世の中には、いかに文学的修練を経た空想といえども、その成立に想到し得ぬような夫婦関係が、ずいぶんあるものである。そういう関係は、ちょうどわれわれが芝居で、老いて愚純なものに対する、美しくて活溌なもの、というような対照の、架空的な結合――仮定として与えられて、ある笑劇の数学的構成の根底になっている結合を受け容れるごとくに、そのまま受け容れられねばならない。
ヤコビイ弁護士の細君についていえば、彼女は若くて美しくて、並々ならぬ魅力を持った女である。今から――まあざっと――三十年も前に彼女はアンナ・マルガレエテ・ロオザ・アマアリエと名づけられた。ところが、みんなはこれらの名前の頭字だけを組み合わせて、昔から彼女をアムラとばかり呼んでいた。外国めいたひびきがあるので、この名ほど彼女の人柄にあてはまった名はなかった。なぜなら、横のほうでわけて、狭い額から両側へ斜めになでつけた、ゆたかな柔かな髪の濃さこそ、やっと栗の実ほどの褐色ではあるけれど、それでも、肌は全く南国風の薄黒い黄色で、しかもその肌が、やはり南国の太陽の下に成熟したらしい、またその植物的なものうげな豊満さで、トルコの女皇のそれを思わせる姿態を、ぴっちりと包んでいるからである。彼女のそそるように自堕落な身ぶりの、一つ一つが呼び起すこの印象は、彼女の理智がきっと心臓に隷属しているだろうという推察と、どこまでも一致するのだった。そのことは、ただの一度でも、彼女がそのきれいな眉を
この気がかりな女が、つまり、四十ばかりになるヤコビイ弁護士の細君なのであるが――さて、この男を見た者はだれでもあきれる。弁護士はふとっている。ふとっているでは足りない。ほんとうに巨人のような男である。いつも鼠色のズボンをはいている脚は、柱のような不恰好さで、象のそれを思い出させるし、脂肪のかたまりで丸くなっている背中は、熊のそれに異らぬ。そして厖大な太鼓腹は、彼がよく着る、奇妙な緑灰色の上衣で蔽われているが、それがたった一つのボタンで、やっと合わせてあるので、そのボタンをはずすが早いか、両側へ肩のあたりまで、跳ね返ってしまう。しかも、この偉大な胴体の上には、ほとんど頸という経過なしに、割合に小さな頭がのっている。そこにはほそい濡れた眼と、短かい丸まった鼻と、だぶだぶに垂れた頬とがあり、その頬の間に、陰気に両端のさがった、小さな小さな口が消えそうになっている。丸い脳天と上唇とには、淡い明色のばりばりしたこわい毛が、まばらに生えていて、ちょうど餌をやりすぎた犬に見るように、あらわな皮膚がその毛の間から、一面にてらてらとのぞいている。ああ、この弁護士の肥満が、健全なたちのものでないことは、だれが見ても知れきっているに相違ない。縦にも横にも雄大な彼のからだは、脂肪過多で肉がしまっていないし、それにまた、突然血の流れが、彼のはれぼったい顔を、さっと染めるかと思うと、同じく突然、黄ばんだ蒼白さに変って、同時に口が渋そうにゆがんでしまうのも、よく見受けられた。――
この弁護士の依頼者は、ごく限られていた。しかし幾分は妻のおかげで、彼はかなりの財産を持っていたから、この夫婦――ついでながら子供はなかった――はカイゼル街の、ある気持のいい二階に住んでいて、その家には、いつも頻繁な社交上の出入があった。それはいうまでもなく、ひとえにアムラ夫人の好みに応じてのことだった。なぜなら、ただ苦しそうな熱心さで事に当っているらしい弁護士が、そんなことで幸福に感じようはずはなかったからである。このふとった男の性格は、世にも奇妙なものだった。この男ほど、あらゆる人々に対して、慇懃な如才のない従順な人間はないのだが、そのくせ人々は、彼のあまりに親切なへつらうような態度が、なにかわけがあってむりに装われているということ、それが、
