映画界・小言幸兵衛

―泥棒しても儲ければよいは困る※[#感嘆符二つ、1-8-75]―

小津安二郎




阿呆が監督しても客は来る


 蟻を見るたびに感心する。よくも精を出して働くもので、一匹ぐらい石ころの蔭で昼寝をしていてもよさそうなものだが、とんと見当らない。そこにゆくと、人間は有難い。程々に生きることも勝手だ。どう生れ変っても蟻だけには生れたくないものだ。
 私が一年に一つしか映画を作らないのは、必ずしも怠けているからではないのだが、今年は映画界も総蹶起というわけで、私も『彼岸花』に続いて、年内にもう一本撮ることになった。
『彼岸花』は興行成績もよかったようだが、あれだけのスターを揃えれば、大当りするのが当り前なので、会社ももとよりそこに安全性を考えていたわけだ。阿呆が監督しても、客が来るだろうと思う。ただ、つまらない自慢だが、阿呆が監督したのでは、あれだけのスターは集まらなかっただろうということは云えよう。大した役ではないが出てみようという好意を持って貰えたから、ともかくスターの名が並んだので、このスター・ヴァリュウで客が入らなかったら、会社はびっくりするどころではなく、私はたちまち契約を解除されてしまうところだ。
 映画の出来がよくて、その上興行成績がよければ、それに越したことはないが、若い頃には、興行性と芸術性とは相反するものだと、私は考えていた。儲からなくてもいいから、自分のやりたいものをやるんだという意気込みで、大いに仕事をしたものだ。だから、批評家には評判がよかったが、会社は有難くなかったろう。しかし、小津の映画は余り金をかけていないから、客が入らなくても仕様がない、と考えて好きなようにやらしてくれた。もし、会社で皮算用している作品が、はずれたならばそのままでは済まなかったろうと思う。
 やはり若い時は、意あっても力が足りない。通俗性だ、芸術性だと難しいことを振りまわしても、後になって振返ってみると、思っているだけの表現ができていない。気分だけは大変な芸術と取組んでいるつもりでも、ろくに腕も立たず、障子一枚、棧一つ削れない奴が、仏像を作ろうとしてもうまくゆくはずがない、職人の風上にも置けない奴だということになる。
 あまり芸術などと云わないで、のんびりと儲かる映画を作ればいいのではないかと思う。儲かるというと語弊があるが、自分の作ったものを多くの人に楽しんでもらう仕事をし、会社の方ではそれで儲かるということで、両者が一致すべきではあるまいか。
 監督も若いうちは色々な意欲を持つが、力倆がなかなか伴わない。意欲と力倆とのバランスがとれてこそ始めていいといえるので、頭がよくて腕がなくても困るし、腕があるが頭がなくても困りものである。
 そういうバランスは、とにかく何でもこなしているうちに、やがて自らとれてくるので、そこで始めて甲羅に似せて自分の穴を掘ればよいのである。

