個人的な余りに個人的な饒舌

=龍之介対潤一郎の小説論争=

佐藤春夫





 白鳥先生のあとを承けてこの稿を草するのはわが光栄とするところである。
 だが文学史的に回顧するとすれば、逍遙対鴎外、透谷対愛山の論争につづくべきものは大町桂月対新詩社の「君死に給ふこと勿れ」に関する論争を取上げるのが至当であり、それにつづいては更に自然主義時代の諸論客中に然るべき論争もあるのを無視して一足飛びに初頭とは云へ大正ならぬ昭和時代の龍之介対潤一郎の小説論の争ひでは、少々年代が飛び過ぎるし、第一、龍之介・潤一郎のものは論争と呼ぶには不適当と思はれる節もないでは無いが編輯者には何れ、独自な識見とか商策もあるのであらう。なるほど龍之介と潤一郎との小説論の争なら役者も花形揃ひ、外題も申し分無しと云ふのであらう。それとも単に彼等の寡聞のせゐで少し時代の遠いところはご存じ無しなのか。どちらにせよ僕の関知せぬところである。僕は与へられた題目を処理しさへすればよいのであらう。
 龍之介・潤一郎の論争を回顧するのは僕が最も適任だとおだてられても決してそれに同感したわけでも無く、これは間尺に合はない仕事と思ひながらも、そのそばからそれを引受けてもよいと思つたのは、いつもの軽挙妄動では無く、たぶん今はおほかた忘れさうになつてゐるあの頃の事どもを、この機会にもう一度思ひ出してみたいと云ふ気が無意識に働いてゐたものらしい。


 何しろ二十余年前の話である。両者の主張の内容も今は大まかに思ひ出す程度で、あまりはつきりとは印象されても居ないで、かへつて当年の二人の友人に関しての断片的な追憶の方が先づ想ひ起されたほどであつた。
 だからこれを書くに当つては、先づ潤一郎の「饒舌録」と龍之介の「文芸的な余りに文芸的な」をもう一度精読し直さなければなるまい。この時間つぶしを、僕は最初に敢て間尺に合はない仕事と感じたのも無理はあるまい。
 潤一郎のものは手元にある改造社版全集の第十二巻の塵を払つて枕頭に運んだ。龍之介のものは特に持つて来て貰つた岩波の戦後版の「文芸的な余りに文芸的な」を改めて繙いた。龍之介の全集は以前に盗み出され、わが架上から失はれて久しい。岩波のこの本ははじめてみる版である。


 億劫なと思ひながらも読みはじめてみると、龍之介のも潤一郎のも、さすがに練達な文章の自由自在な表現力に今さら敬服しつつ、ともに百頁にあまる一文を一気に通読してすこぶる面白かつた。さて往年、これ等の文字もんじに優るとも劣らない言葉で談笑を恣にして時の移るのを忘れた日夕をそぞろに思ひ出し、二人の故人(一人は亡く一人は今は遠い)の文章のところどころにわが名の出て来るのをわれながら懐しみながら、人の僕を潤一郎対龍之介の論争の回顧者として最適といふのも、まんざらに当らぬでも無いと思つた。