すでに暗示しておいた通り、いったいなぜアムラがヤコビイ弁護士と結婚したかということは、しばらく措く。しかし彼は、彼のほうからは、彼女を愛している。しかも、彼のような体格の大人には、たしかに稀に見るほどの熱烈な愛で、また彼のほかの性質には釣り合った、謙虚な小心な愛で愛している。よく夜おそくアムラが、ひだの多い花模様のカアテンをかけた高い窓のある、大きな寝室で、もう床についている時分、足音はしないで、ただ床板と家具のしずかにゆれるのだけが聞えるほど忍びやかに、弁護士が彼女の重たそうな寝台の側に寄って来て、膝をついて、ごくごくそうっと彼女の手をとることがあった。そんな時、アムラはいつも眉を水平に高く挙げながら、自分の前におぼろげな夜燈の光を浴びてかがんでいる巨大な良人を、無言のまま、肉感的な悪意の表情でながめるのが常であった。が、彼は不器用なおののく手で、彼女の腕からそっとシャツをまくると、あわれにはれた顔を、その豊満な小麦色の腕の軟かな関節のところ――小さな青い脈管が、とびいろの肌に浮き出ているところへ、押しあてながら、おさえつけたようなふるえ声で、物をいいはじめる。それも分別のある人間なら、日常生活では普通しゃべることのないような調子なのである。「アムラ。」と彼はささやく。「かわいいアムラ。邪魔じゃないだろうね。まだ眠っていたのじゃないだろう。ほんとにわたしはいちんち考えていたんだよ、お前がどんなにきれいで、わたしがどんなにお前を愛しているかとね。――これからわたしのいおうとすることを、よく聞いておくれよ。どういったらいいのだか、大変むずかしいのだがね。――わたしは時々心臓が縮まってしまって、自分ながらどこへ行ったらいいかわからなくなるくらい、そんなにひどくお前を愛している。自分の力以上に愛しているのだよ。それはお前にはわかるまいが、しかしわたしの言葉を信じてはくれるだろうね。そしてたった一度でいいから、少しはそれをありがたく思うといってくれなくてはね。だって、いいかい、わたしがお前に捧げているようなこういう愛は、この世の中でそれ相当の値打があるものなのだよ。――それからまた、わたしを愛することはできないとしても、それでも感謝の心持から、ただその心持からだけでも、決してわたしを裏切ったりだましたりしないということも、いってくれなくてはね。――そのことを頼みにわたしはやって来たのだよ、ありったけの真心をこめて、胸の底から頼みにね……」そして彼はいつもこういう言葉を、その姿勢のまま、忍び音にさめざめと泣くことで終るのが常であった。そういうおりには、さすがにアムラも心を動かされて、片手で良人のこわい髪をさすりながら、長く引っ張ったなだめるような茶化すような調子で――足をなめに来る犬にでもいうような調子で、二三度くりかえしていうのである。「おお、よしよし、犬ころちゃん。」
このアムラの態度は、たしかに貞淑な婦人のそれではない、それにまた、僕が今まで隠しておいた真実を打ち明けるべき時も来たと思う。というのは、アムラがやはり良人にうそをついている、いや、まったく彼を欺いている、しかもアルフレット・ロイトネルという男が相手だという事実である。これは天分のある若い音楽家で、おもしろい小さな作品によって、二十七だというのに、もうかなりの名声を博していた。ほっそりした男で、ずうずうしげな顔と明色の縮れた髪と、それから眼の中には、非常に意識的な明るい微笑とを持っている。自己にむかって別に大した要求もせず、なによりもまず幸福な愛想のいい人間であろうとして、その個人的な愛嬌を高めるために、気持のいい小さな天分を使って、人中に出れば、好んで素朴な天才の振りをしたがる、あのたちの今日の小芸術家たちに、彼は属している。