幽明

――この小篇を島田謹二氏にささぐ――

佐藤春夫




(1)


 先年、幼児がどこかでうつされて来た急性トラコーマが一家中にひろまって、それは当時、友人F博士の治療ですっかり治っているはずなのに、時折は何かの拍子で眼が渋いような感じがしたり、へんに涙っぽいような場合があって、再発ではないかと神経を病ませる。この間もちょっと、そんな事があったから先年もっともひどい目にあった八歳になる初雄も同じようなことを云い出したので、自分のは、さしたることも無いと思ったが、初雄のが案じられた。折から子供の学校は紀念日で休みになったうえ、春寒もややゆるんだのを幸と、散歩かたがた初雄をいっしょに誘い出して、念のため見て置いてもらおうと出かけたのは、亡弟の学友で、その学校時代から自分も親しくしていた眼科専門のF博士の医院である。
 なるべく午前中の診察時間に間に合うようと車をいそがせたが、やっとぎりぎりで、いつも繁盛しているこの医院も、もう盛り時は過ぎていたから、玄関の突き当りの待合室に、年輩の婦人が、ひとりぽつねんとガーゼのようなハンケチを眼に押しあてているのが見えるだけであった。
 自分の声を聞きつけて、診察室から飛び出して出迎えてくれたF君は、
「おや、初雄君も一しょで、またどうかなさいましたか」
「いや少しへんなので、念のため一度ご覧になって置いていただこうと思いましてね」
「時々お目にかかれるのはいいが、また痛い思いをおさせするのはいやですからな」
 と云いながら旧友は、我々を待合室の方へ請じ入れると、先客の老夫人は自分を先生の知友と看て取ったせいか、眼にあてていた布をちょっとはずして一目我々の方を見やってから、しずかに立ち、軽い一礼で我々に会釈して、先ず長椅子の片脇ににじり寄り、それから脱ぎすてたのをたたんで小脇に置いてあったカーキ色の軍服地みたいな厚いコートを取り上げて膝の上に置きなおして、我々のための座席を設けて、
「お坊ちゃま、さあどうぞ」
 と云ったきり、我々がそのとなりに腰をおろした時には、ふたたび布を眼に押しあてて、すすり泣きしているかのように思えた。目もとは布につつまれてよくは判らないが、色白で鼻すじのとおった美しい輪郭の横顔で、やや派手すぎるかと見える亀甲の少しくたびれた大島紬の対を着ている肩は、まだ年のせいというほどでもあるまいに、すっかり肉が落ちて見る目にも気の毒にさびしい。と見ていると、やおら立って、一礼するや、
「失礼いたしました、ご免あそばせ」
 と云い残して出て行った。老夫人が玄関の扉をあけるのを、F君はあとから、
「では、おだいじに」
 と見送っている。
 ただの患者ではなくF君の知人ででもあろうか。すべてのもの腰がこの場末の医院の待合室で見慣れている人々とはおのずからちがった人品に見えるうしろ姿の残象アフタアイメージを見送っているところを、F君は、
「では拝見いたしましょうか」
 と診察の座へ自分たちを促し迎えるのであった。
 先ず初雄さんをというのを、初雄が尻ごみするので自分が見てもらうと、はじめは大ぶん赤くなっていますなと不安がられた眼も、つぶさに診察の結果は何でもなく、ほんの沙埃が入ったのを、あまり気にしてこすり立てたために起した現象ででもあろうというので、ふたりとも洗眼と点薬だけですんで、初雄ももう薬が眼にしみないのをよろこんでいる。「これからおいおいと温くなって」とF君は手を洗いながら云うのであった。
「風の多い日がつづくと誰しもそんな事がよく起ります。再発しやすい季節ですが、もう完全になおっていますから大丈夫です、あまり神経質におなりにならないがよろしい。坊やの方はやっぱり傷痕がのこっちゃったですね。あれはあのままいつまでも消えますまい。学校で体格検査のある毎に、『君はトラコーマをやったね』と云われなければならないよ、初雄君は」
 F君は手拭でふいていた片手を子供の頭にのせて軽くゆすぶりながら、そう云っていたが、やがてタオルを捨てて診察室から、すぐ奥につづく住宅の方へ入って行きながらふりかえって、
「坊や、わざわざ遠いところへ来てくれたのだから、またお茶とカステラを上げよう。いらっしゃい」
 こう呼ばれて、初雄は大叔父の顔をうかがいながら、どうしたものかと相談がおにためらっているのを、F君は今度は直接自分に、
「先生、どうぞ。ちょうどお目にかけるにいいようなものが床の間に出て居りますから、是非」
 と如才なく誘い込まれた。食堂を通り抜けて、奥の座敷兼主人の書斎に通って来てみると、食堂に用意されてあったお茶とお菓子とは手早くF夫人によって座敷に運ばれて来た。F君は座ぶとんをすすめながら床の間を指さして、
「季節はずれですが、昨晩ふと思い出してかけて見たのです。もとはお寺か廟にでもあった対聯の片破れでしょう。満洲で親しくしていた満人がこれを秘蔵していましてね。引揚の時毛皮が持ち出せないので家内のも自分のもそっくり、一時預けて置くつもりでその満人に頼むと、こちらは、また機会を見つけて後日持ち出しに来る気でいたのを、先方ではその事を知っていたのか知らないでか、先方からこの一幅を餞別にと云って贈られて、云わばあっさりと毛皮類一式と交換のようなことにされてしまいました。なかなか機敏な手口ですね。ものはいいものでしょうが、何しろ出処が廟かお寺かとあっては満洲では堂々と持っているには都合がよくないところへ、毛皮ほどにはおいそれと現ナマにはなりにくいのですからね」
 と云う曰くつきの品は、床の間の倚樹聴流泉きによってりゅうせんをきくという心にくい五文字で、それが雄偉魁麗ともいうべき隷書で彫り込んだように力勁く見事に書かれているのであった。
(F君はもと南満医学堂で眼科の教授をしていた引揚者なのである)
 手もち無沙汰にじっとお菓子を見つめていた初雄に、
「さあ、いただきなさい」
 というと子供はよろこんでカステラを小さなフォクでいろいろに切り割いて食べてはお茶をすすっている。その間に話題が自然とそこに向いて、さっき待合室で見かけた老夫人に就いてF君の語り出したおおよそ次のような話に自分はしばらく耳を傾けていた――

