文芸家の生活を論ず

佐藤春夫




 先々月の新潮合評会席上で、作家の稿料の事などに就いて僕が簡単に発言したところ、今月号の二三の雑誌に多少の反響があつた。発言者として言ひ甲斐のあることである。ただ困つたことには、僕の本当に言はうとした意味を了解してゐるらしい人は殆んどない。わざ/\曲解してゐるとすれば軽蔑して過しただけでも足りるのだが、若しさうでなくて僕の言葉が足りない為め僕の主旨が通じないのだとすると、多少残念でないこともないので、それに前々からいづれは言つてみたいと思つてゐた事柄ではあり、旁々もう一度ここに述べ直してみる。今度は、僕の性分には合はないことだが出来る事ならでくのぼうにでも解るやうに、噛んで含めるやうに申述べたいものである。従つてこの文章の七くどい事は予め御断りして置く。

 僕が今日一流の文学者の稿料が高過ぎるやうに思ふといふことは、一般の操觚者の稿料が多過ぎるといふ事を決して意味しないので、却つて一般の操觚者のそれが尠ないのに対して、三四五人の文学者の稿料が過分に多過ぎるだらうといふことを言はうと思つたのだつた。僕の今から言はうとすることの本旨は、一般の操觚者の稿料を今日より引下げたいといふ事を意味するのでないことは、いづれ追々とわかるであらうが、先づ第一に念を押して置きたい事なのだ。
 それにしても僕は何故、一般の操觚者の稿料が尠ないといふ事を言ふ前に、少数の作家の稿料が高過ぎるといふ事を言はなければならぬか。又、何に比較してそれが高過ぎるか。その点から先づ言つてみる。
 一たい今日の作家のうちの極く少数の人々が得てゐるといふ稿料が、四百字詰めの原稿用紙にして、一枚最高何円であるか何十円であるか僕は精確には知らない。しかし吾々同業社会の消息通が伝ふるところに依ると、婦人雑誌の稿料の如きは二十円以上三十円までだといふやうな事を僕はきく。また僕自身のたつた一遍の経験によれば、或る婦人雑誌は僕に十五円の稿料を支払ひ、その使としてそれを届けて呉れた人は「若しこれで尠くて不満のやうならば、要求して呉れゝばもつと出させてもいい」と言つた。僕は十分だと思つたし、そればかりか要求すればもつとやらうといふ言ひ分の中に、先方は親切のつもりであらうが偏狭な僕には多少つむじを曲げさせる何ものかがあつたので、僕は満足して受取つたことであつたが、後に人から聞けば、要求しさへすれば当然二十円は呉れるといふ話であつたから、世上に伝はつてゐるのも事実に近いだらうと思ふ。だから僕はそれを根拠にしてものを言はうと思ふ。(だが、それが若し事実ではなく、作家自身或ひは編輯者からの一種宣伝的な言葉であるとしたならば、作家自身が、或ひは雑誌経営者が、何故にそのやうな言ひ草を以て宣伝するかといふ事に就いて、これが若し経営者側から出たとすれば、僕はやはり文芸家なるものが侮蔑されてゐるやうな感じを持つものである。また文芸家自身から出たとしたならば、より以上に考ふべき浅はかな事であると僕は思ふ。)

 古来東洋では、士君子が金銭上の事を口にするのを卑しむべき事として考へてゐる。阿堵物といふ言葉が出来てゐる所以である。僕自身も亦、士君子ではないかも知れないがしかしそれぐらゐの心持ちは持つてゐる。さうして今日若し物好きや気まぐれで何かを言ひ出すのならば、もつと気の利いた人聞きのいい題目は幾らもある。敢て僕がかういふ問題を口にせざるを得ないのは、この問題が単に個人的の問題ではなくまた所謂文壇的問題でもなく、もつと広く、深く社会的の現象であつて、然かもこれを今日文芸家自身が言はなかつたとしたならば、文芸家全体の良心を社会から疑はせるやうな時代が来ないとも限らないのだ。いや寧ろ来る方が当然で、今日人々がさういふ事を言はないのは文芸家の生活を知らず、また今日世に行はれてゐる文学がどういふ風にして書かれ、またどれだけの価値があるかを判断する事の出来ない為めで、簡単に言へば、社会全体に文芸の教養が行き届かない為めに、今日、吾々文学者が文学者面をして権威を持つてゐるやうなわけである。僕はこの点を反省したいのである。
 僕は文学者に清貧の生活を強ひやうといふのではない。ただ、現代を代表する筈の文芸家が商業主義の走狗になつて、賭博者のやうな心理で生活し、而かも自らそれに気づかず、或は気づいても自分を偽つて不正当なる生活を続けてゐることを反省したいのである。(――尤も現代が商業万能の時代だから、それを代表するところの現代の文芸家がさうであるのは当然の結果だと言つて終へば辻褄は合ふ。単純な頭で単純な理屈に合つた事の好きな文芸家のうちの諸君にして、もし気があるならさう言つて見給へ。)
 僕が今日の作家の稿料は高過ぎると言つた時、それは一般の社会の他の職業者に対比してこの言を為すので、僕の稿料が何某君の稿料より高いとかやすいとか、そんな点を言はうとするのではない。かういふ事をまで一々断らなければならないのは困つたものだ。
 僕はそれ故、士君子らしいなどといふ見えはすててせせつこましい銭勘定をしてまで、もう少し具体的に、また噛んで含めるやうに申述べることの必要を感ずる。
