魔術師

江戸川乱歩




作者の言葉


 わが明智小五郎あけちこごろうは、ついに彼の生涯での最大強敵に相対あいたいした。ここに『蜘蛛男くもおとこ』の理智を越えて変幻自在へんげんじざいなる魔術がある。魔術師は看客かんきゃくの目の前で生きた女を胴切りにしたり、箱詰めの小女こおんなつるぎ芋刺いもざしにしたり、彼女を殺害して鮮血したたる生首を転がして見せたり、あるい立所たちどころに人を眠らせ、自由自在の暗示を与え、或は他人の心中しんちゅう持物もちもの看破かんぱするなど、あらゆる奇怪事を行うことが出来る。
 兇賊きょうぞくがこれらの怪技の妙奥みょうおく会得えとくしていた場合を想像せよ。流石さすがの名探偵明智小五郎もこの魔術師の心理的或は物理的欺瞞ぎまんには、いたく悩まされねばならなかった。
 魔術兇賊とは何者であるか。それがどんなに意外な人物であるか。又彼はそもそも如何いかなる悪業をたくらんだのか。そして、明智小五郎はよくこの大敵に打勝つことが出来たかいなか。名探偵と魔術師の争闘こそ見ものである。
「講談倶楽部」昭和五年六月号より
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美しき友


 新聞紙は毎日の様に新しい犯罪事件を報道する。世人せじんれっこになってしまって、またかという様な顔をして、その一つごとに、さして驚きもしないけれど、静かに考えて見ると、何と騒々そうぞうしく、いまわしい世の中であろう。広い東京とはいながら、三つや四つ、血なまぐさい、震え上る様な犯罪の行われぬ日とてはない。今の世に、十九世紀の昔語りにでもありそうな、貰い子殺しの部落が現存するかと思うと、真実の弟をたたき殺して、つい門前の土中にうずめ、その御手伝いをさせたもう一人の弟を狂人に仕立てて、気違い病院に放り込むなど、まるで涙香小史しょうし飜案ほんあんする所の、フランス探偵小説みた様な、奇怪千万せんばんな犯罪すら行われているのだ。
 だが、それらは世にあらわれたる犯罪である。ある犯罪学者が云った様に、露顕ろけんする犯罪は十中二三に過ぎないものとしたならば、我々が日々の新聞で見ているよりも、一倍物凄ものすご戦慄せんりつすべき大犯罪が、どれ程多く、つい知らぬ間に行われているか、恐らく想像のほかであろう。例えば、あなたは、そうして小説を読みながら、すぐ壁一重のお隣で、今現にどんな事が行われているか、とゾッとして耳をすまして見る様なことはありませんか。本当に恐ろしいことだけれど、そんな邪推じゃすいでさえも、この東京では決して無理とは云えないのです。
 で、素人しろうと探偵の明智小五郎あけちこごろうが、「蜘蛛男」事件を解決して、骨休ほねやすめの休養をする間が、たった十日ばかりしかなかったというのも、小説家の作り話ではない。つまり、蜘蛛男が、例のパノラマ地獄で無残の死をとげてから、やっと十日たつかたたぬうちに、この「魔術師」事件の第一の殺人が行われ、明智はのっぴきならぬ依頼いらいによって、又その事件にかかり合わねばならぬ仕儀しぎとなったのである。
 だが、彼は素人探偵とは云いじょう、看板を出してそれで生活しているわけではないのだから、いやだと思えば、別に差出さしでがましく警察の御手伝いをする義務もない訳だが、この「魔術師」事件には何かしら彼をそそるものがあった。決して「蜘蛛男」以下の犯罪ではないという予感があった。(あんじょう、彼はこの事件では、一時はまったく犯人のため飜弄ほんろうされ、死と紙一重かみひとえ瀬戸際せとぎわまで追いつめられさえした)のみならず、彼がこの事件に乗気のりきになったのには、もう一つ別の理由があったのだ。
 素人探偵と恋愛。どうも変な取合とりあわせだ。ドイルきょうつて、ある映画俳優から、ホームズに恋をさせてくれと申込まれて、ひどく困ったことがある。それ程、探偵と恋とはえんが遠いのだ。だが、犯罪の裏にはほとんど例外なく恋がある。その犯罪の解決に当る探偵家が、恋知らずの木念人ぼくねんじんでどうしてつとまるものぞ、とも云える。そんな理窟はかく、我が明智小五郎は、ある種の探偵家の様に、推理一点張いってんばりの鋼鉄製機械人形でなかったことは確かだ。
「蜘蛛男」事件が解決したその翌日、彼はトランク一つをげて、上野駅から汽車に乗った。新聞記者責めのホテルを逃げ出して、たった一人になってゆっくり休息したかったのだ。彼を主賓しゅひんとする警視総監主催の祝賀会さえ断った位だ。
 何という訳もなく、湖がなつかしくて、中央線のS駅まで切符を買ったが、あとで考えて見ると、これがすでに、彼が「魔術師」事件に引入れられる第一歩であったとは、運命というものの気味悪さ。
 Sに着くと、聞き覚えていた、湖畔のホテルへ、いきなり車を命じた。
 秋の湖は、青々とした大空を映して、ほがらかに晴れ渡り、朝夕はやや小寒い気候が、明智の疲れ切った五体に、云うばかりなく快かった。ホテルの部屋も、部屋ボーイの山出やまだし女も、日本風の浴場も、長い間不自由な外国の生活を送って来た彼には、すべて凡て好ましいものばかりであった。
 彼はホテルの十日間を、何の屈託くったくもなく、腕白小僧わんぱくこぞうの様にほがらかに暮した。ホテルのボートを借りて湖水をまわるのが日課だった。ある時は同宿の誰彼だれかれの可愛らしい子供達をのせては、彼の少年時代の「風と波と」の唱歌を、声高らかに歌いながら、鏡の様な水面に、サッサッとオールを入れた。
 紅葉こうようした山々が、絵の様に湖水をふちどって、そこを白いボートが、小さな水鳥の様にすべって行くのが、ホテルの窓から好もしくながめられた。ボートの上には白いものが前後に動いている。あれは白シャツ一枚の明智の姿であろう。その前にウジャウジャうごめいて見えるのは、この思いがけぬ舟遊びにはしゃぐ子供等であろう。
 ホテルのバルコニーへ出て、ほほえみ交わす親達の耳へ、時々、水面を伝って、昔懐しい唱歌の声が聞えて来たりした。
 その親達に混って、一人の美しい婦人が、やっぱりボートの方を見て、ほほえんでいた。東京の有名な大宝石商の玉村たまむら氏のお嬢さんで、妙子たえこさんという方だ。信州しんしゅうのある温泉場からの帰りみちを、お父さんの一行と分れて、一人のばあやを供に、数日ここに滞在しているのだ。妙子さんの女学校時代の(それも去年の春卒業したばかりなのだが)親しいお友達が、このSに住んでいて、その人と語り合うのが主な目的であった。
 その妙子さんが、子供の親達に混って、なぜ明智のボートを眺めていたかというに、妙子さんは婆やの外に進一しんいちという十歳ばかりの男の子を連れていて、その子供が明智の舟に乗せて貰っていたからである。進一というのは、玉村氏所有の貧乏長屋に住んでいた小商人こあきんどの息子で、両親に死に分れ、身寄りもないのを、妙子さんがお母さんにねだって、自分の弟の様にして育てている、可愛らしい子供であった。そんな所を見ても、妙子さんが、世間知らずのねんねえではなくて、大家たいけ育ちの云うに云われぬしとやかさの内に、どこかりんとした物を持っていることが分るのだが。
 で、そんな日が続く内に、明智は子供等の縁でその親達とも親しみを加えて行ったが、分けても玉村妙子さんとは、双方から不思議に引寄せられる感じで、食堂でテーブルを同じにしたり、お茶に呼び合ったりするばかりでなく、はては、そっと婆やの目を盗んで、彼等けで、湖水に舟を浮べる程の親しい間柄になってしまった。
 そんな時、彼等はきまって、ホテルからは見えぬ、湖水の入江になった所へボートを漕いで行った。そこの岸辺には、こんもりと茂った常盤木ときわぎの林があって、その青い中に、雑木ぞうきの紅葉が美しいしゅを点じ、それが動かぬ水に、ハッキリと姿をうつしていた。彼等はいつもその蔭に舟を流して不思議な物語にけるのである。だが、読者諸君、二人の関係を邪推してはいけない。明智は不良青年という年ではないし、妙子さんも、わずか数日の知合いに心を許す程あばずれではなかった。それに、ボートには、いつも二人の間に、かの進一少年が乗っていたのだから。彼等はただ不思議に気の合ったお友達でしかなかったのだ。
 とは云え、正直なところ、妙子さんの心は知らず、少くも明智の方では、この若く美しく聡明そうめいな娘さんに、友達以上のなつかしさを感じてい、それが日一日と深くなって行くのをどうすることも出来ない状態であった。
「オイオイ、しっかりしろ。お前は何を甘い夢を見ているのだ。年を考えて見るがいい、お前はもう四十に近い中年者ではないか。それに妙子さんは由緒ゆいしょ正しい大資産家の愛嬢だ。お前の様な素寒貧すかんぴんの浪人者に、どう手が届くものか。サア、早く今の内に、あの人のそばから遠ざかってしまうがいい」
 明智は眠られぬベッドの中で、幾度も自分をしかった。そして、明日こそは出発しようと決心するのだが、朝になると、つい立ちそびれてしまうのが常であった。
 だが、この問題は妙子さんのお父さんが、解決してくれた。彼は娘の滞在が長引くのを心配して、ある日東京から電話をかけて、早く帰る様にと娘に云いつけた。大人しい妙子は、その云いつけを守って、即日ホテルを出発したが、明智に別れを告げる時には、彼女の方でも、気のせいか、ひどく名残なごり惜しげに見えた。
 妙子が去ってからも、明智は以前の様に、子供達をボートにのせて、湖水を漕ぎ廻るのを日課にしていたが、さも快活に装いながら、眉宇びう一抹いちまつの曇りを隠すことは出来なかった。
 妙子のつかめば消えてしまい相な、しなやかな身躯からだ、ほほえむとニッと白い八重歯やえばの見える、夢の様に美しい顔、胸のくすぐられる様な甘い声音こわね、それらの一つ一つが、時がたてばたつ程、まざまざと記憶に浮んで、明智は二十歳はたちの青年の様に、悩ましい日を送らねばならなかった。
 湖水に舟を浮べて、妙子と取交わした、様々の会話も思い出のたねであった。だが、それらの春のそよ風の様に、ほがらかに甘い会話の中で、たった一度、打って変って、彼女は非常に陰気な打開け話をしたことがある。どういう訳か、その彼女の不思議な言葉が、殊更ことさら忘れがたく頭の底にこびりついて離れなかった。それはわばこの物語の発端ほったんす所の、一挿話そうわに相違ないのだから、ここに簡単にしるして置くが、その時、舟は例の常盤木の蔭暗き岸辺に漂っていた。その舟の中で、妙子は、ふと通り魔に襲われでもした様に、妙な事を云い出したのである。
「それは、根もない夢の様なことかも知れませんわ。でも、わたくし小さい時分から、不思議に先々のことが分りますの。母は五年以前になくなりましたが、その母の死にますのが、わたくしには、半年も前からちゃんと分って居りましたのよ。それと同じ様に、今度のこの恐ろしい夢も、本当になって現われるのではないかと思いますと、もう怖くって、怖くって、一人で寝んでいる時など、ふとそれを考えますと、ゾーッと水をあびせられた様な、それはいやアないやアな気持になりますのよ」
「お姉さま、又そんな話をしちゃ、いやだ」
 進一が、まだ十歳の少年の癖に、大人の様な恐怖の表情で、叫んだ。
「で、それは一体どんな夢なんです」
 明智が、妙子の異様に陰気な表情に、びっくりして尋ねると、彼女はそれを口にするさえ恐ろしい様子で、声を低くして云うのだ。
「何ですかたましいのある黒雲みたいなものが、私達一家の上に、恐ろしい早さで覆いかぶさって来るのです。わたくし、もう二三ヶ月も前から、絶えまなくそれを感じていますの。恰度ちょうどきじが大地震を予感します様に。……誰かが私達一家をのろってでもいる様な。今にも私達一家のものが、何かの恐ろしい餌食えじきになる様な。そんな気持ですのよ」
「では、何か、そんな疑いをお起しなさる様な理由でもあるのですか」
「それがちっともございませんの。ですから、なお怖いのですわ。どういう風のわざわいですか、えたいが知れませんもの」
 無論むろん妙子は、名探偵としての明智小五郎を知っていた。で、この妙な打開け話も、彼にすがって、彼の判断を乞う為であったかも知れない。しかし、全然現実的根拠こんきょのない夢物語では、いかな明智にも、どうするすべもないのだ。そして、丁度ちょうどそうしている所へ、ホテルの小使こづかいが、東京から電話だといって、妙子を探しに来たのであった。

