荒野の呼び声

THE CALL OF THE WILD

ジャック・ロンドン Jack London

山本政喜訳




一 原始の中へ


「年経る放浪のおもいは昂まり
習慣の鉄鎖を憤る、
その冬の眠りから再び
野性の旋律が眼ざめる。」

 バック〔犬の名〕は新聞は読まなかつた、もし読んでいたら、彼のみでなく、ピュージェット・サウンド〔ワシントン州の北端にある湾〕からサン・ディエゴ〔キャリフォールニヤの南端メキシコに近い都市〕までの間にいる筋肉が強くて長い暖かい毛の犬全体に災難がさしせまつていることを知つたことであろう。人間共が、北極圏の暗黒の中を手さぐりしたあげく、ある黄色い金属を発見したので、また汽船会社や運送会社がその発見をしきりに宣伝していたので、何千という人々が北国へと押しかけていたのである。こういう人々は、犬をほしがつた。そして彼等のほしがる犬は、労役に堪える強い筋肉と霜から身を護る毛深い毛皮をもつた、がつちりした犬なのであつた。
 バックは日当りのよいサンタ・クララ・ヴァリーにある大きな家に住んでいた。それはミラー判事邸と呼ばれていた。それは道路からはなれて、半ば木立ちにかくれていた、そしてその木々の間から家の四囲をめぐつている広い涼しげなヴェランダがちらほら見えていた。その家へ行くには、ひろびろとした芝生の間をうねり、高いポプラの交錯した枝の下を通つている、砂利を敷いた庭内車道ドライブウェイを通つてゆくのであつた。家の裏では、表の方より何もかもずつと規模が大きかつた。馬丁とボーイが十人もたかつてしやべつている大きな厩舎、幾列もある蔓草のからんだ召使の住居、整然と果てしなく並んだ納屋、長々とつづく葡萄棚、緑の牧場、果樹園、いちご畑などがあつた。掘抜井戸のポンプ装置とセメントで固めた貯水池があつて、そこではミラー判事の子供たちが毎朝その貯水池にとびこみ、暑い午後にはここで涼んだ。
 そしてこの大きな屋敷内をバックが支配していた。ここで彼は生れて、ここで生涯の四年間をすごしていた。ほかにも犬がいるにはいた。こんな広大な場所に他に犬がいないわけはなかつたが、そんなのは物の数ではなかつた。そういう犬は来たかと思うと往つてしまう。雑居の犬小屋に住んでいるか、あるいは日本産の狆「ツーツ」やメキシコ産の無毛犬「イザベル」のやりかたにならつて、家の中の引つこんだところで、居るか居ないかわからないような生活をしているのであつた。――この連中は妙な奴らで、家の外へ鼻をつきだすことも、地面に足をつけることも滅多になかつた。他にフォックス・テリヤがすくなくとも二十匹ほどいて、箒や棒雑巾で武装した女中の一隊に護られて窓から自分らを見ているツーツとイザベルに向つて、いまにひどい目にあわせてやるぞと脅かすように吠えたてた。
 しかしバックは専門の番犬でも専門の猟犬でもなくて、全領域が彼のものであつた。彼は判事の息子たちと一しよに、水泳用の貯水池にとびこんだり、猟に出かけたりした。判事の娘たちのモリーとアリスには、暮れなやむ黄昏や早朝のそぞろ歩きのお伴をした。冬の夜には書斎の燃えさかる煖炉の前で、判事の足許に寝そべつた。判事の孫たちを背に乗せて歩いたり、芝草の上にころがしたり、厩の中庭の泉の方や、それよりずつと向うの牧草地や苺畑のある方へ、冒険的に歩いてゆく彼らの足許を見守つてやつたりした。バックはテリヤたちの間では尊大ぶつて歩きまわり、ツーツとイザベルは全然無視した。けだし彼は王者であつた――ミラー判事邸内の、人間をも含めて、凡ゆる這うもの飛ぶものに君臨する王者であつた。
 バックの父親エルモは、巨大なセントバーナード種の犬で、判事の傍をしばらくも離れぬ伴侶であつた。それでバックはきつとその父親のあとを継ぐものと見られていた。バックはそんなに大きくなかつた――体重は百四十ポンドしかなかつた――それは母親のシェップがスコッチ・シェパード種だつたからである。それにも拘らず、この百四十ポンドに、好い暮しと皆からうける尊敬とから生ずる威厳が加わつて、バックはいかにも王者らしく振舞うことができた。仔犬時代以来の四年間バックは満ち足りた貴族の様な生活をしてきた。そこで自分自身に立派な矜りをもち、田舎紳士が孤立状態のために独りよがりになることがあるように、いささか独りよがりにさえなつていた。しかし単に飽食した番犬にならないことによつて自らを救つていた。狩猟や同様な戸外の娯楽によつて脂肪を落し筋肉を強めていたし、水浴動物のように、水を愛することが強壮剤とも健康保全剤ともなつていた。
 そしてバックがこういう暮しをしているうち一八九七年の秋になると、アラスカのクロンダイク地方の金鉱発見が人々を世界中からこの北国の凍土へひきつけた。しかしバックは新聞を読まなかつたし、園丁の助手の一人マニュエルが好ましくない友達であることを知らなかつた。マニュエルは一つの罪にとり憑かれていた。即ち支那式富籤に賭けることが好きだつた。それに同じ博奕をやるにしても、憑いて離れない一つの弱点をもつていた――それは目の出る時のあることを信じていることであつた。そしてそのために苦しくなるのは必定であつた。なにしろ目の出る時を目当てに博奕をやるには金がいる。ところが園丁の助手の給料では、女房とたくさんな子供らの入費をまかなうにも足りなかつた。
 判事は葡萄栽培者組合の会合に出ていたし、男の子たちは運動クラブをつくるので忙しかつた。その夜が、マニュエルの謀叛を記念する夜となつた。マニュエルとバックが果樹園を抜けてゆくのを誰も見ていなかつた。バックはそれをただの散歩だと思つていた。そして彼等がカレッジ・パークという小さな中間駅に着いたのも、そこにぽつんといた一人の男以外には誰も見ていなかつた。その男がマニュエルと話をし、二人の間で金のちやらちやらいう音がした。
「おめえ、品物を渡すにや荷造りするもんだよ」とその変な男が乱暴な調子で云つた、そこでマニュエルがバックの首輪の下の方に一本の太い綱を二重にまきつけた。
「こいつをねじれば、いくらでも首がしまるよ」とマニュエルが云うと、その男はすぐによしよしとうなずいた。
 バックは従容としてその綱を受けた。たしかにこれはいつにないことであつた。しかしバックは自分の知つている人間を信頼し、自分の及ばぬ智慧をその人達はもつていると考えることを学んでいた。しかしその綱の端が例の変な男に手渡されると、彼は威嚇するように唸つた。彼はまだ告知は即ち命令であると信ずる矜りをもつて、自分の不快であることを告知しただけであつた。しかし意外千万にも、そのくびのまわりの綱がしまつて、呼吸をとめたので、かつと怒つてその男にとびかかつた。するとその男は途中でそれを迎えて、のど元をぎゆつとしめつけ、見事にひねつて仰向けに投げ倒した。バックがますます怒つて暴れまわると、綱が無慈悲にしまつてきて、舌が口からだらりと垂れ、大きな胸はむなしく喘いだ。生れてからこんなひどい扱いを受けたことはなかつた。だからこれほどひどく怒つたことはなかつた。しかしやがてその力は尽きはて眼は光を失つてしまつた。そして列車が旗の合図に応じてとまつて〔中間駅では旗の合図がなければ列車はとまらない〕、二人の男が自分を貨車の中へ抛うりこんでも、前後不覚だつた。
 気がついた時には、舌がいたむことと、自分が何かの車に乗せられて、ごとごと運ばれていることをぼんやり意識した。機関車が踏切りにさしかかつてしわがれた汽笛をならしたので、自分のいる場所がわかつた。判事につれられて度々汽車旅行をやつていたので、貨車に乗つた時の気分を知らないわけではなかつた。バックは眼を開いた、そしてその眼に誘拐された王者の手放しの怒りがあらわれた。例の男がバックののどにとびかかつたが、バックはすばやくて、そうはさせなかつた。バックはその男の手に咬みついて、もう一度のどをしめられて気を失うまで顎をゆるめはしなかつた。
「いや、発作ですわい」とその男は、騒ぎの物音をききつけてやつてきた貨物係りに、ひどく傷を負つた手をかくしながら云つた。
「親方に頼まれてフリスコ〔サン・フランシスコ〕までつれて行くんですよ。あちらの偉い犬のお医者さんがきつと治して下さるそうです」
 その夜の車中のことは、サン・フランシスコの海岸通りのとある酒場の裏の小屋で、例の男が自分でいとも雄弁に話していた。
「それだけのことをして俺のもらうなあ、ただの五十ドルよ」と彼はぶつぶつ云つた。「現なま千ドルもらつたつて、またとあんなこたあしねえつもりだ」
 彼の手は血だらけのハンカチでしばつてあつて、右足のズボンは膝からくるぶしのところまで裂けていた。
「相棒はいくら貰つたい?」と酒場の亭主がたずねた。
「百両よ」と彼は答えた、「びた一文欠けたつていやだと云いやがつたよ、まつたく」
「それで百五十両というわけだな」酒場の亭主が勘定した、「だがそれだけの値うちはあるね、はばかりながら」
 誘拐者は血だらけのほうたいを解いて、ざくざくになつた手を見た。「恐犬病にとりつかれてなきや――」
「そりやおめえが首を絞められるように生れついてるからさ」と酒場の亭主は笑いながら云つた。「さあ、お前の荷物を運ぶまえに一つ手を貸してくれ」と彼は云いたした。バックは、のどと舌の堪え難い痛みに気が遠くなり、命はなかば抜け去つていながらも、虐待者に対抗しようとした。しかし彼は何度も何度も投げ倒され首をしめつけられ、ついに二人はごつい真鍮の首輪をかれの首からやすりできり外すことに成功した。それから綱がとられて、バックは檻のような箱に投げこまれた。
 バックはその箱の中に寝て長い夜の残りをすごし、怒りと傷つけられた矜りに胸をもやした。それが一体どういう意味合いのものだかわからないのであつた。連中は一体自分に何をのぞんでいるのか、この変な男たちは? なぜこの狭い箱の中にとじこめておくのか? バックはその理由はわからないが、何かしら災厄がさしせまつているという漠然とした感じに圧迫された。その夜のうちに幾度か、物置の戸ががたがたと開くと、バックは判事がきたか、すくなくとも子供たちが来たかと思つてとびおきた。しかしいつもそれは酒場の亭主の膨れあがつた顔で、蝋燭のぼやつとした光を便りに彼をのぞいてみるのであつた。それでその都度バックののどの中でふるえていた喜びの吠え声は、ねじまげられて兇猛なうなり声になるのであつた。
 しかし酒場の亭主はバックをそのままにしておいた、そして朝になると四人の男がはいつてきて、その箱をかつぎあげた。ぼろ衣物を着ていて、頭に櫛を入れたこともない、人相の悪い連中なので、バックは虐待者がふえたなと思い、憤激して格子の間から彼等に向つて襲いかかつた。彼等はただ笑つて、棒を突込んでバックをつついた、バックは早速それを歯でもつて襲撃したが、やがて男たちがまさにそうすることを望んでいることに気がついた。そこでバックは不承不承ながら横になつて、箱が馬車の上に乗せられるままにまかせた。それを初めとして、バックとバックのとじこめられた箱は多くの人の手に次々にわたつていつた。通運会社の事務員が彼を保管し、また別の馬車に乗せられて引いてゆかれ、手押し車に乗せられて、荷箱や小包と一しよに連絡船にのせられ、手押し車で汽船からおろして大きな鉄道の停車場へ運ばれ、最後に郵便車に積込まれた。
 二日二晩この貨車は、叫びたてる機関車のしつぽにくつついて引きずられた。そして二日二晩バックは飲みも食いもしなかつた。怒つていたので、貨車の係員たちが近寄るときつと唸りかけた。それで彼等はしかえしにからかつた。バックが怒りにふるえ、あぶくを吹きだして格子にぶつかると、彼等は嘲り笑つた。にくたらしい犬のまねをして唸つたり吠えたり、猫のなき声をしたり、両腕を羽ばたいて鶏のなき声をしたりした。バックはそんなことはひどくつまらないことと知つていたが、それだけに却つてよけいに威厳をきずつけられ、怒りはますます昂まつていつた。空腹は大して気にしなかつたが、水のないことが激しい苦痛となつて、怒りを熱病にまで煽りあげた。その点では、元来緊張しきつた、感覚の細かいたちなので、この虐待は彼を熱病におとしいれ、その熱病はやけついて膨れたのどと舌の炎症のためによけいにひどくこたえた。
 一つだけ嬉しいことがあつた、それは綱が首からとれていることであつた。その綱が人間共に不公平な優越を与えていた。しかしそれがとられた今となつては、目にもの見せてくれるぞとバックは考えた。またと首に綱をかけさせるもんじやない。バックはそう決心していた。二日二晩飲みも食いもせず、その二日二晩の虐待の間に盛んに怒りを蓄積した、それは誰でも先ず彼と衝突した人にとつて悪い前兆であつた。眼は血走り、彼は怒れる悪魔と変つていた。あまりにも変つたので判事でさえも見わけることはできなかつたであろう。だから係員達は、シアトルで彼を列車からおろして、はじめてほつとしたのであつた。
 四人の男がこわごわ馬車からその箱をおろして、高い塀をめぐらした狭い裏庭へかつぎこんだ。頚のところがひどくたるんだ赤いスウェーターを着た肥つた男が出てきて、帳簿にサインして馭者にわたした。この男だな次の虐待者は、とバックは判断した。そして物凄く格子に身をうちつけた。その男はにやりと笑つて、それから斧と棍棒をもつてきた。
「今こいつをお出しになるつもりじやないでしようね?」と馭者がたずねた。
「出すさ」とその男は答えて、斧を梃子てこがわりに箱の中へつつこんだ。
 それを運びこんできた四人の男は一時にぱつととび散り、塀の頂上の安全なところに腰掛けて、その芸当を見る準備をした。バックは裂けて行く木に向つて突進し、それに噛みつき、それに殺到しそれと格闘した。外側で斧がどこにぶちあたつても、ちようどそこの内側にバックが行つて、唸つたり吠えたりして、もの凄く飛び出そうとあせつていると、赤いスウェーターを着た男は冷静に、しきりに彼を引出そうとしていた。
「さあ、この赤目の悪魔め!」と彼は、バックの体が通るのに充分な穴をあけてから云つた。同時に彼は斧をすてて棍棒を右手にもちかえた。
 そしてバックが、跳ねあがろうとして身をひきしめた時、毛は逆立ち、口はあぶくを吹きだし、血走つた眼には狂つたような光をたたえ、全くの赤目の悪魔であつた。その男に向つてバックは、二日二晩の鬱積した激情にあふれる百四十ポンドの怒りをまつすぐにぶつつけていつた。空中にあつてまさにその男に咬みつこうとしたせつなに、バックはその体をぐいとおしとめられ、くやしくも歯を空にかみ合わせた。パックはきりきりまいして、仰向けに転んだり、横倒しになつたりした。生れてから棍棒で殴られたことはなかつたので、わけがわからなかつた。一部分は吠え声で悲鳴の方が多い唸り声をたてて、再びたちあがり、空中へ跳ねあがつた。するとまた例の衝撃がきて、砕けるように地上へたたきおとされた。こんどはそれが棍棒であることに気付いたが、怒りのために用心も忘れてしまつた。十ぺんばかりも突撃したが、その度毎に棍棒がその突撃を打ちやぶり、彼をたたきつぶした。
 一度特にひどい打撃を受けてからは、バックはひどく目がくらんで突進することもできず、這うようにして歩いた。よろけるようにびつこをひき、鼻や口や眼からは血が流れ出て、美しい毛皮には血しぶきがかかつて斑点ができた。するとその男は近寄つて、よくよくねらいをつけて鼻つ柱に恐ろしい一撃を加えた。それまでに受けた凡ての苦痛も、この度の身にしみる苦悶にくらべれば何でもなかつた。ほとんどライオンのように獰猛な咆え声をあげて再びその男へぶつつかつていつた。しかしその男は棍棒を右手から左手へ移して、冷静にバックの下顎をつかみ、同時に下方と後方へねじまげた。バックは空中に完全に一つの円を描き、そのつぎの円を半分描いたところでつぶれて地面に頭と胸をぶつつけた。
 最後にもう一度突進した。その男はそれまで長い間わざと控えていた残酷な打撃を加えた、そこでバックはぐにやぐにやになつて打つ倒れ、さんざんに殴られてすつかり気を失つてしまつた。
「この人は犬馴らしにかけちや唯者じやねえんだぜ、まつたく」と塀の上にいた男のうちの一人が熱心に云つた。
「いつだつてカイユース〔インディヤンの馬〕を馴らした方がいいね、日曜日なら二度でも」と馭者が、荷馬車に乗りこんで馬を出発させながら答えた。
 バックの意識は戻つてきたが体力は戻つてこなかつた。倒れていた場所に寝たつきり、そこから赤いスウェーターを着た男を見守つた。
「『名前はバックと申し候、』か」とその男は、酒場の亭主が箱とその内容物の発送を通知した書状の文句を引いて、独りごとを云つた。「よしきた、バック、こら」彼は親切をよそおつた声で云いつづけた、「俺たちはちよつと一騒ぎしたが、あれだけで御破算にした方が一番いいんだ。お前はお前の立場をさとつたろうし、俺は俺の立場を心得てる。お前が好い犬になれば万事うまくいくし、ぼたもちは棚だよ。悪い犬になつてみろ、臓腑をつかみ出してやるから。わかつたかい?」
 そう云いながらその男はさきほどあんなに無慈悲にぶんなぐつた頭を恐れげもなく軽く叩いた。そしてその手がふれると、全身の毛は思わず知らず逆立つたけれども、バックは逆らいもせずに我慢した。その男が水をもつてきてくれると、その水をがぶがぶと飲み、あとでは生肉の立派な御馳走を、一片また一片とその男の手からもらつて食べた。
 バックは負けた(それは自分でもさとつた)、しかし馴らされたのではなかつた。今度だけで、棍棒をもつた人間には勝てつこない、ということを理解した。この教訓をちやんと会得し、その後生涯を終えるまで忘れなかつた。その棍棒が啓示であつた。それは原始的法則の支配を初めて教えるものであつた、そこでバックはその教えに妥協していつた。生活の事実はますます兇暴な相をおびてきた、そこでバックはその相に臆することもなく直面しながらも、本性のうちに潜在していた狡智をすつかりよびさましていつた。日が経つにつれて、檻に入れられたり綱につながれたりして他の犬がやつてきた。おとなしいのもあり、バックのように怒つて咆えたてるものもあつた、そしてそういう犬が全部、赤いスウェーターの男の支配下に入つてゆくのを、バックは見ていた。毎度の残虐行爲を見ていると、その教訓が繰りかえし繰りかえしバックの胸にこたえた。棍棒をもつた人間は立法者であり、必ずしも融和しなくとも、服従すべき主人である。この融和をバックは決してしなかつた。しかしバックが見ていると、打たれた犬どもがその男にじやれついたり、尾を振つたり、その男の手をなめたりした。また、どうしても融和せず服従もしない一匹の犬が、とうとう支配権を争つて殺されるのも見た。
 時折、男たち、変な男たちがやつてきて、赤いスウェーターの男と、昂奮したり、甘つたれたり、その他様々な態度で話をした。そして彼等の間に金のとりひきがあつた時には、よそからきた男が一匹なり二匹なり犬をもつていつた。そういう犬は決して戻つてこなかつたので、どこへ往くのだろうかとバックはいぶかつた。しかし将来への危懼が強くおそつてきたので、その度に自分が選ばれなかつたことを喜ぶのであつた。
 しかし結局彼の番がきた、それは小さなしなびたような男で、滅茶な英語を話し、バックにはわからない妙な無骨な感歎詞を連発した。
「おつたまげた!」と彼は、バックを見ると眼をかがやかして叫んだ。「こいつあたまげていい犬だあ! え? なんぼだ?」
「三百両、それでも只みたいなもんだ」と赤いスウェーターの男が早速答えた。「それも政府の金なんだから、文句のつけようもないやね。え、ペロー?」
 ペローはにんまり笑つた。未曽有の需要のために犬の価格がうなぎ昇りしたことを考えれば、それはこれほど立派な犬に不当な額ではなかつた。カナダの政府がそれだけ損をするわけでもなし、その輸送のために旅行がそれだけ遅くなるわけでもなかつた。ペローは犬をよく知つていて、バックを見ると、これは千匹中の一匹という逸物だということをさとつた――「一万匹中の一匹だ」と頭の中で評価していた。
 バックは二人の間で金が受け渡しされるのを見ていた。それで気のよいニューファウンドランド犬のカーリーと自分が、その小さなしなびた男に引いてゆかれることになつても、意外とは思わなかつた。それが赤いスウェーターの男の見納めであつた。そしてカーリーとバックが「ナーワル」号の甲板から遠退いてゆくシアトルを眺めた時、それは暖かい南国の見納めであつた。
 カーリーとバックはペローに下へつれてゆかれて、フランソアという顔の黒い大男にひきわたされた。ペローはフランス系カナダ人で色が黒かつた。しかしフランソアはフランス系カナダ人とインディヤンの混血で、倍も黒かつた。二人はバックにとつて新しい種類の人間(それは後でもつと多く知ることになつた)であつた。それで二人に対して、愛情をもつたわけではないが、それにも拘らず正直のところ、二人を尊敬するようになつた。ペローとフランソアは公平な人間で、正義を行うのに冷静でえこひいきもせず、犬の事をとてもよく心得ていて犬に馬鹿にされはしない、ということをバックはたちまち見てとつた。
「ナーワル」号の中甲板で、バックとカーリーは他の二頭の犬と一しよになつた。そのうちの一頭はスピッツベルゲン産の大きな雪白色であつて、捕鯨船の船長に連れてこられたのだが、後には不毛地方の地質調査につれていかれたのであつた。その犬は親しみのある性質だが、裏切りものらしく、面と向つてはにこにこしながら、かげでは何かしら狡い手を考えているというやつであつた。例えば、最初の食事の時に、彼はバックの食べものを盗んだ。バックが彼を罰するためにとびかかると、フランソアの鞭が空中でひゆつという音をたて、先ずその犯人を打つた、そこでバックはその骨をとりかえすだけでよかつた。それはフランソアの公平なところだとバックは心にきめた、そこでバックはこの混血児を高く評価しはじめた。
 もう一頭の犬は自分から近附きになろうともせず、近附かれても受けつけなかつた、が、また新参者のものをとろうともしなかつた。陰鬱で不機嫌な犬で、カーリーに向つてはつきりと、俺はただ放つておいてもらいたいのだ、それどころか、放つておかないと面倒なことになるぞ、ということを明かにした。「ディヴ」というのがその名前で、食つて眠つて、時々あくびをしたが、ナーワル号がクイーン・シャーロット海峡を過ぎて憑かれたもののように前後左右に揺れたときでさえ、何ものにも興味をもたなかつた。バックとカーリーが昂奮し、半ばは恐怖で気が荒くなつた時も、彼はうるさいと云わんばかりに頭をもたげ、面白くもないという目付きで二頭をちらと見て、あくびをして、また眠りこんだ。
 昼も夜も船はスクリューの疲れをしらぬ鼓動に合わせて震え、くる日もくる日も同じような具合であつたが、バックには気候が日毎にますます寒くなつていることがわかつた。ついに或る朝、スクリューがとまつて、ナーワル号には昂奮した雰囲気がみなぎりわたつた。バックは他の犬共と同じくそのことを感じた。そして或る変化が近づいたことを知つた。フランソアが犬共に革紐をつけて、甲板へつれだした。冷たい表面に初めておりたつと、バックの足は、泥によく似た白いぐじやぐじやしたものの中へはまつたので、鼻をならして跳ねかえつた。この白いものはまだまだ空から落ちてきていた。身をふるわしても、どしどし降りかかつてきた。バックは好奇心をおこしてそれを嗅いでみた、それから舌の先でちよいとなめてみた。それは火のようにやけついたが、次の瞬間にはなくなつていた。それがどうしても彼にはわからなかつた。もう一度やつてみても同じことだつた。見ていた人たちがわあわあ笑つたので、バックは恥かしかつたが、それが彼としては初めての雪だつたので、その理由がわからなかつた。
[#改ページ]

