愉快な教室

佐藤春夫




(1)


 ラフカディオハーン――帰化して日本の名を小泉八雲と名った文豪の意見によると、人間の草木や小動物に対する愛情の有無というものは先天的な天性によるもので、後天的に教育によっては与えることのできないものであるということであるが、幸なことにわたくしは、この天性を父母から極めてゆたかに受け継いで来ている。母は草木の好きな人であったし、父は小動物を愛する人であった。わたくしはこの天性を世にも有難いものに思い、これあるがためにわたくしは人生を他の人々よりどれだけ楽しく生きているか知れないといつも感じている。
 わたくしは二三年前、人からだいだい色の美しくてきのいいローラカナリヤを贈られて愛育していたのに、この間、死なせてしまい、このごろ窓の外に春の陽ざしのうららかなのを見ると、カナリヤが生きていたら、もうそろそろきはじめるころなのにとその声の聞かれないのがさびしく、時にはテレビーの電話の音などをそら耳にカナリヤの歌に聞くことなどさえある。
 わたくしばかりでなく、わたくしの一族の者は誰も彼もみなこの好もしい天性をそなえている。先ず息子の松吉は数年前、酔っぱらって夜更けに帰る途中、春の雪解のなかで泥んこになっていた小猫をかわいそうなと拾い取って外套のポケットへ入れて来たことがあった。
「まだ眼もあいていないこんなものはつれて来ても育つものか。もう死にかかっている」
 というのに、牛乳などを与えていたが、それさえ飲めないで、果して一二日のうちに死んでしまった。
 それでもなおこりないで、その次には前のよりはいくらか大きいのを連れて来て、今度のは無事に育ってチビというやすっぽい名にもかかわらず、すばらしく大きく、堂々たる虎猫になり、今はデカチビと呼ばれて、現にわたくしの家のなかにのさばり返っている。別にしつけたわけでもなかったが、カナリヤの籠は一度もねらったことはなかった。なかなかかしこい奴でドアや大きな引戸なども上手に開けて出入する。
 チビがはじめて家に来たころ、これをうらやましがっていた、わたくしのおいの長女のM子は、どこからかまっ白な狐のようにスマートな小猫をつれて来てミミーと名づけて愛育しはじめた。M子の家はわたくしの家からほんの百二三十歩という、ごく近いところにあるから、デカチビはミミーと友だちになって、ここもわが家同様に心得て毎日のように遊びに行っている。
 毎日ミミーのところへ出かけるのはデカチビばかりではなく、わたくしの家内も同じことである。うちの婆さんはM子の祖母に当るので孫たちのところへ行くのである。
 うちのばあさんはうちのデカチビが、いつもご馳走をどっさり食べているのに孫のところのミミーがあまり粗食でかわいそうだと、時々デカチビのご馳走の一部分を持って行ってやるので、ミミーはうちのばあさんの足音をおぼえて遠くから耳を傾けて待ち受けていると孫たちの話すのを聞いて、ばあさんはそれがうれしくて毎日ミミーにご馳走を運んで行くようになった。
 わたくしの一族というのはこんな人間の集りなのである。

(2)


