田園の憂欝

或は病める薔薇

佐藤春夫




I dwelt alone
In a world of moan,
And my soul was a stagnant tide,
Edgar Allan Poe

私は、呻吟の世界で
ひとりで住んで居た。
私の霊は澱み腐れた潮であつた。
エドガア アラン ポオ



 その家が、今、彼の目の前へ現れて来た。
 初めのうちは、大変な元気で砂ぼこりを上げながら、主人の後になり前になりして、飛びまはりまとはりついて居た彼の二疋の犬が、やうやう柔順になつて、彼のうしろに、二疋並んで、そろそろいて来るやうになつた頃である。高い木立の下を、路がぐつと大きく曲つた時に、
「ああやつと来ましたよ」
と言ひながら、彼等の案内者である赭毛あかげの太つちよの女が、片手で日にやけた額からしたたり落ちる汗を、汚れた手拭で拭ひながら、別の片手では、彼等の行く手の方を指し示した。男のやうに太いその指のさきを伝うて、彼等のひとみの落ちたところには、黒つぽい深緑のなかに埋もれて、目眩まぶしいそはそはした夏の朝の光のなかで、にび色にどつしりと或る落着きをもつて光つて居るささやかな萱葺かやぶきの屋根があつた。
 それが彼のこの家を見た最初の機会であつた。彼と彼の妻とは、その時、おのおのこの草屋根の上にさまようて居た彼等の瞳を、互に相手のそれの上に向けて、瞳と瞳とで会話をした――
「いい家のやうな予覚がある」
「ええ私もさう思ふの」
 その草屋根を見つめながら歩いた。この家ならば、何日いつか遠い以前にでも、夢にであるか、幻にであるか、それとも疾走する汽車の窓からででもあつたか、何かで一度見たことがあるやうにも彼は思つた。その草屋根を焦点としての視野は、実際、何処ででも見出されさうな、平凡な田舎ゐなかの横顔であつた。しかも、それがかへつて今の彼の心をひきつけた。今の彼の憧れがそんなところにあつたからである。さうして、彼がこの地方を自分の住家にえらんだのも、亦この理由からに外ならなかつた。
 広い武蔵野が既にその南端になつて尽きるところ、それがやうやくに山国の地勢に入らうとする変化――言はば山国からのかすかな余情を湛へたエピロオグであり、やがて大きな野原への波打つプロロオグででもあるこれ等の小さな丘は、目のとどくかぎり、此処にも起伏して、それが形造るつまらぬ風景の間を縫うて、一筋の平坦な街道が東から西へ、また別の街道が北から南へ通じて居るあたりに、その道に沿うて一つの草深い農村があり、幾つかの卑下へりくだつた草屋根があつた。それはTとYとHとの大きな都市をすぐ六七里の隣にして、たとへば三つのはげしい旋風の境目に出来た真空のやうに、世紀からは置きつ放しにされ、世界からは忘れられ、文明からは押流されて、しよんぼりと置かれて居るのであつた。
 一たい、彼が最初にこんな路の上で、限りなく楽しみ、又珍らしく心のくつろいだ自分自身を見出したのは、その同じ年の暮春の或る一日であつた。こんな場所にこれほどの片田舎があることを知つて、彼はづ驚かされた。しかもその平静な四辺あたりの風物は彼に珍らしかつた。ずつと南方の或る半島の突端に生れた彼は、荒い海とけはしい山とが激しくみ合つて、その間で人間が微小にしかし賢明に生きて居る一小市街の傍を、大きな急流の川が、その上にいかだを長々と浮べさせて押合ひながら荒々しい海の方へひしめき合つて流れてゆく彼の故郷のクライマックスの多い戯曲的な風景にくらべて、この丘つづき、空と、雑木原と、田と、畑と、雲雀ひばりとの村は、実に小さな散文詩であつた。前者の自然は彼の峻厳な父であるとすれば、後者のそれは子に甘い彼の母であつた。「帰れる放蕩はうたう息子」に自分自身をたとへた彼は、息苦しい都会の真中にあつて、柔かに優しいそれ故に平凡な自然のなかへ、溶け込んで了ひたいといふ切願を、可なり久しい以前から持つやうになつて居た。おお! そこにはクラシックのやうな平静な幸福と喜びとが、人を待つて居るに違ひない。Vanity of vanity, vanity, all is vanity !「くうくうくうくうなる哉すべくうなり」或はうでないにしても……。いや、理窟は何もなかつた。ただ都会のただ中では息がつまつた。人間の重さで圧しつぶされるのを感じた。其処に置かれるには彼はあまりに鋭敏な機械だ、其処が彼をいやが上にも鋭敏にする。そればかりではない、周囲の騒がしい春が彼を一層孤独にした。「ああ、こんな晩には、何処でもいい、しつとりとした草葺くさぶきの田舎家のなかで、暗い赤いランプの陰で、手も足も思ふ存分に延ばして、前後も忘れる深い眠に陥入つて見たい」といふ心持が、華やかな白熱燈の下を、石甃いしだたみの路の上を、疲れ切つた流浪人るらうにんのやうな足どりで歩いて居る彼の心のなかへ、せつなく込上げて来ることが、まことにしばしばであつた。「おお! 深い眠、おれはそれを知らなくなつてからもう何年になるであらう? 深い眠! それは言はば宗教的な法悦だ。おれの今最も欲しいのはそれだ。熟睡の法悦だ。即ち肉体がほんとうに生きてゐる人の法悦だ。俺は先づそれを求める。それのある処へ行かう。さあ早く行かう!」彼は自分自身の心のなかでさうつぶやいた。或は、口に出してさへ呟いた。さうして矢もたてもたまらない、郷愁に似たやうな名づけやうのない心が、その何処とも知れない場所へ、自分自身を連れて行けとせがむのであつた……。(彼は老人のやうな理智と青年らしい感情と、それに子供ほどの意志とをもつた青年であつた。)
 その家が、今、彼の目の前に現れて来たのである。
 道の右手には、道に沿うて一条の小渠こみぞがあつた。道が大きく曲れば、みぞもそれについて大きく曲つた。そのなかを水は流れて行き流れて来るのであつた。雑木山のすそや、柿の樹の傍やうまやの横手や、藪の下や、桐畑きりばたけや片隅にぽつかり大きな百合ゆりあふひを咲かせた農家の庭の前などを通つて。幅六尺ほどのこの渠は、事実は田へ水を引くための灌漑であつたけれども、遠い山間から来た川上の水を真直ぐに引いたものだけに、その美しさはたにがはと言ひ度いやうな気がする。青葉を透して降りそそぐ日の光が、それを一層にさう思はせた。へどろ赭土あかつちさらして、洒し尽して何の濁りも立てずに、浅く走つて行く水は、時々ものにかれて、ぎらりぎらりとがらになくひらめいたり、さうかと思ふと縮緬ちりめんしわのやうに繊細に、或は或る小さなぴくぴくする痙攣けいれんの発作のやうに光つたりするのであつた。或は、その小さな輝きが魚のうろこのやうに重り合つて居るところもあつた。涼しい風が低く吹いて水のおもてを滑る時には、其処は細長い瞬間的な銀箔ぎんぱくであつた。すすきだの、もうはやくにあの情人にものを訴へるやうなセンチメンタルな白い小さい花を失つた野茨のいばらの一かたまりの藪だの、その外、名もない併しそれぞれの花や実を持つ草や灌木が、みぞの両側から茂り合ひかぶさりかかると、水はそれらの草のトンネルをくぐつた。さうしてその影を黒く涼しく浮べては、ゆらゆらと流れ去つた。或る時には、水はゆつたりと流れよどんだ。それは旅人が自分の来た方をふりかへつてたたずむのに似て居た。そんな時には土耳古玉トルコだまのやうな夏の午前の空を、土耳古玉色に――或は側面から透して見た玻璃板ガラスいたの色に、うつして居るのであつた。快活な蜻蛉とんぼは流れと微風とに逆行して、水の面とすれすれに身軽く滑走し、時々その尾を水にひたして卵を其処に産みつけて居た。その蜻蛉は微風に乗つて、しばらくの間は彼等と同じ方向へ彼等と同じほどの速さで、一行を追ふやうに従うて居たが、何かの拍子ひやうしについと空ざまに高く舞ひ上つた。彼は水を見、また空を見た。その蜻蛉を呼びかけて祝福したいやうな子供らしい気軽さが、自分の心にき出るのを彼は知つた。さうしてこの楽しい流れが、あの家の前を流れて居るであらうことを想ふのが、彼にはうれしかつた。
 はげしい暑さは苦しい、楽しい、と表現しようとして木の葉の一枚一枚が宝玉の一断面のやうに輝くと、それらの下から蝉は焼かれて居るやうにうめいた。けた太陽は、空の真中近く昇つて来て居た。併し、彼の妻は、暑さをさほどには感じなかつた。併し、彼の妻から暑さを防いだものは、その頭の上の紫陽花あぢさゐ色に紫陽花の刺繍ししゆうのあるパラソル――貧しいをんなの天蓋――ではなかつた。それは彼の女の物思ひであつた。彼の女は今歩きながら考へふけつて居る、暑さを身に感じるひまもないほど。彼の女は考へた――さうすれば今間借りをして居る寺のあの西日のくわつと射し込む一室から涼しいところへ脱れられる。それよりもあの下卑た俗悪な慾張りの口うるさい梵妻ぼんさいの近くから脱れられる。さうして、静に、涼しく、二人は二人して、言ひたい事だけは言ひ、言ひたくない事は一切言はずに暮したい住みたい。さうすれば、風のやうに捕捉し難い海のやうに敏感すぎるこの人の心持も気分も少しは落着くことであらう。あれほどの意気込みで田舎をあこがれて来ながら、わづかながらもわざわざ買つて貰つた自分の畑の地面をどう利用しようなどと考へて居るでも無く(それはもとよりさうであらうとは思つたけれども)それよりも本一行見るではなく字一字書かうとするでもなく、何一つ手にはつかぬらしい。さうして若しそんな事でも言ひ出せばきつと吐鳴どなりつけるにきまつて居る、それでなくてさへも、もう全然駄目なものと見放されて居る――わけて自分との早婚すぎる無理な結婚の以後は、殊にさう思はれて居るらしい父母への心づかひもなく、ただうかうかと――ではないとあの人自身では言つても、とにかくうかうかと、その日その日の夢を見て暮して居るのである。何時、建てるものともあてのない家の図面の、而も実用的といふやうな分子などは一つも無いものを何枚も何十枚も、それは細かく細かく描いて居るかと思ふと、不意に庭へ飛び出して、犬の真似をして犬と一緒になつて、燃えて居る草いきれの草原をつたり転げまはつたり、さうかと思ふと突然れるやうな大声で笑ひ出したり叫び出したりするこの人は、ほんとうに何か非常にさびしいのであらう。何事も自分には話してくれはしないから解る筈もない。何か自分には隠して居るのではなからうか……。彼の女は、五六日前に読みをはつた藤村の「春」を思ひ出した。単純な彼の女の頭には、自分の夫の天分を疑うて見ることなどは知らずに、自分の夫のことをその小説のなかの一人が、自分の目の前へ――生活の隣りへ、その本のなかから抜け出して来たかのやうにも思つて見た……。あれほど深い自信のあるらしい芸術上の仕事などは忘れて、放擲はうてきして、ほんとうにこの田舎で一生をちさせるつもりであらうか。この人は、まあ何といふ不思議な夢を見たがるのであらう……。それにしても、この人は、他人に対しては、それは親切に、優しく調子よくしながら、何故なぜかうまで私には気難きむづかしいのであらう。しや、あの人のある女に対する前の恋がまだせきらない間に、私はあの人の胸のなかへ這入はいつて行つて、そのためにあの人はしばらくはあの女を忘れては居たけれども、根強く残つて居たあの恋が何時の間にか再び自分をのけものにしてまた芽を出したのではなからうか。さうして私には辛くあたる……。今のままでは、さぞかし当人も苦しいであらうが、第一そばに居るものがたまらない。返事が気に入らないといつては転ぶほど突きとばされたり、打たれたり、何が気に入らないのか二日も三日も一言も口を利かうとはしなかつたり……。あの人はきつと自分との結婚を悔いて居るのだ。少くとも若し自分とではなく、あの女と一緒に住んで居たならばどんなに幸福だつたらうかと、時々、考へるに違ひない。考へるばかりではない、現に、自分にむかつてさう言つたことさへある――「あの時、おれがあの女、あの純潔な素直な娘と一緒になれさへしたならば、あの人が私をよく統一して、おれは今ごろ、いろいろな意味でもつと美しいもつと善い生活が出来て居ただらうに」と……。実際あの女は、自分も知つて居るけれども、自分などよりはもつと美しく、もつと優しい。私はあの人があの女をどんなに深く思つて居るかはよく知つて居る……いや、いや、さうではない。あの人はやつぱりあの人自身で何か別のことを考へ込んで居るのである……。さうだ、夫は、「ただ、私をそつとして置いてくれ」と言つた……
 ふと、
「俺には優しい感情がないのではない。俺は唯それを言ひ現すのが恥しいのだ。俺はさういふ性分に生れついたのだ」
 彼の女は、昨夜、いつになく打解けて彼が語つた時、彼の女にむかつて言つた彼の女の夫の言葉を思ひ出すと、その言葉を反芻はんすうしながら歩いた。さうして未だ見たことのない家の間どりなどを考へた。たとひ新婚の夢からはとつくに覚めたころであつても、こんな暑さの下ででも、ただ単に転居するといふだけの動機で心持がふだんよりもずつと活き活きとして来て、こんなことを考へて悲しんだり、喜んだり、慰んだりすることの出来るのは、まだ世の中を少しも知らない幼妻をさなづまの特権であつたからだ。さうしてそれがまた、あの案内の女が、しやべりつづけに喋つて居るその家の由来に就て、何の興味も持たぬらしく、ただ無愛想に空返事そらへんじを与へて居るに過ぎなかつた所以ゆゑんででもある。――この案内の女は、その長い暑苦しい道の始終を、ながながと喋りつづけて休まなかつた。この女は自分の興味をもつて居るほどの事なら、他の何人にとつても、非常に面白いのが当然だと信じて居る単純な人々の一人であつたから。
 こんな道を、彼等は一里近くも歩いた。
 さうしてその家は、もう、彼等一同の目の前に来てゐた。
 家の前には、果してみぞが流れて居た。一つの小さな土橋が、茂るがままの雑草のなかに一筋細く人の歩んだあとを残して、それの上を歩く人々に、あの幅一間あまりの渠を越させて、人々をその家の入口へ導く。
 入口の左手には大きな柿の樹があつた。さうして奥の方にもあつた。それらの樹の自由自在にうねり曲つた太い枝は、見上げた者の目に、「私は永い間ここに立つて居る。もう実を結ぶことも少くなつた」とその身の上を告げて居るのであつた。その老いた幹には、大きな枝の脇の下に寄生木やどりぎが生えて居た。その樹に対して右手には、その屋敷とそれの地つづきである桐畑とを区限くぎつて細い溝があつた。何の水であらう。水がれて細く――その細い溝の一部分をなほ細く流れて男帯よりももつと細く、水はちよろちよろあへぎ喘ぎ通うてゐた。じめじめとした場所を、一面に空色の花の月草が生え茂つて居た。また子供たちが「こんぺたう」と呼んで居るその菓子の形をした仄赤ほのあかく白い小さな花や、又「赤まんま」と子供たちに呼ばれて居る野花なども、その月草にまじつて一帯にはびこつて居た。それはなつかしい幼な心をよびさますくさむらであつた。昼間はほたるの宿であらう小草のなかから、葉には白いたてしまあざやかに染め出されたあしが、すらりと、十五六本もひとところに集つて、爽やかな長いそのうへ幅広な葉を風にそよがせて、ざわざわと音をたてて居るのであつた。屋敷の奥の方から流れ出て来た水は、それらの小草の茎をくぐつて、それらの蘆の短い節々ふしぶしを洗ひきよめながら、うねりうねつて、解きほぐした絹糸の束のやうにつやつやしく、なよやかに揺れながら流れた。さうして、か細く長々しい或る草の葉を、生えたままで流し倒して、その草のために一時流動することをさへぎられたそれらのささやかな水は、その草の葉を伝うて、より大きな道ばたの渠のなかへ、水時計の水のやうにぽたりぽたりと落ちそそいで居た。彼にはこの家の屋後に、湧き立つ小さな清新な泉がありさうにも感ぜられた――さういふ地勢ででもあつたから。
 家の背後は山つづきで竹藪になつて居た。竹のなかには素晴しく大きな丈の高い椿つばきが、この清楚な竹藪のなかの異端者のやうに、重苦しく立つて居た。屋敷の庭は丈の高い――人間の背丈よりも高くなつたさかきの生垣で取り囲まれてあつた。家全体は、指顧しこの遠さで見た時にさうであつた如く、目の前に置かれて見ても、茂るにまかせた樹々の枝のなかに埋められて、茂るにまかせた草の上に置かれてあつた。
 犬は一疋づつ土橋の側から下りて行つて、灌水の水を交々こもごもに味うた。
 彼はその土橋を渡らうともせずに、「三径就荒さんけいくわうについて」と口吟くちづさみたいこの家を、思ひやり深さうにしばらく眺めた。
「ねえ、いいぢやないか、入口の気持が」
 彼はこの家の周囲から閑居とか隠棲いんせいとかいふ心持に相応した或る情趣を、幾つか拾ひ出し得てから、妻にむかつてかう言つた。
「然うね。でも随分荒れて居ること。家のなかへ這入つて見なければ……」
 彼の妻は少々不安さうに、又さかしげに、気まぐれな夫をたしなめる時にすべての妻がする口調をもつてさう答へた。併し、すぐ思ひかへして、
「でも、今のお寺に居ることを思へば、何処だつていいわ」
 今飲んだ水から急に元気を得た二疋の犬は、主人達よりも一足さきに庭のなかへをどり込んだ。松の樹の根元の濃い樹かげをえらんだ二疋の犬どもは、わがもの顔に土の上へ長々と身を横へた。彼等は顔を突き出して、下顎したあごから喉首のどくびのところを地面にべつたりと押しつけ、両方から同じ形に顔を並べ合つた。さうして全く同じやうな様子に体を曲げて、後脚を投げ出した様子は、まことに愛らしいシンメトリイであつた。赤い舌を垂れて、苦しげな息を吐き出しながら、庭に這入つて来た彼等の主人達の顔を無邪気な上眼で眺めて、静かに楽しさうに尾を動かして見せた。いかにも落着いたらしいその姿は、此処がもう自分たちの家だといふ事を、彼等の主人たちよりさきに十分に予覚して居るらしいやうにも、彼には見られるのであつた。若しこの時、妻が彼のそばに居たならば彼は妻にかう言つたらう――
「ね、フラテもレオ(二つとも犬の名)も賛成してゐるよ」
 けれども彼の妻は、案内の女と一緒にその縁側の永い間閉されて居た戸を開けようとして、鍵で鍵穴をがたがた言はせて居る。
 樹といふ樹は茂りに茂つて、緑は幾重にも積み重つた。錯雑した枝と枝とは網の目になり壁になり軒になつて、庭はほとんど日かげもさし込まなかつた。土の匂は黒い地面から、冷々と湧いて来た。彼は足もとから立ちのぼるその土の匂を、かうを匂ふ人のやうに官能を尖らかせて沁み沁みと味うて見た――ぢやらぢやらと涼しく音を立てて居た鍵束の音がやまつて、縁側の戸が開けられるまで。

       *     *     *

「やつと、家らしくなつた」
 昨日、門前で洗ひきよめた障子を、彼の妻は不慣れな手つきで張つたのである。最後の一枚を張り了つた時、それを茶の間と中の間のあひだの敷居へ納めようとして立つて居る夫の後姿を見やりながら、妻は満足に輝いてさう言つた。
「やつと家らしくなつた」彼の女は同じ事を重ねて言つた。「畳は直ぐかへに来るといふし……。でも、私はほんとうに厭だつたわ、をとつひ初めてこの家を見た時にはねえ。こんな家に人間が住めるかと思つて」
「でも、まさか狐狸こりの住家ではあるまい」
「でもまるで浅茅あさぢ宿やどよ。でなけや、こほろぎの家よ。あの時、畳の上一面にぴよんぴよん逃げまはつたこほろぎはまあどうでせう。恐しいほどでしたわ」
「浅茅が宿か、浅茅が宿はよかつたね。……おい、以後この家を雨月草舎と呼ばうぢやないか」
(彼等二人は――妻は夫の感化を受けて、上田秋成を讃美して居た。)
 夫の愉快げな笑ひ顔を、久しぶりに見た妻はうれしかつた。
「そこで、今度は井戸換へですよ、これが大変ね。一年もまるで汲まないといふのですもの、水だつて大がい腐りますわねえ」
「腐るとも、毎日汲み上げて居なければ、俺の頭のやうに腐る」
 この言葉に、「又か」と思つた妻は、今までのはしやいだ調子を忘れておづおづと夫の顔を見上げた。しかし夫の今日の言葉はただ口のさきだけであつたと見えて、その骨ばつた顔にはもとのままの笑があつた。それほど彼は機嫌がよかつたのである。それを見て安心した妻は甘えるやうに言ひ足した。
「それに、庭を何とかして下さらなけやあ。こんな陰気なのはいや!」
 疲れて壁にもたれかかつた妻の膝には、彼と彼の女との愛猫が、しなやかにしのび寄つてのつそりと上つて居るところであつた。
「青(猫の名)や。お前は暑苦しいねえ」
と言ひながらも、妻はその猫を抱き上げて居るのである。彼の家庭には犬が居る。猫が居る。一たん愛するとなると、程度を忘れて溺愛できあいせずには居られない彼の性質が、やがて彼等の家庭の習慣になつて、彼も彼の妻も人に物言ふやうに、犬と猫とに言ひかけるのが常であつた……。