二 棍棒と牙の法則


 ダイエイの浜ですごした最初の日はバックにとつては悪夢のようなものであつた。しじゆうぎよつとしたり、びつくりしたりするような事ばかりだつた。文明の中心からだしぬけにひつぱりだされて、原始的なもののまん中へ放り出されたのであつた。これは、ぶらぶらして退屈しているほかはない悠長な陽光にめぐまれた生活ではなかつた。ここには平和もなく休みもなく、一瞬間の安全もなかつた。すべてが混乱と行動であつた、そして生命を失い肢をさらわれる危険が常にあつた。ここの犬と人間は都市の犬と人間ではなかつたので、不断に警戒していることが何より必要であつた。彼等は一人のこらず兇暴で棍棒と牙の法則以外の法律を知らなかつた。
 バックはここの狼のような犬がやるような喧嘩は見たことがなかつた、それで初めての経験で、一生忘れない教訓を得た。もつともそれは身代りの経験であつた、でなければ彼が生き残つてそれを利用するということはなかつたわけである。カーリーが犠牲になつた。みんなで材木置場の近くで野営していたが、そこでもつてカーリーが持ち前の親しみぶかさで、カーリーの半分の大きさもないが成長しきつた狼くらいの大きさのエスキモー犬に近附いていつた。何の前ぶれもなくただ電光のように跳びかかり、歯のかち合う金属性の音がして、同様にすばやく跳びのいたかと思うと、カーリーの顔が眼からあごにかけて咬み裂かれていた。
 一撃を加えておいて跳びのく、というのが狼の戦法であつた。だがそれよりもつと以上のことがあつた。三、四十頭のエスキモー犬がその場へかけつけて、一心に黙つて円陣をつくり戦闘者をとりまいた。バックにはその黙つてじつと見ているわけが分らなかつたし、さらに彼等が一心に舌なめずりしているわけがわからなかつた。カーリーは相手に向つて突進したが、相手はまたも咬みついては跳びはなれた。次にカーリーがとびかかつていくと、妙な具合に胸でその攻撃をうけて、カーリーの肢をさらつてつつころばした。カーリーは再び肢で立つことができなかつた。見物しているエスキモー犬の群はそれを待つていたのである。彼等は唸つたり吠えたりしてカーリーにつめより、カーリーは苦悶の悲鳴をあげながら、立錐の余地もない肉体の集団の下に埋められた。
 それがあまりだしぬけで、あまりにも予期しないことなので、バックはあつけにとられた。スピッツを見ると、スピッツは笑うときのようにまつ赤な舌をぺろりと出した、フランソアはと見れば、彼は斧をうちふりながら犬の群へかけこんでいつた。棍棒をもつた三人の男が彼に加勢して犬を追つぱらつた。それは長くかからなかつた。カーリーが倒れた時から二分位たつと、攻撃した犬の最後のやつまでたたきはなされた。しかしカーリーは殆ど文字通りに八つ裂きにされて、ぐつたりと息も絶え絶えに血まみれになつて、踏みにじられた雪の上に倒れていた。そしてこの色の黒い混血児がカーリーのそばに立つて恐ろしくののしつていた。この場の光景をバックはあとまで夢の中で思いだして、気になつてしかたがなかつた。さてはこれが習わしであつたのだ。決してフェア・プレイではない。倒れたが最期、それで万事休すである。よし俺は決して倒れないようにするぞ、とバックは考えた。スピッツがまた舌をだして笑つた。それでその瞬間からバックはきびしい果てしない憎悪をもつてスピッツを憎んだ。
 バックは、カーリーの悲劇的な死の衝撃からぬけきらないでいるうちに、また別の衝撃を受けた。フランソアが革紐や留め金のついた装置をバックにとりつけた。それは家にいた時馬丁が馬にとりつけたような輓具であつた。そこで彼が馬のやつているのを見たように、彼は働かされ、フランソアを橇に乗せて谷のふちにある森林まで曳いてゆき、帰りには薪を山ほど積んできた。こうして駄馬の役をやらされることによつて彼の威厳はひどく傷つけられたが、彼は賢明にも叛逆することをさけた。バックは意を決して仕事に熱心になり、すべて新規な馴れないことばかりであつたが、全力を尽すことにした。フランソアは厳格で、即座に服従することを要求し、鞭をつかつてそれを強制した、しかも一方では橇際の犬ホイラーとして経験を積んだデイヴが、バックがしくじりをやるたびにおしりを咬むのであつた。スピッツは同じように経験を積んだ先犬であつた、そこでしよつちゆうバックのところまで後戻つてくるわけにもいかないので、叱るために時々鋭く唸つたり、上手に自分の体重を輓革にかけて、バックを正しい道へひきもどしたりした。バックはものおぼえがよくて、仲間の二頭の犬とフランソアの共同教授の下でめざましい進歩をとげた。みんなが野営へ戻りつく頃までには、バックは、「ホー」と云われればとまり、「マッシュ」と云われれば進み、曲り角ではぐるつと遠く廻り、荷のかかつた橇が後から坂落しにすべつてくるときには橇際の犬ホイーラーに道をあけてやること、などをおぼえていた。
「この三匹はえらくいい犬だね」とフランソアがペローに云つた。「あのバックときたら、死に物狂いに曳きますよ。何でも教えたらすぐおぼえる」
 午後には、役所の至急報をもつて旅に出ることを急いでいるペローが、犬をもう二頭つれて帰つてきた。「ビリー」と「ジョー」という名前で、兄弟で、いずれも本物のエスキモー犬であつた。同じ母親から生れた仔でありながら、彼等は昼と夜のように違つていた。ビリーの唯一の誤りはあまり気が好すぎることであつたが、ジョーはその反対で、気むずかしく自分のことばつかり考えていて、しじゆう唸つては悪意をこめた眼でみていた。バックは彼等を仲間らしく迎え、デイヴは彼等を無視したが、スピッツは一頭ずつ順にこらしめにとりかかつた。ビリーは哀願するようにしつぽを振つたが、その哀願が役に立たないと見ると逃げだそうとした、そしてスピッツの鋭い歯が脇腹を咬んだ時には(なお哀願しながら)泣きたてた。しかしスピッツがいくら威嚇してまわつても、ジョーは後肢でくるりとおきなおつて顔を合わせ、うなじの毛を逆立て、耳を後にひきよせ、唇をひきつつて唸り、両顎をがちがちとかみ合わせ、眼は物凄い光をもつていた――まさに戦闘的恐怖の権化であつた。その形相があまり物凄いのでスピッツは彼をたしなめることは見合わせねばならなくなつた。しかし、自分の不体裁を被うために、当りさわりのない泣いているビリーに向つていつて、野営の囲いの中へ追いこんでしまつた。
 夕方にはペローがまたもう一頭の犬を手に入れた、それは年寄つたエスキモー犬で、体が長く痩せて骨ばかりで、顔には戦闘の傷痕があつて、一つしか残つてない眼は剛勇の告知のひらめきを見せ、それが尊敬をあつめるのであつた。ソルレクスという名前だつたが、それは「怒つているもの」という意味であつた。デイヴと同じように、何も求めず、何も与えず、何も期待していなかつた。そして彼が悠々と彼等の中へすすみ出た時には、スピッツさえ手出しをしなかつた。彼には一つ変つた癖があつたが、それをバックは不運にも発見することになつた。彼は眼の見えない方の側に近附かれるのが嫌いであつた。この罪をバックは知らずして犯したわけだが、ソルレクスがとびかかつてきて肩のところを骨に達するまで三寸ばかりも咬みさいた時に、初めて自分の不注意に気がついた。それから後は永久にバックはその眼の見えない側をさけた。それで彼等の同僚生活の最後に至るまで再び紛争のおきることはなかつた。ソルレクスの唯一の望みはデイヴのそれと同じく、放置しておかれることのようであつた、しかし、バックがあとで知つたように、彼等は各々また他のずつと重大な野心をもつていた。
 その夜バックは睡眠という大問題に直面した。蝋燭の火をともしたテントは、白い平原のまん中で暖かそうにかがやいていた。そこでバックが当然のことと思つてその中へはいりこむと、ペローとフランソアが悪罵をあびせ料理道具で攻撃してきたので、あつけにとられたが、ようやく気をとりなおして、気まり悪そうに外の寒気の中へにげだしていつた。ぴりぴりと冷たい風が吹いていて、するどく肌をさし、特別の毒で傷ついた肩にかみついた。雪の上に寝て眠ろうとしたが、霜がひどいためにやがて体がふるえて起きないではいられなくなつた。惨めな思いで心も慰さまずに、多くのテントの間をさまよい歩いたが、つまりはどこも同じように寒いということを発見しただけであつた、そこここで暴れ犬が突つかかつてきたが、彼は首すじの毛を逆立てて唸つた(早速おぼえこんでいたので)、するとその犬たちは邪魔しないで通すのであつた。
 最後にあることを思いついた。戻つて仲間がどうしているのか見てやろうと思つたのである。驚いたことには、みんな居なくなつていた。再び仲間を求めて広い野営地をうろつきまわり、そしてまたもとの処へ帰つてきた。テントの中にいるのだろうか? いや、そんなことはある筈がない、でなかつたら自分は追い出されはしなかつたろう。では一体どこにいるのだろう? しつぽを垂れ、體はふるえ、まことにひどく心細くなつて、バックはあてどもなくテントのまわりを歩きまわつた。だしぬけに前肢の下の雪がくずれて、彼は落ちこんだ。肢の下で何かしらうごめくものがあつた。彼は眼にも見えず訳のわからないものが怖くて、毛を逆立て唸りながら跳び退つた。しかし親しみのある小さななき声がきこえたので、気を落ちつけて、立ち戻つて調べてみた。一すじの暖かい息吹きが彼の鼻孔へたちのぼつてきた、するとそこへ雪の下に圓まつて小じんまりした球になつてビリーが寝ていた。ビリーは和解を求めるように鼻をならし、好意と善意を示すためにもじもじと身をくねらし、おしまいに和平のためのおくりものとして、暖かいしめつた舌でバックの顔をなめようとまでした。
 これまた一つの教訓。ではみんながこういう風にしてやつているのか? バックは自信をもつて一点を選び、大騒ぎしたり無駄な骨折りもしたりして、自分の寝る穴を掘りはじめた。やがて体から発した熱でその限られた場所が暖まり、彼は眠ることができた。その日は永くて骨が折れた、だから夢の中で唸つたり吠えたり格闘したりしたけれども、ぐつすりと気もちよく眠つた。
 眼をさました野営の騒音によびさまされるまでバックは眼を開かなかつた。最初は自分が何処にいるのか彼にはわからなかつた。夜の間に雪が降つていて、彼は完全に埋められていた。雪の壁が八方からせまつてきていた。それで恐怖の大浪が身うちをかけめぐつた――野生のものの陥穽に対する恐怖であつた。それはバックが自分の生命を通して祖先の生活に戻つているしるしであつた。けだし彼は開化された犬、不当に開化された犬であつて、自分の経験としては陥穽などは知らず、したがつて自分でその陥穽を恐れる筈はなかつたのだから。体全体の筋肉が発作的に、本能的にちぢまり、頚と肩の毛が逆立ち、恐ろしい唸り声をあげてまつすぐに跳ねあがつてみると、外は眼のくらむような昼の光で、雪が光る雲のように彼のまわりにとび散つた。四肢をちやんと地につける前に、眼の前に白い野営がひろがつているのが見えたので、自分のいる場所がわかつた。そしてマニュエルと一しよに散歩に出た時から、昨夜自分で穴を掘つた時までにあつたこと全部をおもいだした。
 フランソアの叫び声が彼の出現を歓迎した。「わしが何と云いました?」と犬追いはペローに向つて叫んだ、「あのバックのやつは何でもじつきにおぼえますよ」
 ペローは真面目にうなずいた。重要な公文書を運ぶカナダ政府の早飛脚として、彼は最も好い犬を確保したがつていたのだから、バックを手に入れたのが特に嬉しいのであつた。
 一時間以内にもう三頭のエスキモーが組犬に加えられ、犬は都合九頭になつた、そしてあと十五分もたたないうちに、犬群は橇につけられ、ダイエイ峡谷キャニヨンにむかつて雪道をかけのぼつていた。バックは出かけるのがうれしかつた。そして仕事はつらかつたけれども、特にそれがきらいでもなかつた。バックは組犬全体が熱心なのに驚いたが、それが彼にもつたわつてきた、しかしそれよりもつと意外なことには、デイヴとソルレクスがすつかり変つたものになつていた。彼等は輓革によつてまつたく変型された新しい犬であつた。受動的な無関心はすつかりなくなつていた。彼等は油断なく活動的で、仕事がうまくいくように心がけ、遅滞や混乱で仕事がおくれると、ひどくいらいらした。橇曳きの骨折りが彼等の存在の最高の表現であり、彼等の生きる全目的であり、彼等が喜びをもつ唯一のことであると思われた。
 デイヴがホイーラー即ち橇際の犬で、その前に立つてバックが曳つぱり、その前がソルレクスであつた。残りの犬は一列にずつと並んで先犬リーダーに及ぶのだが、先犬の位地にはスピッツがついた。
 バックは教育が受けられるように、わざとデイヴとソルレクスの間に置かれたのであつた。バックは有能な生徒だつたが、彼等もまた同等に有能な先生方で、決して誤りを長くはつづかせず、鋭い歯でその教えを強制した。デイヴは公平で大変かしこかつた。彼は決して理由なしにバックを咬みはしなかつたが、必要なときには咬むことを決して忘れなかつた。フランソアの鞭がその加勢をしたので、バックは仕かえしをするよりも自分のやりかたを改めた方がよいことをさとつた。一度などは、小休止の間に、バックが輓革をもつらして出発がおくれた時に、デイヴとソルレクスが一しよにとびかかつてきて、ひどいびんたをくらわした。その結果もつれがもつとひどくなつたが、バックはそれ以後輓革をちやんとさせておくようによくよく注意した、そこでその日が終らないうちに、バックがとてもよく仕事をのみこんだので、仲間は殆どこごとを云わなくなつた。フランソアの鞭はだんだん鳴る度数が減り、ペローまでがバックの肢をあげさせてよくよく注意してしらべてみたりして、バックに名誉を与えた。
 峡谷をのぼり、「シープ・キャンプ」を過ぎ、胸突坂スケイルズと樹木の限界線を通り、氷河と何百尺という堆雪を横切り、鹹水と淡水の境に立つて悲しくも淋しい北国に人を入れじと見守つているチルクートの大分水嶺を越えるのが、一日の辛い行程であつた。休火山の旧噴火口にできた湖のつらなりに沿う下り坂に道がはかどつて、その夜おそくはなつたが、ベネット湖の口にある巨大な野営地にたどりついた。そこで何千という採金者が春の解氷にそなえて舟を建造していた。バックは雪の中に穴を掘つて、疲れきつた者らしくぐつすり眠りこんだが、翌朝あまりにも早く暗くて寒いうちによびさまされ、仲間と一しよに橇につけられた。
 その日は、橇道がついていたので、四十マイルも進んだが、次の日とそれから後の数日間は、自分らで道をつけてゆかねばならぬので、ずつと骨が折れて、しかもぐんと速度がおちた。大体においてペローが一行の先頭に立ち、幅の広い水かきのような雪靴で雪をふみ固めて、一行の進みを楽にした。フランソアは梶棒をもつて橇の方向をとつていて、時にはペローと交替したが、それもそう度々ではなかつた。ペローは急いでいた。彼は氷のことをよく知つていることを自慢にしていた、ところで、その秋の氷が非常に薄くて、流水のあるところには氷が全然ない、という具合なので、この氷の知識は欠くべからざるものであつた。
 幾日も果てしなく、来る日も来る日も、バックは輓革を曳いた。一行は常に暗いうちからキャンプを撤去し、黎明の最初の光がさす頃には新しくこしらえた数マイルの橇道を後にして雪原の道を進んでいた。それからいつも暗くなつてからキャンプを張り、魚をすこし食べて、雪にもぐりこんで眠つた。バックはがつがつしていた。毎日の割当て食である一封度半の干鮭などはどこへはいつたかわからなかつた。充分に食べたことはなく、不断に空腹の痛みに悩んだ。しかも他の犬共は、彼よりも体重が軽く、こういう生活に生れついていたので、魚は一封度しか貰わないのに、立派な健康状態を維持することができた。
 バックはもとの生活の特徴であつた潔癖をすみやかに失つてしまつた。上品な食べかたなんかしていると、仲間の犬が先ず自分のを食べ終つて、バックのまだ食べ終らない分を盗むのであつた。それは防ぎようがなかつた。二頭か三頭の犬を追払つている間に、魚は他の犬共ののどの中へ消えさつていた。そこでバックはそれを防ぐために、他の犬と同じように速く食べるようにし、空腹の圧迫があまり強いので、自分のものでないものまで取ることも辞せなくなつた。バックはじつと見ていてそのことをおぼえたのである。パイクという新しくきた犬で、仮病つかいと盗みのうまい犬が、ペローがそつぽを向いているひまにベイコンを一切れうまく盗むのを見ると、次の日にその芸当を真似て、しかもベイコンの一塊りをそつくり盗みとつた。大騒ぎになつたが、バックは嫌疑をうけなかつた。そしていつでも現場をおさえられてへまなしくじりばかりやるダブが、バックの犯行のために処罰された。
 その最初の盗みが、バックの北国のとげとげしい環境にあつて生き抜くことに適しているしるしとなつた。それはバックの適応性、即ち自分を変りゆく条件に適応させる能力のしるしとなつた、それがなければ早速恐ろしい死にかたをするのであつた。それは更にまた、彼の道徳性の、頽廃或いは分裂のしるしであつた。道徳性は、無慈悲な生存のための闘争においては無駄なもので余計な負担である。個人財産と個人の感情を尊重することは、南国の愛と同胞感の法則の下にあつては、なかなか結構なことであつた。しかし北国において、棍棒と牙の法則の下にあつては、そういうものを勘定にいれる者は馬鹿者であつて、バックが観察した限りでは、そういう者は結局うまくいかないのであつた。
 バックがそういうことを推理したわけではない。バックは適者であつただけのことである、そして無意識のうちにこの新たな生活様式に順応していつたのである。来る日も、来る日も、その勝目がどうあろうとも、バックは闘争から逃げだしはしなかつた。けれども、赤いスウェーターの男の棍棒がもつと根本的な原始的な法則を彼の中にたたきこんでいた。文明社会にあつては、彼は、例えばミラー判事の乗馬鞭の防衛というような、道徳的考慮のために死ぬことも出来ただろう。しかし今や彼が文明から完全に脱却したことが、道徳的考慮の防衛から免れ、我が身を救う彼の能力によつて証明された。バックはそれだけの楽しみのために盗みをしたのではなくて、胃の腑にせがまれたからであつた。公然と盗んだのでなくて、棍棒と牙の法則を尊重して、ひそかに狡猾に盗んだ。要するに、バックのしたことは、それをしないよりした方が楽であるからしたのであつた。
 彼の進歩(或いは退歩)は速かつた。彼の筋肉は鉄のように固くなり、彼は凡ゆる普通の苦痛に対しては無感覚になつた。外的にはもちろん内的にも経済的になつた。どんなにいやらしく不消化であろうとも何でも食べることが出来たし、一たん食べた以上は、胃液がその栄養分の微量までも抽きだしてしまい、血液がそれを体の最末端まで運んでいつて、最も強靱な組織をつくりあげるのであつた。視覚と嗅覚が著しく鋭敏になり、しかも聴覚がまた甚だしく敏感になつて、眠つている間にもどんなかすかな音でも聞きつけ、それが平和の先触れであるか危険の先触れであるかを識別した。肢指の間に氷がつまればそれを歯で咬みとることをおぼえ、のどが涸いているのに水穴に厚い氷が張つているという時には、後肢で立つて棒のようになつた前肢で打つて氷を割つた。彼の最も目立つた特徴は、風を嗅いでみて、一晩前から天候を予知する能力であつた。彼が木の傍や堤に自分の寝場所を掘る時に、そよとの風もなかつたとしても、あとではきつと風がふきだしてきて、バックは風下で、風除けがあつてちんまりと寝ているというようなことになつた。
 そして彼は経験によつて学んだばかりでなく、永く仮死状態にあつた本能が再び生きかえつてきた。飼い馴らされた世代は彼から脱落した。漠然とではあるが、彼の記憶はこの犬族の若かつた時代へ、野生の犬が群をなして原始林を徘徊し、追いつめた動物を殺して食つた時代へと戻つていつた。咬みきつたり、咬み裂いたり、狼流にすばしこく喰いついたりして格闘することをおぼえるくらいのことは彼には何の骨折りでもなかつた。こういう風に忘れられた先祖は格闘をやつていたのである。それが彼の中にあつた昔の生命に活を入れたのであつて、そして犬族の遺伝性に刻印した早業が彼の早業となつた。その早業が、あたかももとから彼のものであつたかのように、努力もせず、発見もせずに彼のものとなつた。それで、静かな寒い夜な夜な、彼が鼻を星に向けて、長くそして狼のように吠えたてた時、それは実は死んで土となつた彼の先祖が、鼻を星に向けて、数世紀を通じ、彼を通じて吠えているのであつた。そこで彼の韻律は先祖の韻律であり、先祖の苦悩を声にした韻律、静寂と寒気と暗黒が先祖たちに意味したところのものであつた。
 こうして、生は傀儡にすぎぬことの証拠として、太古の歌が彼を通じて涌きおこり、彼は再び自己にまいもどつた。そして彼がここにきたのは、人間が北国で黄色い金属を発見したからであり、マニュエルが園丁の助手で、その賃銀が妻と幾人もの自分と生写しの子供らの必要を満たすにたりなかつたからであつた。
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三 支配する原始的獣性