早業はやわざ


 妙子が帰宅してから三日目の午後、突然、今度は明智の所へ、東京の波越警部から電話が掛って来た。波越氏は読者も知る、警視庁刑事部名うての鬼刑事だ。
 受話器を取ると、波越氏のあわただしい声が手短かに挨拶をして、用談に入った。
「詳しいことはいずれ御目にかかって御話しますが、僕の知合いの福田得二郎ふくだとくじろうという実業家の所に妙な事件が起って、福田氏から是非ぜひあなたの御援助を得たいというのです。電話で至急御帰京を願ってくれという福田氏の依頼なんです。事件の内容は一口では云えないが、決してあなたを失望させる様なもんじゃない。僕も、これは警察よりはむしろあなたの領分に属する仕事だと思っている位です。非常に変てこな事件なんです。引続きで御苦労ですが、福田氏に代って僕からも御願いします。出来るなら今晩こちらへ着く様にして下さい」
折角せっかくですが、探偵の仕事は当分御休みです」明智はぶっきら棒に答えた。「長い旅行で疲れていた所へ、蜘蛛男で、ヘトヘトになっているんです。もう少し休ませて下さい」
「それは困る」警部の声が本当に困ったらしく響いて来た。「あなたが来てれないと、福田氏が失望するばかりじゃありませんよ。実はあなたがそこにいられることは、玉村妙子さんの口から分ったのです。妙子さんも是非あなたに相談相手になって頂きいという依頼なんですよ」
「何ですって、妙子さん? 妙子さんは知っていますが、あの人が今度の事件に関係でもあるのですか」
 明智は妙子の名を耳にすると、にわかに意気込んでたずねた。
「大有りですよ。云い忘れましたが福田氏は妙子さんのお父さんの玉村善太郎ぜんたろう氏の実弟なんです。つまり妙子さんにとっては叔父おじさんに当るわけです」
「アア、そうでしたか。妙子さんとはここに滞在中御心安くしていたのですが、あの人の叔父さんでしたか」
「そうですそうです。そんな御縁もあることだからという、福田氏の頼みなんですよ。どうです。何とか都合つごうをして帰ってくれませんか」
「エエ、よござんす」明智は子供の様に現金げんきんである。そんなことを恥しがったり、もじもじしたりしていない。妙子さんの頼みなら、いつでも帰りますと云わぬばかりだ。
「時間は、そうですね、エエと、こちらを二時十分に出て、上野へ七時半の汽車があります。それに極めましょう」
 波越警部はこの快い承諾にやや面喰めんくらいながら、でもひどく満足そうに、
「有難う。福田氏も喜ぶことでしょう。その時間を伝えて、福田氏の方から上野まで迎えの車をさし向けることにします。では、どうか間違いなく」と念を押した。
 電話を切ると、明智はソワソワと出発の支度したくを始めた。支度といっても、トランク一つの旅だ、手間暇てまひまはかからぬ。寝間着ねまきと汚れたシャツ類を、トランクに詰め込んで、勘定かんじょうを支払えばよいのだ。汽車の時間には充分間に合った。
 車中別段のお話もない。彼はただ妙子のことを思っていた。彼女の罌粟けしの花の様な笑顔や、歌の様に甘い声を、汽車の動揺につれて目と耳に繰返した。彼は又、彼女が最後の日に舟の上で話しかけた、夢の様な恐怖を思出した。「やっぱり彼女の予感が当ったのかも知れない」と思うと、まだ片鱗へんりんをさえ聞かぬ、事件そのものにも、不可思議な興味を覚えた。
 七時三十分列車は上野駅に到着した。
 改札口を出ると、そこに自動車の運転手が待ち受けていた。明智の顔は新聞で御馴染おなじみになっているので、間違いはない。
「福田から御迎えでございます」
 運転手は現代の英雄に対する大衆的尊敬をもって、うやうやしく云った。
「アア、御苦労さま。車はどれだね」
 明智は気軽に応じた。
「こちらでございます」
 運転手は先に立って自動車置場へ案内した。
 この場合明智の方に手抜てぬかりがあったとは云えぬ。彼が今上野駅へ到着する事は、波越警部と、福田氏とが知っているばかりだ。この自動車が偽物にせものだなどとは、神様だって想像も出来なかったであろう。それに車も実業家の持物らしく立派りっぱだし、運転手助手の服装も整っていた。いて云うならば、彼等両人が揃いも揃って大きなロイド眼鏡めがねをかけていたこと、自動車に福田家の定紋じょうもんが見当らなんだこと、この二点を疑えば疑うのだが、運転手にちりよけのロイド眼鏡はあり勝ちのことだし、定紋の方は明智はまるで知らなかったのだから致方いたしかたもない。
 だが、流石さすがは名探偵である。彼は自動車の踏台に足をかけた時に、ハッとある危険を感じて、思わずあと戻りをしようとした。併し、残念ながらもう遅かった。うしろからは案内役の運転手が、恐ろしいいきおいで押込む、中からは運転手台の助手が猿臂えんぴを延ばして引ずり込む、不意を打たれて、抵抗のすきがなかった。
「何をするッ」
 と怒鳴どなって、外へ飛び出そうと立直った時、彼を押込んだ運転手の右手が、鉄の様な握りこぶしになって、パッと胸を打った。柔道の当身あてみである。勿論もちろん運転手に化けたぞくの一味、その道の心得あるものに相違なかった。
 あの駅前の雑沓ざっとう真中まんなかで、しかもってからの出来事である、仮令たとえ明智の怒鳴り声を聞いた者があったとしても、そんな怒鳴り声は駅前では珍らしくもないのだ。
 自動車は何事もなかったかの様に、大胆にも明るい電車通りを、広小路ひろこうじの方角へ走り去った。その客席のクッションには、我等の主人公明智小五郎が、みじめにも気を失って、グッタリともたれかかっていたのである。
 再び云う。この出来事において、明智の方にはむべき油断があった訳ではない。ただ、賊が、警察よりも、福田氏よりも、明智小五郎よりも、十歩も二十歩も先んじて、きょいて奇功きこうそうしたに過ぎないのだ。
 とは云うものの、何たる早業、何たるずば抜けた作戦であろう。犯罪はまだ行われたという訳ではないのだ。戦いはまだ始まっていないのだ。彼等は戦いに先だって、先ず彼等に取って最大の敵である、名探偵明智小五郎をとりこにしてしまった。並々の賊ではない。彼等の行わんとする犯罪もまた、決して並々のものではないであろう。それにしても、彼等は一体全体、如何いかなる手段によって、明智小五郎がこの事件に関係すること、この汽車で上野に到着すること、それを福田家の自動車が出迎いに来ることなどを知り得たのであろう。又、本物の福田家の自動車は、どうなったのか、しや、その運転手達も、明智と同じ憂目うきめを見たのではあるまいか。アア、世にも恐るべき兇賊の手腕。

