伝説と事実 鷹を飼つた話
佐藤春夫
鷲を飼つた話を書けといふ。が、まだ鷲を飼つた事はない。飼つたのはただ鷹であつた。それを鷲といふのは数多い春夫伝説の一つにしか過ぎない。古来文豪は多くの伝説を持つてゐる。わが春夫はこの点、既に文豪の域に達してゐるのは我ながら欣慕に堪へぬ。
思へば、両親ともにそれが好きで、子供の頃からずゐ分とたくさんの小動物を飼つて来た。わけても鳥が多い。獣は母がいじらしすぎると好まなかつたからである。
明治二十何年か、とにかく自分の未生以前、十津川村の流失した熊野川の大洪水の時、家は河流に近かつたが咄嗟の間にも手飼の鶯の籠を屋内の一番高い棚に置き直して避難したのはよかつたが、餌を十分に補つて置く余裕がなくて、水よりも今は小鳥の飢を案じながら一夜を待ち明す間に水がひきはじめたのを幸第一に家に馳せ帰つて見ると、まだ玄関の床に濁流の引き切らぬ二階から鶯がほがらかに高音を張つてゐたのが楽しかつた。生涯にもあんな愉快な思はあまりないといふのが父の晩年に好んだ話柄の一つであつた。
鳥は鶯、目白、山雀、小雀、カナリヤ、頬白さては雲雀、唯の雀から、画眉鳥、鶴、梟、烏まで飼つた。烏は飼つたといふのではなく、家に近い山に生れたらしいのが、毎日家の台所の前庭に来るのに母が魚の腸などをくれてやつてゐるうちに、毎日午後三時頃、夕餉の用意の頃を忘れずに通勤しては一時間ほど鶏に交つて遊んで帰るのを、皆で珍らしがり愛してゐた。この烏は来る前と帰つてから後とはいつも一種異様な「ヤツコ」と呼ぶやうな啼き声を立てて呼ぶので、家ではヤツコ烏と名づけて飼ひ鳥のやうに思つてゐたものであつた。二階の部屋に近い崖の上の楠の枝の上に巣があつた様子で、ここに生れここで育つたと見える。だからヤツコといふ啼き声も、或は自分の姉保子を呼ぶ時の自分の両親の声を聞き覚え聞き訛つたのではあるまいかと思はれるのであつた。ヤツコ烏は一年ばかり通勤してゐたが、その後、あまり姿を見せなくなつても声だけは楠の上で絶えず聞かれた。後には巣を代へた様子でそこには住んで居なかつたが思ひ出したやうにヤツコと啼きに来てゐた。自分が十二三歳の頃のほんたうの童話である。
家は山に沿ひ窓は水に面してゐたから種々の小鳥の自然な生態を見る機会も多く暴風雨の夜など風に吹き飛ばされ燈影をたよつて来る鳥が多かつたので梟などは二三度もそれを捉へて飼つたのである。一度翡翠をつかまへた事もあつたが、これは餌の困難を考へて飼ふ事は遂にあきらめた。わざわざ飼はないでも窓の外の池で見られるからといふ理由もあつた。家は水野土佐守の居城丹鶴城址のすぐ下で、池はその城の壕の埋め残された一部分であつた。
いろいろな鳥を飼つて見たあげ句に一度猛禽を飼つてみたいと思つてゐた折から、当時――といふのはもうかれこれ三十年も前の話である。――女房になつてゐたのが秋田の雄勝郡の者で、その親代りの叔父といふのが山村の人であつたが、それが秋田訛まる出しのワスがワスがでさまざまな山中の話の末に友人の一猟師が飼ひ馴らしたいい鷹を持つてゐると、その鷹の噂を聞かしたので、自分は直ぐにそれがほしくなつてしまつた。自分に持ち前の子供らしい気まぐれの物好きであつた。叔父はその次の上京の折、みやげ物に持つて来たのが、噂の鷹であつた。
自分で持つて来る筈であつたが、途中困難のため輸送して置いたと田舎の人の律気に自分でわざわざ駅に出かけ受取つて運んだのを渡してくれた。
