のんしやらん記録

佐藤春夫




慈善デー


 下層社会――どん底の世界。そんな言葉は今や単に抽象的な表現ではない。具象的なものとして文字どほりに実現された。地下三百メートルにある人間社会の最下層の住宅区(?)(これをしも住宅と呼べるならば!)である。
 彼はここに来てから幾日目かの朝を目ざめた。朝といふことがこんな世界でもわかるのが第一に不思議であつた。ラヂオは絶え間なしに明確に響いて来た。しかし、そんなものは生きるためには何の必要もない。欲しいものは空気だ。それから日光だ。それにくらべると食用瓦斯などはずつと後でもいい。(約十世紀ほど以前に、その内容はわかつてゐないが、「早過ぎた埋葬」といふ題で、これらの人間生活の悲惨を予言した文学者があつた。又同じ頃に「もつと光を!」と言ひながら死んだ詩人があつたと伝はつてゐる。多分彼等は賤民文学者の先駆者であつたに違ひない)日光はここでは到底その見込みはなかつたけれども、空気と食用瓦斯とは、最も小さい銀貨が一つづつありさへしたならば、それを自動メーターのなかへ投げ込んで買ふことも出来た。しかし彼は銀貨どころではない銅貨一つ無かつた。どうしたらそれが果して得られるものかさへも知らなかつた。彼はこの社会の生活の様式に就ては少しものみ込んでゐなかつた。ここへ投げ込まれてからそれほどまだ日が浅かつた。それに彼がどんなに声を出して見ても、彼の声は決して少しも響を立てなかつた。(ラヂオがこんなによく響いてゐるにもかかはらずこれは又、何と不思議な事である)さうして彼は何事をも人に質問する方法がなかつた。文字はここでは多分通用しないであらう。何人も知らないに決つてゐた。たとひ皆が知つてゐるにしたところが、何よりも第一にそれを書く可き、又読むべき光線がなかつた。
 欲しいのは空気と光とだ。もし彼が今までここで育つてゐたのだとすれば、彼は自づとここに慣れてゐたかも知れなかつたが、彼にとつては急激な変化であつた。かういふ生活をこれ以上にもう三十時間もつづけてゐたならば、きつと自然に死ぬだらうと彼は自覚した。彼は今更のやうに彼が生きてゐたあの秘密の世界がこのやうな社会生活にくらべると如何に幸福であつたかを痛感せずにはゐられないにつけても、その幸福な秘密の世界の創造者であつた人、さうして彼一箇にとつては恐らく彼が生涯の唯一の知人であるだらうところのあの老人は、その後どうなつただらうか。彼にはこれが心がかりであつた。彼がラヂオに耳を傾けてゐるのは、外にする事もなかつたからではあるが、一つにはもしやその老人のその後の消息が、そこから聞かれはしないかと思はれたからでもある。
 彼自身の声音が響を失つてゐるだけに、この空間に鳴り渡る声が彼には腹立しかつたが、ラヂオは引きりなしに鳴りひびいてゐた。昨日一日人間の世の中であつた事を残らず喋りつづけるつもりらしい。別に誰もそれを聞かうと企ててその仕掛けをしたのではなかつたけれども、この音は闇と同じやうにこの階級にまで這入り込んで来るのであつた。尤もそれは社会教育に必要と認められるところの日々のニユースのたぐひであつて、娯楽に関する一切の放送は地下十階以下から、徐々にかき消されてゐて、これらの最下層の住宅には、全く何ものも洩れては来なかつた。何故かといふのに、社会道徳は何人も心得て置かなければならない必須事項であつたが、娯楽は決してその必要のないものであり、いや反つてあらゆる人間が同時に平等にそれを味つてゐるといふ事実は娯楽の魅力の質と量とを稀薄にしてしまふといふ理由で、娯楽に関する放送が下層社会へ伝はることには、特別に異状な苦心を払つて完全にこれを防止してあつたのだ。かういふわけで彼が聞いてゐるラヂオは何の面白い事とてもなかつた。たとへば市会議員の何の某が贈賄を拒否したがために告発された――この男の言ひ分は、一般市民に不利益と思へる議決に賛成してそれによつて自己の利益を受けることは心苦しいから拒否したといふのであるが、これは社会の風習に反し市会議員の特権を侮蔑するものであるといふのが告発者の意見であるが、被告に同情する人々は、一応被告の精神状態を鑑定することが必要であると力説してゐる云々、といふやうな報道は彼にとつては少しも興味のない問題であつた。かういふ報道でラヂオは終りになつて、もしやと思つてゐた彼の知人の処罰に就ては何事も聞かれなかつた。
 然し、ラヂオの最後に、彼は自分の耳を疑ひ度いやうな言葉に接した。ラヂオは響く――
「本日は××××の祝賀一週年紀念として(彼にはこの意味がよくわからなかつた)慈善デーを催します。上流社会の人々は特に半日の散歩を割愛して、平常空気と日光とに欠之を[#「欠之を」はママ]感じてゐる下層社会の人々のために、自動車遊歩円形広場を提供します。一切の陸上交通機関は本日の午後停止しますから、乗物を持たない階級の人々も少しも危険を感ぜずに、街を通行することが出来ます……」
 彼はここに到つて始めて思はず呻き声を発した。いや、彼ばかりではなかつた。あまりの嬉しさに我を忘れて発した叫び声は彼の身辺の四辺から起つた。隣の枡(家でも部屋でもなかつたから)のなかに住んでゐる男たちの声なのである。さうしてその叫びに消されて、肝腎のラヂオはそれからあと、よく聞えなくなつて了つた。
 彼はすぐに決心して這ひ上つた(立ち上がる事は出来なかつたのだ。ここの住宅区ではそれ以上の高さは贅沢だといふので、天井まで一メートルしか無かつた)。あちらでもこちらでも起き直つて這上るけはひが盛んに感ぜられたが、彼は間もなくいつの間にか這ひながら犇いてゐる一部の人間の流れのなかに押し込まれてゐた。