 甥の家には十八になる高校三年のM子を頭にその次のNが男で中学二年、末がまた女でU子というのが小学校の四年、ばあさんがかわいがるはずで子供好きのわたくしにはみなそれぞれにおもしろくかわいいが、特におもしろいのはU子である。
 この子は取り上げるとすぐ手をしゃぶったと産婆をおどろかせただけあって一風変った子供で、学校へ入って字をおぼえると早速に、
「まいにちおこめをあげますからここへきてください、すずめさん」
 と雀に手紙を書いて庭の隅の石の上に置いてあったのを兄のNに見つけられたという話もある。作文が好きで書くことが早くわたくしの見るところ文才もあるように思われる。去年の夏は一家で北海道へ旅行した紀行文を夏休みの宿題に書いていたが、或る遊園地でアイヌが狐の子を飼っていたのを兄のNが抱いてM子のカメラにおさまったのを見て、今度は自分の番だとU子が狐の子を兄の手から受け取ろうとすると兄にはおとなしく抱かれていた狐の子がU子にはかみつきそうにした。「それを見たお兄ちゃんは、
『U子はいつも心がけが悪く意地わるなのを狐も知っているから狐もおとなしく抱かれないのだ』
 といいました。ほんとうにしつれいしちゃうわ」という一句で文を結んでいるのであった。この文に対して、先生が、景色などももう少しよく見てくわしく書けばもっとよかったでしょうと評したというのがU子には大不平で、この日は霧の深いわるいお天気で景色はよく見えなかったと書いてあるのに、見えない景色を書けなんて無理でしょうと、もっともな抗議を母親に訴えたという。
 U子にはたいていの大人はみなやり込められて、ばあさんなどは毎度、
「またこんな行儀の悪い下駄のぬぎ方をしているのはおばあちゃんでしょう」
 と叱りたしなめられる。もし誰かがこの子を何かからかいでもすれば、大人でもきっと口いしっぺ返しを覚悟しなければならないという鋭い頭の子で、去年の小春日和びよりに、U子が、
「お父ちゃん、どこかへ散歩にでもつれて行ってよ」
「どこかへって、どこへ行きたいの」
「どこへでもさ、動物園へでも、公園へでもさ。日曜のいいお天気じゃないの」
「日曜のいいお天気でも、U子といっしょではね」
「じゃ、お母さんといっしょに行けばいいでしょ!」
 とU子はすぐにやり返した。U子は父の日ごろの愛妻ぶりを見ていたのである。
 この間も皇太子妃が新宮さまをお産み遊ばしたラジオで、皇子のご身長何センチご体重しかじかと宮内庁の発表を聞いていた若い女中が、「何センチと言えば、ここぐらいね」と胸の上あたりを指しながら「そんな大きなのがおなかのなかに入っていたら、ここまでも来て苦しいわね」
 とM子に話しかけているのを聞いたU子はやにわに、
「何言ってるのよ! ばかな、赤ん坊というものは、こうしてまるくなっておなかのなかにいるのよ」
 と身をこごめ腕をせばめて十も年上の人々に見せたと言う。そんな事を誰からも聞きおぼえる年ではなし、自分で考えたのであろうと感心したことである。
 それでいてこの子は数の観念はほとんど無いのか、計算だけはす早く正確にできるのに応用問題となるとまるで駄目なのである。時計の見方を教えるのにもずいぶん苦心したらしい。こんな頭では競争試験のある小学校へ入れるかどうかと心配して、試験から帰つて[#「帰つて」はママ]来たのをつかまえて、
「どうした。試験はできた?」
「……」U子は黙って首を振り「ぜんぜん」とすまして答えたが、それでも入学していたのは、後に先生から聞くと運動神経のすばらしいところが買われたもののようである。当人も体操が一番好きだと言うとおり、器械体操の懸垂けんすいでも縄飛びででもU子は男女を問わず同級生中での第一人者だと言われている。わたくしはこのおもしろい子の行末を見ることを楽しみにしているが、U子もわたくしを父よりも母よりも好きだとなついている。この間もわたくしに甘えながら言うには、
「わたし早く大きくなってお姉ちゃんの学校へ行きたいの」
「今に行けるよ」
「今にではなく、すぐ」
「どうして?」
「だって、お姉ちゃんの学校では教室でみんなが、犬をたくさん飼っているのですって。とても楽しそうなの」
「ふうん、それは楽しそうだね。たくさんの犬をどうして飼うのだろう?」
「みんなでおべんとうの残りを犬にやるから野良犬が集って来るのですって。お姉ちゃんによく聞いてごらん。おじちゃんにならお姉ちゃんもよくお話するでしょう。わたし作文に書きたいと思ってお姉ちゃんに聞くけど、よく教えてくれないのだもの」
「ではお姉ちゃんに、おじちゃんがいつでもよいからちょっと来てほしいと呼んでいたと言っておいておくれ」

(3)


