トニオ・クレエゲル

TONIO KROGER

トオマス・マン Thomas Mann

実吉捷郎訳




 冬の太陽は僅かに乏しい光となって、層雲におおわれたまま、白々と力なく、狭い町の上にかかっていた。破風はふ屋根の多い小路小路はじめじめして風がひどく、時折、氷とも雪ともつかぬ、柔らかいあられのようなものが降って来た。
 学校が退けた。鋪石の敷いてある中庭を越え、格子門を潜って、自由になった者たちの幾群は、潮のように流れ出すと、互いにわかれて右へ左へ急ぎ去った。年かさの生徒たちは、昂然と本の包みを高く左の肩に押しつけたなり、風に向かって、昼飯を目あてに、右腕で舵を取ってゆく。小さい連中は快活に駈け出して、氷のまじった汁を四方にはねかしながら、学校道具を海豹あざらし皮の背嚢はいのうの中でがらがらいわせながらゆく。しかし折々、従容と歩を運ぶ教諭のウォオタンのような帽子とユピテルのようなひげを見ると、みんな神妙な眼つきでさっと帽を脱いだ……
「ようやっと来たね、ハンス」と、長いこと車道で待っていたトニオ・クレエゲルが言った。微笑を浮かべながら、彼は友を迎えて進み出た。友は他の同輩たちと話し合いながら門を出て来て、もうその連中と一緒に歩み去ってしまおうとしているところだった。……「どうしてさ」と彼は問うて、トニオを見守った……「ああ、ほんとにそうだっけ。じゃ、これから少し一緒に歩こう」
 トニオは口をつぐんだ。そして彼の眼は曇った。今日の昼、二人で一緒にちょっと散歩しようときめていたのを、ハンスは忘れてしまったのだろうか。今ようやく思い出したのだろうか。しかも自分自身はその約束をして以来、ほとんど絶え間なく、それを楽しみにしていたのだ。
「じゃみんな、さよなら」とハンス・ハンゼンは同輩たちに向かって言った。「僕これからまだ少しクレエゲルと一緒に行くから」――そこでほかの連中が、右へぶらぶら歩いて行くと同時に、二人は左へ転じた。
 ハンスとトニオは、いつも学校がすんでから、散歩に行く暇を持っていた。二人とも、四時になってようやく昼飯を食べる家の子だったからである。彼等の父親たちは立派な商人で、公職も帯びていたし、町では有力者だった。下町の河縁にある手広な材木置場は、もう何代も前からハンゼン家のものだった。そこでは巨大な機械鋸が、ごうごう、しゅうしゅうと樹幹を切り裂いているのである。ところでトニオは、名誉領事クレエゲルの息子で、クレエゲルの太い黒い商会印を押した穀物袋が、毎日街を馬車で運ばれてゆくのは、誰でも見て知っている。それに彼の祖先伝来の大きな古い家は、町中で最も豪壮なものだった。……知った顔が多いので、二人の友だちは間断なく帽子をらなければならなかった。それどころか、この十四の少年たちに向かって、自分のほうから先に挨拶してゆく人もかなり多かったのである……
 二人とも学校かばんを肩から掛けていた。そして二人とも上等な暖かい身なりだった。ハンスは短い水兵式の外衣で、その肩と背には、下に着た海軍服の広い青いえりがかぶさっているし、トニオのほうは、帯のついた灰色の外套だった。ハンスは短いリボンのついた、オランダ風の水夫帽をかぶっていて、その下から薄色の金髪がひとふさはみ出していた。彼は並外れて美しい、姿の好い児で、肩が広く腰が細く、陰のない鋭く物を見る鋼色はがねいろの眼を持っている。しかしトニオの丸い毛皮帽の下には、やや鳶色とびいろがかった、全然南国的に輪廓の鋭い顔から、黒い、柔らかく陰で囲まれた、そしてまぶたの重すぎる眼が、夢みるように、またいくらかおびえたように覗いている。……口とあごの形は著しくやさしい。彼の歩き方はなげやりで不揃いだが、ハンスのほうは、黒い靴下にくるまったすんなりした脚で、いかにも軽快に、きちんと拍子を取って闊歩かっぽしてゆく……
 トニオは口を利かなかった。彼は苦痛を感じていた。いくらか斜めになった眉をあつめて、口笛でも吹くように唇を尖らせたまま、首を横に曲げて遠くを見つめている。この態度、この顔つきは、彼独得のものであった。
 不意にハンスは、その腕をトニオのに組み合わせると同時に、横のほうから彼を見つめた。彼が何を気にしているか、それがハンスにはよくわかったからである。すると、その先数歩の間、トニオはまだ黙っていたものの、それでも彼の気持はたちまちにして和らいでしまった。
「僕忘れてたわけじゃないんだよ、トニオ」とハンスは言って足許の歩道に眼を落とした。「ただね、約束したけども、今日はたいていだめじゃないかと思ってただけさ。だってこんなにじめじめして風もひどいんだもの。だけど僕はそんなこと構やしないよ。それに君がこんな天気なのに待っててくれたのは、ほんとに素敵だと思うね。僕はもう君は家へ帰っちゃったのかと思って、おこってたのさ……」
 これを聞くとトニオの心の中では、すべてがね躍るように歓呼するように動き出した。
「うん、そいじゃこれから土手を越して行こうよ」と彼は感動した声で言った。「ミュウレン土手とホルステン土手を越してね。そうして家まで送って行ってやろうね、ハンス。……なあに、ちっとも構いやしないよ、帰り道は僕ひとりだって。この次は君が送ってくれるのさ」
 実のところ、彼はハンスの言ったことをそんなに堅く信じているわけではなかった。それにハンスがこの二人きりの散歩を、自分の半分も重く見ていないということも、彼ははっきり感じていた。しかしそれでもハンスが健忘を悔いて、一生懸命自分の機嫌を直そうとしているのは認められた。そうして彼は和解をはばもうなんというつもりは毛頭なかった……
 打ち明けていえば、トニオはハンス・ハンゼンを愛していて、すでに多くの悩みを彼のためになめて来たのである。最も多く愛する者は、常に敗者であり、常に悩まねばならぬ――この素朴でしかも切ない教えを、彼の十四歳の魂は、もはや人生から受け取っていた。そして彼の性質として、こうした経験をよく覚え込んで――いわば心に書き留めておいて、そのうえ多少それを楽しんでいるのだった。もちろん自分自身としては、その経験で身を律したり、その中から実際的な利益を引き出したりすることはないのだが。また彼の生まれつきは、こういう教えを、学校で無理に詰め込まれる知識なんぞよりも、ずっと重大な、ずっと興味深いものと見なす――いや、ゴシック風のまる天井の教室での授業時間中も、たいていはこうした洞察を奥底まで感じ尽し、どこまでも考え詰めることに没頭するという風だったのである。しかもそういう仕事は、彼がヴァイオリンを持って(彼はヴァイオリンを弾くのである)自分の部屋を歩き廻りながら、下の庭の老いた胡桃樹くるみの枝かげにゆらゆらと立ち昇っている、その噴水のささやきのなかへ、かなで得る限り柔らかく奏でた調べを響き込ませる時と、ほぼ似たような満悦を彼に与えるのであった……
 その噴水、その老いた胡桃樹、そのヴァイオリン、それから遠くの海――それはバルチックで、休暇になると、彼はその海の夏らしい夢をぬすみ聴くことができた――こういうものが彼は好きだった。こういうもので彼は、いわば自分のまわりに垣を作った。そしてこういうものの間で、彼の内生活は展開して行ったのである。つまりこれらは、その名を有効に詩の中で使うことのできる事物で、また実際、トニオ・クレエゲルが時々作る詩の中には、そうした名が幾度となく響いているのであった。
 このことは――彼が自作の詩を書いた帳面を一冊持っているということは、彼自身のせいで皆に知れ渡ってしまって、同級生の間にも、先生たちの間にも、大いに彼の評判を傷つけた。クレエゲル名誉領事の息子にとっては、一方からいえば、そんなことをとがめ立てするのは、馬鹿げた下等なことのように思われた。だから自分を咎める同級生たちをも軽蔑していた。その上そういう連中のしつけの悪さが、彼にはいやでたまらなかったし、また彼等の個人的な弱点を、彼はふしぎなほど鋭く看破していたのだった。が、また他方からいえば、彼は詩を作ることを、自分でも放逸な、元来は道に外れたことのように感じていた。だから、それを突飛とっぴな仕事と見なしている人たちを、ある程度まで是認せざるを得なかった。しかしそんなことは、彼に詩作を思い止まらせるだけの力はなかったのである……
 家では時間を空費してしまうし、授業中は、ぼんやりした、かけ離れた心持でいて、先生間の気受けが悪かったので、彼はいつもきまって、貧弱な成績表を家へ持って帰った。それを見ると、父親は――考え深そうなあおい眼をした、背の高い、端正な身なりの、いつも何か野の花をボタンの穴に挿している人だったが――非常に腹立しそうな、困りきった様子を見せた。ところがトニオの母、黒い髪をした美しい母、コンスエロという名で、父が昔、地図で見るとずっと下のほうから連れて来たために、一体の様子が、町のほかの婦人たちとはまるで違っていた母――その母にとっては、成績表なんぞ頭からどうでもいいのであった……
 トニオは、このピアノとマンドリンの非常に上手な、髪の黒い、情の激しい母親が好きだった。そして衆人の間に彼の占めている香ばしからぬ位地について、母親が心を痛めないのを喜んでいた。一方ではしかし、父の怒りのほうが、遥かに立派で尊敬すべきものだと感じていた。そして父に叱られても、心の底では父とまったく同感だった。同時に母の快活な無関心を、少しだらしがないと思っていた。時折、彼はまあこんな風に考える――僕は今のように暮していて、変わろうともせず、変わることもできず、ずぼらで強情で、ほかには誰一人考えもしないようなことにも気を使っているが、これはちょうどこのくらいにしておいて、これ以上進んではいけないのだ。そのために皆が本気で僕を叱ったり罰したりして、キスや音楽なんぞでそれをごまかしてしまわないというのは、少なくとも当然のことだ。僕等はもちろん、緑色の馬車に乗ったジプシイでも何でもなくって、ちゃんとした人間なんだもの。名誉領事クレエゲルの一族、クレエゲル家の一門なんだものね。……またこう考えることもまれではなかった――どうして僕は一体こんなに風変りで、みんなとそりが合わないんだろう。先生とは喧嘩腰だし、ほかの子供たちからは仲間外れなんだろう。あの連中を見るがいい。あの善良な生徒たち、手堅く平凡な生徒たちを。あの連中は先生を滑稽だとも思わなければ、詩も作らないし、つい誰でも考えるような、大きな声で口に出せるようなことばかり考えている。たしかにあの連中は、自分たちはあたりまえで、いっさいの事、いっさいの人と和合しているという気持なのに違いない。さぞ愉快なことだろうな。……しかし僕はどうだ。こんな調子で、これから先どうなって行くのかしら。
 こういう風に自分自身と、人生に向かっての自分の関係とを省察する癖は、ハンス・ハンゼンに対するトニオの愛のなかで、重大な役割を演じていた。彼がハンスを愛しているのは、第一にハンスが美しいからだった。しかし第二には、ハンスがあらゆる点で、自分の逆であり、裏であるように思われたからなのである。ハンス・ハンゼンは優等生だし、その上活溌かっぱつな児で、英雄のように馬に乗ったり、体操競技をやったり、泳いだりして、誰にでも人気があった。先生たちは、甘たるいくらい彼を可愛がって、呼ぶ時にはいつも名のほうを呼んで、あらゆる方法で彼のためを計ってやったし、同輩たちは彼の寵をることに汲々としていたし、また往来では紳士淑女たちが彼を引きとめて、オランダ風の水夫帽からはみ出ている、薄い明色ブロンドの前髪をつかみながら、こう言うのだった。――「今日こんにちは、ハンス・ハンゼン。相変らずかわいい前髪だね。まだ一番なのかい。パパとママによろしく。ほんとにきれいな子だね……」
 ハンス・ハンゼンはそんな風だった。そして彼をって以来、トニオ・クレエゲルは彼の姿を見ると、すぐにねたましい憧憬を感じた。それは胸の上のところに宿っていて、火のように燃えるのだった。君みたいに碧い眼をして、君みたいにきちんとして、誰とでも工合よく仲間になって暮して行ける人はなあ、と彼は考える。いつも君は穏当な、皆に尊敬されるような暮し方をしている。学校の課業をすますと、馬の稽古をするか、でなければ細歯の鋸で細工物をする。休暇で海岸にいる時でさえも、君は舟をいだり、帆で走ったり、泳いだりで忙しいのに、僕は何もしないで、ぼんやり砂の上にそべったなり、海の顔の上をすっと滑ってゆく、変幻極まりない表情劇を、じっと見つめている。しかしそれだからこそ、君の眼はそんなに澄んでいるのだ。君みたいになれたら……
 彼はハンス・ハンゼンのようになろうと試みはしなかった。それに、大まじめでそう望んでいたかどうか、それさえ怪しいものだった。しかし彼は、そのままの自分でハンスに愛されることを、苦しい気持で熱望していた。そして彼一流の調子で、ハンスの愛を求めた。迫らずに誠実な献身的な、悩ましいそして憂鬱ゆううつな調子で求めたのである。しかもそれが、彼の風変りな外貌から察せられそうな、あらゆる急激な情熱よりも、さらに深く、さらにやるせなく燃え立ちかねない憂鬱なのであった。
 そうして彼はまったくむだに求めたわけではなかった。なぜならハンスはハンスで、トニオのある優越――むずかしい物事を口にし得る弁舌の冴えを尊敬していて、この友が自分に向かって、普通以上に強い優しい感情を寄せていることをよく理解して、感謝の心を見せたし、また自分もこれに応じながら、友に幾多の幸福を与えたのである――しかしまた嫉妬や、幻滅や精神的に提携しようとするむなしい努力などという、幾多の苦痛をも与えたのであった。というのは、妙なことにトニオは、ハンス・ハンゼンの生き方をうらやんでいるくせに、彼を自分の生き方のほうへ引き寄せようと、絶えず努めていたからである。もっともその努力は、せいぜいほんのちょっとの間だけしか、それも単にうわべだけしか成功しなかったのだが……
「僕この頃ね、すばらしいものを読んだんだよ、そりゃ素敵なものを……」とトニオは言った。二人はミュウレン街のイイヴェルゼン雑貨店で、十ペンニヒ出して買ったドロップスを、歩きながら一緒に、一つ袋から食べている。「君ぜひ読んでみたまえよ、ハンス。それはね、シラアの『ドン・カルロス』なんだ。……もし読む気なら貸して上げるぜ……」
「いや、よそう」とハンス・ハンゼンは言った。「貸してくれなくてもいいよ、トニオ、そういうものは僕にゃ合わないんだもの。僕はやっぱり、いつもの馬の本がいいんだよ。そりゃ面白い挿画さしえが入ってるんだぜ。今度僕の所へ来たとき見せてやろうね。それは早取写真でね、馬が早駈けをしたりギャロップをしたり、飛び上がったりしてるところが――つまり実際だとあんまり早すぎて、とても眼で見られないような、いろんな恰好かっこうをしてるところが分かるんだ……」
「いろんな恰好をしてるところが?」とトニオは丁寧に問うた。「なるほどそりゃ面白いね。だけど『ドン・カルロス』のほうはね、それこそだあれも想像がつかないくらいなんだよ。その中にはね、いいかい、非常にいいところがあってね、そこを読むと、ごつんと音でもするほどなぐられたような気がするんだ……」
「ごつんと音がするんだって?」とハンス・ハンゼンが問うた。「どうしてさ」
「たとえばね、こういうところがある。侯爵にだまされたもんで、王様が泣いたというところがね。……でも侯爵はただ、皇子のためを計って王様を欺しただけなんだぜ。分かった? その皇子のために、侯爵は自分を犠牲にしてるんだからね。そこで御居間から控えのへ、王様が泣いたという知らせが伝わって来る。『泣かれたのか。国王が泣かれたのか』って、家来たちはみんなひどく驚くんだ。実際、それには誰でもしみじみと感じちまうんだよ。だってその王様は、恐ろしく頑固な厳格な王様なんだもの。だけど王様が泣いたわけは、実によく分かるんだ。だから本当をいうと、僕は皇子と侯爵とを一緒にしたより、もっと王様のほうがかわいそうだと思うよ。いつでもたったひとりぼっちで、誰にも愛されていないところへ、今やっと一人の人間を見つけたと思うと、その人が裏切りをするんだからな……」
 ハンス・ハンゼンは、横合いからトニオの顔を見た。するとこの顔の中の何物かが、確かに彼をこの話題にひき寄せたのであろう、彼は突然、再び自分の腕をトニオのと組み合わせて、こう尋ねた。
「一体どういう風にしてその人は王様に裏切りをするの、トニオ」
 トニオは昂奮こうふんし出した。
「あのね、こういうわけなんだ」と彼は言い始めた。「ブラバントやフランデルン行きの手紙がみんな……」
「やあ、エルウィン・インメルタアルが来た」とハンスが言った。
 トニオは口をつぐんでしまった。ほんとにあのインメルタアルの奴、地の中へ吸い込まれちまえばいいのに、と彼は考えた。なぜあいつは僕たちの邪魔をしに来ずにゃいられないんだろう。僕たちと一緒に歩いてくれなけりゃいいが。そうして道々ずっと、馬の稽古のことばかり話してくれなけりゃいいがな。……インメルタアルもやはり馬の稽古をしていたのである。彼は銀行頭取の息子で、この町外れの都門のそばに住んでいた。曲がった脚と細く切れ上がった眼をして、もう学校鞄はなしで、彼は並木道を二人のほうへ来かかったのである。
「失敬、インメルタアル」とハンスは言った。「僕今ね、クレエゲルとちょっと散歩してるんだ……」
「僕は町へ行ってね」とインメルタアルが言った。「少し用達ようたしをしなけりゃならないんだ。だけどもうちっと君たちと一緒に歩こう。……そこにあるのはドロップスだろう。うん、ありがとう、少し貰うよ。あしたはまた稽古があるね、ハンス」――それは馬の稽古のことだった。
「嬉しいな」とハンスは言った。「僕今度、皮の脚絆きゃはんを貰うんだぜ、君。こないだの演習のとき一等を取ったからね……」
「君は馬の稽古なんかしてないんだろう、クレエゲル」とインメルタアルが問うた。彼の眼は二筋の光る裂目さけめにすぎなくなっている。
「してない……」と、トニオはひどくおぼつかない調子で答えた。
「君ほんとに」とハンス・ハンゼンが述べた。「お父さんに頼んで、君も稽古させてもらうようにしたらいいじゃないか、クレエゲル」
「うん……」とトニオはおちつかぬと同時に、冷淡な調子で言った。ハンスが苗字を呼んで話しかけたので、トニオは一瞬間のどが詰まるように思ったのである。するとハンスはそれを感じたらしく、説明するようにこう言った。
「僕が君をクレエゲルって呼ぶのはね、君の名前があんまり変てこだからなんだよ、君。失敬だけど、僕は好きじゃないね。トニオ……なんて、てんで名前になってやしないじゃないか。だけどもちろん君が悪いんじゃないさ、決してね」
「そうとも。その名前は外国式に聞こえて変わった名前だから、それできっと君についたんだろう……」とインメルタアルは言って、何だか弁護でもしようとしているような顔をした。
 トニオの口はひきつった。気を取りなおすと、彼は言った。
「うん、馬鹿げた名前さ。僕は確かにハインリヒとかウィルヘルムとか呼ばれるほうがいいな。まったくだよ。だけどこれはね、お母さんの兄弟で僕の名親になった人が、アントニオっていう名だもんで、それでこうついたのさ。僕のお母さんは、ずっと遠くから来ているんだからね……」
 それなり彼は黙って、二人に馬や革具の話をさせておいた。ハンスはインメルタアルと腕を組み合わせたなり、『ドン・カルロス』なんぞに対しては決して感じさせることができそうもない雄弁な興味をもって語っていた。……時々トニオは、泣きたい衝動がくすぐったく鼻に突っ掛けて来るのを覚えた。それにまた、たえずふるえ出す顎をも、やっとのことでおさえつけていた……
