌溂としたかんじの青年社員が、頬杖をついたまま、横眼で私の顔を睨みつけていた。
 私は、手紙の張本人は、こいつだな、と思ったので、彼のいる席に向って二、三歩、あるきだしたとき、階段をあがってくる足音が聞え、ほそおもての、柔和な眼をして、髭を生やした紳士が、びっこをひきながら入ってきた。
 私は、そのなごやかな表情に心持ち微笑を湛えている洋服を着た紳士が、私の学生時代、豪放な態度で街をのし歩いていた柔道家の中野正剛と同一人物だとは想像もしなかった。
 その後、十年ちかく、私は書いたものを読んでいるだけで、中野正剛その人とは直接会ったことがなかった。慷慨激越の革命的リズムにあふれた文章に親しんでいるうちに、いつのまにか私の頭の中には、まったく別の中野正剛のイメージがつくりあげられてしまったのである。
 紳士は、私の前に立つと、物やわらかな態度で、
「中野です」
 といった。一瞬間、私は出鼻をくじかれたような思いで、慌てて手帖の中にはさんだ名刺をつかみ出そうとしていると、
「失礼ですが、何か社のものが不都合なことでもいたしましたでしょうか?」
 底にトゲをふくんだ声ではない。淡々とした調子の中に、編集員の不都合も、それに対して怒っている私の気持も、みんな、ひととおり呑みこんだ上で、一切の責任は自分で負おうという心構えである。
「いや、どうも」
 といったきりで私はまいってしまった。何を、どういう順序で、どういうふうに話したのか、自分でもハッキリおぼえていない。四十年前の話だから、こまかい記憶は、うすれて見分けがつかなくなっているが、何の誇張もなく、物やわらかな中野正剛の顔の印象だけは私の頭に灼きついている。
 そのつぎに会ったのは、政治生活において、もっともはなやかな時代で、昭和三年、最初の普通選挙に最高点で当選した彼は、このとき、すでに安達謙蔵の勧告によって民政党(憲政会の改称)の創立に参加していたが、民政党という命名は彼によって行われたものであり、第五十六議会では張作霖の爆死事件について、時の総理大臣だった田中義一を完膚なきまでに追窮し、『田中外交の惨敗』という著書を公刊して、軍閥政権の不当を国民に訴えた。
 昭和四年の七月、浜口内閣の成立とともに、ひとたび逓信政務次官となった彼は、まもなく辞任すると同時に、安達謙蔵とともに民政党を脱党し、国民同盟を結成して、混乱の極に達している政界に、自ら進んで新しい活路を開こうとした。
 ちょうど、この頃だったと思う。私は、その数年前から彼の弟の秀人と親しくしていたが、秀人は文学者としても卓越した才能の持主であるとともに、洋画家としても、詩人としても、稀に見る天稟てんぴんの資質にめぐまれた大男だった。
 二、三年前、有名な新劇女優の花柳はるみと恋愛関係を生じたのが、ついに破綻の悲運に直面し、恋の痛手――といっても、この破綻は、どっちが失恋ということになるのか私にも見当がつかぬが、とにかく、花柳は銀座に「サンチャゴ」という酒場を経営し、有能な将来を約束されながら、連夜、乱行に溺れて時を過していた。とにかく、秀人は、半ばの未練と執着を残したままで、飄然と日本を去った。
 私は彼を横浜まで見送りにいったが、そのとき花柳と同じ帰りの電車に乗り合せたので、そのときの感慨は、いまでも、まだなまなましく残っている。中野秀人の海外脱出とともに、花柳の姿は舞台の上から消えてしまった。これだけ有名な女優であれば、いかに姿をくらましたところで、風のたよりにつたわってくる消息というものは、必ず噂の種にのぼるものであるが、花柳の場合だけは、ようとして影を絶ったまま今日に及んでいる。