 こういうわけで、わたくしはU子の姉M子を呼んで、U子のうらやましがる「愉快な教室」の話を聞くことになった。
 M子の学校というのは東京の山の手にある有名な私立大学に附属している女子高等学校であるが、M子の父がそこで大学部の教授をしているためにM子もそこに通学するようになったのである。
 犬はM子が学校に入った時から三匹いた。はじめ小使が飼っていたのが、いつの間にかM子のクラスの犬になってしまって、はじめは小使がつけたチビという名であったが、そんなありふれたケチな名はいやだというが、新らしい名をつけ変えることもできないのでチビをチョビと呼び変えたのはよいがチョビと呼べば三匹ともぞろぞろと来るのでどれがチョビとも知れないで三匹共通の名になっている。チョビがつれて来るのか自然と集るのか知れないが、教室にはいつもチョビの外にも三四匹住んでいて、この間は七匹になって、あまりうるさいというので小使が先生に言いつかったものらしく、もとからいた三匹のほかのは、みな野良犬として犬取りに渡してしまったらしいが、いつの間にか前と同じぐらいの数が集って来て、今もやはり七匹ぐらいは教室に住んでいる。
 こんなことになったのは、クラスにE子というとても犬の好きな子がひとりいたためである。E子はとても愉快な子で、逗子から通学していて、家は製薬会社の社長とかいうことであるが、E子は言うところでは、
「『うちの薬は利かないらしいわ。でも病気になるとうちではすぐお医者を呼んで、お医者の薬ばかり飲んで、うちの薬はちっとも飲まないのですもの』
 ですって。学科はとても優秀なのよ」犬が好きで、うちでもドロシーという名の犬を飼っているという話であった。ドロシーとはいい名ねとみんなが言うと、
「いい名でしょう」とE子は得意で「わたしがつけたのよ。――わたしのあとをよちよちとつけて来て、どろんこの脚ですたすたと家のなかへ這入り込むと、玄関でいきなりおしっこをして、それっきりどう追ってみても出て行かないし、かわいい小犬だし、宿無しでしょう、無理に追い出すのもかわいそうだから飼ってやることにして、わたしが名をドロシーとつけてやったのよ。一年半ほどいたが、この間ジステンパーで死んだから。今度は兄さんや弟にもお金を出してもらって、野良犬ではなく、少しはましな犬を買ったけれど名前はやっぱりドロシーなの」
 このように犬好きのE子を犬の方でも大好きと見えて、はじめ小使の飼っていたチビも一眼E子を見るとすぐにE子につきまとうのを、E子ははじめおべんとうの残りを分けてやっていたが、後にはおべんとうの残りのほかに魚や魚の骨などを古新聞やハトロン紙などにくるんで本包のなかへ入れて来てやったり、学校の食堂で牛乳を買って、自分のおべんとう箱のふたに入れて飲ましたりしている。
「E子およしよ、おべんとう箱の蓋で牛乳をやったりするのはきたないわよ。犬の病気でもうつったらどうする?」
「うちの薬でも、犬の病気ぐらいには利くと思って毎日持って来てやっているから、チョビは病気になんかならないわよ」
 E子が犬に薬までやっていたことは、この時までは誰も知らなかった。
 友だちがみんなで、「きたない、きたない」と言ってもE子は一向に取り合わないのも道理で、三匹のチョビはE子が校門に現われるのを待ち受けていて我がちにE子のところへ駆け寄り、E子の胸に泥足をかけてE子の顔や脣までペロペロとなめまわすのをE子は平気で犬のするにまかしているのである。
 三匹のチョビは女子の学校だけにみな女犬ばかりなのであるが、そのうちの一匹が子を産んだ時は、E子のスカートをくわえて子供を産み落したところへE子を連れて行ってみせた。E子はそれをそっと抱き上げて来て、自分の机のひき出しに入れて飼っていた。もし小使に見つかったら捨てられるから、こうして隠して置くと大切にしていたが、すこし大きくなった時、校庭の芝生に連れ出して、親子二匹の犬と遊んでいるところを見かけた近所の子供がその小犬をほしがったので、E子は苦労して育てた小犬をその子にくれてやることにした。
「昼間はいいけれど、夜になると誰もいない教室でひとりぽっちではかわいそうだものね」
 というのがE子の小犬を近所にくれてやった理由であった。そうしてE子はその小犬が今に大きくなって学校へ遊びに来て、また自分たちの教室の犬になるものと思っていたのである。それが大きくなっても学校へ遊びに来ないのがE子の不平なので、友だちはE子を慰めて、
「学校へ遊びに来ないのは、飼われている家で大切にかわいがられている証拠なのだわ、学校へ集るのはみな、宿なしの野良犬ばかりなのだものね」
「そうね。それならそれでいいけれど」
 E子はそう言ってやっと納得なっとくして、それでもまだ安心がならないのか、小犬をやった近所の子供の家をはっきり聞いて置かなかったのを残念がっている。E子はその子の家へ行って大きく育って大切にかわいがって飼われているのを見なければ安心できないのであろう。
 友だちはみなE子の犬気違いを笑っていたが、そのうちにだんだんE子の感化を受け、E子の真似まねをしておべんとうの残りを犬にわけてやるようになったのである。こうして近所の野良犬たちは、ここの教室が食料の豊富なことを知って来るようになったのである。三匹のチョビたちはいつもE子の座席の近くに陣取って動かず、もう決して小使部屋へ行かなくなった。こうして三匹のチョビは、いつのころからかE子の教室の犬となってわがもの顔にそこに住み、E子が進級して教室が変るとE子といっしょに犬たちも進級するのである。

