ある幸福

EIN GLUCK

トオマス・マン Thomas Mann

実吉捷郎訳




 静かに! ある魂の中をのぞいて見ようと思うのだ。まあいわば大至急で、通りすがりに、ほんの五六ペエジの長さだけだが。なにしろわれわれはおそろしく多忙なのだからね。フロレンスから、古い時代から、われわれはやって来たのだ。あっちでは、最後の厄介な事件が持ちあがっている。それが片づいたら――さあどこへ行くかなあ。宮廷へでも、どこかの王城へでも行くか――誰が知ろう。ふしぎな、微光を帯びた事柄が、まさにまとまりかかっている。――アンナ、かわいそうな小さな男爵夫人アンナ、われわれはお前のためにゆっくりしている暇がないのだ。―― ――
 三拍子と杯の音――喧騒、濛煙、うなり、そして舞踏の足どり……みんなはわれわれを識っている。われわれの小さな弱味を識っている。人生がその素朴な祝典を催す場所に、われわれがひそかにかくも喜んで低徊するのは、苦痛というものが、そこで最も深刻な最もやるせない眼色をするからなのであろうか。
「候補生。」と騎兵大尉ハリイ男爵は、舞踏の足をとめて、広間いっぱいに声をひびかせた。まだ右の腕で相手の婦人を抱いたなり、左の手を腰にあてて突っ張っている。「そりゃワルツじゃなくって葬式の鐘だぜ、おい。君はどうもまるっきり拍子の感じがないんだね。ただ始終そうやって泳いだり、ふらふら浮いたりしているだけじゃないか。フォン・ゲルプザッテル少尉にまた弾いてもらおう。そうすれば、まあリズムだけは出てこようからな。引っ込みたまえ、候補生。踊りたまえ、もしピアノよりうまいんなら。」
 そこで士官候補生は立ちあがって、拍車をかたんと合わせて、無言のままフォン・ゲルプザッテル少尉に演奏壇を譲った。少尉はすぐに大きな、白い、指のひどくひらいた手で、かちかちぶうぶう鳴る、そのピアノを弾きはじめた。
 ところでハリイ男爵は、拍子の感じを――ワルツの拍子と、マアチの拍子と、快活と誇りと幸福とリズムと勝者の心とを、ちゃんと備えているわけなのである。金の紐飾りのついた驃騎兵服が、苦労や反省なんぞみじんも現われていない、若々しい上気した顔に、すばらしく似合っている。顔は金髪の人によくあるように、うす紅く日に焼けている。それでいて、頭髪も口髭も鳶色に見える。これが婦人たちを刺戟する点なのである。右頬の上にある赤い傷痕は、彼の磊落な風貌に、大胆不敵な表情を与えている。それは刀創なのか、または落馬でもしてできたものなのかわからない――が、いずれにしてもみごとなものである。いま彼は神のごとくに踊っている。
 しかるに候補生は――もしハリイ男爵の文句を譬喩的な意味で使っていいなら――泳いだりふらふら浮いたりしている。瞼があまりひどく長すぎる結果、彼はどうしても尋常に眼をあけることができない。それに軍服も少しだぶついていて、なんだか工合が変である。だからどうしてこの男が、軍隊生活という行路にまぎれ込んだのやら、それは誰にもわからない。彼は将校集会所の企てたこの「燕たち」を呼んでの慰みごとに、全くいやいやながら加わったのである。それでも今日は顔を出した。常々みんなの気を悪くせぬように用心しなければならないためだった。というのが、彼は第一に平民の出であったし、第二に彼の手に成った一種の書物――彼自身の書いた、あるいはみんなの言葉でいえば、著わした、作り話の集があって、それをだれでも本屋で買うことができるからである。これは候補生に対して、ある猜疑の念を起させずにはおかなかった。