地上へ


 一つの突立つてゐる非常に巨大な円筒であつた。その上部の底は眩しい光の円であつた。しかしその光は決して下部の底まで達せずに、下は真黒であつた。その上部の光明こそは地上である。さうしてそこに達するためには、この円筒の中心に何か非常に大きな玩具ででもあるかのやうに、一条の最も長い螺旋形の梯子が、上の光の円の方へグル/\/\/\と巻きねぢれながら上つてゐた。(これがこの下層の世界から地上へ上る唯一の通路であつた。あの立体軌道――その同一台のものが地上では自動車となり建物のなかではエレベーターに役立ち空間では軌道飛行をする交通機関は、地下十五層以下へは延長の必要が認められなかつたので、それ以下の低い階級の人々が交通するためには、どうしてもこの螺旋階による外に方法がなかつた。)
 それを見上げると目が廻りさうであつた。いや、事実、その上り口で卒倒して、行通整理上[#「行通整理上」はママ]適当に処置された人間が幾人あつたか知れない。(適当な処置といふのは死屍として手早く取片づけられることを言ふのだが、これらの設備は、歴史家の言ふところに憑ると中古のモナコ王国の賭博場の建築から発達したものである)。平常、日光や空気や食用瓦斯や飲料瓦斯やあらゆる栄養物に欠乏してゐる人々がしかもこんな簇つた押合ひの中で、しかもこんな刺戟的な構造を見上げたならば気絶するのが当然であつた。
 彼は誘惑を感ずるにもかかはらずもう二度と上部は見ない様に努めながら、彼が階段へ上れる順番がくる迄はただ彼の周囲に押合つてゐる人々に注意してゐた。彼と同じ社会の人達はどの人間も彼と同じやうにもの言ふ事が出来ないのかそれとも極度の緊張からであつたか、隻語を発する者もなかつた。闃としてこの群集の沈黙は物凄かつた。彼の順番が来た。彼は階段の番人によつて攀上を許可された。彼が階段に足をかけて二三段上つた時に、彼の後から上つてくる人間が呟くのを彼は聞いた。
「ああ、生きてゐたといふ思ひ出には一つ、日の光といふものを充分に……」
 彼は、人がもの言ふのを珍らしく思つて、ふりかへつて見下した。それは彼の直ぐ後から攀上して来る人の言葉だつた。しかも、彼がそれを知つた瞬間には、気の毒なその人はまだ日の光一すぢ浴びないうちにもう階段からすべり落ちて、既に適当に処置されてゐるところであつた。多分あまりのうれしさにうつかりして踏み外したのであらう。彼はかすかに身震ひをして、改めてしつかりと階段の手すりを握り、足を注意ぶかく踏みしめた。
 すさまじい勢ひで、風を呼びながら墜落する者があつた。やはり階段を攀ぢてゐるうちに力尽きたものであらう。その叫び声がこの円筒のなかで反響した。これらの墜落者が幾つも幾つもつづいて階段の外を嘯きながら落ちて行つた。有難い事にはどういふ仕掛があるのか墜落者は決して階段の上にまくれ落ちて来ずに、階段の外を落ちて行つた。見下ろすと、かういふ出来事は日常の普通事であると見えて、この階段の周囲は、墜落者を早速に自動的に処置するやうに出来てゐるらしかつた。(彼が悟つた通りである。さうして墜落者の数は、やはり自動的示針によつて明確に指示されてゐたのだ。何事にも完全な統計は文明国の政府として忽にすべからざるものだからである)
 最初のうちは墜落者を見るごとに足がふるへて、彼自身も危く墜ちさうであつたが、いつの間にかそんなものにも慣れてしまつた。彼はもう大分、攀ぢただらうと思つて、上部を見上げた。彼の攀上がまだ三分の一にも及ばなかつたのを発見した時には、彼は思はず溜息をつき、こんな激しい疲労で果して無事に地上に到達することが出来るかと思ふと、危く墜落するところであつた……

彼の生ひ立


(額に油汗を流しながら螺旋階を上つてゐる彼が果して無事に地上に登ることが出来るかどうか。〔いや、大丈夫登るであらう。さもなければこの話はもうこれ以上には発展しないわけなのだから〕彼がこの単調なしかし緊張し切つた命懸けの仕事をしてゐる間に、我々は彼の過去に就て知つて置かう)彼の生ひ立ちは――尠くともその二分の一以上を、彼は自分でも知らなかつた。それは決して無理もない事である。個人が個人の経験を尊重してそれを記憶して置く習慣はここには無かつたが上に、彼はその頃あまりに幼少であつたらしい。
 或る日、彼は実にまぶしいやうな光線のなかで目を見開いたのだ。すべてが今まで身に覚えないほど快適な状態であつた。さうして彼のぐるりには五六人のおとなが眠つてゐた。その外に一人の見慣れない老人がこれは起きてゐて彼の枕もとにしやがんでゐた。
 彼が最も快適に思つたのは、彼が今まで経験したこともないものが彼の口のなかへ流れ込んで来てゐたのが重大な原因であるらしかつた。(ただ飲用瓦斯をのみ知つてゐた彼はその日まで水といふものを知らなかつたのだ)。彼の居るところは隅から隅まで光に満ちてゐた。そこで彼はその見慣れない老人と対話をしてゐるうちに、突然に起つたこんな変化の理由を、ぼつぼつと悟るやうになつた。老人が言ふのには、彼は道路で自殺をしたのである――交通機関のために跳ね飛ばされる事を総括して自殺と呼び慣はしてゐたが、その自殺者として彼は、適当な処置によつて、交通整理車に運搬され、地下道に掃き捨てられたに違ひなかつた。
「わたしもその一人なのだ」老人は言つた「今日の社会の状態では有料散歩道以外のところを乗物に乗らないで歩行するぐらゐな人間は、自殺志望者と見做されてゐるよ。無理もない事だ。あの道路を、どんな注意を払つたとしても車に轢かれずに三メートルと歩行出来る筈はない。それを承知しながら、そこに出てゐるといふことは、その決心の有無にかかはらず自殺志願者に違ひないわけだ。さうしてここへは毎日無数の所謂自殺遂行者たちが運ばれて来るよ。そのなかに無論お前のやうに単に気絶したにすぎないだけの人も随分あるのだ。わたしも丹念にそれを拾ひ上げては助けてみる。しかし誰も満足には回復しない。もう今までにさんざん衰弱し切つてゐる連中ばかりだからね。ここにゐる人たちもせつかく拾ひ上げてはみたけれど、もうみんな駄目なのだ」
 言ひながらその老人は、彼を抱き上げて、それを片隅に置き直し、それからこれは彼にも以前味つたやうな気のする食用瓦斯のパイプを彼の口に当てがつた。さうして老人は彼以外の人間を抱いて、ひとりびとり下の方へ投げた。その度に、ものを吸込むらしいゴオといふすさまじい音が地の下の方でうなつた。眠つてゐる者と思つた人たちは、みんな死人であつたと見える。
 この老人は実に不思議千万であつた。どうしてこんな所にたつたひとりで生きてゐるのか、それが第一に判らなかつた。その上にこの人は何事でも知つてゐた。彼等は次のやうな問答をした――
「お前のゐたところは真暗だつたかい」
「いいえ。少しは明るかつたの、ぼんやりと」
「お前は婦人といふものを見たことがあつたかい」
「婦人つて、どんなもの? 小父さん」
「知らないのか。それぢや見たことが無いのだらう。お母さんも無論知らないのだね。婦人はどんな人だつて地下の十階以下には決して住んではゐないよ。――特別にいい職業があるからね。それでお前、何かい。空気は管から毎日吸つたかい?」
「ううん。時々なの――随分おいしかつたの」
「うむ。するといろいろ考へ合せて、お前の住んでゐたのは多分地下の三十階附近だつたらしい。わたしは地上の一階から十九階までは知らないけれどもその外ならば知らないところは無いのだからね。ハ、ハ、ハ、ハ、ハ、ハ。」老人はどうしてだか知らないけれども大声でながい間ひとり笑つた。それから
「それにしてもお前はきつと随分といい生れなのだね。実際、出産税はおそろしく高い。それを満足に払へるのは地階の二十階までがせゐぜゐだ。その外の階級ではただ社会税を支払つて捨子をするより仕方のない世の中だからね。地下三十階に捨子をするために支払ふ社会税だつて並大抵なものではない。お前のお母さんはそれが出来る程の人だつたとすると、お前はなかなかのいい生れだといふことがわかる……」
 老人はその他いろいろなことを話した。彼には了解しがたい事ばかりであつた。その後何年かの間、この老人は彼の養ひ親になつた。老人は彼を愛育した。彼が生長するに従つてこの老人がどんな人であるかといふことが少しづつ判つて来るのであつた。行路病者或は街頭自殺者の死屍を地下へ運搬する入口に当つてゐるこの人知れない一角へ人知れない世界をひとりで開いてゐるこの老人は、その人自身の言ふところによると、死屍のなかで新しい世界を夢みてゐる人であつた。この追放された半羊神は気の毒な笛をこんなところでひとり吹いてゐた。簡単に言ふとこの老人は、人間には霊といふものがあるといふ考を抱いてゐた。しかし彼があると信じてゐるその霊なるものは、今までにどんなえらい解剖学者も人体のなかからその存在を発見した事のなかつたもので、そのやうな目に見ることも出来ないものを信じてゐるといふことがこの老人の今日の社会のどの階級にも生存出来なかつた根本の原因であつたらしい。彼は何百層とある社会の種々雑多な階級から一段一段と追はれた。今日の社会ではどの階級にも彼の行動を理解する人々がなかつたから、彼は誰にも相手にされなかつたのだ。さうして彼は彼のやうな考はこの星以外の世界――多分火星あたりでは通用し、そこではさういふ別の文明によつて社会が出来てゐるかも知れないと思つてゐた。彼は火星との通信を今も熱心に計画してゐた。
「もともと私は歴史の学者だ。さうして二十世紀と二十一世紀といふ昔の時代のことに興味を持つてゐてね。それは実に面白い時代なのだ。当時、新らしい煉金術が流行してね。何でもこの世界といふ立体を一度逆にひつくりかへして置き直して見ると、人生はどこもかしこも光明的なものに、黄金になるといふ思想なのだ。そこで世界が非常に動揺し出してね。その結果はひどくごつた返した後にやつとどうやらひつくりかへしに置き換へたのだ。折角だんだん落着いて新らしい世界が出来てみると今日の世の中なのさ。私が二十世紀に興味をもつてゐるといふのは、そのころ極度に発達してゐたその当時の世界の状態が、不思議と今日の世界と大へん似てゐるからなのだ。かういふ研究を私はまだ若くつて地上の二十階に住んでゐた頃に、発表したものなのだ。そこで私はその学者の社会から追ひ出されたのだ。それ以来といふものは私が物を言ふ毎に、人は聞かないふりをして横を向くのだ。私は地階の二十階を見棄てなければならなかつた。又、日光や空気は人間には階級の如何にかかはらずその健康上必要なものだと説明した上で、それらのものは古代では人類が殆んど平等に享有することが出来たところを見るとこの意味では近代の文明は呪ふべきだといふ説を私が発表した時、私は二十一階の社会から追ひ出された。何でも私は時代の常識に従はずどんな事実にも特別の意見を抱く卓越個人とかいふものらしいといふので人々は排斥し出したのだ。」老人は声を上げて笑つたが「お前はまだ子供だから話しても判るまい。そのうちに追々といろんな私の考を聞いて貰はうよ」
 かういふ風に、老人は折にふれては彼の身の上を話したり、或は少年を教育しようとしたりした。夜になると、老人は小さな機械を組み立ててゐた。その火星に通ずるべきラヂオは、もしここに充分なアンテナを設ける高さなり広さなりがあつたならば必ず役立つのだけれども、この秘密の地下窟にはそれだけの余裕のないのを、老人は専ら歎息しながら、研究に没頭してゐるのであつた。
 この二人の住んでゐた小世界では、日光もよく射したし、空気にも飲食物にも不自由しなかつた。適当な温度まであつた。老人はそれらの事に就ては一言も言はなかつた。少年も亦はじめのうちこそそれを奇異にも有難くも思つたがそのうちいつの間にかもう人間当然の権利として怪しまなくなつた。
 突然、或る日、数人の人間が――いつものやうな死骸ではない珍らしい生きた人間が、この人知れない場所へ侵入して来た。それは警官といふものであつた。十幾年間に渉る永い間、日光や、空気や、食料瓦斯、又は最も貴重な飲用水などといふものが、どこかで洩れてゐることが、メータアに現はれ、それを研究して見ると丁度一個の人間の必要分だけに相当することがわかり、しかも数年前からはそれが二人分だけの分量が消費されてゐることが知れた。政府はそれらのものの使用区域を小さく区切つて取調べた結果、警官たちはたうとうここに踏み入ることが出来たのであつた。さうして未曾有の大胆不敵な犯罪者だといひながら、警官たちは、老人と少年とを捕縛したのであつた。(少年が神仙のやうに思ひ込んでゐた者は泥棒であつた)。最も科学的に巧緻な方法で行はれてゐたこの犯罪は少年には不可能であつたし、老人は罪責を無論ひとりで負うたから少年は直ぐに釈放されることになつた。放免される前に少年は法官から、過去の記憶を失ふ方がいいか、それとも声音を失ふ方がいいかと質問された。この難問を受けたものは暫く熟考してから、声音を失はうと申し出た。何故かといふのに彼はあの老人の敬愛すべき人柄と恩義とを忘れたくなかつたからであつた。法官は彼に一杯の無味無色な液体を与へた。それを彼は嚥み干すと、口が利けなくなつてしまつた。さうして彼は警官に導かれて地下の最下層の社会へ送られたのであつた。
 彼の養父ともいふべきあの老人のその後の消息は杳として知られない。

