私の父が狸と格闘をした話

佐藤春夫




 これは本当の話なのだが、あまり奇体な話なので、人が本当にしてくれるか知ら。何にせよ、本当の話なのだ。これが本当の話だということは私の故郷(紀州新宮)の人たちがよく知っている。
 それは、私がとおぐらいのころのことだから、今から二十年も昔のことである。――その頃では未だ、今では人が見向きもしない自転車というものが、今の自動車ぐらいに珍重されていた。殊に大都会からかけ離れている私の故郷の地方などでは、余程めずらしいものの一つであった。皆は二輪車と言っていた。その自転車へ、その地方で一番早く乗った人は私の父であった。一たいが私の父という人は趣味の多い人で、面白いものや、美しいものや、珍らしいものや、古風なものや、或は極く新奇なものなどの好きな人で――この気質は私にも伝っているが――それ故、未だ誰も乗っていない自転車へ乗るのが面白かったのだろうと思う。それにただうれしく面白いというばかりではなく、実際の用事もないのではなかった。私の父は医者なのだが、山坂が多くって便利な交通の機関のない私の故郷などでは、医者のような遠くへ早く行く必要の多い人にとっては、自転車は重宝なものであったのに相違ない。それで、私の父はうちに人力車もあったけれども、天気のいい日や非常にいそぐ時などにはよく自転車へ乗った。
 初めのうちは人が大へん珍らしがった。――父が或るところを自転車で走っていたら「あれ、あれ、あれ」と大きな声でびっくりして呼ぶ者がある。ちらと見ると、道の片わきに低い石垣があってその向うに、お爺さんとお婆さんとが日向ぼっこをしていたそうだが、このお爺さんとお婆さんとは自転車へ乗っている私の父の腰から下が石垣で見えないで……それに自転車というものも見たことがなかったので、飛ぶように行き過ぎる人間を見て天狗でも見つけたようにびっくりしたのだろう。私の父はそう話をしたこともある。それからこれは、紀州新宮でのことではなく、北海道の十勝川の沿岸にある私の父の農場に近い村でのことであるが、そこでも自転車が、そのころ大へん珍らしかったそうである。その農場の用事で私の父がそこへ行った時にもやはり自転車を持って行った。広い野原の道を、私の父が自転車で行くと向うの方から学校がえりの村の子供たちが来た。驚いて自転車の上の父を立ちどまって見て居たが、通りすぎると後からついて来ながら、子供の一人は、
「これや、天皇陛下さまじゃろうか」
 と、言ったそうである。この無邪気な驚きの言葉は、今、私のうちで流行言葉はやりことばになっている。
 さて、私の父が自転車へ乗りだしてから、私の故郷の地方でもだんだんと父の真似をして自転車へ乗る人がふえて来た。そうしてその人たちは、時々には道ばたで遊んでいる子供たちを怪我させたりしたと見える。ある時、私の父が遠乗りをして海岸の漁師村を通りすぎようとすると、道で遊んでいた子供がびっくりした声で、
「お母さん、また二輪車が来たよう!」
 と、慌てて母を呼んだ。
「黒いのか」
 と、その子供の母が問うた。
「赤いのじゃ」
「赤いのなら危うない」
 と、お母さんは答えたそうだ。私の父のその頃の自転車は小豆色に塗ってあった。そうして外の人たちのは大てい黒いのであった。黒い自転車がよく子供に怪我をさせたものと見える。私の父は時々その村を通ったがまだ一度も子供をひいたことがなかったので、そのお母さんは「赤いのなら危うない」と答えたのであろう。私の父はふるくから乗っていただけに外の人より上手であったのだろう。それでも、一ぺん、その小豆色の自転車をひどいことにして帰って来たことがあったのを私は覚えている。しかも夜中にである。前の輪を二つにへし折って仕舞って、もう乗れなくして、自分は人力車で帰って来た。何でもやはり用事があって遠乗りをして、その帰りがおそくなった。ランプの用意がなかったけれど、あまりいい月夜だったので乗って来たのだそうだ。すると或る小さな板橋のところへ来て自転車の前の輪が板と板との隙間へ這入って仕舞った。うろたえてハンドルをこぜた機みに輪が折れたのだそうな。板と板との隙間を、それが黒くなっているのは知っていたがついうっかり月の光で橋の手すりの影がうつっているものと思い込んでいたのだと言うことであった。それでも私の父には怪我はなかった。