 バックにあつては、支配する原始的獣性が強く、橇曳き生活のけわしい条件の下にあつてそれがますます成長した。しかもそれは秘やかな成長であつた。新たに生れた狡智のために彼は均衡と抑制を身につけた。新しい生活に順応することに忙しくて気の休まるいとまがなかつたので、彼は喧嘩を買つてでることをしなかつたばかりでなく、出来るだけ喧嘩を避けるようにした。一種の慎重さが彼の態度の特徴となつた。彼は早まつたことをしたり、いきなり直接行動に出たりはしなかつた。そしてスピッツとの間に激しい憎悪があるにも拘らず、彼は焦躁をすこしも表に出さず、凡ゆる攻撃的な行動を避けた。
 ところが、おそらくバックが危険な競争者であることに感づいたために、スピッツは決して彼に歯をむいてみせる機会をのがさなかつた。スピッツはバックをいじめることに羽目を外して、不断に、どちらかが死なねば納まりのつかぬ喧嘩をおつぱじめることに努めていた。この旅の初め頃、ある滅多にない出来事が起きなかつたならば、そういう喧嘩がおきていたかもしれない。その日の終りに、一行はル・パルジュ(ラバージ)湖の岸に吹き曝しの惨めな野営をいとなんだ。降りつもる雪と、白熱したナイフのように肌をつんざく風と、暗黒のために、彼等は手さぐりで野営する場所をさがさねばならなかつた。これ以上まずくいくことは殆どないくらいであつた。背後には垂直の岸壁がそば立つていて、ペローとフランソアは湖水の氷の上に火を焚いて、そこに寝具を延べねばならなかつた。テントは軽装で旅するためにダイエイですててしまつていた。漂流木を五、六本あつめて火を焚いたが、それも氷がとけたために消えてしまつて、彼等は暗やみの中で夕食をとつた。
 バックはひさしのようにさしかかつた岩の根もとに寝所をこしらえた。そこはとても居心地がよくて暖かつたので、フランソアがまず火にかけて氷をとかしておいた魚を分配したときにも、バックはそこを出るのがいやなくらいであつた。ところがバックが割当て食を食べ終つて戻つてみると、自分の寝所を他のものが占領していた。警戒する唸り声がきこえたので、その闖入者がスピッツであることがわかつた。バックはこれまでこの敵との紛争を避けてきたのだが、これはまたあんまりなことであつた。彼の中なる獣性が怒号した。バックは憤激してスピッツに跳びかかつた、それは双方にとつて意外なことであり、殊にスピッツにとつて意外なことであつた、なにしろバックと共にした凡ての経験からして、スピッツは、自分の競争者は無類に臆病な犬で、図体が大きくて重いばかりに一本立ちしていられるやつだ、と思いこんでいたのである。
 二匹がもつれ合つて乱れた寝所からとびだした時、フランソアもまた意外に思つた、そしてその紛争の原因を推察した。「あ、あゝ!」と彼はバックに向つて叫んだ、「ありやそいつにくれちまえ、いまいましかろうが! そいつに呉れちまえ、その泥棒野郎に!」
 スピッツも同じく意気込んでいた。ひたすら怒りと熱心をこめて吠えながら、跳びかかる機会をうかがつてぐるぐるまわつた。バックの方でも同じく熱心に、同じく警戒し、同様に先手をとるためにぐるぐるまわつた。しかしちようどその時であつた、その思いがけないことがおきたのは。それは彼等の覇権争奪の争闘を遠い将来へ、何マイルも何マイルも苦しい橇曳きの骨折りをとげた後へ、のばすことになつた。
 ペローの罵る声と、骨太い体を殴る棍棒のぽかぽかという音と、鋭い苦痛の悲鳴が、修羅場出現の先触れとなつた。野営にこそこそはいりこんできた毛むくじやらなもの、八十匹から百匹ほどの、腹をすかしたエスキモー犬がうようよしていることが、突然発見された、インディヤンの村落からこの野営を嗅ぎつけてきたのである。彼等はバックとスピッツが格闘している間にしのびこんでいた、そして二人の人間が太い棍棒をもつてその間へとびこんでゆくと、歯をむきだして対抗してきた。彼等は食べものの香で狂つたようになつていた。一匹が食料箱に首をつつこんでいるのをペローが発見した。ペローの棍棒がその痩せた肋骨をこつぴどく殴りつけ、食料箱が地上に顛覆したかと思うその瞬間に、二十匹ばかりの餓えきつた動物が競つてたかつてきてパンとベイコンを奪い合つた。棍棒で殴つても知らぬ顔であつた。彼等は雨と降りかかる打撃に悲鳴をあげ吠えたてたのだが、それにも拘らず気が狂つたように競いたつて、最後のパン屑までたいらげてしまつた。
 その間に驚いた組犬たちはそれぞれの寝所からとびだしていたが、この兇暴な闖入者共に襲撃されるだけのことであつた。バックはこういう犬を見たことはなかつた。まるで骨が皮膚からはみ出しそうであつた。汚れた皮をゆるく張つた骸骨にすぎず、眼はかがやいて、牙からは涎がたれていた。しかし空腹からくる狂気のために恐ろしく、抵抗しがたいものになつていて、手向いのしようもなかつた。組犬たちは最初の一撃でもつて崖の根元へ追いこまれてしまつた。バックは三匹のエスキモー犬に攻撃されて、たちまち頭と肩に咬傷と裂傷を受けた。その騒ぎは恐ろしいものであつた。ビリーはいつものように泣いていたが、デイヴとソルレクスは、十カ所ばかりの傷から血を垂らしながら、共に並んで勇敢に闘つていた。ジョーは悪鬼のように咬みまわつていたが、一度は一匹のエスキモーの前肢に咬みつき、骨までもがりがり噛んだ。仮病遣いのパイクは、びつこを引いているやつに跳びかかり、歯をひらめかしてぐいとひつぱつて頚を折つてしまつた。バックはあぶくを吹いている敵ののどにかみついて、歯がその頚動脈に達したので、血しぶきをあびたが、口に流れこむ血の暖かい味に元気附いて、なお一そう獰猛になつた。また別のエスキモー犬に跳びかかつたが、その瞬間に自分ののどに歯のつきささるのを感じた。それはスピッツであつた、裏切つて横合から攻撃してきたのであつた。
 ペローとフランソアが自分らの野営の場所から敵を追払つたので、橇犬共を助けに急いでやつてきた。餓えきつた動物の物凄い浪も二人を前にして遠のいていつた。バックも相手をふるいのけて自由な身となつた。しかしそれも一瞬間にすぎなかつた。二人は食料を護るためにかけ戻らねばならなくなつた、するとエスキモー犬共が舞い戻つてきて組犬を攻撃した。ビリーは、恐愕のあまり勇気をだし、とび跳ねて猛犬の円陣を突破し、氷の上へのがれていつた。パイクとダブがその後を追い、残りの犬全部がまたそれに従つた。バックは、それにつづいて跳んでゆく身仕度をしながら、ちらと横目で見ると、スピッツが明かに自分をつつころばす意図をもつて自分へ突かかつてくるのをみとめた。一たん肢をさらわれたら、ことにこういうエスキモー犬の集団の中では、助かる見込みはないのであつた。しかしバックは身をひきしめてスピックの攻撃の衝撃に堪え、それから湖上の逃走に加わつた。
 後でこの九頭の組犬は一しよにかたまつて、森林の中に避難所を求めた。追求はされなかつたが、みんながひどく惨めな状態にあつた。四カ所や五カ所に傷を受けてないものは一頭もなく、重傷を負つたものもあつた。ダブは一方の後肢にひどい傷を負い、ダイエイで最後に組に加わつたエスキモー犬のドリーは、のどをひどくやられていた。ジョーは片眼を失い、気のよいビリーは、片つ方の耳を咬まれてリボンのように引裂かれ、一晩中泣いたりわめいたりした。夜明けにみんなが疲れてびつこひきながら野営へ戻つてくると、荒掠者は引あげていて、二人の人間は機嫌を悪くしていた。食糧の半分は無くなつていた。エスキモー犬は橇の縛り索とズックの覆いを食い破つていた。実に、何もかも、どんな食えそうもないものでも掠奪をまぬがれてなかつた。彼等はペローの大鹿の皮靴を食い、輓革の断片をかじりとり、フランソアの鞭の端を二尺ほども噛みとつていた。フランソアはそれについてのいたましい物思いをふりきつて、負傷した犬共を見渡した。
「あゝ、俺の友達」と彼はやわらかに云つた、「それじやお前たちは気狂犬になるんじやねえか、そんなに咬まれたんじや。みんな気狂犬になるかもしれんよ、畜生! どう思いますか、え、ペロー?」
 飛脚は半ぱな気持ちで頭を振つた。ドースンまであと四百マイルの雪道があると思うと、犬の間に気狂いができたのではたまつたものではないのであつた。二時間も愚痴をこぼしながら骨折つて、輓具をととのえ、負傷で体のこわばつた組犬が出発し、雪道の中でも彼等が今まで出会つたこともないような難所で、そのためにドースンまでの間では一番の難所を、苦悶してよじのぼつていた。
 三十哩川サーティ・マイル・リヴァーは広く開けていた。その激流のために全体は凍結をせず、とにかく氷のはつているところは、渦巻いているところと澱んでいるところだけであつた。この恐るべき三十マイルをのすには、六日間のへとへとに疲れる労苦が必要であつた。まことに恐るべきもので、その一尺一尺が犬と人間の生命の危険をかけて成就されるのであつた。ペローは、先導役をつとめていて、十何べんも氷の橋をふみはずし、もつていた竿のおかげで僅かに助かつた。その竿は横倒しにもつていて、彼の体で出来た穴の口に差渡しになるようにしていたのである。しかし寒波がはじまつていて、寒暖計は零下五十度を示していた、それで彼は落ちこむ度に、ただ命がたすかるために火を焚いて衣物を乾かさねばならなかつた。
 何ごとがあつても彼はひるまなかつた。彼が何ごとにもひるまないからこそ、政府の飛脚に選ばれたのであつた。彼はあらゆる種類の危険を冒し、決然としてその小さなしなびた顔を霜の中に突込み、かすかな黎明から暗闇に及ぶまで奮闘しつづけた。通れそうもない岸があると川縁の氷の上をまわつてゆくが、その氷がしなつて足の下でひびが入り、そこで立ちどまるわけにもいかなかつた。一度は、デイヴとバックが附いたまま橇がめりこんで、二頭の犬は引きあげられる頃には、半ば凍りついて溺死せんばかりであつた。彼等を助けるためにいつものとおりの火が必要だつた。彼等には氷がひしと凍りついていたので、二人は二頭の犬を、炎のためにこげるほど近く火のまわりを馳け続けさせ、汗を流して氷をとかした。
 また別の時、スピッツがめりこんで、後につづく組犬がバックの前の犬までひきずりこんだ、バックは全力をあげて踏んばつたが、前肢は辷りやすい氷の縁にかかつていて、まわりの氷はみりみりぱりぱり音をたてた。しかしその後にデイヴがいて、同じように頑張つて踏んばり、橇の後にはフランソアが居て、腱が切れるほど引張つた。
 またある時は、前も後も縁の氷が割れてしまつて、崖をのぼるよりほかににげ道がなくなつた。フランソアがちようどそういう奇蹟をあらわしたまえとお祈りしている間に、ペローがまるで奇蹟によつて崖をよじのぼつた。それからあるかぎりの革紐と橇の縛り索と輓革のきれつ端まで集めて長い索をつくり、犬共を一頭ずつ崖の頂上まで引きあげた。橇と荷物の後から最後にフランソアがあがつてきた。それから降る場所をさがし、結局例の索のたすけをかりて下りてゆき、夜にはまた河に達したが、その一日でたつた四分の一マイル進んだだけであつた。
 一行が氷の好いフータリンクア河に達した頃には、バックは精根がつきはてていた。他の犬も全部同様な状態にあつた。しかし、ペローは、失つた時間をとりかえすために、朝は早くから夜はおそくまで彼等をこきつかつた。最初の日は三十五マイル歩いて「大鮭川ビッグ・サマン」に達し、次の日にはまた三十五マイルで「小鮭川スモール・サマン」に達し、また次の日には四十マイルで、「五指川ファイブ・フィンガース」によほど近いところまで行つた。
 バックの足はエスキモー犬の足ほど引きしまつて固くなかつた。最後の野犬であつた彼の先祖が穴居人か河棲人かに馴らされて以来多くの世代の間に軟らかくなつていた。バックは一日中苦しんでびつこをひき、野営がはられるとすぐ死んだ犬のように寝てしまつた。お腹は空いていても、魚の割当て食を受取りにゆく気にもなれなかつた。それでフランソアがそれをもつてきてやらねばならなかつた。それにまたこの犬の馭者は、毎晩食後に三十分間バックの足をこすつてやり、自分の鹿皮靴の上部をきりとつて、バックの四足にはかせる雪靴をこしらえてやつた。これは大したたすかりであつた。だから、或る朝フランソアが雪靴をはかせることを忘れた時、バックが仰向けに寝て、四肢を訴えるように空中にさしあげて、振り動かし、雪靴がなければ動くまいとしたので、さすがのペローもそのしなびた顔をゆがめて苦笑した。やがて彼の足も雪道になれて固くなり、すりきれた足の道具はすてられた。
 或る朝ペリー河で、彼等が輓具をつけていると、何事でも目立つたことのないドリーが急に気が狂つた。長い胸を裂くような狼式の吠え声でその容態がわかつたので、どの犬も怖れて毛を逆立てた、するとドリーはまつすぐにバックに跳びかかつていつた。バックは犬の発狂するのを見たことがなかつたし、発狂を恐れる理由はもたなかつたのだが、やはりこれは恐るべきものだとさとつて、恐慌状態でにげだした。バックはまつすぐに馳けだした、するとドリーは、喘いであぶくをふきだしながら、一跳び分だけおくれて追つかけてきた。ドリーはどうしてもバックに追いつけなかつた、それほどバックの恐怖はひどかつた。またバックはドリーをひきはなすことができなかつた、それほどドリーの狂気はひどかつたのである。バックはその島の木の茂つた中腹をかけ抜けて、低い方の端へかけ下り、ざらざらの氷の一ぱいつまつた裏水道を横切つて別の島へ移り、また三番目の島に達すると、くるりと向きをかえて河の主流に向い、決死的にそれを横切りはじめた。そしてその間中、見はしなかつたけれども、ドリーがほんの一跳び分だけあとで唸つているのを聞くことができた。フランソアが四分の一マイル向うからバックを呼んだ、そこでバックは、なお一歩を先んじつつ、いきを切らして苦しく喘ぎながらも、フランソアが救つてくれるものとすつかり信じて、急に方向を転じた。フランソアは斧を手にもつて構えていた。そしてバックが弾丸のように彼の前をかけ抜けると、斧が狂つたドリーの頭を発止と打ちおろした。
 バックはくたくたになり、呼吸が苦しくて泣きそうになり、力尽きて、よろよろと橇にもたれかかつた。これがスピッツのつけ目であつた。彼はバックに跳びかかつた、そして彼の歯は抵抗しない敵を二度も噛み、骨に至るまで肉を咬み裂いた。するとフランソアの鞭が降つてきた、そこでバックはスピッツが組犬がかつて受けたこともないほどひどい鞭打ちを受けるのを見て、満足を感じた。
「悪魔だよ、あのスピッツは」とペローが云つた、「いまにあいつはバックを殺すよ」
「バックは二人分の悪魔ですぜ」とフランソアは答えた、「俺はしじゆうバックを見てるから、よくわかつてる。聴きなせえよ、いまにひどく怒りやがつて、スピッツをもりもり食つちまつて、雪の上に吐きだしますから。ほんとに。俺あ知つてる」
 この時から二頭の間は戦争状態であつた。この組の先犬であり認められた首領としてのスピッツは、自分の覇権がこの奇妙な南国犬におびやかされていることを感じた。そして彼が今までに知つた多くの南国の犬のうちで、野営の橇曳きで立派にやつていける犬は一頭もなかつたのだから、まことにバックは彼にとつて奇妙なのであつた。南国の犬はみんなあまり柔弱で、労苦と霜と飢餓のために死ぬのであるが、バックは例外であつた。バックだけが持久し成功し、体力と獰猛さと狡智がエスキモー犬に匹敵した。それにバックはもののわかつた犬であつた、そして彼を危険なものにしたのは、赤いスウェーターの男の棍棒が、彼の覇権獲得の欲求から、盲目的な勇気と軽はずみをたたきおとした事実であつた。彼は何よりもまず狡猾であつて、原始にほかならぬ忍耐をもつて、自分の時を待つことができた。
 指導権を得るための衝突がくることは避けられぬことであつた。バックはそれを望んだ。彼がそれを望んだのは、それが彼の本性だからであつたし、彼が、あの名づけようもない、捕捉しようもない、橇曳きの矜恃にしつかりととりつかれていたからであつた――その矜恃はこの労役に服する犬共を最後の喘ぎまでつかんではなさず、犬共はこの矜恃の故に喜んで輓具をつけたまま死に、輓具から切離されれば断腸の思いをするのである。これはデイヴの橇際の犬ホイーラーとしての矜恃であり、ソルレクスの全力を傾けて曳く時の矜恃であつた、野営をたたむ時に犬共を捉え、気むずかしく不機嫌なけだものから、緊張して熱心で野心をもつた生物に変えてしまう矜恃、終日犬共に拍車をかけ、夜野営を張つた時に犬共を脱落させ、また陰鬱な不安と不満足の状態に戻す矜恃であつた。これはスピッツを支え、スピッツをして、輓革をつけていてしくじつたり、ずるけたりする犬や、朝輓具をつける時にずらかる犬を懲らしめさせる矜恃であつた。同様にスピッツをして、バックをやがて先導犬となるものと見て恐れさせたのも、この矜恃であつた。そしてそれがまたバックの矜恃でもあつた。
 バックは公然と相手の指導権を脅かした。バックはスピッツと、スピッツが罰する筈のずるけ犬の間に割つていつた。しかもそれを彼は故意にやつたのである。或る夜ひどく雪が降つて、朝になつても仮病遣いのパイクが姿を現わさなかつた。彼は一尺も積つた雪の下の寝所にちんまりと隠れていて、フランソアが名を呼んでさがしても見つからなかつた。スピッツが烈火の如くに怒つて、野営中を暴れまわり、嗅いでまわつて、それらしいところを掘りまくり、恐ろしく唸りたてたので、パイクは隠れ場所でそれを聞いてふるえていた。
 しかしおしまいにパイクが掘りだされ、スピッツが彼を罰するために跳びかかると、バックが同じく憤慨してその間にとびこんだ。それがあまりにも思い設けぬことであり、いかにも抜け目なく行われたので、スピッツは後向きにしかも肢をさらわれて抛り出された。それまでだらしなく震えていたパイクは、この公然たる叛逆を見て元気附き、倒された先導犬にとびかかつた。フェア・プレイの法則などは忘れはてたバックも、同様にスピッツへ跳びかかつた。しかしフランソアが、この出来事を見てくすくす笑いながらも、正義の執行をまげるわけにはいかず、全力をこめてバックに鞭打ちをくらわした。それでもバックをそののびた競争者からもぎはなすことができなかつたので、鞭の柄の方を存分につかつた。バックはその打撃で半ば気絶したようになつて打ち離され、更に繰りかえし繰りかえし鞭で打たれた、そしてその間にスピッツが幾度も犯則したパイクをいやというほど懲らしめた。
 それから後ドースンがだんだん近くなつてくる日々、バックはなおもスピッツと犯則した犬との間を干渉しつづけた。しかしそれもフランソアがあたりに居ない時に巧妙にやるのであつた。バックの覆面の叛逆にともなつて、全般的な反抗が生れてきて増大した。デイヴとソルレクスは影響を受けなかつたが、他の組犬はますます悪くなつていつた。万事がもはやうまくいかなくなつた。不断に小競り合いや打つかり合いがあつて、しじゆう紛争が起り、その影にはいつもバックが居た。そのためにフランソアは忙がしかつた、彼は二者の間に生死の争闘が早晩あるにちがいないことを知つていて、それを不断に心配しているのであつた。それで他の犬共の競り合いやつかみ合いの物音をきくと、バックとスピッツがやつているのではないかと心配して、寝衣のままとびだすことも、一晩や二晩ではなかつた。
 しかしその機会はこないまま、大格闘はまだ将来のこととして、或るものさびしい日の午後、一行はドースンへ乗りつけた。ここには沢山な人間と、無数の犬がいた、そしてバックから見るとみんなが働いていた。犬が働くことは定められた条理と思われた。終日犬共は長い列をつくつて本通りを右往左往し、夜になつても彼等の鈴の鳴る音が通つていつた。犬共は小屋用の丸太や薪を曳いたり、鉱山へ荷物を運んでいつたり、サンタ・クララ渓谷でなら馬がやる凡ゆる種類の仕事をした。バックはそこここで南国の犬に出会つたが、犬は大抵野生の狼のようなエスキモー種だつた。毎夜定規的に、九時と十二時と三時に、彼等は夜の歌を、妖しげな不気味な歌を歌いあげたが、バックはそれに喜んで参加した。
 北極光オーロラが冷たく頭上に輝き、或いは星くずが霜夜のダンスでとびはね、大地が雪の棺衣の下で凍てつきしびれている時、このエスキモー犬の歌は生への挑戦でもあつたろう、ただそれは単調を帯び、長く尾を引く泣き声とすすり泣きを伴い、むしろ生の訴え、生存の労苦の表現であつた。それは古い歌、その種自身と同じく古い歌であつた――それは歌がすべて悲しみの表現であつた若かりし世界の最初の歌の一つであつた。それには算えきれぬ多くの世代の悲痛がこもつていた、そしてこの悲痛にバックはあやしくも揺り動かされたのである。バックがうめきすすり泣いた時、それは往昔の野生の先祖たちの苦痛であつたところの生きることの苦痛のためであり、先祖たちにとつては恐怖と不可思議であつた寒さと暗黒とに対する恐怖と神秘とのためであつた。そしてバックがそれに動かされたことは、バックが火と屋根の時代を遡つて、かの遠吠えしていた生の原始時代にまで完全にたちかえつたことを示すものであつた。
 一行がドースンに着いた時から七日目に、彼等は峻しい岸を下りてバラックス河上をユーコン路へ出て、ダイエイとソールト・ウォーター〔沿海地方〕へ向つた。ペローはさきにもつてきた公文書よりもどつちかと云えばもつと緊急な公文書をもつているのであつた。それに旅行の誇りが彼を捉えた上に、彼はこの年の旅行のレコードをつくることを目ざしていた。それには都合のよいことがいくつもあつた。一週間の休息で、犬共は恢復してすつかり元気になつていた。彼等がこの地方へ踏み分けてきたみちは、あとからきた旅行者がおすなおすなとばかりに一ぱいつめかけていた。それにまた警察が二、三カ所に犬と人間の食糧を貯蔵するように計らつていた、それで彼は軽装で旅行していたのである。
 一行は第一日目に「シクスティ・マイル」に達したが、それは五十マイルの行程だつた、次の日には景気よくユーコン河をさかのぼりペリーによほど近附いていた。しかしそういう素晴らしい速度は、フランソアの非常な面倒と心配なしでは得られるものでなかつた。バックに指導された執拗な反抗が組犬の連帯を破壊していた。それはもはや一頭の犬が輓革をつけて駈けているような具合にはいかなくなつていた。バックが叛逆者を激励したので、彼等はあらゆる種類のちよつとした不行跡をやるようになつた。スピッツはもはや大して恐ろしい指導者ではなかつた。従来の畏怖は消えて、皆が一様に彼の権威に挑戦し得るようになつた。パイクが或る夜スピッツの魚を半分盗んで、バックの保護の下に、それをたいらげてしまつた。また別の夜には、ダブとジョーがスピッツと格闘して、自分らが当然受ける筈の処罰を取消さした。それに気の好いビリーでさえ、性が悪くなつて、以前のように哀れに泣いてばかりいるのではなくなつた。バックはスピッツの傍を通るときにはきまつて脅かすように唸つて毛を逆立てた。実際バックの行動はいじめつこの行動に近附いて、スピッツのほんの鼻先で、仲間の間を威張つて歩きまわつた。
 紀律の頽廃は犬共の相互関係にも同様に影響した。犬共は以前よりは余計にお互いに喧嘩し争い合い、ついには野営が咆えくるう気狂病院みたいになることもあつた。デイヴとソルレクスだけは変らなかつたが、それでも果てしもないいがみあいには腹を立てていた。フランソアは奇妙な野蛮な呪詛の言葉を吐き、怒つても手応えがないので雪の上で地団太を踏み、髪毛をむしつた。彼の鞭はしじゆう犬共の間でうなりつづけたが、殆どきき目がなかつた。彼の背がこちらを向くとすぐ犬共はまた始めるのであつた。フランソアが鞭でもつてスピッツを後援すると、バックが他の犬共を後援した。フランソアはすべての紛争の背後にバックの居ることを知つていたが、バックは彼が知つていることを知つていた。しかしバックはとても利口でまたと現場をおさえられるようなことはしなかつた。バックは輓具をつけると忠実に働いた、それは労役が彼にとつて一つの喜びとなつたからである。しかも狡いことに仲間の間に喧嘩をおこさせて輓革をもつれさせることはもつと大きな喜びであつた。
 ある晩夕食のあとで、ターキーナ川の口のところで、ダブが雪靴兎を追いだしたが、へまをやつて取りにがした。たちまち組犬全部でわいわい叫びだした。五十間くらい離れたところに北西部警察の野営があつて、そこにいる五十頭の犬は全部エスキモー犬だが、それがこの追跡に参加した。兎は川を馳け下り、小さな支流へかけこんで、そこの固く凍つた河床をぐんぐんかけのぼつた。兎は雪の表面を軽やかに走つていつたが、犬共は全力をかたむけて雪をかきわけてゆくのであつた。バックは六十頭の犬群の先頭に立つて、次々に曲つて追つかけたが、どうしても追いつけなかつた。バックはしきりに鼻をならして、この疾走に精根をうちこんでいた、そして淡い白い月光の下で、彼のすばらしい体躯が、飛躍また飛躍、閃光を発して前進していた。そして雪靴兎の方でも、蒼白の霜の精のように、飛躍また飛躍、閃光を発して進んでいた。
 或る定まつた時期に人々を騒々しい都会から森林や平原に追いだして、化学的に推進させられる鉛の小丸で物を殺させる、あの昔ながらの本能の振起、流血慾、殺す喜び――そういうものをバックは感じた。ただこの際それが無限に身近いものであつた。彼は犬群の先頭に立つて馳けていた。野生のもの、即ち生きた肉を追いつめていた。自分の歯で噛み殺し、自分の鼻つつらを眼のところまで暖かい血で洗うために。
 そこに一つの法悦があり、それは生命の絶頂を劃するものであつて、それを越えて生命は昇り得ないのである。そしてこれこそ生きることの逆説パラドックスであつて、この法悦は人が最も旺んに生きている時に来るのであり、人が生きていることの完全な忘却として来るのである。この法悦、この生きることの忘却は、芸術家の場合には、一片の炎に捉えられ我を忘れている時に来るものであり、兵士にあつては、敗れた戦場にあつてなおも戦意旺盛で助命を拒絶する時に来るのである。そしてそれが、バックの場合には、犬群の先登に立ち、そのかみの狼の咆吼をあげ、自分に追われて月光の中を素早く逃げてゆく生きている食物を緊張して追つかけている時に来たのである。彼は自分の本性の深淵を、彼の本性の中でも現在の彼には及びもつかぬほど深い、「時」の胎内〔世の初め〕へ戻つている部分の深淵をさぐつていた。彼は、ひたすらな生命の波うちに、生存の津波に、一つ一つの筋肉と関節と腱の完全な歓喜に支配されていた、というのは、それが死に最も遠いものであり、赤熱して元気が溢れ、運動として自らを表現し、星くずの下に動かぬ死物の表面を、欣喜雀躍して飛翔しているからであつた。
 しかしスピッツは、どんなに気分が昂ぶつている時でも冷静で勘定高く、犬群から離れて、小川がぐるりと長い屈曲をなしている陸の頚ともいうべき狭いところを近道していつた。バックはそのことを知らなかつた、そこで彼がその曲り角をまわつて、霜の精のような兎がまだ彼の前をひよいひよいはねていた時に、また別のそして遥かに大きい霜の精が、さしかかつた岸から、兎の行く手へとびおりるのが見えた。それはスピッツだつた。兎は後戻りすることができなかつた、そして白い歯が空中でその背を咬みくだくと、やつつけられた人間が叫ぶような大きな声で叫んだ。この声、「生」が「生」の絶頂から「死」の把握の中へ身を投げるときの叫び、を聞くと、バックの後につづいた犬の全群が地獄の歓喜の合唱を歌いあげた。
 バックは叫ばなかつた。彼はたちどまらずスピッツに肉迫していったが[#「いったが」はママ]、肩と肩とがあんまりくつつきすぎて、のど元のねらいが外れた。二頭は粉雪の中でころがりまわつた。スピッツは殆ど投げ倒されたことはないかのように立ちなおつて、バックの肩下を咬んでおいてとび離れた。彼の歯が二度までも、鼡捕りの鋼鉄の歯のようにかちかちと噛み合つた。そして彼はもつとよい足場を求めて後退りながら、薄い上向きの唇をねじまげて唸つた。
 たちまちにしてバックはさとつた。時がきたのだ。決死の時であつた。二頭がぐるぐるまわり、唸り、耳を後にたおし、しきりに好いしおをうかがつていると、バックはその場面が親しいものに思われてきた。彼にはそれをすつかり記憶しているように思われた――白い森と大地と月光と、戦いのスリル。白色と沈黙の上に不気味な静けさがたなびいていた。そよとの風もなく――何物も動かず、木の葉一枚も揺えず、眼に見える犬の呼吸いきが緩やかにたちのぼつて、霜を含んだ空気の中に低迷した。犬共は雪靴兎をたちまちに平らげてしまつていた、これらの犬は馴らしそこねの狼であつた。そして犬共はこんどは獲物をまちうけるように円陣をつくつてつめかけた。彼等もまた沈黙した、そして眼だけが光つて、呼吸いきはゆるゆるたちのぼつていた。バックにとつては、それは何も新しいことでも奇妙なことでもなかつた、往昔のままのこの場面はいつもそうであつたような、ありふれた事態であつた。
 スピッツは格闘には練達していた。スピッツベルゲンから北極圈を越え、カナダと不毛地帯を横切つて、彼は凡ゆる種類の犬に出会つて自分を立て通し、彼等に対する支配権を達成したのであつた。彼の怒りは激しかつたが、決して盲滅法の怒りではなかつた。引裂き破壊せんとする激情の中にあつて、敵も同じく引裂き破壊せんとする激情をもつていることを決して忘れなかつた。突貫を受ける準備ができるまでは決して自分から突貫せず、先ず攻撃を防いだ後でなければ攻撃しなかつた。
 バックがこの大きな白い犬の頚に歯をたてようと努力してもうまくいかなかつた。彼の牙が柔らかい肉を求めて咬みつけば、必らずスピッツの牙とかち合うのであつた。牙は牙と打ち合い、唇は切れて血を流したが、バックは敵の防禦の裏をかくことができなかつた。やがて彼は熱中してきて、突貫の渦巻きの中にスピッツを封じこめてしまつた。幾度も幾度も、生命が表皮に近いところまで泡立つている雪白ののど元をねらつたのだが、毎度スピッツが咬みついては離れるのであつた。それからバックはのど元に向つて突貫すると見せておいて、とつさに頭をひつこめて横からくるりと曲げ、肩をスピッツの肩にぶつつけて、それを梃子にしてスピッツを倒そうとした。しかしそうはいかず、スピッツが軽く跳び退く度にバックの肩が咬み裂かれた。
 スピッツは無傷なのに、バックは血を流し苦しく喘いでいた。格闘は殺気立つてきた。そしてその間じゆう、黙つている狼のような犬の円陣は、どちらにしても倒れた方を片附けてしまうつもりで待ちうけていた。バックが息を切らしてくると、スピッツが突貫に移り、バックをしじゆう足場をもとめてよろめかせた。一度バックが顛倒すると、六十頭の円陣全体がすわとばかりにたちあがつた、しかしバックが殆ど空中で體位をとりもどしたので、圓陣はまた坐りこんで待つことにした。
 しかしバックは大をなす所以の特質、即ち想像力をもつていた。彼は本能によつて格闘したが、また頭脳によつて同じく格闘することができた。彼はあたかも例の陳腐な肩わざをかけるふりをして突貫したが、最後の瞬間に雪の上に低く身をふせてとびこんだ。彼の歯はスピッツの左の前肢を咬んだ。骨の折れる音がして、この白い犬は三本肢でバックにたち向つた。バックは三度も相手をぶつ倒そうとしたが、やがて前の早わざを繰りかえして前肢を噛み折つた。スピッツは、苦痛がひどく力が抜けたのも構わず、死物狂いに戦いつづけようとした。彼は、黙つていた円陣が、眼を輝やかし、舌をぺろぺろだして、銀色の呼吸いきをあげながら、自分の方へ迫つてくるのを見た。過去において同様な円陣が負かされた戦闘者に迫つてゆくのを見たことがあつたが、今度だけはその負かされたものは彼であつた。
 もはや望みはなかつた。バックは容赦しなかつた。慈悲はもつと温和な風土のためにとつてあつた。バックは最後の突貫の機を窺つた。円陣はバックが脇腹にエスキモー犬の呼吸を感じることが出来るほどつめよつていた。スピッツの向う側にも右側にも左側にも、彼等が跳びかかるために半ば身をかがめて、スピッツにぴたりと眼をつけているのが見えた。休止がきたように思われた。動物という動物がまるで石と化したように動かなかつた。ひとりスピッツが前後によろめきながら、ふるえて毛を逆立て、さしせまつた死を脅かして追払うように、恐ろしい威嚇の唸り声をあげていた。やがてバックは跳びつき跳び離れしはじめたが、彼が跳びついた時、肩がついに肩と真向うからぶつかり合つた。暗い円陣はちぢまつて月光溢るる雪の上の一点となり、スピッツは眼界から消え去つた。バックは立つてただ見ていた、勝つた選手として、敵を殺してそれに満足した支配する原始的獣性として。
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四 覇権を勝ち得たもの