       *     *     *

 彼等夫婦がこの家に住むやうになつた日から、さかのぼつて数年の前である――
 この村で一番と言はれて居る豪家N家の老主人は、年をとつて、ひどく人生の寂莫せきばくを感じ出した。普通人にとつてかういふ時に最も必要なものは、老いと若きとを問はず異性であつた。さうして、この老人は、都会から一人の若い女を連れて来た。この豪家は、この風流人の代にその田の半分を無くしたのだけれども、流石さすがに老人の考へは金持らしいものであつた――ただ美しいだけで、何の能もないやうな女はつれて来なかつた。少し位は醜くとも、年さへ若ければ我慢するとして、村の為めにもなり、それよりも自分の経済の為めにもなるやうな女をえらんだのであつた。一口に言へば、彼は、今までは村に無くて不自由をして居た産婆を副業にする妾を蓄へたのだ。それから自分の家の離れ座敷をとりはづして、彼の屋敷からはすぐ下に当るところへ、それを建て直した。冬には朝から夕方まで日が当るやうな方角を考へて、四間の長さをつづく縁があつた。玄関の三畳を抜けて、六畳の茶の間には炉を切らせた。黒柿の床柱と、座敷の欄間に嵌込はめこんだ麻の葉つなぎの桟のある障子の細工の細かさは、村人の目をそば立たせた。さすがはうちの山から一本りに択つて伐り出した柱だ、目ざはりな節一つない、と大工はその中古の柱を愛撫しながら自分のもののやうに褒めた。さうして農家の神々しいほど広い土間のある、太いむねはりの真黒くすすけた台所とは変つて、その家には、板をしきつめた台所に、白足袋を穿いて、ぞろぞろ衣服の裾を引摺つた女が、そこで立働くやうになつた。老人は、その家督を四十幾つかになつた自分の長男に譲つた。さてこの老人は幸福であつた。村の人々は、自分の年の半分にも足らぬ若さの茶呑友達を得た隠居に就てかげ口を利いた。併し、そんな事位は隠居の幸福を傷けはしなかつた。
 けれども、併しすべての平和と幸福とは、短い人生の中にあつて最も短い。それはちやうど、秋の日の障子の日向ひなたの上にふと影を落す鳥かげのやうである。つと来てはつと消え去る。さうして鳥かげを見た刹那せつなに不思議なさびしさが湧く。老人のこれ等の平和の日もつかであつた。
 若い妾は、程なく、都会から一人の若い男を誘うて来た。村の人々は、この若い男を「番頭さん」「お産婆の番頭さん」と呼んだ。村の人々は産婆には、果して「番頭さん」が入用なものかどうかを知らなかつた。さうしてこの隠居は、自分の若い妾が、自分には無断で、若い「番頭さん」を雇入れた事に就て不満であつた。非常に不満であつた。第一にこの若い男女の生活は田舎の人々の目には贅沢ぜいたくすぎた。隠居の予算と少し違ひすぎた。隠居は彼等がもつとつつましやかであり得る筈だと考へ初めた。その事を彼の妾に度々言ひつけた。初めは遠まはしに遠慮勝ちに、併しだんだん思ひ切つて言ふやうになつた。或る夜には夜中言ひ募ることがあつた。「番頭さん」は多分これ等の対話を壁一重に聞いただらう。或るそんな夜の後の日に――彼の女が初めて村へ来てから一年ばかりの後、若い「番頭さん」を若い妾が「雇入れ」てから半年ほどの後、或る夕方、彼等二人の男女の姿は、突然この村から消えた。夕方に村の方から帰つて来た馬方は、山路の夕闇のなかで、くつきりと浮上つて白い丸い頬が目についたので、よく見ると「Nさんのお産婆」だつた、とその次の朝村の人々に告げた。併し、これは多分、この男が実際にこれを見たわけではなく、彼等が居なくなつたと聞いた時に、思ひついた嘘であつたかも知れない。でなければ彼は帰つて来ると直ぐその事を、珍らしげに、手柄顔に言ふべき筈だからである。人はこんな時に、ちよつとこんな事を言つて見たいやうな一種の芸術的本能を、誰しも多少持つて居るものである。――それはどうでもいいとして、この話は、話題にゑて居る田舎ゐなかの人々を喜ばせた、当分の間。さうして二十八の女には、七十に近いあの隠居よりは、二十四五の若者の方が、よく釣合ふべきはずだつたといふのが、村の輿論よろんであつた。
 痛ましいのは、若い妾に逃げられたこの隠居が、その後、植木の道楽に没頭し出した事である。
 彼は花の咲く木を庭へ集め出した。今日はあの木をこちらに植ゑ変へ、昨日は別の庭からこの木を自分の庭にうつした。さうして明日は何かよい木を捜し出さねばと、毎日毎日、土いぢりに寧日ねいじつがなかつた。春には牡丹ぼたんがあつた。夏には朝顔があつた。秋には菊があつた。冬には水仙があつた。さうして、彼の逃げて仕舞つた妾の代りに、二人の十と七つとの孫娘を、自分の左右に眠らせたとこのなかで、この花つくりの翁は眠り難かつた。彼は月並の俳諧はいかいふけり出した。
 隠居は死んだ、それから丁度一年経つた後に。彼は、かうして集めた花の木のそれぞれの花を僅かばかり楽しんだばかりであつた。さうしてその家は、彼の末の娘と共に村の小学校長のものになつた。村の校長はこの隠居の養子だつたからである。すると抜目のない植木屋があつて、算術の四則にはけて居り、それを実の算盤そろばんに応用することにもたくみではあつたけれども、美に就ては如何いかなる種類のそれにも一向無頓着むとんちやくな、当主の小学校長をたぶらかして、目ぼしい庭の飾りは皆引抜いて行つた。大木の白木蓮しろもくれん玉椿たまつばきまき海棠かいだう、黒竹、枝垂しだれ桜、大きな花柘榴はなざくろ、梅、夾竹桃けふちくたう、いろいろな種類の蘭の鉢。さうしてそれ等の不幸な木はかくも忙しくその居所を変へなければならなかつた。土に慣れ親しむ暇もなかつた。かうしてそれ等のうちの或るものは、為めに枯れたかも知れない。
 小学校長は、ちやうど新築の出来上つた校舎の一部へ住んだ。自分の貰つたこの家は空家にして置いた。さうして居るうちにこの家を借り手があれば貸したいと考へ出した。住む人が無ければ、家は荒廃するばかりである。たとひ二円でも一円五十銭でも、家賃をとつて損になることはない、と校長先生の考はく明瞭である。ところが、田舎では大抵の人は自分自身の家を持つて居る。たとひ軒端がくづれて、朽ち腐つた藁屋根わらやねにむつくりと青苔あをごけが生えて居るやうな破家あばらやなりとも、親から子に伝へ子から孫に伝へる自分の家を持つて居た。どんな立派な家にしろ、借家をして住まねばならないやうな百姓は、最後の最後に自分の屋敷を抵当流れにしてしまつた最も貧しい人々に決つて居た。かくて、あの隠居が愛する女のために、又自分の老後の楽しみにと建てたこの家は実に貧しい貧しい百姓の家に化してしまつたのである。隠居が茶の間の茶釜をかけた炉には、大きないぶり勝ちな松薪が、めちやめちやに投込まれて、その煙は田舎家には無駄な天井に邪魔されて、家から外へ抜けて行く路もなかつた。さうして部屋を形造つた壁、障子、天井、畳は直ぐにすすびて来た。気の毒な百姓の一家は立籠つた煙などを苦にしては居られない。反つてそれから来る温さに感謝して、秋の、冬の長い夜な夜なを、繩をうたり、草鞋わらぢを編んだりして、夜をかさねばならなかつた。家賃は四月目五月目位からとどこほり出した。畳はすり切れた。柱へはいろいろな場合のいろいろな痕跡がいろいろの形に刻みつけられた。「せめては下肥しもごえ位はたまるだらう」と校長先生が考へたにもかかはらず、校長先生の作男が下肥を汲みに行く朝は、其処は何時もからつぽだつた。何となれば家の借り手の貧しい百姓が、自分の借りて居る畑へそれを運んでしまつた後であつたから。校長先生はひどくこの借家人を悪く思ひ初めた。会ふほどの人には誰彼となく、貧乏な百姓の狡猾かうくわつののしり、訴へた。さうして「どうせ貧乏する位の奴は、義理も何も心得ぬ狡猾漢だ」といふ結論を与へ去つた。外の村人は、直ぐ校長先生の意見に賛同の意を示した。そこで校長先生は自分の論理が真理として確立されたのを感じ出した。次には、こんな男に家を貸して置くよりも、むしろ荒れるにまかせて置いた方がどれほどよいか解らないと思ひ出した。何故かといふに、この男に家を貸すことは、積極的に荒廃させることである。反つて、空家として打捨てて置くことはその消極的な方法である。さうしてこの借家人はひ立てられた。村の人々は校長先生の態度は合理的だと考へた。
 これらの間――あの隠居が亡くなつてから後は、その庭の草や木のことを考へるやうな人は、ひとりもなかつた。家と庭とは荒れに荒れた。ただ一人、あの貧乏な百姓の小娘が、隠居が在世の折に植ゑられたままで、今は草の間に野生のやうになつて、年々に葉が哀れになり、茎がくねつて行く菊畑の黄菊白菊の小さな花を、秋の朝毎に見出しては、ちぢくれた髪のかんざしにと折りとつた……
 ……彼は縁側に立つて、庭をながめながら、あの案内者であつた太つちよの女が、道々語りつづけた話のうちに、彼一流の空想をまじへて、ぼんやり考へるともなく考へ、思ふともなくそんなことを思うて居た。
「フラテ、フラテ」裏の縁側の方では、彼の妻の声がして、犬を呼んで居る。「おおよしよし、レオも来たのかい。おお可愛いね。何も上げるのぢやなかつたのだよ。フラテや、お前はね、今のやうにあんな草ばかりのところで遊ぶのぢやありませんよ。まむしが居ますよ。そらこの間のやうに、鼻の頭をまれて、のどれ上つてお寺の和尚をしやうさんのやうにこんな大きな顔になつて来ると、ほんとうに心配ぢやないか。いいかい。フラテはもうこの間でりたから解つたわね。レオや、お前は気をおつけよ。お前の方はおとなしいから大丈夫だね……」彼の妻は牧歌を歌ふ娘のやうな声と心持とで、自分の養子である二疋の犬に物言うて居る。さうして涼しい竹藪の風は、そこから彼の立つて居る方へ抜けて通りすぎた。

       *     *     *

 真夏の廃園は茂るがままであつた。
 すべての樹は、土の中ふかく出来るだけ根を張つて、そこから土の力を汲み上げ、葉を彼等の体中一面に着けて、太陽の光を思ふ存分に吸ひ込んで居るのであつた。――松は松として生き、桜は桜として、まきは槇として生きた。出来るだけ多く太陽の光を浴びて、己を大きくするために、彼等は枝を突き延した。互におのおのの意志を遂げて居る間に、各の枝は重り合ひ、ぶつつかり合ひ、からみ合ひ、ひしめき合つた。自分達ばかりが、太陽の寵遇ちようぐうを得るためには、他の何物をも顧慮しては居られなかつた。さうして、日光をけることの出来なくなつた枝は日に日に細つて行つた。一本の小さな松は、杉の下で赤く枯れて居た。さかきの生垣は脊丈が不揃ひになつて、その一列になつた頭の線が不恰好ぶかつかうにうねつて居る。それは日のあたるところだけが生ひ茂り丈が延びて、もろもろの大きな樹の下に覆はれて日蔭になつた部分は、落凹んで了つたからであつた。又、それの或る部分は葉を生かすことが出来なくなつて、あたかも城壁の覗き窓ほどの穴が、ぽつかりとあいて居るところもあつた。或る部分は分厚に葉が重り合つてまるくかたまつてしげつて居るところもあつた。或る箇所は全く中断されて居るのである。といふのは、丁度その生垣に沿うて植ゑられた大樹の松に覆ひ隠されて、そればかりか、垣根の真中から不意に生ひ出して来た野生の藤蔓ふぢづるが人間の拇指おやゆびよりももつと太い蔓になつて、生垣を突分け、その大樹の松の幹を、あたかとりこを捕へた綱のやうに、ぐるぐる巻きに巻きながらぢ登つて、その見上げるばかりのこずゑの梢まで登り尽して、それでまだ満足出来ないと見える――その巻蔓は、空の方へ、身をもだえながらものぐるはしい指のやうに、何もないものを捉へようとしてあせり立つて居るのであつた。その巻蔓のうちの一つは松の隣りのその松よりも一際高い桜の木へ這ひ渡つて、仲間のどれよりも※(「二点しんにょう+向」、第3水準1-92-55)はるかに高く、空に向つて延びて居た。又、庭の別の一隅では、梅の新らしい枝が直立して長く高く、たとへば天を刺貫かうとするやりのやうに突立つて居るのであつた。かつては菊畑であつた軟かい土には、根強くはびこつた雑草があつた。それは何処か竹に似た形と性質とを持つた強さうな草であつた。それの硬い茎と葉とは土の表面を網目に編みながら這うて、自分の領土を確実にするためにその節のあるところから一々根を下して、八方へ拡がつて居た。こころみにその一部分をとつて、根引にしようとすると、その房々した無数の細い根は黒い砂まじりの土を、丁度人間が手でつかみ上げるほどづつ持上げて来る。これが彼等の生きようとする意志である、又、「夏」の万物に命ずる燃ゆるやうな姿である。かく繁りに茂つた枝と葉とを持つた雑多な草木は、庭全体として言へば、丁度、狂人の鉛色な額に垂れかかつた放埒はうらつな髪の毛を見るやうに陰欝であつた。それ等の草木は或る不可見な重量をもつて、さほど広くない庭を上から圧し、その中央にある建物を周囲から遠巻きして押迫つて来るやうにも感じられた。
 併し、すごく恐ろしい感じを彼に与へたものは、自然の持つて居るこの暴力的な意志ではなかつた。反つて、この混乱のなかに絶え絶えになつて残つて居る人工の一縷いちるの典雅であつた。それは或る意志の幽霊である。あの抜目のない植木屋が、この廃園からほとんどその全部を奪ひ去つたとは言へ、今に未だ遺されて居るもののなかにも、確に、故人の花つくりの翁の道楽をしのばせずには置かないものが一つならず目につくのである。自然の力も、未だそれを全くかくし去ることは出来なかつた。例へば、もとはこんもりと棗形なつめなりに刈り込まれて居たであらうと思へる白斑入しらふいりの羅漢柏あすならうである。それは門から玄関への途中にある。それから又座敷からかはやを隠した山茶花さざんくわがある。それの下かげの沈丁花ぢんちやうげがある。鉢をふせたやうな形に造つた霧島躑躅つつじの幾株かがある。大きな葉が暑さのために萎れ、その蔭に大輪の花が枯れしなびて居る年経た紫陽花あぢさゐがある。それらのものは巨人が激怒に任せて投げつけたやうな乱雑な庭のところどころにあつて、白木蓮、沈丁花、玉椿、秋海棠、梅、芙蓉ふよう、古木の高野槇かうやまき、山茶花、萩、蘭の鉢、大きな自然石、むくむくと盛上つた青苔あをごけ枝垂桜しだれざくら、黒竹、常夏とこなつ花柘榴はなざくろの大木、それに水の近くには鳶尾いちはつ、其他のものが、程よく按排あんばいされ、人の手でいつくしまれて居たその当時の夢を、北方の蛮人よりももつと乱暴な自然の蹂躙じうりんに任されてかへりみる人とてもない今日に、その夢を未だ見果てずに居るかと思へるのである。また仮りに、庭の何処の隅にもそんなものの一株もなかつたとしたところが、門口にかぶさりかかつた一幹ひともとの松の枝ぶりからでも、それが今日でこそいたづらに硬く太く長い針の葉をぎつしりと身に着けて居ながらも、曾ては人の手が、ねんごろにその枝をいたはり葉を揃へ、幹を撫でたものであつたことは、誰も容易に承認するのであらう。実は、それの持主である小学校長は、この次にはその松を売らうと考へて、この松だけはこん度の借家人が植木屋を呼ぶときには、根まはりもさせ鬼葉もとらせて置かうと思つて居るのであつた。
 故人の遺志を、偉大なそれであるからして時には残忍にも思へる自然と運命との力が、どんな風にぐんぐん破壊し去つたかを見よ。それ等の遺された木は、庭は、自然の溌剌はつらつたる野蛮な力でもなく、また人工のアアティフィシャルな形式でもなかつた。反つて、この両様の無雑作な不統一な混合であつた。さうしてそのなかには醜さといふよりもむしろ故もなく凄然せいぜんたるものがあつた。この家の新らしい主人は、木の蔭に佇んで、この廃園の夏に見入つた。さて何かにおびやかされてゐるのを感じた。瞬間的な或る恐怖がふと彼のうちに過ぎたやうに思ふ。さてそれが何であつたかは彼自身でも知らない。それを捉へる間もないほどそれは速かにひらめき過ぎたからである。けれどもそれが不思議にも、精神的といふよりも寧ろ官能的な、動物の抱くであらうやうな恐怖であつたと思へた。
 彼は、その日、暫く、新らしい住家のこのすさまじく哀れな庭の中を木かげを伝うて、歩き廻つて見た。
 家の側面にある白樫しろかしの下には、蟻が、黒い長い一列になつて進軍して居るのであつた。彼等の或るものは大きな家宝である食糧をかついで居た。少し大きな形の蟻がそこらにまくばられて居て、彼等に命令して居るやうにも見える。彼等は出会ふときには、会釈ゑしやくをするやうに、或は噂をし合ふやうに、或は言伝ことづてを託して居るやうに両方から立停つて頭をつき合せて居る。これはよくある蟻の転宅であつた。彼はうづくまつて、小さい隊商を凝視した。さうして暫くの間、彼は彼等から子供らしいたのしみを得させられた。永い年月の間、かういふものを見なかつた事や、若し目に入つたにしても見ようともしなかつたであらう事に、彼は初めて気づいた。さう言へば、幼年の日以来――あの頃は、外の子供一倍そんなものを楽みふけつて居たにも拘らず、その思ひ出さへも忘れて居た――落ちついて、月を仰いだこともなければ、鳥を見たこともなかつた。そんな事に気附いた事が、彼を妙に悲しく、また喜ばしくした。さういふ心を抱きながら其処から立上つて歩み出さうとすると、ふと目に入つたのは、その白樫の幹に道化たなりをして、牙のやうな形の大きな前足をそこへ突立ててかじりついて居る蝉の脱殻であつた。それは背中のまんなかからぱつくり裂けた、赤くぴかぴかした小さなよろひであつた。なほその幹をよく見て居ると、その脱殻から三四寸ほど上のところに、一疋の蝉が凝乎ぢつとして居るのを発見することが出た[#「出た」はママ]。それは人のけはひに驚く風もないのは無理もない。その蝉は今生れたばかりだといふ事は一目に解つた。それはまだく軟かで体も固まつては居ないのである。この虫はかうして身動きもせず凝乎ぢつとしたまま、今、静かに空気の神秘にふれて居るのであつた。その軟かなだ完成しない羽は全体は乳色で、言ふばかりなく可憐で、痛々しく、小さくちぢかんで居た。ただそれの緑色の筋ばかりがひどく目立つた。それは爽やかな快活なみどり色で、彼の聯想は白く割れた種子を裂開きりひらいて突出した豆の双葉ふたばの芽を、ありありと思ひ浮べさせた。それはただにその色ばかりではなく、羽全体が植物の芽生に髣髴はうふつして居た。生れ出るものには、虫と草との相違はありながら、或る共通な、或る姿がその中に啓示されて居るのを彼は見た。自然そのものには何の法則もないかも知れぬ。けれども少くもそれから、人はそれぞれの法則を、自分の好きなやうに看取することが出来るのであつた。尚ほ熟視すると、この虫の平たい頭の丁度真中あたりに、極く微小な、紅玉色でそれよりももつと燦然さんぜんたる何ものかが、いみじくもちりばめられて居るのであつた。その宝玉的な何ものかは、科学の上では何であるか(単眼といふものででもあらう)彼はそれに就て知るべくもなかつた。けれどもその美しさに就ては、彼自身こそ他の何人より知つてゐると思つた。その美しさはこの小さなとるにも足らぬ虫の誕生を、彼をして神聖なものに感じさせ、礼拝させるためには、就中なかんづく、非常に有力であつた。
 彼のあるか無いかの知識のなかに、蝉といふものは二十年目位にやつと成虫になるといふやうなことを何日いつか何処かで、多分農学生か誰かから聞き噛つたことがあつたのを思ひ出した。おお、この小さな虫が、ただ一口に蛙鳴蝉騒あめいせんさうと呼ばれて居るほど、人間には無意味に見える一生をするために、彼自身の年齢に殆んど近いほどの年を経て居ようとは! さうして彼等の命は僅に数日――二日か三日か一週間であらうとは! 自然は一たい、何のつもりでこんなものを造り出すのであらう。いやいや、こんなものと言つてただ蝉ばかりではない、人間を。彼自身を? 神が創造したと言はれて居るこの自然は、恐らく出たらめなのではあるまいか。さうして出たらめを出たらめと気附かないで解かうとする時ほど、それが神秘に見える時はないのだから。いやいや、何も解らない。さうだ、唯これだけは解る――蝉ははかない、さうして人間の雄弁な代議士の一生が蝉ではないと、誰が言はうぞ。蝉の羽は見て居るうちに、目に見えて、そのちぢくれが引延ばされた。同時にそれの半透明な乳白色は、刻々に少しづつ併し確実に無色で透明なものに変化して来るのであつた。さうしてあの芽生のやうに爽快ではあるけれどもひ弱げな緑も、それに応じて段々と黒ずんで、あたかも若草の緑が常磐木ときはぎのそれになるやうな、或る現実的な強さが、あきらかに其処にも現れつつあるのであつた。彼はこれ等のものを二十分あまりも眺めつくして居る間に――それは寧ろある病的な綿密さを以てであつた――自づと息が迫るやうな厳粛を感じて来た。
 突然、彼は自分の心にむかつて言つた。
「見よ、生れる者の悩みを。この小さなものが生れるためにでも、此処にこれだけの忍耐がある!」
 それから重ねて言つた。
「この小さな虫は俺だ! 蝉よ、どうぞ早く飛立て!」
 彼の奇妙な祈祷きたうはこんな風にして行はれた。それはこの時のみならず常にかうして行はれてあつた。

       *     *     *

 さて、ここに幾株かの薔薇さうびがこの庭の隅にあつた。
 それは井戸端の水はけに沿うて、垣根のやうに植ゑつけられて居るのであつた。若し十分に繁茂して居れば「一架長条万朶春いつかちやうでうばんだのはる」を見せて、二三間つづきの立派な花の垣根を造つたであらう。けれどもそれ等ははなはだしく不幸なものであつた。朝日をさへぎつては杉の木立があつた。夕日は家の大きな影が、それらの上にのしかかつて邪魔をした。そうして正午の前後には、柿の樹や梅の枝がこの薔薇の木から日の光を奪うた。さうしてそれ等杉や梅や柿の茂るがままの枝は、それ等の薔薇の木の上へのさばつて屋根のやうになつて居た。かうしてこれ等の薔薇の木は、その茎はいたいたしくも蔓草のやうに細つて、尺にもあまるほどの雑草のなかでよろよろと立上つて居た。
 八月半すぎといふのに、花は愚かそれらの上には、一片の――実に文字どほりに一片の青い葉さへもないのであつた。それ等の茎が未だ生きたものであることを確めるためには、彼はそれの一本を折つて見るほどであつた。日の光と温かさとは、すべての外のものに全くかすめられて、土のなかに蓄へられた彼等の滋養分も彼等の根もとにはびこつた名もない雑草にことごとく奪はれた。彼等は自然から何の恩恵もけては居ないやうに見えた。ただこんな場所を最も好む蜘蛛くもの巣の丁度いい足場のやうになつて、ただ、それのためばかりに有用なものになつて、薔薇はかうしてまでその生存をだつづけて居なければならなかつた。
 薔薇は、彼の深くも愛したものの一つであつた。さうして時には「自分の花」とまで呼んだ。何故かといふに、この花に就ては一つの忘れ難い、慰めに満ちた詩句を、ゲエテが彼に遺して置いてくれたではないか――「薔薇ならば花開かん」と。又、ただそんな理窟ばつた因縁いんねんばかりではなく、彼は心からこの花を愛するやうに思つた。その豊饒ほうぜうな、さかづきからあふれ出すほどの過剰くわじような美は、ことにその紅色の花にあつて彼の心をひきつけた。その眩暈めくるめくばかりの重い香は彼には最初の接吻の甘美を思ひ起させるものであつた。さうして彼がそれをう感ずる為めにとて、古来幾多の詩人が幾多の美しい詩をこの花に寄せて居るのであつた。西欧の文字は古来この花の為めに王冠を編んで贈つた。支那の詩人も亦あの絵模様のやうな文字を以てその花の光輝を歌ふことを見逃さなかつた。彼等も亦、大食国タアジこくの「薔薇露さうびろ」を珍重し、この「換骨香くわんこつかう」を得るために「海外薔薇水中州未得方かいぐわいさうびのみづちゆうしういまだはうをえず」と嘆じさせた。それ等の詩句の言葉は、この花の為めに詩の領国内に、貴金属の鉱脈のやうな一脈の伝統を――今ではすでに因襲になつたほどまでに、鞏固きようこに形造つて居るのである。一度詩の国に足を踏み入れるものは、誰しも到るところで薔薇の噂を聞くほど。さうして、薔薇の色と香と、さては葉もとげも、それらの優秀な無数の詩句の一つ一つを肥料として己のなかに汲み上げ吸ひ込んで――それらの美しい文字の幻を己の背後に輝かせて、その為めに枝もたわわになるやうに思へるほどである。それがその花から一しほの美を彼に感得させるのであつた。幸であるか、いや寧ろ甚だしい不幸であらう。彼の性格のなかにはかうした一般の芸術的因襲が非常に根深く心に根を張つて居るのであつた。彼が自分の事業として芸術をえらぶやうになつたのもこの心からであらう。彼の芸術的な才分はこんな因襲から生れて、非常に早く目覚めて居た。……それ等の事が、やがて無意識のうちに、彼をしてかくまで薔薇を愛させるやうにしたのであらう。自然そのものから、真に清新な美と喜びとを直接に摘み取ることを知り得なかつた頃から、それら芸術の因襲を通して、彼はこの花にのみはかうして深い愛を捧げて来て居た。馬鹿馬鹿しいことのやうではあるが、彼は「薔薇」といふ文字そのものにさへ愛を感じた。
 それにしても、今、彼の目の前にあるところのこの花の木の見すぼらしさよ! 彼は、かつて、非常に温い日向ひなたにあつた為めに寒中につぼんだところの薔薇を、故郷の家の庭で見た事もあつた。それは淡紅色な大輪の花であつたが、太陽の不自然な温かさに誘はれてつぼみになつて見たけれども、朝夕の※(「日/咎」、第3水準1-85-32)ひかげのない時には、南国とても寒中は薔薇に寒すぎたに違ひない。莟は日を経てもいたづらに固く閉ぢて、それのみか白いうちにほのあか花片はなびらの最も外側なものは、日々に不思議なことにも緑色の細い線が出来て来て、葉に近い性質、言はば花片と葉との間のものとでも言ふやうなものにまでこはばつて行くのを見た事があつた。けれども、彼が今目の前に見るこれらの薔薇の木は、その哀れな点では曾てのあの莟の花の比ではない。彼はこれ等の木を見て居るうち、衝動的に一つの考へを持つた。どうかしてこの日かげの薔薇の木、忍辱にんにくの薔薇の木の上に日光の恩恵を浴びせてやりたい。花もつけさせたい。かう云ふのが彼のその瞬間に起つた願ひであつた。併し、この願ひのなかには、わざとらしい、遊戯的な所謂いはゆる詩的といふやうな、又そんな事をするのが今の彼自身にふさはしいといふ風な「態度」に充ちた心が、その大部分を占めて居たのである。彼自身でもそれに気附かずには居られなかつたほど。(この心が常に、如何なる場合でも彼の誠実を多少づつ裏切るやうな事が多かつた)さて、彼はこの花の木で自分をうらなうて見たいやうな気持があつた――「薔薇ならば花開かん」!
 彼は自分で近所の農家へ行つた。足早に出て行く主人の姿を、二疋の犬は目敏めざとくも認めて追駆けた。びたのこぎり桑剪くはきばさみとをかたげた彼が、二疋の犬を従へて、一種得意げに再び庭へ現れたのは、五分とは経たないうちであつた。彼はにこにこしながら薔薇の傍に立つた。どうすれば其処を最もよく日が照すだらうと、見当をつけて上を見廻しながら、さて肩抜ぎになつた。先づのこぎりで、最ものさばり出た柿の太い枝をき初めた。枝からはぼろぼろと白い粉が降るやうにこぼれて、鋸の歯が半以上に喰ひ入ると、未だ断ち切れない部分は、もろくもそれ自身の重みを支へ切れなくなつて、やがてぽきりと自分からへし折れ、大きな重い枝はそれの小枝を地面へ打つけて落ちかかつた。すると、その隙間からはすぐ、日の光が投げつけるやうに、押し寄せるやうに、沁み渡るやうに、あの枯木に等しい薔薇の枝に降りそそいだ。薔薇を抱擁はうようする日向ひなたは追々と広くなつた。押しかぶさつた梅や杉や柿の枝葉が、追々に刈られたからである。彼は桑剪り鋏で、薔薇の木の上の蜘蛛くもの巣を払うた。其処にはいろいろの蜘蛛が潜んで居た。蠅取り蜘蛛といふ小さな足の短い蜘蛛は、枝のつけ根に紙の袋のやうな巣を構へて居た。鼈甲べつかふのやうな色沢つやの長い足を持つた大きな女郎蜘蛛ぢよらうぐもは、大仕掛な巣を張り渡して居た。鋏がその巣を荒すと、蜘蛛は曲芸師のたくみさで糸を手繰たぐりながら逃げて行く。それを大きな鋏が追駆ける。彼等は糸を吐きながら鋏のさきへぶら下がつて、土の上や、草のなかや、水溜りの上に下りて逃げる。それを鋏がちよん斬つた。
 そんなことが彼の体を汗みどろにした。又彼の心を興奮させた。最初に、最も大きな枝が地にちた音で、彼の珍らしい仕事を見に来た彼の妻は、何か夫にびかけたやうであつたけれども、彼は全く返事をしなかつた。犬どもは主人が今日は少しも相手になつてくれないのを知ると、彼等同士二疋で追つかけ合つて、庭中を騒ぎ廻つて居た。何か有頂天うちやうてんとでも言ひたい程な快感が彼にはあつた。さうして無暗に手当り次第に、何でもき切つてやりたいやうな気持になつた。
 彼は松にからみついて居るあの藤の太い蔓を、根元から、桑剪くはきばさみで一息に断ち切つた。彼は案外自分にも力があると思つた。その蔓をよりをもどすやうにくるくる廻しながら松の幹から引き分けると、松は其時ほつと深い吐息をしてみせたやうに彼には感ぜられた。彼は蔓のきり端を両手で握ると、力の限りそれを引つぱつて見た。併し、勿論それは到底無駄であつた。松の小枝から梢へそれから更に隣りの桜の木へまでもまつはりついた藤蔓は引つぱられて、ただ松の枝と桜の枝とをたわめて強く揺ぶらせ、それ等の葉を※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)ぎ取らせて地の上に降らせ、又桜の枝にくつついて居た毛虫を彼の麦稈むぎわら帽子の上に落しただけで、蔓自身は弓弦ゆづるのやうに張りきつたのであつた。「私はお前さんの力ぐらゐには驚かんね! どうでも勝手に、もつとしつかりやつて見るがいい!」と、その藤蔓は小面憎こづらにくくも彼を揶揄やゆしたり、傲語がうごしたりするのであつた。彼はこの藤蔓には手をやいて、たうとうそれぎりにして置くより外はなかつた。さうして今度は生垣いけがきを刈り初めた。
 正午ひるすぎからの彼のこの遊びは、夕方になると、生垣の頭がくつきりと一直線に揃ひ、その壁のやうに平になつた側面には、折りから、その面と平行して照し込む夕日の光線が、さかきの黒い硬い葉の上に反射して綺麗にきらきらと光つた。かうなつて見るとあの大きな穴が一層見苦しく目立つたのであつた。
「やあ、これやさつぱりしましたね」
と、こんな風な御世辞を言ひながら、その穴から家のなかを見通して行く野良帰りの農夫もあつた。それから、彼はそのついでにあのみぞの上へ冠さつて居る猫楊ねこやなぎの枝ぶりをつくろうても見た。その夕方、彼は珍らしく大食した。夜は夜で快い熟睡をむさぼり得た。しかも翌朝目覚めた時には、体が木のやうにこはばり節々が痛むところの自分を、苦笑をもつて知らなければならなかつた。
 その幾日か後の日に、今度はほんとうの植木屋――といつても半農であるが――が、彼の家の庭に這入はいつた時には、あの松と桜とにああまで執念しふねん深く絡みついて居た藤蔓は、あの百足むかでの足のやうな葉がしをれ返つて、或る部分はもうすつかり青さを失うて居るのであつた。さうしてあのもの狂ほしい指である巻蔓は、ことごとくぐつたりとおち入つて居た。彼は悪人の最後を舞台で見てよろこぶ人の心持で、松の樹の上で植木屋が切りさいなむ太い藤蔓を、軒の下にしやがんで見上げて居た。
「これや、もう四五日ほして置くといいきつけが出来まさあ」と突然、植木屋は松の樹の上から話しかけた。
其奴そいつはよつぽど太い奴だね」彼はそんな事を答へて置いて、「うだ」とひとり考へた。「あの剛情な藤蔓が、そんなに早くも醜く枯れたのは、彼をそんなに太くさかんに育て上げたと同じその太陽の力だ」と、彼はこの藤蔓から古い寓話を聞かされて居た。彼は又、彼の意志――人間の意志が、自然の力を左右したやうにも考へた。むしろ、自然の意志を人間である彼が代つて遂行したやうにも自負した。藤蔓が其処に生えて居た事は、自然にとつて何の不都合でもなかつたであらうに、とにかく、最初に人間の手が造つた庭は、最後まで人間の手が必要なのだ。彼は漫然そんなことを思つて見た。
 それにしても、あの薔薇は、どう変つて来るであらうか。花は咲くか知ら? それを待ち楽む心から、彼は立上つて歩いて行つた。薔薇を見るためにである。それの上にはただ太陽が明るく頼もしげに照してゐるほか、別に未だ何の変りもないのは、今朝もよく見て知つて居る筈だつたのに。
 かうして幾日かはすぎた。薔薇のことは忘れられた。さうしてまた幾日かはすぎた。

