「屍の街」序

大田洋子




 私は一九四五年の八月から十一月にかけて、生と死の紙一重のあいだにおり、いつ死の方に引き摺つて行かれるかわからぬ瞬間を生きて、「屍の街」を書いた。
 日本の無條件降伏によつて戰爭が終結した八月十五日以後、二十日すぎから突如として、八月六日の當時生き殘つた人々の上に、原子爆彈症という恐愕にみちた病的現象が現れはじめ、人々は累々と死んで行つた。
 私は「屍の街」を書くことを急いだ。人々のあとから私も死ななければならないとすれば、書くことも急がなくてはならなかつた。
 當日、持物の一切を廣島の大火災の中に失つた私は、田舍へはいつてからも、ペンや原稿用紙はおろか、一枚の紙も一本の鉛筆も持つていなかつた。當時はそれらのものを賣る一軒の店もなかつた。寄寓先の家や、村の知人に障子からはがした、茶色に煤けた障子紙や、ちり紙や、二三本の鉛筆などをもらい、背後に死の影を負つたまま、書いておくことの責任を果してから、死にたいと思つた。
 その場合私は「屍の街」を小説的作品として構成する時間を持たなかつた。その日の廣島市街の現實を、肉體と精神をもつてじかに體驗した多くの人々に、話をきいたり、種々なことを調べたりした上、上手な小説的構成の下に、一目瞭然と巧妙に描きあげるという風な、そのような時間も氣持の餘裕もなかつた。
 私の書き易い形態と體力とをもつて、死ぬまでには書き終らなくてはならないと、ひたすら私はそれをいそいだ。
 いま改めて出版するにあたつて、熟讀して見ると、私の體驗は、一九四五年八月六日に廣島全市に展開された、異常な悲慘事の現實の規模の大きさと深刻さに比べ、狹少で淺いことを、今更つよく感じないではいられない。
 私の筆は全市にくりひろげられてはいないのである。自分の住んでいた母の家からのがれ出して、三日間を野宿した河原と、田舍へ逃げて行く道中の情景とのきわめて部分的な體驗しか書いていない。
 私は讀者に、私の見た河原と道筋の情景よりももつと陰慘苛酷な災害が、全市街を埋めつくしたことを知つてもらいたい。
 讀者は私の書き方をもの足りなく思われるであろう。私自身五年經つたこんにち、讀み返して見て意に滿たぬ多くのもどかしさを感じている。そして私の書き得なかつた廣島の、當時の樣相を眼底に思い浮べ、私の魂自體が焔の中で煮詰まるほどの、肉體的な、精神的な苦痛を覺えるほかはない。

 私はこの五年間、「屍の街」を客觀的に整理し、健全な心身をとり返した上で、一つの文學作品に書くことのみを考えて暮した。
 しかし、なんと廣島の、原子爆彈投下に依る死の街こそは、小説に書きにくい素材であろう。それを書くために必要な、新しい描寫や表現法は、容易に一人の既成作家の中に見つからない。私は地獄というものを見たこともないし、佛教のいうそれを認めない。人々は誇張の言葉を見失つて、しきりに地獄といつたし地獄圖と云つた。地獄という出來あいの、存在を認められないものの名で、そのもの凄さが表現され得るものならば、簡單であろう。先ず新しい描寫の言葉を創らなくては、到底眞實は描き出せなかつた。
 小説を書く者の文字の既成概念をもつては、描くことの不可能な、その驚愕や恐怖や、鬼氣迫る慘状や、遭難死體の量や原子爆彈症の慄然たる有樣など、ペンによつて人に傳えることは困難に思えた。
 私は人口四十萬の一都市が、戰火によつて、しかも一瞬に滅亡する樣をはじめて見た。その戰火が原子爆彈という、驚くべき未知の謎をふくんだ物質によつてなされた事實をも、そのときはじめて知つた。いちどきに何千何萬の、何十萬の人間が死に、足の踏み場もないその野ざらしの死體のなかを、踏みつけないように氣をつけ、泣きながら歩いたことも始めてであつた。原子爆彈症の凄慘さも、人間の肉體を、生きたまま壞し崩す強大で深いものとして、始めて見るものであつた。その場合、何もかもが生れてはじめて見なくてはならなかつたものであり、それを見なくてはならなかつたこと自體、悲慘であつた。
 またたとえば、大手町の爆心地から、北に向つてまつすぐ二里の海上にある、金輪島にいた娘が、放射能の閃光の一瞬後、片方の乳房をえぐりとられたという話をきいていて、これを作品の中に描こうとしても、容易には描き得ない。
 もつと近い距離にいた者が、死をまぬかれ、海をへだてた瀬戸内海の小島に、女子挺身隊で働きに行つていた娘が、爆風による硝子の破片で乳房をもぎとられ、丸い乳房型の血の肉塊が、胸の谷にはみ出て垂れ下つており、そのあとが暗い空洞になつていたという、このような事實は、ウラニューム爆彈の性格を知らぬものには、嘘としか思えないだろう。
 しかしこの故に、いつそう私は書かなくてはならない。廣島の不幸が、歴史的な意味を避けては考えられないことを思うとき、小説と云えども、虚構や怠惰はゆるされない。原型をみだりに壞さず、眞實の裏づけを保つて小説に移植されるべきであろう。そして書かなくてはならないということだけが、うごかし難いものだと思う。