「え? 俺が何と云いました? 俺がバックは二人分の悪魔ですぜと云つたなあ、ほんとでしよう?」
 翌朝スピッツが居なくて、バックが傷だらけなことを発見したとき、フランソアがこう云つた。彼はバックを火のところへひつぱつていつて、その火のあかりで傷を点検した。
「スピッツのやつひどく闘つたな」とペローが、大きく口を開いた裂傷や切傷をしらべながら云つた。
「そしてバックはその倍もひどく闘つたんですぜ」とフランソアが答えた、「そしてこれで俺たちも楽になりやす。もうスピッツがいなけりや、もう面倒もなしさね、きつと」
 ペローが野営用具をたたみ橇に荷を積んでいる間に、フランソアが犬に輓具をつけはじめた。バックはとつととかけていつて、スピッツが先導犬として占めていたはずの場所についた。しかしフランソアはそれに気附かず、ソルレクスをその羨望の的となつている地位へつれてきた。彼の判断によれば、ソルレクスが残つているうちでは一番好い先導犬であつた。バックは怒つてソルレクスに跳びかかり、追払つてその位置についた。
「え? え?」とフランソアが愉快そうに自分のももを叩いて云つた、「バックを見て下せえよ。スピッツを殺しておいて、その仕事をとりあげようてんですよ」
「あつちへ往け、こいつめ!」と彼は叫んだ、しかしバックは動こうともしない。
 彼はバックの頚筋をひつつかんで、バックが脅かすように唸るのも構わず、片側へ曳きずりだして、ソルレクスを入れかえた。老犬はそれを好まず、はつきりとバックが怖いという様子をしてみせた。フランソアはきかなかつた。しかし彼が背をこちらに向けるとすぐ、バックがまたソルレクスを追いのけ、ソルレクスはちつとも頑張らないで退いてしまつた。
 フランソアが怒つた。「よし、畜生、こらしめてやるから!」と彼は太い棍棒を手にもつて戻つてきて云つた。
 バックは赤いスウェーターの男のことを思いだして、そろそろ後退した、そしてソルレクスが再びもとへ戻されても、攻撃しようとはしなかつた。しかし彼は棍棒がわずかに届かないあたりをぐるぐるまわつて、腹立ちまぎれにひどく唸つた。そしてまわりながらも、フランソアがそれを投げつけてもうまくかわすことができるように、棍棒を見守つていた。彼は棍棒にかけてはそれほど賢明になつていたのだ。
 フランソアは自分の仕事を進め、もとのデイヴの前の位置につかせるつもりでバックを呼んだ。バックは二、三歩後へさがつた。フランソアが追つて行くと、また後退した。そういうことをしばらくやつてから、フランソアはバックが打たれることを恐れているのだと思つて、棍棒をすてた。しかしバックは公然と反抗しているのであつて、棍棒で打たれることを免れたいのではなく、指導権を得たがつていた。それは当然彼のものであつた。彼はそれを勝ち得たのだから、それ以下では満足できなかつた。
 ペローが手を貸した。二人で小一時間もバックを追いまわした。棍棒をなげつけると身をかわした。二人は彼を呪い、彼の前の父と母を呪い、彼の後にくる彼の子供の最後の世代までも呪い、彼の体の毛の一本一本、彼の血管の血の一滴一滴までも呪つた。するとバックの方でもその呪いに唸りをもつて答え、二人の手の届かないところへ逃げつづけた。バックは決して逃亡しようとはしないで、野営のまわりをぐるぐる後退りしてまわり、自分の望みが叶いさえすれば、戻つてきて好い子になるつもりだということを、明かに示していた。
 フランソアは坐りこんで頭を引掻いた。ペローは時計を見てこぼした。時間がどしどし経つていた、それに彼等は一時間も前に出発している筈だつた。フランソアはもう一度頭を掻いて、頭を振り、きまり悪そうにペローを見てにやりと笑つた。するとペローは俺達が負けだというしるしに肩をすぼめた。そこでフランソアがソルレクスの立つていた場所へ行つてバックを呼んだ。バックは犬の笑い方で笑つた、しかも寄りつかなかつた。フランソアはソルレクスの輓革をはずして、もとの位置につけた。組犬は橇につけられてちやんと一列に並び、出発の用意をととのえていた。だからバックのつく場所は先登よりほかにはないわけであつた。もう一度フランソアが呼ぶと、もう一度バックが笑つてやはり寄りつかない。
「棍棒をすてろ」とペローが命令した。
 フランソアが命にしたがうと、バックが勝誇つたように笑つて馳けより、身をひるがえして組の先登の位置についた。輓革がつけられ、橇は動きだし、二人の人間もかけだして、一行は河上の道へ突進していつた。
 フランソアはバックを二人分の悪魔だといつて前から高く評価していたが、その日もまだ早いうちに、過小評価していたことに気がついた。バックは一躍して先導の義務を引受けたのだが、判断が必要であり、即決即行が必要な場合には、フランソアが匹敵するものなしと考えていたスピッツよりも、優れたところを見せるのであつた。
 しかもバックの得意とするところは、仲間に紀律を与えてそれを守らせることであつた。デイヴとソルレクスは覇権の移動に無関心だつた。そんなことは彼等の職分ではなかつた。彼等の職分は労役すること、輓革をつけて大いに労役することであつた。それに干渉されない限り、彼等は何が起ろうと構わないのであつた。気の好いビリーだつて、彼が秩序を保つ限りは、みんながいくら心配したつて先導することができた。しかし、他の犬共はスピッツ時代の末期に放埓になつていたのだから、今やバックが彼等を懲らしめて紀律を守らせることにとりかかると、彼等の驚きは大したものであつた。
 バックのすぐ後で曳いているパイクは、どうしてもそうすることを強いられない限り、体重の一オンスとてもよけいに胸革にかけることはしない奴であつたのだが、それが油を売つていると早速、矢継早やに懲らしめられることになつた、そしてその第一日が終らないうちに、生れて以来かつてないほど精出して曳くようになつていた。最初の夜野営をはつてから、むつつりやのジョーが存分に処罰された――これはスピッツでさえやることに成功しなかつたことである。バックは卓越した体重を力にわけもなくジョーを圧倒し、徹底的にやつつけたので、ジョーはおしまいに歯向うことをやめ、鼻声になつて慈悲を乞い始めた。
 組犬全体の調子がめきめき活気づいてきた。かつての共同一致が恢復され、犬共が再び協力して輓革についた一頭の犬のように駈けるのであつた。リンク急潭ラピッズで、土着のエスキモー犬二頭、ティークとクーナが加わつたが、バックがたちまちその二頭をこなしつけた早わざにはさすがのフランソアも息がつけなかつた。
「バックみてえな犬つてねえもんだ!」と彼は叫んだ、「いや、まつたくねえや! 千両の値打ちがあるぞ、畜生め! え? あんたはどう思います、ペロー?」
 するとペローはうなずいた。彼はこの時にはレコードを上まわつていたし、日毎に好調に向つていた。道はよく踏み固められていて、素晴らしいコンディションになつていたし、新しく降つた雪の邪魔もなかつた。寒すぎるということもなく、気温は零下五十度に下つたまま、全旅程を通じてそのままであつた。人間は代る代る橇に乗つたり、降りて馳けたりして、犬共は極くたまにしか止まらないで躍進しつづけた。
 三十マイル河は比較的によく氷が張つていて、彼等は来る時には十日もかかつたところを帰りには一日で跋渉した。ル・パルジュ(レバージ)湖の裾から白馬急潭ホワイト・ホース・ラピッズまでの六十マイルは、一走りで駈けつけた。マーシュ湖とタギッシュ湖とベネット湖(七十マイルに及ぶ湖)を横切る時には、あんまり速く飛んでゆくので、降りて走る番にあたつた人間は、橇にとりつけた索につかまつて引つぱつて貰つた。そして第二週の最後の夜には、一行は白峠ホワイト・パスを越えて、スキャグウエイの町と船舶の燈火を足下に見ながら、海に向う斜面を降りていつた。
 これは速い旅のレコードだつた。十四日間毎日平均四十マイルを駆けていた。三日間というものペローとフランソアはスキャグウエイの本通りをあちらこちらとほらを吹いてまわり、浴びるほど振舞酒を飲まされた。そして組犬の方は、しじゆう犬馴らしや犬馭者の群にとりまかれて褒め讃えられた。それから西部の悪漢三、四人がこの町の掠奪を企てて、その骨折りのお礼に胡椒盒のようにさんざん穴をあけられた。そして公衆の興味は他の偶像へ向けられた。次に官憲の命令がきた。〔官命によつてペローは別の役目についたのである〕フランソアがバックを呼びよせ、両手で抱きあげて惜しみ泣いた。そしてそれがフランソアとペローの最後であつた。二人は、他の人々と同じく、バックの世界から永久に消え去つた。
 スコットランド人との混血の男がバックとその仲間を引受け、他の十組ばかりの組犬と一しよに、またもドースンへの物倦い旅に出発した。今度は軽装旅行ではなく、ましてや時間のレコードどころではなく、毎日重い荷を曳いての苦しい労役であつた。けだしこれは郵便橇であつて、世界中のことづてを、極地の蔭で黄金を求めている人々のもとへ運ぶのであつた。
 バックはそれが好きでなかつたが、その仕事によく堪え、デイヴやソルレクスの流儀にならつて、矜恃をもち、仲間が、それに矜りをもつもたぬに拘らず、充分に協同するように監督した。それは単調な、機械のように規則正しく運転する生活であつた。来る日も来る日もすつかり同じであつた。毎朝一定の時間に料理人が起きて、火が焚かれ、朝食が食べられた。それから幾人かが野営をたたむ間に他の者が犬に輓具をつけ、一行が出発してから一時間かそこら経つと、一しきり暗くなつてそれが黎明の予告を与えた。夜には野営張りで、テントの垂布を張るものもあれば、薪と寝床用の松の枝を切るものもあり、料理人に水や氷を運んできてやるものもあつた。犬共も食餌をもらつた。それは犬共にとつて一日のうちで唯一の呼び物であつた。しかしその魚を食べてしまつてから一時間くらい他の犬と一しよにぶらつきまわるのも好いことであつた。他の犬なら百頭くらいはいつでもいた。中には喧嘩に強い犬もいたが、バックはどんな強そうなのとでも三べんも喧嘩するとすぐ覇權を獲得した、それでバックが毛を逆立てて歯をむいてみせると、犬共はみんなよけて通すようになつた。
 おそらく何よりも彼が好んだことは、火の傍に寝そべつていることであつた。後肢は体の下に折り敷いて、前肢は前へずうつと伸ばし、頭はもたげ、眼は焔を見て夢見るようにまたたいていた。時々思いおこすのは、陽あたりのよいサンタ・クララ溪谷にあるミラー判事の大邸宅のこと、セメントの水浴タンクとメキシコ産無毛犬のイサベルと日本産の狆ツーツのことであつた。しかしもつとよく思いだすのは、赤いスウェーターを着た男と、カーリーの死と、スピッツとの大格闘と、今までに食べた或いは食べたいと思つたおいしい物のことであつた。ホームシックにはかからなかつた。陽の照る国は極く漠然とした遠いものになつていて、そういう記憶は彼に何の影響力ももたなかつた。それより遥かに有力な、彼が以前には見たこともなかつた事物に親しみらしいものを与えた、彼の遺伝の記憶であり、彼のうちにあつて後にはうすれていつたが、更にまた後で再び活溌になり生々してきた(先祖の記憶が習慣となつたものにすぎぬ)本能であつた。
 時々そこにうずくまつて、焔を見ながら夢見るようにまたたきしていると、その焔は昔の火の焔であつて、前にいるのは混血の料理番とは違う別の人間であるような気がした。そして別な人間は脚が短かくて手が長く、筋肉はまるまると膨れてはいずに、筋張つてこぶこぶになつていた。その男の髪は長くて、頭は髪の下から眼にかけてそげていた。奇妙な音声を発し、暗黒をひどく恐れているようで、しきりに暗い方をのぞいてみて、一方の端に重い石をくつつけた棒を手にしつかりと握り、膝と足の中間にぶらさげていた。殆どまる裸にちかく、ぼろぼろで火に焦げた毛皮が背中の一部分にかかつていたが、体じゆうに毛が一ぱい生えていた。胸と肩から腕と太腿の外側にかけて、毛がもじやもじやと生えて殆ど毛深い毛皮のようになつている部分もあつた。直立しているのではなくて、胴体は臀部から前にかがみ、膝のところから曲つた脚で立つていた。その体にはほとんど猫のような特殊な弾性或いは反※[#「てへん+発」、U+2B77C、66-5]力があり、見えるものと見えないものに対する不断の恐怖の中に生きている者の敏感な油断のなさがあつた。
 この毛深い人間が火の傍につくばつて、頭を脚の間にはさんで眠つていることもあつた。そういう場合には、肱を膝の上につき、毛深い腕で雨を除けるように両手を頭の上で組み合わせていた。そしてその火の向うの、火を取巻いている暗黒の中に、バックは無数の炭火の光を見ることができた、それは二つずつ、いつも二つずつ対になつていて、大きな肉食獣の眼である、ということを彼は知つていた。そしてバックは、彼等の体が下生えの中を通るパリパリという音をきくことができたし、夜には彼等が騒ぐ音を聞いた。そしてここユーコン河の岸で、とろりとした眼を火に向つてまばたきさせながら夢を見ていると、昔の世界のそういう物音や光景のために、背すじの毛がもりあがり、肩から頚にかけて毛が逆立つて、ついには低くおしつけられたように呻いたり、軽く唸つたりしたので、混血の料理番が呼びかけるのであつた、「やい、こらバック、眼をさませ!」そうするとその別の世界は消え去り、現実の世界が彼の眼界にはいつてきた、それで彼はぐつすり眠つていたもののように起きあがり、あくびをして伸びをするのであつた。
 郵便物を曳いてゆくのは骨の折れる旅であつた、それでその苦役で犬共はすつかり参つてしまつた。ドースンに着いた時には体重が減つて惨めなコンディションになつていたので、すくなくとも十日か一週間の休養は必要だつた。しかし二日経つと、彼等は、外界向けの郵便を一ぱい積まれて、バラックス河のところからユーコン河の岸をおりていつた。犬共は疲れていた、犬追いの人たちはぶつぶつ云つた、しかももつと悪いことには、毎日雪が降つた。それはつまり雪道は柔らかになるし、滑子の摩擦がひどくなるし、犬共は曳くのが辛くなることであつた、しかし犬追いたちはそこのところを公平にやつてゆき、動物のために出来るだけのことをしてやつた。
 毎夜第一番に犬が面倒を見てもらつた。犬追いたちより先に犬共が食事をとり、自分が馭してきた犬共の足の手当をしないうちに自分の寝床をさがす人間はなかつた。それでも犬共の力は弱つてしまつた。彼等はその冬の初め以来、橇を曳いて千八百マイルの距離を旅行していた。千八百マイルといえばどんなに強い犬だつて命にこたえる。バックもやはりひどく疲れていたのだけれども、それに耐えて、仲間に仕事をさせつづけ、紀律を維持した。ビリーは毎晩眠つている間にきまつて泣いたり呻いたりした。ジョーはもとよりひどく気むずかしくなり、ソルレクスは盲目の側からはもちろんそうでない方の側からでも寄りつけなくなつた。
 しかし一番ひどく悩んだのはデイヴであつた。何だかしら具合が悪くなつていた。ますます気むずかしくいらいらしてきて、野営が張られるとすぐ自分の寝所をこしらえたので、犬追いたちは食餌をそこへもつていつてやつた。一たん輓具が外されて寝ころぶと、朝の輓具附け時まではまたと立ちあがりはしなかつた。時には、輓革をつけていて、だしぬけに橇がとまつたり、出発のためにぴんと張つたりして、急に体がゆすぶられると、苦痛のために叫ぶことがあつた。犬追いはデイヴを調べてみたけれども、何もわからなかつた。皆がこの問題に関心をもつた。食事の時にも話し合い、寝る前の最後の一服のパイプを吹かしながらも話し、或る夜には相談会を開いた。デイヴを寝所から火の傍へつれだして、圧してみたり突ついてみたりしたので、ついにはデイヴは何度も泣き叫んだ。内部に具合の悪いところがあるのだが、骨折のある場所は見つからず、結局どこが悪いのかわからずじまいになつた。
 キャシアー・バーに着く頃には、デイヴはあんまりひどく弱つたため、輓革をつけたまま度々打倒れた。スコットランド人の混血児は休止を宣言して、デイヴを組から除外し、次の犬のソルレクスを橇際の犬にした。彼の意図は、デイヴを休ませ、橇の後から自由に馳けて来させるつもりであつた。デイヴは具合が悪いにも拘らず、除外されることを恨み、輓革がとり外される間ぐずつては唸つていたが、自分が随分長い間占めてきた場所にソルレクスがつけられるのを見ると、断腸の思いいれですすり泣いた。けだし、橇曳きの矜恃が彼の矜りだつたので、死に瀕しつつも、他の犬が自分の仕事をとることに我慢ならなかつたのである。
 橇が出発すると、デイヴは踏みならされた雪道の外側の柔らかい雪にふみこんで、歯でもつてソルレクスを攻撃し、体をぶつつけて向う側の柔らかい雪の中へ追いやろうとし、輓革の中間に割りこみ、ソルレクスと橇の間にはいりこもうとした。そしてその間じゆう悲しみと苦痛のために鼻を鳴らしたり、悲鳴をあげたり、吠えたりしていた。混血児は鞭で打つて追いのけようとしたが、犬の方では刺すような鞭打ちでも何とも思わず、人間の方でもそれよりひどく打つにはしのびなかつた。デイヴはその方が楽なのに、橇の後から踏みつけた道をおとなしく馳けてくることを嫌い、最も困難なのを構わず、柔らかい雪の上を足掻きながらかけつづけて、ついに力尽きてしまつた。そして倒れ、倒れたところに寝たまま、長い橇の列が傍をひゆつと飛んでゆくのを見て、いたましく吠えたてた。
 最後の残りの力をあげて、彼はとにかくもよろめきながらも列の後についてゆき、次に橇が止まると、橇のわきを足掻きながら追越して自分の場所につき、ソルレクスと並んで立つた。デイヴの係りの犬追いは、後の男からパイプの火を借りるためにしばらくよそへ行つていた。彼は戻つてきて犬共を出発させた。犬共はさつとばかりに雪道にいで立つたが、いちじるしく骨が折れないので、不安げに頭をめぐらし、驚いてたちどまつた。犬追いも驚いた、橇が動いてないのだつた。彼は仲間にこのざまを見てくれと呼びかけた。デイヴがソルレクスの輓革を二本とも噛みきつていた、そして自分の持ち場の橇のすぐ前のところに立つていた。
 デイヴは眼でもつて、そこに居させてくれと歎願した。犬追いはほとほと困惑した。彼の仲間は、犬も仕事を断わられたために悲観してそのために死ぬこともあるんだなあと話し合い、年寄りすぎたり或いは怪我をして働けなくなつた犬が、輓革から切離されたために死ぬのを見た実例を思いだした。彼等はまた、どうせデイヴは死ぬのだから、輓革をつけたまま、心安く満足して死なせてやるのが慈悲だと主張した。そこでデイヴはまた輓具をつけてもらい、誇らしげに昔のように橇を曳いた。しかし一再ならず、内傷の痛みに堪えかねて心ならずも泣き叫んだ。幾度か輓革をつけたまま倒れては曳きずられたし、一度は橇にぶつかられたので、それから後は後肢の一方はびつこになつた。
 しかしデイヴは野営につくまで辛抱しとおした。それから犬追いが火の傍に彼の場所を設けてやつた。朝になつてみると彼はひどく弱つて旅はできなくなつていた。輓具を附ける時になると、彼は犬追いのところへ這つてゆこうとして、発作にかかつたように努力して立ち上つたが、よろめいて倒れた。それから虫の這うようにゆるゆると、仲間が輓具をつけてもらつている場所へ這いよつていつた。前肢を前へのばしておいて、体をぐいと引きよせるのであつたが、その度に五、六寸は進んだ。彼の力は抜けてしまつた。そして彼の仲間が最後に彼を見た時には、デイヴは雪の中に寝て喘ぎながら、慕わしげに彼等を見送つていた。しかし彼等が川添いの森林地帯のかげに見えなくなつてしまうまで、彼のいたましい吠え声はきこえていた。
 ここで一行はとまつた。スコットランド人の混血児はゆつくりとさつきすててきた野営へもどつていつた。人々は話をやめた。ピストルを撃つ音が鳴りわたつた。男はこんどは急いで帰つてきた。鞭がぴしつと音をたて、鈴が楽しく鳴り、橇は雪道を飛んでいつた。しかし川添いの木立ちの向うで起きたことを、バックは知つていた、他の犬もみんな知つていた。
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五 橇曳きの労苦


 海路行郵便橇ソールト・ウォータ・メイルは、ドースンを発つてから三十日目に、バックとその仲間を先だてて、スキャグウエイに到着した。犬共は疲れ果て消耗して惨めな状態に陥つていた。バックの百四十封度は百十五封度に減つていた。他の犬は、もともと彼より軽い犬だつたが、相対的に彼よりよけいに体重を失つていた。仮病遣いのパイクは、佯りの生活をしていた頃にはしばしば肢を傷めたふりをして成功したものだが、この時こそは本当にびつこを引いていた。ソルレクスもびつこを引き、ダブは肩の骨の捻挫に悩んでいた。
 みんなが足をひどく痛めていて、跳ぶこともはねることもできなくなつていた。足は重たげに雪道を踏み、そのために体がぎくしやくして、一日の旅の疲れを倍加した。ほかに何の具合の悪いこともない、ただもう死ぬほど疲れていた。それは短期間に過度の努力をしたための困憊ではなかつた、それであれば回復は時間の問題なのである。しかしそれは幾月にもわたる労役の、緩慢で長期にわたつての体力消耗からくる疲労困憊であつた。回復力はすこしも残つてはいず、頼もうにも予備の力などはなかつた。予備の力はすつかり、その最後の一片にいたるまで、使いきつていた。筋肉の一つ一つ、繊維の一つ一つ、細胞の一つ一つが疲れていた。死んだように疲れていた。そしてそれには理由があつた。五カ月足らずのうちに二千五百マイルも旅行していた。しかもそのうちの千八百マイルの間に五日しか休んでいなかつた。スキャグウエイに着いた時には、立つているのがようようだという状態だつた。輓革を張つていられるのが精一ぱいのところで、下り坂になると橇にぶつかられないように道をあけることがどうにかできるくらいのところであつた。
「歩け歩け、足は痛かろうが」スキャグウエイの本通りをひよつこりひよつこり歩いてゆく犬共に、犬追いがはげまして云つた、「これでおしまいさ。そしたら俺たちは永のお休みだ。え? ほんとだよ。ひどくなげえお休みだぞ」
 犬追いたちは本気で長期途中下車を期待していた。彼等自身二日休んだだけで千二百マイルも跋渉していたのだから、理窟で押しても普通の正義感から云つても、遊ぶ暇を貰うのが当然であつた。しかしクロンダイク地区に押しよせた人間がとても多く、押しよせないで後に残つた愛人や女房や親類の者がまた沢山いたので、郵便物が滞つてアルプス山のように積みあがつていたし、官庁の命令書も一ぱいあつた。ハドソン湾犬の新手の組がこの廃物どもに代つて郵便橇につけられ、廃物どもはお払い箱になり、ドルに較べれば犬なんかものの数でもないので、売払われることになつた。
 三日経つたが、その頃にはバックとその仲間は自分らがいかにもほんとに疲れて弱つていることに気がついた。それから四日目の朝に、二人の合衆国人がやつてきて、彼等を輓具も何もかも一しよにして、二束三文で買いとつた。二人はお互いを「ハル」と呼び「チャールズ」と呼んでいた。チャールズは中年の明るい肌色の男で、眼は弱くて水つぽく、口ひげが怖いみたいにぴんと捲きあがつていて、それでかくしたぐにやりと垂れさがつた唇の矛盾を証明していた。ハルは十九か二十の若者で、大きなコルト式リヴォルヴァ〔短銃〕と猟用ナイフを、弾薬のぎつしりつまつた帯革で腰のまわりに吊つていた。この帯革が彼の身のまわりで一番目立つていた。それは彼の未熟を、まつたくの言うに言われぬ未熟を広告していた。二人とも明白に場違いものであつた。そしてこういう連中がこの北国の冒険にのりだす理由は、物事の神秘の一部をなすものであつて、理解し難いものである。
 バックは値段の掛合いを耳にし、その男と政府の役人との間に金が受渡しされるのを見て、スコットランド人の混血児と郵便橇の馭者たちが、ペローとフランソアその他の以前に居なくなつた人々の後を追つて、自分の世界から消え去ろうとしているのだ、ということをさとつた。バックが仲間と一しよに新しい持主の野営につれてゆかれてみると、だらしのない投げやりの状態で、テントは半分だけ張つたまま、皿は洗つてなく、何もかも乱雑になつていた。それに女が一人いた。男たちは彼女を「マーシーディズ」と呼んでいた。マーシーディズはチャールズの妻でハルの姉であつた――水入らずの家族の一団であつた。
 バックは彼等がテントを取下ろして橇に荷物を積みはじめるのを不安げに見守つていた。彼等の態度には大いに努力しているさまが見えていたが、事務的な方法ではなかつた。テントはぐるぐる巻きにして、あたり前の大きさの三倍もある不恰好な束になつていた。錫の食器類は洗わないまま荷造りされた。マーシーディズはしじゆう男たちの邪魔になるようにはねまわつて、小言や指図をしやべりつづけた。衣物袋を橇の前部にのせると、マーシーディズがそれは後部にのせるがよいと云う、ところがそれを後部に積みかえて、その上に他の包みを二つ乗つけてしまうと、マーシーディズが積み忘れていた品物を発見して、それはどうしてもさつきの袋の中に入れなくてはならぬと云う、そこで二人はまた荷をおろしてしまつた。
 隣りのテントから三人の男が出てきて見物していたが、お互いに目くばせをしてにやにや笑つた。
「それじや随分大した荷物だね、」とそのうちの一人が云つた、「人さまのことにおせつかいする身分じやないが、俺だつたらそのテントはもつていかないね」
「とんでもない!」とマーシーディズは、呆れたという風にしなをつくつて両手をさしあげながら叫んだ、「どうして一体テント無しでやつていけるの?」
「もう春だよ、だからもう寒い日なんかありやしないよ」とその男は答えた。
 マーシーディズは断然かぶりを振つた、そこでチャールズとハルは山のようになつた荷物の頂上に最後のがらくたをのつけた。
「それで動くつもりかね?」と一人が云つた。
「どうして動かないつて?」とチャールズが手短かにたずねた。
「あゝ、それでいいんだ、それでいいんだよ」とその男はあわててやさしく云つた。
「俺あちよつとどうかと考えてみたのさ、それだけの話よ。ちよつと頭が重いようだつたんでね」
 チャールズが向きをかえて、縛り索をできるだけ下へひつぱつたが、それはちつともうまくいかなかつた。
「もちろん犬共はそういう新案物を曳つぱつて、一日中ハイキングをやつてればいいんだ」ともう一人の男が云つた。
「まつたくだ」とハルは冷たく、ていねいに云つて、片手で梶棒をにぎり、もう一方の手で鞭を振つた。
進めマッシュ!」と彼は叫んだ、「そら進め!」
 犬共は胸革にとびつき、しばらく気張つて曳いたが、やがて力が抜けた。橇を動かすことができないのであつた。
「怠け動物共、目にもの見せてやるから」とハルは叫んで、鞭を振つて出発させようとした。
 しかしマーシーディズが干渉して叫んだ、「おゝハル、それはいけません」そして鞭をつかまえてハルの手からもぎとつた。「可哀そうに! さあ約束してちようだい、これから先旅行中犬をひどく扱わないつて、でないと私一歩も動かないから」
「姉さんは犬のことはずいぶんよく知つてるからな」と弟はあざわらつた、「まあ僕にまかせておきなさい。奴らはなまけてるんだよ、だから何をさせるにしても鞭をくらわさなくちやならないんだ。奴等のやりかたはそうしたものなんだ。誰にでもきいてごらん。あの人たちの一人にきいてもいい」
 マーシーディズは、美しい顔に苦痛を見るにしのびないという嫌悪の色を見せて、哀願するように男たちを見た。
「知りたけりや云うが、犬は水のように弱つてるんだよ」と一人が答えた、「どだい疲れきつてるのさ、まつたくのところそうなんだ。休息が必要だね」
「休息なんてくそくらえ」とハルはひげのない口で云つた。すると、マーシーディズが、その呪詛の言葉をきいて、苦しく悲しそうに「おゝ!」と云つた。
 しかしマーシーディズは身贔屓をする人間なので、たちまち弟の防衛に向つた。「あの男の云うことなんかに構うことないわ」と尖り声で云つた、「自分の犬を追つてるのじやないの、あんたが一番好いと思うことをしたらいいのよ」
 再びハルの鞭は犬共を打つた。犬共は胸革に体をおしつけ、踏み固まつた雪に足をふみこみ、雪にくつつくほど身を低め、全力を傾けて曳いた。橇は錨かと思われるほどじつとして動かない。二回骨折つたあとで、犬はただつつ立つて喘いだ。鞭ははげしくうなつていた。その時もう一度マーシーディズが干渉した。彼女はバックの前にひざまづいて、眼に涙をため、バックの頚を抱いた。
「まあ可哀そうに」と彼女は同情して泣いた、「なぜきつく曳かないの? ――曳けば鞭で打たれやしないのに」バックは彼女が嫌いだつたが、あんまり惨めな気分になつていたのではねつけることもできず、これも一日の惨めな仕事の一部分だと解釈した。
 見物人の中でも、激しい言葉をおさえるために歯をくいしばつていた人が、その時に口をだした――
「お前さんたちがどうなろうとちつとも構わないけど、犬たちのためにちよつと云つておきたいんだが、お前さんたちがはじめに橇を押しだしてやつたら犬共は大助かりだよ。滑子がしつかり凍りついてんだ。梶棒に体の重みをおしつけて右左に動かして、口火をきつてやりなよ」
 三度目をやつてみたが、こんどは助言にしたがつて、ハルが雪に凍りついていた滑子をずらしてやった[#「やった」はママ]。その荷を積みすぎた重い橇が動きだし、バックとその仲間が雨と降る打撃の下に、狂つたように肢をふんばつて歩いた。五十間も進むと道は本通りへ曲つて峻しい坂になつていた。頭の重い橇を倒さないでおくには、よほど経験をつんだ人でなくてはならないのに、ハルはそんな人間ではなかつた。ぐるりつと廻ると橇が倒れて、ゆるい縛り索の間から荷物の半分をこぼしてしまつた。犬共は止まろうとはせず、軽くなつた橇は横たおしのまま犬の後から驀進した。犬共は受けた虐待と不当な重荷のために憤慨していた。バックが狂暴になつていた。バックがぐんぐん馳けだすと、組犬みんながその指揮にしたがつた。ハルが「ホウ! ホウ!」と叫んだが、犬どもは知らぬ顔であつた。ハルはすべつて足をさらわれた。横倒しのままの橇がハルを轢いてとおり、犬共はそのまま本通りへ出て突進し、目抜きの通りに残りの荷物をまきちらして、スキャグウエイの街の賑いをつのらせた。
 親切心のある町の人が犬を抑え、ちらばつた持物を拾い集めてくれ、助言までしてくれた。ドースンまで行きつくつもりなら、荷を半分にして犬の数を倍にしなくては駄目だ、と云つてくれた。ハルとチャールズ夫妻は不承不承に聞いていたが、テントを張つて持物を点検した。罐詰がとり出されるのを見て人々が笑つた、けだしこの長途の橇道ロング・トレイルでは罐詰は夢に見るようなものであつた。「ホテルに毛布をもつていくみたいだね」と笑いながらも加勢していた人々の一人が云つた、「この半分でも多すぎる、みんなすてちまいなさい。そのテントも、その食器も全部すてなさい――誰が洗うつもりですか、一体? やれやれ、ブルマン寝台車で旅行するとでも考えていなさるのかね?」
 そこでいわば余計なものの無慈悲な廃棄が行われた。自分の衣裳袋が地面にあけられて、品物が次々に抛り出されると、マーシーディズが泣きだした。マーシーディズは何かにつけて泣いたが、特にものが捨てられる度にひどく泣いた。両手で膝を抱きしめて、断膓の思いいれで体を前後にゆすつていた。私はもう一寸だつて動かない、チャールズが十人もかかつたつていやだと断言した。凡ゆる人、凡ゆる物に哀訴していたが、おしまいに涙を拭いて、絶対的必需品であつた身廻り品までもなげだしにかかつた。そして自分のものを始末してしまうと、熱心のあまりに、男たちの持物を攻撃して、旋風のようにその間を荒れまわつた。
 それが終ると、荷物は、半分に切りつめられたというのに、まだまだ恐ろしい嵩があつた。チャールズとハルが夕方出ていつて、外来犬を六頭買つてきた。もともとの組犬六頭と、さきのレコード旅行の途次リンク急潭で手に入れられたエスキモー犬のティークとクーナに、それが加わると組犬が十四頭になつた。しかし外来犬は、上陸後馴らされてはいたが、実際には大したものではなかつた。三頭は毛の短かいポインターで、一頭はニューファウンドランド犬、残りの二頭は中間雑種であつた。この新参者の連中は何も知らないようであつた。バックとその仲間は彼等を嫌悪の目をもつて見た、そしてバックが早速彼等にそれぞれの持場と、してはならぬ事を教えこんだけれども、せねばならぬ事を教えこむことはできなかつた。彼等は輓革と橇道にどうしても馴染まなかつた。二頭の雑種を除いて、彼等は来てみて驚いた異境の野蠻な環境と、受けてきた虐待とのために戸惑い、元気が抜けていた。二頭の雑種の方は元気などは全然なくて、もつているものでたたけば折れるものといえば骨くらいのものであつた。
 新参者共は望み薄で心細いし、もとからの組犬は連続二千五百マイルの橇曳きで疲れきつているし、見通しは明るいどころではなかつた。しかし、二人の男は極めて快活で、誇らしげでさえあつた。犬の十四頭ももつて、ハイカラなことをしている、というつもりだつた。彼等は他の橇が峠を越えてドースンに向う道に出発したり、ドースンから来て到着したりするのを見ていたが、十四頭も犬をつけた橇は見たこともなかつた。極地旅行の性質上、一台の橇を十四頭というような多数の犬に曳かせてはならぬ理由があつた、というのは一台の橇に十四頭分の食料を積んでゆくことはできないということであつた。しかしチャールズもハルもそのことを知らなかつた。彼等は鉛筆で、犬一頭当り幾許、犬の頭数幾許、日数幾許、要証明、という具合に、この旅行の計画をたてていた。マーシーディスは二人の肩越しに見て、呑みこめたらしくうなづいた――とても簡單なことだわ。
 翌朝おそくなつてバックは長い組犬の列の先頭に立つて通りを歩いていつた。それには生々としたところはすこしもなく、バックもその後に従うものも活気がなく気力がなかつた。出発の初めから死んだように疲れていた。バックは既に海岸からドースンまでの距離を四度も跋渉していた、それで今また疲れた上にも疲れているのに、もう一度同じ橇道に向つているのだと知るといよいよ辛くなつた。バックの心は仕事にうちこんでいなかつた。ほかのどの犬の心も同様であつた。外来犬は臆病でおどおどしていたし、内々の犬は主人達を信用していなかつた。
 バックはこの二人の男と一人の女は頼みにならないということを漠然と感じていた。彼等は何でもやりかたを知らなかつたし、日が経つにつれて、やりかたを会得することも出来ないことがはつきりしてきた。あらゆることにだらしがなくて、秩序も紀律もなかつた。だらしもない野営を張るのに夜半までかかり、野営を撤去して橇に荷を積むのに午前の半分はかかつたし、その積みかたがだらしないので、それからあと一日中橇をとめて荷を纒めなおすことに時間をとられた。十マイルも進めない日も幾日かあつた。全然出発できない日もあつた。そして男たちが犬の食料の計算の基礎としていた距離の半分以上を進むことに成功した日は一日もなかつた。
 犬の食料の不足を来たすことは避けられなかつた。しかも彼等は過食させたためにその期を早め、減食の始まる日を近附かせた。慢性的飢餓によつて消化力を鍛練されて僅かな食物を最大に利用するようになつてはいない外来犬は、猛烈な食慾をもつていた。それに加うるに、疲れ切つたエスキモー犬の[#「エスキモー犬の」は底本では「エキスモー犬の」]曳きかたが弱いと、ハルはそれはきまりきつた割当て食では少なすぎるからだと考えて、それを倍にした。しかもまたその上に、マーシーディズが、美しい眼に涙をたたえ、のどを震わして、犬にもつと食べさせるように弟をおだてても、うまくいかないと、魚の袋からそうつと盜みだして食べさせるのであつた。しかしバックとエスキモー犬たちの[#「エスキモー犬たちの」は底本では「エキスモー犬たちの」]必要なものは、食べものではなくて休息だつた。進みはおそいのだが、曳く荷が重いので、彼等の力はひどく枯涸するのであつた。
 そこへ減食がやつてきた。ハルは或る日、犬の食料が半分無くなつているのに、距離はまだ四分の一しかはかどつていない、さらに人情ででも金ずくででも、犬の食料の買い足しは出来ない、という事実に気がついた。そこで彼はきまりきつた割当てすら切りさげ、しかも一日の行程をのばすことにした。姉も義兄もそれに賛成したが、彼等は重い荷物と自分らの無能のために挫折した。犬の減食は簡単なことであつたが、犬をもつと速く馳けさせることは不可能であつて、しかも彼等が朝もつと早く出発することができないために、もつと長時間旅行することはできなかつた。彼等は犬を働かす方法を知らないばかりでなく、自分らが働く方法も知らなかつた。
 最初に参つたのはダブであつた。ダブはへまな泥棒で、しじゆう見つかつては処罰されていたが、それでいて実は忠実に働いたのである。肩胛骨の捻挫が、手当ても受けず休息もできないので、ますますいけなくなり、ついにハルが例の大きなコルト式短銃で射殺してしまつた。外来犬はエスキモー犬の[#「エスキモー犬の」は底本では「エキスモー犬の」]割当て食では餓死する、という云いならわしがこの地方にあるが、バックの指揮下の六頭の外来犬は、エスキモー犬の割当て食の半量では、死ぬほかはないのであつた。ニューファウンドランド犬が先ず参り、つづいて三頭の短毛のポインターが参り、二頭の雑種犬はもつとねばり強く生命にすがりついたが、これも結局参つてしまつた。
 この頃には三人の南国的な温和な態度と上品さはすつかり脱落してしまつていた。極地の旅が、その魅力とロマンスをはぎとられてしまつて、彼等の人間性にとつては険し過ぎる一つの現実となつていた。マーシーディズは、自分のために泣き、夫や弟といさかうことに気をとられて、犬共のために泣くことはやめてしまつた。いさかうことが、彼等が倦きもせずにやつていた唯一のことであつた。彼等のいらいらした気持ちは彼等の窮状から生れ、窮状と共に増大し、窮状によつて倍加し、窮状にまさつた。雪道の橇の旅で苦役に服し艱難に耐え、しかもいつまでも言葉やさしく思遣りのある人のもつ素晴らしい忍耐は、この二人の男と一人の女はもちあわさなかつた。彼等はそういう忍耐は露ほどももつていなかつた。彼等はこわばつて苦しんでいた。筋肉が痛み、骨が痛み、心臓までも痛んで、そのために言葉がきつくなつて、朝は何よりも先に、夜は最後まで、荒々しい言葉が彼等の口からとびだした。
 チャールズとハルは、マーシーディズが機会を与える度に、口論した。各々が自分は割前以上の仕事をしているのだという考えをもつていて、機会ある毎にその考えをぶちまけた。マーシーディズは或る時は夫に、或る時は弟に、味方した。その結果はそれこそ果てしもない内輪喧嘩となつた。火を焚く薪をどちらが切り出しにいつて来なくちやならんかということが口論のはじまりで(チャールズとハルだけに関する口論だが)、たちまちそれに家族の者、父、叔父、従兄弟、そのほか何千マイルも離れたところにいて、中にはもう死んでしまつた人々まで引張りだされた。ハルの芸術に対する意見や、彼の母親の弟が書いた社交劇の種類というようなことが、五、六本の薪を切り出すことと何らかの関係があろうとは、どうにも合点のいかぬことなのだが、それにも拘らずこの口論はとかくそちらの方に向いていつたし、同じくチャールズの政治的偏見の方へ向くこともあつた。またチャールズの妹が告げ口するということは、ユーコン地方で焚火をすることと何らかの関係があろうとは、マーシーディズだけにはつきりわかつているらしく、そこでその問題に関するくだくだしい意見をしきりにぶちまけ、ことの序でに不快にも夫の家族に特有の他の幾つかの不快な特徴をかぞえ立てた。その間火は焚かないままだし、野営は半出来で、犬共は食餌をもらつていなかつた。
 マーシーディズは特別の苦情――女性としての苦情を抱いていた。彼女は美しく柔和で、平生は大事に取扱われていた。しかし夫と弟の現在の取扱いぶりは大事にするどころの話ではなかつた。頼りないふりをすることが彼女の習慣だつたので、男たちは不平をいつた。そういう自分から見て自分の最も根本的な女性の特権と思われるものの侵害だというので、マーシーディズは彼等をひどくいじめあげた。彼女はもはや犬共のことは考えてやらなくなり、足が痛くて疲れているからというので、いやでも橇に乗つてゆくと云い張つた。美しく柔和ではあるが、体重は百二十封度あつた――それは弱つて餓死しかけている犬共が曳いている荷物を過重にする最後の藁一本〔積荷が一ぱいな時には藁一本でも加えれば過重になるその過重になる一本の藁のことを最後の一本の藁という〕としては、随分太い藁であつた。マーシーディズは幾日も乗つていつた、そしてついに犬共は輓革をつけたまま倒れ、橇はぴたりととまつた。チャールズとハルは降りて歩いてくれとたのみ、哀願し懇願したが、その間マーシーディズはすすり泣いては、男たちの残酷をかぞえあげて天に訴えた。
 一度彼等は力まかせに彼女を橇からおろした。しかし二度とそれをくりかえしはしなかつた。マーシーディズは駄々つ子のようにびつこをひいて雪道に坐りこんでしまつた。二人はそのまま行きつづけたが、彼女は動こうともしなかつた。三マイルも行つてから、二人は橇の荷をおろして、彼女を迎えにもどつてきて、力ずくでまた橇に乗せていつた。
 彼等は自分らの苦しみがひどいので、犬共の苦しみには無感覚になつていた。ハルが他人に対して実行した理論は、人は無情にならねばならぬということであつた。今度はそれを姉と義兄に説ききかせ始めた。それが巧くいかないと、それを棍棒でもつて犬共に叩きこんだ。五指川ファイブ・フィンガースにつくと犬の食餌が無くなつた、すると年寄つて歯もなくなつたインディヤンの女が、数封度の凍つた馬の皮と、ハルの腰に大きな猟用ナイフと並んでぶらさがつていたコルト式短銃との物々交換を申し出た。その馬皮はたしか六カ月も前に牛飼いが餓死した馬から剥ぎとつたもので貧弱な代用食であつた。凍つた状態ではまるでトタン板のきれつぱしのようで、犬がむりやり胃の中へおくりこむと、それがとけて栄養にならぬ細い革紐や短かい毛のかたまりになつて、消化はされず、胃の中でごろごろしていた。
 そしてバックはそういうこと全部を貫いて悪夢を見ているように、組の先頭に立つてよろよろ歩いていつた。曳ける時には曳いたが、もはや曳けなくなると倒れ、鞭や棍棒で打つてまた立ちあがらせるまで、倒れたままでいた。美しかつた毛皮の弾力と光沢がすつかりなくなつていた。毛はだらりと弱く垂れて地面に曳きずり、ハルの棍棒が傷つけた所では乾いた血でもつれていた。筋肉は消耗してこぶこぶの紐のようになり、肉附きは消え去つていたので、肋骨の一本一本、体中の骨の一本一本が、しわがよつて深いみぞができている弛んだ皮をとおして、はつきり輪廓をあらわしていた。まつたく胸もはりさけるような状態だつたが、バックの胸だけはくじけなかつた。あの赤いスウェーターの男がすでにそのことを証明していた。
 仲間の犬もバックと同様であつた。彼等は徘徊する骸骨であつた。バックを加えてみんなで七頭いた。いずれもその甚だしい苦しみのために、鞭で打たれても棍棒で傷つけられても、何とも感じなくなつていた。打たれる苦痛は鈍くてよそごとのようであり、丁度同じように眼で見るものも耳に聴くものも同じく鈍くてよそごとのように思われた。彼等は二分の一、いや四分の一すらも生きていなかつた。単にそれだけの数の骨を入れた袋で、その中で生命の火花がかすかにひらめいているようなものであつた。停止が行われると、犬共は輓革をつけたまま死んだ犬のようにへたりこみ、その火花はうすれて色褪せ、消え去るかに見えた。そして棍棒や鞭が落ちかかると、その火花がほのかにひらめき、犬共はよろめきながら立ちあがつてひよろひよろ歩きだした。
 気の好いビリーが倒れて起きあがれない日がきた。ハルは拳銃を取引で手放していた。それで斧をとりだして輓革をつけたまま倒れているビリーの頭を打ち割り、それから死骸を輓具からはなして脇へひつぱり出した。バックは見た、仲間の犬も見た、そしてそれが自分らにも極めて接近していることを知つた。次の日にクーナが参つて、残りは五頭だけになつた! ジョーはひどく弱りすぎて意地悪るもできず、パイクはびつこを引き弱りきつて、意識は半分しかきかず、もはや仮病をつかう気にもなれなかつた。片眼のソルレクスは、まだ橇曳きの苦役に忠実で、自分の曳く力がまるでないことを悲しんでいた。ティークはその冬それほど遠く旅行していなかつたし、新参者であるために、今は他の者よりよけいにまいつていた。それからバックは、まだ組の先頭に立つていたが、もはや紀律をおしつけもせず、その強制に努力することもなく、衰弱のために半日くらいは目も見えず、ぼんやりした道の輪廓と鈍い足ざわりでもつて道を進みつづけた。
 あたかも麗かな春の天候だつたが、犬も人間もそれを意識しなかつた。日毎に太陽がよけいに早く昇つてよけいに晩く沈むようになつた。朝の三時には夜が明けて、薄暮は夜の九時までぐずついていた。永い一日中陽光がもえ立つていた。不気味な冬の沈黙は眼ざめる生命の大きな春のつぶやきに負けていた。このつぶやきは、生きることの歓喜にみち、大地全体から起きていた。それは再び生命をもつて動きだしたものから、長い酷寒の幾月かの間死んだようであつて動かなかつたものから出てきた。松の木の樹液がのぼつていた。柳と白樺が芽を出していた。灌木と蔓草が新しい緑の衣をつけかけていた。夜にはこおろぎが歌い、昼には凡ゆる種類の、這い、のたくるものが日向にうごめき出た。しやこきつつきが森の中でとびまわり、つつきまわつた。りすがしやべくり、小鳥が歌い、頭上では南の国からたくみに空気をつんざく楔形をなしておしよせてきた野禽が高声で鳴いた。
 あらゆる山の斜面から、目に見えぬ泉の音楽ともいうべき、流水のしたたる音がきこえてきた。凡ゆるものが融け、まがり、割れていた。ユーコン河はそれをしばりつけている氷をばらそうとして緊張していた。その氷を、川は下から、太陽が上から食いつくしていた。風孔がいくつも出来て、亀裂が生じて大きく開き、その間に氷の薄い部分はそつくり河の中へおちこんでいつた。そしてこういう目ざめる生命の発生と分裂と鼓動のさ中にあり、燃えさかる太陽の下、静かに吐息をつく微風の中で、この二人の男と一人の女とエスキモー犬の一行は、死への旅人のようによろめいていた。
 犬は倒れ、マーシーディスは泣きながら橇に乗り、ハルは徒らに怒鳴りちらし、チャールズの眼は物思わしげに涙をふくんで、彼等はよろめきながらホワイト・リヴァの口にあるジョン・ソーントンの野営にたどりついた。停まつたかと思うと犬共はまるで打殺されたようにへたりこんでしまつた。マーシーディズは涙を拭いてジョン・ソーントンを見た。チャールズは休むために丸太に腰掛けようとしたが、体がひどくこわばつているので、ゆるゆるとひどく大儀そうに腰をおろした。ハルが話を引受けた。ジョン・ソーントンは樺の木でこしらえた斧の柄に仕上げの削りをかけていたが、削りながら話をきき、簡単な答をし、助言を求められれば、同じく手短かな助言を与えた。彼はこの種の人間を知つていた、それで助言してもきかれないことをはつきり知つた上で、助言を与えた。
「あちらで聞いたら、橇道の底が落ちはじめたから、我々はやめた方が一番いい、という話だつた」とソーントンがくずれた水の上で冒険するのはよした方がよいと警告したのに対して、ハルは云つた、「ホワイト・リヴァまでは行けやしないと云われたが、現に僕らは此処にきてるもの」この最後の言葉には勝誇つたようなあざけりの調子があつた。
「ところがその話は本当のことだつたね」とジョン・ソーントンが答えた、「底がいまにも落ちそうですよ。馬鹿の目くら運というが、馬鹿でなくちや、これはできないな。まつすぐな所を云えば、私だつたらアラスカ中の金をみんなくれると云つたつて、こういう氷にかばねをさらす危険はおかさいね[#「おかさいね」はママ]
「それはあんたが馬鹿でないからだ、と僕は思う」とハルが云つた。「どつちみち僕等はドースンまで行くんだ」彼は鞭のとぐろをのばした。「起きろこら、バック! はい! 起きろこら! 進めマッシュ!」
 ソーントンは削りつづけた。馬鹿が二人や三人多くいても少なくいたところで世の中がどう変るという訳のものではなし、馬鹿に馬鹿な行いをするなと云つてみても無駄なことを、彼は知つていた。
 しかし組犬はその命令をきいても立ちあがらなかつた。ずつと前から組犬を立たせるには鞭打ちが必要だという段階にはいつていた。鞭があちこちでひらめいて、その無慈悲な使命をはたした。ジョン・ソーントンは口をきつくむすんだ。ソルレクスがまず這うようにしてたちあがつた。次はティークで、その次にジョーが痛いので悲鳴をあげてたちあがつた。パイクは苦しい努力をしたが、二へんも半ば起きては倒れ、三度目にどうやら起きあがつた。バックはすこしも努力せず、倒れたところにじつと寝たまま、鞭が何度も何度も打つたけれども、鼻声も出さずもがきもしなかつた。ソーントンは、幾度か、はつとしてものを云いそうにしたが、考えなおした。眼がうるんできた。それで鞭打ちが継続すると、彼は立ちあがつて、心をきめかねてあちらこちらと歩きまわつた。
 バックが駄目になつたのはこれが初めてであつた、それだけにハルを激怒させるに充分な理由であつた。ハルは鞭を手なれた棍棒にもちかえた。バックは新たに降りかかつた前よりひどい打撃の雨にも拘らず、頑として動かない。仲間と同じく立ち上るのが精一杯だつたのだが、仲間とちがつて、バックは立ちあがるまいと決心していた。バックはさしせまつている災厄を漠然と予感していた。その予感はこの岸に到着した時に強く感じたのであつて、それ以来彼から離れてないのであつた。終日自分の足下に感じた薄くなりくずれてきた氷からして、災厄がせまつていて、主人が自分を追いやろうとしている前途の氷の上にある、ということを感得したようであつた。バックは頑として動かない。今までの苦しみは大したものであつたし、彼はあまりひどく参つていたので、殴られてもさして痛くなかつた。それに殴られ続けているうちに、彼の内部の生命の火花はゆらめき、衰え、殆ど消えそうになつた。妙にしびれた感じで、何だかひどく遠くの方から、自分が殴られていることを意識した。苦痛感などは最後の一片までなくなつていて、ごくかすかに棍棒が体にあたる音を聞くことはできながら、もはや何も感じなかつた。しかしそれはもはや自分の体ではなく、いかにも遠くはなれているように思われた。
 するとその時突然に、何の警告もなく、ジョン・ソーントンが、人間の言葉というよりもむしろ動物の叫びのような声をあげて、棍棒をふるつている人間にとびかかつた。ハルは、倒れかかる木にでも打たれたように、後へなげだされた。マーシーディズが悲鳴をあげた。チャールズはけげんそうに眺め、水つぽい眼を拭いたが、体がこわいので立ちあがらなかつた。
 ジョン・ソーントンはバックをかばつて立ち、ものも云えないほど激昂しながら、つとめて落着こうとした。
「またとこの犬を打つたら、俺がお前を殺してやるから」とようやくのどにつまるような声で云うことができた。
「それは僕の犬だ」とハルは口の血を拭つて戻つてきながら云つた、「どいて貰おう、いやならこらしめてやるだけのことだ。僕はドースンへ行くんだ」
 ソーントンは彼とバックの間をへだて、決してどかないという意向を示した。ハルが長い猟用ナイフを引抜いた。マーシーディズは悲鳴をあげたり、泣いたり、笑つたりして、混乱したヒステリーの気儘を表現した。ソーントンは斧の柄でハルの指関節をなぐつて、ナイフを地面へ叩きおとした。ハルがそれを拾いあげようとするとまた指関節をなぐつた、それでやめておいて、自分でそのナイフを拾いとり、二打ちしてバックの輓革を断ち切つた。
 ハルにはもう闘志が残つていなかつた、それにまた、彼の手、というより腕は、姉でもつてふさがつていた、それにバックはあんまり死んだも同然で、それ以上橇を曳かせる役に立ちそうもなかつた。数分の後には彼等は河岸から出発して河へおりていつた。バックは彼等の行く音をききつけて、頭をあげて見た。パイクが先頭にたち、ソルレクスが橇際についていて、間にはジョーとティークがいたが、みんながびつこをひきよろめいていた。マーシーディズが荷を積んだ橇に乗つていた。ハルが梶棒をあやつり、チャールズは後からよろめきながらついていつた。
 バックがそれを見ていると、ソーントンがその傍にひざまづいて、ぶこつな手で親切にも骨の折れたところをさぐつてみた。さぐつてみた結果、沢山な打撲傷とひどい飢餓状態以上のものではないことがわかつた頃には、橇は四分の一マイルもへだたつていた。犬と人はそれが氷の上を這つてゆくのを見ていた。すると突然に、橇の後部が轍の中へらしくめりこんで、梶棒がかじりついているハルもろとも空中へはねあがるのが見えた。マーシーデイスの悲鳴がきこえてきた。見ていると、チャールズが向きをかえて駈けもどろうと一歩をふみだした、するとそこら一面の氷がそつくりめりこんで、犬も人間も見えなくなつた。あとには大口を開いた穴だけが見えていた。橇道の底が以前から抜けていたのである。
 ジョン・ソーントンとバックはお互いに見交わした。
「気の毒なやつだ」とジョン・ソーントンが云つた。するとバックが彼の手を舐めた。
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六 人間の愛のために