街上奇観


 両側の極端な高層建築は、見上げると遠近法の理に従つて正に一点に集中しようとするかのやうに両方から今に崩れかかつて来さうに見えた。さういふ直線が上に向つて延びてゐると同時に平面的に前方へも延長され、これら左右の平行線も亦一点で結びつかうとして遠くへ行くほど切迫してゐた。これらの堅い冷酷な巨大な立体用器画の風景はどこもかしこも毒々しい赤や青で縦横無尽に出鱈目に不規則に大小さまざまな形で区劃されて、塗りつぶされてあつた。それは極度に強烈なあらゆる色彩の稲妻が建築物の広大な壁面へぶつつかつて、その痕にその色彩の断片を落して行つたやうであつた。その頭痛を催させる一つ一つの色の上には、それと対応して最も不愉快な効果を強める別の色でさまざまな文字が書かれてあつた。それはとても理性では理解することはおろか、推測することも出来ない文句であつた。或る一角には
「数千円ガ僅ニ一円!」
 といふ不思議な算術が書かれてあつた。それよりもつと大きな一区劃のなかには、又何事であるかは知らないが、次のやうな破天荒な宣言があつた。
「自分ノ店ノ最モ粗悪ナ商品ヲ買ヒ、自分ヲシテ成金タラシメルコトハ、社会ノ正義ヲ重ンズル市民ノ忘ルベカラザル義務デアル。何トナレバ我等ノ商品ハ無智ノ幸福ト無反省ノ美徳トヲ適当ニ配合シタルモノデアル。偉大ナル哉「俗悪」ノ大精神!大臣モ将軍モ博士モコノ配合ノ絶妙ヲ讃美シ保証ス」
 目に触れるそれらの文句の一つとして不思議不可解でないものはなかつた。
 やつと地上へ這ひ上つた彼はこれらの街上の奇観を一瞥して、線の交錯と色の分裂とで先づ肉体の恐怖に脅かされたが、壁上の不思議な文字を読んだ時には、自分自身が発狂してゐるのではないかといふ不安に襲はれた。彼はせめては空とやらいふものの色を見たいと思つて上を見上げたが、屹立して落ちかかるやうな家と家との間の僅かな隙間にある空間の色は、壁面の毒々しさのために色を失つてただ鈍く光つてゐるだけであつた。さうしてそんなに高く仰いでゐると眩暈を感じて打倒れさうであつた。
 彼はいつの間にか群集のなかに混つてどことも知れないところへひとりでに動き出してゐた。群集は恰も深い溝の底のやうなこの街を、さながら引汐の時刻の堀割に浮漂した泥や芥のやうに一定の方向へ移動してゐた。彼等は人の話に聞く日光といふありがたいものの恩恵に浴しようといふので、一生懸命に走つてゐるつもりであつた。しかし気力を失つた彼等はやつと歩くことが出来ただけであつた。中にはもう死んでしまつてゐて、死んだままでやつと、生きてゐる人間と人間との間に介在してゐるがために動いてゐるものもあつた。我々の主人公はこの群集の中で、もう何が何であるか充分に意識することも出来なくなり、ただあの壁上の最も非理性的なさまざまな文句が、どういふ特別な仕掛があるのか、嫌応なしに目のなかへ飛込んで来ることを防ぐために目をつぶり首は自づと垂れてゐた。彼はもう自分の行くところを忘れてしまつた。さうしていつまでかうして歩いてゐるのだか知らないけれども、多分この街上でかうして歩きながら死んでしまふだらうと考へてゐた。
 突然、群集の叫び声に驚かされて彼は目を開いてみた。眼前には大きな広場が展開し、その中心は色が変つてゐた。それは太陽から直射する光線の当つてゐるところに違ひなかつた。彼は一目見るとへんなことにはそれに対して食慾を感じた。この広場には八方からたくさんの路が通じてゐて(多分この広場を中心にして放射線状に出来てゐたのである)その一つ一つの路――高い建築物と建築物との足もとにある小さな深い凹の隙間からは、黒い群集が皆一度にこの広場の日向にむかつて注ぎ寄せてゐた。(彼等のすべても亦食慾を感じてゐるであらうか)
 広場は瞬くうちに無数の人間で一ぱいになつた。
 いつの間にか彼の体にも日が当つてゐた。正午の太陽が空の真中にあつた。彼は日光を手で掬うて食つてみた。日光は香気がした。体中が熱くなつて来た。酔を感じた。ここでもまた人死が沢山に見られた。彼等は目がくらみ又かつて経験のないこの快感のために中毒したものらしかつた。しかし、彼等は陶酔のうちに太陽を讃美しながら死んだものであつた。
 一台の甲虫のやうな形の飛行機が現はれ、群集はざわめいた。機は低く下りて来て着陸しさうに見えた。群集は不安の中にもこの有難い場所からもう動かうとはしなかつた。機は、しかし群集の頭の上をおもむろに一周しながら無数の紙片を撒き散らすと、再びどこかへ消えた。彼はひらひらと光りながら彼の肩の上へ落ちて来た一片を拾ひ、それを手に取つてみた。それは、
「諸君ハ果シテ幸福カ」
といふ見出しであつた。どうも宣伝ビラであるらしい。