彼等は意識的に子供らしくて、非道徳的で、むこうみずで、快活で、うぬぼれていて、しかも病気になってさえ得意になれるほど、健康なのだから、彼等の虚栄心は、まだ一度も傷つけられたことがない間は、実際気持のいいものである。ただし一度真剣な不幸、こびを受け入れぬような、またいい気になることを許さぬような悩みにおそわれたが最後、これらの小さな幸福者であり物真似師である人々は、大変なことになってしまう。彼等ははずかしくない態度で不幸になっている術を、わきまえぬであろう。悩みというもので何を「はじめ」たらいいかわからぬであろう。彼等は亡びてしまうであろう。――しかしそれはそれだけで独立した物語になるのだ。ロイトネル氏はいろいろ器用なものを作っている。おもにワルツとマズルカだが、その陽気な点で、それらの作は(僕の心得ている限りでは)「音楽」の中に数え込まれるには、少し通俗的にすぎている――もし一つ一つの作品に、ちょっとした独創的な箇所が含まれていなかったとしたら。その箇所とはある移調、ある插音、ある協和的な転換、つまり、機智と小器用とを語るような、それが目的で作品が作られたと見えるような、またその作品をまじめな
この若い男にむかって、つまり、アムラ・ヤコビイは、不埒な愛慕に心を燃やしていたのである。それに男のほうでも、女の誘惑に抵抗するだけの道義心は持っていなかった。二人はここで会い、かしこで会った。そして不貞な関係が長年の間、二人を結びつけていた。それは町中が知っている関係だった。町中が、弁護士のかげでおもしろがっている関係だった。だが、当の弁護士はどうしているか。アムラはあまりに愚かだったから、良心の苛責に悩んだり、またそのために良人に勘づかれたりすることはあり得なかった。いくら弁護士の心が、いつも苦労と不安で重くなっていたとしても、彼が妻に対して、ひとつもはっきりした嫌疑をいだき得なかったということは、まったくたしかだというよりほかはない。
さて、万人の心を喜ばせようとして、春がおとずれて来た。そしてアムラは、あるたいへんおもしろいことを思いついた。
「クリスチャン。」と彼女はいった――弁護士はクリスチャンという名なのである――「宴会を開きましょうよ。大きな宴会を。新しくできた春のビイルのお祝いにね。――もちろんごく手軽に、子牛の冷肉だけぐらいで、でもおおぜいお客を呼んで。」
「いいとも。」と弁護士は答えた。「だが、もう少し先へ行ってからでもよくはないかね。」
それには答えず、アムラはすぐに細目にわたって説きはじめた。
「ねえあなた、ここの家には入りきれないほどおおぜい呼ぶのよ。どこか郊外に、上等の料理屋か庭か広間でも、借りなければならないわ。場所も空気も充分足りるようにね。そのくらいはあなたわかるでしょう。あたしどこよりも一番、あのレルヒェンベルクのふもとにある、ウェンデリンさんの大広間がよかろうと思うの。あの広間はひろびろとしたところにあって、おまけにほんとうの
弁護士の顔は、この話のうちにすこし黄ばんでしまって、口の両端が下のほうへぴくぴく動いていた。
彼はいった。
「ほんとに楽しみでたまらないよ、アムラ。なんでもかんでも、お前のうでにまかせてかまわないことはわかっているもの。どうか、いろんな用意にかかっておくれ。」
そこでアムラはいろんな用意にかかった。数人の淑女や紳士と打ち合わせをしたり、親しく自分でウェンデリン氏の大広間を借り受けたり、それから宴会に興を添えるはずの、陽気な演技にたずさわることを勧められ、またはみずから申し出た紳士淑女を集めて、委員会のようなものまで作った。――この委員会は、宮廷俳優ヒルデブラントの細君なるオペラの歌手を除くと、ことごとく男子ばかりで組織せられていた。そのほかの委員はヒルデブラント氏自身、陪席判事ウィッツナアゲル、ある若い画家、それにアルフレット・ロイトネル氏などで、なお陪席判事の紹介で入った、黒ん坊踊りを演ずべき数人の大学生もいた。