 あれも昭和二年かその前年でもあつたらうか。まだ寒さの残つてゐる早春であつた。偶々関西から上京して、帝国ホテルの一室に宿泊してゐた谷崎の招くままに、僕は芥川を伴つて(?)訪問した時、夜の更けるのも忘れて三人文芸談に花を咲かせて、高談四壁を驚かせたものか、不意に東隣の壁をはげしく蹴る音に愕かされ、やつと気がついて高声を低声に改めはしたものの、話は滾々として尽きないのに、隣室の客は我々を全く沈黙させなければ措かない気と見えて、いつまでも蹴りつづける。が、我々は感興に乗つてゐるし幾分意固地になつてゐる気味もあつた。それでも、さらばと譲歩して最後には是非なく室から退去して、ロビーに出て見ると幸と玄関脇のストオヴには太い薪が一本まだ半分ばかり燃え残つてゐるのを喜んで、今は誰憚るところなく談論をつづけてゐる間に、入口や窓など刻々に白んで来るのを見ながらも、飽くまで昂奮し切つた我々は、誰一人睡を催す者も無く、唯、芥川は睡の足らぬ春暁の寒さに焚火の前に外套の襟をかき合せ、谷崎はしきりに空腹をうつたへてうまい味噌汁をと云ひつづける内に、夜は全く明け放れた一夜のあつたのを思ひ起した。その未明には多分、谷崎の親友笹沼氏を驚かして、そのお茶の間の朝餉の恩恵に浴したかにおぼえてゐる。ともあれ、我々三人は当夜みな完全に文学壮年であつた。我々は一滴の酒をも飲むでもなく、一刻も仮睡するでもなく唯だ他の文学論を聞き己の説を吐く楽しさのためだけに、夜を徹して終に語り明したのであつた。


「饒舌録」の面白さといふのも「文芸的な余りに文芸的な」の楽しさといふのも、所詮は帝国ホテルの早春の一夜の炉前閑話が、活字になつてゐる楽しさ面白さに外ならぬものである。あの二人のあの巧妙洒脱な話術がそのままで、文章のなかに残つてゐるのも僕にはうれしい。
 帝国ホテルのロビイで太く短い丸太の薪のうへを這ふ炎を見つづけながら、我々が交々に語つた、文芸的な余りに文芸的な饒舌の、一夜の間に展開したさまざまな話題のなかにも勿論、時にはお互に意見の背馳する事があつた。互に争つて自説を開陳し主張した。とは云へそれは決して論争といふものでは無く、相手と異つた自説を披瀝して喜ぶだけの事であり、他の説に服しない場合にも他説の不備を指摘してその反省を促す程度のもので、所謂論争のやうな熱情も伴はず、論旨としても敢て徹底を期してゐるのでも無く、云はば温雅な談笑に多少の波瀾を求めるためのものであつた。相手が自説に服すると否とはもとより問題では無い。そんな事よりも彼等はその間に気の利いた表現の一句でも見つかれば満足したのである。彼等はそれほど都会人であり、またエゴイストである。論争などといふ田舎議員のやうなヤボなふるまひを公然と出来る種族ではない。
 それ故「饒舌録」も「文芸的な余りに文芸的な」も何れ劣らぬ興味津々たる文藻であり、その学識は畏敬すべく論旨は傾聴して蒙を啓かれる節に乏しくないにもかかはらず、その主張しようとする要旨は改めて読み直してみても、依然としてあまり明確にならないのは決して僕の理解力や把握力の不足のためではない。
 書いたものだけに勿論、一場の談笑にくらべては可なり十分な用意を示してゐる。それでもまだ筆鋒が鈍く、説くところの明確で無いのは、表現力に不足の無い彼等だけに、思考がまだ十分に熟しないで、書きながら考へるという摸索中の段階にある思想の形態を持つたのが、あの「筋のない小説」談義ではあるまいか。あの説は「文芸的な余りに文芸的な」に現はれただけではまだほんの思ひつきの域からあまり遠く出ないあやふやな意見のやうに思はれる。時には「話のない小説」と云ひ、時には「筋の無い小説」と呼んでゐる事実などもその例証になるであらう。再三繰り返されながら最後まで一向に発展せず固まらないでしまつてゐる。「文芸的な余りに文芸的な」ではかへつて潤一郎との応酬に関係のない部分の方が芥川の識見を多く示してゐるのも奇妙なものである。あれは論争では無い。断じて論争では無い。各々お互に自説を譲らないだけで相手を説得せずは休まないといふ意気込などは少しも見られない。あんな論争などはあつたものでは無い。論争とすればよほど間の抜けた洒脱なもので、そこがあの双方の文章の無駄話風な面白いところでもあらう。
 しかし龍之介が云ふとほり「批評も亦文芸上の一形式であり、僕等の誉めたり貶したりするのも畢竟は自己を表現する為であらう」と寔や龍之介は「文芸的な余りに文芸的な」によつて彼の諸作品に劣らず彼自身を生き生きと表現してゐるのはでたい。