救世の福音


 彼が読んだところのものは、全く驚嘆すべき宣伝文に相違なかつた。
 冒頭、先づ植物の幸福を力説してあつた。それは空気にも日光にもあらゆる食物にも、決して事欠く憂のない種族だといふことを、充分本当に説いてあつた。それから次にはその植物とはどんなものであるかを説明してあつた。(何故かといふのに、神聖な種族である植物は、数世紀前からその傾向を示してゐたが、既に二三世紀前には悉くこの地上を見棄てて、そこからその影を没して了つてゐたからである)。その説明によると植物と人間との単なる相違は只三つである。その第一はその形態。その第二は発言能力の有無。その第三は自己の意志で動くことの可能と不可能。僅にこれだけの事にしか過ぎない。若し生命の長短を論ずるならば植物の殆んど無限ともいふべき生命は、到底人間などの比ではないのである。さうして、植物の形態がどんな立派なものであるかといふことは、古来の諸文献に徴して最も明瞭な事である。してみれば残されたところの唯一問題は発言能力及び自己の自由なる意志による運動能力の二点にある。
「コノ点ハ諸君ノ熟慮ヲ待ツベキモノナリ」
 と、さう述べてゐる――この宣伝文の筆者は、賤民があの最下層住宅区の高さ一メートル、巾は三分の二メートル、長さ一メートル半の場所のなかで自己の自由な意志で運動出来ることを喜べる者と想像してゐるらしいのは寧ろ滑稽であつた。
 それにしても何のために植物の幸福を説き、又人間との比較を試みてゐるのだらうかと疑つてゐると、文章は忽然として次のやうに結ばれてゐた――。
「充分ナル日光、新鮮ナル空気、飽クナキ栄養分ノ摂取! 又、無限ノ長寿! 之ヲ欲スルモノハ進ンデ植物タルコトヲ希望セヨ! コレ実ニ諸君ノ幸福ニシテ、又、諸君ガ植物タルコトニヨツテ、今日ノ過剰ナル人間ヲ調節シ、又諸君ハ人間ノ呼吸ニ必要ナル瓦斯体ノ発生者トシテ更生スルノ一事ハ、諸君ガ無意味ナル今日ノ存在ニ比シテ、亦人間社会ニ貢献スル点ニ於テモ※(「二点しんにょう+向」、第3水準1-92-55)ニ優レリ……」
 この宣伝文の末節には別に細説があつて、それに依ると簡単で絶対に無痛な一方法によつて人間を植物に変化させるところの手術が、或る医学者によつて発明され、政府は本年の慈善デーの第二の計画としてその医学者に命じて志望者を植物に変形させるといふのであつた。さうしてこの細説の最後の一項には次の如く書かれてあつた。
「尚、当日手術場ニハ多数貴婦人ノ御臨席アルヲ以テ、被手術者ハ該貴婦人達ニ見物セラルルノ光栄ヲ得ベシ」
 皆一様にそれを読んでゐた群集は、やつと読み終つたと見えて、口々に何か囁き合つてゐた。感嘆の声が洩れた。(どんな点に感じたのだかは解らなかつたけれども)彼は宣伝文を再読し、三読した。彼は決心といふ程でもない決心で、植物になることを志望することにした。彼は決して植物になりたかつた訳ではなかつた。けれども彼は死にたくはなかつた。さうして今日のままで人間の形を保たうとしたならば、もう十時間とは経たないうちに死ぬ外はない。死人に運動が可能だらうか。発言能力の如き、彼にはもう完全に無いではないか。
「俺もその植物とやらになるとしよう。本当にここに書いてあるとほり幸福だかどうだか知れないが。何にしろ今日の我々よりもみぢめな存在物がこれ以上にあらうとも考へられないから、してみればやつぱりこれは本当に相違ないからね」
「然うだとも」
 彼の周囲にはそんな会話をしてゐるものもあつた。
 午後四時になつた。それは植物たることを好まない人間だけはここを立去らなければならない時刻であつた。然し、殆んど大部分の人間はこの場から動かうとはしなかつた。それらの多数の人間を、百人ばかりの警官が来て整理した。何台かの巨大な車に乗り込ませた。車は電燈のかゞやき出した街のなかをほんの暫く走つたが、急に空間疾走を始めた。その車室のなかで一人の役人は次のやうな注意を皆に与へた――
「君たちはこれからその実験室へ運ばれるのだがその前に一応注意をして置く。一体にこの研究は九分どほりは成功してゐるが、全く完全とは言ひがたい。往々にして動物とも植物とも判明し難いものを発生することがある。尤も、それにしても今日の君たちのやうに悲惨にして又無意味な存在物ではない。つまり今日よりは確に幸福にはなれるのだから、この点は声明どほりに安心してゐるがいい。で、研究の不充分といふのは同一の手術方法を講ずるにも拘はらずその結果がどうも同一の植物にはならないのだ。これは何か被手術者――つまり君たちの性質などとも密接な関係があるらしい。第一にそれを知る必要があるし、また若し出来るだけ君たちをそれぞれ各自の希望にそふやうな植物にしたい。それらの必要上、只今カードを一枚づつ上げる。何れお前たちは名前などといふ贅沢なものはあるまいから、そのカード番号が実験室ではお前たちの名前になる――よく覚えて置きなさい。さうしてそのカードの諸項目のなかへ適宜に書き入れなさい」
 彼は NO. 1928であつた。