子供と一緒に見られる映画


 普通の作品を作るにも何千万円か要るのだが、監督はそれだけの大金を、自分の思うように使って作品を作り上げるわけだ。会社もよくそんな大仕事を、三十代の若僧に任しているものである。中堅の監督は大体三十代だ。いまの世の中で、自分で会社でも経営している人はともかく、三十代の男が何千万円もの仕事をすることはないだろう。実業家は、映画の仕事が三十四、五の監督の責任で行われていると聞くと、よくそんな者に任せられるものだと驚いているが、実業家の見る眼も確かに一理はある。
 だから、監督には大仕事を任せられるだけの信用がなくてはならない。当然、会社も助監督を監督に起用することに慎重な態度をとるようになる。会社に納得できる腕前になるにはかなりの時日が必要で、監督になる年齢がだんだん遅くなるのも止むを得ないことだ。
 一体、昔に比べて映画の水準は高くなっているだろうか。どうも内容は大して変っていないように思う。ただ内容は同じだけれども、包装が違っていて、昔はハトロン紙で包んだものを、今はビニールやポリエチレンでくるむというようなことだ。或はむしろ包装だけで見せようという場合もあるだろう。
 昔は下手でも情感があるとかしっとりしていると喜ばれたものだが、現在はドライなものが受けている。これも本質が変ったというよりは、包装が流行によって変ってきたものだ。内容が変っていないとすれば、やはりその内容にふさわしい形式の方がいいのではないかと私は思う。
 先日、町へ出て常設館に入って、ある会社の予告篇を見た。オッパイは隠しているけれども殆ど臍すれすれまでにズロースをさげた女が出てきて、男と踊る。踊りながら暗い所へ引っぱりこんで行き、ベッドの上に腰をおろす。次のシーンは、カーテンの後で接吻する、接吻しながら踊る……。最近はこういうものが無闇と多い。
 同業者の悪口を云うわけではないが、私が親だったら、忰に映画なんぞ見るなと云うだろう。映画で銭を儲けるのはいいけれども、儲け方があるのではないか。もう少し道徳的になって貰いたい。泥棒するのも金儲けの一方法ではあろうが、始めはこそ泥だったのが、泥棒になり、居直り強盗になり、遂には庖丁を突きつけて強姦するに至るというのでは世も終りだ。各社ともよく考えて、せめて子供と一緒に見て赤い顔をしないで済む映画を作るようにしたいものだ。
 恥しくない映画を撮りたいとは、我々も常々云っていることなのだが、会社側の儲けたい一心と我々の安易さが両々相俟って、こそ泥が強盗になってしまうような気分になっている。これには日本映画の本数が多すぎることも大きく影響していると思う。その点で、各社が踏み切った新作二本立には私は反対である。つまり、今までの撮影所はフルに働いているのだ。色々な道具も、従業員も遊んでいるものはないのだ。そこへ二本立ということになると、更に製作本数が殖えるから、今でさえ手一杯の労力が分散してしまって、ますますいいものが撮れなくなる。
 二本立にするといっても、人を殖やし、ステージを増設するのではない。好んで二本立にするわけではなく、いわば背水の陣なのだから、それだけの用意がないのは当然である。質が低下するのもまた当り前である。
 二本立で儲からないとなれば、やがて一本立を考えるようになると思う。いずれにしろ今は日本映画の過渡期なのだろう。
 この間、NHKの人がやって来て、「映画もいよいよ二本立ですねえ、ありゃ一体どうですか」などと、さも映画を侮辱したような口調なものだから、腹が立って云い返した。
「二本立というけれども、君の所はとうから二本立じゃないか、第一放送と第二放送で……」すると、「いや、第一は娯楽で、第二は教養が主で……」とかなんとか云うので、「映画だってそれと同じだ。映画だけを変に取り上げるのはおかしいよ」と云ったら、「ああそうですか」と答えたが、そこだけは録音からぬいてあった。
 儲かるとなれば、文藝春秋だって別冊を出すし、もしそれが商売にならなければ別冊を引込める。みな同じことで、映画だけが堕落してきたという見方はどうかと思う。
 別冊が出るのは、一つには本冊の中に入りきれないからでもあるので、二本立になったために、新人が出てくる余地が広くなったという点では、私も賛成している。