アムラが例の決心を固めてから一週間後、早くもこの委員会は、協議のためカイゼル街に、しかもアムラの客間に集った。それは小さい暖かいゆたかな部屋で、厚い絨毯が敷かれていて、クッションのたくさん置いてあるトルコ椅子と、一株の
ヒルデブラント氏はひびきのいい声で、イギリスの歌謡のことを話していた。きわめて端正な上等の黒服を着た男で、大きなシイザア式の首と、落ち着いたものごしとを持っている――教養もあり、堅実な知識もあり、洗練せられた趣味もある宮廷俳優なのである。まじめな談話の時には、イプセンとゾラとトルストイとを、みんなたしかに同一の批難すべき目標を逐っているといっては、弾劾するのがすきだった。今日はしかし如才なく卑近なことを話題にしている。
「みなさんがたはあのおもしろい『あれはマリアだ』という唄をご存じですかしら。」と彼はいった。――「少しきわどいものですがね、しかし大いに当てますよ。それからまだあります。あの有名な――」といって彼がなお二三の唄を持ち出すと、みんなは結局それに賛成して、ヒルデブラント夫人はそれを歌おうと言明した。――若い画家というのはひどい
「たいへん結構です、みなさん、なにもかも実におもしろくいきそうですね。しかしながら僕は、もうひとこと申し上げずにいられぬことがあります。僕の考えではまだなにかが足りない。それも、呼び物となり、白眉となり、中心となり、頂点となるものが足りない。――なにか全然独特のもの、全然意表外のもの、なにかおもしろさを絶頂に達せしめるような洒落がですね。――つまり、僕はただ暗示を与えるだけで、別にこれという考えはないのですが、しかし僕の感じからいって……」
「そりゃ考えてみるとほんとですなあ。」とロイトネル氏が、煖炉のところから、テノオルの声をひびかせた。「ウィッツナアゲル君のいわれる通りだ。呼び物でかつ
「まあ仕方がない。」とヒルデブラント氏はいった。「偉大な人たちを頂点と見なさないというご意見ならばね……」
みんな陪席判事に賛同した。特別に滑稽な呼び物が望ましいというのである。弁護士さえうなずいて小声でいった。「まったくですな――なにかとびきりおもしろいものが……」一座は考え込んでしまった。
そこで会話は一分間ばかりとぎれて、ただ小さな沈吟の叫びが聞えるだけだったが、この
「ねえ、クリスチャン、あなたおしまいに、紅い絹の赤ん坊服を着て、女の歌い手になって出たらどうなの? そしてなにか踊って見せたら?」
このわずかな言葉の効果は、大変なものだった。若い画家だけは好意的に笑おうと試みたが、ヒルデブラント氏は、石のごとく冷やかな顔をして袖口の塵を払うし、大学生たちは咳払いをして、場所柄になく大きな音を立てて、ハンケチを使うし、ヒルデブラント夫人はいつになくひどく真赤になるし、それから陪席判事ウィッツナアゲルは、サンドウィッチを取りに、いきなり席を逃げ出してしまった。弁護士は苦しそうな恰好で、低い椅子にうずくまったなり、黄色い顔に心配そうな微笑をたたえて一座を見廻しながら、どもりどもりこういった。
「しかしこりゃ……わたしは……どうもそんな柄じゃ……といったところでなにも……まあお許し下さい……」
アルフレット・ロイトネルは、もうのんきな顔つきはしていなかった。少し赤くなったような風で、彼は首をさし伸べたまま、アムラの眼にながめ入った――ぼんやりと、無理解に、探るように。
アムラはしかし、その押し迫るような姿勢を変えずに、前と同じ重々しい抑揚でいいつづけた。
