わが明智小五郎 は、遂 に彼の生涯での最大強敵に相対 した。ここに『蜘蛛男 』の理智を越えて変幻自在 なる魔術がある。魔術師は看客 の目の前で生きた女を胴切りにしたり、箱詰めの小女 を剣 の芋刺 しにしたり、彼女を殺害して鮮血したたる生首を転がして見せたり、或 は立所 に人を眠らせ、自由自在の暗示を与え、或は他人の心中 持物 を看破 するなど、あらゆる奇怪事を行うことが出来る。
兇賊 がこれらの怪技の妙奥 を会得 していた場合を想像せよ。流石 の名探偵明智小五郎もこの魔術師の心理的或は物理的欺瞞 には、いたく悩まされねばならなかった。
魔術兇賊とは何者であるか。それがどんなに意外な人物であるか。又彼はそもそも如何 なる悪業を企 んだのか。そして、明智小五郎はよくこの大敵に打勝つことが出来たか否 か。名探偵と魔術師の争闘こそ見ものである。
[#改ページ]魔術兇賊とは何者であるか。それがどんなに意外な人物であるか。又彼はそもそも
「講談倶楽部」昭和五年六月号より
新聞紙は毎日の様に新しい犯罪事件を報道する。
だが、それらは世に
で、
だが、彼は素人探偵とは云い
素人探偵と恋愛。どうも変な
「蜘蛛男」事件が解決したその翌日、彼はトランク一つを
何という訳もなく、湖がなつかしくて、中央線のS駅まで切符を買ったが、あとで考えて見ると、これが
Sに着くと、聞き覚えていた、湖畔のホテルへ、いきなり車を命じた。
秋の湖は、青々とした大空を映して、ほがらかに晴れ渡り、朝夕はやや小寒い気候が、明智の疲れ切った五体に、云うばかりなく快かった。ホテルの部屋も、部屋ボーイの
彼はホテルの十日間を、何の
ホテルのバルコニーへ出て、ほほえみ交わす親達の耳へ、時々、水面を伝って、昔懐しい唱歌の声が聞えて来たりした。
その親達に混って、一人の美しい婦人が、やっぱりボートの方を見て、ほほえんでいた。東京の有名な大宝石商の
その妙子さんが、子供の親達に混って、なぜ明智のボートを眺めていたかというに、妙子さんは婆やの外に
で、そんな日が続く内に、明智は子供等の縁でその親達とも親しみを加えて行ったが、分けても玉村妙子さんとは、双方から不思議に引寄せられる感じで、食堂でテーブルを同じにしたり、お茶に呼び合ったりするばかりでなく、はては、そっと婆やの目を盗んで、彼等
そんな時、彼等は
とは云え、正直なところ、妙子さんの心は知らず、少くも明智の方では、この若く美しく
「オイオイ、しっかりしろ。お前は何を甘い夢を見ているのだ。年を考えて見るがいい、お前はもう四十に近い中年者ではないか。それに妙子さんは
明智は眠られぬベッドの中で、幾度も自分を
だが、この問題は妙子さんのお父さんが、解決してくれた。彼は娘の滞在が長引くのを心配して、ある日東京から電話をかけて、早く帰る様にと娘に云いつけた。大人しい妙子は、その云いつけを守って、即日ホテルを出発したが、明智に別れを告げる時には、彼女の方でも、気のせいか、ひどく
妙子が去ってからも、明智は以前の様に、子供達をボートにのせて、湖水を漕ぎ廻るのを日課にしていたが、さも快活に装いながら、
妙子の
湖水に舟を浮べて、妙子と取交わした、様々の会話も思い出の
「それは、根もない夢の様なことかも知れませんわ。でも、わたくし小さい時分から、不思議に先々のことが分りますの。母は五年以前になくなりましたが、その母の死にますのが、わたくしには、半年も前からちゃんと分って居りましたのよ。それと同じ様に、今度のこの恐ろしい夢も、本当になって現われるのではないかと思いますと、もう怖くって、怖くって、一人で寝んでいる時など、ふとそれを考えますと、ゾーッと水をあびせられた様な、それはいやアないやアな気持になりますのよ」
「お姉さま、又そんな話をしちゃ、いやだ」
進一が、まだ十歳の少年の癖に、大人の様な恐怖の表情で、叫んだ。
「で、それは一体どんな夢なんです」
明智が、妙子の異様に陰気な表情に、びっくりして尋ねると、彼女はそれを口にするさえ恐ろしい様子で、声を低くして云うのだ。
「何ですか
「では、何か、そんな疑いをお起しなさる様な理由でもあるのですか」
「それがちっともございませんの。ですから、なお怖いのですわ。どういう風の
妙子が帰宅してから三日目の午後、突然、今度は明智の所へ、東京の波越警部から電話が掛って来た。波越氏は読者も知る、警視庁刑事部名うての鬼刑事だ。
受話器を取ると、波越氏のあわただしい声が手短かに挨拶をして、用談に入った。
「詳しいことはいずれ御目にかかって御話しますが、僕の知合いの
「
「それは困る」警部の声が本当に困ったらしく響いて来た。「あなたが来て
「何ですって、妙子さん? 妙子さんは知っていますが、あの人が今度の事件に関係でもあるのですか」
明智は妙子の名を耳にすると、
「大有りですよ。云い忘れましたが福田氏は妙子さんのお父さんの玉村
「アア、そうでしたか。妙子さんとはここに滞在中御心安くしていたのですが、あの人の叔父さんでしたか」
「そうですそうです。そんな御縁もあることだからという、福田氏の頼みなんですよ。どうです。何とか
「エエ、よござんす」明智は子供の様に
「時間は、そうですね、エエと、こちらを二時十分に出て、上野へ七時半の汽車があります。それに極めましょう」
波越警部はこの快い承諾にやや
「有難う。福田氏も喜ぶことでしょう。その時間を伝えて、福田氏の方から上野まで迎えの車をさし向けることにします。では、どうか間違いなく」と念を押した。
電話を切ると、明智はソワソワと出発の
車中別段のお話もない。彼はただ妙子のことを思っていた。彼女の
七時三十分列車は上野駅に到着した。
改札口を出ると、そこに自動車の運転手が待ち受けていた。明智の顔は新聞で
「福田から御迎えでございます」
運転手は現代の英雄に対する大衆的尊敬を
「アア、御苦労さま。車はどれだね」
明智は気軽に応じた。
「こちらでございます」
運転手は先に立って自動車置場へ案内した。
この場合明智の方に
だが、
「何をするッ」
と
あの駅前の
自動車は何事もなかったかの様に、大胆にも明るい電車通りを、
再び云う。この出来事に
とは云うものの、何たる早業、何たるずば抜けた作戦であろう。犯罪はまだ行われたという訳ではないのだ。戦いはまだ始まっていないのだ。彼等は戦いに先だって、先ず彼等に取って最大の敵である、名探偵明智小五郎を
さて、ここでお話を少し前に戻して、明智の帰京の原因となった、福田家の奇怪な出来事(だが、それは決して犯罪と名づける程の取りとめた事件ではなかった)について、語らねばならぬ。
先の波越警部の言葉にもあった通り、福田得二郎氏は玉村宝石王の実弟で、彼も亦相当の資産を
彼は玉村家から福田家へ養子に貰われて行ったのだが、養父母を見送り、妻も昨年世を去って子供もなく、現在は本当の一人ぽっちであった。一種風変りな性質の彼は、その孤独を
ところが、ある日のこと、誠に唐突に、彼の静かな生活を脅かして、奇怪千万な事件が起った。
福田氏は、以前から一体陰気な性質であったが、夫人を失ってからは、一層それが
で、ある朝福田氏がベッドの中で眼を覚ますと、着ていた白い毛布の上に、一枚の紙が置いてあったのだ。変だなと思って手に取って見ると、タイプライター用紙に、鉛筆の
十一月廿日
と福田氏は不思議に思った。こんな紙切れがある所を見ると、夜の間に、何者かが彼の寝室へ忍び込んだとしか考えられぬが、併し、それは全然不可能なのだ。福田氏はその前夜も就寝前に、書斎の
「変だな」と思いながら、彼はベッドを降りて、眠い目をこすりながら、念の為に窓や
変だ、変だと思いながら、その日は暮れた。ところが、その翌日、福田氏が目を覚ますと、これはどうだ、白い毛布の上の、昨日と同じ場所に、又してもタイプライター用紙がある。
「十四」
と数字が書いてあるばかりだ。用紙を
「十一月廿日」や「十四」が何を意味するのか、差出人は誰なのか、戸締厳重な部屋の中へどうして持って来ることが出来たのか、凡てが全く想像も出来ない丈けに、ひどく不気味に思われた。「幽霊ででもなければ出来ない仕業だ」と考えると、何かしらゾッとしないではいられなかった。
だが、奇怪はそれで終った訳ではない。その次の日も、又次の日も、福田氏が目を覚ますと、必ず毛布の上に一枚の紙切れがのっていた。文句はやっぱり簡単な数字で、
「十三」「十二」「十一」「十」「九」
と一日毎に一目下りに、順序よく変って行く。云うまでもなく、福田氏はそんなことが起り始めてから、就寝前の戸締りを一層念を入れて厳重にしたのだけれど、幽霊通信には、戸締りなんか邪魔にならぬと見えて、何の甲斐もなかった。福田氏は、数字が「九」まで進んだ時、もう我慢がし切れなくなって、
「つまらないことを気にしたもんですね。誰かのいたずらですよ。叔父さんが神経を
上述の福田氏の話を聞くと、二郎青年は事もなげに笑ってしまった。
「いたずらにしちゃ、念が入り過ぎているんだよ。ただ面白ずくで、こんな馬鹿な真似を幾日も幾日も続ける奴があるだろうか。第一、厳重に戸締をしたこの部屋へ、どうして這入って来るのか、まるで魔術師の様で、わしはゾーッとする事があるよ」
福田氏は大真面目で、本当に怖がっている様に見える。
「併し仮令魔術師にもせよですね。ただ紙切れが投込まれる丈けで、別に叔父さんに危害を加えようという訳ではないのだから、うっちゃって置くがいいじゃありませんか」
「ところが、必ずしもそうではないのだよ。この数字には何かしら恐ろしい謎が含まれている。見給え、最初来たのが、『十一月廿日』その次が『十四』、それから一日に一つずつ数が減って今朝は『九』になっている。順序正しく、非常に計画的だ。ところで、今日は何日だったかね」
「十一日でしょう。十一月十一日です」
「ホラ、見給え。十一日の十一に九を加えると幾つになる。二十だ。つまり『十一月廿日』になるのだ。ね、この毎日の数字は、あと十日しかないぞ、ホラ、もう九日になったぞという、気味の悪い通告書なんだよ」
聞いて見ると、成程それに相違なかった。二郎青年は
「併し、通告状って、一体何の通告状なんです」
「サア、それが分らないから、一層気味が悪いのだよ。わしは別に人に
その実、福田氏は、存外恐ろしい復讐を受ける様な覚えがあったのかも知れない。でなければ、たかがいたずら書きの紙切れにこうまで心を悩ます筈もないのだ。
「復讐って云うと?」
「つまり、十一月廿日こそ、わしの殺される日だという……」
「ハハハハハ、馬鹿な、つまらない
ということで、福田氏も実はそれを考えていたものだから、早速その晩、実行することになった。
二郎青年は、約束通り一睡もせず、日が暮れるとから、懐中電燈を用意して、福田氏の寝室の窓の外の庭だとか、
「猫の子一匹、塀の中へ這入ったものはありませんでしたよ。どうです。まさか昨夜は紙切れは来なかったでしょう」
朝になって、叔父の部屋へ這入った二郎は、「それごらんなさい」と云わぬばかりに、得意らしく尋ねた。
だが、これはどうだ。福田氏は又新しい紙切れを持っていたではないか。
「これをごらん。ちゃんといつもの通り毛布の上に置いてあった。わしも今夜こそ正体を見届けてやろうと思って、一睡もせぬつもりでいたんだが、明け方近く、ついトロトロとした隙にこれだ。実に不思議な事もあるものだよ」
で、今朝の紙切れには、順序に従って、「八」と記してあった。福田氏の想像によれば「もうあと八日しかないのだぞ」という恐ろしい意味を含んでいる。
そうなると、新青年の二郎も、やや本気になって、それから福田家に泊り込み、書生などにも手伝わせて、二晩三晩、
今度は二郎の方から勧めて警察の助力を
「明智探偵七時半上野駅着」の報を受けた福田家では、明智を見知った一巡査を頼んで、自動車で駅まで出迎えに行って貰った。明智の来着と同時に波越警部も福田邸へやって来る手筈になっていた。
ところが、八時頃になって、迎えの自動車は
福田氏はとりあえず、まだ庁舎に居残っていた波越氏に電話をかけて、事の
「イヤ、こちらへも来ていません。迎えの車が見当らねば電話をかけてくるでしょうが、それもない所を見ると、予定の汽車に乗り遅れたのかも知れません。明日の朝は大丈夫ですよ。それまで待って見ようじゃありませんか」
と波越氏は
で、その晩は、二郎青年の外に、明智を出迎えに行った巡査に泊って貰うことにして、福田氏はさして心配もせず寝についてしまった。
福田氏にせよ、波越警部にせよ、そんなに事が迫っているとは知らず、つい油断をしていたのは、誠に
だが、犯罪者はいつもアルセーヌ・ルパンの様に、約束堅い正直者だとは
それは兎も角福田氏の警護を
彼等両人にも、まだ三日間があるという、無意識の油断があった。それに、いざ十一月廿日が来たところで、どんな事が起るのかまるで見当がついていない。
で、二郎も巡査も、強いて目を覚ましていなければならぬとも思わなかった。起きていた所でどうせ何事もないに極っていると、たかを括っていた。
だが、曲者は、上野駅で明智をさらった手際でも分る様に、人の虚を突く術を心得ていた。一同が幽霊通信に慣れてしまって、
二郎青年は、真夜中頃、異様な
耳をすますと、階下の主人の寝室と
福田氏は
やがて、笛の音はパッタリやんだ。もういくら耳をすましても、聞えては来ぬ。
二郎はいきなり、隣のベッドの巡査をゆり起した。
「どうもおかしいことがあるんです。僕と一緒に下へ降りて見てくれませんか」
二人ともパンツのまま横になっていたので、
二郎はビクビクもので、その
「主人を起して見ましょうか」
「そうですね。念の為に」
巡査も賛意を表したので、二郎はドアの
「やっぱり変ですよ」
二郎はもう
「鍵穴から覗いて見ましょう」
流石巡査は思いつきよく、腰をかがめて鍵穴を覗いていたが、やがて振向いた彼の顔は、恐ろしく緊張して見えた。
「血、血です。……」
「エ、じゃ、叔父さんは……」
「多分もう息はありますまい。この戸を破りましょう」
庭に廻って窓から入ろうにも、鉄格子が邪魔をしているので、火急の場合、その
二郎は廊下を走って、書生を起し、
騒ぎに家中の召使達が(婆やと女中二人)駈けつけて来た。
頑丈な
二郎と、巡査と、召使と都合六つの首が、その破れ目にかたまった。だが、彼等は何も見なかった。見る隙がなかった。恐ろしい勢で顔にぶつかって来る、大きな真赤な何かの
それは一匹の真赤な猫であった。いや真赤な猫なんてある筈はない。実は福田氏が飼っている、純白の雄猫なのだが、それが全身に
不気味な動物は、
人々はその時、
「ミャオー」と一声、不気味に優しい鳴声を立てると、真赤な猫は、人々の驚きを無視して、点々と血潮の足跡を
人々は次に、
ともしたままの明るい電燈の下に、福田氏のパジャマ姿の下半身が横わっていた。胸から上は寝室に隠れて見えぬのだ。恐らくは猫がじゃれついた為であろう、足の先まで血に染っている。
だが、異様に感じられたのは、死体そのものよりも、死体の上やその周囲に、
人々は
余談はさておき、
二郎は何気なくツカツカと死体の側へ近づいて行った。そして、血まみれの足の所に立って、寝室との境の壁に隠れていた、死体の上半身を一目見ると、どうしたのであろう、彼は何か木製の人形みたいな恰好で、そこへ棒立ちになってしまった。口を動かしているけれど、余りの事に声も出ない様子だ。
「どうしたんです」
巡査が驚いて駈け寄るのと、二郎の棒の様な身体が、彼の両手の間へ倒れかかるのと同時だった。
「ワッ、これは、……」
流石の巡査も、今二郎が見た、死体の上半身を覗くと、思わず悲鳴を上げた。
一体そこには何があったのか、二郎青年に脳貧血を起させ、商売人の警官を
「もう大丈夫です。ありがとう」
一寸の間に、二郎青年は、
「実にひどい。実にひどい」
やっとしてから、巡査が、死骸の方を見ぬ様に顔をそむけたままで、何か人に聞かれては悪い
誠に、人々がかくも驚き恐れたのも無理ではなかった。福田氏の死体は普通の殺人事件などでは見ることも出来ない、一種異様の恰好をしていたのだ。肩から上に何もない、胴体ばかりの人間というものが、こんなにも恐ろしく見えるとは、誰も知らなかった。人間ではない、何かしらえたいの知れぬ血まみれになった大きな物体が、そこにグッタリと
芳年の無残絵そのままの、ゾッと歯ぎしりの出る様な光景だ。芳年の絵は
だが、賊は一体全体、何の為に被害者の首を持去ったのであろう。物取りの仕業なら勿論、仮令恨みの殺人としても、相手を殺せば用は済む筈。それを、昔々の
この殺人の異様さは、そればかりではない。死体の上に一面に
いやいや、不思議はそれに
勿論、この出来事は、巡査や玉村二郎や書生などの推理力の及ぶ所ではなかった。彼等はただもう血みどろの死体に仰天して、事の不思議さを理解する力さえない様に見えた。
だが、職業柄、巡査丈けは、
鋭い刃物と、多分鋸とで、外科の専門家程ではないが、
それから、巡査はベッドの下や家具の蔭などを、入念に覗いて廻った。何と云う
巡査は日頃、こういう場合に
この事が警視庁から係の波越警部の私宅に急報され、警部が二名の刑事を引つれて現場に駈けつけたのは、一時間程のちであった。その間に巡査は玄関や裏口などの戸締りを改め、屋外の足跡を探し、召使達を取調べるなど、手抜かりなく、為すべき事を為したけれど、別段の発見もなかった。庭は乾いていて足跡は残らず、玄関も裏口も戸締りに異状はなかった。無論召使達は何事も知らなかった。
波越警部が来着した頃には、
さて、波越警部の現場調査、それから
第一には、被害者福田氏の隠し戸棚から、高価なダイヤモンドが紛失していたことが、玉村氏の注意で判明した。
それは玉村商店の番頭が欧洲の宝石市場で手に入れた、古風なロゼット切りの十数カラットのもので、福田氏はその
第二は、福田氏の寝室の模様壁紙の上に、犯人の大きな血の手型が残されていたこと。流石老練警部の波越氏、巡査や玉村二郎が見逃していた大切な手掛りを苦もなく発見した。
「どうして、僕等はそれに気がつかなかったのでしょう」
と二郎青年が不審がると波越氏は
「この手型が余りに高く、普通でない場所にあったからです。人間が壁によりかかる時は、目よりも低い箇所に手を突くのが普通です。
それにしても、変な場所に手型が残ったものだ。五尺何寸の玉村二郎や波越警部の目の線よりもずっと高く、一杯に腕を延ばしてやっと届く様な場所に、どうしてこんな手型がついたのであろう。
いや、手型の高さよりも、もっと驚くべきことが、間もなく分った。それは血の手の平の寸法だ。波越氏が計って見ると、普通人の
人々は、
「どこかに間違いがある。そんな怪物が、この厳重に密閉された部屋に出入したなんて、それが巨人であればある程、
と人々は彼等のこの驚くべき空想を打消そうと
で、第三に分ったことは、裁判所の一行が来着するのと前後して、各新聞社社会部夜勤記者の一団が、福田邸の門前に殺到して、あわよくば犯罪現場に
福田邸は東京市西北郊外の、ある閑静な地域にあって、門前は自家専用の通路の外は、広い空地になっていた。その空地が、一般街路に接する所、即ち福田邸専用通路のはずれに、時代に取残された人力車夫のたむろする、みすぼらしい
犯罪の行われた時刻は、老車夫が、珍らしい
「あっしゃ、あんな背の高い野郎を、ついぞ見たことがねえ。勿論顔なんか見えない。ボンヤリと闇の中に浮出した
と云うのだ。
記者の知らせで、波越氏はその老車夫を邸内に呼んで、
だが、手型にせよ、暗中の大入道にせよ、凡て
で、書生、婆や、二人の女中、自動車運転手、助手の六人が再三厳重な質問を受けて各自の荷物や
この犯罪は単なる物取りの仕業としては、殺害方法の残虐なこと、死体の首の紛失していることなど、
だが、被害者の実兄である玉村氏は、弟はそんな恨みを受ける様な人物でない。殊に、七尺近い大男などには、直接にも間接にも知合いはない筈だと断言し、長年の召使の婆やなども、この玉村氏の言葉を裏書きした。
流石戦場往来の古つわもの波越鬼刑事も、嘗つてこの様な幻妙不可思議な事件に出くわしたことがなかった。誰が殺したか、何ぜ殺したか、何ぜ首丈けを切断して持去ったか、何の必要があって、
「果して、この事件は明智小五郎の領分だわい」
波越氏は
ところが、電話が通じて、ホテルの支配人の話を聞くと、彼はアッと
警視庁刑事部は、ただこの一事件の為に色めき立った。刑事部長も、各課の首脳者も、総監さえもが、この怪賊のことの外は何も考えなかった。殆ど無材料ながら、兎も角も出来る丈けの捜査方法が講じられたが、その一日は空しく過ぎた。そして次の十九日、即ち犯罪の行われた翌々朝、
その朝、九時から十時頃にかけて、白橋附近での出来事である。
肌寒い秋の
白橋を徒歩で往来する人は、よくよく急ぎの用でもない限り、妙なもので、一度は立止って
その朝のその瞬間にも、数名の男女が、橋の両側の欄干に凭れて、遠く近くの水面を眺めていたが、上流に面した欄干の二三人が、ふと妙なものを見つけた。
もう十日余りで十二月に入ろうという晩秋の
「ヤア、元気な爺さんじゃありませんか。この薄ら寒いのに、よくまあ
自転車を持った、カーキズボンの若者が、側の背広服の外交員といった男に話しかけた。
「本当だ。併し寒中水泳には少し早いが、一体何でしょうね。それに、あの年配じゃ、定めて何とか流の先生なんだろうが、別に新聞にも出てませんでしたね」
外交員はやや不審らしく云って、なお老水泳手をじっと眺めていた。
彼等の異常な熱心さが、反対側に立止っていた人々にも、他の通行人達にも敏感に反映して、上流に面した欄干に人の数が増して行った。
水面に首丈けを浮べた水泳家は、もう橋から半丁ばかりの所まで近づき、流れに従って、一間一間と進んで来る。橋上の見物人もそれに従って、頭数を増し、遂には、物見高い黒山の群衆となった。
「どうも変ですぜ。あんな泳ぎ方ってあるのかしら、あんまり静かじゃありませんか。しぶきを立てない特別の流儀なんでしょうかね」
外交員が又不審をうった。黒山の見物の間からそれに
「あの顔を見ろ」誰かが叫んだ。「あの真青な顔を見ろ。それに目の玉がちっとも動かないじゃないか。あいつは死んでいるんだ」
「馬鹿なこと、あんな
だが、間もなく、この疑問のはれる時が来た。その泳ぎ手が十間五間と橋の下に近づくに従って、人々の目は真上から眺める位置になり、今まで遠方の為見えなかった水面下の秘密なカラクリが分って来た。それは普通の土左衛門でもなく、そうかと云って生きた泳ぎ手では猶更らなかった。
読者は
ではその重い首が、どうして水面に浮んでいたのかと云うに、真上から覗いて見ると、首の下に細長い、船の形をした木切れが、水に歪んで、ヒラヒラと見えている。つまり、福田氏の生首は、小型の舟に乗せられ、その舟は首の重みで水面下に沈んだまま、ユラリユラリと流れに従って漂って来た訳だ。
見物達の驚きは申すも
首を
アア、獄門舟、何という不気味な名称であろう。獄門台の代りに、水のまにまに流れ漂う移動さらし首だ。いうまでもなく、これは生前の福田氏に深き深き恨みを抱く、かの下手人が、死者に最大の
この出来事は所管警察署を通じて、警視庁に伝えられ、生首の主が福田得二郎氏であることも
波越警部は、犯人の
白橋上流には、遠く
犯人につき
明智小五郎は、うたたねの夢から覚めた様な気持で、ふと目を開いた。
少々頭痛がするのを除くと、凡てが甚だ快適であった。
明智が目を開いて、まじまじしていると、それを待構えてでもいた様に、ドアが開いて、一人の女が室内に這入って来た。美しい十八ばかりの娘だ。一寸見なれぬ型のダブダブした黒絹の洋装で、手に銀盆をささげている。盆の上には飲み物と軽い食事の皿が並んでいるのだ。
「お目ざめになりまして?」
娘はソファの前の
「本当に大変でしたわね。でも、どこも御痛みにはなりません?」
無論知らぬ娘だ。この部屋にも見覚えはない。明智は夢みたいな気持で、しばらくボンヤリしていたが、やっと気を取り直して、
「ここは一体どこの御宅なんでしょう。そしてあなたは?」
と尋ねて見た。
「イイエ、御心配なさることはありませんわ。あなたの御危い所を御救い申した人の
「そうでしたか。僕は上野駅で変な自動車に押込まれたことは覚えていますが、すると
「エエ、まあそうですの。でも、あなたまだ色々なこと御考えなさらない方がよござんすわ。それに、あたし、何にも喋ってはいけないって云いつけられているんですもの」
「ナアニ、もう大丈夫ですよ。どこも何ともありません。少し頭がフラフラしている位のものです」
明智はそう云って、大丈夫だということを示す為に、ソファの上に
「まだ駄目な様です。何だか僕には、この部屋がフワフワ宙に浮いてる様な気がするんです」
「ホラ、ごらんなさいまし。まだ無理をなすってはいけませんわ」
「でも気分は何ともないんです。どうか御主人に
「イイエ、そんなこといいんですの。それに主人は今不在なのです」
その時、明智は、やっとその小部屋の作り方が、どうやら普通でないことに気がついた。
「オヤ、この部屋には、窓が一つもありませんね。じゃ昼間もこうしてランプをつけて置くのですか。妙な部屋ですね。で、一体今は昼でしょうか夜でしょうか」
実に変な聞き方だけれど、その部屋で目を覚ました人にとっては、当然の質問であった。
「夜ですの。今八時を打った所ですわ」
「何日の?」
「十一月、十八日」娘はそう答えて、口に手を当ててクスクス笑った。
「僕が上野駅についたのは十七日の晩だから、丸一日眠っていた訳ですね」
と
「この部屋は一体何階にあるんです」明智はたまらなくなって、変なことを尋ねた。「何だか高い塔の上にいる様な気持がするんです。若しや本当に、そんな高い建物の上にあるんじゃありませんか」
「そうかも知れませんわ」娘は相変らず、どこか表情の奥で笑っていた。「でも、居心地は悪くないでしょう。当分御滞在の間、出来る丈け御心持のいい様にと、云いつけられていますのよ。お気に召さないことがありましたら、御遠慮なくおっしゃって下さいまし。御食事でも何でも」
娘はチラと銀盆の上の、オートミールの皿を見て云った。
「滞在ですって。冗談じゃありません。僕は大切な用事があるのです」
明智はあっけにとられてしまった。狐につままれた様な、凡ての因果関係が混乱してしまった様な、途方もない感じがした。
「イイエ、そんなにおあせりなすっては
娘はまるで気の毒な精神病者をでも慰める調子で云ったが、一寸小首をかしげて、
「では後程又参りますわ。まずいのですけど、どうか御ゆっくり召上って下さいまし」
娘が逃げる様にして、ドアを開けるので、明智は驚いて、
「待って下さい。待って下さい」
と呼びながら、ソファから立上り、娘の跡を追ったが、五六歩でドアの所に達し、廊下へ出た娘の袖を、もう少しで捕えようとした時、突然、思いがけず、何かに足をとられて、バッタリ倒れてしまった。
「ホホホホホホ、ですから、じっとしていらっしゃる方が御為ですわ」
鼻の先でドアが閉って、ドアの外から娘の声が嘲る様に響いて来た。
気がつくと、足首に細い
ナアンだ。救われたというのは嘘で、ここは賊の巣窟だったのか。こいつは面白くなって来たぞ。明智は真相を知ると、失望するどころか、
明智は落ちついて食事を済ました。毒殺の心配はない。殺そうと思えば、眠っている間にいつでも殺せたのだから。食事をしながら見ると、部屋の一方に大きな本棚があって、ギッシリ金文字が詰まっている。その隣りの壁には西洋道化師のお面なども懸けてある。一方の隅の花瓶には、
食事が済むと、どこかで見張ってでもいた様に、ドアが
「やっと、僕の境遇が分りましたよ。それにしても、君は実によく気がつきますね。どっかに見張りの穴でもあるのですか」
立去ろうとする娘の手首を掴んで、明智は笑いながら云った。
「そんなものありませんわ」
娘はソッと手を振りほどいて、にこやかに答えた。
「僕手が洗いたいのだが」
彼は真実必要に迫られていたのではない。そういう場合この鎖をどうするのかと、試して見たかったのだ。
すると、娘は黙って彼の足元に