 ハンスは僕の名前が嫌いだ――といってどうすればいいのだろう。そういう彼はハンスという名だし、インメルタアルはエルウィンというのだ。そうだ。それはみんなに認められている名だ。誰も妙に思う者はない。ところが「トニオ」となると、外国式で変わった名なのだ。実際自分には、あらゆる点で、いやでもおうでも変わった所があるのだ。しかも自分は、決して緑の馬車に乗ったジプシイなんぞではなく、クレエゲル名誉領事の息子、クレエゲル一家の者なのに、いつも孤独で、尋常一般の境から閉め出されている。……だがハンスは、第三者が加わると、トニオというのをみっともながるくせに、なぜ二人きりでいる間は、自分のことをトニオと呼ぶのだろう。時折ハンスは自分に近くなり、自分のものになる。それは確かだ。どういう風にしてその人は王様に裏切りをするの、トニオ、とハンスは尋ねて、自分と腕を組み合わせたではないか。ところが、あれからインメルタアルが来ると、やっぱりほっとしたように息をついて、自分を離れてしまって、必要もないのに、自分の風変りな呼び名を悪く言ったのだ。こんなことを何もかも見破らずにいられないのは、何と苦しいことだろう。……要するにハンス・ハンゼンは、二人きりでいる時なら、少しはトニオが好きになる――それはトニオに分かっていた。しかし第三者が来ると、ハンスはそれを恥じて、トニオを犠牲に供してしまう。だから今トニオは、またひとりぼっちなのである。彼は国王フィリップのことを考えた。国王は泣かれた……
「こりゃ大変だ」とエルウィン・インメルタアルが言った。「もうほんとに町へ行かなくっちゃ。じゃ、さよなら。ドロップスをありがとう。」それなり彼は路傍にあったベンチの上に飛び乗ると、曲がった脚でその上を端まで走り切って、やがて駈け去ってしまった。
「インメルタアルは僕好きさ」とハンスは力を入れて言った。彼は自分の好悪の情を告げ知らせる――いわばきわめて鷹揚にわかち与えるという、気ままな尊大な癖を持っているのである。……それから今度は、もうあぶらが乗ってしまったので、馬の稽古の話をし続けた。もうハンゼン家の屋敷も、そんなに遠くはなかった。土手を越えて行けば、大して時間はかからないのである。二人は帽子をしっかりおさえたまま、強いしめっぽい風に頭を下げた。風は樹々の葉をふるった枝のなかで、きしんだりうめいたりしている。そしてハンス・ハンゼンはしゃべっていたが、トニオはほんの時たま、取ってつけたように、へへえとか、うんうんとか、合の手を入れるばかりで、ハンスが話に夢中になって、また彼と腕を組み合わせてくれたことにも喜びを感じなかった。それはただ意味のない、見かけだけの接近にすぎなかったからである。
 やがて二人は停車場の近くで土手を降りると、列車が一つ、不器用に急いで轟々ごうごうと通りすぎるのを見ながら、暇つぶしに車台の数を数えて、最後の箱のてっぺんに、毛皮にくるまって乗っている男に合図をした。それからリンデン広場に来て、豪商ハンゼンの屋敷の前で、二人は立ち留った。するとハンスは、庭戸の下のほうに乗って、蝶番ちょうつがいがぎいぎい言うほどゆすぶると非常に面白いといって、詳しくやって見せた。しかしそれがすむと、彼は別れを告げた。
「さあ、僕もう家へ入らなくちゃ」と彼は言った。「さよなら、トニオ。この次は僕が家まで送って行ってやるよ、きっとそうするよ」
「さよなら、ハンス」とトニオは言った。「散歩して面白かったね」
 握り合った二人の手は、庭戸のためにすっかりれてさびがついていた。が、ハンスがトニオの眼にじっと見入った時、後悔めかしい反省といったようなものが、彼の綺麗な顔に浮かんだ。
「そりゃそうと、僕もうじき『ドン・カルロス』を読むよ」と彼は早口に言った。「御居間にいる王様のことやなんか、きっとすてきだろうね」そう言って鞄を脇に抱えると、前庭を抜けて走って行った。家の中へ姿を消す前に、彼はもう一度うなずき返して見せた。
 するとトニオ・クレエゲルは、すっかり晴々として、翼でも生えたように立ち去った。風がうしろから彼を押し進めてはいるが、しかし彼がこんなに軽々と歩を運んでゆくのは、そのためばかりではなかったのである。
 ハンスは『ドン・カルロス』を読むだろう。そうなれば、自分たちは、インメルタアルだって、そのほかどんな奴だって口を出せないようなことを共有するわけだ。何とよく自分たちは理解し合っていることか。ひょっとしたら――自分はそのうち、ハンスにもやっぱり詩を作らせるようにしてしまうかもしれない。……いやいや、それはよそう。ハンスは自分のようにならせたくない。いつまでも今のようでいさせたい。皆が愛している通り、自分が中でも一番愛している通りの、明るい強い人間でいさせたい。とはいえ『ドン・カルロス』を読んだって、ハンスは別に損はしなかろう。……かくてトニオは、古い、がっしりした都門を抜けて、港に沿うて進んだ後、急勾配で風当りのひどい、じめじめした、破風屋根の多い小路を、両親の家へと昇って行った。この当時彼の心は生きていた。そこには憧憬があり、憂鬱な羨望せんぼうがあり、そしてごくわずかの軽侮と、それからあふれるばかりの貞潔な浄福とがあった。

 金髪のインゲ。インゲボルグ・ホルム。高く尖って入り組んで、ゴシック風の噴水が立っている、あの市場のそばに住むホルム博士の娘。トニオ・クレエゲルが十六歳になったとき恋したのは、この娘だった。
 それはどんな次第だったか。トニオはその娘をすでに何度となく見ていた。ところがあるよいのこと、彼は娘をある照明の下に見た。娘が一人の女友だちと話しているうちに、何だかはしゃいだ様子で笑いながら、首をぐっと横に曲げたところと、その手を――大して細くもなく大して上品でもない小娘風の手を、一種の所作で後頭へ持って行った拍子に、白い紗の袖口が、ひじから肩のほうへずり落ちるところとを見た。ある語に、何か些細な語に、一種の調子で力をこめると、その声の中に、何だか暖かい響きがあるのを聞いた。するとはげしい歓びが彼の心を襲った。それは昔、彼がまだ小さな愚かな少年だった頃、ハンス・ハンゼンを眺めて時々感じたのよりは、もっとずっと強い狂喜だった。
 この宵に彼は彼女の面影を抱いて帰った。豊かな明色ブロンド垂髪おさげと、笑を含んだ切れ長の碧い眼と、鼻の上に薄くかかっているそばかすとを持った面影である。彼女の声にこもっていた響きが耳について、彼は寝つくことができなかった。彼女があの些細な語を発音した調子を、そっとまねてみて、同時に身をふるわせた。経験は、これが恋だと彼に教えた。ところで恋というものは、彼に多くの苦痛と災厄と屈辱とを招くにきまっていること、そのうえ平和を乱して、心に様々な旋律を溢れさせるから、ある事をまとめ上げて、ゆっくりとその中から完全なものを作り出すだけの余裕がなくなってしまうことを、彼はよく知り抜いていたのだけれども、そのくせやはり大喜びで恋を迎え入れて、すっかりそれに身を委ねながら、心情の力を尽してそれをはぐくんで行った。なぜといえば、彼は恋が人を豊かに元気にすることを知っていたし、またゆっくりと完全なものを作り上げる代りに、豊かな元気な心持でいたいと切望したからである……
 これは――トニオ・クレエゲルが、快活なインゲ・ホルムに心を奪われてしまったのは、その宵に舞踏のおさらい会を催す番に当たった、フステエデ名誉領事夫人の、きれいに片付けられた客間での出来事だった。つまりそれは、一流の家の子弟だけを加えた個人講習で、みんな順繰りに父兄の家に集っては、舞踏と礼法の教授を受けるわけだったのである。ところが、そのために踊りの先生クナアクが、毎週毎週、親しくハンブルグから出向いて来た。
 フランソア・クナアクというのが彼の名だが、これが実に何という男だったろう。「J'ai l'honneur de me vous repr※(アキュートアクセント付きE小文字)senter(どうかお見知りおきを願います)」と彼は言うのだった。「Mon nom est Knaak(私はクナアクと申すもので)……そしてこれはね、お辞儀している間に言うのじゃなくって、また頭を上げた時に言うのだ――低い声で、しかしはっきりとね。誰でも毎日フランス語で自己紹介をしなけりゃならないわけじゃないが、しかしこの言葉で精確に正しくできるようなら、ドイツ語じゃいよいよ大丈夫だろうからね。」絹めいて黒いフロックコオトが、何と見事に、彼のふとった腰にぴったり合っていることか。ズボンは柔らかなひだを作って、幅広の繻子紐しゅすひもで飾られた、エナメル靴の上に垂れている。そして彼の茶色の眼は、それ自身の美しさをものうげに喜びながら、あちこちと見廻している……
 彼の度を超えたおちつきと礼儀正しさには、誰でも息詰まるような気がした。彼は家の主婦の所へ歩み寄って――何人なんぴとといえども、彼のごとくしなやかに、波打つように、うねるように、威風堂々と歩くことはできない――腰をかがめながら、手を差し伸べてくれるのを待つ。その手を握ると、小声で礼を述べた後、弾むようにあとへさがって、左足を基にして向きをえるなり、爪先を下に向けた右足を、横のほうへぴんと跳ね上げたと思うと、腰をふるわせながら歩み去るのである……
 誰でも集会の席から退く時には、あとずさりで何度もお辞儀をしながら、戸口を出てゆく。椅子を扱う時には、脚を一本つかんだり、または床にずらせたりしながら引っ張り寄せることはしないで、軽く背を持って上げながら引き寄せた上、音を立てずにそっと下へおろす。両手を腹の上に組み合わせたり、舌で口の端をなめたりしながら突っ立つことはしない。もしそれでもそんなことをする人があれば、クナアク先生は、いつも一種のやり口でそのまねをして見せる。するとその人は、それ以後一生を通じて、その姿態がいやでいやでたまらなくなってしまう……
 これが礼法だった。が、舞踏のほうになると、クナアク先生はおそらくさらに深く堂に入っていたらしい。きれいに片付いた客間には、大燈架のガスのほのおと、壁煖炉だんろの上の蝋燭ろうそくとが燃えている。床板には滑石かっせきがまいてあり、無言の半円をなして、弟子たちが立ち並んでいる。ところがとばりの奥の隣室には、母たちや叔母たちがあらビロオドの椅子にかけながら、クナアク先生が身を屈めて、フロックコオトのすそを指二本ずつでつまんだなり、よく弾む脚で、マズルカの一節一節を演じて見せているところを、柄のついた眼鏡越しに眺めている。ところで、観衆の度胆を抜いてやろうと思うと、クナアク先生は、突然なんの差し迫った理由もないのに、床からぴょんと跳ね上がって、両脚を目茶苦茶にはやく、渦のように空中でき合わせて――いわば両脚で顫音トリルを奏でてから、今度は鈍いながらも、すべてを根本からうちふるわせるような、どすんという音と共に、この地上へ帰って来る……
 何という不可解な猿だろう、とトニオ・クレエゲルは心の中で思った。しかし彼は、インゲ・ホルムが、あの快活なインゲが、よくわれを忘れて微笑しながら、クナアク先生の動きを眼で追っているのを見ることがあった。しかもそのこと以外にも、クナアク先生の自由自在な身のこなしが、結局嘆賞に似た思いを彼に起こさせた理由はあったのである。クナアク先生の眼は、何と平静にまごつかずに物を見ていることか。その眼は事物の中まで――事物が複雑に悲しくなり始めるところまでは突き入らない。ただそれ自身が茶色で美しいということだけしか、知らないのである。しかしそれだからこそ、彼の態度はあれほど昂然としているのだ。そうだ、彼のように闊歩し得るためには、誰でも愚鈍でなければならない。そうすれば人に愛される。愛嬌があるからだ。インゲが、金髪のかわいいインゲが、あんな風にクナアク先生を見る気持は、トニオには実によく分かっていた。しかしあんな工合に彼自身を見てくれる少女は、一人もいないのだろうか。
 なに、いるとも。マグダレエナ・フェルメエレンがそうだ。弁護士フェルメエレンの娘で、口もとがやさしく、大きい黒い、つやの好い眼は、真摯しんしと夢想に溢れている。踊りをしながらよくころぶのだが、相手をきめる時は彼の所へ来た。彼が詩を作るのを知っていて、それを見せてくれと、二度も頼んだことがある。また遠くのほうから首をうつむけたまま、彼を眺めていることがよくある。しかしそれが彼にとって何になろう。彼は、彼はインゲ・ホルムを恋しているのだ。詩なんぞ書くというので、彼を軽蔑しているに違いない、あの金髪の快活なインゲを。……彼はインゲを見つめる。幸福とあざけりに満ちた、切れ長の碧い眼を見つめる。すると妬ましい憧憬が――彼女と切り離されて永久に他人で終わるという、鋭い息詰まるような苦痛が、彼の胸を占めて燃え立つのである……
「第一の組 en avant(前へ)」とクナアク先生が言った。しかもその鼻にかかったおんの出し方がいかに玄妙であるかは、どんな文句を使っても、描写することはできないのである。それはカドリイルの練習だったが、トニオ・クレエゲルの烈しくおどろいたことには、彼はインゲ・ホルムと同じ角陣カレエの中にいたのである。できるだけ彼女を避けたが、それでも絶えず彼女のそばに来てしまった。眼が彼女に近づくのをわれと制しながらも、彼の視線はやはり絶えず彼女を射るのだった。……今彼女は、赤い髪のフェルディナント・マッティイセンに手を引かれながら、滑ったり走ったりして近づいて来ると、垂髪おさげをうしろへ投げるようにして、ほっと息をつきつき、彼と向き合いに立った。ピアノ弾きのハインツェルマン氏が、骨張った両手で鍵盤を打つ。クナアク先生が号令を下す。カドリイルは始まった。
 彼女は彼の眼の前に、左右前後へ、歩いたりひるがえったりして動いている。髪から出るのか、着ている着物の柔らかな白い布地から出るのか、ある香りが時おり彼をかすめる。と、彼の眼は次第次第にかすんできた。僕はお前を愛しているよ、なつかしいかわいいインゲ、と彼は心の中で言った。そして彼女がいかにも熱心に愉快そうに身を入れていて、自分のことを構ってくれないその悲痛を、この言葉の中へ残らずこめたのである。シュトルムのある美しい詩がふと彼の心に浮かんだ。
「われはねまし、されどは踊らでやまず。」恋をしながら踊らずにいられぬという、なさけない矛盾が彼をさいなんだ……
「第一の組 en avant」とクナアク先生が言った。新しい一節が始まったのである。「Compliment(お辞儀!)Moulinet des dames(御婦人の旋舞ムリネエを!)Tour de main(手をうまくこなして!)」――彼がいかに典雅な調子で de の黙音 e をのみ込んでしまうか、それは何人なんぴとの筆にも尽し難い。
「第二の組 en avant」トニオ・クレエゲルとその相手とが出る番だった。「Compliment」そこでトニオ・クレエゲルはお辞儀をした。「Moulinet des dames」するとトニオ・クレエゲルはうつむいて眉を曇らせたなり、片手を四人の婦人たちの手の上に、インゲ・ホルムの手の上に置いた。そして「旋舞ムリネエ」を踊った。
 一座には忍び笑いや高笑いが起こった。クナアク先生は、様式化せられた驚愕を表わす、あるバレエの姿勢を取った。「いやはや」と彼は叫んだ。「待った、待った。クレエゲルは御婦人の中へまぎれ込んじまったね。En arri※(グレーブアクセント付きE小文字)re(あとへ!)クレエゲルのお嬢さん、あとへ、fi donc(なんというこった!)みんなよく分かったのに、君だけがだめじゃないか。そら。どいた。あとへさがった」と言いながら、彼は黄絹のハンケチを引き出すと、それを振り振り、トニオ・クレエゲルをもとの場所へ追い返した。
 みんな笑った。男の子も女の子も、それからとばりの奥の婦人たちも。クナアク先生がこの事件をおどけ切ったものにしてしまったからである。だから人々は、芝居でも見ているように面白がった。ただハインツェルマン氏だけは、無味な事務的な顔附かおつきで、さらに弾き始める合図を待っていた。彼はクナアク先生の効果に対しては、もう無感覚になっているのである。
 それからまたカドリイルが続けられた。そのあとが休憩だった。小間使いが、ワイン・ジェリイのコップを満載した茶盆をかちゃつかせながら、戸口から入って来た。その跡を追うて料理番の女が、プラム・ケエクを一荷いっか抱えながら続いた。しかしトニオ・クレエゲルは、そっとその場をはずして廊下へ忍び出ると、両手をうしろに廻したまま、そこの鎧戸よろいどの下りた窓の前へ行って立った。その鎧戸越しには、何一つ見えはしないのだから、その前に立って外を眺めているような振りをするのは、滑稽だということに、彼は頓著しないのである。
 彼はしかし、悲しみとあこがれとに満ち満ちた、自分の胸の中を見つめていた。何故に、何故に自分はここにいるのか。なぜ自分の小部屋の窓際に腰かけて、シュトルムの『インメンゼエ』を読みながら、胡桃くるみの老木が大儀そうに音を立てる、夕ぐれの庭に時々眼をやっていないのか。そここそは自分のいるべき場所だったろうに。ほかの人たちは勝手に踊るがいい。元気に上手に精出すがいいのだ。……いやいや、自分の場所はやっぱりここだ。ここならインゲの近くにいるという自覚がある。たとえただひとり遠く離れて立ったまま、あの客間のさざめきや騒音や笑い声の中から、暖かい生命の響きのこもった、彼女の声を聞き分けようと努めているにすぎなくとも。お前の切れ長な、碧い、笑っている眼よ、金髪のインゲ。お前のように美しく朗らかであり得るのは、『インメンゼエ』なんぞ読まず、また決して自分でそんなものを書こうなんぞとしない人だけに限る。それが悲しいことなのだ……
 ほんとは彼女がここへ来なければならないところだ。自分がいなくなったのに気付いて、自分がどんな気持でいるかを感じて、たとえただあわれみの心からにもせよ、そっと自分のあとについて来て、自分の肩に手を掛けて、こう言わなければならないところだ。――私たちの所へ入っていらっしゃいな。機嫌よくなさいよ。わたしあなたが好きなのよ。――そして彼はうしろのけはいをうかがいながら、不合理な緊張のうちに、彼女が来ればいいのにと待っていた。しかし彼女は一向やって来なかった。そんなことは地上では起こらぬのである。
 彼女もまたみんなと同じく自分をあざ笑ったか。そうだ。あざ笑ったのだ。自分は彼女のため、自分自身のために、それを否定したくてたまらないのだけれども。それだのに、自分はわれを忘れて、彼女のそばでぼうっとしていたばかりに、彼女と一緒に moulinet des dames を踊ってしまったのだ。しかしそれが何だ。おそらくいつかはみんな笑うのをやめるだろう。つい近頃ある雑誌が、自分の書いた詩を採りはしなかったか。もっともその詩が出ないうちに、その雑誌はまたつぶれてしまったのだが、今に自分が有名になる日が来る。自分の書いたものは何でも印刷せられる日が来る。そうなったら、インゲ・ホルムが感心しないかどうか、見てやるとしよう。……いや、彼女は決して決して感心なんかしないだろう。さあ、そこなのだ。あのいつもよくころぶマグダレエナ・フェルメエレンなら、あの娘なら、そりゃ感心するにきまっている。しかしインゲ・ホルムは決してしまい。あの碧い眼の快活なインゲは、決してしまい。してみれば、それは空しいことではないのか……
