新詩社と石川啄木

――一つのおぼえ書き――

佐藤春夫




 お前はきつと新詩社のころの啄木は知つてゐるだらう。かういふ質問を時々受ける。明治四十年代、新詩社は既に解体しながら、その後身とも云ふべき「スバル」に啄木が編集同人をしてゐたころ、十七八の自分は啄木の選歌に応募した事があつた。啄木の外には杢太郎の選歌にも一度投稿した。だから先輩とは云へ、啄木とは大体同じ時代なので、彼を知つてゐるだらうといふ質問は決して見当外れではない。どこかで必ず会つてゐていいはずだと自分でもさう思ふ。ところが自分は啄木を一度「スバル」発行所(神保町の角から九段寄の右側を七、八軒目ぐらゐを通から少し奥まつたところにあつた弁護士平出修氏宅)に行かうとしてゐた時、その玄関前で見かけたみすぼらしい短身のうしろ姿(たしかかすりの袷に羽織なしではなかつたか)を、啄木だと教へられたのを一度注意した以外に、啄木にはつひぞ会つたおぼえもない。その時啄木を教へたのは同郷の和貝彦太郎氏、夕潮と号した新詩社の同人で当時は上京して麹町番町の与謝野先生のお宅の書生格の食客をしてゐた人で、啄木とは時々顔を合してよく知つてゐた様子である。
 その時はやはりスバル発行所へ行くつもりでここまで来たのであつたが啄木のうしろ姿を見かけると、何故か和貝氏は発行所へは立寄らないでしまつたので、終に啄木と同席する機会とはならなかつた。
 人の問に答へて、いつもこの事実を云ふのが恒である。ところが或る時、いや会つてゐない筈はない。必ず会つて言葉を交してゐると云ひ張る人が出て来た。その人は折からその時与謝野家から借り受けて来た写真にその証拠を持つてゐるといふので、その写真を取り出してくれたのを見ると、与謝野寛先生渡仏送別会の記念写真で、前列中央に鴎外ひろし両先生が並んだその後列の左に高村光太郎氏が一きは背が高く、その両脇にゐるのが紛ふ方なく一人が啄木、ひとりは学生服の自分に相違ない。
 かうして同じく写真にうつつてゐる限りは、この時一度にしても会つて口ぐらゐは利いたに相違ないと云ふのである。なるほど、会つてゐることは現にこの証拠があつてもう争ふ余地もない。自分が忘れてゐたのである。しかし口を利き会つた記憶はまだどうしても思ひ起せない。そこで思ふに、自分は元来が無口で柄になく人見知りをする性なので初対面の人になれなれしく口を利くことはめつたにない。それに啄木もきつと子供のやうな自分には何等の言葉もかけないで紹介されてもお互に黙礼ぐらゐを取交してすましたものと思はれる。これは推定であつて記憶ではないが、ともかく啄木と話をした記憶は更にない。もしその事実があれば、当時、啄木には決して無関心でなかつた自分がそれを印象してゐない道理はないと思ふ。
 と云つて自分はわが記憶をそれほど信頼してゐるわけではない。それどころか現にこの記念写真を見て、当日は公務多端のため退庁がおくれ、帰宅して着がへるひまもなく役所から直ぐ会場へかけつけたと時間ぎりぎりに参会して軍服のままであつたとばかり、その申わけまではつきり記憶してゐる鴎外先生がこの写真では白い袴を召した和服で、中央に足を組んでうつつてゐるのに驚いた。軍服で立ち上つた先生のテーブルスピーチの様子や椋鳥主義を説いたその送別の辞まで忘れないでゐる自分は、この写真を一見して自分のあまりにもあざやかな記憶を自らあやしみ疑はざるを得なかつた。爾来、自分は自分の記憶力から一般の記憶と称するものの信用をさへ失墜した。自分はきつと別の時の事をこの時と混同してゐるのであらう。或は帰朝歓迎会とでもあらうか。
 さういふわけで、自分がこれから記さうとする新詩社に於ける啄木の事どもも、前記の和貝夕潮や、また好んで啄木を語つた生田長江先生や一ころの生田春月(この人はゴシップ屋であつた)などの談話にもとづいた記憶伝聞が多いのであるが、これとてもあまり正確だといふ自信もない。新詩社の記録、与謝野寛先生の口授になる年譜(これも年代などの記憶ちがひらしいものが尠くないと聞くが)や啄木伝などを参照したら、或はうたがはしいふしにも気づき、もつと明細がわかり、或は自分の記憶してゐるところが記録で裏書きされる資料も出て来ないでもあるまいとも思ふが、今はそれだけの手間はかけない。たとひ誤伝をそのまま、或は更に不たしかに記憶してゐるかも知れないとしても、自分の観てゐる彼の人及び文学に対する管見に照し合してみて、これ等の新詩社に於ける啄木伝説ともいふべきものにはたしかに伝説の真が含まれて虚実にかかはらず、彼に対する自分の印象批評として取り上げてよいものと思ふ。
