或る文学青年像

佐藤春夫




「文学青年といふ奴はどうしてかうも不愉快な代物ばかり揃つてゐるのであらう。不勉強で、生意気で、人の気心を知らない。ひとりよがりな、人を人とも思はぬ、そのくせ自信のまるでない、要するに誠実も、智慧もない虚栄心の強い女のくさつた見たいな……」
 そのほかこの種の形容詞をまだまだ沢山盛り上げようとしてゐるところを、堀口大学がいつになく横合から口を出して、
「それでいゝのだよ。文学といふものは、一たいがさういふものなのさ。そのままでだまつて十年か二十年見てゐてやると、その不愉快千万な代物が、それぞれ相応に愉快な、見どころのある奴に変つてくるのだ。それが文学といふものの道だね。有難いことさ。たとへば我々にしたところが十年か十五年前を回顧して見ると、お互立派に不愉快な文学青年であつたらしいからね。」
 あとは笑つた。それはもう十年位以前の事であつたらう。折にふれてこんな会話を取交した記憶がある。何時、何人に関する出来事に就てであつたやらはもう覚えない。ただ自分の記憶に存してゐるのは、あの風采も心持も寛雅な友人が自分の不平を慰めようと自分のために言つた「有難い文学の道」や「十年か十五年前にはお互立派に不愉快な文学青年であつた」といふ自分の放言に反省を促さうとしたらしい一言とその会話の卓の間の丸テーブルの白い布の上に落ちてゐたまぶしい光線と、それから目をそらして見上げた軒の新緑と、友の寛雅な一言のために自分の心も和いで、一緒に笑つた事と。それ等のものの外はもう一切忘れた。その時の友の言葉を今も思ひ出さないではない。

 もう一つの記憶は多分更にもう一昔も遡つて見なければなるまい。従つて、僕自身が立派に不愉快な文学青年であつた頃の或る時である。その恩義を少しも報ずる事の出来なかつた自分の師生田長江先生が、その友人の森田草平に向つて言つてゐるのであつた。
「そんな事は君、知らぬ顔をしてうつちやらかして置くに限るね。相手を軽蔑して笑つて置けば過ぎてしまふのさ。尠くも君の不快を僕も分担してゐるし、ここにゐる佐藤君だつて同じくさ。天下に二人の理解者があれば沢山だ。それ以上を求めるのが贅沢の沙汰だね。」
 長江先生は金属的な声をあげて一笑した。自分も生意気に[#「生意気に」は底本では「生気意に」]笑つた。しかし草平は決して笑はなかつた。さうして言つた。
「それや、こんな事で目角を立ててぐづぐづいふのは野暮には相違ないさ。相手はそれがつけ目なのだ。だから僕は笑つてはすませない。この野暮を敢てしよう。こんな場合野暮をおそれて笑つてすますのはいい趣味かも知れないが、僕はいやだ。野暮と言はれるのをおそれてこれを黙つてゐるなどは僕には寧ろ不道徳な感じがするのだ。」
「さうかい。天下にそんな事よりもつと関心事があつてもよささうに思ふのだが。」
「さうだ、この事たるや、これをそのまま拡大すれば天下のあらゆる関心事とその軌を一つにするものだよ。」
 草平先生はその事を拡大して天下のあらゆる関心事の法則に結びつけて論じた。肝腎のその事が何であつたやらはもうとんと記憶を逸してゐる。多分自分には覚えて置く値打がなかつたのでもあらう。たゞ道徳のためには敢て「野暮をおそれぬ草平」「笑はざる草平」だけが深く記憶に留まつたものらしい。こんな記憶も今ふと甦つた。

 山岸外史がその従兄弟の寺内清と同道して訪問した。日曜日の夜更けで、自分は翌日学校の講義の準備のために近隣の畏友を訪うて詩経の六義に就て談論してゐるところへ、二人の客の訪問を伝へられたので帰宅して客に面会した。
 山岸に対しては先日太宰治の近況を千葉へ行つて視察することを依頼して置いた。太宰は夏のころは三日にあげず来てゐたし、来ない日は必ず何枚つづきかのはがきか、巻紙一枚を書きつぶした長文の手紙をよこしてゐたのが、その後ぷつつり音信がなかつた。いや二度ばかりはがきがあつたが、そのはがきは何を意味してゐるやら自分には一向要領が得なかつた。そのはがきの文言が要領を得ない以上に、駿河台ではがきを入れるひまに一足自分の玄関の前に立たない太宰の心理の方がもつとわからなかつた。はがきによると太宰は気まづく慚愧のために訪問出来ないといふ意味の文句があつた。全くその文句に相当する事実があつたから自分は正直に文字どほりさう読んでゐた。しかし家内は太宰のこれ等の態度は芥川賞に関聯したものであらうといふ推測を洩らしてゐた。さういへばこの間、日本橋の弟が来た時、太宰が自分で今度は芥川賞を貰ひますからと吹聴してゐたといふ噂を聞いて自分も妙に思つた事はあつた。しかし、太宰が芥川賞に関して自分を何か不満に思つてゐるだらうなどといふ考へは自分には毛頭なかつたから、家内の推測をも女らしい馬鹿なものと取り合はなかつた。先方では不満があつて来ないものならともかくも、何か気まりを悪がつて来られないのなら不便なといふ気持もあつたし、太宰の挙動に不審なものもあつたので、かたがた山岸を太宰のところへ使にやつたのであつた。太宰は最初山岸が自分のところへつれて来たのだから、これは山岸にとつて不足のない役割のつもりである。自分の太宰に対する不審といふのは、太宰がまたパピナールを[#「パピナールを」はママ]用ゐはじめてゐるのではないかといふ疑念であつた。その中毒症を、自分は医者になつてゐる弟と相談してこの春治療させたところであつたから、中毒症の再発を防止するのも我々の――兄弟と山岸も――義務と感じてゐた。

