その男はまるで仙人のように「神聖なうす汚なさ」を持っていました。指の爪がみんな七八分も延びているのです。それがしきりとわたしに
仙人は初めこの鳥を持って来て、これを紹介しました――十やそこらは完全に口を利く。それの発音は明確で微妙である。その上に何だかわからないが長いこと喋りもする。歌は「ハトポッポ、ハトポッポ」とそれだけしか歌えないけれども、その調子の自然なところが、この鳥の有望なところだ。まだ三歳ぐらいな若鳥だと思うから仕込みさえすれば、童謡の一つぐらいは完全に歌うだろう。この鳥の名は「ロオラ」というのだ……と、そこで「仙人」はわたしのうちの女中にビスケットを買って来させて、それを鳥に見せながら言うのです。
「ロオラや」
すると
「ロオラや!」
それがわたしに三十四五ぐらいな夫人の気取ったつくり声を思わせました。
鸚鵡は仙人の話によると雄だそうですが、わたしにはその声と身振とのためにどうしても、女としか思えませんでした。大きな鳥籠のぐるりを、金太郎(わたしのうちの
「ホ、ホ、ホ、ホ、ホ」
と、笑い出しました。
「ね、面白いでしょう」
仙人が僕の目つきを見て、すかさずそういう。
こういうわけで多少無理におしつけられた形でした。それになかなか高かったのです。わたしは多少後悔しました。妻はわたしの感じを見抜いてしまっていて、わたしを例によって調子にのって
次の日の朝、妻の話によると、ロオラはわたしが朝寝をしているうちに、鶏の「ク、ク、クク、ククク」というような声と、それから人が鶏を呼ぶような「ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト」という叫びとを真似たということでした。
「それから、まだ何かわからないことを申しました」
と、おしげ(女中の名)が言います。
「わからぬ言葉って、何か日本の言葉ではないのか」
「いいえ。日本の言葉でございますの。『わたし……だわよ』というのですけれど、その間が分りませんの」
「それに、オカアサン、オカアサンて呼んだじゃないの」
「え、そんなに申しました。小さな女の子のような声でしたね」
「はっきり言うかい」
「そうね。あんまりよくわからないわ」
妻とおしげとは朝の食事をしているわたしに、
食事を終ってわたしは
「ロオラや」
を言わせて、その日は一日わたしは外出していました。夕方帰って来ると長谷川(書生の名)が
「お帰りなさいまし。――
とわたしの顔を見るなり報告していました。
こういう風にして家内中で、いろいろとロオラの動作や言葉などを注意しているうちに、ロオラが子供の泣き真似をすることが、この上なくうまいことを皆は発見したのです。その外にロオラは割合たくさんな言葉を知っていることもわかりました。わたしは心覚えに、ロオラのいう言葉を、一つ一つ書きとって見たのです。
●ロオラや。
●オカアサン――これは幾とおりにも言います。それぞれにアクセントが違います。そうして甘ったれるような口調や、呼び立てるような口調や、また命令するような口調のもあります。オカアサンと呼んでから泣くこともあります。また三べんほど、さまざまに違った調子でオカアサンと呼んでから、そのあとで笑うことがあります。
●ハトポッポ。ハトポッポ――これだけは上手に言います。ハトポッポ、ハトポと切ってしまうこともあります。ごく下手な口笛でこの童謡の調子を真似ることもあります。
●ロロや――これはどうも「ロオラや」の訛りであります。最も幼い子供の声であります。
●オタケサン――
●ボウヤ――
●ア、ココニモアッタワヨ――
●ア、アソコニモオチテイルワヨ――
●オバサン――
●ソオネ――
●ワタシオコルワヨ――
●ワタシオトナシクマッテ(ナッテ?)ルワヨ――
これらの言葉はみんな五つから八つぐらいまでの女の子を思わせる口調であります。ア、という感嘆しを、その外の時にも時々叫びます。これ等の言葉は相当はっきりしています。
●トトヤ。ト、ト、ト、ト、ト、ト、ト――鶏を呼ぶ声です。
●クッ、クック、ク、ク、ク、ク、ク――鶏が雛を或は雌を呼ぶ声です。
●ワン、ワン、ワン、ワン、ワン――犬、(小犬でしょう)それの吠える声です。
●笑い声。