「で、僕は自由になった訳ですね。逃げようと思えば逃げられる訳ですね」
明智はニヤニヤ笑って云った。
「アア」娘は本当にびっくりしたらしく、サッと青ざめて、
「逃げてはいけません。どうしたって逃げられないのです。あたしを困らせないで下さい。お願いです。お願いです」
彼女は、悲し相な顔をして、本当に頼むのだ。どうも
「冗談ですよ。冗談ですよ。逃げたりなんかするもんですか」
と笑って見せて、娘の油断している
「アッ、あなたは何も御存知ないのです。いけません、いけません」
と取り
「手を上げろ。ピストルを投げろ。さもないと、君の背中に穴があくぜ」
背中の堅いものはピストルの筒口だった。闇の廊下に一人の覆面の大男が、彼を待受けていたのだ。
で、結局、又しても動物園の熊に逆戻りだ。明智は足に鉄の輪をはめられながら、なる程こいつは厳重だわい。うっかり出来ないぞと心を引しめた。
「余計な手数をかけるもんじゃない。おとなしく寝ているがいい」
覆面の男は云い捨てて、娘をつれて出て行ってしまった。
明智は仕方なくソファの上に横になったが、彼の監禁が厳重であればある程、一方福田得二郎氏に対して行われている陰謀がどれ程重大なものか察しがつく訳だ。じっとしてはいられない。
彼は眠ったふりを装って、今晩中に足の鎖を切断してやろうと決心した。で、三十分ばかり、
非常に骨の折れる仕事であったが、四五時間もかかって、直径三
さっきから、どうもそうではないかと思っていたが、これで、この部屋のどこかに見張りの穴があることが明瞭になった。
一体どこから覗いているのかと、明智はソファに縛られたまま、首丈けを動かしてグルッと部屋を見廻したが、どこにもそれらしい隙間はない。ドアの鍵穴にはちゃんと紙が詰めてある。
窓のない
流石の明智小五郎も、
丁度彼の目の行く
彼は何気なく、そのお面を、長い間眺めていたが、そうしている内に、不思議なことに、明智の表情が変って来た。ぼんやりしていた目が、
「アハハハハ、おい、クラウン、ジョーカー、それとも君はピエロという名前かね。よくまあ、そうしてじっとしていられたもんだね。退屈じゃないかね。ハハハハハハハ、駄目だよ駄目だよ。ホラ
と、驚くべきことが起った。壁にかけた土製のお面がカッと目を見開き、口を動かして、
「やっと分った様だね。だが名探偵明智小五郎にしては、ちと遅過ぎたよ」
そこには元々土製の道化面が懸けてあったのだが、賊はそのお面と同じ化粧をして、時々壁の穴からお面を引込め、その跡へ自分の首を突出して、食事を運ぶ娘の見張りをしたり、一人ぽっちになった明智の行動を探ったりしていたのだ。
その
「で、君は僕の自由を奪って置いて、一体全体何をしようというのだね」
横ざまにソファに縛りつけられた明智が云う。
「何をしようだって? それよりも、何をしたかって聞いて貰いたいね」
壁の道化面が答える。何という珍妙不可思議な対話であろう。だが、この滑稽な姿の両人が喋る言葉は、一騎討ちの真剣勝負だ。
「エッ、それじゃ」明智は驚いて叫んだ「君はもうやっつけたのか」
「やっつけたとは? 福田の親爺のことかね」
「ヤ、それじゃ、貴様、福田氏をどうかしたんだな」
「首と胴とを別々にした丈けさ。……だが、俺の仕事はそれで終った訳じゃない。俺には先祖から伝わった大使命があるんだ。その使命の為に、俺は生れ、教育を受け、四十余年の間苦しみに苦しんで来たんだ。それが、やっと目的を達しようという時になって、貴様という邪魔者が現われた。俺は世界全体を敵に廻しても恐れない。それ丈けの用意は出来ている。だが、君という怪物のことまで、勘定に入れて置かなかった。警察も裁判所も世間も怖くはないが、君はちと苦手なんだ。俺は君がどんな男だか知っている。君なれば俺の仕事の邪魔が出来るということを知っている。問題は権力や武器や人数ではない。智力だ。残念ながら君の智力が恐ろしいのだ。そこで、少々お気の毒だが、恨みも何もない君を、こうして監禁した次第さ。だが、俺は使命を果す外に、人の命をあやめ
道化面は
「いつまで?」
明智は冷然として聞き返した。
「一ヶ月、長く見積って一ヶ月だ。どうかその間ここにじっとしていてくれ」
「なんだって。一ヶ月だって。じゃあ貴様は、福田氏の外にも……」
「そうなんだ。俺の相手はあの男一人ではないのだ。だから君に頼むのだ。どうか俺の使命を果たさせてくれ」
「イヤだ」明智は駄々子の様に云い放った「
「
「じゃ貴様こんなに頼んでも、ウンと云わないのだな。どうしても、俺に無駄な
薄暗い石油ランプの光線なので、明智は気づかなんだけれど、道化面の厚い白粉を溶かして顔一面に
悪魔の
明智は如何にしても、その様ないまわしき使命に
「それ程僕に手を引かせたければ、ここにたった一つの方法がある」
「それは何だ。それは何だ」
「つまり、君が大使命とやらを思い切るのさ」
「畜生ッ、その広言を忘れるな。望み通り今に息の根をとめてくれるから」
云うかと思うと、スッポリ肉仮面が引込んで、あとの穴へ、向う側から本物の土のお面がはめこまれた。
間もあらせず、ドアが開いて、総勢四人、ドヤドヤと這入って来た。化粧丈けでなく服装まで道化師のだんだら染めを着込んだ怪人物、二人の覆面の男、これ丈けは素顔を現わしたさっきの美しい娘。
道化師は手に不気味な注射器を持ち、覆面の二人は各々ピストルを構えて、明智が身動きでもすれば、ぶっぱなす気勢を示し、娘は何ぜか青ざめて、物悲しげな様子である。
「だが安心するがいい、痛い思いはさせない。この部屋に血を流すのがいやだし、それに、君には何の恨みもないのだから、この注射針で極楽往生をさせてやる。言い残すことはないか。思い返して命を助かる気はないか」
最後の宣告である。危い危い。身は
だが、底知れぬ明智の胆力は、この
「お祭騒ぎは止し給え。相手はたった一人なんだぜ。しかも身動きも出来ない程縛りつけられているんだぜ。君達はこの僕がそんなに怖いのかね。ハハハハハハハ、こんなになってもまだ平気でいる僕が、薄気味悪いのかね」
道化師はそれを聞くと、何を思ったかギョッとした様に一歩後にさがって、
「繩目は大丈夫か」
と覆面の男を振返った。男は明智の側によって、入念に繩の結目を検べ、
「大丈夫です」
と答えた。
「よし、それじゃ、
文代と呼ばれた美しい娘は、繩の喰入った明智の腕をまくろうとして、二三歩前に進んだが、この場の激情的光景に耐え兼ねたのか、真青になって、フラフラと倒れかかった。
「馬鹿、どうしたんだ」
道化師が娘を支えて怒鳴ったので、彼女はやっと気を取直して、明智の上にかがみ込み不器用に、長い間かかって、洋服の腕をまくった。
明智はその時、娘の美しい顔が、目の前に迫って、意味ありげにじっと彼の目を見つめているのを感じた。スースーとはずんだ呼吸の音や、早まった心臓の鼓動さえ聞取れる様な気がした。
次の瞬間、娘の一方の手が彼の背中に廻ったかと思うと、明智はうしろに組んでいた手先に鋭い痛みを感じ、アッと声を立てようとしたが、娘の哀願する様な一種異様の目くばせを見てじっとそれをこらえた。
彼女は腕をまくり終って人々のうしろに
その時、突然非常に変なことが――当の明智さえびっくりした様な出来事が起った。ガチャンとひどい音がしたかと思うとランプが消えて室内が真暗になり、熱いガラスの破片がバラバラと人々の上に落散った。誰の仕業か、天井の空気ランプに何かをぶっつけたのだ。
「ぶっ放せ。ピストルをぶっ放せ」
道化師の極度に狼狽した声が闇の中に響いた。彼は明智小五郎が何かしら不思議な力でこの椿事を
続いて起る銃声一発二発、ただ闇の事
彼はこの幸運を利用して、何とか死地を脱する工夫はないものかと、思わず両腕に力をこめると、不思議不思議、繩がズルズルとゆるむではないか。その時、明智の頭にパッと電光の様にひらめいたものがある。
何ぜか分らぬ。併し、明智を助けたのは文代と呼ばれる賊の娘なのだ。さっき手先に鋭い痛みを感じたのは、彼女が刃物で繩を切った力が余って明智の皮膚を
「
道化師が慌てふためいている間に、明智は懸命の努力で遂に繩を抜け出すことが出来た。
黒い
幸い行手に別段の障害物もなく、廊下を抜け切ると、夜ながらパッと眼界が開けた。空には一面に星が瞬いている。明智はとうとう家の外へ出たのだ。
だが、背後には、已に、入り乱れた追手の足音が迫り、
明智は、まっしぐらに走った。と、五六歩も行かぬ内に妙な欄干みたいなものに突き当ってしまった。
「アハハハハハハ、驚いたか小僧、ここをどこだと思っているんだ。お前泳ぎが出来るのか。イヤサ、この海が泳ぎ切れると云うのか」
道化師の高笑いに、ハッとして欄干の下を見ると、星明りにもそれと知られる、水、水、水、真黒くうねる、果てしも知らぬ大海原だ。
アア、ここは陸上ではなかったのだ。どこの海かは知らぬけれど、陸地を遠く離れた船の上なのだ。道理こそ、陸上では今時見られぬ石油ランプだ。窓のない密室だ。絶えず眩暈の様に動揺する部屋だ。海が
明智とて水泳の心得がないではなかった。併し、見渡す限り水又水のこの大海原を、どうして泳ぎ渡ることが出来ようぞ。うしろには迫る強敵、前には果てしれぬ黒い水、
と、
「飛び込む真似をして、船べりに隠れていらっしゃい」
たった一言、黒影はついと離れた。
救い主の忠告である。明智は何も考えずその言葉に従った。
「この位の海が泳げないでどうするものか」
聞えよがしに大きく叫んで、ひょいと欄干を飛越すと、いきなり、もんどりうって、船の
と同時に、当の明智でさえ自分が落ちたのではないかと疑った程の、ドボンという大きな水音。分った分った。文代の巧みなトリックだ。闇にまぎれて、何かしら重い品物を
「ヤ、飛込んだ。ボートを出せ、ボートを出せ」
道化師のわめき声、
「もう大丈夫ですわ。あの人達が帰って来るまで、どっかに隠れていらっしゃい。そしてあの人達と入れ代りに、あのボートで御逃げなさい」
明智が甲板に這い上ると、一生懸命の少女が、彼の耳たぶに温い息をかけて、策を
「有難う。僕は君のことを忘れませんよ。それにしても、君はどうしてあの連中を裏切って僕の味方をしてくれたんです。君は賊の一味ではないのですか」
明智は少女の手を握って囁き返した。何かしら熱いものが、目の中に湧上って来るのをどうすることも出来なんだ。
「あたし悪者の首領の娘ですの」文代は悲しい声で云った。「でも、でも、あたし、あなたのお名前をよく知っていたのです。そして、お助けしないではいられなかったのです」
少女は激情の余り泣き出しそうにしながら、握られていた明智の手を、じっと握り返した。その指先にこもる異様な情熱。明智は、闇の中ながら、又彼の年齢にも
賊の一味は、闇の海上の捜査
あとで分った所によると、賊の怪汽船は海上五里、殆ど東京湾の中心と覚しき辺りに漂っていたのだ。明智は一艘の小舟に身を
一難についで又一難、今まで不気味な程静まり返っていた天候は、恐ろしい大暴風の前兆であったのだ。海の人々は、あの十一月十八日の夜の、際立った天候の変化を、今も語り草にしている程だ。同じ夜三艘の漁船が
その死にもの狂いの避難中、賊の一人が船尾につないだボートがなくなっていることを発見して、大声に呼ばわった。だが誰一人それを怪しむものはなかった。暴風が
明智は真黒な水の小山、水の谷底を、
無論方角などはとっくに分らなくなっていた。引返そうにも、賊の本船からは
恐らくは一つ所をグルグル廻っていたのであろう。だが、ボートは進まずとも、波の小山の方で、次から次と、息をつく間もなく、迫って来た。小舟は空を突くかと波の小山の頂上へ乗り上げ、次の瞬間には、暗闇の地獄の底へと
アア、大自然の偉力の前には、小ざかしき人間の智恵や腕力は何のせんすべもないのだ。流石の名探偵も、渦巻く怒濤、山なす
さて、この思うだに無残なる悪戦苦闘の後、彼はよく海上五里の波浪を乗切ることが出来たであろうか。或は湾内航行の大汽船に救上げられる好運に廻り合うことが出来たであろうか。それとも若しや、若しや……
果して翌々日二十日の朝に至って、東京市民は驚くべき悲報に接しなければならなかった。その日各新聞の朝刊は、筆を揃えて、名探偵
民間探偵の第一人者
明智小五郎氏溺死す
福田氏惨殺犯人の毒手 か
月島 海岸に漂着した溺死体
福田得二郎氏惨殺事件、次いで白橋下の獄門舟事件と前代未聞の残虐に世人 の心胆 を寒 からしめた怪賊は、更らに毒手を伸ばして、当面の大敵たる民間探偵明智小五郎氏を不思議なる手段によって殺害したかの疑いがある。
明智探偵は、福田氏惨殺事件の当日以来行衛 不明を伝えられ、警視庁に於 ても極力捜索に力 めていたが、昨十九日午後四時頃、月島海岸に一箇の溺死体漂着、検死の結果、意外にもその溺死者が明智小五郎氏であることが判明した。同氏は故福川氏の依頼により旅行中のS湖畔 より急遽 上京の途中、突然行衛不明となったもので、恐らく福田氏殺害犯人の魔手に陥ったのではないかと見られていたが、今や同氏の死体発見され、愈々その疑は濃厚となった。獄門舟事件と云い、明智氏溺死事件といい、事毎 に水に縁のある所を見ると、兇賊は舟を根城 として巧みに其筋 の眼をくらましているのではないかと、その方面に厳重なる捜査が開始される模様である。
(右の記事のあとには、明智小五郎の略歴、探偵手柄話、親友波越警部の談話等記しあれど凡て略す)明智小五郎氏溺死す
福田氏惨殺犯人の
福田得二郎氏惨殺事件、次いで白橋下の獄門舟事件と前代未聞の残虐に
明智探偵は、福田氏惨殺事件の当日以来
読者諸君は右の記事を読んで、事の意外に
で、新聞記事が嘘でなかった証拠には、その後何の取消し記事も出なかったばかりか、明智小五郎の溺死体は、旧友波越警部の自宅に運ばれ、立派な葬儀が
さてお話は、それから数日の後、
玉村邸は人家を離れた
この玉村本邸には、一つの名物がある。それは煉瓦造りの洋館の屋根に
附近の中学生達はこの時計塔を、玉村の「幽霊塔」と呼んでいた、
時計塔は、文字盤の直径が二間もある、べらぼうに大きなもので、古風なぜんまい仕掛けだが、
玉村一家の人々が、打続く怪事件に、おじ恐れていたことは申すまでもない。玉村氏は警察署に頼み込んで、門前に見張りの刑事をつけて貰うやら、新しく男の召使を雇入れるやら、見えぬ敵に対して手落ちなく防備を
福田氏惨殺の現場に居合わせた二郎青年や、
「私自身は他人から恨みを受ける覚えは断じてない。福田の叔父さんだって、まさかそんな敵を作りはしなかったろう。ひょっとしたら、これは私や叔父さんの個人に関係したことではないのだ。玉村家の一族全体に
と言葉をにごして、いくら尋ねても、それ以上を語らなかった。
さてある日のことである。玉村二郎は東京の友人の所へ気ばらしに話しに出かけて、昼過ぎ頃大森の邸へ帰ったのだが、門を這入って、植込み越しにヒョイと庭を見ると、そこに変なものを発見した。
植込みの向う側は広い砂場になっていて、テニスコートやブランコなどがあるのだが、そこの地面に、大きな8という数字が幾つも書き並べてある。棒切れか何かで書いたものであろう。ひどく
何でもないことだ。誰かのいたずらに極っている。だが、その何でもないことが、二郎青年には、特別の意味を
彼はそのまま立去ることが出来ず、
二郎はフラフラとその怪文字をたどって歩いて行く。洋館の角を曲ると、向うに進一少年が、地面に
「進ちゃん、なぜそんな8の字ばかり書いているんだい」
「アア、
「こうして
「誰に教わったの」
「よその小父さんが、そう云ったよ」
二郎青年は
「どこで!」
「今、そこで、門の所で」
「どんな人だったい」
「年寄の小父さんよ、洋服を着ていた」
まさか、これが、福田氏の場合と同じ恐ろしい予告だとは思われぬ。だが、その年寄の小父さんというのは、一体全体何物であろう。又、何の為にそんな馬鹿馬鹿しいことを教えたのであろう。
彼は悪夢に襲われた様な変な気持で、洋館の自分の書斎へ這入った。窓から庭を見ると、進一少年は飽きもしないで根気よく8の字を書き続けている。
そこへ裏手の方から、
「坊ちゃん、いいもの上げようかね」
音さんがニコニコして進一に声をかける。
「ナアニ、爺や」
「パチンコって云うのですよ。知ってますか」
「どうするの?」
「鳥でも何でも打てるのです。ホラ、見ていらっしゃいよ」
爺やは云いながら、
「爺やは名人ですよ。あの八ツ手の葉を打って見ましょうかね。上から二番目のですよ。ホラ」
パチン。
「どうです。うまいでしょう。今度はと、アレ、バルコニイにお姉さまがいらっしゃる。何だか飲んでおいでなさる。オヤ、顔をしかめなすった。きっと苦いお茶でしょうね。坊ちゃん、見ていらっしゃいよ。今度はあのコップを打ってお目にかけますからね」
それを聞くと、少年の進一でさえ変な顔をした。まして大人の二郎青年は、音吉爺さん気でも違ったかとびっくりした。
パチン。礫が飛んだと思うと、二郎の頭の上のバルコニイで、ガチャンと瀬戸物の破れる音がして、妙子の「アレッ」という叫声が聞えた。パチンコの狙いたがわずティーカップに命中したのだ。時候に似ずホカホカと暖い日だったので、妙子はバルコニイへ出てお茶でも飲んで居たものと見える。
「マア、爺や何をするんです。びっくりするじゃありませんか」
「これはお嬢さま、何とも
爺やは平気な顔で
「もう少しで
妙子はブツブツ小言を云う。爺やは頭を
それ丈けの出来事である。何の
では、この二つの妙な出来事は、全く二郎の
その翌日、例になく早起きをした二郎が、庭を散歩しながら、何気なく玄関の前まで来かかると、音吉爺さんが、西洋館の入口の大扉を、せっせと
二郎はハッと立止って、思わず声をかけた。
「爺や一寸御待ち、消しちゃいけない」
音吉はびっくりして、手を止めたが、文字は已に大部分拭きとられて無意味な一線を残しているばかりだ。
「爺や、お前そこに書いてあった字を覚えているだろうね」
二郎の目の色が変っているので、音吉爺さんドギマギしながら、答える。
「ヘエ、誰がいたずらをしたんだか、困った奴等です」
「イヤ、そんなことどうだっていい。爺や思い出しておくれ。何という字が書いてあったのか。まさか数字じゃあるまいね」
「ヘエ、数字、アア、そうおっしゃれば、数字だったかも知れません。あたしゃ横文字は苦手でございましてね。よく読めませんが、エートあれは幾つという字だったか」
「そこへ指で形を書いてごらん」
「形は訳ございませんよ。この横の棒の下に、こう
「それやお前、7という字じゃないか」
「アア、そうそう、七だ、七でございますね」
二郎は真青になって立ちすくんだ。昨日は8、今日は7だ。いたずら書きと云ってしまえばそれまでだが、この
その翌日は、二郎の方で、例の数字の出現を心待ちに待ち構えていた。しまいには邸中をアチコチと歩いて、どこかの隅に6という字が現われていはしないかと、探し廻りさえした。すると、アア、彼は又しても怪文字に出くわしたのである。
今度は進一少年が発見者だった。二郎が探しあぐんで、やっぱり気のせいだったかと、
「小父さん、こんなにカレンダーめくってしまって、いたずらだなあ。今日は十一月の二十四日でしょう。それに、十二月六日だなんて」
云われてそのカレンダーを見ると、なる程6という字が大きく現われている。
「進ちゃん、君だね。こんないたずらしたのは」
二郎は笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
進一がそんな悪さをしないことは分っていた。無論、何者かがその部屋に忍込んで、例の数字を書く代りに、カレンダーを破って、6という字を示して置いたのだ。前二回は屋外であったのが、今度は屋内のしかも二郎自身の部屋だ。魔術師の様な怪物は、誰にも見とがめられず、自由自在にこの邸内を歩き廻っているのだ。二郎はもう黙っている場合ではないと思った。
翌晩日の暮れ暮れに玉村氏の自動車は、
話そうか、どうしようか。若しあれがただのいたずらだったら、忙しい父に無用の心配をかけることはないがと、迷っている内に、車は大森駅を過ぎて、もう山の手にさしかかっていた。とっぷり日が暮れて、ヘッドライトが点ぜられた。
「お父さん、僕はもっと用心をした方がいいと思いますね」二郎は思い切って云い出した。
「お前、あいつのことを云っているのかい。充分用心しているじゃないか。雇人も増したし、わしの往復にはこうしてお前がついていてくれるし」
「駄目ですよ。僕の想像が間違いでなかったら、あいつは、もう僕等の家の中へ這入り込んでいるんですよ」
と、二郎は三日間の出来事をかいつまんで話した。すると父玉村氏は笑い出して、
「馬鹿馬鹿しい。お前の気のせいだよ。いくらなんでもあの大勢の雇人の目をかすめて、家の中を歩き廻ったり出来るものかね。魔法使いじゃあるまいし」
「イヤ、それが油断です。あいつは魔法使なんだ。福田の叔父さんの時で分っているじゃありませんか」
云い争っている内に車はいつか玉村邸の長いコンクリート
「すると、今日は5という数字が現われる勘定だね。ハハハハハ、お前はそれを信じている様だね」
車は門前に着いて、グルッと方向転換をした。門の脇のコンクリート塀に、ヘッドライトが幻燈の様な円光を投げた。
「僕は殆どそれを信じています。殆ど……」
二郎はそこまで云ってハッと息を呑んだ。
「君、車を動かしちゃいけない。そのままじっとしているんだ」彼はまるで違った声になって、叫ぶ様に云った。「お父さん。ごらんなさい。あれを、あれを」
見よ、塀に写し出されたヘッドライトの円光の中に、まるで
幻燈文字はエンジンの響きにつれて、塀の上で微動している。ヘッドライトのガラスに
偶然であったか、故意であったか、丁度そこへ音吉爺さんが出迎えに出て来た。彼も円光の中の数字を見た。そして、「オヤッ」と一種異様の叫声を立てた。
「これは誰が書いたんだ。お前達か」
善太郎が激しい声で運転手を叱りつけた。
「ちっとも存じませんでした。いつの間にこんなものを書きやがったんだろう」
運転手も小首を傾けるばかりだ。恐らく、東京の店の前に停車している間に、何者かが手早く書込んだものに相違ない。
流石の玉村氏も、この不気味な幻燈を見ては、もう二郎の臆病を笑う訳には行かなかった。この出来事が家内の
今や玉村邸は、不気味な化物屋敷であった。家内の人々はお互の足音にも、ビクッとして
日が暮れぬ先から門を閉め、方々の戸締りを固め、書生は交代で寝ずの番をするし、表門裏門には私服刑事の立番だ。これではいかな魔法使いでも、忍び入る隙はあるまいと思われた。
だが、一目下りの怪数字は、相も変らず、毎日毎日邸内のどこかに現われる。その一々を記しては退屈だから凡て
第一は福田氏、第二は明智小五郎、次いで怪魔の兇刃に倒れるものは、
その当日、玉村邸の人々は、誰も外出しないで、朝から一間に集って、恐怖をまぎらす為の遊戯や雑談をしていた。主人の善太郎も店を休んだ上、屈強の店員五六名を呼んで、いやが上にも厳重な防備を固めた。
ところが予期に反して何の変哲もなく日が暮れ、八時九時と夜が更けて行っても、邸内に別状はなかった。ナアンだ思った程でもない。この厳重な固めには、流石の魔法使いも策の施し様がないじゃないか。と、人々はやや安堵を感じ始めた。
十時には家内一同寝室に退いた。無論寝室の扉に締りをすることは忘れなかったし、玄関の書生部屋には寝ずの番が二人がんばっていた。その外には、表門裏門の刑事だ。
二郎青年もベッドに這入ったが、なかなか
遙か頭の上の、例の不気味な時計塔から、
聞える。確かに聞えている。空耳ではない。あの恐ろしい
二郎青年は用意のピストルを握りしめて、ベッドを飛びおりた。
彼は
と見る、妙子の寝室のドアの前に
「何者だッ。動くなッ。動くと打つぞ」
だが、
「二郎さまですか」
怪物が答えた。何ということだ。怪物は音吉爺やであったのだ。
「変な
「そうか。よしッ。ドアをぶち破れ」
二郎は気負って叫ぶ。
幸いドアは福田邸のものの様に頑丈ではなかった。二人の気を揃えた力で、何なく開いた。
二人ははずみを
妙子は寝台から
家内中のものが妙子の寝室へ集って来た。見張番の刑事はこのことを警察署へ報告した。やがて、駈けつけて来た係官の取調べ。それをこまごま書いていては際限がない。
例によって犯人の通路は全く不明であった。窓もドアも凡て内部からしっかり締りが出来ていた。玄関の寝ずの番も、居眠りをしていた訳ではなく、表門裏門の刑事達も部署を離れていた訳ではない。殆ど奇蹟である。犯人は文字通り魔法使であったのだろうか。信じ難い奇怪事だ。
だが、まだしも仕合せであったのは、二郎の気附き方が早く、大声で怒鳴った為に、犯人は殺人の目的を果す暇なく、ただ、短刀の一突きで、そのまま逃出してしまったことだ。
負傷者は時を移さず大森外科病院へ運ばれたが、彼女はその前に已に意識を
だが、たった一つ丈け、犯人の残して行ったものがある。それは巨人の手型などに比べて、もっと現実的な、怪賊の傍若無人をそのまま語っている様な、恐ろしい代物であった。
というのは、一枚の白いカードが妙子を突刺した短刀の根元に、丁度
妙子が病院へ運び去られたあとで、現場に居残った人々の間に、初めてこのカードが問題になった。そこに記された4という数字は、一体全体何を意味するのかということが問題になった。
「犠牲者の番号をつけるのなら、3とあるべきです。それに、この数字はこれまで、いつも犯行の予告に使われて来た。それ以外の用途はなかった。とすると、この4というのが、やっぱり、次の兇行までの日限を示すものではないでしょうか」
一人の刑事が、誰しも念頭に浮べながら、余りの恐ろしさに口にすることを
「最初は十四日の猶予がありました。次は八日、そして今度は四日と縮められたのです。兇行のテンポは次々と早くなって行く、……と考える外はないではありませんか」
彼は冷酷に云い放って一座の人々を眺め廻した。
アア何という兇悪無残、何という人非人、怪物は、今人を殺しながら、その刹那、已に次の兇行を予告しようとしているのか。
果して、この想像は適中した。次の日には配達された手紙類のどれにもこれにも、漏れなく、赤鉛筆で小さく3の字が記入してあったではないか。直ちに郵便局を検べ集配人を
一郎は家内中での
ところが、今度はこの笑っている本人の折鞄から、幽霊文字が現われたのだ。外出中一度も身辺を離さなかった折鞄の中からだ。それでも、一郎は恐れなかった。恐れる代りに
か様にして遂に数字の1となり、明くれば予告の当日となった。玉村邸の防備は前と同様、外に手の尽し様もないのである。
だが、その当日になって、一寸意外な事が起った。というのは、賊は昨日最後の1という通告を発して置きながら、どういう訳か、更らに今日も、妙な幽霊通信を送って来たのだ。しかも、それの現われたのが、非常に突飛な場所であった。
その日のお昼過ぎの事、一郎は一間に集る家人から離れ、ただ一人庭に出て、建物の廻りを見廻っていた。この建物のどこかに、人の気附かぬ様な、秘密の出入口が出来ているのではないかと疑ったからだ。
で、そうして歩き廻っている内に、秘密の出入口などはなかったけれど、その代りに、妙なものを発見した。何気なく目を上げて、遙か屋上の例の時計塔を眺めていると、その文字盤の表面に、遠くて読めぬけれど、何か文字らしいものを記した紙切れが、ベッタリ貼りつけてあるのに気がついた。
「オヤオヤ、兇行の日延べかな?」
一郎は、紙切れの文字が一字丈けでないらしいのを見て、変なことを考えた。
「よしよし、一つあすこへ昇って、あの手紙をはがして来てやろう」
一郎は即座に決心して、誰にも知らさず、洋館の二階に上り、塔への特別の階段を昇って行った。気丈な彼は、こんなことで騒ぎ立てて、神経過敏になっている人々をおびやかすこともないと思ったのだ。
とうとう怪賊は時計塔を利用した。幽霊犯人と幽霊塔、何という不気味にもふさわしい組合せであろう。だが、それにしても、賊は一体どうして、あんな所へ貼紙をすることが出来たか。屋根伝いに上へ昇るのは訳はない。問題は、賊が如何にして人目に触れず、邸内に忍び込み、屋上を這い廻ることが出来たかという点にある。夜の
