三十五歳のとき、長女が生れた。昭和八年である。私にとっては、まったく思いがけない出来事だった。そのとき、ある婦人雑誌から、はじめて父親になった
感想を求められ、父親たるべき腹の出来ていないことを答えたことを
覚えている。当時の日記をひろげてみると、つぎのような
感想が書きなぐってあった。
「わが子一枝(カズエ)、一日ごとに変化の
兆、
歴然たるものあり。成長に向う変化である。その変化を前にしていると、父親というかんじが、どこからともなく
湧きあがって、われながら思いがけない
荘厳な霊気にふれ、ひやりとすることがある。しかし、子供の変化を
知覚するごとに、父親であるという
意識がひとりでに伸びあがってくるから不思議である。
犠牲、献身の尊とさが子供への愛情の中から湧きあがってくるのも、今は唯、不思議だと思うだけである。それにつけても、わが子への愛情が日に夜に高まるにもかかわらず、
厭世虚無の思いがどっしりと心の底に根をおろしてくるのはどうしたわけであろうか。夜ふけて、わが子の行末を思う
佗しさがこの世への
厭離の念を
唆るわけでもあるまい。わが子への愛情が、ひとすじに
澄みとおってくればくるほど、子供を失ったあとの悲しさや、子供とわかれてゆく心の
慌しさが、まぼろしのごとくにわれを追いかけてくるが故でもあろうか。生活の
惨苦に沈む世の親たちが
愛し
子を殺す心の切なさが今こそ、しみじみとわが心に迫る。私の幸福は、わが子への愛情の中に
穢れの意識をまじえないことにある。妻は私にとっては神様だ。ときどき手を合せて拝みたい気もちのするのも、
悪しき情慾の
奴隷となって、のたうち廻った思い出のなせる
仕業とのみはいえまい。何に対しても無鉄砲で、
放胆で、自分勝手だった私は、いつのまにか
臆病になり、小胆になり、生きることのおそろしさに身の毛がよだつようである。一枝は、「オッパイ」という言葉をやっとおぼえた。この愛すべき
唇が恋愛の嘆きのために
濡れるころまで私は生きているであろうか。過去の
悪業への罪の意識は夢にまでも私に
襲いかかる。わが子よ。お前を
産んだ、おろかなる父が、お前への愛情故に、かくのごとく
悩み苦しんだということを忘れてはなるまい。云々」
私の親馬鹿は、このへんから
端を発しているらしい。その後、数年
経って私は長女が小学校へ入学したとき、『親馬鹿の記』という
随筆を書いた。
これは親ごころの
阿呆らしさに解説を加えたものであるが、まだ三十をすぎて間のない私は、身体も
健康だったし、前途は
洋々たる希望と野心にふくれあがっていた。昭和十二、三年頃だから中日事変が
勃起したばかりの頃である。
私は生活の
虚無感に
陶酔しながら、連日酒を
呷り、流連
荒亡の夢を追って時の過ぎるのを忘れるような暮し方をしていた。
そのとき、私が
自ら進んで、『親馬鹿の記』を書くような気持になったのは、子供がようやく物ごころづき、長じて小学校に入学するに及んで、これは
冗談ではないぞ、という気持に
唆しかけられたことが
動機を成している。その頃私の近所に、私よりもひと廻り下の文学青年で、若いくせに早くから二人も子供を
産んだ男がいて、よく街の
銭湯で会うと、やっと二つか三つになった赤ん坊を流し場にならべ、楽しそうに
鼻唄をうたいながら、格のついた
親爺らしい落ちつきを示して、赤ん坊の身体に石鹸をつけ、タオルで、ごしごしこすっている。
これは恐るべき
度胸だと、感嘆したことを今でもおぼえているが、二十年を
経た今となると私自身が、まったく、それと同じ
境地に落ちつこうとしているのだ。まったく十余年の
歳月は、うかうかと夢のごとくに過ぎていった。
紅唇いずれの日にか恋愛のために