(2)


 ……いや、あれは、全く見ず知らずの人で、最初ひょっくり舞い込んだ時から妙な患者でした。
 初診の時は、どうしても涙がとまらないのだから、どうか泣きやませてもらいたい。いつまでもこれでは「朝顔日記」の深雪のように眼を泣きつぶしてしまいます。もう一月あまりも泣きつづけていますと訴えるので。なるほど眼瞼はすっかりただれて眼やにも多く出ていたから、ともかくもその方の手当をすまして。
 それから、「朝顔日記」の作者は医学に無智なために、あんな事も書けたもので、文学としてはあれでもよいのかも知りませんが医学では学理上絶対にただ泣いたという事だけのためには、いくら多く泣いたとしても失明するという事はありません。
 もしそういう例が事実に挙げられるとしたら、頻々と泣いている間に、眼にあてた手や眼を拭っていた布のよごれなどについた、いろいろの菌、たとえばモーランアッセンフェルトとかコッホウイークスやインフルエンザ菌などが入って眼疾の誘因となって、そのための自然的な治療作用として涙がそれらの菌を流し出そうと、とめどなく流れ出している間に眼疾がどんどんと進行して、黒目に星のようなものができ、そこから穴があいて眼がつぶれるような場合は無いでもありますまいが、これは泣いたためではなく明かに眼病のための失明です。それからもう一つ考えられる事は、何か精神的に欠陥のある人、精神薄弱者(たとえば先天性梅毒の潜伏しているようなです)が、普通健全な人ならば涙を押えることのできるような場合にも、その能力に欠けていていつまでも泣きつづけている。そのうちに精神の欠陥になっていた病源の方が、眼とは関聯なく症状を進めて行って眼を冒したため、泣いた涙のために失明したような形になるような場合も想像されないではありませんが」
 などと、相手の思いつめた態度にそそのかされて、つい、そんな無用な説明にまで深入りした時、その患者、(つまりさっきのあの老夫人です)が急に容を正して、
「では、わたくしの場合は普通健全な人ならば涙を押えるような種類のものでございましょうか。」
 と、その時までとは打って変って思いがけない威厳をそなえた態度でそう詰り寄りながら、さて、問わず語りに、そんなに涙がとめどなく流れはじめた時の事をかたり出したものでした。