恋を載せた船

 ところが、心の傷手をおさえて日本を去った中野秀人が数年の後、血統も正しければ由緒もふかいスペイン貴族の娘と、あたらしく恋愛にち、日本で結婚式を挙げるために、オランダからアメリカの貨物船に乗って帰ってくるという通報が入った。
 私は、彼から届いた手紙を手にしたとき、私は古典的な小説中の一情景が、忽然として私の眼の前にうかびあがったような思いにうたれた。
 秀人を知っている仲間だけではなく、この噂は街じゅうにひろがっていった。
 まったく、ねたましいような、待ちどおしいような、何に対してともなく高まってくる感情の中で、私は数年間の空白が彼にとって決して無駄ではなかったことをかんじた。
 それも、花売娘や、売笑婦をさらってくることなら誰にだって出来るのだ。しかし、今や、わが中野秀人は、お伽噺とぎばなしの中の王女をめとって国際恋愛の範を垂れようとしているのではないか。これだけは誰にも出来るという芸当ではない。
 第一、貨物船というのが、すばらしくロマンチックではないか。何故、貨物船に乗るんだろうという意見に対して私は堂々と答えた。「そりゃ、君、あいつは文なしだからさ、先ず自分の恋人を日本へつれてくる前に、じっくりと貧乏に馴らそうという遠大な抱負にちがいないよ」
 私の眼には朝の光りに照らしだされた広い海面が見える。キラキラと波をはねかえして一艘の船がうかびあがる。恋を載せた貨物船である。
 秀人は、しかし、一生を賭けた冒険をやってのけたというだけで、例えば彼が無事に日本へ帰り着いたとしても兄の正剛がこれをこころよく迎えてくれるかどうかは疑問である。
 私たちは、まったく足が地に着かないような不安定な、そわそわした思いで彼の帰るのを待っていた。
 何しろ婚約の相手が相手だけに、中野家も対世間体に対する処理の問題について、もっとも苦慮した様子である。そういう考え方を推し進めてゆけば、秀人のとった態度は、あまりにも性急であり、無謀でもあった。
 いかに、行きあたりばったりの貧乏世帯を持つことから出発するとはいえ、私たちの平素考えているような竹の柱に茅の屋根というわけにはゆくまい。空想と現実とのからみあった問題であり、批判の対象となるべきものは、万里の波濤を越えてやってきた花嫁花婿ではなくて、今や時代の脚光を浴びながら、新時代の指導的政治家として片脚で立っている中野正剛なのである。

