何の国、何郡なり。
古来、魔所と伝える峠、或る晩そこで一人の若者が八ツ裂きにされて了った。峠を越えて夜毎隣村の娘に通うていた男である。
殺された男の友達思うに、今時魔物など住んでいる筈もない。これは言い伝えのある場所をよい事に、わざとかかる
女
再度の事に、怖れは絶頂に達して、今さらに古来の伝えを思い出すのであったが、中でも智慧のあるのは矢張り魔者なぞは信じられないので、天狗などというものはない筈だから、多分鷲かなんかでもあの大木に来て止るのであろうなどと取沙汰をしていた。
これを聴いたのが鉄砲左平次という老人です。鉄砲の名人で、
充分自信のあるらしい左平次は、何人も後に従う事を宥さぬので、それでも五六人の連中はついて行くつもりでいたが、矢張りその場所までは出かける勇気がなかったらしいのです。
いくら待っていても左平次は帰って来ませんから、みんなは八ツ裂になっている左平次を予想しながら出かけて見ると、左平次は果してそこに倒れていましたが、幸いにも
色々世話をして息を吹き返した左平次の言う所では、前夜、左平次は大木の根元へ来て待ち伏せていると、月明りの中に、大木の数々の枝に遮ぎられて何者とも分らぬものが、梢から段々下へ降りて来る気配を感じ息を殺して待っていると、或る所まで来て動かなくなって了った。
枝々の隙間から
左平次はそれを聴きながら恐怖の余り気が遠くなり、人々に見つけ出されるまでは死んだも同然であったという。
口の重い左平次は、どんなものを見たか、見なかったか、それも
そればかりか、左平次はその夜以後、怖ろしい、怖ろしいと言い続けて、気病みのような状態になって了った。
みんなが心配をして、左平次を或る温泉にやる事にしたのです。一晩山の夜露に濡れていたから身体に障ったのだろうという医者の見立ての通りであったのか、温泉は大変ききめがあって、左平次は一日一日と恢復して来ました。
そうして、今は気も
さすが、一人になってみると左平次は、話相手もなく朝から退屈をしていて、
そこで、もう一風呂浴びて来ようというので、お湯のあるところへ出かけて行ったのです。温泉宿といっても、孰れは山の中の小屋、浴室というのも自然の泉へ家根と囲をしてある程度のもので、湯殿は母屋から少し離れた所にありました。
馬の
一同顔を見合せて暫く血の気を喪ったが、時を経て湯の方へ行って見ると、別段建物に変ったような事もなく、ただひっそりとした湯の側に左平次はぶっ倒れているのです。人々が介抱すると、左平次は気違の如く、
『怖ろしい、もういい加減宥してくれ』
とわめき立てるばかりです。漸くの事で気が鎮ったらしい左平次の語るところは、次の如くである。
彼が湯に這入っていると、同じく一人の浴客があった。
今着いたばかりとも思える見も知らぬ坊主、片腕は傷を捲いたらしく繃帯してあった。
左平次は湯治客同志の挨拶として、向うが問うままに、自分の病気の容態を言い、礼儀として先方の事を訊くと、坊主は答えた。
『鉄砲傷ですわい――鉄砲左平次という者に打たれましたわい』
言いも終らぬうちに、坊主は朦々たる湯気の中に雲つくばかりの大坊主になり、
一たん癒りかかっていた左平次は、この夜から日増しに悪くなり、間もなく死んで了ったと言う事です。
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これは、僕の創作ではない。僕の地方の温泉のある所で、民話のように伝っているものの梗概である。
淋しい山の湯で、夜おそくなった時などに思い出すと、少しは怪談らしい値打も出て来るかと思う。一種の詩美は認めてもよかろう。
あんまりロマンチックな話をしたから、此度は反対に頗るリアリスチックな話をしましょう。
これには、詩美というものが少しもないその代りに、迫真力はなかなかある。この二つの話のうち、読者諸君は
こういう風に違った見本をそろえてお目にかけるのが、在庫品豊富、商売上手と申すものです。
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僕の友人の一人。その人が以前信州の諏訪の紡績工場で事務員をしていた事があった。都会で失職していたのだ。新らしく職業にありつき、気候は秋になり、周囲の空気はよし、健康が増進するとともに大いに食慾を加え、
困った習慣になったと思いながら、毎晩
重ね重ね甚だ
それで、何時も排泄して了うと注意深く用心をする。そうして、水っぽい中へ落ちてゆく固りの音を聴くのであった。
一たい寄宿舎の便所だから、普通のものに比べて溜めは出来るだけ深く、大きくしてある。そうしなければ、直ぐに充溢して了うわけである。
深いだけに、上からの距離も遠くって重力の関係でなかなか大きな水音がする。
この晩も毎晩の如く逞し気なものを排泄して、さて注意をしてみたが不思議と何の物音もしない。まるで無限の深い所に転がり入って了ったかのように、自分の落したものの反響を聞かないのであった。
不思議に思って、ちょうど喫い終った莨を中へ放りこむと、一瞬間薄明るくなって水の中で消える音が聞えた。
してみると、矢張り水が溜っているのである。それに、火が消えて了うまでの薄明りの中で、見慣れぬ変なものが底から見えたような気がする。
さてそれが何であったかを慥かめる間はなかった。そこで
彼の見たものは綺麗に結ばれた女の髷なのだ。どうもそういうものにしか見えないのだ。でもそんな所に、芝居の楽屋ではあるまいし、髷が棄ててある筈はない。
彼は気味が悪くなった。大急ぎで立ち上ったが、その瞬間彼は襟首をズッと撫でられたような気がしたから、反射的に振り返ると今度は正しく彼の顔を撫でるものがあった。
思わず、アと叫ぶと扉を排して駈け出した。彼には何が何だか分らなかった。部屋へ帰って、彼はやっと多少の落付を得たが、彼は狐狸の類にだまされたと考える程単純ではなかった。
でも自分の見たと思うものも、自分の首と頬を触れた感じもこれはどうしても疑えない。彼は同僚をゆり起こした。
彼が先刻見た通りのものは、幻覚でも何でもなかった。これこそこの上なしの現実であった。若い女工が縊死して、その縄は切れたのだ。彼女は床のまたぎの間から落ち込み、身体は深い糞溜めの中にすっぽりと埋められて了っていて、僅かに見えていたその桃割れの髷の上に、気の毒にも排泄物が乗っかっていた。
彼の言葉を聞くといきなり懐中電燈をとり上げた同僚は、もう数年もその職にいた。そうして、彼の話を聞くと、女工生活をよく知っている同僚は、怪異と受けとるよりも早く現実としての事実を見抜いていたのだ。莫迦な彼は、懐中電燈でまのあたりに映し出されて見るまでは、おばけに出会ったように怖ろしかったのだ。