やっぱり怪物だ。魔法使だ。アア危い。一郎は深くも考えず賊の恐ろしい罠に
薄暗い階段を昇りながら、ふとあることに思い当ると、流石
白昼とは云え、場所は不気味な幽霊塔だ。薄暗い幾曲りの階段、頂上の文字盤の裏には、見通しの利かぬ複雑な機械室、人間一人隠れる場所はどこにだってある。若しや、あの文字盤の貼紙は賊のトリックではあるまいか。それにつられて昇って来る犠牲者を、塔中の暗闇に
併し、強情我慢の一郎は、おびえて引返す様なことはしなかった。彼はピストルを胸の前に構え、一段昇る毎に、前後を見廻しながら、注意深く進んで行った。
今にも、今にもと、寧ろ敵の襲撃を待構える気持だったが、案外別段のこともなく、頂上の機械室に達した。
機械室は小工場といってもよい程の大がかりなものである。ギリギリと
一郎はその機械室の一隅に立って、じっと息を殺し耳をすました。彼は鉄砲玉の様に飛びついて来る怪物を予期して、一瞬たりともピストルの手をゆるめなかった。だが、いくら待っても、何の変ったことも起らぬ。機械のまわりをグルッと廻って見たが、どこの隅にも、怪しいものの影はない。
やや
彼の頭の辺に、シャフトといった方がふさわしい様な、恐ろしく太い時計の針の心棒が横わり、その下の、丁度彼の胸のあたりに、俗に幽霊塔の目と云われている、大きな二つの穴が開いている。これは別段さしたる用途もないのだけれど、ボンボン時計のネジを捲く二つの穴になぞらえて、装飾
一郎は例の貼紙が、裏側から見て左の方の穴の真下に当ることを記憶していた。彼はその穴から首を出して、貼紙の位置を見定め、次に右手を穴の外へ出来る丈け伸ばして、それをはがそうとした。だが、残念なことに、もう少しのことで手が届かぬ。棒切れでもないかと機械室を見廻したが、適当な品も見当らぬ。
彼はどうしたものかと思案しながら、一寸の間、ボンヤリそこに佇んでいたが、突然、彼の様子が変った。何かしら非常に恐ろしいものに出くわした様に、身体を固くして、物凄く見開いた目で、空間の一箇所を睨みつめた。彼は全神経を耳に集中しているのだ。何か奇妙な音が聞えるのだ。
大振子のキシリではない。確かに笛の
アア、今兇行が行われようとしている。だが、
彼は笛の主を見る為に、文字盤の穴から首を出して、下の方に見える西洋館の屋根を眺めた。だが、そこには人の影もない。恐らく怪物は時計塔の裏側にいるのであろう。笛の音色によって想像するに、奴は屋根の上をあちこちと這い廻っているらしい。今にこちら側へ現われるかも知れぬ。どうかして一目、怪物の姿を見たいものだと、彼は長い間穴の外へ首を突き出していた。
ところが、そうしている間に、
一郎は少し前から
最初は何が何だか訳が分らなかった。怪物が上の方から彼の油断を襲ったのではないかと、一時はギョッとしたが、頸を圧えているものは、何かしら非人間的な、機械的な物体であることが感じられた。
彼は申す
頸の痛みは刻一刻増すばかりだ。その時、やっと、彼を苦しめている物体が何物であるかということが分った。彼は笑い出した。真底からおかし相に笑い出した。世の中にこんな滑稽なことがあるだろうか。彼の首を押えていたのは、大時計の針であった。
針といっても、長さ一間、
彼は頸に力を入れて、その針を押上げようとした。だが、大ゼンマイの力は、存外強かった。針はビクとも動かぬ。力を入れれば入れる程、頸の肉がちぎれる様に痛むばかりだ。
吹き出し度い程馬鹿馬鹿しい出来事だった。しかし、哀れな人間の力には、この巨大なる機械力を、どう喰い止めるすべもないのだ。
余りの
彼は叫び出した。三十歳の洋行帰りの紳士が、時計の針にはさまれて悲鳴を上げた。だが、叫んでも叫んでも、誰も救いに来るものはなかった。彼が時計塔へ昇ったことは誰も知らぬ。仮令この大空の悲鳴が階下の人々に聞えたとしても、まさか、そんな所に苦しんでいる人間があろうとは、想像もしないであろう。
遙か地上を眺めても、その辺に、人影はない。見張りの刑事達のいる表門裏門は、屋根が邪魔になってここからは見えぬ。塀の外は二三丁の間人家もない丘陵だ。
耳をすますと、怪しい笛の音は、いつかバッタリやんでいた。あの笛は彼を穴から覗かせるトリックに過ぎなかったのだ。賊はこうなることを、ちゃんと見極めていたのだ。そして、目的を果して、いずれかへ立去ってしまったのだ。
アア、時計の針の断頭台。何という奇怪な、魔術師といわれる悪魔にふさわしい思いつきであったろう。鋼鉄製の剣には、心がないのだ。
叫び続ける一郎の顔は、
ミリミリと頸骨が鳴った。圧迫された気道は已に呼吸困難を訴え始めた。最早や叫ぶ力も失った。断末魔は数秒の後に迫っている。
その最後の土壇場で、彼の飛び出した目が、すぐ下に貼りつけてある紙片の文字を読んだ。そこには
午後一時二十一分
アア、何という皮肉。賊は犠牲者が命を終る正確な時間を、そこに記して置いたのだ。何故といって、時計の長針が、覗き穴の上を通過するのが、丁度二十一分に当るのだから。
お話変って、丁度その時階下の一室に集っていた人々は、どこからか響いて来る微かな悲鳴を聞いた。彼等は思わず顔を見合わせて、聞耳を立てた。確かに人の泣き声だ。しかも、その声の調子にどこやら聞覚えがある。
「ア、兄さんがいない。兄さんはどこへ行ったのです」
一座を見廻していた二郎が叫んだ。誰も答える者はない。皆真青な顔をして黙り込んでいる。
「僕、探して来ましょう」
二郎は立上って、廊下へ出た。廊下の
見ると、歯車の間に
「オイ、音吉じゃないか。そこで何をしている」
二郎の怒鳴り声に、相手はハッとした様に振返った。音吉爺やだ。
「オイ、音吉、お前そこで何をしているのだ」
二郎がつめ寄ると、音吉爺やは意外にも、
「どうしたんだ。誰が兄さんをこんな目に……」
二郎は愕然として倒れた兄にかけ寄った。
一郎は首のまわりに真赤な輪を巻いた様な、むごたらしい傷を受けていたが、
それによると、一郎を救ったのは音吉爺やであった。彼は二郎と同じく悲鳴を聞きつけて、塔に昇り、きわどい所で、大時計の機械を止め、時針を逆行させて、危く一郎の命をとりとめることが出来たのだ。
と聞いて見ると、兄の助かったのは嬉しいけれど、二郎は妙にがっかりしないではいられなかった。音吉爺やはただの
では、なぜ彼は、そのままにして置けば死んでしまったに違いない一郎を助けたのか。それは従来の犯人のやり口から想像するに、玉村一家の悲嘆と恐怖とを出来る丈け長びかせ深める為の一手段であったかも知れない。つまり一
と云って、何の確証もないのに、事を荒だてては却って不利である。よしよし、これからは、探偵になった積りで、一つあいつの一挙一動を厳重に見張っていてやろう。確かな紹介者があって雇ったのではあるけれど、もっとよく身元も検べて見なければなるまい。そして、何かしら、のっぴきならぬ確証を掴まないで置くものか。と、二郎は
一郎は首のまわりの妙な傷痕を別にすると、二三日ですっかり元気を恢復したが、妙子の方はそうは行かぬ。まだ外科病院で高熱に悩まされているのだ。
ある日、妙子の友達の花園洋子が、彼女の病床を見舞った帰りがけに、玉村邸に立寄った。というのは、妙子の見舞は謂わば口実であって、事件の為に
二人は人を避け、庭の木影の捨て石に肩を並べ、ホカホカと暖い陽をあびて、話をした。だが、今日は、いつもの様に甘い話ばかりではなかった。
「何だって? 僕が毎日手紙を上げたって? そんな筈はないよ。兄きや妹のことで、手紙どころではなかったのだからね」
洋子が変なことを云ったので、二郎はびっくりして聞返した。
「でも、ちゃんとあなたの名前でお手紙が来ているのですもの」
「じゃ、どんなことが書いてあった? 僕は全く覚えがないんだ」
「それが分らないの。二郎さん、しらばくれているんでしょ。暗号の手紙なんか書いて置いて」
「暗号?」二郎は何かしらハッとした。「暗号って、どんな?」
「まだ、あんなこと云っていらっしゃるわ。文句もなんにもなくて、ただ数字が書いてある切りなんですもの。暗号じゃなくって」
「エ、エ、数字だって? 数字だって?」
「エエ、五から始まって、一日に一つずつ減って行くの、四、三、二、一、という具合に」
二郎はそれを聞くと、真青になって、思わず立上った。
「洋ちゃん、それ本当かい。オイ、大変だぜ。その手紙は、福田の叔父さんを殺した、あの賊が書いたのだ。兄貴も妹も、同じ手でやられたのだ」
「マア!」と云った切り洋子は真青になった。
「で、『一』という手紙はいつ受取ったの。若しや……」
「エエ昨日ですわ。そしてね、『一』と大きく書いた下に、急にお話したいことあり、明日必ず
「おどかすもんか。それは
「
「あいつさ。七尺以上の大男で、
と云いさして、二郎はふと黙ってしまった。彼の顔に見る見る恐怖の表情が浮んだ。目は木立を通して、五六間の向うを凝視している。
洋子もびっくりして、二郎の視線をたどると、木立越しに、ゆっくりと歩いて行く、一人の人物を発見した。
「あれ誰?」
「シッ」
二郎は手真似で制して、その人物が彼方に去って行くのを待った。そして、その影が見えなくなると、やっと安心して、洋子の問いに答えた。
「近頃雇入れた、庭掃除の爺やで音吉というのだ」
「あの人、さっき門の所で
「あいつ、僕達の話を立聞きしていたのかも知れない」
「でも、あの人に聞かれては、いけませんの?」
「イヤ、そういう訳でもないが」
と、二郎は曖昧に言葉をにごしてしまったが、犯人の魔手が、玉村一家を呪う余り、その一員である彼の恋人にまで及んで来たかと思うと、怪物の心理の、底知れぬあくどさに、奥歯がギリギリ鳴って来るのをどうすることも出来なかった。
彼は父善太郎氏を始め、まだ邸内に警戒を続けていてくれた警察の人々に、この
ところが、その相談を済ませて、父の書斎からホールへ出て見ると、ついさっきまでそこにいた洋子の姿が消えていた。彼女と話していた兄の一郎丈けが、一人ぼんやり
「洋子さんは?」
「君の部屋へ行ったんじゃないかい」
「僕の部屋へ?」
二郎はもう唇の色をなくして、自分の書斎へ飛んで行った。誰もいない。廊下へ出て、「花園サーン」と呼んで見たが、答えはなくて、何事が起ったのかと、召使達が集って来るばかりだ。
二郎は気違いの様に、門へ走って行って、そこに立番をしていた書生を捉えた。
「花園さんが、ここから出て行くのを見なかったか」
と尋ねると、半時間程誰も通らぬとの答えだ。
そこで、召使や刑事達と手分けして、邸内隈なく探し廻ったが、恋人は蒸発してしまった様に、どこにもその姿を見せなかった。
一日二日とたつに従って、花園洋子の誘拐は確実となった。東京の女流音楽家、郊外の実家、その他心当りは漏れなく問合わせて見たが、洋子はどこにもいないことが分った。
二郎は音吉爺やの身辺を抜かりなく監視していたけれど、これといって、変なそぶりも見えぬ。
時々三十分か一時間程外出することはあるが、それは皆行先の分っているお使いばかりだ。
新聞記者は警視庁と競争の形で、花園洋子行衛捜索に走り廻った。各新聞の社会面は、玉村家怪事件で埋められ、その外のあらゆる記事は、おしげもなく編輯者の
事件全体が、どうも正気の
事実、彼は少々気が変になっていたのかも知れない。誰にしたって、恋人が水の様に蒸発してしまったら、この世が全く別のものに見えて来るのは当り前だ。
彼はもう余り考えなかった。ただ歩き廻った。邸の庭と云わず、邸の附近の町と云わず、ただ当てどもなく歩き廻った。心の
その日も、二郎は何の当てもなく、大森の町を歩き廻ったのだが、ふと気がつくと、今まで一度も通ったことのない、まるで異国の様な感じの町筋に出ていた。すぐ目の前に、田舎びた、古めかしい一軒の芝居小屋が建っている。ハタハタと冬空にはためく十数本の
「アア手品だな」
と空ろな頭で考えて、小屋の
虫が知らせたのであろうか、彼はその小屋へ、フラフラと這入って見る気になった。まだ夕方で、演芸も大物はやっていなかったけれど、それでも、久しく忘れていた少年時代の好奇心が蘇って、小奇術の一つ一つが、ひどく彼の興味をそそった。そうして、他愛もなく手品などに見入っていることが、この頃の彼にとっては、
番数が進んで、日が暮れる頃から、段々大奇術に這入って行った。座長の手品師は、いつも鈴のついた
水中美人、骸骨踊り、笑う生首、と演芸は
二郎は何も知らなかったけれど、若し読者諸君が、この手品の見物の中に混っていたならば、舞台の上の一人物を見て、アッと叫声を発する程も、驚き恐れたに相違ない。
何と云う大胆不敵。若し文代の顔を見覚えているものがあったらどうするのだ。併し、考えて見ると、文代が怪賊の娘だと知っている人は、明智小五郎の外には、この世に一人もいないのだ。その明智小五郎は死んでしまった。そこで一見無謀に見える賊の手品興行も、実は安全至極な一種の
そうとも知らぬ二郎の前に、
背景は一面の
「ここに演じまするは、当興行第一の呼び物、
説明者が引込むと、二郎には分らぬけれど、賊の娘の文代が、洋服
云うまでもなく、この三人がかりで、娘の姿を隠す様にして、着物をぬがせるのが、トリックで、その間に、椅子がクルリと廻転して、娘に似せた
そうとは知りながらも、現われ
二郎は、両眼がボーッとして来る程も、裸体人形を見つめていた。見つめている内に、ムラムラと恐ろしい想像が湧上って来る。若しや、あれは本当の人間ではないかしら、あの笑いの面みたいな顔をした不気味な道化師は、何喰わぬ顔で、毎日毎日、一人ずつ生きた娘を殺しているのではあるまいか。
そればかりではない。あの人形の身体は、腿の線、乳のふくらみ、頸から顎へかけての特徴がどうも今見るのが初めてではない。どっかで見た様な、と思うと、その人形が、
「アア、俺はまだ悪夢の続きを見ているのかしら」
二郎はともすれば、そんな気持になる。そして、一寸気を許すと、
さて、愈々美人解体が始まった。笑の面の道化師は、滑稽な程物々しい大ダンビラを、真向にふりかぶって、ヤッとかけ声
人形がうめく筈はない。きっと黒幕のうしろで誰かが声丈け真似ているのだとは思いながら、二郎は、そのうめき声を聞くと、ハッと飛び上る程、驚かないではいられなかった。アア、やっと分った。あの身体、あの声、何から何まで、裸体人形は、花園洋子に生き写しなのだ。
已に両足を切落したダンビラが、右腕に及ぼうとした時、二郎は我を忘れて、座席を立上ると、いきなり花道へ飛上り相にしたが、ハッと気がついて、やっとのことで
だが、この余りにも残虐なる魔術を見て、気が変になったのは二郎丈けではなかった。見物の婦人の多くは、悲鳴を上げて顔に手を当てた。中には脳貧血を起しそうになって、席を立った者もある。
舞台では、美人解体作業がグングン進んで、両手両足の切断を終り、次には、重いダンビラが横ざまにひらめいたかと見ると、チョン切られた美人の首が、
椅子の上に取り残された、首も手足もなんにもない胴体は、不気味なドラッグの蝋人形の様に、チョコンと坐っていた。
二郎はそのむごたらしい有様を見て、花園洋子その人が、その様な目に合ったと同じ恐れと悲しみに、唇の色を失って、ワナワナと震えていた。そんな馬鹿馬鹿しいことがある筈はないと、我と我が心を叱りながらも、胸の底からこみ上げて来る一種異様の戦慄をどうすることも出来なかったのだ。
手品師も、見物を余りに恐怖せしめることを
突如として起る、
そして、最後に、ヒョイと首がのっかったかと思うと、その首がいきなりニコニコ笑い出す。道化師が繩をとき、猿轡をはずしてやると、美人は立上りさま、しっかりした足どりで、舞台の前方に進み出で、自分で目隠しをとって、
二郎は、この美人組立てのトリックも知っていた。いつの間にか椅子が廻転して、本物の娘が、首手足を背景と同じ黒天鵞絨で隠し、胴体ばかりに見せかけて腰かけている。手品師は、バラバラの手足を投げると見せて、自分のうしろの背景の隙間に隠す、その刹那、娘の手足を覆った黒布が一つ一つ落ちて、丁度手足が生えて行く様に見えるのだ。
二郎が驚き恐れたのは、そんなトリックなどではなかった。さっき大ダンビラで切断された人形も、今立上って挨拶している娘と同じ様に生きてはいなかったか。吹き出したのは、赤インキではなくて、本当の血潮であり、あのうめき声は、真実断末魔のむごたらしい
二郎は、寒い気候にも拘らず、身体中にネットリ汗をかいて、已に
「アア、きっと、あの娘が、殺されたもう一人の娘の、バラバラの死体を見たのだ。そして、恐怖の余り叫び出そうとしたのを、誰かが口に手を当てて、黙らせてしまったのだ」
と、彼のいまわしい幻想は、どこまでも拡がって行くのである。
まだあとに幾幕か残っていたけれど、彼はもう、じっと手品を見ている気がしなかった。フラフラと立上って、無神経に笑い興じている見物達の間を通って、木戸口を出た。
小屋の外には、美しい星空の下に、真黒な家々が、シーンと押し黙って並んでいた。人通りも殆どなく、墓場の様に
彼は邸へ帰る為に、五六歩あるきかけて、ふと立止った。何となく、この罪悪をとじこめた様な芝居小屋を、離れ去るにしのびない感じである。
彼はそこへ行って、何をするという確かな考えもなく、夢中遊行の様な足どりで、小屋の楽屋口へと歩いて行った。
角を曲って、建物の背面に出ると、そこに半間程の小さな出入口が、ポッカリ口を開いていた。薄暗い電燈が、ボンヤリと、地面を長方形に区切っている。その中に、異様な大入道みたいなものが映っているのは、入口を這入った所に、誰かが佇んでいるのであろう。
二郎はまるで泥棒みたいに、足音を盗んで、オズオズとそこへ近づいて行った。そして、出入口の板戸に手をかけ、ソーッと頭丈け突き出して、中を覗いて見た。
大劇場と違って、楽屋口の番人も何もいない。ガランとした、薄汚い廊下がある切りだ。その出入口の彼のすぐ目の前に、何をしているのか、一人の男が向うを向いたまま、人形ででもある様に、身動もせず突立っている。
その時、二郎が手をかけていた板戸が、身体の重みで、カタンと鳴った。ハッとうろたえて、覗いていた首を引込めようとした瞬間、物音に驚いた目の前の男が、ヒョイとこちらを振向いた。
顔と顔とがぶつかった。
二郎は一目その顔を見ると、まるでお化けにでも出会った様に、「ワッ」と、
楽屋口に佇んでいた男というのは、意外千万にも、或は当然至極にも、彼が数日来疑い恐れていた、あの庭掃除の音吉爺やであったのだ。
駈け足が、急ぎ足となり、やがて
木立ちを通して、向うの方にチラチラと人家の明りは見えているけれど、闇夜のせいか、或は立並ぶ年を経た樹木のせいか、深山へでも迷い込んだ様な気持である。大森の山の手には、こんな森とも林ともつかぬ空地が所々にあって、昼間なれば何でもないのだが、闇夜ではあり、さい前からの変な気持の続きで、やっぱりそれも、悪夢の中の物凄い場面の様に思いなされるのであった。
二郎には、それが、行っても行っても尽きぬ、怪談の森の様に感じられた。いや、彼は、もっと怖いことさえ考えていた。というのは、子供の時分よく聞かされた、お化けの話の中に、一人の子供が、真暗な町角で、
「きっと、きっと、あいつが、この林のどこかに隠れていて、今にも、バアと云って飛び出して来るに違いない」
彼は夢の中の心理状態で、それを
「今にも、今にも」
と、念仏みたいに、頭の中で繰り返しながら歩いていると、果して、行手の木蔭にうずくまっている、妙な人影を発見した。「ソラどうだ。あれが音吉に極っている」と闇をすかして、見れば見る程、やっぱり、それが音吉爺やのうしろ姿に相違ないことが分って来た。
ギャッと叫び相になるのを、やっとこらえて、消えて行く思考力を、一生懸命呼び戻しながら、自分も木蔭に身を隠して、じっと様子を見ていると、音吉の方でも、何か大木の向側にあるものを熱心に見守っている様子である。
何を見ているのかと、色々苦心をして、覗いて見るけれど、音吉の
暫くそうして我慢をしていると、突然、音吉の向うの闇の中に、もう一つ、蠢く黒影を発見した。ハッと思う間に、その黒い影がこちらへ歩いて来る。
次の瞬間、恐ろしいうめき声と共に、二つの黒影が闇の中にもつれ合った。音吉がその男に飛びついて行ったのだ。
二人は地上をコロコロ転がりながら、掴み合っている。相手も弱くはなかったが、老人の癖に音吉の腕力は恐ろしい程であった。
見る間に、男は音吉の為に組みしかれて、悲鳴を上げた。
事情は分らぬけれど、音吉を助ける筋はない。それに、相手の男は、今にも絞め殺され相な悲鳴を上げているのだ。
「コン畜生」
と叫びさま、二郎は音吉目がけて組みついて行った。
三つの黒影が、木の根にぶつかりながら、
だが、いくら強いといっても、一人と二人では勝負にならぬ。組みしかれていた男が、はね起きた。余る力で音吉を突き飛ばして置いて、サッと飛びのくと、いきなり闇の中へ逃げ去ってしまった。
取残された二郎こそ、迷惑である。彼は、まさか主人がこんな所へ来ているとは知らぬ音吉の為に、散々な目に合わされた末、先の男に代って、同じ様に組みしかれてしまった。
「貴様は何者だ」
老人とも思われぬ強い声が尋ねた。
「手を離せ。俺は君の主人の玉村二郎だ」
「エッ、あなた、二郎さんですか」
音吉は、さも驚いたらしく、押えていた手を離して立上った。
「どうして、こんな所へお出でなすったのです」
「君こそ、どうしてここにいるのだ。今の男をどうする積りだったのだ」
二郎は逃がすものかと、音吉の胸ぐらを掴みながら、
「イヤ、何でもないのです」音吉はしらばくれて、「あなたの御存じのことではありません。サア、その手を離して下さいませ」
「離すものか」
「では、この爺をどうしようとおっしゃるのです」
「分り切っているじゃないか。警察へ引渡すのさ」
「警察ですって。……、あなた、なにか思い違いをしていらっしゃる」
「思い違いなもんか。俺はすっかり知っているぞ。貴様が犯人だ。福田の叔父さんを殺したのも、妙子や兄さんを傷つけたのも、洋子さんを誘拐したのも、みんな貴様の仕業だ。俺はそれをちゃんと知っているのだ」
「それが思い違いです。わたしは、あなたが疑っていらっしゃることは、薄々感づいていました。併し、こんな思いがけない邪魔をなさろうとは、まさか知らなかったです」
「邪魔だって。僕が何の邪魔をした。今の男を殺そうとする邪魔をしたとでもいうのか」
「アア、もう今から追駈けた所で間に合わぬ。奴等はどっかへ姿を隠してしまったに極っている。チェッ、飛んでもないことが起ったものだ」音吉は残念そうに舌打ちをしたが、ふと気を変えて、「それじゃ、あなたの疑いをはらす為に、御目にかけるものがありますから、こちらへ来てごらんなさい。わたしも、それを確めて見なければならないのですから」
二郎は、そんなことを云うのが、相手のトリックかも知れぬと考えたので、油断なく音吉の
「あなたマッチをお持ちでしたら、一寸すって見て下さいませんか」
音吉が云うので、二郎は、袂を離さず、あいている方の手で、ポケットから、ライターを取り出しカチッとそれを点火した。
音吉はゆらめく
「アア、ここだ」
と呟いて、地面の一箇所を指さした。
見ると、三尺四方ばかり、今掘返した様に、土の色が変って、そのそばに、一挺の
音吉は鍬を拾うと、いきなりその地面を掘り出した。
音吉が何か見せるものがあるというのは、嘘ではないらしい。二郎は、いくらか安心して、その時まで掴んでいた挟を離し、相手の土掘り仕事を助ける為に、ライターを地面に近づけてやった。
「そこに何があるのだ」
「はっきりしたことは分りません。併し、わたしの想像では……」
音吉は鍬を動かしながら答える。
「君の想像では?」
「非常に恐ろしいものです」
と云った切り、彼は、ムッツリ黙り込んで、土掘りに余念がない。
やがて、掘返された土の中に、麻の袋の様なものが見えて来た。
その時、二郎の頭に突如として、ある恐ろしい考えが
「サア、手伝って下さい」
音吉が云うままに、二郎はその袋に手をかけた。二人がかりでやっと持上る程の、重い袋だ。
「音吉、これは一体何だ、この袋の中に這入っているのは」
二郎は震え声で尋ねた。
「多分、わたしの想像していたものです。併し、あなた、この中を見る勇気がおありですか」
二郎は袋を放り出して、いきなり逃げ出し
「もう一度、明りをつけて下さい」
二郎が又ライターに点火すると、その淡い光の中で、音吉は袋の口を解いた。そして、底の方を持って、一振り振ると、袋の口から地面へ、ゴロゴロと転がり出したものは、……
大方それと察していた二郎も音吉も、実際その切り離された人間の腕や足を見た時には、思わずアッと叫んで、飛びのいた。
「人形ではなかった。やっぱり、生きた人間だった」
二郎が上ずった声で云った。
「そうです。あれは人形ではなかったのです」
音吉は、彼もやっぱり、さっきの美人解体術を見ていたかの様に、
「で、一体、これは誰の死骸なのだ」
「それを確めなければならないのです」
二郎と音吉とは、じっとお互の目を睨み合った。二人共、調べて見るまでもなく、死骸の主を知っているのだ。
音吉は、袋の底から、死骸の首を探り出して、二郎のライターに近づけた。まだ目隠しをされたままだ。音吉は片手でそれを解いた。ハラリと落ちる布のうしろから、現われたのは、アア、果して、果して、行衛不明となっていた、二郎の恋人、花園洋子の、変り果てた
「気違い! 気違い!」それを一目見るや、二郎自身気が違いでもした様にどなり出した。「気違いでなくて、あんな馬鹿馬鹿しいことをする奴があるものか。何の必要があって、千人の見物の前で、こんなむごたらしい目に合わせたのだ。気違いでなければ人殺しを見世物か何ぞの様に心得ている、極悪人だ」
「復讐ですよ」音吉が低い声で云った。「ホラ、忘れましたかね、隅田川の獄門舟を。あれと同じ思いつきです。犠牲者を、出来る限りむごたらしく、出来る限り多人数の前で、お仕置きするのが、犯人の目的なのですよ」
二郎は、音吉の静かな声におびえて、クラクラと眩暈を感じた。
「で、つまり、こうして、一度埋めた洋子さんの死骸を、僕の目の前で、
二郎は最後の意力を
「と、おっしゃるのは?」
「やっぱり、貴様が犯人だと云うのだ。でなくて、庭掃除の爺やが、何の為に今時分、こんな所へ来ているのだ。殺人事件の度毎に、いつも現場附近をうろついていたのは、どうした訳だ。それから、それから、パチンコで妙子を狙ったり、玄関の戸の暗号通信を拭きとると見せかけて、僕の注意を惹いたのは一体誰だったのか」
一寸の間、妙な沈黙が続いた。音吉が何かを決し兼ねている様子だ。が、暫くすると、突然、全く聞き覚えのない声が、音吉の口から響いて来た。
「アア、君はまだ疑っているのですね。どうも
音吉は、二郎のライター持つ手を、グッと引寄せて、自分の顔を照らして見せた。
そこには、一度も見たことのない、荒々しい一人の男が立っていた。かがんでいた腰がシャンと延びた。うなだれていた首が、まっすぐになった。
「まだ分りませんか」
云いながら、音吉は、白髪まじりの
二郎はあっけにとられて、まじまじと相手の顔を見つめていたが、ハッとある
彼はある人物の写真を思い出したのだ。その写真と、今目の前に立ちはだかっている人物とが全く同じに見えることが、彼を極度に怖がらせたのだ。
「アア、あなたは
二郎はまるで幽霊にでも出会った様な恐怖の表情で、あとへあとへと
「分りましたか」
二郎は躊躇した。その名前を口にするのが、何となく恐ろしかったのだ。併し、彼はとうとう云った。
「明智小五郎……」
「そうです」
音吉爺やの明智小五郎が答えた。
「併し、私は信じることが出来ません。あなたはとっくに死んでしまった人です」
「現にこうして生きているではありませんか」
「でも、あの新聞記事は? 月島海岸にうち上げられたあなたの死体は? 波越さんのお宅での告別式は? そして、あの立派な葬式は?」
「みんな賊を