 ホオエンダムにある将校集会所の広間は、奥行も長く間口もひろく、本来はこよいそこに打ち興じている三十人の紳士たちにとっては、大きすぎるのである。四壁と楽隊席とは、幕に見せかけた赤塗りの石膏で飾ってあり、無趣味な天井からは、曲りくねった燈架が二つ垂れていて、それにろうそくが傾きながら滴りながら、燃えている。ところで板張りの床は、特に命令を受けた七人の驃騎兵によって、午前中かかって拭き浄められた。だから結局、将校諸君といえども、このホオエンダムのごとき蒙昧僻遠もうまいへきえんの一寒村において、これ以上の豪奢を要求することはできないほどになった。それにまたこの宴会にどこか光彩の足りぬところがあっても、それはこの一夕に特色を与えている、あの一種独得ないたずら気分によって、「燕たち」と一緒になるという、禁断のおごった気持によってつぐなわれている。愚鈍な伝令兵たちでさえも、広間の三方の壁添いに並んだ、白く蔽われた小卓のそばの氷桶へ、新しいシャンパンの壜を立てながら、老獪そうににやにやしたり、あたりを見廻しては、微笑の眼を伏せたりしている。無言で無責任で、なにか思いきった暴挙に手をかす召使といった風に。――すべては「燕たち」を目当てにしてのことなのである。
 燕たち、燕たちとは何か。――まあ手っ取り早くいえば、それは「ウィインの燕たち」である。渡り鳥の一群のように国々を渡り歩き、およそ三十人ばかりの人数で、町から町へ飛び移っては、第五流どころの音楽堂や寄席へ出て、放埒な様子をしながら、かちどきのような、さえずるような声で、お得意の呼び物の唄を歌う――

「燕が今度また来たら
 眼を見張るだろ見張るだろ。」

 それは解りやすい諧謔を含んだ、いい唄で、「燕たち」は、それを聴衆のうち、よくわかった人々の喝采裡に歌うのである。
 というわけで、「燕たち」はこのホオエンダムにやって来て、グウゲルフィングの酒場で歌った。ホオエンダムには守備隊がある。驃騎兵がまさに一箇聯隊である。だから「燕たち」がこの権威ある階級から、並以上の興味を持たれるときめてかかったのは、むりもなかった。ところが、興味どころではない、感激をもって彼等は迎えられたのである。毎晩毎晩、独身の士官たちは彼等の足もとに陣取って、燕の唄を聞きながら、少女たちのために、グウゲルフィングの黄色いビイルで健康を祝した。しばらくすると、今度は既婚の人たちも現われた。そしてある晩、ついにフォン・ルンムレル大佐まで親しく臨場せられて、深甚な興味をもって番組を追われた後、さまざまな方面にむかって、「燕たち」に対する腹蔵なき推服の念を発表せられたのであった。
 さて、そこで尉官連中の間に、「燕たち」となじみになろうという計画が熟した。中でも一番きれいなのを、十人かそこいら選り抜いて、シャンパンと万歳との陽気な一夕に、集会所へ招待しようというのである。上官連は世間の手前、この企てに関係するわけにはいかないので、悶々の情を抱きながら、手をこまぬいているよりほかはなかった。が、ただに未婚の少尉たちのみならず、既婚の中尉大尉までがこれに加わった。しかもこの連中は(これがこの催しのくすぐりであり、本来のねらいどころでもあるのだが)夫人同伴なのである。
 障害と憂慮は? フォン・レフツァアン中尉は、こういう金言を発見していた――軍人にとりて、障害と憂慮とは、ただ征服せられ蕩尽せられんがために、在って存するものなり。人のいいホオエンダムの住民どもが、この企てを聞いたら、将校連が夫人がたを「燕たち」と同席させるといって驚くだろうが、それは勝手だ。彼等なら無論そんなことをしてはならないだろう。ところが、一つの高い世界というものがある。人生の豪放な彼岸の領域というものがある。より低い世界でなら、恥辱にも不名誉にもなるようなことでも、そこでなら、もうまた、いくらしようとかまわないのだ。それに尊敬すべき町民たちは、彼等の驃騎兵から、いつもいろいろけたはずれなことを、期待し馴れてはいないだろうか。将校連はいつでもその気になりさえすれば、白昼公然と人道を馬に乗って通る。それは事実あったことだ。いつかのくれがたなぞは、街の広場でピストルをうったものがあった。これもやはり将校のしわざにきまっている。しかもこんなことに対して、夢にでも文句をいおうとした者があったろうか。次の逸話なんぞも、たしかな保証つきである。