幽霊通信


 さて、ここでお話を少し前に戻して、明智の帰京の原因となった、福田家の奇怪な出来事(だが、それは決して犯罪と名づける程の取りとめた事件ではなかった)について、語らねばならぬ。
 先の波越警部の言葉にもあった通り、福田得二郎氏は玉村宝石王の実弟で、彼も亦相当の資産をようし、諸方の会社の株主となって、その配当けで、充分贅沢ぜいたくな暮しを立てている、謂わば一種の遊民ゆうみんであった。
 彼は玉村家から福田家へ養子に貰われて行ったのだが、養父母を見送り、妻も昨年世を去って子供もなく、現在は本当の一人ぽっちであった。一種風変りな性質の彼は、その孤独を結句けっく喜んで、後妻を迎えようともせず、数人の召使と共に、広い洋風邸宅に、滅入めいった様な陰気な日々を送っていた。
 ところが、ある日のこと、誠に唐突に、彼の静かな生活を脅かして、奇怪千万な事件が起った。
 福田氏は、以前から一体陰気な性質であったが、夫人を失ってからは、一層それがこうじて、終日一間にとじ籠っている様な日が多かった。三度の食事の外は、召使と顔を合わせる事もなく、日が暮れると、サッサとベッドにもぐり込む。ベッドに這入はいる前に、寝室と書斎との二部屋に分れている彼の私室の、窓にもドアにもすっかり内部から錠をおろして置くのが例になっていた。
 で、ある朝福田氏がベッドの中で眼を覚ますと、着ていた白い毛布の上に、一枚の紙が置いてあったのだ。変だなと思って手に取って見ると、タイプライター用紙に、鉛筆のまずい文字で、大きく、
十一月廿日はつか
 としたためてあった。その外には何の文句もなく、誰が書いたのか、何を意味するのか、少しも分らぬ。
 福田氏は不思議に思った。こんな紙切れがある所を見ると、夜の間に、何者かが彼の寝室へ忍び込んだとしか考えられぬが、併し、それは全然不可能なのだ。福田氏はその前夜も就寝前に、書斎のドアにはちゃんと内部からしまりをして置いた。庭に面した窓には、皆鉄格子てつごうしがはめてあるのだし、無論締りも出来ていた。紙切を投げ込む隙間なんてあるはずがない。それにベッドは窓際まどぎわからは余程離れてもいるのだ。
「変だな」と思いながら、彼はベッドを降りて、眠い目をこすりながら、念の為に窓やドアを調べて見たが、どこにも異状はない。えたいの知れぬ、変てこな気持になって、鍵をまわしてドアを開けて、召使達を呼んで尋ねて見たが、誰も部屋へ這入ったものはなく、その紙切についても、何も知らぬとの答えだった。
 変だ、変だと思いながら、その日は暮れた。ところが、その翌日、福田氏が目を覚ますと、これはどうだ、白い毛布の上の、昨日と同じ場所に、又してもタイプライター用紙がある。怖々こわごわ手に取って見ると、今日のは昨日のよりも一層簡単に、ただ二字、
「十四」
 と数字が書いてあるばかりだ。戸締とじまりに異状のないことは昨日の通り、召使達が何も知らぬことも昨日の通りである。
 用紙をしらべ筆蹟を検べて見たが、何の思い当る所もない。福田氏の知り合いには、一人もそんな筆癖ふでくせの男はいないのだ。
「十一月廿日」や「十四」が何を意味するのか、差出人は誰なのか、戸締厳重な部屋の中へどうして持って来ることが出来たのか、凡てが全く想像も出来ない丈けに、ひどく不気味に思われた。「幽霊ででもなければ出来ない仕業だ」と考えると、何かしらゾッとしないではいられなかった。
 だが、奇怪はそれで終った訳ではない。その次の日も、又次の日も、福田氏が目を覚ますと、必ず毛布の上に一枚の紙切れがのっていた。文句はやっぱり簡単な数字で、
「十三」「十二」「十一」「十」「九」
 と一日毎に一目下りに、順序よく変って行く。云うまでもなく、福田氏はそんなことが起り始めてから、就寝前の戸締りを一層念を入れて厳重にしたのだけれど、幽霊通信には、戸締りなんか邪魔にならぬと見えて、何の甲斐もなかった。
 福田氏は、数字が「九」まで進んだ時、もう我慢がし切れなくなって、おいの玉村二郎じろうを呼びよせて、この快活な若者の智恵を借りることにした。二郎は宝石王玉村氏の二男で、妙子の兄に当り、ある私立大学に籍を置いて、遊び暮らしている、二十四歳の新青年であった。
「つまらないことを気にしたもんですね。誰かのいたずらですよ。叔父さんが神経をむものだから、そんないたずらをする奴が出来るのですよ」
 上述の福田氏の話を聞くと、二郎青年は事もなげに笑ってしまった。
「いたずらにしちゃ、念が入り過ぎているんだよ。ただ面白ずくで、こんな馬鹿な真似を幾日も幾日も続ける奴があるだろうか。第一、厳重に戸締をしたこの部屋へ、どうして這入って来るのか、まるで魔術師の様で、わしはゾーッとする事があるよ」
 福田氏は大真面目で、本当に怖がっている様に見える。
「併し仮令魔術師にもせよですね。ただ紙切れが投込まれる丈けで、別に叔父さんに危害を加えようという訳ではないのだから、うっちゃって置くがいいじゃありませんか」
「ところが、必ずしもそうではないのだよ。この数字には何かしら恐ろしい謎が含まれている。見給え、最初来たのが、『十一月廿日』その次が『十四』、それから一日に一つずつ数が減って今朝は『九』になっている。順序正しく、非常に計画的だ。ところで、今日は何日だったかね」
「十一日でしょう。十一月十一日です」
「ホラ、見給え。十一日の十一に九を加えると幾つになる。二十だ。つまり『十一月廿日』になるのだ。ね、この毎日の数字は、あと十日しかないぞ、ホラ、もう九日になったぞという、気味の悪い通告書なんだよ」
 聞いて見ると、成程それに相違なかった。二郎青年は一寸ちょっと行詰って、
「併し、通告状って、一体何の通告状なんです」
「サア、それが分らないから、一層気味が悪いのだよ。わしは別に人にうらみを受ける覚えもないが、人間どんな所に敵がいるか知れたものではない。若しかしたら、こうして怖がらせて置いて、わしに復讐ふくしゅうでもしようというのではないかと思うのだが」
 その実、福田氏は、存外恐ろしい復讐を受ける様な覚えがあったのかも知れない。でなければ、たかがいたずら書きの紙切れにこうまで心を悩ます筈もないのだ。
「復讐って云うと?」
「つまり、十一月廿日こそ、わしの殺される日だという……」
「ハハハハハ、馬鹿な、つまらない妄想もうそうはおしなさい。今時そんな古風な復讐なんかやる奴があるもんですか。でも、叔父さんが、そんなに気になるなら、僕今夜徹夜をして、叔父さんの部屋の張番をして上げましょう。そして若し紙切れを持って来る奴があったら、とっ捕えて上げましょう」
 ということで、福田氏も実はそれを考えていたものだから、早速その晩、実行することになった。
 二郎青年は、約束通り一睡もせず、日が暮れるとから、懐中電燈を用意して、福田氏の寝室の窓の外の庭だとか、ドアの外の廊下などを、一晩中歩き廻って、厳重な見張りを続けた。
「猫の子一匹、塀の中へ這入ったものはありませんでしたよ。どうです。まさか昨夜は紙切れは来なかったでしょう」
 朝になって、叔父の部屋へ這入った二郎は、「それごらんなさい」と云わぬばかりに、得意らしく尋ねた。
 だが、これはどうだ。福田氏は又新しい紙切れを持っていたではないか。
「これをごらん。ちゃんといつもの通り毛布の上に置いてあった。わしも今夜こそ正体を見届けてやろうと思って、一睡もせぬつもりでいたんだが、明け方近く、ついトロトロとした隙にこれだ。実に不思議な事もあるものだよ」
 で、今朝の紙切れには、順序に従って、「八」と記してあった。福田氏の想像によれば「もうあと八日しかないのだぞ」という恐ろしい意味を含んでいる。
 そうなると、新青年の二郎も、やや本気になって、それから福田家に泊り込み、書生などにも手伝わせて、二晩三晩、曲者くせものの正体を見届けようと努力したが、ついに何の発見する所もなかった。一方、紙切れの数字は一日一日と減って行き、「三」という字を見た時には、福田氏も二郎も、もうじっとしてはいられない、いらだたしい気持になっていた。
 今度は二郎の方から勧めて警察の助力をうことにした。福田氏は知合いの波越警部に相談をかけた。又、玉村家の方へもこの不気味な出来事が伝わり、帰京したばかりの妙子の耳にも這入った。という訳で、明智小五郎を呼ぶことも、実は妙子の発案であり、それを波越警部がただちに賛成したのであった。

