永井荷風

佐藤春夫




 先生に関しては約半世紀の追想があり、既に蕪稿も千枚近く書いて来た。その結論をここに今二枚に要約するのは相当にむつかしい。先生は自ら無頼漢を以つて居られるが、実は良家の躾の身についた紳士で、その躾とお屋敷風に反逆したのが荷風文学である。その人は温厚純良性の、然し先生をして天下の大作家たらしめ同時に亦、自称無頼漢たらしめたのは専ら先生の異常な色情のためである。
 芸術とは所詮、情慾の一変形に外ならぬ。名文家と好色家との間にある心理的もしくは生理的な必然の関係は将来必ず研究発表されるであらう。ダンヌンチオの詩文、レニヱーのもの、わが荷風文学も亦その時の有力な証左として引用さるべきものであらう。色情は本来、生物天与の最大至高のものである。それを芸術にまで昇華発散させるのが人間獣の能力、妙作用である。色情によつて森羅万象、人事百般を光被させるのが所謂芸術の天分である。グルモンの所説の如く美学の中心は心臓よりももつと下部にある。この認識が荷風文学を理解の有力な鍵である。
 詩文を又婦女を語る時の青年にも勝る情熱と七十翁のあの漆黒の毛髪とは僕をして如上の事を思はせる。先生は老来益々筆硯多祥の結果自らに山積の財は遺言して吉原病院に寄附せしめるとか巷説は伝へる、甚だ面白く伝説的真もある。要するに先生は世にも高雅な猥人(みだらびと)とその末流我らには仰がれる。
 思へば十数年前、先生一代の情人の写真集、今は老の徒然に未だ時折これを見る用もあるがわが百年の後は全部取纒めて汝の所有と明記し遺し汝に附与せんと申されたが、爾後、身は御不興を蒙り、肝腎のこの艶蒐集も偏奇館炎上とともに失せ可惜あたら佳人の面影は戦火に灰燼となつた。先生が多情多恨の生涯長久なれ。





底本:「定本 佐藤春夫全集 第24巻」臨川書店
   2000(平成12)年2月10日初版発行
底本の親本:「読売新聞」
   1952(昭和27)年2月11日発行
初出:「読売新聞」
   1952(昭和27)年2月11日発行
入力:焼野
校正:菜夏
2017年11月24日作成
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