 ある朝、五時と六時の間に、男爵ハリイ大尉は、上機嫌で同僚数人と、夜の歓楽の帰り路をたどっていた。連れはフォン・ヒュウネマン大尉、ならびにル・メエストル、男爵トルッフゼス、フォン・トラウテナウ、フォン・リヒテルロオなどの中少尉仲間であった。この一行が「古橋」を渡ってゆくと、むこうからパン屋の小僧が一人来かかった。小僧はパンの入った籠を肩にして、のんきに小唄を口笛に吹きながら、すがやかな朝の中を進んで来たのである。「こっちへよこした。」と叫ぶが早いか、ハリイ男爵は、籠の把手に手をかけたと思うと、パンがただの一つも落ちないほどあざやかに、三度ばかり籠をぐるぐる振り廻してから、今度は彼の腕力を裏書する弓形を描かせながら、遠くむこうの濁った河水の中へ、籠を投げ込んでしまった。パン屋の小僧は、はじめは驚きのあまり凝然としていたが、やがて自分のパンが流れて沈んでゆくのを見ると、号泣の声とともに、両腕を高くあげながら、絶望した人のようなしぐさをした。しかし紳士たちがひとしきり、この小僧の幼稚な憂悶に打ち興じたあとで、ハリイ男爵は、籠の中味の三倍もする貨幣を一つ、小僧に投げ与えた。そうしておいて、将校連は笑いながら、さらに家路をたどったのである。そこで少年は、相手が貴族だということを合点して、なんにもいわなかった――
 この話はいちはやく人々の口の端に上った。しかしだれか一人でも、これについてとやかくいうだけの勇気を出したら、大変だった。みんな微笑しながら、または歯をくいしばりながら、ハリイ男爵とその同僚たちから、この話をただ甘んじて聞き取ったのである。男爵たちは支配者だからである。ホオエンダムの支配者だからである。さてこういうわけで、将校夫人がたは「燕たち」と席を同じうすることになった。―― ――
 候補生は踊りのほうも、ワルツを弾くのより上手ではないらしかった。なぜなら、踊りの約束もせず、ちょっと会釈をして小卓の一つに、ハリイ男爵の妻、小さな男爵夫人アンナのわきへ、腰をおろしてしまって、夫人になにやら恐る恐る言葉をかけているからである。「燕たち」と一緒になって楽しむことが、この若い男にはどうもできない。彼は「燕たち」がほんとうにこわかった。自分がどんなことをいっても、こういう種類の少女たちは、必ずけげんそうに自分を見つめるように彼は思うのである。そしてこれは候補生の心を痛ましめた。しかしいくじのない無能な人間によくあるごとく、彼は拙劣きわまる音楽によってすら、寡黙なものぐさな冥想的な気分に誘われていったし、それに男爵夫人アンナも、彼のことは毛頭気にとめないで、うわの空の返事ばかりしているので、まもなく二人とも口をつぐんで、ただ奇妙にも二人に共通な、なんだかこわばったゆがんだ微笑をたたえたまま、踊りの人々のゆれ廻る様を眺めるだけになってしまった。
 燈架のろうそくは、しきりにゆらめいては滴るので、もくもくと半分固まりかけた蝋涙で、燈架はすっかり不恰好になってしまった。が、その下では、フォン・ゲルプザッテル少尉のあおり立てるようなリズムにつれて、幾組もの男女が、ぐるぐると流れるように動いている。爪先を立てた足が、大股に運ばれる。しなやかに方向を換える。そしてすうっと滑ってゆく。紳士たちの長い脚は、少し曲って、はずんで、ぴんとはねて、いきおいよく飛んでゆく。上着がなびく。多彩の驃騎兵服が入りまざって渦をまく。そして婦人たちは、なまめかしく小首を傾けながら、相手の腕へ腰をもたせかける。