アア、それで一切が明瞭になった。犯罪が起る度毎に、音吉爺やが現場にウロウロしていたのは、彼が犯人でなくて探偵であったからだ。妙子が危く命をとりとめたのも、一郎が時計の針の断頭台から救われたのも、凡て明智小五郎の素早い行動のお蔭であった。彼がパチンコで妙子を狙ったことについては、後に分った所によると、あの時妙子は、知らずして毒薬の入った紅茶を飲もうとしていた。どこに賊が潜んでいるかも知れぬ。大声を出しては不得策だ。そこで、咄嗟の機転で、彼は丁度手にしていたパチンコを使い、コップを割って、飲むことが出来ない様にしてしまったのだ。
「分りました。僕は飛んだおさまたげをしてしまった。そうと分れば、こうしてはいられません。すぐ芝居小屋へ駈けつけましょう。警察へ知らせましょう」
二郎は今度は、落ちつき払っている明智の態度に、イライラし始めた。
「イヤ、それはよしましょう。あなたはお宅へ御帰りなさい。僕もすっかりやり直しだ」
明智は妙なことを云う。
「どうしてですか」
「僕はそんな普通の警察官のやり方を好まないのです。手遅れと分っている賊を今更追駈けて見た所で何の甲斐がありましょう。あの
「では、さしずめ採るべき手段は?」
「家へ帰ることです。そして寝てしまうのです。ただ明智が生きていたなんて、家族の方にも決して云っちゃいけませんよ。それが最も大切な点です。あとは何もやきもきなさることはありません。僕に任せて置いて下さい。もう音吉爺さんの変装も駄目になってしまったから、僕は全く別の第二の手段に……」
突然明智の言葉が途切れた。ライターの淡い光に、彼の表情が見る見る緊張し、云い知れぬ喜びに輝いて行くのが見えた。彼の長い身体が、目に見えぬ早さで折れ曲り、踊り上ったかと思うと、四五間うしろの暗闇で、「アッ」という叫び声がした。さい前の賊がノコノコ立戻って、二人の様子を窺っていた。明智の投げた
「
明智が叫んで駈け出した。
「馬鹿な奴だ。……あいつが今迄森の中にいたとすれば……まだ望みを失うのは早い。……うまくすると、賊の首領は芝居小屋にいるぞ」
走りながら、明智が
賊の首領は洋子の死体が発見されたことをまだ知らないのだ。とすると、大胆不敵の彼のことだ。平気で奇術を演じ続けているかも知れない。
恋人の
踏みつけて、叩きつぶして、眼の玉をくり抜き、歯を一本一本引抜いてもあきたらぬ、気違いの様な烈しい憎悪だ。
競馬馬の様に首を延ばし、身体を四十五度に倒して、走り走る。夜更けの田舎町、誰一人とがめる者もない。
五間の隔りが四間となり三間二間と縮まって行った。だが敵も去るもの、僅かの所で仲々捕まらぬ。一度は明智の右手が、賊の肩に触れさえしたが、残念残念、もう決勝点まで来てしまった。
その芝居小屋は、木戸口は往来に面し、楽屋口はその横手の
賊がこの小屋へ来た所を見ると、首領はまだ場内にいるのだ。忠実な部下は首領に急を告げる為に、楽屋へ飛込んだものに相違ない。
「二郎君、君はここで見張っていてくれ給え。楽屋口は袋小路だ。逃げ道はこの所しかない。奇術師らしい奴が出て来たら、容赦なく捕えるんだ。それから、木戸番に命じて警察へ電話をかけさせて呉れ給え」
明智は二郎を残して置いて、楽屋口へ走った。
楽屋に踏み込んで、座員の部屋を片っぱしから覗き廻ったが、何というす早さ、どこへ逃げたのか人影もない。
背景を廻って舞台へ出ると已に緞帳は
「オイ、俺は警察のものだ。見物席の方へ逃げた奴はないか」
明智はまだ緞帳の綱を結んでいた道具
「ヘイ、一人も。みんな楽屋の方へ逃げました」
その男が奇術師一行と関係のないことは、一見して分った。道具方の一同はその小屋に附属しているのだ。
舞台には奇術に使用する、黒天鵞絨張りの大きな箱が据えられ、その下の床板には夥しい血液の跡。これ程の血のりを、仕掛けの赤インキと信じていたにもせよ、見物も道具方も、何の疑う所もなかったのは、賊の所業が人間の想像力の
明智は念の為に、そこにある天鵞絨張りの奇術道具の箱を開いて見たが、中は空っぽだ。まさかそんな所へ隠れる筈はない。
彼は道具方を案内役にして舞台裏に引返した。大道具の立並んだ間を通り過ぎて、
「あっちへ逃げましたぜ。ホラ、あの手品の道具の積んである所です」
広い舞台裏の一隅に、旧劇用の
「奈落へ逃げた奴はないか」
「ありません。あっしはずっとここにいたんだから、見落す
明智は道具方に教えられた薄暗い隅へ突き進んだ。道具方二人も、あとに続く。威勢のいい彼等には、泥棒を追駈けるなんて、こんな面白い遊戯はないのだ。
明智は道具類の作る迷路に踏み込んで行った。美人
「刑事さん、いますよ、いますよ」
道具方の一人が、側へ寄って来て、ソッと囁く。明智は刑事にされてしまった。
「どこに?」
「ホラ、あの箱の中でさあ」道具方は横に長い
三人はその箱を囲んで立った。蓋に手をかけたのは明智だ。中の奴はコトリとも音を立てず、息を殺して静まり返っている。開けたら飛びかかってやろうと、身構えをしているのかも知れない。そいつの手には恐ろしい兇器が握られているかも知れない。
息づまる瞬間。
パッと蓋がはねのけられた。三人は思わず身構えをした。だが、中から飛びかかって来るものはなかった。覗いて見ると、暗い箱の中に、横たわる人影、白い肌。きらびやかな飾り衣裳。女だ。
「ハハハハハハ、笑わせやがら」
道具方の別の一人が、いきなり手を突込んで、その女を掴み上げた。見ると、手は手、足は足とバラバラの女人形に衣裳が
「人形ですぜ。ホラ、あの『美人解体術』の種になる奴でさあ」
なおも奥へ進んで行くと、背景の大道具が重なり合っている、建具屋の倉庫みたいな場所へ出た。一層薄暗く、一層陰影に富み、
三人は背景と背景との作る
明智の鋭い直覚が人の気配を感じた。彼は手を伸ばして頭の上にぶら下っている二本の棒を掴んだ。足だ。背景の上部に平蜘蛛の様にへばりついていた逃亡者の一人だ。
力をこめて引っぱると、バリバリと背景の布の破れる音。併し、曲者は声も立てずに、床上に降り立った。
明るい場所へ引出して姿を見れば、道化服の首領ではない。古めかしいタキシードを着込んだ奇術助手だ。
「座長はどこにいる」
明智が男の腕をねじ曲げて尋ねる。非常手段だ。男は存外あっけなく閉口してしまって、どもりながら答えた。
「あすこ、あすこ」
指さす方を見ると、背景で出来たトンネルの向側に、ボンヤリと見える、道化姿。
三人は男を捨てて、その方へ忍び寄る。先に立つのは若い道具方だ。
向うの道化服はいつまでも同じ場所に立っている。妙なことには、何の為か両手を
「オイ、待った」
明智がやっと気附いて叫んだ時には、もう先頭の道具方が相手に飛びかかっていた。そして、ひどく額を打って跳ね返されていた。
それは奇術に使う大鏡だった。どこかにいる道化服の怪物が、斜めになった鏡に写っていたのが、あたりが薄暗い為本物と間違ったのだ。
本物はどこにいるのだ。
二人の道具方が明智の視線を追って見上げると、意外にも、曲者は舞台上の天井に張り渡した針金の上を、両手で調子を取りながら、渡っている。道化者の滑稽な綱渡りだ。
何という奇抜な隠れ場所。若し鏡の助けがなかったら、一寸急には発見出来なかったかも知れない。
舞台下手の出入口に近く、天井に達する直立の
追手に驚いた道化者は、針金を渡り尽し、屋根裏の横木を伝って、見物席の天井の上へ逃込んだ。三人も遅れず同じ穴から這い込む。
屋根裏の
曲者の白いダブダブの道化服が白い光の糸を、チラチラと通り過ぎる。
古い天井には所々、足を踏み抜く程の大きな穴があいている。天井裏を這う間に、そんな穴に出くわすと、遙か下方の見物席の全景が、手に取る様に眺められる。そこにはもう、一人も見物人はいない。不意の
やがて曲者は、表側の屋根裏の隅っこへ追いつめられた。相手は三人、身をかわして逃げ出す見込みはない。絶体絶命だ。
彼は三角に狭まった隅っこに身をかがめて、じっと動かなかった。猫に追いつめられた鼠が、反対に猫に飛びかかろうとする時の、あの物凄い姿勢だ。下から洩れて来る光の糸が、その部分部分を
追手が三方からジリジリと獲物目がけて這い寄って行く。
突然曲者の右手にキラッと光ったものがある。ア、短刀だ。愈々鼠は猫に刃向って来る
道具方二人は逃げ腰になった。明智も足場を定めて、防戦の身構えをした。そして、なおもジリジリと敵に近づいて行く。
と、途方もない不思議なことが始まった。賊は短刀の刃先を追手に向ける代りに、我と我が喉に当てて、今にも自殺し相な様子を示す。驚いて一歩退くと、短刀の手を卸すが、又近づくと、その切先が
アア、何ということだ。賊は近づくと自殺するぞとおどかしているのだ。しかも本当に喉笛を掻切る勇気もないのだ。これがあの世間を騒がせている大胆不敵の怪賊の
そこまで考えた時、明智の胸にある恐ろしい疑いが閃いた。彼はゾッとした。「しまった」と思うと、流石の名探偵も、胸から背中から、冷たい油汗がにじみ出すのを感じた。
いや、そんな筈はない。一座の内で道化服を着ていたのは、座長の怪人丈けだ。小人数の一座に同じ風体の道化師が二人も居る筈はない。その証拠には道具方も「あれが座長だ」と云って疑う様子もなく追撃を始めたではないか。
「オイ、君は座長ではないのか」
尋ねて見ても、相手は恐怖の為に即座に返事も出来ない様子だ。
「君は一体誰だ。座長でない者が、どうしてそんな服装をしているのだ」
「座長ではありません」やっと相手が震え声で答えた。「軽業師の
それを聞くと明智は相手の兇器を無視して、飛びかかって行ったかと思うと、
明智は若者を虫けらの様に突き離して置いて、元来た梯子の方へ引返し、おそまきながらもう一度舞台裏を検べて見ようとした。
だが、入口の穴まで来て、下を見卸すと、梯子の昇り口に群がりよる一団の人々。警官、座方の者、弥次馬、それに玉村二郎まで、全員こぞって、屋根裏目ざして
「二郎君、木戸口の見張りはどうしたんだ」
明智は烈しい口調で尋ねた。
「木戸口の見張ですって、そんなことどうだっていいじゃありませんか。手下の奴等が逃げてしまっても、首領さえ捕えれば」
二郎は
直ちに場内から表の往来まで隈なく捜索したが、已に手遅れ、首領の怪物も、部下の連中も、娘の文代まで、行衛知れずになっていた。
道化服の若者を取調べて見ると、彼は近頃元の親方の所から、多分の金を持逃げして、怪賊の一座にかくまわれていた者で、さっき「美人解体術」が終って間もなく、座長が「木戸口にデカらしい奴が来ているから、万一の用意に、お前は俺の道化服を着て白粉を塗って、姿を変えているがよかろう」と注意してくれたので、その通りにしていると、今の捕物騒ぎだ。
無論これは、例の怪物の、
明智の立場は苦しかった。非常な苦労をして死を装い、
彼は
だが、あの時、彼は五官以外の感覚で、それを予期していた。少しも絶望を感じなかった。今夜も同じ不思議な感覚がある。心の隅を名状し難い微妙な何者かが
定めもなくあたりを見廻わしていた明智の目が、ピッタリと、闇の地上に釘づけになった。長い長い間そこを見つめていた。やがて、彼の固い頬が徐々にくずれ、
「二郎君、君が恋人を失った気持が、今こそ分る様な気がします。アア、君は変な顔をしてますね。なぜだと云うのですか。それはね、僕にも非常に美しい恋人が出来たからですよ」
明智はこんな際にも拘らず、彼にも似ぬ感情的な調子で、妙なことを云い出した。無論二郎には何のことだか分らなかったが、あとになって考えて見ると、我が明智小五郎が生涯で初めて恋を感じたのは、その芝居小屋の木戸口に立って、暗い地面を見つめていた時であった。誰に対して? それは
「サア、これから賊を追っかけるのです。多分僕達は奴の巣窟をつきとめることが出来るでしょう」
明智が感情を振り払って叫んだ。二郎も警官達も、彼は気でも違ったのかと怪しまないではいられぬ。
「何を目当てに追跡するのです」
「マア、僕に任せて置いて下さい。十中八九諸君を失望させることはないと思います」
云いながら、彼はもう町を右へと歩き出した。さもさも確信のある様に。
有名な素人探偵の云うことだ。人々も彼に従って歩き始めた。二郎と警官四名、同勢六人だ。
町角へ来る度に、明智は何の
五六丁歩くと東海道線の踏切りだ。その辺から、夜更けながら、町筋が明るくなる。
「アア、分りました。明智さん。あなたはあれを目当てに歩いているのですね」
二郎が町の明りでそれを発見して叫んだ。人々が彼の指さす地上を見ると、行手にずっと続いている、粉の様に小さな五色の色紙、今までは道路が暗いのと、紙切れが余りに小さい為に、つい気附かなんだが、振返えると、うしろにも同じ様に、
「明智さん、一体誰がこんな目印を残して行ったのです。そして、これが賊の逃げた道だということが、どうして分るのです」
二郎が尋ねる。
「紙テープと同じ様に、手品に使う、紙を刻んだ五色の雪です。それをほんの少しずつ、地面へ落して行った。これをたどって来れば賊の住家に達するという目印です。幸い今夜は風がないので、散りもしないで残っていたのでしょう」
「併し変ですね。あの賊がそんな目印を
「賊ではありません。あいつの娘の文代という女です」
「賊だって、賊の娘だって、同じ訳です。そんな馬鹿なことが」
二郎は今度こそ、明智が発狂したのではないかと、本当に心配になり出した。
「イヤ、君が変に思うのは
明智は歩きながら、嘗つての怪汽船内での不思議な出来事を手短かに話して聞かせた。
今度の事件では、名探偵を絶体絶命の窮地から救うものは、いつも目ざす怪賊の実の娘なのだ。何という不思議な因縁であろう。
急ぐ程に、いつしか町を離れた淋しい海岸に出ていた。静かとは云っても、流石に頬を打つ潮風。寄せては返す波の音。もうその辺には目印の五色の雪も残っていない。
見ると行手の丘にポッツリ建っている一軒家。大森の町を出離れて森ヶ崎に近い場所ではあるが、妙な所に思いもかけず、妙な洋館があったものだ。孤独好きな人の別荘か、画家のアトリエか、古風な建て方のささやかな木造洋館だ。
近づいて様子を
警官は
「感づいたのでしょうか」
「我々とは知るまい。ただ、場合が場合だから用心しているのでしょう」
暗闇に立っていること
やや暫くたって、闇の中に、うっすりと、光の線が現われ、それが徐々に太くなって行く。誰かが入口のドアを細目にあけて、外を見ているのだ。家内の淡い光を背に受けて、クッキリと黒い影法師が浮き出し、ドアの隙間が拡がるにつれて、それが洋装の女であることが分って来た。
「どなた?」
何かを期待している様な低い声。確かに賊の娘の文代だ。
闇の中に
何と云う不思議な対面であろう。何という奇妙な
「早く、早く」
娘は乾いた舌で囁く。明智と二郎とは、娘に導かれて家に這入った。這入った所は、三坪程の小さなホールになっている。
「大丈夫ですか。僕達がつけて来たことを感づいてやしませんか」
「まだ大丈夫です。奥には二人しかいません。お父さんと、森の中であなたに見つかった男です。外の座員達は思い思いの方角へ逃げました。奥では今お酒を呑んでいます。早く捕えて下さい。今度こそお父さんを逃がさないで下さい」
文代は彼女の切ない思いを
「先ず第一にあたしを縛って下さい。あたしは極悪人の子です。一味の者です」
娘は明智に身体をすりつける様にして、強い調子で囁く。
「どうして? 君はもう我々の味方じゃないか」
「でも縛って下さい。そうでなければ、あたしは大きな声を立てます。親を売った娘は縛られるのが当り前です」
可哀相な文代は、もう泣き出し相な声だ。明智にも二郎にも、彼女の心持がよく分った。
丁度その時、奥の間を忍び出た賊の部下(洋子の死体を埋めた男)が、玄関の横手の小部屋に潜み、ドアの蔭からこの様子を
文代を縛り終った明智と二郎とは、外の警官を呼び込む前に、先ず敵の様子を探って置こうと、まるで泥棒みたいに足音を盗んで奥へ奥へと忍込んで行った。
鍵の手の廊下は真暗だ。両側の部屋にも
ドアの外までたどりついた明智は、鍵穴に目を当てて、室内を覗き込んだ。いるいる。服装が変り、顔の白粉は消えたけれども、テーブルに
だが変なことに、賊はただ盃を嘗めるばかりで、一向話をする様子がない。ただああして二人が睨み合っているのかしら。それとも、若しや、……
「こいつは油断がならぬぞ」と立ち直ろうとした時には、已に遅かった。グーッと背中を押して来る固いもの。
「手を上げろ」
押しつける様な声。いつの間に来たのか、賊の部下が、両手にピストルを持って、その筒口を明智と二郎の背中に当てがっていた。
不意をつかれた両人は、ただ命ぜられるままに手を上げる外には、何を考える暇もなかった。
「もう出て来てもよござんす。二人の奴は
男が呼ぶと、ドアが開いて怪物が姿を現わす。悪魔と名探偵の二度目の対面。だが両人とも特別の感情を示すでもなく、平気な顔を見合わせた。
「これはよく御訪問下すった。実は、こういうこともあろうかと、心待ちにしていた訳ですよ」
賊はニヤニヤと不気味に笑いながら挨拶した。
流石に明智は答えない。冗談に応酬するには余りに不利な立場だ。
「ところで、あなたを何とお呼びしましょうかね」賊はさもさも愉快らしく手をすり合わせて、一言一言自分の言葉を
「音吉爺さんですか。それとも明智小五郎君ですか。イヤ、そんなことは兎に角、折角の御訪問ですから、一つ私の商売の大魔術という奴をお目にかけましょうかね。何もおもてなしが出来ませんので、マア
「それでは、どうかこちらへ」
手下の男までが、首領を真似て馬鹿
明智も二郎もされるがままになって、玄関のホールへ戻って来た。首領もあとからついて来る。
「サア明智君、これです。君がさっき縛って置いた私の娘の顔を見てやって下さい」
明智は背中をピストルで突かれて、よろよろと前にのめり、危く文代にぶつかり相になった。が、それと同時に筒口が背中を離れた。今だ。明智は一飛びで、娘のうしろに廻り、彼女の身体を
無論撃つつもりはない。ただ賊と対等の立場を得る為だ。
だが、アア何という恐ろしい奴だ、怪物はそれを見ると、ゲラゲラ笑い出した。
「ハハハハハハハ、お撃ちなさい。その女が死んだところで、わしは少しも
「だが、君は、僕がこれを撃てば、娘さんが傷つくばかりではない。その銃声で外にいる警官達が飛込んで来ることを、勘定に入れていますか」
明智が初めて口を開いた。彼の目は憎悪に燃えている。野獣にも劣る極悪人の態度に、彼は流石に激昂しないではいられなかった。
「無論、それに気附かぬ私ではない。何百人の警官が這入って来ようと、君がその娘を殺せば、わしの手助けをしたも同然だ。君もわしの一味として捕えられなければなるまい。ワハハハハハハハ。明智君、まあ気を静めて、その女の顔を見るがいい」
それを聞くと、明智は何かしらギョッとしないではいられなかった。彼は淡い光の中で、縛られた娘の全身を眺めた。変だ。はっきり記憶していないけれど、どうも服装が違う様だ。だが、それが一体何を意味するのだ。たった二三分の間に、ここでどんなことが起ったというのだ。ひるむ心をはげまして、彼はうなだれた娘の顔を覗き込んだ。アア、果して果して、彼女は文代ではなかった。明智も二郎も熟知している全く別の女性であった。
驚くべき魔術師の
流石の名探偵も、
「アッ」と叫んだまま、次に採るべき手段を考える力さえ失ってしまった。
人違いだ。文代ではない。薄暗いので、今の今まで気附かなかったが、文代と同じ服装をした、別の娘だ。アア、何という早業、いつの間に、人間のすり替えが行われたのであろう。
だが、もっと驚くべきことは、その娘が、知らぬ人でなかったことだ。知らぬどころか、大森外科病院の病室に寝ているとばかり信じていた、玉村妙子その人であったことだ。
彼女は、さっき明智が、文代にした通り、グルグル巻きに縛られ、
明智も二郎も、それを見ると、「アッ」と云ったまま立ちすくんでしまった。
「ハハハハハ、魔術師の早業がお目にとまりましたか。流石の名探偵どのも、ちと
悪魔は、醜く顔を歪めて、毒々しく笑った。彼のピストルは、素早く妙子の脇腹にくっついている。形勢は一転して、今度は明智の方がおどかされる立場になった。
あとで分った所によると、その日、玉村妙子は、もう傷口も殆ど
夕方になっても、帰らぬので、玉村邸へ電話をかけると、無論
先に、賊の
「素敵素敵、さすがは魔術師程あって、あざやかなものだね。君にかかっちゃ、僕のいたずらなどは子供だましさ」
明智はこのお芝居が面白くてたまらぬという調子で、ニコニコ笑いながら、手にしていたピストルをポイと床の上へ
賊の手下が、素早くそれを拾い上げて、ポケットに入れた。
「オイオイ、そんなもの、
若者はそれを聞くと、一寸たじろいだが、何食わぬ顔で、
「手品の小道具がなくなっちゃ、明日から興行が出来ないからね」
とへらず口を叩いた。
「ところで、我々の勝負だが、この場の形勢は一体どちらに勝目があると思うね。君も
明智は手下などは相手にせず、賊の首領に向きなおって、大胆不敵の応対を始めた。
「俺の方には武器がある。人質もある。だが君の方は空手だ」
賊が大様に答えた。
「この家をとり巻いている警官達を忘れた様だね」
「その連中が這入って来るまでには、妙子が死んでしまう。この娘の命と引換えなら、悪くない取引きだよ」
「ハハハハハ、嘘を云っても駄目だ。ホラ、君の顔はそんなに青いじゃないか。妙子さん一人の為に、君は四十年も苦労したのかね。君の目的はもっと外にあった筈だ。それを棒に振って、絞首台に上る程、あきらめのいい男でもあるまい。ハハハハハハ、そんな取引きは、悪くないどころか、君の方が大損をする訳だぜ」
賊は急所をつかれて、グッと詰った。彼の額に見る見る苦悶の色が現われた。
「ヨシ、それまで知っているなら、
流石に悪党だ。未練らしく躊躇していない。
「君の自由か。……若しいやだと云ったら?」
「ズドンと一発、妙子と心中だ。この世がおしまいになるばかりだ」
「高い取引だ。だが、妙子さんの一命には換えられぬ。承知した。君は自由だ」
「
「ハハハハハ、妙子さんを受取って置いて、君を捕縛させるというのか。安心し給え。仮令君の様な悪党に対してでも、そんなことをするのは、僕の潔癖が許さんよ。さあ、繩を解き給え」
「だが、外に待っている連中を、どうして説き伏せるのだ。警察の奴らが、まさかこの取引を承知する筈はないぜ」
「ハハハハハ、段々弱音を吹くね。だが、あの連中は僕に任せて置き給え。君等は裏口から逃げればいいのだ。警官達は僕が表口へ集めてしまう」
か様にして、不思議な商談が成立した。
妙子は自由の身となって、兄の二郎の腕に抱かれた。二人の賊と、別室に隠れていた文代とは、手を引合って裏口へと走った。
「オイ、文代さんを大切にして上げてくれ給え。君には
明智は賊のうしろから声をかけた。文代を一緒に逃がしてやるのは、何となく残りおしい感じがしたけれど、賊の実子とあっては、無理に引離す訳にも行かぬ。
賊の一団が裏口を出ぬ先に、表へ飛出した明智が、合図の口笛を吹いた。建物を包囲していた警官達が残らず集って来た。
「諸君、賊はどこかの部屋へ逃込んでいるのだ。暗いのでハッキリしたことは分らぬ。それに相手はピストルを持っているから、注意して向ってくれ給え」
警官達は、身構えをしながら、幾つかの部屋を、次から次へと探して行った。
そのひまに、賊の一団が、裏口から外の闇へと、行方知れず逃去ったことは云うまでもない。
玉村商店宝石部の第一等の得意先に、
買上げた宝石を、誰に与えるのか、夫人も子供もない全くの独り者で、
アメリカ式な、
前章の出来事があってから、約一ヶ月の後、年を越して一月の終りに近いある日のこと、玉村氏は、一郎と二郎と妙子の三人の子供を連れて、牛原氏の晩餐会に招かれた。
約束はもう二三ヶ月も以前から出来ていたのだけれど、得二郎氏変死以来引続く凶事に、晩餐会どころではなく、長い間
併し、明智小五郎の兼ねての注意に基き、玉村氏は、この何の危険もない晩餐会にも、屈強の書生数名を、護衛として同伴することを忘れなかった。
約束の午後六時、
上機嫌のニコニコ顔で、召使と共に出迎いをした牛原氏は、玉村氏の一行四人を、奥の客間へと招じた。同伴の書生達は、別間に
客間は、主人の例の無雑作で、畳の上に絨毯を敷き、椅子テーブルを並べて、洋室らしくしつらえたもので、贅沢な洋風家具と、床の間のある天井の低い座敷とが、妙にチグハグで、明治初年の錦絵などにある、西洋間という感じがした。
中央の大テーブルには、已に主客五人分の食事が用意されてあった。
「サア、どうかおかけ下さい。ご
牛原氏は愛想よく振舞った。
玉村氏が今晩の招待に応じた第一の理由は、この牛原氏自慢の宝石を見る為であった。それは最近ある外国人から手に入れたもので、話に聞いただけでも、非常に珍らしい石であることが想像された。是非一度拝見したいと云うと、それでは晩餐会にお出でなさい。必ずお見せしますと、とうとう今晩引ぱり出されることになったのだ。
子供達を同行することは、一応辞退したけれど、牛原氏が承知しなかったし、そればかりでなく、暫く消息を絶ってはいるが、例の復讐鬼がいつ魔手を伸ばさぬとも限らぬので、一家の者が少しでも離れ離れになることを避ける為に、かくは四人一緒に出かけて来たのである。
牛原氏が一人舞台で、みんなを笑わせたり、謹聴させたりしている内に、食事は終った。
「それでは、例のダイヤモンドをお目にかけましょう」
食卓の白布が取除けられると、牛原氏は立上って別室に退いたが、間もなく、天鵞絨張りの
「これです。一つお
五つの頭が、四方から小函の上に集る。
電燈の光を受けて、ギラギラと、火の様に燃え輝くそら豆大の見事な宝石。古風なロゼット型の十カラット以上の品だ。
「マア、美しい」
妙子が第一番に感嘆の叫び声を上げた。
「すてきだ」「見事なものだ」「すばらしいダイヤだ」と誰も彼も讃美を惜しまなかった。
だが、流石専門家の玉村氏は、石に見入ったまま、容易に口を開こうとはせぬ。
「
「買いかぶりどころか、非常な掘出しものです。その倍以上の値打ちは確かに……」
と云いかけて、玉村氏はふと口をつぐんだ。指でつまみ上げていた石が、ポロリと卓上に落ちた。彼は何かしら非常な驚きにうたれた様子だ。
「玉村さん、どうなすった。あなたの顔は真青ですよ」
牛原氏がびっくりして尋ねた。
「私は、この石を知っています。確かに見覚えがあります。あなたは何者から、これをお買いになりました」
「アメリカの商人です。今は本国へ帰っている男です」
「その人は、本国から持って来たのではありますまいね。日本で手に入れたものでしょうね」
「サア、本人は本国から持って来た様に云ってましたが」
「それは嘘です。裏に肉眼で見えない程の
「エ、なんですって? これが
「そうです。その宝石には、殺人罪さえ伴っているのです」
「いつ、どこで、誰が盗まれたのです」
「昨年の十一月、私の弟が盗まれました」
「それじゃ、あの獄門舟の惨殺事件の折にですか」
牛原氏は、非常な驚きにうたれて叫んだ。
「そうです。福田得二郎が、あの魔術師と呼ばれる兇賊の為に惨殺された時、ロゼット型のダイヤモンドが紛失したことは、当時の新聞にも出ました。その品は、私の店の番頭が、フランスの同業者から買って帰ったもので、それを弟の得二郎が懇望するので譲ってやったのでした。牛原さん。これは今度の犯人を探し出す為には、大変な手掛りです。その本国へ帰ったアメリカ人が、誰から譲り受けたかという事が、分らないものでしょうか」
「そうでしたか。これがあの時のダイヤでしたか。よろしい、探って見ましょう。本人は国へ帰りましたが、親しくしていた友人がいる筈です。明日、早速その男を訪ねて、
一しきり、その宝石が巡り巡って、牛原氏の手に入った奇縁について、驚きの言葉が取交わされた。
「イヤ、もうその話は止しにしましょう。私が必ず元の譲り主を探し出してお目にかけますから御安心なさい。それはそれとして、今晩は折角こうして御出でを願ったのですから、一つ愉快にやろうじゃありませんか。妙子さんのピアノが、是非
牛原氏は話題を転じて、白けた一座を明るくしようと努めた。
だが、妙子にしては、二度も賊の為に恐ろしい目にあった記憶が去りやらず、不気味な宝石を見ては、