(3)


 この老夫人は、普通、あるじとか主人とかいう場合をいつも閣下と云って、家では出入の方たちの言葉がうつって、あるじをついこんな風に呼び慣わしてしまって、くせになって居りますので、お聞き苦しく失礼とは存じて居りますが、こんな呼び方でご免を蒙ります。とその最初の機会にこうことわりを云って居りました。
 この人の主人と云うのは、日露戦争のころは勇名をうたわれた大隊長のひとりで、名を云えばおぼえている人もあるかと思うが、おぼえのある人は同時にきっと、そんな人がまだ生きていたのかと思うに違いない。
 閣下は軍人仲間のいわゆる精神家という純粋の軍人肌で、その後順調に出世をしながら、乃木将軍を崇拝して政界の野心などがないために、きれいに忘れられてしまったのであろうか。ここでは必要もなし、患者の身の上ばなしは云わば医者の職業の秘密として名は伏せて置きますが、その屋敷は目白台の奥の哲学堂の附近と云えば、すぐこの上あたりの(とF君は背後を指しながら)もとはむかしながらの武蔵野の一隅に隠棲している様子です。
 閣下はとうに停年で退役になっていたから、今度の戦争には勿論なんの関係もなかったが、ただ、三人の男子の太郎はビルマ戦線で戦死し、次郎はフィリッピンの山中に部隊を率いたまま迷い入って今だに部隊全員とともに生死不明のまま、というのはいずれ死んだのであろう。ただひとり末子の三郎だけが陸軍幼年学校在学中に終戦で生き残っていたのが、某私立大学に転学して、きのうとは打って変った学生生活に入っていた。何をアルバイトしていたかは知らないが(話の様子では学友の家の会社のセールスマンか何かであったらしい)ほとんど毎日、夜ふけにならなければ帰らない。帰る時にはいつも酔っぱらっている。ダンス場にも出入すると見えて、学校のガールフレンドとか称するのが訪ねて来たのを見たら、どうもダンサアか何かのような様子であった。(尤もこの時代の若い女子は誰も彼もみな一様にダンサアと区別のつかない風俗をしている)そのうちに友だちと金を出し合って月賦で買ったというピアノの置き場を家にきめたとピアノを一台持ち込んで来た。どうせ用もなくなった応接間の片隅だから何を持ち込もうと差支えはなかったが、その後は家に居る間中、夜ふけでも何でも三郎はピアノばかりをたたきつづけていた。近所は野原から焼野原につづき夜ふけでも別に隣家の抗議も出なかったが、問題は隣家よりも内部で、軍隊ではラッパの外に軍楽隊など何の必要があるかと云っていた老将軍にとって息子が勉学の時間を割いたピアノの騒々しさはがまんのならないものであった。
 ピアノだけではなく息子のこのごろの生活は頭から尻尾までことごとくにがにがしい様子に、夫人は母親の身として、子をかばい夫の心をやわらげようと、あれがこのごろ世間一般の青年の気風で何もうちの三郎ばかりというわけではないのだからと云うと、閣下はそれだから云うのだよ、とはげしいふきげんな表情を稲妻のように閃かした。(これは外の人にはたいがい見えないで、わたくしにだけはよくわかるものです)どいつもこいつも、敵ながら天晴れな一見尤もらしい謀略にまんまとひっかかって、国を挙げて、さも楽しげに亡国の一路を辿っているのを気がつかないのかと慨歎した。言葉はいつもおだやかな人があれだけの口ぶりなのだから、よくよく気が昂ぶって腹の底は煮えかえって憤死でもせんばかりの気持かと思えた。
 常に三郎のアルバイトに同情していたから、おそるおそる、酒もダンスもアルバイトの憂さ晴しでしょう。音楽はいい趣味なのだから、そう何から何まで口やかましく申せませんからと云うのを、お前がそう一々おれに反抗して子を甘えかすからと、かん癖の強い老将軍は最後に三郎を呼びつけて、青年が人生を享楽しようとするのをとやかくいう気はないが、男子がちかごろのきさまのように柔弱に流れるのをおれは黙っては見て居れない。同じく近ごろのはやりでもせめては豪快な山登りでも楽しむことか、ダンスの音楽のとは以ての外という老将軍は息子の目にも全くのもうろくおやじのよまい言と聞えて、腹立しいよりはむしろ気の毒になさけなく思えたのかも知れない。三郎は根がすなおな子であったから、山登りがおやじの気に入っているならば、山登りも悪くはない。一つその仲間にでも入って見ようと思い立ったのではなかったろうか。

(4)


 その日、学校の仲間と富士山へ登ると云い出した時、閣下は勿論大の満足、わたくしが山登りは危険と云ったのを、三郎に富士山なら女でも老人でも登るのですと云われてそんな気になり、安心して送り出したのちも、その日小春日和のぽかぽかあたたかいのを山ではよい天気と思ったのも、ものを知らぬなさけ無さというものであった。その生あたたかさがわざをして山では新雪が残雪のようななだれになった。と降って湧いたような事を電話で聞かされて、お前の家のも出かけて遭難した模様だぞと、連絡したのは、学校の山岳部でした。
 さあ大変なことになったとうろたえているのを見かねたのが、爺やでした。自分で爺やというからそうは呼ぶものの、勿体ない、これももとは閣下の所謂「陛下の軍人」のひとりで、以前、閣下の副官を長くしていてくれた事もある中佐ですが、戦後、横浜の荷揚人足になりさがって、その労働は厭わないが仲間つき合いの暴飲からのがれる静かな宿舎を求めてとたずねて来た。その住宅は焼かれて家庭は離散し、上の息子たちはそれぞれに細々と自活しているが細君は小さな子どもたちをつれて実家に農を助けている。自分だけ、むかしのなじみ甲斐に爺やにでも使ってほしいという。場末の一軒家で幸に戦災は免れたが、ご覧のとおりだだっ広いだけで、部屋の四隅はどこも蜘蛛の巣だらけ、天井は一面に雨漏りのしみだけれど、どこでも使えるところにお住みくださいというのを、馬屋のなかでもと母屋の方は見むきもせずに、そのまままぐさ小屋に居ついて、云いつけもしない庭の手入れやら菜園作りなどして我と爺やを以て任じているNさんが速座に自らすすんで遭難の現場へ駆けつけてくれた。信州生れで多少は山の心得もあるというので頼んだのである。
 Nさんは山上で一泊して翌日の日の暮れに帰って来たが、遭難現場の一かたまりの死屍の中には三郎の遺品らしいのも見当らず、何しろ稀に見る大きな雪崩で山腹の広い部分に跨り及んでいるから死体の発掘もとても一朝一夕の事ではできそうにはない。いろいろな学校の山岳部からもそれぞれに仲間をたずね求めて来ている間でただまごまごして来ただけのこと。何の手がかりも新らしい所見もなく遭難行方不明という最初の学校からの通告をただ空しくたしかめた外は何のお役にも立たずにおめおめと帰ったのは申しわけも無いとNさんは面目なげにしおれかえっているのであった。

(5)


