私は、明治六年に生まれた。そうして七日ののちに、父をうしなった。私は、父親を知らない人間である。
私は、
私は、一家が無録移住をした駿河で生まれたのであり、生まれながらにして、逆境におかれた不運な一人間であった。
当時の東京は、おごれる薩長人をはじめ、各藩から集まりきたった勝利者の占領地となった直後であった。すなわち、革命後の混乱の社会であった。
私の母は、やがて
私はそのあいだに、漢学を清田

私が五歳のときに、空中にものすごい
私はある日、母につれられて、
私は、子供の時代に、三番町に住んでいた清田

私は、その時代からすでに、レジスタンス式の精神を、うえつけられていたのである。私は、
私は、自分でかってに、自分の方向をきめて進んだ。私は、はじめは、海軍に身を投じて、海国に身を投じて、海国日本のために一生をささげようと考えた。しかし、一度、兵学校の体格試験を受けたところが、「虫歯が一本多い。」というので、はじめからはねられた。私は、そこで、海軍を見かぎった。そうして私は、東京大学に学ぶことに方針をかえた。
私は、明治二十二年に、第一高等学校に入学した。私は仏文科にはいり、将来は外交官となることを決心した。私は、英雄の伝を読みふけった。友とともに暴飲もやった。先生にもたびたび反抗した。教場で、ときどき、神道を説く文学士の先生を、公然、教場でからかったりした。王朝文学を講ずる文学士の発生にむかって、和文の気力のないことを、公然、非難したりした。先生からは、「君はだめだ。」といわれ、取りあわれないこともあった。それは有名な
私の行為について、母はさだめし、その心のなかで憂えていたことであろう。しかし、なにごとも言わずに、母は私のなすにまかしていた。母の恩は、後年になってから、しみじみと私の胸を打ち、まことに相すまなかったという悔悟を、生ぜしめてやまないのである。私は、生来、自由を愛した。自由に学生時代を送ったのであった。詩吟が大好きであった。
私は、大学を卒業したならば、ただちに外交官となって、世界じゅうを飛びまわろうと考えていた。そこで、高等学校を卒業するや、軍隊にはいり、軍事をいちおう心得て、後年の外交官としての活躍のための参考にしようという決心をもった。私の友は、私を、もの好きだと笑った。私は、ひとりで身の方向をきめた。私は一年志願兵として、
軍隊では、傲慢で低級な下士官や上等兵に、そうとうににくまれた。あるときは、
あるとき、
私は、連隊でよい経験をつんだ。そうして、私の体格は、ひじょうに堅実のものとなった。私は、一年と三ヵ月を隊中にくらした。そうして少尉となって、ふたたび自由の学生となって、大学に学ぶ身となった。母はだいぶに老いの身となっていたが、大いによろこばれた。
私は、東京大学の法律科に入学した。そうして、主としてフランス語と、国際法とを学んだ。学生時代に、私は、ルノールの有名な国際法を翻訳して出版した。フランス語の力をつけるためであった。私はいく人かの学友とともに、演説の講習会をつくって、大学の大教室で演説の練習をやった。その仲間には、後年に有名となった人がいる。長島隆二、小川郷太郎、渡辺千冬、中川健蔵らが、それである。スイス人の教師ブルデルには、私は大いに信用された。民法の講義を受けたが、私は、そのフランス語と講義を、大した誤りもなく筆記しうるようになった。私は、外人で日本を訪れる人のために、通訳となって
私は、明治三十四年に法科大学を卒業した。まず自身で大蔵省に行って、就職を求めてみた。係官の一書記官は、その机の上に準備してあった「大学卒業生の成績表」と私とを対照し、私と少しばかり話をまじえたが、私にむかって採用を約束された。私は関税課の勤務となった。その課長は有名な
私はひそかに外交官試験を受けてみた。試験官は書記官石井菊次郎氏であったが、フランス文の書いてある一枚の紙を私に渡した。それを読んでみろと言われた。私はすらすらと読んだ。石井氏は、「どういう意味か。」と私に問われた。私は、「わからない。」と答えた。「なぜか。」と問われた。私は、「フランス文の文字が、二つ私にわからないのがある。それで意味が取れないのである。」と答えた。石井氏は、「教えてやろう。」と言われた。私は、「試験場に出てきて、知らない文字を教えられては、私の不名誉である。」と、キッパリと答えた。石井氏は少しく怒気をふくんで、「それならば、もうよろしい。」と言われた。私はそれで、試験は落第ときまった。私は、それも運命だと思った。私は、官吏は私にはむかないと考えた。そこで、大蔵省も辞職した。目賀田氏は、私をその邸にまねいて、「思い止まれ。」といわれたが、私は固くことわった。明治三十五年のことである。
