いまだ癒えぬ傷あと

――放射線火傷で右手をうしなつた木挽きの妻と河原にうつ伏せて死んでいた幼女に――

大田洋子




放射線火傷で右手をうしなつた木挽きの妻に


 あなたはその後どうしていますか。あなたと私は、あの高原の山里で、いわば行きずりの旅の者同志にすぎなかつた筈ですのに、あれから四年經ついまも、私は折りにふれてはあなたのことをたびたび思いだしています。
 あの女のひとはどうしているだろうと、名前も知らないあなたのことを思い出すたびに、私の眼の前に浮彫になつてはつきり現れる、一本の女の右腕があるのです。それはあなたの腕です。
 あなたを想い浮べるというよりも、私はあなたの魔術のようなふしぎな腕のことを思つているのかも知れません。あなたの腕のためにあなたを想い出す。このようなことは互いの不幸ですけれど、これに似たたくさんの錯覺が私のうちにうずまいてるようにおもわれます。ゆるしてください。
 一つ一つの現象の苦しい思い出が八方から寄つてきて集中され、原子爆彈という一つのものに結びつく結果になつてしまうのです。
 八月六日から三日間、死の市の河原で野宿してから、死體と、まだ燃えている焔のなかをぬけて、私はあなたと會つた村に逃げのびました。
 冬のきびしい山上のあの村はなんて空氣の澄みきつたところだつたでしよう。よく磨いたつめたい硝子のような空氣でした。あなたと私は白い道端の小川のほとりにしやがんで話をしました。小川の流れは水晶みたいでしたし、ハエという小魚がちらちらと流れを行つたり來たりしていました。鮮麗な色の鬼あざみが小川のふちに涯もなく咲いていました。そんなに清澄な風景のなかで、私たちはどんなに不仕合せな話をしなければならなかつたでしようか。
 あなたは簡單服から出ている右手を、左手でなでながら私に見せました。腕全體、ほとんど肩の近くから指さきまで、火傷のひきつれでぴかぴか光つていました。うす桃色と茶褐色の引き釣れが、よじけて曲りくねり、蟹の脚のように腕の全部を這つていたのです。
 そのうえあなたの腕は内側に向つてひどく曲り込んでいました。原子爆彈という未知の物質が、どんな風に、どれだけ人間のからだを壞すものか、またその負傷者たちにどんな治療をしてよいのか、醫者の連中にもまつたくわからなかつたので、あわてた醫者があなたの腕を前にまげて、肩へ釣らせたのでした。
 あなたの右腕は曲つたまま、一應火傷はなおつたのですけれど、あなたには二人の子供があり、姙娠していました。
「この腕はどうしても、のび縮みができるようにしてもらわなくては、子供を育てなくちやなりませんから」
 あなたは希望をもつているように、あかるい眼をしていました。
「整形外科へいらつしやるのはもつと先きになるんですか」
「何度も行つておねがいしたんですけど、私の順番は半年ものちなんですのよ。それだけたくさんいます」
 廣島の赤十字病院にどれだけ大勢の重傷者が收容されているかが、あなたの言葉でもほうふつとしました。ある日、十萬の人が即死し、あとの全部の市の在住者が多かれ尠かれ負傷したのですから、赤十字病院の室という室、廊下から廊下に負傷者たちが横たわつて、惡臭が充滿していることは想像できました。
 ずつとのちに私が山から廣島にでて、赤十字病院へ行つたとき、あの立派な、大きな病院の建物が、外側だけ殘し、なかは骸骨になつているのを知りました。あれだけたくさんあつた病室もどこがどこだかわからなくなり、扉も窓の硝子も吹きとんだと見え、あちこちにけずりもしない薄い木の板で壁をはり、ぼろの幕が下つていたのです。