濡るるべき、――と冗談口をたたいた娘は早くも二十一歳になっていた。私は、そのときまで娘の
成長を、ほとんど意識の上においていなかった。その成長
過程についても、いちいち考えてやることのできないような
気忙しい生活である。時代も
環境も、また戦争一本によってうごいていたときだったので、風に吹きまくられるような
慌しい気持で、大陸へ従軍したり、
徴用をうけてフィリッピンへ行ったりしているうちに
小刻みな時間が流れるように過ぎてしまった。そこへ、だしぬけに十六年ぶりで長男が生れたのである。
私にとっては、まったく一つの
奇蹟であった。長男が生れたのは、終戦後、追放をうけて、だしぬけに空虚
閑散な境遇に落ちつき、残る人生について、本気で考えねばならぬような
状態に立ちいたったときである。十余年前、『親馬鹿の記』を書いたときの私には、まだ心のゆとりがあり、
自嘲的な言葉にも、人生を
諷刺するだけの
稚気があった。
しかし、今となると、そうではない。自分が追放中に生れたということにも多少の
感慨はあったにもせよ、むしろこの世に生をうけた小さな生命に対する
愛情の
切なさだけが止みがたきものに変っているのである。
それは
病躯を
支えて、ともかくも此処まで生きのびてきた自分が、もはや青春の
仮説の外に遠くはみだしていることを意味する。前述の『親馬鹿の記』の中で、私は次のごとき感慨をもらした。
「前には子供が四つか五つの頃まで、どうにも父親としての決心がつきかねて
困っていたが、今となると押しも押されもしない父親である。この分でゆけば子故の
闇に迷うという
芸当だって、それほど至難ではなさそうである」
このような
太平楽を、何の
屈託もなしに平然と口にすることのできた自分の浅墓さに私は
憤りをかんじないではいられぬ。
この気持を明かにするためには、十六年振りで長男の
俵士が生れたときの私の
環境がどんなものであったかということを先ず説明しなければならぬ。私は当時(昭和二十三年)伊東に
疎開したまま、すでに六七年ちかい年月を過していた。私の
胃潰瘍は極度に悪化し、日夜、死の危険におびやかされているとき、だしぬけに時の内閣官房長官西尾末広
名儀による追放令書が通達された。
私は、そのことを格別気にしてはいなかった。むしろ、これで、やっとしめくくりがついたという気持が、今まで心の一
隅にうごめいていた
処理のつかぬ感情を根こそぎに
払いのけて、自分でも不思議なほど、どっしりとした落ちつきが、一日ごとに私の生活の上にあらわれていた。
三月下旬だったか、ある日の夕方、私は、私の疎開地である伊東の
漁師街に住む鈴木福男という青年の
来訪をうけた。雨の日だったことをハッキリおぼえている。彼は私の出てくるニュース映画を街の映画館で見たことを
報告に来たのである。
当時の私は、
慢性胃潰瘍のために、見るかげもなく
痩せおとろえてしまっているし、それがために一日の大半は胃の幽門部に
鈍痛をおぼえ、それが、しばらくつづいたと思うと、こんどは濡れ手拭をしぼりあげるような
急激な痛みに変ってくる。
頬はこけ、眼の下にふかいたるみが出来た上に、皮膚の色はどす黒く
濁っていた。鏡を見るごとに
味気なさが身に
沁みるようである。十六貫あった体重が、やっと十貫そこそこになり、少し風のつよい日に川ぞいの道を歩いていると、うしろから吹きつける風に
煽られて身体ぐるみ
宙に浮いたまま、二三歩前へよろけてから、やっと
踏みとどまる
癖がついてしまった。
私は、鈴木君からニュース映画のはなしをきいて、おそらく自分の
顔が写真にうつるのもこれが
最後であろうと思った。それに、明日になったら妊娠中の女房を入院させようと思って