「それでね、クリスチャン、あなたロイトネルさんの作曲なさった唄を歌うんですよ。そしてロイトネルさんがピアノで伴奏なさるの。それこそ宴会中の一番いい、一番大当りの山になるでしょうよ。」
ふと沈黙が来た。重苦しい沈黙が。やがてしかし、まったくだしぬけに妙なことが起った。――ロイトネル氏が、いわば伝染を受けたように、引き入れられて興奮して、一歩進み出ると、不意の霊感といったようなもので身をふるわせながら、早口でこうしゃべりはじめたのである。
「ちかっていいますが、ヤコビイさん、私はあなたのためになにか作曲する積りです。きっとする積りです。――ぜひそれを歌って下さい。ぜひそれを踊って下さい。――それよりほかに、宴会の山は考えられませんよ。――まあ、見ていてごらんなさい。見ていてごらんなさい。――それは私が今まで作ったもの、これから作るものの中で、最善のものになるでしょうから。――紅い絹の赤ん坊服を着て! なるほど、あなたの奥さんは芸術家でいらっしゃる。いや、まったく芸術家ですよ。それでなければ、そんなことをお考えつきになるはずはありませんからね。どうか、うんといって下さい。心からのお願いです。どうか承知して下さい。私はなにか仕上げます。なにか作ります。まあ、見ていてごらんなさい。……」
ここで一座の緊張はとけて、みんな動揺しだした。悪意からか、あるいは礼儀からか――ともかくみんなは、どうぞどうぞと烈しく弁護士に迫りはじめたのである。中でもヒルデブラント夫人なぞは、持前のブリュンヒルデ声を高くひびかせながら、こういったほどだった。――「ヤコビイさん、あなたふだんから陽気なおもしろいかたじゃありませんか。」しかし弁護士自身も、こうなると黙ってはいなかった。まだ少し黄ばんだ顔はしているが、大いに断乎たる調子をこめて、こういったのである。
「まあ、お聞き下さい、みなさん――なんと申したらいいのでしょう。私はたしかに適役ではないのですよ。あんまり喜劇的な天分もありませんし、まあそれは措くとしても……つまり、いや、これは残念ながら、できない相談ですな。」
彼は頑強にこの拒絶をつづけた。そしてアムラがもう会話に口をはさまず、なんだかぼんやりした顔つきで、うしろへもたれたまま坐っているし、それにロイトネル氏ももう一言も語らず、絨毯の唐草模様に眺め入ったなり、じっと考え込んでいるので、ヒルデブラント氏は、たくみに会話の方向を転換させてしまった。そしてまもなくこの集まりは、最後の問題については、なんの決定にも達せぬなりで散会した。
ところが同じ日の宵に、アムラがもう寝床に入って、眼をあけたまま横になっているところへ、重たい足どりで良人が入って来て、椅子を一つ彼女の寝台のそばへ引き寄せると、それへ腰をおろして、小声でおずおずとこういった。
「あのねえ、アムラ、実をいうと、わたしは心配でたまらないのだよ。今日わたしは、みなさんにあまりそっけなくしたかもしれないが、みなさんのいうことを、きっぱりはねつけたかもしれないが――決してわたしはわざわざそうしたわけじゃないのだよ。それともお前、ほんとにそうだと思っているのかい。……どうかお願いだから……」
アムラは眉をおもむろに高く挙げながら、ちょっとのあいだ黙っていた。やがて肩をそびやかすと、こういった。
「なんて返事をしていいんだか、わたしにはわからないわ。あなたがあんな態度を取ろうなんて、あたし夢にも思わなかったのよ。一緒に出てあの催しを助けるのを、無愛想な文句でことわってしまったのね。しかもあなたが一緒に出るのを、みなさんはぜひ必要だと思っていらしったじゃないの。ほんとにあなた、お得意になっていいはずだわ。あなたはみなさんを――まあおとなしい言いかたをすれば、ひどくがっかりさせたのよ。そうして乱暴な無作法で、すっかりあの宴会をぶちこわしてしまったのよ。ほんとなら、御亭主役の義務として……」