 こう考えた時、トニオ・クレエゲルの心臓は、痛いほど締め付けられた。玄妙な、軽快で沈鬱な力が己のうちに動くのを感じながら、しかも同時に、己のあこがれ寄る人々が、のどかな没交渉でその力に対立していることを知るのは、それは実に心を痛ましめるものである。しかし彼は、さびしくのけ者になって、何の望みもなく、閉ざされた鎧戸の前に立ったまま、懊悩おうのうのあまり外が見えるような風をしてはいたものの、それでもやはり幸福だった。なぜならこの当時彼の心臓は生きていたからである。暖かく悲しく、それは、インゲボルグ・ホルムよ、お前のために鼓動していたのだ。そして彼の魂は、お前の金髪の、明るい、誇らかにも尋常な、小さい人格を、恍惚こうこつたる自己否定のうちに抱いていたのだ。
 一度ならず彼は、顔をほてらせたまま、音楽と花の香とさかずきの響きとが、ただかすかに伝わって来るような、淋しい場所にたたずんでは、この遥かなうたげの騒音の中から、お前の高らかな声を聞き分けようとしたことがある。お前ゆえの苦痛に浸りながら、たたずんだことがある。しかしそれでも彼は幸福だった。いつもよくころぶマグダレエナ・フェルメエレンとは話すことができて、彼女は彼を理解してくれるし、彼と共に笑いもすればまじめにもなるのに、金髪のインゲのほうは、いくら並んで坐っていても、彼の言葉は彼女の言葉ではないので、彼にとって遠く、うとく、いぶかしげに見えるのを、一度ならず彼はいらだたしく思ったことがある。しかしそれでも彼は幸福だった。なぜなら幸福とは――と彼は胸の中で言った――愛せられることではない。愛せられるというのは、嫌厭けんえんの念と入りまざった、虚栄心の満足である。幸福とは愛することであり、また愛する対象へ、時としてわずかに心もとなく近づいてゆく機会を捉えることである。そして彼はこの考えを心に書きしるして、それを末の末まで考え詰め、底の底まで感じ尽した。
 誠実! とトニオ・クレエゲルは考えた。僕は誠実でありたいと思う。そして命のある限り、インゲボルグよ、お前を愛そうと思う。――これほど彼は善意を持っていたのである。が、それでいて彼のうちには、幽かな恐れと悲しみとが、お前はハンス・ハンゼンに毎日うくせに、彼のことはもうまるっきり忘れてしまったではないか、とささやいていた。そうしてこの幽かな、しかも少し意地悪な声のいうところは、結局正しかった。つまり時が経つと、トニオ・クレエゲルは、もう以前ほど絶対的には、快活なインゲのために死んでもいいと思わないようになった。なぜなら彼は、独得の流儀で、この世に多くの際立ったことを仕遂げたい欲望と、仕遂げる力とを、心の中に感じたからである。――これがみにくい、なさけないことだった。
 そして彼は、おのが恋のきよい貞潔な焔が燃え上がっている犠牲壇のまわりを、つつましくめぐり歩いて、その焔の前にひざまずいては、あらゆる手を尽して、それをあおり立てまもり立てた。誠実でありたいと思ったからである。しかもしばらく経つとその焔は、知らぬ間にひっそりと音もなく消えてしまった。
 しかしトニオ・クレエゲルは、なお少しの間、その冷え切った祭壇の前に立ったなり、誠実というものが地上にあり得ないということに、心からの驚きと幻滅とを感じていた。が、やがて肩をそびやかして己の道を歩いて行った。

 彼は己の行かねばならぬ道を、ややなげやりな、むらな歩調で、ぼんやり口笛を吹き吹き、首を横に曲げたなり、遠くを望みながら歩いて行った。そして道に迷うこともあったが、それはある人々にとっては、もともと本道というものが存在しないからのことだった。一体何になるつもりかと尋ねる人があると、彼はいつもその度にちがった返答をした。なぜなら、彼は常にこう言っていたからである(そして実際すでにそう書きしるしていた)――自分は無数の生活様式に対する可能性と同時に、それが要するにことごとく不可能性だというひそかな自覚をもいだいている……
 彼が狭い故郷の町を離れるより先に、その町が彼をつなぎとめておいたところの、かすがいや糸は、もはやひそかに解けてしまっていた。クレエゲルの古い一門は、次第次第に脱落崩壊という状態に陥って行ったのである。そして人々がトニオ・クレエゲル自身の性行をも、同じくこの状態の徴候に数えたのは、もっともなことだった。一族の長であった彼の父方の祖母が死んで、それからまもなく彼の父が――背の高い、冥想的な、端正な身なりの、いつもボタンのあなに野花を挿していた紳士が、そのあとを追って亡くなった。クレエゲル家の大きな屋敷は、その立派な歴史もろとも、売物に出たし、商会は解散してしまった。ところがトニオの母は、ピアノとマンドリンの非常に上手な、そして何に対してもまったく冷淡な、あの美しい、情の激しい母は、一年たった後、再び結婚した。それも相手はある音楽家、イタリア風の名前の名手で、彼女はその人について、青霞む遥か彼方へ行ってしまった。トニオ・クレエゲルは、これは少しだらしがないと思った。しかし彼は母にそんなことをめる柄だろうか。彼は詩ばかり書いていて、一体何になる気かと問われても、返事さえできないのだ……
 かくて彼は、破風はふ屋根にしめっぽい風のうなっている、せせこましい故郷の町を見捨てた。少年時代の親友だった、噴水と胡桃の老木を見捨てた。それから大好きな海をも見捨てた。そのくせ何の苦痛も感じなかった。それは彼がもう大きく賢くなって、自分というものの正体を会得していたし、また今まで彼を取り囲んでいた、がさつな低級な存在に対する、冷嘲の心に溢れていたからである。
 彼が地上で最も崇高だと思った力、それに仕えるのを天職だと感じた力、彼に尊厳と栄誉とを約束した力、つまり、微笑しつつ無意識な無言の人生に君臨している、精神と言語との力に、彼はまったく身を委ねた。若々しい情熱をもって、彼はその力に身を委ねた。するとその力は、贈り得る限りのあらゆるもので、彼をねぎらうと同時に、その代償として、常に取り上げるもの一切を、容赦なく彼から取り上げたのである。
 その力は彼の眼光を鋭敏にして、人間の胸をふくれ上がらせている、様々な壮大な言葉を見破らせたし、彼に人間の魂と彼自身のとをひらいて見せたし、彼に透視力を与えて、世の内部と、言語行為の背後にある、あらゆる究極のものとを示した。ところが、彼の見たものはこれだった――滑稽と悲惨――滑稽と悲惨。
 するとその時、認識の苦悩と倨傲きょごうとを伴って、孤独がやって来た。彼は快活で朦朧もうろうたる心持の、のんきな連中にしているのが耐えられなかった上、また彼の額にある極印が、その連中には邪魔になったからである。しかし彼にとってはまた、言語と様式についての喜びも、しだいに快さを増して来た。なぜなら、彼はいつもこう言っていたからである(しかも彼はそれをすでに書き留めてもおいた)――もし表現の悦楽が、われわれをいつも生気溌剌はつらつとさせていないとすると、魂の認識だけでは、われわれは必ず間違いなく陰鬱になるであろう……
 彼はほうぼうの大都会や、また南国で暮した。南国の太陽によって、自分の芸術がより豊かに円熟することをひそかに期待したのである。それにまた彼をそこへきつけたものは、あるいは彼の母親の血だったかもしれない。しかし彼の心臓が死んでいて、愛を持たなかったために、彼は肉の冒険にはまり込んで、淫欲いんよくと焼きつくような罪過との底深く降りて行った。と同時に、言いようもなく悩んだのであった。もしかすると、彼の父――あの背の高い冥想的な小綺麗な身なりの、ボタンの孔に野花を挿していた人ののこして行った性質が、彼をその南国でこうまで悩ませたのかもしれない。そしてそれがまた、昔は彼のものであり、今はもうどんな歓楽の中にも見当らぬ、あの霊魂の歓びについての、ほのかな懐かしい追憶を、時折彼のうちによみがえらせたのかもしれない。
 官能に対する嫌厭と憎悪とが、そして純潔と端正な平和とに向かっての渇望が彼を襲った。同時に彼は芸術の空気を――ひそやかな生みの喜びのなかで、すべてがえ、かもされ、芽ばえてゆく不断の春の、生暖かい、甘い、芳香にみちた空気を呼吸していた。だから結局、彼はふらふらと、激しい極端から極端へ、氷のような精神偏重から、身をむしばむような官能灼熱へ、投げやられてはまた投げ返されながら、良心の呵責かしゃくのもとに、精根の尽きるような生活を、典型的な放恣ほうしな異常な、自分でも心の底ではいやでたまらない生活を送ることになるよりほかはなかった。何という彷徨だろう、と彼は時々思った。一体どうして自分は、こんな常軌を逸したいろんな冒険の中へ落ち込んでしまうことができたのかしら。自分は生まれつき決して、緑の馬車に乗ったジプシイなんぞではないじゃないか……
 しかし彼の健康が衰えてゆくのと同じ度合いで、彼の芸術家気質は鋭くなって行った。潔癖に、精妙に、貴重に、繊細に、卑俗なものに対して激し易く、調子と趣味との点で、極めて敏感になって行ったのである。彼が初めて世に出た時、関係方面の人々の間には、盛んに喝采と歓喜の声があがった。彼の提供したものは、諧謔かいぎゃくと苦悩の知識とにみちた、すぐれた出来栄えのものだったからである。そして早くも彼の名は、昔彼の先生たちが彼を叱る時に呼んだのと同じ名、彼が初めて胡桃と噴水と海とに寄せた頃の詩に署名したのと同じ名、南と北との複合したこの響き、やや外国風な息のかかった平民の名は、優秀なものを名付ける公式となった。なぜといえば、彼の経験の切ない徹底性に、ある稀有けうの堅忍不抜な、野心勃々ぼつぼつたる勤勉が加わって、その勤勉が彼の趣味の潔癖な感じ易さと闘いながら、烈しい懊悩のうちに、異常な作品を生み出したからである。
 彼は生きんがために働く人のようには働かなかった。生きている人間としての自己には何らの価値を置かないで、ただ創作者としてのみ顧慮せられることを願うゆえに、仕事をする以外には何も欲せず、そしてそのほかの点では、演ずべき役のない限り、無価値な、素顔に返った俳優のごとく、灰色にひっそりと歩き廻っている人――そういう人のように彼は働いた。黙って孤立して、姿を見せずに働いたのである――才能を社会的装飾と心得る連中、貧しいにせよ富んでいるにせよ、勝手に漫然と横行したり、独得のネクタイにぜいを尽したりする連中、何よりもまず幸福に、愛想よく芸術的に生きることを心がける連中、良き作物は、ただ苦しい生活の圧迫のもとにのみ生まれるということも、生きている人が働いている人ではないということも、人は創作者になりきるためには、死んでしまっていなければならないということも、まるで知らずにいる連中――そうした小人輩を心から軽蔑しながら。

「お邪魔ですか」とトニオ・クレエゲルは、画室のしきいに立って問うた。帽子を手に持ったなり、小腰を屈めさえしたのである――リザベタ・イワノヴナは彼が何でも話す女友だちなのに。
「後生だからよして頂戴、トニオ・クレエゲルさん。儀式ばらないで、ずんずん入っていらっしゃいよ」と彼女は、それが癖の、跳ねるような抑揚をつけて言った。「あなたがよくしつけられた方で、礼法は何でも心得ていらっしゃるくらい、誰でも知っていますわ。」同時に画筆を、左の手にあるパレットに持ち添えて、右手を彼のほうに差し出しながら、笑って頭を振り振り、まともに彼の顔を見守った。
「ええ、しかしお仕事中じゃありませんか」と彼は言った。「見せてごらんなさい……ほう、進みましたね。」そして彼は、画架の両側の椅子の上に立てかけてある、彩色したスケッチと、それから大きな、一面に細かい格子形の網でおおわれた画布とを、かわるがわる眺めた。画布には、雑然模糊もことした下絵に、最初の色がところどころ塗り始めてあった。
 そこはミュンヘンだった。シェリング街のある裏家の、何階も昇った所だった。北向きの窓の外には、青空と鳥のさえずりと日光とが領していた。そしてその窓の開かれた戸から流れ込む、春の若い甘い息は、この広い工房にみちわたる色留薬や油絵の具の匂いとまざり合った。明るい午後の金色の光は、広々として殺風景な画室中に、思うさま溢れ流れて、少しいたんだ床板と、小壜こびんやチュウブや画筆なぞを載せた、窓下の荒削りなテエブルと、壁紙なしの壁にかかった、額縁のない習作とを、遠慮なく照らしていた。また入口に近く、凝った家具を置いた、小さな居間兼休憩所との仕切りになっている、裂目だらけな絹の衝立ついたてを照らし、画架にかかった出来かけの作品を照らし、その前にいる閨秀けいしゅう画家と詩人とを照らしていた。
 彼女はほぼ彼と同年くらい――つまり三十をちょっと越したくらいであろう。紺色の、しみだらけな前掛服で、低い床几しょうぎに腰かけたなり、片手で顎を支えている。引っ詰めたい方の、わきがもう灰色になりかけた栗色の髪は、まん中から軽く波打ちながちこめかみを蔽って、浅黒いスラヴ型の、限りなく感じのいい顔を縁取っている。顔には丸い鼻と、鋭く突き出た顴骨と、小さい黒い光る眼とがある。緊張して、疑い深く、まるで怒っているような様子で、彼女は眼をしかめながら、流し目に自分の労作を点検している……
 彼は彼女のそばに、右手を腰にあてがって立ったなり、左手でせわしなく茶色の口髭くちひげをひねっている。斜めの眉が陰気に懸命に動いていると同時に、彼は微かに無意識に口笛を吹いている――例の通りである。極めて端正堅実な身なりで、着ているのは、落ち着いた灰色の、地味な仕立ての服である。しかし黒い髪がごく簡単にしかも整然と分けてあるその下の、悩みを経た額には、神経的なひらめきがあったし、また南国型の顔の相はすでに鋭く、いわば堅いのみでなぞられ、えぐられたようになっていた。ただし口の輪廓はやはりいかにも優しく、顎の形はいかにも柔らかだった。……ややあって、彼は片手で額と眼をひとなですると、顔をそむけた。
「僕は来るんじゃなかった」と彼は言った。
「なぜいらっしゃるんじゃなかったの、トニオ・クレエゲルさん」
「たった今僕は仕事をやめて来たところなのですがね、リザベタさん、僕の頭の中は、この画布とちょうど同じ有様なのです。まあ足場のような、さんざん筆を入れた、漠然たる見取図のようなもので、それに所々色が塗ってあるというわけですよ、まったく。ところが今ここへ来て見ると、それと同じ物を見つけた。それにまた家で僕を苦しめていた葛藤と対立にも」と言って彼はせわしく鼻で息をした。「ここでまたぶつかりました。不思議ですよ。ある考えに支配されると、どこへ行ってもその考えが表わされているのにう。風の中にまでその匂いが入っている。色留薬と春の香り、ですね。芸術と――さあ何だろうな、もう一つは。『自然』だなんて言ってはいけませんよ、リザベタさん。『自然』じゃ言い足りませんからね。ああ、こんなことなら、散歩に行ったほうがよかったかもしれない。もっともそのほうが今よりも愉快になれたかどうだか、それは疑問ですがね。今から五分間前、ついこの近所で、僕は同業の一人――小説家のアダルベルトに出くわしました。『神よ、春を呪え』とその男は持ち前の侵略的な文体で言うのです。『春というやつは、どうしたって一番やりきれない季節だ。君は辻褄つじつまの合ったことが考えられるか、クレエゲル君、落ち着いて、ちょっとでも山や効果を作り出すことができるかね――血がいかがわしくむずむずして、いろんな度外れな感興が、気をわくわくさせる時にさ。しかもその感興をよく調べて見れば、すぐに化けの皮がはがれて、断然くだらない、まったく役に立たないものになってしまうんだ。ところで僕はどうするかといえば、これからカフェエへ行く。カフェエという所は、季節の移り変りにわずらわされない中立地帯だからね。まあ言ってみれば、カフェエは文学者の超越的な崇高な領域だ。その域内じゃ、普通より高尚な着想だけしか浮かんで来ないわけだ……』そう言ってその男はカフェエに行ってしまいましたがね、あるいは僕も一緒に行くべきだったかもしれない」
 リザベタはおもしろがった。
「まあ、面白いのね、トニオ・クレエゲルさん。『いかがわしくむずむずする』とか何とかいうのは面白いわ。それにその方の言うことは、いくらかもっともじゃありませんか。何しろ春は、ほんとに仕事が大してできない時ですものね。でもまあ、よく聞いていらっしゃい。わたしこれからね、やっぱりこのちょっとしたところを仕上げてしまいますわ。このちょっとした山と効果って、アダルベルトさんなら言うところでしょうね。それが済んだら、御一緒に『お客間』へ行ってお茶を飲みましょう。そしてあなたは言いたいだけのことを言っておしまいになるのよ。だってあなたは今日、胸がつかえていらっしゃるのが、わたしちゃんと分かっていますの。それまではまあどこかに、そうねえ、なんならその箱の上にでも配合されていて下さいな。もしその貴族的な御衣裳が気にならないなら……」
「まあまあ、僕の衣裳なんぞどうだっていいじゃありませんか、リザベタ・イワノヴナさん。あなたは僕にぼろぼろのビロオドの上着か、赤い絹のチョッキか何かで、歩き廻ってもらいたいんですか。誰でも芸術家として、内面的にはいつだって充分いかさま師ですからね。外面的には、ほんとにどうしても上等ななりをして、尋常な人間らしく振舞わなくちゃいけないのですよ……なあに、僕は胸がつかえているわけじゃない」と彼は言いながら、彼女がパレットで色をまぜるのを眺めていた。「さっきも言ったでしょう。僕の頭にあって僕の仕事をさまたげるものは、問題と対立なのです。……ところで今何の話をしていたかな。小説家アダルベルトのことでしたね。あの男が実に威張ったしっかりした男だということでしたね。『春は一番やりきれない季節だ』と言ってあの男はカフェエに行った。人は自分の欲することをわきまえていなければならないはずですからね。よござんすか、僕も春になるといらいらします。僕も春の呼び起こす追憶や感覚の、愛すべき平凡さにはまごつかされる。ただ違うのはですね、僕にはそれだからといって、春をののしったりさげすんだりする勇気は出せないのです。というのは、実をいえば、僕は春に対して恥じている。春の純な自然性と、すべてを負かす若さとに対して恥じているのです。だから僕は、アダルベルトがそんなことをまるで知らないのを、うらやんでいいかあなどっていいか分からない……
 春は仕事がしにくい。その通りです。が、なぜでしょう。われわれが感ずるからです。そして創作する者は感じても差支えないと思うような人は、へっぽこだからです。真正の率直な芸術家なら、誰でもこのへぼ作者の迷妄の幼稚なのを微笑します――憂鬱な微笑かもしれないが、ともかく微笑します。なぜといって、およそ人が口で言うことは、もちろん決して第一義であってはならない。第一義はまさに、それ自体としては無価値ながら、それを組み合わせて、美的形象が余裕綽々しゃくしゃくたる優越をもって作り出される素材にあるはずですからね。もしあなたが、口で言うべきことをあまりに大事がったり、それに対して心臓があまり暖かく鼓動しすぎたりすれば、あなたは完全な失敗を招くものと思って間違いはありません。あなたは悲壮になる。感傷的になる。あなたの手からは、鈍重な、たどたどしくまじめな、まとめきれない、むき出しな、匂いも味もない、退屈な、陳腐なものが出来上がります。そして結局、世間は冷淡だけを、あなた自身は幻滅と悲痛だけを感じるというのが落ちですね。……つまりこういうわけですよ、リザベタさん。――感情というものは、暖かな誠実な感情は、いつも陳腐で役に立たないもので、芸術的なのはただ、われわれの損なわれた、われわれの技術的な神経組織が感じる焦躁しょうそうと、冷たい忘我だけなのです。われわれは超人間的でまた非人間的なところがなければ、人間的なことに対して妙に遠い没交渉な関係に立っていなければ、その人間的なことを演じたりもてあそんだり、効果をもって趣味をもって表現したりすることはできもしないし、またてんからそんなことをしてみる気にさえもならないわけです。文体や形式や表現なんぞの天分というものがすでに、人間的なことに対するこの冷やかな贅沢な関係を、いや、ある人間的な貧しさと寂寥せきりょうとを前提としています。何しろ健全な強壮な感情というものは、何といっても無趣味なものですからね。芸術家は人間になったら、そして感じ始めたら、たちまちもうおしまいだ。それをアダルベルトは知っていた。だからカフェエに行ったのです。あの『超越的領域』へね。そうですとも」