 まるで昔の田舍の芝居小屋のような病室に、あなたの腕とそつくりな火傷のあとを顏いつぱいにただよわせた人たちが、あそこにもここにもというほどいました。
 なんという怖ろしいお化けのような顏だつたことでしよう。傷痕はあの日のように血まみれでもなく、乾いているけれど、もし分泌物や血でぬれていたら、私が子供のじぶんによく見かけたライの患者にそつくりだと思い、眼をそむけないではいられませんでした。
 日赤でも他の多くの場所でそうであつたように、知りあいの醫者や看護婦、患者など(私は廣島に原子爆彈が投下される日の十日前まであそこの外科に入院していました)ふたたび會うことのできなくなつた人々の名をどれだけたくさんきいたことでしようか。
 ――あなたは腕をのばす日を待ち佗びていた風でした。小川の向うの山の端に、軒の傾いたみすぼらしい農家がありました。四疊半くらいの二階もこわれかけていましたが、あなたはそこに夫婦と子供の四人づれで辛ぼう強く住んでいました。あなたの良人は復員してから村の山で木挽をしていました。
 ある日、あなたのその働き手の良人は、山で木材をひいていて、自分の手の指を四本も切り落してしまつたのです。村人が廣島の病院へかついで行きました。あなたは看護づかれのした蒼い顏で村にもどつてきたとき、道で會つた私に話しました。
「やつと私の順番がきて、通知が來ましたから。しばらく病院へ行つて來ます」
 あなたは以前にもつていたかすかな希望を眼ざしから消し、暗い顏つきをしていました。たぶんお金がすつかりなくなつていたのでしよう。そういうさびしそうな表情をしていました。東北の生れで三十一歳というあなたを、私は哀れでなりませんでした。
 一九四五年の八月六日、あなたは廣島に住んでいて、あの暑い朝の八時十五分には西天滿町を自分の家に向つて歩いていて、あの青い閃光を浴びたのでした。光つた瞬間足下の草を見たら、火がついてぼうぼう燃えていたとあなたは話していました。家にかえつて二階にあがると、火の氣もない二階の障子と襖が、下からちろちろ燃えていたとも話していました。
 あの調子で全市が燒け亡び、外にいた人々の皮膚を燒いたのです。
 あなたは負傷後、一年半もしてからやつと入院することができ、自分のももの肉をとつて、切り放つた腕の關せつの内側へ移植し、ようやくにして腕をのばすことのできる整形手術をうけたのでした。そのときどんなにあなたはうれしかつたことでしようか。
 年を越した翌年の初めあなたは病院から山里へかえつて來ました。暫く經つてぶじに赤ちやんを生みました。でもあなたの右腕はふしぎな作用を起しはじめました。寒い冬のあさ、小川でおしめを洗つているあなたの腕の、ももの肉を植えた個所がちぢれてくるということをきいたとき、私は息が詰まるような思いがしました。あたたかい手でなでているとまつすぐにのび、冷えると空氣のぬけてゆく風船のようにしぼんでしまうというあなたの腕の人間的な悲劇。生きなくてはならない一人の女の右手が、永久にうしなわれて行くのでしたら、戰爭そのものへの抗議と憎惡が日本中の女の胸に燃え立つ筈です。
 戰爭の眞の恐怖は、戰爭中より戰後にくるということを、こんにちの泥沼のなかで、私たちは深く知つています。あなたも明るい方向にむかつて力づよく生きて行つてください。
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河原にうつ伏せて死んでいた幼女に


