若き日の室生犀星

佐藤春夫




 わたくしは明治四十二年、十九歳の春上京してのち、明治末、大正はじめの数年間を、なまけ学生として、本郷の師匠の家の周囲を転々としながら三田に通学してゐた。
 そのころ二十一二の室生犀星はどこに棲んでゐたものか、毎夜のやうに根津権現うらあたりの酒場に出没して、生来の蛮勇を揮つてゐたらしい。
 わたくしはもと下戸だから酒場には出入しないから、現場を見たことはない、いつも聞きつたへばかりであつた。
 当時のわたくしの友人に、ともに新詩社の同人として、ともに作歌を学んでゐた美術学校学生で菽泉と号した広川松五郎がゐた。彼は同じく歌人で、たしか室生とは同郷の尾山篤二郎と親交があつたらしく尾山は時々広川の下宿へも顔を出してゐた。わたくしは尾山が広川に語つてゐるところによつて室生の噂を聞いたのである。広川は室生とも面識はあつた様子である。
 当時の室生の周囲にはまだ萩原朔太郎は現はれず、その郷里、北陸地方の人々だけが室生の友人であつたやうに見える。藤沢清造は能登の人で、同じくそのころの室生の親しい友人のひとりであつた。
 藤沢は何か地方の演劇関係の家の人でもあつたらしく、さういふ方面の消息に通じ後年には演劇記者のやうなものから文学雑誌の編集にも携はり、且つ青年時代からの志をも達して後に長編私小説「根津権現裏」といふ一作もあつたが、戦時中、栄養失調のため芝公園内で行路病者として死した不遇文士である。
 今にして考へると、彼の小説はその郷土的関係か、それとも青年時代の交友による双方の影響か、室生文学とどこか一脈相通ずるものもあつたやうな気がする。
 藤沢は心のごく素直な男にも似ず、この手の人によくある型で、口に毒を持つた男で、親友室生の噂を持ち出すと、おもしろをかしく語り終つた末には、ピリオッドのやうに必ず
「あのダラが!」
 との一語で結んだものであつた。これは能登の方言であほ鱈の前半を略したものでもあつたらうか。それにしても決して悪意ではなく、むしろ親しみを示すつもりのものであつたらしい。彼の持つて来る室生の噂は、きつと多少の潤色や誇張があつたに相違ない。あまりに面白すぎて少々信用できないものでもあるし、いつもエロばなしだからここでは割愛して置くとしよう。
 この藤沢は当時ではなく後年、わが先師長江邸へもしばしば出入して室生の噂をしたものであつた。若き日のことから当時もうそろそろ第一流の詩人になりはじめた頃までの現状をである。先師長江は人も知る気むづかしい批評家であるが、さすがに慧眼で、まだすつかり世間の認めないころから室生を尊重してゐたから、藤沢もよく室生のうはさをしたものであつた。
 藤沢も先師のところでは憚つてゐたが、われわれにはいつも室生のエロばなしを伝へたものであつた。藤沢の話をつくり話のやうに面白いと警戒して聞いたものだが、後年の室生の作風から見ると藤沢のはなしも大根は本当であつたらしいと思へる。
 藤沢から後に聞く話は若き日の犀星にもさういふ傾向は夙にあつたらしいが、広川と尾山との語るところは、いつも室生の文学論にはシャール・ヴェルレエンやポオル・ボードレエルが飛び出すと、五十歩百歩のが室生の無学を哂つてゐることが多かつた。
 事実、室生は当時から後年まで決して博学とは云へなかつたであらう。率直に云つて全くの無学であり、さうして彼自身はそれに対して無用な劣等感をさへ持つてゐたのではないかと思はれるが、劣等感はおろか、その無学なところへ野生のままの生気はつらつたる独自の文学を人生から開墾し得たところが彼の最も大きな身代であつたのであらう。
 もう一つ広川の下宿での噂話は、そこらの酒場で室生が酔つぱらつてなぐつたとかなぐられたとかいふやうな話ばかりで、或る時は交番へ引つ張つて行かれさうなところを友人たちでくひとめたといふやうな事さへあつたやうに言はれてゐた。
 さまざまに無用な劣等感を自分からつくり上げてその鬱屈にたへずになけ無しの金で酒場へ出かけて大して意味ないことに恥を感じた彼は、生来の蛮気、利かぬ気で起ち上つて腕力をふるひ、時には椅子などもふり上げたものらしい。その負けぬ気と野性とがまた彼の文学の生命であつたが、彼がまだ自己の文学を見出す以前にはそれが文学ともならずにナマのままの形でかういふ風に現はれ出たもののやうに思はれる。わたくしは現場は一度も見たこともないが、さういふ噂をさもありつらんと信じる者である。さうしてこれは決して室生をはづかしめることにはならないと信じてゐる。
 その室生に文学を与へたものは余人ならぬ萩原朔太郎であつたことは改めてここに申すにも及ぶまい。
 萩原が室生の救ひとして出現したのは何時の年であつたか明確にもしないが、大正に入つてからの事であつたことは間違ひもない。その後の彼は純粋無比、天来の抒情詩人として彼の文学の道を見出した。その後、学を求めてか、新潮社の近代文学全集のドストイェフスキーの訳本を専ら耽読して彼の小説の基礎を自ら築いたのであつた。彼にとつてはあの独自の小説を書くためには、それだけで十分の教養でほかには何も必要がなかつたわけである。
 古人は運鈍根を成功の秘訣に数へたが彼の場合にはその三つの上に更に純といふ得がたいものがもう一つ加はつてゐると思ふ。
 若き日の彼の友は尾山氏のほか、もうみな世にはない。彼もまた去つた。わたくしは正しく老残である。





底本:「定本 佐藤春夫全集 第26巻」臨川書店
   2000(平成12)年9月10日初版発行
底本の親本:「群像 第一七巻第五号五月特大号」講談社
   1962(昭和37)年5月1日発行
初出:「群像 第一七巻第五号五月特大号」講談社
   1962(昭和37)年5月1日発行
入力:朱
校正:持田和踏
2022年7月27日作成
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