小フリイデマン氏

DER KLEINE HERR FRIEDEMANN

トオマス・マン Thomas Mann

実吉捷郎訳




 とがは乳母にあった。――最初あやしいと思った時、フリイデマン領事夫人は、そんな悪徳はおさえつけてしまえと、本気になって彼女にいい聞かせたのだが、それがなんの役に立ったろう。今度は滋養になるビイルのほかに、なお赤葡萄酒を毎日一杯ずつ飲ませたのだけれど、それもなんの役に立ったろう。この女があさましくもその上、アルコオル・ランプに使うはずのアルコオルまで、平気で飲むということが、急にわかってしまったのである。そして代りの女中が来ないので、この女に暇をやることができないでいるうちに、あの凶事が持ち上ってしまった。母と、まだ子供っぽい三人の娘たちとが、ある日外から帰って来ると、小さい、生後一カ月ばかりのヨハンネスが、襁褓むつき台からころげ落ちたなり、気味の悪いほどかすかなうめき声を立てながら、ゆかの上に横たわっていて、そのそばに、乳母がぼんやり突っ立っていたのである。
 医者は、ちぢこまってぴくぴく動いている嬰児の四肢を、慎重な確かさで調べてみて、それはそれはむずかしい顔をした。娘たち三人はすすり泣きながら片隅に立っていた。フリイデマン夫人は心痛のあまり、声に出して祈っていた。
 あわれな夫人は、まだこの児が生れぬ前に、オランダ領事だった良人を、ある突然なしかもはげしい病気のためにうばい去られるという目に、会わなければならなかった。だから、まだあまりに心が弱っていて、小さいヨハンネスの命が取止められるようにと、希望するだけの気力さえなかったのである。しかし二日の後、医者がはげますように夫人の手を握りながら、述べるには、今が今どうということは、もはや断じてない、第一に脳の軽い障害はすっかりなおってしまった、それは視線に、はじめのように見据えたようなところがもうちっともなくなってしまったのでもわかる……もちろん、そのほかの点が、この先どう経過してゆくか、それを待つより仕方がないが――ともかく最善を期することだ、先刻もいったように、最善を期することだ……

 ヨハンネス・フリイデマンの育った灰色の破風家はふやは、この古い、やっと中ぐらいな商業都市の、北に寄った都門のそばにあった。大扉おおどを入ると、ひろやかな、床石を敷きつめた玄関に来る。そこから白く塗った木の欄干のある階段が、上階へ通じている。二階の居間の壁布には、色のあせた風景が描いてあり、濃紅のあらビロオドの布をかけた、どっしりしたマホガニイの卓のまわりには、堅い背の椅子がいくつか置いてある。
 ヨハンネスは子供の時分、よくこの部屋のいつもきれいな花に飾られた窓際で、小さな足台に乗ったまま、母の足もとに坐っていた。そして母の滑らかな灰色の髪と、人の好い柔和な顔をながめながら、またたえず母のからだから溢れている、かすかな香りを吸いながら、なにか面白いお伽噺に聴き入っていた。でなければ、父の肖像を見せてもらうようなこともあった。それは灰色の頬髯のある、優しそうな人だった。お父様は天国においでで、そこでみんなを待っていらっしゃるのだ、と母はいった。
 家の裏手に小さな庭があって、夏の間みんなは、たいてい一日中そこですごすことになっていた――近所の製糖所から、ほとんどたえ間なく、甘たるい匂いが流れて来たのだけれども。古い、ふしくれ立ったくるみの木が一本、そこにあったが、その樹蔭で、よく小さいヨハンネスが、低い木椅子に腰かけてくるみをかじっていると、フリイデマン夫人と、もう今は大きくなった三人姉妹とが、灰色の帆布でできた天幕の中に集っていた。母のまなざしはしかし、その手仕事から離れて、愁わしげな優しさで、小さい児のほうへ滑って行くことが多かった。
 この小さいヨハンネスは、美しい児ではなかった。今そこに、尖って突き出ている胸と、高く盛り上った背と、あまりにも長すぎるやせこけた腕のまま、低い腰掛の上にかがみながら、すばやく一心にくるみをかみ割っている様子は、実に奇妙なおもむきを呈していた。しかし手と足はきゃしゃでほっそりしているし、それに眼は大きく鳶色で、くちびるの線は軟らかいし、髪は細く淡褐色であった。顔はあわれにも両肩の間に埋まってはいたけれど、それでもほとんど美しいと名づけていいくらいだった。

 七つになった時、ヨハンネスは学校に入れられた。それから後は、歳月が単調に迅速に流れて行った。彼は毎日、不具者によくあるあの変にもったいぶった足どりで、破風家や商店の間を通って、ゴシック風の丸天井のある古い校舎へと歩いて行った。また、家で勉強をすませてしまうと、きれいな五彩の口絵のついた本でも読むか、でなければ、庭に出てなにかしていた。姉たちのほうは病勝ちな母を助けて、家政を執っていた。彼女等はまたいろんな集りへも出かけて行った。フリイデマン家は、町の上流階級に属していたからである。だが、彼女等は気の毒にもまだ結婚はしていなかった。財産が別段多いわけでもなく、それにみんなかなり醜かったのである。
 ヨハンネスもやはり同年配の友だちから、時々招待を受けることがあったけれど、そういう友だちとつきあうのを、大して喜んではいなかった。みんなの遊びに仲間入りすることができなかったし、またみんな彼に対して、いつも窮屈に遠慮ばかりしていたので、友情というものは生れるはずがないのだった。
 そのうちに彼は、みんなが校庭でよく或る種の経験について話し合うのを聞くようになった。みんなそれぞれあの小さいや、この小さいに夢中になっているというような話に、彼は気を入れて、眼を見張って聴き入りながら、しかもなんとも口は出さなかった。みんなの頭を確かにみたしきっているらしい、そうした事柄は、体操や※(「毬」の「求」に代えて「鞠のつくり」、第4水準2-78-13)投げと同じく、自分の柄にないことなのだと、彼はひそかに思っていた。そう思うと、時々少し悲しくなった。が、結局彼は、ひとりぼっちで暮して、他人と利害を分たぬことに、もとから馴れていたのであった。それでもこんなことがあった。その時彼は十六になっていたが――ある同年おないどしの少女を、急に好きはじめたのである。少女は彼のある同級生の妹で、金髪の、思い切って陽気な子だった。その兄のところで、彼はその少女を識ったのである。彼女のそばにいると、彼は妙に胸をおされる心持がした。そして彼女もまた、ぎこちない、わざといたわるような調子で彼を扱うのが、彼の心を深い悲しみで一ぱいにした。
 ある夏の午後、ひとりで町外れの土手を散歩していた時、彼は素馨そけいの茂みがくれに、ささやきの声を聞きつけた。そして枝の間から、そっと様子をうかがった。そこにあるベンチの上に、あの少女が、彼のよく識っている背の高い髪の赤い少年と、並んで腰かけている。腕を少女のからだにまいていた少年が、そのくちびるに接吻すると、少女はくすくす笑いながら接吻を返した。それを見てしまうと、ヨハンネス・フリイデマンはきびすを返して、音もなくその場を立ち去った。
 首は常よりも深く肩の間に埋もれ、両手はふるえて、鋭い、せつない苦痛が、胸からのどへこみ上げてきた。しかし彼はそれをぐっと呑みくだして、でき得るかぎり決然と身をそらせた。「よし。」と彼は自分にいい聞かせた。「これでおしまいだ。二度とふたたび、こんなことに煩わされるのはよそう。ほかの人たちはそのために仕合せになったり喜んだりするだろうが、おれはそのためにいつも、ただ恨んだり悩んだりするだけなのだ。もうこんなことはやめだ。それはおれにとっては、すんでしまったことだ。もう決してしないぞ。――」
 この決心は気持をやわらげた。彼はあきらめた。永久にあきらめた。家へ帰ると、本を手に取ったり、ヴァイオリンを奏でたりした。これは胸が人並でないにもかかわらず、習い覚えていたのである。