 ところが、或る朝、私が学校へ行って見ると――前にもいうとおりもう二十二三年も前のことで、私がまだ八つぐらいだったから小学校の二年生ぐらいの時である。冬であった。私はその朝、滝のある山の近所に住んでいる子供から垂氷つららを折って来てもらう約束があったので、いつもより早く起きて早く学校へ出かけた。そうして運動場の石垣へよりかかって日向ぼっこをしていた。すると一人の私より二つほど年上の子供が私のそばへ寄って来た。その子は登坂とさかという――私の家のすぐ上の切通しになっている坂道のところに住んでいる子供であったが、それが私に言うのだ――
「お前のうちのお父さんは今日は寝ていたろう?」
「うむ」と私は答えた。
「どうだ? 仰山に怪我をしたか」
「え? 怪我? 誰が?」
「お前のお父さんがさ!」
「え! お父さんが?」
「うむ。お前まだ知らんのじゃな。お前のお父さんは怪我したんじゃぜ。お前のお父さんは昨夜狸と取組んだのじゃ――おれのうちのお父さんが、それを見たんじゃ。昨夜夜中にたいへん外が騒々しいのじゃと。そこでお父さんが――おれのうちのお父さんが、何じゃろうと思って戸を明けて見たんじゃと。そうしたら、昨夜は良い月夜じゃったんで何もかもよく見えたそうなが、お前のうちのお父さんが狸と一生懸命に取組んでいるんじゃと。うん。登坂の坂の上じゃ。おれのうちのつい前じゃ、二輪車も何も道ばたへ放り出してね。そうして狸と取組んでいるんじゃと、お前のとこのお父さんは強いんじゃなあ。おれのうちのお父さんがそう言うたぞ。おれのうちのお父さんはそれを見てびっくりしてね、助けに行こうと思うているとお前ところのお父さんが強いんで、狸がもうかなわぬと思うて山の中へ逃げ込んで行ったと。――それでも、お前ところのお父さんも怪我をしたのじゃ。狸に喰附かれたんじゃろう。血みどろになって、二輪車へも乗らずに、二輪車を引いて坂を下りて行ったんじゃと。おれのうちのお父さんは皆見て居たんじゃぜ。……」
 私は――子供の私は、息もつかずにこの怖ろしい心配な話を聞いていた。私のお父さんがどこを一たい狸に噛まれたのだろうと思った。それにしても本当にあそこに狸が出て私のお父さんが狸と取組んだりしたろうかと少し疑わないでもない。しかし本当に見たと言うのなら本当に相違ない。それにしてもお父さんはどうしているだろう。嘸、いたいだろう……そんなことを、私は何度も何度も心のなかで考えて、その日半日心配でならなかった。一度うちへ帰ってお父さんを見て来ようかとも考えた。けれども、朝、私が学校へ出て来る時に私のうちで、父は未だ起きてはいなかったようだったけれども、皆別だんふだんと変った顔はしていなかった。もしや、何でもないのに家へかえったら皆に笑われたり、叱られたりする。そんなことを私はさんざん苦にした。私はそのころから物ごとが苦になって仕方がない性分であった。私がそんなに苦にやんでいるにもかかわらず、私にその話をした登坂の子供は、さも面白い事のように、
「佐藤のお父さんは、昨夜、狸と取組んだ。――おれのうちのお父さんがそれを見たんじゃ」
 と、そう言い振らしている。外の子供たちは、「本当か、本当か」と私にそれを聞きただしに来た。私は何となく腹立しいような恥かしいような気がしてならなかった。
 それから私はひるの時間にうちへ帰ると早々、父の部屋へ行って見た。父はからだのどこかへ繃帯を一杯巻いているに相違ない――とそう思いながら。ところが父の部屋には父は居なかった。それで、私はいくらか安心しながら、
「お父さんは?」
 と、そう女中の一人に尋ねた。
「きっと診察室の所でしょう」
 と、その女中が答えた。それで私は診察室の方へ行って見た。そこにも私の父は居なかった。
「お父さんは?」
 と、そう私は薬局生に尋ねた。
「お父さんは今、病家へ行きましたよ」