準備していた矢先だったので、私は女房をつれて自分の出てくるニュース映画を見ようという気持になった。いよいよ自分の文学的
生涯も、これで幕をとじたというかんじなのである。当時の私には、そういう
誇張した感情にも、ぬきさしならぬものがあった。
私は、東京にいる頃からそうだったが、まだ女房と二人で映画を見たということは一ぺんもない。
それが追放令をうけとった
直後、自分の出てくるニュース映画を見ようというのであるから
感激は一層ふかい。鈴木君が帰ると私たちは
傘をさして、ゆっくりゆっくり川ぞいの道を歩きながら街へ出た。女房の腹は、もうあと一週間で出産というところまで来ている。街の
産婆たちは、みんな生れるのは女の子にちがいないといっていた。
川ぞいの道を街へはいるまで、私たちは一つの傘の中にはいり、私はうしろから彼女の肩を
抱えるようにして歩いた。何となく、うらぶれた思いでもあるが、夫婦の
情愛というものをこれほどしみじみとかんじたことはない。
映画館に入ると、私たちはいちばん
隅の空席に腰をおろした。戦争前につくられた志賀
直哉原作の『
赤西蠣太』という時代物が終ったところである。使い古してすりきれたフィルムの動きまでが、うらぶれた自分の
姿にふさわしい。
それから、すぐニュース映画がはじまった。最初は宮城前の広場を進駐軍の兵隊が
駈け
足をしている写真が映り、それが海岸の風景に変ったとき、私が煙草を
喫うために下を向いて、マッチに火をつけようとすると、横にいた女房が、
「あっ、
丹羽さん」
と早口にいった。
慌てて顔をあげた私の眼に、大きな建築の入口の
階段らしいところを急ぎ足におりてゆく着物を着た男のうしろ姿が映った。動きが早すぎるので、それが丹羽文雄君だというかんじはしなかったが、
画面が変ると、こんどは広い
屋敷の庭先きがうつり、スプリングコートを着て帽子をかぶった男の姿が、私の
視野をかすめたと見るまに、こんどは広い
縁側を前にして机の前に
坐っている別の男の姿がうかびあがった。
その男が顔をあげると火野
葦平君である。そこへ庭先きから入ってきた男が、縁側に腰をおろし、急いで帽子をとった。それが、自分であると気がついたのはスクリーンの人物の
幻像が消え去ってからである。とたんに、トーキーの
声が追いかけるようにひびいてきた。「かつて、はなやかなりし彼等も今や追われる身の上となったのであります」
私は暗い
観覧席で苦笑いをうかべた。その晩から女房の
容態が変ってきた。赤ん坊がうまれることは、もはや絶対の運命である。もし、
順調に
胎児がうまれたとすれば、男か女かよくわからないにしても、子供が十歳になるときに私は早くも六十である。あと十年、この身体が
保てるかどうか。おそらく私は生きてはいまい。私は、ときどき灰色の雲の低く
垂れ下った川岸に、ちゃんちゃんこを風に吹かせながら、うしろ向きに立っている子供の姿を
幻覚の中にハッキリ見るようになっていた。生命の河である。運命の
限界がそこにあり、そのひとすじの河によって
遮られた人生の行手には唯、
際涯もなくひろがる無があるだけである。
出産期が近づくにつれて私は次第に
緊張してきた。
五月八日の夜である。窓をあけると黒く
淀んだ月が空にうかんで、青葉の色がうすい
靄の中にぼうっとひろがっている。それで、ああ今夜は
金環蝕だったということに気がついた。そこへ、
隣りの井田邸から若い女中さんがやってきた。いま病院から電話があって今夜あたりらしいから来てくれという知らせがあったというのである。私は寝ている娘を起して
留守番をさせ、すぐ
外套をひっかけて出ていった。F病院の表戸はもうしまっていたので私は
裏口へまわり、足音を
忍ばせるようにして二階の病室へあがった。