弁護士は首を垂れてしまった。そして重たく息づかいながら、こういった。
「いいや、アムラ、わたしはなにもわざと無作法にするつもりじゃなかったのだ。まったくだよ。人をおこらせたり、人にいやがられたりしようなんて、わたしは決して思わないからね。だから、もしわたしの態度が悪かったのなら、いつでもその埋め合わせをするつもりだよ。たかが冗談だもの。仮装だもの。罪のないしゃれなんだもの――かまうものか。わたしだって宴会をぶちこわしたくはないさ。喜んでなんでもやるよ……」
翌日の午後、アムラはまたしても馬車で出かけた。「用たし」をするためである。ホルツ街七十八番地で車をとめると、彼女は三階へ上って行った。そこには待ち受けている人があったのである。それから横になったなり、恋に心をとかせて、男の頭を胸に押しつけながら、彼女は情熱をこめてささやいた。
「連弾に作ってちょうだいね、いいこと。あの人が歌ったり踊ったりするのに、二人で一緒に伴奏するのよ。あたし、あたし衣裳のほうは受け持つわ……」
そしてふしぎな戦慄が、おさえつけられた痙攣的な笑いが、二人の四肢を伝わった。
誰でも宴会を――野外での大仕掛な饗応を催したい者には、レルヒェンベルクのふもとにあるウェンデリン氏の会館が、最も推挙に価する。典雅な郊外の街路から行くと、高い格子門を抜けて、この構えの一部分になっている公園めいた庭に入る。この庭のまん中に、宏壮な宴会場が立っている。そのホオルはただ狭い廊下一つで、料理店と厨と醸造所につながっているきりで、はでないろどりに塗られた木造の、シナ風とルネッサンス風とのおかしな折衷式の建物だが、大きな開き扉がついていて、天気のいい時には、樹々の息を中へ入れるために、開け放しておくこともできる。そして場内は大人数を容れるに足りるのである。
今日は、
やがて大きなタアトが取り廻されて、みんなはそれを食べながら、甘い葡萄酒を飲んだり演説をしたりしはじめた。宮廷俳優ヒルデブラント氏が、古典的な引用句ばかり、いや、ギリシア語の文句まで並べ立てた小演説で、春のビイルを礼讃すると、陪席判事ウィッツナアゲルは、手近の花瓶と卓布から一つかみの花を取って、その一つ一つを淑女の一人になぞらえながら、例の最も軽快な身振りと最も気の利いた調子で、満場の婦人たちのために乾盃した。彼のまむこうに薄い黄色の衣裳で坐っているアムラ・ヤコビイは、「庚申薔薇の美しいほうの姉妹」と名づけられた。
それからまもなく、彼女は片手で柔かな頭髪をなでて、眉を釣り上げると、良人のほうへまじめな様子でうなずいて見せた――と思うと、このふとった男は身を起したが、例の間の悪そうな調子で、醜い微笑とともに、なにか貧弱なことをぽつりぽつりいって、もう少しで全体の気分をだいなしにしてしまうところだった。ほんのわずかな、わざとらしい喝采の声がひびいただけで、あとは一瞬間、重苦しい沈黙がみなぎった。しかしすぐにまた陽気が勝ちを占めて、人々はもう煙草をのみながら、かなり酔心地で席を立つと、大騒ぎのうちに、自分たちでテエブルを広間の外へ運び出し始めた。これから踊ろうというのである。――
もう十一時過ぎで、無拘束は完全なものになっていた。会衆の一部は、さわやかな風をいれるために、多彩な灯のともっている庭園へと流れ出したが、あとはそのまま広間に居残って、ほうぼうにかたまってたたずみながら、煙草を吹かしたり雑談をしたり、樽からビイルをついで立ち飲みをしたりしていた。――とその時、舞台のところから烈しいラッパの音がひびき渡って、一同を広間へ呼び集めた。楽人たち――管楽者と絃楽者と――がすでに到着して、垂れ幕の前に席を占めていたのである。赤い番組ののった椅子が幾列にも並べられていて、婦人たちは腰かけたが、男子たちはそのうしろか両側かに立った。期待にみちた静寂があたりを領した。
