わが心のなかの白鳥碑

佐藤春夫




 白鳥先生はわたくしにとつても最も思ひ出の深い人である。
 わたくしが十六七で、所謂文学青年といふものになつて師父を悩ましはじめたころ、最も愛読した作家は、思へば独歩、白鳥、さうして荷風であつた。この三人とも当年、自然主義全盛の文壇で新進の花形であつた。いつの時代の文学青年もさうであるやうに、わたくしもほとんど何もわからないでこの三人の令名をそのまま信用してこれに心酔したわけであつた。独歩はその後いくばくもなく亡くなつたので、旧作を読み返すだけであつたが、白鳥、荷風はその後も、その新作が出る毎に必ず読んで白鳥は「紅塵」荷風は「あめりか物語」の処女集以来この二作家のものは作家の終生に及んだ。さうして、この後もわたくしに読書能力ある限りは、時々その全集を繙くに違ひない。
 その間、荷風とは親しみ近づく機縁があつたが、近づき過ぎたためであつたか、歿後の今日では作品はともかく、この作者にはもう何らの愛着もなく、むしろ嫌悪を感ずるやうなあと味のわるい不幸な結果となつた(この事に就いてはまた改めて詳しく書くこともあらう)。
 これに反して白鳥とは水のやうに淡い交であつたせいか歿後ますます畏敬し親愛を感ずるやうになつてゐる。その作品もむかしはよくもわからなかつたが、わかつて見ると一見拙いやうに見えながら滋味の多いものであるが、この作者も正しくこの作品と同じことである。わたくしはわが心のなかに独自の白鳥文学碑を持つてゐるやうな気がする。
 わたくしは荷風がゐたといふだけの理由で三田に、(さあ、通つたとも学んだとも言へないし何と言つたものだか)時々、通つて、永年の間に少しばかり学んだが、その間に最も年少のため三田の文学講演会の使者を命じられ走り使ひをして、柏木にあつた岩野泡鳴のところへ講演を頼みに行つたことがあつた。泡鳴は夕飯の酒に少々酔つぱらつてゐた気味で、荷風論をして荷風の文学などはつまらない。そんな荷風の主宰する三田文学会の講演などに出ないと、それこそ一席の講演ほどの長広舌を揮つて、わたくしともうひとり同行の級友とを煙に巻いたものであつたが、その時、わたくしどもより一足おくれて泡鳴を訪うて同席してゐた人が、わたくしどもが先生の荷風が罵倒に近い論鋒にへきえきしてゐるのを見兼ねたかのやうに、泡鳴に対抗して荷風文学の美点を数へたものであつた。この事実はおぼえてゐたが、この時の論客が白鳥であつたことは、その後四十数年を経た一昨年、白鳥自身の口からそれを聞いて、やつと思ひ出したことであつた。たまたまわたくしがむかし泡鳴に会つた話をし出すと、
「その時、僕がゐて荷風をほめたではないか」
 と白鳥はさう言ひ出したので、わたくしもやつと気がついて、愛読してゐた作者がはじめて目の前に出て来たのを印象することのうすかつた自分の迂※(「さんずい+闊」、第4水準2-79-45)を恥ぢ、この老大家の強記に感心したものであつた。この人はそれほどものおぼえのいい人であつたばかりではなく、座に堪えないほど閉口してゐる我々に代つて泡鳴を反駁するほどの思ひやりのある人でもあつたのである。
「春の日」といふ五六号しか出なかつた雑誌はある半気違ひのヤマシにだまされてわたくしが主になつて出したやうな形になつたもので、自分の軽卒を[#「軽卒を」はママ]はじめ何かと腹の立つことが多かつたが、それでもこの雑誌のおかげで両三回、白鳥先生と両三回も一時間以上対談する好機会を得たのは、思ひがけない大した拾ひものであつた。
 先生ははじめ談話筆記はいやだ。筆記者はすべてものを知らないため、固有名詞など、デタラメを書くから談話筆記はすべてごめんだと言ふのを、わたくしも一緒で筆記も拝見するから、先生のお話の真意はどれくらゐ伝へられるかは知らないが、固有名詞の間違ひぐらゐは十分気をつけることができますと押し返してお願ひすると、それならばと引き受けてくださつたものであつたが、先生は一たいに何ごともあつさりと一言ではお引き受けなさらなかつた様子で、一度は必ず辞退するが押して頼めば大丈夫引き受けるといふ人であつたらしい。
 その対談はわたくしが話題の引き出し役であつたが先生の文学論や社会観、交友関係などを主として先生の回顧談ともいふべきもので達見やおもしろい話談が多かつたのに、雑誌の廃刊のために中絶したのは残念であつた。あれは先生ももう少しはつづけてやつてくださる意嚮もあつた。一度はいろんなことを話して置くのもよからうと言つてはじめたことであつたからあの時つづけてゐたら、先生の自叙伝の一節や、文明批評の一端などともなつて有益におもしろいものであつた。あれをこの雑誌にでもつづけて置けばよかつたのに、気のつかないことをした。先生はやはり何か一言「心にわしの話はそぐはない」などと断りながらも結局は承諾してもらへたらうと思ふ。
 その対話の間に時々、おもしろい話があるのだが雑誌の記事になるのではと話をやめることが多かつたが、筆記がすんでから問ふとさまざま、いろんな人の逸話などが語り出されるのであつた。かういふこまやかな心づかひのある良識の人でもあつた。
 白鳥先生は木で鼻をくくつたやうに無愛想なニヒリストのやうに言はれてゐる人であつたが、わたくしの見る限りでは、純粋に正直な、さうして気持の透明に高らかな、哲人の風格を持つたなつかしい人柄で、この上永く近づいてゐたら、いよいよその人の長所があらはれよい感化をも得られるであらうと考へてゐただけに先生の永眠はわたくしには悲しい。
暗き哉、大人うし亡きのちの秋灯あきともし
 と霊前に供へた句は手づつでも、心もちは本当である。
 先生は中国の大地主といふよりも、むしろ豪族とも呼ぶべき家の出身であるとか聞き及んでゐたが、要するにさういふ旧い名家の出の人にふさはしい何ものかが、そのなかに、にじみ込んでゐた人であつた。深く堅い信仰を抱きながら、そ知らぬふうをしてゐたのもゆかしい。
 発病から入院中などのいかにもその人らしいいろいろな消息も、くわしく聞き伝へてゐるが、到底何もかもは書き尽せるものでもなし、それらはわが白鳥碑の下に納めて置いて今はこれだけにする。





底本:「定本 佐藤春夫全集 第26巻」臨川書店
   2000(平成12)年9月10日初版発行
底本の親本:「心 第一五巻第一二号」
   1962(昭和37)年12月1日発行
初出:「心 第一五巻第一二号」
   1962(昭和37)年12月1日発行
入力:よしの
校正:hitsuji
2019年9月27日作成
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