産婦は仰向きに寝たまま、
爽やかな顔をして眼を大きくひらいている。さっきまで立てつづけに
陣痛が起って、F博士もやってきてくれたが、たぶん明日あたりだろうというので帰っていったばかりだというのである。
「だけどね、私、
妙な夢を見ちゃったの」
と女房がいった。
「夢なんか気にしない方がいいよ」
「いや、それがね、おかしいじゃないの、うちのルビ(猫の名)がわたしの
蒲団の上に乗っかっているの、しかし、よく見ると、やっぱりルビじゃないのよ、その猫が、みるみるうちに金色に光りだしてきたの、へんだなと思っているうちにその猫が、そのまま私の身体の中へはいってしまったのよ」
「そうかい、おもしろい夢だな」
「ところが、まだ、そのつづきがあるの、ハッと思って眼がさめると家政婦さんが
枕元に坐っていて、おくさん、あなたの頭が半分になりましたというんじゃないの、私、どきっとして慌てて頭へ手をあててみると頭はちゃんとあるのよ、ああよかったと思ったとたんに、こんどはほんとうに眼がさめたの」
その話を私は
上の
空で聴きながらも、しかし、妻の顔に、いささかの
曇りもなく、眼の底に何か明るい影のゆらぐのを見た。明るいといえば部屋全体が何となくあかるい。しかし、彼女の様子を見ると、まだ一日二日後だろうという気がしたので家政婦に一切を頼んで、そのまま家へ帰った。帰るとすぐに冷酒を
呷って眠ってしまった。その晩、一時を過ぎる頃である。私は玄関の
格子戸のそとから呼びかける井田邸の女中さんの声に呼び起された。
「あのね、唯今、病院からお電話がありまして」
京都から来ている小娘のまさ子(女中の名前)さんの声は、かすかにふるえている。私はびくっとして
跳ね起きた。
「たったいま、お産れになったそうです、
坊っちゃんだそうで」
私はすぐ
寝巻の上から外套をひっかけて、すぐ外へとびだした。夢の中をうろついているような気持である。数時間前、妻から聞いた
金の猫の話が、私の頭の中に
甦ってきた。さっき、病院に出かけるときには、ふかい闇につつまれていた
堤防の上に、小さいランタンが幾つとなくゆれている。それが子供の出生に何かふかい
関係があるように思われてきた。
これは五月九日から
鮎漁が解禁になったので、遠くからやってきて釣場所の
優先権を占めようとする人たちが夜中から
待機しているのである。狭い堤防は人の影でうずまっていた。
仄あかるい空の下に、若葉の色がキラキラと光って見える。うす靄に
掩われた青田のみずみずしさが眼に
沁みるようであった。歩きながら、私は何ものかに感謝しないではいられないような気持になってきた。天地
万象が明るく、ゆたかなものにつつまれている。赤ん坊が生れるということさえ不思議であるのに、女の子だときめつけられていた
胎児が男であったということは、ますます意外であった。天が私の追放を
憐んで、赤ん坊の生れ出る寸前に男と女とをすり変えてしまったのではなかろうか。そんな気持がどこからともなくこみあげてきたほどである。
F病院の二階にも
電燈があかあかと輝いている。私は手術着のF博士に会った。
「坊っちゃんで
結構でした、非常な安産でしたから御安心下さい」
看護婦の顔も家政婦の顔も、あかるく輝いていた。妻は心持ち首を左に
傾けたまま、かすかな寝息を立てて眠っていたが、その横に、産れ出る女の赤ん坊のために用意してつくった
友禅模様の小さい
蒲団が敷いてあって、その中には、生れたばかりの男の赤ん坊が、これも真っ赤な着物を着て、しきりに口をもぐつかせながらジタバタやっている。その頭の上でゆれている
絹のようなうす毛を、じっと見つめているうちに私は涙がこみあげてきた。人間の
判断では及びもつかないような