●それから、赤ん坊(というよりも三つか四つぐらいの子供)の泣き真似。
●又、
●(その他にもあるかも知れませんが、大たいは以上で尽きています。)そうしてそれらのうちで何物にも
ロオラはおしげが好きなようです。おしげが二階に上りさえすれば、きっと物を叫ぶか、或は例の泣き声を真似ます。ロオラはわたしたち家族のなかではおしげを一ばん好いている様子です。そのくせ別におしげが
「ロオラや」
あの気取った声の奥さんは、前の飼い主に相違ない。少し肥ったあごなどのくびれた人が努めてやさしげに言う声に似ている。ロオラは女のうちでおしげをわたしの妻よりも好いているが、わたしの妻は
それからロオラはまた近所の子供に
犬の吠える声や、そればかりか金太郎がロオラに挑戦する時にそれをあしらう様子などを見ると、ロオラは小犬とはもう充分に親しみがあるのです。多分は、ロオラの以前に飼われた家にも小犬がいたのです。
ロオラはまた鶏を呼ぶことを知っているのです。また鶏の、ク、ク、ク、ク、クという声も覚えているのです。
鶏がいて、小犬がいて、三十四五ぐらいの少し肥えた奥さんが子供をいくたりか育てている――子供は? いくたりだろう。どこか東京近郊の静かな場所で、そうしてその家庭には男はいない。けれども賑やかな家庭である。ロオラは笑うことを知っている。よく笑う。調子はずれな声で出鱈目を歌っては、はしゃぐ。
「オカアサン」―― O'ksan.
「オカアサン」―― Ok'san.
「オカアサン」―― Oksa'n.
「ホ、ホ、ホ、ホ」
こういうのを聞くとわたしは、三人の女の子がお
――しかし、この家にはお母さんばかりいてお
わたしがこのようにロオラの以前に養われていた家庭を空想して、それによってロオラを愛している間に、わたしの妻はまたロオラの片言交りの言葉を、よく聞きわけたり、解釈したりすることを努力しているのでした。ロオラが同じ「オカアサン」を言う時にも、甘ったれるようなのや、少し不きげんなのや、またあごでこき使う調子を帯びたのや、さまざまな発音があると彼女はいうのです。子供の泣き真似や、また
要するにロオラのきれぎれな言葉はわたしには一つの家庭を思わせたし、わたしの妻には子供たちの生活を思わせたのです。
きげんのいいロオラが、大きな籠の中をグロテスクな足と
「ワタシ、オトナシクマッテルワヨ」
そうやさしい女の子の声で言い出した時には、不釣合な様子と言葉とがわたしを笑わせました。
わたしはロオラを愛して、いつも、
「ア、マダアルワヨ」
「ソコニモオチテイルワヨ」
この言葉をロオラが覚えたのは、きっと、こういう風に小さな飼主たちから食べ物を貰った時のことでありましょう。
一たいロオラの言葉は、たった一つ「ロオラや」という時の外には、無理に教えられたような言葉は
「ロロや」
というのは、これはやっとそれだけの言葉が言えるだけらしい幼い子供の調子です。これがきっと「ボーヤ」の声なのでしょう。「ボーヤ」は「オカアサン」に抱かれてロオラのそばへ来て「ロロや」をくり返したにちがいないのです。
ロオラは朝のうち早くと、午後の三時ごろとが一ばんきげんよく喋るのです。それは学校か幼稚園かへ行っている子供たちが出かける前と帰って来た時とにあたります。(――
「オカーサン、ワーワーワーワー」
こう、急に泣き出すことが折々あります。小さい子が目をさまして母を呼ぶ声にそっくりで思わず、
「坊や、泣かないでもいいよ」
と言ってやらずにはいられないほどです。
お母さんがいて、子供たちがいる。それも二三人、しかもやっと口をきけるほどの
船員! 外国航路の高級船員の留守宅! ふと思い浮んだ自分の直覚にわたしは非常に満足したのです。――その人はもう四十前後でなければならない。船長ではないかも知れないが、事務長ではあるかも知れない。ともかくも留守宅は
「ワタシ、オトナシクマッテルワヨ」――
子供たちはお父さんにそういうのです。お父さんによく言う言葉を子供たちはお友達の鸚鵡に教えたのです。
時たま帰る主人は子供たちを愛し奥さんを愛するのに忙がしいので、鸚鵡などは相手にしないのです。むしろ、主人が帰るとロオラはみんなから