私は、みずから読売新聞社に行って、臨時の記者に採用された。私は大いに政治を論じた。岳南のペンネームで書いたが、自由で、はなはだ愉快であった。やがて
その当時は、日露間には不穏の事態があらわれ、有名な七博士は、率先して開戦を叫んだ。私もその一味の応援者であった。私は開戦を論じていた。明治三十七年の二月に、開戦の宣言は発せられた。同時に、旅順港の襲撃がおこなわれた。私は、予備の陸軍少尉であったところから、ただちに召集されて、軍隊の人間となった。私は第一軍司令部付の国際法顧問を命ぜられて、黒木司令官らとともに、
明治三十八年三月、私は陸軍省の命令により、名古屋の俘虜収容所附に転じた。
同年七月私は、新設された
私は、十一月日本に帰ったが、陸軍大臣は、私に旅順にいって、「外人の遺留財産の整理委員」となるように命じた。私は、それを引き受けて旅順にいった。この事業は、全満州における外国人の遺留した動産不動産を、整理することであったが、そこに私は、一年三ヵ月のあいだ留まっていた。その事業のなかには、

私は、その任務を終了して日本に帰った。明治四十年三月のことである。それから私は、韓国政府の官吏となることになった。目賀田顧問のもとに、経理の事業をおこなう任務であった。まもなく韓国は、イギリスの支援をもって日本の保護国となった。それ以来、私は韓国
韓国にあること六年であったが、伏魔殿といわれた宮中は、まったく粛清された。李太王は相当の人物であったが、私には一目をおいていた。私は目的を達して、いさぎよく官を辞したが、李太王は
私は大正元年十月に、京城において文部大臣から学位を授けられた。私はこれを機会として、事務の人間から学界の人間へと一転した。そうして私は、大正二年三月をもって、ウラジオストックに渡航した。そこからモスコウに向かった。そうしてパリーにゆき、専門の学問に志した。ついでに私は、全ヨーロッパを旅行した。私は大正三年九月に日本に帰った。
私は、明治三十七年二月以後、大正二年三月にいたるまでの十余年の歳月は、極東において、日本民族の自保自存のために、一身をささげて働いたものである。私には地位や収入など、まったく眼中になかった。予備の一中尉として、あるいは[#「あるいは」は底本では「あるいな」]一嘱託として、あるいは韓国の一小官吏として働いたのであったが、私には、眼中に長官はなく、自由な一人間として、日本民族の光栄と自由とのために奮闘した。私の基本とする原則は、国際法であり。人類の福祉であった。私は、ロシア人の生命も相当に救った。シナ人、朝鮮人の生命や財産も保護した。日露の戦中また戦後の対外政策の一端に、私はあずかっていたけれども、私のなしたことは、けっして侵略ではなかった。侵略への反抗であった。私と接したすべての外国人は、私の誠意をみとめて、いずれも感謝してくれた。私は、民族の自由と平等とを、第一義として働いたのであった。
私は、大正三年九月にヨーロッパから帰ると、当時、京都に創始せられることになった
同志社大学では、満三年のあいだ、国際法と外交史の講座を担当していた。希望の学生もそうとうに多くいた。今日でも、社会にそうとうの地位を占め、私と交遊している人もある。私は一時、健康をそこない、肺病の初期のように医師からいわれた。私は京都に引きこんでいるのを、愉快としなかった。そこで私は、三年の勤務をおわって辞任し、
大正七年の春、日本赤十字社は、石黒社長の代理として