       *     *     *

 自然の景物は、夏から秋へ、静かに変つて行つた。それを、彼ははつきりと見ることが出来た。夜は逸早くも秋になつて居た。轡虫くつわむしだの、※(「虫+車」、第3水準1-91-55)こほろぎだの、秋の先駆であるさまざまの虫が、或は草原で、或は彼の机の前で、或は彼のとこの下で鳴き初めた。楽しい田園の新秋の予感が、村人の心を浮き立たせた。村の若者達は娘をさがすために、二里三里を涼しい夜風に吹かれながら、そのたくましい歩みで歩いた。或る者は、又、村祭の用意に太鼓の稽古けいこをして居た。その単純な鳴りものの一生懸命な響きが、夜更けまで、野面のづらを伝うて彼の窓へ伝はつて来た。この村に帰省してゐた女学生、それはY市の師範学校の生徒で、この村で唯一の女学生は、夏の終りに、彼の妻と友達になつたが、間もなく喜ばしさうにその学校のある都会へ彼の妻をとり残して帰つて行つた。
 彼の狂暴ないら立たしい心持は、この家へ移つて来て後は、やうやく、彼から去つたやうであつた。さうして秋近くなつた今日では、彼の気分もおのづから平静であつた。彼は、ちやうど草や木や風や雲のやうに、それほど敏感に、自然の影響を身に感得して居ることを知るのが、一種の愉快で誇りかにさへ思はれた。この夜ごろのともしびは懐しいものの一つである。それは心身ともに疲れた彼のやうな人々の目には、柔かなゆかしい光を与へるランプの光であつた。彼はそのランプを、この地方へ来た行商人から二十幾銭かで買つた。その紙で出来た笠は一銭であつた。けれどもそのランプのガラスのつぼは、石油を透して琥珀こはくの塊のやうに美しかつた。或る時には、薄い紫になつて、紫水晶のことを思はせた。その燈の下で、彼は、最初、聖フランシスの伝記を愛読しようとした。けれども彼は直ぐに飽きた。根気といふものは、彼の体には、今は寸毫すんがうも残されては居なかつた。さうしてどの本を読みかけても、一切の書物はどれもこれも、皆、一様に彼にはつまらなく感じられた。そればかりか、そんな退屈な書物が、世の中で立派に満足されて居るかと思ふと、それが非常に不思議でさへあつた。何か――人間を、彼自身を、すべての物がこの世界とは全く違つたものから出来上つてゐる別世界へ引きずり上げて行くやうな、或はただ彼の目の前へだらしなくひろげられてゐるこの古い古い世界を、全然別箇のものにして見せるやうな、或はそれを全く根柢からくつがへしてめちやめちやにするやうな、それは何でもいい、ただもう非常な、素晴らしい何ものかが、どうかして、何処かにありさうなものだ。彼はしばしば漫然とそんなことを考へて居た。ほんとうに「日の下には新らしいものがあることは無い」のか。さうして一般の世間の人たちは、それなら一たい何を甲斐がひにして生きることが出来て居るのであるか? 彼等は唯彼等自身の、それぞれの愚かさの上に、さもしたりげにおのおのの空虚な夢を築き上げて、それが何も無い夢であるといふ事さへも気づかない程にたけつて生きてゐるだけではなからうか――それは賢人でも馬鹿でも、哲人でも商人でも。人生といふものは、果して生きるだけの値のあるものであらうか。さうして死といふものはまた死ぬだけの値のあるものであらうか。彼は夜毎にそんなことを考へて居た。さうして、この重苦しい困憊こんぱいしきつた退屈が、彼の心の奥底に巣喰うて居る以上、その心の持主の目が見るところの世界万物は、何時でも、一切、何処までも、退屈なものであるのが当然だといふ事――さうしてこの古い古い世界に新らしく生きるといふ唯一の方法は、彼自身が彼自身の心境を一転するより外にはない事を、彼が知り得た時、ただ、さういふ状態の己自身を、どうして、どんな方法で新鮮なものにすることが出来るか。彼の父のおこつて居る手紙のなかの、「大勇猛心」と呼んで居るものはどんなものか。それを何処からもたらしてどうして彼の心へ植ゑ込むことが出来るか。どうして彼の心に湧立わきたたせることが出来るか。それらの一切は、彼には全然知り得べくもなかつた。さうして田舎にも、都会にも、地上には彼を安らかにする楽園はどこにも無い。何も無い。
「ただ万有の造り主なる神のみ心のままに……」
と、そんなことを言つて見ようか。けれども彼の心は、決して打砕かれて居るのではなかつた。ただしなびて居るだけである……。彼は太鼓のひびきに耳を傾けて、その音の源の周囲をとりかこんで居るであらう元気のいい若者たちを、うらやましく眼前に描き出した。
 彼の机の上には、読みもしない、又、読めもしないやうな書物のペエヂが、時々彼の目の前にさらされてあつた。彼はその文字をただ無意味に拾つた。彼は、又、時々大きな辞書を持ち出した。それのなかから、成可なるべく珍らしいやうな文字をさがし出すためであつた。言葉と言葉とが集団して一つの有機物になつて居る文章といふものを、彼の疲れた心身は読むことが出来なくなつて居たけれども、その代りには、一つ一つの言葉に就てはいろいろな空想を喚び起すことが出来た。それの霊を、所謂いはゆる言霊ことだまをありありと見るやうにさへ思ふこともあつた。その時、言葉といふものが彼には言ひ知れない不思議なものに思へた。それには深い神的な性質があることを感じた。それらの言葉の一つ一つはそれ自身で既に人間生活の一断片であつた。それらの言葉の集合はそれ自身で一つの世界ではないか。それらの言葉の一つ一つを、初めて発明し出したそれぞれの人たちのそれぞれの心持が、懐しくも不思議にそれのなかに残つて居るのではないか。永遠にさうして日常、すべての人たちに用ゐられるやうな新らしい言葉のただ一語をでも創造した時、その人はその言葉のなかで永遠に、普遍に生きてゐるのではないか。さうだ、さうだ、これをもつと明確に自覚しなけりやあ……。彼はそんなことを極くおぼろげに感じた。さうして或る一つの心持を、仲間の他の者にはつきりと伝へたいといふ人間の不可思議な、霊妙な慾望と作用とに就ても、おぼろに考へ及ぶのであつた。言葉にきた時には、彼はその辞書のなかにある細かな※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)画を見ることに依つて、未だ見たことも空想したこともない魚や、獣や、草や、木や、虫や、魚類や、或は家庭的ないろいろの器具や、武器や、古代から罪人の処刑に用ゐられたさまざまな刑具や、船や、それの帆の張り方に就ての種々な工夫や、建築の部分などに就て知ることを喜んだ。それらの器物などの些細な形や、動物や植物などのなかにはさまざまな暗示があつた。就中なかんづく、人間自身が工夫したさまざまなもののなかには言葉の言霊ことだまのなかにあるものと全く同じやうに、人類の思想や、生活や、空想などが充ち満ちて居るのを感じた――それはく断片的にではあつたけれども。さうして、彼の心の生活はその時ちやうどそれらの断片を考へるに相応しただけの力しか無いのであつた。
 彼は、時々それらの感興の末に、夜更けになつてから、詩のやうなものを書くことがあつた。それはその夜中、彼自身には非常に優秀な詩句であるかのやうに信ぜられた。併し、翌日になつて目を覚してまつ先きにその紙の上を見ると、それは全く無意味な文字が羅列されて居るに過ぎなかつた。それはむしろ、先づ驚くべきことであつた。――ふと、いい考へが彼のつい身のまはりまで来て居たのであつたのに。さうして、それを捉へようとした時、もうそこには何物も無かつたのである。捉へ得たと思つた時、それはただ空間であつた。ちやうど夢のなかで恋人を抱く人のやうに。そのもどかしさと一緒に、彼はふと自分の名が呼びかけられたと思つて振り返つた時、そこに言葉の主が誰も居なかつた時に似た不安をも、その度毎に味うた。
 家の図面を引くことを、彼は再び初めた。彼は非常に複雑な迷宮のやうな構へを想像することがあつた。さうかと思ふと、コルシカの家がさうであるといふやうに、客間としても台所としても唯大きな一室より無い家を考へることもあつた。それの外形や、間どりや、窓などの部分の意匠のデテイルなどが、ほとんど毎夜のやうに、彼のノオトブックの上へ縦横に描き出された。遂には白い頁はもう一枚も無くなり、方一寸ぐらゐの余白が最も貴重なものとして探し出されて、そこもいろいろに組合された幾多の直線で、ぎつしりと埋められてあつた。その無意味な一つ一つの直線に対して、彼は無限の空想を持つことが出来た。そんな時の彼の心持は、ただ一人で監禁された時には、無心で一途いちづ唐草からくさ模様を描きふけるものだといふ狂気の画家たちによほどよく似て居た。
 かうして、又してもたうとう生気のない無聊ぶれうが来た。さうしてそれが幾日もつづいた。

       *     *     *

 或る夜、彼のランプの、紙で出来た笠へ、がさと音をたてて飛んで来たものがあつた。
 見るとそれは一疋の馬追ひである。その青い、すつきりとした虫は、その縁をあかくぼかして染め出したランプの笠の上へとまつて、それらの紅と青との対照が先づ彼の目をそれに吸ひつけたが、その姿と動作とが、更におもむろに彼の興味を呼んだ。その虫は、それ自身の体の半分ほどもあるやうな長い触角を、自分自身の上の方でゆるやかに動かしながら、ランプの円い笠の紅い場所を、ぐるぐると青く動いて進んで行つた。それは円く造られた庭園の外側に沿うて漫歩する人のやうな気どつた足どりのやうにさへ、彼には思へた。この青い細長い形の優雅いうがな虫は、そのきやしやな背中のいただきのところだけ赤茶けた色をして居た。彼は螢の首すぢの赤いことを初めて知り得て、それを歌つた松尾桃青たうせいの心持を感ずることが出来た。この虫は、しばらくその円いところをぐるぐると歩いた。さうして時々、不意に、壁の長押なげしや、障子の桟や、取り散した書棚や、或は夜更しをしすぎて何時になれば寝るものともきまらない夫を勝手にさせて自分だけ先づ眠つて居る彼の妻の蚊帳かやの上のどこかなどへ、身軽に飛び渡つては鳴いて見せた。「人間に生れることばかりが、必ずしも幸福ではない」と、草雲雀くさひばりに就てそんなことを或る詩人が言つた。「今度生れ変る時にはこんな虫になるのもいい」或る時、彼はそれと同じやうなことを考へながらその虫を見て居るうちに、ふと、シルクハットの上へ薄羽蜉蝣うすばかげろふのとまつて居る小さな世界の場面を空想した。あの透明な大きなはねを背負うた青い小娘の息のやうにふはふはした小さな虫が、漆黒しつこくなぴかぴかした多少怪奇な形をそなへた帽子の真角まつかくかどの上へ、頼りなげに併しはつきりととまつて、その角の表面をそれの線に沿うてのろのろとつて行く……。それを明るい電燈が黙つて上から照して居た……。彼は突然、彼の目を上げて光をのぞいた。それは電燈ではない。ランプの光である。彼はそのランプの光を自分の空想と混同して、自分も今電燈の下に居るやうに思つたからである。
 何故に彼がシルクハットと薄羽蜉蝣うすばかげろふといふやうな対照をひよつくり思ひ出したか、それは彼自身でも解らなかつた。唯、さういふ風な、奇妙な、繊細な、無駄なほど微小な形の美の世界が、何となく今の彼の神経には親しみが多かつた。
 馬追ひは、毎夜、彼のランプを訪問した。彼は、最初には、この虫が何のためにランプの光を慕うて来るのか、さてその笠をぐるぐると廻るのか、それらの意味を知らなかつた。併し、見て居るうちに直ぐに解つた。それは決してその虫の趣味や道楽ではなかつたのである。この虫は、其処へんで来て、その上にたかつて居るところのもう一層小さい外の虫どもを食ふためであつたのだ。それらの虫どもは、夏の自然の端くれを粉にしたとも言ひたいほどの極く微細な、ただ青いだけの虫であつた。馬追ひは彼の小さな足でもつてそれらの虫を掻き込むやうに捉へて、それを自分の口のなかへ持つて行つた。馬追ひの口は、何か鋼鉄で出来た精巧な機械にでもありさうな仕掛に、ぱつくりと開いては、ぐ四方から一度に閉ぢられた。一層小さな虫どもはもぐもぐと、この強者の行くに任せて食はれた。食はれる虫は、それの食はれるのを見て居ても、別に何の感情をも誘はれないほど小さく、また親しみのないものばかりであつた。指さきでそれを軽くおさへると、それらの小さな虫は、青茶色の斑点をそこにのこして消えせてしまふほどである。
 馬追ひは、或る夜、どこでどうしたのであるか、長いねる脚の片方を失つて飛んで来た。長い触角の一本も短く折れてしまつてゐた。
 遂には或る夜、彼の制止も聞かなかつた猫が、書棚の上で、彼の主人の夜ごとの友人であるこの不幸な者を捉へた。さんざんもてあそんだ上で、その馬追ひを食つて仕舞つた。彼は今度生れ変る時にはこんな虫もいいと思つたことを思ひ出すと、こんな虫とてもなかなか気楽ではないかも知れないと小さな虫の生活を考へて見た。
 彼がそんな風な童話めいた空想にふけり、酔ひ、弄んで居る間に、彼の妻は寝牀ねどこの下で鳴くこほろぎの声を沁み沁みと聞きつつ、別の童話に思ひ耽つて居るのであつた。――こほろぎの歌から、冬の衣類の用意を思うて、猫が飛び乗つても揺れるところの、空つぽになつた彼女の箪笥たんすの事を考へ、それから今は手もとにない彼の女のいろいろな晴着のことを考へた。さうしてそれ等の着物のしまや模様や色合ひなどが、一つ一つ仔細に瞭然はつきりと思ひ浮ばれた。又それにつれてそれ等の一かさね一かさねが持つて居るおのおのの歴史を追想した。深い吐息がそれ等の考へのなかにまじり、さてはそれが涙ともなつた。彼の女は、女特有の身勝手な主観によつて、彼の女の玩具の人生苦を人生最大の受難にして考へることが出来た。さうして其悲嘆は、しかも訴ふるところがなかつた。これ等のことを今更に告げて見たところで、それをどうしようとも思はぬらしく「何ものも無きに似たれどもすべてのものを持てり」といふやうな句をただ聞かせるだけで、一人勝手に生きて居る夫、象牙の塔で夢みながら、見えもしない人生を俯瞰ふかんした積りで生きて居る夫、その夫を妻が頼み少く思ふことは是非ない事である。彼の女は、時々こんな山里へ来るやうになつた自分を、その短い過去を、運命を、夢のやうに思ひめぐらしても見た。さて、今でもまだ舞台生活をして居る彼の女の技芸上の競争者達を、(彼の女はもと女優であつた)今の自分にひきくらべて華やかに想望することもあつた。……Nといふ山の中の小さな停車場まで二里、馬車のあるところまで一里半、その何れに依つても、それから再び鉄道院の電車を一時間、真直ぐの里程にすれば六七里でも、その東京までは半日がかりだ……それにしても、どんな大理想があるかは知らないが、こんな田舎へ住むと言ひ出した夫を、又それをうかうかと賛成した彼の女自身を、わけても前者を彼の女は最も非難せずには居られなかつた。遠い東京……近い東京……近い東京……遠い東京……その東京の街々が、アアクライトや、ショウヰンドウや、おひおひとシイズンになつてくる劇場の廊下や、楽屋や、それらが眠らうとして居る彼の女の目をゆつくり通り過ぎた。

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 空の夕焼が毎日つづいた。けれどもそれはつい二三週間前までのやうなただれた真赤な空ではなかつた。底には快く快活な黄色をかくしてうはべだけがくれなゐであつた。明日の暑さで威嚇ゐかくする夕焼ではなく、明日の快晴を約束する夕映ゆふばえであつた。西北の空にあたつて、ごく近くの或る丘の凹みの間から、富士山がその真白な頭だけを現して、夕映のなかでくつきり光つて居た。俗悪なまで有名なこの山は、ただそのごく小部分しか見えないといふことに依つて、それの本来の美を保ち得て居た。この間うちまでは重り合つた夕雲のかげになつて、それらの雲の一部か或は山かと怪しまれた西方の地平につらなる灰黒色な一列は、今見れば、何処か遠くの連山であることが確かになつた。今日も亦無駄に費したといふ平凡な悔恨が、毎日この夕映を仰ぐ度ごとに、彼にははげしく瞬間的に湧き上るのであつた。多分、色彩といふものが誘ふ感激が、彼の病的になつてゐる心をさういふ風に刺戟したのであらう。地の上の足もとを見ると、彼の足場である土橋の下を、みぞの水が夕映の空を反映して太い朱線になつて光り、流れて居た。
 田の面には、風が自分の姿を、そこになぎさのやうな曲線で描き出しながら、ゆるやかに蠕動ぜんどうして進んで居た。それは涼しい夕風であつた。稲田はまだ黄ばむといふほどではなかつたけれども、花は既に実になつて居た。さうしていなごがそれらの少しうな垂れた穂の間で、少しづつ生れ初めて居た。蛇苺へびいちごといふ赤い丸い草の実のころがつて居る田のあぜには、彼の足もとから蝗が時折飛び跳ねた。すると彼の散歩の供をして居る二疋の犬は、より早くそれを見出すや否や、彼等の前足でそれを押し圧へると、其処に半死半生で横はつて居る蝗をうまさうに食つてしまつた。彼等の一疋はそれを見出す点で、他の一疋よりも敏捷びんせふであつた。併し、前足を用ゐて捉へる段になると、別の一疋の方がかへつて機敏であつた。又一疋の方はとり逃がした奴を直ぐあきらめるらしかつたけれども、他の一疋はなかなか執拗しつえうに稲田のなかまで足を泥にふみ込んで追ひ込む。彼等にもよく観ればおのおの違つた性質を具へて居るのが彼を面白がらせ、つ一層彼等を愛させた。稲の穂がだんだん頭を垂れてゆくにつれて、蝗の数は一時に非常に殖えて居た。犬は自分からさきに立つて彼を導くやうにしながら田の方へ毎日彼を誘ひ出した。彼は目の前の蝗を見ると、時々、それを捉へて犬どもに食はせてやりたくなつた。それで指を拡げた手で、その虫をおさへようとした。犬どもは彼等の主人がその身構へをすると主人の意志がわかるやうになつたと見えて、自分の捉へかかつて居るのを途中でやめて、主人の手つきを目で追うて、主人の獲物が与へられるのを待つて居るのであつた。けれども彼は大てい五度に一度ぐらゐよりそれを捉へることが出来なかつた。ただ※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)ぎとれた足だけを握つて居たりした。彼は蝗を捉へるには、それに巧でない方の犬にくらべてもずつと下手であつた。それにも拘はらず、犬どもはそんな事にまで主人の優越を信じて、主人を信頼して居るらしかつた。さうして、彼が虫をとり逃がした空しい手をひらいて見せると、犬どもはいぶかしげに、主人の手の中と主人の顔とをかはるがはる見くらべて、彼等は一様にその頭をかしげ、それから彼等の口の端を少しゆがめて、その可憐に輝く眼で彼の顔を見上げた。それがさも主人のその失敗に驚き失望しながら、けれども何故ともなく主人にびて居る様であつた。彼等犬には、実に豊な表情があつた! 彼等は幾度もそのいたづらな期待の経験をしながらも、矢張り自分達よりも主人の方が虫を捉へるにでも偉い筈だといふ信念を、決して失はないらしかつた。彼の蝗を捉へようとする身構へと手つきとを見る毎に、彼等は彼等自身が既に成功して居るも同然な虫を放擲はうてきして、主人の手つきを見つめたまま、何時までもその恵みを待ちうけて居るのであつた。彼は空しくひろげたてのひらで、失望して居る犬どもの頭を愛撫して居た。犬はそれにでも満足して尾を振つた。彼には、それが――犬どもの無智な信頼が、またそれに報ゆることの出来ない事が、妙に切なかつた。彼が人間同士の幾多の信頼にそむいて居ることよりも、この純一な自分の帰依者きえしやに対しての申訳なさは、彼にはむしろ数層倍も以上に感じられた。彼は、彼等のあの特有な澄み切つた眼つきで見上げられるのが切なさに、遂には、目の前の虫を捉へようとする一種反射運動的な動作を試みないやうに、細心に努力するのであつた。
 何時か、彼自身で手入れをしてやつた日かげの薔薇さうびの木は、それに覆ひかぶさつて居た木々の枝葉を彼が刈り去つて、その上には日の光が浴びられるやうになつた後、一週間ばかり経つと、今では日かげの薔薇ではないその枝には、初めて、ほのあかい芽がところどころに見え出した。さうして更に、その両三日の後には、太陽の驚くべき力が、早くもその芽を若々しい葉に仕立てて居た。併し、彼は顔を洗ふために井戸端へは毎朝来ながら、何時しか、それらの薔薇の木のことは忘れるともなくもう全く忘れ果てて居た。
 図らずも、ある朝――それは彼がそれの手入れをしてやつてから二十日足らずの後である。彼は偶然、それ等の木の或る緑あざやかな茎の新らしい枝の上に花が咲いて居るのを見出した。赤く、高く、ただ一つ。「永い永い牢獄のなかでのやうな一年の後に、今やつと、また五月が来たのであらうか!」その枯れかかつて居た木の季節外れな花は、歓喜の深い吐息を吐き出しながら、さう言ひたげに、今四辺を見まはして居るのであつた。秋近い日の光はそれに向つて注集して居た。おお、薔薇の花、彼自身の花。「薔薇ならば花開かん」彼は思はず再び、その手入れをした日の心持が激しく思ひ出された。彼は高く手を延べてその枝を捉へた。そこには嬰児えいじの爪ほど色あざやかな石竹色の軟かいとげがあつて、軽く枝を捉へた彼の手を軽く刺した。それは、甘える愛猫が彼の指を優しく噛む時ほどのかゆさを感じさせた。彼は枝をたわめてそれを己の身近くひき寄せた。その唯一つの花は、ああ! ちやうどアネモネの花ほど大きかつた。さうしてそれの八重の花びらは山桜のそれよりももつと小さかつた。それは庭前の花といふよりも、寧ろ路傍の花の如くであつた。而もその小さな、哀れな、畸形の花が、少年のくちびるよりも赤く、さうしてやはり薔薇特有の可憐な風情ふぜいと気品とを具へ、鼻を近づけるとそれがかをりさへ帯びて居るのを知つた時彼は言ひ知れぬ感に打たれた。悲しみにも似、喜びにも似て、何れとも分ち難い感情が、切なく彼にこみ上げたのである。それはあたかも、あの主人に信頼しきつて居る無智な犬の澄みきつた眼でぢつと見上げられた時の気持に似て、もつともつと激しかつた。たとへば、それはふとした好奇な出来心から親切を尽してやつて、今は既に全く忘れて居た小娘に、後に偶然にめぐり逢うて「わたしはあの時このかた、あなたの事ばかりを思ひつめて来ました」とでも言はれたやうな心持であつた。彼は一種不可思議な感激に身ぶるひさへ出て、思はず目をしばたたくと、目の前の赤い小さな薔薇は急にぼやけて、双の眼がしらからは、涙がわれ知らずにじみ出て居た。
 涙が出てしまふと感激は直ぐ過ぎ去つた。併し、彼はまだ花の枝を手にしたまま呆然と立ちつくした。頬は涙が乾いてこはばつて居た。彼はぢつと自分の心の方へ自分の目を向けた。さうして心のなかでいくつかの自分同士がする会話を、人ごとのやうに聞いて居た――。
「馬鹿な、俺はいい気持に詩人のやうに泣けて居る。花にか? 自分の空想にか?」
「ふふ。若い御隠居がこんな田舎で人間性にゑて御座る?」
「これあ、俺はひどいヒポコンデリヤだわい」