いよいよ植物に


 彼等は大きな建物の内部をさまざまに上つたり下りたりした。さうして最後に真黒い小さな部屋のなかへぎつしりと密閉された。精神状態はいよいよ朦朧となつてしまつた。(既に変形手術の準備方法の下に於かれてあつたのだ。)
 NO. 1928はどういふわけか第一番に呼び出された。さうして彼は外光のなかへ連れ出された。彼の立つてゐるぐるりには一面の座席が馬蹄形に連り、それは後方へ行くほど一段づつ高くなつて聳えてゐた。そこは人で埋つてゐた。(コロシウムに似てゐる)彼がそこへ連られて行つた時には前方の講壇の上では堂々たる人が喋つてゐた。
「……かういふわけでこの手術は、かくの如く社会政策の上から頗る有益なものであると同時に、また一種の奇術的興味の甚大なるものでありますから、特に公開して皆さまを御招待申したわけであります。なほ製作された植物にして愛玩するに足るものは競売することに致してあります。何とぞよろしく願ひます」
 人々は盛んに喝采するらしいが、彼の耳には非常に遠方から来たやうに感ぜられた。第一の人が降壇すると、別の男が現れた。この第二の男は彼――今から手術に取かゝらうといふ NO. 1928を臨席者に紹介するのであつた。
「カードの記入は御覧のとほりであります」かういつて説明者は後方をふり返つた。見るとそこには彼の筆跡がそつくり拡大されて白昼の空間のなかにくつきりと浮び上つてゐた。説明者は言ひつづけた「この記入は今回の応募者の中で最も特色のあるもので、それ故最初の被手術者として択んだのであります。この記入文は御一読しても了解し難いかと思ひます。先づ、NO. 1928はすべての賤民社会の例に洩れず名前は無論、年齢の自覚がありませんので、我我は十五歳位と推定しました。希望の項目の下には、愛サレタイといふ最も難解な文句があります。実はこの一語は我々にも充分には了解出来ませんので、言語学の方から言ひますと二十世紀位までは使用された事があるらしく、それ以後は全く廃語になつてゐます。そんな言葉をこの少年が何故知つてゐたかといふことは疑問であります。しかし下層階級には我々の想像を許さないやうな突飛なまた野卑な言葉が往々にしてあります。兎に角、廃語を復活した卑語の研究は我々の専門外のものであります。そこで「愛」といふ言葉の本来の意味は十八九世紀ごろまでは心理学的題目であつたらしいのですが、その後我々医学の方で取扱ふテーマとなり、簡単に申しますと心臓の薄弱から来る病的麻酔の作用なので、患者は多少の中毒的陶酔を感ずる者らしく、激烈なるものは無論生命を冒す危険を伴ひます。この流行性病症は前紀の人類社会では異常に流行し、時には人工的にこの病症を導く傾向さへあつたものです。かういふ途方もない希望を抱いてゐる者がどんな植物になるかが、我々及び諸君にもきつと多少の興味を感じさせませう。それから今までに最も楽しかりし経験といふ項目には、温カナ香ノヨイ白イ人間ニ似タモノニ抱カレタ夢ヲ見タ事とあります。これも充分には理解出来ないのでありますが、下層社会では婦人といふものを実際に見る機会は殆んど絶無でありますから、これは婦人のことを暗示し、多分異性に抱かれた夢を見たことがあるらしいのであります。」
 婦人の笑ふらしい矯声が[#「矯声が」はママ]方々から洩れた。この矯声を[#「矯声を」はママ]聞いてゐるうちに NO. 1928はふと人間の情緒の最後の炎がもう一度一時に閃き上つたらしい。彼は笑声の来る方をたづねてあたりを見まはした。座席には今まで気がつかなかつたが見た事もないやうな種類の人間がたくさんゐた。さうしてそれは彼が今までの夢のなかで時々見たことがあつた種類の人間――婦人達であつた。彼は気まりの悪い思をして目をふせたが、手術者はそんな事には一切無頓着で、彼を真裸にしはじめた。さうして腰部に淡い痛みを感ずる注射をされた上で彼は一段高い台の上へ登らせられた。座席の方からは貴婦人達のオペラグラスが一斉に彼の方へ向けられた。彼は益々首を垂れた。彼の登つた円い台は、廻転し出した。だんだん早くなつたと思ふと、急に止まつた。彼は再び台の下におろされた。彼の足が地上についたと思ふと、その時彼は一度地面のなかへぐつと引込まれ、同時にうなだれてゐた彼の首が自分の胸のなかへ入つてしまつたやうな気がした。
「もしや俺は香具師にだまされて殺されるのではないだらうか」
 が、次の瞬間に彼は爽やかな空気を感じて愉快に呼吸をした。恥しいとか苦しいとかいふ今までの感じは発散し消失してしまひ、振返つて見ると彼の腕は全く硬ばつた上に新鮮な青色を呈し、指はだんだん扁平になりやがてペラペラしたものに代つた。腕ばかりではなかつた。全身が真青になつて、指の変形のやうなものがあらゆる部分から発生するところだつた。実際、彼の体は半分以上地面のなかへ引き入れられたと見えて、身長は今までの三分の一近くに縮められ、それよりも最も驚いたことには、ただ感じばかりではなく自分の首が事実どこかへ無くなつてしまつてゐる事である。それでゐてどこに視覚があるのか、外界のものははつきりと――今までの朦朧たる状態よりも幾倍かはつきりと見えた。「先生、見事な成功でしたね」助手が言ふと先生は黙つてうなづいた。それを聞いて彼自身も安心したやうな気になつた。別に一人の教授が彼の傍へ近よつた。彼を凝視してゐたが、「薔薇科に属する植物である」と鑑定した。それはどんなものであるか自覚できなかつたが、彼はたしかに幸福感を持つた。
 この時第二の被手術者が現はれた。それは番外と呼ばれてゐた。この番外を見た時に、薔薇は出来るだけ大きな声を張り上げて叫んだ。といふのは番外とは実に彼を地下の別世界で養育したあの老人に外ならなかつたからである。彼の声は彼自身の耳にははつきりと聞かれたのに、何人もそれに応ずるものはなかつた。植物の言葉が人間に通じないことを彼は自覚した。さうして叫び立てることをあきらめて、黙つてただ深い感慨に打たれてゐた。この老人は死刑の処罰をうける代りとして変形させられるのであつた。それ故、何等の希望をも述べることを許されないばかりか、普通の注入薬液でないところの特別のものを使用されることになつてゐた。彼は植物界に於て最も哀れな状態にある微小な生存の蘚苔類にならなければならない――それは太陽に面することも出来ず、永久に不健康な場所から決して移動することは出来ない。それは植物の世界に於ける最下層階級である――さう宣言せられてゐた。気の毒な老人は何の抗弁もせず、又落胆や悲傷の様子もなく、手術者たちの為すがままに任せてゐた。彼は裸体にされ、廻転台の上に乗せられ、さて地上に置かれた。その時である。突然、薔薇は激しい不安に打たれてよろめくのを感じた。下半部をそのなかに生かしてゐる地面が、むくむく持ち上がるやうな事が起つたからである。驚いたのは、しかし薔薇のみではなかつた。周囲の見物人たちは泣き叫び、総立ちになり、手術者はその威厳をも忘れて、その場に坐つてしまひ、茫然自失してゐた。これらの騒動のなかに、地面を震動させながら根を張つて奇怪な発生物は、双腕を高く天に挙げ二本の腕の周囲からはまた諸所に各々の新らしい二本の腕を生じ、瞬くうちに数千の腕を生み出した者は、その手の指から最も壮んな火焔のやうな美しい緑を滴らせながら、なほも刻々に高く拡がり延びる事をやめようとはしなかつた。巨大な魔物は風を呼び起した。さうしてその新鮮な葉はサラサラと鳴り響いた。それは植物の言葉では哄笑に外ならなかつた。(薔薇は久しぶりに、彼の養父の楽しげな笑声を聞いた。さうして恐怖はしづまつた)
 この一大事はその後どうなつたか知らない。何故かとならば薔薇は間もなく別の場所へ移されたからである。