意志が、この奇蹟をつくりあげたのである。私はそう信じないではいられなかった。今や私の恐れることは、この奇蹟的な運命の中から
忽然としてあらわれた赤ん坊が、そのまま忽然として消え去ってしまうということだけである。私にとっていちばん自信のないことは、この赤ん坊が自分の生命と、もっともふかい関係を
保っていなければならない筈であるのに、それをしっかりと
把握することのできないことだけである。
数日間が夢のように過ぎてしまった。私は先ずこの赤ん坊に名前をつけねばならぬ。困ったことには、もう二三ヵ月前から女の子の名前だけは幾つも用意して、
字劃をしらべたり、姓名判断をしたりしていたが、男の赤ん坊の名前だけは何の持ち合せもなかった。
いろいろ考えぬいた揚句、私は「
瓢士」という文字を思いついた。
瓢は『人生劇場』の主人公である
青成瓢吉の「瓢」である。それに私の名前の「士」を加えて、「ひょうじ」と読ませるのだ。
しかし、いよいよ、そうひとりぎめをして役場にある当用漢字表を調べてみると、瓢の字は漢字制限で
削除されていた。これが用いられないとなると、せめて読み方だけでも残しておこうという気になり、「ひょう」という言葉をたどって一つ一つ思いだしてゆくうちに、ふと「俵」という字がうかんできた。
俵(タワラ)ならば、おそらく何でもかんでも
詰め込むために存在するものだから、先ず文字づらだけからいえば、成長しても私のような
出鱈目な生活をするような男にはなるまい。私は「俵士」と命名することに心できめた。
これで赤ん坊と私とのあいだに
現実生活のつながりが一つ生じたわけである。そうきめてから改めて漢和大辞典を引くと、「俵」の項目には、「ワカチアタエル」という
解釈がついている。意味はただそれだけで、詰め込むという
語義はどこにもなかった。
しかし、そうだとすると、いよいよ俵という字には
複雑な感情が、からみついてくる。「ワカチアタエル」のだから、こいつは
愛嬌をふりまくことにもなるし、能力や人情をわかちあたえることにもなるであろう。どっちにしても
威勢のいい文字であることだけは確かである。私はそう自問自答すると、急に赤ん坊に対する肉体的な
親近感をおぼえ、父親らしい
厳粛な態度で話しかけたい気持になってきた。
子供の出生を
祝う手紙は友達から幾つとなく届いていたが、その一通である吉川英治氏の手紙によって、私は金環蝕の意味をはじめて知った。
「(前略)金環蝕は陰の極也。秒後は陽の一也。これは麒麟児かも知れないよ。折しも父君は追放とあり、何か瑞兆をかんじます。その吉報を逸早く小家に報ずるものもあり。はじめはまちがいだろうといってみたが本当とわかり大祝いしています。何としても一盞献じたい。ぜひお待ちする。御一泊はもちろん用意。大兄に月並なお世辞は云わない。当分赤ん坊をおぶっておれとの天意なるべしなどおもい、G発表(追放令)のせつは御無音に過ぎたれど、こんどはぜひ加※
[#「餮」の「珍のつくり」に代えて「又」、U+4B38、138-13]なかるべからずです。本来お祝いに拝趨すべきところ小生一週一度ずつ阿佐ヶ谷の病院まで通いおり、その日にぶつかると半日虚しゅうする故、木刀先生にでもあらかじめ御連絡、あるいは御一電前日におたのみします。病院は延ばすから御任意の日に。」(原文のまま)
金環蝕が五月八日であるから、九日の午前一時に生れた俵士は
陰が終って
陽に移ろうとするとき、人生の第一歩を
踏みだしたわけである。
その日から、私は俵士に対して私の
感懐を書き残しておくことにした。私はこれに自ら『俵的日記』と名づけた。以下は第一日の記録である。
「俵士よ。
この日記のような、手紙のような、考えようによっては小説でもあれば