「じゃ、神ともにいませ、バトゥウシュカ、でしょう」とリザベタは言いながら、金盥かなだらいで手を洗った。「あなたは何も、その方についてゆくには及ばないじゃありませんか」
「ええ、リザベタさん、僕はあの男については行きません。しかもそれはただひとえに、僕が時々春に対して、僕の芸術生活を少しは恥じることができるからなのですよ。ねえ、僕は折々未知の人たちから手紙を貰います。僕の読者からの称讃状、感謝状ですね。感動した人たちの、嘆賞に溢れた書面ですね。僕はそういう書面を読む。すると僕の芸術のひき起した、この暖かいつたない人間的な感情に面して、僕はひそかに心を動かされる。行間に溢れている感激した天真に対して、一種の同情に襲われる。そうしてこう考えると――もしこの正直な人間が、ひと目でも楽屋裏を覗いたら、その人の無垢な心が、実直な健全な尋常な人間は、決して書いたり演じたり作曲したりしないものだということを了解したら、その人はどんなに興ざめてしまうに違いなかろうと考えると、僕は顔が赤くなるのです。……しかしそれはまたそれとして、一方じゃ僕は平気で、僕の天才に対するその人の嘆賞を利用して、気持をたかめたり刺戟しげきしたりする道具に使うし、またそれを大いに真に受けながら、まるでえらい人間をまねる猿のような顔もするのです……いけません、口を出しちゃ、リザベタさん。ほんとに僕は、人間的なことに参与しないで、人間的なことを表現するのが、往々死ぬほどいやになるのですよ。……芸術家というものは、そもそも男でしょうか。それは『女』にきくがいい。僕はどうもわれわれ芸術家は、みんなあの法王庁のわざと仕立てた歌い手と、いささか運命を同じゅうしているような気がする……われわれは実にいじらしいほどいい声で歌うからな。でも――」
「少しは恥を知るものよ、トニオ・クレエゲルさん。さあ、お茶にいらっしゃい。お湯もじき沸きますし、それから煙草紙パピロスもここにあります。ソプラノ歌いの所でお話が切れたんでしたね。さあ、どうか御遠慮なくその続きを。でも恥は知らなければね。あなたがどんなに誇らしい情熱で、天職に身を任せていらっしゃるか、それをわたしが知っているからいいようなものの……」
「どうか『天職』はぜひよして下さい、リザベタ・イワノヴナさん。文学は決して天職でも何でもない。それは呪いなのですよ――いいですか。いつ頃それが感じられ始めるでしょう、この呪いが。早くから、怖ろしく早くからです。まだ当然安穏に、神とも世とも和らぎながら暮すべきはずの時代からです。あなたは極印を打たれたような、ほかの尋常一般の人たちと妙に対立しているような感じがし始める。皮肉と不信仰と反抗と認識と感情との深淵が、あなたを人間たちから切り離してだんだん深く口を開く。あなたは孤独だ。そしてその時以後は、もう何ら疎通の道はないのです。何という運命でしょう。もしも心臓が、それを怖ろしいと感じ得るだけの、いのちと愛とを保っていたとしたら、どんなでしょう。……あなたの自意識はただれてしまう。それはあなたが何千人の中にいても、額の極印を感じるし、その極印が誰の眼をも逃れないと自覚するからです。僕はある天才的な役者を知っていましたがね、それは人間としては、病的なはにかみとあやふやとに苦しめられている男でした。過敏になった自意識と役の不足、俳優的使命の不足とが相俟あいまって、この完全な芸術家であり貧しい人間である男に、そんな思いをさせるに至ったわけですね。……芸術家を、本当の芸術家を、芸術を渡世とする人でなく、宿命的な呪われた芸術家を、あなたはちょっとした炯眼けいがんでもって、大勢の中からでも見抜くことができる。分離と除外の感じ、見知られて観察されているという感じ、威儀があると同時にの悪そうな趣きが、その顔に現われているのです。平服で群衆の中を闊歩してゆく太公か何かの顔色に、まあそんなようなところが見られるでしょうね。でもこの場合、平服なんぞ何の役にも立たないのですよ、リザベタさん。変装をしたって仮面をかぶったって、賜暇しか中のアタッシェか、近衛このえの少尉か何かのようななりをしたって、だめなのです。あなたが眼をあげるかあげないうちに、ひとこと口を利くか利かないうちに、もう誰にでも、あなたは人間じゃなくって、何か見知らぬ奇妙な異なったものだということが、分かってしまうでしょうからね……
 しかし芸術家とは何ぞや。どんな問題に対しても、人類の安逸を好む心、認識をなおざりにする心は、この問題に対するほど、その根強さを示したことはありません。『そうしたことは天稟てんぴんだ』と、ある芸術家の感化のもとにいる善人たちはそう言う。そして快活な崇高な作用というものは、その人たちの温良な意見に依れば、絶対にまた快活な崇高な源を持っているに違いないのですからね、この『天稟』なるものが、極めて悪い条件の、極めて怪しげなものかもしれないという疑いをさしはさむ者は、誰一人ありはしません。……芸術家が怒りっぽいのは、誰でも知っていますね――ところでまた、清い良心と手堅い基礎のある自信とを持った人たちには、普通そんなことがないのも、みんな知っています。……ねえ、リザベタさん、僕は魂の底に――精神化してですが――芸術家という型に対する嫌疑をいだいているのですよ。あの向こうの狭い町にいた、僕の尊厳な先祖たちはみんな、もし自分の家に何か香具師やしのような、うろんな軽業師のような奴でも入って来たら、きっとそいつを怪しいと思ったでしょうが、それと寸分ちがわない嫌疑を僕はいだいているのですよ。こんな話があります。僕はある銀行家をっています。もう古手の事務家ですがね、これが小説を書くという天稟を持っているのです。暇な折々にこの天稟を用立てますが、書く物には往々随分すぐれたものがあります。この英邁えいまいな資性にもかかわらずですね――僕は『かかわらず』と言うのですよ――この男は完全に無瑕瑾むきずというわけじゃない。それどころか、すでに重禁錮に処せられたことがある――しかも有力な理由によって。つまり実をいえば、この男は監獄の中でやっとその才能を自覚したわけで、囚人としての経験がその全作品の基調をなしているのですね。このことから多少大胆に推断すれば、詩人になるためには、ある種の監獄の事情に通じている必要がある、とも言えるでしょう。しかしこういう嫌疑が湧き上がって来はしませんか――その男の獄内の体験よりは、入獄するに至った事情のほうが、さらに密接に、その男の芸術生活の根源と癒着ゆちゃくしているのかもしれないという嫌疑が。小説を作る銀行家、それは珍現象でしょうね。しかし前科のない、無瑕瑾な、手堅い銀行家でいながら小説を作る人――そんな人はあったためしがないのです。……なるほど、そう言うとあなたはお笑いになるが、しかし僕はこれで半分は本気なのですよ。どんな問題だって、この世の中のどんな問題だって、この芸術生活とその人間的作用という問題よりも悩ましいものは、決してありません。まあ、あの最も典型的な、したがって最も力強い芸術家の、最も奇蹟的な作物を、例に取ってごらんなさい。たとえば『トリスタンとイゾルデ』のように、病的でまた非常に曖昧あいまいな作品を、例に取ってごらんなさい。そうしてその作品が、一人の若くて健全でごく普通の感覚を持った人間に、どんな作用を及ぼすか、それを観察してごらんなさい。すると、その人間が高められ力づけられて、心から真正直に感激した上、なお刺戟されて、ことによると、自分も『芸術的』な創作をしたくなるのが見られます。……ディレッタントは甘いものじゃありませんか。われわれ芸術家の内心は、そんな人が『暖かい心』や『真正直な熱狂』なんぞでもって、勝手に夢想しているのとは、まるっきりちがった有様なのですからね。僕は芸術家が女たちや青年たちに取りまかれて、喝采を浴びせられているのを見たことがある――しかも自分はその芸術家の心持をよく知っていながらね。……実際、芸術生活の由緒とか、随伴現象とか、条件とかいうことにかけては、何度となく奇妙きわまる経験をするものですよ……」
「それは他人についての経験でしょう、トニオ・クレエゲルさん――失礼ですけど――それとも他人についてばかりじゃないんですか」
 彼は黙った。例の斜めの眉をしかめたまま、無意識に口笛を吹いている。
「どうかそのお茶碗を、トニオさん。このお茶は濃くないのよ。それから、もう一本煙草たばこはいかが。それにしても、あなたよく御存知なのでしょう、御自分が物事を、別にぜひそう見る必要はないような見方で、見ていらっしゃるのを……」
「ホレエショオの返答はこうですね、リザベタさん。『物事をかく眺めるというは、取りもなおさず、物事を詳しく眺めるいいであろう。』そうでしょう」
「わたしの言うのは、物事はもう一つの側からでも、同じように詳しく眺めることができるということですよ、トニオ・クレエゲルさん。わたしはほんの馬鹿な画描えかきの女なのですからね、今あなたにともかく何かお答えできるとしても、またあなた御自身の天職を、あなたの攻撃から防いであげられるとしても、わたしの持ち出すことは、決して何も新しいことじゃなくて、ただあなたがよく御承知のことを、思い出させてあげるだけなの。……つまり、例えば文学の浄化する力、神聖にする力とか、認識と言葉とで情熱を破壊することとか、理解とゆるしと愛とへゆく道としての文学とか、言語の救済力とか、人間精神一般の中の、一番気高い現われとしての文学的精神とか、完全人として、聖者としての文学者とかいうことですわ。――こういう風に物事を眺めるというのは、取りもなおさず、物事を充分詳しく眺めることになりはしませんの」
「あなたにはそうおっしゃるだけの権利がある、リザベタ・イワノヴナさん。ことにあなたの国の詩人たちの仕事を、あの崇拝すべきロシア文学を頭に置いて言うとね。ロシア文学こそは、あなたの言われた神聖な文学を、本当に表わしているのですから。でも僕は、あなたの抗議を勘定に入れなかったわけじゃありません。それはやっぱり、今日僕の心にわだかまっているものの一部分なのです。……僕の顔を見てごらんなさい。極端に元気そうには見えますまい。少しけて、顔つきが尖って、だるそうでしょう。さあ、そこで『認識』へ後戻りして言うとですね、まあこういう人間が考えられるでしょう。生まれつき信仰が深くて、おとなしくて、善意に富んで、少し感傷的なのが、心理的な透視力のために、一も二もなく精根を疲らされて、滅ぼされてしまおうという人間ですね。浮世の悲しみに打ち負かされてはいけない。どんなに悩ましいことでも観察しろ、覚えておけ、書き込んでおけ。そのうえ存在といういまわしい発明に対する道徳的優越を、胸一杯に意識するだけでも、すでに上機嫌にしていなければならない――そりゃもちろんそうでしょう。それでも時には、表現の楽しみがあっても、多少やりきれなくなりますよ。すべてを理解するのは、すなわちすべてを赦すことになるというのですか。僕にはやっぱり分からない。世の中には、僕が認識のむかつきと名づけているある物があります、リザベタさん。それはね、人間が一つの事柄を見抜きさえすれば、たちまちもう死ぬほど胸が悪くなる(しかも決して宥恕ゆうじょなんぞできる気持じゃない)という状態です――例えば、あのデンマアク人ハムレット、あの典型的な文学者の場合ですね。知るために生みつけられていないのに、知るという使命を授かること、それがどんなことだか、ハムレットは知っていました。感情という涙のベエルを貫いてまでも、透視し認識し記憶し観察して、しかもその観察したものを、手と手がもつれ合い、唇と唇とが触れ合う瞬間、人間の眼が感覚にくらまされて見えなくなる瞬間に及んで、微笑しながら片寄せてしまわなければならない――これは不届きなことです、リザベタさん、けしからんことです、憤慨すべきことです……しかし憤慨したところで、何の役に立つでしょう。
 それからこの事柄のもう一つの、しかも同様にありがたくない側はといえば、それはもちろん、一切の真理に対する無感激と無関心と皮肉な倦怠けんたいとなのです。ともかく、もう老獪ろうかいになっている才子才人の社会ほど、黙々とした、あじきない所は、この世のどこにもないというのは事実ですからね。あらゆる認識は古くて退屈です。ある真理を――その克服と所有とにあなたがおそらく若々しい喜びを感じている真理を、口に出して言ってごらんなさい。そうすれば、あなたの陳腐な悟りは、鼻から出るごく短い息で答えられてしまうのです。……ああ、ほんとに文学は人を疲らせますよ、リザベタさん。人間社会では、請け合っていいますが、あんまり懐疑的で意見を吐かずにいると、ほんとはただ高慢で臆病なのに、馬鹿だと思われることがよくあるものですがね。『認識』について言うことはこれだけです。今度は『言葉』ですが、この場合はおそらく解脱ということよりも、感情を冷やすこと、氷の上に載せることが、眼目じゃないでしょうかね。冗談はおいて、この文学的言語で、手っ取り早く浅薄に感情を片付けてしまうという奴は、氷のような、またしゃくにさわるほど僭越せんえつなわけのものですね。もしあなたの心があまりいっぱいになりすぎたら、ある甘い、または崇高な体験のために、あまり感動しすぎたらどうしますか。これほど造作のないことはありません。文学者の所へ行くのですよ。そうすれば、すべてはごく短い時間で整えられてしまいます。文学者はあなたの案件を、解剖し公式化し名を指し言い現わし、語らしめてくれるでしょう。そのこと全体を、永久に片付けて無興味にしてしまって、しかも決して御礼なんぞは受け取らないでしょう。ところが、あなたのほうは、軽くなった、熱のさめた、澄み渡った気持で家に帰る。そしてその事件のどこが一体、今の今まで、心を甘いときめきでみだしていたのかと、ふしぎに思うでしょう。しかもこの冷酷で見栄坊の山師を、あなたは本気で保証しようというのですか。何でも一度口に出して言えば、もう片付いてしまう、というのがこの山師の信条です。もし全世界が言われてしまえば、全世界が片付いて、救われて、終わってしまうわけです。……実に結構ですね。といっても、僕は決して虚無主義者でも何でもないが……」
「あなたは決して――」とリザベタが言った。……ちょうど茶の入った小匙こさじを口のはたに持って行ったところだったが、そのままの形でこわばってしまった。
「まあまあ、しっかりして下さい、リザベタさん。僕はそんなものじゃないと言っているのですよ、生きた感情の上ではね。いったい文学者というものには、言葉に出されて『片付けられて』しまってからあとでも、人生はやっぱりまだそのまま生き続けて行くかもしれないし、それを恥とも何とも思わないということが、要するに解らないのですよ。ところがどうです。人生は文学のおかげで解脱させてもらったにかかわらず、平気でどしどし罪を犯して行くじゃありませんか。罪と言ったのは、精神の眼から見れば、あらゆる行為は、ことごとく罪に見えるからです……
 僕はこれで目標に達したわけです、リザベタさん。よく聞いて下さい。僕は人生を愛しています――これは一つの告白です。どうか受け取って、しまっておいて下さい――まだ誰にもしたことのない告白なのですから。世間は僕が人生を憎んでいるとか、怖れているとか、軽蔑しているとか、嫌いぬいているとか言いました。いや、そう書いて活字にまでしました。僕はそれを喜んで聞いた。びられる気がしたのですね。だからといって、しかしそれが嘘だということは、ちっとも変わりはしない。僕は人生を愛しているのです。……にやにや笑っていますね、リザベタさん。何を笑っているか、僕は知っていますよ。しかしどうかお願いですから、今僕の言っていることを、決して文学だと思わないで下さい。どうかチェザレ・ボルジアだとか、この男をかつぎ上げている、何か酔っ払った哲学のことなんぞ考えないで下さい。この男なんか、このチェザレ・ボルジアなんか、僕にとっては何でもないのです。僕は毛頭この男を尊敬してはいないし、またなぜみんなが特異な悪魔的なものを、理想としてあがめるのだか、決して永久に解りっこないでしょう。いや実際、精神と芸術とに、永遠の対立として向かい合っている『人生』は、決して血腥ちなまぐさい偉大さとか、荒々しい美とかいう幻影として――つまり異常なものとして、われわれ異常な者たちの眼に映じているのではありませんよ。ただ尋常な端正な快適なものこそは、われわれの憧憬の国土であり、誘惑的に平凡な姿をした人生なのです。最後の最も深い心酔が、洗練された奇矯な悪魔的なものである人、無邪気な単純な溌剌はつらつとしたものへの憧憬や、いささかの友情、献身、親睦しんぼく、人間的幸福への憧憬や――つまり凡庸性の法悦へ向かっての、ひそかな烈しい憧憬ですね――そういう憧憬を知らない人は、まだなかなか芸術家とは言われないのですよ、リザベタさん……
 人間的な友だち。もし人間の中に一人でも友だちがあったら、僕は得意な幸福な気持になるでしょう、と言っても信じて下さるかしら。それだのに今まで僕は、悪魔や妖精や地の底の怪物や、認識で唖になった幽霊どもの中に――というのは文学者たちの中にしか、友だちを持ったことがないのです。
 時々僕はふと、どこかの演壇に上がって、僕の話を聴きに来た人たちと、広間の中で向かい合うことがあります。そうするとですね、僕はよく自分が聴衆を偵察しているのに気がつきます。自分の所に来てくれたのは誰だろう、どんな人たちの喝采と感謝とが、自分の所まで押し寄せて来るのだろう、自分の芸術は今、自分をどんな人たちと、理想的に融合させてくれるのだろう、と胸に問いながら、聴衆席をひそかにあちこち窺っている自分を、自分でふいと捕まえるのですね。……リザベタさん、僕の探しているものは見当りません。見当るものは、僕におなじみの群です。集団です。それは、いわば、初期のキリスト教徒の集まりのようなものです。――不器用なからだと微妙な魂を持った人たち、まあ言ってみれば、いつもころびがちな人たち――そう言えば分かるでしょう――詩を人生への穏やかな復讐とする人たちなのです。つまりいつもきまって、悩んでいる人、あこがれている人、哀れな人ばかりで、もう一方の、碧い眼をした、精神を必要としない人たちは、決して一人も来てくれないのですよ、リザベタさん……
 しかしもし来てくれたとして、それを喜ぶというのは、要するに論理観念のなさけない欠乏じゃないでしょうか。人生を愛していながら、しかもあらゆる手だてを尽して人生を自分のがわに引き入れようとする――繊細とか憂鬱とかいうもの、つまり文学の病的な貴族性全体の味方につけようとするのは、不合理です。地上では芸術の国土が拡がって、健全と無垢の国土がせばまって行きます。だから本当は、その中でまだ残っているものを、できるだけ大切に保存しておくべきはずで、早取写真のついた馬の本を読むほうが、ずっと好きだというような人たちを、詩のほうへ誘惑しようなんぞと思ってはいけないのです。
