二十一日午後十一時ごろ、すでに床について、まさに眠りが訪れようとしていたわたくしは二つの新聞社から起こされて、宇野君の
思えば君との交わりは四十年に近いものである。いやもっと早くわが二十を二つ三つ過ぎたころから、君もわたくしもうずもれて志を得ないころから、わたくしは君がゆたかな才を抱いて、童話などで口すぎをしていたのを聞き知っていた。いやもっと早くお互いの学生時代、君は早稲田、僕は三田と学校は違っていても、銀座あたりの行きずりに君とは早く面識を得ていたらしい。言葉もかわしていたかもしれないがはっきりした記憶はない。何しろ五十年前にさかのぼるのだから。
君はわたしより一年の長で、文壇に出たのは相前後し、お互いに敬愛しながら僕は君を訪うこともしなかったのに、君は二、三度わたくしを訪問してくれた。こうして交わりをはじめたのはわが三十のころ、四十年前の話である。戦後は上田市に疎開していた里見氏に招かれて一夕、別所温泉で三人相はげまして大いに語ったものであった。当日ひどい雷雨で、雷ぎらいの彼はきっと困っているだろうと思ったのに、松本からかけつけた彼は案外元気であった。彼は下戸だから多くの会合では同じく下戸のわたくしと必ず隣り合ってすわった。そうしていつも同車でまず本郷の彼の家へ彼を送ってわたくしはわが家に帰った。車中でもたのしく語ったものであった。
彼は旅行好きであったから、こんど再起したら熊野へ案内しようなどと考えていたところであるだけに、この旧友を失ったのは残念でならない。君は文学の苦労人で、そのため後輩のためには実に、親切な先輩であった。当今、本当の文学のわかる人のすくないおりから、君を失ったことは大きな文学的損失でもある。かえすがえすも残念である。