 Nさんが現場から帰った次の日の午後三時ごろであった。ポス(というのは三郎が泥んこの見すぼらしいのをどこからか連れて来た番犬です)がやかましく吠え立てると思ったら、裏口に見知らぬ男が、表札をたしかめて立っていたのが、ピアノの調律に来た者だと入って来た。そう云われてみると、三郎が山に出かける前に、留守の間にゆるんでいるキイをしめ直させて置いてくれ――帰ったらすぐ弾けるように。とくれぐれも云い置いたのを遭難騒ぎで、すっかり忘れていたのをやっと思い出した。
「いつもお屋敷に伺わせていただく者は生憎とよそさまへ伺う手順になって居りましたので、代理に手前が参上いたしました――お急ぎのご様子でしたので」
 と云って、ピアノの在り場所をたずねるから夫人は自身で(と云うのは女中を使っていないから)この男を応接間に案内して、彼がキイを緊めたりゆるめたりしているそばから、
「忘れていて電話は家からはかけませんでしたが、せがれが自分であなたの方へ電話したものでしょうか」
「さあ、ご用は電話係の者が承りましたので、わたくしが直接でございませんからどなたさまのお電話でございましたものやら」
「そうですか、実はせがれは山登りに出て遭難をして今に生死不明なものですから、もしや、東京にいたのかという気がしまして」
「はい、それはそれは、ご心配さまで」
 調律師は口先ではそんな事を云いながら、専念にキイを緊めながら時々ポンポンとキイをたたき最後にはつづけて三つ四つたたいてから、
「いかがでしょうか。こんな事では」
 と、もう一度三つ四つつづけさまにたたいてみせた。
「さあ、わたしにはとんとわかりませんがよろしいでしょう」
 調律師は来る時、途中の人々から、あたりには何もないだだっぴろい住み荒した一軒家の広いお屋敷だと聞いて辿りついたのが聞きしにまさる広大と聞きしにまさる荒廃とを今さら怪みおどろきながら雑草の茂るにまかした門前の路に人の住むこの宏壮な廃屋をふりかえりふりかえり帰って行った。
 その夜ポスのいつにない気味の悪いながなきに目をさました老夫人は枕もとの灯をともして、ふともぬけのからになっている閣下の寝床を見つけた。そうしてはばかりに立つと廊下に出て、人げのないはずの部屋のあたりから話声が洩れているのを聞いて、懐中電燈をたよりに人声の方へ行ってみるとそこは太郎の出征以来全く使われていない一番奥まった一室のなかからの話声は主人のひとり言のようであった。いよいよ奇異な思いがしながらドアをノックすると、なかからは
「何か?」
 と閣下の声がしてドアが開いたから、
「そんなところで何をしていらっしゃいますの?」
「三郎がかえって来てここに居るからだ」
 と指したが、もとより誰も居りません。
「そんな筈はないよ。三郎の足おとにポスがよろこんで吠え立て、ちぎれるほど尾を振って迎えたものだ。三郎がすぐピアノへ行って弾き出したのを聞いたから、寝床を出てみると、ピアノから立って来た三郎と、階段の下で行きあったから、無事で帰ったかと声をかけたが、三郎はいつものふきげんな顔つきで黙ってすれ違い、暗中をとっとと階段をのぼるうしろ姿を見失わないように追っかけると、自分の部屋ではなくここに入ったので急いで手さぐりにここへ来て見たのだ」と閣下がそんな事を云うので、

「あなた夢でもごらんになってるのでしょう」
 と答えながら、わたくし自分こそ夢を見ているような気がしたものでした。そうして、もしほんとうに三郎がここにいるのなら夜中、こんな火の気もないところで寒くはないだろうかと思っていると、
「僕はもう寒くも何ともありません。お父さんやお母さんこそ、お風を召さぬようになさい」
 と、これこそまがうかたもない三郎の声がはっきりとそう聞えて来たものです。それで姿こそ見えないが三郎が帰って来てここにいるとわたくしにも判ったものでした。
 三郎の言葉ではじめて気がついて、わたくしは閣下のむかしのマントやら自分のコートなどを取りそろえ、度々の停電にそなえていた蝋燭をともして、その夜はその寒々とした塵まみれの部屋で夜が白んだものでございました。(思えばこの部屋は三人兄弟が子供の時分雨の日の遊び場に当てていたところです)むかしのままに残されていた大きなテーブルの隅の三郎が立っていたというところには埃の上に人の手のあとが多くのこっているのを見ているうちそこに落ちている煙草の灰があったので、閣下に、
「三郎は煙草を吸って居りましたか」
「うん、いつもと同じに煙草も吸っていたよ」
 と閣下が云うので、わたくしはあとで、三郎の部屋にあったあの子の気に入りの灰皿を持って来てそこに置いておいてやりました。
 それから庭にNさんを見かけた時、
「夜ぜんはポスが何であんなにへんな長なきをいつまでもしたものでしょうか」と聞いてみるとNさんは、
「昨晩は、夜更けに塀の外で靴音がして、それがどうも三郎さまの足おとのような気がしていると、ポスもその靴音を聞きつけて二声三声、短く吠え出しました。すると塀の外でいつものように口笛でポスに合図をなさったので、ポスは尻尾をちぎれるほどに振り振り、霧のふかい半月の光のなかをおどるようにとびはね狂いまわってやみません。そのうちに母屋の方でピアノの音がしてくると、それに合唱するかのように、あの陰気なながなきをはじめて、夜どおしやめないでなきつづけたものでした。わたくしも気になっていつまでものぞいていましたが、ほんとうに昨晩はさびしい落ちつきのない夜でございましたね――木枯しは庭でざわざわいたしますし……」
 と云うのであった。