 ジョン・ソーントンが去る十二月に足に凍傷を負つた時に、仲間が彼を楽にしてやり、回復させてやるためにここへ残しておいて、彼らは切りだした木材を筏にしてドースンへ送りだすために河を上つていつたのであつた。彼はバックを救つた頃にはまだすこしびつこをひいていたが、暖かい天候が続くとともにその軽いびつこもなおつてしまつた。そしてここで、永い春の日に終日河の岸に寝そべつて、流れる水を眺め、のんびりと小鳥の歌や自然のささやきを聴いていると、バックも徐々に力を回復してきた。
 三千マイルも旅行した後では休息は甚だ結構なものである、そこでまつたくのところ、バックは傷が癒えるにつれてのんびりしてきて、筋肉がふくれあがり、肉がもりあがつてきて骨を被うようになつた。そう云えば、彼等はみんな怠けていた――バックもジョン・ソーントンもスキートもニッグも――自分たちをドースンへ運んでいつてくれる筈の筏のくるのを待つていた。スキートは小さなアイリッシュ・セッターで、早くからバックと仲良しになつたが、バックの方では、死にかけた容態の時とて、その牝犬の初めて近附いてくるのに腹を立てることもできなかつた。この牝犬は或る種の犬がもつている医者気質をもつていて、親猫が仔猫を舐めてやるように、バックの傷を舐めてきれいにしてやつた。毎朝きまつてバックが朝食を終つたあと、スキートが自分できめた任務を果たしてくれるので、ついにはこの犬の世話をソーントンの世話と同じく待ち設けるようになつた。それほど表にあらわしはしないが同様に友情にあついニッグは、半分ブラッドハウンド〔英国種の探偵犬、鼻がよく利く〕で半分ディアハウンド〔鹿狩用の猟犬〕の巨大な黒犬で、眼には笑いをたたえ、底の知れぬほど気が好かつた。バックの意外に思つたことには、この犬共は彼に対してすこしも嫉妬を見せなかつた。彼等はジョン・ソーントンと同じく親切心と広い心をもつているようであつた。バックが丈夫になると、彼等は彼を凡ゆる種類の無邪気な遊びにさそいこんだし、ソーントンまでもそれに加わらないではいられなかつた。そしてこういう具合にしてバックはその回復期をはねまわつてすごし、新たな存在となつたのである。愛が、純真な熱愛が、初めて彼のものとなつた。それを彼は陽に恵まれたサンタ・クララ渓谷のミラー判事の邸宅においても経験したことはなかつた。判事の息子たちとは一しよに狩猟し散歩したけれども、それは仕事の仲間だつたし、判事の孫たちの場合は、一種の見栄坊的な保護者で、判事自身の場合は、威儀を正し勿体ぶつた友情であつた。しかし熱があつて燃えるような愛、憧憬である愛、狂気である愛は、ジョン・ソーントンを俟つて初めて喚起されたのである。
 この人は命を救つてくれた、それだけでも相当なことなのだが、更に彼は理想的な主人であつた。他の人は義務の念と仕事の方便からして犬の福祉をはかるのだが、彼はそうしないではいられないので、犬が自分の子供であるかの様に、犬の福祉をはかるのであつた。いやそれ以上であつた。彼は決して思いやりのある挨拶や元気附ける言葉を忘れなかつた、そして犬と一しよに長いこと坐りこんで話をすること(それを彼は「無駄話ギャス」と呼んでいた)は犬共にとつても彼にとつても同じ楽しみであつた。彼はバックの頭を手荒く両手でつかみ、自分の頭をバックの頭にもたせかけて、バックを前後にゆすりながら、しきりに悪口を云う癖があつたが、その悪口はバックにとつては愛称であつた。バックはその手荒い抱擁とぶつぶつ云う悪口のひびきにこの上もない喜びを感じ、前後にゆすぶられる度に心が体からゆすり出されるような気がした。それほどその歓喜は大きかつたのである。そして釈放されて、バックがはねおきて口に笑いをうかべ、眼はもの云う如く、のどは外に出さぬ音にふるえ、そういう具合にして動かずじつとしていると、ジョン・ソーントンが嘆称して叫ぶのであつた、「おや! お前は口がきけそうだね!」
 バックの愛の表現法は相手を傷つけることに近いものであつた。バックはよくソーントンの手を口にくわえて、しばらく後まで歯の痕が肉に残るほどひどく咬みしめるのであつた。そしてバックが悪口を愛の言葉であると理解したように、ソーントンはこの咬みつきの真似事を愛撫として理解した。
 しかし、大抵の場合、バックの愛は敬慕として表現された。ソーントンが手に触れたり話しかけたりしてくれると嬉しさで夢中になるのではあつたが、そういう愛のしるしを自分から求めたのではない。スキートはしじゆうソーントンの手の下に鼻をおしつけ、こづきあげこづきあげして愛撫を求めていた――ニックはのつそり歩みよつて、そのでつかい頭をソーントンの膝にのつけたものだが、それとちがつてバックは離れていて敬慕することで満足した。バックは長いことソーントンの足許に寝ていて、熱心に抜かりなく、顔を見上げては、それをつくづくと穴のあくほどみつめて、去来する表情の一つ一つを、顔付の動きや変化の一つ一つを、この上もなく熱烈な関心をもつて追求するのであつた。或いはまた、その時の具合しだいで、脇の方かうしろの方にもつと離れて横になり、主人の体の輪廓とその体の時折の動きを見守つていた。そして彼等が経験した心の親交は大したもので、バックが一心に見ている力に惹かれて、ジョン・ソーントンが頭をめぐらし、ものも云わずに凝視をかえしたが、その眼からは、バックの心が輝き出ていたように、彼の心が輝き出ることがしばしばであつた。
 バックは救われてから後長い間、ソーントンの姿が見えなくなることを嫌い、主人がテントから出た瞬間からまたテントへ戻つてくる時まで、きつとそのあとについてまわつた。北国へ来てから度々変つた主人たちが、主人は永久のものであり得ないという恐れをバックの心の中に育てていた。ペローやフランソアやスコットランド人の混血児が消えていつたように、ソーントンも自分の生活から消えてゆくのではないかと心配したのである。夜になつても、夢の中で、この恐怖に度々襲われるのであつた。そういう時には、バックは睡気をふりはらい、寒い中をテントの垂れ布の方へ這いよつて、そこへつつ立つたまま主人の呼吸の音に聴きいるのであつた。
 しかし、温和な文明化の力を語ると思われるこの大きな愛をジョン・ソーントンに対して抱いているにも拘らず、北国がバックの中に喚起した原始的な性質が依然として生きて活動していた。即ちバックは、火と屋根から生れたものである忠誠と献身は守りながらも、持前の野性と狡猾さを保ちつづけた。バックは、幾世代かの文明の刻印を打たれた温和な南国の犬ではなくて、荒野から来てジョン・ソーントンの火の傍に坐るようになつた、荒野の存在であつた。この非常に大きな愛のために、バックはこの人のものは決して盜めなかつたが、他の凡ゆる人から、他の凡ゆる野営からは、盜みをすることを一瞬間もちゆうちよしなかつた、しかも盜みかたがいかにもうまいので見つかならいですんだ[#「見つかならいですんだ」はママ]
 顔と胴体は多くの犬の歯にいためられていた。しかもバックは以前と同じく猛烈にそして以前よりはすばしこく格闘した。スキートとニッグはあまり気が好いので喧嘩相手にはならず――その上に、彼等はジョン・ソーントンのもちものであつた、しかしよその犬は、何種の犬であろうとどんな勇気をもつていようと、たちまちバックの優越を承認した、さもないと恐るべき敵と命をかけた闘争することになつた。そしてバックは無慈悲であつた。棍棒と牙の法則をよく会得していて、有利な地歩を見棄てることは決してせず、自分が死への旅路に送りだした敵から身を引きはしなかつた。スピッツから学び、警察と郵便橇の主要な戦闘犬から学び、中間のコースなどはないということをさとつた。支配するか支配されるかでなくてはならず、慈悲を示すことは弱味であつた。原始的生活には慈悲は存在しなかつた。慈悲は恐怖と間違えられ、そういう誤解は死をまねくのであつた。殺すか殺されるか、食うか食われるか、それが法則であつた。「時」の初め以来のこの命令に、バックは服従した。
 バックは自分が見てきた年月、自分が呼吸してきた息よりも、長い経験をもつていた。バックは過去を現在に結びつけ、彼の背後の永劫が彼を通して力強いリズムをなして鼓動し、彼は潮と季節が揺曳するようにそのリズムに合わせて揺曳した。彼はジョン・ソーントンの火の傍に、牙が白く毛の長い、胸の広い犬として坐つていたが、彼の背後には凡ゆる種類の犬と半狼と野生の狼の影があつて、せかせかとせきたて、彼の食べた肉の味を味わい、彼が飲んだ水を飲みたがり、彼と同じく風のにおいを嗅ぎ、彼と共に耳を傾け、森林の中で野生動物のたてる音を彼に教え、彼の気分を指導し、行動を指揮し、彼が寝れば、彼と一しよに眠り、彼と共に彼をこえて夢を見、彼等自身が彼の夢の材料となるのであつた。
 そういう影があまりにも命令的に彼を招くので、日毎に人間と人間の要求が彼からだんだん離れていつた。森の奥に一つの呼び声がひびいていた。そこであやしくも身にしみて誘惑を感ずるこの呼び声を耳にする度に、バックはこの火とそのまわりの踏みかためられた地面に背を向け、森の中へとびこんで、どこへともなぜとも知らずぐんぐん進んでゆかねばならぬような気になるのであつた。もちろんその呼び声は森の奥で命令的にひびいているのだが、彼はそれがどこであるのか、なぜであるのかは疑問にしなかつた。しかし柔らかいまだ踏みつけられてない地面と緑の蔭に達する度に、ジョン・ソーントンに対する愛が彼を再び火の傍へ引戻すのであつた。
 ソーントンだけがバックを支持した。その他の人間は無に等しかつた。通りすがりの旅行者が彼を褒めたり愛撫したりすることがあつても、彼はそういうことに対して冷淡であつた、そしてあまり仰山らしい人からは立ちあがつて離れてしまつた。ソーントンの相棒のハンズとピートが、永く待たれた筏にのつて到着した時も、バックは二人がソーントンの近附きだということがわかるまでは、頑として知らぬ顔をしていた。そしてそれとわかつてからは受動的に彼等を我慢してやり、特別の思召しだといつたような具合に彼等の好意を受けてやつた。二人ともソーントンと同じような大まかな人間で、大地に即して生き、ものを単純に考え、明かに見ていた。そして筏をドースンの製材所の傍の広い澱みに乗り入れる頃までには、バックの本性と癖を理解していた。そしてスキートやニックの場合にえられるような親密をバックにおしつけることはしなくなつていた。
 しかしソーントンに対するバックの愛はますますつのるように思われた。人々の中で一人ソーントンだけが、夏の旅行の時にバックの背に荷物をつけることができた。ソーントンが命令しさえすれば、大きすぎるのでバックにはやれないというような仕事はなかつた。
 或る日(彼等は筏の収入で金鉱探しの準備をととのえていた、そしてタナナ川の水源に向つてドースンを出発していた)三人の男と犬共が、三百尺も下の露出した磐岩までまつすぐにきり立つている断崖の鼻に腰掛けていた。ジョン・ソーントンは端近くに腰掛け、バックはその肩により添つていた。ソーントンが軽率な気まぐれにとりつかれて、ハンズとピートに、俺は一つの実験を思いついたから見ていてくれと云つた。「跳べ、バック!」と彼は、手をのばし谷間を指差して命令した。次の瞬間には、ソーントンは崖の鼻先でバックとの取組み合い、一方ハンズとピートは彼等を安全なところへ曳きもどしていた。
「身の毛がよだつよ!」と、それがすんで口が利けるようになつてから、ピートが云つた。
 ソーントンは頭を振つた。「いや、素敵だよ、また恐ろしくもあるね。実は、僕も怖いとおもうことがあるよ」
「俺はあいつがあたりにいる時にはお前に手をかけるようなことは金輪際しないよ」とピートが結論として云つた、そしてバックの方に向つてうなづいてみせた。
「畜生め!」とハンズも口をだした。「俺さまだつてしないよ」
 その年も暮れないうちに、サークル・シティで、ピートの心配していたことが実現した。「ブラック」バートンというねじけた性悪の男が、酒場で新参者に喧嘩を売つていた。そこへソーントンがお人好しらしく仲裁にはいつた。バックはいつものとおり、頭を前肢にのせて片隅に寝そべつて、主人の一挙一動を見守つていた。バートンがだしぬけに肩からまつすぐに拳を突きだした。ソーントンはきりきりまいさせられて、打つ倒れようとしたが、酒場の横木につかまつてどうにかもちこたえた。
 見ていた人達は、ワンともキャンとも云うのじやなくて、咆哮といつたら一番よくあたるような声をきいた、そしてバックがバートンののどをめがけて床をはなれた時にバックの体が空中へ跳ねあがるのを見た。その男は本能的に片腕をつきだして命拾いをしたが、仰向けに床の上に打つ倒されて、バックがのしかかつていた。バックは腕の肉から歯をぬいて、再びのどをめがけて跳びついた。こんどはその男は部分的にしか防ぎきれず、のどを咬みさかれた。その時皆がバックにかかつていつて追い離した。しかし外科医が血止めをしている間も、バックはあちらこちらとうろつきまわり、獰猛にうなりながら、突つこもうとした、そして敵対する棍棒の勢揃いによつて、無理やりに退かされた。即座に召集された「坑夫会議」が、犬は充分挑発を受けたのであると結論を下し、バックは放免された。しかしバックの名声は確立され、その日以後彼の名前はアラスカ中の凡ゆる野営にひろがつていつた。
 それからすこし後、その年の秋に、バックはこれとまつたく違つたやり方で、ジョン・ソーントンの命を助けた。三人の仲間は、四十マイル川のひどい急流の部分を、細長い棹舟に索をつけて曳舟して下つていた。ハンズとピートは岸づたいに下りながら、細いマニラ麻の索を木から木に渡して舟の進みを加減していた、そしてソーントンは舟に乗つていて、棹で舟の下るのを助けながら、岸に向つて大声でいろんな指図をしていた。バックは岸にいて気を遣い心配そうに、舟と並んで進みながら、眼を主人からすこしも離さなかつた。
 僅かに水をかぶつた岩礁の鼻が河の中につき出ている特に具合の悪い地点で、ハンズが索をのばした、そして、ソーントンがその岩礁を越したら舟をひきとめるつもりで、ソーントンが棹で舟を流れの中へ押しだしている間に、索の端をにぎつて岸をかけ下つた。ソーントンは岩礁を越して、水車溝のように速い流れを矢のように流れ下つていた。その時ハンズは索を曳いて舟をとめたが、そのとめかたがあまりだしぬけだつた。舟はゆらめき顛覆して岸につけられた、それでソーントンは抛り出されて、下流へ押しながされ、ゆく手は急流の一番いけない部分、どんな泳ぎの達人でも助からない激流のひろがりになつていた。
 その瞬間にバックが跳びこんでいた、そして百五十間も泳いでいつて、狂瀾のさ中で、ソーントンにおいついた。バックはソーントンが自分の尻尾をつかんだと感ずると、岸の方に向い、素晴らしい力をふるつて泳ぎだした。しかし岸へ向う進みはおそく、下流へ押流される進みが恐ろしく速かつた。下流の激流がなお一そう激しくなり、巨大な櫛の歯のようにつき出ている岩のために幾筋にも分れて飛沫をあげている部分から、物凄いどよめきが聞こえてきた。その最後の急勾配の初めにかかつた時の水の巻込み具合はすさまじいものであつた、そこでソーントンは岸に泳ぎつくことは出来ないということをさとつた。彼は一つの岩をはげしくかすめて越し、次の岩にはすになぐりつけられ、また次の岩には砕けるような勢いでぶつかつた。彼はバックの尻尾をはなして、そのすべつこい頂上に両手がかじりついた、そして渦巻く水の咆吼より大声で叫んだ、「行け、バック! 行け!」
 バツクはふみとどまることができず、押しながされて、必死にもがいても泳ぎもどることができなかつた。ソーントンが命令をくりかえすのを聞くと、バックは水から半ば身をもちあげ、最後の見納めのように頭を高くあげたが、やがて命に服して岸に向っていった[#「向っていった」はママ]。バックは力一ぱい泳ぎぬき、もう泳ぎが出来なくなって[#「なって」はママ]破壊が始まった[#「始まった」はママ]まさにその点で、ピートとハンズに岸へ引きあげられた。
 そういう激流にさからって[#「さからって」はママ]人がすべつこい岩にかじりついていられる時間は、分をもつて算える時間だ、ということを二人は知つていた、それでソーントンがひつかかつている所より遥かに上流の一点まで、出来るだけ速く岸をかけ上つた。それから舟をつないでいた索を、バックの頚と肩に、バックの首をしめず泳ぐじやまにならぬように気をつけて、ゆわきつけ、バックを流れの中へおしだしてやつた。バックは大胆に泳ぎだした、しかし本流へまつすぐに向つていなかつた。誤りに気がついた時にはすでに遅く、ソーントンと一線上にあつてあと五、六回も水を掻けば届くというのに、力なく押し流されてしまつた。
 ハンズが早速、舟をひきとめるようにしてバックをひきとめた。そこで索が激流の中にぴんとはつたので、バックは水面下にひつぱりこまれ、体が岸にぶつかつて引きあげられるまで水面下に潜つたままだつた。バックは半ば溺死状態だつたので、ハンズとピートはバックにかけよって[#「かけよって」はママ]、叩いて息をふきかえさせ水を吐かせた。バックはよろめいて立ちあがつたがまた倒れた。ソーントンの声がかすかに聞こえてきた、そしてその言葉の意味をつかむことは出来なかつたけれども、彼が危急に瀕していることがわかつた。主人の声がバックには電気の衝撃のように作用した。バックははねおきて、人間の先に立つてさつきの出発点へ駈けていつた。
 再び索が結びつけられ、バックは押し出された、そして再びバックは泳ぎだしたが、今度はまつすぐ本流へむかつていつた。一度は勘定違いをやつたが、再びその誤りを犯すまいとしていた。ハンズが索を遅滞なくたぐりだし、ピートがもつれないようにさばいていた。バックはソーントンのいる所から一直線の上流まで泳ぎ出て、それから下流へ方向を転じ、急行列車の速さでソーントンの方へ泳いでいつた。ソーントンはバックの来るのをみとめた、そしてバックが激流の全力を背後にして破戒槌のようにぶつかつてきた時、両手をのばして毛むくじやらの頚に抱きついた。ハンズが索を木にひつかけて手繰つた。するとバックとソーントンは水の中へひつぱりこまれた。索で首がしまつて息の根がとまり、交互に上になつたり下になつたり、ざらざらの川底を曳きずられたり、岩礁や隠れ木にぶつつけられたりして、彼等は岸へ手繰りよせられた。
 ソーントンは、ハンズとピートに漂流木の上に腹這いに寝かされ、激しく前後に動かされて、正気附いた。先ずバックを求めて見まわしたが、そのバックのぐったりして[#「ぐったりして」はママ]命がないみたいな体を見てニッグが吠え声をあげ、スキートはその濡れた顔とつむつた眼を舐めていた。ソーントンは自分でも切傷や打撲傷を受けていながら、バックが蘇生させられると、その体をよく注意してしらべてみて、肋骨が三本折れていることを発見した。
「それできまった[#「きまった」はママ]」と彼は云つた、「此処で野営を張ろう」そこで彼等は野営を張り、バックの肋骨が癒合して、旅行することが出来るようになるまでそこに野営した。
 その冬、ドースンで、バックはまた一つ手柄をたてた、それは恐らく大して英雄的なものではなかつたが、彼の名をアラスカ名物のトーテム柱の上に更に幾段も高く刻みつける程の手柄であつた。この手柄は三人の人間にとつて特に満足なものであつた。けだし、彼等は是非必要だつた資金をそれによつて得ることが出来、それまでに鉱山師のはいりこんだことのない東部の処女地に向け、かねての望みの旅にいでたつことが出来たのである。それは「エルドラードー・サルーン」での会話からはじまつたもので、その時人々は自分の寵愛している犬のことを自慢するようなことになつた。バックがそのレコードのために、こういう人達の話の的になり、ソーントンはむきになつてバックを辯護せねばならぬ羽目においこまれた。三十分も経つた末、一人の男が俺の犬は五百封度積んだ橇を曳きだしてそのまま歩くことが出来ると云いだした。次の男が俺の犬は六百封度でもやれるとほらをふき、もう一人の男が七百封度だと云つた。
「ふふん!」とジョン・ソーントンが云つた。「バックは千封度積んだ橇を曳きだせるんだぞ」
「そして曳きだすんだね? それからそれを曳いて五十間歩くんだね!」と鉱山成金のマシウスンがたずねた、これは七百封度を誇つた男である。
「曳きだすんだ、そしてそれを曳いて五十間歩くんだ」とジョン・ソーントンが冷然と云い放つた。
「よし」とマシウスンがみんなに聞こえるように、ゆつくりと念を入れて云つた、「俺は、奴にはそれが出来ないという方に、千ドル賭ける。それ、これだよ」そう云いながら、彼はボローニャ・ソーセイジほどの大きさの砂金袋をバーの上にずしりと置いた。
 誰も口を利かなかつた。それが虚勢であるとすれば、ソーントンの虚勢が看破されたのである。彼は熱い血潮が顔にはい上つてくるのを感じた。舌がついすべつたのだ。バックが千封度積んだ橇を曳きだすことが出来るかどうかわかりはしないのであつた。半噸だもの! その途方もない重さが彼を苦しめた。バックの力を大いに信じてはいたし、それほどの重荷を曳きだすことが出来るかと考えたことも度々あつた、しかし今のように、黙つて待つている十何人かの眼が自分に向けられていて、その可能を決するというような目にあつたことはなかつた。その上にまた、彼は千ドルなんかもつていなかつた、ハンズだつてピートだつてもつていなかつた。
「ちようど今俺の橇が外にある、五十封度の小麦粉袋を二十袋積んであるよ」とマシウスンがむごいほどずけずけと云いつづけた、「それだからいやとは云われまい」
 ソーントンは答えない。何と云つたらよいかわからない。考える力を失つて、どこかにまた考えを働かせはじめるきつかけはないものかとさがしている人間のように、ぽかんとして人の顔を次々に見ていた。昔の仲間で今はマスドン金鉱王であるジム・オブライエンの顔が目にとまつた。それが彼にとつて一つの暗示のようなものであつて、自分でしようとは夢にも思つていなかつたことをするように彼を鼓舞するみたいであつた。
「千両貸してもらえまいか?」と彼は殆どつぶやくようにして云つた。
「よしきた」とオブライエンが答えて、はちきれそうな袋をマシウスンの袋の傍にどしんと置いた。「ジョン、俺はそいつがそういう芸当をやれるとは信じていないんだけれどもだよ」
 エルドラードーにいた人たちはみんなその勝負を見るために通りへとびだした。食卓は空になつて、犬商人や猟場の番人たちまで、その賭けごとの結果を見、自分らも賭けをするために出てきた。毛皮の外套を着て革の手袋をはめた人が何百人も、橇のまわりに見やすい距離をおいて人垣をつくつた。千封度の小麦粉を積んだマシウスンの橇は二時間ばかりもそこにとまつていた。それに寒気がひどい(零下六十度)ので滑子は固く踏みかたまつた雪にしつかりと凍りついていた。人々はバックが橇を動かすことは出来ないという方に二対一の賭けをした。「曳きだす」という文句について小競り合いがおきた。オブライエンは、滑子をずらすのはソーントンの権利であつて、バックは絶体静止状態から文字通り「曳きだす」に委せてよいのだ、と言い張つた。マシウスンは、その文句は雪に凍りついた滑子をずらすことも含んでいると主張した。その賭の成立を見ていた人々の大多数が彼の勝ちと決定した。そこで賭けはバックの負けに対して三対一にはねあがつた。
 賭けに応ずる者は一人もなかつた。誰一人バックがそういう芸当をやれるとは信じなかつた。ソーントンは、疑いをうんともちながら、この賭けに追いこまれたのであつた。それで今、その当の橇を、その橇の前にちやんとした十頭の組犬が雪の上にうずくまつているという具体的な事実を見たところ、この仕事が一そう不可能なように思われてきた。マシウンスははしやぎだした。
「三対一だ!」と彼は叫んだ。「その割でもう千両かけるよ、ソーントン、どうだね?」
 ソーントンの疑惑は顔につよくあらわれた、しかし彼の闘志が喚起された――逆境にあつて高揚し、不可能事を認めず、戦いの雄たけび以外の何物をも耳に入れぬ、闘志が。彼はハンズとピートを呼びよせた。二人の袋は内容が乏しく、自分のも加えて三人の仲間がかきあつめることのできた額は、ただの二百ドルだつた。三人の運が傾いている時のこととて、これが三人の全資本であつた。それでも彼等はちゆうちよすることなく、マシウスンの六百ドルに対してそれを賭けることにした。
 十頭の組犬は解き放され、バックが自分の輓具で橇につけられた。バックは周囲の昂奮に感染して、何かしらジョン・ソーントンのために重大なことをせねばならぬと感じていた。バックの素晴らしい姿を褒めるつぶやきがおきてきた。バックは完全なコンディションにあり、一オンスほどの贅肉もなく、その体重の百五十封度がそのまま剛毅と雄勁の同じ封度数であつた。深い毛皮は絹の輝きをもつて光つていた。頚すじから肩にかけて、彼の剛毛はじつと落ちついてはいるが、過剰の活力が一本一本の毛を元気に活動的にしているかのように、半ば逆立つていて、いつでも直立する姿勢をとつているように思われた。広い胸と太い前肢も、筋肉が固いこぶこぶになつて皮膚の下に見えている体の他の部分との釣合をこえていなかつた。人々はその筋肉にさわつてみて、鉄のように堅いと云つた、そこで賭けは二対一に下つた。
「やあ! やあ!」と最近の成金団の一員で、スクーカム台地の一成金がどもりながら云つた、「わしがその犬に八百ドル出しましよう、ねえ、そのテストの前に、ねえ、そのままで八百ドル」
 ソーントンは頭を振つてバックの傍へ歩みよつた。
「あんたは犬から離れていなくちやいけない」とマシウスンが抗議した、「自由なはたらきと、多くのゆとりをもたせなくちや」
 群衆は一時に黙りこんだ、ただ聞こえるものは博奕打ちが二対一の賭けに賭ける者を空しく求めている声だけであつた。誰も彼もバックが素晴らしい犬であることを認めたけれども、五十封度の小麦粉袋二十箇といえば彼等の目にはあまり嵩が大きすぎて、財布の紐をゆるめるわけにはいかないのであつた。
 ソーントンはバックの傍にひざまづいた。両手で頭をかかえ、頬に頬をすりつけた。彼はいつものようにふざけてバックをゆすつたのでも、優しい愛の悪口をつぶやいたのでもなくて、耳もとでささやいた。「お前は俺を愛してるから、バック。お前は俺を愛してるからなあ」というのがそのささやきであつた。バックは熱情を抑えて鼻をひくひく鳴らした。
 群衆は好奇心をもつて見ていた。この事件は神秘的なものになつてきていた、呪文のように思われた。ソーントンが立ちあがると、バックが彼の手袋をはめた手をくわえ、歯でかみしめたが、やがて半ばいやいやながらゆるゆると放した。それは言葉によらず愛を表現する答であつた。ソーントンはずつと後へ退いた。
「さあ、バック」と彼は云つた。
 バックは輓革をぴんと張つて、それからこんどは五、六寸程度ゆるめた。それは彼が会得していた方法であつた。
「ジー!」とソーントンの声が、緊張した沈黙の中でひびいた。
 バックは右の方へ寄つてゆき、その運動の終りにぐんと身をのりだして緩みを引締め、急に身ぶるいして百五十封度の体重をぶつつけた。積荷がゆらりと動いて、滑子の下からぱりぱりという音が起つた。
「ホウ!」とソーントンが号令をかけた。
 バックがこんどは左側に向けて同じ機動を試みた。ぱりぱりという音がぴちつぴちつという音になり、橇が回転し、滑子が軌つて五、六寸も脇へすべつた。橇の凍結がとれたのだ。人々は事実は知らずに緊張して呼吸をとめていた。
「さあ、進めマッシュ!」
 ソーントンの命令が出発合図のピストルのようになりひびいた。バックは前方へ身をなげだし、ぐいぐい突進して輓革を張つた。体全体がその巨大な努力でぎつちりと固まつて、筋肉が絹の毛皮の下で生きているもののようにのたうち、節くれ立つた。広い胸は地面にふれるほど低くたれ、頭は前へつきだして垂れ、しかも四肢は狂つたように飛躍し、爪は堅く踏み固めた雪を引掻いて平行した溝をつくつた。橇が揺れて震えて、やや前方へのりだした。肢のうちの一本がすべつた、すると一人の男が大きく呻いた。ついに橇が動きだしたが、それは急速なぎくしやくの連続のように見えた。しかしそれからはもうぴたりととまるようなことはなかつた……五分……一寸……二寸……。ぎくしやくは目に見えて減つていつた。橇に惰性がつくと、バックがその機をうまくとらえ、ついに橇は着々と動いていつた。
 人々は喘いで、一瞬間は自分らが呼吸いきをとめていたことにも気附かずに、再び呼吸し始めた。ソーントンは後から駈けていつて、短かい活気づける言葉でバックをはげましていた。距離は前もつて測つてあつた。それで、バックが五十間の終りの標に積んである薪に近附くにしたがつて、歓呼の声が次第次第に高まり、薪を通りこして命令によつて立ちどまると、怒号となつて爆発した。誰もかれも、マシウスンさえも、手放なしで踊り狂つた。帽子や手袋が空中に飛んでいた。人々が誰とでも構わず握手し、あぶくをとばして概して辻褄の合わぬ訳もわからぬことをしやべくつていた。
 しかしソーントンはバックの傍にひざまづいた。頭と頭をつき合わせて、彼はバックを前後にゆすぶつていた。急いでかけよつた人たちは彼がバックに悪口を云つているのを聞いた、そして彼は長い間、熱烈に、やさしく、また愛情をこめて、悪口を云つていた。
「やあ! やあ!」と例のスクーカム台地の成金が早口に云つた、「わしやそいつを売つてくれれば千ドルだしますよ、ねえ、千ドルですよ――千二百ドルですよ」
 ソーントンはたちあがつた。その眼は濡れていた。涙が手放しで頬をつたつて流れおちていた。「旦那」と彼はスクーカム台地の成金に云つた、「だめですよ。地獄へでも行かれたらいいでしよう。私としてはそう云うくらいが関の山です」
 バックがソーントンの手をくわえた。ソーントンはバックを前後にゆすぶつた。見物人たちは、共通の衝動を感じたらしく、相当の距離まで後退つた。そして再びじやまをするような無分別なことはしなかつた。
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七 呼び声のひびき


