生きている忠臣藏

――忠臣藏は何故流行するか――

尾崎士郎




傳承三百年


 忠臣藏を上演、もしくは上映すれば必ず大當りをとるといふのが今や一定不變の興行常識とされてゐる。
 原作者の竹田小出雲(二代目出雲)も、これだけの魅力と影響力を後世に持續し得るとは夢にも想像しなかつたであらう。(事實は三好松洛と、並木千柳との共同製作であるが)
 その流行の底に潜む秘密は今日といへども的確な判斷を下されてはゐない。人はしばしば、作品の樞軸をなす世俗的な倫理觀を問題とする習慣だけを肯定してゐるが、強度の封建性の上に根をおろしてゐる物語的要素に、今日なほ且つ隨喜の涙を流してゐる觀衆はほとんど一人もあるまい。それほど「忠臣藏」は近代的な演劇の外に超越してゐる。それにもかかはらず、何故劇場が滿員になり、映畫館の觀衆が湧きかへるのか。日本の國民性、――といふよりも庶民の生活感情と微妙な接觸を保つてゐるところに「忠臣藏」の存在があるといふ意見も一應尤もであるが、しかし、それならば必ずしも「忠臣藏」にだけ限られたはなしではない。むしろ、「忠臣藏」流行の秘密は、そのやうな本質論の中にあるのではなくて、舞臺の構成と場面の關聯に、歌舞伎の型と約束を無視した自由さがあり、原始的といつてもいいほど素撲で[#「素撲で」はママ]單純な感情を無批判のうちに、知らず知らず唆りたてる要素を遺憾なく備へてゐるからではあるまいか。
 淨瑠璃による人形劇である「假名手本忠臣藏」が、竹本座で、はじめて上演されたのは寛延元年八月であるから義士討入のあつた元祿十四年から五十年ちかい歳月が過ぎてゐるわけである。「忠臣藏」はその以前にも、いろいろな形式で、黄表紙になつたり、黒表紙になつたりしてゐるが、竹本座で大がかりな上演が行はれるまでは、これだけの人氣を沸騰させることはなかつた。今日においても「忠臣藏」を興行する劇場や映畫館は湧きかへるとしても、赤穗浪士に取材した小説が百版二百版をかさねて永續的な賣行を示すといふことは先づ無ささうである。古典としての「忠臣藏」の流行に、いささかの文化性も含まれてゐないことは歴史的事實に並行するがごとく見せかけながら、一切の考證を無視し、蹂※[#「足へん+闌」、U+8E9D、249-上-3]してゐるといふことをもつてしても容易に立證し得るであらう。竹田小出雲は、近松門左衛門、竹本義太夫の調和によつて成功した竹本座が、この天才的な原作者と語り手の死後、まつたく興行を繼續することのできないやうな悲運に陷つたとき、窮餘の策として、考へあぐんだ末に「假名手本忠臣藏」を制作し、乾坤一擲の勝負を試みるつもりで上演したのである。歴史の考證に苦心してゐる餘裕なぞのあるべき筈はなく、當時の庶民感情を捕捉したことも、思想や批判によるものではない。興行主のもつ一つの勘(カン)だけで押切つたことにも疑ふべき餘地はないであらう。
 その忠臣藏が民衆の人氣を煽ると同時に、當時の政府的思想と一致したことによつて、全國的な流行現象を呈してきたのである。もし、これを歴史的判斷によつて檢討すれば仇討を謳歌する封建制の沒落とともに當然消え去るべき性質のものであらう。それが明治に入つて歌舞伎劇の再興とともに、「忠臣藏」は文明開化の風潮の中にのし上つてきた。
 講談による「銘々傳」や、桃中軒雲右衛門の浪花節が傍流となつて民衆心理の中に喰ひ入つていつたことも記憶すべき事實であるが、これに一つの歴史觀を加へることに役立つたものは福本日南の「元祿快擧録」であらう。日南は、眞山青果とともに雲右衛門浪曲の原作者であるが、考證に基礎をおく彼の著作は期せずして「假名手本忠臣藏」の荒唐無稽性を解説し、釋明する重大な役目を果す結果となつたのである。