 ハリイ男爵は一羽のあきれるほどきれいな「燕」を、紐飾りのついた胸へ、かなり堅く抱き寄せたなり、顔を相手の顔に近づけて、わきめも振らずに、相手の眼を見つめていた。アンナ夫人の微笑は、この一組にいてゆく。あそこでは、のっぽのフォン・リヒテルロオ少尉が、小さいふとったまんまるな、並外れて肩のあらわな「燕」を擁して、ころがるように踊っている。ところが、もう一つの燈架の下では、なににも増してシャンパンの好きなフォン・ヒュウネマン大尉夫人が、うそでも偽りでもなく、全くわれを忘れて、もう一羽の「燕」とぐるぐる踊り廻っている。その燕はそばかすのあるかわいらしい子で、この常ならぬ光栄のために、顔中どこからどこまで光り輝いていた。「ねえ、奥様。」とあとになってフォン・ヒュウネマン夫人は、フォン・トルッフゼス中尉夫人に向っていった。「あの娘たちはちっとも無教育ではございませんよ。ドイツ国中の騎兵守備隊の所在地を、すっかり空でいって見せますもの。」婦人が二人あまってしまったので、この二人は一緒に踊っているのだが、この二人だけに芸をさせようというので、みんなが次第次第に場面からどいてしまったことを、二人はまるで気づかずにいた。ようやくそれでも気がつくと、広間のまんなかに、二人並んで立ちどまってしまった、哄笑と喝采と万歳の叫びとに埋もれながら。――
 それからみんなはシャンパンを飲んだ。伝令兵たちが白手套のまま、テエブルからテエブルへ走っては、注いで廻った。しかしそれがすむと、「燕たち」はもう一度歌わなければならなかった。息がきれていようといまいと、そんなことは一切かまわず、どうでもぜひ歌わなければならなかった。
「燕たち」は、広間の短かいほうの壁の一つを占めている演奏壇の上に、一列に並んで立って、秋波を送った。みんな肩と腕があらわれている。衣裳は淡灰色のチョッキの上へ、それよりも濃い色の燕尾服を着ていると見えるような工合にできている。それに縫飾りのある灰色の靴下と、おそろしくかかとの高い、甲のところが長くきれ込んだ靴とをはいている。金髪のがいる。黒髪のがいる。人がよさそうにふとったのもあれば、おもしろいほどやせたのもある。妙に精のない深紅の頬をしたのがいると思うと、道化役のように真白な顔をしたのもある。しかし中で一番きれいなのは、やはりさっきハリイ男爵の踊り相手になった、あの子供らしい腕と、巴旦杏はたんきょうのような輪郭の眼をした、小さな小麦色の肌の女である。アンナ夫人もまた、この女が一番きれいだと思った。そして微笑しつづけた。
 さて「燕たち」が歌って、フォン・ゲルプザッテル少尉が伴奏を弾いた。少尉は上半身をそらせて、首を「燕たち」の方へ向けたまま、腕を長く伸ばして鍵盤を打っている。「燕たち」は斉唱で、こういう意味の唄を歌った。――私たちは気楽な鳥だ、もう世界中を旅していて、飛び去る時には、いつもあらゆる人の心を拉してゆく、というのである。またきわめてなだらかなふしの小唄もあった。それは、

「ほんとにそうとも軍人さん、
 軍人さんならとてもすき。」

という文句ではじまって、やはりよく似た言葉で終る唄だった。が、その次には、嵐のような請求に応じて、「燕たち」はもう一度燕の唄を歌った。すると、それをもう同様にそらんじている紳士たちは、感激して声を合わせた――

「燕が今度また来たら
 眼を見張るだろ見張るだろ。」

 広間には歌声と笑い声と、拍車をつけた足で拍子を取る、戞然かつぜん騒然たる音とがとどろき渡った。