真赤まっかな猫


「明智探偵七時半上野駅着」の報を受けた福田家では、明智を見知った一巡査を頼んで、自動車で駅まで出迎えに行って貰った。明智の来着と同時に波越警部も福田邸へやって来る手筈になっていた。
 ところが、八時頃になって、迎えの自動車はからっぽで帰って来た。巡査の報告する所によると、どうしたことか、福田家の大時計も、運転手の腕時計も、巡査の懐中時計も、揃いも揃って、十五分遅れていたのを、つい気がつかず、駅へ行って見ると、もう七時半の降車客は大半立去ったあとで、いくら探しても明智の姿はなく、止むを得ず引返して来たとのことであった。
 いくつもの時計が揃って遅れていたというのには、何か特別の意味がなければならぬ。だが、人々はそこまで深く考えなかった。出迎えが遅れた為に、あの様な一大事が起ろうなどと、誰が想像し得たであろう。
 福田氏はとりあえず、まだ庁舎に居残っていた波越氏に電話をかけて、事の仔細しさいを告げ、若しや明智氏がそちらへ立寄ってはいないかと尋ねて見た。
「イヤ、こちらへも来ていません。迎えの車が見当らねば電話をかけてくるでしょうが、それもない所を見ると、予定の汽車に乗り遅れたのかも知れません。明日の朝は大丈夫ですよ。それまで待って見ようじゃありませんか」
 と波越氏は存外ぞんがい呑気のんきな返事である。
 で、その晩は、二郎青年の外に、明智を出迎えに行った巡査に泊って貰うことにして、福田氏はさして心配もせず寝についてしまった。
 福田氏にせよ、波越警部にせよ、そんなに事が迫っているとは知らず、つい油断をしていたのは、誠に是非ぜひもないことであった。紙切れの数字は「三」なのだ。仮令たとえ福田氏の恐怖が実現するとしても、まだあとに三日を余している。恐ろしいのは、数字が「一」となり「〇」となった時だ。それまでは何事も起る筈はない、明智小五郎の来着が一日遅れたところで、大した問題ではない。と思い込んでいたのだ。
 だが、犯罪者はいつもアルセーヌ・ルパンの様に、約束堅い正直者だとはきまっていない、ことに、彼等は、どうして探ったのか、明智小五郎の帰京を知って、事を起さぬ前に、ず大敵の自由を奪った程の曲者だ。福田氏が警察の助力をあおいだことも知らぬ筈はなく、便々べんべんと十一月廿日を待って、相手の警戒網を完成させるはしないであろう。
 それは兎も角福田氏の警護をうけたまわった二郎青年と巡査某とは、二階の客用寝室に、ベッドを並べて、横になった。邸内の見廻りは、無駄骨折と分ったので、止してしまい、ただ福田氏の気休めに、泊っているというまでの事である。
 彼等両人にも、まだ三日間があるという、無意識の油断があった。それに、いざ十一月廿日が来たところで、どんな事が起るのかまるで見当がついていない。あるいは何事もないのかも知れぬ。どうやら、何事もない方が当然の様にも思われる。全く雲を掴む様な話なのだ。波越氏が「この事件は明智さんの領分だ」と逃げたのももっともである。
 で、二郎も巡査も、強いて目を覚ましていなければならぬとも思わなかった。起きていた所でどうせ何事もないに極っていると、たかを括っていた。
 だが、曲者は、上野駅で明智をさらった手際でも分る様に、人の虚を突く術を心得ていた。一同が幽霊通信に慣れてしまって、むしろ曲者の巧みな暗示にかかって、油断し切っていたその夜、正しくは十一月十七日の深夜、予告の日限に先だつこと三日にして、突如、戦慄すべき大犯罪は行われたのである。
 二郎青年は、真夜中頃、異様なふえにふと目を覚ました。
 耳をすますと、階下の主人の寝室とおぼしきあたりから、何とも云えぬ、物悲しい調子の横笛フリュートの音が、細々と響いて来るのだ。まった曲を調しらべている訳ではなく、ただなんとなしに、出鱈目でたらめに吹き鳴らすといった調子だけれど、その節廻しが、不思議にも哀深く、美しく、例えば綿々たるうらみをかき口説くどくがごとく、尽きせぬ悲愁ひしゅうなげくが如く、一度耳にしたならば、一生涯忘れることが出来ない様な種類のものであった。
 福田氏は横笛フリュートなぞ吹けないのだし、それにこんな真夜中、仮令誰にもせよ笛を吹いているなんて変だ。「空耳かしら、いやいや確かに横笛フリュートの音だ。しかも、叔父さんの寝室に間違いはない。若しや……」と思うと、二郎はちりけに氷でも当てられた様に、ゾッと身がすくんだ。
 やがて、笛の音はパッタリやんだ。もういくら耳をすましても、聞えては来ぬ。
 二郎はいきなり、隣のベッドの巡査をゆり起した。
「どうもおかしいことがあるんです。僕と一緒に下へ降りて見てくれませんか」
 二人ともパンツのまま横になっていたので、上衣うわぎを着ればよいのだ。巡査は用意の為に帯剣たいけんまでつけて、階下に降りた。邸内は死んだ様に静まり返っている。薄ボンヤリした常夜燈じょうやとうを便りに廊下ろうか一曲ひとまがりすると、そこに福田氏の寝室なり書斎なりのドアがある。
 二郎はビクビクもので、そのドアを押し試みたが、内側から鍵をかけたままと見えて、ビクともしない。だが何となく異様な予感がある。
「主人を起して見ましょうか」
「そうですね。念の為に」
 巡査も賛意を表したので、二郎はドアの鏡板かがみいたをトントン叩いて、「叔父さん、叔父さん」と呼んで見た。二三度同じことを繰返したが返事がない。
「やっぱり変ですよ」
 二郎はもう真青まっさおになって、次に取るべき手だても思浮おもいうかばぬ様子だ。
「鍵穴から覗いて見ましょう」
 流石巡査は思いつきよく、腰をかがめて鍵穴を覗いていたが、やがて振向いた彼の顔は、恐ろしく緊張して見えた。
「血、血です。……」
「エ、じゃ、叔父さんは……」
「多分もう息はありますまい。この戸を破りましょう」
 庭に廻って窓から入ろうにも、鉄格子が邪魔をしているので、火急の場合、そのドアを打破る外に方法はなかった。
 二郎は廊下を走って、書生を起し、おのを持って来させ、それでドアの鏡板を乱打した。
 騒ぎに家中の召使達が(婆やと女中二人)駈けつけて来た。
 頑丈なドアであったが、斧の乱撃には耐えず、メリメリと音がして、上部の鏡板が、大部分破れ落ちてしまった。
 二郎と、巡査と、召使と都合六つの首が、その破れ目にかたまった。だが、彼等は何も見なかった。見る隙がなかった。恐ろしい勢で顔にぶつかって来る、大きな真赤な何かのかたまりを意識して、ハッと飛びしさって、道を開いたからである。
 それは一匹の真赤な猫であった。いや真赤な猫なんてある筈はない。実は福田氏が飼っている、純白の雄猫なのだが、それが全身に血潮ちしおをあびて、物凄い赤猫と化けてしまったのだ。
 不気味な動物は、ドアの破目から廊下に飛出すと、二三度ブルッと血震いをして(その度毎たびごとに赤インキの様な鮮血が、壁の腰板に生々しくはねかかった)人々に向って、恐ろしい形相ぎょうそうで、真赤な背中をムクムクと高くした。
 人々はその時、怪猫かいびょう口辺こうへんを見た。そして余りの恐ろしさに、思わず顔をそむけないではいられなかった。
 浅間あさましい動物は、主人が死んだとも知らないで、全身真赤になる程も、血みどろの死体にじゃれついていたものに相違ない。じゃれついたばかりではない。彼は主人の傷口をなめ、流れる血のりを呑んだのだ。そうでなくて、あんな恐ろしい口になる筈はない。のこぎりの様な鋭い歯まで真赤に染っていたではないか。舌の上にはとろとろした血のりがたまっていたではないか。彼はその舌で、ポトポトと赤いしずくをらしながら、口辺をめ廻した。
「ミャオー」と一声、不気味に優しい鳴声を立てると、真赤な猫は、人々の驚きを無視して、点々と血潮の足跡をいんしながら、ノソリノソリ裏口の方へ歩いて行った。まるで彼自身が殺人犯人ででもある様に、奥底の知れぬふてぶてしさで。
 人々は次に、ドアの破目から、室内の様子を眺めた。
 ともしたままの明るい電燈の下に、福田氏のパジャマ姿の下半身が横わっていた。胸から上は寝室に隠れて見えぬのだ。恐らくは猫がじゃれついた為であろう、足の先まで血に染っている。
 だが、異様に感じられたのは、死体そのものよりも、死体の上やその周囲に、あたかも死者をともらい死体を飾るものの如く、おびただしい野菊の花が、美しく散り乱れていたことである。
 人々は咄嗟とっさの場合、深くも考える余裕を持たなかったけれど、あとになって思い合わせば、この殺人には、奇妙な予告や、全く出入口のない、密閉された部屋を、犯人はどこから這入りどこから逃げたかという様な点を別にしても(それらの点が、この事件全体を妖異不可解ならしめた、いちじるしい特徴であったことは勿論もちろんだが)らにその外に、二郎が耳にした物悲しき横笛フリュートの音、今又この死体を飾る、可憐なる野菊の花束、これははたして何を語るものであろう。若しや犯人は、我れと我が殺害した死人を弔う為に、横笛フリュート弔歌ちょうかかなで、野菊の花束を贈ったのではないだろうか。だが、どこの世界に、その様な酔狂すいきょうな手数をかける犯罪者があるであろう。
 余談はさておき、かくも死体を調べて見なければならぬので、二郎はドアの破れ目から手を差入れて、鍵を廻し、扉を開いて室内に這入った。巡査、召使等も後に従った。
 二郎は何気なくツカツカと死体の側へ近づいて行った。そして、血まみれの足の所に立って、寝室との境の壁に隠れていた、死体の上半身を一目見ると、どうしたのであろう、彼は何か木製の人形みたいな恰好で、そこへ棒立ちになってしまった。口を動かしているけれど、余りの事に声も出ない様子だ。
「どうしたんです」
 巡査が驚いて駈け寄るのと、二郎の棒の様な身体が、彼の両手の間へ倒れかかるのと同時だった。
「ワッ、これは、……」
 流石の巡査も、今二郎が見た、死体の上半身を覗くと、思わず悲鳴を上げた。
 一体そこには何があったのか、二郎青年に脳貧血を起させ、商売人の警官をふるえ上らせたものは、そもそも何であったのか。