新人のもつ新鮮さ


 映画には文法がないのだと思う。これでなければならないという型はないのだ。優れた映画が出てくれば、それが独特の文法を作るので、映画は思いのままに撮れば見られる。
 若い助監督も、撮影所に入ってくるときには、大きな抱負を抱いてくるに違いない。しかし、永年監督について走り使いをしているうちに、自分の抱いている新鮮な手法が消えていく。既成の常識的な手法を見聞しているうちに、なるほど映画の文法はこういうものだと、自分から妥協してしまうのだ。そこで監督になっても、撮り方がいつも同じで普遍的なものになってしまう。日本映画に新鮮さが見られないのはこういう点に原因がある。
 だから、たまに見るメキシコとかイタリアの新人で、素人がいきなり撮影所にやってきて撮ったものなどは、びっくりする程新鮮な手法が感ぜられる。石原慎太郎さんが監督したものは見ていないが、やはり面白いところがあるのではないかと思う。
 石原監督に対して、助監督が揃って反対した事件があったが、おかしいと思う。素人がいきなり来やがって不愉快だというのだろうが、それならば、助監督が突然小説を発表したら、文芸家協会は怒るだろうか。こっちが小説を書いても怒らないのに、小説を書いている奴が映画を撮ると怒るというのは、偏見も甚だしい。怒る気持があっても、とにかく協力して映画を作り、その代り、出来上った作品は徹底的に批判するという態度がとれないものか。まだ撮りもしないうちから、ワアワア云っても仕様がないではないか。
 最近は監督志望者も随分と多い。試験もなかなか難しい。こんな難しい試験ができる人は、監督には向かないのじゃないかとさえ思う。それ程いろいろな知識をもっている人は、他の方面でその知識を活かした方がいいのではないか。今だったら、私も木下恵介も落第組だろう。
 おわい屋になるには、腕っ節が強く、肥桶をかつげる肩と腰があり、正直であればいいので、おわい屋が聖徳太子を知らないとしても一向差支えない。聖徳太子もおわい屋の厄介にはなったろうが、あまり関係のあることでもあるまい。それと同じことで、監督志望者に、新聞社や雑誌社と同じ試験をするのは、お門違いだと思う。それよりも、ものの見方や幻想力、それから用器画の力を調べた方がいいと思う。殊に、円錐形を六五度傾けたらどう見えるかというような用器画の試験は必要だろう。これはコンティニュィティ(演出台本)を描く時に必要なのだ。
 今の助監督は、大学を出て、難しい試験を通ってくるのだから、頭はいい。事を運ぶ順序もいいし、記憶力もよく、監督としては大変便利で使いやすい。けれども、もっと彼等を活かす道がないものかと、気の毒に思えてしまうのだ。

アテにならない人気


『彼岸花』に大映から山本富士子を借りたが、脚本を見た大映社長の永田氏が、山本富士子の役は傍役でつまらないから書き直させろと云ったそうだ。私としては、山本富士子のような美人女優が、美しい三枚目風の役をやることは、愛嬌にもなり、演技の幅を広げることにもなり、得であっても絶対に損なことではないと確信していた。
 彼女に会って、どうするかと訊ねたところが、「やらしていただきます」というので、それならと、そのまま撮影に入った。
 山本富士子は、さすが大映の秘蔵っ子スターだけあって、Aクラスの女優になる素質を充分に持っている。一番感心したことは、くせがないことだ。美人には得てして、こうすれば自分はきれいに見えるとか、身のこなし方、目の向け方に、いやな所を見せまいとする癖がある。彼女にはそれがなく、実に素直だし、妙な映画ずれがしていない。理解力があるし、熱心だし、骨身を惜しまない。
 もっとも、有馬稲子にしろ、久我美子にしろ、今の第一線スターは、実に努力をし、一生懸命にやっている。また、それでなくては、地位を保つことができない。明日撮影があるならば、台本を勉強しなければならないのに、客に招ばれて行ってしまったりする人は一流のスターにはさすがにいない。この場面ではこうしようと工夫し、台詞も充分腹に入れて、やってくるのが普通だ。
 人気にはつい溺れやすいものだ。人気投票で上位を占めたりすると、それが皆に尊敬されていることだと錯覚する。人気は尊敬が伴わなくても存在するもので、全く浮草のように根拠のないものだ。だから、人気があるうちに、芸が上達するように努力して、人気から卒業してしまうことだ。
 俺がニヤリと笑うと皆が喜ぶなどと、いい気になってうかうかしていると、人気は冷酷なもので、忽ち移り変ってしまう。そうなると惨めなものだが、それは自業自得というものだ。「日のある間にまぐさを乾せ」のたとえもあるが、人気のあるうちに芸を磨いておけば、人気がなくなっても、立派なスターとして通用するのである。
 監督として、いろいろな俳優を使って見たいとは誰もが考えているだろうが、いつも付き合う人の範囲はかなり限られてしまう。俳優の方でも、いろいろな監督の作品に出ている人は恐らく少ないだろう。
 これは専属制とか六社協定に由来することなのだが、もう少しお互いに融通し合うようにして貰いたい。一つの会社で力を入れ、金をかけて育て上げた新人を、これからというところで他社にもって行かれる。すると、自分のところで育てたのだから、よそに出ては駄目だと、棚上げしてしまう。
 津川雅彦の場合もそうだ。深い事情は知らないが、将来性のある人を棚上げしてしまうのは、ひどいと思う。もちろん不愉快ではあろうが、出て行ってもいいから、その代り俺の社が頼んだ時にはまた来てくれというくらいの雅量をもって解決して貰いたい。自分の所のスターは門外不出だというのでは、日本映画の向上を阻害するための六社協定になってしまう。
 六社協定といえば平和的な取りきめのようだが、現状では、喧嘩の時にはピストルはよそうじゃないか、刀は使ってもいいが、刃わたりは何寸までにしよう、子分は何人までもというような性質のものではないか。