記録でもあるような文章は、お前が成長して一人前の男になり、もし、そのとき彼女(妻と娘)たちが生きていたとしたら、お前と母と姉を、お前が少しでも
憐んでやったり、感謝したりすることのできる
年齢に達したときに読ませようと思って書き綴っておくものである。お前が生れたのは昭和二十三年(一九四八)五月九日であった。父も母もお前の生れることを
予期していなかった。それは十六年間、二人のあいだには子供の生れるような何の
兆しもなく過してきたからである。母の腹が少しずつ大きくなってきたのは今年の春二月か三月頃だったが、私たちの家族は
大抵三人で、まい晩、井田邸の風呂に入れてもらうことになっていたので、お前のお母さんのお腹が少しずつふくれてくるのが父である私にはよくわかった。私たちは、その腹の中に赤ん坊が入っていることを
予期することができないほど小さかった。それが私たちを不安にさせ、口に出してこそいわなかったが、私たちは見えざる
運命に対して、どんなに神経質になっていたか知れないくらいである。お前がうまれるときの一種の奇蹟的ともいうべき
雰囲気と状態については、このおぼえ書きのどこかの頁に、もっとくわしく書くときがあろうと思うが、お前こそは、天下から授かった子供であった。五月八日は
金環蝕で、お前の生れたのは九日の午前一時である。その前の晩、お前のお母さんが、金色の猫が
胎中に入るという夢を見た。このお
伽ばなしのような出来事も、お前が立派に成長したときには、たのしい伝説の一つになるであろう。お前はそのはなしをお前の母と姉からもっと、こまごまときくがいい。金環蝕は陰の極で、
秒後は陽のはじめというのだから、お前は陰が極まって、陽にうつろうとするときに、
呱々の声をあげたのだ。お父さんは、そのとき敗戦の余波をうけて追放され、文筆業者として自由に活動する
機会を封じられていた。自然の
運行も陰の極であったが、お父さんの生活もまた陰の極であった。正しい意味において、お父さんの三十年にわたる文学的
生涯は、此処に幕をとじたということにもなろう。お父さんの
業績はすべて文学史の外へ置き忘れられねばならぬような結果になってしまったのだ。そういう
環境がいかにもどかしく、悲しく、
憤ろしいものであるかということを、お前は充分
理解するであろう。お父さんの存在はジャーナリズムによって、ことごとく
遮断された。唯、生きていることだけが
辛うじてゆるされたことの全部であるといってもいい。考えようによっては男子の
本懐でもあるが、お父さんは、この
難境に突き落されることによって
発奮した。これからの生活は唯、愛するもののために生きのびるというだけのことである。そこへ、お前がひょっこり生れ出たことによって、運命的な感情に
支配されていたお父さんの生活は急に
生き
甲斐のあるものに変ってきた。お父さんがお前のために生きるのではない。お父さんはお前によって生きる道をひらいたのだ。五月九日の朝、この
街中にある藤井病院の産室で、死んだようにぐったりと眠っているお母さんの横に小さい
蒲団が敷いてあって、そこに
天使のような小さな赤ん坊が、まったく両肩には羽がついているように見えた。その赤ん坊が、すやすやと眠っている。
荘厳で、しずかで、その赤ん坊のうつくしさは、底にふかい輝きを忍ばせて
澄みきっていた。まもなく私はお前が眼をあけるのを見た。眼は大きく、人間の感覚では及びもつかぬような遠くをじっと見つめているような落ちつきと安らかさをもっていた。お父さんの生活は
生彩と喜びにみちみちている。どのような
邪悪と難苦にも
抵抗して、堂々と歩いてゆける自信がお父さんの心の底から
湧きあがってきた。お母さんが夢に見たという金の猫の