幸福なる窓


 それは一人の中流以上の婦人だといふことを、薔薇は本能的に知つた。さうして歓喜したが、彼女は薔薇を鉢のまますつかりつつんだ。彼の視野はすべて遮られた。彼は持上げられた。それから彼女の腕に抱かれた。(見ることは出来なかつたけれども、彼はすべてを感ずることが出来たのだ)彼は彼女とともに滑走し、飛行し、上昇した。すべてが夢の中の出来事のやうで好かつたが、只一つ困却したのはこの乗物が絶えず高低の定まらない不快な音響を響かせる一事であつた。人間の世界といふものが如何に喧噪極まるものであつたかを彼は薔薇になつて始めて気づいた。(軋るやうな音響の美を感じられなければ、この時代の音楽は理解されないだらう。歯の浮くことの快感ほど深刻なものはない! 彼の乗せられたものは音楽を奏してゐたのを、薔薇は知らないのだ)
 動くことは止まつた。薔薇は卓上に置かれた。覆は取のぞかれた。明るすぎる燈火の下に曝された。薔薇は変形させられるために裸にされた時、四方から彼の上にそゝがれた貴婦人たちのオペラグラスを思ひ出して、赧くなつた。彼をこゝに運んだ若い女の外に、ひとりの男がゐて、彼等は彼を見おろしながら話し合つてゐる。
「うまく手に入つたな――競売はどんな具合だつたかね」
「競売なんて、買ひ手はわたしひとりなのよ」
「そんなに不人気か――それぢや、折角買つて来ても看板にはならないではないか」
「大丈夫、その点は大丈夫。みんなはそれや、このへんなものに興味は持つてゐるのだわ。でも何も使ひ道がないので買はうと言はなかつたのですよ。それにこれを飼ふのはなかなか贅沢ですよ――少くとも三十分は日光が必要なのですつて」
 この対話は薔薇の自尊心を傷けた。
 その晩、薔薇は窓の外に置かれた。こゝは地上の第何十階かは知らないけれど、彼は見下して身ぶるひした。窓は若い女の居室につゞいてゐた。彼女のところには夜更けに、非常に美しい若い男子が訪問した。それは不思議だつた。どこからとも知れず忍び入つた。彼等は別に声をひそめるでもなくさまざまなことを語り、またさまざまな行動をした。薔薇ははづかしくつてまともには見られなかつた。だからそれを茲で話すなどといふことはとても出来ない。若い男は一時間ほどそこにゐたが、再び掻き消すがごとく立去つた。絶えず例の軋るやうな高低種々な音響が洩れ、それに夜は太陽の直射よりもあかるかつた。空には大きくサアチライト的発光空間帯があつて、その上にはノンシヤラン市と書かれてあつた。(空間鉄道の目標なのであらう。その文字は時々赤くなつたり青くなつたりして信号した)薔薇は眩しさと騒がしさとで到底眠ることが出来なかつた。喧騒がやゝ静まり、あたりの眩しさが消えてうとうとしたと思ふと、睡苦しい薔薇としての第一夜は明けたと見えてもう朝日が彼の上に注がれたので目を醒さざるを得なかつた。太陽光は、しかし直射ではなかつた。幾つかの反射鏡で屈折せられてやつとこの窓に到達するらしかつた。こんな光でもしかし、彼の赤いつぼみを養ふには役立つた。さうして三十分ほど照してゐたがもう当らなくなつてしまつた。(特に彼のために日光が買はれてゐることを薔薇自身知つたのはずつと後の事であつた。)彼は日当りのなくなつた窓の上で過去のことを思ひ、またこの境遇の変化を考へ、たしかに看板にされるのだと聞いたが、こゝは一体どんな店なのだらうかといふ軽い不安に襲はれ、夜の睡苦しいのも困つたものだと思つた。しかし、人間であつた時のことを考へると、その幸福はまるで雲泥の相違ではないか。然うだ。――さう思ふと、彼は彼の不平を勿体ないと気づかずにはゐられなかつた。然し、薔薇自身は自覚しなかつたけれども、たつた一晩の間に彼は既にこの階級の空気の洗礼を受けて、余程贅沢な気持になつてゐたのである。
 薔薇は窓から運ばれて、大きなガラスの箱のなかに入れられた。そのまはりには彼のものに似たさまざまの花が首だけもぎ取られて、皿の上にころがつてゐた。花屋のウヰンドウかと思はれた。――「人ハ瓦斯ノミニテ生クベカラズ」といふ文字が、ガラスの上に書かれてゐるのが、その裏から左文字になつて読めるのであつた。ウヰンドウの外では往来の人々が物珍らしげに立どまつて、皆は彼を指した。何か言つてゐるらしいけれどもガラス越しで少しも聞えなかつた。人が立ちどまつてのぞくので彼は満足だつた。店の主人は彼以上に満足らしかつた。薔薇は退屈のあまり自分の見物人を見物してゐた。彼はこの階級の人間といふものを、はじめて熟視したのであるが、彼等はどれもこれも見分のつかない程同じ顔をしてゐた。服装に到つては男と女との二つの区別より外、皆一様だつた。何か制服でも決まつてゐるらしかつた。――しかし、彼のこの観察が間違つてゐた事は二三日するとすぐ判つた。(彼が地下の人知れぬ別世界のなかで老人から聞いた事のあつた話をふと思ひ出したのだ)なるほど人々は一様の服装ではあつた。しかもそれは日毎に一様に変化してゐた。流行の型に従ひ、さうして流行は一日一日と変つたのだ。翌日の流行はラヂオで前日の夕刻報道された。一日おくれになつた流行はやがて次の階級の社会の流行になつた。人々は一日だけ着た古着を次の社会へ売り払つて、日毎に新らしい――つまりより一段上流の社会から来た古着を着用した。政府は流行税を徴し、また流行省は古着の専売局を経営した。これは社会経済の上から立案されたものださうで、これによつて下層民になればなるほど安い衣服を手に入れることが出来るといふ趣意だと言はれてゐる。が、何よりも先づ政府直営の古着専売局の日々の利得は絶大なものであつた。人々は流行に支配されないわけには行かなかつた。流行に従はない――従ふ能力のない人間は風俗を紊るものとして、社交界から追はれなければならなかつた。それ故、この流行制度を呪ひながら、着用した衣服のお供をして下層へ落ちて行く人々の悲劇は日々無数にあつた。
 悲劇と言へば、薔薇がそのウヰンドウに置かれたこの店は、どうも花屋ではなく、菓子屋であるらしかつた。客は相当にあつた。只、茲に不思議なことには、客が来ると店の女は必ず、先づ、
「悲劇の方にいたしませうか。喜劇の方に致しませうか」
 と問ふのであつた。さうして客の注文に応じて、それぞれの箱を出し、客はそのなかから択び出した。これが薔薇には全く了解しがたかつた。しかし、日常の見聞で遂に彼の了解に苦しむものは一二には止まらなかつた。この店にゐる二人の女も一人の男も、それがどんな関係の者であるか、いくら注意して観察してもわからなかつた。最後に、男はこの家の主人で、女のひとりはその娘で、もうひとりの女は売子だらうといふことに一先づ決定した。又、毎週一度づつ必ず夜間になつて娘のところへひそかに訪問するところの男子もわからないものの一つであつたが、これはこつそりとは来るけれども、どうも公然の夫であるらしかつた。(これが映像と音声とそれに触感まで組合はされて電送される幻影で、産児制限の最も確実なる方法として、政府が最近に奨励してゐるものであつたことを、薔薇はまだ知らなかつたのだ)さうして薔薇は有夫の婦人を好まない性質であつたので、この女ではなく売子の娘の方を愛することにした。彼はいつもこの女の心づかひで、窓に出されたりウヰンドウに置かれたりしてゐるうちに、自づとそんな感情を抱くに到つたと思へる。――彼は非常なさびしがりやだつたものだから。

