探偵小説小論

佐藤春夫




 探偵小説に興味がないこともないが、常に忙しいのと、生来の怠け癖とで読めもしないのをコツコツ洋書を読む根気もないので、十分の確信をもつて探偵小説の話ができる訳のものではない。殊に探偵小説と言へば外国の作品に限られてゐる現状では。しかしせつかくのお尋ねだから卑見をでたらめに申し述べる。
 探偵小説の本質としては、論理的に相当の判断を下して問題の犯人を捜索するところにある。即ち事件の関所をどんなふうに切り抜けるかといふところに興味がある訳だ。だからその判断は常に最も健全な頭脳から湧出する智脳の活躍の現れだ。たとひその方法が、冒険的だとか、変幻出没自在だとか、機械仕掛の家だとか、科学知識応用だとかいふやうな種類の道具立てによつて色彩られてゐるとしても、同じ思索力の発展に過ぎない。例へばコーナン・ドイル、フリーマン、モリソン、ガボリー等の取扱つた探偵シヤロツク・ホームズ、ソンダイク、マルチン・ヒユウイツト、M・ルコツクにしてもルブランの義賊アルセーヌ・リユーパンにしても、それぞれに描かれた人物は、敏感な推理力や豊富な科学的知識を所有してゐる警察関係の人物や化学者や法医学者である。少くともさうした学者的の頭脳を具備してゐる者ばかりだ。だから自然、事件関係者間の知慧の切り出し工合や思索の一騎打になつて、吾々の興味を惹く、吾々の想像力は加速度を増して事件の中心へ惹き入れられる。高級な探偵小説になればなるほどその感は深い。吾々は一歩毎に犯人の捜索に近づいてゐる訳だ。その場合吾々もともに探偵の一人になりきつてゐるのだ。それがまた時代とか場所とかの関係の距離が遠ければなほのことその実在性を無意識のうちに認めて、その戦慄の快感と怪奇の美に打たれる。言はゞそれらは一種の詩に外ならない。ロマンチツクな感銘に酔ふのだ。
 それで純粋な探偵小説といふのではないが、ドストイエフスキイの『罪と罰』の主人公ラスコルニコフの殺人事件は、吾々の興味を大へんに惹く。あれはあの殺人現場の造り工合にも拠るのだらうが、あんなふうの建物ででもなければ殺人は出来まい。
 現在日本にいい探偵小説の現れないのは、建物の様式にも拠るので――建物の様式とはとりも直さず、生活の全部を象徴してゐるものだ。日本人は犯罪的にも深みのない生活者だとも言へさうだ。
 前に述べたほどには純粋でないまでも探偵的小説なら枚挙に遑なしだ。言はば犯罪小説で、こんなのは普通にミステリイ・ストリーとかフアンタステイツク・ストリーとか名づけられてゐる。例へば一方には、探偵小説の鼻祖と普通に言はれてゐるE・A・ポオの英語で書かれた最も戦慄すべき小説中の白眉『黒猫』がさうだ。この人のは別に純粋に近い三個の探偵小説がある。即ち『モルグ街の殺人』(鴎外訳「病院横町の殺人」)『マリイ・ロージエー事件』『盗まれた手紙』がそれだ。これらは、一様に大へん卓越した推理力で、それぞれ事件の解決をつけることは周知のことでもあらうから、その煩を避ける。彼の頭脳づのうへんに冴えてゐるには一驚を喫する。その立体的で簡勁な筆致は言はずもがな。彼の犯罪的の作品は以上のものにとどまらない。『テルテルハート』にしても『アマンチエリードオの樽』にしても、ミステリー以外に十分ディテクティヴな閃きは現れてゐる。『長方形の箱』、はまた『M・ヴェルデマル事件の真相』と同様『黄金虫』に次ぐべき非常なディテクティヴな興味を唆らないこともない。これ以外にも沢山あるが、かう書きたてては際限がない。ポオ論をおつ始めなけりやならなくなる。ポオの諸作の他の探偵小説と著しく異なるのは、そのデティクターが、常に実際的敏腕家でなく、暗鬱な詩人的なことである。この点はモリス・ルブランの泥棒が一種爽快な光明的とさへ言ひたい性格なのと好個の対照である。この種の小説の一異彩である。
 ポオを言へば、更に遡つて独乙のW・A・T・ホッフマンの作品を一言するのが順序である。すこしくその空気が稀薄ではあるが、筋の豊富多彩で個性的で芸術的な点では全く無類とも言へる。『マドモアゼル・スキュデリイ』などはいい見本だ。鴎外先生が『玉を懐いて罪あり』と訳したのはこれだが、一読したところで無駄にはなるまい。幸ひ日本の映画会社が、これを何とか改名して既に上映したと聞くが、果してどんなものが出来たのか。また彼の『砂売り』だつて『クレスペル博士』だつて見やうによつては、神秘以外になかなかディティクティヴなところを認められる。これなどは言はば神経衰弱的直感の結果生れて来た犯罪進行の興味を多分に加味してゐるものだ、勿論多少奇嬌ではあるが、人情的な余情を含めてゐることは言ふまでもない。そのホフマンが『悪魔の煉金水』の粉本にしたと言はれるモンク・リユヰスの『ロザリオ』などもくさ双紙のやうなものではあるが、興味をよろこぶ読者に読まれてよいものだ――その当時欧洲を風靡したといふのも無理はない。あれを支那に飜訳したらよからうと、私は兼ねてから考へてゐる。