 山岸が千葉に太宰を訪問して来た報告は、山岸のいつもの明快な長広舌にも似ず、不得要領に近いものであつた。ただパピナールを[#「パピナールを」はママ]またはじめてゐるらしいといふ事と、家人の言葉と太宰自身の言葉とは万事に非常な相違があつていつに似ぬ不誠実な太宰の態度が腹立しかつたといふだけが殆んど全部であつた。パピナール中毒を[#「パピナール中毒を」はママ]再発してゐるといふだけで大たいは判つたが、芥川賞に関する件はどちらからも一向触れなかつた。自分にはもともと大して問題ではなかつたから山岸が言ひ出さなければ問ふまでもなかつたのである。
 しかし太宰の話が出ると寺内が太宰の新作で新潮に出た創生記といふ短篇の話をはじめた。それが月評家の間で話題になつてゐるといふので、彼は先づ中条百合子の意見といふものを紹介した。しかし寺内の話はまるで自分には通じなかつた。中条の意見とやらの、文壇にこんな封建的徒弟制度のやうなもののあることの不快や、こんな現象を呈するとすれば芥川賞は有害といふらしい意見や、酸鼻といふ文字が使はれてゐると聞いても一たい何がどう酸鼻なのか一から十まで自分には話が通じなかつた。といふのは、話の眼目になる創生記とやらを自分は読んで居なかつたからである。
 自分は近ごろめつたに雑誌といふものを見ない。雑誌よりももつと読むべきものが多いと感じてゐるからである。雑誌は所詮文学青年向きに造られてゐるものだから、自分の如く文学青年の圏外から追ひ出され、或は追ん出てゐる者にとつて面白い読みものでないのは寧ろ当然である。従つて自分はつれづれ草を伊勢物語を読み返し古今の序を吟味し、詩経の邦訳に手を焼いてゐる。尤も現代に生きてゐる以上好むと好まぬとに拘はらず現代の雑誌を見る必要もあり、義務もあるらしい。自分が芥川賞の審査委員を受諾したのも、或る学校に出講するのも主な理由の一つはこれであつた。現代の雑誌を読むために、現代の青年を知るために、週に幾時間か青年と接触したり、年に一二回位は、纏めて極く若い作家の作品を見るやうな機会を持つのは自分にとつても必要であり社会に対する義務でもあらうと感じられたからである。自分はかういふ風にして自分の心裡の窓を少し隙けて置いて空気の流通を謀つてゐる。さうしてこれ以上積極的に現代と接触する気はない。なるべくこれ位の程度にして置いて扉はしつかり閉めて置きたい。消極的だが身勝手がいいためである。かういふ利益と亡友に対する追慕の微意がない位なら芥川賞の審査員などもあまり自分の柄ではない。自分はその程度には分を心得てゐるつもりである。
 厳密に云ふと、芥川賞といふやうな制度も自分にはあまり好もしいものではない。それでも、或る人が、ある時、
「芥川賞などは要するに菊池氏の広告手段だから……」と言つた時、自分は
「さうです。それはそれに違ひないとしても、他を排してでも、自分の利を得ようとするのが今日一般の広告法であるとすれば、他にも幾分の利益を分ちながら自分で利益を占めるといふ大乗的な手段として悪くはありますまい。尤も悪用されるとすれば害は伴ひませう。しかし悪用されて害の伴はない何物もありますまいから……」
 と答へた時は自分ながら立派に芥川賞の委員になつてゐるのを自覚した。