 芥川の主張しようとしたところはまだ不確かに、最後まで未完成ながらにも、最初の章から既に、ほぼ云ひ尽されてゐる。曰く――「話らしい話の無い小説は勿論唯身辺雑事を描いただけの小説では無い。それはあらゆる小説中最も詩に近い小説である。しかも散文詩などと呼ばれるものよりも遙に小説に近いものである。僕は三度繰り返せば、この「話」のない小説を最上のものとは思はない。が、若し「純粋な」といふ点から見れば、――通俗的興味の無いといふ点から見れば最も純粋な小説である。もう一度画を例に引けば、デッサンのない画は成り立たない。(カンディンスキイの「即興」などと題する数枚の画は例外である)しかしデッサンよりも色彩に生命を托した画は成り立つてゐる。幸にも日本へ渡つて来た何枚かのセザンヌの画は明かにこの事実を証明するのであらう。僕はかういふ画に近い小説に興味を持つてゐるのである」
 とかう書いた後に龍之介は、彼の説を具体的な例で示さうとして、例の博学で独逸の初期自然主義の作家たちといふものまで持ち出しさうにしたが、話をわかりやすく、その頃岸田国士訳の現れたジュル・ルナアルの「葡萄園の葡萄作り」のなかの一篇「フイリップ一家の家風」を彼の所謂「話のない小説」の一例として挙げて、「一見未完成かと疑はれる位である」が実は「よく見る目」と「感じ易い心」とだけに仕上げる事の出来る小説であると云つて再びセザンヌやミケランゼロを例に引きロダンのミケランゼロの作品評などを引合に出して彼は博引傍証甚だ努めてゐるが、折角の苦心も彼の説を明確にするには実のところあまり役には立たないで、少々人を煙にまくだけのもので、一そ、それよりも「ではかういふ小説は紅毛人以外には書かなかつたか? 僕は僕等日本人の為に志賀直哉氏の諸短篇を――『焚火』以下の諸短篇を数へ上げたいと思つてゐる」といふ一句が龍之介の云はんとしたところを最もよく伝へてゐるやうに僕には思はれる。さうしてそれならそれとはじめから云へばいいのに、妙にもつてまはるのは龍之介の悪い癖だと不平を云ひたくなる。
 一たい龍之介は晩年に、葛西善蔵のものとともに志賀直哉の作品に傾倒してゐたのは人の知るところである。ところが潤一郎は志賀直哉の人と作品とを尊重しながらも、その作風を不満として「あれでは小説の袋小路へ這入つてしまふだけだ」と悪意のないかげ口を利いてゐたものであつた。これでは潤一郎と龍之介との説の岐れるのもむしろ当然であらう。