われわれの一行は、まずアメリカにわたった。そうして大西洋をこえてイギリスにわたった。第一次大戦の末期であったが、まだいずれの国でも、ドイツの敗北を予断する人はいなかった。洋上のわれわれは危険であった。艦隊を編制して、軍艦に護衛され、ものものしい警戒のもとに航行するのであった。幸いにして敵の襲撃をこうむらずに、約十日の航海をへて、われわれはイギリスに上陸した。それからフランスにわたり、フランス、ベルギー、イタリアの前線に進み、軍と赤十字とを慰問した。医師は三名をつれて行ったが、先方で希望するならば、先方の病院に残留せしめる方針であった。ところが、各国ともに、医師も十分に準備してあったので、ただ、たんに視察して、日本の医師は日本に帰ったのであった。その方のことは、じつは無益であった。しかしながら、未曽有の大戦のおこなわれているヨーロッパにいって、政治、経済、人道を研究したことは、じつに甚大の利益があった。
私は各国の国王や、政治家や、学者や、軍人や、一般人やに接触して、いろいろのことを研究した。その研究の結果は、かねて約束してあった陸相田中義一氏にたびたび報告した。また私の視察と感想とは、私が著書をもって、世に報告してある。(『復活の巴里より』という著書が[#「著書が」は底本では「著者が」]出ている。)私は知人の田中陸相から、ドイツ軍のおこなった「占領地行政」をくわしく調査することを、出発前に依頼されていたのである。私はフランスの陸軍省に申し出て、ドイツ軍の全占領地を、フランスの一陸軍中尉をともない、一週間にわたって、くわしく調査したのであった。フランスの陸軍はよく私を知っていた。
私は大戦の悲惨を目撃して、世界の平和永続の方策を研究した。そうして、第一次大戦が終ったのちも、赤十字事業を引きつづき平和時に、全世界にわたっておこなうことを、列国間に新たに条約すべきことを、列国の有力者に力説した。それが国際連盟規約の第二十五条となった。またそれが、赤十字社連盟規約の締結となって、世界に新しい「赤十字世界」が、創建せられたのであった。人道、平和上の一事業であることを、私は信じている。
一九一九年のヴェルサイユ会議のときには、私は、フランスの大新聞「タン」、「マタン」、その他いくつかの雑誌に投書して、世界の問題を論じたが、幸いに、パリーに集まった世界の識者の注目を集めた。このときには、外務省の役人も、たくさんパリーにきていた。松岡洋右や、吉田茂や、芦田均も、書記官として来ていた。まだ、名の知れていない、微力の人びとであった。青島の帰属は一時はシナにゆくことにきまり、日本全権は失望の極に達していたけれども、私の学理による一片の論文によって、それが解決せられ、日本に譲りわたされることになったのである。ただし日本の全権は、このことを偽って、原首相に報告している。
私は、一九一九年(大正八年)五月五日に、パリーで公式に赤十字社連盟を成立させることに成功して、ひとまず帰国を命ぜられ、九月に日本に帰った。しかしながら、その十一月には、ふたたび赤十字会議に出席する任務をおびて、またジュネーヴにむかって出発した。そうして翌二十年の九月に、日本に帰った。各国人は、私の親しい友であった。インド洋上の航海は、私にはたのしみの一つであった。また来ましたかと、途中の内外人にいわれたほどであった。
私は日本に帰り、まもなく東洋拓殖会社の石塚総裁からさそわれて、同氏とともに満州と北支へ旅行した。そうして
シャムの国王や王族や大臣や軍人やに会見したが、日本人にたいして、彼らは深い敬意を表していた。王族のなかには、パリーで知己となった人もいた。在留インド人の、集団から招かれて、私は二日、一大会合に臨席したが、「なにか演説を。」との申し出にたいして、私は立って、「インドの独立」を叫んだ。場内は大動揺した。それはイギリス人をおそれる卑怯から生じた混乱であった。しかし、二十年ののちには、インドは、イギリスから独立したのである。世界は変わった。
大正十一年(一九二二年)の秋、私は陸軍、外務、および東拓から依頼されて、原首相にも面会して、ワシントンの軍縮会議の研究にむかった。全権一行と同船したのであった。私は、私の名を秘して、米国の御用紙ワシントン・ポストに、毎日のように論文を投書して、アメリカ政府の対日方策の不正を批判し、学理に立ちつつ、それを攻撃した。ポスト紙は、真剣に私の論文と取りくんで、紙上に毎日のように長い論文をかかげたが、ついには、私のまえに降伏せざるをえなくなった。そうして、降伏の直前になって、「日本に権力がある」ということを、紙上に書くようになった。ポスト紙の一人の記者は、徳川全権の室をたずねて、「ポスト紙への投書は、だれの意見ですか。」と問うてみた。公爵はなにも知らなかった。「だれの意見だか知らない。とにかく全権側の意見ではない。」と、公爵はいかにも殿様外交家らしく、すらすらと答えた。いっさいは、それで終った。公爵は無能であった。貴族は無用の長物と、私はなげいた。