 何にせよ創生記を見なければ二人の客とは話題のない状態であつたから家人に命じて雑誌を捜させた。今月の雑誌であつて見れば、まさか高閣に束ねても置くまい、くづ屋にも売り払ふまい。寝室、書斎、応接間、誰彼の部屋などのこらず捜させたが見当らない。最後に誰やらが持つて行つた。持つて行つたのは某だとだんだん手もとにない事が判つて来た。まだ十時半かそこいらだらうといふので女中を走らせて下の通まで新潮を一册買はせにやる。自分で雑誌を買ふのは二十数年来ない現象であつた。
 客同士を勝手に喋らせて置いて自分は急いで雑誌を拾ひ読みした。別段何も目にとまるところもない。
 と見て行くうちに自分の名前の見厭きてゐる活字にぶつつかつたから眼鏡を外したり、かけて見たり、注意して見る。年来の近視がこの頃遠視になりかかつてゐるので眼鏡が邪魔になる。出来るだけ読む事を節約してすませたい。自分の旧作の校正など馬鹿馬鹿しいものを読むのはさながら生命を浪費してゐる感じを痛切に覚える。創生記はしかし、片仮名で字画がはつきりしてゐるから見やすかつた。それが平仮名になり出してから必要なところになつたのは偶然ながら意地の悪いものである。
「君、これは困る。いけないね。かう身勝手な、出鱈目を書かれては。――まるで妄想を事実の如く報告する。この手法はいつでも困るのに。それがかう功利的に。利用されてゐては。筆者の常識よりは。良心の方を。先づ疑はなければならないね。」
 自分は一句一句を、とぎれ、とぎれに言ひながら、頁半から次頁の半までつづく一節二三十行を読み了つてから
「不愉快だね。困つた人物だね。」
 初めは眼前に当の相手がゐるかのやうに言つてゐたが、終りにはさすがに句調が直つて、
「なるほどこれを事実として読んだなら中条百合子ならずとも、こんな徒弟制度を憤ろしく思ふし、こんな状態に甘んじて芥川賞を渇望してゐるのは酸鼻と思はれるね。」
「さうですか」寺内は自分が叱られでもしたやうに長大息して閉口してゐる。
 自分は読み了つたあたりを山岸の方へ差し出すと、山岸は
「さう、さう、そこのところを太宰も先生に迷惑にあたるまいかと出して見せてゐましたよ。」
「なんだ、自分でも気がついてやつてゐるのだね。――どの程度だかは知らないが。右といふ事実を左にしてしまつて迷惑になるまいかもないものさ。とぼけてゐるのかな。」
「尤も最後の方へ行つて先生に対する態度は救つてありますね」とこれも寺内はまあ一とほり読んで見たらどうだと婉曲に言つてゐる。
「だが最後まで読んで見たつて嘘を書いたことの取消などはある筈もあるまい。」
 自分は目の前の二人の云ひ分も鈍感な腹立しいものに覚えたがもう口に出して言ひたくなかつた。それに何分十分に通読したわけでもないから、何はともあれ熟読してからといふつもりになつた。
 山岸と寺内とは互に太宰の他の作品を論じ合つたり、創生記の評判を批評したりしてゐたが、自分が仲間に這入らないので、さすが二雄弁家も沈黙勝ちにいつもにくらべると早く引上げて行つた。彼等が退去したあとで、自分は寝室へ雑誌を持ち込んで貴重な視力を費しながら創生記を仔細に吟味して見るだけの労を惜しまなかつた。自分の不快をなるべくはこの作品そのものによつて減少されたいと思つたからである。

 仔細に吟味するまでもなくこの作品には中条百合子の述べるやうな(尤もこれも伝聞だけで直接は読まないが)酸鼻の感は絶無であつた。何故かといふと中条百合子が重要視して事実と思つて読んだらしいところはまるで作者の妄想にしか過ぎないからである。太宰の作品は創生記に限らず全部幻想的といふよりは妄想的に出来てゐる。みな一つの夢である。悪夢である。夢のなかに真実を還元して計算するには一定法則があるやうに太宰の作品を読むにも一定の用意が必要である。書かれてゐることがすべて事実と見ることは夢の全部を真実と思ひ込むやうな幼稚に愚劣な錯覚である。尤も太宰はこれを奇貨として妄想を事実と思ひ込ませるやうな仕組みで書き上げてゐる。それとも太宰自身が自分の妄想を自分で真実と思ひ込んでゐるかも知れない。困つた者だと自分がいふのは主としてこの点である。事実を事実として知つてゐる自分は、事実が太宰の文章の上で(或は頭脳の中で)どれだけ歪曲されて妄想化されてゐるかを明細に知つてゐる。しかし事実も全然知らない読者が、身辺雑記――事実そのままの小説(この拙作などがその最適例)が行はれてゐる今日、妄想小説をも錯覚によつて事実小説と早合点することはありさうな事である。恐らく太宰はその逆効果を覘つてゐるものらしい。このトリックはこの作で忌々しい程効果を挙げてゐる――いや読者が進んでこのわなに陥ちて行くやうに仕掛けられてある。太宰が相手の心理を把握するに奇態な才能を抱いてゐる妖人物であることはこの一作でも知れる。しかしその手腕を悪用してこの男は創作の自由といふ美しい仮面の下で世にも不徳な事共を恬然と仕出かしてゐる。――自分の憤懣は偏にそれに懸つてゐる。

 創生記は作の倫理性を暫く無視するとすれば面白く出来てゐると言つてもよからう。この作がもしゴシップ的興味以外に純然たる感興的な作品として成功したものと噂されてゐるなら自分はこれにも賛成していい。才能ある作者の才能を示した作に相違ない。自分の言ひたいのはその才能と同時に作者が彼の不誠実な性情を二重三重にも複雑に表示してゐるのを最も酸鼻に堪へぬ思ひで見る者である。――この作者はいかにも業(ごふ)の深い男に思はれるのである。自分は彼の芸術の業の深さを讃歎する者である。これはお嬢さん育ちで女学校の作文がそのまま名門の令嬢たる特権で世に迎へられるやうな幸福をさうして一度その事を反省すると自らの特権を自ら呪咀して左翼の論理に拝跪する善良無比なお嬢さん気質では、せいぜいそのトリックに迷はされて酸鼻がる程度以上に真の酸鼻を味到するに[#「味到するに」は底本では「味倒するに」]至らないのもをさをさ無理ではないと思ふ。
 僕は今太宰治を異常に憎悪してゐる。しかし同時に彼の無比な才能を讃歎してゐる。この矛盾が自分のこの作をする動機である。単なる憎悪だけであつたら自分は笑つて彼を唾棄したであらう。事は甚だ単純でよかつたであらうに。