「ハハハハハ、いやにしめっぽくなってしまった。こいつはいけませんね。それでは、一つ交換条件を持出しましょう。私はね、この頃十六ミリの小型活動写真に凝っているのです。自分で脚本を作って、書生などを役者にして、お芝居を撮ったのがあるのです。一つそいつをお目にかけましょう。その代り映画を御覧になったあとで、きっとピアノを聞かせて下さるのですよ。よござんすか」
小型映画、しかも牛原氏自作の映画劇とは初耳であった。三人の兄妹は
結局、牛原氏の誘い上手に乗って、一同その小型映画を見ることになった。
「この部屋では駄目です。別に私のスタディオが出来ているのですよ。穴蔵というと、気味が悪いですが、ナアニ、この家の元の持主が作って置いた、小さな地下室があるのです。そこは、昼でも
地下室と聞くと、一同の好奇心は一層
牛原氏は先に立って、客間の隣りの、ガランとした空部屋に這入り、そこの押入れを明けると、中の床板が揚げ蓋になっていて、その下に、地下への階段が出来ていた。
「何だか気味が悪い様ですね」
玉村氏が笑いながら云った。
「酔狂な真似をしたものですね。ひょっとしたら、この家はもと
牛原氏は事もなげに答えて、ズンズン階段を降りて行く。一同は主人の気軽な調子にはげまされ、薄気味悪く思いながらも、まさかあの様な深い企らみがあろうとは、知る
降り切った所に、頑丈な鉄の扉があって、その外に沢山
地下室というのは六畳敷き程の狭い部屋で、天井も床も四方の壁も、古風な赤煉瓦で出来ていて、一方の壁に映写用の
牛原氏は小型テーブルの様な台の上に、器械を据えて、映写の準備をしていたが、それが終ると、一同を椅子にかけさせ、
「サア、始めますよ」
と云いながら、パチンと電燈を消した。
あやめも
よく見ると、牛原氏自身の邸が背景に使われている。そこの色々な部分が、巧みに取入れられ、その背景の前で、見知らぬ登場人物が、事件の筋を運んで行く。
音楽も説明も何もない沈黙の映画。音といえばクランクの廻転ばかり。登場人物は、黙々として笑い、泣き、語っている。真のパントマイムだ。
背景は現在のこの邸だけれど、物語の時代は明治の初期らしく、人物の髪の形、衣裳の着つけなどが、古い錦絵を思出させる、古風な姿である。
夜会巻きの美しい女が出て来る。ある男の
この女には、幼馴染の情夫がある。それが主人のいない折を見て、忍んで来る。不義の幾場面が巧みに描かれる。
だが、ある時、遂に主人が、この
彼は、併し、何気ない
女の主人は、その奇妙な交際を続ける一方では、とある広い邸を買入れて、そこの地下に、煉瓦造りの穴蔵の様なものを作らせる。買入れた邸というのは、牛原氏のこの邸だ。地下の穴蔵というのは、今一同が映画を見ている、この地下室だ。
この頃から、見物達の頭に、不気味な錯覚が起り、映画と現実とが不思議な交錯を始める。
画面では、職人の手で穴蔵が殆ど完成する。あと半坪程、煉瓦の壁が残っているばかりだ。主人は、どういう訳か、そこで仕事を中止させて、職人達を帰してしまう。
彼は
人一人這入れる程の穴が出来上った。
その穴を眺めた四十男のゾッとする様な笑い顔。
彼は穴蔵を出て、着物を着換えて、客間にじっと待っている。その客間というのは、映画を見ている一同が、さっき食事をした部屋だ。洋風家具がなくて、
そこへ、約束があったものか、忍男が訪ねて来る。主客の前に酒肴が運ばれる。形は違うけれど、やっぱり今夜と同じ晩餐の
「アア、きっと食事のあとで、地下室へ案内するのだ。全く同じことが起るのだ」
予想は的中した。主人は立上って、恨重なる忍男を伴い、次の部屋へ来ると、さっきと同じ押入れを開き、同じ上げ蓋を開いて、地下への階段を降り始めた。スクリーンの出来事と、さっきの現実とが、ピッタリ同じ順序で進んで行く。故意か偶然か。余りにもいぶかしき一致ではないか。
室内の場面には、
主人も客も、フラフラに酔っぱらっている。主人が、恐ろしい意味をこめて、ゲラゲラ笑うと、まだ気づかぬ客も、同じ様にゲラゲラ笑った。二人の酔っぱらいの、不気味な大写し。
主人がさっき掘った洞穴を指さすと、客はそれを通路と誤ったらしく、壁の穴へとつき進んで、土の中へ転がり込む。
ハハハハハハ。ワハハハハハハハ。土の中へ転がったまま
と、主人の態度が一変した。彼は本当に酔っていたのではない。シャンとすると、驚くべき
壁の奥では、酔っぱらいが、何も知らずに笑っている。彼の前に、恐ろしい速度で煉瓦の壁が積上げられて行くのを、空ろな目で眺めている。
煉瓦積みの単調な場面が暫らく続く。
やがて、恐ろしい作業が殆ど完成した。あと五六個の煉瓦を余すばかりだ。
「アハハハハハハハ、こいつは耐らぬ。何という滑稽ないたずらだ。オイ、この思いつきは素敵だぞ。お前はうまいことを考えたものだね」
壁の中の、洞穴の大写し。そこに笑いこけた忍男が、そんなことをわめいているのが、ありありと想像される。
外の男は、とうとう最後の煉瓦をはめ込んで、ハタハタと着物の汚れをはたいている。満足そうな薄笑い。そして、穴蔵を出て、鉄の
と、場面はもう一度穴蔵に戻る。完全にとじこめられた、壁の奥の真暗な土の中の大写し。酔っぱらいの忍び男は、もう一生涯そこを出る望みがないのも知らぬ体で、まだゲラゲラ笑い続けている。アア、何という戦慄すべき笑いであったろう。
それがパッと消えると、暫くは時間の経過を示す為の暗黒、そして、再び現われたのは、やっぱり元の壁の中だ。
男はもう笑っていない。すっかり酔が醒めたのだ。恐怖に飛出し相な両眼。何をわめくのか、大きく開いた唇。
彼は凡てを悟ったのだ。女の主人が彼の不義を知っていて、恐ろしい復讐を
無駄とは分っていても、併し、彼はもがかぬ訳には行かなかった。土の中の見るも無残な気違い踊り。網にかかった鼠の様に、ガリガリと壁を掻いて狂い廻った。
この世のものとも思われぬ、恐怖の表情の大写し。そして、徐々に徐々に溶暗…………。
恐ろしき映画が終った。穴蔵の中は真の闇、感動の余り誰も口を利くものはない。死の様な沈黙の数秒。
やがて、闇の中から、牛原氏の妙に押しつけた声が聞えて来た。
「玉村さん。この写真の意味がお分りでしたか」
玉村氏は、恐ろしい予感に震えて、返事をする気力もない。
「お分りになりませんか。では、教えてあげましょう。今から五十年以前、ああしてこの穴蔵へとじこめられた、みじめな男は、かく云う私の父親なのです。そして、この世にも恐ろしい復讐をなしとげた人物は、玉村さん、あなたのお父さんの
闇の中の声がパッタリ途絶えた。
「牛原さん、冗談はいい加減にして下さい。いたずらが過ぎますぜ。こうして私達を思う存分怖がらせて置いて、あとで大笑いをなさろうという訳でしょう。ハハハハハ。その手には乗りませんよ」
玉村氏は震え声で、夢中になって打消した。それを信じるのが、余りに恐ろしかったのだ。
「冗談ですって?」
闇の中の不気味な声が答えた。
「あなたは冗談やなんかでないことを、知り抜いておいでなさる。さっき、例のダイヤモンドをお見せした時から、あなたは心の隅で私を疑っていた。若しやこの男が、あの魔術師といわれる兇賊ではあるまいかとね。その通りですよ。私が得二郎氏を殺した本人であればこそ、あの宝石を持っていたのですよ。私は半生を復讐事業の為めに捧げました。ただ父の遺志を果す為に生きて来ました。そして、やっと、今晩、その目的を達したのです。玉村一家を亡ぼしてしまう時が来たのです。玉村さん。私の嬉しさが、あなたには分りますか。気違いになり相ですよ」
「少しも知らないことだ。わしの子供達は一層無関係だ。父親の
玉村氏は必死に抗弁した。
「それが知り度いのですか。知りたければ、スクリーンの裏の煉瓦の中を検べてごらんなさい。私がどうして、こんな気持になったか、分り過ぎる程分りますよ」
云ったかと思うと、ガタガタと走り去る足音、バタンと
一郎と二郎とは、闇の中を扉に突進して、それを開こうとあせったが、頑丈な鉄板は二人や三人の力で、ビクともすることではない。
電燈をひねって見たが、外のスイッチが切ってあると見えて、点火しない。
「駄目です。お父さん、僕達はとじこめられてしまいました」
「お父さま、兄さん、どこにいらっしゃるのです。あたし怖い!」
「しっかりするのだ。みんな気を落してはいけない。ナアニ、まだ助からぬと
親子兄妹が、恐ろしい闇の中で呼び交わした。
扉の外では、五十年以前に、玉村幸右衛門氏がやったと同じことが行われていた。悪魔は、鉄扉の外へ更らに煉瓦を積上げているのだ。コトコトという物音はそれに違いない。さっき通りすがりに見た、煉瓦の山は、その為に用意されてあったのだ。
「こう暗くては、どうすることも出来ない。マッチはないか」
玉村氏の声に応じて、一郎は所持のライターを点火した。
赤黒く見える煉瓦の穴蔵、暗闇よりは一層物すさまじき光景である。
どんなにあせって見ても、急に出られぬことは分っている。それよりは、兎も角、奥村源造の云い残して行った、壁の中を検べて見よう。ひょっとしたら、その奥の土を掘って、外へ抜け出せぬものでもない。
玉村氏はそこへ気づくと、一郎のライターをたよりに、壁の側へよって、そこに下っているスクリーンを引きちぎった。
そのうしろの煉瓦の壁は、ところどころ漆喰がとれて、たやすく抜き出せる様になっている。
三人の男は、力を合わせて、煉瓦の抜き取りにかかった。一枚一枚、煉瓦を取り去るにつれて、ポッカリと、地獄の入口の様な、真暗な穴が拡がって行く。
間もなく、二尺程の空虚が出来た。
「それを貸しなさい。一つ中を覗いて見よう」
玉村氏は一郎のライターを受取って、それをかざしながら、中へ首をさし入れて、闇の洞穴を覗いた。
覗いたかと思うと、彼はアッと叫んで、大急ぎで首を引いた。何とも云えぬ恐怖の表情、
一郎も二郎も、それにおびえて、思わずあとじさりした。
妙子は、余りの怖さに、キャーッと絹を裂く様な、
「何です。何があったのです」
一郎と二郎とが殆ど同時に叫んだ。
「骸骨だ。五十年前に生埋めにされた男の
父玉村氏が、あえぎながら云った。
だが、ただ骸骨を見ただけで、あんなに驚き恐れるというのは、何だか妙に思われた。元気な一郎二郎の兄弟は、いきなり壁に突進して、煉瓦の隙間に手をかけると、力を合わせて、壁を引き試みた。
すると、ガラガラと煉瓦がくずれ、そのうしろに、深い洞穴が現われた。煉瓦は、
洞穴の中には、ボロボロに破れた着物を着た骸骨が、くずれもせず、断末魔の苦悶の姿をそのまま、
骨ばかりで、どうして原形を保っていることが出来たか。土の上に寄りかかっていたからか。或は復讐鬼の奥村源造が、骨をつぎ合わせて、そんな形をしつらえたのか。いずれにもせよ、着物を着た骸骨の、生けるが如き断末魔の形相は、ゾッとする程恐ろしいものであった。
土の中へ食い込んだ両手の指、異様な恰好に折れ曲った両足、よじれた胴体、食いしばった、むき出しの歯並、恐ろしい洞穴みたいな両眼。それが気違いの様に
流石の兄弟も、父親同様、「ワッ」と云って、顔をそむけないではいられなかった。女の妙子は、もう見ぬ先から
自分達は少しも知らぬ事とは云え、これが父なり祖父なりに生埋めにされた男かと思うと、善太郎氏も一郎も二郎も、何とも云えぬ変な気持になった。
どんなにか恐ろしかった事だろう。どんなにか苦しかったことであろう。煉瓦にとざされた地底の暗闇。永久に抜け出す見込みのない墓穴。そこで、この男は、だんだん乏しくなって行く空気にあえぎながら、ガリガリと土を掻いて、息の絶えるまで、もがき苦しんだのである。
善太郎氏は、思わず洞穴の前にひざまずいて死者の苦悶をやわらげ、なき父の罪障消滅を祈る為に、念仏を唱えたが、ふと見ると、床に落散っている煉瓦の塊に、何かしら文字の様な掻き傷のあるのに気がついた。
アア、さっき奥村源造が、煉瓦に刻んだ
操、ミサオ、ミサオ。
モ一度顔ガ見タイ。
ダガ、モウ出ラレヌ。一生涯出ラレヌ。
アア苦シイ。息ガ苦シイ。
真暗ダ。何モ見エヌ。
ミサオ、ミサオ、ミサオ。
オレハ死ヌ。モウ死ヌ。
ミサオ、コノ敵ヲ討ッテクレ。
オレヲ生埋 ニシタ奴ハ玉村幸右衛門ダ。敵ヲ討ッテクレ。
アイツヲ、アイツノ子ヲ、アイツノ孫ヲ、オレト同ジ目ニ合ワセテクレ、アイツノ一家ガ栄エテイテハ、オレハ死ニ切レヌ。死ニ切レヌ。
息ガ出来ヌ。苦シイ。胸ガ破レソウダ。
ミサオ、ミサオ、ミサオ。
モ一度顔ガ見タイ。
ダガ、モウ出ラレヌ。一生涯出ラレヌ。
アア苦シイ。息ガ苦シイ。
真暗ダ。何モ見エヌ。
ミサオ、ミサオ、ミサオ。
オレハ死ヌ。モウ死ヌ。
ミサオ、コノ敵ヲ討ッテクレ。
オレヲ
アイツヲ、アイツノ子ヲ、アイツノ孫ヲ、オレト同ジ目ニ合ワセテクレ、アイツノ一家ガ栄エテイテハ、オレハ死ニ切レヌ。死ニ切レヌ。
息ガ出来ヌ。苦シイ。胸ガ破レソウダ。
ミサオ、ミサオ、ミサオ。
「お前の
不気味な声が響いて来た。鉄の扉に小さな覗き穴があって、そこから源造が喋っているのだ。
「悪魔! 貴様の父は不義を働いたのだ。他人の愛妾を盗んだのだ。その報いを受けるのは当り前だ。僕達がこんな不合理な復讐をされる筈はない。貴様は血迷っているのだ。気が違ったのだ。開けろ! この扉を開けろ」
血気の二郎がたまり兼ねて、鉄扉を乱打しながら叫んだ。
「ワハハ……。不義だと? 他人の妾を盗んだと? 何も知らぬくせに、ほざくな。盗んだのはお前達の親爺の幸右衛門の方だぞ。俺はちゃんと検べ上げてあるのだ。金にあかして、人の恋人を横どりしたのだ。横どりして置きながら、不義呼ばわりをして、あまつさえ、こんな残酷な目に合わせたのだ。それが証拠に、見ろ。恋人が行衛不明になったと知ると、妾の操は、名も分らぬ病にかかって、日に日に痩せ細って行ったじゃないか。そして妾としての用が足りなくなると、幸右衛門は、操を妾宅から追出してしまった。
その時、操は妊娠していた。幸右衛門はそれが不義者源次郎の子だということを知っていた。それは本当だった。
操には身寄りのものもなかったので、みじめな裏長屋で、その子を生み落すと、間もなく病死してしまった。みなし子は、人の手から手へと渡って、大きくなって行った。
親も兄弟も親戚もなんにもない、一人ぼっちの
俺は世を呪った。分けても俺達親子をこんな目に合わせた、幸右衛門を呪った。と同時に、この広い世界に、たった一人ぼっちの我身が淋しくてたまらなかった。俺は行衛不明の父を捜すために、どれ程骨を折ったことだろう。
とうとう、この穴蔵を発見し、無残な父の骸骨と対面したのは、十七の年だった。俺は煉瓦の
やっと四十年の努力は報いられた。俺は世間から魔術師と云われる腕前になった。資金も余る程貯えた。そこで、
ところが、いざ復讐に着手する間際になって、全く思いもかけぬ障害が起った。素人探偵の明智小五郎だ。あいつが外国から帰って来て、例の「蜘蛛男」事件で、すばらしい働きを見せたのだ。俺はこの恐ろしい男と戦わねばならなかった。俺は戦った。だが、あいつの為に、俺の計画は半ば以上
いや、計画がさまたげられるばかりではない。今では俺の身が危いのだ。ぐずぐずしてはいられぬ。そこで、俺は計画を早めて最後の幕を切って落すことにした。実を云うと、子供達を一人一人滅ぼして行って、さんざん恐れと悲しみを味わせた上、一人残った父親を、この穴蔵へおびき寄せる手筈だった。だが、そんな悠長な順序を踏んでいる余裕がなくなった。俺の楽しみは薄らぐけれど、仕方がない。とうとう今夜、最後の幕を切って落したのだ。
サア、これで俺の云うことはおしまいだ。あとは、この扉の外へ、五十年前に貴様の親爺がやった様に、煉瓦を積んで、貴様達を生埋めにするばかりだ。
悪魔の長談義が終ると共に、覗き穴の蓋がカチンと閉って、外には又しても、煉瓦積みの物音が始まった。
これで悪魔の復讐の動機が分った。彼の四十年の労苦も明かになった。だが悪魔はなぜか、彼の結婚について、その妻の死について、残された一人娘の文代について、何事も云わなかった。穴蔵にとじこめられた四人の者は、そんなことを疑っている暇もなかったが、考えて見ると、いくら復讐の為とは云え、可愛い一人娘を、平然として悪事の道連れにしている、源造の気が知れぬではないか。彼は娘がいとしくはないのであろうか。それとも、他に何か深い事情でもあったのかしら。針で突いた程の抜目もない悪魔のことだ。娘の文代についても、
親子四人は、声を限りにわめき
狭いといっても、六畳程の部屋だ。昔の奥村源次郎の様に、急に窒息する気遣いはない。だが上下四方とも厚い煉瓦で完全に密閉された穴蔵だ。いつかは酸素もなくなるであろう。いや、それよりも、空腹の方が先に来るかも知れぬ。いずれにもせよ、じっとしていたら、死ぬ外はないのだ。
煉瓦の壁を打破る様な、鋭利な武器はない。たった一ヶ所、外へ抜け出す可能性があり相に思われるのは、源次郎の横わっている洞穴だが、そこの土を掘る為には、恐ろしい骸骨に手を触れなければならぬ。死者の悪念におびえ切った四人のものは、まだその洞穴へは入って行く勇気がなかった。
彼等は乏しいライターの光に、お互の顔を見合わせて、冷い床の上に坐ったまま、黙り込んでいた。
黙っていれば、黙っている程、底冷えのする地底の夜気と共に、生埋めの恐ろしさが、ひしひしと身に迫って来る。
「アア、駄目だ。ライターのベンジンがなくなってしまった」
一郎がおびえて叫んだ時には、ライターはもう、
「この上光までなくなっては耐らない」
二郎が唸る様に云った。
「アア、どうしましょう。怖いわ」
妙子は父親の膝にすがりついた。
だが、消え行く燈火を、どうとり止めることが出来よう。螢火が淋しく二三度
闇と寒さと、墓場の様な恐ろしい
「誰かマッチを持っていないか。一本でもいい。お前達の顔を見ないで、こうしているのは
善太郎が我慢がし切れなくなって云った。
一郎も二郎も、その言葉に励まされて、ポケットというポケットを探して見た。
「アア、あった。だが、たった三本です」
二郎が情ない声で云った。
「あったか。早くつけてくれ。早く暗闇を追っぱらってくれ」
シュッという音がしたかと思うと、部屋中が日の出の様に明るくなった。闇に慣れた目には、マッチの光さえ非常にまぶしく感じられた。
四人は、その光の中で、これが最後という様に、お互の顔を眺め合った。
丁度その時、マッチの軸がまだ燃え切らぬ内に、非常に変なことが起った。
「兄さん、ちょっと、あれ動いてやしない? ネ、動いてるわね」
妙子のゾッとする様な囁き声に、一同例の洞穴を見ると、ゆれる
「アッ、こちらへ歩いて来る。アレー」
妙子の悲鳴に、男たちもギョッとして立上った。
骸骨は断末魔の苦悶の姿をそのまま、洞穴を出て、一歩二歩と歩くともなく漂うともなく、こちらへ近づいて来る。幻覚ではない。
一同はそれを見ると、余りの不思議さ、物凄さに、思わずタジタジとあとじさりをしたが、その途端、二郎の指の力がぬけて、まだ燃えているマッチが床に落ちた。
と同時に、ボッという恐ろしい音がしたかと思うと、部屋の中が真昼の様に明るくなった。
床に落ち散っていたフイルムに火が移ったのだ。
小型とは云え、十数巻のフイルムが、映写したまま、
狭い密室内は、むせ返る煙の渦に満たされ、
まるで火山の
「ア、お父さん。……それは何です。……どうなすったのです」
一郎も、妙子も、苦悶の内に、夢見心地で父の恐ろしい姿を眺めた。
善太郎氏は、煉瓦の壁に
骸骨はと見ると、洞穴を歩き出したまま、まるで善太郎氏の影の様に、寸分違わぬ姿勢で、すぐ隣の壁に凭れていた。
「キャーッ」という妙子の悲鳴、一郎と二郎も何か訳の分らぬことをわめきながら、父の奇妙な姿に飛びかかって行った。死霊のたたりを追っ払おうとしたのだ。
父子三人は折り重なって部屋の隅に倒れた。倒れると同時に、眼の前に、真黒な無数の玉が群がって来て、何が何だか分らなくなってしまった。
ふと気がつくと、フイルムの山は已に燃え尽して、立ちこめた煙もやや薄らいでいたが、椅子テーブルに移った火が、まだメラメラと燃えていた。
一郎と二郎は、よろよろと立上ると、それに近づき、椅子やテーブルを投げつけ、踏みくだいて、火を消した。むせ返る煙を、少しでも少くしたかったのだ。
変だなと思って、その方を振向くと、分った分った。源次郎の骸骨の、ボロボロになった着物に火が移って、チョロチョロと鬼火の様に燃えているのだ。
着物が湿っているので、
明滅する焔に、下方から照らし出された骸骨の顔は、陰影の加減で、ある時は笑い、ある時は泣き、或は落ち
妙子は失神した様に
突然二郎が歯を喰いしばって唸り出した。
「畜生め、畜生め」
彼は、子供が泣きわめきながら、強い相手に向って行く、あの死にもの狂いの格好で、両腕を滅茶滅茶に振り動かし、燃える骸骨と、目に見えぬ死霊に向って突進した。
お話変って、旗本屋敷の地下室に、この恐ろしい地獄の光景が展開されていた、丁度その時、我々の素人探偵明智小五郎は、近頃借り受けた、お
明るい快活な明智小五郎ではあったが、彼とても、探偵事件がうまく運ばぬ様な時には、
借り受けているのは、表に面した二階の三室で、客間、書斎、寝室と分れているのだが、彼は今その書斎の、大きな安楽椅子に、グッタリと身を沈めて、彼の好きな『フィガロ』という珍らしい紙巻煙草を、しきりと灰にしていた。
作者は七年程前に、「D坂の殺人事件」という物語で、書生時代の明智を読者に紹介したことがある。当時彼は煙草屋か何かの二階借りをしていて、その四畳半の狭い部屋に、書物の山を築き、書物に埋って寝起きしていたのだが、彼の書物好きは今でも変らず、「開化アパート」の書斎にも、外遊の間、友人に預けて置いた蔵書を取寄せ、四方の壁を隙間もなく棚にして、内外雑多の書籍を、ビッシリ並べている。いや、棚ばかりではない。例の調子で、デスクの上にも、安楽椅子の肘掛けにも、電気スタンドの台の上にも敷きつめた絨毯の床の上にさえ、ふせたのや、開いたのや、様々の書物を、まるで引越しの様に散らかしているのだ。
それは兎も角、デスクの置時計は、もう十一時を示しているのに、寝ようともせず、彼は一体何を思い耽っているのであろう。外でもない玉村宝石王一家を襲う、魔術師の様な怪賊のことだ。
大森海岸の一軒家で、妙子を取戻してからもう一ヶ月にもなる。その間、決して探偵の手をゆるめた訳ではないのだが、不思議な賊は
海岸の一軒家を始め、例の魔術の興行された芝居小屋、海岸一帯の汽船など、心当りは漏れなく調べて見たけれど、用意周到な怪賊は、髪の毛一筋の手掛りさえ残して置かなかった。相手には、四十年の長い間、練りに練った用意があるのだ。どんな小さな行動でも、一つ一つ、ちゃんと練り上げたプログラムに従ってやっているのだ。こうすればどうなると、あらゆる場合が考慮されているのだ。いくら明智が名探偵であっても、こんな相手にかかっては、そう
魔術師の事を考えていると、いつの間にか頭に浮んで来る二人の女性があった。玉村妙子と賊の娘の文代である。
妙子とはS湖畔のホテルで仲好しになり、今度の事件も、半分は妙子の為に手を染める様になったのだが、彼女との交際では、どちらかと云えば妙子の方から近づいて来た。甘い眼遣い、甘い言葉が、明智を虜にしてしまったのだ。
それは、非常に幽かではあったが、妙子の性質に、何かしらしっくりしないものがあったせいもある。だが、もっと大きな原因は、賊の娘の文代の出現であった。悪人の父とは似てもつかぬ美しい顔、美しい心、燃える様な純情。いつかの夜、玉村二郎に
何と云う不思議な
「フフフ……、貴様は何という馬鹿者だろう。相手は殺人鬼の娘だ。出来ない相談だ。そんな妄想は綺麗さっぱり、西の海へ吹飛してしまえ」
明智はフィガロの紫色の煙の中で、
と、丁度その時、何かの暗合の様に、隣の客間のドアに、ホトホトとノックの音が聞えた。
十一時過ぎの来客だ。少しも当てがない。誰だろうと思いながら、
廊下にションボリ佇んでいたのは、外套の毛皮の襟で顔を隠した、洋装の女であった。
「お間違いではありませんか。僕は明智というものですが」
明智は予期せぬ来客に面喰って尋ねた。
「イイエ」
女は毛皮の下から幽かに答える。
「では僕をお訪ねになったのですか。あなたはどなたです」
女はやや暫くためらっていたが、やがて決心した様に、
「どうか、お部屋へ入れて下さいまし。誰かに見つかるといけません」
と、さも
商売柄、明智はさして驚きもせぬ。何か犯罪に関係があるなと思ったので、云うがままに室内に
「
女は
「ア、君は、文代さんじゃないか」
女の顔を一目見ると、明智がびっくりして叫んだ。今も今とてその人のことを考えていた、賊の娘の文代に相違ないのだ。
「エエ、あたしここまで抜け出してくるのが、やっとの思いでした。サア、早く外出の御用意をなすって下さいまし。玉村さん御一家の方々の命にかかわる大事です。父を捕えて下さいまし。あの悪者の父をこらしめて下さいまし」
文代は泣かんばかりに云うのだ。娘が父を捕えてくれとは、よくよくのことである。
聞いて見ると、文代は隅田川の川口に
又、先日来の大捜索に、この怪汽艇がどうして
「あたし、それを聞きましたのは、夕方の五時頃でしたが、父の部下の一人をだまして、戸をあけさせるのに、つい今しがたまでかかったのです。それは苦労を致しましたわ。で、もうこんなにおそくては、あとの祭りかと思いましたけれど、一番恐ろしいことは、まだ済んでいないかも知れぬと、それを頼みに先生のお力を
「一番恐ろしいことと云うのは?」
明智が尋ねると、文代は物云う暇も惜し相に、早口に答えた。
「その穴蔵を抜け出すには、骸骨の置いてあった、煉瓦の破れた所から、土を掘って地上へ出る外はありません。四人の方はきっとその方法をお選びなさるに違いありません。ところが、それは父の思う壺なのです。ちゃんとそのことを見越して、恐ろしい仕掛けが出来ているのです。そこの土を上の方へ掘って行きますと、深い
それを聞くと、明智は少しもためらわず、書斎にかけ込んで、卓上電話に向い、警視庁の波越警部の自宅を呼出した。
犯罪捜査を生命とする波越警部は、
明智は手短かに
明智は電話を継ぎ直して、近所のタクシーを呼ぶと、元の客間へ引返した。
「お聞きの通りです。何だったら、あなたは、ここに待っていてはどうです」
「イイエ、構いません。あたし、その家の様子をよく知っていますから、ご案内致しますわ」
文代は眉を上げて、固い決心を示した。実の父親の捕物に、案内役を勤めないではいられぬ、悲しい娘の心。何という因果なめぐり合わせであろう。
その深夜、お茶の水と、
「間に合いますかしら。あたし、何だか胸がドキドキして……」
文代が気をもんでいたと同じく、別の車では波越警部が、
「今度こそは、兇賊を捕えないで置くものか」と汗ばむ拳を握っていた。
穴蔵では、源次郎の骸骨に飛びかかって行った二郎が、とうとうそれを滅茶苦茶に叩きつぶしてしまった。同時に骸骨の着物に燃え移っていた焔も消えて、地下室は再び
それから、室内の毒煙も薄らぎ、一同半狂乱の気が静まるまでには、たっぷり三十分程もかかった。
その間、玉村父子四人は、闇の中に、生きているか死んでいるか分らぬ状態で、倒れていた。
だが、やがて、正気に帰った善太郎氏が、闇の中から声をかけた。
「オイ、一郎も二郎も妙子も、しっかりするのだ。わしらは、どうしてでも、この穴蔵を抜け出さなければならぬ。今も考えて見たのだが、それには、たった一つの方法がある。骸骨のとじこめられていた、洞穴の土を掘って、地面へ抜け出すのだ。大して深い筈はないのだから、皆が力を合わせたら、出られぬということはない」
「アア、僕も今それを考えていた所です。焼け残った椅子の脚で、土を掘ればいい」
一郎が応じた。二郎とても異存はない。
そこで大切な二本目のマッチがともされ、妙子を除く三人の男が、てんでに椅子の脚を持って洞穴に集った。
それから半時間程の間、闇の中に穴掘りが続けられた。寒中にも拘らず、一同汗びっしょりになって、
「もう一息だ。何だか天井が柔くなって来たのを見ると、もうすぐ地面だぞ」
一同一層元気を出して働く内に、ふと気がつくと、天井からポトリポトリ何かの