       *     *     *

 或る夜、庭の樹立がざわめいて、見ると、静かな雨が野面のづらを、丘を、樹を仄白ほのじろく煙らせて、それらの上にふりそそいで居た。しつとりと降りそそぐ初秋の雨は、草屋根の下では、その跫音あしおとしづくも聞えなかつた。ただ家のなかの空気をしめやかに、ランプの光をこまやかなものにした。さうして、それ等のなかにつつまれて端坐した彼に、或るかすかな心持、旅愁のやうな心持を抱かせた。さうして、その秋の雨自らも、遠くへ行く淋しい旅人のやうに、この村の上を通り過ぎて行くのであつた。彼は夜の雨戸をくりながらその白い雨の後姿を見入つた。
 そんな雨が二度三度と村を通り過ぎると、夕方の風を寒がつて、猫は彼の主人にすり寄つた。身のまはりには単衣ひとへものより持ち合せて居ない彼もふるへた。
 或る夕方から降りだした雨は、一晩明けても、二日経つても、三日経つても、なかなかやまなかつた。初めの内こそ、それらの雨に或る心持を寄せて楽しんで居た彼も、もうこの陰気な天候には飽き飽きした。それでも雨はだやまない。
 犬の体にはのみわいた。二匹の犬はいぢらしくも、互に、相手の背や尾のさきなどの蚤をとり合つて居た。彼は彼等のこの動作を優しい心情をもつてながめた。併し、それ等の犬の蚤が何時の間にか、彼にもうつつた。さうして毎晩蚤に苦しめられ出した。蚤は彼の体中をのそのそと無数の細い線になつて這ひまはつた。
 それに運動の不足のために、暫く忘れて居た慢性の胃病が、彼を先づ体から陰欝にした。それがやがて心を陰欝にした。毎日毎日の全く同じ食卓が、彼の食慾を不振にした。その毎日同一の食物が彼の血液を腐らせさうにして居ると、感じないでは居られなかつた。犬でさへももうそれには飽きて居た。ちよつと鼻のさきを彼等の皿の上に押しつけただけで、彼等さへ再び見向きもしなかつた。けれどもこれに就て、彼は彼の妻には何も言ふべきではなかつた。この村にある食ひ物とては、これきりだからである。
 彼の単衣ひとへへなへなにしとつて体にまつはりつき、彼の足のうらは脂汗のためにねちこちして、坐つて居る時にはその足の汗と変な温かさとが彼の尻に伝うて来て、蚤は好んでそこに集つて居た。頭の毛のなかにも蚤が居るやうな気がした。それをかうとすると、ひやりとしとつた生えるがままの毛髪は、堅くくしからんで、櫛は折れてしまつた。その蚤の巣のやうに感じられる体を洗つて、さつぱりするために、風呂に入りたいと思つても、彼の家には風呂桶はなかつた。近所の農家では、天気の日には毎日風呂を沸かしたけれども、野良仕事をしないこの頃の雨の日には、わざわざ水を汲んだりしてまで、風呂へ入る必要はないと、彼等は言つて居た。さうして農家では、朝から何にもせずに、何にも食はずに寝て居るといふ家族もあつた。
 猫は、毎日毎日外へ出て歩いて、濡れた体と泥だらけの足とで家中を横行した。そればかりか、この猫は或る日、蛙をくはへて家のなかへ運び込んでからは、寒さで動作ののろくなつて居る蛙を、毎日毎日、幾つも幾つも咥へて来た。妻はおほぎやうに叫び立てて逃げまはつた。いかに叱つても、猫はそれを運ぶことをやめなかつた。妻も叫び立てることをやめなかつた。生白い腹を見せて、蛙は座敷のなかで、よく死んで居た。猫は家のなかを荒野と同じやうに考へてゐる。さうして家のなかは荒野と全く同じであつた。
 或る日。彼の二疋の犬は、隣家の鶏を捕へて食つて居るところを、その家の作代に見つかつて、散々打たれて帰つて来た。その隣家へ、彼の妻がそれのびに行つたところが、円滑ゑんくわつな言葉といふものを学ばなかつた田舎大尽の老細君は、案外な不機嫌であつた。犬は以後一切つないで置いて貰ひたい。運動させなければならぬならば、どうせ遊んで居られる方ばかりだから自分達で連れて歩けばいい。庭のなかへ這入つては糞をしちらかす。田や畑は荒す。夜はえてやかましい。そのため子供が目をさます。その上につい一週間ほど前から卵を産み始めたばかりのいい鶏などを食はれてたまるものではない。まるで狼のやうな犬だ。し以後、庭のなかへ這入るやうな事があつたならば、遠慮はして居られないから打ちのめす、うちには外にも沢山たくさんの鶏があるのだから。と何か別の事でも非常に激昂げきかうして居るらしい心を、彼の犬の方へうつして、ヒステリカルな声で散々に吐鳴どなり立てた。その声が自分の家のなかで坐つて居る彼の耳にまで聞えて来た。この中老の婦人はこの犬どもの主人が、他の村人のやうに彼の女に対して尊敬を払はぬといつて、兼々非常に不愉快に思つて居たからであつた。最も奇妙なことには、彼の女は彼等夫婦が何も野良仕事をしないといふ事実に就ての彼の女自身の単純な解釈から、彼の女の新らしい隣人が何か非常に贅沢ぜいたくな生活でもして居るものと推察して居たものと見える。かういふわけで、発育盛りの若い二疋の犬は毎日鎖で繋がれねばならなかつた。彼は初めの数日は自分で自分の犬を運動に連れて行つた。二疋の犬を一人でくのは仲々むづかしかつた。それに傘をもささねばならなかつた。道は非常にぬかつて居た。どうせ遊んで居る閑人だ、運動なら自分で連れて歩け……と言つた言葉を思ひ出すと、彼は歩きながら悲しげに苦笑を洩した。若い大きな犬どもは五町や六町位の運動では、到底満足しなかつた。それに彼等は普通の道路をいとうて、そのなかへ足を踏み込むと露で股まで濡れる畦道あぜみちの方へ横溢した活気でもつて、その鎖を強く引つ張りながら、よろめく彼を引き込んで行つた。わけても闘犬の性質を持つた一疋は非常な力であつた。それらの様子を、隣家の老細君は家のなかから見て居さうに、彼は思つた。実際はそんな時もあつた。運動不足で癇癪かんしやくを起して居る犬どもは、繋がれながら、夕方になると、与へた飯を一口だけで見むきもせずに、ものにおびえて、淋しい長い声で何かを訴へて吠え立てた。その声が、雨のためにほの白く煙つた空間を伝うて、家の向側の丘の方へ伝つて行くと、その丘からはその声が重苦しい山彦になつて吠え返して来る。犬はそれを自分たち自身の声とは知らずに、再びより激しくそれへ吠え返した。それが再び山の方へひびき渡る。かうしていつまでも犬の遠吠えはやまない。犬をなだめてやらうとして、彼等の名を呼んでも、もうおびえきつて居る犬どもは、彼等の主人をさへ怖しがつて尻込みした。仕方なしにそのまま犬を吠えさせて置くと、そのけたたましいやるせない声は、彼の心の底へ沁み込みそれを震動させて、ちやうど胸騒ぎする時の心臓のやうに彼の胸を圧しつけるのであつた。犬はかうした夕方毎に一しきり物凄ものすごく長鳴きをした。或る時には犬のその声を聞いて、例の隣の大尽の家からは「ほんとうになんといふうるさい犬だらう」と、大きな声で子供が吐鳴どなるやうなこともあつた。彼は例の老細君が、自分の娘にさう言はせて居るのだと気がついて、この度し難い女にごふを煮やした。猫の方は猫で、相変らず蛙をくはへて来て、のつそりと泥だらけの足で夕闇の座敷をうろついて居た。彼は時にはそれらの猫を強く蹴り飛ばした。連日の雨にしめつて燃えなくなつて居る薪の煙が、風の具合で、意地わるく毎日座敷の方へばかり這入り込んで来て天井一面に重くのさばつた。
 昼間の犬のおとなしい時には、例の隣家の大尽の家では、卵を生んだ鶏が何羽も何羽も、人のかんをそそり尽さねばかないやうな声で、けけけけと一時間もそれ以上も鳴きつづけた。或る日、それらの一羽が、彼の家へ紛れ込んで来たが、犬どもの繋がれて居るのを見ると、したりげに後から後から群をなして彼の庭へ闖入ちんにふした。さうして犬の食ひちらした飯粒を悠然と拾ひ初めた。犬は腹を立てて追ふ。鶏はちよつと身を引く。腹を立てた犬は吠え立てたけれども鶏の一群は別におどろかなかつた。その一群の闖入者を追ひ払はうとして走り出した犬には、鎖が頸玉くびつたまをしつかりとおさへて居た。あせればあせるだけ彼自身の喉が締めつけられるだけであつた。遂には彼等同士の二つの鎖が互の身動きも出来ない程にからみ合つて居たりする。さうしてそれを訴へて吠える。彼は雨のなかへ下りて行つて、どうもつれて居るか解らない鎖を直してやらうとする。犬どもは喜んで泥だらけの足を彼の胸のあたりへ押しつける。犬どもがぢつとして居ないために、鎖は更に複雑に縺れ合つて行く。苛立いらだたしくもどうしても解けない。たうとう犬は悲鳴をあげる。一度追はれた鶏は、その間に再び平気で縁側へさへ上つて来て、そこへ汚水のやうな糞をしたりした。手を拡げて追ふと、彼等はさも仰々しく叫び立てた。彼等はちやうど、あの意地わるの女主人に言附かつて、彼を揶揄やゆするために来たかとさへ思はれた。その女主人は、墻根かきねの向うからそれらの光景を見て居ながら、わざと気のつかぬふりをして居る。彼の妻はそれを見ると、何かあてつけらしく鶏を罵りさうにするのを彼は制止した。彼はそんな事をしては悪いと思つて居るよりも、臆病と卑屈とから、それすらも出来ないのであつた。さうして内心は妻よりより以上に憤慨して居るのである。別の隣家の小汚い女の子が二人、別に嬰児あかごまで負うて、雨で遊び場がないので、猫よりももつと汚い足と着物とで彼の家へ押込んで来た。背中の嬰児が泣く。さうして三人ともそれぞれに何を見ても欲しがる。お桑といふ名の十三になるといふ一番上の児は、もうすでに女特有の性質を発揮して、彼の妻を相手に、隣の大尽の家の悪口やら、いろいろの世間話を口やかましく聞かせて居た。それ等の児は時々彼等が風呂を貰つて這入る家の子なので、その子を追ひ立てることは出来にくいと妻は言つた。その実、彼の妻はそんな子供をでも話相手に欲しかつたのである。それでも、さすが彼の妻もうるさいと思ふ時もあると見える。「もううちへお帰り」といふと、その子供は口々に「いやだあ、うちでは皆てゐるだ、戸たてて。まつ暗だもの。下のうちで遊んで来うと言つたべし」と言ふのであつた。「下のうち」といふのは彼の家を指すのである。犬や猫ばかりでない、確にこの子供達が一層沢山に蚤を負うて来るに違ひない、と彼は考へた。彼はいらいらしながらも、よその人とさへ言へばこんな子供にまで小さくなつて、小言一つ言へない性質であつた。さうしてそんなことには無神経なほど無頓着むとんちやくな彼の妻が、その子供たちに雨降りのなかを、お豆腐を買つて来いの、お砂糖がなくなつたのと言つては、あまりしげしげ用事に使ふのを見ると、彼は反つてはらはらして、妻を叱り飛ばした。
 その子供達の家へ風呂を貰ひに行くと、七十位の盲目で耳の遠い老婆が、風呂釜の下を燃してくれながら、いろいろと東京の話を聞きたがつた。東京の話ではない江戸の話である。この老婆は「煙のやうな昔」(とそのツルゲニェフのやうな言葉をその老婆自身が言つた)娘のころに、江戸の某様の御屋敷で御奉公したとかで、御維新の騒ぎで殿様が甲府の町奉行まちぶぎやうになるところが駄目になつた話やら、その年は実に悪い年で山王様の御祭が満足に出来なかつたことやらを、とぎれとぎれに語り出して、さてまだ眼の見えた昔に見た江戸の質問を彼にするのであつた。維新で田舎へ帰つたと言ひながら、その維新とはどんなものであるかは知らないのであつた。「その時にはどんな世の中に変ることかと思つたのに、昔とちつとも変りはしない。こんなことなら、何もあんな大騒ぎすることもなかつたのに……」とそんなことをつぶやいた。さうして電車が通つて居たり、公園があつたりする東京といふものの概念は何一つ持つて居なかつた。彼には答へるすべもないその江戸の質問を、くどくどと尋ねるのであつた。さて彼が「江戸」の事は不案内だと気がつくと、彼の女の娘時代のその家の全盛、今の主人である息子の馬鹿さ、身上しんしやうも持てないくせにけちんばうで御近所へのつき合ひもろくに出来ないこと、それから思ひ出して子供が毎度遊びに行つて御邪魔するといふやうなこと、あなたの商売は何だといふ質問、実に実に平凡なことどもを長々と聞かせて、それに対してそれと同等に長々しい返答を要求するのであつた。それでなくてさへ口不調法くちぶてふはふな彼には、返事の仕方が解らなかつた。それにこの老婆は答へても何も聞えぬだらうほど耳が遠かつた。「俺にはそんな話は面白くないのだ! ひとのことなどはどうでもいいのだ!」彼はさう叫んでやりたくなつた。この老婆のくどい話は結局、何のことであるかは解らなかつたけれども、彼の気持をじめじめさせるには、何しろ十分すぎた。しかもそれの相手になつてくれと懇願する表情(それは半ばは死んで居て、犬のそれの半分も豊かではない)をもつて、この老婆は五十六の時に全く失明したと、今のさつきも物語つたその両眼で、彼を見上げた。見つめた。風呂釜の火が一しきりゆらゆらと燃え上つて、ふと、この腰の全く曲つて居る老婆を照すと、片手に長い薪を持つた老婆は、広い農家の大きな物置場の暗闇の背景からくつきり浮き上つて、何かのろひを呟く妖婆えうばのやうにも見えた。
 その風呂場を脱れ出てくると、さすがに夜風がさわやかに、彼の湯上りの肌を撫でた。併し家へ帰つて見ると、彼の妻はホヤのすすけた吊りランプの影で、里の母からでも来たらしい手紙を読んで居たが、彼には見せたくないらしく、にはかにそれを長々と巻き納めると、不興極まる顔をして、その吐息を彼に吹きかけでもするかのやうに彼をまともに見上げて、涙で光らせたひとみで彼を見上げた。それは何か威嚇ゐかくするやうにも見え、哀願するやうにも見えた。その手紙を、彼は読まずとも知つてゐる。彼にはつまらぬ事であつて、彼の女達には重大な何事かであらう。彼の女等は互に彼の女等の苦しい困窮を訴へ合つて居るのであらう……彼の家には、もう一人泣きに来る女があつた。それはお絹といふ名の四十近い女であつた。彼等がこの家へ引越して来る時に、この家へ案内し、引越しの手伝ひをしたあの女である。その因縁いんねんで、その後、彼の家庭へ時々出入りするやうになつた女である。彼の女は身の上ばなしを初めてはよく泣いた。お絹はいろいろな生涯しやうがいを経てこの村へ流れて来た女であつた。最初にたつた一度、もの珍らしさからついこの女の上咄うへばなしに耳を傾けたのが原因で、お絹はその後いつもいつも一つの話を繰り返した。彼はしまひにはお絹の顔を見ると腹立たしくなつた。もつとも不思議なことには、彼はお絹の顔さへ見れば胃のあたりが鈍痛し初めるのであつた……。
 床の下では、犬が蚤にせめ立てられて、それを追ふために身を揺すぶると、その度にゆれる鎖の音が、がちやがちやと彼に聞えて来た。彼はお絹の身の上ばなしよりも、蚤に悩まされて居る犬の方に、より多くの同情を持つた。さうして彼は自分自身の背中にも、脇腹にも、えりにも、頭の毛のなかにも、蚤が無数にうごめき出すのを感じた……。
 せめては早く雨だけでも晴れてくれないものかと、彼は毎日夕方になると空を見上げた。彼は何故か夕方に空を見上げた。さうして星でも出ては居ないかと、空を見まはした。星どころか、野面のづらは白く煙つて、空はただ無限に重かつた。
 些細な単調な出来事のコンビネエションや、パアミテエションが、毎日単調に繰り返された。それらがひとたび彼の体や心の具合に結びつくと、それはことごとく憂欝な厭世的なものにかはつた。雨は何時まででも降りやまない。それは今日でもう幾日になるか、五日であるか、十日であるか、二週間であるか、それとも一週間であるか、彼はそれを知らない。唯もうどの日も、どの日も、区別の無い、単調な、重苦しい、長々しい幾日かであつた。牢獄のなかで人はかういふ幾日かを送るであらうか? おお! うだ。日蔭になつて、五月になつても、八月の半頃になつても青い葉一枚とてはなく、ただ茎ばかりが蔓草のやうにいたづらによろめいて延びて居た、この家の井戸端のあの薔薇の木の生活だ。彼は再び薔薇のことを考へた。考へたばかりではない。あの日かげの薔薇の憂悶いうもんを今は生活そのものをもつて考へるのである、こんな日毎の机の前に坐り込んだまま。
 薔薇といへば、その薔薇は、何時かあの涙ぐましい――事実、彼に涙を流させた畸形な花を一つ咲かせてから、日ましによい花を咲かせて、咲き誇らせて居たのに、花はまたこの頃の長い長い雨に、花片はことごとく紙片のやうによれよれになつて、濡れに濡れて砕けて居た。砕けて咲いた。

       *     *     *

 こんな日頃に、ただ深夜ばかりが、彼に慰安と落着きとを与へた。鶏の居ない夜だけ、鎖から放して置くことにした犬が、今ごろ、田のあぜをでも元気よく跳びまはつて居るかと想像することが、寝牀ねどこのなかで彼をのびのびした気持にした。
 併し或る夜であつた。家の外から彼の家をぶものがあつた。未だ机の前に坐りこんで、考へにおさへつけられて居た彼は、縁側の戸を開けて見ると、一人の黒い男が、生垣とみぞとの向うの道の上に立つて居た。さうしてその何者かが彼に向つて、横柄に呼びかけた。巡査かも知れない、と彼は思つた。
「これやあ君の家の犬だらう」
「さうだ。何故なぜだい」
「これやあ、こはくつて通れんわい」
 その村位、犬を恐怖する村は、先づ世界中にないと、彼は思つた。この附近には、狂犬が非常に多いからだと村の一人が説明して居た。それに彼の犬の一疋は純粋の日本犬であつた。
「大丈夫だよ。形は怖いが、おとなしい犬だから」
「何が大丈夫だい。怖くつて通れもしない」
「狂犬ぢやないよ。吠えもしないぢやないか」
「飼つて居る者はさうでも、飼はんものにはおつかない。ちよつと出て来て、繋いだらどうだい」
 この何者かの非常に横柄な口調は、其奴そいつが闇で覆面して居るからだと思ふと、彼は非常にいきどほろしかつた。彼はいきなり其処にあつた杖をとると、傘もささずに道の方へ飛び出した。雨はぬかほどより降つて居ない。その知らない男は、何かまだぐづぐづ言つて居た。さうしてどうしてもこの犬を繋げ、それでなければ俺は通れぬ、と言ひ張つた。可笑をかしいほど犬を恐れ乍ら、可笑しいほど一人で威張つて居た。「これは優しい犬だ、未だ子供だから人懐しがつて通る人の傍へ行くのだ」と彼は犬のために弁護した。彼にとつては、今、犬は無辜むこの民である。その男は暴君である。彼自身は義民であつた。その男の言ふことが一々理不尽に思へた彼は、果は大声でその男を罵つた。彼の妻は何事かと縁側へ出て来たが、この様子を見ると彼の女は、暗のなかの通行人に向つてしきりにびて居た。彼にはそれが又腹立たしかつた。
「黙つて居ろ。卑屈な奴だ、あやまる事はない。犬が悪いのぢやないぞ。この男が臆病なんだ。子供や泥棒ぢやあるまいし……」
「何、泥棒だと」
「お前が泥棒だと言やしないよ。音無しく尾を振つて居る犬をそんなに怖がる奴は泥棒見たいだと言つただけだ」
 彼は、しまひには、その男をなぐりつけるつもりであつた。彼等は五六間をへだてて口争ひして居た。其処へ、見知らない男の後から一つの提灯ちやうちんが来た。それがその男に向つて何か言つて居たが、提灯は彼の方へ近づいて来た。奴等は棒組だな、と彼は即座にさう思つた。し傍へ来て何か言つたら、と彼は杖をとり直して身構へした。
「どうぞ堪忍かんにんしてやつて下さいましよ。親爺おやぢやお酒をくらつて居るんでさ」
 その提灯の男は、反つて彼に謝つて居たのだ。彼は相手が酔つぱらひであつたと知れると、急に自分が馬鹿げて来た。併し、彼は笑へもしなかつた。その時或る説明しがたい心持で、身構へてにぎつて居た自分の杖をふり上げると、自分の前で何事も知らずに尾を振つてゐる自分の犬を、彼はしたたかに打ち下した。犬は不意を打たれて、けん、けん、と叫びながら家のなかへ逃げ込む。打たれない犬もつづいて逃げ込む。彼は呆然ばうぜんとそこに立つて居たが、舌打をして、その杖をみぞのなかへたたきつけると、すたすたと家へ這入つて行つた。犬は二疋とも床下深く身をかくして居た。さうして庭に這入つて来た彼を見た時、彼等は細い悲しい声を上げて、彼等の訴へを吠えた。杖を捨てても未だ握つて居た彼のてのひらは、ねちこちと汗ばんで居た。
「今に見ろ。村の者を集めてあの犬を打殺してやらあ!」酔つぱらひはそんな事を言ひながら、提灯をもつた若い男に連れられて通り去つた。
 酔つぱらひのその捨白すてぜりふが、その晩から、彼には非常な心配の種になつた。村の者が、実際、彼の犬を打殺しはしないかと考へられ出すと、身の上話で泣いて居たあの太つちよの女が、いつか彼に告げた言葉も思ひ出された――「この村では冬になると犬を殺して食ひますよ。御用心なさい、御宅のは若くつて太つて居るから丁度いいなんて、冗談じようだんでせうがそんな事をいつて居ましたよ」
 捨てて仕舞つた杖は、思へば思ふほど、彼には非常に惜しいものであつた。それは唐草からくさ模様の花の彫刻をした銀の握のある杖であつた。別段それほど惜しむに足りるものではないのに、それが彼には不思議なほど惜しまれた。その翌日は、彼は犬を運動させるやうなふりをして、その杖をさがす為めに、みぞの流れに沿うた道を十町以上も下つて見た。あの清らかであつた渠の水は、毎日の雨でいたづらに濁り立つて居た。杖は何処にも見出されなかつた。彼はあんな風にして杖を無くした事を、妻には内所ないしよにして居るのであつた。全くづかしい事だつたので。
 杖と酔漢の捨白とが、彼自身でさへ時々は可笑をかしいばかり気にかかる。一層、あの時あの男をなぐりつけてやればよかつたに――彼は寝床のなかで、口惜しくてならない時もあつた……若しや犬がいぢめられて居はしないかと、それを夜中放して置くことが苦労になり出した。気を苛立いらだてながら聞耳をそば立てると、犬の悲鳴がする。大急ぎで縁側へ出て戸を開けながら口笛を吹くと、犬は直ぐ何処かから帰つて来る。さうして鳴いて居るのは外の犬であつた。併し、口笛を吹いても名を呼んでも容易に帰つて来ない事がある。さうして一層けたたましく吠えつづける。そんな時には居ても立つても居られない。彼の妻は、あれはうちの犬ではないとか、犬は別に何処でも鳴いては居ないとか言つて、初めは彼を相手にはしなかつたけれども、彼があまりやかましくいふので、この妄想は、何時しか妻の方にまで感染した。彼等はのろはれてゐる者のやうに戦々兢々せんせんきようきようとして居た。その上に、ランプの焔がどうした具合か、毎夜、ぽつぽつ小止をやみなく揺れて、どこをどう直して見ても直らなかつた。彼は自分の不安な心を見るやうにランプの揺れるしんを凝視して、かん苛立いらだてて居た。或る夜、ただ事でない犬の鳴声がするので、庭に出て見ると、レオはさも急を告げるらしい様子で彼を見て吠え立てる。遠くの方ではフラテ? の悲鳴が切なく聞えて来る。彼はレオの後に従ひながら、悲鳴をたよりに、フラテ! フラテ! と叫びながら、それの居所を捜し求めるのであつた。やがて帰つて来たフラテを見ると、顔の半面と体とが泥だらけであつた。フラテは泥の上にすりつけられて折檻せつかんされて居たのであらう。何処からか凱歌のやうに人の笑声が聞えて来る……。その夜以来、犬は夜中のただ一二時間だけ放して置いてから、又再び繋ぐことにした。且又、それの鎖の場所を玄関の土間のなかへ変へた――素通りの出来る庭の隅では、たとひ繋いで置いても不用心だからである。しかし繋がれるために呼ばれるのだと知ると犬は呼んでもなかなか帰つて来なかつた。帰つて来ても、主人たちの顔つきを見ながら、庭の中を逃げ廻つてなかなか捉へられなかつた。そこで食物を与へて釣つて見ても鎖の傍へならば寄りつかなかつた。闘犬の子でたくましい足と、太い牙とを持つてゐるフラテは、或る夜自分の鎖を真中から食切つて、四辺あたりの壁から脱けるためには床下の土に大きな穴を開け、大きな体をそこからもぐり出すと、鎖の半分は頸にぶらさげて泥濘でいねいの地上にそれをきながら、夜中楽しく遊びまはつて居た。それを主人に知らせるために、さうして自分も解放されたいために、レオは激しく鳴き叫んだ。
 彼は、犬に対する夜中の心配を昼間に考へ直すことがあつたが、これはどうも一種の強迫観念だと気づかずには居られなかつた。犬だつて自分の力で自分を保護することは知つて居るだらう……。さうして、たわいもない犬のことなどをばかり考へて居る自分が、恥しくも情けなかつた。けれども夜になると、やはり「俺の犬は盗まれる。殺される! きつとだ!」今では、犬は彼にとつてはただ犬ではなかつた――何か或る象徴であつた。愛するといふ事は実にそれで苦しむといふ事であつた。杖のこともなかなか忘れられなかつた。犬の心配のない時には、銀金具の握のある杖が、その金具の重みのために頭の方だけ少し沈みながら、濁つたみぞのなかを、流れのまにまに浮いたり沈んだりして、何処かを、さうしてはてしのない遠い何処かへ持つて行かれるために流れて行くところを、彼はしばしば寝床のなかで空想して居た。