 以前にも中条百合子の如く彼のトリックに迷はされ、佐藤春夫の如く彼の業の深さに魅せられた一女性があつて彼と情死を謀つたのであつた。その記録が(どこまで真実でどこまでが妄想であるか、或はその妄想のなかに何パアセントの真実や誠意があるかは改めて分析するとして)、彼の代表作と自分の目してゐる道化の華である。自分が第一回芥川賞候補として推挙したのは実にこの作である。これによつて自分と太宰との好もしからぬ因縁が結ばれた。恐らくは僕自身も亦、彼と相距る遠くない程業の深い人間で、阿修羅が阿修羅を知るが如くに彼を認めたのであつたかも知れない。
 ともあれ、太宰が創生記の序節で婦人雑誌の座談会記事のなかから発見して紹介してゐる潜水夫が海底に沈んでゐる女を発見する異様に幻想的なあの作全体を幻想化するだけの用意を示してゐる部分、(太宰に言はせたら既にあの部分で読者をすつかり幻想の世界に誘導してゐる以上、後の芥川賞に関する部分の妄想なる事は断る必要がないと逃げるかも知れない。勝手にしろ)あの海底の場面にしろ太宰がかつて蛤にならんとする雀の如く海に入つて、彼の情婦だけは海底に沈み、彼ひとりは荒磯に打ち上げられて発見されたといふ事実を知つてゐたならば、彼が潜水夫の所見に深く心を動かす所以も自然と了解されるであらう。かの潜水夫の所見は実に太宰の心理風景に外ならぬものである。かの潜水夫さへ或は太宰自身ではないかどうかを自分は知らない。
 太宰はその情婦のあとを追うて入水する代りに、薬剤の慰安を求めて遂にその中毒症を生じたのではあるまいか。(これは僕自身の妄想で事実からは遠いかも知れない)一節の序を読むためにもこれだけの用意が必要である。彼の一作の正当な読み方のためにはあの作以上な評釈書が必要なわけであらう。自分はそのうちのほんの自分の名前の出る前後のあたりを評釈するつもりである。

「道化の華」は自分の推挙にも拘はらず、当時の予選者たる瀧井川端両氏から無視されてしまつた。理由なく無視されたのではない。両氏はその芸術信条に原づいて道化の華の如き頽廃的な幻想の仮面によらなければ伝へられないやうなひねくれた真実の取扱ひよりももつと直接に素直な単純なものを好しとしたのであらう。「道化の華」に比べたらまるで採るにも足らぬと思はれる小品を候補作品に選定した。これ等、事の経緯は別に第一回芥川賞詮衡記に詳しいから就いて見られるがよい。但、記事に或はないかと思はれるが、自分が力作を捨てて小品を採る事の不可を述べたのに対して瀧井氏は川端氏とも協議したと説明し、従つて川端氏も一応の説明があつて、太宰治の才能のある作家であることは疑はないが、生活が好くないのではないかといふ事を言つてゐた。瀧井氏の方は忘れたが川端氏の言の方は記事もあつて太宰は憤然として川端氏にテリヤを愛玩したり、をどり子を見てまはつたりしてゐるのがいい生活かといふ風な言ひ草を躍鬼になつて書いてゐたのを覚えてゐるからこれ等相方の申分も文献はあらう。自分の言ひたいところは唯第一回芥川賞で、太宰は候補に挙がつたが石川氏の当選によつて太宰は遂に落選になつた周知の如き事実である。人、衆人は知るまいが、太宰はなまなか候補になつて当選しなかつたといふ事実を恰も恥を与へられたかのやうに感じてゐるらしいといふ奇妙な事実である。我儘な人間にとつては事の如何に拘はらず思ひ通りにならなかつたといふほど心外なものはない。太宰は一度候補になつたばかりにどうしても一度は賞を獲らなければならないと執着しはじめたものらしい。芥川賞の当選せぬ候補になつた事は彼にとつては決して彼の名誉ではなく、重大な不名誉でもあつたと見える。彼が常人とものの受取方の違ふのはこんなところにもある。それは彼の並々ならぬ我儘とも虚栄心とも推測出来る。当選はせずとも候補になることによつて直接或は間接に名誉と利益とを得てゐる筈だからそれでも幾分満足して置いていいといふのが常人の考へ方であらうが、太宰はそんな余裕のある考へ方は出来ないらしい。候補になつたのを人前へ恥をかかされるために引つぱり出されたやうに感じてゐるかも知れない。非常に贅沢な被害妄想である。余事はさておいて自分は今にしてその当時川端が太宰を評して才ありて徳なしといふ風に断じた眼識に服する事日一日と深くなることを告白して置かなければならない。
 自分は太宰といふ人物がどれほど主観的で我儘な性格かといふ一例を、伝聞のままではあるがここで紹介して置きたい。彼は一旦投函してしまつた書状のなかに、気に入らない文句のあつたのを思ひ出したといふので、これを取り返すためにポストの前に立ちつくして、集配人の来かかるのを待ち受けて論争の上これを奪ひ返してしまふといふのである。この光景を直接見てゐたといふ人が話したのを自分はまた聞きしていかにも太宰らしいと思つた。俺のものを俺が取り戻すだけの事だ。俺の手紙に間違ひがない以上返して差支あるまい。といきまく太宰はこれを自分の感情に忠実な一言半句をも疎にせぬ所以と信じて、それが集配人にとつてどれほど迷惑であり公共の生活をどれほど妨害するものかなどは考へても見ないであらう。田舎では始終やつてゐた事だから、今ここで出来ないといふ理由はないと思ふのかも知れない。彼の家は地方有数の富豪で有力な名門であるから村の郵便集配人などは家の下僕同様に心得てもゐたらうし、集配人も謹んで仰せに従つたかも知れない。抑も富貴の家に生れるさへ人生の不幸であるのに、少年にして文名を謳はれるのはこれ亦決して人生の幸福ではあるまい。尚いやが上にも彼に同情しなければならない条件には決して事欠かない――彼はどういふわけか、生れ落ちると実母は健在でありながら実母の手から全く放れて祖母の手で養育され、そればかりか若年で父の頓死に遭つたといふ。皆彼の性情を歪曲し我儘を増長させるに好適な状態であつたらう。この坊つちやんは高等学校へ入学すると早速左翼の思想に感染して、自家の小作人たちを自覚させるに努力したものらしい。さうして高等学校を出るか出ないに、何時どうしてどこでどんな相手を見つけて情死を試みたやら、自分はそれを彼の小説道化の華で見る以外には知らないし太宰治伝を執筆してゐるのではない今日は省略する方があたりまへであらう。