(4)


 先生たちも犬の三匹ぐらい教室の片隅にいることは問題にしないが、それでも素性すじょうの知れないのが六七匹にもなるとさすがに邪魔になると見えて小使に命じて処理させると、小使はもとからいるチョビたちはそのままにして、ほかの野良犬を犬取りに渡して犬の数を少くするが、すぐそのあとから別の野良犬が以前と同じぐらいの数だけ集って来るのである。
 なかには犬の嫌いな先生もいて、犬を追い出そうとするが、犬どもはどうしても教室から立ち退かない。そういう場合にはE子が席を立って教室を出ると、犬は三匹のチョビをはじめみんなE子のあとについてゾロゾロと出てしまう。E子だけが急いで席にもどってドアを閉め切る。犬は是非なく校庭のどこかにこの時間を過しているらしい。そうして次の時間にはまた隙を見つけて生徒たちといっしょに教室に来ている。
 はじめは教室の床にていたのが、そのうちに欠席している生徒の席の上に乗っかって座ったりしはじめた。先生も生徒も犬の学生を見ておもしろがっている。というのは、犬は案外おとなしくわき見もしないで先生の講義に聞き入っているからである。
「この間などは」とM子が言う。「イタ先生の……」
「イタ先生と言うのは何だ? 板谷先生とか板垣先生とか……」
「ちがうわよ、社会の先生で、まるっこい顔がイタチに似ているとだれかが言い出して、イタチというアダ名だけれど、イタチでは悪いから、イタ先生と言うのよ」
「ふうむ、イタチの講義を犬が聴いている図はおもしろいね」
「その時間は、みんながわき見をしたり、ガヤガヤとおしゃべりをしてやかましかったので、
『僕の講義を聴いているのは犬ばかりではないか』
とイタ先生に叱られてしまったの」
 犬は教室で邪魔になるどころか、これでは模範生みたいなものである。
 一たい犬や狼の類は猫などの孤立して生きる動物とは違って群居する種族で、それぞれの群にはそれぞれの指導者がいて、これに従って行動する習性があると言われているが、家畜になってからは、人間を指導者にしているわけで、この教室にあってはE子が一群の犬たちの指導者に仰がれているばかりか、犬の取扱い方でも生徒一同の指導者になっているというわけのようである。

(5)


 E子というのはM子の話によると、風貌も美しく人柄も上品でかわいらしいし、学問もよくできるというのだが、よほど変った性格と見えた。
 或る朝、ぷりぷりしながら登校したと思ったら、
「わたしこんなに犬が好きでかわいがっているのに、犬の方ではそれがわからないと見えて、どこかの犬がきのういきなり、わたしに飛びかかって来てわたしのお尻にかぶりついたのよ、いいえ狂犬ではないというから大丈夫だけど。狂犬でもないだけに、わたし口惜くやしくて口惜くやしくて、これ見てちょうだい」
 と言うかと思うといきなり、とめるひまもなくスカートをまくり上げてお尻を出して見せる。なるほど犬の歯型が少しばかり傷になって白いお尻に赤く残っている。
「もうわかったわ。早くお尻をしまっておしまい、女の子がそんなにお尻なんか出して見せるものではないわよ」
 といつまでもお尻をつき出している当のE子より、みんなの方が顔を赤らめて顔を見合せながら口々にE子をたしなめるが、E子はまだ、
「口惜しくって口惜しくって」
 をくり返している。そこでM子が弟のNのことを思い出した。
「犬ってよくそんなことがあるらしいのね。うちの弟も犬が大好きなのに、二度もお尻をかじられたことがあるの。それでもまだこりないで知らない犬とふざけるの。ちょうどE子のと同じぐらいの傷になっていたわ。やはり狂犬病の犬でも何でもなかったの。なんかふざけている拍子ひょうしに昂奮してついうっかりかじってしまうのではないの? 本当に噛む気ではなくってさ。やっぱり親しみを現わしたつもりではないのかしら」
 E子はM子のこの言葉でいくらかきげんをなおした様子で、急いでスカートをおろしながら、てれくさそうに笑っていた。
 この間もM子の愛猫ミミーが、めったに家から出たこともないのに、どうしたかげんであったか、三日も家をあけたまま姿を見せないので、みんなが大騒ぎをし、M子もE子にその心配を打ち明けたが、その後二日経ってミミーは帰って来たので、そのことを話すと、
「そう、よかったわね、そうしてどこへ行っていたと言った?」
 とE子はまるで人間も犬や猫も同じように考えているようなことを言ったのは、M子にはおかしくて仕方がなかったという。