 前に述べた合評会の席上で、或る人は僕の言はんとすることの一部分を聞いただけでこの問題を、僕に家族が尠ない為めだと言つた。僕は扶養すべき家族としては、自分と妻と書生と女中とその他にもう半人――といふのは、田舎から遊学してゐる学生――との五人である。その人は一たい幾人の家族かは知らないが、普通の家庭で吾々の如きはあまり尠な過ぎるとしても、八人か十人ぐらゐが先づ標準でなからうかと思ふ。僕はわれ/\の物質的報酬はわれ/\各自の家族や各自の生活慾望などとは一向何の関係もないもので、もつと広い立場からこれを論ずべきものだとは思ふけれども、仮りに他の職業者たちのことは考へに入れないとしてみても、今日の日本の中産階級で八人の、或ひは十人の家族を持つてゐる人等が、平均月に幾らぐらゐの経費で生計を立てゝゐるものだか。僕はその統計は知らない。けれども、老人や子供や女中などを加へて八人或ひは十人の家族が月に千円で生計を立てるといふ事は、一般の標準から見て決して尠な過ぎはしないだらうと思ふ。人間の慾望がそれで十分満足するかどうかは無論別として、僕は専ら今日の社会状態から言つたのである。単に高過ぎると言つただけでも十分にこの意味は判るつもりであつたのに、一々かう断つてかからなければならないところを見ると、今日の文芸家の頭なるものはよほど、狭少なものに出来てゐるらしい。
 僕が今述べた程度の生活で今日満足するといふ事は必ずしも清貧を楽しむといふ事ではなく、普通の人らしく生活するといふ事にならないだらうか。若しかすると中流の生活者としては楽な方であらうかと考へる。しかし僕は、文芸家といふものが一たいに理済の才能に乏しい傾向があるのを予め念頭に置いてみても、月に千円の収入で不十分だらうとは思へない。ここで言つて置きたいのは、僕の現在の収入が千円だとも千五百円だとも七百五十円だとも言ふのではない。また僕の稿料が何某君よりもいくら少ないとも、いくら多いともいふのではない。ただ、中流の生活をするのに普通の人数の中流の家族の生活費が、千円あつたら足りるだらうと考へるまでである。無論人々の心がけ次第によつてその半分ででも生活が出来れば、その倍額ででも不足を感ずるだらう。また十五人を、二十人を、養ふべき義務ある人もあるだらう。僕は一般の例を言つてゐるので、例外を以て標準としようとは思はない。天下にはどうやらでくのぼうが弥蔓してゐるらしいので已むなくかういふ風にくど/\と言はざるを得ない。
 そこで、一流の作家の稿料を平均して仮りに十円と定めてみる。千円の収入を得る為めに一流の作家は、月に百枚の原稿を書くことを要する。月に百枚といふ事は容易なことではないといふかも知れないが、一日とすれば僅かに三枚と三分の一枚とにしか過ぎないではないか。三枚と三分の一枚を書くのに、どんな遅筆家だつて六時間以上を要するとは僕は考へない。若し一日に平均三枚半を書く事の出来ない作家があつたならば、彼はあまりに寡作家であつて――つまり一種の片輪の才能であつて、即ちそれ自身で文筆生活者としての一資格を欠いてゐるものだと自分は言ひたい。その資格のない例外者のために原則はつくられるべきものではない。
 曾て或る人は言つた「文学の仕事は感興の事業である。感興のない時には一行だつて書くことは出来ないのだから、他の職業と同じやうに論じられてはならない」僕は答へやうと思ふ「文学の事業はその通りに相違ない。しかし職業はさうは行かない。天下に無数の職業はあるが、感興のままに働くことによつて成立つてゐる職業がどこにあらうか。文学者といへども、今日の社会に生き文学を職業とする以上は、感興の有無に拘らず労作に従ふの社会的義務を持つてゐる筈である。」僕はただこの際行きがかりでさう答へるだけではなく、事実その信念を持つてゐる。
 古来文芸家のうちで、一体幾人の人間が生活に拘束される事なしに、所謂感興の衝動によつてのみ、気楽に、自由に書き得たであらうか。又或は、必要に迫られて書いた文芸家の作品が悉く皆俗悪なものであつたらうか。若しさうであるとしたならば、文芸上の傑作は常に王侯と貴族の手から出来てゐなければならない筈である。ドストイエフスキーやバルザツクやセクスピヤやその他無数の作家は、果して感興なき時には一切の仕事をしなかつた人達であらうか。僕は寧ろ考へるが、僕が彼等の偉大を感ずる所以のものは、彼等がどんな事情のもとででも彼等のペンを執る時に感興は常にそのペンとともにあつたらうと思はれるが故である。しかしこのやうな大才はしばらく措くとして、また創作家の仕事は決して事務的のものではないといふ意見をそのままうけ入れるとしても、諸君よ、吾々の今日持つてゐる創作家の総てが、或ひは大部分が決して感興によらなければ筆を執らないといふやうな、さういふ謹厳な、或ひは律気な作家であらうか。さうしてさういふ極く稀なる感興の報酬としてのみ報酬を受けてゐるであらうか。一晩のうちにともかくも書きなぐつた作品の為めに、稿料を得るやうなことは一切ないであらうか。――僕の疑ひはここに存する。必要ならば――金の必要、名声を繋ぐ必要、その他の必要がありさへすれば、どんな頭をしぼつてでも三枚でも七枚でも書かずに居られないやうな人々が、間に合はせに仕事をしながら、感興呼ばわりは凄じいものである。