 太宰が山岸に伴れられて自分の所にはじめて来たのは第一回の芥川賞の決定を見た後、しばらくしてからであつたらうと覚えてゐる。山岸が太宰の中毒症を心配してゐたし、井伏も太宰が自分のところへ来たと知ると先づ中毒症の話をして、パピナールを[#「パピナールを」はママ]やめさせる方法を講じたいと言つた。余計なお世話のやうには思つたが井伏や山岸の本気な憂慮と太宰の才能を愛惜する心持とで自分は井伏や山岸の相談に乗つた。といふのは自分には幸に医者になつてゐる弟がゐるからこれに相談さへすればわけのない事であつたからである。これ以上の面倒が伴ふものであつたら十中八九、自分はあの相談はあつさり聞き流してしまつたらう。弟の話で彼を病院へ入院させた。それが有料患者で医員の家族として入院したのだから科は異ふが、今まで二三の人も入院して誰一人不満をいふ人もなかつたのに、太宰は毎日不平満満の[#「不平満満の」はママ]はがきで、弟から聞くと太宰が不満な以上に病院では主治の医員から看護婦や炊事婦まで大ぶん手こずつてゐるらしい有様を聞いて自分は別に頼まれもせぬ世話を焼いてつまらぬ事をしたと後悔したものであつた。それでも我慢がならぬから今にも脱出するやうなはがきを二三度もよこしたが最後までともかく病院にゐて中毒性は全治したらしかつた。「ともかく」とか「らしい」とかとかくあいまいな言葉の多いのは、病院内での行動や、その間の小使銭の使ひ方などをあれこれ考へ合して見ると、病院から時折こつそり脱出してひとりで薬を注入してゐたのではないかと思はれる節が二三あるからである。尤もこれは今はもうどちらでもいい。といふのはその後度々の警告と彼の誓句とにも不拘、近ごろはまたはじまつてゐる事実が明らかになつたからである。彼の特色のある文学もその不徳も或は皆中毒症の作用なのかも知れない。さうならば一ばん簡単に解釈がつく。彼の芸術や行為の問題は別としてその経済状態は疑ふまでもなく薬品の購入のため困難に陥入るのである。
 季節相応の服装は全く別に調達してあてがはれる上に月々小百円の仕送りを受けて、夫婦きりで東京の近郊に二十五円に足らぬ家賃の家で生活してゐる彼が、酒色に溺れる様子もなく、時折は小額にしろ自分の不意の収入さへあるのに、いつも不自由を訴へて不義理に近い金を借りに歩いてゐるのも、不可解な現象である。彼が必要を訴へる金額の単位がきまつて二十円といふのも意味があるらしいのに、自分には一向わからない。彼の私生活を報告するのが目的でないから、これも判らない事は判らないままで差支なからう。ただここで注意して置きたいのは、既に家を成してゐる男一匹が、たとひ千金の子であらうとも家兄から、月々相応な金額の仕送りを受けてゐる以上、彼は一族からそれだけの義務を負うてゐるといふ事である。彼が一日も早く一人前の作家のやうな体面を持たなければならないとあせる理由はこの点にあらう。よくある奴である。出が人の口のうるさい地方の名門などとなるとこの点が最も厄介だらうといふことは想像して同情するに余あるものである。彼が一朝、せめて芥川賞でも獲たならばこの義務を果し得た事にはなるのであらう。これもわかつてゐる――女学校を出るとすぐさま知らぬまに、天才作家になつてゐるやうな奇蹟的に有難い身の上でない限りは。さうして創生記に若し酸鼻を感ずべきものがあるとすれば、恐らくこの太宰の家庭に負へる義務といふ一事であらう。名門の名よ鬼にでも喰はれろ。