(6)


 みんなで犬を飼っているせいというのでもあるまいが、このクラスはみんな気がそろって全級、非常に仲がよく、できるだけ長くみんなでいっしょにいたいという希望がみんな口に出さないうちに心のなかにはある様子であるが、三年の二学期になったころ、学校を卒業したら、みんな揃ってX百貨店のニューヨーク支店に集団就職しようと言い出した者があって、一時は全級五十人の大半がそのブームに巻き込まれていたものであった。
 それというのもクラスのF子というのは某百貨店の重役の娘で、その子の兄が今は東京本店の呉服部の主任をしているが、そのうちに今度新設したニューヨークの支店長になるはずで、その時にはF子はニューヨークの店員になって行くから、その時はみんなもいっしょに連れて行くと言ったとH子が言い出したのが、このブームの起りなのであった。
 しかしH子の話ではあまりあてにはならないというのでE子が直接F子に聞くと、F子は当惑したような顔をしただけで、あまりはっきりした返事をしない。そこでE子は、
「じゃあ、やっぱりH子がでたらめを言ったのね?」
「いいえ」とF子はおっとりとかぶりを振って「H子もわたしもでたらめや嘘を言ったのではないの。ニューヨークへ来られるようにしてあげるから、よく英語の勉強をしなさいって、ひとりではつまらないと言うとみんなで来てもいいと言ったのよ。でもお兄さんがニューヨークの支店長になったらという前提があるので、お兄さんがきっとニューヨークの支店長になるとはきまっているわけではないもの。夢のような話だわ。お兄さんはわたしに英語の勉強をするようにとそんなことを言ったのかも知れないわ。わたしもH子にはそんな話もあるから勉強しましょうと言ったの」
 が、はじまりだとわかった。
「ナーンダ」
 と全級は失望したが、これではじめてH子もF子も誰も嘘を言ったのではなかったという真相が明らかになった。F子の兄さんだって決してでたらめを言ったのではあるまい。ただその人の抱いている夢を妹に語ったのが、その妹の夢となり、夢は大きく波紋を描いてこの女子高校の全級にひろがりおおっていただけのことであった。
 まことにはなやかにしかしあっけない夢であった。しかしこの夢にも、また夢の効用がまるでなかったわけではない。この学年間に全級生徒の英語の学力が急に進み、平均して五六点以上も成績が上っている理由については、先生にもまるで見当がつかなかった。

(7)


 チョビたちは校庭の主だから、風のあたらない日だまりをよく知っていて、いち早く草のえ出すところへ来て集る。
 E子をはじめクラスの仲間も放課後はここに来て若草をき、犬を中心に大きな円陣を二重にも三重にもつくって早春の日を浴びて遊ぶのであった。
 愉快な教室の生徒たちも、もう三学年も学年末に近づこうとしているのである。
 しかしF子の兄さんがニューヨークの支店長になったという話はまだ聞かない。
「チョビさんたちはいいね。うらやましいよ。いっしょにお講義は聞いても、試験を受けないで卒業できるのだから」
 と言ったのは、もし落第すれば退学させて料理屋をしている叔母さんの店へ女中奉公に出すと言われているというB子であった。するとE子は、
「卒業すれば、チョビたちともお別れだ。今のうちによくかわいがって置いてやろう」
 と言いながら、カラのべんとう箱をかかえて食堂の方へすっとんで行く。三匹のチョビたちはいっさんにあとを追う。それを見送りながら、
「また牛乳を買って飲ませようというのだよ」
「おべんとう箱のふたで犬に牛乳を飲ますことは、とうとうやめなかったわね」
 などと言っているところへ、掃除当番でここにいなかったH子がここへ駆け寄りながら、ぐるりと見わたして、
「ニュース、ニュース、大ニュースよ。E子いない? わたし今朝電車の窓から見たわ、E子が、ボーイフレンドといっしょに田町の駅からにこにこ出て来るところを見かけたわ。昨日もよ」