 バックが五分間でジョン・ソーントンのために千六百ドル稼いだので、彼の主人が或る種の負債を払い、相棒たちと一しよに、その歴史がこの地の歴史と同じく古い、噂に残る所在不明の金鉱を求めて、東部へ旅行することができるようにした。多くの人がそれをさがしにいつたが、見つけだした者はなく、その探索から戻つて来ない人も尠なくなかつた。この所在不明の金鉱は悲劇にそまり、神秘につつまれていた。最初に発見した人のことは誰も知らなかつた。どんなに古い伝説でもその人にさかのぼる前でゆきどまりになつていた。話の初めからして古い壊れかけた小屋があつたことになつていた。幾人もの人が死にがけに、この北国で知られているどういう種類の金とも違う金塊で証拠をかためて、その小屋が実際にあつたし、その小屋がその所在の標識になつている金鉱のあつたことを断言したのであつた。
 しかし生きている人でこの宝庫からものを取つてきたものはなかつたし、死者は死んでいた。そこでジョン・ソーントンとピートとハンズは、バックのほかに、五、六頭の犬をつれて、東に向い、自分らと同じような人間と犬がこれまでに尋ね得なかつた場所に達するために、知られざるふみわけ径へわけ入つた。彼等はユーコン河上を七十マイル橇でさかのぼり、左へ折れてスチュワート河に入り、メイヨ川とマククェスチョン川をすぎ、スチュワート河の本流が小さくなつてついに小流となるところまで進み、この大陸の脊骨をなしている聳立した山々の間を縫つていつた。
 ジョン・ソーントンは人間にも自然にも殆ど何物も求めなかつた。一握りの塩と一挺の鉄砲があれば、荒野に分け入り、好きなところで好きな期間暮すことができた。急ぎもしないので、インディヤン流に、一日の旅の途上で狩猟をして食事をかせいだ、そして食事にありつかなくとも、インディヤンがやるように、早かれ晩かれいつかはありつくものと確信して旅をつづけた。そこで、この東部への大旅行において、生一本の肉が献立で、弾薬と器具が主として橇の積荷をなしていた、しかもタイム・カードは無限の将来までのびていた。
 バックにとつては、この狩猟と、魚捕りと、異境をあてどもなく逍うことは、無限の喜びであつた。一時に何週間もつづけて彼等は毎日着々と進みつづけ、そこここで何週間も引続いて野営し、犬共はほつつき廻り、人間たちは火を燃やして凍土や砂利に穴をあけ、火の熱によつて何杯も何杯も泥を洗つて選鉱した。まつたく鳥獣の多寡と狩猟の成績如何によつて、空腹ですますこともあり、無茶な大食をすることもあつた。夏がくると、犬も人間も荷物を背負い、山間の青い湖水を筏で渡つたり、名もしれぬ川を立木を切りだして造つた細長い舟で上つたり下つたりした。
 月日が来たりまた去つていつた。そして彼等は、誰も行つたことのない、しかももし例の所在の知れぬ小屋の話が真実であれば行つた人もある、地図に出ていない広漠の荒野を縫うようにして歩きまわつた。彼等は夏の吹雪をおかして分水線の山々を越え、樹木限界線と万年雪の間の裸の山の上で真夜中の太陽〔北極に近いところでは夏には太陽は殆ど沒しない〕の下でふるえ、夏の谷間に下つてはぶよや蠅にたかられ、氷河のかげで南国の誇りとするものに劣らぬほど見事に熟した莓や美しい花を摘んだ。その年の秋には彼等は、悲しくものさびた、不気味な湖水地方へはいりこんだ、そこには野禽は来ていたかもしれないが、今では生あるものは何一つ、その痕跡すらもなかつた――あるものはただ吹きまくる冷たい風と、物蔭に張りつめた氷と、もの淋しい湖水の岸にうちよせる憂鬱なさざなみだけであつた。
 そしてその次の冬中も彼等は前に歩いていつた先人の忘れられた足跡をふんでさまよい歩いた。一度は、森林の中を踏みわけた道、古い古い道に出つくわした、それで所在不明の小屋が近くにあるように思われた。しかしその道は始まりも終りもわからず、その道は依然として、その道をこしらえた人とその人がそれをこしらえた理由が不可思議のままであつたのと同様に不可思議であつた。また或る時には、時にきざまれた狩猟小屋の壊れたのに出つくわし、そこの腐つた毛布の屑の中で、ソーントンが銃身の長い火縄銃を見つけだした。それは西北地方のまだ開けない頃の、こういう火縄銃でもその高さに平らに積みあげた海狸の毛皮ほどの値打があつた時代の、ハドソン湾会社の鉄砲に相違ないと彼は認めた。そしてそれだけのことであつた――昔その小屋をこしらえ、その鉄砲を毛布の間に残していつた人については、何の手がかりもなかつた。
 もう一度春がきた、そしておびただしい放浪の果てに彼等が発見したものは、その所在不明の小屋ではなく、広い谷間の浅い砂金層であつた、そこでは洗い鍋の底にわたがつて黄色いバタのような金があらわれた。彼等はそれ以上はもとめなかつた。そこでもつて働いた日には毎日、何千ドルというまざりつけのない砂金と金塊を取得した、そして彼等は毎日働いた。その金は五十封度ずつ鹿皮の嚢に詰め、えぞまつの丸太小屋の外にそれだけの嵩の薪のようにつみあげた。彼等は巨人のように働いた、そして彼等がその宝を積みあげている間に日々は夢のように相ついで迅く経つていつた。
 犬共には時々ソーントンが殺した肉をひつぱつてくること以外には何もすることがなかつたので、バックは永い時間を火の傍にねていろいろ考えることにすごした。何もすることがないので、例の脚の短かい毛深い人間の幻影が前よりも度多くバックの幻に現われるようになつた。それでしばしばバックは火の傍でまばたきしながら、その人間と一しよに自分が記憶しているあの別の世界の中をさまよつた。
 その別の世界で著しいことは恐怖であるように思われた。その毛深い人間が頭を膝の間に入れ手を頭の上で握り合わして、火の傍で眠つているのを見ると、その眠りがいかにも落着かず、度々はつとして眼をさますようであつた。そしてその度に恐ろしげに暗黒の中をのぞいてみては、火に薪を加えるのであつた。バックとそしてその毛深い人間が海の浜辺を歩いていると、その人間は貝をとり、とるはしから食べていつたが、その眼はしじゆう隠れた危険がありはしないかと八方をながめ、脚ではその危険が現われるや否や風のように駈けだす用意をしていた。バックはまた毛深い人間のすぐあとについて、森林の中を音をたてずに歩いていつた。そしてその人間の聴覚も嗅覚もバックと同じように鋭敏なので、人間もバックも両者とも油断なく警戒して、耳をぴくぴくと動かし、鼻をふるわせていつた。その毛深い人間は木にとびあがつて、地面を走るのと同じくらいの速さで木々をつたつて進むことができた。枝から枝へ、時には十尺も離れた枝へ手をのばして移り、次々にはなしては掴まり、はなしては掴まりして、決して落ちることはなく、握りそこなうことはなかつた。実際、その人間は木の上でも地上と同じように楽にしているようであつた。そしてバックは、その毛深い人間がしつかりとつかまつたまま眠りこんでいる木の下で、幾晩も不寝番をしていた記憶をもつていた。
 それからこの毛深い人間の幻影と密接に関係があるのは、今もなお森の奥にひびいている呼び声であつた。それは大きな不安と奇妙な欲求で彼を満たした。それはバックに漠然たる甘美な喜びを感じさせ、バックは自分では知らぬものを求める激しいあこがれと昂奮を意識した。時折バックはその呼び声を追つて森林へはいつてゆき、その呼び声が目に見えるものであるかのようにそれをさがしまわり、その時の気分の命ずるままに、或いはやさしく、或いは挑戦的に吠えるのであつた。木に生えた冷たい苔や、長い草の生えている黒い土に鼻をつきつけて、豊かな土の香を楽しんで鼻をうごめかし、或いは菌類の一ぱい生えた倒れた木の蔭に、隠れるようにして何時間もうずくまり、自分のまわりで動いたり音をたてたりする凡ゆるものに対して眼と耳を広く開いていた。こうして寝ているのは、自分では理解することはできないその呼び声を奇襲するつもりでいたからであつた。しかしこういう様々なことを自分がする理由はわからなかつた。ただそうせずには居られなくてするのであつて、それについては全然推理しないのであつた。
 抑えきれぬ衝動が彼を捉えた。太陽の熱に暖まつてうつらうつらとまどろみながら野営に寝ていると、突然に頭をもたげて耳をたて、一心に聴きいることがあつたが、それから跳ねるようにたちあがつて駈けだし、森の中の通路や丸い石ころのごろごろした空地を、ぐんぐんと何時間もかけまわるのであつた。彼は好んで乾いた水路を駈け下り、森の中へしのびこんで鳥を狙つたりした。一日中下生えの中に忍んでいて、しやこがあちらこちらと太鼓を叩くような鳴き声をたてて気取つて歩きまわるのを見ていることもあつた。しかし彼は特に好んで、夏の夜半の薄ら明りの中をかけまわり、森林の打ち沈んだ眠たげなつぶやきに耳を傾け、人間が読書するように形跡や音響を読み、或る不可思議なものをさがし求めた。それは、寝てもさめても、あらゆる時間に、彼に来い来いと呼びかけていた。
 ある夜バックははつとして眠りからさめて跳ね起き、眼をかつと見開き、鼻をふるわして嗅ぎまわり、毛を浪打つように逆立てた。森の中から例の呼び声(というよりはその呼び声の一ふし、というのはこの呼び声にはさまざまなふしがあつたのだから)が、以前にはなかつたほどはつきりと明かにきこえてきた――エスキモー犬がたてる声と似てはいるがそれとは違う、長くひつぱる咆え声のようであつた。そしてバックは、いつものやりかたで、それは以前に聞いたことのある声だとさとつた。彼は皆が眠つている野営を駈け抜け、音もなく速かに森の中を突進した。その呼び声に近附くにつれて、彼は凡ゆる動きに注意してだんだん歩みをゆるめ、おしまいに木々の間の空き地へ来てしまつた。そして見まわしていると、長身の痩せた狼が鼻を天に向け、しりを据えて坐つていた。
 バックの方では何の物音もたてないでいたのだが、狼は咆えることをやめて、バックのいることを嗅ぎだそうとした。バックは半ば這うようにして、体をがつちりとひきしめ、尻尾をまつすぐにぴんとのばし、肢を異常に注意してふみおろし、その空き地の中へはいりこんだ。凡ゆる挙動が威嚇と友好の申込みのまじり合つた態度を示すのであつた。それは野生の食肉獣の出会いの特徴である威嚇的休戦であつた。しかしその狼はバックの姿を見ると逃げだしていつたので、バックはやつきとなつて追いつこうとして、すさまじく跳ねかえつて後を追つた。そしてついに、小川の河床で防材が一ぱいたまつて道をふさいでいる、行きつまりの道へ追いつめた。狼は、ジョーやその他のエスキモー犬が追いつめられたときにするように、後肢を軸にしてぐるりつとまわり、唸つて、毛を逆立て、しきりに咬みつくような具合に歯をかみ合わせた。
 バックは攻撃しないで、狼のまわりをぐるぐるまわつてしきりに友好の申込みでとじこめた。狼は、バックの体重が自分の三倍もあり、自分の頭がバックの肩にどうにか届くくらいなものであるために、猜疑し恐れていた。それで機を見てぱつと逃げだしたので、追跡が再び始まつた。幾度となく狼は追いつめられ、それが何べんか繰りかえされた。しかし狼は体の調子が悪かつたのである、でなければバックとてもそうたやすくは追いつけなかつただろう。狼が走つているとやがてバックの頭が狼の脇腹にとどくようになる、すると狼はせつぱつまつてぐるりつと向きなおつたが、やがてまた機会が見つかり次第にぱつと駈けだすのであつた。
 しかし結局においてバックの執拗さが報いられ、狼は何も害意のないことに気附いて、最後にバックと鼻を嗅ぎ合つた。それから彼等は仲良しになり、猛獣がその獰猛さを裏切るあの気の弱い、半ばはずかしげなふざけかたで、ふざけて遊びまわつた。それから暫くして、狼がはつきりと俺は今から或る所へ行くのだと知らせるように楽な駈足でかけだした。即ち狼はバックにはつきりとお前は来るのだということをしらせたわけである。それで彼等は肩をならべてほの暗い薄明の中を駈け抜け、小川の河床をまつすぐにのぼつて、その小川が発している谷間に入りこみ、その小川の水源のわびしい分水嶺を越えていつた。
 分水線の向うの斜面を下ると、平らかな地域へはいこんだ、そこには広大な森林地帯と多くの小川があつた、そういう広大な地面を彼等は幾時間もどしどし駈けていつた、すると、太陽はますます高く昇り、日中はますます暖かくなつていた。バックは滅茶苦茶に嬉しかつた。彼はついにあの呼び声に答え、森の兄弟と肩を並べて、たしかにその呼び声のやつてくる場所に向つて駈けているのだ、ということを知つた。昔の記憶がしきりに戻つてきて、彼は昔、現実――昔の記憶はその現実の影であつた――に対して胸をときめかしたように、その記憶に胸をときめかすのであつた、彼はあのほのかに記憶している別の世界のどこかでこれと同じことをしたのであつた、そして今またそれを繰りかえし、踏み固められてない大地を足下にし、広い空を頭上にいただいて、広つぱを自由に駈けまわつていた。
 彼等は流れている小川の傍にたちどまつて水を飲んだ、そしてとまつてみるとバックはソーントンのことを思いだした。バックは坐りこんだ。狼はたしかに例の呼び声がやつてきたもとと思われる場所の方へ向つて出発したが、やがて引つかえしてきて、鼻をひくひくさせてバックを激励するような行動をとつた。しかしバックは向きをかえて、ゆるゆるともときた道へひきかえした。一時間近くも荒野の兄弟は、やさしく鼻をならしながら、バックと一しよに駈けた。それから坐りこんで、鼻を上に向けて、咆えたてた。それはかなしげな咆え声であつた。そしてバックは、つづけてどんどん進みながら、その咆え声がだんだんかすかになつてゆくのを聞いた。そしてついにそれも遠くなつて聞こえなくなつた。
 ジョン・ソーントンが食事しているときに、バックが野営へとびこんできて、狂つたような愛情をもつてソーントンに跳びかかつてつつころがし、顔を舐めたり、手を噛んだりした――即ちジョン・ソーントンがその特徴をあげたのによれば「むやみと馬鹿ふざけをやつた」、そしてその間ソーントンはバックを前後にゆすぶつて、可愛いくてたまらぬらしく悪口を云つていた。
 二日二晩バックはちつとも野営から離れず、ソーントンを眼からはなさなかつた。仕事をしているところへもついてゆき、食事している間も見守り、夜は毛布にくるまるところを見届け、朝は毛布から出てくるのを待ちうけた。しかし二日の後には、森の中の呼び声が以前よりもつと命令的にひびいてきた。バックの落着きが再びなくなつてきた、そして荒野の兄弟と、分水嶺の向うのたのしい土地と、広大な森林地帯を肩を並べて駈けまわつたことの回想につきまとわれた。再びバックは森の中の放浪をはじめたが、あの荒野の兄弟はもはややつて来なかつた。そして長い間夜明かしして聞き耳をたてていたけれども、あのあわれな咆え声は決してあげられなかつた。
 バックは夜は外で眠るようになり、つづけて幾日も野営を留守にした。そして一度あの小川の水源の分水嶺を越え、樹木と小川の地域へはいりこんだ。そしてそこで一週間もうろつきまわり、あの荒野の兄弟の新しい足跡をさがしても見つからず、旅をしながら獲物を殺して食べ、決して疲れることを知らぬ楽な大股で歩きまわつた。彼はどこかで海にそそいでいる広い川で鮭をとり、そしてその川のほとりで、大きな黒い熊を殺した、その熊は同じように鮭をとつているうちに、蚊にさされて眼が見えなくなり、森の中をあてもなく恐ろしく暴れまわつていたのであつた。それにしてもその格闘は困難な格闘で、バックの潜在していた兇猛の最後の名残りを喚びさました。そしてそれから二日の後、殺した獲物のところへ戻つてみると、十匹ばかりの黒穴熊がその獲物をめぐつて喧嘩していたので、その連中を籾がらのように追払つた。すると彼等はもう喧嘩することもできなくなつた二匹をのこして逃げ去つた。
 血の渇望が前より強くなつてきた。彼は殺すもの、動物を餌食にするもの、孤独無援自分の力と技によつて、生きているものを食つて生きるもの、強者だけが生き残るはげしい環境にあつて勝利者として生き残ることとなつた。こういうことが原因になつて彼は自分に大きな矜恃をもつようになり、それが感染するように、彼の肉体的存在にまでうつつていつた。
 それが彼の凡ゆる動きにあらわれ、あらゆる筋肉の動きにも見え、言葉のように明瞭に彼の立居振舞をもつて語り、彼の素晴らしい毛皮をどつちかといえば一層輝かした。鼻つつらと眼の上にある茶色のぶちと、胸の真中にある白い毛の飛び模様がなかつたならば、彼は一番大きな狼よりも大きい、巨大な狼と間違えられても仕方がないのであつた。聖バーナード種の父親からその大きさと体重を受けついでいたが、その大きさと重さに形を与えたのはシェパード種の母親であつた。その鼻つらは、狼の鼻つらより大きいという点を除けば、長い狼の鼻つらであつた。そしてその幾分広い頭は規模の大きい狼の頭であつた。
 彼の狡智は狼の狡智、野生の狡智であり、彼の知性はシェパードの知性と聖バーナード種の知性であつた。そしてこういうことのすべてが最も兇猛な経験が加わつて、彼を荒野をうろつくいかな動物にも劣らぬ恐るべき動物にしあげていた。生粋の肉食をして生きる肉食動物として、彼はまさに花の盛りであり、生命の高潮期にあつて、活力と精力に満ち満ちていた。ソーントンが手をさしのべてバックの背中を撫でると、その手に従つてパチパチ、パリパリという音がおこり、手の一本一本がその接触にあたつて蓄積していた磁力を放射した。凡ゆる部分、頭脳と肉体、神経組織と筋が、最も精妙な調子に合つていて、しかも凡ての部分の間に安全な均衡或いは適応があつた。行動を要求する光景と音と出来事には電光のような速さで応答した。エスキモー犬の様に速く、他の攻撃に対して防衛するため、或いは自分の方から攻撃するために跳ぶことが出来、同じ速さで二度つづけて跳ぶことができた。動きを見つけ、或いは音を聴けば、他の犬がただ見、或いは聴くことを計画するのに要する時間より少ない時間でそれに応答した。即ち同じ瞬間に認識し決定し応答したのである。実際には認識と決定と応答の三つの行動は順を追うものであるが、その間のとぎれる時間が極めて微少なので、それは同時であるように見えた。彼の筋肉は活力に満ち溢れ、鋼鉄のスプリングのようにきつく弾んで活動した。生命が素晴らしい血潮となつて、快活奔放に彼の体内を流れ、ついにはひたすらな歓喜法悦となり、彼をつき破つてこの世界中にみなぎりわたるように思われた。
「こんな犬つて今までになかつたね」と或る日ジョン・ソーントンが云つた。それは仲間がバックの野営から出てゆくのを見守つているときであつた。
「あいつがこしらえられた時には、型がこわれたんだよ」とピートが云つた。
「まつたくだ! 俺だつてそうだと思うよ」とハンズが断言した。
 彼等はバックが野営から出てゆくのを見たが、彼が森の秘密の中に入りこむや否や即刻に起る恐ろしい変容は見なかつた。バックはもはや堂々と歩かなくなつた。直ちに荒野の生物となつて、猫の足のように音もなくしのび歩き、駈けぬける影のようになつて、物蔭の間に見えたり見えなくなつたりした。あらゆる物蔭を利用すること、蛇のように腹這いになり、蛇のように跳ねあがつて攻撃することを知つていた。巣についているらいちようを捕り、眠つている兎を殺し、にげて木にとびつくのが一秒おくれた小さな縞りすに空中で咬みつくことができた。氷のとけた淵の魚は、速すぎて彼につかまらぬということはなかつたし、堤防を修繕している海狸ビーヴァはいくら警戒していても駄目であつた。彼は生物を殺して食つた、それは気まぐれからではなくて、自分で殺したものを食いたいからであつた。それでも彼の行動には一抹の諧謔がまつわつていて、例えばりす共にしのびよつて捕まえるばつかりになつた時に、死の恐怖にがたがたた[#「がたがたた」はママ]ふるえて木の頂へかけのぼるのを見のがしてやるのが、彼のたのしみであつた。
 その年の秋が来ると、大鹿が例年より多く現われて、低くて気候の酷烈でない谷間で冬を迎えるためにそろそろ降りてきていた。バックは既につれにはぐれた一頭の半ばおとなになつた仔鹿をやつつけていたが、もつと大きな、もつと強い獲物がほしくてならなかつた。そして或る日小川の水源の分水嶺でそういうのにぶつかつた。二十頭の大鹿の一団が森林と小川の土地から越してきたが、その首領は大きな牡鹿であつた。その牡鹿は気が荒くなつていて、六尺以上の背丈があり、バックにさえ願つたり叶つたりの強剛な敵であつた。その牡鹿は、叉が十四もあり、先端の幅が七尺にも及ぶ、大きな掌状の角を前後に振り動かしていた。細い眼は兇悪で辛辣な光をおび、バックの姿を見ると憤激して唸つた。
 牡鹿の横腹の脾腹のすぐ前のところから矢の羽根の部分がつき出ていた、それは即ち彼の兇猛なことを説明するものであつた。バックは原始世界の古い狩猟時代から伝わつてきた本能にしたがつて、その牡鹿を群から切り離すことにとりかかつた。それはけつして容易なわざではなかつた。彼は、その巨大な角と、一打ちでバックの命を叩きだすことができそうな恐ろしい大きな蹄とがわずかに届かないくらいのところで、牡鹿の眼の前で吠えたり踊つたりした。牡鹿は、その牙をもつた危険なものに背を向けて行つてしまうこともできず、遣りかたもない憤激にかられた。そういう瞬間には彼はバックを攻撃してきた。そこでバックは巧妙に後退しながら、とうてい遁げおおせないように見せかけておびきだすのであつた。しかしその首領がこうしてその群から分離されると、二、三頭の若い牡鹿がバックを攻撃してきて、例の手負いの牡鹿が群へ立戻ることができるようにした。
 生命そのもののように頑固で、疲れを知らず、執拗な――荒野の忍耐というものがある――それがくもをその巣に、蛇をそのとぐろに、豹をその待伏所に無限にじつとさせておくのである。この忍耐は、生命がその生きた餌食をあさる時に、特に生命に属するものであつて、バックが大鹿の群の側面にまつわりついて、その進みを遅らせ、したがつて若い牡鹿たちを焦立たせ、半ば成長した仔鹿をつれた牡鹿を困らせ、手負いの牡鹿をどうにもならぬ憤激で熱狂させた時、バックにこの忍耐が属していたのである。それが半日もつづいた。バックは千変万化し、八方から攻撃して、大鹿の群を脅威の旋風の中に封じこめ、目ざす獲物の牡鹿がその仲間と一しよになるかとみると直ちに引離し、狙う動物の忍耐に劣る忍耐である狙われる動物の忍耐を尽きさせてしまつた。
 日がずうつと終りになり、太陽が西北のふしどへ落ちると(暗い夜がもどつてきていて、秋の夜の長さが六時間になつていた)、若い牡鹿たちは敵につけられている首領の救援に引返すことをだんだんいやがるようになつた。さかおとしにやつてくる冬が彼等を低地へ低地へと急きたてているのに、その邪魔をするこの疲れを知らぬ動物をふりはなすことはできないように思われた。その上に、おびやかされているのは、群全体の生命でも、若い牡鹿の命でもなかつた。唯一頭の生命が求められているのであつて、それは彼等の生命よりは縁遠い関心事であつた、それで結局彼等はその通行税を払うことに満足した。
 たそがれになつて、年老いた牡鹿が頭を下げて立つて見ていると、彼の仲間――彼が交配した牝鹿たちと、彼が父親として生ませた仔鹿たちと、彼が支配してきた牡鹿たち――がうすれゆく光の中を足速やによろめきながら駈けていつた。鼻先には無慈悲な牙をもつた恐るべきものが跳びはねていて、なかなか放してはくれないので、彼はその後についてゆくことはできない。彼の体重は半トンよりも三百封度も重かつた、彼は格闘と闘争に満ちた、長い、強烈な生活をつづけてきていた、そして今最後に及んで、その頭が自分の関節の太い膝頭までしか届かない動物の歯にかかつての死に直面したのである。
 それから後は夜となく昼となく、バックはその獲物の傍を去らず、一瞬間の休みも許さず、木の葉でも樺や柳の若芽でも食べることを許さなかつた。それどころでなく、手負いの牡鹿が、渡つてゆくちよろちよろの小流れで、燃えるような渇を医する機会も与えなかつた。牡鹿はしばしば絶望のあまりに、突然に駈けだして長く長く逃げのびた。そういう時には、バックは牡鹿を止めようとはせず、競技の行われかたに満足して、すぐ後から楽な気持ちで駈けていつて、大鹿がたちどまると自分は寝ころび、大鹿がものを食べるか水を飲むかしようとすれば、激しく攻撃するのであつた。
 大きな頭が大木のような角の重荷でますますひどくうな垂れ、よろめく足どりがますます弱つてきた。彼は鼻を地面に向け、しよげた耳朶を力なく垂らして、長時間立つているようになつた。そこでバックは自分だけ水を飲み、自分だけ休息する時間をよけいもつことになつた。そういう時には、赤い舌をだらりとだし、眼をじつと大きな牡鹿にそそいで喘いでいると、物事の表面に一つの変化が来ているように思われた。バックは大地の新しいうごめきを感ずることができた。大鹿がこの土地へやつて来るくらいだから、他の種類の生物がやつて来ていた。森林も小川も空気もそういう生物でときめいているように思われた。そのニュースは、視覚や音や嗅覚によつてではなくて、何か別の一そう微妙な感覚によつて、彼にもつてこられた。何も見ず、何も聞かないのに、土地が幾分変つたことを、その土地一たいを奇妙なものが歩きまわり、かけまわつていることを、知るのであつた、それで彼は手許の仕事を終つたらそれを観察することにきめた。
 ついに四日目の終りにバックはその大きな大鹿を引きずり倒した。一日一晩彼はその獲物の傍にいて、交代に食つたり眠つたりした。それから、休息をとり、回復して強くなり、野営とジョン・ソーントンの方へ頭をめぐらした。彼は突然楽な大股で歩きだし、こんがらがつた道のために臭跡を失うこともなく何時間も何時間も歩きつづけ、見知らない土地を通りながら、人間と人間の磁針すら恥じさせる程正確に方向を定めてまつすぐに家路へ向つた。
 進めば進むほど、それだけよけいに土地の新しいうごめきを意識した。そこには夏中そこにいた生命とは違う生命が徘徊していた。その事実はもはや彼にはある微妙な神秘的な方法でもたらされたのではない。小鳥たちがそれを語り、りすがそれについておしやべりし、風そのものさえもそれをささやいていた。何度も彼はたちどまつては、すがすがしい朝の空気を大きな鼻いきですいこみ、一つの言伝てを読みとつたので、一そう速度を速めて躍進していつた。彼はその災厄が既に起きているのではないにしても、ある災厄がいま起きかけているという感じに圧倒された、それで最後の分水線を越えて、野営の方へと谷合を上つて行くときには、今までより一そう警戒して進んでいつた。
 あと三マイルというところで、新しい臭跡にぶつかつたので、それを嗅いでみると彼の頚すじの毛が波立ち逆立つた。その臭跡はまつすぐに野営とジョン・ソーントンの方へ向つていた。バックは凡ゆる神経をぴんと緊張させ、一つの報道記事――その結末をのぞく凡てのこと――を語る種々雑多な証跡を油断なく観察しながら、しのびやかにしかし急速に駈けつづけた。臭で嗅いでゆくと、自分がいまその後を追つている生物の通つていつた経路がさまざまにわかつてきた。森林が何か含むところのある沈黙をまもつていることに気付いた。鳥共はとび去つていた。りす共はかくれていた。バックが見つけた只一匹のりすは――つやつやした灰色のやつで、灰色の枯れ枝にぺたんとはりついているので、木の一部で、その木そのものについたこぶかなにかのように見えた。
 バックがすべつてゆく影のように、姿をくらましながら駈けていると、彼の鼻はだしぬけに、まるで具体的な力がつかまえて引つぱるように、わきへぐいとひきつけられた。そこで彼はその新しい遺臭にしたがつて茂みの中へはいつていくと、そこにニッグがいた。ニッグは横倒しになつていて、そこまで曳きずるように歩いてきて死んだものらしく、胴体の両端から矢の矢尻と羽根がつき出ていた。
 それから五十間も駈けてゆくと、ソーントンがドースンで買つた橇犬にぶつかつた。その犬は道のまん中で断末魔の身悶えにもだえてまわつていたが、バックはたちどまらずにそれをよけて通りすぎた。野営からは単調な歌の調子で上り下りする沢山な人の声が、かすかにきこえてきた。切り開いた土地の端へはいよつてみると、ハンズがやまあらしのように無数の矢をうちこまれて、うつ伏せに倒れていた。その瞬間にバックはもとえぞ松の丸太小屋のあつた場所をのぞいてみて、見つけたものが彼の頚すじと肩の毛をはつと逆立たせた。圧倒的な憤激の浪が身うちをかけめぐつた。自分では唸つたことに気付かずに、恐ろしく獰猛に大きく唸つた。生涯の最後とばかりに彼は激情が狡智と理性の地位を奪うにまかせた。そして彼が取乱したのはジョン・ソーントンに対する彼の大きな愛のためであつた。
 イーハット部族のインディヤンたちが、えぞ松の丸太小屋の廃墟のまわりで踊りまわつていた、その時彼等は恐ろしい咆え声を聞き、今までに見たこともなかつた種類の動物が自分等に跳びかかつてくるのを見た。それはバックであつて、憤激の生命のある旋風のように、破壊せずんばやまずという勢いで跳びかかつてきた。先ず一番前にいた男(それはイーハット部族の酋長であつた)に跳びかかつて、そののどをがつぷりと咬み裂いた。するとついに咬み切られた喉笛から血の泉が憤きだした。バックはそのやられた男のことにはしばらくも構わず、序でに咬みさいておいて、直ちにまた跳ねあがつた時には次の男ののどを咬み裂いた。バックに対抗するにもしようがなかつた。バックはインディヤンの群る中を跳ねまわつて、咬み裂き、咬みちぎり、咬み殺し、彼等が射かける矢などはものともせずに不断に猛烈に荒れまわつた。実際、バックの動きがとても考えも及ばぬほど迅速であり、インディヤンがあまりにもびつしりと密集しているので、彼等はお互いに矢の同志打ちをやつた、そして一人の若い猟師が、跳びあがつたバックめがけて槍を投げて、それを別の猟師の胸にひどい勢いでつきさしたので、きつさきが勢いあまつて背中の皮をつきぬけて向うへ出つぱつた。そこでイーハット部族の連中は恐慌に捉われ、恐れおののいて、逃げながら悪霊が来たと叫びつつ、森の中へ逃げこんでいつた。
 そしてまことにバックは悪魔の権化となつて、憤激して彼等の後を追い、木々の間を駈けてゆく奴を片つぱしからただの鹿かなんぞのようにひきずり倒した。この日はイーハット部族にとつては宿命の日であつた。彼等はその地方一帯にてんでんばらばらに散らばり、それから一週間もしてからようやく生き残つた最後の者が低い方の谷合に集つて、死者の数を算えた。バックの方ではその追撃で疲れて、荒らされた野営へ戻つてきた。奇襲の最初の瞬間にやられたらしく、毛布にくるまつたまま殺されていた場所でピートを見つけた。ソーントンの必死の格闘のさまは地面にありありと描かれていた、それでバックはそのあとを一々嗅ぎわけて深い池の際までたどつていつた。その池の際には、頭と前肢は水にはまつて、最後まで忠実だつたスキートが倒れていた。池そのものは、選鉱箱のために濁つて色が変つているので、中にあるものを有効に隠していた、そしてその中にジョン・ソーントンがいた、けだしバックはソーントンの臭跡を水の中までつけてきたのだけれども、そこから出ていつた臭跡はなかつたのである。
 バックは終日池の傍でうずくまつていたり、落着きなく野営のあたりをぶらついたりした。死というものを運動の停止として、生きたものからの生命の離脱として、バックは知つていた、だから彼はジョン・ソーントンが死んだことを知つていた。それはバックの身内に一つの空虚を残した。何となく空腹に似ていたが、この空虚はしきりにうずいて、食物で満たすことは出来なかつた。時には、そしてたちどまつてイーハット族の死骸をじつと見たときには、その苦痛を忘れることもあつた、そしてそういう時にはバックは自分自身に大きな誇りを感じた――それまでに経験したいかなる誇りよりも大きな誇りを感じた。彼は人間を、獲物のうちでは最も高貴な獲物を殺したのであつた、しかも彼は棍棒と牙の法則を冒して殺したのであつた。彼は好奇心をもつて死体を嗅いだ。彼等はいかにも容易に死んだ。彼等よりエスキモー犬の方が殺すのに困難だつた。彼等は弓矢と槍と棍棒がなければ、全然敵ではなかつた。彼はそれからのちは彼等が弓矢や槍や棍棒を手にもつているとき以外は、彼等を恐れないことにきめた。
 夜がきて、満月が木々の上の空に高くのぼつて地上を照らし、地上はついに不気味な昼のような光に浴した。そして夜が来ると、池の傍でうずくまつて悲しんでいたバックは、森の中に、イーハット族のおこしたのとは違う、新しい生命の動きを感じた。彼は立ちあがつて耳を傾け、鼻をうごめかした。遠くの方からかすかな、鋭い吠え声がただよつてきて、そのあとに同様に鋭い吠え声の合唱がつづいた。瞬間がすぎる毎にその吠え声がだんだん近くだんだん大きくなつてきた。バックはまた、それは自分の記憶について離れないあの別の世界で聞いたものであることを知つた。彼は空地の中央に進み出て耳を傾けた。それは例の呼び声であつた。以前よりもずつと誘惑的で強烈にひびく、あの幾つもの調子をもつ呼び声であつた。そして彼は今までになく、早速それに従う用意をした。ジョン・ソーントンは死んでいた。最後の紐帯までが切れていた。人間と人間の要求はもはや彼を束縛してはいなかつた。
 狼の群がイーハット族がそれを狩猟していたように、移動する大鹿の側面を襲つて、生きた肉を狩猟しながら、ついに森林と小川の土地から山を越えて、バックのいる谷間へ侵入してきた。月光の流れる空地の中へ、その狼たちが銀色の洪水となつて流れこんできた、するとその空地の中心に、バックが彫像のように動かず立つていて、彼等の来るのを待つていた。狼共は畏怖を感じた、それほど沈着にそれほど大きくバックが立つていた、そこで一瞬間の停止となつたが、やがて一番大胆な狼がまつすぐにバックへ跳びかかつた。バックは電光のように攻撃して、頭を咬み切つた。それからまた以前のように不動の姿勢で立つたが、やられた狼は彼の後ろで苦悶してころがつていた。他の三頭の狼が矢継早やにそれを試み、次々にやられたのどや肩から血を流してひきさがつた。
 それにはたまりかねて狼の全群が目茶苦茶にかたまり合つて跳びだしてきたが、獲物を倒そうとする熱心のあまりにお互いが邪魔になつて混乱した。バックにはその素晴らしい敏活さが役に立つた。後肢を軸にして体を回転させて、咬みつき跳びつき、此処にいるかと思えばあちらに現われ、あちらにいるかと思えば此処に現われ、始終破られそうもない正面を敵に向けていた、それほど迅速に身をひるがえし、左右を警戒していた。しかも狼共が背後にまわるのを防ぐために止むなく後退し、池の傍をすぎて小川の河床にはいりこみ、ついに高い砂利の堤で押しつまりになつた。バックは闘いながら、人々が金掘りの間にこしらえた堤の直角になつたところへ引きさがり、その直角の中で窮地について踏み止まつたが、三方は防衛されているので前面で敵に対するだけとなつた。
 しかもその前面の敵と非常によく戦つたので、半時間の後には狼共は挫折して引退つた。みんなの舌がだらりと垂れ、白い牙が月光を受けて残酷なほど白く見えていた。頭をあげ耳を前へつきだして坐つているのもあり、つつ立つたままバックを見守つているのもあり、さらに池の水をぴちやぴちやすくい飲みしているのもあつた。胴が長くて痩せて灰色をしている一頭の狼が、友好的な態度で、用心しいしい進み出た、するとバックはそれが一日一夜一しよになつて駈けたあの荒野の兄弟であることを認めた。その狼はやさしく鼻をならしていたが、バックが鼻をならすと、両者は鼻を触れ合つた。
 するとやせた、闘いの傷痕のある、年寄り狼が進み出た。バックは唇をねじらせて唸る予備行動をとつたが、その狼と鼻息をし合つた。それから年寄り狼が腰をすえて、鼻を月に向けて、長い狼流の咆哮をはじめた。他の狼も全部腰をすえて咆哮した。そして今やあの呼び声がバックには誤りようもない抑揚をもつて聞こえてきた。バックもまた腰をすえて咆哮した。それが終るとバックは直角の隅から出てきた、すると狼の全群がそのまわりに集り、半ば友好的に、半ば兇暴な態度で鼻いきをした。首領株の狼たちが狼らしい吠えかたをして森の中へかけこんだ。狼共はみな合唱のように吠えてそのあとについて駈けていつた。そしてバックはその中にまじり、例の荒野の兄弟と肩をならべて駈けながら吠えた。