 アンナ夫人もこのでたらめ騒ぎを見て笑っていた。もうこよいは笑いずめに笑っているので、頭も心臓も痛んでいる。そしてもしハリイが、これほど熱心に今晩の催しに身を入れていなかったら、静かな暗いところで、じっと眼を閉じていたいと思うくらいである。――「今日はわたくし陽気ですの。」と夫人は、さっき自分でもそう信じていた瞬間に、食卓で隣り合わせた婦人にいった。ところが報いられたものは、沈黙とあざけりのまなざしだったので、こんなことを口に出すのは、世間のならわしではないのだっけと、思い返した。陽気なら陽気らしく振舞えばいい。それをそうとたしかめて口に出すのは、もうやりすぎで風変りなのだ。でも「わたくし悲しいのです」といったら、それこそ大変だったであろう。
 男爵夫人アンナは、海岸にある父の所有地で、たったひとりごく静かに人と成った結果、今でも右のような真理を気にかけぬ癖が、まだずいぶんついている。もっともみんなに変だと思われることを恐れてはいるし、みんなに少しはかわいがってもらえるように、世間並になりたいものだと、心から念じてはいるのだが。――夫人の手は蒼白く、髪は灰色がかった明色で、細い弱々した小さな顔の割には、あまりにたっぷりしすぎている。薄い眉の間に縦皺が一つあって、それが彼女の微笑に、なんとなく悲痛な傷ついたおもむきを添えている。――
 夫人の心持をいえば、彼女は良人を愛している。――だれも笑ってはいけない。パンを投げた事件の故にさえ、彼を愛している。彼が不実を働いて、毎日少年のように彼女の心をしいたげるにもかかわらず、卑屈なみじめな気持で愛している。自分自身の優しさと弱さをさげすみつつ、この世では実力と強い運勢とが、時を得るものだと知っている女のように、彼女は良人への愛で悩んでいる。それどころか、この愛とそれから来る責苦せめくとに、身を任せているのである。ちょうど昔彼が、一時的な愛撫の発作におそわれて言い寄った時、彼に身を任せてしまったのと同じように――寂しい、夢に埋もれた子の、生活と情熱とさまざまな感情の嵐に対する、渇した欲望をもって。――
 三拍子と杯の音――喧騒、濛煙、うなり、そして舞踏の足どり……これがハリイの世界であり、王国であった。そしてまたこれは夫人の夢想の王国であった。そこには幸福と世間並と愛と生活とがあるからである。
 社交。罪のない晴れがましい社交。神経を疲らせ品性を卑しくする、誘惑的な、空しい魅力に富んだ毒。思想と平和との妖艶な敵。お前はほんとにおそろしいやつだ。――幾夕幾晩、あたりが全く空々漠々としている中へ、葡萄酒やコオヒイや官能的な音楽や舞踏なぞにかもされた、熱病のような興奮がみなぎっている、そのきわどい対照に心をさいなまれながら、夫人はじっと坐っていた。じっと坐っていて、ハリイがきれいな陽気な女たちを魅了するのを眺めた。ハリイがそうするのは、別にその女たちが彼を喜ばせるからではなくて、ただ、不自由をしない、決してのけ者にせられていない、憧憬なんぞを知らない幸福者として、そういう女どもと一緒にいるところを人前に示せと、彼の虚栄心が要求するからなのである。この虚栄心がどんなに夫人の胸を痛ましめるか。しかもなお夫人は、どんなにその虚栄心を愛しているか。良人が美しく若く華やかで魅力に富んでいるのを見るのは、なんと快いことであろう。ほかの女の彼に捧げる愛が、夫人自身の愛をなんとなやましく燃え立たせることであろう。――そしてそういう時がすんでしまって――良人のためにせつない苦しい思いをしながら過ごした宴会が終ってしまって、良人がなにも知らず自分勝手に、その夜の礼讃にふけるたびに、いつもきまって、彼女の憎悪と侮蔑が愛に匹敵するような、彼女が心の中で良人を「悪党」とか「女たらし」とか呼んで、沈黙をもって――滑稽なすてばちな沈黙をもって、良人を罰しようとするような瞬間が来るのである。――