       *     *     *

 雨は、一日小降りになつたかと思ふと、その次の日には前よりも一層ひどく降る。さて、その次の日にはまた小降りになる。併し、その次の次の日にはまた降りしきる……。この間歇かんけつ的な雨は何時まででも降る……。幾日でも、幾日でも降る……。彼の心身を腐らせようとして降る……。世界そのものを腐らせようとして降る。
何もかも腐れ……、
  腐るなら腐れ……、
勝手に腐れ……、
  腐れ腐れ……、
お前の頭が……、
  まつさきに腐れ……、
……………………、
  ……………………、
…………………、
  ………………、
…………………、
  ………………………、
 声のないコーラスは家の外から、四方から来て、彼の家のなか一ぱいにうすら寒く、うす暗く漂うて、見てゐると雨の脚はさういふリズムで降る。北の窓の方を見ても、南の窓の方を見ても、その物憂いリズムの無限の度数を繰り返し、繰り返して降る……。何日になつたならば止まうといふ希望なしで降る……。

       *     *     *

 ここに一つの丘があつた。
 彼の家の縁側から見るとき、庭の松の枝と桜の枝とは互に両方から突き出して交り合つて、そこに穹窿形きゆうりゆうけいの空間が出来て、その樹と樹との枝と葉とが形作るアアチ形の曲線は、生垣の頭の真直ぐな直線で下から受け支へられて居た。言はばそれらが緑の枠をつくつて居た。額縁がくぶちであつた。さうしてその額縁の空間のずつと底から、その丘は、程遠くの方に見えるのであつた。
 彼は、何時初めてこの丘を見出したのであらう? とにかく、この丘が彼の目をひいた。さうして彼はこの丘を非常に好きになつて居た。長い陰気なこのごろの雨の日の毎日毎日に、彼の沈んだ心のまどである彼のひとみを、人生の憂悶いうもんからそむけて外側の方へ向ける度毎に、彼の瞳に映つて来るのはその丘であつた。
 その丘は、わけても、彼の庭の樹々の枝と葉とが形作つたあの穹窿形の額縁を通して見る時に、自づと一つの別天地のやうな趣があつた。ちやうどいいくらゐに程遠くで、さうして現実よりは夢幻的で、夢幻よりは現実的で、その上雨の濃淡によつて、或る時にはそれが彼の方へやや近づいて、或る時にはずつと遠退とほのいて感じられた。或る時にはすりガラスを透して見るやうにほのかであつた。
 その丘はどこか女の脇腹の感じに似て居た。のんびりとした感情を持つてうねつてゐる優雅な、思ひ思ひの方向へ走つてゐる無数の曲線が、せり上つて、せり持ちになつて出来上つた一つの立体形であつた。さうして、あの緑色の額縁のなかへきちんと収まつて、たとへば、最も放胆に開展しながらも、発端と大団円とがしつくりと照応できる物語のやうに、その景色は美しくも、少しの無理も無く、その上にせせつこましく無しにまとまつて居た。それはどこかに古代希臘ギリシヤの彫刻にあるとはれてゐる沈静な、しかも活き活きとした美をゆつたりと湛へて居た。それは気高い愛嬌あいけうのある微笑をもつた女の口の端にも似て居た。丘の頂には雑木林があつて、その木は何れも手の指を空に向けて開けたやうに枝を張つて居て、彼の立つてゐる場所から一寸か五寸ぐらゐに見える――或る時には一寸ぐらゐに、さうして或る時には五寸ぐらゐに感じられて見える。短い頭髪のやうに揃うて立つてゐる林は、裸の丘を額にしてそれの頂だけに、美しい生え際をして生えて見える。それらの林と空とが接する境目にはごく微細な凹凸があつて、それが味ひ尽せないリズムを持つて居る。それの少しばかり不足してゐるかと思へるところには、その林の主である家の草屋根が一つ、それの単調を補うて居る。さうして、その豊かにもち上つた緑の天鵞絨びろうどのやうな横腹には、数百本の縦の筋が、互に規則的な距離をへだてて、平行に、その丘の斜面の表面を、上から下の方へ弓形に滑りおりて、くつきりとした大名縞だいみやうじまを描き出して居た。それは緑色の縞瑪瑙しまめなうの切断面である。それは多分、杉か檜か何かの苗床なへどこであるからであらう。だがそんなことはどうでもいい。唯、この丘をかくまでに絵画的に、装飾風に見せて居るのには、この自然のなかの些細ささいな人工性が、期せずして、それの為めに最も著しい効果を添へ与へて居るのであつた、ちやうど林のなかに家の屋根が見えて居ると同じやうに。さうして、この場合どこからどこまでが自然その儘のもので、どこが人間の造つたものであるかは、もう区別出来ないことである。自然の上に働いた人間の労作が、自然のなかへ工合よく溶け入つてしまつて居る。何といふ美しさであらう! それは見て居て、優しく懐しかつた。おれの住みたい芸術の世界はあんなところなのだが……
「何をそんなに見つめていらつしやるの?」
 彼の妻が彼に尋ねる。
「うん。あの丘だよ。あの丘なのだがね」
「あれがどうしたの?」
「どうもしない……綺麗ぢやないか。何とも言へない……」
「さうね。何だか着物のやうだわ」
 この丘は渋い好みの御召の着物を着て居ると、彼の妻は思つて居る。
 それは緑色ばかりで描かれた単色画であつた。しかしこのモノクロオムは、すべての優秀なそれと全く同じやうに、ほとんど無限な色彩をその単色のなかに含ませて居た。さうして見て居れば見て居るほど、それの豊富が湧き出した。一見ただ緑色の一かたまりであつて、しかもそれは部分部分に応じて千差万別の緑色であつた。さうしてそれが動かし難い一つの色調を織り出して居た。たとへば一つの緑玉が、ただそれ自身の緑色を基調にして、併し、それの磨かれた一つ一つの面に応じて、各相異つた色と効果とを生み出して居る有様にも似て居た。
 彼の瞳は、常に喜んでその丘の上で休息をして居る。
「透明な心を! 透明な心を!」
 その丘は、彼の瞳にむかつて、さうものを言ひかけた。
 或る日。その日は前夜からぱつたり雨が止んで、その日も朝からうすぐもりであつた。やがて正午ひる前には、雲ににじんで太陽の形さへ、かすかながら空の奥底から卵色に見え出した。
 彼の妻は、秋の着物の用意に言寄ことよせて、東京へ行つて来ようと言ひ出した。彼の女は空の天気を案ずるよりも、夫の天気の変らないうちにと、早い昼飯をすませると、毎夜のあこがれである東京へ、あたふたと出かけた。心は恐らく体よりも三時間も早く東京に着いたに相違ない。
 彼は、唯ひとりぼんやりと、縁側に立つて、見るともなしに、日頃の目のやり場であるあの丘を眺めて居た。その時その丘は、何となく全体の趣が常とは違つて居ることに彼は気づいた。それはどうもただ天気の光だけではないのである。けれどもその原因は少しも解らなかつた。と見かう見して居るうちに、彼はやつと思ひ出して、机のひき出しから眼鏡をさがし出した。彼は可なりひどい近眼でありながら、近頃は折々、眼鏡をかけることさへ忘れて居るのであつた。何ごともしない近頃の彼には眼鏡も殆ど用が無くなつて居たから。さうして、つい眼鏡をかけずに居ることが、彼を一層神経衰弱にさせて居ることにも気づかずに。眼鏡をかけて見ると、天地は全く別箇のものに見え出した。今日は天地の間に何かよろこびのやうなものを見ることが出来た。空が明るいからである。丘ははつきりと見えた。なる程。丘はいつもとは違つて見える――丘の雑木林の上には烏が群れて居た。うすれ日を上から浴びて、丘の横腹は、その凸凹がぎ出されたやうな丸味を見せて、なめらかに緑金に光つて居る。苗木の畑である数百本の立縞――なる程、違つて居るのは其処だ。その立縞の縞と縞との間の地面をよく見ると、その左の方の一角をかなめにして、上に開いた扇形に、三角形に、何時もの地面の緑色が、どういふわけか、黒い紫色に変つて居るのである。はて! 何時の間にこんなに変つたのであらう? 何のために変つたのであらう? 彼は、実に不思議でならない気持がした。彼は世にも珍らしい大事が突発したかのやうに、しばらくその丘の上を凝視した。その丘は、彼には或るフェアリイ・ランドのやうに思はれた。美しく、小さく、さうして今日はその上にも不可思議をさへ持つて居るではないか。
 かうして暫く見つづけて居ると、その丘の表面の紫色と緑色との境目のところが、ひとりでにむくむくと持ち上つて、その紫色の領分が、自然と少しづつ延び拡がつて行くやうであつた。なほも、瞳を見据ゑると――さうすると眉と眉との間が少し痛かつたが――其処には、小さな小さな一寸法師が居て、腰をかがめては蠢動しゆんどうしながら、せつせとその緑色を収穫して居るのであつた。あの苗木と苗木との列の間に、農夫が何かを作つて置いて居たのであらう。併し、見た目には、その農作物が刈りとられて居るといふよりも、紫色の土が今むくむくと持ち上つてくるとしか、彼の目には感じられなかつた。
 彼は不可思議な遠眼鏡の底を覗いて、その中にフェアリイ・ランドのフェアリイが仕事をして居るのをでも見るやうに、この小さな丘に或る超越的な心持を起しながら、ちやうど子供が百色眼鏡を覗き込んだやうに、じろぎもしない憧れの心持で眺め入つた。彼はたうとう煙草盆と座布団とを縁側まで持ち出して、このひとりでに持ち上る土の紫色を飽かず凝視した。紫色の土は湧くやうに持ち上る。あとからあとから持ち上る。紫色の領土が、緑色の領土を見る見る片はじから侵略して行く。と、うすれ日はだんだんと明るくなつて来る。不意に、夕日の光が、少しづつ晴れて来た西の方の雲の細い隙間から一かたまりに流れほとばしつて、丘の上に当つた。丘は舞ふやうな光線のなかに急に輝き出す。その丘の上へ色彩のあるフウトライトが投げられたかのやうに。丘の上ではフェアリイも、雑木林も、永い濃い影を地に曳いた。さうしてフェアリイ・ランドの風景は、一層くつきりと浮き上つた。今もち上つたばかりの紫色の土はオルガンの最も低い音色のやうな声をして、何か一斉に叫び出しさうに見える。丘の頂の林のなかの草屋根は滑らかなものになつて、そのなかから濃い白い煙が、縷々るると、ちやうど香炉の煙のやうに、一すぢに立ち昇つた。さうして、彼は今、うつとりとなつてフェアリイ・ランドの王であつた。
 その天地の栄光は、自然それ自身の恍惚くわうこつは、一瞬時の夢のやうに、夕日が雲にかくれた時に消えた。夕日は、雲から、次には一層黒い雲と遠い地平の果の連山の方へ落ち込んで行つた。あの細い雲の隙間のところに、明るいかがやかな光の名残を残して。
 気がついて見ると、丘はもうすつかり紫色に変つて居る……フェアリイの仕事が終つたからだ……。見とれて居るうちに、あたりは何時しかとつぷりと暗くなつて居た。それでも彼の瞳のなかには、フェアリイ・ランドの丘だけが、依然として、闇のなかにくつきりと見えるやうに思ふ。
 やがて、いつまでも見えるやうに思つてゐた丘も見えなくなつた……。

       *     *     *

 彼が我にかへつて、もうフェアリイ・ランドの王ではなかつた時、闇は、遠い野や山の方から押し寄せて来て、それが部屋といふ部屋中へもうぎつしりとつめ込まれて居た。彼の身のまはりは全く暗黒であつた。彼は先づランプへ灯をともさなければと、煙草盆にあつたマッチを擦つた。さうして家中到る処でマッチを擦つた。ランプのありかを求めさがす為めであつた。けれども何処に置かれて居るのやら、それはどうしても見つからなかつた。
 一たい、この頃彼にはそんなことが実によくあつた。ランプなどといふそれ程大きなものではないにしても、その代りには今のさつきまで自分の手のなかに在つたもの、さうして使つて居たもの、例へばペンであるとか、煙管きせるであるとか、はしであるとか、そんな風なものが、不意にどこかへ見えなくなるのである。さうして一時姿をくらまして居たそれらの品物は、後になつて思ひも寄らないやうな、その癖考へればごく当りまへな場所から、或はその時に注意深く捜した筈だと思へる馬鹿げた場所から、ひよつくりと出て来る。併し、捜す時には、実に意地悪く決してそれは姿を現さない。さう言ふ事は誰にもよくある事である。併し、この頃彼に起つた程それほどしばしばは、決して誰にも起るものではない。彼にはこの頃そんな事が一日に少くとも二三度は必ずあつた。そのふとした事が、彼にその都度どんなにか重大に見えたであらう。実に不可解な、神秘とさへ考へたいやうな、寧ろフェイタルとも言ひたい程な出来事だ、とさへ彼には感じられるのであつた。誰か目には見えない何者かが居て、その間ちよつとその品物をかくして居るといふ風にも思へた。さうして彼の持ちものが、かうして毎日二三品づつ位、身のまはりからひよつくり消え失せでもするやうに彼には感じられるのであつた。それゆゑランプの時にも、「又あれだな」と思ひながら、彼はもうそれを捜すことを一先づ断念することにした。それは、妙に、断念すればする程早く出て来るやうだから。彼はそこで気がついて、箪笥たんすの上から手さぐりに燭台をとり下した。それへ陰気な、赤い、揺れる火をともした。
 その夜のやうな時に、そんな田舎ゐなかで、しかもただひとりで居て、四方を未だ戸締りして居ない家が、彼を薄気味悪くした。――何とも知れない変な、それは泥棒などといふ素性すじやうの知れたものではない別種の侵入者、それは結局正体のない侵入者、それを自由自在に出入するに任せて居るやうな気がするのであつた。戸袋といふものはそれの性質上、家の隅々にあつた。生れつき最も臆病な、その上更にこの頃ではそれの程度が、神経質な子供以外の普通の人間には到底同情、どころではない理解もされさうも無い程にまでなつて居た彼には、家の隅といふやうな場所さへ不安なところに思へるには十分であつた。彼がそこに立つて一枚一枚と戸をつて行くと、戸の走るその音が、野面の方へ重く這つて行つて、そこで空虚に反響して居た。その音におびえたのであらうか、今までは音無しく睡入ねいつて居たらしい彼の二疋の犬は、その時床の下からほの白く出て来るや否や、又いつものあの夕方の遠吠えを初めた……。十枚くらゐもあるその縁側の戸を締めてしまつて、もう一つ反対の側にある短い縁側の戸を締めようと、通抜けに六畳の座敷へ彼が足を踏み入れた時である。そこの床の間に、ちよこんと立つて居た! ランプが。今まであれ程捜して、ここだつて念入りに捜した筈の場所ではないか! いつものやうな小さなものででもあらう事か、こんな大きなものが。……さう思ふと、彼は全く恐怖に近い或る感じがした……これや、このランプにはうつかり手はつけられない。それを持たうと何の気もなしに手を差し延した刹那せつな、それが自分の目の前で、ふいとまた見えなくなりでもするとしたならば……彼には、そんな事が想像された。その想像を馬鹿ばかしいと自制しながら、彼は思ひ切つてランプへ手を差し出した。ランプはいい工合に本ものであつた。
 ランプへ灯をともして、戸を締めてしまつて、火鉢の前に来た時、彼の気がついたのは、お茶を飲まうにも湯がなかつた。炭は真白な灰になり、昼間にはたぎり立つてうなりつづけて居た鉄瓶は、それのなかの水と一緒に冷えきつて居た。それも当然の事である。彼の妻が十一時ごろに出かけて行つた時、それを生けて置いたままで、彼はそれつきり炭をがなかつたのだから。炭などは愚か、彼にはあのフェアリイ・ランドの丘以外には、世界に何も――自分自身でさへも無かつたのだから。……いい按排あんばいにそれの遠吠えは今日は案外短くて済んだと思つた犬は、今度は二疋で、くんくんと鼻を鳴らし出して居た。これは彼等の夕飯の催促なのであつた。空腹なのは彼等と猫とばかりではない。彼自身も先刻からの、妙に胸さわぎのするやうなその臆病な気持も、うすら寒いのも、一つは確にそれのせゐに相違ないと考へた程に空腹なのであつた。併し、夕飯を食べるにしては、今夜はづ飯をかなければならなかつた――不意に東京へ行くと言ひ出した彼の妻は、汽車の時間の都合でそれの用意はして置けない、と、くどくどと言ひ訳をして、停車場への行きがけにそれをお絹に頼んで行かうと言つた。けれども、昨夜もお絹の身の上話のもう十遍目位も聞かせられて悩まされて居た彼は、妻には米を洗はせて、水をしかけさせて、自分自身でくことにして居た。火のない火鉢の前に坐り込んで、彼は一晩ぐらゐ飯などは食はなくともいいと思つた。けれども、かうして犬どもにせがまれて、この常にうゑに襲はれて居る者どもの空腹を想像して見た時、彼は飯を炊かずには居られなかつた。この頃ではもううつかりして居るうちに日が暮れるのだから、早く用意をして置かなければ……と、さうも言ひ置いた妻の言葉を、彼は思ひ出しながら、自分を台所の方へ運んで行つた。
 彼は犬を鎖から放してやつて、それを台所の方へ呼んで来た。うす暗い隅々の多い台所は、彼ひとりではもの淋しかつたからである。犬どもは彼等の主人の心持をよく知つて居たかのやうに、土間にしやがんでゐる彼の傍へ来て、フラテも、レオも、二疋とも彼にすり寄つて坐つた。猫は猫で、そこの板間の端に来て彼の顔に近くうづくまつた。かうして彼の妙な一家族が、馬のひづめのやうな形に高く積み上げられて土で出来たかまどの前にわびしく物言はぬ団欒だんらんをした時に、彼はやつと心丈夫に思へた。さうして彼は火を焚き出した。焚きつけだけはよく燃えた。それが燃え盛ると彼の心も明るくなつた。けれども火は直ぐ消えてしまつて、彼の投げ入れた二三本の薪へは決して燃えつかない。彼はただいたづらきつけを燃した。永い間の雨で、薪は湿しめりきつて居たからである。さうして焚きつけは――こんなもの位はもつとどつさり用意して置けばいいものを! 少ししか無かつた焚きつけは、五六遍くべて居るうちには既にもう屑も無かつた。彼は考へついて石油の鑵を持ち出した。びくびくしながら薪の上へ石油をぶつかけた。直ぐ石油は地の上から三四寸浮いたところに大きな軽い火のかたまりをつくつて、燃え立つた。走るやうに燃えた。神経的に燃えた。それは全く何の精神統一もない人の――彼自身のやうな人の昂奮かうふん髣髴はうふつとして燃えた。思慮なく、理性を没却して、そのくせ力なく、ただ一気に燃えた。直ぐにぐつたりと気がくづをれて下火になつた。石油はただそれがある間はそれ自身だけ燃えて、燃え尽きると、あれほど大きかつた炎の塊は幾つかの小さなそれに分れ分れになつて、それの一つ一つは薪の上つらを這つて伝ひながら、青く小さな炎がちらちらとそこをめてしまつたかと思ふと、もう消えて居た。どす黒い臭とどす黒い色とを持つたその特有の煙、それは馬鹿げた感激の後に来る重い気分に似た煙が、一度にどつとかたまつてさもけだるげに昇つた。それは猫がおどろいて立ち上り、二疋の犬は一様にそれから顔をそむけた程にどつさりであつた。彼はその同じことをもう一度試みた末に、石油は薪にそそがれたものよりも土の上にこぼれたものの方が、最後まで燃えて居るのを発見して(実際、彼は石油の燃え方に就て、いらいらした自分の感激の具象化を、例の病的な綿密さで丹念に、研究者のやうに見つづけたのである)彼は改めて竈の下から、石油の燃えたしるしに、それの上つらだけが黒くいぶされて居る薪を竈の外へ、一たんとり出した。さて竈の底の灰の上へ思ひきつてあるだけの石油をそそいで置いてから、その土の上へ薪を組み合せて積み上げた。さて燃えて居るマッチを一つかみ投げ込んだ。黒い煙の少しと大きな炎とが、かまの下を伝うて存分に吐き出された。そのうちにそれは少しづつ薪へ燃えうつり出した。
「うまい! うまい!」
 彼は思はず声を出して、さうひとり言を言つた。その低い声を聞いて、フラテは彼の細く尖つた顔を上げて、その意味をただすかのやうに彼の顔を見上げた。やつと、少しづつ燃えて来た薪は、それは心から動かされた人間の、力強い感激のやうに頼もしい炎であつた。おお! 燃えて来る火といふものはどんなにうれしいか。彼と彼の犬とは同じやうに瞳を輝かして、未開人たちが神とあがめたその燃える火を見つめた。その時炎の上にそそがれて居た彼の瞳に、ふと何の関聯もなしに、妻の後姿が、く小さく――あのフェアリイほど小さく見えるやうな気がした。その燃える火のなかにゐる彼の妻は、どうやら大変な人ごみのなかに居るやうに感ぜられる……。単なる想像ではなく、それは目さきにちらつく幻影に近い――幻影といふのはこんなものであらうかと思へるやうな形で、そんな空想が思ひがけなく彼に起つた時に、ああ活動へ行つて居るな! と、彼には直覚的にさう思へた。その次には半ば彼自身の意志から、彼の空想は、東京のそのうちでも人気ひとけの多いやうな場所へ向いて行つた。とその次の瞬間に、……若しや、自分自身も今ごろは、そんな人込みのなかを歩いて居るのではなからうか、と、そんな有り得べからざることがく普通の考へのやうに思ひ浮ぶ。……こんな処に、うす暗いうすら寒い台所の片隅に、かまどの前へしよんぼりとうづくまつて、思ふやうには燃えない炎をさつきからぢつと見つづけて居る自分。まるで苦行者が苦行をでもつづけるやうに自分自身の気分を燃える炎のなかに見つめて、犬や猫にとり囲まれてうづくまつて居る自分。これは若しや本当の自分自身ではないので、本当のものは別にちやんと何処かに在るので、ここの自分は何か影のやうな自分ではないのか! そんな気持がひしひしと彼に湧いて来た。その心持が彼に滲入しみいつた時に、冷たい感覚が彼の背筋の真中を、ひらめくが如くに直下した。身のまはりのすべては、自分自身も竈の炎も二疋の犬も猫も、眼を上げるとおひつ手桶てをけもランプも流しもとも悉くが、今、ふいと掻き消えはしないかと危ぶまれる。さうして怖る怖る身のまはりが振り返つて見られる。壁の上には、彼自身と二疋の犬との三つの影が三方に拡がつて、大きく黒く一面にうつつて、それが炎の燃えるまにまに、壁の面で或は小さく或は大きくふるへる。それは小休をやみなく動く毎に、それだけ少しづつ彼等の本体の方へ近づいて来て、それ等の本体を呑包のみつつんでしまひさうに見える。と、彼の左側に居たレオは、突然ぬつくと立ち上つたが、煙を出すために少しばかりけて置いた戸の隙間からすり抜けて外の方へ出て行つた。それから急にけたたましい短い声で吠え出した。耳を後に立ててその兄弟の声に注意したフラテも同じやうにして出て行つた。彼等は声を合せて吠えた。――目には見られない何者かが近づいて居ることを彼に告げでもするかのやうに。恐怖が彼を立ち上らせた。併し、犬どもは直きにそれをやめて不興げな真面目な様子で、もとの座へ、彼の傍へ坐つた。
 犬どものその様子が彼には不審でならなかつた。彼は心を落着けると、少し身を延び上つて、戸の節穴から、試みに、そつと外をうかがうて見た。すると、ほのかな闇を見透みすかして居る彼の目に、柿の樹の幹のかげから黒い小さな人影が、不思議にも足音なしに現はれて来た! その人影が小さかつたことが彼をいくらか安心させた。けれどもそれはまさしく何の足音もない者であつた! 併し、それが動いて来て、戸の隙間から洩れて流れて居るランプの光につき当つた時、それは別に奇異なものではなかつた。それはおくは、彼の家へよく遊びに来る隣の家の十三になる女の子であることが確であつた。けれども? あのおしやべりの、いつもずつと遠くから大声で呼ばはりながら駆け込んで来たり、犬の名を呼んだり、或は口笛を吹いたりしながら来る子、さうして夜になつてからなどは決して遊びに来ない子が、今夜あんな風にして来る筈はない、と思ふと、そのふはふはと近づくお桑は、やはり、奇異なものであつた、彼はそれを確めようと呼んで見た――
「お桑さか?」
「おおつ! びつくらした! 小父さん居なつたか」
 さう答へたのはやはりお桑であつた。併し、彼の呼んだのは妙に落着いた大きな声のひとり言のやうであつたのに対して、お桑の答へは実に仰山ぎやうさんな叫びであつた。その声で、今まで淋しさをこらへて居た彼が飛び上らうとした程。お桑の声で安心した彼は、戸を開けた。外には突立つたお桑の妙な表情が明るく浮き出した。
「どうしたのだ、お桑さ。……うちで叱られたのか」
「……」お桑は直ぐには返事をしなかつた。けれどもやがて暫くすると、小父さんは飯を炊いて居たのかとか、小母さんは何日いつ帰るかとか、この子はいつもの通りにしやべり出した。そのうちに、お桑はふと思ひ出したかのやうに言つた。「うだつけ! おら忘れて居ただ。今日おらあで風呂焚いただよ――お天気で、皆野良へ出ただもの。今焚いて居るんだよ。もうちつとしたらへえりに来なよ。――小父さんは妙な人だなあ、無え時にべえへえりたがつて、ある時にはへえりたがんねえでねえか」お桑はそんなことを言ふと、そはそはと帰り出した。今夜ばかりはお桑にでももつと喋つて居て貰ひたいと彼は思つたのに。その女の子は、五六間歩き出した時には、
「小父さん。また降つて来ただよう」
と、もういつものとほりのお桑であつた。お桑の奴は今ほつと安心をしたのだ、と彼は思つた――彼には、風呂の事を聞いた時に、あの足音の無いお桑が、偶然にももう解つて来て居たから。お桑の一家族には用心せよといふ噂や、この頃外に積んで置く薪があまり減りすぎるといふ事や、時々の朝に、束から崩れて抜け落ちた薪が二三本も井戸端にある、といふやうな事を、彼の妻が言つたのを彼は思ひ合したのである。
 さう解つて見ると、そんなことは彼にはどうでもよかつた。唯、
「小父さん。また降つて来ただよう」
と言つたお桑の言葉と、あの時きつかけでひよくり[#「ひよくり」はママ]柿の幹から現はれた人影としてのお桑が、彼の心に残つた。それよりも彼がそれ程に苦心をした飯は、何か用具について居たのか、彼の手にあつたのか、とにかく石油のにほひが沁み込んで居た。(お茶をかけて、ランプの光に透して見ては、別に何も浮いては居なかつたが。)彼には、それはどうしても一杯しか食へなかつた。その夜は、飯にばかりではない。夜着の襟も、枕も、彼の肩のところも、彼の口のなかも、空気そのものも、彼の腕にびくびくと小さな心臓の鼓動を伝へて彼の傍に来て眠つて居た猫も、皆石油くさかつた。さうしてそのあるかないかの臭が、夕飯の代りにと沢山に彼が飲んだ茶の作用と結びついて、それが極くかすかなだけに、彼をひどく昂奮させた……。臭はあると思へばあつた、無いと思へばなかつた。……ふと、夕方ランプをさがさうとして方々でマッチをつたことや、火を燃さうとして石油をもてあそんだことを思ふと、釜をかまどから下した時それの尻にちらちらと動いて居た小さな火の粉の行列を面白がつたことと云ひ、この部屋にみなぎる石油の臭と云ひ、さう思つて見るとお桑が薪を取りに来たことまで、何でもかでも皆、今夜この家から火事が出るといふ事の予覚に思へてならない。……空気のなかには、既にさういふ用意が出来てゐて、それが彼の官能には仮りに石油の臭になつて訴へられて居る。とそんな風にも思へる。たうとう……こんな家ぐらゐ燃え上がつてしまへ。火事といふものは愉快なものだ。いやいや、そんなことを考へるとほんとうに火事が出る、とも思ふ……。若し火事が出たら、真先きに犬どもを鎖から放してやらなければ彼等は焼け死ぬ、と思ふ。その時になつて狼狽らうばいするといけないから、今のうちから用意に放して置いてやらうかとも思ふ。……大丈夫火事になどはならないとも思ふ。何しろ早く夜が明ければいいとも思ふ。そんなことを思ふ傍に別の心があつて、ほんとうに妻は活動写真へ行つたらうかと思ふ。今日の昼間のあのフェアリイの仕事をして居る姿を思ひ浮べる。と、夕日がぱつと丘に照つたことから、それの色からまた火事の事が思はれて来る……。彼は自分自身で、それを、未だ睡入ねいらずに考へて居るやうに感じ、もう眠つて居て夢のなかで考へて居るやうにも思つた。さうしてそれが果してどちらであつたやら、後になつて見ると更に解らない。――