 さてここでバックの物語は終りにしてもよい。それから幾年もたたぬうちに、イーハット族は森の狼の種に一つの変化を認めた、頭や鼻つらに茶色の点があつたり、胸の中央に白い毛の筋がついたりした狼が目についたのだからである。しかしそれよりもつと著しいことには、イーハット族は、狼群の先頭に立つて駈ける「お化け犬」のことをいまも語り草にしている。彼等はこの「お化け犬」を恐れている、けだしそのお化け犬は彼等よりずつと智慧があつて、きびしい冬には彼等の野営からものを盜み、わなにかけたものを奪い、犬を殺し、どんな勇敢な狩猟者でもものともしないからである。
 いや、話はもつと悪くなる。野営へもどつてこない狩猟者があり、部族のものがさがしにいつてみると、のどを無残に咬み裂かれている狩猟者があつて、そのまわりの雪の上にはどの狼の足跡より大きい足跡があつた。毎年の秋、イーハット族が大鹿の移動を追つてゆくときにも、彼等がはいつてゆかない一つの谷がある。そして火にあたりながら、どうしてあの「悪霊」がその谷合を棲家に選んだのだろうという話になると、悲しくなる女たちがいる。
 しかし、夏にはイーハット族の知らないこの谷合へやつてくる訪問者がいる。それは他の凡ての狼と同様な、しかし同様でない、大きな立派な毛皮の狼である。彼は単独で立派な森林地帯から越してきて、木々の間の空地へおりてくる。そこでは一筋の黄色い流れが腐つた鹿皮の袋から流れ出て、地中へ沈み、そこから長い草が生えて、植物の腐蝕土がそれにかぶさり、その黄色を太陽から隠している。そしてそこでもつて彼はしばらく瞑想し、一声長くかなしげに咆えて、それから立ち去る。
 しかし彼はいつも単独なわけではない。長い冬の夜がきて、狼共が肉を逐つて低い谷へおりてくると、彼が狼群の先頭に立つて、蒼白い月光或いは明滅する極光の中を、仲間の上に巨人のように抜きでて跳ねながら駈けてゆくのが見られる。そして彼の大きなのどは、若い世界の歌を歌う時にはさながら咆哮する、それは狼群の歌である。
[#改丁]

