徹した個人主義

佐藤春夫




 荷風先生のお人柄、文業などは、簡単に語れない。僕は十九年秋、南方に従軍のとき、お別れに麻布のお屋敷に伺ったきりその後お目にかかる機会もなく今日に及んでいる。僕のところへ出入りする一人に、江東方面に住むのが、浅草へ出る荷風先生とよく電車の中で落ち合うが近ごろは橋を降りてきた先生に息切れしている様子が見え、また乗込んだ電車の中で、何やらひとりごとをつぶやいているなど以前は見かけなかったご様子をよく見て老衰がはなはだしいように思うがと、わざわざ電話をしてくれたのは一カ月も前であったろうか。それから、これはつい一カ月ほど前のこと、これも僕の友人で、以前は時々同伴して先生を訪問したことなどもある人が、先生のウワサをして、近ごろ先生は浅草新仲店の何がし(あいにくと思い出せない)へお昼すぎに毎日食事へ行かれると聞いたので店のマダムにたしかめてみると、その二週間ほど前にその店を、加減が悪いと食事半ばに立ちでたままお出でがないという。その時先生は軽く「なに貧血かなんかおこったのだ。よくあることだ。心配するな」と車を用意しようかというマダムの言葉を拒んで立ち上ったが、いかにも苦しそうに見えたという。
 その後も丈夫でまた用心深い先生だからそう心配することはあるまいといいながらも心配していたが、ついに悲しい死の知らせを聞いた。しばらくお目にかからない僕としてははなはだ心残りだ。聞けば、朝、先生のお宅へ行った人が、永眠している先生をはじめて見出したとか。徹底的な個人主義者で、人の世話にもならず、人の世話もしない先生らしい。悲しく、寂しい亡くなり方を、いかにも先生らしいと悲痛なものと思うが、老衰のはて静かにめい目されたのでもあろうか。
 僕のお目にかかっているころ(二十年前)から用心深い先生はいつも遺書と身元の明らかなものを懐中にして「いつ、どこで行き倒れになってもいいようにね」と悲しい戯れをいっていたものであったが、平素から用意の遺書は毎年、年のはじめに書いておくという話であったし、こんども必ず死後のことなどこまかく記された何かがあるのではないかと思われる。





底本:「定本 佐藤春夫全集 第26巻」臨川書店
   2000(平成12)年9月10日初版発行
底本の親本:「神港新聞」神港新聞社
   1959(昭和34)年5月4日発行
初出:「神港新聞」神港新聞社
   1959(昭和34)年5月4日発行
入力:朱
校正:持田和踏
2022年3月27日作成
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