 十七歳で、彼は商人になるために学校を退いた。彼の仲間内では、誰も彼も商人だったのである。そして下町の河縁かわべりにある、シュリイフォオクト氏の大きな材木店に、徒弟として入った。みんなは寛大に彼を扱ったし、また彼のほうでも、優しくみんなの意を迎えるようにしたので、時は穏かにつつがなく過ぎて行った。ところが、彼の二十一の年、永いわずらいの後に母がなくなった。
 これはヨハンネス・フリイデマンがためには、大きな苦痛であった。彼はそれを長い間、胸におさめていた。それを、その苦痛を、彼は享楽したのである。人が大きな幸福に身をゆだねるごとく、彼はその苦痛に身をゆだねて、数知れぬ幼年の思い出でそれをはぐくみながら、最初の力強い体験として、あくまで味わい尽したのである。
 人生というものは、われわれにとって、たとえ「幸福な」と呼ばれるような形を取ろうが取るまいが、それ自身として善きものなのではなかろうか。ヨハンネス・フリイデマンはそう感じた。そして人生を愛していた。人生がわれわれに呈し得る最大の幸福を断念してしまった彼が、自分に手のとどく限りの歓びを、どんなに心をこめた丹念さで享楽し終せたか、それは誰にもわからない。町外れにある遊園地の春の散策、ある花の香り、ある鳥の歌――そういうものに対して、人は感謝せずにいられようか。
 それに、享楽し得るためには、教養が必要であること、いや、教養は常に取りも直さず享楽能力であること――それも彼にはわかっていた。だから、彼は自らを教養したのである。音楽が好きだったので、町で催されるような演奏会には、欠かさず出かけていった。自分でも、ずいぶん変な恰好をしながらではあったが、ヴァイオリンをだんだん上手に弾くようになって、きれいな柔かい音が出るたびに、それを楽しんでいた。また大いに本を読んで、おそらく町中誰もともにする人がないほどの、文学趣味をも次第に体得した。彼は内外の近代作家に通じていたし、詩の節奏的な魅力を味わい尽すことも心得ていたし、微妙に書かれた短篇小説の、立ち入った気分に、心をひたすことも知っていた……ほんとに、彼はエピキュリアンだといっても差支えないぐらいだったのである。
 いっさいが享楽に値すること、そして幸福な体験とか、不幸な体験とか、区別をつけるのが、ほとんどばかげていることを、彼は悟るようになった。自分のあらゆる感覚と気分とを、どしどし受け容れてははぐくんだ。陰気なのも陽気なのも。みたされぬ願望――あこがれをさえもはぐくんだのである。彼はあこがれをあこがれとして愛した。それがみたされたら、最も善いところはなくなってしまうだろうと思っていた。静かな春のゆうべの、甘いやるせないあてもないあこがれと望みのほうが、夏のもたらし得るすべての実現よりも、さらに楽しみ甲斐がありはしないか。――まったく彼はエピキュリアンなのだ、この小フリイデマン氏は。
 往来で会うと、彼が昔から馴れている、あのあわれむように優しい調子で、彼に挨拶してゆく人々は、おそらくそんなことは知らなかったであろう。おかしくもったいぶった様子で、薄色の外套を着て、光り輝くシルクハットをかぶって――ふしぎにも彼は少し見栄坊だった――往来を行進してゆくこのあわれなかたわ者が、大きな感動こそなけれ、自分で創り得た静かな柔かな幸福にみたされながら、穏かに流れてゆく生活を、優しく愛しているということ、それをその人々は知らなかったのである。

 ところで、フリイデマン氏の第一の嗜好、彼が本当に夢中になっているのは、芝居であった。彼は非常に強い劇的感覚を持っていたので、なにか大きな舞台効果、たとえば悲劇の大詰めなどになると、彼の小さなからだ全体がわなわな震え出すこともよくあった。市立劇場の二階桟敷に指定席を取っておいて、彼は規則正しく見に行った。ときおりは三人の姉たちがついて行くこともあった。彼女等は母が死んでから、自分たちと弟とのために、三人きりで古い家の世帯を司っていた。その家を、三人は弟と共同に持っていたのである。
 姉たちは、気の毒ながら、まだ相変らず結婚してはいなかったが、しかしもううにその分に安んずる年頃になっていた。なにしろ総領のフリデリイケが、フリイデマン氏より十七も年上だったのである。フリデリイケとその妹ヘンリエッテは、少しひょろ長すぎるし、末のプィッフィのほうは、あまり小柄でふとりすぎていた。なおこの娘は、ものをいうたびにからだをゆすって、口のはたに泡を立てるという、滑稽なくせを持っていた。
 小フリイデマン氏は、この三人の姉たちのことを、あまり気にかけなかった。が、三人は固く団結していて、常に意見が同じだった。ことに知人の間に婚約した者がある時などには、三人口を揃えて、誠に結構この上もないことだ、と力説するのであった。
 弟はシュリイフォオクト氏の材木店を退いて、独立してからも、やはりもと通り、姉たちと一緒に住んでいた。独立したというのは、代理店かなにか、ある小さな業務を引き受けたので、それはあまり忙しく働かないでもすむ仕事だった。彼は家の一階に幾かの室を占めて、ただ食事の時だけ、階段を昇って行けばいいようにした。時々、少し喘息をわずらうことがあったからである。
 三十回目の誕生日、晴れやかな暖かい六月の或る日に、彼は午食のあと、庭の灰色の天幕の中に、ヘンリエッテのつくってくれた新しい襟巻を着けて、上等の葉巻を口に、好い書物を手にしたまま坐っていた。時々その書物を片寄せては、くるみの老樹にいる雀の、楽しげなさえずりに耳をすませたり、家に通ずる清らかな砂利道や、絢爛な花壇のある芝生を眺めたりした。
 小フリイデマン氏は髯を貯えていないので、顔は前とほとんど変っていない。ただおもざしがいくらか鋭くなっただけである。細い淡褐の髪は、横のほうからぴったり分けてある。
 一度書物を全く膝の上へ落してしまって、青い明るい空を、またたきしながら見上げた時、彼は胸の中でこういった。――「これでもう三十年経ったのだな。この先まだ十年生きるか、あるいはまだ二十年も生きるか、それはわからない。が、その歳月も今までの月日と同様、そっと音も立てずにやって来ては、過ぎ去って行くだろう。そしておれは平らかな心で、その歳月を待っているのだ。」
 同じ年の七月に、聯隊区司令官の更迭が起って、みんなを興奮させた。永年の間この職に就いていたふとった陽気な人は、社交界で大変気受けがよかったので、人々は別れを惜しんだ。ところで、どういう事情のために、選りに選ってフォン・リンリンゲン氏が、首都からここへやって来たものか、それは誰も知らない。
 とはいえ、この交易は別に悪くもなさそうだった。結婚していながら子供のない、この新しい中佐は、南の郊外にすこぶる宏壮な屋敷を借りたので、みんなは彼がはでに暮すつもりだろうと、推量したのである。ともかく非常な資産家だという噂は、彼が家僕を四人、乗馬と馬車馬とを五頭、四輪馬車と軽快な二輪馬車とを一台ずつ、携えて来たということで実際裏書せられた。
 夫妻は到着後間もなく、上流の家庭を訪問しはじめた。そして彼等の名は、あらゆる人々の口に上った。しかし第一の興味は、決してフォン・リンリンゲン氏その人につながっていたのではなく、その夫人に在ったのである。男子たちはあっけに取られていて、差当りまだなんの批判も持ち合わせなかった。ところが婦人たちは、ゲルタ・フォン・リンリンゲンの性行にどうしても賛同しなかった。
「首府らしい空気が感じられるのは、」とハアゲンシュトレエム弁護士夫人が、会話のおりヘンリエッテ・フリイデマンに向っていった。「まあ、そりゃ当り前ですわ。あのかたは煙草を吸ったり、馬に乗ったりなさる――それはかまいませんとも。でも、あのかたの態度は、無遠慮なばかりか、書生風ですのね。いえ、書生風といってもまだ当らないわ。……ねえ、あのかたは決して不器量じゃないでしょう。きれいだと思うかただってあるかもしれませんわね。それでいて、女らしい愛嬌がちっともおありにならない。眼にも笑いかたにも身のこなしにも、殿方のお気に入るようなところが、なにひとつないのよ。あのかたはこびを売るようなことはなさらないわね。もちろん、それだからいけないなんて、私決して申しませんわ。でも、あんなに若い御婦人が――二十四なんですよ――生れつきの上品な魅力を、まるで持っていらっしゃらないというのはどんなものでしょう。ねえ、あなた、私おしゃべりは下手ですけど、それでもいい加減なことは申しませんわ。町の殿方たちは、今でも相変らず煙に巻かれていらっしゃいますがね、見ていてごらん遊ばせ、もう三四週間もすれば、みなさんすっかりいやになって、あんなかたなんぞ相手になさらなくなりますから……」
「でも、」とフリイデマン嬢はいった。「あのかたほんとうに結構な御身分ですのね。」
「そりゃ旦那様が旦那様ですもの。」とハアゲンシュトレエム夫人は叫んだ。「でも、その旦那様をどんな風に扱っていらっしゃるでしょう。その様子がごらんに入れたいわ。いずれ今にごらんになるわね。いったい良人のある婦人というものは、異性に対して、ある程度までそっけなくする義務があるって、私誰よりも熱心に主張しておりますのよ。それなのに、あのかたは御自分の旦那様に対して、どんな風だとお思いになって。あのかたはね、旦那様を氷のように冷たい眼で眺めて、あわれむような調子で、『あのねえ』っておっしゃるくせがあるんですよ。あれを見ると腹が立ちますわ。だって、その時の旦那様の御様子も、見ないわけにはいきませんものね――礼儀正しくって、きっぱりしていて、軍人らしくって、四十代なのにそれこそ若々しくって、ほんとに立派な将校ですわ。結婚なさってから四年なのですってね、あなた。」