芸術の極致


 窓のそばの机に対しながら、この家の二人の女たちは一册の書物をのぞき合つて、「いいわね」「あら、素的じやなくつて」などとしきりに感嘆してゐるのを見た。薔薇は直覚的に彼女たちは詩集を読んでゐると考へた。さうしてこんな不可解な社会にも芸術のあるのを知つて欣快を覚えた。そこでその横綴の小册子をのぞき込んで見ると、それは実に(!)模擬紙幣の図案集ではないか。しかも彼女たちがそれを一とほり愛読(?)して了つて本を閉ぢた時、表紙には現代文芸大全集の第八巻とあつた。彼女たちはそれを閉ぢ、しばらくの間文芸論を談合つてゐた。彼女たちは頬をほてらし目をかがやかしてゐた。ひとりはリアリステツクな芸術を、ひとりはロマンテツクなものを愛好するらしかつた。精々百円ぐらゐなものの方がより多く実感に訴へるといふのに対し、片一方は一万円などの方がいかに空想を豊富にし生命力を充実させるかを力説した。するとリアリズムの信者は、巨大な額面をテーマにすることの好ましい事に異議はなかつたけれども、それらを取扱つたものはどうも実際百万円などといふ観念に伴ふだけの壮厳な権威を表現し得なくて空疎な気持がすると反駁した。
 当時文芸は、「いかにして金を儲けようか」とか「若し自分が百万長者であつたならば」といふ近代文化の唯一の生活題目を文字によつて表現する方法は一世紀も前にすたつてしまつて、今日ではどの定期刊行物も単行本も、また一円版全集も(現に今ふたりの女が愛読してゐるものもその一つであつたが、――さうして「数百万円ガ僅ニ一円」といふ宣伝はこれだつたが)同一の題目に対する、より直接的な効果に訴へる手法として、最近は殆んど悉く模擬紙幣の図案集になつてゐた。中にはその過大な迫真力のために人心を動揺させるといふので社会の風教のために発売を禁止されるものもあつた。人々はそれを熟視して生活の豊富になるのを痛感した。人生の目的を知つて生甲斐を感じた。さまざまの空想を誘はれて人生を光明的に感じた。さうして人々はこの種の芸術のことを精神的芸術と呼んで、もう一つの官覚的芸術と区別してゐた。
 薔薇は間もなく知つたが、彼が飾られてゐるこの店といふのは花屋でも菓子屋でもなく実は、官感派の芸術家のギアラリイであつた。しかもこの主人といふのはこの社会ではなかなか権威のある芸術家に相違なかつた。精神派芸術の発達のために一時衰滅に瀕してゐた官覚派芸術に一生面を開いた人物こそ彼であつた。彼は彼のところへ訪問する後輩に向つて、よくさう言つてゐるのを薔薇は聞いた――
「色だとか香ひだとかそんなものをいくら強烈にしてみたところで、もう誰も何も感じはしないのだからね。そんなもので満足したのは昔の話だ。例へばこの薔薇さ(薔薇は指されて悔蔑を[#「悔蔑を」はママ]感じた)こんな馬鹿なものを見て喜んでゐた古代の人間は、滑稽な話さ。そこでこんな花なんてものを食べられるやうに工夫したのは、確に前時代の天才の仕事だつた。実際人間は瓦斯体ばかりでは本当の味覚は充たされない。固形体を噛つて見たいといふ慾望は深く根ざしてゐるのだ。この点を発見して色や香の結合した固形体にその色なり匂なりから当然聯想される味をさまざまに工夫したのは、正しく一大進歩だつたのだ。ところが然し、それだけでは要するに古代の所謂お菓子と代りのないもので女や子供の為めの芸術にはなつても一般人士の要求には応ずるに足りないよ。そんなものをさういつまでも誰が喜ぶものか。だからこそ、まるで愚にもつかないつかまへどころのない精神派の芸術を、かへつて神韻があるなどと思つて、一般の芸術的流行はその方へうつつて行つたのだ。それにあの派の芸術も実際一時に進歩したからね。紙幣そのものの情緒を直接に目に見せ、その用途などは全然看る者の自由意志に任せるといふ手法が時代の風潮をうまく捕へたものだ。その単純で直接なところは大にいい。ところで近代芸術の上で吾輩のやつた仕事といふと、これは諸君も幸に認めてくれるとほり、強烈な肉体的刺戟の創造だ。吾輩の製作を食へばとめどなく笑へるものもあるし、涙の湧き出すのもある。深刻なのになると今にも死にさうな苦痛の官覚を呼びおこさせる。死ぬやうな珍らしい官覚に打たれながら、それでゐて一方、これは芸術の作用だから決して本当に死ぬ気づかひはないといふ安心はどこまでも失はない。つまり私のお蔭で人間はその時の気分に応じて無数の肉体的感覚を勝手に発生させられる。交感神経や迷走神経などに適当な刺戟を与へるものなどは尤も通俗的製作だよ。要するに吾輩は色彩や形態や味覚の芸術のなかへ文学的要素を取入れたのだ。吾輩の芸術は紙幣図案などといふ浅薄なものとは自ら違ふ。諸種の伝統的芸術に一大綜合を加へたわけだ。吾輩は実際、今までのどの芸術家も芸術のなかへ薬物学を取入れることを拒んでゐたのが不思議でならない。その癖、太古からアルコールの芸術的価値は知られてゐたし、迷信につつまれた十九世紀二十世紀などでさへオピヤムやコカインなどの芸術的用法は知つてゐたのだ。あの薬物学の全くの啓蒙時代に於てもさ。しかもそれを自覚することが出来なかつた。――といふのもつまりは芸術を形而上的なものなどと迷信してゐたからさ。そこで吾輩は君に一つのテーマを与へたいが、どうだらう、一つ我々が賤民になつたやうな珍らしい諸官感を一時に人々に味はせる方法を工夫して見る気はないかね。この贅沢な好奇的な希望を上流社会の人間に味はせると、きつと流行するよ」
 偸み聞いて薔薇は少しもその意味を解することが出来なかつた。それでゐて不思議にひどく腹が立つて来るのであつた。何を見ても何を聞いてもあまりに腑に落ちない事ばかりで、彼の最初の幸福感はどうやら段々うすれて行くのであつた。たゞ一つ喧ましいのや眩しいのにはもう自づと慣れてしまつて、睡ることだけはよく出来た。それに毎朝の太陽は一日ましに温さを増して来た。日光の中でうつらうつらしてゐるのが彼には唯一の幸福であつた。ところがその夢のなかには彼の同類のこの上なく繁茂したものが現はれて彼に話しかけるのであつた。
「お前は月といふものを知つてゐるか」
「お前は星といふものを知つてゐるか」
「お前は虹を知つてゐるか」
「小鳥たちを――夜鶯を知つてゐるか」
「黒土の芳ばしいにほひは?」
「泉の囁きは?」
「夜の露は?」
「少女の接吻は?」
 彼はそれらの問に、何一つ答へることが出来なかつた。さうしてそんなむづかしい問ひを発する者は誰だと言つて反問すると、相手は言ふのであつた。
「私はお前の祖先だ。千八百年代の薔薇だ」
 さう答へて、その頃の花の生活といふものを語り出した。――夢がさめて薔薇は身慄ひをした。日光は消えてしまつて彼はガラスの箱のなかへ運び込まれた。空気は生気がなかつた。人々は楽しい夏の熱さをいやがつて、このいい季節にアルプス山頂の空気を毎日幾リツトルだか混和してしまつたのだ。薔薇は夢のなかの祖先の言葉を思ひ出し、彼の身辺を見まはして自分を囚人だと感じ出した。その夢は彼が毎日、三十分間日向に置かれる度ごとに現はれた――さめてから後に彼の現実を嘲笑ふために。花はどれもこれも三分の一だけ開いてしなびた。――噫、病気だ。