 当っているだろうね、小さな男爵夫人アンナ。「燕たち」が歌っている間、お前のあわれな微笑の裏に隠れているものを、われわれは残らずここに語らせているだろうね。――それから今度は、あのなさけないあさましい心境が来る。お前は無邪気な社交の後のあけがたを、寝床に横たわったまま、愛想よく思われるためには、あんな冗談や警句や、こんな気の利いた返答を思いつかなければならなかったのに、それを思いつかなかったと、心の力を振りしぼって反省するのだ。またあの暁の夢が来る。お前はその夢で、苦痛のために疲れきって、良人の肩にすがりながら泣く。良人は例の空虚な優しいありふれた文句で、お前を慰めようとする。と、急にお前の心には、この男の肩にすがって世を悲しんで泣くという、その恥かしい矛盾が、すみずみまでしみ渡ってしまう。――
 もしも良人が病気になってくれれば――ねえ、そうじゃないか。良人の軽い些細な不快から、お前にとっては、さまざまな空想のひろい世界が生れてくる。お前はその世界で、良人を自分の預かった病人だと思うようになる。良人はたよりなくうちひしがれて、お前の眼の前にねている。そしてついについにお前のものになる――という想像はまちがっているかしら。恥かしがってはいけない。自分をいやに思ってはいけない。悲歎というものは、時々人の心を少し悪くすることがある――それはわれわれも知っている。見ている。ああ、あわれな小さな魂、われわれはほうぼう旅している間に、もっとひどいことも見てきたのだよ。ところでお前は、瞼の長すぎる士官候補生のことを、少しは気にとめてやってもいいのだがね。候補生はお前のそばに坐っていて、自分の淋しさをお前のに結びつけたがっているではないか。なぜあの男を相手にしてやらないのだ。なぜ軽蔑するのだ。あの男がお前と同じ世界の人間で、歓喜と誇りと幸福とリズムと勝者の心とをみなぎらせた、もう一つの世間の人間でないから、というのか。もちろんどっちの世界にも属さないということはむずかしい――それはわかっている。しかしその二つの間には、決して和解の道はないのだからね。――
 喝采の声は、フォン・ゲルプザッテル少尉の伴奏がまだすまぬうちに、鳴りひびいた。「燕たち」が歌い終ったのである。みんな踏段を通らずに、演奏壇からどすんと飛び降りたり、ひらひらと舞い降りたりする。と、紳士たちが押し寄せて行って、手をかしてやった。ハリイ男爵は、例の子供らしい腕をした小さな、小麦色の肌の女を、たすけおろした。念を入れて、じょうずにおろしたのである。まず片方の腕で女のももを、もう一方ので腰を抱くと、なかなか下へはおかずに、ほとんどシャンパンのテエブルのところまでかついできて、こぼれるほど彼女の杯をみたしてやってから、さて無意味な、しかもずうずうしい微笑を浮かべて、相手の眼に見入りながら、ゆっくりともったい振って、彼女と杯をかち合わせた。彼はもう大いに飲んでいるので、日に焼けた顔からくっきり際立つ白い額には、傷痕が真赤に輝いている。しかし上機嫌で屈託もなく、全くいい気持にはしゃいでいるだけで、情熱にわずらわされてなんぞはいないのである。
 そのテエブルはアンナ夫人のと相対して、むこうの縦に長いほうの壁際にあった。そこで夫人はそばにいるだれかと、とりとめもない言葉を交しながら、むさぼるようにむこう側の笑声に聴き入ったり、一々の動きに、恥を忘れてひそかに眼を配ったりしている――夫人はあの苦しく緊張しきった心境にある。人が機械的に、しかも儀礼にもとることなく、一人の相手と立派に会話をつづけながら、同時に心をまるで留守にして――というのは、自分が観察しているもう一人の相手のところへ、心をやっておくことができる、あの心境である。――