       *     *     *

 或る雨の晴れた晩であつた。それはもつと後の日であつたか、それともここに書くのが順当な頃であつたか解らない。とにかく或る雨の晴れた晩であつた。大きな円い月が、あの丘の上から、舞台の背景のせり出しのやうに静に昇つて来たことがあつた。
 その晩は犬が二疋ともいつもよりももつと悲しげに、もつと激しく吠えた。
 彼は、それらの犬どもを遊ばせるつもりで庭へ出た。庭からまた外へ出た。空に月が出て居ることが彼の心を楽しくして居た。月は殆んど中天に昇つて居た。空は東の方がからりと晴れて、西の方へ行くほど曇つてその果は真黒であつた。大きな空が一刷毛ひとはけでぼかされて居た。彼は月をつくづくと見上げた。さうして歩いた。遠い水車の音が、コツトン、コツトン、コツトン、と野面を渡つてひびいて来た。フェアリイ・ランドの丘の女の脇腹に、月の光が細かく降りそそがれて、それは濡れて光つて居た。彼は彼の家の前の街道を幾度も幾度も往つたり来たりして歩いた。月を背にして自分の短い影を見た。又は、自分の影は見ないではてしのない月の中を見つめて歩いたりした。二疋の犬は彼の後について、二疋で互にふざけ合ひながら、嬉々として戯れて居た。彼が立ちどまると、二疋の犬は、立つて居る彼のぐるりを、追つかけ合つて廻つた。彼は水のせせらぎに耳を借した。路の傍に、彼の立つて居る足の下に、あの道に沿うたみぞである細い水が、月の光を砕きながら流れて居た。それは大きな雲母うんもの板か何かのやうに黒く、さうして光つて、音を立ててふるへて居た。ふと、南の丘の向う側の方を、KからHへ行く十時何分かの終列車が、月夜の世界の一角をとどろかせ、揺がせて通り過ぎた。その音が暫く聞かれた。この時、彼にはもの音が懐しかつた。月の光で昼間のやうに明るい、いや雨の日の昼はこれよりずつと暗い――野面を越えて、彼は南の丘の方へ目を向けた。……今、物音の聞えたところ、丘の向う側には素晴らしく賑やかな大都会がある。……其処には、家々の窓から灯が、きらきらとむらがつて輝いて居る……。彼は不意に何の連絡もなく、遠い汽車のひびきを聞いただけで、突然そんな空想が湧き上つて来た。さう言へば、一瞬間、ほんの一瞬間、その丘のうしろの空が一面に無数の灯の余映か何かのやうにぼつと赤くなつた……かと思ふと、すぐに消えた。それは実際神秘な一瞬間であつた。
「俺は都会に対するノスタルヂアを起して居るな?」
 彼は、さう思ひながら、その丘から目をそらした。さうしながら、見ると彼の突立つてゐる一筋の路の前方から、或る黒い人影が彼の方へ歩いて来つつあつた。それは彼とは二町ほど距てて居た。彼はそれを見つめながら、月の光のなかをそんな風な打開けた場所を人の通つて来るのを、何といふことなく気味悪く思つた。さうして月夜は闇夜よりも物凄いと思つた。と、その時、その人影の方から、
「ヒユウ!」
と、一声、ただ一声、高く口笛が聞えて来た。すると彼の犬は二疋とも、突然疾風のやうな勢で、その人影の方へ駆け出した。それが先づ彼には非常に不愉快であつた。これらの犬は彼、即ち犬どもの主人の呼ぶ時より外には、今まで決して他の人の方へは行かうとはしなかつたからである。それがその夜に限つて、この一声の口笛を聞くと、飛ぶやうに駆け出す。彼は或る狼狽らうばいをもつて、
「ヒユウ!」
と、同じやうに一声高く口笛を吹いた。犬をよび返すためである。彼の口笛を聞くと、犬も気がついたらしく、あわてて彼の方へ引き返した。
「フラテ!」
 人影はさう言つて、犬の名を呼んだ。
「フラテ!」
 彼も慌てて、同じく犬の名を呼んだ。
 彼のさう叫んだ声は、妙に、あの人影の声とそつくりであつた。さうして直ぐに同じ言葉を呼び返した為めに、彼の声は、ちやうど人影の声の山彦のやうに響いた。二つの声は、この言ひ現はし難い類似をもつて全く同一なものだと彼自身にさへ感じられた。それを犬でさへもさう聞いたに相違ない。一旦、駆け出した犬は、人影を慕うて行つたまま帰つて来なかつた。
 彼は呆然ばうぜんと路の上に立つて、その人影を確めようと眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはつた。人影は、路から野面の方へ田のあぜをでも伝ふらしく、石地蔵のあたりから折れ曲つた。さうして!
 何といふ不思議であらう! その人影は、明るい月夜のなかで、目をさへぎるものもない野原のなかで、忽然と形が見えなくなつた。
「あつ」と叫び声を、口のなかに噛み殺して、彼は家の門へ、家のなかへ、一散に駆け込んだ。
「……この村では誰も俺の犬の名を覚えて居る筈はないのだ。呼びにくい名だから。いや、子供が知つて居る。けれども彼等は、『フラテ』といふ名を『クラテ』となまつて覚えて居る筈だ。たとひ、名を呼ばれても、俺の犬は俺以外の人間の方へ行く筈はないのだ。たとひ、行くとしても、俺が呼び返せばきつと俺の方へ帰つてくる筈なのだ。今までこんなことは一度もない」彼は一人でさう考へた。「……それにあの人影は何だつて、不意にかき消すやうに見えなくなつたのであらう?……若しや、あの時俺が、この俺自身の同一人が二人の人間に別れたのではなかつたか? 離魂病といふ病気はほんとうにある事であらうか? うだとすると、俺は、若しや離魂病にかかつて居るのではなからうか。犬といふものは物音を聞き別けるのには微妙な能力を持つて居なければならない筈だ。わけて主人の声はちやんと聞きわける筈だが……」
 彼の心臓の劇しい鼓動は、二十分間の以上もつづいた。彼はどういふわけか時計の振子の動くのを見つづけながら、離魂病に就てのさまざまな文学的の記録や、或は犬のことなどを考へつづけて、心臓のしづまる時間を待つた。心がやつと落着くと、彼は妻に命じて、犬がいつもの通りに縁の下に居るかどうかを見させた。犬があのままあの人影について行つて、もう何時までも帰らないやうに思へたからである。犬はそこには居なかつた。けれども彼の妻が呼んだ時には、彼等は運よく(と彼は思つた)帰つて来た。彼は月はまだ出て居るかと聞いた。月は出て居るといふ妻の返事であつた。
 翌日の朝になつて、彼は昨夜の出来事を彼の妻に初めて話した。彼はその夜のうちには、それを人に話すだけの余裕もないほど怖しかつたからである。この話を聞いた彼の妻は、可笑をかしがつて彼を腹立たしくしたほど笑つた。突然、人影が見えなくなつたといふのは、犬がその人の足もとまでなついて来たので、誰かその人が、犬の頭を撫でようと身をかがめたに相違ない。その為めに畔道あぜみちを歩いて居た人は、田の稲のかげにかくされて形が見えなくなつたのであらう。と、さういふのがこの事に就ての彼の妻の解釈であつた。成程、それが適当な解釈らしい、と彼も考へた。併しその瞬間に感じた奇異な恐怖は、その説明によつて消されはしなかつた。

       *     *     *

 一度かういふ事もあつた――
 或る時、夜ふけになつてから、ランプの傍へが一疋慕ひ寄つた。養蚕の盛んなこの地方では、この頃になつて、この虫がよく飛んで居たものである。彼はこの虫を最も嫌つて居た。常から、以前にも一度、この虫が彼のランプへ来た時、彼は手製の蠅たたきでこの虫をたたいた。その場に圧しつぶされたこの虫は、まゆの形をしたまたくしの歯のやうな形でもあるそれの太い触角を、何とも言へず細かくびりびりとふるはせると、最後の努力をもつてくるりとひつくりかへつて、その不気味なぶよぶよな腹の方をさらけ出すと、六本程ある彼の小さな脚を、何かものを抱き締めようとでもする形で一度に、びく、びく、と動かし、また時々にははねに力を入れて彼の腹を浮き上らせ、その触角と脚と翅と腹とのそれぞれに規則的とも言ふべき小さな動作をいつまでもいつまでも続けて、その死の苦悶を彼に見せつけた事があつた。それは小さなものながら、それを見守つた彼を物凄く思はせるには充分であつた。それ以来彼は殊にこの虫を厭ひ、怖れて居るのであつた。
 この虫の、灰色の絖絹ぬめぎぬのやうな毛の一面に生えた、妙に小さな頭、そこの灰黒色のなかに不気味に、底深く光り返つて居る真赤な、小さな、少しとび出した眼。べつたりと吸ひついたやうにランプの笠の上へはねを押しつけてぢつとして居る一種重苦しい形。それが、急に狂気の発作のやうに荒々しくその重い翅を働かす有様。それからいくら追ひ払つても全く平然として厚顔に執念深しふねんぶかく灯のまはりを戯れまはる様子。それがランプの直ぐ近くで、死の舞踏のやうな歡喜の身悶みもだえをする時には、白つぽくぼやけた茶色の壁の上を、それのグロテスクな物影が壁の半分以上を黒くして、音こそは立てないけれども、物騒しく叫立てて居る群集のやうに騒しく不安に狂ひまはつた。彼の追ひ退けるのをのつそりと避けて、障子の上の方へ逃げて行つてしまふと、今度はその厚ぼつたい翅でもつて、ちやうど乱舞の足音のやうに、ばたばた、ばたばた、と障子紙を打ち鳴らした。
 彼は、蛾が静かになるのを見すまして、新聞紙の一片でやつとそれを取り押へた。さうして、その不気味な虫を、戸を繰つて外へ投げ捨てた。たたき殺すことはもうりて居たからである。
 けれどもものの十分とは経たないうちに、その蛾は(それとも別の蛾であるか)再び何処かから彼のランプへ忍び寄つた。さうして再び、怖ろしい、黒い、重苦しい、騒々しい、翅の乱舞を初めた。彼はもう一度、その蛾を紙片で取り押へた。さて再び戸を繰つて窓の外へ投げ捨てた。
 けれども、又ものの十分とも経たないうちに、蛾は三度び何処かから忍び寄つた。それは以前に二度まで彼をおびやかしたと同一のものであるか、或は別のものであるかは知らないが、さつきあれほどしつかりと紙のなかにつつみ込んで握りつぶしたものが、出て来ることは愚か、生きてゐる筈も無ささうだから、これは全く別の蛾であつたらう。とにかく、二度、三度、四度まで彼のランプを襲うた。……この小さな飛ぶ虫のなかには何か悪霊あくりやうが居るのである。彼はさう考へずには居られなくなつた。さう思へだすと、もう一度自分でそれを取圧へることは、彼には怖ろしくて出来なくなつた。そこで、わざわざ妻を呼び起して、この虫を捕へさせた。それから、一枚の大きな新聞紙で捕へられてゐるそれを妻の手から受け取つた彼は、この小さな虫を、その大きな紙で幾重にも幾重にも捲き込んで、更にもう一枚新聞紙を費してく念入りに折り畳み込んだ。さうして今度は戸の外へは捨てないで机の上へ乗せ、それからその上へ厚い古雑誌を一冊載せて置いた。
 かうして、やつと初めて安堵あんどして、彼は寝牀ねどこに入つた。
 暫くして、つかれないままに、燭台へ灯をともすと、その時ひらひらと飛んで来て、あざけるやうに灯をかすめたものがある。それも蛾であつた!

       *     *     *

 彼は眠ることが出来なくなつた。
 最初には、時計の音がやかましく耳についた。彼は枕時計も柱時計も、二つともとめてしまつた。全く、彼等の今の生活には、時計は何の用もないただやかましいだけのものにしか過ぎなかつた。それでも彼の妻は、毎朝起きると、いい加減な時間にして時計の振子を動かした。彼の女は、せめて家のなかに時計の音ぐらゐでもして居なければ、心もとない、あまりさびしいといふのであつた。それには彼も全く同感である。何かの都合で、隣家の声も、犬の声も、鶏の声も、風の音も、妻の声も、彼自身の声も、その外の何物の声も、音も、ぴつたりと止まつて居る瞬間を、彼はしばしば経験して居た。その一瞬間は、彼にとつては非常に寂しく、切なく、むしろ怖ろしいものであつた。そんな時には、何かが声か音かをたててくれればいいがと思つて、待遠しい心持になつた。それでも何の物音もないやうな時には、彼は妻にむかつて無意味に、何ごとでも話しかけた。でなければ、
「うん、さうだ」
と、こんな意味のないひとりごとを言つたりした。
 けれども夜の時計の音は、あまりやかましく耳について、どうしても寝つかれなかつた。それの一刻の音毎にそそられて、彼の心持は一段一段とせり上つて昂奮して来た。それ故、彼は寝牀に入る時には、必ず時計の針をとめることにした。さうして毎朝、妻は、夫のとめた時計を動かす。夫は、妻の動かした時計をとめる。時計を動かすことと、止めることと、それが毎朝毎夜の彼等おのおのの日課になつた。
 時計の音をとめると、今度は庭の前を流れるみぞのせせらぎが、彼には気になり初めた。さうして今度はそれが彼の就眠を妨げるやうに感じられた。毎日の雨で水の音は、平常よりは幾分激しかつたであらう。或る日、彼はその渠のなかを覗いて見た。其処には幾日か以前に――彼がこの家へ転居して来たてに、この家の廃園の手入れをした時に、みぞの土手にある猫楊ねこやなぎからり落したその太い枝が、今でも、その渠のなかに流れ去らずに沈んで居て、それが※(「竹かんむり/冊」、第4水準2-83-34)しがらみのやうに、水上からの木の葉やら新聞のきれのやうなものなどをきとめて、水はその※(「竹かんむり/冊」、第4水準2-83-34)を乗り越すために、湧上り湧上りして騒いで居た。あの騒々しい夜毎の水の音は、成程この為めであつた。ひとりでさう合点して、彼は雨に濡れながら渠のなかに這入つて、その枝を水の底から引き出した。沢山の小枝のあるその太い枝の上には、ぬるぬるとした青い水草が一面に絡んで上つて来た。彼はそれを一先づ路傍へひろひ上げた。さてもう一度、水のなかを覗くと、今まで猫楊ねこやなぎの枝の※(「竹かんむり/冊」、第4水準2-83-34)しがらみにからんで居た木の葉やら、紙片やら、わらくづやら、女の髪の毛やらの流れて行く間にまじつて、其処から五六間の川下を浮きつ沈みつして流れて行く長いものが、ふと目にとまつた。
 見れば、それはこの間の晩、酔つぱらひと口争ひをしたあの晩、犬を打つてから水のなかへたたきつけたあの銀の握のある杖であつた。
 彼は不思議な縁で、再びそれが自分の手もとにかへつたことを非常に喜んだ。何といふことなく恥しく、馬鹿ばかしくつて、それを無くしたことを妻にも隠して居たのに、ついつかり話してしまつたほどであつた。さうして彼は考へた――あの騒々しい水音は、きつと、この杖のさせた声であらう。杖はさうすることに依つて、それを捜し求めて居る彼に、杖自身の在処ありかを告げたのであらうと。
 彼はその杖を片手に持つて、とどこほりなくひた押しに流れて行く水の面をぢつと見た。これなれば、今夜はもう静かだ、安心だと思つた。併しそれは間違ひであつた。その夜も、前夜よりは騒がしいかと言つても、決して静かではないせせらぎの音が、それはもともと極く微かなものであるのに、彼にはひどく耳ざはりで、それが彼の睡眠を妨げたことは、前夜と同じことであつた。
 けれども、そのせせらぎの音は、もうそれ以上どうすることも出来なかつた。
 その外に、もう一つ別に、彼の耳を訪れる音があつた。それは可なり夜が更けてから聞える、南の丘の向側を走る終列車の音であつた。しかも、それはよほどの夜中なので――時計は動いて居ないから時間は明確には解らないけれども、事実の十時六分? にT駅を発して、直ぐ、彼の家の向側を、一里ほど遠くに、丘越しに通り過ぎる筈の終列車にしてはそれは時間があまりおそすぎた。そればかりかそれは一夜中に一度ではなく、最初にそれほどの夜更けに聞いてから、また一時間ばかり経過するうちに、又汽車の走る音がする。どうしてもそれは事実上の列車の時間とは、すべて違つて居る……たとひ、それが真黒な貨物列車であつても、こんな田舎鉄道が、こんな夜更けに、それほど度々貨物列車を出す筈はない。さうして、それほどはつきりと聞かれる汽車の音を、彼の妻は決して聞えないと言ふ。その汽車の遠いとどろきがひびいて来る時には、その汽車のなかには、こんな田舎へ、彼を、思ひがけなくも訪ねて来る友人があつて、その汽車のなかに乗つてゐるやうな気がしてならない。さうして実際にさう言ふことがあるとしたならば、それは誰であらう。Oであらうか?……Eであらうか?……Tであらうか?……Aであらうか?……Kであらうか?……彼は、思ひ出せるだけの友人を思ひ出して見た。けれども誰もそんな人はありさうも無かつた。併し、人が――誰か知つて居る人が、ひとり車窓にりかかつて居る様子が、彼には実にはつきり想像された。さうして妙なことは、それがふと彼自身に思へるやうな晩もあつた――そんな形でそこに腰かけて居る人は、さうしてそれが彼の耽奇たんき的な空想に、怖ろしい、併し魅惑のあるポオの小話の発端を与へた。
 時計のセコンドの音。みぞのせせらぎ、汽車の進行するひびき。そんな順序で、遂に彼はその外のいろいろな物音を夜毎に聞くやうになつた。その重なるものの一つは、彼が都会で夜更けによく聞いた、電車がカアブする時に発する、遠くの甲高かんだかきしる音である。それが時々、はげしく耳の底を襲うた。或る夜には、うとうと眠つて居て、ふと目が覚めると、き一町ほどのかみにある村の小学校から、朗らかなオルガンの音が聞え出して来た。もう朝も遅くなつて、唱歌の授業でも始つて居るのかと、あたりを見ると、妻は未だ睡入ねいつて居る。戸の隙間からも朝の光は洩れて居ない。何の物音も無い……そのオルガンの音の外には。深夜である。睡呆ねぼけて居るのではないかと疑ひながら一層に耳を確めた。オルガンの音は、正にそれの特有の音色をもつて、爽やかに、甘く、物哀れに、ちやうど晩春の夕方のやうな情調をもつて、よく聞きなれた何かの行進曲を、風のまにまに漂はせて来るではないか。彼は恍惚くわうこつとしてその楽の音に聞き惚れて居た。或る夜にはまた、活動写真館でよく聞く楽隊の或る節が……これもやはり何かの行進曲であるが……何処からともなく洩れ聞えて来た。それ等の楽の音を感ずるやうになつてからは、水のせせらぎは、一向彼の耳につかなくなつた。さうして彼はもう眠らうといふ努力をしない代りに、眠れないといふことも、それほどに苦しくはなかつた。それ等のもの音は、電車のカアブする奴だけは別として、その外のは皆、快活な朗らかな、或は幽遠な、それぞれの快感を伴うて居た。彼はそれらの現象をいぶかしく感ずるよりも前に、それを聴き入ることが、寧ろ言ひ知れない心地よさであつた。就中なかんづく、オルガンの音が最もよかつた。次には楽隊のひびきであつた。それから寒詣かんまゐりの人がたたくやうな鐘のかすかな音が続いたこともあつた。オルガンの音は二三度しか聴かれなかつたけれども、楽隊は殆んど毎夜欠かさずに洩れ聞えた。彼はそれを聞き入りながら、ついそれの口真似を口のなかでして、その上、てゐる自分の体を少し浮き上がらせる心持にして、体全体で拍子をとつてゐた。それは一種性慾的とも言へるやうな、即ち官能の上の同時に精神的ででもある快楽の一つであるかのやうであつた。若しそれが修道院のなかで起つたのであつたならば、人々はそれを法悦と呼んだかも知れない。
 幻聴は、幻影をも連れて来た。或は幻聴の前触れが無しにひとりでも来た。
 それの一つは極く微細な、併し極く明瞭めいれうな市街である。それの一部分である。ミニアチュアの大きさと細かさとで、仰臥して居る彼の目の前へ、ちやうど鼻の上あたりへ、そのミニアチュアの街が築かれて、ありありと浮び出るのであつた。それは現実には無いやうな立派な街なので。けれども、彼はそれを未だ見たことはないけれども、東京の何処かにこれと全く同じ場所がきつとありさうに想像され、信じられた。それは灯のある夜景であつた。五層楼位の洋館の高さが、わづかに五とは無いであらう。それで居て、その家にも、それよりももつと小さい――それの半分も三分の一の高さもない小さな家にも、皆それぞれに、入口も、灯のきらびやかに洩れて来る窓もあつた。家は大抵真白であつた。その窓掛けの青い色までが、人間の物尺ものさしにはもとより、普通の人の想像そのもののなかにもちよつとはありさうもないほどの細かさで、而も実に明確に、彼の目の前に建てつらねられた。いやいや、未だそればかりではない。それらの家屋の塔の上の避雷針の傍に星が一つ、唯一つ、きつぱりと黒天鵞絨びろうどのなかの銀糸の点のやうに、あざやかにかがやいて居る……不思議なことには、立派な街の夜でありながら、どんな種類にもせよ車は勿論、人通り一人もない……柳であらう街樹の並木がある……。しんとした、その癖何処にとも言へない騒がしさを湛へて居ることは、その明るい窓から感じられる……その家はどういふ理由からか、彼には支那料理の店だと直覚が出来る……それをよくよく凝視して居ると、その街全体が、一旦だんだんと彼の鼻の上から遠ざかつて、いやが上に微小になり、もう消えると見るうちに、非常な急速度で景色は拡大され、前のとその儘の街が、非常な大きさに、殆んど自然大に、それでもまだやまずに、とめどなく巨大に、まるで大世界一面になつて……それをぼんやり見て居ると、その街はまた静かに縮小して、もとのミニアチュアの街になつて、それとともに再び彼の鼻の上のもとの座に帰つて来た。彼はかうして数分間か、それとも数秒間に、メルヘンにある小人国から巨人国へ、それから再び、巨人国から小人国へ、ただ一かけりで往復して居る心地がした。その市街が巨人国のものになつた時に、彼自身の眼と眼との間の幅も一度に広くなつて――ちやうど巨人のもののやうになつて、その為めに眼界も一度に拡大されるやうな気のすることもある。何かの拍子に、その幻の街が自然大位の巨大さで、ぱつたり動かなくなる時がある。彼は、突然、実際そんな街へでも自分は来て居るのではなからうかと、慌てて手さぐりでマッチをつて、闇のなかで自分のすすけた家の天井を見わたした事があつた。
 それらの風景は、しばしば彼の目に現はれた。それの現はれる都度つど、それは前度のものとは決して寸毫すんがうも変つたところがなかつた。それもこの現象に伴ふところの一つの不思議であつた。
 或る時には、まれに、その風景の代りに自分自身の頭であることがあつた。自分の頭が豆粒ほどに感じられる……見る見るうちに拡大される……家一杯に……地球ほどに……無限大に……どうしてそんな大きな頭がこの宇宙のなかに這入はいりきるのであらう。と、やがてまたそれが非常な急速度で、豆粒ほどに縮小される。彼はあまりの心配に、思はず自分の手で自分の頭を撫で廻して見る。さうしてやつと安心する。滑稽に感じて笑ひ度くなる。その刹那せつなに Key-y-y-y と電車のカアブする音が、眉の間を刺しとほす。
 これら幻視や、幻感は、併し、幻聴とはさほど必然的な密接な関係をもつて現はれるものでは無いらしかつた。一体に幻聴の方は、彼にとつて愉快であつたに拘はらず、こんな風に無限大から無限小へ、一足飛びに伸縮する幻影は、彼にさへ不気味で、また悩ましかつた。
 これらの怪異な病的現象は、毎夜一層はげしくなつて行くのを彼は感じた。彼はそれ等の現象を、彼の妻から伝はつて来るものだと考へ始めた。汽車のひびき。電車のきしる音。活動写真の囃子はやし。見知らぬ併し東京の何処かである街。それ等の幻影は、すべて彼の妻の都会に対する思ひつめたノスタルヂアが、恐らく彼の女の無意識のうちに、或る妖術的な作用をもつて、眠れない彼の眼や耳に形となり声となつて現はれるのではなからうか、彼はさう仮想して見た。それは最初には、ほんの仮想であつた。けれども、何時とはなく、これが彼には真実のやうに感ぜられ出して来た。それだから、妻の何時も居る台所の方には東京のことの空想が一ぱい充満して居て、いつかの夕方ひとりで飯をいた時に、ふとあんな事が思ひ出されたのだ。と、彼はそんなことをも考へた。彼自身の如く、殆んど無いと言つてもいい程に意志の力の衰へて居る者の上に、意志の力のより強い他の人間の、或はこの空間にひしめき合つて居るといふ不可見世界のスピリット達の意志が、自分自身のもの以上に、力強く働きかけるといふことはあり得べき事として、彼はそれを認めざるを得ないやうに思つた。生命といふものは、周囲にあるすべてのものを刻々に征服し、それを食つて、それのなかの力を自分のなかに吸引して、而もそれを十分に統一して行く或る力である。肉体的には明らかにさうである。霊的にだつて、精神的にだつてさうに違ひない。さうして今や、他のものを吸集し統一する作用を持つた神秘な力は彼からだんだんと衰へて行きつつあつた。むしろ彼は今まで持つて居る己自身を刻々に発散してゐるのみであつた。
 彼が、闇といふものは何か隙間なく犇き合ふものの集りだ、それには重量があると気附いたのもこの時である。
 こんな風にして、彼の喜怒哀楽や恐怖は、現世界に生存して居る他の人々のそれとは、全く共通しがたい何物かになつて行つた。孤独無為とこの兄弟は、実に奇異な力を持つて居るものである。――若し自分が今、修道院に居るとしたならば? と、彼は或る時さう考へた。……若し、彼が彼の妻と一緒にこんな生活をしてゐるのでなく、永貞童女である美しいマリヤの画像を毎日礼拝してながら、この日頃のやうな心身の状態に居たならば、夜の幻影は、それは多分天国のもの、その不快なものは地獄のものであつたらう。さうして画像のなかのけ高い優しいくちびるは生きて彼にものを言ひかけたであらう。さうして悩ましいもののすべては、画家スピネロオ・スヒネリイが描いたといふ悪魔の醜さいとはしさ怖ろしさをもつて彼に現はれ、彼の目の前に出没して、彼を苦しめたであらう。又、あの一時の睡眠をも持たない夜が、戸の隙間からほのかに明け渡つた時に、ふと小鳥のしば鳴きを聞くあのさびしい、切ない、併しすがすがしい涙を誘はうとするやうな心持は、確かに懺悔心ざんげしんになつたであらう。修道院といふ処では、それの生活の様式も思想の暗示も、すべてがそんな風な幻影を呼び起すやうに、呼び起し易いやうに、呼び起さねばならないやうにと、それらの色々の仕掛けで出来て居たのだから……。
 彼はそんな事をも考へた。併し、その考へは、この当座よりももつと後になつてまとまつた。