自分の鷹を飼つた話は、伝説化して鷹が鷲になつた。当時、伊福部であつたか赤松月船であつたか、それをまだ伝説化せず鷹のままで詩にして家庭の檻に囚はれたその飼主の姿をその憂欝げな鷹になぞらへて歌つたものがあつたが、その詩句は勿論、作者の名をすら今はもう明確には思ひ出せなくなつてゐる。鷹がいつの間に鷲になつたらうか。或は物を知らない奴がゐて、最初から鷹と鷲とを混同したのでもあらうか。
近くは亀井勝一郎がその事を記した時にはもう立派に堂々と鷲になつてゐた。自分はこの伝説を通してそぞろに当年の事実を思ひ出した。亀井の書いたのは伝聞の伝聞らしく、すつかり伝説化されてゐるのを亀井は更に面白く芸術化してゐた。自分がその巨大な鷲に生きた兎を投げ与へて悠然と煙草を吹かしながら飢を満たしてゐる鷲に見入つてゐるといふ豪快な図であるが、残念ながら事実はそんなに豪快な自分ではなく、鷹が誤つて白い毛糸の幼児を傷けはしないだらうかと、遂に一度も留り木から鷹を放す事さへ出来ない善良な小市民に過ぎなかつたから、自分に飼はれた鷲ならぬ鷹は兎の生餌どころか気の毒千万なものであつた。自分は詩化された伝説の美を喜ぶがさりとて悲惨な事実を頬冠りしてゐる事も出来ない。根がセンチメンタルに気の小さな正直者だから。
不幸な鷹は先づ輸送の方法を誤り羽根を傷めて来た。小さな身動きもならない程の小箱にぎつしり押し込まれて来るべき筈で、もとの飼主が、然るべく荷作して置いてあつたのを、それではあまり窮屈であらうと、いらぬ思ひやりから少しゆつたりした箱に入れかへられたのがよくなかつたのであらう。なまなか身動きが利くだけに車中で驚きあばれた羽ばたきの結果にその羽根は大部分三分の一ぐらゐのところから痛々しく折れ乱れてしまつてゐた。そのせゐで彼の到着の当座、変に気が立つてゐながら、意気銷沈して見えた。
文字どほり尾羽打ち枯した鷹で流謫の王者のみじめさであつた。
鷹と一しよにもとの飼主から譲られた鷹飼の手袋があつたのを、叔父は早速に左手にはめて先づ自分で鷹を左手の拇指の上に据ゑて見せ、さて右手で執つた箸で用意して置いたコマギレの牛肉を嘴に持つて行つて鷹にその五六片を食はせた。鷹は専ら肉の部分を食つて脂肪分はただ嘴にはさんだばかりで首を振つて啄み捨てた。叔父は餌を与へ終るとそれをふんわりと留木の上に置いたのを、自分は手袋を受け取つて手にはめてみた。鹿皮と木綿布とをはぎ合せて綿入れの云はば撃剣の小手をすつかり柔軟にしたやうなものであつた。自分は叔父に見習つて怖るおそる鷹を手にとまらせて見ると、鷹は体のバランスを取るために自分の拇指や握拳を手袋の上から鋭い牙をゆつくりと幾度か立て直してやつと幾分の落ち着きの出来たところでその大きな羽根を思ひ切り延しひろげて二三度軽く羽ばたきをすると力のない自分の足もとがゆらゆらするやうな感じであつた。丈は一尺六七寸ぐらゐと思へたから、翼をひろげると小さな庭の片隅ではややせせつこましく足もとも危つかしい思であつた。
「大丈夫ではあらうがなるべく鷹の顔は外に向けて置くがよがす、もすまつがつてまなこ(眼)でも食はれたでは鷹をくれたわすが申すわけねでがす。」
と叔父は律気にそんな注意までして一日分の餌の量や時々は雨に打たせる事まで思ひ出して教へて四五日様子を見てから鷹小屋の設計まで考へ口授して帰つた。小屋はその後二三日で植木屋によつて造られた。しかし、水は何時どういふ風にしてやつたらよからうかといふ自分の馬鹿な質問に対して、この田舎おやぢがまた自分の問に劣らぬ馬鹿な返事をしたものであつた。
「水はやらんでよがせう。水をやつてゐるのを見た事は無い。」
と答へたのはきつと鷹がいつも山野に放たれてその放たれてゐる間に生餌を捉へたり、流や泉を見つけたりして自分で渇を医する機会を与へられてゐたから別に水は与へなかつたのであらう。そこに気がつかないで叔父の返事を言葉のままで受取るばかりか、肉のなかにある水分だけで間に合ふのであらうとひとりで早合点してゐた自分はよくよくの馬鹿であつた。