 また或る人は言つた「文学者の仕事は他の仕事とは違ふ。常にもとでを喰つて生きてゐる生活だ。決して永続的の仕事ではない。」その考へは先づそれでもよいとしよう。しかし諸君よ、今日の社会の状態に於て、所謂ブルジョアで[#「ブルジョアで」はママ]ないところの、また所謂商人あきんどでないところの何人がもとでを喰はずして生きてゐるか。生れたままで世に生きてゐる総ての人々は、常に刻々の己れの精力をもとでにして喰ひ、また生きてゐるのである。また、刻々に生きてその精力が尽きた時に当然死ぬるのが本来人間の運命である。だからこそ、生きるといふことは刻々に死につつあることと甚だよく似てゐるわけである。但、刻々に深い意識を感じながら死につつあることを生きてゐると言ひ、反対に意識なしに生きつづけてゐる事を刻々に死につつあるといふだけである。文学者の仕事がもとでを喰ふ仕事だからそれ故にその仕事に対しては物質的にも十分に酬いられなければならぬといふならば、もつと刻々に己れのもとでを喰ひ、しかも社会から決して尊敬などをも与へられないところの総ての労働者や、月給生活者などの報酬は、一たいどれだけ多額に支払つたならば、文学者と釣り合ひがとれるといふのだ。僕は再び言ふが、僕が稿料が高過ぎるといふ時、それはこれらの大多数の他の職業者と対比するのである。刻々にもとでを摺り減らしてゐるから物質的に過分なる報酬を得なければならないなどと浅はかな理屈を言ふやうな人物は、芸術家が刻々に自分のもとでを喰ひながらしかもその同じ刻々に、非常なる愉快と生甲斐とを感ずるといふ芸術家のみが知るところの、無限の楽しみを味ふ才能を持ち合はせずに生れて来た気の毒な輩である。かういふ輩はなるほど、物質的報酬でもたんまり受取らなければ、原稿紙に字を埋めることの労苦にはたへられまい。尤もなことだ。さうしてさういふ連中が、事実に於て文学なるものを世俗的の事業にして了つてゐながら、それにしても口先きでは得て感興呼ばはりをしてゐる。
 古来の本当の芸術家は、芸術家であることがもとでを摺り減らす生活だなどと考へずに、刻々に生きる楽しい事業と考へたればこそ、別に誰が強ひるわけでもないのに、時には清貧をもいとはなかつたのであらう。宜なる哉、今日の非芸術家的(最も広い意味に於ての芸術家的精神を持たない)芸術家が原稿料の多いことより外に、楽しみを知らない!
 僕は頃日一人の大工の言葉を聞いた。「職人といふものは馬鹿なものだ。人におだてられ、讃められさへすれば、それがうれしさに損得などは忘れて仕事をする。さうして年中貧乏して一生を終る。それが本当の職人の気質なのだ」と。これを聞いて僕は、今日の文芸家は遂に一個の職人にも及ばないことを痛感した。

 僕は人々に清貧を強いた覚えは少しもない。また自分自身清貧に安じようと誰にも宣言した覚えはない。しかしただ、文学の事業といふものは飽くまでも精神的な業であり、――かういふ言ひ方が窮屈なと言ふならば、尠くとも商業主義と提携すべき性質のものでないことだけは信じてゐる。また政治屋的興味と同一視すべきものでないことは信じてゐる。さうしてあらゆる人間が当然働くべきだけの勤勉を以てしたならば、今日一流の文学者は普通世間で伝へられてゐる稿料の三分の一、或ひは二分の一を支払はれてもまだ過分であらうと思ふ。どうして過分かといふ事を知りたいと思つたならば、諸君はただ虚心に諸君の努力を考へ、また他の職業者の努力を考へ合せ、更に各々が受けてゐる物質的報酬に就いて虚心に考へて見さへすればいい。理由なき過分の報酬を受けることによつて、若し文学者が卑俗な商業主義の走狗となるやうな事があつたならば、さうしてさういふ人々が文芸家の名を僭称するが如きことがあつたならば、さうして文芸家全体がそれを黙認するが如き事があつたならば、まことに一代の文運衰へたりと謂はざるを得ない。
 偶、文芸家の名が社会に一般化したことは、真の文運とは何の関係もない。それは屡々、新聞紙に広告する化粧品の名が婦女子の口と耳とに親しいのと選ぶところのない現象だ。
 或る人は言ふ「しかしそれほどの高価な稿料を得てゐる作家はほんの数へるほどしかなくつて、それこそ例外である。さうしてそれらの作家は、寧ろ作家としての活動は既に或る程度に終りを告げてゐるかの如き観ある人々で、従つてそれらの人々が商業主義やその他の何ものかによつて毒されてゐるとしても、既にもう惜しむに足りない人々ではないか」と。
 僕はこれらの人々が果して年少にして既に活動の峠を越えたと見るのが正しいかどうかは知らないが、何にしても若しこれが単に個人的の問題として終始すべきものであつたならば、僕、何の権利があつて他人の収入などに差出口をきくことが出来ようか。また、僕がこれらの事を言ふのはその個人を惜しむためでも、又は憎むためでもない。ただしかし、作家は公人である。単に文壇だけの公人ではない。社会に於ける公人である。だから、僕はこれらの問題を公の問題として、社会的の問題として論ずるのである。稿料の標準なるものは単に個人の収入ではない。社会に於ける一つの物価である。米の相場の不当なることを論ずる事が一つの社会問題である以上、稿料の相場を論ずることがどうして個人の収入に対する差出口であらう。僕は、今日の作家の稿料が高過ぎると言つた時、それは一般社会の他の職業に対比してこそこれを言ふのである。この事は、今のさつきも二度言つたけれども、こゝに三度念を押して置かう。
 またそのやうに特別なる高価を要求し乃至支払はれてゐる作家は、特別といふ言葉の中に含むが如く、全く例外には違ひないのだ。しかしこの場合の例外は、世人或ひは文学者がこれを目標とするかも知れないところのものであつて、僕が惧れるところの理由の一つはこの点である。しかもそのやうな少数の作家が、その行為によつて私利私慾を満足させてゐるといふことを明言する代りに、文学者がそれだけの報酬を受けることが恰も当然であり、また文学者の社会的地位を高めるものだと考へてゐるらしいのに対して、僕は寧ろ、不当なる収入を持つところの職業は社会的に卑しめられるのが当然でこそあれ、決して尊敬せらるべき筈がなく、そのやうな生活者を尊敬する社会があるとすれば、それは墮落した社会の状態であつて、これらの社会的謬見を正すことを以てその任務の一端とも考へなければならない筈の文芸家が、喜んで身をこの社会的謬見の中に投ずるが如きもので、芸術家の社会的存在の理由を、従つてその独特なる社会的地位を、全く放棄したものだと、断言しようとするのだ。しかもこれをなすところのものが、時代の芸術界に於て重きをなすところの人物であつた場合には、その時代の芸術家社会全体がその責を負はなければならない筈である、その精神生活に於て緊張を欠いた少数の人々を僕は敢て惜しまずまた憎まずとしても、僕自身も亦その末席を汚してゐるところの、この時代の芸術界の為めに一言なきを得ないのである。

 また更に、僕は少数の人々がずば抜けて多額な稿料を得ることが、果して一般多数の操觚者の端々にまで正比例的にその収入を増加させてゐるかどうかに就いても、甚だしき疑ひを持つものである。
 少しでも事情に通ずる人人は熟知してゐるであらうし、また少しでも空想力ある人は察するに難くないであらう如く、今日単に経済的成功以外に大して理想を持つてゐないかの如く見える一般の雑誌経営者が、二三の有力なる執筆者の過分な要求に応ずる時には、それは僕の見るところでは恐らく他の同業者が受くべきものの中からそれを支払つただけのことで、一般操觚者が有力な二三の人の例によつて正比例的に利益を得てゐるどころか、寧ろ反比例的に、利益を減じてゐるのである。何となれば、一般の雑誌経営者がその編輯の為めに支払ふ費用の中には自ら一定の額があつて、その額の中から特別に過分な支払ひをする場合には、いづれはその残額は一層尠いものになつてしまふ。百の中から十を減いて残りの九十を他の九人が分ける代りに、同じ百の中から一人の人が二十を減き去つた残りの八十を他の九人が分ける時に、この同じ九人の分け前は前者の場合と後者の場合とどちらが多いか尠いかは、尋常二年生の算術である。――わかりますかね。それとも諸君は、今日の雑誌経営者が有力なる人の一言の要求によつて、俄かに編輯費全部を今までの倍額に例へば百を二百にですよ、激増すると信ぜられるか。僕の言はんとするのは又この点である。
 一人の人に沢山支払つたが為めに、他の一人或ひは九人の人間が、より尠く受けるかどうかはしばらく疑問としてみてもいい。一人の人が今までの倍額を支払はれるに対して、他の人々が今まで通りであるとしたならば(――これは雑誌経営者に対して出来る限りの好意を示した観察であるが、)この場合に於てでさへも、同じ職業の人々の間にその報酬に於て甚だしい上下の懸隔を生ずることは、それ自身として決していい現象ではない。況んやそれが芸術家の場合に於ては。
 一体、その他の仕事と雖もさうであるかも知れないが、就中芸術の事業の如きは、その仕事が本当になされる場合、手を抜くとか、誤魔化すとかいふやうなことの殆んど出来難いものであつて、若し強ひてそれが出来るとすれば、それは非常なる才能だけが咳唾珠を成すが如く、その得手勝手な活動が――手を抜くも誤魔化すもなく、あらゆる欠点がそのまま美を現出するやうな、奇蹟的な出来事の場合のみである。仕事する者が初心の人であり、忠実な人であり、世に現はれない人であればあるだけ、戦々兢々として一字一句にも汗血をしぼつてゐる筈である。その苦心と従つて費すところの時日とに於ては、一流の才能たると五流の才能たると何の差別ないばかりでなく、寧ろ才能の尠いことを自覚する人程、一層多く努力するのが事実である。さうして彼等の作品が、世に迎へられない為めに、苦心の作品が活字になるといふ機会も甚だ稀なことも亦事実である。さうしてそれが世に現はれる場合に与へられるところの報酬が甚だ尠いやうな場合には、彼等の才能或ひは運命のせゐがあるにしても、彼等は勢一ぱいの仕事にあまりに僅かしか受けられないことになる。清貧はをろか、彼等は恒に饑渇に脅かされるかも知れない。一人の名を成した作家の蔭には古来そのやうな沢山の作家がゐた。已むを得ないことではあり、また名を成すと成さざるとに拘らず、各々そこに芸術家の楽しみはあるに相違ないが、しばらく僕は諸君に訴へる。そのやうな作家とても亦、世の流行的作家とともに、ペンを執るとともにパンを喰はなければならないのである。つひに世に出る事が出来ないやうな作家に就いては、残念ながら僕はこれをどうしていいか知らない。しかしともかくも一たび世に出るやうになつた作家の、それほど世にときめかぬ人の場合を考へてみよう。
 流行的な作家がその断翰零墨でも世に悦ばれ、彼等が要求する場合には、どんな一行に対しても金を支払れるに対して、普通の或ひはそれ以下の名声をしか持たない作家の場合には、非常なる努力の作品のしかもそのうちの極めて僅かなるものが、極めて偶然の場合にしか、パンを得るもとでになることはない。それらの場合に於て、彼等の受けるところの稿料は、恐らく流行の作家の十分の一或は十五分の一にも足らぬらしい。仮りにこれらの作家が、半年に一度百枚の作品を金に代へることが出来るとする。彼等の一年の収入は恐らく一流の作家の半月分の仕事のそれにも及ばぬであらう。たとへそれが年少独身の書生であつても、恐らく下宿代にも足りないかも知れない。従つて彼等はその生活を十分に支へるために、心にもない文章を、時には自分の名を署することを恥ぢなければならぬやうな文章を書かなければならない。貧すればどんする譬へで、恒産を得ないがために僅少な利に就いて往々にして品位を忘れる者もある。心柄ではあるかも知れないけれど、僕は同業者がそのやうな状態であることを見るのを愉快なる現象とは思はない。
 仮りに僕は今日あらゆる作家の稿料が殆んど均等であるとしても、そこに少しも不合理がないやうな気がする。何となれば、有名な作家は作毎にこれを世に問ひ、これを金にする機会を持つてゐる。彼等は書きさへすれば、いや書くことを欲しない場合にでも、人々は書かせて金をくれる。これに反して、かの三月或ひは半年に一度ぐらゐ編集者が雑誌の顔触れを変へるぐらゐの色合ひに、僅かに原稿を買つて貰へるやうな作家が、たとへ今日の第一流の作家並みに支払はれても、その年収に於ては結局、決して多額なものではないであらう。たとへお互ひの稿料の上下などによつて作家が一流と三流と五流とを定めずとも、読者が作家に支払ふところの敬愛――無価の償ひによつて、人各々の才能は自ら酬いられてゐる筈である。――これはあまりに空想家の夢であるかも知れない。しかしすべての芸術家自身が仮りにさう考へるとしたならば、これは直ちに実現することも出来る夢なのである。さうしてこれを到底実現されない夢と思ふ人々があることに依つて、単にそれだけの理由に依つて、これは遂に実現されないのである。
 以上のやうに信じてゐる僕は、稿料などの点に於て、いやが上にも甚だしい懸隔が生じてそれを一向怪まないところの文学者自身を疑はざるを得ないのである。
 かへす/″\も言ふが、僕はこのとほり何時どこで文学者に清貧を要求したか。寧ろ僕は考へた、出来る限りの文学者をして恒産ある者たらしめ、また出来る限りの文学者をして恒心ある者たらしめよ。不当な収入は決して恒心を養ふものではなく、ただ俗輩をして野望を遂げさせ、庸人をして安逸を貪らせるにしか役立たない。

 僕は今日の文芸家の生活が、今日の、物質的謬見の極度なるものに陥つてゐる他の一般の社会と比較してみて、特に間違つてゐると言はうとするのではない。ただ、世俗の社会と全く同様の謬見に陥つてゐることを不本意に思ふのである。さうして、文学者の社会ぐらゐはせめて、このせちがらさから解放され、またこの貪慾から救はれたいと思ふだけである。さうして、その地位の如何などに拘らず、その受けてゐるところの報酬などは全く同じだなどといふ他の社会では到底理解されないかも知れないほどの一の制度が、芸術家の社会でぐらゐは了解されまた実行されてもよささうに思ふ。切に思ふ。それ故、他の社会に於て、より以上の不合理が平然と行はれてゐるではないかといふ論理は、僕の所論を寸毫も動かすものとはならない。
 僕は芸術家といふものを、自ら世俗とは別なものと感じてゐるのである。――それは狭少な芸術至上主義的な芸術家観を抱いてではない。芸術家なるものをもう少し、社会的存在として考へての上である。さうして吾々が普段は極く消極的なものと考へてゐる所謂文人墨客の物外に超然たりと称する生活でさへも、彼等の生活の対社会的なものの中には、甚だ大ざつぱで、また余りに独善的ではあつたけれども、それでも、今日、商業主義の社会状態を何の疑ひもなく受入れる――のみならず、更に進んでその前に拝跪して怪しまぬかの如き、今日の吾々一般芸術家の生活態度よりは、寧ろはるかに積極的なものであつたやうにさへ感ぜられる。西洋のことは知らないが、古来の東洋の文芸家が持つてゐた伝統の中にも我々が考へるべきこのやうな精神はあつた。僕はその消極的であつたものを更に一層積極的に生かして見たいものだと切願する。単にその作品の中に階級的意識を取り入れるといふ事だけが文芸家唯一の社会的覚醒でもあるまい。到底、一般の人々が思ひも及ばないやうな生活的様式を古来幾多の芸術家はその生活様式として生きて来てゐる。芸術家は社会的には、かういふ不思議な一階級であつた。その一階級が来るべき社会の法則の極く単純なものの雛型の一つを、先づ真先きに創始して見る事がどうして、不適当、不可能であり、不必要であらうか。