弟の結婚の招宴で

 中野正剛は最初、弟の結婚問題、――というよりも今まで類例のない国際自由結婚に対して、まったく無関心の態度をとっているように見えた。幼少時代から東洋的な教育と生活の習慣を身につけている彼は、弟の結婚に対しても習慣と形式を重んじて、豪華は豪華なりに、簡素は簡素なりに、首尾一貫した方法を選ぶべきが至当であると考えたらしい。
 何しろ、当時の秀人の周囲といえば貧乏な芸術家たちばかりである。私は最初、二人を迎えて、ささやかな宴を開こうと思ったが、いよいよとなると、全財産をあつめて十何円しかなかった。それも、女房の着物と、自分の時計を入質して、やっと調達した金である。これでは招宴どころのさわぎではない。私は、フェリシタ夫人(スペイン女性の名)と秀人をその日、夕食をすましてから歌舞伎の観劇に招く予定にしていた。それが、うまくゆかないからといって途中で変更するわけにもゆかないので、先ず新橋駅で二人に会い、銀座に出て、コロンバンの二階で、一円五十銭のランチを喰べ、それから、すぐ歌舞伎座へいったが、特等席は五円だったので、切符を買ってしまうと、もう円タク代もなくなってしまう。止むなく三円で二階の二等席へおさまった。その翌日は、二、三十人の連中が、ささやかな招宴を張ったが、これも、東京会館とか帝国ホテルとかいうわけにはゆかず、赤坂の、アメリカ大使館の前にあった三会堂という暗いビルディングの一室で、とにかく一応の恰好だけをつけた。
 最初、中野の手紙では、彼女が同化しようとする気持には並々ならぬものがあり、糟糠そうこうの妻として一生を奉仕する覚悟があるという決意を汲みとることの出来た私たちは、孔雀のように、明るく絢爛たる色彩に全身をうずめて、悠揚とあらわれてくる彼女との応対にどうしていいのか見当がつかなくなってしまった。
 最初は、中野のお母さんであったか、姉さんであったか、ひとりで住んでいられた(詳しいことは知らぬ)神宮外苑のアパートに落ちついていたが、五尺七、八寸もある巨体をもつ彼女は、それが絶世の美人であるだけに、小さなアパートの生活は相当に息苦しいものであったらしく、やがて、渋谷の親戚の家に移った(これも詳しいことは知らぬ)
 この家のサロンで、中野正剛の主催による、近親者たちの顔つなぎの小宴が催された。
 フェリシタ夫人は料理が得意なので、自分で台所を仕切って、世話女房らしい、かいがいしさを遺憾なく発揮していたようである。
 あつまった人の数は二十人足らずで、中野家に関係のある人たち、三宅雪嶺、花圃女史、正剛夫人、その他の親戚を除いては、大西斎、高村光太郎夫妻、それに私夫妻くらいのものではなかったろうか。
 私は、そのときの、中野正剛の、愛情にあふれた挨拶を、いまだに忘れることが出来ない。
「秀人が帰ってきました。彼も長いあいだ、いろいろな苦しみや悩みをかさねて来たと思いますが、これからは日本に落ちついて、自分にふさわしい態度を崩さず、自分の道を切りひらいてゆくと思います。どうか、この、ふつつかな弟のために諸兄の叱※(「口+它」、第3水準1-14-88)と激励を心からお願い申上げます」
 こんな、へたくそな挨拶ではないが、いかにも中野らしい豪快な調子のこもった、和やかで、すっきりとした無駄のない挨拶だった。
 唯、私が意外にかんじたことは、彼の言葉の中に、一言半句も、フェリシタ夫人についての意見や、今後の生活設計に対する希望の出て来ないことだった。
 おそらく、フェリシタ夫人にとっても、これが日本においての、もっとも楽しく、心に銘じて記憶すべき夜であったであろう。
 しかし、ロマンチックな、――というよりも、あまりにもロマンチックすぎる童話の中だけにある夢の御殿の幻想は、それから一ト月を保つことも出来ずに、見るも無残にうち砕かれた。
 当事者である秀人とフェリシタの傷心は、二人以外の、いかなる他人も関与すべき性質のものではない。この恋愛の破綻と、悲劇的な結末については、何れかの日、秀人自身があらゆるものをさらけだして執筆するときがあるだろう。あっけないといえば、あまりにもあっけなさすぎるが、これを一口にいえば、民族性の上に築きあげられた肉体の不調和ということになるかも知れぬ。
 一家の内部に起った事件として、国際恋愛の最後のすがたは、中野正剛が世に時めく革新政治家であるだけに、世間の噂に伴う好奇心に一層拍車をかけた。経済的に無力であった秀人が、ほとんど狂乱状態に陥って、東京市内を恥も外聞もなく荒れまわっているフェリシタを、どう処理していいかわからなくなっているとき、あの悲劇を最小限度にとどめる能力を持っているものは兄の正剛だけである。
 正剛にとって、こういう問題の解決にあたることは、おそらく、もっとも不得意であったろうと思う。一切の責任は情熱の桁を踏みはずした秀人にあるとはいえ、このときの彼は自殺直前にある無能力者である。
 まして、私たちのような、思慮分別を持たない無為無銭の徒が、いかにジタバタしたところで、どうなるわけのものでもない。
 大きくいえば、一種のトラジック・コメディとして終ったこの事件が中野正剛の政治的生命に何の関係もなかったとはいえ、民衆の心に、冷徹すぎる印象をあたえたことだけは疑うべき余地もない。
 時代は、しかし、このあたりから急角度に動きだしていた。