(6)


 閣下はその晩から毎日、三郎の夜ふけのピアノを待ちかね、あれほどうるさがったのが、うって変ったように大のピアノ好きになり、それに今までは全く忘れられていた二階の隅のもとの子供部屋に日夜入りびたりで、そこでは三郎の姿が生前のとおりにありありと見えるというのです。そう云えば、わたくしが出して置いた灰皿にもいつも灰やすいがらがたまっているのはわたくしにもよくわかりました。三郎は心配になるほどいつもひききりなしに煙草を吹かしている子で、山に行く時も食糧はみんな用意されているが、煙草だけは自分の吸い料に不足してはとポケットをふくらませて出かけた程でした。煙草の灰だの夜ふけのピアノの音だけはわたくしにもよくわかります。それでいて閣下にありありと見えるというものが一つも見えないというのは何とももどかしくてなりません。
 あんなにわたくしが愛し、わたくしをも愛していたはずの三郎が、父にだけは一挙一動あざやかに現われて、わたくしには見えないと云うのが恨めしいばかりでした。その憾を云うと、閣下が申しますに、
「一たい、幽明の境を超越してものを見る能力――(というのだが、唯の癖かも知れないが)――は、それぞれに人間の生れつきによるものらしい。吾輩には(というのは閣下自身のこと)その癖があると見えて今までにも二三度もその経験があった。一度などはN中佐もきっとおぼえているだろうが満洲で、将校斥候に出したSという大尉が騎馬で馬蹄の音も元気よく帰って来ての敵状報告にもとづいて作戦し、それで戦果も挙げた程であったが、後にわかったところでは、S大尉は敵陣に近い高梁こうりゃん畑の[#「高梁畑の」はママ]なかで乗馬もろとも屍体となって発見された。その時のS大尉の乗馬すがたも、自分には熱気を吐き出してふくらむ馬の鼻の穴まではっきりと見えて怪しむ余地もなかったのに、他の人々は誰もまるで見聞きできなかったのでへんだと思ったという。お前には三郎の声だけでも聞かれるというのは、まだしも幸というものかも知れないよ」
 何にせよ、いくら憾んでみても見えないものは是非もありません。それでいながら、閣下がいつもそこにいるせいもあって、あの火の気もなく日あたりの悪い埃っぽいむかしの子供部屋が、自然と夫婦の足だまりになって今までの居間を忘れたように昼も夜もそこに入りびたるような始末になりました。わたくしにも、眼にこそ見えませんが三郎がそこにいる雰囲気が感じられるような気がするからでした。順々にまだ若い息子たちを奪われてしまって孫ひとりないわたくしは云ってはならないとは知りながら、或る晩も思い余ってつい閣下に言ってしまったものでした。――
「閣下は他人の子に命令を出して死地に追いやっただけでは足りなくて画家になりたがっていた太郎やお医者を志望の次郎を無理に軍人に仕立てて若死させておしまいなすったのですね。――あなたおひとりの子供ではございませんでしたのに」
「またはじまったね。いつも云うとおり、わしは乃木閣下を気取るわけではないが、わしにとっては他人の子ばかりではなく、わが子もふたりまで戦場で死なしていることが、世間へのせめてもの申しわけになっているつもりなのだ。お前ももういいかげんにあきらめてわしをゆるしてくれ」
「でも山登りを云いつけて三郎まで死なせておしまいなさらないでもよろしかったのですわね」
 と申しましたとたん、耳もとに三郎の声がして、
「お母さん、それはちがいます。僕はお父さんの云いつけで山へ登ったのではありません。自分で山へ登って見たくなって居たのです。それから敗戦といっしょに誰ひとりお父さんの権威を認める人もなくなったせいか、お父さんはまるで虚脱した人のようになりました。あれではお父さんもさびしすぎる。僕は自分の父をもっとむかしの父のような威力のある人にしたかったのです。せめては僕ひとりでもお父さんの言葉を尊重したいと思ったからです。孝行というのではありますまい。男同士の友情と同情だと、僕は思って居ます」
 とそう云って、見れば、その時、三郎の顔がはじめてはっきりとわたくしの眼にも見えました。三郎はいつまでも幼がおの残っている顔で、そんな理窟を云う時など、かえって子供っぽいぼんやりと思いつめたあどけない表情になるような気がしていましたが、その時見えたのもその顔でした。
 三郎の言葉を聞き、その顔が見え出した時からわたくしは、かなしいのやら、うれしいのやら涙がながれはじめて、とめどもないのです。おかげでせっかく見えそめた三郎のすがたまで涙のなかでぼやけて、しまいには涙といっしょに流れてしまったらしいので、それっきり三郎は二度とふたたびわたくしには見えません。さよならも云わないでどこかへ行ってしまいました。閣下のようにいつも三郎がありありと見えるならわたくしはもう眼などつぶれてしまってもいいと思っているほどです。
 老夫人の話はおしまいになるとしどろもどろでよくわかりません。いつでも同じことですが、おおよそはそんな話なのです。あの老夫人は、このごろでは眼の治療で通うというよりもその話を聞かせに来るような気がします。一とおり話し終るとしどろもどろに話を終って一しきり泣いた眼を僕に洗眼させて気がすんだように帰って行くのです。僕も今では眼科の治療ではなく一種の精神療法に役立つような気がして同じ話を毎日飽きもせずに聞いているのですが、今日も診察時間がすぎたらまたその話をするつもりでいたのでしょうが、あなたがたが見えたので今日はあきらめて退散したのでしょう。いや治療はもうすんでいたのです。毎日来た時に一度、それから話がすんでかえる時にもう一度というわけです。
「――夫人の眼疾に関しては大して心配する症状ではない初雄君の場合の程度と思っていますが、むしろ閣下夫妻の心理状態については一度精神科の友人にでも相談して置いてみたいような気もしているのですが、どうでしょうかね、先生」
 とF君の長話はこう結ばれた。