やがて小さな管絃団が、颯々たる序曲を奏する、幕が開く――と、どうだろう、そこには、けばけばしい衣裳と、血のように赤い唇の、醜怪な黒人どもがおおぜい立っていて、歯をむき出しながら、野蛮な咆哮を始めたのである。――こうしたいろんな演出が、実際アムラの宴会の高潮をなしていた。熱狂した喝采がまき起って、たくみに編まれた番組は一つ一つ進んでいった。――ヒルデブラント夫人は、髪粉を打ったかつらをつけて登場すると、長い杖で床板をつきながら、ひどく大きな声で「あれはマリアだ」を歌った。手品師が勲章で飾られた燕尾服で現われて、秘術をつくした。ヒルデブラント氏がゲエテとビスマルクとナポレオンとを、驚くばかり巧みなしぐさで表わした。そして編輯長ドクトル・ウィイゼンシュプルングは、間際になってから、「社会的意義における春のビイル」という題の、諧謔的な講演を引き受けた。とうとうしかし、緊張はその極に達した。なぜというに、今度が最後の出し物、番組に月桂冠で囲まれてのっていて、「ルイスヒェン。歌と踊り。アルフレット・ロイトネル作曲」とある、あの不可思議な出し物だからである。
楽人たちが楽器を置いて、それまで、無言で冷淡にそらせた唇に巻煙草をくわえたまま、扉にもたれていたロイトネル氏が、アムラ・ヤコビイと連れ立って、幕の前の中ほどにあるピアノに座を占めた時、ある動揺が広間中にひろがって、人々は眼と眼を見合わせた。ロイトネル氏は顔を赤くしながら、書いた譜面をいらいらとめくっているし、アムラのほうは反対に少し蒼ざめて、片方の腕を椅子の背に支えたなり、ねらうようなまなざしで、聴衆を見つめている。やがて、みんなが首を伸ばしているうちに、鋭い合図のベルがひびいた。ロイトネル氏とアムラが、ちょっとした序開きの二三節を奏する。垂れ幕がまきあがる。ルイスヒェンは現われた……
この悲しげな醜悪に飾り立てられたかたまりが、よちよちした熊踊りの足拍子を取って出て来た時、茫然自失のひとうねりが、満堂の観衆の間を走って行った。出て来たのは弁護士だったのである。だぶだぶしてひだのない、血のように赤い絹の、足まで垂れた着物が、彼の不恰好なからだを包んでいて、しかもこの着物は襟許が
このいたましい姿からは、今までにないほど、苦悩の冷たいいぶきが流れ出てきはしないか。そしてあらゆるのんきな喜ばしさを殺して、なやましい不愉快の避けがたい重圧となって、全会衆の上にのしかかって来はしないか。――この光景に、ピアノのそばの一組と舞台の上の良人とに、呪縛せられたごとくじっと向いている無数の眼は、ことごとく同じ戦慄を底に宿している。――この音もない空前の汚辱は、およそ五分という長い間つづいた。
ところが、その次には、そこに居合わせた人なら、だれ一人として一生涯忘れることはなかろう、と思われる瞬間が来た。――この短かいおそるべき複雑な時間のうちに、いったい何が起ったか、それをいま眼前に思い浮かべて見ようではないか。
我々は『ルイスヒェン』という題の、あのくだらないざれ唄を知っている。そしていうまでもなく、次の数行の文句――
「ワルツの踊りポルカの踊り
だれもわたしにゃかなわない
わたしゃ賤しいルイスヒェン
たんと男を迷わせた……」