 僕の勝手に理解するところによれば、龍之介は常識に代へるに詩情を、プロットに代へるにシチュエーションを以つて小説を成り立たせようと夢みてゐたのではあるまいか。もつと具体的に云ふならば彼は曩日の自作「地獄変」「戯作三昧」などの小説世界から立退いて「蜃気楼」へ向はうとする途上にあつたのである。僕はその当時龍之介に向つて
「君は何か新らしい俳文のやうな境地を求めてそれを新らしい小説にしたいと思つてゐるのでは無いのか、君のいふ『話のない小説』とはそんなものとは違ふのか」
 と聞いてみた事があつた。彼はそれを別に否定しないで、次の機会に久米正雄に僕の意見を紹介してゐるのを僕は聞いた。かういふ事実に原づいて、僕は龍之介が
「『筋のない小説』とはどう云ふものかも容易に理解しては貰はれないらしい。僕は弁じられるだけは弁じた。二、三の僕の知人は正当に僕の説を理解してゐる。あとはもう勝手にしろといふ外はない」
 とややヒステリックに書いてゐる時の彼の説を正当に理解した彼の二、三の知人といふのを、或は久米や僕自身などを暗に指してゐるのでは無からうかと考へてみて、僕は僕の「話のない小説」新俳文説を当らずと雖も遠からざる解釈と思つてゐる。――例へば荷風の「勲章」の如きを僕は新俳文的「話のない小説」と思ふ。
 更に憶測するならば龍之介は龍之介の所謂「僕等の兄」と称した潤一郎の小説から志賀直哉、葛西善蔵の作品の方向に目ざしてゐる理由の説明が「話のない小説」の説なのではあるまいか。また潤一郎がそれに気づいて話を簡単に切り上げて、龍之介のお相手をやめたのではあるまいか。ともあれ、潤一郎の意見も彼の作品の存在理由と彼の作家としての志とを披瀝したもので、何れも力説ながら論争といふよりも言志の部分の方がよほど多い。この推測と判断とに間違ひがないとすれば龍之介の「話のない小説」の説は「文芸的な余りに文芸的な」よりもむしろ「個人的な余りに個人的な饒舌」とも見るべきであらう。


 龍之介の主張がとかく明確を欠き、単に暗示的なのに較べると潤一郎の所説はちやんと筋のとほつたものとして、誰にも異議なく受取れるものであらう。と云つてこれを潤一郎の云ひ分が優れてゐるといふ意味に早合点されてはならない。それは必ずしも潤一郎のが名論卓説といふのではなく、かへつて潤一郎説の弱点のためと見られないでも無いことを特に注意して置かう。といふのは、小説は筋を重んずべきで、それを捨てるのは小説の特長を好んで棄却するものだと云ひ、また小説の構造的美観を重んぜよなどの潤一郎説の骨格になつてゐるものは、決して潤一郎独自の説では無く、むしろ改めて縷説するにも足りない通念をそのままの保守的な考へで、事めづらしくも無い小説の常識論だけに何人にも直ぐ納得が行くわけで、敢て今更潤一郎の説くを煩はさないところのものである。もしそのなかに何か特に見るべき点があるとすれば、潤一郎がその保守的な見解を後生大事に何の疑ひもなく信念としてその理念に安住してゐる点であらう。