 小さいひとよ、あなたあの朝どこからあの河原まであるいてきたのかしら。私が見たとき、あなたはあの炎天の上の熱い砂のうえに、うつ伏になつて死んでいました。顏を少し横向けに、晝寢している姿で、兩手を投げだしていました。黒いおかつぱの髮にすでに女の匂いをかんじさせ、赤い鼻緒の下駄の小ささであなたの年を五つか五つかと[#「五つか五つかと」はママ]おもわせました。
 私はいまもこれを書いていて、紙のうえに涙がおちそうになつています。思い出のあなたの姿も、可憐すぎ、いたましぎて[#「いたましぎて」はママ]哀しくてならないのに、あの日、あの突如として起つた大きな出來ごとの犧牲に、あなたのような小さい女の子供まで卷き込まれ、死ななくてはならなかつたのか、その思いにかられてたまらなくなります。
 私の見たあなたの年の幼女の死體は、廣い河原であなたがひとりでしたけれど、私の見なかつた廣島全市のあらゆる町々で、どれだけあなたとおなじ年ごろの男や女の子が死んだことでしよう。私の心の傷跡にじたじたと血がにじんできます。戰爭への怒り、あなたたちへ對しての責任感、べつな意味での屈辱感や敗北感がごつたになつて胸に大きなかたまりを盛りあがらせます。
 あなたはどこからあそこまで逃げてきたのでしよう。近くの町からか、遠いところからきたのか、あなたにきくことはできなかつたけれど、河原にきてすぐに死んだことを思うと、爆心地にちかい町にいたのにちがいありません。いきなり小さい肉體の内部ふかく犯され、それでも負傷者の群の流れに交つて、よろよろと逃げて來たのでしようね。
 あなたの死體は八月の太陽にさらされていたけれど、兩親らしい人もきようだいのようなひとも傍にいませんでした。その人たちはみんな即死したのでしようか、あなたは爆心地を少しはなれたところで遊んでいたのでしようか。
 八月六日の夜がきたころから、あくる日も、その次の日も、夜は提灯をもつた人々が、河原に家族の者や親せきの者の名をよんで歩いたけれど、あなたを探しに來た人は一人もありませんでしたから。
 六日の午後、河原にふり注いだ大粒の黒い雨に、あなたの小さい屍がたたかれていました。廣島全市は油の焔のように大きく高く燃えあがり、町はずれの中國山脈の手前の空に、虹がかかりました。そのじぶんから、あなたの死體のまわりで、ついでつぎつぎ人がたおれて死んで行つたのですよ。
 小さいひとよ、あなたはあまりに小さくて、自分を死に誘つた戰爭がどのようなものであつたかを知らないまま、ああした姿になつたのですのね。
 戰爭のなかで生れ、戰爭のなかで死んだ小さいひとよ、八月六日にあなたが河原にくるなり息をひきとつてから、二度目の原子爆彈が九日の[#「九日の」は底本では「八日の」]午前十一時に長崎に投下され、つづいてソ連の宣戰布告が發表され、そして第二次大戰は十五日に終りとなりました。
 それからちようど四年經ちました。私の左耳と背中の傷も、かすかな傷あとをのこしていまはなおつています。ですけれどふたたび徐々に、その傷あとが疼きはじめた氣がするのです。思えば耳と背の傷があの當時として、なおりにくく、普通の傷だつたら一週間で癒えるという傷をなおすのに三カ月間もかかりました。いつまでも膿がとまらず、切口がふさがりませんでした。
 その筈で、あの日廣島にいなかつた人たちまでが、死體の片づけに田舍からでて行き、地上にのこつていたウラニューム放射線物質を吸つて、原子爆彈症に犯されたのですから。
 私の負傷のあとは現在ほんとうは痛んでいません。皮膚の傷あとでなく、もつと深い内部で、こんにちの條件に刺戟されながら、疼きはじめているのです。
 前の戰爭の痛手がまだ生活のあらゆる面にこびりついて消え去らないのに、いままた次の戰爭の恐怖を、かんじとらなければならないなんて、人間にとつてこれほど大きく深い苦痛がほかにあるでしようか。
 歴史は私たちの眼の前で刻々に鋭く立體的になり、ひどく速くすすんでいることをかんじます。でもそれにふれてゆく苦痛のなかに、ただ一筋の希望と安心感が生れつつあることも、小さいひとよ知つていてください。
 人は元來、たのしい、明るい、希望にみちたものでなくてはならないのですもの。
 小さいひとよ、幼いあなたの年をわすれて、大人のことばでかいてしまいした[#「しまいした」はママ]。それほど私は夢中になつて云つたのでした。





底本:「屍の街」冬芽書房
   1950(昭和25)年5月30日発行
※底本は旧字新仮名づかいです。なお平仮名の拗音、促音が並につくられているのは、底本通りです。
入力:かな とよみ
校正:竹井真
2022年11月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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