 小フリイデマン氏が、はじめてフォン・リンリンゲン夫人を見る栄を得た場所は、大通りの、ほとんど商館ばかり並んでいるあたりだった。このめぐりあいの起ったのは正午頃で、ちょうど彼が、ちょっと用のあった株式取引所から出てきた時であった。
 彼は渺然としかも荘重に、豪商シュテフェンスと並んで歩いていた。シュテフェンスは並外れて丈の高い、骨格のたくましい紳士で、丸く刈り込んだ頬髯と、おそろしく太い眉とがある。二人ともシルクハットをかぶって、ひどく暑いので外套の胸を開けている。二人は拍子を取って、ステッキで歩道を突っつきながら、政治を論じていた。ところが、その通りの中ほどまで来た時、不意に豪商シュテフェンスがこういった。
「あそこへ馬車に乗って来るのは、ありゃ確かにリンリンゲンの奥さんですよ。」
「なるほど、こりゃ好都合です。」とフリイデマン氏は持ち前のかんだかい、少し鋭い声でいって、待ち設けるようにまっすぐ前を見つめた。「わたしは今もって、まだ一度も顔を見たことがないのですからね。あれが例の黄色い馬車じゃありませんか。」
 実際それは、フォン・リンリンゲン夫人が今日乗って出た、例の黄色い二輪馬車だった。二頭のほっそりした馬を、夫人が手ずから馭していると、従者のほうは腕をこまぬいて、夫人のうしろに腰かけている。夫人はゆるやかな、ごく白っぽい胴着を着ていた。上着もやはり白っぽい色だった。茶の革紐のついた、小さい丸い麦藁帽の下から、赤味がかった金髪がふさふさとはみ出ている。髪は耳を掩ったあまりが、太い束になってうなじの下のほうまで垂れている。卵なりの顔の肌はほの白い色で、並外れて近々ちかぢかと寄り合った、茶色の眼の隅には、青ずんだ陰がよどんでいる。短かいけれどきわめて形の好い鼻の上に、そばかすがちょっと懸っているが、それがよく似合うのである。ただし口が美しいかどうかは、見分けられない。下唇が上唇をなめながら、たえず出たり引っ込んだりしているからである。
 豪商シュテフェンスは、馬車が近づいて来た時、特別慇懃に挨拶した。小フリイデマン氏も帽をぬいだが、ぬぎながら眼を見張って、しげしげとフォン・リンリンゲン夫人を見守った。夫人はむちをおろして軽く会釈したきり、左右の家並みや飾り窓などを眺めながら、ゆっくり通り過ぎて行った。
 五六歩の後、豪商がいった。
「ぶらぶら乗り廻してから、いま帰っていくところなのですな。」
 小フリイデマン氏は返事をしないで、足もとの鋪石に眼を落していた。やがて急に豪商のほうを見てこう尋ねた。
「なんとおっしゃったのですか。」
 するとシュテフェンス氏はまた、さっきの慧敏な言葉を繰り返した。

 その後三日経って、ヨハンネス・フリイデマンは、正午十二時に、いつもおきまりの散歩から家に帰って来た。十二時半の昼食だから、それまで、大扉のすぐ右側にある自分の「事務所」へ、半時間ばかり行っていようと思っているところへ、女中が玄関を抜けてやって来て、こう彼に告げた。
「旦郡様、お客様でございます。」
「わたしのところにかい。」と彼は問うた。
「いいえ、上のお嬢様がたのところでございます。」
「どなただね。」
「フォン・リンリンゲン中佐御夫婦でございます。」
「ほほう。」とフリイデマン氏はいった。「それじゃわたしも……」
 そこで彼は階段を昇って行った。上に来て、戸口前の床を行き尽くすと、すでに「風景の間」に通ずる高い白い扉の把手に手をかけたが、急に思い止って一歩さがると、きびすをめぐらして、来た時の通りまたゆっくりと立ち去った。そして全くひとりきりなのに、大きな声でこう独り言をいった――
「いやいや。よしたほうが好い。」
 彼は自分の「事務所」まで降りて行って、机に就いて、新聞を手に取った。が、一分経つとそれをまた下へ置いてしまって、わきの窓から外を眺めた。女中が来て、食事の用意ができたことを知らせるまで、彼はじっとそのまま坐っていた。それから食堂まで昇って行くと、もう姉たちが彼を待っていた。譜本が三冊のっていた自分の椅子に、彼は席を占めた。
 ヘンリエッテがスウプをつぎながらいった。
「ヨハンネス、誰が来たか知っていて?」
「誰でしょう。」と彼は問うた。
「今度来た中佐の御夫婦よ。」
「へえ、そうですか。丁寧なものですね。」
「ほんとね。」とプィッフィはいって、口のはたに泡を立てた。「二人ともたいへん気持の好い人たちだと私思うわ。」
「ともかく、」とフリデリイケがいった。「近いうちに御返礼にあがらなくてはね。明後日行ってはどうでしょう。日曜日に。」
「日曜日にね。」とヘンリエッテとプィッフィとがいった。
「お前も一緒に行くだろうね、ヨハンネス。」とフリデリイケが問うた。
「もちろんだわ。」とプィッフィがいってからだをゆすった。フリイデマン氏はこの問を全く聞き流して、静かな心配そうな顔つきでスウプをすすっていた。まるでなにかうすきみわるい物音にでも聴き入っているような風だった。