 この事は芥川賞の第二回の詮衡の時にも幾分その兆を現はして自分を悩ましてゐたが、第二回の授賞者無しですんだ時には、自分は救はれたやうな気がした。しかし直ぐ第三回の時期になつて自分は全くやり切れなくなつた。太宰からの日文夜文は或は数枚つづきのはがき或は巻紙一枚を書きつぶしたもの、しまひには手に取り上げて見るのも忌はしい気持であつた。一途といへば一途な、しかし自尊心も思慮もまるであつたものではない泣訴状が芥川賞を貰つてくれと自分をせめ立てるのであつた。橋の畔で乞食から袂を握られてもかう不快な思ひはしないであらうと思ふほど、不便やら、をかしいやら、腹立しいやら彼の中毒症が自分の神経衰弱になつて伝染しさうな気がしたが、その文脈の辿々しさや、主観の氾濫、意識の混乱、矜持の喪失、は全く言語道断であつた。それ等の手紙はみな今現に自分の手篋にある。一々引例することも出来るが、読者の煩に堪へないであらうし、徒らに好奇心の満足のために提供するのも不本意であるから、今は示さない。それでも自分が決して表現を誇張してゐないといふ例証位はかう言ひ出す限り発表する義務がありさうに思ふ。手当り次第に一通の手紙をひろげてみると早速こんな文句が目につく――「第二回の芥川賞は私に下さいまするやう伏して懇願申しあげます……御恩は忘却しませぬ……」これは第二回の時のものであつた。もつと適切なのが第三回にあつた筈だが、長いそれも決して愉快でない手紙をもう一度、いくつも読みかへすのは閉口だから必要が生じるまでは文献の披瀝はやめて置かう。人間が人間から神に祈願するが如く懇願されるといふのは苦しい不快なものである。それにいくら何と言はれたつて芥川賞は私の小使銭ではないのだ。

 創生記に憑ると私が太宰に芥川賞が欲しいかどうかを問ふために、「ハナシアルスグコイ」と電報で彼を呼び出した事があるとやら、わざわざ呼び出さなければわからない程ぼんやり太宰が芥川賞を欲しがつてゐたかどうか、太宰自身はもう忘れてしまつてゐるらしい。尤も「ハナシアルスグコイ」と電報で彼を呼びつけた事は確かにあつた。思ふにその電報を見た一瞬太宰は芥川賞がいよいよ貰へるのだなと心をときめかしたことから妄想は端を発してゐるのであらう。それにしても自分の呼び出しは全く別の話で、太宰自身もその時その件はすぐ思ひ当つたと見えて、
 ハイスグマイリマスシカツテハナラヌ
 と、彼の面目を躍如たらしめた返電をよこしてゐる。尤もこの電報は事件の関係者に渡したから今は手もとにない。多分富沢有為男か東陽編輯室が今も持つてゐるであらう。何故それがそんなところに行つてゐるか今に明白になる。

 喉から手の出る芥川賞を受けるのに五六分、考へてから返事をする太宰かどうか。この男、他人に関してならどこまでも漫画風な取扱で片づけるが、事一度自分の事になると、すぐ大げさに「生命かけての誠実」などと出る。最も下賤なたしなみだ。一度レンズを取かへて「生命かけての誠実」の方で他人を見て、鳥羽僧正流に自分を凝視して見ることを勧告する。尤もなかなかむつかしい修行ではある。せめては自己宣伝用の「生命かけての誠実」の看板位はひつこめたらどんなものであらうか知ら。
 何にしろ太宰を呼びつけて、自分の力で左右すべき筈もない芥川賞を貰つてやらうかなどと匂はせたとかいふ太宰の妄想のなかの佐藤春夫のやうな人物は、たとひ妄想でも何でも僕と同じやうな名前だけに我慢のならない代物である。ポウのウ※[#小書き片仮名ヰ、146-下-22]リヤム・ウ※[#小書き片仮名ヰ、146-下-23]ルスンまがひに一つこの同名の人物と決闘をしたいものである。
 尤も太宰に芥川賞などに執着することの愚を説いて第三回の授賞も期待するなと宣告した事実はある。彼の懇願を温和に拒断した心組であつた。これが彼にあんな妄想を抱かせるとしたら以後、あの男とは第三者を交へずには対話も出来ないと不安心である。

 第三回芥川賞決定の期がそろそろ近づいて日文夜文に悩まされるころ、太宰は手紙の外に三日にあげず自分の門を敲いた。自分が芥川賞を決定する力があるやうに思ふ彼の認識もをかしなものである。といふのはこの反対の実例が第一回にきつぱり事実上の結果になつて眼前に現はれてゐるのを彼は何人よりも明瞭に見た筈ではないか。この認識も滑稽千万であるが、更に頻繁な手紙や訪問などの懇願が、自分を動かすのに有力だと考へる彼の神経も見かけによらず稀代の鈍感なものである。それがたとひ自分の反感を誘ふかと言つても効果が挙がらうなどと考へるのは自分の為人を理解せぬこと夥しい。自分は自分の一族や知人を賞讃する時に赤面する人種である。こんな時代遅れな無用の長物を心裡に持つた東洋人は自他ともに厄介である。