新しき恐怖


 或日、一群の女たちが興奮しながら我勝ちに店のなかへ入込んで来た。主人も二人の店の女たちも口々に品切だと言つてあやまりながら、熱心なたくさんの客たちをかへした。さうして慌てて店を閉ぢ、本日休業の札をかかげた。店の者たち、特に主人は狼狽してふさぎ込んでしまつた。薔薇にはこの一場の異様な光景の意味がよくわからなかつたが、聞くところを適当につぎ合せるとかうである。その世界に不思議な恐ろしい病気がこの都市で発生し、若い女で理由も判明しないうちに同じやうな症状で瞬間に死んだものが、この半日にすでに九百何人に及んだ。この新奇な噂が拡がるとともにその強烈な新種の戦慄を一刻も早く実感してみたいといふので、かくも騒々しく婦人たちはこの芸術家の店に殺到したのだ。けれども、さすがに有名な肉体実感の製作家たるこの店の主人もこの異常に新奇な感じを如実に表現する製作は無論持ち合せてゐなかつたのだ。彼はその名声を失墜させないために店を閉ぢたのだが、この奇病が世界に全く始めてのものである以上、これは要求者の方が無理と云はなければならない。
 夜になつて薔薇は窓の外に睡つてゐた。と、不意にどこか近いところで、人間の歎息を聞いたが、その次には多少人間の訛りのあるアクセントのややちがつた植物語で、
「全くわれわれは欺かれた」
 と言つてゐるものがあるのに気づいた。薔薇は目をあけて四辺を見た。姿はどこにもなかつた。
「誰です、僕に話かけたのは」
 すると声はごく近くの壁のあたりで答へた。
「一たい君は誰だ」
「僕は薔薇科に属する植物だ」
「それではお前も、近ごろ人間から変形したひとなのだね」
「さうです」
「さうして一たいお前さんは幸福か」
「…………」薔薇は否と言ひかけて口をつぐみその代りに「で、君は一たいどうなのだ」
「先づお前の方から言ふがいい」
「僕ですか。僕はそれや幸福でない事はないのだが」薔薇は曖昧な口調であつた。彼は相手が、いつか同じく変形させられた連中であると知ると、どうしてだか不幸だと告白したくなかつたのだ。
「それは俺たちだつて幸福でない事はないさ。空気はある、日光もともかくある。それに植物はものを言へないなどと言つたが立派にこのとほり口が利ける。それから飛ぶことさへ出来るのだ」
「飛ぶことが? 植物でゐながら飛ぶ事が?」
「然うだ」相手は吐き出すやうに言つた「俺は出来そこなひなのだ」
「一たいどこにゐるのです」
「壁に吸ひついてゐるさ」
 薔薇はここで始めて、今まで全く忘れてゐたあの円形広場の群集たちのことを思ひ起し、自分以外のあの時の人間がどうなつたかを知る機会を得た。本当の植物になつたものは薔薇自身と※(「木+解」、第3水準1-86-22)の大樹――あの処刑された彼の養ひ親だけであつたらしい。他の無数のものは皆ただ一片の厚ぼつたい葉つぱのやうな物になつて了つたらしい! さうして彼等は昨日までは※(「木+解」、第3水準1-86-22)の木のどこかへ寄生して巣喰うてゐたのだ。
「その※(「木+解」、第3水準1-86-22)の木はどうしてゐる。それは僕のお父さんとも言ふべき人なのだが」
「気の毒に、切られてしまつたよ。根元から」
 薔薇は驚き悲しんだ「どうして! 又」
「知らない。あの人は毎日、この地上の空気は悪い――地面は人間の細工で硬ばつてゐる――燈が地上には明るすぎて夜になつても星は見られない、とさう言つてこぼしてゐた。それでもどこか星から声がすると言つて時々は笑つてゐたのに、突然人間が来てその根のまはりの土を掘り出したのだ。とても掘り切れないのを知つて今度は根元から切りはじめたのだ。どうなりとするがいゝ――俺は何度でも芽を生やすのだから。あの人はさう言ひながら切られてしまつた。恐ろしい電気鋸だ。困つたのは俺達だ。無数の俺たちはあの人が吸ひ上げるものを振舞はれて生きてゐた。もう俺は今日から喉が渇いてならない。俺は人間の血を吸はうと決心してゐる。渇いてゐる。それに変形させられる時一目よく見た貴婦人とかいふものの肌に俺はちよつとでも触つて見たい。ヒ! ヒ! ヒ! ヒ!」
 この笑声は不気味さ浅ましさが人間のものに似てゐた。
 夜は更けて行つた。薔薇は眠ることが出来なかつた。どうしてだか久しく決して思ひ出せなかつたあの地下窟の老人を、※(「木+解」、第3水準1-86-22)の大樹になつた人のことを思ひつゞけたのだ。またこの地面のなかに自分はたつた一つの植物らしいといふ自覚がこの上なく淋しかつたのだ。夜があけた。朝日が彼の上を照し出した。その時どこかから直径一吋ほどの丸い葉つぱがひらひらと飛んで来て、彼の鉢の横腹へとまつた。
「ちよつとここで休ましてくれ!」
 この不思議な植物性断片は吸盤のやうなものを供へてゐると見えて、植木鉢へしつかりと吸ひついてゐた。薔薇は半睡状態でいつもの日向の夢を見てゐた。……日の光の洪水。青春。そよ風。夜鶯が来て歌つた。月と星とは太陽と一緒に天にあつた。虹がかかり、その中から蝶がおりて来た。泉がささやき――渇いた者はそこで呑むがいい。少女(それは店の売子の娘であつたが)が満開の彼に接吻した。夢は消えた。日はかげつて、毎日の如く彼をガラスの牢獄である飾り窓へ入れるために、彼女が彼の窓のそばに来た。薔薇ははつきり眠からさめた。昨夜の不思議な吸血植物の事に気づき、どうかして人間の言葉を思ひ出して警告しようとあせつた時には、もう遅かつた。彼女は不意に床の上に打倒れた。と、その日の流行によつてすつかり露れてゐた右の乳頸が、ぽつかりと何者かに剔られ、全身は見る見るうちに紫色に変色した。
 彼女の手から、驚きのあまり投げ出された薔薇の鉢は、窓の外にころがり出た。あたりに風のうなるすさまじい勢で薔薇はぐんぐん墜落しながら、叫喚し、こんな世界に生き長らへるにも及ばないと閃光のごとく感じたが、それきり気が遠くなつた。……





底本:「定本 佐藤春夫全集 第7巻」臨川書店
   1998(平成10)年9月10日初版発行
底本の親本:「明治大正文学全集第四十卷 志賀直哉・佐藤春夫」春陽堂
   1929(昭和4)年6月15日発行
初出:「改造 第一一巻第一号」改造社
   1929(昭和4)年1月1日発行
※「生ひ立」と「生ひ立ち」、「仕掛け」と「仕掛」、「見下ろす」と「見下す」、「僅か」と「僅」の混在は、底本通りです。
※初出時の表題は「のん・しやらん記録」です。
入力:朱
校正:水底藻
2020年3月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード