円光

或は“An Essay on Love and Art.”

佐藤春夫




 一人の画家がゐた。売出しの女優は花束でとり囲まれるが、彼は幸福そのものでとりかこまれた。若い美しい妻をめとることが出来た。二人して海の近くに新婚の旅をしてゐる間に新しい画室はタウンの端れに落成した。時は、悲しいものをより甚しく悲しましめる代りには、楽しいものにより一層楽ましめるといふ晩春初夏であつた。
 ‘No, not happiness; certainly not happiness! Pleasure. One must always set one's heart upon the most tragic.’といふ句を或る書物のなかから見出した時、彼が可笑くつてたまらなかつたのも無理はない。
 画室は日を経るに従うてだん/\と整うた。旅から帰つた時、彼等はそこの壁の上に海洋と海岸とのスケツチを十幾枚並べて、派手な「追想」の額縁に納めて掛けた。小卓、花瓶、壺、青銅のマスク、ゴブランの片などは、それ/″\に各の位置へやすらかに落ちついて、低い声で互に自分のことを囁いた。それと同じやうなあんばいに画家の心のなかでは彼の妻が静にところを得て来たころのことである。
 ある日の朝、画室の主人は一通の手紙を受けとつた。青い封筒で見なれない筆蹟であつた。差出人の名は封筒になかつた。多分これは画の注文であらう。
 兎に角彼は展べて読んだ。手紙は長くない。一目見て彼は、矢張然うか俺も益益大家になるわいと思つて欠伸をした。二目見て急に訝かしげに彼の壁の上を見あげた。自然と目に這入つた海洋と空とのスケツチは、紺碧が鼠色に緑色が黒に見えた。
 彼は立つて、一度ぐるつと部屋のなかを歩いて、窓のところで立ちどまつた。ガラス越しに見える地の上では、大きな紅い薔薇が細い雨にうたれて、其一輪が将にいま地の上へ砕け散つて居た。
 その時、入口の扉がたゝかれる音がした。
 少し狼狽したが、彼は声を落ちつけて
「今ちよつと用がある、もう十分ほど待つておれ。」
「はい。」
 妻は銀の茶の盆を持つて居て、扉をへだてて、変に思うた。こんなことは未だ一度もないことだつたから。けれども彼の妻はこんな時「何の御用なのよ」などと声を尖らさない方の女であつた。そこでしとやかに盆を捧げて帰つた。
 併し自分の言葉を言つて了ふとすぐ気をとり直した彼は、今追ひかへしたばかりの妻を自分から迎へに行つて、三分ほどの後には彼等は例のごとく向ひあつて朝の茶を啜つたが、「いやな天気だね」と言つた外には、その朝の感情と事実とに就て夫は妻に一言も洩さなかつた。その代りに、平日のとほりの会話を平日のとほりに交した。
 七日を経た。
 外出先から帰つた画家は、彼の机の上に二三の郵便物に雑つてまた青い手紙が、今度はものの色を誇張する燈の光を浴びながら自分を待つてゐるのを発見した。彼は用事を命じて部屋から妻を退かせた後、青い手紙を見なれない犬の頭を撫でるやうな手つきでとり上げた。
 開けやうか、開けまいか、暫く迷うたが結局こんな場合多くの人がする如く彼は開けることにした。開けて了つてから読まうか、読むまいか、しばらく迷うたが結局こんな場合多くの人がする如く開けたからには読むことにした。読み初めてから、彼はこんな場合多くの人がする如く新しく変つたことは何事もなかれよ、と念じながら矢張り変つた何事かを捜して居るのであつた。
 ところでこの手紙は、読み手のこの可笑しな要求を丁度満足させるものであつた。と言ふのは、この第二の手紙は大部分は最初の手紙と同じであつたけれども、終の方になつてすこしばかり書き加へた文字もあつた。
……予は貴下の揮毫を切望するものに有之候、それは貴下の夫人の肖像をに御座候、然も極めて厳密に写実的に……
 何だ前の文句と一字も違はないと読み手は思ふ、書いた方で前の文句を忘れて居ないと同様に読む方でも前の文句を一句残らず暗誦して居たのだから直ぐ解つた。
……恐らく貴下が新しき家庭は、
おや、これは初めての文句だぞ、
――恐らく貴下が新しき家庭は、光りと香りとの充ち漂ふ幸福の王城に相違なからんと信じ申し候、またそは甚だ希はしきことに有之候。
 当然さ、それが何んだ。彼は憤しげに心臓のなかで呟いて後を急いだ。
――然れども、
今度は心臓が頭の頂上で皷動する、
――然れども、茲に貴下の注意を喚起いたしたき儀の有之候。
ぐつと唾のかたまりを嚥み下したが、そのお影であとを寧ろ沈着に一息に読みつゞけた。
――然れども茲に貴下の注意を喚起いたしたき儀の有之候。即ち貴下が幸福の王城の礎には一個残忍なる人柱の呻きつゝ立られたるを指すなり。蓋し、その呻きは呻く者自らを外にしては恐く既に業に何人よりも聞き忘れられ候ことならんと心得居り候。如斯予の支払ひたる犠牲に対する報ひとして、一枚の画像は敢て貴下にとりて高価に非ざるを予は疑はず。尚、余儀なく賤劣なる一句をも加へんか若し貴下にして快しとさへせらるゝならば予は予の貧しき財嚢をも傾けて流俗の謝意をも表すべく候。擱筆に臨みて申上げたきは、前後両回に及ぶ予の手紙は極めて礼を失したるものなりしは明かなるも、之が為め決して決して貴下が心の平和の乱れ給はざりしを予は信ぜんとする者に御座候、いかにと申すに曾て二十数度予が見ることを得たる幸福なる機会の鮮かなる記憶に従へば彼の女――令夫人の高潔なる風貌は、かゝる場合貴下が予に対して抱かるべき厭はしき必然的の疑ひを沈黙のうちにさへ釈然たらしむるの権威あるものなるを予は心私に思ひ候へばなり。早々不宣。
 恐ろしく廻りくどい表白だ。拙い文章だ誤字だらけだ。それに言ひ草が一々馬鹿げてゐる、とかうその都度思ひながら彼は三度読みかへした。

 その夜、燈を消してから、画家は事の次第を妻にのべて、まだ全然は消え失せない追及の心持ちを慚愧の形式に装飾して打明けた。彼のこの手の込んだロココスタイルの技巧に比べては、彼の妻の答へは恰も牧歌のごとく原始的であつた。
 彼の女は言ふ、
「えゝ、あたしはその人を知つてゐます、その人はあたしを愛してくれると言ひましたよ。それからあたしも愛しましたわ。いいえ構はないの、だつてあたしは世の中の人を皆好きですもの、あたしを愛してくれる人ならば猶さら、一番深く強く愛してくれる人を私も一番深く強く愛するのですわ。ねえあなた一番深く強くあたしを愛して下さいな、あの人よりも誰よりも一番に、ねえ。」
 この魯かな幼い言葉は画家のこゝろをして月光を浮べた湖心よりも、もつと明るくもつともつと静かに、少なくともその瞬間には夫のこゝろを浄めつくした。それは幸なことでもあり、また理りあることである。
 そこで二人は尊い抱擁を強く抱きあつたのであつた。
 眠るために二人は黙した時、妻はふと聞き忘れてゐた人柱が、丁度寝牀の下あたりで呻くらしいのをやゝしばらく微に聞いた。その間、夫は、然うだ描いてあの男に贈つてやらう――それは自分の勝利の裏書きだ、自分の幸福を一層大きくもする、自分の寛大な心を示すことにもなる、哀れなる未知の友に幸あれ、などと考へて居た。
 窓の外には、夏の夜の風が、快活に枝から枝を流浪して居る。