これが潤一郎の常識論を俗論の謗から救ふ唯一の点でもあらう。だから龍之介も勿論、潤一郎の説は夙に理解しないではなく、むしろそのあまりに常識なのに対してわざと異を樹てるのでは無くとも、独自の見解を開陳したくなつたのでもあらうか。また潤一郎にしても意固地に自説を守つてゐるとは云へ、勿論最初から龍之介説がまるでわからないほど頑迷でもない筈である。彼がヂョーヂ・ムーアの「ユリックとソラハ」に就て
「文体は同じで部分部分には矢張り美しい。かういふ風に、筋で持つて行かずに気分や情調で持つて行く歴史物も亦捨て難い……」
 と「饒舌録」に書いた時、特に傍点のあたりなど、潤一郎は龍之介説と殆ど近いあたりに居るやうに見える。ここをもう一歩突き込んで掘りかへさせて見たら、龍之介の意見が潤一郎を納得させるよい機会であつたらうにと思へる。
 ともあれ潤一郎の説は本筋の意見で、誰にもわかりがよく堂々としてゐるが、ただそれだけなのに反して龍之介のは聊かひとり合点の気味はありながら、颯々たる新風を薫らせ、小説の天地にもまだ発見すべく開拓すべき新天地があるのを思はせてめでたいものである。この意味では龍之介の説は一概に個人的なものでは無く、また見かけのよい潤一郎の議論にも決して劣らない。不完全ながらに飽くまで独自の新説なのがよい。しかもそれが、容易に理解されないといふ歎声を龍之介に発せしめた所以なのである。遂に一般に理解されないのが独創と新説との運命なのである。
 この恰も談笑に似たものをさへ、もし論争と見るならば、この論争は潤一郎の公論と龍之介の新説と、ともに一長一短があつて勝負なしの引分けでもあらうか。興味あつて悪意なく、各々所信を述べる外に他意の無い君子の争なのが最もよい。
 必ずや潤一郎とてもこれを承認するに吝でないであらう如く、龍之介がまさしく言つてゐるとほりに、僕も亦「話らしい話のない小説を最上のものとは[#「ものとは」は底本では「もとは」]思はない。しかしさういふ小説もたしかに存在し得るとは思ふ」それで引分説の判者らしい云ひ方をすれば僕は谷崎流の神巧鬼工を珍重すると同時に、芥川式の神韻鬼趣をも絶讃する。そればかりか、何もその一方とばかりは限らないで、双方を同時に綜合した作品さへあり得るのではあるまいか――もし天下にその才能さへあるならば。
 話のない小説の手近な例として、志賀直哉の「焚火」を例とするのはよろしいが、鴎外の「追儺」はより適例ではあるまいか。なほ紅葉全集を採つて蛇足を補へば、「金色夜叉」よりも寧ろ「青葡萄」を「三人妻」よりも「むき玉子」といふのが、龍之介の説で終に潤一郎の諾ふところとならないところであつたと、双方の云ひ方を仮りにかう要約的に表現して見ては当らないであらうか。なほ荷風の「勲章」の如き作品を予言したのか? これを問うて見たいが境を異にして龍之介の耳に入らないのは恨事である。