 雑誌経営者と文芸家との関係を見る時、僕は、今日一般の文芸家が如何にその特有の社会的地位を失つたかを感ぜずには居られない。彼等が第一流の文芸家を遇することは、なるほど必ずしも侮蔑的ではないかも知れぬ。しかしそれは文芸家各々の個性と精神とを尊重した上でさうなのかどうかは、確かに一考するだけの値ある問題である。しかも、僕の見るところを以てすれば、ただ第一流の文芸家が単に多数の読者を持つてゐて、彼等雑誌経営者の商品を売捌く上に於て甚だ好都合であるために、仮りにそれらの作家を尊敬するが如き外貌をとるまでの事であつて、この本心は要するに彼等自身が多く得られるところの利益を愛してゐるに過ぎないのである。即ち彼等に利益を与へるものでさへあるならば、それが文芸家であらうが、非文芸家であらうが彼等はさういふ事には一向お構ひないのである。これは彼等が不遇な芸術家を遇する態度を見る時に一目瞭然たることであつて、若し真に彼等が芸術家を愛し、それを保護するの精神から出てゐるのであつたとすれば、保護を要すべきものは第一流の作家ではなく、寧ろ沢山の無名にして有為な年少の芸術家達でなければならない。しかし雑誌経営者が無名有為の作家を遇するのを見ると、それは宛ら彼等が恩恵を与へてゐるやうな態度なのである。敬愛の態度などは殆んど見ることが出来ない。要するに彼等は利を愛してゐるのであつて、決して才を愛してゐるのでは無いのである。雑誌も亦、編輯者経営者が創造するところの人格的製作でなければならないと信じてゐるところの僕は、今日の雑誌なるものが全く商品化し切つてゐることを恒に痛嘆してゐる。しかしこれは一面已むを得ないことである。何となれば今日の雑誌経営者は単に商人だからである。商人に向つて、利を外にして人格的事業を強要することはもと/\間違つてゐるとは思ふ。それにしても今日の状態はあまりに目にあまるやうに僕には感じられる。就中、殆んど総ての婦人雑誌の如き、その著しいものである。さうしてこの種の雑誌が最も多く文芸家に支払ふといふ事実は、僕が今までにくど/\と述べてゐる事柄を最も有力に論証してゐるのである。才を愛するのでなくして利を愛し、実を愛してゐるのでなくして名を愛してゐるところの大多数の雑誌経営者はそれ故に、恒に、その内容の如何は問はずに、ただその広告によつて、読者を釣ることを唯一の彼等の事業と考へ、その弊害は、毎月出版するところの雑誌のために、甚だ大掛りの新聞広告を利用し、またその広告面にはまるで文体を成さないやうな文章を以て、恰も無智な人間を誘惑するが如き文句を連ねて、広告さへあれば内容は必要なきが如き、執筆者と読者を侮辱する態度をあからさまに物語つてゐた。
 内容よりも広告の方が重要であるといふが如き奇体なる現象――羊頭狗肉どころか、僕には、看板さへよければ酒は要らぬと言つたチエスタートンの痛烈な譏笑を憶ひ出させるのである。まことに酒さへよければ看板などは要らぬといふ諺は、いつかずつと昔に人間が考へた理窟だつたのだらう。さうして今日に於ては、その逆々に全くチエスタートンの言ふとほりだ。それにしても雑誌の内容よりも広告づらの方を編輯者が重んずるに至つては、どこに執筆者の面目があるのか。まさしく執筆者に対する最も重大な侮辱である。
 このやうな編輯者の態度は、無論その内容にまで及んでゐるので、彼等は読者の品位や社会の好尚を傷けるかどうかなどは、一切もうその念頭にはないので、だからして、その総ての頁を提げて心なきものゝ好奇心を捉へて、購買慾を唆ることを唯一の智恵と心得てゐるのである。一代の文明を代表し、一国の好尚を現はすところの、また国民の教養に資すべき筈のあらゆる雑誌が斯の如き状態にあるといふ事は、文明批評家の決してをろそかに考へるべき問題ではあるまい。さうして彼等も亦一個の文明批評家でなければならぬ文芸家が、斯の如き現象に就いては少しも考慮しないのみならず、最も驚くべき事には、文芸家の社会に於て重きを成すところの文芸家自身が、堂々と署名して編輯者としての名を冠した文芸雑誌の如きが、さかし気にこの風潮に乗ずるが如き奇観を呈するに至つて、遂に文芸家と商人とは何の選ぶところもないことになつてしまつた。文芸家の社会的権威の如きは今日どこに求めたらいいのであらう。斯の如き風潮に対抗することこそ文芸家の事業であつて、文芸家が団結して社会に訴ふべき事実は、只斯くの如く文芸家の社会が商業主義の泥足によつて蹂躙されてゐる事に対する抗議と対抗策とによつて、文芸家の精神を振起する以外にあり得ようとは思へない。この精神なしに行はれる一切の文芸家の運動は枝葉の問題で、仮に有害でないまでも、無益に終りさうな気がする。場合によつては甚だ有害な結果をも来しさうに思ふ。我が国にも近年、文芸家協会があり、その重要な創立者の一人である同会員の言葉によれば、この協会は甚だ実行力に富み、沢山の事業をしてゐるといふ事であるが、果して文芸家の名に相当した事業をしてゐるだらうかどうか。僕の聞き得た同協会の有力な事業だといふ著作法の不備の改正の企ては、恐らく法律家にとつての方がもつと適切な仕事であらう。また、同業者の遺族に弔慰金を贈ることは、文芸家でなくとも、どの職業の人間でもやることである。また何の団体的意志をも規約をも要しない事である。寧ろ個人の情操から出る方が本当であらう。さうして何の某の遺族にどれだけの弔慰金を贈つたといふことを一々数へ立てることは、ひよつとすると文芸家の情操には遠いかも知れぬ。僕は不幸にして我が国の文芸家協会とは、文芸家といふその解釈を異にしてゐるらしい。僕がそこの協会員ではなく又その存在に不満を抱く所以である。

 僕は文芸家協会がたとへその会員以外の人間の言説にでも、場合によつては耳を傾けて呉れるかも知れないと信じてゐたのであるが、這入らうと思へば這入れる人間が這入りもしないで文句を並べるのは不都合だ。といふやうな調子であるから、僕も何事も一切言はないことにしていいが、僕に言はすと、不満があればこそ入会せず、入会せねばこそ非難めいた事も言ふわけである。一たい僕はどの事業に限らずその中心になつてゐる人物を見ただけで、その事業の真意を知るには沢山で、それ以上別にその規約などは見ようとも思はないし、またその規約なるものが一般に発表されてもゐないのだから、それをわざわざ探廻つて読むだけの労力をも費さなかつたのだし、怪しからんと言はれゝば、さうですかと答へもするが、しかし僕は信ずる、事業の精神は規約個条書の文字面からなどでは解るまいかと思ふ。たとへば、如何なる泡沫会社欺偽会社でもその規約書や宣言書の筆頭には、恐らくきつと世を益し民を福するのを目的とするやうな事を書いてあるだらうと思ふ。さうしてきつと、吾々は斯の如き手段に依つて私腹を肥さうことを本会社の目的とするなどといふ宣言書はあるまいと思ふ。ただ、それが名実相協ふや否やを知らうと思へば、恒に事業の中心である人物がそれだけ価値ある人間かどうか、それだけの徳望を具へた人物かどうか、その任に堪えるかどうか、その事業の中心たるに相当するかどうか、それを確めただけで一切明瞭となりさうである。たとへば、これは会社ではないけれども、或る売薬商会が忠君愛国の宣言を新聞紙一面に広告しても、吾々は一向それを忠君愛国の宣伝だとは見ずに、売薬の広告としか思はないのである。それをきつと文字どほり忠君愛国の宣言と見なければならないのでは、遂に社会の真相を知ることは出来ない。規約や内規などを一々見なければ事業の真相がわからないなどといふのは、真に浅はかな理窟で、苟くも作家がかういふ理窟をしか考へ出せないやうな頭では迚も社会の表裏を窮めるだけの作品は書けないだらうと思ふ。僕はさういふ頭の一つで考へ出された所謂テーマ小説なるもののテーマには、全く閉口してゐる。――これは余談で、さういふ事を一々取上げて理窟をこね合ふのがこの文章の主旨ではないから、いい加減に打切つてしまふ(尤も必要だといふならば、僕が放言や漫罵をするのでないといふ証拠に、また改めてくど/\と論じてみることをも辞せないけれども。)
 閑話休題。文芸家協会の規約にも内規にも別にないさうではあるけれども、もし文芸家協会が小説家協会の後身であることが間違ひでないならば、曾て小説家協会はその発生の当時に於て、総ての雑誌編輯者に、協会員に向つては四円以上の稿料を支払ふべしといふ通牒を発した事実はあつたと思ふ。その後さういふ事はどうなつたかは知らないけれども、その協会の発生当時にはこれが殆んど唯一の具体的な運動であつたかとさへ思ふ。少くとも僕にはさう印象を与へてゐる。従つてその後身である文芸家協会も稿料の問題などをも取扱ふものと思つてゐる。取扱つても差支へないものと思つてゐる。
 それは確か五六年前であつたらうが、その時吾々作家の最高稿料もなるほど、それほど高いものではなかつた。だから、その時小説家協会がそのやうな要求を持つたからといつて、僕は決して不当とも思はなかつた。ただ、それを単に同協会会員だけに決つてしまふことに多少の疑ひを持つたけれども、しかし当時の色々な事情から考へて、相当な作家がいづれも一枚四円ぐらゐは要求しても過分とは思はなかつた。ただ茲で諸君の注意を要求したいのは、これがまだほんの五六年前の話であり、しかもその五六年の間に一般社会の諸物価は寧ろ、欧州戦乱の後の社会的安定とその上にまた大震災後の経済的打撃とによつて、ずつと低廉になつたかのやうな傾きがあるのに、当時最高せい/″\十円ぐらゐだつたと思へる稿料が、社会の諸物価と逆比例して今日では、既に述べたとほり当時の五倍六倍になつてゐるらしい。
 既にそれが生活の安定を保つために、あまりに尠なかつた時にはこれをより多く要求したほどなのだから、今日それが一般社会との均衡から見て甚だ過分であるとしたならば、尠なかつた時に多くを要求した同協会が、多過ぎる事に就いて考慮一番することに何の不可思議もなささうに僕には思へるのである。
 更に又、この文章の最初にも述べたとほり多過ぎるのは今日極めて少数の人々であり、その他の大多数の人々が甚だ尠な過ぎるとしたならば、同業者組合の精神からみて問題はもう一層複雑になるのである。つまり、文芸家の社会に於ても、文芸家らしい何の道理もない、物質的生存競争が益々熾んになつたといふものである。しかも同業者の団体がこれに就いて全く無関心なばかりではなく、寧ろこれを助長するかとも疑はれるが如き事実があり、さういふ事の結果が文芸家一般の生存を険悪にするばかりでなく、文芸家の職業を他の一般的商業と何の択ぶところもないものにし、従つて他の商人が文芸家を遇すること、また一個の商人に対するが如きであるのは、他の諸君はいざ知らず、僕に取つてはまさしく文芸家の一つの危期であるとも感ぜられる。
 文芸家の使命は恒に俗悪主義ブイリステイニズム[#ルビの「ブイリステイニズム」はママ]に対する反抗であり、今日、俗悪主義の大部分はそつくり化して商業主義となつてゐることを思へば、文芸家の使命は自ら明瞭な筈である。さう信ずるところの僕は、文芸の商業化を、文芸家の商人化を、敢て文芸の危期と呼ぶのである。

 僕は、今日総ての雑誌が内容よりも広告を重んずるが如き傾向のあることを、文芸家として甚だ不満に思つてゐることは既に述べた。
 また今日多数の操觚者の生活が必ずしも容易でないのに、極く少数の小説作者だけが、広く一般社会の他の職業生活者の努力とまた生活に必要なる諸物価との均衡から考察して、無法に高価であることをも述べた。
