われらが四季感

佐藤春夫




「ぼくはもう極楽行きは見合はせることにきめたよ」
 と或る時、芥川龍之介が、例のいたずらつぽい眼をかがやかしながら、わたくしに話しかけたことがあつた。
「?」これはきつと何かあとにつづくおもしろい言葉があるに違ひないと予想したから、わたくしがあとを期待してゐると、彼は言ふのであつた。
「極楽は四時、気候、温和快適だとかで、季節の変化は無いらしいね。季節の変化のない世界など、ぼくにはまつぴらなのだ」
 いかにも芥川らしい言ひ分であつた。彼は一面で俳人であり、俳句は季節の変化を主題とする文学だから、芥川が季節に変化のない世界をまつぴらだといふのは尤も千万である。
 極楽浄土には季節の変化以上にこれを償つて余りある種々な精神的悦楽もあるらしいが、それにしても、芥川が季節の変化を無上の喜びとしたらしいこの言ひ分は、俳人ならずとも、すべての日本人に同感されてよいものと思ふ。
 そもそも、われらが日本の国土は、世界の好もしい部分に位置して、季節の変化といふ点にかけては、全世界でも二つと無い豊富なところなのではあるまいか。
 わたくしは日本以外、広い世界のどこでも半年以上を住んだことはないのだから、井戸の蛙のたわごとかも知れないが、四季それぞれに、さまざまな衣類が世界のどこにくらべても多すぎるほど多いらしい事実に鑑みて、これは我々の日常生活が格別にゆたかといふでもないのに、衣類だけがこう発達したのはわが国の季節の変化がそれほど微妙なため、またはわが国人が季節の変化に敏感なためだと思へるからである。季節の変化が多いといふのも、それに対して敏感といふのも、つまりは同じことである。さうしてそのためにこそ季節の変化を主題とする俳諧のやうな文学も発達したのである。
 季節の変化に敏感なといふことは、わが国が、由来農業国で天候や四季の推移に対して生活が直結してゐたといふ事実に因るものかとも考へられる。
 その原因が何であつたにもせよ、わが国民一般がゆたかな季節感を持ち、その自然とそのなかの生活とにおのづからな詩情を持つてゐた事実は争はれまい。そこに俳諧が生れ発達したのであらう。
 春花秋葉、ともに目にたのしく、この季節は肌に快い。奈良の春、嵯峨の秋、我々日本人たる者、誰かこれを快適と称しない者があらうか。蒸し暑い日本の夏は少々ならず閉口であるが、それも大都会のビルやアスファルト道路の照り返しに自動車の排気ガスを脱れ出でて、青田に白鷺を見、蝉しぐれの緑陰に清泉を掬する日本の自然のなかに置かれた町や村の夏なら、緑陰に清泉の一掬に十分にしのぐこともできる。
 白地の単衣を黒いのに着かへて夕風をしのぎ、いよいよ初袷になるころの夏から秋への推移ほど快いものはあるまい。台風といふ難物こそあれ、昨日までの入道雲と湿度とは跡なく消えて空は飽くまでも深く澄明である。これは台風が荒れ狂つた償いででもあらう。気は澄み汗は乾いて、虫の音さはやかに燈火のなつかしい幾夜かの後、紅葉の錦繍、一夜の木枯しに散り尽して、窓前の山茶花、つわぶきの高雅な花も消えて、花は八つ手ばかりとなり果てた。庭もさびしいのに、色鳥は申し合せたやうに谷の宿を出て里の小園に去来しはじめると、つくばひの薄氷とともに冬が駆け足で来る今日この頃ではあるが、もと温帯のわが国では大寒も何のその何も冬将軍などと大げさに恐怖することもない。
 冬将軍も何もない。北の窓を閉めきつて炉を擁し、古布子を取出してひつかけ、それで足らなければ襟もとをかき合せ頸すじに毛糸の編んだものでも巻きつけて置けば、ともかくも防げる程度である。雪見酒を楽しめない身にも日向ぼこりはできる。質の入れ変へには多少の苦労はあらうとも、めつたに凍死することもあるまい。蠅でさへ南面の障子に身を潜めて三冬を凌ぐほどなのだから。
 辺土でない限りわが国では暑さも寒さも概して凌ぎにくいといふほどではない。もともと楽天的なわが国民性が四季の変化を楽しむのも道理である。大宮人ならずとも春か秋かとその優劣を論じ合ふほどの気風はある。
 更に四季折々の海山の幸があつてみれば、我々日本人の大多数が季節の変化を喜ぶに何のふしぎもない。
 わたくしは雨の多い熊野地方の生れで雨は大きらひであるが、それでも春雨、さみだれ、夕立、しぐれ、みぞれなど四季それぞれに変つた性格があることで雨もまた多少は楽しめないでもないといふ気がするのである。
 ところが先年、南方にちようど半年、従軍して、シンガポール、ジャカルタ、スラバヤ、マランなどの各地に転戦(ただうろついてゐただけのことをこう従軍らしく言はせてもらふ)したことがあつた。
 恰もかの地の雨期明け前で、まだ毎日雨のつづくはうが多かつた。
ウージャン ウージャン
春雨でもない秋雨でもない
ジャンジャンと降るスコールでもない
空から水がこぼれ落ちるだけ
修理せよ大空の雨もりを
ウージャン ウージャン
 とそんなことを言つて、わびしさを慰めたものであつた。ウージャンは彼の地の語、雨のことであるが、季節感の伴はない雨にたいくつしたものであつた。
 わたくしだけではない。他の多くの日本人も、いつも同じ季節で南方ボケをするなどとも言つてゐた。しかしジャガタラだつて季節の変化はあつた。ただこの地の季節は一年の四季ではなく、そこが我々の観念と違つてゐた。ここの四季は日々小刻みに繰り返されて、朝が春、日中が夏、夕方から宵にかけて秋、さて夜中に水浴でもすれば冬も味へる。一年の四季の代りに、これは毎日の四季だと、わたくしはこれを楽しんだものであつた。わたくしも芥川同様季節感なしでは満足できない日本人のひとりであつたから。
 思ふに、日本人は季節感といふ一点で、みな共通に統一された何ものかがあつて時を同じくして単衣や、袷、綿入などを取出し「歳時記」などを手にするのではあるまいか。
 四季さまざまな花があつて、おのおのの形は変るが、同じ季節のものの色調が相似るやうに、その受取り方や表現に多少の差違はあつても、同じ国土の我らの季節感はお互に一脈相通ずるもののあるのを、わたくしはこの欄の詩文に見て、当然とも、また面白いこととも思ふ。





底本:「定本 佐藤春夫全集 第26巻」臨川書店
   2000(平成12年)年9月10日初版発行
底本の親本:「朝日新聞 PR版」
   1963(昭和38年)年12月29日発行
初出:「朝日新聞 PR版」
   1963(昭和38年)年12月29日発行
入力:えんどう豆
校正:きりんの手紙
2019年4月26日作成
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