荷風先生の回想なら拙作「小説永井荷風伝」のなかに何一つ漏さず書き尽して一つの話題をも漏らさなかつた。だからここに新しく書きかへる事は何もない。
小説荷風伝を書いた結果、荷風に関して別に書くべき事が生じたのは「実説永井荷風」とでも銘を打つて非小説の文壇生活の実情をもルポルタージュとして記録して置きたいと思つてゐるが、それはここに書くには少々長すぎるばかりか、あまり適当ではないやうな気がする。
そこで気軽るに執筆を引き受けては置いたやうなものの、書くべきことは何もないといふよりは小説荷風伝を書いた事と実説荷風に書きたい事とによつて、荷風晩年の側近と自称して荷風を食ひ物にしてゐる下劣な男とそんな男を無条件に信じてゐる馬鹿な一批評家のおかげで、わたくしは彼らがわたくしを中傷するために口なき故人の語をつくり出したとは信じながらも、わたくしは往年の荷風崇拝から脱脚したやうな気がして、何も改めて書きたくないと思つてゐたのかも知れない。
ところが、ついこのほど、あれは十日か二週間ばかり前でもあつたらうか、夢に荷風先生を見てさめ、自分はまだやはり往年の荷風崇拝から卒業し切つてゐないのだ。自分の心の底に根を張つた昔ながらの荷風先生は今もまだわたくしの心に生きてゐたことを知つた。そこでその夢を語る痴人にならうと思ふ。
夢は多分、この原稿を書かなければならないが、書くべき何事も無いのを思ひ煩つた明け方の残夢でもあつたらしい。
夢のなかでわたくしは荷風先生の死を、はじめて聞いた。わたくしは荷風先生の亡くなつた家を見て置きたいと思ひ立つて、直ぐ家を飛び出した。わたくしは先生の亡くなつた家といふのを当時まだ見てゐなかつたからである(この事は事実である)。
夢のなかの荷風先生臨終の家といふのは何処だかわからないが、ちよつとした丘をのぼつたところにあつた。屋後に出ると月の下には家々が遠くつづいて見えた。後に思へば、あの眼下の町の様子はどうも三田山下の一角稲荷山であつたらしい。稲荷山といふのは三田の塾の奥で演説館のあるところで、わたくしは前年の秋二度ほどここへ行つて、往年の塾の学生時代を思ひ出してゐた。
丘の上の家はいかにも主の亡くなつた人のやうに閉め切つてゐた。それで裏手にまはつて見ると、庭は黄色くもみぢした雑木の林でその根方のスロープ一面にうす赤い色の尾花が風になびいてゐる。季節は秋で夢は美しい色彩があつた。わたくしは二三十年ぶりで色彩のある夢を見たのである。
しばらくこの庭に佇んであたりを見まはしてゐたが、再び表へまはつて門の入口から敷石づたいに(この敷石は偏奇館の門から玄関に通ずるものと同じであつた)門から出ようとすると、家から出て来た人がある。見れば、それが夢といふものなのであらう、死んだはずの荷風先生であつた。わたくしは先生が突然ここに出て来たのを少しも怪しみもせず、ただ先生が黒紋つきの羽織に白い紐をつけた珍らしく改つた様子なのを珍らしいと思つた(わたくしは先生が時々和服で塾の講義に出たのを見てゐる。しかし黒紋附を着てゐたのは、写真を見たことがあるだけで、その写真を珍らしいと思つたのが夢に現はれたものらしい)。
わたくしは直ぐ先生に近づいて行つて、今見て来た庭の景観に就いて語り、
「あの赤い尾花は東京附近にもあるものでしたか。それともわざわざどこからか持つて来させたものでしようか。あれは狐菅とか云つて佐久の山野などではよく見かけるものですが」
「キツネ菅?」
「キツネ色をしてゐるとでも云ふのでしようか」
「名は知らなかつたが植木屋が持つて来て一株植ゑたのがあんなにはびこつてね。甲州からもつて来たのかも知れない。植木屋は甲州の男だと云つてゐるから」
そんなことを立話してゐるところで夢は覚めた。
わたくしは生前、先生から「雨瀟々[#「雨瀟々」はママ]」の特別本(これはわたくしが出版の緒をつけたので)をはじめ岩波本の「東綺譚」同じものの私家版などそれぞれの署名本をはじめ父の「懐旧」に関する手紙など多くのかたみになるものを与へられて珍重してゐたのを、疎開の留守中にそつくり盗まれてしまつて何一つ無くなつた。盗んだ奴もほぼ見当はついてゐるが、どうにもしやうがない。これを悲しんでゐたら、偶然ならず故大鹿卓の未亡人がわたくしの意を察して、大鹿君が秘蔵してゐた吉井勇宛の先生の尺牘をかたみ分けとしてわたくしに贈られた。文は次のやうである――
御手紙拝見致候 筆研益々御健勝の段抃喜の至に奉存候其後滅切老衰致し銀座へは久敷出掛不申葵老も此夏より糖尿病の由にて元気稍消沈の体に相見え候随て世間の噂も耳にする機会なく甚落莫たる生涯を送居候御申越の俳句何れも旧作に候得共至急の際故右にて御免被下度候
子を持たぬ身のつれつれや松の内
松過や蜜柑の皮のすてどころ
暫の顔にも似たり飾海老
去年からつづく日和や今朝の春
初東風や一二の橋の人通
以上が本文でなほ追て書きに次のように細書で記されている――松過や蜜柑の皮のすてどころ
暫の顔にも似たり飾海老
去年からつづく日和や今朝の春
初東風や一二の橋の人通
十二月[#「十二月」はママ]念六日
吉井勇様荷風生
先年三十間堀で鈴本と申し候待合茶屋の娘お栄さんと申し候もの去年頃より明治屋裏通にてほがひと申酒亭を営み居候由、先頃銀座通にて出会立話致候貴著酒ほがひの名にちなみ候由既に御承知の事かと存候小生はまだ参り不申候
と読まれる。初春の五句めでたく先生と吉井勇との交情のさまも見えてよろこばしい手紙ではあるが、わたくしにとつては三人の師友の悲しい思ひ出の料で新年に掛ける気にもなれないから、せめては先生の命日にかかげて先生をはじめ二亡友のおもかげをしのぶとしよう。
なほ吉井氏宛の手紙は吉井氏が家庭解散の砌、大鹿氏方に荷物を預けたお礼に、大鹿君の望みにまかせて与へられたものと云ふ。