政治的生涯の重大転機

 情熱と闘志の使徒である中野正剛の一生は、幾度びとなく運命の峻嶺を乗越えることによって築かれていった。彼が、愛情を傾けつくしていた長男克明を失ったことは、もっとも大きな衝撃であったであろう。四十六歳の中野は、政治的生涯の重大な転機にさしかかっていた。長男克明を憶う一文は当時の「中央公論」に発表されたが、一字一句に彼の魂の影が宿っている。「(前略)克明去る七月十七日、北アルプス前穂高なる北尾根の険を縦走中、第四ピークに差しかかる頃、岩石とともに墜落すること約一千尺、満十七歳二ヶ月の若い身空で電光の去りしがごとく、忽ち不帰の客となった。四大空に帰するか、魂魄こんぱく故郷に還るか、雄心滅せずしてとこしえに天地の間に※(「石+(くさかんむり/溥)」、第3水準1-89-18)ぼうはくたるか。自分はこの迷いに確答を与うべき科学を持っている。唯、靄々あいあいたる彼が笑容しょうよう、昂然たる彼が雄姿、朗々たる彼が声調、眼の前に、耳の底に髣髴ほうふつとして残留し、寸時もわが胸奥を離れない。(中略)自分は、かつて骨肉の喪を悲しんだ。友の難を悲しんだ。更に又、社会国家のために憂い且つ悲しんだと思っていた。しかし、その時には自分という一つの主体が、骨肉、友人、社会、国家という対象物を憂い且つ悲しんでいるようである。然るに今は自分自体が魂を打ちのめされて、心臓をえぐりとられて、形骸のみ茫然として存在しているようである。(下略)
 この悲しみの消え去らぬうちに、昭和九年六月、糟糠の妻でもあれば、彼にとって永遠の女性でもあった多美子夫人がこの世を去り、その涙の乾き切らぬ、翌十年、次男雄志が母の後を追うごとくに死んでいった。
 それからあとの中野は、ひとすじの理想に勇往邁進しながら、感情の赴くままに動いた。これから数年間にわたる彼の政治的活動ほど波瀾と飛躍にみちたものはあるまい。
 昭和十一年、南京で蒋介石と会見した彼は、翌十二年、総選挙が終ると、その秋、独伊訪問の目的で外遊を試み、十二月、ムッソリーニと会見し、翌年二月にはヒトラーと会って肝胆相照あいてらした。
 この一事をもって、中野が突如として全体主義の独裁政治家に一変したと考えることは誤りである。中野のような詩情豊かな政治家が、もっとも感動したのは、民族の運命を双肩に担って、颯爽と出現した両者の英雄的姿勢であって、政策の根源において中野はファシズムの信奉者ではない。もし彼が、彼の意見と政策を一貫しようとすれば、東条政権を謳歌し、これに協調するのが当然であるのに、彼は、最後まで断乎として東条と対決し、自ら求めて死地に就くべく余儀なくされるようなヘマな行動は執らなかったであろう。中野の政治的意見は理想と情熱の産物であって、彼は飽くまで人間本位に進退を決する政治家であった。彼は、当時における、もっとも知性豊かな政治家であったにもかかわらず、人間のいない政策に拠って立つ冷徹な論理の持主ではなかった。
 更に一歩突込んでいえば、彼は必ずしも独裁政権の否定者ではない。西郷隆盛でもいいし、大塩平八郎でもいいし、あるいは安達謙蔵でも犬養毅でもいいし、場合によったら石原莞爾でも米内光政でもいいが、彼等のうちの何者かが東条と同じ独裁政治の座に就こうとしたら、あるいは、当時の時代環境の中において、まったく別の意味で自分の果すべき役割を自覚したかも知れぬ。