 なぜといって結局――芸術で腕を試そうとする人生の姿ほど、あわれむべき姿があるでしょうか。ディレッタントであり、溌剌たる人間であって、しかもその上、折に触れてちょいちょい芸術家になれる、なんと思っている人たちほど、われわれ芸術家が根本的に軽蔑する者はありません。本当のことですがね、こうした軽蔑は、僕の最も個人的な体験の一つになっているのですよ。僕はある上流の家の集まりにいました。食う。飲む。しゃべる。和気藹々わきあいあいとしている。で、僕はこの無邪気な正則な人たちの中に、しばらくのあいだ同類として隠れていられるのを、嬉しくありがたく思っていたのですね。突然(こんな目に僕は逢ったのですよ)一人の将校が立ち上がった。少尉です。綺麗なきびきびした人間です。僕はこの男が、その名誉ある服装に値せぬような振舞いをしようなんとは、夢にも思っていなかったのです。立ち上がると、明晰めいせきな言葉で、自分で作った詩を、少しばかり皆に披露するのを許してくれと言いました。皆が呆れたように微笑しながら、その許しを与える。そこで少尉は、その計画を実行した――つまり、それまで上着の裾に隠しておいた紙片から、自分の作品を読み上げたのです。何か音楽と恋とに寄せたものでしたがね、要するに実感も溢れてはいるが、同時に何の効果もないものでした。一体どうしたことでしょう。――少尉ですよ。世間の強者ですよ。そんなことをする必要はまったくないだろうじゃありませんか。……さあ、そこで当然起こるべき結果が起こりました――一座のが悪そうな顔と沈黙と、わずかな、わざとらしい喝采と、深い深い気まずさとなのです。僕が意識した第一の心的事実は、この無考えな若い男が一座にもたらした興ざましには、僕自身が連累者れんるいしゃとして感じているということです。見れば疑いもなく、僕のほうにも、僕の商売でこの男がしくじったのですからね、あざけるような呆れたような視線が向けられています。ところで第二の事実は、今の今まで僕はこの男の風格に、満腔まんこうの敬意を感じていたのに、今や僕の眼から見ると、この男はたちまち低く低く沈みに沈んでゆくということでした。……同情を含んだ好意が僕をとらえました。僕はほかに二、三、勇敢な温厚な紳士たちと同じく、少尉のそばへ歩み寄って、こう励ましたのです。『お喜び申します』と僕は言いました。『少尉殿、何という結構な御才能でしょう。いや、まったく見事なものでしたな』と言って、僕はもう少しで少尉の肩を叩くところでした。しかし好意というものは、少尉とも言われる人に寄せるべき感情でしょうか。……その男が悪いのです。そこに突っ立ったなり、その男は大いにてれながら、自分の生命を代償としないで、芸術という月桂樹からたった一っでも摘んで構わないと思った、迷誤の罰を感じていましたっけ。いや、こうなると僕は、僕の同業者のほうに、あの前科者の銀行家のほうに加勢しますよ。――僕今日は、なんだかハムレットのように饒舌じょうぜつですね。リザベタさん、そう思いませんか」
「もうそれでおしまいですか、トニオ・クレエゲルさん」
「いいえ。しかしもうなんにも言いません」
「ほんとにこれで充分ですわ。――返事を待っていらっしゃるの」
「返事があるんですか」
「あると思いますけど。――わたしよく伺っていましたの、トニオさん、始めからおしまいまでね。それで今日の午後おっしゃったことの、どれにでも当てはまるような返事をしてあげたいの。それがまた、あなたをあんなにいらいらさせた問題の解決になるんですよ。さあ言いましょう。解決というのはね、あなたはそこに坐っていらっしゃるままで、何の事はない、一人の俗人だというんです」
「僕が」と彼はきき返して、少したじろいだ。
「ほらね、ひどいことを言うとお思いになるでしょう。そりゃ無論、そうお思いになるはずですわ。ですからわたし、この判決をもう少し軽くしてあげましょう。わたしにはそれができるのですから。あなたは横道にそれた俗人なのよ、トニオ・クレエゲルさん――踏み迷っている俗人ね」
 ――沈黙。やがて彼は決然と立ち上がって、帽子とステッキを手に取った。
「ありがとう、リザベタ・イワノヴナさん。これで僕は安心して家へ帰れます。僕は片付けられてしまったのですから」

 秋になる頃、トニオ・クレエゲルはリザベタ・イワノヴナに言った。
「あの、僕これから旅行に出かけますよ、リザベタさん。風を入れなくてはなりません。逃げ出すのです。逐電するのです」
「まあ、どうしてなの、小父おじ様、またイタリアへお越し遊ばすのでございますか」
「何をくだらない。イタリアなんかよして下さいよ、リザベタさん。イタリアなんぞ、僕にとっては、軽蔑したくなる程つまらない所です。僕が自分を、イタリアに属すべき人間のように妄想していたのは、もうずっと昔のことです。ねえ、芸術でしょう。ビロオドのように青い空と、熱い葡萄酒ぶどうしゅと、甘い肉感でしょう。……要するに、僕はそんなものは嫌いなのです。らないのです。そんなベレッツァはみんな僕をいらいらさせるばかりですもの。それにあの国の獣めいた黒い瞳の、怖ろしく元気のいい人間も、僕は好きじゃありません。あのラテン人種の眼の中には、良心というものがまるでないのですよ。……いえ、僕はこれからちょっとデンマアクへ行くのです」
「デンマアクへ?」
「そうです。きっといいことがあると思いますよ。若い時分は、国境のすぐそばで、ずっと暮していたのに、偶然まだ一度も、あっちへ行ったことはないのですがね、それでも昔から僕は、あの国がなじみで、好きだったのです。この北方的な傾向を、僕はきっと父から受け継いでいるに違いありません。なぜといって母は、もしあらゆるものに無関心でなかったとすれば、本当はやっぱりベレッツァのほうが好きだったのですからね。しかしあっちで書かれる本のことを、あの深刻な純粋な、しかも諧謔に富んだ本のことを考えてごらんなさい、リザベタさん――僕にはあれほど貴いものはない。僕は好きですね。それからスカンジナヴィアの食事のことを考えてごらんなさい、あの無類な食事のことを。あれは強い潮風の吹く所でなければ、食べられるものじゃないのです(僕は今でも平気で食べられるかどうですかね)。あれは僕もとから少しは知っています。僕の郷里でも、まったくあの通りの食事なのですから。それからまたあそこの人たちを綺麗に飾っている名前のことを、呼び名のことを考えてごらんなさい。僕の郷里にも、やっぱりそういうのがたくさんあります。まあインゲボルグといったような響きですね。最も清浄な詩を竪琴で奏でたようなね。それから今度は海です――あそこにはバルチック海があるのですよ。……まあ、手短に言えば、僕はあそこまで旅をするのです、リザベタさん。バルチック海に再会したり、あの呼び名をまた聞いたり、あの書物を本場で読んだりしようと思います。それからクロオンボルグの高地にも立つつもりです――『幽霊』がハムレットに現われて、苦難と死とを、この哀れな気高い若人にもたらした場所ですね……」
「どういらっしゃるの、トニオさん、聞かせて下さいな。どういう道筋をお取りになるの」
「普通のですよ」と彼は肩をそびやかしながら言って、目に見えて赤くなった。「実は僕の――僕の発足点に立ち寄って行きます、リザベタさん、十三年振りで。きっとずいぶん妙な気がするでしょうよ」
 彼女は微笑した。
「そこなのよ、わたしが伺おうと思ったのは、トニオ・クレエゲルさん。じゃまあ、御機嫌よく行っていらっしゃい。お便りを下さることもお忘れなくね、よござんすか。きっといろんな経験を盛ったお手紙が頂けると思って、待っていますわ――そのデンマアク旅行からね……」

 かくしてトニオ・クレエゲルは、北に向かって旅立った。彼は贅沢な旅行をした(内面的に他の人々よりもずっと窮している者は、多少の外面的愉楽を当然要求して差支えない、と彼はいつも言っていたからである)。そして昔自分の発足した狭い町の尖塔が、眼前に灰色の空をいてそびえ立つまで、憩わなかった。その町で彼は短い不思議な滞在をした……
 狭い、すすけた、いかにも奇妙に懐かしい構内に、列車が進み入った時、曇った午後はもう夕暮になりかけていた。汚らしいガラス屋根の下には、まだ相変らず煤煙がもくもくと丸まったり、きれぎれに棚引いては、ゆらゆら動いたりしていた――ちょうど昔トニオ・クレエゲルが、冷嘲だけを胸にしながら、ここを旅立った時のように。――彼は荷物をまとめると、ホテルに届けてもらうように取り計らってから、停車場を出た。
 その構外にずらりと並んでいるのは、この町の、二頭立てで黒くて、縦にも横にも図抜けて長い辻馬車だった。彼はその中のどれにも乗らなかった。ただ眺めただけであった――すべてをただ眺めたと同じく。幅の狭い破風をも、近所の屋根越しに挨拶を送っている尖った塔々をも、彼のまわりの、大口を開いてしかも早口で話す、金髪の、なげやりで鈍重な人間たちをも。すると、ある神経質な笑いがこみ上げて来た。すすり泣きとひそかに相通ずる笑いが。――彼は徒歩で行った。しめっぽい風の絶え間ない圧迫を顔に感じながら、ゆっくり歩いて、神話にちなんだ像が欄干についている橋を渡ると、しばらく港づたいに進んだ。
 いやはや、そこいらじゅうが何もかも、小さく狭苦しく見えることはどうだ。ここではあれから今日まで、この狭い破風屋根の小路が、ずっとこんなに滑稽に急勾配で、町のほうへ行っていたのかしら。船の煙突や帆柱が、風と黄昏たそがれに包まれて、河の上で音もなく揺れている。あそこの通りを、当てにして来た家のあるあの通りを、上って行ったものだろうか。いや、明日にしよう。今はひどく眠いから。旅疲れで彼の頭は重く、緩慢な、霧のような考えが胸の中を通るのである。
 この十三年の間にも、胃の悪い折々などに、彼はこの坂になった小路にある、古い、こだまする家にまた帰って来た夢を見ることがあった。父親もまた再びそこにいて、彼の堕落した行状を責めて、きびしく叱りつける。するとその度に、彼はなるほどそれが当然だと思うのだった。ところでこの現在も、そうした惑わすような、引き裂きがたい夢幻の一つと何の選ぶところはない。そんな夢幻のなかでは、よくこれが嘘だろうかまことだろうかと、自問することがある。そして余儀なくたしかに真だときめてしまうが、結局やっぱり目をさますことになる。……彼は、あまりにぎやかでない、風当りのひどい通りを歩いて行った。風に向かって頭を下げたなり、この町第一流のホテルの方角へ、夢遊病者のように歩いて行った。そこに今夜泊るつもりなのである。脚の曲がった男が一人、尖端に小さなほのおの燃えている棒を持って、うねるような水夫式の足並みで彼の前を歩きながら、ガス燈をけて行った。
 自分は一体どうしたのだ。自分の倦怠けんたいの灰の下に、明らかな焔ともならず、ほの暗くやるせなく微光を放っているものは、これはみんな何なのだろう。静かに、静かに。一言も利くな。なんにも話すな。彼はいつまでもこうやって風に吹かれながら、おぼろげな、夢のように懐かしい小路から小路へと、歩いて行きたかった。しかしすべては実に狭く寄り合っていた。すぐに目的地に来てしまうのである。
 町の山の手にはアアク燈があって、それがちょうど輝き始めていた。そこにホテルがあった。その前にている二匹の黒い獅子もある。子供の時分、彼はこれがこわかったものである。獅子は相変らず、今にもくさめをしそうな顔つきで、互いに見合っている。しかしあの時分から見ると、ずっと小さくなったように思われる――トニオ・クレエゲルはその二匹の間を通って行った。
 歩いて来たせいで、彼はかなり無造作に迎えられた。門番と、それからきわめて瀟洒しょうしゃたる黒服の、絶えず小指でカフスを袖口から押し戻している受附の人とが、彼を脳天から靴まで、じろじろと吟味するように、値踏みするように眺めた。その様子は確かに、彼を社会的に鑑定して――階級的公民的な位地をきめて、自分たちの尊敬の中で、ある席を与えようと努めているらしかったが、どうしても得心のゆくような結果が得られなかったために、適度の鄭重ていちょうさで扱うことにきめてしまった。一人の給仕が――物柔らかな人間で、薄い明色ブロンドの頬髯を長くのばして、古さでぴかぴか光る燕尾服えんびふくを着て、音のしない靴に薔薇ばら形の飾りをつけていたが、この男が彼を三階に案内して、小ざっぱりと古風にしつらえた部屋へ導き入れた。窓の向こうには夕闇の中に、中庭や破風や、ホテルから近い教会の奇妙な凸凹などの、絵画的な中世紀的な眺望がひらけていた。トニオ・クレエゲルは、ややしばらくこの窓際に立っていたが、やがて腕をこまねいたまま、大きな長椅子に腰をおろすと、眉をしかめながら、無意識に口笛を吹いた。
 灯が持って来られた。そして荷物が届いた。同時に例の物柔らかな給仕が、告知票を卓の上に置いた。そこでトニオ・クレエゲルは首を横に曲げたなり、まあ姓名と身分と素性とらしく見えるものを、その紙に書きなぐった。それがすむと、軽い夕食をあつらえた後、また長椅子の隅からあてもない凝視を続けた。食事が自分の前に並んでからも、彼はまだなかなか手をつけなかったが、やっと二口三口食べたと思うと、さらに一時間室内をあちこち歩いた。その間折々立ち止まっては、眼を閉じた。それからゆっくりゆっくり着物を脱いで、寝床に入った。彼は長い間眠った。もつれ合った、妙にやるせない夢を見ながら。――
 目がさめた時、彼は部屋いっぱいに明るい光が満ちているのを見た。まごついてあわてて、自分はどこにいるのかと考えてみた後、起き出して窓掛を開いた。すでにやや色のせた晩夏の青空には、風に吹きちぎられた薄い雲ぎれが、一面に浮かんでいた。しかし太陽は彼の故郷の町の上に照っていた。
 彼は平生よりも念入りに身仕舞いをした。ごく丁寧に顔を洗って剃刀かみそりをあてて、大いにすがすがしいさっぱりした様子になった。あたかもどこか上流の礼儀正しい家でも訪問して、清楚せいそとした申し分のない印象を与えねばならぬ場合を、控えているかのようだった。そして着物を着る所作の間、彼は心臓のおびえたような鼓動に耳を傾けていた。
 外は何と明るいことであろう。もし昨日のように夕闇が街をこめていたら、自分はそのほうが快かろうに。ところがこれでは、人々の眼を浴びながら、明らかな日光の中を歩かねばならぬ。知った人に出会って引き留められて、この十三年をどう暮して来たかと問われて、それに答えざるを得ぬようなことになるだろうか。いや、ありがたいことに、もう誰も自分を知っている者はない。それに自分を覚えている者だって、自分をそれとは分からぬであろう。自分は今日までの間に、実際ちょっと変わってしまったのだから。彼は鏡に映る自身をしげしげと眺めていたが、その仮面の奥で、年よりは老けて見える、早く苦しみをなめた顔の奥で、急に今までよりも心丈夫な気持になった。……彼は朝飯を取り寄せた。それがすむと部屋を出かけた。門番と瀟洒たる黒服の紳士との、評価するような視線を浴びながら、玄関口を抜けると、二匹の獅子の間を通って表へ出た。
 どこへ行くのか。彼にはほとんど分からなかった。それは昨日と同じだった。再び身のまわりに、破風や小塔や拱廊きょうろうや噴水などが、妙にいかめしくまた親しみ深く並んでいるのを見るや否や、遥かな夢の柔らかなしかも鋭い芳香を運んで来る風の――強い風の圧力を、再び顔に感ずるや否や、彼の心はベエルのような、霧のとばりのようなもので包まれてしまったのである。彼の顔の筋肉がゆるんだ。そして静かになったまなざしで、彼は人と物とを眺めた。もしかしたら、あそこのあの街角で、彼はやっぱり目をさますかもしれない……
 どこへ行くのか。彼には自分の取った方角が、昨夜見た、悲しい、妙に後悔がましい夢と、何か連絡があるように思われた。……広場へ向かって彼は歩いて行く。肉屋が血まみれの手で商い物を量っている、市役所の拱廊を潜り抜けて、ゴシック風の噴水が、高く尖って入り組んで立っている、あの広場へ向かって歩いて行くのである。そこに来ると、彼はある家の前に立ち止まった。間口の狭い、簡素な家で、ほかの家々と同じく彎曲わんきょくした、穴の開いた破風がついている。そして彼はわれを忘れてこの家に眺め入った。入口の標札を読んでから、窓の一つ一つにしばらくずつ眼を休ませた。が、やがておもむろに身を転じて歩き出した。
 どこへ行くのか。家へ帰るのである。しかし彼はまわり道をした。都門の外へ散歩の足を運んだ。ひまがあったからである。ミュウレン土手とホルステン土手を越えて行きながら、樹々をざわざわとひしめかせる風に飛ばされぬように、帽子をしっかりおさえていた。やがて停車場の近くで土手を降りると、列車が一つ、不器用に急いで轟々ごうごうと通りすぎるのを見ながら、暇つぶしに車台の数を数えて、最後の箱のてっぺんに乗っている男を見送った。ところがリンデン広場に来ると、そこに並んでいる綺麗な屋敷の一つの前に足をとめて、長いこと庭の中や上の窓の方を窺ってから、しまいにふと思いついて、格子扉を、蝶番ちょうつがいがぎいぎい言うほどゆすぶってみた。それから濡れたさびじみた手を、しばらく眺めていたが、また歩き出して、古いがっしりした都門を潜ると、港づたいに進んで、急勾配で風当りのひどい小路を上って、両親のいた家に着いた。
 それは、その破風より高い近所の家々に囲まれながら、三百年以来のように、灰色にいかめしく立っていた。そしてトニオ・クレエゲルは、入口の上の所に、半分消えかかった字で書いてある、敬虔けいけんな金言を読んだ。やがてほっと息を吐いて、彼は中へ入って行った。
 彼の心臓はおびえたようにとどろいた。それは自分の通りすぎてゆく地階の扉の一つから、今にも父が事務服で、ペンを耳に挟んだなり出て来て、自分を引きとめて、自堕落な暮し方をしているといって、大いに詰問しそうな、それをまた自分は至極もっともだと思いそうな、そういう心持がしたからである。しかし彼はつつがなくそこを通り抜けることができた。通風扉がしまっていないで、ただ寄せかけてあるだけなのを、彼はひどいと思った。が、同時に、淡い夢の中で、障害がひとりでにこっちを避けて、自分は絶妙な好運に恵まれながら、すらすらと前進してゆく時のような気がしていた。……大きな四角な鋪石を敷き詰めた広い廊下に、彼の足音が反響した。何の物音もしない台所と対した所には、昔ながらに、床からよほど離れて、奇妙な不細工な、しかし小綺麗にニスを塗った、木造の小部屋が壁から突き出ていた――これは女中部屋で、廊下からは一種の釣り梯子のようなものを昇らなければ、そこへ行かれないのである。以前ここに立っていた大きな置戸棚と、彫り物のあるひつとは、しかしもう見当らなかった。……この家の息子は大きな階段を、白塗りの朽ちかけた木の欄干に手でつかまりながら、昇って行ったが、ひと足ごとにその手を離しては、次の一歩でまた欄干に落とすその様子は、さながらこの古い手堅い欄干と、旧情をあたためることができるかどうかを、おずおずと試してみているようだった。……階段の途中、二階へ入る口の前に来ると、彼は立ち止まった。扉には白い標札が打ちつけてあって、それに黒い文字でこう書かれていた――民衆図書館。
 民衆図書館? とトニオ・クレエゲルは考えた。こんなところに民衆も文学も、何の用もあるわけはないと感じたからである。彼は戸を叩いた。……お入りという一声が聞こえた。そこで彼はその声に従った。緊張した暗い顔つきで、きわめて不体裁な変転の有様に彼は眺め入った。