参考にならぬ映画批評


 人の批評はうまく書くわりに、俺の批評はうまく書かない、というルナールの言葉がある。他人の似顔漫画を見ると、似ているなと思って面白がるが、自分が描かれてみると、ちっとも似ていないじゃないかということになる。そこに批評の限界があると思う。
 映画批評でも他人の作品については、なかなか云い得て妙だと同感しても、さて自分に鉾先が向けられてみると、なんて馬鹿なことを云う奴だということになる。批評家の批評はあまり参考にならないことが多い。仲間うちの批評が実際面に即して、一番有難いし、ずっと骨身にこたえる。
 映画には、どこかに必ずしわ寄せがある。嘘がある。しわ寄せがなければ、劇ではなくてドキュメンタリーである。例えば、『彼岸花』で、佐田啓二が恋人と打ち合せをしないで、突然その父親に会いに行くところが、それである。これは現実では考えられないことだ。しかし、これがなければ、この映画は成り立たないのである。
 もう一つ、例にとっては悪いが、映画の『氷壁』で、山本富士子は嘗てある男と一夜のまちがいを起したことになっている。映画を見ていると、山本富士子は絶対にまちがいなんか起す筈がないのだ。(その意味では、山本富士子はミスキャストだが)しかし、この映画はその有り得ない嘘の話からそもそも始まっているので、これをとがめたならば、この話は崩れてしまう。
 こういうしわ寄せを突いてはいけないのだ。これが如何に巧みに胡麻化されているかということが問題なのである。批評家は、屡々そういうしわ寄せを非難するが、ストーリー以前に逆らっては、話にならない。我々としては、充分承知をしているので、そんな点を「馬鹿々々しい」と非難されても、痛痒を感じないし、参考にもならないのである。
 批評というのは、勝手なことが云えるもので、私もテレビ・ドラマについては、実につまらないと思っている。こうすればもっとよくなるのではないかと思う点が多々あるが、いや、これが良くなったら、映画は脅威で、おまんまの食い上げだから、よくなってはいけないのだと、黙っているのである。
 その上、テレビ・ドラマは、つまらないということが終りまで見ないと分らないから厄介だ。結局、時間を無駄にしてしまう。だから、始まる前に、これだけは是非見て下さいとか、これはスポンサーからあまり金を貰っていない、つまらないけれどもお暇の方はどうぞと案内をしたなら、スポンサーの御好意を有難く感じるのだが……。さも面白い芝居が始まりそうに引ぱっていて、結局日本国民を懶惰にしている。
 それに、人間の目が二つしかないことを知っていながら、同じ時間に同じようなものを放送しているのは、実に馬鹿なことだ。二十四の瞳というのがあったけれども、普通人の眼は二つなのだから、沢山のテレビがあるのは無駄なことである。ついでに、映画の数も減らし、ラジオも一つにし、新聞も一つにしたら、余程すっきりすることだろう。





底本:「文藝春秋 昭和三十三年十一月号」文藝春秋新社
   1958(昭和33)年11月1日発行
初出:「文藝春秋 昭和三十三年十一月号」文藝春秋新社
   1958(昭和33)年11月1日発行
入力:sogo
校正:木下聡
2020年11月27日作成
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