 その翌日。画家は常よりも早く目覚めて、新しくカンバスを張つた。
 朝の茶を終へて、妻はその椅子でそのまゝモデルを務めた。体は相対してやゝ左を向いて、顔もそれに相応する半側面で、頭の全体は胸の線と百三十度をして前方へ傾いた。少しく目を伏せてゐた。目と眉との間の広さがわけて典雅であつた。重たげな額は Pax より浄かつた。それが彼の女の癖に従つた自然な姿勢であつた。
 画家は何げなく描き初めた。
 折から、涼しい風を迎へ入れるために開け放して置いた高い窓をくぐつて一羽の鴿が画室へ飛び込んだ。「うるさいな」と言ひながら画家が両手を挙げると、臆病な鳥は驚いて逃げ去つた。白い羽根が一本抜けて落ちたほど大急ぎで。「地主の家のだね、きつと。あすこには沢山飼つてゐたつけ。」
「きつと然うね。」
 初めたのは月曜日であつた。
 彼は毎日描きつゞけた。
 金曜日が来た。十二号のカンバスは既にカンバスではなかつた、完成してはゐなかつたけれども画と呼ばれて差支はなかつた。今日は口と顎とを纏めねばならない。彼は妻の唇を注視した、その時ふと心が曇つて来た。この甘く美しい唇を、果して、その男は一度も吸はうとはしなかつたらうか。それは厭はしい形を、写実の色を具へて幻に見えた。しかしいゝ具合にその空想は束の間であつた。
 頸、衣裳、バツク、と終に纏つて、この製作もまた月曜日に初まつて土曜日に完成した。彼は三歩退いて自分の画に見惚れた。「どうだい、素的だらう」と妻に言ひながら。妻は黙つて優しく、快よげな苦しげな、寂しげな、楽しげな笑を笑つた。モナリザの笑ひを笑つた。
 画家は自分のこの分身に分るゝことを悲しみながら乾くのを待つて、彼が持つて居る最も清楚にして然も豊饒な縁と、「御注文どほり可なり忠実な写実である、敢て貴下の所謂貧しい財嚢を傾けて流俗の謝意を表するにも当るまい」と短い手紙とを添へて、この奇妙な注文主に送りとどけた。彼はその手紙を書きながら高い頂から森や、林や、川や、家や、野原や、塔や、湖水や、丘を見る心持ちで晴々した、それから御暇には御遊びに入らつしやいと書き加へてやらうかな、と思つたがいや/\これは止さう、さうして思はず声を出して独言を言つた。
「そのうち礼状が来る。此度の手紙こそ心配なしに開けられる。」