またその主人が外国航路の船員だということになると、この鸚鵡が「オタケサン」という通り名の外に、ロオラという外国流の名前を持っているわけもはっきりするのです。外国でそういう名を持っていた鳥を主人自身が自分の船に乗せて、家庭への
「ね、この鳥の名はロオラというのだよ」
「おや、そうですか。可愛いわね、ロオラや」
その時、夫と妻とはそういう会話をしたことをわたしは考えることが出来るのです。それにしても「ロオラ」はまだ雛のうちに日本へつれられて来たのでしょう。名前だけは外国風だけれども、ロオラは少しも外国の言葉は知らぬらしいのです。そうして「ロオラや」という調子さえすっかり日本風の発音なのです。
それにしてもロオラが、「ママ」と言わずに「オカアサン」と呼ぶところがわたしには
わたしはロオラがいい子供たちのいい言葉を覚えて、「オカアサン」という言葉を、しかも幾とおりにも感情をこめて呼ぶのがうれしいのです。そうして夫は外国船の船員であって自然と外国風の空気も多かりそうに思えるのに、その奥さんが子供たちに自分のことを「お母さん」と呼ばせている事を思い浮べて、この奥さんとその家庭とをゆかしいと感ずるのです。
毎日聞いていると、ロオラは赤ん坊の真似をすることが一番好きなようでもあり、上手でもあります。泣き真似でも、片言の出まかせの歌でも。ロオラはきっと、外の子供たちよりも赤ん坊と一緒にいる時間が多かったからでしょう。外の子供はもう大きくなっているから、前にも言ったとおり学校などへ行っていて、家庭には一日の半分しかいない……
こうして二週間ばかり経っているうちに、例の小鳥屋の
「前の鳥は、どうだったかね」
仙人はわたしが前の鳥――つまりロオラに満足していないと思ったのかも知れません。
「ロオラか。あれは面白い鳥だよ」
「よく喋る?」
「うん。いろんなことを言う」
「それはいい」
「だが、とりとめのあることは言わない。また片言ばかりだ――言葉はどうもよくわからないが、それは鳥の罪ではなくて、先生の罪らしいのだ。――赤ん坊の言葉をおぼえたのだね。だから意味はわからないが情緒はなかなかあるよ」
そこでわたしはロオラに対するわたしの観察と空想と愛情とを、仙人に話して聞かせて、ロオラがわたしには目に見えないが心にははっきりわかる
「教え込まれたのではなく、自然にひとりでいろんな事を覚える鳥だとすると、いい鳥だよ。賢い鳥だよ。それにその家庭で相当長く、少くとも三四年はいただろうな。それで何かね、泣いたり笑ったりする時には多少、そんな感情を鳥も持っていてそれを現わすか知ら」
「さ。そういう点まではわからないが」わたしは仙人の問に対して答えたのです「しかし、聞く方は、ともかくもそういう感情をさそわれて聞くね――ところで、君、あれは、ロオラは今まで時々鳥屋の店にさらされた鳥ではあるまいね」
「それはそんなことはないさ。そう、そ。あなたに言おうと思って忘れていたのだけれど、あれの爪や嘴があんまり延びすぎている。あれは何か木片かなんかを
「君の爪も」とわたしは笑いながら言った「一つ蝋燭ででも焼いてはどうだ」
「これは延びていちゃいかんかね」仙人は仙人らしいとぼけた顔をして、煙草をつまんだ彼の手の指を見つめていました。
とわたしは自分の
最後にのこっている疑いは、つまりあのような可愛いまたよく慣れ親しんだロオラを、何故、お母さんが鳥屋へ売ってしまったろうかという点なのです。仙人に聞くと、売ったのではなく
わたしは考えるのです。わたしの空想の夫人はきっと、可愛い子供を失ったのです。それは「ボーヤ」にちがいないのです。ロオラが夜など突然、寝ぼけたような声を張り上げて――
「オカアサン。ワーワーワー」
と、泣く時、夫人は失われたいとし子の思い出に堪えられなかったに相違ありません。これより外に、その夫人が
わたしは自分の想像を信じるのです。そうしてせめてはさびしい夫人が良人の留守の間に子供を死なせたのでなければいいがと案じているのです。
ロオラはわたしの家に来てからもう二月になります。そうして彼女は(わたしにはロオラはどうしても女の子とより外に感じられませんが)わたしが金太郎やジョオジを呼ぶ時の口笛を上手に真似るようになりました。わたしはロオラを愛しています。そうしてロオラも