       *     *     *

 ふと彼の目の前へ人間の足の形が浮んで来た。足だけが中有ちゆううに浮いて居るやうであつた。それはどれほどの大きさであつたか解らないが、それの大きさに就て、別だん注意を呼ばなかつたところを見ると、普通の人間のものぐらゐであつたであらう。それは白い素足で美しかつた。それを見て居るうちに……つと、白い手の指がまた現はれた。それはエル・グレコの画によくあるやうな形をした手なので、親指と人差指とが何か小さなものをつまんでゐる指であつた。……そのうちに手の方は消えたが、唯さつきの足だけがやはりそこに動いて居て、それがぴよこぴよこと、何かを踏むやうに動き出した。動く度ごとに爪先が上下して、そこに力がはいつて、その都度つど足の指は尺取虫のやうにかがんだり伸びたりする。……実に変な夢だなあ、と、彼は夢のなかで考へた。さうだ! さうだ! これや王禅寺の方へ遠足した時、道に迷うて這入つて行つた家の糸とり娘の足だ。それの手だ。糸とり台を踏んで居るのだ。つむがれて出る糸すべてをつまんで居る手つきだ。……さう思ふと、またその手の指が現はれて来る。田舎には珍らしい白い手や足だつた……ちらと彼を見上げた時には、いい顔をして居た。あそこへ行く途中、どこかで夕立がして……にじが浮んだ……山の中でそれを見た。あの娘は年は十六位だつた……もつとはつきり、手や足だけではなしに姿もすつかり見えて来ればいいがなあ……。その動揺する白い素足だけの夢を見つづけて、そんな風なことを思ひ出して居ると、突然、あたりが一面に赤く明るくなつて……と見ると、燭台の火がまぶしく彼の目に射込んで来た。彼は目が覚めた。彼の妻は障子をあけて縁側から這入つて来る所であつた。便所へでも行つて来たのであらう。
「もつと気を附けてくれなけりやいけないぢやないか、何日いつも言ふとほり。俺は灯がちよつとでも目に這入ると直ぐ目が覚めるぢやないか。たつた今せつかく寝ついた所だのに」
 妻の方を見上げながら、まぶしい目をしばたたいて彼はがみがみ小言をいつた。
「私、気をつけて居たつもりだつたけれど。……あなた、きつと目をあけたままでねむつていらつしやるのね?」
 妻はそんな事を言つて、今更あわててその灯を吹きけした。
「王禅寺がどうなすつたの? あなた、今寝言をおつしやつてよ」
「いつ?」
「つい今、私が灯をともさうと思つてマッチを擦つた時」
 彼は馬鹿ばかしい気がした。夢のなかで綺麗な足だと思つて見たのは、きつと妻の足を見て居たのだ。おれは枕を外してしまつて、畳の上へぢかに横顔を押しつけて寝て居たらしいから、妻の足が歩いて行くのを見て夢だと思つて居たのだ。彼はさう気がついた。それにしても、王禅寺の近所の一軒家に糸をとつて居た娘――その時には、そんな場所に美しい小娘が居て、寂しく、つつましく糸をつむいで居るのを面白いと思つたが、それつきり全く忘れてしまつて居た娘が、半意識の間に思ひ出されて来たのを、彼は珍らしく思つた。
 これは一例である。この時ばかりでは無い。その頃、彼はどうかして睡りたいと思ふと、よくこんな眠りを眠つて居るのであつた。

       *     *     *

「決して熱なんかは無くつてよ、かへつて冷たい位だわ」
 彼の額へ手をかざして居た彼の妻は、さう言つて、手を其処からのけて、自分の額へ手を当てて見た。
「私の方がよつぽど熱い」
 それが彼には、反つて甚だ不満であつた。試みにはかつて見ようと、検温器を出させて見ると、それは度々の遠い引越しのために折れて居た。
 し熱のためでないとすれば、それはこの天気のせゐだ。このひどい風のせゐだ。と彼は思つた。全くその日はひどい風であつた。あるかないかの小粒の雨を真横に降らせて、雲と風自身とが、吹き飛んで居た。そのくせ非常に蒸暑かつた。こんな日には、彼は昔から地震に対する恐怖でおびえねばならなかつたのだけれども、今日はこの激しい風のためにその点だけは安心であつた。併し、風の日は風の日で、又その特別な天候からくる苛立いらだたしい不安な心持が、彼を胸騒ぎさせたほどびくびくさせた。
猫よ、猫よ。あとへあとへついて来い!
猫よ、猫よ。おくへおくへすつこめ!
 ふと、劇しく吹き荒れる大風の底から一つの童謡の合唱が、ちぎれちぎれに飛んで来た。それらは風のかたまりに送り運ばれて、杜絶とだえ勝ちに、彼の耳もとへ伝はつて来たやうに思はれた。けれども、それはやはり幻聴であつたのであらう。それは長い間忘れて居た彼の故郷の方の童謡であつたから。風の劇しい日(うだ、こんな風の劇しい日に)子供たちが、特に女の子たちが、駆けまはりながら互に前の子の帯の後へつかまり合つたり、或は前の子の羽織の下へ首を突込んだりしながら、こんなうたを今のやうな節で繰り返し繰り返し合唱して、彼等は風のためにはしやぎながら、彼の故郷の家の門前の広場をぐるぐると輪になつてめぐつて居たものであつた……。それはモノトナスな、けれどもなつかしいリズムをもつた畳句でふくのある童謡で、またうたの心持にしつくりとはまつた遊戯であつた。それを見惚みとれて、砂塵の風のなかで立つて居る子供の彼自身が、彼の頭にはつきりと浮んで来た。それが思ひ出の緒口いとぐちになつた。その頃、……城跡のうしろの黒い杉林のなかで、――あの城山の最も高い石垣の真下の、それに沿うた細い小道である。そこには大きな杉の林があつて、一面にかさなつた杉の幹のごく少しの隙間から川が見えた。船の帆が見えた。足もとには大きな歯朶しだが茂つて居る、小道はいつも仄暗ほのぐらかつた。さうして杉の森に特有の重い濡れた高い匂があつた。その道を子供のころ一ばん好きであつた。……もつと大きくなつてからもさうであつた。機械体操で怪我をして、二度麻酔剤をかけられた時に、彼の麻酔の夢は、その森の道を遊び歩いて居るところであつた。二度とも……。その林のなかで、或る夕方、大きな黒色の百合の花を見出した事、そのそばへ近よつてそれを折らうとして、よくよく見て居るうちに、急に或る怪奇な伝説風の恐怖に打たれて、転げるやうに山路を駆け下りた。次の日、下男をつれてそのあたりをくまなくさがしたけれども、其処には何ものもなかつた。それは彼には、奇怪に思へる自然現象の最初の現はれであつた。それは子供の彼自身の幻覚であつたか、それとも自然そのものの幻覚とも言へる真実の珍奇な種類の花であつたか、それは今思ひ出しても解らない。ただその時の風にゆらゆらゆれて居るその花の美しさは、永く心に残つた。その珍しい花が、彼の「青い花」の象徴ででもあつたやうに、彼はその頃からそんな風な寂しい子供であつた。さうして彼の家の後である城跡の山や、その裏側の川に沿うた森のなかなどばかりを、よく一人で歩いたものであつた。「なべわり」と人々の呼んで居たふちは、わけても彼の気に入つて居た。そこには石灰を焼く小屋があつた。石灰石、方解石の結晶が、彼の小さな頭に自然の神秘を教へた。又その淵には、時々四畳半位な大きな碧瑠璃へきるりうづが幾つも幾つも渦巻いたのを、彼はよく夢心地で眺め入つた。さうしてそれを夢そのもののなかでも時折見た。この頃は八つか九つででもあつたらう。……何か嘘をつくと、その夜はきつと夜半に目が覚めた。さうしてそれが気にかかつてどうしても眠れなかつた。母を揺り起して、その切ない懺悔ざんげをした上で、ゆるしを乞ふとやつと再び眠れた。……それから、う、然う、夜半にはたを織るをさの音を毎夜聞いたこともあつた。あの頃、俺は五つか六つぐらゐであつたらう。俺は、昔から、あの頃から、もう神経衰弱だつたのか知ら。さうして幻聴の癖もその頃からと見える――彼は、さう思ひ出しておどろいた。それ等幼年時代の些細ささいな出来事が、昨日の事よりももつとありありと(その時の彼には昨日のことはただ茫漠ばうばくとしてゐた)思ひ出された。一つ奇体なことには、つい三四ヶ月前、夏の終り頃に見た、或る山のなかの一軒家――そこには、百合ゆり百日紅さるすべりとが咲いて居た――その人気のない大きな家に年とつた母と二人きりで居た小娘、その白い美しい足と手の指とが彼のうつつの夢に現はれたあの娘。それが童話の情調をもつて、彼の記憶のずつと奥の方へひつこんで行つて居ることであつた。さうして、それら彼の幼年時代の追想のなかへ、時々強ひて錯誤して織り込まれて、その奥深い記憶の森のなかで仙女にならうとして居るのであつた。彼は、さう思ひたがらうとしてゐる自分を、その度毎に気がついて叱つた。いやいや、これはついこの間の事ではないか。さう自分をたしなめながら訂正した。……彼はかうして幼年時代の追想にふけりつづけた。しかもそれらはことごとく、今日まで殆んど跡方もなく忘却し尽して居たことばかりであつた。さうして、彼はその思ひ出のなかのその子供になつて、彼の母や兄弟や父を恋しく懐しく思ひやつた。一たい常に自分自身のことばかりより考へる事のない彼には、この時ほど切なくそれらの人々を思ひ出したことは、今までに決してなかつた。その父へも、母へも、どの兄弟へも、彼はもう半年の上も便りさへせずに居る。不縁で家に帰つてゐる耳の遠い姉が殊に悲しかつた。彼は第一に母の顔を思ひ出さうと努めて見た。それは半年ばかり前にも逢つたばかりの人でありながら、決して印象をび起し得られなかつた。まとまらない印象を無理に纏め上げて見た時に、思ひがけなくも、奇妙にも、それは十七八年も昔の或る母の奇怪な顔になつた――母は丹毒にかかつて居た。――黒い薬を顔一面に塗抹とまつして、黒い仮面のやうな、さうして落窪おちくぼんだ眼ばかりが光つて、その病床の傍へ来てはならないと、物憂げに手を振つた怪物のやうな母の顔であつた。子供の彼は、しくしくと泣きながら庭へ出て行つて、もつと泣いた。その泣いた目で見たぼやけた山茶花さざんくわの枝ぶりと、それのぼやけてむらがつた花の一つ一つが、不思議と、母のその顔よりもずつと明瞭に目に浮び出て来る……決して思ひ出したことのないやうな事柄ばかりが後へ後へ一列に並んで思ひ浮んで来た。その心持がふと、彼に死のことを考へさせた。こんな心持は確に死を前にした病人の心持に相違ない。して見れば、自分は遠からず死ぬのではなからうか。……それにしても知つた人もないこんな山里で、自分は、今斯うして死んで行くのであらうか。……死んで行くのであるとしたならば? 彼の空想は果しなく流れた。彼は今まで未だ一度も死に就て直接に考へたことはなかつた。さうして彼はこの時、最初には、多少好奇的に彼の特有の空想の様式で、彼自身の死を知つた知人の人々のその時の有様を一つ一つ描いて見た。すさまじい風のなかに、この騒々しい世界から独立した静寂へ、人の霊を誘ひ入れるやうにきしきるこほろぎの声に彼は耳を澄した。
 彼は手をさし延べて、枕のずつと上の方にある書棚から、何か書物を手任てまかせにかうとした。その手を書棚にかけた瞬間に、がちやん! と物の壊れる音がした。彼は自分自身が、何かをとり落したやうに、びくつと驚いて、あたりを見まはした。それは彼の妻が台所の方で、ものを壊した音が、風に吹きとばされて聞えて来たのであつた。
 彼の書棚も今は哀れなさまであつた。其処には僅かばかりの古びた書物が、塵のなかで、互に支へ合ひながら横倒しになりかかつて立つて居た。あまり金目にならないやうなものばかりが自然と残つて、それは両三年来、どれもこれも見飽きた本ばかりであつた。彼が今抽き出したのは訳本のファウストであつた。彼は自分の無益な、あまりに好奇的な自分自身の死といふ空想から逃れたいために、何の興味をも起さないその本をなりと読まうとした。けれども、風の音は断えず耳もとをかすめた。台所の流し元に唯一枚められて居るガラス板が、がちやがちやと揺れどほしに揺れて、彼の耳と心とを癇立かんだたせた。
 彼は腹這ひになつて、ひろげた頁へ目をさらして行つた。
現世以上の快楽ですね。
闇と露との間に山深くねて、
天地を好い気持に懐に抱いて、
自分の努力で天地の髄を※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしり、
六日の神業かみわざを自分の胸に体験し、
おごる力を感じつつ、何やら知らぬ物を味ひ、
時としては又あふるる愛を万物に及ぼし、
下界の子たる所が消えて無くなつて
 偶然、それは「森と洞」の章のメフィストのせりふであつた。この言葉の意味は、彼にははつきりと解つた。これこそ彼が初めてこの田舎に来たその当座の心持ではなかつたか。
 彼は床の中からよろけて立ち上つた、机の上から赤いインキとペンとを取るために。さうして今読んだ句からもつとさかのぼつて、ほらの中のファウストの独白から読み初めた。彼はペンに赤いインキを含ませて読んで行くところの句の肩に一々アンダアラインをした。その線を、活字には少しも触れないやうに、又少しもゆがまないやうに、彼は細い極く神経質な直線を引いて行つた。それがぶるぶるとふるへる彼の指さきには非常な努力を要求した。
…………………………………
手短かに申せば、折々は自らあざむく快さを
お味ひなさるも妨げなしです。
だが長くは我慢が出来ますまいよ。
もう大ぶお疲れが見えてゐる。
これがもつと続くと、陽気にお気が狂ふか、
陰気に臆病になつてお果てになる。
もう沢山だ……
 アンダアラインをするのに気をとられて、句の意味をもう一度読みかへした時に、初めてはつと解つた。メフィストは、今、この本のなかから俺にものを言ひかけて居るのだ。おお、悪い予言だ! 陰気に臆病になつてお果てになる。それはほんとうか、これほど今の彼にとつて適切な言葉が、たとひどれほどの浩瀚かうかんな書物の一行一行を片つぱしから、一生懸命に捜して見ても、決してもう二度とはここへ啓示されさうもない。それほどこの言葉は彼の今の生活の批評として適切だ。適切すぎるその活字の字面を見て居ると、彼はその活字が少しづつ怖ろしいやうな心にさへなつた。
「まあ、何といふひどい風なのでせう。裏の藪のなかの木を御覧なさい。細い癖にひよろひよろと高いものだから、そのひよろひよろへ風のあたること! 怖ろしいほど揺れてよ。ねえ折れやしないでせうか」彼の妻の声は、風の音に半ばかき消されて遠くから来たやうに、さうして何事か重大な事件か寓意かを含んで居るらしく、彼の耳に伝はつた。
 気がついて見ると、彼の妻は彼の枕もとに立つて居た。彼の女はさつきから立つて居たのであつた。妻は彼に食事のことを聞いて居た。彼は答へようともしないで、いかにも大儀らしく寝返りをして、妻の方から意地悪く顔をそむけた。けれども再び直ぐ妻の方へと向き直つた。
「おい! さつき何か壊したね」
「ええ、十銭で買つた西洋皿」
「ふむ。十銭で買つた西洋皿? 十銭の西洋皿だから壊してもいいと思つて居るのぢやないだらうね。十銭だの十円だのと、それは人間が仮りに、勝手につけた値段だ。それにあれは十銭以上に私には用立つた。皿一枚だつて貴重なものだ。まあ言はばあれだつて生きて居るやうなものだ。まあ、其処へ御坐り、お前はこの頃、月に五つ位はものを壊すね。皿を手に持つて居て、皿の事は考へないで、ぼんやりほかのことを考へる。それだから、その間に皿は腹を立てて、お前の手から逃げ出す。すべり落ちるんだ。一たい、お前は東京のことばかり考へて居るからよくない。お前はここのさびしい田舎にある豊富な生活の鍵を知らないのだ。ここだつてどんなに賑やかだかよく気をつけて御覧。つまらないとお前の思つてゐる台所道具の一つ一つだつて、お前が聞くつもりなら、面白い話をいくらでもしてくれるのだ。生活を愛するといふことは、ほんとに楽しく生きるといふことは、そんな些細ささいな事を、日常生活を心から十分に楽しむといふ以外には無い筈ではないか……」
 彼は囈言うはことのやうに小言を言ひつづけた。それは、その日ごろの全く沈黙勝ちな彼としては、珍らしい長談義であつた。彼はあとからあとからと言葉を次ぎ足してしやべりつづけた。さうしてゐるうちに妻に言ふつもりであつた言葉が、いつか自分に向つての言葉に方向を変へて居た。さうしてそれは平常、彼が考へても居ないやうな思ひがけない考への片鱗へんりんであるのに、しやべりながら気がついた。そこに、彼にとつて新らしい思想がありさうに思つた時、彼が言はうと思つて居る処へは、もう言葉がとどかなくなつて居た。ただ思想の上つらを言葉がぎくしやくと滑つて居るだけであつた。「日常生活の神聖、日常生活の神秘」彼は、人間の言葉では言へない事を言はうとしてゐるのだ、と自分で思つた。さうして遂に口をつぐんだ。
 二人は押し黙つて荒れ狂ふ嵐の音を聞いたが、暫くして妻は、思ひきつて言つた。
「あなた、三月にお父さんから頂いた三百円はもう十円ぼつちよりなくなつたのですよ」彼はそれには答へようともしないで、突然口のなかで呟くやうにひとりごとを言つた。
「おれには天分もなければ、もう何の自信もない……」