勢の動くがままに

 三十五歳で、はじめて議政壇上に立った彼が、レーニンの革命政権を承認せよと主張したのは、共産主義による政治組織と政権体形に絶対の信を置いたが故ではなく、日本の初期の社会運動者が、自由民権という言葉に憧憬し、夢幻的な理想の中に現実の根拠を求めようとした悲願と欲求に共通するものがある。
 中野の内部にあるものは人間的指導力であって、組織や制度ではない。
 もし、そうでなかったら、彼は、昭和十四年、彼の率ゆる東方会を、安部磯雄を主班とする「社会大衆党」と合同させ、一大新政党を樹立するような計画は立てなかったであろう。
 その準備委員には、社大党から麻生久、浅沼稲次郎、河野密、河上丈太郎、片山哲等の要員が選ばれ、東方会からは木村武雄、杉浦武雄、由谷義治、稲村隆一等の中野側近の闘士が参加した。
 当時の情勢から判断して、このような計画に実行の可能性があると考えること自体が空想的な時代錯誤であるが、軍部の決意が、味噌も糞も揉みくしゃにして、唯、東条の独裁政治力をもりたてるために、全国的なスパイ網を張り、人を見れば泥棒と思えという考え方を金科玉条とする憲兵政治の樹立に成功しつつある時代に、志ある政治家が空想部落の住人として、人間同士の信頼にたよって政治の原理をうち立てようとしたのは、むしろ当然の帰結というべきであろう。
 そのことは、ひとり東方会と社会大衆党だけの問題ではなく、全民衆の要望するところがそこにあったこともまた必然の成行であった。
 この計画は失敗に終ったが、昭和十五年、八月、近衛構想による新体制が、大政翼賛会という名目によって発足したとき、その基本的な人員構成に主軸となるべき暗示をあたえたものは、東方会、社会大衆党の合同問題であった。
 近衛は、これを、もっと大きく、堂々と打ちだしたというだけのことである。二十六人の準備委員の中に、中野は、葛生能久、橋本欣五郎と肩をならべる右翼代表として参加した。
 この頃の彼は、自ら勢の発するところを極めずして、勢の動くがままに動いたという感がある。
 こういう場合に、情熱過剰の改革運動者は、狂躁的な一面と、冷静な一面とを併せ持ち合している場合が多い。
 猪俣敬太郎氏の『中野正剛』によると、十二月八日、宣戦布告の報を聞いた東方会代議士、三田村武夫が代々木の中野邸にゆくと、中野は沈痛な面持ちで、まずいことになったといい、「頭を垂れて深く考えこんでいたという」。
 その日、時ならずして赤坂溜池の東方会本部では、続々とつめかける会員を前にして、中野はまるで人が変ったように堂々たる宣言を発表している。
(前略)東方会は草莽そうもうの赤誠を捧げて非常時に先駆せり。今や何の幸運か、宣戦の大詔を拝して錦旗を大東亜に奉ずるの光栄を担う、聖恩優渥、感泣に堪えず、嘗て宿昔の覚悟を新たにして一切を天皇と祖国に捧げんことを期す」(猪俣氏、『中野正剛』より)
 私は、この二つの態度を、必ずしも不合理に基く矛盾だとは思わぬ。弾力性のつよい情熱家ほど、こういう悩みの中に沈淪ちんりんしてゆくのが人間性の本態でもあろう。常に絶対の確信をもって、政策の実行に殉じたという政治家はほとんどあるまい。うまくいったやつは結局、一着いっちゃく偶々たまたま当れりというだけのことである。
 いずれにしても、こういう性格の所有者は、外見的に満々たる自信を示し、よそ眼には豪快卓然たる趣きを呈するときほど、実質的には混乱動揺のかぎりをつくしている場合が多い。
 大政翼賛会を脱退して、独力、昭和十七年二月の総選挙に立候補した彼は、ようやく本来の姿にかえって、戦争体勢の基盤となるべき質実な国民運動に没頭した。
 選挙は政府の干渉があったにもかかわらず最高点で当選した。
 その年の五月、進んで翼賛政治会に入会したが、そこはもはや軍閥の策源地であり、彼は十重二十重とえはたえにめぐらされた憲兵の警戒の中にあって身動きもできなくなっている自分を見出した。
 性来の叛骨はんこつが、彼の心を駆りたてたのは、このときであろう。中野は、このとき、すでに五十七歳であるが、青春の意気は燃ゆるがごとく、各層の、親近感をもつ人たちをあつめて、彼の立場についての理解を求めた。
 私が最後に、中野に会ったのは、こういう会合の一つが、虎ノ門の晩翠軒の楼上で催されたときだった。集会者の数は二十人あまりで、私の記憶にハッキリ残っているのは、三宅雪嶺、吉川英治、それから、接待側としての進藤一馬君くらいのものである。
 しかし、このときの中野は、肉づきもよく、眼に光りがあり、一挙一動が堂々として、迫力にみちあふれていた。
 同じ年の十一月十日、彼は母校、早稲田の大隈講堂で、「天下一人を以て興る」という大演説を試みた。
 一人というのは、いろいろな内容を暗示しているが、言葉の底にかくされた彼の真意は、自分に対する覚悟と決意を示すものといってもいい。
 つづいて十二月二十一日、彼は、日比谷公会堂において「国民的必勝陣を結成せよ」という演説を行い、日清戦争、日露戦争を例に引いて、太平洋戦争に対処する国民感情の萎靡沈滞いびちんたいしていることを痛烈に指摘した。
 憲兵司令部の厳達により、今後、中野は演説、講演による意見の発表を厳禁された。
 昭和十八年、ついに彼の最後の文章となった「戦時宰相論」が、東条の忌憚きたんにふれ、十月二十一日、先ず警視庁留置場に検束され、同じ月の二十五日、九段の東京憲兵隊に送致された。
 此処で一日半にわたって相当に厳重な取調べをうけた様子である。