童話は、それから数日間、つぎつぎと起る出来事によって
補正され、次第に一つのかたちを整えてきた」
このような
境遇と環境の中にあって私の親馬鹿が
徐々に、そして確実な経験と径路を
辿って完成されていったことは、もはや説明の必要もあるまい。
俵士はいつのまにか二つになり、三つになり、四つになった。四つになる頃には、やっと父親の存在を
意識してきたらしく、ある晩、東京から久しぶりで
訪ねてきた友人と街で飲みあかし、あくる朝、帰ってくると、すぐ胃が痛みだし、
嘔気を催したので、女房に古新聞と洗面器を持って来させ、畳の上に
腹這いになったまま、苦しまぎれに、げいげいやっていると、肩のあたりに、やわらかい
感触をおぼえ、ふわりとした弾力体がぐっとのしかかってきた。
「お父ちゃん」
と、耳元でささやく舌足らずの声が、かぼそく私の
脳天に
沁みとおってきたのである。
「
俵的ですよ、俵的が来ましたよ」
いつもは、俵的と呼ばれることをいやがる上に、母親以外の誰れの手にも抱かれようとしなかったやつが、ひと晩、うちをあけたので、すっかり
不機嫌になっている母親の代りに父親の肩によりすがろうとする大人びた
仕草が、よしんばそのときかぎりの偶然の思いつきであったとしても、私の心には
犇々と迫るものがあった。もちろん
生態の変化には何の
脈絡もなく、どこか間がぬけたところがあるかと思うと、まるで子供とは思われぬような、だしぬけに一変する
微妙な神経の動きにドギマギすることがあった。
その俵的が、
自家中毒で入院したのは四つの年(昭和二十六年)の十月の末だった。東京から
疎開してきたまま伊東に居ついているI小児科の院長は急いで注射したあとで、「六十パーセントまでは大丈夫ですが」といった。一度呼吸がとまったのを、やっと
連続的な注射で息を吹きかえしたのである。夜中の入院のために家じゅう大さわぎだった。その
晩、俵的と女房だけを病院に残し、私は家へ帰ると台所から冷酒の入った一
升罎を持ってきて机の上におき、コップで、ぐいぐいと
呷った。おそらく俵的の生命が持ちこたえられるかどうかということは、こん夜ひと晩を
境いにしてきまるであろう。私は四年間、あの小さい生命だけをたよりに生きてきた。俵的のいない人生なぞは考えてみたこともない。私の部屋にはN氏が俵士の出生祝いに持ってきてくれた
中江兆民の書がかかっている。
「文章経国大業 不朽盛事」
という文字がその晩にかぎって何となく空々しく、遠いところへ
外れてゆくように思われる。便所へゆくために暗い
廊下を歩いてゆくと正面の帽子かけに、コール天の小さい俵的の帽子のかかっているのが眼についた。それが白い
壁を背景にして、ふわりと宙にういているのが哀れで痛ましく、急いで便所の電燈のスイッチをひねり、
扉をあけると、そこに、いつも見馴れた俵的の小さい、
碁盤縞をうかべたスリッパのおいてあるのが眼についた。私は胸を
衝かれる思いで
書斎へひっかえしてきたが、今夜ひと晩というかんじに
駆りたてられると、もう、じっとしてはいられなくなってきた。そのまま、音のしないように表の戸をあけて外へ出た。もう時間は一時を過ぎていたが、川ぞいの道にさしかかると土手の片側をうずめている
萩の花が闇の中でふるえるようにゆれている。それが、ぼうっと私の
瞳に
映った。四五日前、俵的と二人で川岸の通りを歩いて、こわれかけた
石垣の上へ二人がならんで腰をおろしたときのことが、しきりに思いだされてくる。
何気ない、
平凡な、ひとときではあったけれども、しかし私は、あのような愛情のほのぼのとくすぶるような
哀感におそわれたことがなかった。あのとき、底の浅い流れの上に
紺碧の空にうかぶ白い雲のかげが映っていた。楽しかった四年間の生活が、あの