 この階は奥までに三つの小部屋があって、その間をつなぐ扉は開け放されていた。四壁はほとんど天井の際まで、黒ずんだ棚にずらりと幾列にも並んだ、同じような装幀の書物でおおわれていた。どの部屋にも、帳場机のようなものの向こうに、貧相な人間が一人ずつ腰かけて、物を書いている。その中の二人は、トニオ・クレエゲルの方へちょっと顔を向けただけだったが、一番手前のは、急いで立ち上がるとともに、両手を卓面に突いたなり、首を差し伸べて、唇を尖らせて、眉をつり上げて、気ぜわしく眼をぱちつかせながら、来訪者を眺めた。……
「ごめん下さい」とトニオ・クレエゲルは、おびただしい書物から眼を放さずに言った。「僕は他所よそから来て町の見物をしている者です。これがなるほど民衆図書館なのですね。蔵書をひと通り拝見させて頂けましょうか」
「さあどうぞ」と役人は言って、なおはげしく眼をぱちつかせた……「無論それはどなたでも御随意です。御遠慮なくごらん下さい。……目録はいかがですか」
「結構です」とトニオ・クレエゲルは答えた。「すぐ見当がつきますから。」それなり彼は、書物の背の標題をしらべるように装いながら、壁に添うてゆっくり歩き始めた。しまいに一冊取り出してあけて見て、それを持ったまま、窓際に身を寄せた。
 ここはもと朝飯の室だった。青い壁掛から白い神々の像が浮き出ている、上の大きな食堂ではなく、いつもこの部屋で朝飯を食べたのだった。……そこの次のは、寝室に使われていた。父方の祖母はそこで亡くなった。年はずいぶん取っていたのだが、楽しみ好きな派手な婦人で、生に執着していたから、苦しみ抜いて死んだのである。その後父親自身も、そこで最後の嘆息をもらした。背の高い端正な、少し憂鬱で冥想的な、ボタンのあなに野花を挿していた人も。……トニオは、父の死の床のすそに立って、眼を熱くしながら、あの無言の強い感情に――愛と苦痛に、心から残りなく身を委ねていた。それから母も、彼の美しい、情の激しい母もまた、その床のそばにひざまずいて、すっかり熱い涙に溶けていた。と思うと、彼女はあの南国の芸術家とともに、青霞む遥か彼方へ去ってしまったのであった。……ところで、あの奥のやや小さい三番目の部屋、今はやっぱり本がぎっしりつまって、その本を一人の貧相な人間が見張っているが、あれが長年の間、彼自身の部屋だった。あそこへ彼は学校がすんだあと、ちょうど今しがたのように、散歩してから帰って来たものである。あの壁際に彼の机があって、その抽斗ひきだしに、彼の最初の、真心こめたそして拙劣な詩がしまってあったのである。……胡桃の樹……刺すような憂愁が、彼の心をさっと貫いた。彼は斜めに窓越しに外を見た。庭は荒れ果てていたが、しかし胡桃の老木はもとの所に立ったまま、風の中で大儀そうに、がさがさざわざわ鳴っていた。と、トニオ・クレエゲルは、両手に支えていた書物の上へ視線を戻した。それは卓抜な作品で、彼のよくっているものだった。彼はその黒い幾行を、数節の文章を見おろして、その叙述の巧妙な流れが、創造的情熱のうちに、ある山と効果にまで高まってから、やがて感銘深く途切れるのを、しばらくのあいだ跡づけて行った……
 まったくこれはよくできている、と彼は言いながら、その作品をもとへ返して身を転じた。すると役人が依然として直立したなり、懇切と考え深い疑惑との入りまざった表情で、眼をぱちぱちやっているのに気がついた。
「実に結構な蒐集しゅうしゅうですね、拝見してみると」とトニオ・クレエゲルは言った。「もう大体要領を得ました。大変お世話様でした。さようなら。」それなり彼は戸口を出た。しかしそれは怪しげな引込みだった。そして彼はこの訪問ですっかり不安になった役人が、まだしばらくは突っ立ったなり、眼をぱちつかせているだろうと明らかに感じた。
 彼はなおこのうえ先へ進みたいとは、ごうも思わなかった。彼はもう帰省をすませたのである。上の、柱廊の奥の大きな部屋部屋には、見知らぬ人々が住んでいる。彼にはそれが分かった。階段の上り口が、昔はなかったガラス扉で仕切られて、その扉に何か標札が付いているからである。彼は去った。階段を降りて、こだまする廊下を通って、自分の生家を立ち去ったのである。ある料理店の一隅で、考えに沈みながら、重たい濃厚な食事をとった後、やがて彼はホテルに帰った。
「用がすんだから」と彼は瀟洒しょうしゃたる黒服の紳士に言った。「今日の午後に立ちます。」そして勘定書と港まで――コペンハアゲン行きの汽船まで行く馬車とを命じた。それから自分の部屋に上がって行って、卓について、頬杖をつきながら、空虚な眼を卓面に落としたなり、静かに端然と腰かけていた。しばらく経って勘定をすませて、荷物をまとめた。定めの時刻になると、馬車の来たことが知らされた。そこでトニオ・クレエゲルは、旅装を整えて降りて行った。
 下で、階段の降り口で、例の瀟洒たる黒服の紳士が彼を待ち受けていた。
「ごめん下さいまし」と彼は言いながら、小指でカフスを袖口から押し戻した……「まことに失礼ですが、ほんの一分間おひきとめ申さなくてはなりませんので。ゼエハアゼさんが――ホテルの支配人ですが――ほんの二言ばかりお話が願いたいと申しております。何か形式的なことで……あの奥のほうにおります……どうか私と一緒においで下さいませんでしょうか……いいえなに、ホテルの支配人のゼエハアゼさんなので」
 と言って、彼は招くような手つきをしながら、トニオ・クレエゲルを玄関口の奥のほうへ案内して行った。そこには果たしてゼエハアゼ氏が立っていた。トニオ・クレエゲルは、昔見たことがあるので、彼をっている。小さいふとった、脚の曲がった男である。刈り込んだ頬髯は白くなってしまった。しかし相変らずごく胸あきの広い燕尾服で、その上、緑の刺繍をしたビロオドの小帽をかぶっている。ただし彼はひとりきりではなかった。彼のそばには、壁に取りつけてある机代りの小さな棚のわきに、警官が一人、ヘルメットを頂いたまま、立っている。警官は手套をはめた右手を、小机の上の、何やらごたごたと書いてある紙の上に休ませていて、正直そうな兵卒顔で、トニオ・クレエゲルを目迎した。それがまるで、相手が自分を見たら、地の中へ潜り込んでしまうに違いあるまいと、待ち設けているような様子だった。
 トニオ・クレエゲルは二人を見較べたが、どこまでも待つことにきめた。
「ミュンヘンから来られたのですな」とようやく警官が、人のよさそうな鈍重な声で問うた。
 トニオ・クレエゲルはそれを肯定した。
「コペンハアゲンへ行かれるのですな」
「ええ。デンマアクのある海水浴場へ行く途中なのです」
「海水浴場? ――そう、一応証明書類を提示される必要がありますね」と警官が言った。提示という語を、特別うれしそうに発音しながら。
「証明書類ですか……」彼は何の証明書類も持っていなかった。紙入れを引き出して、中を覗いてみたが、数枚の紙幣を除けば、旅行先で片付けるつもりの、ある短篇小説の校正刷りのほかには、何一つ入っていなかった。彼は役人と接触するのが嫌いで、まだ一度も、旅券というものを下附してもらったことがないのである。
「お気の毒ですが」と彼は言った。「証明書類は何も携帯していません」
「そうですか」と警官が言った。「まるでなんにも持っていないのですか。――名前は何というのです」
 トニオ・クレエゲルは彼に答えた。
「それは実際ほんとうかね」と警官は問うて、ぐっと反身になると、不意にできるだけ大きく鼻の孔を開いた……
「完全にほんとうです」とトニオ・クレエゲルは答えた。
「一体あなたは何だ」
 トニオ・クレエゲルはぐっと言葉をのみ込んでから、しっかりした声で自分の職業を名指した。――ゼエハアゼ氏が首をもたげて、物珍しそうに彼の顔を見上げた。
「ふむ」と警官は言った。「するとあなたは、こういう名前の人物と同一人ではないと申し立てるのだな――」彼は「人物」と言った。そして例のごたごたと書き込んである紙から、一字一字拾うようにして、ある極めて込み入った、ロマンチックな名前を読み上げた。それはいろんな人種のおん突飛とっぴに入りまざったような名で、トニオ・クレエゲルは次の瞬間にもう忘れてしまった。「――でそいつは」と警官は続けた。「両親不明、身分不詳で、数度の詐欺さぎその他の犯罪のために、ミュンヘンの警察から追跡されておって、今は多分デンマアクへ逃走の途中らしいのだが」
「僕は同一人でないとただ申し立てるだけじゃありません」とトニオ・クレエゲルは言いながら、いらだたしそうに肩をゆすぶった。――これがある印象を呼び起こしたのだった。
「なに? ああそうか、そりゃそうでしょう」と警官は言った。「だが、なんにも提示するものがないというのは困るなあ」
 ゼエハアゼ氏もなだめるように仲介の労をとった。
「これはみんなほんの形式です」と彼は言った。「なにそれだけの話なので。この役人の方は、ただ義務を果しておられるだけなのですから、それを御考慮下さらなければね。何か証明の方法がおありだとよいのですがな……何か書附かきつけひとつでも……」
 三人とも黙ってしまった。彼はこのゼエハアゼ氏に、自分は決して身分不詳の詐欺紳士ではなく、生まれつき決して緑の馬車に乗ったジプシイでもなく、クレエゲル名誉領事の息子だ、クレエゲル一族の者だということを打ち明けて、この場のけりをつけたものだろうか。いや、とてもそんな気にはなれない。それに市民的秩序を貴ぶこの人たちのいうことは、考えてみれば多少正しいのではあるまいか。ある程度まで自分は彼等とまったく同感なのだ。……彼は肩をそびやかして沈黙を守っていた。
「一体そこに持っているのは何ですか」と警官が問うた。「その紙入れの中にあるのは」
「これですか。何でもありません。校正刷りです」
「校正刷り? どういうのです。ちょっと見せてもらいましょう」
 そこでトニオ・クレエゲルは、彼の労作を警官の手に渡した。警官はそれを小机の上にひろげて読み始めた。ゼエハアゼ氏もそばに寄って来て一緒に読んだ。トニオ・クレエゲルは二人の肩越しに眼をやりながら、どんな個所を読んでいるかと思って注視した。それはあるよき瞬間、ある山、ある効果であった。彼はわれながら満足だった。
「ごらんなさい」と彼は言った。「そこに僕の名があるでしょう。これは僕が書いたもので、今度出版されるのです」
「なるほどこれで充分です」とゼエハアゼ氏はきっぱり言って、紙をそろえて折りたたんだ上、彼に返した。「これで充分なはずですよ、ペエテルゼンさん」と、彼はそっと眼をつぶって、もうやめろという合図のように首を振りながら、簡単に繰り返した。
「もうこれ以上この方をお引きとめするわけにはいかない。馬車が待っているのだから。しばらくお妨げしてしまって、まことに申し訳がありません。この役人の方はもちろん義務を果されただけなのですが、わたしは始めっから、見違いだろうと、この方に言っておりましたので……」
 どうだかな、とトニオ・クレエゲルは思った。警官はすっかり納得しきらないらしく、まだ「人物」とか「提示」とか言って異議を唱えた。しかしゼエハアゼ氏は、幾度となく謝罪の辞を述べ述べ、客をまた案内して玄関を突っ切ると、二匹の獅子の間を抜けて、馬車の所まで見送った上、客の乗ったあと、うやうやしいものごしで、自分で馬車の扉を閉じた。さてそこで、この縦にも横にもおかしいほど長い辻馬車は、がたぴしと騒々しく揺れながら、坂になった小路をいくつも降りて、港のほうへ走って行った……
 これが故郷の町での、トニオ・クレエゲルの奇妙な逗留とうりゅうであった。

 トニオ・クレエゲルの船が沖合いに出た時には、いつか夜になっていて、銀光を漂わせながら、すでに月が昇っていた。次第に吹き募る風を嫌って、外套にくるまったなり、彼は舳の斜檣しゃしょうのそばにたたずんで、眼の下の大きな滑らかな波のうねりの、ほの暗い動揺を見おろしていた。波はもつれながらゆらめいて、音高くぶつかり合うと、思いがけぬ方角へさっと分かれて、不意に泡立ちながらきらきらと光った……
 揺藍ゆりかごにいるような、静かにうっとりした気分が彼を満たした。故郷で詐欺紳士として逮捕せられかかったというので、彼は確かにいささか意気銷沈しょうちんしてしまっていた――もっともある程度まで、それは当然なことだと思ってはいたのだが。しかしそのあと船に乗り込んでからは、子供のころ父親と一緒に時々見たように、荷物の積み込みの様子を見ていた。荷物はデンマアク語と北ドイツ語とのまざったかけ声のうちに、深い船腹の中へ詰め込まれて行った。荷包や荷箱のほかにも、おそらくハンブルグから来て、どこかデンマアクの野獣園にでも送られるらしい、北極熊とインド虎とが、太い格子造りのおりに入ったまま、吊り下されるのを見ていた。これが気散じになった。それから船が、低い両岸の間を、河づたいに滑ってゆく頃には、警官ペエテルゼンの訊問のことなんぞ、跡形もなく忘れてしまって、それより前にあったこと――あの夜の甘い悲しい後悔がましい夢や、散歩をしたことや、胡桃の木を見たことなぞが、再び彼の魂の中にはっきり浮かんでいた。ところで今は海がひらけたので、遠くからなぎさが見える。あの渚では、少年の頃、海の夏らしい夢を、ぬすみ聞くことができた。燈台のきらめきと、海浜ホテルの灯とが見える。あのホテルには、両親と一緒に泊ったことがある。……バルチック海! 彼は頭を強い潮風にもたせかけた。風は思う存分、まっしぐらに吹きつけて来ては、両の耳を押し包んで、軽い眩暈を、鈍い麻痺を起こさせる。するとその感じの中に、いっさいのわざわい、悩みと迷妄、意欲と労苦への思い出は、だるくなごやかに消えてしまうのである。そして身のまわりの風声と濤音と泡立ちと喘鳴ぜんめいとのうちに、彼は胡桃の老木のざわざわ鳴りきしむ音と、庭戸のぎいぎい言う響きとが、聞こえるように思った。……だんだん闇が濃くなって来た。
「あの星はどうです。まあ、ちょっとあの星を見てごらんなさい」と突然、重苦しく歌うような調子で、ある声が言った。たるの中からでも響いて来るような声である。彼はもうその声をっていた。その持主は、赤味がかった金髪の、簡素ななりをした男で、赤くなったまぶたと、いま湯から上がったばかりというような、じとじとした顔つきとを持っている。船室での夕食の時、その男はトニオ・クレエゲルの隣に坐っていた。そしておずおずした遠慮がちな所作をしながら、呆れるほどどっさり、えびのオムレツをたいらげた。今その男は、彼と並んで欄干にりながら、拇指と人差指で顎をおさえたなり、空を見上げている。疑いもなく男は、あの異常な、晴れがましく静観的な気分でいるに違いなかった。人と人との間のらちが倒れ去ってしまう気分、心は見ず知らずの人にも打ちひらかれるし、口は平生なら恥ずかしくて言えそうもないことを語る気分である……
「もしあなた、あの星をまあ見てごらんなさい。ほらあそこに、あんなにきらきら光っているでしょう。まったくどうも、空じゅうべた一面でさあ。ところでどうです。あれをこう見上げてですな、あの中にはこの地球より百層倍も大きいのがどっさりあるんだと思うと、どんな気持になりますかね。われわれ人間は電信を発明した。それから電話だとか、そのほか実におびただしい近代の獲得物だとか、そりゃ発明はしました。しかしこうやって見上げていると、やっぱり要するにわれわれは蛆虫うじむしだ、まさにあわれむべき蛆虫にすぎないんだと、つくづく悟らずにはいられませんな。――その通りでしょう。それとも違いますかね、あなた。そうだ、われわれは蛆虫なんだ」と彼は自分で自分に返事をして、謙虚な打ち砕かれた様子で、大空へ向かってうなずいた。
 やれやれどうも、こいつはまるで文学趣味のない男だな、とトニオ・クレエゲルは考えた。するとたちまち、最近に読んだもののことが心に浮かんだ。それはある有名なフランスの作家の、宇宙学的および心理学的世界観に関する論文で、実に気の利いた饒舌だった。
 彼は若い男の実感に溢れた言葉に対して、何か返事らしいものを与えた。それから二人は欄干から身を乗り出して、落ちつかぬ光を帯びた騒然たる宵を見渡しながら、言葉をかわし続けて行った。この道連れはハンブルグ生まれの若い商人で、休暇を利用してこの漫遊旅行に出かけて来たものと分かった。
「ひとつ」と彼は言った。「スティイマアでコペンハアゲンまで行ってやろうと思いましてね、それで今こうしているわけなんで、そこまではまったく申し分なしです。ところが、あのえびのオムレツの一件ですね、ありゃいけませんでしたよ。あなただってお分かりでしょう。何しろ夜は嵐になるって、船長自身そう言っていたのに、あんな不消化なものが胃の中に入っているんですから、そうなったら事ですぜ……」
 トニオ・クレエゲルは、こうしたなれなれしい馬鹿話に、ひそかな親しい感じで、どこまでも耳を傾けていた。
「そうですね」と彼は言った。「この辺の人は一体に食事が重すぎます。だからものぐさに憂鬱になるのですよ」
「憂鬱に?」と若い男はおうむ返しに言いながら、びっくりした様子で彼を眺めた……「あなたは他所よそからいらしったのですね、きっと」と彼は不意に問うた。
「そうですとも。遠くから来ているのです」とトニオ・クレエゲルは何ともつかず、こばむように腕を振りながら答えた。
「だがお言葉の通りです」と若い男は言った。「憂鬱というお言葉は、たしかに当たっていますよ。わたしはたいていいつも憂鬱なんですが、とりわけ星が空に出ている今日のような晩にはね」と言いながら、彼は再び拇指と人差指で顎を支えた。
 きっとこの男は詩を書いているな、真正直な実感にみちた商人の詩を……とトニオ・クレエゲルは思った。
 夜が更けて、風はもう話の邪魔になるほど烈しくなった。そこで二人は少し眠ることにきめて、互いに夜の挨拶をかわした。
 トニオ・クレエゲルは小さい船室の、狭い寝床の上に身を延ばしたが、しかしなかなか寝つかれなかった。きびしい風とその鋭い香りとに、妙に昂奮こうふんさせられてしまったので、彼の心は、何か快いものをおずおずと待ってでもいるように、落ちつかなかった。それにまた、船がけわしい浪の山を滑り落ちて、推進機が痙攣けいれんでも起こしたように、水の外で廻る時の動揺も、たまらない嘔気を誘った。彼はまたすっかり着物を着て、広々とした所へ昇って行った。
 雲が月をかすめて走る。海は踊っている。丸い揃った波が整然と寄せて来るのではなく、海はほのあおいゆらめく光のなかに、遠くのほうまで引き裂かれて打ち砕かれて掻き廻されている。尖った、焔に似た巨大な舌の形になって、なめずっては跳ね上がる。泡だらけな峡谷のそばに、ぎざぎざした、突拍子もない形のものを投げ上げる。まるで厖大ぼうだいな腕に力をこめて、馬鹿騒ぎに騒ぎ立てながら、水沫を四方八方へ投げ飛ばしているような観があった。難儀な航海だった。船は縦に揺れたり、横に揺れたり、悲鳴をあげたりしながら、喧騒のなかを営々と進んで行くのである。そして時折は、航海に弱った例の北極熊と虎とが、船腹で咆哮ほうこうする声が聞こえた。一人の男が防水布の外套を着て、頭巾ずきんをかぶって、角燈を腰にくくりつけたまま、大股で危く重心を取りながら、甲板を往来している。ところがあのうしろのほうには、船ばた越しにぐっと身をかがめたなり、ハンブルグ生まれの例の若い男が立っていて、ひどい目に逢っている。「いやどうも」と彼はトニオ・クレエゲルに気がついた時、おぼつかないよろめくような胴間声どうまごえで言った。「まあこの四大の荒狂っている様子を、あなた見てごらんなさい。」しかしそれなり口が利けなくなって、急いで向こうを向いてしまった。