 訪ねて来て対談してゐると彼もさすがに手紙の文句のやうなさもしい様子を見せない。手紙より訪問の方がまだ始末がいいと思つてゐると、六月初旬(かと覚えてゐる)の或一日、悄然として、自分のベランダの椅子に腰をおろした。
 風通しのいい芭蕉の葉に近い席に自分が彼を自分の向うに迎へようと用意してゐるのに、彼は何故かひとり遠く片隅の方へすくみ込んでしまつた。すねた様子である。自分が話しかけても答へようともしない。
 お茶を運んで来た家内の目にも太宰の様子が奇異に見えたに相違ない。
「太宰さん、どうかなさいましたか。何だか少し元気がないやうぢやありませんか。」
 彼女がさう言ひも終らぬうちに、太宰は言葉もなくさめざめと泣きはじめて前のテーブルの上に俯伏してしまつた。家内は自分のせゐででもあつたかのやうに驚きうろたへながら、持つて来たお茶をそこに置くことさへ出来ないで、あつ気にとられて引返してしまつた。何が何やら判らなかつたので困つたのであらう。
 尤も自分にはその意味が殆んど判つてゐた。といふのは、彼は自分の前の椅子を避けて片隅へ歩み去る前に懐中から一束の原稿を取出しながら
「原稿突返されちやつた。」
 と虚勢を張つて呟いてゐたのを聞いてゐたし、その前日も文芸春秋社へ先日送りつけて置いた原稿の採否の返事を聞きに行つて要領を得た返事を聞けないで明日もう一日行つて見ると自分の所へ立ち寄つてゐたので自分にはあら方の事情は判つてゐた。しかし自分としてもこの場合別に方法もないから彼の泣くにまかせて黙つて見てゐた。彼はその原稿の束を握つた片手の肘のなかへ顔をかくして、卓上に倚りかかつてしばらく泣いてゐたが五分ばかりで泣きやんだ。まだ扉のかげあたりにゐたらしい家内がお茶の道具を捧げたままでまごまごしてゐるのを自分は行つてお茶を受け取つて来てやりながら
「文芸春秋で原稿を返されて来たといふのだ。」
 と説明してお盆とお菓子とを持つて、お茶の一つを太宰の卓の前へ置いて、お菓子は自分の方へ持つて来てしまつた。さうして幾分気色の直つたらしい彼に、
「そのお茶を持つてこつちの方へ来たまへ。」
 と呼びかけた。
 彼は懐へ原稿束をねぢ込み直しながら立ち上つて茶托のふちを持つと自分の方へ来て腰をおろした。
「原稿を返されたつて、作品が悪いといふのか。」
「いや、悪いのでせうが悪いとも何とも言ひません。きのふは少し陰惨過ぎたといひましたから別のものを書き直して来てもいいと言つたのですが、そんな話をしてゐるうちに泣けて来てしまつて、向うでも困つたのか、今日はもう記者は出て来ないで給仕に黙つて持たせて受附から渡させて……。」
 まるで小学校の児童が仲間の喧嘩を父兄や教師に訴へるやうな口調であつた。をかしくはあつたが憎めない。自然こちらもなだめるやうな調子に出て、
「また泣かれたりなんかすると事面倒と見たのであらう。とにかく作品を見せたまへ。読んで見てやらう。」
 無論原稿が読みたいわけではないが、こんな空気で面白い話が出来よう筈もないから、それより原稿を見る方がまだ気が楽である。見た上で元気もつけてやりたかつたし、出来栄えさへよければ紹介してもいい心当りが思ひ浮んでゐたからである。彼が懐中から取り出したのを受取つて長いのは読むにも片づけるにも持ち扱ひと思ひながら、
「何枚あるのだ。」
「四十八枚!」
 相手は元気よくふだんの語調にかへつてゐた。「狂言の神」といふ題のこの原稿は、数年前情死を企ててその相手だけを死なせた男が、数年前の海岸へひとり来て、ふと死神に襲はれたやうな気持であと追心中を遂げようと、死処を求めて彷徨する間に平和な家庭を持つてゐる先輩を訪うて決心を鈍ぶらせられたりするが、遂に林間に入つて樹の枝にぶらさがるが枝が折れて地に墜ちて失神しただけで終るといふ程の筋で言はば道化の華の続篇とも見るべきものではあるが、推賞するに足る出来栄を示し、その泣き笑ひに真剣なものが見られるのに感心し、これならば雑誌東陽の編輯を司る富沢有為男に事情を述べて相談すればその価値をも認めるだらうし、長さも適当らしいと考へた。先づこの事を述べて太宰を喜ばせてから四十八枚のうち作者が苦にしてゐるやうな事を口では言つてゐるが実は案外得意だらうと思ふ書き出しはいいけれども最後の二枚は蛇足だから割愛した方が余情が多からうと意見を述べると太宰は無邪気に限りなく喜んで万事を自分に依頼して帰つた。さうして富沢もこの作の価値を認め編輯同人も佳作を得たのを喜んでゐるが、但発行日の早い東陽は既に八月九月号の編輯の予定は決定してゐるから十月に喜んで採用するといふ話が出来、これを作者に自分から知らせると、「……待テバ海路ノ日和。千羽鶴。簑着タ亀……」などの文句のあるはがきで喜んで来た。このはがきもあの作者を喜んでゐる編輯同人に見せたいといふ富沢に渡してしまつた。引用の文句は記憶に残つてゐるところである。洵にお芽出度いなりゆきと喜んでゐると幾日も経たないうちに奇妙千万な出来事が発生したのである。或る朝内玄関を開けると太宰の名刺が硝子戸の間に挟つてゐてその名刺の記入したところでは太宰が狂言の神の稿を取返さうと遅く訪問したが既に門が閉された後でこれを驚かすのが不本意だつたから引返したといふ意味が読まれた。ところがその前夜といふのは、長つ尻のお客がゐて十一時半まで内玄関は明いてゐたし、応接間は煌々と燈されてゐた。注意したとすれば談笑の声も洩れさうなものであつた。太宰は多分表門の閉されてゐたのをいふのであらうが、狂言の神の取返しといふ意味が呑み込めないと思つてゐるところへ、早朝に配達された郵便のなかに太宰の二枚つづきのはがきがあつて、それを見ると、新潮九月号とかの原稿が病気のため出来ないから狂言の神はその方に廻したい。十月号なら東陽へは新に別の作を物して寄せるといふ意味であつた。身勝手な話とさすがに気がさすので、会つて話すよりは都合がいゝとわざと名刺を放り込んだだけで、相談ではなく報告だけをハガキでよこしたのかも知れない。それとも殆んど毎日のやうに来てゐるのだから改めて今日か明日にでも自分で来て説明するつもりであらうかと考へて心待ちにしてゐたが、その日は来なかつた。その翌日も来なかつた。ただ手紙が一通これは珍らしく芥川賞の事はあまりなくて、暑気当りらしい病気の苦痛の描写やら、そのために新潮のための新作のはかどらぬことやらが詳しかつた。