 次の晩、市立劇場で『ロオエングリン』が演ぜられて、教養のある人々は残らず出かけて行った。狭い場内は上から下までぎっしり詰って、うなるような雑音と、ガスの匂いと、香料とでみたされていた。ところが、あらゆるオペラグラスは、平土間のも桟敷のも、舞台のすぐ右側の特等席十三号へと、ことごとく向けられていた。そこには今日はじめて、フォン・リンリンゲン氏が夫人同伴で見えていて、人々はこの夫妻を、ここに心ゆくまで検察する機を得たからである。
 小フリイデマン氏が申し分のない黒服で、輝くばかり白いシャツの胸を突き出しながら、自分の特等席――特等席十三号――に入って来た時、彼ははっと思って、入口であとずさった。同時に、ちょっと額へ手をやって、鼻翼を一刹那ぴくっと開いた。が、やがて自分の椅子に腰をおろした。フォン・リンリンゲン夫人の左隣の席である。
 彼が腰をかける間、夫人は下唇を突き出したなり、しばらくまじまじと彼を見つめていたが、つと振り返って、うしろにいる良人と二言三言、ことばを交した。良人というのは、丈の高い肩幅のひろい人で、鳶色の温厚な顔に、なで上げたような髭があった。
 序曲がはじまって、フォン・リンリンゲン夫人が手摺の上に身を乗り出した時、フリイデマン氏はすばやくあわただしく横眼を使って、夫人の様子をちらりと眺めた。夫人は白っぽい夜会服で、しかも場内の婦人中ただひとり、肩を少し現わしていた。袖はごく寛やかでふっくらしていて、白の手套が肱のところまで来ている。夫人の姿には、今日はなんとなく溢れるようなおもむきがあった。こないだ寛い胴着を着ていた時には、認められなかったおもむきである。胸はゆたかにゆるやかに波を打ち、赤味がかった金髪の結び目が、うなじの下のほうまで重たげに垂れている。
 フリイデマン氏は蒼かった。平生よりもずっと蒼かった。そしてその額の、ぺったりと分けた褐色の髪の陰には、小さな汗の玉が浮いていた。フォン・リンリンゲン夫人は、手摺の赤ビロオドの上にのせた左の腕から、手套をってしまっていたので、飾りをつけない手と同様、一面に薄青い脈管の走っている、この丸々したほの白い腕は、たえず彼の眼に入った。それはどうにも仕様がなかった。
 ヴァイオリンが歌い、トロムボオンがそれに交って鳴り渡り、テルラムントが倒れて、オオケストラはこぞって歓声を揚げたが、小フリイデマン氏は身動きもせず、蒼い顔をしてじっと坐っていた――首を深く肩の間に埋めて、一方の人差指を口に、片方の手を上着の折返しのところにあてたまま。
 幕が下りかけているうちに、フォン・リンリンゲン夫人は立ち上って、良人とともに特等席を出て行った。フリイデマン氏は、そっちを見ないでもそれがわかった。ハンケチで軽く額をなでると、急に席を立って廊下へ出る扉のところまで行ったが、また引っ返して自分の場所について、それなりさっき取っていた姿勢で、身動きもせずにじっとしていた。
 合図のベルが鳴って、彼の隣席の人たちがまた入って来た時、彼はフォン・リンリンゲン夫人の眼が自分にそそがれているのを感じて、我知らず首を夫人の方へあげた。二人の視線が合うと、夫人は眼をそらすどころか、毛頭まのわるそうな風もなく、そのままじいっと彼を見守っているので、とうとう彼のほうで気負けがして、恥かしくなって、眼を伏せてしまった。同時に彼はなおさら蒼くなった。そして異様な甘く刺すような怒りが、胸の中に湧き上って来た。――音楽がはじまった。
 その幕の終ろうとする頃、フォン・リンリンゲン夫人の扇が、ふと手から滑って、フリイデマン氏の足もとへ落ちた。二人は同時に身をかがめたが、夫人は自分で拾って、あざけるような微笑とともにいった。
「恐れ入ります。」
 二人の頭は、触れ合うばかり近寄っていた。だから彼は一瞬間、女の胸の暖かい匂いを吸わざるを得なかった。彼の顔はゆがんで、全身がちぢまって、心臓は息ができないほどのはげしさで、重苦しくどきどきと高鳴った。彼はなお半分間坐っていた後、椅子をうしろへずらせると、そっと立ち上って、そっと外へ出た。