 トニオ・クレエゲルは、張り渡された何かの綱につかまりながら、無拘束な暴威がふるわれている有様を、じっと眺め渡した。彼の胸に勢いよく歓声が湧き上がって来た。それは嵐にも潮にも充分響き勝つほど、力強いもののように思われた。海へ寄せる歌が、愛に力づけられて、彼のうちに鳴り渡った。なんじわが若き日のたけき友よ、かくてわれらなお再び結ばれたり……しかし詩はそれきりで終わってしまった。それは完成しなかった。渾然とはならなかった。余裕綽々しゃくしゃくと、ある完全なものに鍛え上げられはしなかった。彼の心は生きている……
 長いこと彼はそのままたたずんでいた。やがて船室の外囲そとがこいのベンチに長々と横になって、星のちらつく空を仰いだ。少しうとうとと眠りさえした。そうして冷たい飛沫が顔にかかるたびに、半睡の彼には、それが愛撫あいぶのように思われるのだった。
 薄気味わるく月光を浴びた、垂直の白堊はくあ岩が見え始めて、それがだんだん近づいて来た。それはメエエン島だった。やがてまたうたたねが途中に入って来た――鋭く顔を刺して面立おもだちをこわばらせる、塩からい糠雨ぬかあめに妨げられながら。……彼がすっかり目をさました時には、もう夜が明けていた。薄鼠のさわやかな夜明だった。そして緑いろの海は、前よりも穏やかに動いていた。朝食の時、彼はまたあの若い商人に逢った。商人は、暗闇の中であんなに詩的なみっともないことをしゃべったのが多分恥ずかしかったのであろう、ひどく赤面しながら、五本の指をことごとく使って、小さい赤茶けた口髭をなで上げると、兵隊式にぶっきらぼうな朝の挨拶を彼に投げつけたが、それからあとは、びくびくもので彼を避けていた。
 かくてトニオ・クレエゲルは、デンマアクに上陸した。コペンハアゲンに着いて、貰う権利がありそうな顔をする者には、誰にでも茶代をやって、ホテルの部屋を根城に、三日の間、案内記を眼先にひろげ持ったなり、市中をくまなく歩いて、まったく見聞を広めたがっている、上等なたちの外国人そっくりに振舞った。国王広場と、その中央にある「馬」とを見たり、聖母寺院の円柱をうやうやしく振り仰いだり、トルワルドゼンの典麗な彫塑の前に長い間たたずんだり、円塔に昇ったり、城々を見物したり、ティヴォリでにぎやかな二晩を過ごしたりした。しかし彼が見たのは、ごくほんとうのところをいうと、そんなものではなかったのである。
 彼の故郷の町の、曲がった格子模様の破風を持つ古い家々と、往々まったく同じ体裁を備えた家々に、彼は昔なじみの名前を見た。彼にとっては、何かなよやかな貴いものを意味しているように思われる、そのくせまた非難、詠嘆、失われたものへの憧憬ともいうべきものを含んでいる名前である。またいたるところに彼は、しめっぽい潮風をゆっくりと、考え考え吸い込みながら、故郷の町で過ごした夜の、妙に悲しい後悔がましい夢に見たのと、同じようなあおい眼、同じような金髪、同じような形容なりかたちの顔を見た。往来の真ん中で、あるまなざしなり、ある響きのいい言葉なり、ある笑い声なりが、彼の心の奥底をいたこともないではなかった……
 にぎやかな市中にいるのが、彼はまもなくいやになって来た。追憶と期待との相半あいなかばした、甘いおぞましい不安が、どこかの海岸でじっと気ままにねころんでいたい、せわしなく見物して歩く観光客のまねなんぞせずにすませたい、という願望と一緒になって、彼の心を動かしたのである。そこで彼は再び船に乗り込んで、ある曇った日に(海は黒く揺れていた)北へ向かって、ゼエランド島の渚づたいに、ヘルジンゲエルへと進んで行った。そこからすぐにまた旅を続けて、馬車で国道をなお小一時間ばかり、絶えず海より少し高い所を進んで、とうとう最後の、そして本来の目的地に来て止まった。それは緑色の雨戸のついた、小さい白い海水浴旅館だった。一団の低い家々の真ん中にあって、木でいた塔が、砂浜とスウェエデンの海岸とを見渡していた。彼はここで降りて、自分のために用意してあった明るい部屋を占領すると、たずさえて来たもので、本棚や置戸棚をいっぱいにして、ここでしばらく暮す準備をした。

 すでに九月もたけていたので、アアルスガアルドには、もうあまり客は多くなかった。ガラス張りのベランダと海とに面した高窓のついた、地階の、天井にはりの見える大きな食堂では、食事の度に女主人が采配をふるっていた。白い髪と、色のあせた眼と、薄ばらいろの頬と、締まりのない、さえずるような声とを持った老嬢で、いつでもその赤い両手を、卓布の上にいささか恰好かっこうよく並べようとしていた。灰色の水夫髯をはやして、青黒い顔をした、猪首の老紳士がいた。首都から来ている魚商で、ドイツ語ができる。見たところすっかり秘結していて、卒中のがあるらしい。なぜというに、短くはっはっと息づかいながら、指環ゆびわのはまった人差指をあげて、片方の鼻孔にあてがっては、そっちをふさいで、もう一方から烈しくふんとやって、少し空気を通そうとするからである。それでいながら彼は、朝飯の時にも昼飯の時にも夕飯の時にも、自分の前に立っているウイスキイのびんに、絶え間なく手を出すのだった。そのほかには、背の高いアメリカの青年たちが三人、養育がかり――つまり家庭教師と一緒に、顔を見せるだけだった。その男は黙って眼鏡ばかり動かしていて、また一日じゅう青年たちと蹴球をやっていたのである。三人は橙色だいだいいろの髪を真ん中から分けて、長い無表情な顔をしていた。「ちょっとそのヴルストみたいなものを取ってくれないか」と一人が言う。「こりゃヴルストじゃない。シンケンだよ」ともう一人が言う。そしてこの三人と家庭教師とが会話に寄与するところは、たったそれぎりであった。そのほかは黙って坐ったまま、湯を飲んでいるだけなのである。
 トニオ・クレエゲルは、こうした種類以外の食卓仲間を、決して望まなかったであろう。彼は自分の平和を楽しみながら、魚商と女主人とが時々する会話の、そのデンマアク語の喉音、高い母音や低い母音に耳を傾けたり、折々魚商と気象についての素朴な言葉をかわしたりした後、やがて席を立って、その前すでに、長いこと朝の時刻をすごした渚へと、ベランダを抜けて再び降りて行く。
 渚は時として閑静で夏めいていることがあった。海はあいと、ガラス壜のような緑と、淡紅とのしまをなして、銀色にきらめく光の反射を、一面にたゆたわせながら、ものうげに滑らかにやすらっているし、海藻は日にひからびて、枯草のようになっているし、くらげはじっところがったまま、蒸発している。少し物の腐ったような匂いと、それから漁船のタアルの匂いも少しした。トニオ・クレエゲルは砂に坐ったなり、その漁船に背をもたせていた――スウェエデンの海岸でなく、ひろびろとした水平線が眼に入るような向きに。が、海の微かな吐息は、清らかにさわやかに、すべての上をなでて通る。
 と思うと、灰色の荒模様の日々が来た。波は、衝こうとしてつのを構える牡牛のように首を下げたまま、狂暴に渚をめがけて突進する。渚はずっと上のほうまで洗い尽されて、濡れ光る海草や貝殻や、打ち寄せられた木端こっぱなぞで蔽われている。長くびた波丘の間には、雲の垂れた空のもとに、淡緑に泡立つ谿々がひろがっている。しかし雲の奥に日のあるあたりには、水の上にも、ほの白いビロオドめいた輝きが漂っている。
 トニオ・クレエゲルは風と濤声とに包まれて、この永遠の、重々しい、耳をろうするどよめきの中にひたりながら、たたずんでいた。このどよめきが彼は実に好きなのである。きびすを返して立ち去る時には、いつも身のまわりが、急にすっかり穏やかに暖かになるような気がした。しかし背後には海を意識していた。海は呼びかけ、いざない、挨拶を送るのである。すると彼はほほえんだ。
 彼は陸のほうへ向かって、草原道の淋しいなかを通って行ったが、まもなく、その一帯に小高く突き出ている山毛欅ぶなの森が彼を迎えた。彼はこけの中に腰をおろして、海がひとすじ、越しに見えるような向きに、樹に凭りかかった。時折、風が波の轟きを彼の所まで運んで来た。それは遠くのほうで板が落ち重なるような響きだった。からすの鳴き声が梢越しに聞こえて来る。しわがれて、わびしく、頼りなく。……彼は本を一冊、膝に載せているが、しかし一行も読んではいなかった。深い忘却、時空を超えた無碍むげ揺曳ようえいを、享楽しているのであった。ただ時々、ある痛みが心を貫いて、きらめき走るかのように見えた。それは一つの短い刺すような憧憬か、後悔の感じだった。そしてその名と由来とを尋ねるには、彼はあまりにものうく、あまりに夢見心地なのだった。
 こんな調子で過ぎる日が随分あった。幾日すぎたかと問われても、彼は答えられなかったろうし、またちっともそんなことを知ろうとは望まなかったのである。が、そのうちにある一日が来た。その日ある事が起こった。それは太陽が空にかかっていて、人々がそこに居合せた時に起こった。そしてトニオ・クレエゲルはそれを見て、別に大して驚きもしなかったのである。
 その日はもう発端はなから晴れがましく、心を奪うようにできていた。トニオ・クレエゲルはずっと早く、しかもまったく不意に目をさまして、何か微妙な漠然たる驚愕とともに、ぱっと跳ね起きると、ある奇蹟を、ある妖幻な照明の魔術を、眼前に眺めるような気がした。海峡のほうへ向かって、ガラス扉と露台がついていて、薄い白い紗の幕で、居間と寝室とに仕切られている彼の部屋は、薄色の壁紙と軽い白っぽい家具とがあるので、いつも晴れやかな快い趣きを呈していた。ところが今、彼のねぼけまなこは、その部屋がこの世ならぬ浄化と光燿こうようのうちに、すぐ前に横たわっているのを見た。得もいわれぬ優しい匂やかなばら色の光が、隅から隅まで満ち渡って、四壁と家具を金で染めた上、紗のとばりを柔らかくあかく燃え立たせている。……トニオ・クレエゲルは、何が起こったのやら、長いこと分からずにいた。しかしガラス扉の前に立って外を眺めると、それは昇って来る太陽のせいだということが分かった。
 今まで数日間は曇って雨がちだったが、今日は張り切った水色の絹でできたような空が、きらめきながら澄み渡って、海と陸の上にかかっている。そして赤に金にいて光る雲にとりまかれながら、ちらちらとさざなみだつ海面から、おごそかに日輪が昇って来る。海はその下で、おののくように、燃え立つように見受けられる。……こんな風にしてその日は始まったのであった。トニオ・クレエゲルは、まごついた幸福な気持で、手早く着物を着ると、誰よりも先に下のベランダで朝飯をすませた後、ささやかな木造の水浴小屋から海峡のほうへ向かって少しばかり泳いで、それから浜づたいに何時間も歩いた。帰って来ると、ホテルの前に乗合風の馬車が数台止まっていた。そして食堂から見ると、ピアノの置いてある隣の社交室にも、それからベランダにも、その前にあるテラスにも、おびただしい人たち――中流風な服装の紳士淑女が、いくつもの円卓を囲んで、にぎやかに話し合いながら、ビイルを飲んだり、バタのついたパンを食べたりしているのが見えた。それは幾組もの家族づれで、年かさの人たちや若い人たち、子供さえ五、六人いた。
 二度目の朝飯の時(食卓には冷たい料理――燻製くんせいや塩漬や蒸焼むしやきなどが山盛だった)トニオ・クレエゲルは、何事が起こりつつあるのかを尋ねてみた。
「お客ですよ」と魚商が言った。「ヘルジンゲエルから来た、遊山と舞踏会のお客さんたちでさあ。いやまったくたまりませんね、とても寝られないでしょうよ、今晩は。踊りが始まるでしょうからね、踊りと音楽が。しかもそいつが、きっと長く続くと思わなくちゃなりませんもの。まあ一族同士の親睦会とか、懇親会をかねた遠足会とか、つまり会費持ち寄りの集会といったようなもので、みんなこのいい日和を楽しんでいるのですな。船や馬車でやって来て、いま朝飯をやっているところです。もう少し経つと、おかのほうをもっと先まで出かけますが、夕方には帰って来ます。そうすると、この広間で舞踏の楽しみが始まるわけですよ。畜生、いやになっちまう。われわれは一睡もできないでしょうよ……」
「なに、気が変わって結構じゃありませんか」とトニオ・クレエゲルは言った。
 それぎりかなり長い間、誰ももう何も言わなかった。主婦は赤い指を揃える。魚商は呼吸を少し楽にするために、右の鼻の孔から息を吹き出す。そして例のアメリカ人たちは、湯を呑んではまずそうな顔をする。
 と、その時、突然こういうことが起こった。――ハンス・ハンゼンとインゲボルグ・ホルムとが、食堂を通って歩いて行ったのである。――
 トニオ・クレエゲルは、水浴と足早な散歩のあとの快い疲れを覚えながら、椅子に背をもたせて、燻製のさけをのせた焼パンを食べていた。――ベランダと海のほうへ向いて坐っていたのである。すると急に扉が開いて、その二人が手をたずさえて入って来た――ゆるやかな迫らぬ足どりで。インゲボルグは、金髪のインゲは、クナアク先生の踊りの時間にいつもしていたような、白っぽい身なりだった。花模様のある軽い服は、くるぶしのところまでしかない。そして肩には、幅の広い白い絹網の縁飾がついている。それが深くってあるので、軟らかい、しなやかな頸筋くびすじがあらわれている。帽子は結んだままのひもで、片方の腕にかかっている。彼女は昔よりもほんの少し大きくなったかと思われる。あのみごとな垂髪おさげも、今では頭にまきつけてある。ところがハンス・ハンゼンのほうは、昔とちっとも変わっていない。金ボタンのついた例の水兵服で、その肩と背中とに、幅の広い青いえりがかかっている。短いリボンのついた水夫帽を、だらりと下げた手に持ったなり、のんきそうにぶらぶら振っているのである。インゲボルグは、食事をしている人たちに見られて、少しきまりが悪いのであろう、例の細く切れた眼をそむけている。しかるにハンス・ハンゼンは、かえってわざわざ、皆に対抗して、首を朝飯の卓の方へ向けながら、例の鋼青色の眼で順々に一人一人を、挑むように、幾分さげすむように、じろじろ眺めた。それどころか、インゲボルグの手まで放してしまって、帽子をさらに烈しく前後に振り動かした。どんな男であるかを示すつもりなのである。こんな調子で二人は、音なく青む海を背景に、トニオ・クレエゲルの眼の前を通りすぎて、食堂を縦に端から端まで突っ切ると、反対側の扉口からピアノの室に姿を消してしまった。
 これは午前十一時半に起こったことだが、まだ浴客たちが朝飯を終わらぬうちに、隣室とベランダにいた一行は席を立って、一人も食堂へは入って来ずに、側面にあった出口を通って、ホテルを出て行った。外で皆がふざけたり笑ったりしながら、馬車に乗り込むのや、馬車が次々に国道を軋ませながら動き出して、轢轆れきろくと走り去るのが聞こえた。
「じゃみんなまた帰って来るのですね」とトニオ・クレエゲルは問うた……
「帰って来ますとも」と魚商が言った。「だからやりきれないというんです。ねえ、音楽を注文して行ったんですよ、ほんとに。しかもわたしはこの食堂の上で寝るんですからな」
「なに、気が変わって結構じゃありませんか」とトニオ・クレエゲルは繰り返した。やがて立ち上がると、歩み去った。
 彼はほかの日々を過ごしたと同じように、その日を渚で、森で過ごした。本を膝に載せたまま、眼を細めて太陽を見つめていたのである。彼はただ一つの考えを働かせていた。――魚商が請け合ったごとく、皆がまた帰って来て、食堂で舞踏会が催されるだろうという考えである。そしてそれを楽しみにして待つよりほかには、なんにもしなかった。長い死んだような歳月の間、もはや一度も味わずにいたほどの、おずおずした甘い喜びをいだきながら、待ったのである。一度どうにかした観念のつながり工合で、一人の遠い知人――小説家アダルベルトのことが、ちらと胸に浮かんだ。自己の欲するところをわきまえていて、春風を避けるために、カフェエに入って行ったあの男のことである。すると彼はその男に対して肩をそびやかした……
 昼食は平生より早めに済んだ。そして夕食もやはりいつもより早く、ピアノの部屋でしたためられた。食堂ではすでに舞踏会の用意にかかっていたからである。こんな風に、いかにも浮き浮きした調子で、すべてが不規則になってしまった。やがてもう暗くなって、トニオ・クレエゲルが自分の部屋に坐っていた時、国道や家の中が再び騒がしくなり始めた。遠出の連中が帰って来たのである。そればかりでなく、ヘルジンゲエルの方角から、自転車や馬車でさらに新しい客が到着した。そしてもう階下では、ヴァイオリンの調子を合わせたり、クラリネットで甘ったるい音色ねいろの音階の練習をやったりしているのが聞こえた。……すべては、やがて華やかな舞踏会が始まることを期待させるのだった。
 と思うと、小さなオオケストラが行進曲を奏し始めた。低くしかし確かな拍子で、それは響き上がって来た。舞踏はポロネエズで開かれたのである。トニオ・クレエゲルはなおしばらく、じっと坐って耳を澄ませていた。が、行進曲の調子がワルツの拍子に移ったのを聞くと、たち上がって音もなく部屋を忍び出た。
 その部屋のある廊下から行くと、裏梯子を通ってホテルの横玄関に出て、そこから今度は一つも部屋を抜けずに、ガラス張りのベランダに達することができる。この道を彼は取って、まるで禁断の小径こみちでもたどるように、暗い中を用心深く手探りで進んで行った――この馬鹿げた、快く心をゆする音楽に、抵抗しがたく惹きつけられながら。がくは、もう明らかにはっきりと彼の耳へ迫って来た。
 ベランダには人影もなく、灯もなかったが、広間へ通ずるガラス扉は開け放されていた。広間にはまぶしい反射器のついた、大きな石油ランプが二つ、明るく輝いている。彼は戸口へ抜き足で忍び寄った。すると、この暗闇にこうしてたたずんだまま、明るい所で踊っている人たちを、誰にも気付かれずにぬすみ見ることができるという、盗人めいた享楽に、彼は肌がこそばゆくなるのを覚えた。せわしなく、むさぼるように、彼は自分の求めている例の二人のほうへ、視線を走らせた……
 始まってから、やっと半時も経ったか経たないかくらいなのに、うたげのにぎやかさは、もう思う存分に募り切っていた。しかし何しろみんな終日一緒に、のんびりと仲間同士で幸福に過ごしたあとで、すでに熱したはしゃいだ気持で、この場へやって来たのだから、無理もないのである。思いきって少し前に出れば、トニオ・クレエゲルはピアノの部屋まで見渡すことができたが、そこには年かさの紳士が数人、煙草をくゆらせたり、酒を飲んだりしながら、カルタ遊びに集まっていた。が、そのほかの連中は、広間で細君たちと一緒に、前のほうのあらビロオドの椅子や、壁際の所に腰かけながら、踊りを見物していた。彼等は開いた膝の上に、両手を突っ張ったなり、裕福らしい表情で頬をふくらませているし、母親たちのほうは、小頭巾をかぶったまま、両手を胸の下に組み合わせて、首をかしげながら、若い連中の雑鬧ざっとうに眺め入っている。広間の一方の縦壁寄りに演奏壇が設けられていたが、そこでは楽人たちが最善を尽している。ラッパさえ一つ入っていて、それがわれとわが声を怖れるかのごとく、小心翼々として鳴っているのに、やっぱり絶えず音が割れて、かん高く突っ走ってしまうのだった。……うねったり輪をいたりしながら、幾組もの男女が入り乱れて動いている一方には、ほかの組々が腕を組み合わせて、広間じゅうをぐるぐると逍遥しょうようしている。みんな舞踏会らしい服装ではなく、夏の日曜を戸外で過ごす時のような様子をしているにすぎない。――男子連は、この一週間中ずっと着ずにおいたことが分かるような、小都会式な仕立ての服、また若い娘たちは明るい軽やかな衣裳で、胸衣に野花の束をつけている。子供も五、六人広間にいて、自分たちだけで独得に踊っている。音楽が休んでいる時でさえ踊っている。燕尾服の上着を着た、ある脚の長い人間、片眼鏡をかけて、髪にこてをあてた田舎の大将株、郵便局の助手か何かで、デンマアクの小説にある滑稽人物が、そのまま抜け出して来たような男――これが宴会の幹事兼舞踏会の指揮者であるらしかった。せかせかと汗みどろになって、魂を打ち込んで熱中しながら、彼はどこにでも同時に遍在した。広間じゅうを営々としてのたくり廻るのである。器用に爪先でまず踏み出すと、滑らかな尖った軍人風の編上げをはいた足を、複雑にくい違わせて重なり合うように落とす。両腕を宙に振る。指図をする。音楽のほうへ声をかける。手を叩く。しかも彼が役目のしるしとして肩にとめていて、時々優しく顔を向けて見る、大きな五彩の飾り紐の端は、その間たえずひらひらなびきながら、彼のあとから飛んでゆくのだった。