「狂言の神」の稿は結局どうしたのやらよく判らないで一週間ほど過ぎた。この間病気のためか執筆のためか太宰からは訪問も懇願通信もなかつた。
 富沢が別の用事で来た序に太宰の原稿の話が出て、聞けばちよつと直すところがあるといふので自分で来て持つて帰つたといふのであつた。
 自分は太宰の奴を怪しからぬと思つた。まるで病気で動けないやうな大げさな事を言ふかと思ふと自分でもうちやんと持つて帰つてしまつてゐる。それも事情をはつきり言ふ事か直すところがあるなど益々よくない。東陽は別に[#「別に」は底本では「別の」]太宰の作を欲しいと言つてゐない。「狂言の神」が気に入つてゐるのであるからこの点も困る。よその雑誌で一旦突き返されて来た原稿をわけを知つて買ふばかりか、気に入つてゐるといふのだから更にいけない。これは一応小言を言はなければ律気な富沢に対して済まぬ。

 翌朝自分は家内に命じて「太宰を電報で一度呼ばなければ」といふと家内は
「オイデマツと打ちますか」
「いや、そんな電報では何か面白い話でもあるかと思つてのこのこやつて来て小言ではいけないから、はじめからその覚悟をして来させたがよい。ハナシアルスグコイと打つのだ。」
 自分が太宰を電報で呼びつけたのは右の如く決して封建的師弟関係のためではない。それどころか現代的商業道徳の発露である。商品紹介者の当然の手順を以て、原稿商人の取引上の違約不信を詰つたまでである。その序に自分が太宰を叱つた事実もあるがこれとても一向封建的師弟関係のせゐではない。自分が新道徳の基礎にしたいと思ふ友情に従つたまでである。彼を圧倒せず、自分を屈せず、人類共通の理性と徳性とを彼に要求したまでの事にしかすぎない。その他は皆太宰の妄想に非ずんば、読む者の錯覚である。

 創生記を一読して、自分はハナシアルスグコイを繰り返さうと思つたが、夜中であつたから、夜の明けるのを待つた。夜が明ける頃になつて、自分は思ひかへしてはがきにした。太宰と二人きりの対話は彼に妄想の材料を与へる惧れがあると思つたから、山岸をオブザーバアとして相成可くは同道の上是非一度出頭せよ、来なければこないでこれきりの交際にしようといふ意味を籠めて多少の怒気が含まれてゐたらうと思ふ。太宰は直ぐ返事のハガキをよこした。文言は、
(われ等不変の敬愛、信ぜよ。)
先生。
十月八日に山岸同道お伺申し上げます。立派に申しひらき致します。疑雲一掃の堂々の確信ございます。不一。
 とある。僕は決して自分に対する太宰の不変の敬愛などを要求してはゐない。太宰に軽蔑されたところが一向痛痒もない。ただ太宰に彼自身の智慧を覚醒させその徳性を発見することを要求したいだけである。十月八日に彼は訪問出来ぬ理由を説明したハガキをよこし、つづいていろいろ面白い手紙をよこした。本当の話は実はこれからだがもう紙がない。今度の時のにしまつて置かう。かういふ嘘つぱちと「命がけの誠実」「不変の敬愛」などのしつくり組み合つた手紙や直ぐ大恩人などと呼ばれる交際は小うるさくて好ましくないものだ。悪く相手になつてゐると心中させられる惧がある。
 古人は思ひ当る事を言つて置いた。
君子交淡若水  小人交甘若醴





底本:「定本 佐藤春夫全集 第10巻」臨川書店
   1999(平成11)年4月9日初版発行
底本の親本:「わが小説作法」新潮社
   1954(昭和29)年8月15日発行
初出:「改造 第十八卷第十一號」
   1936(昭和11)年11月1日発行
※「好まし」と「好もし」の混在は、底本通りです。
※初出時の表題は「芥川賞」です。
※初出時の副題は「――憤怒こそ愛の極點(太宰治)――」です。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。また、「味倒するに」については底本の親本通りですが、初出の表記にそって、「味到」にあらためました。
入力:焼野
校正:きりんの手紙
2020年5月27日作成
2020年7月1日修正
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小書き片仮名ヰ    146-下-22、146-下-23


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