本来の面目から逸脱

 十月二十七日、午前七時、中野は自宅の一室で自刃した。徳富蘇峰の「留魂碑」には、
「昭和十八年十月二十七日暁、東京都渋谷ノ邸ニ自裁ジサイス、人其ノ何故タルカ知ル者無シ、(後略)
 としるしてあるが、今日といえども彼の死因は疑問のままに残されている。
 時の葬儀委員長だった緒方竹虎が「中野はついに東条に勝った」といったということがつたえられているけれども、勝敗の奈何いかんはともかく、彼の自刃が東条から受けた陰険な侮蔑に対抗するがためだけのものだったとしたら、尠くとも文章をもって経国の大業とする彼が、不明瞭な、弱々しい辞世の言葉だけを残して自決するということがあり得るであろうか。中野の切腹は実に法にかなった模範的なものであったということであるが、刀の切尖きっさきが曲っていたのを時計の裏側でネタ刃を合せ、腹の方は軽くまねがたにして仕損じぬようにやったとすれば頸動脈を切ることに重点をおいたものと思われる。
 私は切腹の理法も仕方も知らぬが、おそらく、中野の苦悶は尋常一様ではなかったであろう。
 今にして思えば、中野の死は惜しみてもあまりあるものであり、いささか礼を失するかも知れぬが、私の信ずるところを率直に語れば、中野本来の面目から逸脱した無意味な行為であった。
 当時の憲兵隊長四方何某が、中野を殺したのはおれだ、といったということであるが、私はその頃の憲兵隊の実状と、一種、常識では判断することのできないような陰険、暴慢、冷酷無慙な人間をつくりあげていた憲兵心理から推断して、二十六日、取調べにあたって、中野のうけた屈辱が、いかに堪え難いものであったかということだけを想像することが出来るだけに、この四方の言葉には信をおいてもいいと思う。
 中野の死後、この事実を小説化したり、戯曲化したりしたものもあったようであるが、彼等の解釈が、中野に対して好意的であると否とを問わず、ほとんど、軌を一にしていることは、彼のインテリ性が、人を人とも思わぬ悪質な拷問に対して、止むなく心にもないことを口走ってしまったところに原因があるということである。
 これについて、小泉輝三朗(元東京高等検察庁部長検事)が昭和三十年に刊行した『大正犯罪史正談』は、中野正剛と共産党の関係についての調書を歴史的に記録している。
 それによると、
「大正十四年九月、中野正剛が川崎造船社長の松方幸次郎、同社兵庫工場次長、山口張雄等と共に沿海州、満州の視察に赴いたことがあったが、その際に於ける中野の行動と、労農露国要人との接触に関する記録によると、中野は松方等と敦賀より乗船、八月三十一日、浦塩ウラジオに上陸し、鉄道経由にてハバロフスクに赴き、そこで、まもなく松方の一行と別れて単独行動を執ったが、それから九月十八日迄、十数日間の行動が不明である。
 判明しているのは九月十九日、ハバロフスク発、浦塩に帰着し、浦塩より東支鉄道にて九月二十一日、ハルピンに来てから後のことだけで、九月二十二日には、北満ホテルに催された福岡県人主催の歓迎会に臨んだ。
 当時の噂によると彼は松方と別れた後、ハバロフスクで極東革命委員会委員兼共産党中央委員会、極東局長クビヤークと会見し、更にシベリヤ軍事革命委員会長ラセウィッチと会見すべく、チタを経て、クラスノヤルスクにも行ったといわれる」