無残絵むざんえ


「もう大丈夫です。ありがとう」
 一寸の間に、二郎青年は、眩暈めまい恢復かいふくして、巡査の手から離れたが、併しそれ以上口を利く元気はなかった。彼等、二郎青年と、巡査と、書生とは死骸から遠く離れた室の一隅いちぐうに立ちすくんだまま、真青に引痙ひきつったおたがいの顔を、まじまじと眺め合っていた。婆やや女中たちは、死体の足の部分をチラッと見た丈けで恐れをなして、廊下にたたずんだまま這入って来ようともしない。
「実にひどい。実にひどい」
 やっとしてから、巡査が、死骸の方を見ぬ様に顔をそむけたままで、何か人に聞かれては悪い内密話ないしょばなしみたいに、低いしわがれ声で云った。
 誠に、人々がかくも驚き恐れたのも無理ではなかった。福田氏の死体は普通の殺人事件などでは見ることも出来ない、一種異様の恰好をしていたのだ。肩から上に何もない、胴体ばかりの人間というものが、こんなにも恐ろしく見えるとは、誰も知らなかった。人間ではない、何かしらえたいの知れぬ血まみれになった大きな物体が、そこにグッタリとよこたわっていた。つまり賊は福田氏の首を切断して、どこかへ持去ったのだ。
 芳年の無残絵そのままの、ゾッと歯ぎしりの出る様な光景だ。芳年の絵は物凄ものすごい中にも、どこか美しい所がある。だが、これは生々しい実物なのだ。切口からまだタラタラと流れ出す血のり、何とも云えぬ鮮血のにおい。ただもう、ギリギリと歯ぎしりをして、身体中の毛穴という毛穴が開いて、そこから氷の様な風が吹き込む気持である。
 だが、賊は一体全体、何の為に被害者の首を持去ったのであろう。物取りの仕業なら勿論、仮令恨みの殺人としても、相手を殺せば用は済む筈。それを、昔々の義士ぎし討入うちいりか何ぞの様に、古風にも首丈けを大切に持って行くとは、今の世に、余りと云えば異様なやり口ではないか。
 この殺人の異様さは、そればかりではない。死体の上に一面にかれたしおらしい野菊の花、送葬曲の様な物悲しい横笛フリュートの音、何から何まで古風で、浪漫ろうまん的で、しかも云うばかりなく怪奇なのだ。
 いやいや、不思議はそれにとどまらぬ。もっともっと変梃へんてこなことがあった。もう不思議という言葉では足らぬ。不可能事だ。ありべからざることだ。つて人々は、密閉された寝室の中へ、朝毎舞い込む予告状を、云うばかりなく不気味にも不審にも思っていた。今は、それが紙切れなどではなくて、一箇の人間の首が、全く出入口のない部屋の中から消失きえうせたではないか。いや、首どころではない。福田氏を殺害した兇賊自身は、そもそもどこをどうして、室内に入り、又逃去ることが出来たのか、誠に魔術師の怪技と云う外はないのである。
 勿論、この出来事は、巡査や玉村二郎や書生などの推理力の及ぶ所ではなかった。彼等はただもう血みどろの死体に仰天して、事の不思議さを理解する力さえない様に見えた。
 だが、職業柄、巡査丈けは、流石さすがにぼんやりしている訳にも行かず、を我慢しながら、兎も角も死体に近寄って、無惨な切口などを取調べた。
 鋭い刃物と、多分鋸とで、外科の専門家程ではないが、可成かなり手際よく切断されている。そして、顔のあるべき所に、絨毯じゅうたんを染めた血の池が、ドロリとよどんでいる。
 それから、巡査はベッドの下や家具の蔭などを、入念に覗いて廻った。何と云う滑稽こっけいな、併しゾッとする探し物であろう。彼は若しや生首が、どこか目につかぬ場所に隠されているのではないかと考えたのだ。だが、この奇妙な探し物は結局徒労に終った。又賊の手掛りとなる様な品も、何一つ、室内には残されていなかった。例の無数のしおらしい野菊の花の外には。
 巡査は日頃、こういう場合にるべき処置を教えられていた。彼は昔のルコック刑事の様な野心家ではなかったので、その教えをよく守って、一同を寝室の外に立退たちのかしめ、破れたドアを締めて、現場げんじょうを乱さぬ注意をした上、深夜ながら、警視庁に電話をかけて、事の次第を急報した。
 この事が警視庁から係の波越警部の私宅に急報され、警部が二名の刑事を引つれて現場に駈けつけたのは、一時間程のちであった。その間に巡査は玄関や裏口などの戸締りを改め、屋外の足跡を探し、召使達を取調べるなど、手抜かりなく、為すべき事を為したけれど、別段の発見もなかった。庭は乾いていて足跡は残らず、玄関も裏口も戸締りに異状はなかった。無論召使達は何事も知らなかった。
 波越警部が来着した頃には、すでに所管警察署の人々や被害者の実兄の玉村宝石王も長男一郎と共に駈けつけていたし、その外近所の出入の者などで邸内は非常な多人数となったが、不思議なことに、まるで、唖者の国の群衆の様に、ヒッソリと静まり返っていた。

巨人の手型


 さて、波越警部の現場調査、それからしばらくして来着した裁判所の一行の検視手続てつづきなどを細叙さいじょしていては、非常に退屈だから凡て省略して、ただ読者に告げて置かねばならぬ点丈けを、列記すると、
 第一には、被害者福田氏の隠し戸棚から、高価なダイヤモンドが紛失していたことが、玉村氏の注意で判明した。
 それは玉村商店の番頭が欧洲の宝石市場で手に入れた、古風なロゼット切りの十数カラットのもので、福田氏はその由緒ゆかりありげな光輝こうきれて、兄の玉村氏から原価で譲り受けた品であった。原価といっても、無論まんもっかぞえる価格である。その貴重な宝石が福田氏の奇怪な死と共に、消失せてしまったのである。
 第二は、福田氏の寝室の模様壁紙の上に、犯人の大きな血の手型が残されていたこと。流石老練警部の波越氏、巡査や玉村二郎が見逃していた大切な手掛りを苦もなく発見した。
「どうして、僕等はそれに気がつかなかったのでしょう」
 と二郎青年が不審がると波越氏は大様おうように笑って答えた。
「この手型が余りに高く、普通でない場所にあったからです。人間が壁によりかかる時は、目よりも低い箇所に手を突くのが普通です。したがって、犯人の手掛りを探す場合にも、大抵の人は目よりも高い場所を忘れている。どんなに丹念に床を探し廻る人でも、天井は見ようとさえしないものです。壁でさえも、殆ど注意しないのが普通です。僕の友達の明智君に云わせると、これはつまり心理上の盲点なんですね。我々はウッカリするとこいつに引かかって、飛んだ失策をやることがありますよ。それに、ここは、丁度電燈の傘の線の上だし、壁紙の模様にまぎれて、一寸位見たのでは気がつきませんからね」
 それにしても、変な場所に手型が残ったものだ。五尺何寸の玉村二郎や波越警部の目の線よりもずっと高く、一杯に腕を延ばしてやっと届く様な場所に、どうしてこんな手型がついたのであろう。
 いや、手型の高さよりも、もっと驚くべきことが、間もなく分った。それは血の手の平の寸法だ。波越氏が計って見ると、普通人のてのひらの少くも一倍半はある。異様に巨大な手型であった。それを知った警察の人々玉村父子等は、思わず声を呑んで顔を見合わした。こんな手の平を持った人間が、一体この世にいるのであろうか。
 人々は、迂濶うかつに彼等の空想をしゃべることを恐れたけれど、心の中では、一人の巨人を描いていた。その巨人は、手型の高さから想像して少くも七尺に近い身長を有し、常人の一倍半の手の平を持った、怪物でなければならない。
「どこかに間違いがある。そんな怪物が、この厳重に密閉された部屋に出入したなんて、それが巨人であればある程、愈々いよいよ不可能なことだ。馬鹿馬鹿しいことだ」
 と人々は彼等のこの驚くべき空想を打消そうとつとめた。ところが、この空想が満更ら空想でないことが、更らに別の方面から分って来たのだ。それが、つまり第三番目の発見である。
 で、第三に分ったことは、裁判所の一行が来着するのと前後して、各新聞社社会部夜勤記者の一団が、福田邸の門前に殺到して、あわよくば犯罪現場に闖入ちんにゅうせんいきおいで、探訪秘術を尽していたが、その内の一新聞記者が、鋭敏な探訪神経によって、一つの重要な新事実を発見し、その報を波越警部にもたらしたのである。(この記者は右の手柄の引替えに、最も詳しく、犯罪前後の事情を聞出すことに成功した)
 福田邸は東京市西北郊外の、ある閑静な地域にあって、門前は自家専用の通路の外は、広い空地になっていた。その空地が、一般街路に接する所、即ち福田邸専用通路のはずれに、時代に取残された人力車夫のたむろする、みすぼらしい掘立ほったて小屋がある。その晩、その掘立小屋に、一人の独身老車夫が、毛布にくるまって寝ていた。機敏な新聞記者は、その老車夫を訪ねて、何か気づいたことはないかと聞いて見たのだ。
 犯罪の行われた時刻は、老車夫が、珍らしい長帳場ながちょうばの一仕事を終って帰り、毛布にくるまって、ウトウトとしていた時分で、夢現ゆめうつつ境故さかいゆえ確かなことは云えぬが、そう云えばどうも変なことがあったとの答えだ。
「あっしゃ、あんな背の高い野郎を、ついぞ見たことがねえ。勿論顔なんか見えない。ボンヤリと闇の中に浮出した大入道おおにゅうどうみたいな野郎だったがね。そいつがおやしきの方からやって来て、この町を飛ぶ様に駈け出して行ったんでさあ。薄っ暗い町のことだから、半丁もへだたると、もうそいつの姿は見えなくなっちゃったがね。あんまり不思議なんで、夢でも見たんだろうと思っていたが、そんな人殺しがあったんじゃ、ひょっとすると、あの大入道の野郎が、下手人かも知れませんぜ」
 と云うのだ。
 記者の知らせで、波越氏はその老車夫を邸内に呼んで、なお詳しく取調べたが、それは恐らく七尺前後の大男であったこと、服装はフワフワした黒いマント様のもので、顔が白く見えなかったのは、多分黒い布で覆面していたのであろう。手に大きな荷物を持っていたかどうかは、気がつかなかった。等の事柄が判明した以上には、何も分らなんだ。
 だが、手型にせよ、暗中の大入道にせよ、凡て曖昧模糊あいまいもこたる怪談ばなしかあるいは夢物語以上の確実性を持ったものではなく、実際的な当局者としては、そんな外部からの怪物を信じる前に、凡ての戸締りが厳重に出来ていた点に基き、先ず一応邸内の召使達に疑いの目を向けたのは、誠に無理もない事であった。
 で、書生、婆や、二人の女中、自動車運転手、助手の六人が再三厳重な質問を受けて各自の荷物や行李こうりの中味まで検査されたが、一人として言動不審のものもなく、又所持品の中から問題のダイヤモンドも現われて来ず、結局うやむやに終ってしまった。
 この犯罪は単なる物取りの仕業としては、殺害方法の残虐なこと、死体の首の紛失していることなど、に落ちぬ点がある。殺害こそ主たる目的であって、ダイヤモンドの盗難は、ただ行きがけの駄賃だちんに過ぎないのであろうと、誰しも考えた。では、何故なにゆえの殺害であるか。恐らくは生前の福田氏に深い恨みをいだくものの所業に相違ない。
 だが、被害者の実兄である玉村氏は、弟はそんな恨みを受ける様な人物でない。殊に、七尺近い大男などには、直接にも間接にも知合いはない筈だと断言し、長年の召使の婆やなども、この玉村氏の言葉を裏書きした。
 流石戦場往来の古つわもの波越鬼刑事も、嘗つてこの様な幻妙不可思議な事件に出くわしたことがなかった。誰が殺したか、何ぜ殺したか、何ぜ首丈けを切断して持去ったか、何の必要があって、横笛フリュートを吹鳴らしたり野菊の花をいたりしたか、どんな方法で密閉された屋内に忍込み、更らに密閉された寝室へ入ることが出来たか。又そこからどうして逃出したか。凡て凡て真暗まっくらである。全く想像の下し様もないのである。しかも僅かに分っている手掛りと云えば、怪談か夢物語の外のものではないのだ。
「果して、この事件は明智小五郎の領分だわい」
 波越氏はひそかにそう考えた。で、彼はそのまま警視庁に帰ると夜の明け切るのを待って、何はさて置き、先ずS湖畔の明智の宿へ電話をかけた。早く帰京する様に催促する為だ。
 ところが、電話が通じて、ホテルの支配人の話を聞くと、彼はアッと仰天ぎょうてんしてしまった。明智は間違いなく昨日予定の列車で帰京したという。しかも上野駅に出迎えた福田邸の自動車は空っぽで帰って来たではないか。アア、名探偵はS駅と上野駅の間で、煙の如く消失せてしまったのだ。列車内でか、上野駅のプラットフォームでか。いずれにもせよ、彼は賊の罠に陥り自由を奪われてしまったものに相違ない。ひょっとしたら、それ以上の危害をさえこうむっているかも知れぬ。
 警視庁刑事部は、ただこの一事件の為に色めき立った。刑事部長も、各課の首脳者も、総監さえもが、この怪賊のことの外は何も考えなかった。殆ど無材料ながら、兎も角も出来る丈けの捜査方法が講じられたが、その一日は空しく過ぎた。そして次の十九日、即ち犯罪の行われた翌々朝、狼狽ろうばいした当局者の横面よこつらをはり飛ばす様に、又しても、前代未聞の椿事ちんじが突発したのである。