変だなと思う間もなく、雫は雨となって降り注ぎ、一同アッと云って飛びのいた時には、泥まじりの滝津瀬と変じて、
三人は、元の地下室の、洞穴から一番遠い片隅に避難して、もうやむかと耳をすましていると、やむどころか、滝の音は益々高くなるばかりだ。
室一杯に、
「二郎、マッチ、マッチ」
父の声に、二郎は最後のマッチを点じて、室内を眺めた。
洞穴の滝は同じ勢で落ちている。
「オヤ、妙子はどうしたのだ」
気がつくと、妹の姿が見えぬ。水に
この調子で、滝が止まらなかったら、間もなく、水面は腹から胸、胸から
それにしても、この夥しい水は、一体どこから落ちて来るのだろう。
「アア、分った。わしらは賊の
玉村父子は、みじめなどぶ鼠の様に、罠にかかったのだ。水罠にかかったのだ。
「畜生ッ、どこまで執念深い悪党だろう。僕達はあせればあせる程、
だが、いくら
水面は已に腰に達した。しかも、滝津瀬は轟々と落ち続け、いつやむべしとも思われぬのだ。
明智と文代が、旗本屋敷に到着した時には、已に所管警察署から数名の刑事が屋内に踏込んで、部屋部屋を捜索していた。
明智が這入って行くと、波越氏から話があったと見えて、警官達は別に異議も云わず、寧ろ彼を歓迎する様に見えた。
「家の中はもぬけの空です、猫の子一匹いません」
主だった私服刑事が報告した。
「玉村さん親子四人のものが、地下室にとじこめられているのです。地下室は調べて見ましたか」
明智が尋ねる。
「ところが、地下室が見つからぬのです。どこに入口があるのだか、少しも見当がつきません」
刑事が困惑して答えた。
「イヤ、それなれば、僕の方に案内者があります。妙な因縁で賊の娘がこの出来事を密告したのです。……文代さん、地下室はどこにあるのですか」
明智が呼ぶと、文代は庭に面した縁側から駈け込んで来た。
「大変です。早くしないと間に合わぬかも知れません。今庭の池を見て来ましたが、水がグングン減っているのです。玉村さんはやっぱり土を掘って逃出そうとして、悪人の罠にかかっておしまいになったのです」
彼女は青ざめた顔で、早口に云い捨てて、例の客間の隣の妙な部屋へ走って行った。一同もそれに続く。
「この押入れの中に、穴蔵の入口があるのです」
文代は説明しながら、自分で
アア、何という大胆不敵の怪物であろう。彼は已に警官隊の来襲を察して、単身この穴蔵の入口に敵を待伏せしていたのである。
押入れの中の上げ蓋が二三寸開いて、その下から、蛇の鎌首の様な人間の片腕が覗き、恐ろしいブローニングの筒口が、じっとこちらを狙っているのだ。
明智も刑事達も、この怪物の死にもの狂いの抵抗には、流石にゾッとして、立ちすくまないではいられなかった。
× × × × ×
穴蔵の闇の中では、親子三人のものが、お互に手をとり合って、刻一刻増して来る水の中に、何とせん
妙子は已に溺れてしまったのか、いくら呼んでも答はない。探そうにも暗闇の水の中、見当もつかねば、無闇に歩き廻る訳にも行かぬ。
水面は、腰から腹、腹から胸と、恐ろしい速度で這い上り、うっかりすると渦巻く水に足をとられそうだ。
やがて、胸から頸へと迫る水、身体が浮上って、もう立っていることも出来ない。時は極寒、凍った水がまるで鋭い刃物の様に、身にこたえる。
「お父さん大丈夫ですか」
兄弟は老いたる父を気遣い、両方から、その
× × × × ×
地上では、一人の心利いた刑事が、どこからか太い
一同ピストル射場の外に出て、息を殺していると、刑事は竿の先を押入の天井まで上げて、
ドシンというひどい物音。
顔をそむけ、耳に蓋をしていた文代は、この物音に、アッと悲鳴を上げた。父の腕が叩きつぶされたかと思うと、流石に耐え難い苦痛を感じたのだ。
腕はひしがれた。ピストルは手を離れて押入れの外へふっ飛んだ。
ソレッと云うと、一同ひしがれた腕の上に折り重なる。と突如として起る
「畜生め、一杯食わせやがった」
竹竿の武器を考えついた刑事が
怪物の腕と思ったのは、手袋に芯を入れて、巧みに
「馬鹿馬鹿しい。こんな
それが賊の目的であった。万一救いの人々が駈けつけた場合ここで暫く食いとめて置けば、その僅かの相違が、穴蔵の玉村親子に取っては、生死の
案山子と分ると、刑事達は素早く上げ蓋をはねのけ、先を争わんばかりに、穴蔵へと下って行った。
だが、その階段の下には、第二の関所が待構えている。積上げた煉瓦は、仮令完全に固っていなくとも、それをとりのけるには、随分手数がかかる。それから鍵をかけた鉄扉だ。刑事達の力で、果してこれを打破ることが出来るであろうか。
× × × × ×
穴蔵の水は、もう頸までの深さになった。
一郎も二郎も、いつの間にか床から足を離して泳いでいた。善太郎氏は二人に助けられて、辛じて身体を浮べている。
暗中の水泳がいつまで続くものでない。凍った水に、身体は段々無感覚になって行く。
「もう駄目だ。もう我慢が出来ない」
一郎が
「もう力が尽きた。一層死んだ方がましだ」
二郎もすすり泣きをして、兄の身体にしがみついた。父玉村氏は、已に死人も同然、グッタリとなって、物を云う力もない。
アア、折角の文代の純情も、明智や刑事達の努力も、僅かの相違で仇となり、遂に玉村親子は、この穴蔵で凍え死にをしてしまう運命ではなかろうか。
復讐鬼の方には、悪魔は悪魔ながらの理窟もあろうけれど、敵を討たれる玉村氏一家のものは、我身に何の覚えもないことだ。親が若気の至りで、どの様な悪いことにしたにもせよ、それ故に、子や孫が一人残らず、この苦しみを受けなければならぬという道理はない。
父善太郎氏は、親の報いとあきらめもしようけれど、可愛い子供が三人まで、同じ
アア、何という
イヤイヤそうではない。自然の
魔術師の場合では、文代の内通がそれであった。彼女は穴蔵水責めの悪企みを小耳にはさみ、隅田川の川口に碇泊していた、賊の汽艇を抜け出して、玉村親子の危難を、名探偵明智小五郎に急報し、彼を案内して旗本屋敷へ駈けつけたのである。
明智はこのことを、電話で警視庁の波越警部に報じて置いたので、深夜ながら、警視庁と小石川警察と、両方から数名の警官が出張し、玉村氏が同行して、別間に待たせてあった書生達と力を合わせ、被害者の
救助者の一群は、秘密の階段を駈け降りて、穴蔵の入口に殺到したが、厳重な鉄扉の外に、煉瓦の壁が積み上げてあるので、容易に破れるものでない。
若し一人や二人の救助者であったなら、恐らく玉村親子の息のある内に、救出すことは、到底不可能であっただろうが、多人数の力は恐ろしい、てんでに道具を探し出して来て、煉瓦の
扉を開くと、一度にドッと
地上の一室へ運んだ時には、三人ともグッタリとなって、
意識を取戻した善太郎氏が、第一に尋ねたのは、
「妙子は、妙子はどうしました」
と、愛嬢の安否であった。
人々は、暗闇の水中で、妙子さんの姿がなくなった
イヤ、消え失せたのは、妙子さんばかりではない。魔術師の奥村源造も、どこへ逃げ去ったのか、何の手掛りも残さず、それに、もっとおかしいのは、肝腎の明智小五郎と賊の娘文代の二人が、いつの間にどこへ立去ったのか、探しても探しても影さえ見えぬのだ。
では、彼等は一体どこに何をしていたのか、玉村父子は首尾よく危難を逃れたのだから、その方は一先ずお預りとして置いて、作者は明智と文代の
玉村父子
「アア、あたし思出しました。あの人達は、妙子さん丈け命を助けて、船へ連れて来る様な相談をしていたのです」
との答えだ。
「それにしても、どうして穴蔵から連れ出したのでしょう。特別の通路でもあるのですか」
「エエ、あたし、それも知って居ります。穴蔵の壁に小さな隠し戸がついていて、そこから、邸の外の原っぱへ抜けられるのです」
あとで検べて見ると、穴蔵の煉瓦の数枚が、倉庫の扉の様に、外から開く仕掛けになっていた。賊はその外へ廻って、目ざす妙子さんを、闇の穴蔵から、ソッと連れ出して行ったものに相違ない。父も兄達も、あの騒ぎの最中なので、それに気づかなかったのだ。
「では、すぐそこへ案内して下さい。あなたはなぜ早く、それを云わないのです」
文代は叱られて、答える術を知らなかった。彼女は最初からそこへ気づかぬではない。だが、そこには、まだひょっとしたら父が潜伏していないとも限らぬ。いくら正義の為とは云え、恋の為とは云え、父を売るのに、躊躇を感じない娘があるだろうか。これ程苦しんでいるものを、まるで思いやりもない様な、明智の言葉がうらめしかった。
と云って、もうここまで来たものだ、今更ら父をかばい立てしている訳には行かぬ。
「エエ、ご案内しますわ」
彼女は悲しい決意を示して答えた。
行って見ると、洞穴の入口は、
その雑草をかき分けて、用意の小型懐中電燈を点じて、穴の中へ這い込んで見たが、大方想像していた通り、そこにはもう、人の影もなかった。
「アラ、こんなものが落ちていましたわ」
文代が目ざとく、土の中から拾い上げたのは、銀製のヘヤピンである。見覚えとてないけれど、妙子さんのものに相違ない。
「やっぱりそうだ。もう今頃は、あいつの船へ連れ込まれている時分かも知れません。サア、船へ行きましょう。まさか、あなたを置去りにして
「エエ、それはもう、あたし覚悟していますけれど、あなたお一人では……」
「ナニ、心配することはありません。グズグズしていては、手おくれになります。それに大勢で向うよりも、僕一人の方が却って仕事が仕易いのです。僕はもうちゃんと、その手だてを考えてあります」
そこで、二人は手を取って、大通りまで駈け出すと、タクシーを
文代の指図で車の止った所は、月島海岸の見渡す限り人気もない、淋しい広っぱであった。川口の航路をさけて、遙か彼方に、一艘の小型汽船が、泊るともなく漂うともなく浮んでいる。淡い
「何か合図があるのですか」
親船から
「エエ」
文代は答えて、ポケットからマッチを出すと、それをシュッとすって、二三度振り動かし、燃えかすを海の中へ投げ捨てた。
暫く待つと、ギイギイとオールのきしり、小型ボートが白い
明智はす早く岸の石垣に隠れる。
「文ちゃんかい」
ボートから低い声が尋ねた。
「エエ、お前、
「そうだよ。もう親父さん帰っているぜ。文ちゃんはどこへ行ったと、えらく探していたぜ」
「お父さん、一人で帰ったの」
「インヤ、例のお嬢さんと二人連れさ」
低い声だけれど、明智はこの問答を、すっかり聞き取った。
「三次さん、ちょいとここまで上ってくれない。荷物があるのよ」
文代は兼ねての打合わせに従って、三次を上陸させようとした。
「荷物だって、何を又買い込んで来たんだね」
それとも知らぬ、お人好しの三次は、ボートをもやって、ノコノコと石段を上って来た。
「文ちゃん、荷物って、どこにあるんだい」
「ここよ」
「どれ、どこに」
と、三次が覗く石垣の蔭から、ヌッと現われた黒い人影。
「ヤ、貴様、一体誰だッ」
「ハハハハハハ、びっくりしなくてもいい。声さえ立てなければ、
明智がおとなしい口調で答えた。だが彼の右手には、ピカピカ光るピストルの筒口が、三次の胸板を狙っている。
さてそれからどんなことがあったか、暫くして、賊の本船に文代と三次とが帰りついたところを見ると、我が明智小五郎は、残念ながら三次の為に
お話変って、妙子さんをさらって、本船に戻った魔術師の奥村源造は、すばらしく上機嫌であった。彼は警官隊が玉村父子救助に駈けつける以前、已に例の旗本屋敷を立去っていたので、あの様な騒ぎがあったことを少しも知らなかった。善太郎氏も、一郎も、二郎も、穴蔵の濁水におぼれてしまったものと信じ切っていた。
あの厳重な穴蔵、妙子をつれ出した抜け穴は、誰も気づく筈はないし、
彼は部下を集めて、船中の酒盛りを始めた。
「みんな喜んでくれ。俺はとうとう完全に念願を果したのだ。あいつの一家をみなごろしにしてしまったのだ。サア、充分呑んでくれ給え。あすの朝、もう一度上陸して今夜の仕事の結果を確めたら、我々の仕事はおしまいだ。どこか遠くの海岸へ逃げて、そこで解散だ。諸君にはタンマリお礼をする。一生困らぬ丈けのことはする積りだ。そして、俺は今夜盗み出して来た玉村の娘と一緒に、外国へ高飛びだ。ハハハハハハハ、愉快愉快、
源造は一人で
シャンパン酒が、次から次と、ポンポン景気のよい音を立てた。
部下の者共も、有頂天になっていた。彼等は玉村一家を恨む訳ではなく、そこの人達がみなごろしになったからとて、別段嬉しいこともなかったが、一生困らぬお礼の金が有難かった。酒もまわらぬ内に、目先にチラつく札束に酔っぱらっていた。
彼等は深い事情は何も知らなかった。ただ
段々
文代と三次が帰って来たのは、丁度その騒ぎの最中であった。
「かしら、文ちゃんが帰って来ましたぜ」
部下の一人が這入って来て報告した。
「文代が?」
今まで笑い興じていた源造の顔が、キュッと不快らしくひん曲った。
「ここへ連れて来い。少し言い聞かせることがある。みんな、暫くの間別の部屋で飲んでいてくれ」
「かしら、文ちゃんを
部下の一人がとりなし顔に云った。彼等は皆美しい文代に好意を寄せていた。それよりも、あの娘をここへ呼んで、皆にお
「いいから、暫くあっちへ行っててくれ。何も折檻なんかしやしない。ちょっとないしょの話があるんだ」
酔っぱらった首領の真赤な額に、
それを見ると、一同縮み上って、ゾロゾロと別室へ退却した。彼等は、首領の云い出したらあとへは引かぬ、
引違いに、たった一人で這入って来たのは、源造にとっては一人娘の文代である。
「お前、どこへ行っていた」
源造が酒臭い息と共に怒鳴りつけた。
「ちょっと、お化粧の道具を買いに……」
「嘘を云え。こんな
ズバリと云って娘の顔を睨みつけた。流石の文代も、この不意うちに、ギョッとして、思わず赤くなった。
「マア、何を云っていらっしゃるの。そんなことが……」
「ア、やっぱりそうだな。そのうろたえ方を見ろ。とうとう
源造はムラムラと起る
「アレ!」
と叫んで逃げようとするのを、腕を掴んで引き戻し、そこへ押しころがすと、あり合わせた細引きを
「さあ白状しろ。親の命がけの仕事を
ビシリビシリ、細引の鞭は、文代のふっくらとした
「いくら親でも、いくら親でも、悪事の味方は出来ません」
文代は、痛さをこらえ、父を睨みつけて、ハッキリと云ってのけた。
「うぬ、うぬ、よくも云ったな。どうするか見ろ」
源造の怒りは極点に達した。
彼は手ぬるい鞭を投げ捨てて、足を上げると、固い靴のかかとで、いやと云う程、文代の
文代は、「ウーン」とうめいたまま、動かなくなってしまった。
酔っぱらっていた源造は、手加減が出来なかったのだ。娘が気絶したのを見ると、流石に驚いたが、それを介抱する様な彼ではない。
「ざまを見ろ。……サア、今度は娘を上陸させた野郎の番だ。オーイ、誰かいないか。三次を呼んで来い。三次の野郎をここへ引張って来い」
首領の怒号に、部下のものが駈けつけたが、文代の倒れているのを見ると、顔色を変えて立ちすくんでしまった。彼等は源造の癇癪がどんなに恐しいものであるかを、よく知っていたのだ。
「三次はどこにいる。あいつをここへ引っぱって来い」
彼等は首領の命令に、アタフタと部屋を出て行ったが、暫くすると、妙な顔をして戻って来た。
「かしら、三次はどこへ行ってしまったのか、姿が見えません。機関室にも、
「ナニ、いない。そんなことがあるものか。ボートはあるのか」
「エエ、ボートは
「まさかあいつが身投げをした訳ではあるまい。よし、貴様達がかばい立てするなら、俺が探しに行く。若しもあいつがいたなら、承知しないぞ」
源造は、娘が気絶したことで、一層腹を立てていた。その入れ合わせに、三次も同じ目に合わせてやらねば、承知出来ぬと思った。
彼はよろめく足を踏みしめて、船の中をあちこちと歩き廻った。部下の者共も、それを傍観している訳にも行かず、懐中電燈を振り照らしながら、彼のあとについて来た。
なる程三次はどこを探してもいなかった。
「
源造は拳を振り振り、元の船室へ帰って来たが、一歩そこへ足を入れたかと思うと、「アッ」と叫んで立ちすくんだ。
三次がいたのだ。あれ程探しても見えなかったのも道理、彼は源造が出て行ったあとへ、入れ違いに忍び込んで、気絶した文代を介抱していたのだ。見れば文代は正気に返って、三次となにかボソボソ話し合っているではないか。
源造はど
「三次ッ、あれ程云いつけて置いたことを忘れたのか。なぜ俺に無断で文代を上陸させたのだ」
叫びざま、飛びかかって行って、三次の横面をはり倒した。と、思ったのだ。だが、源造の鉄拳よりも、三次の方が素早かった。彼はヒョイと身をかわして、
源造は
「貴様、俺に手向う気か」
怒鳴りつけても、相手はどこを風が吹くかと、平気な顔で黙りこくっている。
変だ。何かしらあり得ないことが起ったのだ。こいつは決して日頃の三次ではないのだ。
光といっては、薄暗い石油ランプ、しかも相手の顔はその影にあるので、ハッキリは見えぬ。源造は、いきなり三次の鳥打帽を引ったくって、彼の顔をむき出しにした。
「アッ、キ、貴様、一体誰だッ」
源造の口から、思わず
「ハハハハハハハ、お見忘れですか」
男はニヤニヤ笑っている。
「誰だッ、名前を云え」
源造は、酒の酔いもさめはて、
「よくごらんなさい。僕ですよ」
見ていると、黒く汚れた下から、本当の顔が、段々浮上って来る。アア、このモジャモジャの髪の毛、この広い額、この鋭い眼光、外にはない。
「明智小五郎……」
源造はうめく様に呟いた。
「とうとう、僕の念願が届きましたね」明智はやっぱり笑いながら、「今度こそはもうのがしませんよ」
彼は云いながら、素早く身をひるがえして、入口のドアを締め、その前に立ちはだかった。部下の者に邪魔されぬ用意だ。彼等はまだ三次を探して船内をうろついているのであろう。一人も姿を見せなかった。
正義の巨人と、邪悪の怪人とは、ここに三たび
「ワハハハハハハハハハハ」
突如として、笑いが爆発した。奥村源造が腹を抱えて笑い出した。
「オイ、探偵さん。こいつは愉快だね。一足おそかったよ。おそかりし探偵さんだ。ワハハハハハハハ、俺はもうお先きに仕事を済ませてしまったのだよ。君が妨げようとして、あんなにもがき廻っていた仕事をだぜ。オイ、分るかね。玉村一家のものは、今頃どこにどうしているか、君は知っているかね」
勝ちほこった源造が、気違いのようにわめいた。だが、明智がそれに驚く筈はない。
「旗本屋敷の穴蔵で、水責めにあっているとでも云うのですか」
彼は皮肉な調子で聞返した。
「ゲッ、それでは、キ、貴様、あれを、……」
源造は極度の
「ご安心なさい。玉村親子は、無事に救われました。今頃は邸に帰って、暖いストーブの前で、おくれた
それを聞いた源造の顔は、絶望にひん曲った。一刹那、サッと血の気が失せたかと思うと、次の瞬間には、顔中が紫色にふくれ上り、額の静脉が虫の様に
絶望の悪魔は、両手で頭を抱えて、ヨロヨロと椅子に倒れ込んだ。そして、血走った目を不気味にキョロキョロさせて、取るべき手段を思いめぐらすと見えたが、やがて、徐々に奇妙な安心の色が浮んで来た。彼は激情の余り、ついそれを
「だがね、探偵さん」
源造は考え考え切り出した。
「君は、いつかの森ヶ崎の西洋館を忘れたかね。あすこで一体どんなことがあったのだろう。エ、思い出して見給え。ホラ、君と俺と妙な取引きをやったことがあるじゃないか」
だが、それにも明智は驚かなかった。
「ウン、覚えていますよ。あの時は君の方に妙子さんという人質があって、結局僕の負けになったのですね」
オヤ、こいついやに落ちついているな。と思うと、源造は少し不安になって来たが、屈せず喋り続ける。
「ホラ
「知っていますとも」明智はニヤニヤ笑った、「向うの小部屋に閉め込んであるというのでしょう。ところが、僕はあの部屋の鍵を手に入れたのですよ。そして、妙子さんにピストルを二挺渡して、その鍵で内側から締りをして置く様に云って来たのですよ。で、誰かが、例えば君の部下が、あすこへ這入ろうとすれば、第一ドアが開かぬし、仮令それを叩き破っても、妙子さんのピストルで、お
源造は心を落ちつける為に、長い間黙り込んでいた。この様な強敵に対しては、
「で、つまり俺をどうしようというのだね。君は一人だ。俺の方には七人の部下がいる。おまけに、この船はどこへでも走り出すのだ。俺の云った人質というのは、なにも妙子ばかりではないのだぜ」悪魔は不気味な嘲笑を浮べ、いきなり人差指を明智につきつけた、「君だよ、人質というのは。飛んで火に入る夏の虫という、古いせりふがあったっけね。フフフフフフフフ」
彼は含み笑いをしながら、部屋の隅の机に近づいて、その
「君の探しているのは、これじゃありませんか。君の留守中に、抜かりなく拝借して置きましたよ。僕だって、命は惜しいですからね」
明智はそう云いながら、ポケットからピストルを出して、相手に狙いを定めた。
「畜生ッ」
源造は、又しても先手をうたれて、地だんだを踏んだ。
「サア、文代さん。外へ出ましょう。僕達はまだ仕残した仕事があるのです。お父さんですか。ナニ、お父さんは暫くこの部屋で御休息願うことにしましょうよ」
明智の言葉に、文代はオズオズと立上って入口へ近づいた。
「コラ、文代、
源造の恐ろしい目が、刺す様に睨みつけた。
「お父さん。私も一緒に
文代は泣きながら、父をあとに残して部屋を出た。明智はそのドアへ、外から鍵をかけた。(鍵はさい前、ピストルと一緒に手に入れて置いたのだ)流石の源造も、相手が飛道具を持っているので、どうすることも出来なかった。
「サア、君はこれを持っていて下さい。そして、奴等が手向いし相だったら、構わずぶっ放して下さい」
明智はピストルを文代に渡して、部下の者を
と、出会い
「オイ、三次じゃねえか。どこにいたんだ。みんなで大探しをしているんだぜ」
淡い
「ウン、俺はここにいるんだ。お前みんなを呼び集めて来な。三次が見つかったって」
声も違う、云うことも変だ。併し相手は何も気づかず、いきなり大声で怒鳴った。
「オーイ、みんなア、三次がいたぞオ。ここにいたぞオ」
やがて、ゾロゾロ集って来た七人の前科者。みんな酔っぱらっている
「三次だって、オイ、こんな三次があるもんか。こいつ一体どこのどいつだ」
「成程、三次じゃねえ。ヤイ、貴様は誰だッ」
人違いと分ると口々にどなり
「僕は明智小五郎っていうのだ」
明智がおだやかな声で答えた。
「ワア」というどよめき。七人のものは、油断なく身構えた。
「みんな、手向いすると、うちますよ」
明智のうしろから、文代がピストルを構えて、姿を現わした。
「や、文ちゃんじゃねえか。これは一体どうしたというのだ」
酔のさめ切らぬ一人が、頓狂な声を立てた。
「どうもしない。君達を一人残らず縛り上げて、牢屋へぶち込もうという訳さ」
明智がほがらかに云い放った。
七人の者は、酒宴の最中だったので、武器を身につけていない。それはみんな船尾の彼等の部屋に置いてあるのだ。
武器の方へ、武器の方へ、一同云い合わさねど、心は一つだ。ジリジリとその方へあとじさりを初めた。
明智と文代は、それを追って一歩一歩進んで行く。
七人の一番うしろの奴が、とうとう船尾の部屋のドアを探り当てた。彼はそれを開いて中に飛込む、続いて一人、又一人、残らず部屋へ這入ってしまった。
明智はそこまでは、相手の
だが、明智ともあろうものが、何という向う見ずな
「僕はうまうま君達の計略にかかった様だね。ピストルが七挺と。さて、どこを狙ったもんだろうね。額か胸か、それともこうして笑っている口の中へぶち込むかね」
明智は云いながら、額を、胸を、口を、指さして見せた。
七人の者は、相手の余りの大胆さに気を呑まれて、やや暫く立ちすくんでいたが、
「ぶっ放せッ」
一人が叫んで、引金を引くと、一同気を取り直して、カチン、カチンと発砲した。
「オヤ、妙だね。カチンカチンと云ったばかりで、
「うぬ」
「畜生ッ」
てんでに叫んで、又カチンカチンとやって見たが、やっぱり駄目だ。
「君達は、僕がこの船に来てから、今まで何もしないでいる程ボンクラだと思うのかね。そいつはちっと不服だぜ。僕はすっかり戦闘準備をととのえて置いたのだ。それでなくて、一人ぽっちで、船一
アア何という恐ろしい探偵だ。彼は単身賊の汽船をとりこにしようとしているのだ。
「見給え。ここに細引が積んである。これが今に君達の身体へまきつこうという訳なのだ。この部屋へ逃込むことを見通して、ここに
賊共は、余りのことに開いた口がふさがらぬ。悪人であればある程、段違いの相手に出会うと、却って意気地なくへこたれてしまうものだ。七人の
明智は捕虜どもをその部屋に締め込んで置いて、再び元の首領の部屋へ取って返した。
来て見ると、源造をとじこめて置いた部屋では、恐ろしい騒ぎが始まっていた。ドアが風をはらんだ帆の様にふくらんで、メリメリメリメリと物凄い音を立てている。激怒した猛獣が、怒号しながら檻を破ろうとしているのだ。
「アラ、どうしましょう」
父ながら、余りの恐ろしさに、文代は明智の腕にすがりついて、悲鳴を上げた。
「構いません、疲れるまで、やらせて置きましょう。決して心配することはありません」
だが、果して心配しなくてもよいのだろうか。見よ、ドアの鏡板は已に破れたではないか。メリメリ、メリメリ、それに勢を得た猛獣は荒れに荒れて、とうとう扉に出入り出来る程の大穴をあけてしまった。
アッと思う間に、その穴から、源造の身体が、鉄砲玉の様に飛び出して来た。明智が文代の手からピストルを取って身構える間もあらばこそ、悪魔は巨大な
叶わぬと見て、海へ飛込むつもりだ。アア、ここで逃がしたら折角の苦心が水の泡だ。魔術師とまで呼ばれた怪賊、どの様な恐ろしい再挙を
その頃は已に東の空が白んで、甲板はもう薄明るくなっていた。
源造はそこへ走り出すや、いきなり一方の
「ギャッ」と悲鳴を上げた。
「ハハハハハハハ、どうですね。今度こそは、完全に僕が勝利を得た様ですね」
海面には、かすむ朝もやを隔てて、
進退
明智はやっぱり慌てもせず、ノソノソと賊のあとからおりて行く。
見ると、源造は、真暗な船底で、しきりとマッチをすっていたが、やがて、パッと燃え上ったのは、油のしみた
「アッ、危いッ。爆発薬です」
文代の絹を裂く様な
そこには賊の最後の武器が残っていたのだ。悪魔は絶望の極、恨み重なる明智を道づれに、船もろとも、我身を
だが、アア何というみじめなことだ。滑稽千万にも、
「それを僕が見逃がして置いたとでも思うのですか。触ってごらんなさい。火薬は水びたしですよ。ホラ、ここにあるこのバケツで、海の水を一杯、さい前ぶっかけたばかりです。いつまで待っても、爆発なんかするものですか」
恐ろしい名探偵が、とどめをさした。
「アア、俺は、俺は……」
源造は気違いの様に、我が髪の毛をかきむしった。そして、いきなり明智に
「お願いだ。殺してくれ。殺してくれ。この上
と
「お父さん、お父さん」
文代も、父のあまりのみじめさに、声を上げて泣き出した。
可哀相だ。併しそれだからと云って、この罪人を許す訳には行かぬ。まして、
「何という醜態です。悪人なら悪人らしく、正しい裁きをお受けなさい」
明智がつき放したので、源造はたわいもなく船底にぶっ倒れたが、暫くすると、ふと何か思い出した様子で、ピョコンと起上り、半狂乱の体で階段を駈け昇って、自分の部屋へ飛込んで行った。
戸棚を探すと、あった、あった、黄色い小さな薬瓶。これさえあれば、何も生恥をさらすことはない。
彼は目をつむって、その薬をゴクリと飲みほした。そして、グッタリと椅子に腰をおろし、空ろな目で、遠くの方をじっと見つめていた。
「アア、とうとうそれを飲みましたね」
明智が這入って来て、やっぱりニコニコしながら声をかけた。
「どうです。苦しいですか。あの薬どんな味がしましたね。変じゃなかったですか。シャンパンみたいな味がしなかったですか」
源造はそれを聞くと、不気味な表情で、ニヤニヤ笑った。余りのことに、もう驚く力もないのだ。笑ったかと思うと、両手を顔に当てて、さめざめと泣き出した。
「アア、ひどい。あんまりひどい。俺はこれ程の
流石の明智も、この体を見ると、少々後悔し
だが、悪魔はどこまでも悪魔であった。彼はもう泣いてはいなかった。泣くどころか、顔中を筋だらけにし、小鼻をいからし、口をひん曲げ、世にも恐ろしい呪いの言葉をはき始めた。
