訳詩集「月下の一群」

その著者堀口大学に与ふ

佐藤春夫




 第一に僕は感謝しなければならぬ。君のこの立派な仕事が僕におくられてある事を。自ら省みて過分なやうな気がする。それから次に報告しなければならぬ。僕が君のまことの友であつたのが、今はつきりした事を。そのわけはもしこの美しい――内容外形ともに、美しい堂々たる書物が、君の手によつて出来たのでなかつたら、僕はきつとその著者に、多少のねたみを感ずるに違ひない。しかも僕には今、唯よろこびがあるだけだ。思ひ見よ。これが僕の君に対する友情のしるしでなくて何だ。して見れば僕はやつぱり、君にこの書物をおくられてもよいらしい。
 それにしても、君の序文の一くさりは、僕を悲しくする。「後世あるひは、語に明かに詩にあつき、高雅な閑人があつて、原作と対比してこの集を読んでくれるかも知れぬ。彼の温情ある賞讚の微笑を、私は地下に感ずるであらうか」これ等の自尊に満ちた言葉を見るにつけて、僕は今更にこの詩集の原語の言葉を知らない事を歎ずるのだ。僕は詩にあつき高雅な閑人だと自信してゐる。もしたつた一つの条件にさへ欠けてゐなかつたなら、僕は必ずや「温情ある賞讚の微笑」を現にこの地上で、君に感じさせることが出来たであらうに!
 僕はこの本に就て、それ故にかへすがへすも情けないが、批評する資格がない。それでも昨日の朝、性急に小包の封を切つて以後今夜まで、僕はこの本を見つづけてゐるといふ事実を述べることが出来る。これらの詩篇をそれぞれに、君が発表した第一の機会に、あるひはまた君の原稿でさへも見覚えた――即ち一度、或は二度も知つてゐる。然もこれらの文字は、僕には新秋のやうにいつも珍しいと見える。
 僕はまた感ずる。たとひ君のやうな高雅な閑人にしても、絶好の状態においての十年といふ閑散がなかつたならば、六十六家、三百有四十篇といふこのやうな[#「このやうな」は底本では「このような」]豊富な訳詩は絶対にあり得なかつたであらう。君は天に感謝しなければならない。さうして僕たちも。君はのらりくらりと遊び暮して、心のままに摘むうちに、ついすばらしい花束をつくりあげてゐたのだよ。君はしかも、事もなげにやつつけた。しかも心にくいまでにさまざまな格調によつて。君の仕事のなかには、何の苦渋のあとさへもない。苦心といふ骨格は、思ふままに発育した肉体のなかにつつみ込まれた。しかも奔放にさへ見える。有難いことだ。こせこせといぢけさせてしまつて、盆栽化した訳詩を、僕はもう見あきてゐたのだよ。(――消え去れ!「海潮音」の今になつて役にたたずな余韻よ)それらの植木師は枝ぶりばかり気にして、到頭枯らしてしまつた。しかも君がうつし植ゑたものは、手もなくそこに投げ出されて、不思議や、めでたや、ぽつかりと花がさいてゐるではないか。就中、アポリネエルやサルモンやラジゲやコクトオや。これは君自身が「針金細工で詩をつくる」術を知つてゐる詩人だからだ。ポオル・ヴァレリイのがまたすばらしい。さうしてこの六十六家のうちで、ひよつとすると、僕はヴァレリイのが一番好きかも知れない。――サマンやレニエや、昨日の歌をなつかしまぬではないが、それはあまりに僕に即きすぎる。彼等は「針金細工」ではない。レエスの織手だ。さうして我々のいはゆる近代は、グウルモンから始つてゐるやうに、僕には見えるが、間違ひかしら。グウルモンはそれの夜明けで、アポリネエルは多分起床で……、さうして昨日は多分サマンの夕焼とレニエの三日月とで暮れたのだらう。全く君のこの好著は、ボードレエルで夜のあけた昨日から、今日の今の一刻までの、時の移動を示す無二の時計だ。
 大きな竪琴を持つてはゐるが、ポオル・フォルが故もなく僕に気にいらない事をいつか話した。あそこは間口の馬鹿に大きな店だ。――いい品物があるにはちがひないのだが、それにしても親愛すべきフランシス・ジャムが、我々東洋人の簡潔を知つてゐたら、多分、僕は彼を今の倍も愛するだらう。さうしてその時、彼は、或は老杜に似もするだらうか。
 事の序に、この書物のなかから、僕が愛するものの目録を一つ、つくつて見ようか――退屈だらうが。
 風神。失はれたる美酒。一九〇九年。病める秋。獄中歌。消える韻致。ナポリの女乞食。頭文字。シャボン玉。手風琴。懶惰。同じ落葉の上に書く。ロマンチック。レキサンブルグ公園で。河流。[#「河流。」は底本では「河流、」]頬白鳥。かしこ声高きヴィオロンと。シモオンを呼びかける諸作。エブリンのわれ等が茅屋。お前は書いてよこした。水辺悲歌。円き月。小曲。ロマノフ大佐。尼の如くに青ざめて。午後の月。
 ――四〇〇頁以後はまだ充分に精読しないと知り給へ。ともかくも凡そ右のやうだ。批評にはなつてゐなくつて、多分は僕自身を語つてゐるだらう。
 マリイ・ロオランサンとモオリス・ヴラマンク、この二画人がいい詩人なのはもつともなことだ。前者の温雅な煙のやうな美、後者の率直な投げやりな美、――ペンもブラシュも、結局は同じものと見える。
 コクトオやラジゲを愛しないではない――その才気を。しかし、彼等はやがて自分の才気にあきるだらう。その日、僕は彼等を三倍も好きになりさうだよ。イヴァン・ゴオルはサルモンのあるものと共に、僕にはわかりにくいものだ。さうしてサルモンはわからぬなりに好きだし、これはわからぬなりにきらひだ。そのくせフランシス・ピカビアは嫌ひではない。その理由は? 僕自身にはわからない。――一つ考へて見てくれないか。僕はまたギイ・シャルル・クロスに会つて見たい。
 例によつてあまり自分を語りすぎた。
 ――この本が折角売れるやうに[#「売れるやうに」は底本では「売れるように」]。売れない書物だつて、悪いはずはない。同時にまたそれが売れたからと言つて、悪からう道理もない。同じことなら売れた方がいい。ねえ、大学。されば、気の毒な失業者でない限りはこの書物を買ひ給へ。売れて値打の下るやうな書物なら、我が徒は初めから書かぬ。
 この未曾有な書物はきつと読者に、フランスを感じさせるだらう。その胸に聴診器をあてる思ひあらしめるだらう。詩人はまことに一国の心臓である。さうでなければならぬ。さうであつた。





底本:「日本の名随筆36 読」作品社
   1985(昭和60)年10月25日第1刷発行
底本の親本:「退屈読本 上」冨山房百科文庫、冨山房
   1978(昭和53)年7月28日第1刷発行
初出:「東京朝日新聞」
   1925(大正14)年10月11日
※誤植を疑った箇所を、「退屈読本」新潮社、1926(大正15)年発行の表記にそって、あらためました。
入力:hitsuji
校正:きりんの手紙
2022年2月25日作成
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