もののまちがひ

「田園記」を読みてこの拙文を著者井伏君に呈す

佐藤春夫




 井伏鱒二君の文は虚実相半して自ら趣を成すものである。たとへばそれは歪んだ面をもつた田舎の理髪店の鏡のごとく現実を歪んで映し出してゐる。しかし決して現実の姿を総体として誤ることなく映し出してゐるのも事実であつて、そのままならぬ姿の現実、現実を井伏特有の方則で歪めてゐるところに君の所謂なつかしい現実の世界を創造してゐる。その姿はやや不確に歪みながらにもその内部に現実の精神の活躍してゐる点、君と内田百間君とは稍その趣の相通ずるところのあるのを覚えた。現実の輪廓を模してその真を失ふのが凡庸な芸術家の恒である。これに反して一見現実の形を無視したかのやうに見えながら或は現実を全く変貌してしまひながらもよく現実の精神を捕捉する者こそ真の芸術家である。従つて君と内田君との相似とてもともに傑れた芸術家の一人だといふ点だけでその他の問題ではないかも知れない。井伏内田の対比論は、それ故、もうこれ以上には進めない。次の機会を得て更に深く考へて見たいものである。それにしても「田園記」中「夏の狐」の一章の如きは愛読するに堪えた名品であつた。ただ惜むところは君がこの奇想を惜しげもなくあんな小品にして纒めてしまつた点である。否、あれだけの小品のうちにあれほどの興味と美観とを盛つた点に君の力があると言つた方が妥当なのかも知れない。鯨のお産の話だつて何等の可憐、何等の美観ぞやと呟きたくなるものがある。ただにこの二篇のみではなく全篇、その想や可憐純真その文の高雅清新なることまさしく佐野氏の装幀とその優劣を競ふに足るもので、この点その酒を盛るに適当な皮袋を以てしたものである。しかし拙文は田園記の広告文ではないから、その讃美はこれぐらゐにとどめて置くとして拙文の眼目たる「もののまちがひ」に就て語ることにしよう。「田園記」中には佐藤春夫氏と題する一文がある。これも佐藤春夫像として田舎の理髪店の鏡面に映じたもので「さういふのもまた歓迎するところですな」などと小生が合評会語を使つてゐるところなど小生が以前あまり屡々合評会へ出席しすぎたのを諷するかの如き趣があつてこれは別にものの間違とこちたくあげつらふにも及ばぬ次第であるが、問題は「紀州の人」にある。これとても虚実相半して自ら趣を生ずる底の井伏世界の一現象と看過して差支へのないものではあるがこの一文献のために郷土の風物が後世に誤り伝へられるのが本意ないのでその反証たるべく忙中の閑を偸んでここに拙文一篇を草し置くわけであるが、『「紀の国の五月なかばは椎の木のくらき下かげ(後略)」といふ詩は圧倒的に詩情ゆたかな詩であるが、その詩の作者』たる小生の話では『紀州には椎の木はすくないといふことであつた。』云々の一節が問題なのである。この一節は井伏君の芸術観ともいふべきものの一端を示すための小さな一例として拙詩の一節を上げてゐるだけのことで、「圧倒的に詩情ゆたかな」といつてくれる点などは勿論訂正しやうとはゆめ思はないが、ただ「紀州には椎の木が尠い」と小生が言つたといふ一事に到つては紀州の風物を一見したことのある人をして小生が椎の木といふものを知らないか、或は盲人であるか、それとも虚言家であるかのやうな印象を与へしめる惧れのあるもので、小生は椎の木の無智も失眼者たる不具も、虚言癖ある怪人物たる事をも三者同様に好まぬので、小生は「そんな出鱈目は未だ曾て一言半句も申した事はない」とここで一言きつぱりと発言して置きたいのである。尤も井伏氏をしてそんな間違つた記憶を留めしめたかも知れないやうな事は申し述べた覚えがあることをも同時に申し添へて置く義務を感ずる。
 小生は数年前井伏君と詩を語つた末に、拙作「紀のくにの五月半……」の事に及んで、あの詩はうそだと述べ、
「……は椎の木のくらき下かげうすにでる[#「うすにでる」はママ]流れのほとり野うばらの花の一だれ[#「一だれ」はママ]……」とはいふが野うばらは物暗き椎の木かげなどに生ひ茂り或は花咲くものではなく、それはあかるい日なたで花開く筈である。といふ意味を話した。或は拙文のどこかに書いた事もあるやうな気がする。それから、同じく数年前の別の或る時、同じく井伏君と庭樹を語つた末に土地によつてその尊重する庭樹の異るの一事を言つて「東京ではかくれみのと名づけられて茶庭などに重んぜられるといふ庭木は僕の郷里紀州熊野地方では芋木と呼ばれて芋と、交換するにしか価しない木である。また、樫の木は時に庭樹にするが、椎の木は絶対にこれを庭樹とはしない。」と述べたものであつた。それがあまりに多いからその木を重んじない結果庭樹にも採用しないのであらうが、聞けば椎の木を異常に愛好するといふ井伏君は僕の話を奇異に聞いて、あれ程味の深い椎の木を庭樹にしないといふ紀州熊野には恐らく椎の木は無いのだらうと思ひ込んでしまつたのかも知れないのである。さうして「紀の国の五月なかば」の拙詩の野うばらに関する僕の話を椎の木と一緒にして考へたとも思はれる。この結果として書かれたあの一語によつて紀州に椎の木は無いと信ずる人が生じ又その結果は更に、それ故、「家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」の咏を、それ故椎の木のない紀州に於てよむ道理がないからあれは紀の国以後に於ての作歌でなければならぬと論ずる万葉学者が出て来たらもののまちがひは愈々出でて愈々ゆゆしいものにならうといふのが折から神経衰弱の小生の心配の種である。それ故もう一度ここに明言する「熊野は無論紀州全体、椎の木は甚だ多し」と。事実我等兄弟の如きは崖下の家に育つて崖の上は全体皆椎の木だつたから秋の嵐の朝の如きはその実を拾ふ面白さのために応々登校時間の迫るを厭ふこともあつたし、また拾ひ集めたものを秋の夜のなぐさみに味つた記憶もある。椎の木が紀州にないなどは絶対に大うそである。最も多い木なればこそ旅人の飯をも盛つたと思はれるのである。――どうやら、これでもう安心してもいいらしい。





底本:「定本 佐藤春夫全集 第20巻」臨川書店
   1999(平成11)年1月10日初版発行
底本の親本:「作品 第五巻第七号」
   1934(昭和9)年8月1日発行
初出:「作品 第五巻第七号」
   1934(昭和9)年8月1日発行
入力:夏生ぐみ
校正:きりんの手紙
2019年1月29日作成
2019年6月9日修正
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