それを聞くと、明智はやっと安堵した。やっぱり俺のやり方は正しかったと思った。それ程も、悪魔の
彼は激怒した。半狂乱となった。はてはさめざめと泣き出した。両手を顔に当てて、
血の涙を流した。読者諸君、それが単なる作者の形容ではないのだ。真実、顔を覆った彼の指の間から、節くれ立った指の間から、ボトボトと真赤なしずくがたれたのだ。
明智も、文代も、それを見るとギョッとした。くやしさに唇を噛んだ位の血の量ではなかったからだ。
「どうかしたのか。オイ、どうかしたのか」
明智が駈け寄って、源造の顔から彼の両手を離そうとしたが、彼の手は
彼は、
「お父さん、お父さん。どうなすったの。そんなに泣かないで下さい。あたしが悪かったわ。あたしが裏切りをしたばっかりに、お父さんをこんな目に合わせて、……でも仕方がありませんわ。いさぎよく死刑になって下さいね。あたしきっと、お父さんの死刑になるその日に死んで見せるわ、そしてあの世へ行ってから、存分孝行しますわ。それで堪忍して、ね、堪忍して!」
叫ぶ様に喋りつづける。娘の悲痛な言葉が耳に這入ったのか、源造はやっと両手を離して、顔を上げた。だが、それは決して彼の激怒がおさまったからではなかった。顔を上げると同時に、彼の右手は、いきなり文代を突飛ばした。
文代は「アレー」と叫んで、部屋の隅へぶっ倒れる。
「馬鹿野郎め。どいつもこいつも大馬鹿野郎め。ワハハハハハハハ」
猛獣の
「サア、どうだ。俺はこうして死ぬんだぞ。こればっかりは邪魔が出来まい。探偵さん。何をボンヤリしているんだ。折角捕えた犯人が、死骸になってしまうぜ。ホラ、俺はこうして、もう一度、ウント舌を噛めば、のたうち廻って死んでしまうんだぜ」
わめくにつれて、傷ついた口中から、タラタラと血が流れ、顎を伝ってしたたり落ちた。
「お父さん、お父さん。堪忍して」
突き倒された文代が、起き上って、又しても半狂乱の父親にすがりついた。
「エエ、うるさいッ。すべたの知ったことかッ」
恐ろしい怒号と共に、彼女は再び投げ飛ばされた。
「サア、探偵さん。見ていてくれ。俺が舌を噛み切ってのたうち廻る所を。だが、その前に云って置き度いことがある。いいか。貴様は俺に勝った積りで、得意がっている様子だが、オイオイ、ボンクラ探偵さん。俺はまだまだ負けてしまったのじゃないぜ」
源造は、血泡に染まった口辺を、ペロペロとなめずりながら、火の様な息を吐いて、怒鳴り続けた。
「俺は死ぬ。貴様の目の前で死骸になって見せてやるのだ。併しね、それで君達が安心したら、ドッコイ飛んだ間違いだぜ。玉村親子にそう云ってくれ。俺の身体は死ぬ。だが、恨みに燃えた
血に染った口が、三日月型に、大きく大きく拡がったかと思うと、彼は已に生きながら怨霊にでもなったかの様に、不気味な声で、「ヒヒヒ……」と笑った。
流石の明智も、この物凄い有様には、ゾッと総毛立って、答えるすべを知らなかった。
「オヤ、貴様嘘だと思っているな。ホラ、その顔に……その顔に書いてある」
血まみれの源造が、ヒョイと手を上げて、明智の顔を指さした。
「今の世に怨霊のたたりなんてあるものかと、たかを
云い度い
「サア、見てくれ。見てくれ」
と
「アッ」と云って、駈け寄ったが、最早や
源造は仰向きに倒れ、手足を亀の子の様にもがきながら、断末魔の苦悶に陥っていた。もう目は黒目がつり上って、白くなり、鼻は小鼻を開いて、ヒクヒクと
鮮血は、泉の様に、口から顎へ、顎から床へと流れ落ちた。世にかくまで無残な死に方があるだろうか。明智は見るに耐えなかった。明智でさえそうなのだ。娘の文代が、余りの恐ろしさに気絶したのは決して無理ではない。
彼女は父の断末魔に接し、その血みどろの形相を一目見るや、ウーンとのけぞって、そのまま気を失ってしまった。
と同時に、明智のうしろの、ドアの側にも、別のうなり声が聞え、バッタリ人の倒れる音がした。驚いて振向くと、そこにも、気を失って倒れている女性があった。妙子だ。ただならぬ騒ぎをききつけて、彼女はいつの間にかここへ忍び出て来たのだ。そして、敵ながら、源造の恐ろしい苦悶を見て、脳貧血を起したのだ。
明智は当惑してしまった。一人は死に
当惑して佇んでいる内に、魔術師源造は遂に動かなくなってしまった。足をふんばり、手は宙を掴んだまま、青ざめた
部屋の中には、動くものとては何一つなかった。文代と妙子は死人も同然だし、当惑して立ちつくしている明智まで、生人形の様に動かなかった。
石油ランプは、窓から忍び込む暁の光に、色うすれて、虫の鳴く様な音を立てながら明滅していた。部屋中に朝のたそがれが立ちこめて、陰気な情景を、一層陰気に描き出していた。
それより少し前、水上署の大型ランチが、賊の汽船に
艇上の波越警部は、船内の明智を、しきりと呼び立てたけれど、何の答えもなく、第一賊船の甲板上には、いつまで待っても、人影さえ現われぬので、業をにやして、兎も角ランチから汽船へと、乗移って見ることにした。
さて、波越警部達が、どうして朝まだき、賊の汽船を襲うに至ったか。そして、際どいところで、賊が海中に身を投じて逃げ去ろうとするのを、食いとめることが出来たのか、偶然にしては少し話がうますぎるではないか。
イヤ、決して偶然ではなかった。これも
前夜の三時頃、一人の巡査が月島の海岸近くを巡廻中、海辺の石垣の方から、異様なうめき声、イヤ
不審に思って、駈けつけて見ると、
用意の懐中電燈で照らして見ると、立派な背広服を着た、併し余り人相のよからぬ男が、繩目の痛さに耐え兼ねて、オイオイ泣いているではないか。
「どうしたんだ。
と声をかけながら、ふと洋服の胸を見ると、そこに手帳でも破ったらしい紙切れが、婦人の頭髪用のピンで止めてある。
「オヤオヤ、変なものが止めてあるぞ」
と、引きちぎって、調べて見ると、紙切れには、鉛筆の走り書きで、次の様な妙な文句が書きつけてあった。
この者魔術師一味の小賊なり、直ちに警視庁波越警部に引渡されたし。
明智小五郎
彼はもよりの交番に飛込むと、直ちに警視庁を通じて、このことを波越警部の私宅へ報じた。警部は深夜ながら、時を移さず現場に駈けつけ、怪しの男を、手ひどく
明智としては、別に警察の応援を望んでいなかったかも知れない。併し、このちょっとしたいたずらが、案外な効を奏した。
波越警部は、
お話は元に戻る。波越警部は、船内から答えのないのを不審に思いながら、数名の部下と共に賊船の
「ヤ、蛇だ」
刑事の一人が頓狂な声を立てたので、驚いてその方を見ると、外へ開け放たれたドアの下から、ニョロニョロと、
人々は何ぜか、ゾッとして立ちすくんだ。
思いもよらぬ船の上で、突然蛇に出くわしたからでもあった。その蛇の頭部が、
その蛇は形は小さかったが、背後に、何かしら大入道の様な、巨大なものの影が感じられた。
蛇は、立ちすくむ人々を尻目にかけて醜怪な鎌首をもたげながら、踊る様な恰好に、左右に身体を振り動かし、部屋の外へ廻って、見えなくなってしまった。
蛇を追って二三歩進むと、開いたドアから、室内の異様な光景が眺められた。
「ア、明智さん。ここでしたか。……だが、この有様は……」
波越警部は二の句がつげなかった。
何という陰惨無残の活人画であろう。青ざめた蝋人形の様に、転がった二人の娘。断末魔の苦悶をそのままに、血まみれの指で、空間をかきむしった、怪賊の死体。夢見るが如く、ボンヤリ佇んでいる明智小五郎。
「明智さん。僕ですよ。波越ですよ」
ポンと肩を叩かれて、明智はやっと正気に返った。そして、警部に問われるままに、有りし次第を語った。
「ヤ、御苦労でした。大成功です。賊の
そこで警部は、刑事達に命じて、気絶した二人の女性をベッドのある部屋に運び、人工呼吸を施させたところ、二人とも、間もなく意識を取り戻した。それがすむと、船尾の部屋の七人の小賊共を引立てて、警察ランチへと乗移らせた。
それらの処置が一段らく終った時、元の船室に立戻った警部が、ふと思い出して、まだ
「この船には蛇がいますね、賊が飼っていたのでしょうか」
それを聞くと、明智の顔色が、サッと変った。
「エ、何ですって。あなたはその蛇を、ごらんになったですか」
その声が、余り頓狂だったので、今度は警部の方で、びっくりした。
「見ました。小さいけれど、何だか毒蛇みたいな、いやな恰好をしていました」
「どこで? どこで見たのです」
「アア、そうそう。さっき、この部屋から這い出して来るところを見たのですよ。だが、あなたは、なぜそんなにびっくりなさるのです」
「僕は幻を見たのだと思っていました。だが、あなたの目にも映ったとすると、幻ではない。一体そいつはどちらへ行ったのです」
警部が、船室の外を曲って見えなくなった由を答えると、明智はセカセカとその方へ歩いて行って、隅々を探し廻ったが、あの蛇が今時分までその辺にいる筈はない。
彼は空しく引返して来て、彼らしくもない恐怖の表情を浮べながら、妙なことを云い出した。
「奥村源造の死にざまは、さっきもお話した通り、目も当てられぬ無残なものでした。あいつは恐ろしい執念に我れと我が身を苦しめて、ゾッとする様な呪の言葉を叫びつづけながら、
僕はそれを、どうすることも出来ないで、じっと眺めていました。息絶えて動かなくなった死骸から、俺の怨霊は永久に生きているのだという、あの恐ろしい叫び声が、まだ聞えて来る様な気がしました。……
奴の指先きの、
その小蛇は、しばらくの間、顔の上をノロノロと這い廻って、焔の様な黒い舌で、血のりを
僕はギョッとして、その辺にあり合う棒切れを掴むと、いきなり小蛇をなぐりつけようと身構えましたが、蛇もその勢に恐れをなしたのか、僕をよけて、部屋の外へ消えてしまったのです。ただそれ丈けのことです。でも、これが偶然の出来事でしょうか。船の中に蛇がいたのも変です。しかもその蛇が、あいつが息を引取ると同時に、血のりの中から湧出す様に、姿を現わしたのは決してただ事でありません。若しやあの蛇が、死体から抜け出した奴の執念深い怨霊なのではあるまいかと思うと、笑って下さい、僕は何かに身を縛られた様になって、立ちすくんだまま動けなくなってしまったのです」
聞いていた波越警部も、その小蛇が、背筋を這ってでもいる様に、ゾッと気味悪くなって来た。
彼等は両人とも、怪談を信じる様な、古風な人間ではなかった。それにも拘らず、何か物の怪に襲われた様な、異様な戦慄を感じたのは
だが、兎に角事件は落着した。あれ程世間を騒がせた怪賊魔術師も、遂に自滅してしまった。八人の部下(船中で捕えた七人と、月島海岸にころがっていた一人)は、
玉村氏は勿論、警察でも、賊の余類がどこかに潜伏していはしないかとその点は最も厳重に訊問したが、如何なる拷問も、ないものを生み出すことは出来ぬ。文代さえも、
玉村家に久し振りで明るい生活が戻って来た。彼等は地底の水責めで、半病人の
二ヶ月余り、何のお話もなく
怪賊のお蔭で一層有名になった、玉村宝石店は、群小同業者を圧して、メキメキと営業成績を上げて行った。家族一同の健康もすっかり
だが、事件は果して真に落着したのであろうか。奥村源造の死に際の呪いの言葉は、単なるいやがらせに過ぎなかったのであろうか。それにしても、あの小豆色の小さな毒蛇は、一体何を意味しているのだろう。
ある朝のこと、妙子さんと貰い子の進一少年との寝室(進一少年はこの物語の初めの方で顔を見せた切り、事件にとりまぎれ、ついその存在を忘れられていたが、彼は玉村家の血筋ではないので、賊の迫害こそ受けなかったけれど、家族一同の苦しみを、少年は少年丈けに、恐怖もし心配もしていたのだ)から、何とも形容の出来ぬ、物凄い悲鳴が、家中に響き渡った。
まだ家族のものは、床を離れぬ早朝であったので、一同その声にハッと眼を
かけつけて見ると、妙子さんは、白いベッドの上に半身を起して、開ける丈け開いた目で、キョロキョロとあたりを見廻していた。同じベッドの進一少年も、妙子さんの胸にしがみついて震えている。だが
「夢を見たのか。びっくりするじゃないか」
善太郎氏が、たしなめる様に云うと、妙子さんは強くかぶりを振って、
「夢じゃありません。たしかにこのシーツの上にとぐろを巻いていたんです。あたし、何か重くなったものだから、目を覚したのですもの。……」
「とぐろをまいていたって?」
「エエ、あなた方、今廊下で、誰かにお逢いにならなかって? 大きな、
それを聞くと、一同ギョッと色を変えた。角力取りみたいな男! 読者は記憶せられるであろう。第一回の殺人事件は、魔の様な巨人の仕業であったのだ。普通人の倍もある血の手型。闇の中を走り去った、七八尺もある様な
その後、賊は魔術師の様な怪人物と分ったので、あれも魔術的な一種の変装であったのだろうと、警察でも、明智小五郎さえも、
「角力取りだって? お前そんな奴を見たのか」
善太郎氏はただならぬ
「エエ、たった今、そのドアをくぐって、出て行ったばかりなのよ。あなた方の目につかなかった
「お前が、叫び声を立ててからか」
「エエ、そうよ」
「それじゃ逃げ出す暇はない。わしらは、廊下の両側からかけつけたのだから、誰かが見なければならない筈だ。一郎、二郎、お前達そんなものを見はしなかっただろうね」
「馬鹿なことがあるものですか」一郎が例によって、怪談を否定した。「僕等は勿論誰にも会やしないし、第一、そんなべら棒な大男が、家の中に這入って来る道理がないじゃありませんか。妙子は夢を見たのですよ。どうせ、胸に手でものせていたんだろう」
「イイエ、お兄さま、夢じゃないのよ。なんぼあたしでも、夢なんかでこんなに騒ぎやしませんわ」
「マアいい。それで、角力取りみたいな奴が、どうしたんだね。……君のシーツの上にとぐろでも巻いていたのかね」
一郎はからかい顔だ。
「マア!」妙子は憎らしげに兄を睨んで置いて、父親の方へ向き直った。「お父さま、とぐろを巻いていたのは、小さな、小豆色の蛇ですのよ。ホラ、ここに、まだシーツの上が
「エ、小豆色の蛇だって」
善太郎氏は非常な恐怖の色を浮べた。彼は恐ろしく蛇嫌いであった。ヘビと聞いた丈けでも顔色が変る程であった。だが、今非常な恐怖を感じたのは、ただそれ丈けの理由ではない。
一郎も二郎も、それを知らなかったけれども、善太郎氏は明智小五郎から、賊の最期について詳しい話を聞いていた。例の怪しげな蛇の一件も、それが賊の
「その蛇は、どこへ行った」
彼は青ざめて、キョロキョロ身辺を見廻しながら尋ねた。
「あたしが、びっくりして飛起きると、チョロチョロとベッドを伝い降りて、ドアの方へ走って行きました。そして、その入口の所で、鎌首をもたげて、まるで人間みたいに、じっとあたしの顔を見つめているのです。それから……」
「それから?」
「それから妙なことが起ったのです。又一郎兄さまに叱られるかも知れませんわ。余り変なのですもの。あすこの鼠色の壁から浮き出す様に、一人の天井につかえ相な、大男が現われて、ハッと思う内に、スーッと、外へ出て行ってしまったのです。そして、蛇も、その人がいなくなると見えぬ様になってしまいました」
「ハハハハハハ、まるで石川五右衛門の忍術だね。鼠の代りに蛇を使って」
案の定、一郎がお茶を入れた。
だが、善太郎氏は笑えなかった。忍術と聞くと一層変な気持になった。
若しや奥村源造はまだ生きているのではあるまいか。船の中で死んだのも、共同墓地へ埋葬せられたのも、彼の所謂魔術ではなかったのか。死んだと見せかけ、どこかに潜伏していて、ほとぼりのさめた今頃又姿を現わし始めたのではあるまいか。若し生きているとしたら、あいつは蛇の忍術だって使いかねぬ怪物だ。とそんなことまで考えた。
それから一郎二郎の兄弟や、書生達に命じて、家中
「お父さん、気になさることはありませんよ。夢です。妙子が夢を見たのですよ」
一郎に云われると、成程そうかとも思うので、善太郎氏は警察沙汰にする様なこともなく、その日はそのまま済んでしまったが、二三日たった夜のこと、又しても恐ろしいことが起った。しかも今度は、当の善太郎氏が襲われたのだ。
――庭の池の亀を見ていると、その可愛らしい亀の頭がニューッと伸びて、小豆色のまだら蛇になった。
蛇嫌いの善太郎氏は「ギャッ」と云って、逃げ出したが、走っても走っても、蛇の頭がすぐうしろにあるのだ。そいつは亀の胴体から、紐の様に無限に伸びて来るのだ。
庭の向うに一郎、二郎、妙子の兄妹が笑い興じていた。善太郎氏は「助けてくれ」と叫びながら、その中へ入って行った。そして、三人に囲まれながら、うしろを見返ると、細い紐の様な小蛇が、いつのまにか、胴廻り一抱えもある様な、庭一杯の大蛇に変っていた。
「アッ」と思う内に、親子四人とも、その大蛇の為に、グルグル巻きに巻き込まれてしまった。むせ返る様な蛇の体臭、ヌルヌルした肌触り。
大蛇は、徐々に四人を絞めつけながら、空一杯の鎌首をもたげ、火焔の様な舌をはいて、頭の上から、ただ一呑みと迫って来る。……
我れと我が悲鳴に、ヒョイと目を開くと、ベッドの中でビッショリ汗をかいていた。今のは夢であったのだ。
「アア、夢でよかった」
善太郎氏はホッと安心して、寝返りをしようとしたが、オヤッ、何だか掛け
彼は鎌首をもたげて(それが夢の中の蛇とソックリの格好に見えた)その方を眺めた。眺めたかと思うと、今度こそは、本当に「ギャッ」と絞め殺される様な悲鳴を上げた。妙子の場合と同じだ。掛蒲団のシーツの上に、小豆色のまだら蛇が、とぐろを巻いていたのである。
善太郎氏が飛び起ると、蛇は床を這って素早く逃げてしまった。と同時に、黒い影が(なんとそれが出羽ヶ嶽みたいな巨人だったではないか)スーッとドアの外へ姿を消した。あとになって考えて見ると、その大入道は、さい前から、部屋の隅で、善太郎氏の寝姿をじっと見守っていたらしいのだ。
それから起ったことは、妙子の場合と全く同じであった。蛇も角力取りも、煙の様に消え去って、どこを探しても、影さえなかった。
ただ違っている点は、角力取りの消え去ったあとに一枚の紙切れが落ちていたことだ。
しかもゾッとしたことには、その紙切れには「奥村源造」と、簡単ながら、非常に恐ろしい四文字が書きつけてあった。怨霊は彼の名札を残して行ったのだ。
遂にこのことが警察沙汰になった。明智小五郎も再び事件の依頼を受けた。
「魔術師はまだ生きている」
どこからともなく、そんな
警察でも、捨て置き難く、協議の結果、奥村源造の墓をあばいて、死体が紛失してはいないかと、確めて見るという騒ぎになった。
源造の死体は、後日の為に土葬にしてあったので、着衣や骨格は元のまま残っている筈だ。そして、事実残っていた。あらゆる点が源造の死体に相違ないことを示していた。彼はやっぱり死んでいるのだ。死体が夜な夜な墓場を抜け出して、蛇使いの大入道に化けて出るなんて、ベラ棒な怪談を信じる訳には行かぬ。
これには何かしら、死人の残して行ったトリックがある。死後必ず復讐がとげられると思えばこそ、
そこで、当時まで未決監にいた一味の者共が、厳重な訊問を受けた。だが、部下の者八人が八人とも、誰一人首領の秘密を打開けられているものはなかった。文代にも今度の事は全く見当さえつかなかった。
玉村一家の人々は、又しても極度に神経過敏となった。殊に善太郎氏は、大嫌いな蛇がからんでいるだけに、
家内のもの四人の寝室がとりかえられた。同じ廊下に面した四つの洋室が、奥から一郎、妙子、善太郎氏、二郎の順で割当てられた。幸いその廊下は奥が行止りになっているので、窓さえ用心すれば、通路と云っては廊下の入口たった一箇所であった。廊下の窓も四つの寝室の窓も、窓という窓は
善太郎氏は、それでもまだ安心が出来なかった。自分の家ではあるけれど、若しや知らぬ間に、部屋の中に秘密戸でも出来ていはしないかと明智小五郎の助けを借りて、四つの寝室を、床と云わず天井と云わず、壁と云わず、
糸の様に細く伸るという
数日は何事もなく過去った。だが、右の用心を施してから丁度一週間目の深夜、人々は、物悲しい
アア、あの
まっ先に飛び起きたのは二郎であった。彼がその笛の音を一番よく聞き慣れていたからだ。
こんな時には、ドアに鍵をかけて置いたのが非常な邪魔になる。鍵を探して、もどかしくドアを開けて、廊下に飛び出して見ると、向うの端に寝ずの番の書生がボンヤリと立っている。
「誰か通りやしなかったか」尋ねて見ると、
「イイエ」
とけげん顔だ。まさか角力取りみたいな奴を見逃がす筈はない。マアよかったと思いながら、耳をすますと、いつしか笛の音はやんでいる。
「君、妙な笛の音を聞かなかった?」
「エエ、聞きました。僕も変だと思っているのです」
「どの辺から聞えて来た?」
「
二郎はそれを聞くと、まさかとは思うものの、やっぱり気になるので、念の為に父の部屋を開けて見ることにした。
鍵は四部屋とも共通のものであったから、外からドアは開く。なるべく音のせぬ様に鍵を廻すと、彼はソッと寝室の中を覗き込んだ。覗き込むや
笛の音で、已に目を覚ましていた、外の二人も、二郎の声に驚いて飛び出して来た。
「どうしたんだ。二郎」
「お父さんが、お父さんが、……」
一郎も妙子もドアの前に来て、二郎の指さす所を見た。そこには、父善太郎氏が、イヤ、善太郎氏の死骸が、ベッドを転がり落ちて、倒れていた。
両手は喉の
二目と見られぬ無残な形相だ。併し、それよりも一層恐ろしい一物が、死人の頸に巻きついていた。小豆色の蛇だ。源造の怨霊だ。善太郎氏は恐らく、睡眠中この蛇に頸をしめつけられて、死んだものに相違ない。
死体の上には、例によって、早咲きの桜の花弁が、雪の様に
蛇は人々の立騒ぐ物音に驚いたのか、死人の頸を離れ、スルスルと床を這って逃げようとした。
「畜生め、畜生め」
気の強い一郎は、いきなりそれを追って、蛇の頭を革のスリッパで踏みにじった。
蛇はピチピチ躍り廻って、一郎の足に巻きついて来たが、頭を踏み砕かれては、おしまいだ。もろくもグッタリと死に絶えてしまった。
一方では二郎と妙子とが、父を
「だが、一体この蛇は、どこから入って来たんだろう」
ドアには少しも隙間がなかった。庭に面した窓のガラス戸は、皆釘づけになっていた。天井の通風孔には、厳重に金網が張りつめてあった。それらを凡て調べて見たが、どこにも破損した箇所はない。
不思議だ。蛇だけならまだしも、蛇の外に人間が入って来た筈だ。そして、善太郎氏の死に切ったのを見届けて、又煙の様に出て行った筈だ。なぜと云って、蛇には横笛も吹けないし、花びらも撒けないからである。
魔術師奥村源造は死んでしまった。彼の死体は共同墓地で腐っている。それにも拘らず、奥村源造は生きているのだ。彼は彼自身の名札を示し、生前と寸分違わぬ不思議の手段によって、敵と狙う玉村氏を殺害したのだ。
読者諸君、この奇怪事を何と解釈すればよいのであろうか。寝室は釘づけにした箱の様に密閉されていた。その中へ蛇が
一郎も二郎も妙子も、父を失った悲歎に加うるに、この不可解事を見せつけられ、まるで思考力を
兎も角も警察に知らせなければならぬ。一郎は電話室へ走って行って警視庁と明智のアパートへこのことを報じた。
やがて、波越警部と明智小五郎がやって来た。彼等は同じ事件で、同じ玉村家で再び顔を合せた。
綿密
「明智さん。あなたのご意見は? 残念ながら、僕には、まるで見当がつきません」
波越警部は正直に
「そうです。不可解と云えば不可解です」明智は流石にいつものニコニコ顔ではなかった。「密閉されたる部屋に人間が出入り出来ないのは、云うまでもありません。仮令彼が合鍵を持っていたとしても、見通しの廊下にちゃんと番人がいたのですからね。
しかも、あの書生は、一点疑う余地のない人物です。もう三年も
そういう考え方をすれば、不思議は色濃くなるばかりです。併し、殺人が行われたからには、犯人が入らなかった筈はない。波越さん、あなたは『蜜柑の皮をむかずして中身を取出す法』というのをご存じですか。高等数学の数式上では、それが可能なのです。つまり、この犯罪は、中学などでは教えない、高等数学に属するものかも知れませんね」
明智は妙なことを云い出した。一体高等数学の犯罪なんて、あるものかしら。又、高等数学を心得た犯人は、そんなに易々と密閉された部屋に入り得るものだろうか。
「目の角度を変えるのです。同じ物体でも、正面から、うしろから、横から、斜めからと、色々な見方がある。そして、見方を変えるに従ってその物体も、ある場合には、まるで違ったものに見えるではありませんか」
波越警部は、明智の云う意味がボンヤリと分って来る様な気がした。
「では、若しやあなたは、……」
彼はハッとした様に顔色を変えて、明智の目の中を覗き込んだ。ボンヤリと分って来た意味が余りにも意外な、恐ろしい事柄であったからだ。
さて、怨霊のたたりは、それで終ったのではない。善太郎氏の次には三人の兄妹がある。彼等は父の死を悲しんでいる暇もなく、早くも
一郎と二郎とは、西洋風に毎朝ベッドの中で、コーヒーを飲む癖があった。その朝も(善太郎氏の葬儀をすませて数日後のことだ)小女の持って来たコーヒーを飲んだが、間もなく、烈しい腹痛を覚え、
二人とも、その朝のコーヒーが余り苦かったので、半分程しか飲まなかったが、若しすっかり飲んでいたら、一命にも関するところであった。分析の結果、コーヒーの中に、ある毒物が混入してあったことが分ったのだ。召使一同厳重に取調べられたが、一人も疑わしい者はなかった、皆
今度は毒蛇ではない。あのいまわしい
開化アパートの書斎へ警部が入って行った時、明智は、机の上に大型の書物を開いて、読み
「読書ですか」
波越氏が、
「イヤ、本を開いて、考えごとをしていたのです。読んでいた訳ではありません」
明智が、ボンヤリした顔を上げて、答えた。
「何を考えていたのです。奥村源造の怨霊についてですか」
「イイエ、もっと人間らしいことです。美しい幻です。僕だって、犯罪以外のことを考えない訳ではありません」
「ホウ、美しい幻? 景色ですか。絵ですか。それとも歌ですか」
警部も柄にない云い方をする。
「もっと美しいものです。人の心です。純情です」
「純情? といいますと」
「奥村文代を、早く出獄させてやる訳には行かぬでしょうか」
「アア、賊の娘の文代ですか。成程成程、あの娘は可哀相です。あれは最初から、我々の味方だったのですからね。悪魔の様な父親との間にはさまって、どんなにか心を痛めたことでしょう。無論無罪放免ですよ。ただ時期の問題です」
「いつ頃でしょう」
「ハハハ……、あなたの美しい幻というのは、つまりその文代のことだったのですね。あの美しい文代が、あなたの為に、どれ程つくしたかということは、僕もよく知っていますよ。文代の恋がなかったら、玉村家の人は、とっくに死に絶えていたのですからね」
「僕はなぜか、あの娘のことが忘れられないのです。父親とは似てもつかぬ、身も心も美しいあれの幻が、目先にちらついて仕方がないのです」
明智は子供らしく、ありのままを告白して、少し顔を赤らめさえした。
「仮令犯罪者の娘でも、文代なれば、あなたがどれ程親しくなさろうと、僕は苦情を云いませんよ。あんな純情の女は滅多にあるものではありません。……玉村の妙子さんと比べても、決して見劣りがしませんからね。顔も心も」
明智は妙子の名を聞くと、なぜか
妙子とは嘗つてS湖畔にボートを浮べて、友達というよりは、恋人の様に語り合った記憶がある。玉村家の事件に手を染めたのも、妙子さんの切なる依頼があったからだ。波越警部も薄々それは感づいていたに違いない。と思うと、恥かしさ、腹立たしさに、彼は不快の表情を隠すことが出来なかった。今では彼は妙子がゾッとする程嫌いなのだ。文代を知ったからばかりではない。もっともっと深い理由があった。
波越警部は、明智のこの心持を察しる程敏感ではなかった。彼は云いたいままを口にした。
「妙子さんと云えば、今度の毒薬事件について、あなたが冷淡だといって、不平をこぼしていましたっけ。もっと熱心になって下さる様に、お願いしてくれということでしたよ」
明智は黙って、やっぱり眉をしかめたままだ。返事をするのも不愉快だという顔付である。