 一二度、夫人は小さな「燕」の視線が、自分のとぶつかったように思った。――あの女は自分を識っているかしら。自分がだれだということを知っているかしら。なんという美しい女であろう。なんと大胆で、ただ無考えに活溌でなまめかしい女であろう。もしハリイがこの女を恋し、この女に心を燃やし、この女のために悩み苦しんだとしても、自分はそれをゆるし諒解し同感したことであろう。――すると急に夫人は、この小さい「燕」に対する自分自身の憧憬のほうが、良人のよりもさらに熱くさらに深いのを感じた。
 あの小さな「燕」。なに、あれはエンミイという名で、どこまでも俗っぽい女だ。でも、あの平たいそそるような顔をとりまいている黒髪と、薄黒くふちどられた巴旦杏のような眼と、白く輝いた歯並の見える口と、軟かく誘うような形の腕とを見れば、ほんとに感歎せずにはいられない。が、あの女のからだ中で一番美しいのは肩である。ある動きかたによって、たとえようもなくしなやかに、関節のところがもくもくと波を打つのである。――ハリイ男爵はこの肩に全心を打ち込んでいる。女がそれを隠そうとするのを、どうしても許さないで、女がしきりにかけたがるショオルをまとに、そうぞうしいせりあいを演じている――これに気を取られて、一座のうち何人も、男爵にしろ、夫人にしろ、またそのほかのだれにしろ、この小さなすれっからしの女が、葡萄酒で感傷的になって、さっきリズムがないといって、ピアノから追い立てられたあの若い候補生に、遠くから思いをこがしているということには、気がつかなかった。候補生の疲れた眼と、ピアノの弾きかたとが、女の心をとりこにしたのであった。ハリイ男爵の人柄が、あまりにも知れきった退屈なものなのに引きかえて、候補生の人物は、けだかく詩的で、別の世界から来たもののように女は思っている。だから候補生のほうから、みじんも愛のしるしを示してくれないのが、悲しくてやるせなくてたまらぬのである。――
 短かく燃え落ちたろうそくは、薄青い層をなして、みんなの頭上にたなびく煙草の烟の中へ、朦朧と光をにじませている。コオヒイの香りが広間中に流れている。無味な重たい雰囲気――うたげのいきれと社交の雲煙とが、「燕たち」の毒々しい香料で、ますます濃厚に息苦しくせられて、すべての上によどんでいる――白布をかけたテエブルと、シャンパンをひやしてある桶の上にも、羽目をはずしている徹夜の人々と、その話し声や哄笑や忍び笑いや、恋のたわむれの上にも。
 男爵夫人アンナはもう口を利かなくなった。絶望とそしてあの憧憬、羨望、愛慕、自蔑のおそるべき並列と――これは嫉妬と呼ばれるもので、もしこの世が善であるべきなら、これは存在することを許されぬのである――その二つに心臓をぐっとおさえつけられてしまった夫人は、もう人前を飾るだけの力がなくなってしまったのである。――自分が今どんな気持でいるか、それを良人が見てくれればいいのに。この自分のことを、良人が恥じてくれればいいのに。そうすれば、自分に関係のある感情が、せめて一つは良人の胸に宿るわけだから。
 夫人はむこう側に眼をやった。――そこのたわむれは、いささか度を越えている。そしてみんな笑いながら、好奇の眼でこのたわむれを見物している。ハリイは小さな「燕」との優婉ゆうえんな格闘の新しい方法を案出していた。彼は指環を交換すると言い張って、自分の膝を女の膝に突っ張ったなり、女を椅子にしっかりとおさえつけておいて、女の手をめちゃくちゃに追っかけ廻して、乱暴に捕まえると、その小さな固く握った拳を開かせようとしてむきになっている。とうとうハリイは勝を制した。そして一座のかしましい喝采裡に、女の指からもったいぶって蛇形の細い指環を抜きとると、今度は勝ち誇って、自分の結婚指環を無理にはめさせてしまった。
 すると男爵夫人アンナが立ちあがった。憤怒と苦悩と、良人のなつかしい無価値へのうらみを抱いたまま、闇の中へ隠れたいという憧憬と、ある汚辱を与えて良人を罰してやろう、ともかくどうにかして良人の注意をひきつけようという願望と――そういうものが夫人を圧倒してしまったのである。真蒼になって椅子をうしろへずらせると、夫人は広間のまんなかを突っ切って、入口のほうへ進んで行った。
 一座はどよめいた。みんなまじめな、酔いのさめた顔を見合せている。数人の紳士たちは、大声にハリイの名を呼んだ。喧騒はばったりやんだ。
 と、この時ひどく奇妙なことが持ちあがった。というのは「燕」のエンミイが、断々乎としてアンナ夫人の味方になったのである。苦痛と報われぬ愛とに対する普遍な女の本能が、彼女をこの挙に出でさせたのか、あるいはものうい瞼の候補生に対する彼女自身の懊悩が、アンナ夫人の中に同胞を見出させたのか――ともかくエンミイのこの振舞には、だれもかれもあっけにとられてしまった。
「あなたは下等よ。」とエンミイは、しんと静まり返った中で、かんだかくこういうなり、めんくらっているハリイ男爵を突きのけた。ただ一語――「あなたは下等よ。」といったのである。と思うと、彼女はいつのまにか、もう扉の把手を握っているアンナ夫人のそばに行っていた。
「ごめんなさいね。」とエンミイはごく低い声で、あたかも一座のうちほかの人は、だれもこの言葉を聞くに値せぬかのようにいった。「さあ、指環よ。」そういってハリイの結婚指環をアンナ夫人の手に握らせた。と、突然夫人はその手に少女の平たい暖かい顔がかぶさったのを、つづいてそこに柔かい、心のこもった接吻が燃えるのを感じた。「ごめんなさいね。」と小さな「燕」はふたたびささやいてから、走り去った。
 しかし男爵夫人は扉の外の暗闇に、まだ全く失心したように突っ立ったまま、この思いがけぬ出来事が、心の中でまとまった形と意味とを帯びるようになるのを待っていた。すると、その時である。ある幸福が、ある甘い熱いひめやかな幸福が、一刹那、夫人の眼を閉じさせた。――
 待て。これでたくさんだ。もうなんにも書くな。それより、この貴い小さな単独な事実を見るがいい。夫人はそこに立ちつくしている。あのばかな浮浪の女が、手を接吻しにやって来たというので、すっかり有頂天になって、恍惚と立ちつくしているのだ。
 これでお別れだ。アンナ夫人。お前の額に接吻する。ごきげんよう。われわれは大急ぎで立ち去るのだ。さあ、おやすみ。お前は一晩中、お前のところへ来たあの燕を夢に見て、少しは幸福になるであろう。
 なぜといって、幸福というものが――幸福のかすかな戦慄と陶酔とが心に触れるのは、その間を憧憬があちこちとさまようあの二つの世界が、しばらくの間、おぼつかなく相寄っては、一つになる時にかぎるのだから。





底本:「トオマス・マン短篇集」岩波文庫、岩波書店
   1979(昭和54)年3月16日第1刷発行
   2003(平成15)年5月24日第33刷発行
※原題の「EIN GL※(ダイエレシス付きU)CK」は、ファイル冒頭ではアクセント符号を略し、「EIN GLUCK」としました。
入力:kompass
校正:酒井裕二
2015年4月3日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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