荷風先生と情人の写真

佐藤春夫




孤高の生涯に有終の美


 荷風先生の晩年の生活を、一種偏執狂的なものと見るか、それとも哲人の姿と見るかは人それぞれの眼によるが、そのさびしいような華やかな生涯が、逝く春の一夜人知れぬうちに忽然と終って、警察の眼には一個の変死体扱いされたのは世間並の眼には悲惨なものと見えるだろうと思うが、我々、偏奇館主人荷風先生の文学精神を知る者にとっては、裏長屋の庶民を愛した先生の信念を徹底させてその孤高の生涯に有終の美をなさせたものとして十字架に上ったキリスト並みに有難いものに思える。そうして悲しいとよりは何やらほっと重荷をおろしたような今までに知らぬ思をするのは我ながら奇異である。思うに、無意識のうちに、こんな時代に生きている先生に対してひとごとならぬ深い関心とか責任とかいったようなものを感じていたからではないだろうか。
 それにしても二十数年前、僕は一ころ、当時先生の腰巾着のようになっていた亡友帚葉子こと校正の神さまと自称した神代種亮こうしろたねすけに誘われてその相棒として荷風先生の側近となる光栄を持っていた。僕が十九歳以後の数年なまけていた三田の塾を退いて以来、しばらく全く打絶えていた先生にお目にかかる機会が多くなった。毎晩そこに先生の通っていた「村の小屋」とか「村の茶屋」とかいったカフェーに陣取って、夕方から看板まで先生を中心におしゃべりをしたものである。ほとんど毎晩顔を見せる先生に敬意を表して店ではいやな顔もしないおかげで、我々も心おきなく談笑したものであった。荷風先生は話好きで話題はあとへあとへつづいた。先生の死に臨んで自然と思い出されたその当時の幾つかの話をここに披露して先生を偲んでみたい。

先生の青春時代


 先生は、僕にはもと学生であったせいか決してそんな話はなく文学論や世相などを語られたが神代君にはかなり無遠慮な猥談などもしたらしい。僕はそれを神代から伝え聞いたものであった。神代の話によると、先生は一夕青春時代を回想して世界をまたにかけた色道修業をいささか誇らかに笑い話されたことがあったので、神代は、
「それでは、先生百年の後に紅毛碧眼の血の交ったような第二世が出現するような心配はございますまいか」
「いや大丈夫、そんな心配はありません。いつも世界に鳴りひびいた日本武術の秘術を尽して国威をかがやかしては来たが、戦場には必ず武装して、武装なしの白兵戦をするだけの勇気がなかったから、国の内外を問わず、万一、天一坊が出現しても、疑いもなくみなニセ者と思いなさい」
 いつの場合にも武装を怠らない戦士の用意周到よりも先生の意志の固いのを僕らはひそかに感心したものであった。今度病床に就くに当ってもひとりで不自由とも心ぼそいとも思わないで、何不自由のない境涯を孤独に徹して最後の息を引取ったのもやはりただの剛情我慢以上の意志の強さを見せているように思える。

保存していた情人たちの写真


 同じくその頃のこと、先生は若いころからの情人の写真や手紙は記念のため一束にして保存してある。ただ一つ新橋にいた女で成金にひかされて行ったのは、腹が立ってずたずたに引き裂いて火中してしまったがあれは若気のあやまちであった。あれさえあれば完備していたものを、
「それは先生の伝記資料として最も重要なものですね。一枚欠けたのは全く惜しいが、残っている分だけでも先生百年の後には見られるようにして下さい」
 とわたくしが云うと神代は傍から、
「一そ拝領したら、この上なしのかたみになる」
 と云うので、わたくしも調子に乗って、
「是非に」
 と云ってみた。その頃、先生は僕ら二人に対して大へん好意的に見えたし、特にそんなことまで言ったのである。
 先生は笑ってうなずき、僕の願をかなえてくれる意志を示した。
 僕はその場限りの話と思っていたら、次に顔を合した時、先生からその話を持ち出して、
「約束どおり、あの手紙や写真の束は包み直して君への遺品に贈るように表面にはっきり書いて置いたよ、写真のうらにはもとから詳しい説明が書いてあるし」
 と言われたので、僕は、
「それでは先生の百年を待つような気になっていけません。いっそ直ぐにはいただけませんか」
「いや、それはいけない。今はまだ時々出して見たいこともありますからね」
 と先生は若々しく、というよりは子供らしく微笑した。先生はよくこの無邪気な子供らしく美しい笑顔を見せたものであった。
 僕としてはもうそれ以上は押してみる手も無かったから、そのままになってしまっているうち、戦争になり僕は従軍して戦場の諸方に行き、その間に僕の紹介者に不都合があるなどさまざまな事が先生の心証を害して僕は恐縮した。一方この貴重な記念品は兵火にかかった麻布市兵衛町の偏奇館の炎上といっしょに、かの美人たちの面影も灰と煙とになってしまった。――いずれにせよ、もう僕の手には入りにくくなっていた品ではあったが。
 僕はそのころ度々偏奇館へも参上したが、僕のために包みなおされたという品はついぞ見せてもらったこともないし、この話の真実性は僕にもほんとうは幾分うたがわしい。僕の分にすぎた願を先生は笑ってからかいたしなめたのかも知れない。
 百年後には渡してもらえる話は別として、今はだめだ、まだ時々出して見なければならないと言ったことだけは間違いなく事実である。人げのない深夜の臨終の枕べに、時々は出してみた写真の果してどれがおもかげに立ったやら、立たなかったやら。

旧蹟地には吉原を


 同じそのころより少しく後であったかと思うが、これを直接でもなく神代からでもないから、何時どこで何人から聞いたやらおぼえないから、ただの風説にすぎなかったかも知らないが。
 先生は遺産(そのころは今ほどの莫大の額には達していなかったろうが)を苦にして、百年の後はこれをフランスのアカデミイに寄附しようか、それとも吉原病院にしようか、若いころにはずいぶん世話になったものですからと言っていたと聞いたが、この話はその話の内容からみて、どうもただの風説ではないように思われる。吉原病院はいかにも先生らしいアイデアと思うのに、今はこれも無くなってしまっている。先生の遺産は益々巨額になったというのに。
 吉原と言えば、先生が※(「さんずい+(壥−土へん−厂)」、第3水準1-87-25)東綺譚で世評が高く気をよくしていた頃のこと、たまたま伺った偏奇館で先生は僕に、
「今度は吉原を書いてみたいと思っている。むかしなじみの女がやりてになっていたがも早それさえ勤まらなくなって今は乞食になっているのにめぐり会うという趣向で、似たような作意のピエール・ロチの××(作品名を言っていたが僕は忘れてしまっている)を思い出してまた読み返してみた」
 と言われたがその次に訪れて、
「吉原の話はまだ出来ませんか」
 と問うと、
「あれはむつかしくてなかなかできそうもない。玉ノ井の方はすぐできたのが吉原は玉ノ井のように手軽にはできないよ。何しろ伝統の深い土地だけにそこがむつかしいのだねきっと」
 とその作は終にできなかったようである。
 もし何かの形で先生を記念するとしたら誕生の地や終焉の地よりも吉原の旧蹟の地を選ぶのが先生らしい案ではないだろうか。





底本:「定本 佐藤春夫全集 第26巻」臨川書店
   2000(平成12)年9月10日初版発行
底本の親本:「週刊現代 第一巻第六号」
   1959(昭和34)年5月17日発行
初出:「週刊現代 第一巻第六号」
   1959(昭和34)年5月17日発行
入力:きりんの手紙
校正:hitsuji
2020年11月27日作成
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