       *     *     *

 闇が彼の身のまはりにひしめいて居た。それは赤や緑や、紫やそれらの隙間のない集合で積重ねてあつた、無上むしやうに重苦しい闇であつた。彼は闇のなかでマッチを手さぐり、枕もとの蝋燭らふそくに灯をともすと寝床から起き上つた。さうしてその燭台を、隣に眠つて居る妻の顔の上へ、ぢつとさしつけた。けれども深い眠に陥入おちいつて彼の女は、身じろぎもしなかつた。彼はしばらくその女の無神経な顔を、蝋燭の揺れる光のなかで、ぢつと視つめて見た。彼はこの時、自分の妻の顔を、初めて見る人のやうに物珍らしくつくづくと見た。
 蝋燭の光はものの形を、光の世界と影の世界との二つにくつきりと分けた。その光のなかで見た人間の顔は、強い片光を浴びて、その赤い光の強い濃淡から生ずる効果は、人間の顔の感じを全く別箇のものにして見せた。彼は人間の顔といふものは――唯に自分の妻だけではなく、一般にかうも醜いものであらうかと、つくづくさう感じた。それは不気味で陰惨で醜悪な妙な一つのかたまりのものとして彼の目に映じた。女は枕元に、解きほどいた束髪のかもじを黒く丸めて置いて居た。奇妙な現象には、彼はそのかもじを見た時に、これが、ここに眠つて居る女が自分の妻だつたのだと初めて気がついた。
 彼は燭台を高く少し持上げたり、或は女の顔の耳の直ぐわきへくつつけて見たり、暫くその光の与へる効果の変化を実験して遊ぶかのやうに、それをいろいろと眺めて居た。彼の妻はそんなことには少しも気がつかずに眠つて居る。寝返りもしない。こんな女は、今のどもとへ剣を差しつけられても、それでも平気で眠つて居るだらうか。いや、そんな場合には、いかに無神経なこの女でも、さすがに人間の本能として当然目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みひらくであらう。さうでなければならない。彼はそんなことを考へた。さうして、若しやこの女は今、殺される夢でも見ては居ないだらうかとも思つた。……それにしても、かうした光の蠱惑こわくから人間といふものはさまざまなことを思ひ出すものである。こんなことから、実際人を殺さうと決心した男が、昔からなかつただらうか……
「尤も、俺は今この女を殺さうとして居るわけではないのだが」
 彼は思はず小声でさう言つた。自分自身のおどろくべき妄想に対して、慌てて言ひわけしたのである。
「そこでと……俺は今何のためにこんなことをして居たのだつたけな」
 彼は気がついて急に妻を揺り起した。
 夜中である。
 妻はやつと目を覚したが、まぶしさうに、揺れて居る蝋燭らふそくの光を避けて、目をそむけた。さうして未だ十分に目の覚めて居ない人がよくする通りに口をもがもがと動かして、半ば口のなかで、
「また戸締りですか、大丈夫よ」
 さう言つて、寝返りをした。
「いいや、便所へ行くんだ。ちよつとついて行つてくれ」
 かはやから出て来た彼は、手を洗はうとして戸を半分ばかり繰つた。すると、今開けた戸の透間から、不意に月の光が流れ込んだ。月はまともに縁側に当つて、ゆがんだ長方形で板の上に光つた。不思議なことには、彼はこれと同じやうに、全く同じやうに月の差込んで居る縁側をちやうど今のさつき夢に見て、目がさめたところであつた。何といふ妙な暗合であらう。彼には先づそれが怪奇でならなかつた。さうして、今、自分達がかうして此処に立つて居ることも、夢のつづきではないのか……ふと、さう疑はれた。
「おい、夢ではないんだね」
「何がです。あなた寝ぼけていらつしやるのね」
 蝋燭は彼の妻の手に持たれて、月の光を上から浴びせかけられて、ほんのりと赤くそれ自身の光を失つた。光の穂は風に吹かれて消えさうになびいたが、彼の妻の袖屏風そでびやうぶの陰で、ゆらゆらと大きく揺れた。風は何時の間にかおだやかになつて居たが、雲はすさまじい勢で南の方へ押奔おしはしつて居た。小雨を降らせて通り過ぎる真黒な雲のぱつくりと開けたおほきな口のファンタスティックな裂目から、月は彼等を冷え冷えと照して居た。
 彼は手を洗ふことを忘れて、珍らしいその月を見上げた。それは奇妙な月であつた。幾日の月であるか、円いけれども下の方が半分だけ淡くかすれて消え失せさうになつて居た。併し、上半は、黒雲と黒雲との間の深い空の中底に、ぎすましたやうに冴え冴えとして、くつきりと浮び出して居た。その上半のくつきりした円さが、何かにひどく似て居ると、彼は思つた。うだ。それは頭蓋骨の顱頂ろちやうのまるさに似て居る。さう言へば、その月の全体の形も頭蓋骨に似て居る。白銀しろがねの頭蓋骨だ。研ぎすました、或は今鎔炉ようろからとり出したばかりの白銀の頭蓋骨だ。彼の聯想の作用は、ふと海賊船といふやうなものの事を思ひ出させた。「神聖な海賊船」どういふわけかそんな言葉を思ひ浮べた。彼は青い月を飽かずに眺めた。ああ、これと同じ事が、全く同じことが、その時も俺はここにかうして立つて居た。雲の形も、月の形もこれとそつくりだつた。どこからどこまで寸分も違はない。そればかりかその時にもかう思つたのだつた。今と同じ事を思つたのだつた。遠い微かな穴の奥底のやうな昔にも、現在と全然同一な、そつくりそのままで重り合ふ、寸分の相違もない出来事がかつてもあつた……茫然として、彼は瞬間的にさう考へた……何時の日のことだつたらう……何処でであつたらう。
 空一面を飛びはしちぎぐもはもう少しで月を、白銀の頭蓋骨を呑まうとして居る。
「もう、閉めてもいい?」
 妻は、寒さうにさう言つた。
 彼はその言葉で初めて我に帰つたのか、手を洗はうと身を乗り出した。その瞬間であつた。
「や、大変!」
「え?」
「犬だ!」
「犬?」
 彼は即座に手早く、戸締りに用ゐた竹の棒を引つつかむと、力任せに、それを庭の入口の方へ投げ飛ばした。彼の目には、もんどりを打つ竹ぎれからす早く身をかはして、いきなりそれを目がけて飛びかかると、その竹片たけぎれくはへたまま、真しぐらに逃げて行く白犬が、はつきりと見えた。尾を股の間へしつかりとはさんで、耳を後へ引きつけ、その竹片に噛みついた口からは、白い牙をあらはして、よだれをたらたらと流しながら、彼の家の前の道をひた走りに走つて行く。月光を浴びて、房々した毛の大きな銀色の尨犬むくいぬ、その織るやうな早足、それが目まぐるしく彼の目に見える。それは王禅寺といふ山のなかの一軒の寺の犬だつた。その形は明確に細密に、一瞬間のうちに彼には看取出来た。
「狂犬だよ!」
 彼は自分の犬どもの名をあわただしく呼んだ。呼びつづけた。其処らには居ないのか、犬どもは彼の声には応じなかつた。妻には何事が起つたのか、少しも解らなかつた。併し、夫のさうするままに、彼の妻も声を合せて犬の名を呼んだ。その甲高い声が丘にこだました。七八度も呼ばれると、重い鎖の音がして、犬どもは、二疋とも同時に、いかにものつそりと現はれた。さうして鎖をぢやらんぢやらんと言はせながら身振ひして、主人の不意な召集をいぶかしく思ひながらも、彼等は尾をちぎれるほどはげしく振り、鼻をくんくんとならした。
 月は雲のなかに呑まれてしまつた。
 彼は妻の手から燭台を受け取るや否や、それを、犬どもの方へ差し出したが、一時に風に吹き消された。直ぐに、ランプに灯をともし代へて見たが、彼の犬には別に何の変事もないらしかつた。
「ああ、おどろいた。俺はうちの犬が狂犬に噛まれたかと思つた」
 彼は寝牀ねどこに這入つたが、妻にむかつて、今見たところのものを仔細しさいに説明した。彼の妻は最初からそれを否定した。いかに明るくとも月の光で、そんなにはつきりと見える筈はない。それに王禅寺の犬は、なる程、狂犬になつたのだ、けれども、もう一週間も十日も前に、そのために屠殺とさつされた。その時、お絹が、
「だから、お宅の犬もお気をおつけなさい」
とさう言つた。その事は、その時彼の女自身の口から彼に話した筈だつた。――妻は事を分けて、なだめるやうに彼に説明するのであつた。しかし彼は王禅寺の犬が気違ひになつた話などは聞いたこともないと思ふ。
「犬の幽霊が野原をああして駆けまはつて居たのだ。さうして、さういふ霊的なものは俺にばかりしか見えないのだ……。」……憂欝いううつの世界、呻吟しんぎんの世界、霊が彷徨はうくわうする世界。俺の目はそんな世界のためにつくられたのか――憂欝な部屋の憂欝な窓が憂欝な廃園の方へ見開かれて居る。彼はそんな風に考へた。俺の今生きてゐるところは、ここはもう生の世界のうちでは無く、さうかと言つて死の世界でもなくその二つの間にある或る幽冥いうめいの世界ではないか。俺は生きたままで死の世界に彷徨してゐるのであらうか……ダンテは肉体をつけたままで天界と地獄をめぐつたと言ふならば……。少くとも、少くとも俺が今立つて居る処は、死滅をそれの底にしてその方へ著しく傾斜して居る坂道である……。

       *     *     *

 その翌日――雨月うげつの夜の後の日は、久しぶりに晴やかな天気であつた。天と地とが今朝よみがへつたやうであつた。森羅万象は、永い雨の間に、何時しかもう深い秋にもかはつて居た。稲穂にふりそそぐ日の光も、そよ風も、空も、其処に唯一筋繊糸せんしのやうに浮んだ雲も、それは自づと、夏とは変つて居た。すべては透きとほり、色さまざまな色ガラスで仕組んだ風景のやうに、彼には見えた。彼はそれを身体全部で感じた。彼は深い呼吸を呼吸した。冷たいあざやかな空気が彼の胸に真直ぐに這入つて行くのが、いかなる飲料よりもうまかつた。彼の妻が、この朝は毎日のやうに犬どもを繋いで置けなかつたのも無理ではない。それはよい処置であつた。遠い畑の方では、彼の犬が、フラテもレオも飛び廻つて居るのが見られた。百姓の若者がレオの頭を撫でて居た。おとなしいレオは、喜んでするに任せて居る――太陽に祝福された野面や、犬や、そこに身をかがめて居る働く農夫などを、彼はしばらく恍惚くわうこつとして眺めた。日は高い。この景色を見るために、何故なぜもつと早く目が覚めなかつたらうと、彼は思つた。縁を下りて、顔をば洗はうと庭を通ると白い犬が昨夜くはへて行つた筈の竹片たけぎれは、萩の根元に転がつて居た。彼は思はず苦笑した。それは、併し、むしろ楽しげな笑ひであつた。
 井戸端には、こぼれた米を拾はうとして――妻はわざわざ余計にこぼしてやつたかも知れないと彼は思つた。雀が下りて居た。今までつひぞここらで見たこともないほど沢山で、三四十羽も群れて居た。彼の跫音あしおとおどろかされると、それが、一時に飛び立つて、そこらの枝の上に逃げて行つた。逃げたりなどはしなくてもいいのに。その柿の枝には雀とは別の名も知らぬ白い顔の小鳥も居た。その時彼は鳥に説教した聖フランシスを、思ひ出した。彼の家の軒端からのぼる朝の煙が、光を透して紫のうすもののやうに柿の枝にまつはつた。雨に打ち砕かれて、はては咲かなくなつて居た薔薇さうびが、今朝はまたところどころに咲いて居る。蜘蛛くもの網は、日光を反射する露でイルミネエトされて居た。薔薇の葉をこぼれた露は、転びながら輝いて蜘蛛の網にかかると、手にはとるすべもない、瞬間的の宝玉の重みに、網は大様にゆれた、露は糸を伝うて低い方へ走つて行く、ぎらりと光つて、下の草に落ちる、それらの月並の美を、彼は新鮮な感情をもつて見ることが出来るのであつた。
 水を汲み上げようと繩つるべを持ち上げたが、ふと底を覗き込むと、其処にははて知らぬ蒼穹さうきゆうを径三尺の円に区切つて、底知れぬ瑠璃るりを平静にのべて、井戸水はそれ自身が内部から光り透きとほるもののやうにさへ見えた。彼はつるべを落す手を躊躇ちうちよせずには居られない。それをのぞき込んで居るうちに、彼の気分は井戸水のやうに落着いた。汲み上げた水は、寧ろ、連日の雨に濁つて居たけれども、彼の静かな気分はそれ位をゆるすには十分であつた。
 妻の用意した食卓についた時には、彼の心は平和であつた。食卓には妻が先日東京から持つて来た変つた食物があつた。火鉢の上には鉄瓶がたぎつて居た。さうして、陰気な気持は妻の言つたとほりいやな天気から来たものだつた――と、彼は思つた。彼は箸をとり上げようとして、ふと、さつき井戸端で見た或る薔薇のつぼみの事を思ひ出した。
「おい、気がつかなかつたかい。今朝はなかなかいい花が咲いて居るぜ。俺の花が。二分どほり咲きかかつてね、それにあかい色が今度のは非常に深い落着いた色だぜ」
「ええ、見ましたわ、あの真中のところに高く咲いたあれなの?」
「さうだよ。一茎独秀当庭心いつけいひとりひいでてていしんにあたる――て奴さ」彼はそれからひとり言に言つた。「新花対白日しんくわはくじつにたいすか、いや白日は可笑をかしい。何しろ彼等は季節はづれだ……」
「やつと九月に咲き出したのですもの」
「どうだ。あれをここへ摘んで来ないかい」
「ええ、とつて来るわ」
「さうして、ここへ置くんだね」彼は円い食卓の真中を指でとんとんたたきながら言つた。
 妻は直ぐに立上つたが、先づ白い卓布を持つて現はれた。
「それでは、これを敷きませう」
「これはいい。ほう! 洗つてあつたのだね」
「汚れると、あの雨では洗濯も出来ないと思つてしまつて置いてあつたの」
「これや素的だ! 花を御馳走に饗宴きやうえんを開くのだ」
 楽しげな彼の笑ひを聞きながら、妻は花を摘むべく立ち去つた。
 彼の女は花を盛り上げたコップを持つて、直ぐ帰つて来た。少し芝居がかりと見える不自然な様子で、彼の女はそれを捧げながらいそいそと這入つて来た。それが彼には妙に不愉快であつた。彼自身が、人悪く諷刺ふうしされて居るやうに感じられた。彼は気のない声で言つた。
「やあ、沢山とつて来たのだなあ」
「ええ、ありつたけよ。皆だわ!」
 さう答へた妻は得意げであつた。それが彼にはいまいましかつた。言葉の意味の通じないのが。
「なぜ? 俺は一つでよかつたんだ」
「でもさうは仰言おつしやらないのですもの」
「沢山とでも言つたのかね……それ見ろ。俺は一つで沢山だつたのだ」
「ぢや外のは捨てて来ませうか」
「いいよ。折角とつて来たものを。まあいい。其処へお置き。……おや、お前は何だね――俺の言つた奴は採つて来なかつたのだね」
「あら、言つたの言はないのつて、これだけしきあ無いんですよ! 彼処あそこには」
うかなあ。俺は少し、底にう空色を帯びたやうな赤いつぼみがあつたと思つたのに。それを一つだけ欲しかつたのさ」
「あんな事を。底に空色を帯びたなんて、そんな難しいのはないわ、それやきつと空の色でも反射して居たのでせうよ」
「成程、それで……?」
「あら、そんな怖い顔をなさるものぢやない事よ。私が悪かつたなら御免なさいね。私はまた、沢山あるほどいいかと思つたものですから……」
「さう手軽に謝つて貰はずともいい。それより俺の言ふことが解つて貰ひ度い……一つさ。その一つの莟を、花になるまで、目の前へ置いて、日向へ置いてやつたりして、俺はぢつと見つめて居たかつたのだ。一つをね! 外のは枝の上にあればいい」
「でも、あなたは豊富なものが御好きぢやなかつたの」
「つまらぬものがどつさりより、ほんとうにいいものが只一つ。それがほんとうの豊富さ」彼は自分の言葉を、自分で味つて居るやうに沁み沁みと言つた。
「さあ、早く機嫌を直して下さい。せつかくこんないい朝なのに……」
「さうだ、だから、せつかくのいい朝だから、俺はこんな事をされると不愉快なのだ」
 彼は、併し、そんなことを言つて居るうちにも、妻がだんだん可哀想になつて居る。さうして自分で自分の我儘わがままに気がついて居た。妻の人差指には、薔薇のとげで突いたのであらう、血が吹滲ふきにじんで居る。それが彼の目についた。併し、そんな心持を妻に言ひ現はす言葉が、彼の性質として、彼の口からは出て来なかつた。寧ろ、その心持を知られまい、知られまいと包んで居る。さうしてどこで不快な言葉を止めていいやら解らない。それが一層彼自身を苛立いらだたせる。彼は強ひて口をつぐんだ。さて、その花を盛り上げたコップを手に取上げた。最初は、それを目の高さに取上げて、コップを透して見た。緑色の葉が水にひたされて一しほに緑である。葉うらがところどころ銀に光つて居る。そのかげにほの赤いとげも見える。コップの厚い底が水晶のやうに冷たく光つて居る。小さなコップの小さな世界は緑と銀との清麗な秋である。
 彼はコップを目の下に置いた。さうして一つ一つの花を、精細に見入つた。其処にある花は花片はなびらも花も、不運にも皆むしばんで居る。完全なものは一つもなかつた。それが少ししづまりかかつた彼の心を掻き乱した。
「どうだ、この花は! もつと吟味をしてとつて来ればいいのに。ふ、みんなむしくひだ」
 彼は思はず吐き出すやうにさう言つて仕舞つたが、又、妻が気の毒になつた。急にその中の最も美しい莟を一本抜き出すと、彼は言葉をやはらげて、
「ああ、これだよ。俺の言つた莟は。それ、此処にあつた! 此処にあつた!」
 彼の言葉のなかには、その言葉で自分を和げて、妻の機嫌をも直させようとする心持があつた。けれども、妻は答へようとはしないで、黙つて彼の女自身の御飯を茶碗に盛つて居るのであつた。彼は横眼でそれをにらみながら、妻の額を偸視ぬすみみた。このコップを彼処へ、額の上へたたきつけてやつたなら。いや、いけない、もともと自分が我儘なのだ。彼は仕方なく、さびしく切ない心をもつて、そのつまみ上げたつぼみを、彼自身の目の前へつきつけて眺めだした。……その未だ固い莟には、ふくらんだ横腹に、針ほどの穴があつた。それは幾重にも幾重にも重つた莟の赤いはなびらを、白く、小さく、深くしべまで貫いて穿うがたれてあつた、言ふまでもなくそれは虫の仕業である。彼は厭はしげに眉を寄せながら尚もその上に莟を視た。
 はつと思ふと、彼はそれを取り落した。
 その手で、す早く、たぎつて居る鉄瓶を下したが、再び莟を撮み上げると、直ぐさまそれを火の中へ投げ込んだ。――莟の花片はぢぢぢと焦げる……。そのおこり立つた真紅しんくの炭火を見た瞬間、
「や!」
 彼は思はず叫びさうになつた。立ち上りさうになつた。それを彼はやつと耐へた――ここで飛び上つたりすれば、俺はもう狂人だ! さう思ひながら、彼は再び手早に、併し成可なるべく沈着に、火鉢で焼けて居る花の莟を、火箸ひばしさきつまみ上げるや、傍の炭籠のなかに投げ込んだ。彼はこれだけの事をして置いて、さて、火鉢の灰のなかをおそるおそる覗き込むと、其処には何もない。今あつたやうなものは何もない。おどろき叫ぶべきものは何もない。彼は灰の中を掻きまはして見た。底からも何も出ない。水にしたたらした石油よりも一層早く、灰の上一面をぱつと真青に拡がつた! と彼の見たのは、それは唯ほんの一瞬間の或る幻であつたのであらう。
 彼は炭籠の底から、もう一度つぼみを拾ひ出した。火箸でつままれた莟は、焼ける火のために色せて、それに真黒な炭の粉にまみれて居た。さて、その茎を彼は再び吟味した。其処には彼が初めに見たと同じやうに、彼の指の動き方を伝へてふるへて居る茎の上には花のがくから、蝕んだただ二枚の葉の裏まで、何といふ虫であらう――茎の色そつくりの青さで、実に実に細微な虫、あのミニアチュアの幻の街の石垣ほどにも細かに積重り合うた虫が、茎の表面を一面に無数の数が、針の尖ほどの隙もなく、つつみ覆うて居るのであつた。灰の表を一面の青に、それが拡がつたと見たのは幻であつたが、この茎を包みかぶさる虫の群集は、幻ではなかつた――一面に、真青に、無数に、無数に……
「おお、薔薇さうびなんぢめり!」
 ふと、その時彼の耳が聞いた。それは彼自身の口から出たのだ。併しそれは彼の耳には、誰か自分以外の声に聞えた。彼自身ではない何かが、彼の口に言はせたとしか思へなかつた。その句は、誰かの詩の句の一句である。それを誰かが本の扉か何かに引用して居たのを、彼は覚えて居たのであらう。
 彼は成るべく心を落ちつけようと思ひながら、その手段として、目の前の未だ伏せたままの茶碗をとつて、それを静かに妻の方へ差し出した。その手を前へ突き延す刹那、
「おお、薔薇、汝病めり!」
 突然、意味もなく、又その句が口の先に出る。
 彼はやつと一杯だけで朝飯を終へた。
 妻はしくしくと泣いて居た。「ああ! また始まつたか」と心のなかで彼の女の夫に就てつぶやきながら。さうして食卓を片附けつつ、その花のコップをとり上げたが、さてそれをどうしようかと思惑うて居た。あの蝕んだ焼けた莟は、彼が無意識に※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしり砕いたのであらう――火鉢の猫板の上に、粉々に裂き刻まれて赤くちらばつて居た。彼はそれらのものを見ぬふりをして見ながら、庭へ下りようと片足を縁側から踏み下す。と、その刹那せつなに、
「おお、薔薇、汝病めり!」
 フェアリイ・ランドの丘は、今日は紺碧こんぺきの空に女の脇腹のやうな線を一しほくつきりと浮き出させて、美しい雲が、丘の高い部分に小さくそびえて末広に茂つた木の梢のところから、いとも軽々と浮いて出る。黄ばんだ赤茶けた色が泣きたいほど美しい。何時か一日のうちに紫に変つた地の色は、あの緑の縦縞たてじまを一層引立てる。そのうへ、今日は縞には黒い影の糸が織り込まれて居る。その丘が、今日又一倍彼の目をきつける。
「俺は、仕舞ひには彼処で首をくくりはしないか? 彼処では、何かが俺を招いてゐる」
「馬鹿な。物好きからそんなつまらぬ暗示をするな」
「陰気にお果てなさらねばいいが」
 彼の空想は、彼の片手をひよつくりと挙げさせる。今、その丘の上の目に見えぬ枝の上に、目に見えぬ帯をでも投げ懸けようとでもするかのやうに……
「おお、薔薇、汝病めり!」
 井戸のなかの水は、朝のとほりに、静かに円くたたへられて居る。それに彼の顔がうつる。柿の病葉わくらばが一枚、ひらひらと舞ひ落ちて、ぼつりとそこに浮ぶ。その軽い一点から円い波紋が一面に静にひろがつて、井戸水が揺らめく。さうしてまたもとの平静に帰る。それは静で、静である。はてしなく静である。
「おお、薔薇、汝病めり!」
 薔薇のくさむらには、今は、花は一つもない。ただ葉ばかりである。それさへ皆むしくひだ。ふと、目につくので見るともなしに見れば、妻は今朝の花を盛つたコップを台所の暗い片隅へ、棚の片わきへ、ちよこんと淋しく、赤く、それを隠すやうに置いて居る。それが彼の目を射る。
「お前はなぜつまらない事に腹を立てるのだ。お前は人生を玩具おもちやにして居る。怖ろしい事だ……。お前は忍耐を知らない」
「おお、薔薇、汝病めり!」
 裏の竹藪の或る竹の或る枝に、くずの葉がからんで、別に風とてもないのに、それの唯一枚だけが、不思議なほど盛んに、ゆらゆらと左右に揺れて居る。さうしてその都度、葉裏が白く光る――それをぢつと見つめて居ても……。彼を見つけた犬どもが、いそいそ野面から飛んで帰つて、両方から飛びすがる。それを避けようと身をかはしても……。どこかの樹のどこかの枝で、百舌もずが、刺すやうにきりきり鳴き出しても……、渡鳥の群が降りちらばるやうに、まぶしい入日の空を乱れ飛ぶのを見上げても……、明るい夕空の紺青こんじやうを仰いでも……、向側の丘の麓の家から、細々と夕餉ゆふげの煙がゆれもせず静に立昇るのを見ても……
「おお、薔薇、汝病めり!」
 言葉がいつまでも彼を追つかける。それは彼の口で言ふのだが、彼の声ではない。その誰かの声を彼の耳が聞く。それでなければ、彼の耳が聞いた誰かの声を、彼の口が即座に真似るのだ。――彼は一日、何も口を利かなかつた筈だつたのに。
 犬どもは声を揃へて吠えて居る。その自分の山彦におびえて、犬どもは一層はげしく吠える。山彦は一層に激しくなる。犬は一層に吠え立てる……彼の心持が犬の声になり、犬の声が彼の心持になる。暗い台所には、妻がかまどへ火を焚きつける。妻が東京へ引き上げたいといふ気持は、たしかにこんな時に彼処で養はれるに違ひない。何処かから帰つて来た猫が、夕飯の催促をしてしきりと鳴く。ぱつと火が燃え立つと、妻の顔は半面だけ真赤に、醜く浮び出す。その台所の片隅では、薔薇のコップが、やみのなかでぽつりと浮び出して来る。その薔薇は、むしくひの薔薇は煙がつて居る!
 彼はランプへ火をともさうと、マッチを擦る、ぱつと、手元が明るくなつた刹那に、
「おお、薔薇、汝病めり!」
 彼はランプのしんへマッチを持つて行くことを忘れて、その声に耳を傾ける。マッチの細い軸が燃えつくすと、一旦赤い筋になつて、直ぐと味気なく消え失せる。黒くなつたマッチの頭が、ぽつりと畳へ落ちて行く。この家の空気は陰気になつて、しめつぽくなつて、腐つてしまつて、ランプへ火がともらなくなつたのではあるまいか。彼は再びマッチを擦る。
「おお、薔薇、汝病めり!」
 何本擦つても、何本擦つても。
「おお、薔薇、汝病めり!」
 その声は一体どこから来るのだらう。天啓であらうか。預言であらうか。ともかくも、言葉が彼を追つかける。何処まででも何処まででも……
(大正七年九月)





底本:「日本文学全集27 佐藤春夫集」筑摩書房
   1970(昭和45)年11月1日発行
初出:「中外」中外社
   1918(大正7)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:阿部哲也
校正:津村田悟
2018年3月27日作成
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