「屍の街」は個人的でない不幸な事情に、戰後も出版することが出來なかつた。
 廣島市から北に十里はいつた山の中の村で、はじめに書いたように、刻々に死を思いながら「屍の街」を書き終つた時分、颱風と豪雨の被害で、一カ月もきけなかつたラジオが、ある日ふいに聞こえて來た。そのとき、原子爆彈に關するものは、科學的な記事以外發表できないと云つているアナウンサーの聲が、かすかに聞えた。
 發表できないことも、敗戰國の作家の背負わなくてはならない運命的なものの一つであつた。「屍の街」は二十三年の十一月に一度出版された。しかし私が大切だと思う個所がかなり多くの枚數、自發的に削除された。影のうすい間のぬけたものとなつた。
 それ以後そのまま放置されて今日にいたつた。
 その前後の五カ年の年月は、作家としての恢復をのぞむ私にとつて、不幸な、運命的な、その上不思議な五年間であつた。戰爭による約十年を空白にされた者へ、重ねての被害が加えられた。
 それはいまも餘韻をのこしている。私はその間にほかの作品を書こうとしていた。原子爆彈とは關連のない、別の作品を書こうとした。すると私の頭の中に烙印となつている郷里廣島の幻が、他の作品のイメージを拂いのけてしまうのだつた。原子爆彈に遭遇した廣島の、その作品化が難ければむつかしいほど、私の眼と心に觀察され、人々にきいた廣島市の壞滅と、人間の壞滅の現實が、もつとも身近かな具體的な作品の幻影となつて、ほかの作品への意慾を挫折させた。
 そのくせ一九四五年の夏の廣島を書こうとすれば、當然掻き集められる記憶の集積と斷片が私を苦しめる。
 書くためには思い起さなくてはならず、それを凝視していると、私は氣分がわるくなり、吐氣を催し、神經的に腹部がどくどく痛くなつた。たとえば當時新聞の報じた一つの※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)話が私の心にまざまざと生き返る。八月六日の一瞬に孤兒となつた子供らが、市外草津の孤兒收容所にはいつていたが、その中の三人の少年が僧侶になる話である。少年は十一歳が二人、十三歳が一人であつた。三人の子供らは兩親の靈と、他の同じ戰爭犧牲者の靈のために、僧侶となつて生涯をささげたいと云い出し、廣島別院の坊さんにつれられて、京都の寺に行つた。
 その寺で彼らは剃髮し、袈裟、衣をまとつたのだ。ことの正否は別として、またこの子供たちの將來が果して坊主で終るものかどうかうたがわしいが、私はこの新聞の一記事の思い出の前で、胸のなかにいつぱいの涙の溢るのをふせげない。私は作家であるより前に、先ずその小さい少年たちを抱きしめて泣きたくなり、素直にそれの出來る作家でありたいのだつた。私は慟哭し、躯も心も壞れてしまいそうになつた。その少年たちの心情の哀れさにやりきれなくなり、その他種々樣々の悲しさにぶつかり、私はペンを投げだしてしまうのだ。
 私は作家が客觀的にものを書かなくてはならぬということに、ある疑問を抱く日もあつた。
 私は屍の街にひつからまつて、身うごきが出來なかつた。
 私にはもつとながい時間を賭けるよりほか、道がない。このことは當然のことでもあろう。
 このような思いに惱まされている私にとつて、この度のこの書の出版は、せめてもの救いである。世紀の、否日本人の味つた最大の悲劇、原子爆彈に難を受けて斃れた人々と、生き殘つた傷心の廣島の人々を想う、耐えがたいその思いへの救いである。
 いずれの日か私は、不完全な私の手記を償うべく、かならず小説作品を書きたいと思つている。
一九五〇年五月六日
著者





底本:「屍の街」冬芽書房
   1950(昭和25)年5月30日発行
※底本における表題「序」に、底本名を補い、作品名を「「屍の街」序」としました。
※底本は旧字新仮名づかいです。なお平仮名の拗音、促音が並につくられているのは、底本通りです。
※「聞こえ」と「聞え」の混在は、底本通りです。
入力:かな とよみ
校正:竹井真
2022年10月26日作成
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