考證の上に立つ忠臣藏


「假名手本忠臣藏」が、影響するところは、かくのごとくして完全に歴史認識を蹂※[#「足へん+闌」、U+8E9D、249-中-13]し去つたといつてもいい。
 吉良邸討入事件のあつた直後においてさへ、四十七人の浪士をいかに處斷すべきかといふことについては、幕府の政治顧問ともいふべき學者のあひだにも諸説紛々たるものがあつた。
 その批判についても、民間學者と御用學者とのあひだには意見の相違があり、大部分は忠臣烈士としてこれを賞揚するといふ考へ方に傾いてゐた。將軍綱吉の側近として政治を左右する權力に任じてゐた柳澤吉保一黨のお側役人の横暴に對する不滿と反感が、純一な武士道の復興を目的とする意見の基盤となつたことも確かであるが、幕府の政策を幾度びとなく變化させ、ぐらつかしたものは赤穗浪士に對する庶民の人氣と同情である。
 四十七士を賞揚する立場において、もつとも強硬であつたのは室鳩巣であるが、これに對立して法理論を展開し、浪士の斷罪を主張したものは荻生徂徠、太宰春臺、等々の諸學者である。徂徠、春臺の意見は、正當なる仇討ではなくて、浪士の亂入は就職運動を含む意識的な行動である。むしろ被害者は吉良上野であり、淺野の刄傷は未遂に終つたとはいへ、彼を死にいたらしめたものは吉良ではなく徳川幕府であるから、もし彼等が仇討をするとすれば、徳川幕府を當面の仇敵とすべき性質のものであるにもかかはらず、集團的暴力をもつて吉良上野を襲つたのは單に暴擧であるだけではなく武士道の本義に背反するものである、――――といふところに眼目がおかれてゐた。
 對立する理論としては、徂徠一派は少數ではあつても、彼等の説く「暴徒説」の方が筋が通つてゐる。彼等の主張は峻烈であつて、假りに百歩をゆづつて、赤穗浪士がもし主君の仇を報ゆることだけに純粹な意圖を持つてゐたとしたら、目的を果した後何故いさぎよく切腹しなかつたか。生き殘つて幕命を待つといふのは明かに、好條件をもつて就職の具に供するものだといふのである。
 老中の意見は最初、鳩巣説の方に傾いたらしかつたが、その動機となつたものは庶民の感情が赤穗浪士を賞讃することに絶對的な支持を持つてゐたからであらう。全國の大名の中には早くも浪士を召抱へるための運動を開始するものさへあつた。
 幕府はこの兩者の説の中庸をとつて、政策の實行に萬人を納得させるに足る立案を試みた。後年、新井白石が、「折焚く柴の記」の中に書いてゐる言葉は當時の幕府の裁斷を積極的に肯定してゐる。白石の意見は、浪士を忠烈の士として承認するとともに、彼等にもし生存を全うさせてゐたとしたら、長い生涯のあひだには、女に失敗するやつも出てくるだらうし、金に窮して泥棒を働く男が出ないともかぎらぬ。(白石は、そんなことをいつてはゐないが大體さういふ意味だ)彼等もまた人間であるから、さういふ不安を殘すことも豫想されない道理はない。彼等の行動を眞に忠臣烈士として後世に殘すためには幕府要路が禮をもつて彼等に自決を命じたのは眞に彼等を生かす道であつた。云々。
 いづれにしても處理に窮した幕府は、兩派の意見を折衷して、鳩巣一派の助命論を加味した法理論に基いて處斷を下した。
 しかし、四十七人が、ことごとく同意見であつたかどうかといふことは別問題として、尠くとも彼等の指導者であつた大石内藏之介に生を全うする意志のなかつたことは、彼が討入りの夜に、年來の親友である赤穗、華岳寺の住職、良雪和尚にあてて、あとの供養をよろしく頼む、といふ手紙を持つた使者を討入の當夜派遣してゐることをもつてしても充分理解される。
 唯、私がもつとも興味ふかく覺えるのは、大石ならびに浪士一同の行動を、もつとも痛烈に批難してゐるのが伜の大石大三郎の意見であるといふことである。
 大石大三郎は晩年を高野山で過し、八十餘歳で一生を終つてゐるが、彼は討入當時十九歳であつたから正確にいへば主税より三つ上の長男であるが、内藏之介と女中とのあひだに生れた子供であるために幼時から僧侶たるべく寺に入れられてゐた。
 その大三郎の書いた「楠石論」一卷は七つの項目を擧げて、内藏之介の行動を批議してゐる。
 第一に、朝事(政治)を侮蔑したといふこと。第二に、仇敵にあらざるものを仇敵として扱つたこと。第三に、平和の時代に徒黨を組んで市中を騒がしたこと。第四に、幕府の要臣を殺害したこと。第五に、このやうな暴擧が必ず後世に惡例を殘すこと。第六に、深夜、武裝して、四十七人、寢込みを襲つたこと。つまり彼の説くところによれば、内藏之介は、あらゆる方法で吉良家の内情をさぐり、松坂町の吉良邸には、上杉家からの附け人を合せて男が十五六人、女が十五六人しかゐなかつたことを明瞭に探知してゐる。それにもかかはらず、何故に四十七人の大人數が、堂々と乘込むことなく、押込強盜のごとき行動に出たか、――――といふのである。第七に、仇討としての順序を踏まず、國法を無視して、無力の相手に對し、ほしいままにリンチを加へたといふこと。以上の項目を許容するとしても、何故、泉岳寺へ引きあげてから、すぐさま自決しなかつたか。行動を起すときには上司の意見を無視してゐながら、目的を果した後においてだけ何故、幕府に伺ひを立てなければならなかつたのか。この一事をもつてしても彼等の行爲は賣名的といふのほかはない。云々。
 父親から疎んぜられた子供のひがみといへばひがみとも言へるが、假りにさうだとしても、封建制度の下における親子の關係に伴ふ陰影が大石ほどの男の身邊にも低迷してゐたことだけは事實である。