 と、薬局生が何か仏頂面をしてそう答えた。私にはろくに注意もしてくれない。その何となく無愛想な様子と、お昼御飯の時刻だのに父が家のどこにも居ないということが私には妙に不安心であった。私はそれを気にもしながら御飯をたべたが、御飯の時にも、私の気のせいか皆いつものように打とけていないような気がする――何か子供等にかくしているような気がしてならない。そうかと言って私は、気軽るに狸の話を持ち出してはいけないように感ぜられる。とうとう私は智恵を絞って、
「お父さんは昨夜夜中にどこか病家へ行った?」
 こう、母にたずねて見た。
「いいえ、どこへも行かん、よ。」
 母は事もなげにそう答えて御飯をたべている。「何うして」と聞いてくれないから私はそのまま何も言わない。しかし、狸の話はいずれ嘘だろうと思った。それで気が軽くなって昼からはいくらか何時ものような心持にはなった。それでも時々、狸のことがふと思い出されると苦になった。
 夕方の御飯の時には、怪我も何もしていない父が私たち兄弟や母と一緒に食事をしていた。誰も狸の話は知らないらしい。又、知っている筈もない。私は狸の事を言おうかどうしようかと迷うた。私はへんに内気な子で父の前ではろくに口が利けなかった。それで狸の話はしない事にしようと考えた。と、その時に父が不意に言い出した。――「ねえ、妙なことがあるよ。私が昨夜大怪我をしたと言うのさ。いや、今日、熊の地(町の名前)へ行くと、その病家で不思議そうに私を見て、『今日はお見舞には来て下さるまい。と言っていたところだ』と言うのだ。『どうして』と私がたずねると、何でも私が昨夜登坂の坂の上で大怪我をした。自転車へも乗れずに血だらけになって坂を下りて行った――その後姿を、その病家の近所の者が見た。そう、今朝話を聞いた――あそこは急な坂だから大きな怪我でなければいいが、と今もそう噂をしていたところだ。そうその家で言うたよ。」
「へえ? 何の間違でまた、そんな事を」と母は驚いている。母よりももっと驚いてた者は私であった。
「お父さん、然うなのじゃ。お父さんは狸と取組んだと言うのじゃ。私もその話を今朝学校で聞いた。」――父の前へ出ると、まるで無口な私も、あまりの不思議なことに思わずこう話し出した、学校で聞いたとおりに話をした。「それこそ、まるで狸にだまされたような話だ」そう言って皆はいよいよ不思議な顔をした。
 その翌日、私は学校へ行って、「私の父は狸と取組みはしない。どこも狸に噛まれやしない。怪我も何もない」と皆に言った。
「それでも」とあの登坂に住んでいる子供は言い張った「それでも、おれのうちのお父さんは取組んでいるところを見たんじゃもの!」そう言い張って承知しなかった。
 そうしてこの子のお父さんがそれを見たばかりでなく、熊の地の病家の隣りの人も見たのだ。二人も見たのだ!
 ――私はこの話を思い出していつも馬鹿々々しくて然も不思議で仕方がない。今もこれを書きながら、とおの子供の時に感じたとおりに不思議にへんなことに思えてならない。考えれば考えるほどへんである。私自身がそうなのだから、人はとても本当にはしまいかと思う。けれどもこれは本当のことばかりだ。私の故郷の人たちのなかにはきっと今でも覚えている人があるに相違ない。そのころ名高い話として評判されたことなのだから。――尤も、私の父はもう忘れて居た。それも無理はない。私の父はこの噂の主人役でありながら、実際では毛一筋ほども関係のない出来事だ。父はその不思議な格闘の最中にいつものように平静に眠っていたのだから。





底本:「たそがれの人間 佐藤春夫怪異小品集」平凡社ライブラリー、平凡社
   2015(平成27)年7月10日初版第1刷
底本の親本:「定本 佐藤春夫全集 第4巻」臨川書店
   1998(平成10)年5月10日初版発行
初出:「婦人公論 第六年第九号」
   1921(大正10)年8月1日発行
入力:持田和踏
校正:noriko saito
2025年12月23日作成
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