決意一瞬、人ニ迷惑ナシ

 相当に部厚い調書であるが、同志八一八号というのが中野のことであり、国際革命後援会極東政治部から浦塩、極東銀行宛の支払命令書の写真には、「国際革命後援会口座第五八二八号より現在国際革命後援会同志中野、あるいは、その指図人に対し金、弐万五千円お渡し相成度、本命令書はハルピンにおける党機関に対し関係することなし」という文言が明記されている。
 大正十四年といえば、日本がまだ国家としてのソ連を承認していない頃で、共産党と直接関係のない日本人が密行してそれぞれ独自の判断による行動に出ることが自由であった。
 この調書が検事局によって入手された当時の主任検事は剛直をもって聞えた松阪広政で、彼は東条内閣のときの検事総長であったから、このような、あやふやな書類一式の提出を憲兵隊の要請に応じて提出したものと思われる。
 この調書が、どこまで信ずべきものであるか、どこまで疑わしきものであるかという問題は、これをにわかに決定するわけにはゆかぬとしても、当時の共産党機関紙「プラウダ」に、毎号のように、三宅雪嶺、中野正剛についての記事が出ていたということは、あの頃の時代と人間関係を理解するものにとっては、決して意外ではない。「日本及日本人」の特派員としてモスコーへ行った大庭柯公が軍事スパイという誤解をうけて投獄され、そのまま消息不明になった時代である。
 しかし、それはそれとして、中野に対する憎念に燃えていた東条が、この調書の写しを手にして、わが事成れり、と心中ひそかに決意をかためたであろうことだけは想像するに難くない。
 私(筆者)は当時の憲兵隊内の事情を多少知っているとともに、中野の取調べにあたったといわれる大西某という中尉に召喚され、まったく意味のないようなことを強引に、一つの事実としてつくりあげ、憲兵以外の人間はことごとく国賊であるという認識の上に立って行動する人間のいることを知って驚嘆した。
 嘘のような話であるが、憲兵政治の辿りついたところは、海軍を除外した陸軍の絶対性と憲兵中心の政権確立である。
 おそらく、「中野正剛の自裁は、憲兵隊で、虚構の告白を強いた時に決したのであろう。中野君の遺書に、「決意一瞬、言々無滞、欲得三日閑、陳述無茶、人ニ迷惑ナシ、」というのを思い合されるのである」(緒方竹虎氏の言葉)

 私は死に臨んで中野正剛が頭髪を染めたということを、余裕ある武士の古風な、たしなみとして特にしるしておきたいと思う。





底本:「尾崎士郎短篇集」岩波文庫、岩波書店
   2016(平成28)年4月15日第1刷発行
底本の親本:「別冊文藝春秋」
   1963(昭和38)年9月
初出:「別冊文藝春秋」
   1963(昭和38)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:入江幹夫
校正:フクポー
2022年9月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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