不幸なる吉良上野


 恩讐の夢は、あとかたもなく消えて、早くも三百年が過ぎようとしてゐるのに、「忠臣藏」の人氣と興行成績が殘した遺産は、雪の夜に松坂町で殺された吉良上野に對する侮蔑と憎惡となつて徐々に形をあらはしてきた。
 吉良上野が彼の領地である吉良領において名君であつたことに疑ふべき餘地はなく、今日、「吉良史蹟保存會」は、彼の名君としての善政の數々を實證に基いて調査しながら、彼に對する世上の認識を一變させようと努力し、全村擧つてこれに協調し、その傾向は終戰後にいたつて一層顯著になつてきたるにもかかはらず、「忠臣藏」の時代的流行によつて民衆感情の中に沁みこんだ人間批判を一變させることは困難であつた。困難どころか、彼が典型的な收賄官僚であり、權勢を笠に着る奸惡邪智な人物であつたといふ解釋は、どのやうな善政の實績をもつてしても到底くつがへすことのできないものだといふことが次第にハッキリしてきたのである。
「吉良史蹟保存會」でつくつたパンフレットにも次のごとき一節がある。「世俗、吉良上野につきて誤傳されあるもの枚擧に遑あらず。これすべて、芝居、浪花節の類をもつて史實なりと誤認するより起る。宮迫(ミヤバサン)村出生の清水一學(一角)、岡山出生の鳥居理右衛門、乙川出生の齋藤清左衛門等を、松ノ間刄傷後、上杉家より附け人として來たるといふがごとき、その一例にして眞に嗤ふに堪へぬ。云々」
 しかし、嗤ふに堪へぬ空氣と批判の横溢してゐるのは吉良領、ならびにその周邊だけであつて、全國に遍在する忠臣藏の觀衆は、なるほど、さういふ事實もあつたのかと一應耳をかたむける程度に終るであらう。吉良上野の不幸は、しかし、それだけではなく、一層深刻な悲劇的宿命から脱却しきれなかつたことによつて更に増大する。
 世間の一般常識では、高家筆頭なぞといふ職柄は城内に羽振りを利かす茶坊主に毛の生えた程度のものにしか考へられてゐないやうであるが、彼は單に從四位上少將、高家の筆頭であつただけではなく、祿高こそ四千二百石であるが、徳川家との關係は通常の意味における君臣の間柄ではない。系圖から觀察すると吉良家の歴史は徳川よりも古く、彼の祖先が吉良領に入つたのは、何代目かの當主、義氏以來である。義氏は北條時政の娘を母として生れた男であり、その居城は吉良郷、横須賀村の東端、駿馬(マダラメ)東條の街道にちかい小丘の上にあつた。當時の吉良港は東海道の要衝であり、鈴鹿の浮浪兒、後年、北條早雲と改名した伊勢新九郎が關東の風雲を望んで勢威を張る足場となつたのも吉良東條である。
 その吉良家が、徳川家と、はじめて切つても切れぬ關係を生じたのは家康の父廣忠が幼少の頃であるから、上野之介の代から數へてもそれほど古い昔ではない。浮沈定めがたい戰國の習はしで、徳川一家は四周に敵をうけて岡崎の地を去るべく餘儀なくされ、やつと十歳になつたばかりの廣忠は時の東條城主吉良持廣をたよつて落ちのびてきた。廣忠の幼名は仙千代であるが、持廣はあらゆる手段を講じて彼をかくまひ、仙千代の元服するときには自ら烏帽子親となつて、持廣の廣の字をあたへ、廣忠と名乘らせた。
 廣忠は元服後、まもなく岡崎城をとりもどした家臣に迎へられて岡崎へ歸つたが、こんどは吉良城が武田勢に襲はれて落城の悲運に遭ひ、一族の大半は城を枕に討死したが、未亡人俊繼尼だけが幼兒、義定をつれて流轉の旅をつづけた末に舊領瀬戸村の一隅にある農家の離室に潜んで味氣ない月日を過してゐた。
 そのことを風のたよりに聞いた若き岡崎城主、徳川家康は、鷹狩に名を託して飄然と瀬戸村を訪れた。「家忠日記」によると、彼は早くも三河全土に君臨する少壯大名である。俊繼尼を探し出すとともに瀬戸全村二百戸を當座の引出物としてあたへ、父への恩を謝した上で、義定の元服後は必ず岡崎へ來るやうにと言ひ殘して歸つた。天正七年正月の出來事である。義定がその約束に從つて岡崎城に伺候したときは、家康はすでに内大臣であり、二百萬石の大大名であつた。慶長五年、關ヶ原合戰が勃發したのは、それから二十年經つてからである。吉良義定は家康側近の武將として關ヶ原に出陣した。このとき、軍功を立ててゐたら一萬石や二萬石の大名にはとり立てられてゐたであらう。しかし武將としての能力に惠まれなかつた彼は、さしたる軍功もなく、唯、出陣したといふだけの理由で、舊領吉良郷に三千二百石をあたへられた。その子孫上野之介が、時の將軍綱吉から重用されたといふことも、以上の理由から想像して、決して偶然ではなかつたといふことが理解される。上野之介は十七歳にして從四位に任ぜられ、十八歳のとき將軍のお聲がかりで結婚したが、彼の女房は東北の雄藩、上杉謙信を祖宗とする上杉彈正大弼綱勝の妹である。
 地位は古式典範を司る高家筆頭ではあつても城内における彼の存在がどのやうな權威にみちみちてゐたかといふことも想像するに難くない。彼は五萬石や十萬石の大名なぞを物の數にもしてゐなかつた。その上野之介が五十にして天命を知り、隱居遁世を思ひ立つて領土吉良郷に安住餘生の地を求めようとしてゐたとき、俄かに勅使の下向がつたへられ、彼は饗應指南役を命じられた。上野之介にとつては最後の御奉公である。彼はうやうやしく引受けて、江戸城に出勤してゐるあひだに、あのやうな事件が起つてしまつた。もし彼が、指南役を辭退するか、それとも隱居する前に死んでゐたとしたら、彼は名君としての美名を後世に殘すことによつて一生を終つたであらう。若き淺野内匠頭も不幸であつたが、吉良上野之介の一日の非運はつひに三百年にわたる禍根を築きあげてしまつた。