という醜い軽佻な一節を覚えている。これが、三つのかなり長い聯の折返しになっているのである。ところで、この歌詞の新しい作曲において、アルフレット・ロイトネルはその傑作を完成した。すなわち野卑なおどけた愚作のまんなかで、突然高級な音楽の離れわざを演じて、度肝を抜くという彼の手法を、極端に発揮したのだった。嬰ハ長調で上下する旋律は、第一聯の間はかなりきれいで、かつまったく陳腐なものであった。前に挙げた折返しのはじめになると、拍子が前よりもはずんできて、不協和音が現われはじめた。そこへロの音がだんだん勢いよくひびき出してきたので、これは嬰ヘ長調へ移るなと思わせられた。これらの不協和音は、「かなわない」という言葉まで、もつれていった。だから紛糾と緊張の極度に達した「わたしゃ」という詞の次には、当然嬰ヘ長調へむかっての納まりがつかねばならぬはずだった。ところが、そうなる代りに、非常な不意打ちが起った。つまり、ほとんど天才的な着想によって、音調は急に転じて、ヘ長調にぱっと変ってしまったのである。そしてこの插音は、「ルイスヒェン」の「イ」を長く引っ張るところで、両方のペダルを使って奏せられたもので、筆にもつくせぬ実に空前の効果を与えた。それはまったく思い設けぬ奇襲だった。急に神経にさわられて、それが背筋をぞっと伝わるような気持だった。それは奇蹟であり曝露であり、その突然さから見て、残忍ともいうべき剥離であり、引きちぎられた垂れ幕であった。――だれもわたしにゃかなわない
わたしゃ賤しいルイスヒェン
たんと男を迷わせた……」
そうしてこのヘ長調の諧音まで来ると、ヤコビイ弁護士は踊るのをやめてしまった。彼は立ちどまっている。舞台のまん中に、根でも生えたように突っ立っている。両の人差指は、まだ依然として立てたままで――片方をもう一方よりも少し低く。――ルイスヒェンのイは卒然と彼の口から消えて、彼は黙ってしまった。それとほとんど同時に、ピアノの伴奏もまたぴたりとやんで、舞台の上のこの架空的な、醜悪にも滑稽な姿は、獣のように首を突き出したなり、ただれた眼で、じっとまっすぐ前を見つめている。――彼はこの飾り立てられた、明るい、人で詰った宴会場を、じっと見つめている。そこには、これらすべての人間のいきれのごとく、ほとんど雰囲気となるまで濃くなった、あの汚辱がよどんでいるのである。――彼はこれらすべてのあおむきになった、ゆがんだ、きわどく照らされた顔と、知っているよという同じ表情で、彼の足もとの一組と彼自身とに、ことごとく向けられた何百という眼とをじっと見つめている。――おそろしい、さえぎる音もない静けさが、満堂にみなぎっている間に、彼は眼を次第に大きく見開きながら、ゆっくりと気味悪く、例の一対から観衆へ、観衆から一対へとさまよわせた――と、ある悟りが、突然彼の顔をかすめ過ぎたように見えた。その顔には、血の流れがさっとほとばしって、着ている絹服のように、赤くふくらんだかと思うと、たちまちまたそれがすっと引いて、顔はろうのようにきいろくなってしまった――そしてこのふとった男は、敷板が轟くほどの音を立てて、どたりと倒れた。――
一刹那の間、静けさはなおもみなぎっていたが、やがて叫び声があがり、喧騒がはじまった。勇敢な紳士が数人、その中には若い医者も一人いたが、楽隊席から舞台へかけ上った。幕はおろされた……
アムラ・ヤコビイとアルフレット・ロイトネルとは、互いに顔をそむけたなり、まだもとの通りピアノについていた。男のほうは首をうなだれたまま、今もなおあのヘ長調への転換の余韻に、耳を澄ませているらしかった。女のほうは今なにが起っているかを、その雀のような脳髄では、急にはつかむ力もなく、ただまったくからっぽな顔をして、あたりを見廻している――
まもなく例の若い医者が、ふたたび広間へ現われた。まじめな顔に尖鬚をたくわえた、小柄なユダヤ種の紳士である。彼を戸口のところでとりまいた数人の紳士淑女に向って、彼は肩をそびやかしながら、こう答えた。
「もうだめです。」