 そうだ。彼等はそこにいる。今日昼の日中ひなかに、トニオ・クレエゲルのそばを通りすぎて行ったあの二人は。彼は二人を再び見た。しかもほとんど同時に二人を認めた時、喜びのあまり愕然としたのだった。こっちにハンス・ハンゼンが立っている。彼のすぐ近くに。戸口のついわきに。脚を開いて少し前かがみになったなり、落ち着き払って大きなカステラの一片をべながら、粉を受けるために掌をくぼませて、顎の下にあてがっている。それから向こうの壁際には、インゲボルグ・ホルム、金髪のインゲが腰かけている。と、ちょうどそのとき例の助手が、彼女をめがけてうねり寄って、片手を背中に廻すと、片手を気取って胸に差し入れながら、特別丁寧なお辞儀をして、彼女を踊りに誘った。しかし彼女は首を振って、あまり息切れがしているから、少し休息しなければならないという意味を伝えた。すると助手は彼女のわきへ腰をおろした。
 トニオ・クレエゲルは二人を、その昔自分を恋に悩ませた二人を――ハンスとインゲボルグとを眺めた。その二人がハンスとインゲボルグだというのは、一々の特徴なり服装の類似なりのためよりも、むしろ種族と典型との等しさ――あの晴れやかな鋼色はがねいろの眼、明色ブロンドの髪を持つ種類としての等しさによるのだった。純潔と清澄と快活と、それから傲慢ごうまんで同時に素朴な、犯しがたい冷淡とのまざったものを思わせる、あの種類として等しいからだった。……彼は二人を眺めた。ハンス・ハンゼンが昔そのままに昂然と恰好よく――肩のほうが広く、腰のほうが細く、いつもの水兵服でそこに立っているのを見た。インゲボルグが何だかはしゃいだ様子で笑いながら、首をぐっと横に曲げて、その手を――大して細くもなく大して上品でもない、小娘風の手を、一種の所作で後頭へ持って行った拍子に、軽い袖口がひじから肩の方へずり落ちるのを見た。――するとにわかに郷愁が烈しい苦痛で、彼の胸をゆりうごかした。それは彼が、自分の顔の痙攣を誰にも見られまいとして、われ知らずさらに深く暗闇へ引き退いてしまったほど、烈しいものだった。
 僕は君たちを忘れていたのか、と彼は問うた。いや決して忘れたことはない。ハンス、君のことも、インゲ、君のことも。僕が働いたのは君たちのためだったのだ。だから喝采の声を聞く度に、僕はいつも君たちもそれに加わっているかと思っては、そっとあたりを見廻したものだ。……君はもう『ドン・カルロス』を読んだかね、ハンス・ハンゼン、いつか君の家の庭戸のそばで僕に約束した通りに。読むのはやめたまえ。僕はもうそんなことを君には求めないよ。淋しいからといって、泣くような王様が、君に何のかかわりがあろう。君は詩と憂愁を凝視して、その明るい眼を曇らせたり、夢のようにかすませたりしてはいけないのだ。……君のようになれたら! もう一度やりなおして、君と同じように、公明に快活に素朴に正則に秩序正しく、神とも世とも和らぎながら人となって、無邪気な幸福な人たちから愛せられて、インゲボルグよ、君を妻として、ハンス・ハンゼンよ、君のような息子を持つことができたら――認識と創造苦という呪いを脱して、甘美な凡庸のうちに、生き愛し讃めることができたらなあ。……もう一度やりなおす? しかしそれはなんにもなるまい。やりなおしたところで、またこうなってしまうだろう――いっさいは、今まで起こって来た通りにまたなってしまうだろう。なぜといって、ある人々は必然的に道に迷うのだ。彼等にとっては、もともと本道というものがないのだから。
 いま音楽はんでいた。休憩なのである。そこで点心が運ばれた。助手はみずから、にしんサラダの盛られた茶盆を持って、急いであちこち廻りながら、婦人たちの給仕をした。ところがインゲボルグ・ホルムの前では、小皿を渡すのに片膝まで折った。すると、それが嬉しさに彼女は顔を紅らめた。
 このとき広間の中の人々は、とうとうやっぱり、このガラス扉の所にいる観客に気がつき始めて、いくつもの綺麗なのぼせた顔から、うとましい探るような視線が彼にあたった。しかし彼はそれでもその場を固守していた。インゲボルグとハンスもまた、ほぼ同時に彼のほうをちらと見た。ほとんど軽蔑の色を帯びた、あの完全な無関心さで見たのである。ところが突然彼は、どこからか一つの視線が自分に迫って来て、自分の上にえられたのを意識した。……首をめぐらして見ると、彼の眼は、たちまち自分を見ていると感じたその眼と出会った。少女が一人、彼から遠くない所に立っている。蒼白の細い、ひ弱い、彼がもう前に気付いていた顔である。彼女はあまり踊らなかった。紳士たちも彼女には大して構わなかった。彼女がきっと唇を噛み締めたなり、ぽつねんと壁際に坐っているのを、彼はさっきも見たのであった。今も彼女はひとりで立っている。ほかの娘たちと同じく、白っぽい匂やかな服を着てはいるが、しかしその服のいた地の下には、裸の肩がごつごつと貧相にちらついているし、やせた頸がこのみすぼらしい両肩の間に深く埋まっているので、このおとなしい少女は、何だか少しせむしめいて見えるくらいだった。薄い半手套をはめた両手は、両方の指先が軽く触れ合うような工合に、平たい胸の前にあてられている。彼女はうなだれたまま、トニオ・クレエゲルを上眼づかいに、黒い濡れた眼で見つめた。彼は顔をそむけた……
 ここに、彼のついわきに、ハンスとインゲボルグが坐っている。男は、おそらく自分の妹であるらしい女のそばに腰をおろしていたのである。そしてほかの頬赤き人の子たちに囲まれながら、食べたり飲んだりしゃべったり面白がったり、よく響く声でからかい合ったり、宙に向かって大きな笑い声を立てたりしている。――自分は二人のそばへもう少し近寄れぬものだろうか。彼か彼女に、何かちょっと思いついた冗談でも言えぬかしら。二人がせめて微笑をもって答えずにいられぬような冗談でも。それができたらどんなに仕合せであろう。自分はそれを待ちこがれている。そうなれば、今までよりも満足な気持で、二人とささやかな交渉を結んだという意識を抱いて、自分の部屋へ帰って行けるであろう。――彼は言えそうな文句をひそかに案じてみたが、それを口に出すだけの勇気は見出せなかった。それにまた無論いつもの通り、二人は彼を理解せぬであろう。彼がやっと何か言っても、怪訝けげんそうにそれを聞くのであろう。なぜなら彼等の言葉は、彼の言葉とは違うのだから。
 さて、舞踏が再び始まりそうな形勢になった。助手は広汎な活動を展開した。気ぜわしく歩き廻って、一同に踊りの約束を勧める。給仕の手を借りて、椅子だのさかずきだのを取り片付ける。楽人たちに命令を与える。どこへ行ってよいか分からずに、まごまごしている人たちの肩をつかまえて、押して行くという調子である。何を始めようというのであろう。四組ずつの男女が角陣カレエを作った……とある怖ろしい追憶が、トニオ・クレエゲルを赤面させた。皆はカドリイルを踊るのである。
 音楽が始まって、組々はお辞儀をしながら入れ違いに歩く。助手が号令を掛けている。まぎれもなくフランス語で号令をくだして、鼻音をたとえようもなく上手に出すのである。インゲボルグ・ホルムはトニオ・クレエゲルの鼻先で、ガラス扉のすぐそばにいる角陣カレエの中で踊っている。彼の眼の前で左右前後へ、大股に歩いたり身をひるがえしたりしながら動いている。彼女の髪からか、または彼女の着物の軟らかな布地から出る香りが、時折彼に触れた。すると、彼はある感じのうちに眼を閉じた。それは彼が以前から実によくなじんでいる感じで、その芳香と鋭い魅力とを、彼はこの二、三日中、かすかに意識していたのである。そして今や再び、その感じが持ち前の甘い悲痛で、彼の心をみたすのだった。それはそもそも何であろう。憧憬か。愛慕か。羨望せんぼうか。自蔑か。……御婦人の旋舞ムリネエ・デ・ダアム! 僕が旋舞ムリネエを踊ってひどく恥をかいた時に、君は笑ったのか、金髪のインゲよ、君は僕をあざ笑ったのか。そうして僕がまあ名士とか何とかいうものになってしまった今日でも、やはりなお君は笑うだろうか。そうとも、君は笑うだろう。しかもそうするのが重々正しいのだ。たとえ僕が、僕たったひとりが、あの九つの交響楽と、意志および観念としての世界と、最後の審判とを完成したとしても――それでも君には永久に笑う権利があるであろう。……彼は彼女を見つめた。すると、ある詩句がふと心に浮かんだ。長いこと思い出さずにいた、しかし彼にとっては実に懐かしい親しい句である。――「われはねまし、されどは踊らでやまず。」この文句の語る憂鬱で北国的な、誠実で不器用な感覚の重苦しさを、彼は実によくっている。眠るのだ……動くとか踊るとかいう義務なしに、甘くものうくそれ自身の中に安らっている感情――まったくその感情にのみ生きられるようになりたい、とあこがれるのだ。――しかもそれでいて、踊らずにいられないのだ。敏活に自若として、芸術という難儀な難儀な、そして危険な白刃しらは踊りを演ぜずにはいられないのだ――恋をしながら踊らずにいられぬという、その屈辱的な矛盾を、一度もすっかり忘れきることなしに……
 突然、一座全体が狂おしい度外れな動揺に陥った。角陣カレエは解けてしまって、みんな跳ねたり滑ったりしながら、残らず四方に散った。カドリイルがギャロップで閉じられるのである。組々は音楽の狂暴な急調子につれて、トニオ・クレエゲルのそばをすり足で大急ぎで、互いに追い抜きながら、短く息苦しそうに笑いながら、飛びすぎてゆく。ある一組がやって来た。一座の追走にまき込まれて、ぐるぐる廻りながら嵐のように進んで来た。娘のほうは蒼白いひ弱い顔とやせた高すぎる肩とを持っている。すると不意に彼の鼻先で、皆がつまずいたりすべったり転んだりし始めた。……その蒼白い少女が倒れたのである。見ていてほとんどはっと思われたほど、彼女は手痛く烈しく倒れた。そして同時に相手の男も倒れた。彼は踊り相手のことなんぞすっかり忘れてしまうくらい、ひどく痛い目に逢ったに違いなかった。なぜならば半身を起こしただけで、顔をしかめながら、両手で腰をこすり始めたからである。少女のほうは、倒れたためにすっかり気を失ったのであろう、まだ依然として床に横たわったままであった。するとトニオ・クレエゲルが進み出て、そっと少女の両腕をつかんで抱き起こした。疲れ切った、取り乱した、不仕合せな様子で、少女は彼を見上げた。と思うと、不意にそのなよやかな顔が薄紅く染まった。
「Tak! O, mange Tak!」(ありがとうございます。ほんとにどうもありがとうございます)と彼女は言って、黒い濡れた眼で下から彼を見上げた。
「もう踊らないほうがよいでしょう、お嬢さん」と彼は優しく言った。それからもう一度彼等のほうへ――ハンスとインゲボルグのほうへ眼をやった後、彼はそこを立ち去って、ベランダと舞踏会とを見捨てたなり、自分の部屋へ昇って行った。
 自分の加わらなかったうたげに、彼は酔っていた。そして嫉妬しっとのために疲れていた。以前の通り、まったく以前の通りだったのである。自分は顔をほてらせながら、暗い所にたたずんでいた。君たち、金髪の溌剌たる幸福な人々よ、君たちのための苦しみをなめながら、たたずんでいたのだ。そしてやがて寂しく去って来てしまった。ほんとは誰かがここへ来なければならないところだ。インゲボルグがやって来るはずのところだ。自分がいなくなったのに気付いて、そっと自分の跡について来て、自分の肩に手を掛けてこう言わなければならないところだ。――私たちの所へ入っていらっしゃいな。機嫌よくなさいよ。わたしあなたが好きなのよ。……しかし彼女は一向やって来なかった。そんなことは起こらぬものなのである。そうだ、ちょうどあの頃の通りだ。そして自分はあの頃の通り幸福なのだ。なぜなら自分の心臓は生きているからだ。しかし自分が今の自分になるに至った年月を通じていったい何があったのであろう。――凝結だ。荒涼だ。氷だ。そうして精神だ。そうして芸術なのだ……
 彼は着物を脱いで寝床に入って、灯を消した。彼は二つの名を枕の中へささやいた。あの貞潔な北国的な幾綴いくつづりである。彼にとっては、本来の根源的な恋と悩みと幸福との様式を、生活を、素朴で誠実な感情を、故郷を意味するものである。彼はあの頃から今日までの歳月を顧みた。己の経て来た官能と神経と思想との、すさみ果てた冒険を想い起こした。諷刺と精神とにむしばまれ、認識に荒らされ、しびらされ、創造の熱と悪寒とに半ば磨滅され、頼るところもなく、良心をさいなまれつつ、森厳と情欲という烈しい両極端の間を、あっちこっちへ投げ飛ばされ、冷やかな、わざとり抜いた高揚のために、過敏にされ貧しくされ疲らされた揚句、乱れてすさみ切って責め抜かれて、病み衰えてしまった自分の姿を眺めた――そして悔恨と郷愁とにむせび泣いた。
 彼のまわりは寂として暗かった。しかし階下からは、こもにそして心を揺り寝かすように、生活の甘い陳腐な三拍子が、彼の所まで響き上がって来た。

 トニオ・クレエゲルは北国に静坐して、彼の女友リザベタ・イワノヴナに約束の通り手紙を書いた。
 遥か向こうのアルカディアにいるリザベタさん、僕もじきにそこへ帰ります。と彼は書いた。――さてこれがつまり手紙といったようなものなのですが、しかしこれはおそらくあなたを失望させるでしょう。僕はやや普遍的な調子で書こうと思っているからです。もっとも語るべきことが全然ないわけでもなく、僕独得の流儀で、何やかや体験しなかったわけでもありません。故郷で、僕の生まれた町で、僕は逮捕せられそうにさえなりました。……しかしそれは口でお伝えしましょう。このごろ僕には、物語を述べるよりも、上手に何か普遍的なことを言うほうが好ましいと思われる日が、ずいぶんあるのです。
 リザベタさん、あなたはかつて僕を名付けて、俗人、道に迷った俗人と呼ばれたことを、おそらくまだ覚えておいででしょうね。そう呼ばれたのは、その前うっかり口を滑らせてしまったほかの告白につられて、僕が生活と名付けるものへの愛着をあなたに白状した、そのひとときのことでした。そこで僕は、どんなに深くあなたの言葉が真相をうがっていたか、どんなにはなはだしく僕の俗人気質と、僕の「生活」への愛とが同一物であるか、それをあなたはあのとき知っておられたろうかしら、と自問します。今度の旅行はそれについて反省する動機を、僕に与えてくれました……
 僕の父は、御承知でしょうが、北方的な気質の人でした――観照的で徹底的で、清教主義から几帳面で、憂鬱に傾いていたのです。母は漠然と外国的な血があって、美しく官能的で無邪気で、投げやりであると同時に情熱的で、また衝動的なだらしなさを持っていました。これはまったく疑いもなく異常な可能性と――そして異常な危険とを宿した一つの混合だったのです。この混合から生まれ出たのはこういうものでした――芸術の中にまぎれこんだ俗人、よき子供部屋への郷愁をいだいているボヘミアン、やましい良心を持った芸術家でした。なぜといって、僕の俗人的良心こそは、僕をしてあらゆる芸術生活、あらゆる異常性、あらゆる天才のなかに、あるはなはだ曖昧な、はなはだ怪しげな、はなはだ疑わしいものを見出させ、単純な誠実な、安易で尋常な、非天才的な紳士的なものに対する、あのおぼれ心地の偏愛で、僕の胸をいっぱいにするものなのですから。
 僕は二つの世界の間に介在して、そのいずれにも安住していません。だからその結果として、多少生活が厄介です。あなたがた芸術家たちは僕を俗人と称えるし、一方俗人たちは僕を逮捕しそうになる……どっちのほうが僕をより烈しく傷つけるか、僕は知らない。俗人は愚昧だ。しかし僕を粘液質で憧憬のない人間と名付ける、あなたがた美の崇拝者たちは、こういうことを顧慮してはどうですか。――世の中には凡庸性の法悦に対する憧憬を、ほかのいかなる憧憬よりも、さらに甘くさらに味わい甲斐があるように感ずるほど、それほど深刻な、それほど本源的で運命的な芸術生活があるということを。
 僕は偉大な悪魔的な美の道で、冒険を試みながら、「人間」を軽蔑する、あの誇らかな冷静な人々を嘆美します――しかし彼等をうらやましいとは思いません。なぜなら、もし何かある物が文士から詩人を作り出す力を持っているとすれば、それは人間的な、いきいきした、凡庸なものに対するこの僕の俗人愛なのですから。いっさいの暖かさ、いっさいの良さ、いっさいの諧謔は、この愛から湧いて来ます。そして僕にはほとんどこの愛が、たとい諸々もろもろ国人くにびとの言葉と御使みつかいの言葉とを語りとも、もし愛なくば鳴る鐘、響く※(「金+拔のつくり」、第3水準1-93-6)にょうはちのごとしと書いてある、あの愛と同じものであるように思われるのです。
 僕が今までになしたところは皆無です。わずかです。皆無といってもいいくらいです。僕はこれからもっとよきものを作るでしょう。リザベタさん。――これは一つの約束です。こうして書いている間にも、海の響きが僕の所までのぼって来ます。そうして僕は眼を閉じます。僕は一つの未だ生まれぬおぼろげな世界を覗き込みます。それは整えられ形造られたがっているのです。僕は人間めいた姿の影がうごめいているのに見入ります。それは僕に、魔を払って救い出してくれと合図しているのです。悲劇的な影、滑稽な影、そしてまた同時にそのいずれもであるような影です。――そうしてこういう影に、僕は深い愛着を寄せています。けれども僕の最も深く最もひそかなる愛は、金髪碧眼へきがんの、晴れやかに溌剌とした、幸福で愛想のいい凡庸な人々の所有なのです。
 この愛をとがめないで下さい、リザベタさん。それはよき、実りゆたかな愛です。その中には憧憬があり憂鬱な羨望があり、そしてごくわずかの軽侮と、それから溢れるばかりの貞潔な浄福とがあるのです。





底本:「トニオ・クレエゲル」岩波文庫、岩波書店
   1952(昭和27)年5月25日第1刷発行
   2003(平成15)年9月17日改版第1刷発行
初出:「トニオ・クレエゲル」岩波文庫、岩波書店
   1927年(昭和2年)
※原題の「TONIO KR※(ダイエレシス付きO)GER」は、ファイル冒頭ではアクセント符号を略し、「TONIO KROGER」としました。
入力:kompass
校正:荒木恵一
2016年3月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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