 また、同一職業の工賃の中にあまりに甚だしい懸隔を持つことはよくない事であり、就中、芸術家の場合には特に不合理なものであり、これをそれほど不合理と思はないところの人々は、既に芸術的活動なるものを商業主義の奴隷としてしまつて、これを怪しまず惜しまないところの俗悪人であることをも既に述べた。
 僕はこれら略々三つの見解から、一つの具体的な案を立てて見たのである。それは極めて簡単なことである。
 即ち、雑誌の内容を成すところの総ての操觚者の仕事に対して、総ての雑誌社は、今日その広告料として支払つてゐるものの何倍かをその編輯費に使用すべきことが、その第一の条件である。仮りに、如何に雑誌が商品であらうとも、売るべきものは結局その内容であつて、その広告ではないからである。主客を顛倒してはならないのである。これを総ての雑誌経営者に聞いて貰ふことは、決して僕が考へるところの文芸家の名を辱しめない要求であると信ずる。この要求によつて支払はれるところの編輯費を、今日の如く単に極く少数の小説作者のみがひとり要求するが如き事なく、寧ろ総ての作家は市民としての自覚を以て、社会的均衡を害はない即ち生活に必要なるだけの(今日は生活に必要なだけも支払はれてゐない職業も多々ある! が)ものを受け、即ち所謂最高額の稿料なるものを自ら決定し、さうして一方雑誌社は今日支払つてゐるよりも、より以上の編輯費を支出するのであるから、勢ひあらゆる種類の操觚者はたとへそれが最低のものでも、自ら多額になり、従つて稿料の懸隔も今日の如く甚だしきものにはならず、ともかくも稍々合理的なものにならうかと僕は考へるのである。ただ、僕の言ひたいのはこれだけなのである。さうして僕が希望するところのことは、僕一人では如何ともしがたい事柄ではあつても、団体的意志を以てすれば甚だ容易なことであり、また具体化するに、さほど面倒な方法とも思はないのである。即ち決して空論ではないつもりである。
 さういふことをしてみても或ひは五十歩百歩であらうといふかも知れない。しかしその五十歩と百歩とこそは、吾々人間生活の中で甚だ重要なものである。――緑雨の言ひ草ではないが、一口に五十歩百歩のみといふけれども、五十円百円と言へば人人は目の色を変へて騒ぐだらう。一笑。
 僕はこのやうに考へた。さうして僕自身が意味のない独善に安んじて得たりとするのでない限りは、たとへ僕自身の稿料を僕自身が制限してみても、それは一時の気やすめにはなるとしても、恐らく何の社会的意義をも持たないであらう。事実に於て僕は敢て言ふが、今日の作家の中でそれほど尠い稿料を受けてゐる自分だとは思はないにつけても、僕は恒にこの問題に就いて相当の、心落ちつかざる感じを抱いてゐる。さうして、僕は今までにも、僕の知る限りの雑誌経営者に向つては、広告料と編輯費との関係に就ては、相手の不興をも顧みず、敢てこれを述べることをもしたし、またそれらの関係上稿料が甚だ少いと思へる向には、時には稿料の値上をも要求しないではないけれども、その時には、僕は常に、単に僕一人ではなく、他のすべての人々にもより多く支払ふことの当然を説くことをも辞せなかつたつもりである。しかし、僕一人では結局どうすることも出来ないのである。
 これらの問題はいづれにせよ僕自身が自らを高潔としてゐるが為めに生れ出た考察ではない。誰かの言つた如く、僕は濁つてゐる世界にゐる癖に自らひとり清いやうな顔をしてゐるのではない。しかし濁つた世界にゐるものは、誰でもいつも濁つた世界に満足し讃美しなければならぬ理由がどこにあらう。時あつて自分の住む濁つた世界に気づき、その塵埃を掃き出し又その窓を開けることは、家の女中でも之をすることではないか。
 僕は、我が国に文芸家協会と名づけるものがありながら、その主要な一人物の口吻によつてこのやうな問題などは迚も受けつけて呉れさうもないのを残念に思つてゐる。残念至極に思つてゐる。

 諸君は無論僕の議論の主旨に反対する事も出来るだらう。しかしその時諸君は、今日の総ての雑誌が内容よりも広告を重んずることの、文芸家の立場から見て正当な会心な事や、今日少数の小説作者の報酬が一般社会の他の職業生活者のそれ及び日常生活に必要なる諸物質との均衡から考察して、一向不正当でも過分でもない事、また同じ操觚者仲間の報酬にピンからキリまで実に細かい階級と懸隔とのあることは甚だ愉快な好もしい現象である事、その他のさま/″\な事柄を、甚だ合理的で又正当であると論証し宣言するの必要が先づある事を念頭に置いておくのが順序である。その上で、諸君はいかやうにも僕の主旨に反対出来るだらう。





底本:「定本 佐藤春夫全集 第19巻」臨川書店
   1998(平成10)年7月10日初版発行
底本の親本:「文藝一夕話」改造社
   1928(昭和3)年7月20日発行
初出:「新潮 第二十三年第九号」新潮社
   1926(大正15)年9月1日発行
※「少ない」と「尠い」と「尠ない」、「人々」と「人人」、「編輯」と「編集」の混在は、底本通りです。
※片仮名の拗音・促音の大書きと小書きの混在は、底本通りです。
入力:友理
校正:持田和踏
2023年4月2日作成
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