忠臣藏は動いてゐる


「雨雲は今宵の空にかかれども晴れゆくままにいづる月かげ」
 これは五十二歳の吉良上野が、一族の菩提寺である吉良郷岡山の華藏寺に入つたとき詠じた歌である。俗念に一つの區切りをつけた彼の心境はこの歌の中に彼の人柄を忍ばせてゐる。
 しかし、それとこれとは別個の問題である。史實や考證がいかに訂正されようとも、「假名手本忠臣藏」は一切の人間認識を跳躍して、大序、鶴ヶ岡の段から、十一段、稻村ヶ崎の勢揃ひ、吉良邸討入、光明寺(泉岳寺)引揚げまで、三百年間、時代の色調の中で、絶えず構想に適當な變化をつくりながら、民衆の心の中に喰ひ入つてゆく。與一兵衛あり、定九郎あり、お輕があり、天河屋義平があり、架空の人物を縱横に織りだして、纒綿たる情緒と、第一義の義理人情をもつれ合すことによつて偶發的に連續する事態の中へ必然的な人間關係をたたきこんでゆく手際のよさは、低調とか卑俗とかいふ批判の常識なぞを尻眼にかけてゐる。マッカーサー司令部が、民主主義の思想に反するものとしてこの作品上演を禁止したことは庶民感情を逆に「忠臣藏」への郷愁に追ひやる結果となつたらしい。「忠臣藏」は歴史の表層に泛ぶ泡ではない。人情の影をうつす流れである。おそらく時代の流域のひろがるにつれてひろがつてゆくであらう。これに政治や思想の關與する餘地はほとんどあるまい。
(作家)





底本:「文藝春秋 昭和二十九年十二月號」文藝春秋新社
   1954(昭和29)年12月1日発行
初出:「文藝春秋 昭和二十九年十二月號」文藝春秋新社
   1954(昭和29)年12月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:sogo
校正:持田和踏
2022年11月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「足へん+闌」、U+8E9D    249-上-3、249-中-13


●図書カード