「水を飲まないでいい生き物があると思ふか、馬鹿が!」
ともう世に立つてゐる壮年の息子に向つて温厚な老父が馬鹿呼ばはりをしたのは前後にこの時一度切りであつた。それも無理のないところであらう。
その時、自分は折から上京中の老父とベランダで卓に相対して鷹を見てゐた。医者であつた老父は多分栄養の悪い鷹にすぐ気がついてゐたのでもあらう。夏日で自分が飲み残したコツプの水の残りを窓外に捨てたのを見てゐた父が、
「鷹には水をやつてゐないのではないか。鷹は水をほしがつてゐるぞ、今捨てた水を追つかけた様子はよほど水に渇いてゐるぞ。」
と云はれて、さすがに自分も早速、茶碗に持つて行つた。鷹は自分の手に飛びかからんばかりの勢を見せたが茶碗の地上に置かれたのを見るなり、それに七分どほりあつた水をいきなり一息に飲みほした。息もつかないで一杯、つづいてまた一杯と飲みつづけた様子は哀れにも可憐であつた。思へば四月の末以来、百日以上も鷹は渇きながら一滴の水にもありついてゐなかつたのである。自分の申し開きに対して老父が馬鹿呼ばはりしたのはこの時である。
水ばかりではない。餌も満足にやつてゐたかどうかは疑はしい。はじめは物珍らしく手に据ゑてゐたのを、終にはその労を厭うた末に、僅に檻の外から肉片を嘴のあたりに差し出してやるだけであつた。そのためか彼はあまり食慾も無く、また傷んだ羽根は終に恢復しさうにも見えなかつた。彼は石灰のやうに白くて悪臭の強い糞を小屋の内外一面にひり散らしてゐるばかりで、もとより飼主になついてくる筈もなく、時折は足にからむ綱をうるさがつて狂暴になつたやうに見える事があつた。頻々と出入する庭のドブ鼠を見かけるらしかつた。
かういふ気の毒な生活の末に鷹は縊れて自殺したものであつた。春の或る朝、桜の花びらが地に散り敷いてゐる頃、鷹は足に結ばれてゐた綱にその首がからんだままでとまり木からさかさまにぶらさがつてゐるのが発見された。彼の食ひ残した脂肪身のコマギレを拾ひあさるために、とまり木の根に集る鼠を捉へようとして偶然にかういふ結果になつたのであらうが、その平常に鑑みて鷹も自殺する思慮や能力があるのだらうかと疑はれるものであつた。
ともあれ自分の鷹が自分のところに来てほぼ一年の後の最期の姿はかういふ陰惨な状態であつた。自分は腹立しくこれを庭の隅深く桜樹の根もとに葬つた。
自分は鷹を飼つたとは云へない。ただわが物好きの犠牲に一羽の鷹を用もなくむざむざと虐め殺しただけである。彼はそれに就て一年の間にただの一声の抗議もしなかつた。この高貴な鳥の王者は黙々としてその苦い運命に服してゐた。それだけに自分は鷹に対して深い罪を感じてゐる。所詮自分は鷲の生餌に兎を投げ与へて楽しむ事の出来る人間ではない。かう記しても自分は亀井に抗議の意はすこしもない。むしろ、自ら嘲笑し、自分を憫れむばかりである。
自分はその後、鶏の外には何の禽獣も飼はないが、これは自然にさうなつただけで、別に鷹の死に懲りたわけでもない。尤も、飼ふには鷲や鷹より鶏の方がよいとは悟つた。
底本:「定本 佐藤春夫全集 第23巻」臨川書店
1999(平成11)年11月10日初版発行
底本の親本:「小説公園 第二号」
1950(昭和25)年4月1日発行
初出:「小説公園 第二号」
1950(昭和25)年4月1日発行
入力:夏生ぐみ
校正:持田和踏
2025年4月5日作成
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