獄門舟ごくもんぶね


 その朝、九時から十時頃にかけて、白※(「髟/(冂<はみ出た横棒二本)」、第4水準2-93-20)橋附近での出来事である。
 肌寒い秋の大川おおかわは、夏期の遊山ゆさんボートは影を消して、真に必要な荷船ばかりが、橋から橋の間に一二そう程の割合で、さびしく行来しているほかには、時たま名物の乗合蒸汽がコットンコットンと物憂ものうひびきを立てて、静かな水面になみのうねりを残しつつ行くばかりだ。
 白※(「髟/(冂<はみ出た横棒二本)」、第4水準2-93-20)橋を徒歩で往来する人は、よくよく急ぎの用でもない限り、妙なもので、一度は立止って欄干らんかんもたれて、じっと川面かわもを見下している。夏のほかは、すずみの為とは云えぬ。ただ何かしら、あのドロンと淀んだ橋杭はしぐいの下の薄暗がりに、人を引きつける力がひそんでいるのでもあろうか。
 その朝のその瞬間にも、数名の男女が、橋の両側の欄干に凭れて、遠く近くの水面を眺めていたが、上流に面した欄干の二三人が、ふと妙なものを見つけた。
 もう十日余りで十二月に入ろうという晩秋の隅田川すみだがわに、これは何とした酔狂ぞ、一人の男が、水泳ぎをやっているではないか。最初は何か木切れでも流れているのかと見えたのが、だんだん近づくに従って、それが人間の頭であることが分り、更らに間近くなると、若者でもあることか、髭の生えた初老に近い男の顔がハッキリ見えて来た。
「ヤア、元気な爺さんじゃありませんか。この薄ら寒いのに、よくまあ水泳およぎが出来たもんですね」
 自転車を持った、カーキズボンの若者が、側の背広服の外交員といった男に話しかけた。
「本当だ。併し寒中水泳には少し早いが、一体何でしょうね。それに、あの年配じゃ、定めて何とか流の先生なんだろうが、別に新聞にも出てませんでしたね」
 外交員はやや不審らしく云って、なお老水泳手をじっと眺めていた。
 彼等の異常な熱心さが、反対側に立止っていた人々にも、他の通行人達にも敏感に反映して、上流に面した欄干に人の数が増して行った。
 水面に首丈けを浮べた水泳家は、もう橋から半丁ばかりの所まで近づき、流れに従って、一間一間と進んで来る。橋上の見物人もそれに従って、頭数を増し、遂には、物見高い黒山の群衆となった。
「どうも変ですぜ。あんな泳ぎ方ってあるのかしら、あんまり静かじゃありませんか。しぶきを立てない特別の流儀なんでしょうかね」
 外交員が又不審をうった。黒山の見物の間からそれにして、変だ変だという声が起った。
「あの顔を見ろ」誰かが叫んだ。「あの真青な顔を見ろ。それに目の玉がちっとも動かないじゃないか。あいつは死んでいるんだ」
「馬鹿なこと、あんな土左衛門どざえもんてあるもんか。水死人なら、もっと身体全体が浮上る筈じゃないか」誰かが反対した。
 如何いかにも、それは世にも不思議な泳ぎ手であった。彼の首は顎の辺まで水につかったまま、少しも上下動をしない。流れのままに、まるで水中の人魂の様に、静かに近づいて来る。といって首丈けが正面を切って、遊泳の形で流れる土左衛門なんて無いことだ。
 だが、間もなく、この疑問のはれる時が来た。その泳ぎ手が十間五間と橋の下に近づくに従って、人々の目は真上から眺める位置になり、今まで遠方の為見えなかった水面下の秘密なカラクリが分って来た。それは普通の土左衛門でもなく、そうかと云って生きた泳ぎ手では猶更らなかった。
 読者はすですでにそれが何物であるかを悟り、筆者の悠長な書き振りをもどかしく思っていられることであろう。如何にも御想像の通りです。これこそ、二日以前、彼の寝室から消去った福田得二郎氏の生首なまくびの外のものではなかったのです。
 ではその重い首が、どうして水面に浮んでいたのかと云うに、真上から覗いて見ると、首の下に細長い、船の形をした木切れが、水に歪んで、ヒラヒラと見えている。つまり、福田氏の生首は、小型の舟に乗せられ、その舟は首の重みで水面下に沈んだまま、ユラリユラリと流れに従って漂って来た訳だ。
 見物達の驚きは申すもくだである。彼等はこんな不思議な生首舟を、いまつて見たことも聞いたこともなかった、ワーッと云う一種異様のときの声が上った。
 橋詰はしづめの交番の巡査は、橋上の黒山に不審をいだいて、さいぜんから群衆の中に混っていた。無論彼は福田氏の顔を知らなかったけれど、流れて来たのが人間の生首と分ると、打捨てて置く訳には行かぬ。それどころか、これこそ大犯罪のいとぐちと異常な興奮をさえ感じて、早速附近を漕いでいた荷足舟にたりぶねの船頭に命じ、その異様な生首舟を拾い上げさせた。
 首をくくりつけた板は、明かに舟にしたもので、その船首に当る箇所には、船名のつもりか、筆太に「獄門舟」としるされてさえいた。
 アア、獄門舟、何という不気味な名称であろう。獄門台の代りに、水のまにまに流れ漂う移動さらし首だ。いうまでもなく、これは生前の福田氏に深き深き恨みを抱く、かの下手人が、死者に最大の侮辱ぶじょくを与える為に案出した、恐ろしき私刑に相違なかった。
 この出来事は所管警察署を通じて、警視庁に伝えられ、生首の主が福田得二郎氏であることもたちまち判明した。
 波越警部は、犯人の傍若無人ぼうじゃくぶじんなやり口に、重ね重ねの大侮辱を蒙り、鬼刑事の名にかけて、最早もはやじっとしていることは出来なかった。ただちに捜索刑事団が編成され、草の根を分けても犯人を引掴んで来いとの厳命が下され、波越刑事自身その先頭に立って、白※(「髟/(冂<はみ出た横棒二本)」、第4水準2-93-20)橋上流の両岸、当時その辺にいたと覚しき荷舟乗合舟の類を、しらみつぶしに調べ廻ったが、遂に何のる所もなかった。
 白※(「髟/(冂<はみ出た横棒二本)」、第4水準2-93-20)橋上流には、遠く千住せんじゅ大橋まで一つの橋もなく、しかも大川はその中間でほとんど直角に折れ曲り、見通しが利かぬので、人知れずこの異様な流し物をするには、究竟くっきょうの場所であったに相違ない。その上綾瀬川あやせがわその他支流や入江いりえなども多く、捜査範囲は非常に広い地域にわたり、如何いかな警察力を以てしても、余りにも漠然ばくぜんたる探し物であった。
 犯人につきまとう怪談、獄門舟の妖異、加うるに人気者明智探偵の誘拐、新聞編輯者へんしゅうしゃにとって何という好題目であろう。社会面は福田氏殺害事件で埋められ、従って世間の騒ぎは日一日とはなはだしくなって行った。