 かう述べてくると思ひ出すがそれは純粋な探偵小説家のものにも人情ばなし的なものがある。題は何といふのであつたか忘れたが『白衣の婦人』で御承知のコリンスの作で、船長の妻が、下女の生んだ私生児を自分の生んだ児だと言つて良人をあざむくが、その子の結婚の当時、過去の一切が露見するといふ筋だつた。多分その題は『秘密』と言つたかも知れない。諸君の方がよく知つてゐよう。さうかと思ふと、セクストン・ブレエクの諸作などのやうな全く人情的情緒などを抜きにした代数の式のやうな簡単で巧致なものもある。それからチエスタートンのもので、教父ブラウン坊さんのユーモラスな活躍物語がある。あの鋭敏さとか推理力などは、実際に他方面に於ける、警抜な機智的な大家であるだけに面白い。
 例のオスカア・ワイルドの『ドリアン・グレイの画像』だつても、そんなにもつたいがつた作品と思はずに、探偵小説的に見れば捨てたものでもあるまい。
 現代の日本にいい探偵ものはないらしい。江戸時代を背景にした『半七捕物帳』があるが、私はまだ読んでゐない。大岡政談的空気がどれだけ近代化されてゐるか見たいものだが。
 要するに一概に探偵小説と言つても、前から喋つて来てゐるやうに大別して二通りに分類されるやうだ。その一つは実際家らしい頭脳が土台になつた推理判断、もう一つは神経衰弱的直感の病的敏感による。そしてそれぞれは各自に戦慄の快感と怪奇の美とを加味されてゐる。それが最も必要なのだ。人情的なほろりとするのもいいがそれがすぎてはよくない。同じく冒険的なものは、探偵小説の本来のものではない。そんなのは悪くすると内容が空虚になりがちだ。三行も読んで行くうちに事件が見え透いてきて興味は半減され、つひには淡くなつて何もなくなつてしまふ。ことにその短篇ものに於いて然り。
 探偵小説だと言つても要は文学だから矢張り美の追求が欠けてゐては駄目だ。ロマンチツクな感興が湧いてくるやうなものでなければ満足を得るとは言はれない。だから道具立てが時代おくれだからつて古い作品必ずしも一読の価なしと見捨てられまい。いいものはいつまで経つたつていいにきまつてゐる。勿論、特殊な機械の据ゑつけ、科学応用の渦巻き等の時代的色彩のあるのもよい。また、古風なのもそれ相応にはよい。そこで無論読者の意表に出るくらゐな構想の奔放はあつてほしいものだ。
 最後に言ふが、コーナン・ドイルのシヤロツク・ホームズ叢書などは、ディティクティヴストーリーの傑作であらう。芸術としてなかなか捨て難い立派な作品が少くない。例へば『赤毛組合』(『銀行盗賊』のこと)のごときである。
 長篇探偵小説の第一章みたいに、ごたごた書いて来たが、興味の中心となる問題は果して那辺にあるか、こんなものの解剖には馴れ切つてゐる読者諸君は定めし立ちどころに了解してくれることであらうからこれぐらゐで投げ出して置くが――要するに探偵小説なるものは、やはり豊富なロマンチイシズムといふ樹の一枝で、猟奇耽異キューリオスティハンティング[#ルビの「キューリオスティハンティング」は底本では「ヤユーリオスティハンテング」]の果実で、多面な詩といふ宝石の一断面の怪しい光芒で、それは人間に共通な悪に対する妙な讃美、怖いもの見たさの奇異な心理の上に根ざして、一面また明快を愛するといふ健全な精神にも相ひ結びついて成り立つてゐると言へば大過はないだらう。さうして或る作者と読者とは悪の讃美に感興を置き、或る作者と読者とは明快への愛情にその興味をつなぐ。人々の随意である。要は只飽くまでも詩であれ。美であれ。従つてこの種の作者に最も重大なのは、そのスタイルが内容と一致的にエキセントリツクで同時に明快で能く高潮することである。





底本:「定本 佐藤春夫全集 第19巻」臨川書店
   1998(平成10)年7月10日初版発行
底本の親本:「新青年 夏期増刊 第五巻第一〇号」
   1924(大正13)年8月5日発行
初出:「新青年 夏期増刊 第五巻第一〇号」
   1924(大正13)年8月5日発行
※誤植を疑った箇所を、初出を親本とする「未刊行著作集6 佐藤春夫」白地社、1995(平成7)年5月発行の表記にそって、あらためました。
※「ディテクティヴ」と「ディティクティヴ」、「ホッフマン」と「ホフマン」、「テイ」と「ティ」の混在は、底本通りです。
入力:よしの
校正:希色
2020年4月28日作成
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