私はワシントンから、またまたヨーロッパにいった。それは、ジュネーヴの赤十字会議に出席するためであった。そのときの船は、五万トンの豪華なフランスの船であった。美人あり、才子あり、きわめて陽気なものであった。おもしろい話があるが、はぶく。一日、ひじょうなシケにあって、恐ろしい光景を、私はその航海で経験した。私はしばらくパリーにとどまって、ジュネーヴにむかった。そうして会議に列した。
大正十一年ごろには、日本人は欧米の大勢を知らず、大勢にはソッポをむいて、マルクス的のインターナショナルが大流行であった。大正二年以来、私は世界の大勢にじかに接してきているところから、その真相を、全国の学生や青年に告げることを必要と考えた。山川健次郎男や、
私は、ナショナリズムの世界的大勢を全国に説きまわった。その折に、福岡と鹿児島の高等学校では、激烈に私に反対した。しかしながら、私はいつもそれを、学問をもって軽く受け流して、私の所信を述べた。私は昭和の初めまでも、それをつづけた。私はナショナルを力説したが、それを「国家主義」と、かってにかえて、ビラをはり出したところもあった。当時の日本人は、世界の実相に暗かった。
そのころ、日本の軍人や政治家は、はなはだしく卑怯であった。マルクス式のインターナショナルの流行時には、縮みがあって引っこんでいた。しかるに、ナショナルに日本人がめざめたときには、軍人らはそれを煽りたてて、自己の利益のために利用した。そうして天皇主義にもってゆき、
私は極力その脱退に反対した。身命を投げだして、内閣や枢府の知人の政治家らに訴えた。斎藤総理も、私に同意していた。枢府の原嘉道氏は、私に鄭重に回答された。私は右傾から強烈に攻撃された。「身上危険」と、警察は私に報告した。しかしながら、ついに日本政府は脱退した。私は、日本の未来あやうしと慨歎した。それ以後は、私は政治を論ずることを思いとどまり、家に引きこもり、学問にのみ耽った。日本の大敗と衰亡とは、このときからはじまったものと、私は判断している。それは、昭和八年のことであった。
日本がはなはだしく不穏当に、国際連盟から脱退してからは、専制政治にむかって、軍人はじめ政治家は、その方向を定めていた。天皇の親族だというところから、軍人らは、
世人は一般に浮かれていたが、私は悲観した。私は大政翼賛会は、憲法違反であると公言した。ドイツの必敗を論じたてた。三国同盟条約の欠点を指摘した。大東亜宣言を違憲だと説いた。それでも、なんびとも迫害はしなかった。官憲から捕縛もされなかった。その私は、終戦後、内閣総理大臣の名で公職から追放された。
昭和十二年、「支那事変」が起ったとき、欧米は、日本は「中国に関する九ヶ国条約」に違反する国であると、強く日本を攻撃した。これに対して政府は、「九ヶ国条約は現に有効に存在するが、同条約の成立時代とは国際事情が変っているから、日本政府は、同条約を守ることはできない。」と説明した。これは「条約は反古紙にひとしい。」と勝手にふみにじったドイツと同じで、列国から増悪されるのは[#「増悪されるのは」はママ]、知れきったことである。
これに対して私は、国際法の学理にもとづく見解を発表した。「九ヶ国条約無効」と題して、日英両文で、「日支の両国は、交戦関係にある。二国の交戦は、二国間の条約を自動的に無効にした。日本はもはや、同条約に拘束されるものではない。日本はそれを守る義務がない。守ろうとしても、不能である。」これは、国際法の学理である。この一著は、軍部や政府の不法の外交や政治を非難したものであって、彼らのために助言したり、支援したりしたものでは、もちろんない。ところが、私の右の学理による著書は、戦後になって、追放調査委員会から調査された。そうして「日本の対支行動を正当化し、支那事変に理念的基礎をあたえるものと認める。」と裁断され、私は追放されたのである。私は、右の審査を軽薄と憤った。「理由なし」として弁明書を出したが、取り合われなかった。私は世の中からまったく引っこみ、大磯に風光と書物を友として、かろうじて生きていたのである。
一九五二年八月二十日
蜷川新