谷崎文学の代表作「細雪」

佐藤春夫




 谷崎文学の特長はゆつたりとしたゆたかな風格の重厚なところにある。さながらに坦々たる都大路を行くやうなとでも云はうか。この特長は初期の作品にもよくあらはれてゐたが、その大成の姿を示したものがこの細雪ではあるまいか。その重厚に大らかなものに更にきめのこまかさを加へて、まことにめでたいものである。
 これは源氏物語の現代訳を試みたことによつて、本来の好い素質のうへに、古典の骨法をよく学んで、そのよい肥料の十分に利いてゐるうちに書かれたのがこの作品であるために、かういふ申し分のない作品ができたのでもあらう。
 古典的な落ちつきと近代風の写実とがよく溶け合つてその兼ね合ひがまことにほどのよい諷刺の、快い様式になつてゐるやうに思はれる。
 以上谷崎文学の好所をばかり数へ上げてみた。といふのも細雪が谷崎文学の長所を十分に発揮した作品だからである。とは云へ谷崎文学とても全体としては決して申し分のないといふ有難いものではない。しかし常識的でつくりものらしい調子の低さを見せた谷崎文学の欠点が、この作品では偶然ならずよく免れてゐるのである。
 ほんたうの美とはどこかしら奇異なところ、一種の鬼気とでもいふべきものが必要だといふのがアラン・ポーの意見であつたとおぼえてゐるが、谷崎文学はいつも、鬼気をねらつたものでさへ決して何らの奇異なところはなく飽くまでも常識で構成された神韻に乏しいのが谷崎文学、最大の欠点のやうに思はれる。これを泉鏡花や永井荷風の文学に比較してみれば谷崎文学が常識的で神韻に乏しいといふ、僕の意見はきつと何人にも首肯されることと思ふ。作品ばかりではなく、人として見ても谷崎氏は鏡花の如くまた荷風のやうな異常な偏奇の人ではない。彼は菊池寛と並称してもよいほどの良識の人なのである。作品の傾向こそ全くうらはらだが、その大衆的人気を担ふ点で菊池寛の作品と似てゐるのも決して偶然ではあるまい。
 谷崎氏はいはゆる天才などといふやうな天の産んだ畸型児ではなく、彼自身の努力によつて自己の文学を企劃し完成した能才の人なのである。
 ところで細雪といふ作品であるが、これは関西といふ国内的エキゾチシズム(東京の人谷崎氏にとつては全く風土と人情とを異にした土地の新奇)に対するめんみつな観察を彼の身辺で心ゆくまでに見つめたものを、事細やかに述べた一種の風俗小説、世間話なのである。これを書くには神韻も何も必要はない。ただ彼の達筆によつて書きつづけさへすればよいのである。彼は舌なめづりするやうに書いてゐる。いかにも興に乗つたやうな、この華麗に一脈のもののあはれを漂はしたこの物語(といふよりは世間話)はいかにも人々の気に入るはずと思はれる。
 無理がなく、なだらかに品よく書かれてゐる。さうして人の好む作風と思はれ、また谷崎文学の好所ばかりを集めたその代表作といふのに少しも異論はない。それでゐて、わたくしは実のところこの作品をあまり好まないのである。その理由はわたくし自身にもよくわからない。もしかすると世間の人々の好みに合ふことがつむじまがりのわたくしの好みに合はないのではあるまいか。あまりに通俗なとでもいふのか、いや、わたくしは通俗なといふことは一つの美点とさへ思つてゐる。それでゐて、この作品を好まないことは、考へ抜いた末にやつとわかつた。わたくしはここに書かれた人物や、事件の一端をうすうすながら知つてゐるためであらう。つまり楽屋を知りすぎてゐて舞台が面白くないといふのではあるまいか。どうもさうらしい。舌なめづりするやうな書きぷりも楽屋を知るわたくしにはおぞましい。





底本:「定本 佐藤春夫全集 第26巻」臨川書店
   2000(平成12)年9月10日初版発行
底本の親本:「日本文学全集 16 谷崎潤一郎(二)付録月報」新潮社
   1959(昭和34)年11月10日
初出:「日本文学全集 16 谷崎潤一郎(二)付録月報」新潮社
   1959(昭和34)年11月10日
入力:よしの
校正:hitsuji
2020年6月27日作成
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