 音楽の響きに送られながら、廊下を通って行って、預り所でシルクハットと、薄色の外套と、ステッキとを受け取ると、彼は階段を降りて、往来へ歩み出た。
 それは暖かい静かな晩だった。ガス燈の光を浴びて、灰色の破風家が黙然と空にそびえている。空には星が明るく柔かに輝いている。フリイデマン氏と行き違うわずかな人々の足音が、歩道の上にこだまを返した。誰か挨拶したが、彼は気がつかなかった。首は深く垂れたままで、突き出た尖った胸は震えている。それほど重苦しく彼は息づいているのである。ときおり、小声でこうひとり言をいった。
「どうしよう、どうしよう。」
 彼はおどろきおびえたまなざしで、自分の心の中をのぞいて、いつもあれほど優しくいたわり、あれほど穏かにそして賢く扱っていた自分の感情が、今や衝き上げられ、掻き廻され、掘り返されているのを見た。――と、突然すっかり我を失って、眩暈と陶酔と憧憬と苦悩とのうちに、とある街燈の柱にもたれかかったなり、身をふるわせながらこうささやいた。
「ゲルダ。」
 すべては寂としたままである。あたり一面、この瞬間には人影一つ見えなかった。小フリイデマン氏はむりに起き直って、また歩き出した。今までは劇場のある、かなり急勾配に河のほうへ下りている通りを来たのだが、今度は本通りを北へ、自分の家へ向って行った。
 なんという眼をして、あの女は自分を見たろう。え、どうだ。眼を伏せずにはいられぬようにしたのだな。あの視線で自分を屈伏させたのだな。あっちは女でこっちは男じゃないのか。しかも、あのふしぎな茶色の瞳は、まったくあのとき嬉しさで震えていたではないか。
 彼はふたたび、あの無力な妙に快い憎悪が、心の中に湧き上って来るのを覚えた。しかし次には、女の頭と自分のとがすれすれになったあの刹那、女のからだの匂いを吸い込んだあの刹那のことを考えた。そしてもう一度立ち止って、人並みでない上半身をそらせて、歯の間から空気を吸い込むと、またしてもすっかり途方に暮れて、絶望して、我を忘れて、こうつぶやいた。
「どうしよう。どうしよう。」
 そうしてふたたび彼は機械的に歩きつづけて、ゆっくりと、むし暑い夜風の中を、人影もない、こだまする往来を通って、とうとう自分の家の前に立った。玄関でちょっとためらって、そこにこもっている冷やかな、地下室めいた匂いを吸い入れて、それから自分の「事務所」へ入って行った。
 いた窓のそばの机につくと、そこのコップに誰かがさしておいてくれた大きな黄薔薇に、彼は凝然と眼を据えた。その花を手に取って、眼を閉じたなり香りを吸った。が、すぐにものうい悲しげな手つきで、わきへ押しやってしまった。いやいや、こんなことはおしまいだ。自分にとって、こんな香りが今さらなんであろう。今まで自分の「幸福」を成していたもの、それはみんな自分にとって、今さらなんであろう。
 彼は横を向いて、外の静かな往来のほうを眺めた。ときおり足音が聞えて来ては、反響しながら通りすぎて行く。星が空にかかってきらめいている。彼はなんと疲れ切って、力が抜けてしまったことか。頭はまったくからっぽで、絶望は大きな柔かな憂愁に溶けはじめた。詩の文句が数行、心の中をひらめきながら通った。ロオエングリンの音楽がふたたび耳もとにひびく。彼はもう一度、フォン・リンリンゲン夫人の姿を、赤ビロオドの上のその白い腕を、眼の前に見た。それからやがて、重たい熱苦しい眠りに落ちていった。
 何度となく彼は眼を醒ましかけたが、醒めるのを怖れて、その都度さらにまた無意識の境に沈んで行った。しかし夜が明けきってしまった時、彼は眼を開いて、大きな苦しげなまなざしで、あたりを見廻した。すべてははっきりと心に残っている。彼の悩みは、少しも眠りのために中断せられなかったかの観がある。
 頭は濁って、眼は燃えるようであった。が、からだを洗って、オオ・ド・コロオニュで額をうるおしたあとは、前よりも気持がよくなって、彼はまた静かに、開いたままになっていた窓のそばの、例の場所に腰をかけた。朝はまだ早かった。五時ぐらいだった。時々パン屋の小僧が通りすぎるほかには、誰の姿も見えない。向いの家では、まだどの窓にも簾戸がおりている。けれども小鳥はさえずっているし、空は輝くばかり青い。うるわしい日曜の朝なのである。
 安楽な心丈夫な感じが、小フリイデマン氏をおそった。なにをこわがっていたのだろう。なにもかも平生の通りではないか。なるほど、昨日はたちの悪い発作があったことはあった。だが、もうあんなことはおしまいにしよう。まだ遅すぎはしない。まだ破滅から脱れることはできる。あの発作をふたたびさせそうな機因は、どんなものでも避けねばならぬ。自分はそれだけの力を感じている。それを征服して、心のうちにまったく窒息させてしまうだけの力を感じているのだ。
 七時半が鳴った時、フリデリイケが入って来て、円卓の上にコオヒイを置いた。円卓は奥の壁際の革長椅子の前にある。
「おはよう、ヨハンネス。」と彼女はいった。「さあ、朝御飯を持ってきてよ。」
「ありがとう。」とフリイデマン氏がいった。「ねえ、フリデリイケ、お気の毒だけど、姉さんたちだけでお客に行ってもらわなくてはならないんですよ。僕はどうも気分が悪くて、お伴ができないから。よく寝なかったもんで、頭が痛くってね。で、まあ、お願いだから……」
 フリデリイケは答えた。
「そりゃ惜しいわね。いつか一度はきっと行かなくちゃだめよ。でも、ほんとに加減が悪そうだこと。わたしの頭痛とうを貸して上げましょうか。」
「いいえ、いいんです。」とフリイデマン氏はいった。「すぐなおりますよ。」そしてフリデリイケは去った。
 卓のそばに立ったまま、彼はゆっくりコオヒイを飲んで、それにつのパンを一片食べた。自分自身に満足していて、自分の果断を誇っているのである。すんでしまうと、葉巻を一本取って、また窓際に腰をおろした。朝飯は彼をいい気持にした。彼は幸福な、希望にあふれた心地になった。本を一冊手に取ると、それを読んで煙草をくゆらせて、外の日光をまぶしそうに眺めた。
 往来はもう賑やかになっていた。車のとどろきや、話し声や、鉄道馬車の鈴の音などが、彼のところまでひびいて来た。が、その間に交って鳥のさえずりも聞えた。そして輝くばかり青い空からは、柔かい暖かい風が吹いていた。
 十時に彼は、姉たちが玄関口を通るのと、大扉がぎいと鳴るのとを聞いた。そしてしばらくすると、その三人の婦人たちが窓外を通りすぎるのを見た。しかし格別気にもとめなかった。一時間すぎた。彼はますます幸福な気持になっていった。
 一種のおごった感じが、彼の心をみたしはじめた。なんという風が吹いているのだろう。それに、あの鳥のさえずりようはどうだ。ちょっと散歩に出て見たらどんなものだろう。――すると突然、なんの副想もなしに、ある快い驚愕を伴って、こういう考えが胸の中に湧き上ってきた……あの女のところへ行ったら? ――そして心配そうに警告するすべての声を、それこそ筋肉を働かせて、心の中におさえつけながら、彼は嬉しげにきっぱりと、こうつけ加えた。――あの女のところへ行ってやろう。
 そこで黒の晴着に着替えて、シルクハットとステッキを取ると、早足でせわしく息づかいながら、町中をずっと通り抜けて、南の郊外へと向った。人には眼もくれず、まったくうっとりした有頂天な気持で、一歩ごとに気ぜわしく頭を上げ下げしながら行って、とうとう町はずれの栗の並樹道にある、赤い屋敷の前に立った。入口に「陸軍中佐フォン・リンリンゲン」という名が書いてある。

 と、そのとき戦慄が彼をおそった。そして心臓の鼓動は、痙攣的に重たく胸を打った。それでも彼は車寄せを通り越して、奥の鈴を鳴らした。これでもう事は決せられた。もはやあとへひくことはできぬのである。どうでもなるようになるがいい、と彼は思った。心の中は急に死んだようにひっそりしてしまった。
 扉がさっとあいた。召使が玄関を横切って、彼のところまで来て、名刺を受け取ると、それを持ったまま、赤い敷物の敷いてある階段を、急いで昇って行った。この敷物をフリイデマン氏がじっと見つめているうちに、やがて召使がまた出てきて、奥様がどうかお通り下さいとおっしゃいますといった。
 上の客間の扉口のそばで、彼はステッキを置きながら、鏡の中をちらとのぞいて見た。顔は蒼かった。それに赤くなった両眼の上には、髪の毛が額にへばりついている。シルクハットを持った手が、とめどなく震えている。
 召使が扉をあける。彼は中へ入った。見るとかなり大きな薄暗い室だった。窓にはことごとくとばりが下りている。右手にグランド・ピアノがあって、真中の円卓のまわりに、茶色の絹張りの安楽椅子が並んでいる。左横の壁際にある長椅子の上には、重そうな金の額縁にはまった風景がかかっている。壁布も黒ずんだ色である。奥の出窓の中には、棕櫚しゅろの樹が立っていた。
 一分の後、フォン・リンリンゲン夫人が右手の垂れ幕をさばいて、厚い茶色の絨毯の上を、音もなく彼のほうへ近づいて来た。夫人はごくあっさりした仕立の、黒と赤との格子縞の服を着ている。出窓の所から、太い光の帯が、塵を踊らせながら、ちょうど夫人のふさふさした赤い髪の上に落ちたので、髪は一刹那金色の輝きを放った。夫人は例の不可思議な眼を、探るように彼の上に据えて、いつもの通り下唇を突き出していた。
「奥さん、」とフリイデマン氏は切り出して、夫人を見上げた。わずかに夫人の胸までしか達しないからである。「私もやはり私として、御機嫌を伺いたいと思いまして。姉たちのところへおいで下さった時には、私はあいにく留守で……ほんとに残念なことをいたしました……」
 彼はそれ以上なにもいうことがなくなったのに、夫人は突っ立ったなり、強いて彼にもっといわせようとするかのごとく、容赦なく彼を見つめている。彼のからだ中の血は、にわかに頭へ昇って来た。彼は思った。この女はおれを苦しめようとしている。あざけろうとしている。しかもおれの心を見抜いているのだ。あの眼の震えていることはどうだ。……ようやく夫人は、きわめて明らかな、きわめて澄み切った声で、こういった。
「御丁寧にようこそおいで下さいました。せんだってはお目にかかれなくて、私も残念に存じましたの。さあ、どうぞお掛け下さいませんか。」
 夫人は彼の近くに腰をおろすと、両腕を椅子の肱にのせたなり、うしろへもたれた。彼は前かがみに腰かけて、帽子を膝の間に持っている。
「ほんの今しがたまで、お姉様がたがここへおいでになっていたのでございますよ。御存じでいらっしゃいまして? あなたが御病気だとかおっしゃっていらっしゃいましたが。」
「はあ、ほんとにそうなので。」とフリイデマン氏は答えた。「けさはどうも気分がすぐれませんで、とても外へ出ることはできまいと思っておりました。こんなにおそくなって、誠に申し訳がございません。」
「あなた、今でもまだ、お加減が悪そうでいらっしゃる。」と夫人はごく静かにいいながら、じいっと彼を打ち守った。「お顔色は蒼いし、それにお眼が赤くなっていらっしゃいますよ。いったいにあまり御丈夫なほうではないのでございましょうね。」
「いえ、なに……」とフリイデマン氏は口ごもった。「まあだいたい困ってもおりません。」
「私もよく病気を致しましてね。」と、夫人は彼から眼を放さずにいいつづけた。「でも誰も気がつきませんの。私神経質なので、それはもう、いろいろ妙な心持になることがよくございますわ。」
 夫人は言葉を切って、あごを胸へつけたまま、上眼を使って、待ち設けるように彼を見た。しかし彼は答えなかった。じっと坐ったなり、眼を大きくして、考え込むように夫人の上に据えている。なんというふしぎな話しかたをする女だろう。それに、あの高い、落ち着きのない声が、なんと自分の胸に触れることか。彼の心臓は静まっていた。なんだか夢を見ているような心持である。――フォン・リンリンゲン夫人はさらに切り出した。
「昨日は、お芝居がはねないうちに、帰っておしまいになりはしませんでしたか。ちがいまして?」
「ええ、そうでございました。」
「残念でございましたわ。お隣のかたとして、あなたはほんとに結構なかたでいらっしゃいましたもの。演出は下手で――まあ比較的に上手だというだけでございましたけれど。音楽はお好きでいらっしゃいましょう。ピアノをお弾きになりますの。」
「ヴァイオリンを少し弾きます。」とフリイデマン氏はいった。「といっても――ほとんどなにも弾けはしませんが……」
「ヴァイオリンをなさるのでございますか。」と夫人は問うたが、そのまま彼を通り越して、宙を見つめながら、考え込んでいた。
「それならほんとに、時々二人で御一緒に、演奏をいたしてもようございますのね。」と不意に夫人はいった。「私少しは伴奏ができますから、さぞ嬉しいことでございましょうね。この土地でどなたか……いて下さったとしたら……あなた来て下さいますか。」
「喜んでお指図どおりにいたします。」と、彼は依然として夢でも見ているような気持でいった。ふと話がとぎれた。すると突然、夫人の顔の表情が変った。ごくかすかな残忍な嘲弄を浮かべて、その顔がゆがみ、その眼がまたあの無気味な震えをおびて、前にもう二度もあったごとく、じっと探るようにこっちを向いているのを、彼は見たのである。彼の顔は燃えるように赤くなった。そしてどっちを向いたらいいかわからず、困り切って度を失った彼は、首をすっかり肩の間に埋めたまま、へどもどしながら、絨毯に眼を落してしまった。同時にあの無力な、甘くさいなむような憤怒が、短かいおののきのように、ぞっと身内を流れた。
 すてばちな決心をもって、彼がふたたび眼をあげた時、夫人はもう彼を見つめてはいないで、彼の頭越しに静かに扉口の方を眺めていた。彼はやっとのことで、数語を口から押し出した。
「で、今までのところはこの町の御滞在に、まず御満足でいらっしゃいますか。」
「まあ、」とフォン・リンリンゲン夫人は冷淡にいった。「それはもちろんでございますとも。不満足なわけがないではございませんか。もっとも少々狭苦しいような、見世物になっているような気はいたしますけれど、それでも……ああ、そういえば、」と夫人はすぐにつづけた。「忘れないうちに申し上げておきますが、私ども近いうちに、少しばかりお客様をお招きするつもりでおります。小さな、くつろいだ集まりでございますの。まあちょっと音楽でもいたしたり、なにかおしゃべりでもいたしたりしようというわけで……それに宅の裏手に小綺麗な庭がございましてね、河のところまで降り加減になって、ずっとつづいておりますの。で、まあつまり、いずれあなたにもお姉様がたにも、もちろん招待状を差上げますけれど、今ここで直接おいでをお願いしておきます。いらしっていただけましょうかしら。」
 フリイデマン氏がまだ感謝と承諾の旨を述べ終るか終らぬうちに、扉の把手が、がちゃりと大きな音を立てたかと思うと、中佐が入って来た。二人とも席を立った。そしてフォン・リンリンゲン夫人が男同士を引き合わせる間、良人はフリイデマン氏にも妻にも、同じ鄭重さで腰をかがめた。
 鳶色の顔が、暖かさでてらてら輝いている。
 手套をはずしながら、中佐は持前の力強い鋭い声で、フリイデマン氏になにか話しかけた。彼は大きな、茫然とした眼で、中佐を見上げながら、今にも中佐から好意的に肩を叩かれそうな気がしていた。しかし中佐は両のかかとを揃えて、上体を少し前にかがめながら、妻のほうへ向き直ると、耳立つほど声を落していった。
「お前、フリイデマンさんに、あの小さい集まりへ出て下さるようにお願いしたかい。もしお前がよければ、あと一週間のうちにその会をやろうと思うがね。天気がもつといいな。庭にも出ていられるようだといいがなあ。」
「どうでもお考え通りに。」とフォン・リンリンゲン夫人は答えて、良人のわきのほうへ眼をやった。
 二分の後フリイデマン氏はいとまを告げた。扉口のところでもう一度腰をかがめた時、彼は夫人の眼に出会った。眼はなんの表情もなく、彼の上にとどまっていた。

 彼は立ち去った。が、町へは引き返さずに、並木道から分れて河べりの昔の障壁に通じている道へ、われ知らず足を向けた。そこにはよく手入れのとどいた遊苑があり、蔭の多い道や、ベンチなぞがあるのだった。
 早足で無意識に眼もあげずに、彼は歩いて行った。たまらなく暑かった。腹の中で焔がめらめらと燃えているのが、そして疲れた頭の中で、じゃけんに動悸の打っているのが感ぜられた。
 あの女の眼が、今もなお自分の上に注がれていはしないか。しかし最後の時のように、空虚に無表情にではなく、その前、あの妙に物静かな調子で、自分に話しかけたすぐあとのように、例の残忍な震えを帯びながら、注がれていはしないか。ああ、自分をどぎまぎさせて度を失わせるのが、あの女には面白いのだろうか。自分の心を見抜いているなら、少しはあわれと思えないものかしら――
 彼は河に添うて、緑草に蔽われた障壁のそばを歩いて行って、素馨そけいの叢で半円形に囲まれたベンチの上に、腰をおろした。あたり一面に、甘い重苦しい香りがみちみちている。眼の前には、日光が微動する水の上にたゆたっている。
 なんとからだが疲れてぐたぐたになっていることか。それでいて心の中では、すべてがなんと悩ましくさわだっていることか。もう一度あたりを見廻してから、あの静かな水の中へ降りて行って、ちょっと苦しんだ後に解放せられて、安息の中へ救い取られるというのが、一番いいのではなかろうか。ああ、安息、安息こそは、自分の求めているものなのだ。けれども、それは空しい無感覚な虚無の中の安息ではなくて、良き静かな思いにみちた、柔かく日の当っている平和なのだ。
 生活に対する彼の厚い愛着のありたけと、かの失われた幸福への深い憧憬とが、この刹那、彼の心を震えながら貫き走った。が、しばらくすると彼は、周囲の自然の黙々とした、限りなく無関心な静けさを眺め廻して、河が日光を浴びながらおのれの道を進んで行き、草が微動しながらなびき、花がやがてはしおれて消え失せるべく、咲いたところにたたずんでいるのを見た。ありとあらゆるものが、あの物言わぬあきらめをもって、存在に頭をさげているのを見たのである。――と、たちまち彼の心は、すべての運命をこえた一種の優越感を与え得る、あの必然性と、肝胆相照らしているような感じにおそわれた。
 彼はあの三十回目の誕生日の午後のことを考えた。あの時は平安を我がものとして喜びつつ、怖れもなく望みもなく、残っている生涯をずっと見渡すように思っていた。そこには光も見えず、影も見えず、すべては柔かな薄明を浴びながら、眼前に横たわっていて、末はずっと向うのほうに、ほとんど朦朧として闇にまぎれていた。そして自分は平静な思い上った微笑をたたえながら、なお来るべき歳月を迎え見ていたのである。――あれから幾何いくばくの時が経っているのであろう。
 そこへあの女が出てきた。出てこなければならなかった。それは自分の運命である。あの女自身が、ただあの女だけが自分の運命なのである。最初の瞬間から、自分はそう感じなかったか。あの女は来た。そして自分がいくら自分の平安を護ろうと努めても、あの女に対しては、心のすべてが湧き立たずにはいない。自分にとっては苦悩と破滅を意味すると感じて、小さい時から心中に抑圧してきた、そのすべてのものが湧き立たずにはいないのだ。それはおそるべきあらがいがたい暴力で、自分を引っ捕えてしまった。そうして自分を滅ぼすのだ。
 それは自分を滅ぼす。そう彼は感じた。だが、なんのためにこのうえ闘ったり悩んだりすることがあろう。なんでもかんでもなるようになるがいい。自分は自分の道を歩きつづければいいのだ。ずっと向うにある深淵には眼をつぶったまま、運命に従って、あの強大な、さいなみながらも甘い、誰にも免れることのできぬ力に従って行けばいいのだ。
 水はきらめき、素馨は鋭い重苦しい香りを吐き、鳥はまわりの樹々にさえずり、その樹間には重たい、青ビロオドのような空が光っている。小さいせむしのフリイデマン氏は、しかしまだ長いこと、もとのベンチに腰かけていた。前かがみになって、両手で額を支えたまま、腰かけていた。

 リンリンゲンのところでは、この上なく愉快に楽しめるということに、みんな同感であった。総勢およそ三十人が、広い食堂を貫いている長い、品好く飾られた食卓についている。召使と二人の臨時雇いの給仕とは、すでにアイスクリイムを運び廻っていて、かちゃかちゃ、がらがらいう音と、料理と香料の暖い朦気が、あたりをこめていた。気楽そうな紳商たちが、夫人令嬢同伴でここに集っているのである。そのほかには守備隊の将校がほとんど全部と、老いた人気のある医師が一人、法律家が五六人、それからなお上流階級に属する人々などである。また中佐の甥で、この親戚のところへ訪問に来ている、数学専攻の大学生もいた。彼はフリイデマン氏の向い側に坐っているハアゲンシュトレエム嬢と、すこぶる深遠な談話を交していた。
 フリイデマン氏の席は食卓の下手の端で、美しくない高等中学校長夫人の隣、フォン・リンリンゲン夫人の近くに、彼はきれいなビロオドのクッションの上に腰をおろしていた。夫人は先刻名誉領事シュテフェンスの腕にって、食堂へ入って来たのだった。この一週間で、どんな変化がフリイデマン氏の上に起ってしまったか、それはおどろくほどであった。おそらく一つには、広間をみたしている白いガスの灼光のせいで、彼の顔はこんなにすごいほど蒼く見えるのかもしれない。しかし両頬は落ちくぼんでいるし、紅くなって、周囲に黒い陰のできた両眼には、なんともいえぬ悲しそうな微光が見えているし、なんだか彼の姿は、今までより一層かたわになってしまったような風である。彼は盛んに葡萄酒を飲んで、時々隣席の婦人に、二言三言話しかけていた。
 フォン・リンリンゲン夫人は食卓についてから、まだ一言もフリイデマン氏と口を利かなかったが、この時心持前かがみになって、彼のほうへこう呼びかけた。
「あなたがヴァイオリンを持っておいで下さるかと思って、私この二三日、むだに待ってしまいましたわ。」
 返事をする前に、彼は一瞬間、まったく茫然として夫人を見つめた。夫人は白い頸筋のあらわな、薄色の軽快な服装で、つややかな髪には、咲き誇ったニイル元帥薔薇が一輪さしてある。今宵は頬が少し紅味を帯びているが、しかし眼尻には例のごとくはの青い影がよどんでいた。
 フリイデマン氏は自分の皿に視線を落したなり、押し出すようになにかしら返事をした。するとすぐベエトオヴェンが好きかどうかという、高等中学校長夫人の問に答えなければならなかった。が、この瞬間に、食卓のずっと上手にいた中佐が、細君のほうへ一瞥を投げた後、コップを叩いて、こういった。
「諸君、コオヒイはほかの部屋で飲むことにしたいと思います。それから、今晩は庭もきっと悪くないでしょうから、もしどなたか庭に出て、いささか涼をれようというかたがあるなら、私はそのお仲間になります。」
 一座がしんと静まった中へ、フォン・ダイデスハイム少尉が、如才なく洒落を一ついったので、みんなは陽気な笑い声のうちに席を立った。フリイデマン氏は一番あとのほうから、相手の婦人とともに広間を出ると、もうみんな煙草を吸いはじめている、旧ドイツ式の室を抜けて、薄暗い居心地のよさそうな居間まで、彼女を連れて行って、それから彼女に別れた。
 彼は念入りななりをしていた。燕尾服は申し分なく、シャツはまぶしいほど白く、細い、形の好い足には、塗革靴を穿いている。ときおり、赤い絹の靴下がちらちらとのぞいた。
 廊下のほうへ眼をやると、かなり大きな幾群が、もう階段を降りて庭へ出てゆくのが見えた。しかし彼は、男客が五六人、雑談しながらかたまって立っている、旧ドイツ式の扉口のそばに、葉巻とコオヒイとを持ったなり、腰をおろして、居間の中へ眼をやっていた。
 入口のすぐ右手に、小卓をとりまいて坐っている一群があった。その中心になっているのは、例の大学生で、むきになって弁じている。彼はある直線に対する平行線が、一点をよぎって一本以上引かれ得る、という主張を持ち出していた。ハアゲンシュトレエム弁護士夫人が「そんなこと不可能ですわ。」と叫んだ。そこで今彼は、きわめて剴切がいせつにそれを証明したので、みんなさも納得したような顔をしているところだった。
 ところで、その室の奥のほうには、背の低い赤い覆いの掛った燈のそばのトルコ椅子に腰かけて、ゲルダ・フォン・リンリンゲンが若いシュテフェンス嬢と話していた。夫人は黄絹のクッションに少し背をもたせ、足を組み重ねて腰かけたまま、ゆっくりと巻煙草をのみながら、煙を鼻から吐いて、下唇を突き出している。シュテフェンス嬢は、夫人の前にぎごちなく木彫のように腰かけたなり、こわごわ微笑しながら、受け答えをしている。
 誰も小フリイデマン氏を気にとめる者はなく、誰も彼の大きな眼が間断なくフォン・リンリンゲン夫人に向けられているのに、気づく者はなかった。だらりとした様子で坐ったなり、彼は夫人を眺めている。そのまなざしにはなんの情熱的なところもなく、苦痛もほとんど見えない。そこにあるのは、なにか無感覚な死んだようなもの、鈍い、力も意志もない献身といったようなものであった。
 こうして十分ばかり経った。すると不意に、フォン・リンリンゲン夫人が立ち上って、さっきからずっと、ひそかに彼の様子を眺めてでもいたように、彼のほうを見もしないで歩み寄って来て、彼の前に立ち止った。彼は立ち上って夫人を見上げて、次の言葉を聴いた。
「御一緒に庭へ出てごらんになりませんか、フリイデマンさん。」
 彼は答えた。
「まいりますとも、奥さん。」

「あなたは私どもの庭をまだごらんになりませんでしたのね。」と、夫人は階段の途中で彼にいった。「かなり大きいのでございますよ。出ているかたが、まだあまり多勢でないとようございますがね。私少し息を入れたいと思いまして。食事の時、頭が痛くなりましたの。あの赤葡萄酒が、私には強すぎたのかもしれません。――ここの扉から出なければならないのでございますよ。」それはガラス扉で、二人は中段からそれを抜けて、小さな涼しい玄関に出た。それから数段を降りると、もう外だった。
 うるわしい星明りの暖い夜の中に、すべての花壇から香りがあふれていた。庭は一面にさえ渡った月かげを浴びて、白く輝く砂利道には、客人たちが雑談したり、煙草をのんだりしながら、あちこち歩いている。一群は噴水のまわりに集っていた。そこでは、老いた、人気のある医師が、みんなの大笑いのうちに、紙船を浮かべていた。
 フォン・リンリンゲン夫人は、軽くうなずいたきり、そこを通りすぎて、遠くのほうを指さした。小綺麗な、香りの高い花園が、黒ずみながら遊苑になるあたりである。
「まんなかの並木道を通って降りて参りましょう。」と夫人がいった。その入口のところに、低い太いオベリスクが二本立っていた。
 はるか向うに、一直線の栗の並木道が尽きるところに、河が月光を受けて、薄緑にちらちらと光っているのが二人に見えた。あたりは暗く冷やかだった。ところどころに、迂回しながら、やはり河まで通じているらしい横道が分れていた。長い間、なんの物音も聞えなかった。
「水際にね、」と夫人がいった。「一つきれいなところがございましてね、私もうなんべんも、そこに坐っていたことがございますの。しばらくそこでおしゃべりをいたしましょうか。――まあ、ごらん遊ばせ、時々葉の間から、星がきらきらすいて見えますわ。」
 彼は返事をしないで、だんだん近くなってくる、緑色のちらちらする水面を眺めた。対岸の障壁のところがよく見分けられた。二人が並木道を離れて、河のところまで低まっている草原へ出た時、フォン・リンリンゲン夫人はこういった。
「ここから少し右へ行くと、例の場所でございますよ。ほら、いております。」
 二人が腰をおろしたベンチは、並木道から六歩はずれて、遊苑に背をもたせていた。ここのほうが茂った樹間よりも暖かだった。こおろぎが草の中で鳴いている。草はみぎわにゆくと葦になっている。月に明るい河が、穏かな光を放っている。
 二人ともしばらく無言のまま、水の面に見入っていた。が、やがて彼は全く心をゆり動かされながら、耳を傾けた。一週間前に聴いた口調、あの低い、瞑想的な、穏かな口調が、またふたたび彼の胸に触れたからである。
「いつ頃から、おからだがそんなでいらっしゃるの、フリイデマンさん。」と夫人は問うた。「お生れになった時からですか。」
 彼はごくりと一つ飲みくだした。のどが締めつけられるように思ったのである。それから小声で、つつましく答えた。
「いいえ、奥さん。赤ん坊の時にゆかへ落されたのです。それがもとなので。」
「で、今おいくつでいらっしゃるの。」と夫人はさらに問うた。
「三十になります。」
「三十に。」と夫人は繰り返した。「じゃお仕合せではなかったのでしょうね、この三十年というものは。」
 フリイデマン氏は首を振った。唇が震えた。「ええ、」と彼はいった。「嘘と妄想ばかりでした。」
「とおっしゃると、お仕合せだとは思っていらしったのですね。」と夫人は問うた。
「仕合せになろうと努めたのです。」と彼はいった。すると夫人が答えた。
「それはお立派なことでしたわね。」
 一分すぎた。こおろぎが鳴くだけで、二人のうしろでは、樹々がごくかすかにざわめいている。
「私も少しは不仕合せというものを存じております。」とやがて夫人がいった。「こういう夏の夜水際にいるのが、それには一番ようございますのね。」
 それには答えず、彼は力のない手つきで、闇の中にひっそり埋っている向う岸を指さした。
「あそこに私はこないだ坐っておりました。」と彼はいった。
「私のところからのお帰りがけに?」と夫人が問うた。
 彼はただうなずいたきりだった。
 が、しばらくして突然、腰かけたなり、ぞっとからだを震わせると、すすり泣きながら、押し出すような声を立てた。それは泣き声でありながら、またどこかにほっとしたようなひびきがあった。と思うと彼はしだいに女の膝もとへくずおれてしまった。今まで彼の手は、自分のそばにあった女の手に触れていたのが、この時その手を堅く握ると、もう一つの手もつかんで、この小さな、ひどいかたわの人間は、からだを痙攣的に震わせながら、女の前へひざまずいて、顔を女の膝に押しつけたなり、声とも思えぬ、あえぐような声で、どもりどもりこういった。
「御存じじゃありませんか……どうか私を……もう私はなんにも……ああ、どうしたら……どうしたら……」
 夫人は彼をとめもせず、といってまた、彼の上に身をかがめもしなかった。そり身になって、彼を少し避けるように、うしろへもたれたまま、坐っている。そして水のしめった微光を映しているらしい、小さな寄り合った眼は、またたきもせず、睨むように、男の頭を越して、まっすぐずっと遠くのほうを見つめている。
 しばらくして夫人は、やにわに、短かい勝ち誇った、さげすむような笑い声をあげながら、両手を男の熱い指から、一気にさっと引き抜くなり、男の腕をつかんで、横倒しに思い切り投げ倒したかと思うと、ぱっと立ち上って、並木道に姿を消してしまった。
 彼は顔を草に埋めたなり、麻痺して、前後不覚に横たわっていた。そして引きつるような波が、たえまなくからだを貫いて走った。と、無理に起き上って、二足ばかり歩いたが、またどたりと倒れてしまった。彼は水際に横たわっている。
 いったい、今の出来事に遭って、彼の心中にはなにが起っているのであろう。おそらく、あの女に例の眼付で辱しめられた時、いつも感じた、あの妙に快い憎悪かもしれない。その憎悪が、あの女に犬のごとく扱われて、地に倒れている今、狂おしい憤怒に変って、彼はそれを自分自身に向ってでもなんでも、ともかく形に現わさずにはいられなくなっているのかもしれない。――それともまた、自己に対する嫌厭であろうか。それが自己を滅ぼして、寸断して、拭い去ってしまいたいという渇望で、彼の心をみたしているのであろうか。
 腹這いのままさらに押し進むと、彼は持ち上げた上半身を、それなり水の中へ落し込んでしまった。首は二度と挙げなかった。みぎわにのっている両脚すら、もはや動かさなかった。
 水のはね上った音に、こおろぎは一刹那声をひそめた。やがてまたその鳴き声がひびきはじめて、遊苑の森がかすかなざわめきを立てた。そして長い並木道を伝わって、はるかな笑い声がひびいてきた。





底本:「トオマス・マン短篇集」岩波文庫、岩波書店
   1979(昭和54)年3月16日第1刷発行
   2003(平成15)年5月24日第33刷発行
入力:kompass
校正:酒井裕二
2015年2月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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