「イヤ、妙子さんばかりじゃない。僕も実は、あなたの本当の御意見が聞き度いのです。あなたは玉村善太郎氏が殺された時、この犯罪は高等数学だと云いましたね。僕はその後ずっと、あれが気掛りになっているのです。どう考えて見ても、その意味が分らないのです」
波越氏は、話を本題に導いて行った。
「凡ての既成観念をうっちゃってしまうのです。赤ん坊の様な単純な頭になって、出直すのです。大人というものは、浮世の雑念に捉われ過ぎて、却って本当のことが分らない。ありありと見えている物が、見えないのです」
明智は禅宗坊主みたいな云い方をした。探偵学もある意味で禅と同じ様なものかも知れない。こいつが、実際家の波越警部には一番苦手だ。彼は苦笑しながら、
「サア、そこが分らないのですよ。君の
と逆襲した。
「見えていますとも」
明智は平然として答えた。
「すると、つまり、君は玉村氏を殺し、一郎二郎の兄弟に毒を盛った真犯人を、知っている訳ですか」
警部の
「知っているのです」
驚いたのは警部の方だ。無理もない。この素人探偵は、警察があれ程騒いでも、
「まさか冗談ではありますまいね。僕は
「冗談ではありません」
「では、聞かせて下さい。その真犯人は何者です。どこにいるのです」
波越警部は、意気込み烈しくつめよった。
「今夜十時まで待って下さいませんか。決して逃げる心配はありません。かっきり十時に犯人をお引渡ししましょう」
明智はまるで、ありふれた世間話でもしている調子だ。
「エ、エ、なんですって、すると君は、その犯人を已に捉えているのですか。どこです。どこにいるのです」
「そんなに慌てることはありません。今、その場所を云いますから、よく覚えて下さい。そして、あなた一人で、かっきり十時に、そこへ来て下さい。多分犯人をお引渡し出来ると思います。場所は
明智の云うことは愈々変だ。何という奇妙な捕物であろう。
「よく分りました」警部は明智の指定した道順を
「非常に意外な人物です。無論あなたもご存じの者です」
「誰です、誰です」
警部は思わずせき込んで尋ねる。
「……」
明智が、波越氏の耳に口を寄せて、何事かボソボソと囁いた。
「そ、そんな馬鹿なことが!」
警部は飛上らんばかりに驚いて叫んだ。
「あり得ないことです。いくらなんでも……何か確証があったのですか。それについて」
「詳しく云わなければ分りませんが、無論証拠もあるのです」
それから、明智は三十分程もかかって、その真犯人を発見するに至った
併し、妙子さんは美しかった。文代びいきの明智の目にも、顔形の美しさでは、妙子さんの方が数段まさって見えることを否定出来なかった。
彼女は、肉体の線があらわに見える様な、絹の春服を身に纒い、顔にも手にも、念入りのお化粧を施していた。
「あたし、おそくなってしまって。お待たせしましたでしょうか」
彼女は薄絹の手袋をぬぎながら、あでやかに笑って見せた。
明智は
「お待ちしていました。兄さん達のお加減は如何ですか」
「エエ、有難う。まだ起きられませんけど、大分いい様ですの。本当に御心配をかけまして」
妙子はソファに腰かけながら、まだ外套を手にして立っている明智を、
明智は妙子のソファと向き合った長椅子に身を沈めた。
妙子はお礼やら、父を失った悲しみやら、えたいの知れぬ犯人の恐れやら、女らしくクドクドと話し続ける。
いつまで待っても、用件が分らぬので、明智はとうとうしびれを切らして、ぶっきら棒に尋ねた。
「で、ご用件は?」
妙子は「マア!」という表情で、やさしく睨んで見せたが、
「外の用件がある筈はございませんわ。父を殺した犯人を探し出して頂き度いのです。そして、私達兄妹を安心させて頂き度いのです。あんな毒薬騒ぎが起る様では、怖くって、オチオチ邸にいることも出来やしませんわ。……その後何か手掛りがございまして? 安心の為に詳しくお話し下さいませんでしょうか」
「そんなに御心配なさらなくても、もう明日からは、決して何事も起りませんよ」
「マア、それでは何か判りましたのね。聞かせて下さいまし。どうか」
妙子は熱心の余り、我を忘れたかの様に、ソファを立って来て、長椅子に明智と膝を並べて腰かけた。
「ね、それを、聞かせて下さいませんか?」
彼女は、さも無邪気らしく、明智の膝に手をかけて、その上によりかかる様に身体をくねらせて、下から、明智の顔を見上げるのだ。
明智は、ピッタリと密着した相手の膝の、すべっこい
アア、何という大胆な令嬢であろう。
明智は極度の困惑を感じた。妙子さんは美しいのだ。彼女の身体はなまめかしいのだ。そしてその愛すべき
彼は心の底から湧き上って来る身震いを、どうすることも出来なかった。恐ろしいのだ。何とも形容し難い恐怖だ。
「そんなに聞き
明智はやっと
「エエ、聞きとうございますわ」
恐ろしいことには、物を云う度に、妙子の赤い唇が段々接近して来るのだ。
「犯人が分ったのです」
「マア、犯人が……」
驚きの余り、妙子の顔が、一刹那青ざめて見えた。
「何者でございますの? その、犯人は」
まるで救いをでも求める様な、弱々しい表情になって、なよなよと明智の膝に
「知り度いですか」
明智はよりかかって来る、柔い肉塊を、ソッとかわす様にして云った。
「エエ、無論知りとうございますわ」
「あなた、勇気がおありですか」
「マア」妙子は息を引いた。「勇気ですって? どうして勇気が
「犯人は、ある空家にいるのです。そいつの顔を見る為には、淋しい空家に入らねばなりません」
「でも、そんな。あたし犯人を見たいとは思いませんわ。ただ、捕まえて下されば……」
「無論捕縛します。併し、あなたは犯人が憎くはありませんか、一目見てやり度いとは思いませんか」
「エエ、父の
「イヤ、男ではないのです。犯人は女性なのです。しかもあなたのよく知っている人です。面と向ってあなたに危害を加え得る様な、強い女ではありません。その上相手に悟られぬ様に、こっそり
「マア、あたしの知っている女の人でございますって? 誰でしょう。ちっとも心当りがないのですが」
「非常に意外な人物です」
「アア、若しや奥村源造の娘の文代ではありませんか」
「違います。文代はまだ未決監にいるのです。もっともっと意外な人物です。今夜十時になれば、そいつは捕縛されるに極っています。明朝は世間に知れ渡ってしまうのです。若し、それまで待ち切れなかったら、その空家へ行ってソッと隙見をなさいませんか。波越さんも僕も無論そこへ行くのです。あなたは多分犯人が逮捕される現場を見ることが出来ましょう」
「それは、一体どこの空家でございますの」
妙子は、もう明智の膝を離れて、犯人逮捕の吉報に夢中になっていた。無理もない。父が惨殺されたばかりか、奥村源造には、彼女自身も、度々死ぬ様な目に合わされている。そいつの片割れが発見されたとあっては、昂奮しないではいられぬのだ。
明智は、さい
「その石門を入ると突当りに玄関があります。ドアを押せば開く様になっています。あなたは、一人でそのドアを入って、廊下を真直に歩いて行くと、開け放った広い部屋に出ます。その部屋の右側に、緋色のカーテンが下っている。カーテンの向側には、別の小部屋があって、電燈がともっています。あなたは、緋色のカーテンの合せ目を開いて、そっと中を覗けばよいのです。そこに犯人がいるのです」
何という奇妙な方法だろう。妙子も波越警部と同じく、なぜそんな廻りくどいことをするのかと、不審を抱かないではいられなかった。
「犯人を見ようと思えば、今僕の云った順序を、完全に守って下さらねばいけません。若し間違うと、非常に困る事が起るのです」
明智は更らにもう一度、空家への道順と、隙見の方法を繰返した。
「でもあたし、何だか気味が悪うございますわ。あなたとご一緒に行けるといいのだけれど」
「それは駄目です。あるトリックによって、犯人をその部屋へおびき寄せるのが、僕の仕事なのです。そして、波越警部に引渡すまでは安心が出来ません」
「では、波越さんにお願いして、お
「それも駄目です。そんなことを頼めば、なぜ秘密を打開けたかと、僕が叱られますよ。あなたは一人でいらっしゃい。でなければ、
取りつく
彼女はなおも
明智に分れてアパートを出た妙子は、その不気味な空家へ行って見ようか、どうしようかと、とつおいつ、長い間思案をしていたが、とうとう行って見ることに心を極めた。
早く敵の顔が見たいという憎しみ、一体誰だろうという好奇心、小説的な冒険の誘惑、色々な心持が、彼女を行け行けとそそのかした。併し、若しそれ丈けの理由であったら、彼女は行かなかったかも知れない。
外に一つ、どうしても行かずにはいられない理由があった。翌朝まで待てば分ることを、その僅かの時間さえ待っていられない、せっぱつまった気持があった。見るのも恐ろしい。だが、待つのは
彼女は、
横町を曲ると、陰気な住宅街で、頭より高い生垣が、両側にまるで
闇夜は距離を二倍に見せる。さ程でもない道のりを、妙子は、この生垣の中で、
だが、やっとそれらしい石門が見つかった。星明りにぼんやり見える西洋館の屋根は、真黒な大入道の様であった。余りの不気味さに、
「いっそ帰ろうかしら」
と引返しかけたが、といって、犯人の隙見をあきらめる気にはなれぬ。単なる好奇心なら、引返しもしたであろう。だが、彼女には、彼女の外は誰も知らぬ、好奇心以上の、せっぱつまった必要があったのだ。
足音を忍ばせて、門を入り、雑草の生いしげった地面を、玄関へとたどりついた。
押して見ると、ドアは音もなく開いた。
心臓が異様に波打ちはじめた。
アア、もう少しで、ほんの数秒の後には、真犯人を見ることが出来るのだ。と思うと、妙子は苦しさに息がつまり相だった。身がすくんで、ヘナヘナとくずおれ相な気がした。
だが、全身の気力をふるい起して、やっとそれに打勝った。
彼女は、広い廊下を
明智の言葉にたがわず、広い部屋に出た。右手を見ると、
あのカーテン一枚を隔てて、向側には、恐ろしい犯人がいるのだ。
仮令相手が女にもせよ、気づかれては大変だ。絹ずれの音も、幽かな空気の動揺も、注意しなくてはならぬ。
妙子はつま先で歩きながら、息を殺して、カーテンに近づいた。
じっと聞耳をたてても、何の気配も感じられぬ。犯人は、身動きもせず、誰かを待受けているのではなかろうか。誰を? 若しかしたら、妙子その人を待受けているのではないか。と思うと、身体中の
だが、ここまで来たものだ。今更ら躊躇している場合でない。入口で手間取ったので、約束の十時はとっくに過ぎた筈だ。
妙子はソッとカーテンの合せ目に指をかけた。そして、ジリリ、ジリリ、動くか動かぬか分らぬ程の速度で一
糸の様な、細い細い光線が、合せ目を漏れて、妙子の青ざめた顔に、一筋の線を引いた。
彼女は血走った目で、その隙間から、向うの室内を覗いた。細く区切られた眼界には、何者の姿も見えぬ。
息をつめて、不格好な逃げ腰になって、一分ずつ、一分ずつ、カーテンの隙間を拡げて行った。
アア、今にも、カーテンの蔭に待構えている曲者が、パッと、猛獣の様に飛びかかって来るのではあるまいか。
妙子はつめている息が、そのまま絶えて、死ぬのではないかと思った。心臓の鼓動がピッタリ止ってしまった様な気がした。
だが、不思議なことには、カーテンの
少しずつ大胆になりながら、彼女はカーテンを段々広く開いて行った。もう部屋の隅々まで一目に見える。誰もいない。といって、人の隠れる様な場所も見当らぬ。
カーテンの合せ目から、ひょいと首をつき出して、グルッと部屋の中を見廻した。全く空っぽだ。
まさか、明智が、妙子さんをかついだ訳ではないだろう。でも、あんなに時間に念を押して置きながら、この有様は少し変だ。
彼女は、サッとカーテンを開いて、部屋の中へ這入って行った。イヤ、這入って行こうと、一歩足を踏み出した。
踏み出すと同時に、彼女はギョッと立ちすくんでしまった。
部屋の正面にも、今彼女が開いたのと同じ色のカーテンが下っていた。それが、まるでこちらの真似をする様に、サッと開かれ、その向うから一人の人物が――美しい女が現われたのだ。
明智は犯人は女だと云った。すると、この娘が恐ろしい殺人者なのであろうか。
妙子は真青になって、両眼を飛出す程見開いて、じっと相手を見つめた。
相手の方でも、余程驚いたらしく、やっぱり異様に青ざめて、びっくりした目でいつまでもこちらを見つめている。
ほの暗い電燈の光が、二人の女の、不可思議な対面を、異様な陰影で描き出していた。
暫くすると、相手を見つめている妙子の顔に、ホッと安堵の色が浮んだかと思うと、彼女は突然ゲラゲラ笑い出した。しかも、その次の瞬間には、ハッと何事かを思い出した様に、世にも恐ろしい恐怖の表情を示して、「キャーッ」と本当に絹を裂く様な、鋭い悲鳴を上げた。
その声が、ガランとした部屋の中に、物凄くこだまして、
と、玄関の暗闇の中から、影の様な人物が、ニューッと現われて、妙子の行手に立ちふさがった。
「アハハハハハハハ、逃げようたって、逃げられやしないぜ」
その男はふてぶてしい声で云って、ギュッと妙子の肩を掴んだ。巨大な手の平、恐ろしい力、小雀の妙子は、振り切る力もなく、ヘナヘナとその場へくずおれてしまった。
丁度その時、赤いカーテンの部屋の隣室では、電燈もつけぬ真暗な中に、三人の人物が、妙な格好で一かたまりになって、古壁の小さな穴を覗いていた。
誰があけたのか、壁に一
穴の正面に例の妙子の開いたカーテンが下っているので、覗いている三人には、妙子が、外からそのカーテンを開いてから、悲鳴を上げて逃げ出すまでの、一切の挙動、表情が、手に取る様に眺められた。
「明智さん、妙子はどうして、あんな恐ろしい悲鳴を上げて、逃げ出したのです」
妙子の姿が消えて、やっとしてから、三人の内の一人が、壁の穴から目を離し、囁き声で云った。
「あの顔を見ましたか」
明智と呼ばれた、黒い影が聞き返した。
「エエ、見ました。僕は妹があんな恐ろしい顔をしたのを、見たことがありません。何だか全く別の女みたいな気がしました」
妙子を妹と呼ぶのを見ると、この人物は、玉村家の兄弟の一人に相違ない。
「人間は、一生の内、
明智の声が云った。
「恐怖の表情です。人間の顔があんなにも恐怖を現わすものかと思うと、怖くなりました」
別の声が囁いた。どうやら玉村一郎らしい。すると、最初の一人は弟の二郎であろうか。それにしても、彼等は一体何の為に、この空家へ忍込んで、壁の穴なぞ覗いているのであろう。
「ですが、妹は何を見て、あんなにも驚き恐れたのでしょう。僕は不思議で仕方がないのです」
一郎が云った。
すると、彼等は壁の穴の位置の関係で、妙子が見たさっきの女の存在を、少しも気づかないでいるのだ。
「犯人を見たのです。お父さんを殺した真犯人を見たのです」
「エッ、何んですって、ではやっぱりこの向うの部屋に、その真犯人がいるのですか。でも、この穴から見たのでは、部屋の中は、全く空っぽじゃありませんか」
二郎が不審らしく聞返した。
「本当に、この向うに犯人がいるのですか。いるのなら、なぜ躊躇なさるのです。早く捉えなければ、……」
一郎も責める様に云った。
「躊躇している訳ではありません。今頃は波越警部が、犯人を捉えている時分です」
アア、そう云えば、さい前、波越氏が、明智と何か囁き交して、どこかへ立去った。成程犯人を捕えに行ったのか。併し……
「それにしても、変だな。犯人はこの隣の部屋にいるのじゃありませんか。それに、覗いて見ても、部屋の中はいつまでも空っぽで、犯人は勿論、波越さんが這入って来た様子もありませんよ」
二郎が穴を覗きながら、囁く。
「空っぽ? エエ、その通り、そこには誰もいないのです」
明智が妙な云い方をした。
「では、さっき、妹が犯人を見たとおっしやったのは?」
「妙子さんは確かに犯人を見たのです。併し、その部屋に犯人が隠れていた訳ではないのです」
妙子は犯人を見た。しかも、そこに犯人はいなかった。論理的に全く両立し難い事実だ。謎々ではあるまいし、明智は一体何を云おうとしているのだろう。
「ハハハハハハハ、不審に思われるのはご
明智が大声に笑ったので、他の二人はヒヤリとした。若し犯人に聞えたらどうするのだ。
明智が先に立って廊下へ出たので、一郎二郎の兄弟も、分らぬながらあとに続く。グルッと一廻りすると、今まで穴から覗いていたカーテンの部屋に出た。
三人はさい前妙子がした通り、真赤なカーテンの外側に立って、その合せ目をソッと開いて見た。
「サア、這入ってごらんなさい」
明智に云われて、先ず部屋に踏み込んだのは二郎であった。
と同時に、部屋の突当りに下っているもう一つのカーテンが、サッと開いて、一人の洋服男が現われた。二郎は、その男と顔を見合せて、ハッと立ちすくんだ。
が、次の瞬間、彼は極り悪げに笑い出した。
「フフフフフ、ナアンだ、鏡か」
部屋の正面の壁に、
アア分った。さい前妙子が驚いたのも、この鏡であったのだ。彼女はそこに写った我が影に恐れて逃げ出したのだ。
だが、そうだとすると、犯人は一体どこにいるのだ。
「さっきあなたは、妙子が犯人を見てびっくりしたのだとおっしゃった様ですが」
一郎が、少し青ざめて明智の顔を見た。
「そうです」
「そいつはどこへ行きました」
「どこへも行きません。最初からいないのです」
「すると…………」
一郎にも二郎にも、明智の云う意味が、おぼろげに分って来た。併し、それは口にすべく、余りに恐ろしい事柄だ。
「妙子さんは、この鏡の中に、恐るべき真犯人の姿を発見したのです」
明智がとうとうそれを云った。
「アア、それでは……、まさか、まさか」
一郎が、思わず叫んだ。
「ではあなたは、妹が実の父を殺した犯人だとおっしゃるのですか」
二郎が恐ろしい
「今、その証拠を、あなた方にお目にかけたではありませんか」
明智は冷静な調子で答えた。
「妙子さんはこの鏡を見て、最初ギョッとしたが、次の瞬間には、今二郎君が笑った様に笑いました。鏡ということが分ったからです。併し、更らにその次の瞬間には、あの女の顔から、笑いの影がサッと消えて、恐ろしい恐怖の表情となり、その口からはたちまちゾッとする様な悲鳴がほとばしりました。どこの世界に、鏡に写った自分の影を、あの様に恐れる者がありましょう。鋭い彼女は、咄嗟の間に、僕のトリックに気附いたのです。僕が、このカーテンの蔭に犯人がいると云ったのは、つまり鏡に映った妙子さんその人を意味していたことを悟ったのです」
兄弟は、彼等の妹の顔に現われた、この世のものならぬ恐怖の表情を見た。なる程、そう云われて見れば、妙子自身が真犯人ででもなければ、あんな恐ろしい表情をする筈はない。併し、肉親の娘が、その父を殺すなんて、考えられないことだ。
「動機は? 妙子には父を殺す動機がありません」
二郎が叫んだ。
「動機ですか、
低い声であったが、これは実に
明智ともあろうものが、
「では妙子は一体誰の子です。どうして僕の家にいたのです。僕はあれの赤ん坊の時分から知っているのですよ」
一郎がなおも抗弁した。
「びっくりしてはいけません。妙子は怪賊奥村源造の実の娘です」
「え、そんな馬鹿なことが。…………」
「イヤ、お疑いなさるのも無理はありません。併し、それは僕が調べ上げた間違いのない事実です。生れたばかりの赤ん坊が、病院で取り替えられたのです。しかも、その取替えは、奥村源造の深い企らみであったのです。彼はある看護婦を買収して、偶然同じ頃生れた、自分の娘と、あなた方の本当の妹さんとを、ひそかに取替えさせたのです」
「エ、エ、すると、若しや、あの文代という賊の娘が……」
「そうです。文代さんこそ、あなた方の血を分けた妹さんです。これには確かな証人があります。当時の看護婦が未だ達者でいるのです」
「併し、なぜそんな恐ろしい真似をしたのです。僕には理由が解りません」
二郎が口を挟む。
「源造の恐ろしい復讐心です。彼はこの取替え子によって、我が実の娘を玉村家の人として成長させ、物心つく頃になって、ソッと親子の名乗りをとげたのです。そして、復讐事業の手助けをさせたのです。実に恐ろしい企らみではありませんか。あなた方が真実の妹として愛していた、あの妙子さんこそ、復讐鬼の美しい廻し者であったのです。実の子が
云われて見ると、一郎も二郎も、段々思い当る所があった。実の妹と信ずればこそ、別に疑いもしなかったものの、考えて見れば、妙子の挙動には、日頃どことなくおかしい点がないでもなかった。
明智は説明を続ける。
「妙子が賊の娘であったとすれば、今までどうにも解釈の出来なかった、様々の不可思議がたちどころに氷解するではありませんか。犯人はいつも家の中にいたのです。いくら厳重に戸締りをし、見張りをつけても、実の娘が犯人なのだから、防ぎ様がないのです」
「分りました、では、僕達を妙子に会わせて下さい。直接あれの口から聞き度いのです。妙子は
二郎が、明智の説明を、もどかしげに打切って尋ねた。
「そうです。波越君は、妙子を捉えて、あちらの部屋で待っている筈です。そこには妙子の外に意外な共犯者や、さっき云った元看護婦のお婆さんなども、呼びよせてあるのですよ」
明智は云いながら、もうその方へ歩き出した。
玄関脇の客間風な一室に、いつの間にか
三人は明智を先頭に、そこへ入って行った。
と見ると、
「妙子さん、虚勢を張っても駄目です。君の兄さん達は、さっき君が鏡を見て顔色を変えた有様を、すっかり覗いていたのです。あの恐ろしい表情なり挙動なりが、何よりも雄弁な証拠です」
明智が半狂乱の妙子に憐む様に云い聞かせた。
「オオ、兄さま、あたしどうしましょう。こんな、ひどい
妙子は、兄達に対して、最後のお芝居を演じて見せた。
一郎も、二郎も、もうその手には乗らなかった。彼等は昨日まで妹であった女を、怖い目で睨みつけた。
明智も妙子のお芝居には取合わず、さっきの説明を続けた。
「妙子さん、今僕が、あなたのして来たことを、兄さん達に、かいつまんでお話ししますから、間違っている点は訂正して下さい。君は、奥村源造の実の娘であることを知ると、お父さんや兄さん達に
やがて福田得二郎氏殺害事件が起りました。福田氏の下手人は、妙子さん、あなたでした。
それから、君は波越君に対して、僕をS湖畔から電話で呼び寄せることを希望しました。これは無論、途中で僕を引っさらって、事件の落着するまで、例の汽船の中へ幽閉して置く為でした。……
それから、矢つぎ早に様々の陰謀が計画され、玉村家の人達は、
併し、若し君が少しでも疑われる様なことがあったら、源造の四十年の計画も
併し、君はいつも手傷を負いながら、その負傷の箇所が、生命には別状ない安全な部分に限られていた。この点が先ず僕の注意を
そういう訳で、君は、あらゆる不可能事を可能にする魔術師の役目を勤めた。例えば、賊からの手紙なりその他の通信なりが、幽霊の様に、ヒョイヒョイと玉村家の邸内に現われた奇怪事なども、君がその通信の配達人を勤めていたとすれば、実に何の訳もないことです。謎は忽ちに解けるのです。……
蛇の一件にしろ、善太郎氏殺害にしろ、君なれば実に
サア、これで大体あなたの悪事を数え上げた訳です。どこか間違った点がありますか」
明智が語り終ると、妙子は
「ホホホホホホ、まあ
「お
明智はあくまでおだやかな調子で云う。
「マア、証人ですって? それは一体誰ですの」
「K私立病院の看護婦です。あなたの生れる時お世話をした看護婦を発見したのです。その女が、奥村源造から莫大な礼金を貰って、殆ど同時に出産した文代さんと君とを取替えたことを、とうとう白状したのです」
「マア、古めかしいお話ですこと。二十年も前の昔話が、何の証拠になりましょう。どんな
「ハハハハハハ、君はたかを
「アラ、まだございますの? 随分お集めなさいましたのね」
妙子は愈々ふてぶてしい態度を見せた。
明智は唇の隅に妙な笑いを浮べながらドアを開けて、隣室に待たせてあった人物を招き入れた。そこには、薄暗い電燈の下に、ひどく時代の違った二人の男女が、神妙に呼ばれるのを待っていたのだ。
入って来たのは、元看護婦の老婆と、彼女に手をとられた幼い子供であった。
「アラ、進一ちゃん!」
妙子はその少年を一目見ると、思わず甲高い叫び声を立てた。進一というのは、読者も知っている様に、妙子が貧家のみなし児を貰い受けて、我子の様にいつくしみ育てていた、まだいたいけな少年である。
「みなさん」明智は一段声を高めて始めた。「妙子さんは、悪事に荷担して人殺しまでしたとは云え、実父である源造の
波越君、福田氏殺害事件と、今度の玉村氏惨殺事件に出没した例の巨人の秘密はここにあったのです。妙子さんは進一少年に異様な教育を施した。この子供の頭から、あらゆる道徳観念、正義観念を追い出して、遠い先祖の野獣から伝わった、残忍刻薄な性質ばかりを発達させて行った。そして、全く良心の影さえ持たぬ、一個の陰険極まる小野獣を作り上げてしまったのです。……
実に戦慄すべき事実です。育て方によっては人間がこんな怪物になり切ってしまうかと思うと、ゾッとしないではいられません。一見普通の子供と少しも違わぬこの進一少年は、人殺しを
福田氏の場合も、玉村氏の場合も、殺人は内部から完全に締りをした、出入口のない部屋の中で行われました。これが解き難い謎として我々を苦しめたのです。ところが、こんな小さな子供が共犯者であったとすると、あの謎もなんなく解くことが出来るのです。
妙子さんは進一少年をつれて被害者の部屋に這入り――這入るのは家族のことですから、訳はありません――殺害の目的を果し、例の笛を吹き花を撒いて死者を葬ると、ドアの鍵を進一少年に渡して、妙子さんは先に部屋を出、少年は中から戸締りをして置いて、猿の様に回転窓に昇りつき、そこから、外の廊下へおりて逃げ去る、という順序です。
例の巨人は、妙子さんが進一少年を肩の上にのせ、その上からマントをはおって、逃げ出して見せ、殺人事件に奇怪な怪談味をそえ、警察をまどわせる手段としたのです。壁に押されていた巨人の手型も、その怪談を一層本当らしく見せかける為の拵えものに過ぎません。……
妙子さん、これで僕は、あなたの秘密をすっかり
妙子は、今や絶体絶命の土壇場である。彼女の青ざめた額には、不気味な玉の汗が浮び、つり上った目は、真赤に血走っていた。
彼女はじっと空間を見つめて、無言のまま立ちつくしていたが、やがて、その打ち
「アッ」
と云う叫声、飛鳥の様に飛びついて行く明智。突きとばされて、よろよろと倒れる妙子。
人々は何事が起ったのかと、あっけにとられて眺めるばかりだ。
「何をするのです。危いじゃありませんか」
明智は、妙子の手からもぎ取ったピストルを、
「一郎君と二郎君を道づれにして、自殺をする積りだったでしょう。君はまだ執念を捨てないのですね」
「アア、あたしは自殺をすることも出来ないのですか。あんまりです、あんまりです」
妙子は床の上に身を投げて、遂に泣き伏してしまった。
雄弁な自白だ。明白な
一郎と二郎とは、昨日まで我が妹といつくしんだ、妙子のこの有様を見るに耐えなかった。
「父を殺した憎い奴ですが、かりそめながら兄妹のちぎりを結んだ女です。どうかいたわってやって下さい。……オイ、妙子、もう覚悟を極めるがいい。いつまで泣いていたところで、仕方がないのだから」
一郎が、恨みを忘れて、やさしく声をかけた。
だが、俯伏した妙子は、その慰めの言葉も聞えぬものの
× × × × ×
かくして、怪賊魔術師は
玉村家は一郎が相続して、宝石店の経営に当り、二郎はその熱心なる共働者であった。父を失った兄弟は、文代さんという、美しく優しい妹を得て、世にも
文代さんは、最早や賊の娘ではなかった。父にそむいた裏切りものでもなかった。彼女は今や何の遠慮も
「文代さん、事務所へ出勤かい」
二郎兄さんにそんな風にからかわれる日が来た。
妙子は明智小五郎の女助手を志願して、彼の事務所の開化アパートへ、毎日の様に通い始めたのだ。
怪賊魔術師の娘であった丈けに、彼女は探偵助手には持って来いだ。その後文代探偵が、明智を助けて、どの様なすばらしい手腕を見せたか。そして、遂に彼女が明智夫人と呼ばれる様になるまでのいきさつはどうであったか。それらの