小泉八雲に就てのノート

佐藤春夫




 小泉八雲全集を読んで一番感心することは、この詩人が同時にえらい批評家だといふ一事である。正岡子規が一面に於て大批評家を兼ねてゐたのと好一対である。この事は一見意外のやうでもあるけれども、別に不思議ではない。何者であらうとも一家をなす程の人には一家の識見は厳として具はつてゐるものである。それだけの識見を持てないやうな人は、たとひ多少才能があつたにしても才能は仕事するごとに磨減してしまつて決して大をなすものではない。
 八雲は誰も知るとほり自分で自分を教育して来た人である。即ち八雲をあれだけに仕上げたのは彼自身のなかにいい教師がゐたので、そのいい教師の重なるものはその批評的な一面であつたと僕は考へるのである。八雲は彼のなした学校の講義のなかでこんな事を言つてゐる――警戒すべき事は、独力で勉強する人間の陥入りやすい弊害はプロヴィンシヤリズムである云々(プロヴィンシヤリズムといふ言葉に八雲は適当な註訳を加へてゐたが、僕は忘れてしまつたけれども、簡単に言へばまあ所謂投書家気質とでも考へてよからう。)八雲はその警戒をいつも彼自身に加へてゐたに違ひない。
 大学の講師としての八雲は、決して同じ講義を二度としなかつたといふ事であるが、これだけを聞いても彼の勤勉な学徒であつた事が知られる。ウイリヤム・ブレエクの事を二度話してゐるが、その二つの講義は同一の題目をまるで別の見地から論じたものである。
 八雲は異国の青年学生たちに、世界の最近の文学的風潮を伝へながらその題目を通して文学の本質に触れようと試みてゐる。これは実に聡明な仕方である。ブレエクにしろボオドレールにしろ、ゴオチエにしろロセツチにしろ、スインバアンにしろ、ブラウニングにしろ、今日でこそ一般的の名になつてゐるが、当時にあつては日本では無論のこと英米の読書界では決してさう普遍的なものではなかつたらしい。しかも八雲はそれを捉へて適切な評価を下してゐる。すべての人々からその美点を挙げて学ぶべき点を数へてゐるのも注目すべきことである。学生に対する講義であつて純粋の文学批評ではないからでもあらうけれども、そこに彼自身の人柄も心懸も自づと現はれてゐる。しかし自分の信ずるところでは、八雲はもし必要のある場合には俗悪な文学に対しては敢然たる戦もする人に違ない。しかし、さういふ題目に就ては彼は最初から択ばなかつたのだ。択ぶ必要がなかつたのだ。それは前述の如く講義の性質から言つて自然な事である。たつた一つ八雲は、ホイツトマンに対してだけは賛成の意を表はしてゐない。これは八雲を研究するのには面白いヒントになる点だと思ふけれども、僕は無学にもホイツトマンを充分に知らないからここでは何も言へない。しかしどちらかと言へば世紀末的文学の匂を愛してゐた八雲だから、さうして内在的な世界に目を向けてゐた八雲だから、気質から言へば無論ホイツトマンとは反対に相違ない。ただあれほど理解力の広い八雲がホイツトマンの美点を喜んで認めようとしなかつた点に就て僕はいふのである。八雲はそのころ一般に文学者の間では不評判であつたトルストイの「芸術論」にさへも耳を傾けてゐる。「或る女の日記」(といふ題であつたと思ふが、或る不幸な日本の女の結婚前後から間もなく死ぬまでの事を書いたもの)を紹介した八雲には、トルストイの芸術論は或る点で充分同感であつたに違いない。
 八雲は子供のやうに好奇心の強い人らしい。最初に異国的な文学に興味を覚えてそれを愛読してゐたらしいが、ついには文字の世界だけで満足せずにそれを実行にうつした。彼自身も亦正しく「英文学畸人伝」中の一人である。彼の詩は――散文詩は、僕の見るところではさほど驚くべきものではない。彼の縷々として継続する一種の句法を持つ文体は多分英文学のうちで珍重なものであらう。澄明平淡であつてしかもその効果は幽玄である。あれは日本の古文に稍似てゐる。しかし八雲はそれを日本文学から学んだのではない。何となれば彼の極く初期の文章のなかにも既にそれが表れてゐるからである。日本の文科大学をまるで作家の養成所でもあると信じて、文体の注意や、文章の洗練方法などをまで教育した彼は、無論日本の近代文明の正鵠な観察をしてゐやう筈はない。彼はただ古典的日本のなかからちよつとした暗示を得た。さうしてその暗示の上に勝手に彼の哲学的空想を拡張して行つた。彼の描いてゐるものは我々の日本ではなく、八雲の創造した中空にある国土である。またそれであつて一向差支ない。さうしてその国土に住んでゐた人は我々日本人ではなく、八雲その人だけである。人あり若し彼の詩を認めず八雲の文学は大したものではないと言ふにしても、彼は高い風格を持つた文人であつた事だけは最も尊い事実として認めなければなるまい。僕はずつと以前から田部氏の手になつた伝記を愛読して、八雲及びその夫人に対して敬慕の情を抱いてゐる。僕が平常使ふ文人といふ言葉の真意を知りたいと思ふ人は、田部隆次氏の「小泉八雲伝」を一読するに限る。





底本:「定本 佐藤春夫全集 第20巻」臨川書店
   1999(平成11年)年1月10日初版発行
底本の親本:「文芸研究 第一巻第四号(小泉八雲号)」
   1928(昭和3)年9月1日発行
初出:「文芸研究 第一巻第四号(小泉八雲号)」
   1928(昭和3)年9月1日発行
入力:えんどう豆
校正:津村田悟
2018年5月27日作成
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