(7)


 思わずF君の話につり込まれて長座してしまっていたが、子供のために昼の食事の用意などを命じてくれるけはいを見たので、自分はF君に面白い話を聞かしてくれたり治療してもらったりのお礼を述べていそぎ座を立った。
 幸に大通をとおりかかったタクシイを呼びとめて帰る途中で、自分の膝によりかかってすわっていた初雄が思い出したかのように、「さっきのおばちゃん、ハト(初雄の略をその愛称にしたのを子供は自称に使う)のとなりに腰かけていたおばちゃん泣いていたね。先生が目ん目いたい事をしたので泣いていたの?」
 初雄は自分に甘ったれ、それにいつまでも妹のまねをしてこんな幼な言葉を使うことが好きなのである。こう聞かれて自分は面倒だから、あっさりうなずきかけたが、子供にもある程度の本当を教えて置くべきだと思いかえしたから、
「あのおばちゃんのおうちの子が山へのぼって山の雪のかたまりが、上から落ちかかって来たのにおしつぶされ雪にうずまって死んでしまったのだって。それでおばちゃんがあんなに泣いていたのだよ」
「あ、ちょうか。そのひとが三郎ちゃんというのか。おうちへかえって来て、毎晩ピアノを弾くのね?」
 聞いていないかと思った話を、初雄はちゃんと聞き取っていたものらしい。
「うん。そうだよ」と自分はうなずいて「ハト、お前、先生のお話を聞いていたのだね」
「うん」と初雄も大きくうなずいてから「んだはずだよおとみさん……」と小声でうたい出した。
「何だ、ハトは。そんなへんな歌を知っているのかい。そんな歌うたうのじゃないよ」
「だって学校でみんな歌っているのだもの」
「みんなはみんな。お前はお前だよ。みんなのわるいまねをお前がしなければならないことはない」
 と云うと、初雄は黙ってうなずき真面目な顔でしょげているから、
「叱ったのじゃないよ」とこの気の弱い子を自分は暖く抱きかかえて引きよせた。
 ボロ車は哲学堂わきの坂道を右折して目白駅の方へいそいでいた。
「あんまり飛ばさないでやってくれ」





底本:「たそがれの人間 佐藤春夫怪異小品集」平凡社ライブラリー、平凡社
   2015(平成27)年7月10日初版第1刷
底本の親本:「定本 佐藤春夫全集 第13巻」臨川書店
   2000(平成12)年1月10日初版発行
初出:「別冊文藝春秋 第四四号」
   1955(昭和30)年2月28日発行
入力:持田和踏
校正:noriko saito
2025年2月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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●図書カード