 啄木が中学の低年級で新詩社に入社して歌稿を新詩社に寄せたのは人の知るとほり、明星誌上で今も見られるとほりであるが、歌は終始一貫して晶子の模倣に過ぎなかつたから、寛先生は「そんな人真似歌はやめよ」と云ふ代りにこの少年才人をいたはつて短歌よりも一そもつと自由な長詩でも作つてみたらと勧告して出来たのが詩集「あこがれ」の一巻であつた。ところがそれも亦、泣菫や有明の巧妙な模造品にしか過ぎない点では、晶子まがひの短歌と大差ないものではあつたが、十八九の少年の仕事といふ条件の下に異常に感心されて終に社の内外から天才啄木と謳はれるに到つたものであつた。その詩は流麗雄弁で、よく長句を駆使してゐるうへに作意にも一ふしはあり、それに流行歌調の二番煎じだといふ点に解り易く人気の出る理由は十分にあつたが、決して上乗のものとは云ひ難からう。せいぜい少年才人の作で天才などとはおだてるも甚しい話であつた。少年時代の啄木は終に一介の巧妙な模造品製造工にしか過ぎなかつた。とは云へ、常に当代の第一級品の模造にのみ志してゐた所は、只の鼠ではなく、彼が詩歌の鑑識にかけては夙に一隻眼を具へた批評家であつたのを証するに足るものであらう。
 二三年後に上京して屡々新詩社にも出入した啄木はその才気と可憐な風貌とで師の夫妻から愛し保護された。わけても晶子はその年来の模倣者の才能を認めその貧困の境涯をいたはつて大成を励したものである。啄木は後年新詩社の諸友には反感を抱いたが、その時にさへ師の夫妻はかはらずに敬愛し、特に晶子には姉に対するやうな敬慕を終生寄せてゐた。
「あこがれ」の好評に気をよくした啄木は第二詩集の稿本を抱いて上京したが、出版元を見つけることができないで、これによつて家の負債を解決しようとした目算もはづれて逆に旅費の負担を家にかけただけの結果で、すごすごと帰郷したが、この時の上京の費用調達がやがて一家離散の一因ともなつた。
 彼はおひおひと詩歌に対する志がうすらぎ、やがて野心は散文に向ひつつあつた。それに少年期を過ぎて早熟な彼はもはやロマンティシズムの夢もさめ、窮迫した生活は以前のやうな詩歌ではとても表現できないと気づきはじめたのであらう。折から国は日露戦争後の膨脹期に入つて文壇には自然主義運動の火の手が燃えさかる機運に促されるところがあつて、彼はおもむろにさうして確実に散文精神に赴いたのではなからうか。生来の批評家であつた彼は時代の趨勢に対しても並々ならぬ敏感をもつて正しく反応した。さうして当年の二大潮流とも云ふべきものは実に自然主義と社会主義とであつた。彼の文明批評の色彩に富んだ評論雑筆の類が、彼の時代の尖端を行く風であつたことを能く証明してゐる。
 全集以前には、時々明星に発表された以外にまとまつて上梓される事のなかつた「あこがれ」以後の彼の詩は、一般の批評には上ることは絶無に近かつたが、ひとり新詩社の指導者とも云ふべき鴎外の夙に注目する所となつて、有明は泣菫に優り啄木は有明に優ると云はせた程であつた。鴎外のこの啄木評は早くから一般に知られたが亦一種の伝説のやうなものとして、その根拠は一向に明かでなかつたために、啄木やその周囲の宣伝か何かのやうにさへ思はれてゐた程であつたが二三年前、鴎外の令妹小金井きみ子女史が征露第二軍陣中から家兄の寄せた消息文の疎開地から無事に帰つたのを見たにつけてその散佚を惧れて雑誌「浅間嶺」に発表した書翰中に前記の一般に流布されてゐる啄木評の文句が見られて、あの伝説的流説の根拠もはつきりした。手紙にはその意見は内聞にするやうにと注意してゐたが内聞に附すべき時期もすぎたため、晶子女史晩年の門人で新詩社の道統を守り伝へてゐる岩野喜久代女史の雑誌「浅間嶺」にはじめて公表されたのである。新版の岩波本鴎外全集にも収録された筈だから、ここには全文を引かない。
 鴎外がどうして啄木の「あこがれ」以後の世にかへり見られなかつた詩を、そんなに早くからそんなに高く評価したのか。事は新詩史上重要な問題でもあり、これに関しては少しく脇道へ入つて言葉を費して置きたい。
 三十年代後半期のいはゆる星菫派の幽玄や朦朧体の高蹈を気取つた詩風に対してあきたらなかつた(この事はきみ子宛の手紙にも明かに記されてゐる)鴎外は、一時、歌には「ゆめみるひと」詩には「腰弁当」の甚だ散文的な筆名を用ひて作品を発表したものであつた。腰弁当の作は星菫派の夢幻的ロマンティシズムの趣味や観念をはなれて詩を日常生活の見聞のなかから直接に汲み取らうとする傾向のものであつたから、鴎外は啄木の詩のなかからもその芸術主義よりも生活主義に赴かうとする詩情を汲み取つてこれを尊重したものに相違ない。