解説


 貧乏なためにろくろく学校へも行けず、様々な雑役をやつたり、製罐工場で一時間十セントの給料で犬のように働かされたりしたジャック・ロンドンは、その後密漁者の仲間にはいつたりして、ならず者と一しよに無茶な生活をつづけたが、その間にも読書し思索することを怠らなかつた。そういう生活から足を洗い、朝鮮、日本、シベリヤの近海まで出漁する海豹猟船に乗りこんで、船員としての修業を立派に果たして、下船すると再び腰をおちつけて工場労働者となつたが、その間にも読書と思索の努力をつづけ、母のすすめによつて書いた「日本沖の颱風」が新聞の懸賞作文の一等賞に入選したりしたこともあつた。
 漂然として全国放浪の旅に出て、社会のどん底と社会の裏面に否応なしに直面すると若いジャックの頭に一つの人間観、社会観が出来てきた。それは人生は一つのゲイム(競技、勝負事)である、という考えかたである。
 人生は一つの大きな、いつまでも継続する、急速に変化する、人間の全精力を吸収する、そしてしばしば決死的なゲイムである――万人がそれをやり、万人がそれに冒険的に参加する。もともと宇宙の原始力なるものがこのゲイムによつて、形の無かつた物に今日の自然的形態を与えたのであり、生命そのものが相争うエネルギーのゲイムから生じて、均衡を保ちリズムをもつ秩序をかち得たのである。そこで、生命はこの広い大地を戦場として、適応のゲイムを重ね、一方に脱落者を生ずると共に、他方には勝利者即ち生存者をだした。次には人間が陽のあたる場所を得んとする自然とのゲイム、それから周囲の生物とのゲイムの結果は、相つぐ勝利によつて人間の事実上の世界支配となつた。人間の世界支配が進むと共に、その人間の間に、人間と人間の間、民族と民族の間、部族と部族の間、群と群の間、各個人と他の凡ての個人の間のゲイムが進行する。
 こういう考えからして、若いジャックは、世界が自分に挑戦してくるこの大きなゲイムに参加するためには、先ず第一番に自分の今の苦しい環境を脱せねばならぬと結論した。先ずこの環境を脱して、別の新たな環境に入らねばならぬ。もしおめおめと生れたままの環境に服していたならば、ただの賃銀奴隷、あくせくと働くばかりの人間として終るだろう。
 彼の先人アンブローズ・ビアスが[#「アンブローズ・ビアスが」は底本では「アンブローズ・ピアスが」]言つたことがある――下層階級の者がその艱難と困苦を免れる唯一の方法は、下層階級からはいのぼつて、上流階級に入りこむことである。この考えをジャックは直ちにとつて、自分はよじのぼるのだ、しかもできるだけ早くよじのぼるのだと決心した。
 よし、自分はこのゲイムに男らしく参加しよう。いつまでも資本家の手中の人質であること、産業の搏奕打ちが[#「搏奕打ちが」はママ]ゲイムをやる時の多くのコマの一つになること、それはよした。今から資本家にたちまじり、対抗し、打負かしてやるのだ。そのためには一般市場に優れた商品を提供せねばならぬ。では自分はどういう商品をつくり出すことができるか?
 資本はもちろん一文ももたない。頑健とはいえ、筋肉や体でなし得ることは高が知れている。そこで彼は「世界の市場に売ることのできる一番よい商品は頭脳である」という結論を得て、出来るだけ早く「頭脳商人」となることにきめた。そして売ることの出来る頭脳商品は文学であつた。
 生活の経験は年齢とは段違いに積んでいたし、読書には精魂を傾けていたし、創作にも自信があつたのだが、更に系統的な学問の必要を感じて、カリフォルニヤ大学に入学することを志し、その前提として十九歳の身をもつてオークランド・ハイスクールへ入学した。しかし一年生で良い成績をとると、卒業までの長い期間に我慢がならず、一日に十九時間も机に向つて勉強をつづけ、十二週間の終りには大学の試験を受けて、それにパスした。ところが大学の最初の一学期がすむと、大学に通うことの無意味を感ずると共に、養父が病気のために一家を支えることが出来ないので、その生活費を稼ぐことの方が急務となつてきた。
 しかしジャックは再び肉体労働にかえることはせず、早速「頭脳商品」の生産にとりかかつた。自分の部屋に鍵をかけてとじこもり、毎日十五時間絶え間なく書きつづけた。方々へ送つた原稿は、しかし、みんな戻つてきた。その度に衣類などを売つて食いつなぎとしたが、ついには売るものもなくなつてしまつた。
 やむを得ず洗濯屋に仕事を見つけて、母親に月々三十ドルの給料を貢いだが、ジャックの心中は甚だ悶々たるものであつた。
 一八九六年の夏にクロンダイク河で有望な金鉱が発見され、いわゆるゴールド・ラッシュがはじまつた。ジャックは百八十度転回してこのゴールド・ラッシュに参加することにした。義姉イライザの夫シェパードも齢六十を越えながらこの熱にうかされていたので、イライザが五百ドルの金をだして、二人の仕度をととのえてくれ、一八九七年三月二十日に二人はサン・フランシスコから出帆した。
 船着場のスキャグウエイとダイエイには無数の「一旗組」がたまつている。食料と荷物の運搬料が高いし、自分で運ぶことは殆ど不可能だからである。多くの者がここであきらめて帰つてしまう。シェパードがその一人となつて引揚げてしまつた。ジャックは小さな舟を買い、仲間の数人と一しよにそれに食糧を積んで、チルクート峠の麓まで曳き舟で運んでいつた。
 難所のチルクート峠も自分等で荷物を背負つて越してしまつた。
 湖水を渡る舟がないので引きかえす人たちを尻目にかけて、ジャックの一行は平底舟を二そうもこしらえ、それで湖水を渡つた。ホワイトホースの急潭もジャックの熟練剛胆によつて乗りきつた上に、ここで行きつまりになつていた無数の探金者たちに頼まれて、その人たちの舟を渡してやり、数日間に三千ドルの料金を稼いだ。
 途中で時間を食つたためにドースンの町から七十マイルも手前のスチュワート川に達した頃には、冬将軍が襲来して、ジャックの一行はユーコン河の岸の無人の小屋の中に雪のために閉じこめられてしまつた。しかし医者や判事や教授、技師というような人たちが五十何人もこのあたりに立往生していて、お互いの間で楽しい冬籠りをたのしみ、それに毛皮猟師やインディヤンや、新顔古顔の探金者たちが代る代る参加した。
 ジャックはその冬の間にユーコン河のいくつもの支流に沿つて金鉱をさがし、ヘンダースン川で砂金に掘りあてて大いに喜んだが、それは砂金ではなくて雲母であることが判明して、ジャックの夢は破れた。そして彼は探金を断念した。
 春になつてドースンの町に入り、酒場で探金者たちの長い身の上話や経験談に耳をかたむけ、賭博宿で博奕打ちの生態を観察し、金鉱発見のずつと前からいる毛皮猟師たちや古顔の探金者たちにこの地方の古事来歴をたずねた。そしてジャックは自然と人間をあらためて観察すると共に、再び「ユーコン河上で私は自己を発見した」のであつた。
 六月に故郷へ帰つた時には一文の金もなく、金を得んとするゲイムには完全に負けたのであるが、自分では意識しなかつたにせよ、後年の頭脳商品の生産のための豊富な材料を身につけていたのである。
 養父ジョン・ロンドンが既に死んでいたので、再びジャックは一家族の扶養を引受けねばならなかつたが、彼は食うための仕事は殆どかえりみずに物語を書くことに専念した。初めは中々反響がなく、苦しい生活をつづけたが、やがて「奥山道の男へ」、「白い沈黙」などが活字になり、二十三歳の七月には短篇小説と随筆が五つの雑誌に発表されて、いよいよ本格的な作家になる緒についた。
 やがて「北国のオデッセイ」がアトランティック・マンスリ誌に採用され、ホートン・ミフリン出版社は[#「ホートン・ミフリン出版社は」は底本では「ホートン・フリン出版社は」]短篇集の出版を約してきた。
 この頃ジャックはベッシー・マダーンと結婚し、それを祝福するかのように、マックルーアズ誌が三つの短篇を買いとり、ミフリン社は短篇集「狼の息子」を出版した。結婚生活は妻と母の不和のため、生れた子供が女であつたため、借金がかさんだため、苦しいものであつたが、彼の作家としての才能は批評家の間に好評を博し、マクミラン社長ブレットは彼に手紙を送つて、彼の短篇小説は「これまでこの国で書かれたこの種の作品中で、最上級のもの」であると称揚し、更に幾つかの短篇の発表を引受けた。
 折しもボーア戦争の報道のためアメリカ通信社から南亜派遣の交渉があり、ジャックは直ちに引受けてロンドンに渡つたが、着いて見ると解約の電報がきていて、彼は異郷のただ中に無一物で放置されることになつた。普通の人なら完全に打ちのめされるところであろうが、ジャックにとつてはむしろこれは与えられた好機であつた。彼は早速ロンドンのイースト・エンドに潜入して、そこの生活に浸りつつ観察することにきめた。イースト・エンドは当時有名な貧民窟で、不潔と病気と犯罪の巣であつて、旅行案内社の者は、そんなことをしていると寝首をかかれるといつてとめたくらいであつた。ジャックは古着屋で出来るだけみじめな服装を選び、アメリカから密航してきた船乗りをよそおつて、イースト・エンドの人たちの中へはいりこんだ。
 この経験の記録が後で「奈落の人々」に結晶したのであつて、それはジャック自身が最も愛好し最も自信をもつ作品であり、事実下層社会を取扱つた世界的名著の一つにかぞえられている。
 十一月にニューヨークへ帰りつくとすぐ、マクミラン社長ブレットはその出版を引き受け、二カ年間月々百五十ドルの支払いを約束した。
 やがてジャックは熾烈な創作慾にもえたち、あらゆることを忘れて三十日間書きつづけて「荒野の呼び声」を書きあげた。そしてそれをサタデイ・イヴニング・ポスト誌に投じて採用されたが、マクミラン社長ブレットは印税でなく出版部数全部に対する原稿料二千ドルという条件で、単行本として早速出版することを申し入れてきた。こういう大金を一時に手に入れたことはなかつたし、今までのブレットの庇護に感謝して、ジャックはそれを喜んで受け、同書のすべての権利を譲り渡した。はからずも「荒野の呼び声」は批評家ばかりでなく一般の読者から歓迎されて年々に増刷をかさね、アメリカ国内で今日までに六百五十万部を売つたといわれている。イギリス、ドイツ、ことにソヴィエトで出版された部数は莫大なものである。一冊の書物でこれほどの売れゆきを見せた書物はバイブル以外にはあまりないと思われる。
 この物語はもちろん一つの動物文学なのではあるが、大抵の動物文学が安易な寓話に陥りがちであり、さもなくば動物を人間から切り離して英雄化しているものが多いのに「荒野の呼び声」はファブルやシートンに近いリアリズムをもつて動物の世界を描き、しかも人間の社会生活と個人的性格に密接に関聯させた、ユニークな動物文学である。動物をも人間をも進化論の立場から見、殊に人間の個人的社会的生活は、自分の生活経験から得た社会主義的観点から見ている。随つて寓話でもなく、単なる教訓でもない。人生批判が全篇ににじみ出ている。それが本書を動物文学の逸品以上のものとしているのである。
 そのような名作であることが認められたのはずつと後のことであつて、本人は勿論そういう自信をもつていたわけではなかつた。ジャックはその二千ドルの金をにぎると、前から欲しがつていたスプレイ号という小型帆船を買いとり、食糧と毛布をもちこんでその中に寝泊りし、昔の船員生活にかえつて、時には海上を帆走したりしながら、毎朝ハッチに腰かけて千五百語くらいの原稿を書きつづけた。それは「海賊」であつた。
 妻のベッシーは子供らと一しよにヴァレー・オヴ・ザ・ムーン(月の谷)のグレン・エレンという避暑地に丸太小屋を借りて住んでいたので、ジャックはその妻子の住居と船の間を往来していたが、或る晩山越えの途中、馬車が谷間におちてジャックは脚にひどい怪我を負つた。その看護には、ずつと前から知り合つて親しくなつていたチャーミアン・キトリッジが大変熱心にあたつてくれた。それからしばらくジャックは家族と一しよに林間生活を楽しみつつ、「海賊」の執筆をつづけ、七月の末にはその前半を完成して、家族をはじめ避暑にきている人達の集まりにそれを朗読してきかせた。
 しかしその間にジャックの結婚生活は破綻していた。ジャックはベッシーとわかれてチャーミアンと結婚しようと決心し、そのことを妻に話して別居した。チャーミアンは早くからベッシーはジャックに適当な妻でないと考え、自分ならばジャックの才能を最もよく生かす妻となることができると信じていたのであつた。母親のクレアラは、三年間もベッシーと争いつづけていたのに、この別れ話には反対して、ベッシーの肩をもつた。
 こういういきさつのためにジャックは困惑して執筆もおぼつかなくなつてしまつたが、折柄「荒野の呼び声」が批評家から好評され、ブレットの金をかけた宣伝も手伝つて、一般読者に歓迎され始めたので、彼は意を決して「海賊」の前半をブレットの許に送つてみた。するとブレットがそれを絶讃したので、センチュリー誌がそれを連載することになり、ジャックは喜んで精力を集中し、三十日間夢中になつて執筆をつづけ、ついに完成することができた。
 一九〇四年に日露戦争がはじまると、ジャックは五つの新聞シンジケートから特派報道員に招聘されたが、最も条件のよいハースト系通信社の特派員となつて、日本へ渡航した。日本の軍部は報道記者の従軍を拒否したが、ジャックは一人で都合して朝鮮に渡り、ついに第一軍に従軍して、他のどの特派員よりも多くの、そして詳細な報道を送ることができた。
 帰国してみると離婚訴訟がはじまつていて、ジャックは一生涯のうちで一番不幸な時をすごすこととなつた。
 しかし前に出た「海賊」がすばらしく評判になつていて、発行後三週間目にはベスト・セラーの第一位になつていた。褒める者ばかりではない、ひどく悪くいう者もあつたのだが、とにかく万人がこの作を問題にし、ジャックは稀に見る天才だと考えるようになつていた。
 それに元気づけられたジャックは旺んに執筆をつづけると同時に、方々から招かれるままにしばしば出かけては講演を行い、相当の報酬を得た。その創作のために当代一流の名士になつていたのだし、剛健な男らしい態度と、社会改革の熱意と、明るい笑いと、軽妙な諷刺とが聴衆を魅了したのであつた。
 そしてこの頃に彼が書きあげた小説には、多数の短篇のほかに、「ホワイト・ファング」、「アダム以前」、「鉄の踵アイアン・ヒール」などの優れた中篇ものがある。「ホワイト・ファング」は「荒野の呼び声」と同じくすぐれた動物文学であると共に優れた人生批判の文学である。「荒野の呼び声」のバックとは逆に、犬との混血である牝狼の仔ホワイト・ファングが、人間に飼われてだんだん犬に化してゆくことを主題とした物語で、「荒野の呼び声」とならんでジャックの傑作の一つである。
「アダム以前」は「荒野の呼び声」の中にバックの夢幻として描かれている原始人間を書いたもので、下手をすればたあいもないものになる危険のある主題をジャック・ロンドンらしく読んで面白いものに仕上げている。
鉄の踵アイアン・ヒール」は一種のユートピヤ文学と考えてもよい作品である。鉄の踵アイアン・ヒールというのは大財閥の寡頭政治のことであつて、その大財閥が人民を搾取し虐待するために、サン・フランシスコとシカゴに暴動が起り、鉄の踵がそれを無残に粉砕する、というテーマの未来記が本書である。その人民の指導者であり、蜂起の組織者であつたアーネスト・エヴァハード(真面目、常に堅固という意味)は一九三二年の春に逮捕されて秘かに処刑されたが、その後継者たちが、その仕事をついで発展させてゆく、そのことをエヴァハードの妻が回想してこの物語を書いた。そしてそれが七世紀後に発見されたので、それに註をつけて今発表する。という形式になつているので、ベラミーの「顧みればルッキング・バックワード」が紀元二〇〇〇年から一八八七年を回顧したという形をとつているのと似た構想であるが、「顧みれば」の方は遠い未来であるだけに、想像があまりに飛躍しすぎて、あまりにもユートピヤ的になつているのに比して、「鉄の踵」は書かれたときから見て比較的近い将来のことで、著者がいち早く観察し得た人間社会の底流の可能的発展を、極めてリアルに描きだしている。本書を読んだ人たちは皆、本書の中に描かれていることのあまりに多くが、その後の人間社会と国際関係のうちにそのまま現われてきたことに気付いて驚歎している。
 ジャックが執筆に講演に活躍している間に、ベッシーとの離婚訴訟の判決が下り、チャーミアンとジャックは正式に結婚した。そして一九〇六年頃から「スナーク号の巡航」に書かれている様な、ジャックの一世一代の大冒険の準備がはじまつた。(その詳細を知るには、「スナーク号の巡航」やロンドン夫人の「ジャック・ロンドン伝」を読まねばならない。)
 ジャックはこの頃生活気分に一つの行きつまりを感じ、生来の冒険好きからして、船で世界一週を試みて気分の転換と、新たなインスピレイションを求めたい衝動を感じていた。チャーミアンはもともとジャックのその様な面に共鳴していたのだから、しきりにその決行を慫慂した。そこでジャックは有り合わせの船では満足せず、自分の好みにしたがつて設計した船(スナーク号)を七千ドルで建造させ、それに乗つて太平洋の諸島を七年間かかつて巡航しようと決心した。そこでこの航海の記事出版の前借の交渉をはじめる一方、チャーミアンの叔父ロスコー・イームズを監督としてサン・フランシスコでスナーク号の建造に着手させた。
 しかしこの時勃発したサン・フランシスコ大地震につぐ火事で、造船材料を焼失するという憂目を見た上に、ロスコーの無能と、不正直のために、金ばかりかかつて、仕事は進まず、出航予定の十月一日になつても、金は一万五千ドルもつぎこみながら船は半分しか出来ていないという有様で、しかも大雑誌で前借を承諾してくれるものは一つもないという窮地に陥つた。
 結局二万五千ドルもつぎこんでしかもまだ未完成の船をホノルルに廻航して、そこで完成するつもりで海上に乗りだしてみると、船は泥の中にはまりこんでしまつた。それをどうにか引きあげ、修理して出発したのが一九〇七年四月二十二日、乗り組んだ者は、航海術を知らぬ船長と、機関のことを知らない学生の機関士と、料理を知らない料理人と、日本人のボーイと、ロンドン夫妻であつた。
 殆ど不正の材料ばかりで出来た船は、甲板からも船腹からも船底からも不断の水漏れになやまされ、至るところ故障ばかりで、しかも航海術の心得ある者は一人もないので、船はただ地獄のまわりを漂つているようなものであつた。
 ジャックは航海術の書物をひつぱりだして研究した結果、「太陽と月と星の観測によつて航海することは、天文学者や数学者のおかげで、やさしいこと児戯に等しい」ことをさとり、ロスコー始めみんながさぼつているのもかまわず、チャーミアンを舵輪当直につけて、自分一人で船を進ませた、しかもこの海の刺戟に感興をおぼえ、ハッチに腰掛けて「マーティン・イーデン」の構想を練り、しきりにペンを走らせるのであつた。
 ホノルルにつくとすぐ、必要な金を得るために、雑誌の原稿を書きとばすことにとりかかり、それに数週間をついやした。しかしまた一方では、ロンドン夫妻はハワイ島人の大歓迎を受け、饗宴と水泳と魚捕りを楽しんだ。
 十月の半ばに船長と機関士をとりかえて、マルケサス群島に向つて出発したが、この航路は帆船で不可能とされている難航路なので、嵐とスコールに目茶苦茶に悩まされながら、二カ月を費してついにマルケサス群島の[#「マルケサス群島の」は底本では「マルサス群島の」]ヌクヒヴァにたどりついた。この航海でも役に立つ人間はジャックとチャーミアンだけであつて、彼等が難船せずに乗り切ることが出来たのはまつたく一つの奇蹟のようなものであつたが、ジャックは、海図にも載つていない水域を航海することに少年のような歓喜をおぼえ、いるかふかを捕つては毎日の生活をたのしみ、しかも毎日「マーティン・イーデン」を一千語ずつ書き加えていつた。
 マルケサス群島で野生の山羊の猟をしたり、土人のお祭りの舞踏や祝宴を見たりして、十二日間滞在してから、パウモツ群島を経てタヒチ島に向つた。タヒチ島に廻送されてあつた郵便物で故郷の様々な窮状を知り、それを片附けるために単身帰国し、一週間滞在している間に、殆ど完成しかけていた「マーティン・イーデン」の出版契約をむすび、負債を払つて母の生活を安定させ、雑誌原稿その他出版についての問題を解決して四月にはタヒチ島へ戻つてきた。
「マーティン・イーデン」はジャックの小説のうちでも最も自伝的な小説であり、最も快適な気分の時に書かれた最も成熟した小説である。おそらくアメリカの古今の小説のうちで最もすぐれたものの一つである。
 スナーク号は再び出航して、六月にはフィジー諸島のスヴァに着いた。そこでハワイで雇入れた船長が上陸したまま戻つてこないので、それからはジャックが船長となつて、ソロモン群島の間を縫つて航海をつづけた。その間ジャックをのぞく全員が病気にかかつたが、ジャックは医者の役を一手に引受け、しかも機会ある毎に島々に上陸しては、探検し、写真をとり、蒐集し、ノートをとることをおこたらず、更にマラリヤで床についている時以外は、毎日必らず一千語は書くという習慣を守りつづけた。
 しかし一九〇八年九月にはジャックも熱帯性の皮膚病にかかり、オーストラリヤのシドニーの病院に入院したが、治癒がはかばかしくなくて五カ月もたつたので、この旅行はこれで切りあげることにして、スナーク号を売りはらい、三千ドルの金にかえてサン・フランシスコへ帰つてきた。
「私は口には云えないほど疲れている。それで充分の休息をとるために帰国した」と新聞記者にも語り、事実健康をそこねた上に、借金が山ほどかさんでいたので、ジャックの前途は暗かつたが、やがて健康も回復し、仕事にかかつてみるとどしどし進行した。いくつもの短篇を書き、サタデイ・イーヴニング・ポスト誌には次の一年間に十二篇の小説を書く契約を結んだ。しかしこの頃での一番の大作は「燃ゆるパーニン[#ルビの「パーニン」はママ]デイライト」であろう。これはクロンダイク地方とサン・フランシスコを舞台にとり、クロンダイクで数百万金を稼いだ精力的な若い男バーニン・デイライトが、社会理想に燃えてその富を弊履の如く捨てることを書いた、ややセンチメンタルではあるが、人間の理想性を鼓吹する好箇の長篇小説である。
 自分の力がつきたどころではなく、ようやく円熟の時期にはいりかけたのだという自信を得たジャックは、更にチャーミアンが姙娠したという知らせにも有頂天になり、いよいよ最後の夢、余生を送る憩いの家、の実現にとりかかつた。シーダーと葡萄園と果樹園とマンザニタの森に囲まれたヒル・ランチの谿谷に、「狼の家」をたてはじめたのである。それは様々に考えているうちに、だんだん大きなものとなり、二十三室もあつて、何世紀ももつような石の土台の上に建てられることになつた。
 ジャックは一九一〇年の春、夫と別居している義姉イライザを招いて、農場の管理をしてもらうことにした。
 しかしチャーミアンの生んだ子供は女児であつて、しかも三日しか生きていなかつた。二人は海上の遊覧旅行に出たり、魚釣りをしたりして、心の痛みをいやすのに夏の数カ月をついやさねばならなかつた。
 ジャックはしかし毎日の仕事の憂さからのがれるために、昔のように酒に浸りはじめた。酒場には入りこんで誰かれの見さかいなくウィスキーを振舞い、梯子酒に酔いしれた。
 しかしそのような乱酔の間に、「ジョン・バーリーコーン[#「ジョン・バーリーコーン」は底本では「ジョン・パーリーコーン」]」の構想がうかび、やがて完成された。この小説もやはり半自伝的なもので、作家を志す若者の飲酒癖との悪戦苦闘と、その最後的克服を描いた、野心的な作品である。この小説は「マーティン・イーデン」以上に好評を得て多くの読者を獲得した。一般の人は本書を読んでジャックはアル中患者だなと考えたが、中には、殊に牧師たちは、これは飲酒の害悪を教える道徳的教訓と解する者もあり、禁酒聯盟、酒場撲滅聯盟などではこれを宣伝材料として利用した。それが映画化されると、酒造会社から巨額の金を提供してその上映を阻止するという騒ぎまでもちあがつたし、禁酒聯盟では本気でジャックを大統領候補に指名する運動をおこした。一九一九年に合衆国で禁酒法が通過したが、それには「ジョン・バーリーコーン[#「ジョン・バーリーコーン」は底本では「ジョン・パーリーコーン」]」が大いに寄与したことに間違いはない。
 八万ドルの費用をつぎこんだ「狼の家」も一九一三年の八月には完成にちかづき、八月十八日には最後の掃除をして受け渡しもすみ、翌朝ジャック夫妻が移り住む準備をはじめたその晩、「狼の家」はきれいに焼けてしまつて、何世紀ももつ石の土台だけが残つた。そして十万ドルの家と共に、ジャックの胸の中の或るものが焼けおちて、永久に消え去つてしまつた。
 しかしこの一九一三年には、彼の作品が最も多く発表された。即ち四つの長篇が雑誌に連載され、四冊の単行本が出版された。そのうちの二冊は「ジョン・バーリーコーン」と「月の谷」であつた。だから世間及び出版界はジャックの創作力が超人的にのびてきたものと考えていたが、実際にはジャックは本当にエネルギーを消耗していた。不健康がつのると共に、頭脳の把握力が衰えかけていた。もはや酒の力を借りねば仕事をつづけてゆくことができなかつた。そしてこの頃に執筆した短篇は多く以前からあつかつてきたテーマのむしかえしが多く、力作としてはただ、「エルシノーア号の暴動」くらいのものであつた。
 一九一五年二月ジャックはチャーミアンと共にハワイへ出かけ、静養につとめた結果相当健康を回復して、グレン・エレンへ帰つてきたが、やがて尿毒症が悪化してきた。しかもジャックは病気に悪いからといつても酒をやめることもできない状態にまで陥つていた。酒はやめねばならなかつた。頭脳商品の生産によつて資本家に対抗しようと決心して以来、ものを書くということはジャックの生存の意義であり、生活の刺戟となつていたのだが、それが今では堪え難い重荷となり始めていた。だから二万五千ドルの契約で軽い映画物語「三の心」を書く時には、はじめて真剣に考えて書く苦労からのがれて、楽な気持で毎日千語ずつなぐり書きしたということである。「三の心」を完成してから、ジャックは書いた、「この物語は一つの記念の祝である。この完成によつて、私は四十回目の誕生日と、五十回目の著作と、著述業の十六年目を祝うのだ。」
 ジャックの頭脳はますます疲労し、それに自分は発狂するのではないかという脅迫感の重圧が加わつてきた。一九一六年一月、模範農場の実験に失敗すると、更にひどく打撃を受けて、チャーミアンと共にハワイへ逃避したが、それは何の役にもたたなかつた。彼は顔がむくむほど肥満して、眼は光を失い、体中が痛くて、気むずかしくなり、すつかりしおれこんで帰つてきた。
 それでもジャックは死ぬ前の最後のあがきのように、なおも創作の筆をとつたが、さすがにその中には、彼の著作のうちで一番楽しいアラスカの物語といわれる「古代のアーガスのように」と、彼の青年時代のノスタルジヤとしての傑作と云われる「王女」などがある。
 一九一六年十一月二十二日の朝、ジャック・ロンドンはその寝室で意識を失つて倒れているところを発見された。それはニューヨークに向つて出発することになつていた日のことであつた。床の上に二本の薬瓶が空になつて倒れており、テーブルの上の便箋には、モルヒネの致死量が計算してあつた。つまり自分は発狂するかもしれないという脅迫観念からして自殺を敢行したのであろう。
 ジャックはその晩死んだ。
 有名な園芸家ルーサー・バーバンクの夫人は、ジャックの死の記事を新聞で読むと、若い人たちに向つて、アメリカの悲しみを代表するようにして云つた、「笑うのはお止しなさい。ジャック・ロンドンが死んだのです。」

 ジャック・ロンドンの全作品を見渡してみると、大体次のような部類にわけられる。(一)自分の生存のための苦闘を描いたもの。(二)陸上と海上の放浪生活と冒険を描いたもの。(三)人間が人間に加える不正義の観察。(四)歴史前の過去の夢想と社会の変動の予想。
 何といつてもジャック・ロンドンの名をなした最初の作品は、いわゆる「ユーコン物語」として一括されている北地の物語群である。その最も有名なものは「荒野の呼び声」で、「雪の娘」はクロンダイクの金鉱ラッシュを仔細にわたつて描写し、「人間の信仰」はボナンザ金鉱に関する物語、「霜の子供等」も探金地域の優れた描写、「生命の愛」という短篇集はジャック・ロンドンの最もすぐれた短篇を集めたものとされ、その中の「茶色狼」はバックを思わせる犬のことを書いたものである。「ホワイト・ファング」は「荒野の呼び声」と相対して傑作のダブルヘッダーである。その他北地に関係する物語のうちには「バーニン・デイライト」、「失われた顔」、「煙のベリュー」等がある。
 作者の海を知り海を愛していたことを示す作品としては、「スナーク号の巡航」、「海の狼」、「漁場監視人の物語」、「エルシノア号の暴動」などがある。「スナーク号の巡航」には、モロカイ島の癩患者のこと、タヒチ島の礼儀正しい人達のこと、ソロモン群島の未開な土人のこと、等が仔細に描かれている。作者の最後に近い作品「島々のジェリー」は熱帯の蛮地に優秀な犬を送つた場合の物語。その他太平洋の島々に関する物語には「冒険」、「太陽の息子」、「矜りの家」などがある。
 作者の社会と文明の将来に関する見解を示す作品には、作者が一番自信をもつている、ロンドンの貧民を描いた「奈落の人々」、小児労働の禍害を描いたクラシック「神の笑う時」、階級の争闘を書いた「階級の戦争」と「鉄の踵」、浮浪者の生活を描いた「道路」、自伝的小説「マーティン・イーデン」、「ジョン・バーリーコーン」等がある。
 作品の偽科学的な想像力の作品として、原始人を描いた「アダム以前」、自己催眠と再生を取扱つた「星の放浪者」、地球の人類絶滅と人類の再生を取扱つた「深紅死病」がある。短篇集「強者の力」の中には同様なストーリーがいくつかある。
訳者





底本:「荒野の呼び声」角川文庫、角川書店
   1953(昭和28)年4月5日初版発行
   1970(昭和45)年6月30日21版発行
※「北極圈」と「北極圏」、「圓陣」と「円陣」、「野蠻」と「野蛮」、「溪谷」と「渓谷」、「覇權」と「覇権」、「盜」と「盗」、「簡單」と「簡単」、「マーシーディス」と「マーシーディズ」と「マーシーデイス」、「ニック」と「ニッグ」、「バック」と「バツク」と「パック」、「マシウンス」と「マシウスン」、「スピック」と「スピッツ」の混在は、底本通りです。
※底本は新字新仮名づかいです。なお平仮名の拗音、促音が並につくられているのは、底本通りです。
※平仮名の拗音、促音が小書きされている個所はママ注記としました。
※地名、人名の誤植を疑った箇所は誤記注記としました。
入力:sogo
校正:砂場清隆
2020年10月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

「てへん+発」、U+2B77C    66-5


●図書カード