 次の次の次の日の夕方、日の入りぎはに雲の色が言ふばかりなく美妙であつた。バルコンへ出てそれを描いて居た画家は、そこで青い手紙を受けとつた。早速開いたが、手紙は長い。
 手紙は言ふ、
――貴下が稀有なる御好意に対しては、予涙を以て之を感謝し宝玉よりも深く心に保存いたすべく候。乍併、貴下の作品は悲しくも、不幸にも、予は之を保存いたし難く候。忌憚なく申上ぐれば、貴下の作品は最初予をして憤らしめ、次に疑はしめ、最後に恐怖せしめ申候。予は最初これを瞥見するや、貴下が恵まるゝに令夫人に非ざる別人の画像を以てして、予を欺弄せられんとする所為ならんとのみ思ひ候ひぬ。然も貴作に就て考察すること二日、凝視すること十数時の後、初めてその然らざるを知り申し候。そは専ら貴作が構図の輪廓に憑る。若し貴作より唯一つボツチチヱリが Magnificat のマドンナと略相似たる姿勢を発見せざりせば、恐らく予がこの二日間の苦心は徒爾なりしなるべし。吁、誰か醜悪如斯画面を見て、彼の女が肖像なりと信ずべき者の候べき。殊にその唇の野卑は何ぞや。乍併、予の疑念は単にかゝる一細部に留まらず候。敢て問ふ貴下は可なり忠実なる写実なりと申し乍ら、終に彼の女が頭を囲繞する円光に就て描き給ふところなきは何ぞ。暫く予をして追懐せしめ給へ予の彼の女が頭の上一尺を距てゝ径一尺四寸ほどの円光を戴けるをかすかに発見したるは、予が彼の女を見ることを得たる第一の――これらの事件に於ける最も幸福にして、一面最も不幸なる最初の機会に於ける最初の瞬間にて候ひき。後見ること度を重ねて、然も見失ふことなきのみならず、円光は益々鮮やかに虹よりも更に美しく目に映りて、然も虹のごとく消ゆるものには非ざりき。予はすべて伝説を信ずるものに有之候が一伝説に従へば、マグダラの婦人マリアは、土の下に腐り果てつゝあるべき一個の尸をさへ、光を放つて昇天する像に見たりと申され居り候。況んや、予が彼の頭上に円光を見たる事実を、貴下は勿論非議せらるまじく候。然るに吁貴下の描かるゝ彼の女にはこの円光なりと思惟せらる可きものゝ跡さへなく、但、大いなる丸髷の怪しく美しきある而已、貴下果して円光を見ざるか。然らば、貴下は彼の女を所有する値無之候。愛の値は無限なり。能く最も無限なる値を払ふ者のみ愛の王たる可く候。附言す愛にありては王はまた奴僕を兼ぬ。却説或はまた貴下が所有するに及びて彼の女の頭辺より円光は忽然失はれて、予が目を以てするも之を見るべからざるに至れるか。これを事実とすれば、貴下の罪は更に更に怖るべきものに有之候。されど予は見えざる円光及び失はれたる円光を思はざらんと努むべく候。貴下の円光を描かれざりしは見えざるには非ず、失はれたるには非ずして、貴下の芸術上の謬見に起因せしものなりとのみ予は信ずべく候。斯く独断し置くに非ざれば予は苦しく怖ろしきに不堪候へばなり。兎にも角にも貴作は予の書斎に掲ぐるには適せず、予は貴下の御好意を深謝致しながら、事実に於て貴下の御好意を亨け得ざるの苦境に置かれ申し候。実に幾度か思ひ返して貴作を手許に留め置かんと苦慮致し候ひけん。されども何分年久しき間には貴下の芸術が予の現実を圧倒して、終には予が記憶にかくまで鮮に残る円光燦然たる彼の女をすら、卑俗化し了るやも知れぬことの此上なく恐ろしくて、さては余儀なく無礼を忍んで貴作を御返却いたす儀に御座候。この不合理の一大塊なる現世にては、善きものは常に美しくして脆く、得て悪しく感化され勝ちに御座候。抑もまた男女の……
 見れば手紙は未だ尽きない、画家はいきなり丸めて床の下へ投げ捨てたが、またそつと拾つて仕事着のポケツトへねぢ込んだ。「何の事だかちつとも解らない、気違ひかも知れん、」とパレツトの上で赤と黄色を雑ぜながら「それとも詩人かな。」それから筆をカンバスの上へ用意して空を見上げたが、舌打ちをした。
「畜生! 全然雲の形が悪くなつ了まやがつた! 下らないものを見てゐるうちに。」
それから思ひ出したやうに隣の部屋の妻を大きな声で呼びかけた、
「おい/\、彼は詩人かい。」
「誰で御座います。」
「この間の男さ、画を描いてやつた…………」
突然の問に理由を知らない妻は答へた、朗らかな声で――
「いゝえ、確か批評家だつたと思ひますわ。」





底本:「定本 佐藤春夫全集 第3巻」臨川書店
   1998(平成10)年4月9日初版発行
底本の親本:「病める薔薇」天佑社
   1918(大正7)年11月
初出:「我等 第一年第七号」
   1914(大正3)年7月1日発行
※「鮮か」と「鮮やか」と「鮮」の混在は、底本通りです。
※副題は底本では、「或は“An Essay on Love and Art.”」となっています。
入力:水底藻
校正:朱
2023年3月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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