 詩技の巧みや、句法の妙は、その時鴎外には問題ではなく、古典的完成に近づいた泣菫のものよりも近代的の観念のある有明のものが、その有明の詩情よりも日常生活に根をおろさうとしてゐる啄木のものを価値多しと見た事実は当時の鴎外の作詩から見れば寧ろ当然である。
 啄木の「あこがれ」以後の詩には、まだはつきりとした意識はなかつたとは云へ、それでも生活感情に根ざした孤独悲愁の詩情のうごめきが以前の趣味的ロマンティシズムから脱出しようとする努力となつてほの見えてゐたのを鴎外は頼もしい展開として見のがさなかつたのであらう。
 啄木は新に目ざめた現実尊重の散文精神を散文によつて試みる以前に、これをその詩作のなかで生かして見ようとしてゐるのが「あこがれ」以後の詩作ではないだらうか。その不徹底の過渡期の試みが、詩としては「あこがれ」のやうに当時の既成詩人たちには同感されないものでありながら、いつもすべての試みを愛した、詩壇の先駆的異端者「腰弁当」の目にだけはとまつたのだと見える。
 果然、啄木はその後しばらくして、生活感情の尊重をはつきりと自覚して、それを詩壇に要求した詩論をものしてゐたが、その一文の題は今思ひ出せない。
 時勢の変遷に加へて、北原白秋等七名の連袂脱退によつて新詩社はおもむろに内部崩壊に瀕し機関誌「明星」は百号を記念して廃刊された後、平出修、茅野蕭々等の残留組が改めて師匠の上に鴎外を盟主と仰いで雑誌「スバル」を発刊するに当つて、啄木を編集同人に加へたのは同人同士の意嚮よりも、より多く鴎外や与謝野夫妻の啄木に対する愛情によるものではないかと思はれる節があると云はれてゐる。啄木は当時、他の同人たちから積極的に排斥されたと云ふのではなくとも消極的に敬遠され疎んじられてゐたかの様子はあつた。新詩社の反自然主義的情勢の間にあつて残留組のなかでは啄木だけが自然主義に傾き、その機運に乗じて詩歌から散文にのり移らうとする野心を持つてゐたかに見えた。啄木が師夫妻の外、新詩社の諸友と相容れなくなつてゐたのは、根本にはかういふ思想上の相違もあつたためであらうが、人々のなかで最も年少な啄木がなまなかに気を負つてゐたために何となく小生意気な好ましくない奴といふやうな感情がわだかまつてゐたらしい。偶々啄木が編集の当番になつた時、スバル誌上に専断で歌を六号活字に組んだと云ふやうなつまらぬ理由から日ごろの感情が爆発して啄木が他の編輯同人から排斥されさうな形勢になつたのを師夫妻で辛ふじて食ひとめた事もあつたやうに聞き及んでゐる。
 それとても決して一方的な感情ではなく、啄木の方でも、その頃の新詩社同人で多少とも重んじてゐたのは砕雨、高村光太郎だけではなかつたらうか。天才と云はれる人に会つてみたら手の大きな人であつたといふ意味の歌で天才と云はれる人といふのは高村氏の事なのだといふ説明を、そのころ誰やらが自分に教へたついでに啄木の砕雨尊重の事をも云つてゐたのをおぼえてゐるから。
 スバルの初期、啄木が意気込んで書いてゐた数篇の小説はスバルで華華しく発表されながら一向に世の注目をもひかず仲間でも尊重されないのに啄木はくさつてゐたといふ。
 しかしこれ等の小説を書きながらおのづと体得した散文精神がその発散する場を今度は長詩ではなく短歌のなかに見出したのが、彼のいはゆる「悲しい玩具」なる啄木晩年の生活に即した独自の歌なのである。啄木短歌の生れるまでの径路を自分はザッとかういふ風に見て納得してゐる。
 あの歌の風体のなかには新詩社の仲間に対する嫌悪反感のやうなもの(それはやがて過去の自己に対する反逆と同じものであるが)も少からず作用してゐると思はれる一方、腰弁当の詩や同じころの新詩社中の一才人香川不抱などの一種の無頼体とも呼ぶべき風体なども互に相応呼して啓発し合ふものがあつたのではないかとも思はれる。
 漠然とではあるが、かう考へて来ると、新詩社の一異端である啄木の晩年の歌も新詩社にとつて必ずしも全く意外な産物ではなかつたと見做してよからう――たとひ啄木やその信者がそれを喜ばないにしても。





底本:「定本 佐藤春夫全集 第24巻」臨川書店
   2000(平成12)年2月10日初版発行
底本の親本:「現代隨想全集 第三十卷」東京創元社
   1955(昭和30)年5月28日発行
初出:「文芸 第一二巻第四号臨時増刊 石川啄木読本」
   1955(昭和30)年3月1日発行
入力:焼野
校正:きりんの手紙
2019年1月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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