閑かな、ひそやかな風景の中にたたみこまれているのだと思うと、今は運命に対する
憤りもなければ、居ても立ってもいられぬような
焦躁感もなく、唯、愛情を傾けつくした四年間の、愛情に
悔いのない楽しい生活の記憶だけが、むしろ会う人ごとに
感謝したい思いで、一つ一つ、くっきりとうかびあがってくる。
道の行きどまりに小さな
祠があった。いつもは、その前を何べん通りすぎても、特に気をとめて見たこともない。しかし、私はその前にひざまずいて
伏し
拝んだ。本体が何だかわからぬ神様であるが、そんなことはどうでもよかった。私は心をこめて祈った。もし自分の生命を振りかえることができるならばいつなんどき召しあげられたところでいささかも
悔むところはない。私は必死である。
あとで聞くと、その神社は、近頃出来たばかりで、まだ本体は入っていないということがわかったが、私にとっては、そんなことはどうでもよかった。家へ帰ると、やっと落ちついた気持で、ぐっすり眠ってしまった。夜あけがた、病院から妻の電話で、私はやっと俵的が二回の
輸血によって体力を持ちなおしたことを知った。
一月ちかく入院していた俵的はやっと退院したが、
翌る年の秋になると、また同じ
兆候があらわれて入院した。それが次第に健康を
恢復してきたのは六つになってからである。俵的は、名前にふさわしい、どこか、とぼけたところのある、ひょうきんな子供になった。ある日、茶の間で、若い友人たちがあつまって話をしているとき、うしろの
断崕の上に二本ならんでいる大きな木のことが問題になり、一本は
欅であるが、もう一本は何だろう。
榎のようでもあるし、
楠の木のようでもあるが、といって話しあっていると、畳の上に寝そべって、紙の上に絵をかいていた俵的が、むくむくと起きあがったと思うと、
「あれはオザ木(尾崎)だよ」
といったので、みんな笑いだしてしまった。そのあとで、四国の
県のことが
話題にのぼり、徳島県に高知県、香川県、――それから何だったっけな、と、
愛媛県を忘れた男が、ええ、といって考え込むような
恰好をしていると、俵的が
真剣な顔をして、
「それは小川ケン(軒)だよ」
と
自信にみちた声で答えた。小川軒は新橋駅前にある私の古い
馴染のレストランの名前である。同じ日に、
手相の話が出て、手相があるくらいだから足にだって相のないことはあるまいと誰かがいうと、ほかの一人がすぐ
足袋をぬいで自分の足の裏を眺めながら、この太い線は何かな、手相なら
運命線というところだがと、ひとりごとのように
呟くのをきいた俵的が、
「伊東線だよ」
といったので、みんな返す言葉もなく、どっと笑いだしてしまった。俵的は
落語というものを実際には一ぺんもきいたことがないにもかかわらず、ラジオの落語をきいてから落語がすっかり好きになって、いつのまにか言葉つきの
真似をするようになっている。今年は小学校へ入学する
筈であるが、数字はやっと十一までしか数えられず、ひら
仮名で、自分の名前を書くことがやっとこさである。その成長ぶりを、にやにやしながら
眺めている私の親馬鹿は今やまったく堂に入ったというべきであるかも知れぬ。私は真の愛情こそ、
絶対の批判の上に成立つものだと思っている。この愛情の
鞭が、大きく
唸りを生じて俵的の頭の上に鳴りひびくのも遠いことではあるまい。私は親馬鹿の境地に
安住し、親馬鹿であることに多少の
誇さえもかんじている。親馬鹿の記録は日を
逐うてつづいてゆくであろう。私は自分の感情の
枠にはめて子供を育てようなぞとは思ってはいない。唯、金環蝕が終って
陽のはじまるときに生をうけた子供が、五月の
微風にそよぐ若葉の
色彩の中に、すくすくと伸びてゆくことを
祈るのみである。