昨日も今日も君と来る
田町の駅は楽しいね
春浅くしてわか草も

 と歌い出したクラスの若い即興詩人はあとがうまくつづかないのか尻切れとんぼでやめてしまった。
 犬を先頭にしてE子が帰って来た。
 M子はE子が芝中に通学している弟とふたりで逗子から通学しているとかねて聞き知っていたので、
「E子、ボーイフレンドと田町の駅から出て来るところを、昨日も今日も見かけたと問題になっているわよ」
「そう」とE子は立ったままでM子を見おろし「昨日もおとついも今日も明日もよ。お気の毒さま、あれはここの中学に入れないで芝中に行っている愚弟なのよ」
「でも愚弟さんとは見えないわ。背たけだってずっと大きいし、第一顔立ちが違っていたもの」
「あたりまえよ。男の子だもの、あれでもフットボールの選手だもの。ボーイフレンドなら、もっとらしい気のいたのをえらびますよ」
 とE子は早口で一息に言ってのけると、みんなを一わたり見渡し、口調を改めて言いはじめた――
「そんなことを言う人は誰だか知らないけれど、きっとボーイフレンドをほしい人なのでしょう。羨しがらないで正直におっしゃい。ボーイフレンドがほしいのなら、逗子へいらっしゃい。不良でわたしを追っかけまわすのが二人いるから、いつでも紹介してあげるわ。ボーイフレンドなどあたしに用はない。野良犬の方がずっといいわ」
 とE子はいかにもE子らしいことを言う。周囲から拍手が起った。M子もボーイフレンドよりはE子の方が好もしいような気がして拍手した。拍手のなかから誰やらが、
「ほんとうにボーイフレンドがあるくらいなら、E子も犬とキスしたり、お尻をつき出したりなどはしなくなるわね」
 と言ったそのとたん拍手は笑声に変った。そのはなやかな笑い声の合唱に合わせるかのように、三匹のチョビが一度に吠え立てはじめた。まことににぎやかなことであった。B子だけがただひとり浮かぬ顔をして草を見つめている。
 午後三時すぎの早春の日ざしが、さんさんと犬と少女との一団のうちに明るく降りそそいでいる。
 折から職員室の方から出てラケットを振り振り、コートの方へは行かないで、草上の一団を目ざして近づいて来るらしい人がある。これを遠眼に見た一同は、
「イタチが来るよ」
「イタチが来るよ」
 と囁き交している。
 イタ先生が来て、
「だいぶんにぎやかで楽しそうだね」
 と言いかけたころには、先生の見たものは蜃気楼か何かでもあったかのように、一団はもうどこへやら、雲か霞のように散らばってしまっていた。別に逃げかくれしたわけではなく、もうそろそろ退散の時刻になっていたので、自然とちりぢりに引き揚げて行ったのである。
 先生は不満げにコートのある方へ足を向けて行った。
 校庭を出た生徒たちは三三五五、なかには帰りがけに、いつもきまった坂の上あたりで行き逢う焼芋屋に出会ってE子はドロシーのおみやげを、M子は帰宅後のお茶受を仕入れているのもいる[#「のもいる」はママ]
 校庭はひっそりとして、西に傾いた日ざしのなかで、犬はあちらこちらと少女たちのにおいをかぎ求めて教室にも行ってみるが、人影一つなく、最後にあきらめて、犬は犬同士でなかばは枯れなかばは萌えた草の上でじゃれころがっているばかりであった。やがて、落日はこの台地の下に赤く沈んだ。





底本:「定本 佐藤春夫全集 第35巻」臨川書店
   2001(平成13)年4月9日初版発行
底本の親本:「マドモアゼル 第一巻第五号」小学館
   1960(昭和35)年5月1日発行
初出:「マドモアゼル 第一巻第五号」小学館
   1960(昭和35)年5月1日発行
入力:よしの
校正:持田和踏
2022年11月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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