 この論争(?)は潤一郎の記すところによれば、改造新年号(昭和二年のであらうか)に潤一郎が記したところを「新潮」二月号の合評会記事で龍之介が問題にしたのに端を発したもののやうであつた。当時は、僕も新潮合評会の常連見たいであつたから多分当日も席上にゐたはずであらうが、今はまるでその記憶もない。論争としては一向花々しい応酬では無くあまり発展しない議論であつたが、何しろ花形作者同士の小説論といふところで人気のある話題であつたらしい。それでゐて誰をもあまり啓発するところもなく龍之介をして徒らに容易に理解されないと歎かせたのは気の毒である。思ふに文壇とやらはいつの時代にもゴシップ以外のものは何ものをも求めず、すべてをゴシップ化するだけのところである。しかし潤一郎と龍之介とはそんな事には一向おかまひもなく、改造(龍之介の方はどこであつたらうか)誌上の文字でばかりではなく、顔を突き合しての対談でもこれを話題にしてゐたのを僕は聞いてゐる。論争では無く文字の上での談笑にしか過ぎないといふ僕の意見はかういふ事実から来てゐる解釈かも知れない。しかし談笑の間でも「で」「例へば?」などとなかなか口利く言葉を切り結ぶ龍之介であつたから、筆鋒の方がかへつてにぶいぐらゐなものである。
 龍之介から出て久しく(断続的に一年ばかりも)つづいたこの論題に、今更僕が引分けを宣告する必要もなく、聡明な両論客は自身で夙にこれを覚つて、先づ潤一郎が体力の相違と論を収修しようとするのを、龍之介の方では体力の問題ばかりには帰したくないらしく、式部日記の一節から彼女が清少納言を評し且つ戒めてゐる一節を引用して潤一郎に答へて「……議論の是非を暫く問はず、『饒舌録』の文章のリズムの堂々としてゐる為ばかりではない。往年深夜の自動車の中に僕の為に芸術を説いた谷崎潤一郎氏を思ひ出したからである。」と応酬を結んでゐる。
 気質、生活態度などの一切をひつくるめた上で、それを体力(龍之介の所謂動物力)の相違と見ることは当らぬではあるまい。龍之介の衰弱したヴァイタリテイはその後久しからずして彼自身を忽焉と他界に導き、「文芸的な余りに文芸的な」は彼の文学信条を語る遺書となつたのを見てもわかる。
 とは云へ「話のない小説」の説をただ衰弱した体力の所産とばかり片づけ去ることは出来ないし、潤一郎と龍之介とではただ体力の相違とばかりに片づけ切れないものが何か残るやうな気がせぬでも無い。
 龍之介に倣つて画に例をとつて云ふならば、潤一郎は結局、紫派(日本洋画壇で初期印象派を呼ぶ語である)以後の理解者とは云ひ難いのに反して、龍之介はゴオガンやルドンなどに対して異常な魅蠱を感じてゐたのはその自ら記してゐるとほりである。彼はその頃ゴオガンの最もいい蒐集がモスコオにある事を僕に教へて、それを見るために一緒に行く気はないかと誘つたので、僕も仮りに賛成したものであつた。これもやはり体質か、気質か、それとも趣味かはた教養のためかその原因は知らないが、ともかくもかういふ相違が、「僕等の兄」と敬まひ、また往年の深夜の自動車のなかの友情を今も忘れず感じつつも、龍之介をして
「大なる友よ、汝の道にかへれ」
 と気の弱い捨ぜりふを残して見返りがちに潤一郎から遠退かせた。
 龍之介が議論の間に処々に鏤めた潤一郎に対する言辞は気の弱さから出たとも、都会人の社交性とも見られるが、これに対して潤一郎の方は、先輩の自覚と生来の気質とから龍之介の神経質な態度に較べると無遠慮に近いもので、「言語蕪雑、或ひは礼を失したかも知れぬが、そこは平素の心安だてに赦して頂く」と云ひながらも、かなりづけづけと云つてのけた所も二、三ならず見られる。その頃、潤一郎の話では龍之介から洋書か何かを贈つて来たのを、一方で議論を戦はしながら贈物でもあるまい、謙信が塩を送つて来たのとは違ふと思つたから返したが、今にして思へば形見をくれるつもりであつたらしい、悪い事をしてしまつたと後々潤一郎が気に病んでゐたのが思出された。「饒舌録」の後半を占めてゐる昨の談敵に対する哀傷と弔意とは潤一郎の人としての美質を示すとともに、潤一郎の同情ある龍之介観を語つてゐる。
 やはりその頃の事であつたが岡本の潤一郎の家へ龍之介と一緒に行つて、一、二泊した時、誘はれて主人夫妻とともに文楽の人形芝居の狐火などを見に行つた時の事が「文芸的な余りに文芸的な」の二十二「近松門左衛門」のなかに書かれてゐるが、その時潤一郎が弁当として用意して行つたすしを龍之介は酸過多で食べられないと一つも手を出さないで、我々のためにお茶ばかり汲んでくれてゐたのも思ひ出にわびしい。
 文楽見物は多分、改造社の講演か何かでおほぜい大阪へ乗り込んだ時であつたらう。帰途は芥川とふたり同車で並んでゐたがこれもまだ春の早い頃で、龍之介は窓外に見出した風景から
「小枕の垢や伊吹に残る雪」
 を思ひ出して車中のたのしげな俳談(その内容は忘れた)のあひだにも彼は関ヶ原の余寒に辟易してゐたのをも忘れない。先日も関ヶ原を通過して伊吹を見るとともに、その時の龍之介を思ひ出した事であつた、序に記して置く。





底本:「定本 佐藤春夫全集 第24巻」臨川書店
   2000(平成12)年2月10日初版発行
底本の親本:「わが龍之介像」有信堂
   1959(昭和34)年9月15日発行
初出:「文学界 第五巻第七号」
   1951(昭和26)年7月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※初出時の表題は「論争回顧 その四」です。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:焼野
校正:きりんの手紙
2019年6月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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