魯迅の「故郷」や「孤独者」を訳したころ

佐藤春夫




 わたくしの「故郷」を訳したのは今から二十何年前の事であつたらうか。その間に戦時中書庫の荒された事などもあつて、当時を思ひ出す料となるものも欠けてしまつて、思ひ出の手がかりも無く、一切が雲煙模糊としてお話にもならない。
 その以前に阿Qを訳した人があつて、わたくしはそれによつてかねて名前を知つてゐた魯迅の作品を読んでこれに推服したやうに思ふが、阿Qの真価をほんたうには理解してゐなかつたやうにも思ふ。
 ただ今も明確に思ひ出せる唯一の事は、わたくしの「故郷」ははじめ英訳で読んで、それを原文と対照しながら、訳したといふ事実である。
 その英訳はまだ失はれないで残つてゐるのを最近も見かけたやうな気がしたので、やつとそれを見つけ出して、それが George Routledge の The Golden Dragon Library のなかの一册で “The Tragedy of Ah Qui” and Other Modern Chinese Stories といふ本で J. B. Kyn Yn Yu といふ中国人らしい人が原文から訳したものと、別に E. H. F. Mills といふ人の仏文から訳したといふもの。中国の近代作家七人(Yo Ta Fu 郁達夫の外の名はわたくしには判読できない――ローマ字になつてゐるから)さうして他の作家のものはすべて各一篇であるが魯迅のは三篇あつて、この書の大半を占めてゐる。
 その魯迅の三篇は書題になつてゐる Ah Qui の外にわたくしの訳した Native Country の外の一篇は Con Y Ki で、魯迅を欧洲に紹介するとしたら先づ要領のいい選択であらうと思ふ。書は一九三〇年の出版にかかるものをわたくしはその翌年あたり入手したらしい。わたくしが「故郷」を訳出したのはこれを読後すぐであつた。
 わたくしは先づ英文で一読した。中国人の英文らしくわたくしにもすらすらと読める素朴な英文でそれが故郷の内容にふさはしく効果的であつた。
 わたくしは早速、文求堂にかけつけて、店頭にあつた魯迅の短篇集二巻を手に入れて帰り、それから英文と対照して飜したものである。由来わたくしの英語は半人前だと自分で思つてゐる。さうしてわたくしの漢文の読書力も半人前を以て自認している。この二つの半人前を合してわたくしは一人前の(?)飜訳をした。魯迅のは現代文だから漢文の読み方ではわからぬ字も無いではなかつたが英訳のおかげで大に助かつた。それに魯迅の文章は現代の中国文のなかでは漢文的なものの多い文章のやうに思へて、この点でもそれほどは難解ではなかつた。
 わたくしが「故郷」を訳してみる気になつたのは、勿論その作品に感心したためであつたがこれによつて自分の半人前の読書力を少しでも養ひ、同時にこの大きな風格を持つた作家の作風から学びたいと思つたからである。飜訳とはわたくしにとつては精読を意味することで、ポツリポツリと訳出して行くことは自分のなかへ何か摂取してゐるやうな楽しみがあつて、わたくしは敢てその労の多いのを惜しまない。労から云へばわたくしの場合創作よりもよほど骨が折れるのだが。
 それにしても「故郷」のどこがそんなに面白かつたのであらう。「故郷」は中国古来の詩情(それをわたくしは異常に愛している)が、完全に近代文学になつてゐるやうな気がしたからである。中国古来の文学の伝統が近代文学として更生してゐるといふのか、近代文学のなかへ中国古来の文学の伝統がすつかり溶解されてゐるといふのか、ともかくもさういふ点が、日ごろわが国の近代文学が古来の文学と全く隔絶してゐるかのやうに見えるのを不満としてゐたわたくしに、「故郷」を訳して学ばうといふ気を起させたのであつたと思ふ。それからあの少年時代を取扱つた作品には当然、童話のやうな楽しい世界がある。わたくしはすべての童話のやうな世界が好きなのである。童話のやうな世界と苦い現実の世界とが潮ざかひになつたところに「故郷」の面白さがありはしないだらうか。潮ざかひには多種の魚が住んでゐると聞いてゐるが、見かけは単純な「故郷」のなかに、文学上のいろいろな問題が、美が、無理なく自然にふくまれてゐるのを見た。文学や人生に関して教へるものが多い。わたくしは高等学校あたりの教科書があれを採り用ゐないのを当然とは知りながら不思議に思つてゐる。
 魯迅はわたくしの訳文を見て、原文よりはいいと云つてくれたと伝聞してゐるが、もとより魯迅一流の戯れだと思つてに受けてもゐないけれど、それでも外国文になつた自分の旧作を見なほして、むかしの感興を自ら新にしたといふ事実がなかつたとも限らない。
 わたくしは「故郷」のなかには杜甫の詩情と同じやうなものが近代の散文になつてゐるのを感じたので訳文のなかにそんな事を書いたついでに、ロマン・ローランがこの作を喜んだといふことも書き加へてゐるが、それは何によつたかといふ質問を受けたが、そんな事はもうすつかり忘れてしまつてゐた。しかしわたくしは、用もないそんなでたらめを自分で考へ出して云ふ道理もないから、きつと英訳本の序文ででも知つたのだらうと思つてゐたが、今度英訳を取出して序文を読んでみたがそんな事は何もないので不思議に思つてゐたら H. E. F. Mills の仏文云々の事があるのを見出したから、その仏文の読後感としてロマン・ローランが何か云つたか書いたかした事実があつたのを、英訳本のカヴアの折かへした部分にでも宣伝的に記入してゐたのではなかつたらうかと想像されたが、生憎とカヴアは無くなつてしまつてゐる。
 因みに、この英文叢書は東洋の文学を紹介する目的で刊行されたものらしく、近東から遠東の作品の飜訳、更に南方海洋に関する作品などを集めて、日本のものは Kikou Yamata の[#「Kikou Yamata の」は底本では「Kikou Yamada の」]仏文から The Shoji or Sliding Screen を収め、アラビヤン・ナイトの抜萃など苦心して編んだもののやうである。
「孤独者」は「故郷」のあとで、もう一つ何か読みたくてその題に興味を感じてこれにとりかかつたが、これは英文がなかつたので読むのに苦労が多く、幸に増田渉君が直接魯迅に読んでもらつて書入れをして来た本があるといふのを貸与されたのでそれによつたり、また増田君の示教によつて辛うじて読み終つた。新しく生れようとする中国の動揺の波にもまれてゐるインテリ青年の苦しみ(多分それはきつと魯迅自身も体験したところであらう)を描いて「故郷」の童話の代りにもつと痛切な社会的色彩を帯びて悲壮なものが力強く描かれてゐるのに感心した。訳文は「故郷」ほどにはできてゐないであらう。何しろ少し荷が勝ちすぎた。
 これ等の紹介的飜訳は多少注目してくれる人も無いではなかつたが、訳文の拙劣のためか隣の雑炊などと放言する輩もゐた。何にもわからないくせに利いた風な事をぬかす奴も石川や浜の真砂と見える。





底本:「定本 佐藤春夫全集 第25巻」臨川書店
   2000(平成12)年6月10日初版発行
底本の親本:「魯迅案内」岩波書店
   1956(昭和31)年10月22日第1刷発行
初出:「魯迅案内」岩波書店
   1956(昭和31)年10月22日第1刷発行
※「いる」と「ゐる」の混在は、底本通りです。
入力:大久保ゆう
校正:きりんの手紙
2021年9月27日作成
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