窓なき部屋


 明智小五郎は、うたたねの夢から覚めた様な気持で、ふと目を開いた。
 少々頭痛がするのを除くと、凡てが甚だ快適であった。手狭てぜまながら贅沢ぜいたくに飾られた洋室、天井から下った古風な併し贅沢な空気ランプ、深いクッションの立派な長椅子。……彼は意識を恢復して、上野駅での出来事を思起おもいおこした刹那せつな猿轡さるぐつわと手足の繩目なわめを幻想したが、どうして、繩目どころか、全く自由な身体で、彼はその長椅子のクッションに深々と横わっていたのである。
 明智が目を開いて、まじまじしていると、それを待構えてでもいた様に、ドアが開いて、一人の女が室内に這入って来た。美しい十八ばかりの娘だ。一寸見なれぬ型のダブダブした黒絹の洋装で、手に銀盆をささげている。盆の上には飲み物と軽い食事の皿が並んでいるのだ。
「お目ざめになりまして?」
 娘はソファの前のテーブルに銀盆を置いて、ニッコリして明智に話しかけた。
「本当に大変でしたわね。でも、どこも御痛みにはなりません?」
 無論知らぬ娘だ。この部屋にも見覚えはない。明智は夢みたいな気持で、しばらくボンヤリしていたが、やっと気を取り直して、
「ここは一体どこの御宅なんでしょう。そしてあなたは?」
 と尋ねて見た。
「イイエ、御心配なさることはありませんわ。あなたの御危い所を御救い申した人のうちとでも思っていて下さいまし。そしてあたしはその家の娘ですの」
「そうでしたか。僕は上野駅で変な自動車に押込まれたことは覚えていますが、すると今迄いままで気を失っていたのでしょうか。それにしても、どうして僕を救って下すったのですか。御主人はどなたですか。そして、ここはやっぱり東京市内なんでしょうね」
「エエ、まあそうですの。でも、あなたまだ色々なこと御考えなさらない方がよござんすわ。それに、あたし、何にも喋ってはいけないって云いつけられているんですもの」
「ナアニ、もう大丈夫ですよ。どこも何ともありません。少し頭がフラフラしている位のものです」
 明智はそう云って、大丈夫だということを示す為に、ソファの上に起直おきなおって、真直に腰かけて見せた。だが、そうして起きて見ると、やっぱり身体が本当でないのか、部屋全体がグラグラゆすっている様な感じを受けて、思わずソファの上に片手をついた。
「まだ駄目な様です。何だか僕には、この部屋がフワフワ宙に浮いてる様な気がするんです」
「ホラ、ごらんなさいまし。まだ無理をなすってはいけませんわ」
「でも気分は何ともないんです。どうか御主人にわせて下さい。御礼を云わなければなりません」
「イイエ、そんなこといいんですの。それに主人は今不在なのです」
 その時、明智は、やっとその小部屋の作り方が、どうやら普通でないことに気がついた。
「オヤ、この部屋には、窓が一つもありませんね。じゃ昼間もこうしてランプをつけて置くのですか。妙な部屋ですね。で、一体今は昼でしょうか夜でしょうか」
 実に変な聞き方だけれど、その部屋で目を覚ました人にとっては、当然の質問であった。
「夜ですの。今八時を打った所ですわ」
「何日の?」
「十一月、十八日」娘はそう答えて、口に手を当ててクスクス笑った。
「僕が上野駅についたのは十七日の晩だから、丸一日眠っていた訳ですね」
 と独言ひとりごとの様に云ったものの、何だか変な感じだった。娘の妙に慣れ慣れしい様子と云い、窓のない部屋といい、その上いつまでたっても、頭がフラフラして、部屋そのものが不安定に感じられるのも不快だった。
「この部屋は一体何階にあるんです」明智はたまらなくなって、変なことを尋ねた。「何だか高い塔の上にいる様な気持がするんです。若しや本当に、そんな高い建物の上にあるんじゃありませんか」
「そうかも知れませんわ」娘は相変らず、どこか表情の奥で笑っていた。「でも、居心地は悪くないでしょう。当分御滞在の間、出来る丈け御心持のいい様にと、云いつけられていますのよ。お気に召さないことがありましたら、御遠慮なくおっしゃって下さいまし。御食事でも何でも」
 娘はチラと銀盆の上の、オートミールの皿を見て云った。
「滞在ですって。冗談じゃありません。僕は大切な用事があるのです」
 明智はあっけにとられてしまった。狐につままれた様な、凡ての因果関係が混乱してしまった様な、途方もない感じがした。
「イイエ、そんなにおあせりなすっては駄目だめですわ。何も御考えなさらない方がいいわ」
 娘はまるで気の毒な精神病者をでも慰める調子で云ったが、一寸小首をかしげて、
「では後程又参りますわ。まずいのですけど、どうか御ゆっくり召上って下さいまし」
 娘が逃げる様にして、ドアを開けるので、明智は驚いて、
「待って下さい。待って下さい」
 と呼びながら、ソファから立上り、娘の跡を追ったが、五六歩でドアの所に達し、廊下へ出た娘の袖を、もう少しで捕えようとした時、突然、思いがけず、何かに足をとられて、バッタリ倒れてしまった。
「ホホホホホホ、ですから、じっとしていらっしゃる方が御為ですわ」
 鼻の先でドアが閉って、ドアの外から娘の声が嘲る様に響いて来た。
 気がつくと、足首に細いくさりがついて、その一端が部屋の真中のソファの下の床に取りつけてあることが分った。つまり彼は、丁度動物園の熊の様に、そのくさりの描く円周の外へは出られないのだ。
 ナアンだ。救われたというのは嘘で、ここは賊の巣窟だったのか。こいつは面白くなって来たぞ。明智は真相を知ると、失望するどころか、かえって、ひどく争闘慾をそそられたのである。

肉仮面


 明智は落ちついて食事を済ました。毒殺の心配はない。殺そうと思えば、眠っている間にいつでも殺せたのだから。食事をしながら見ると、部屋の一方に大きな本棚があって、ギッシリ金文字が詰まっている。その隣りの壁には西洋道化師のお面なども懸けてある。一方の隅の花瓶には、無雑作むぞうさに投入れた野菊の花束。読物はあるし、部屋は立派だし、食事は贅沢だし、何一つ不足はない。監禁者というよりも、大切な御客様の待遇だ。
 食事が済むと、どこかで見張ってでもいた様に、ドアがいて、さっきの娘が現われ、盆を下げるついでに、葉巻の箱を置いて行く。至れり尽せりだ。
「やっと、僕の境遇が分りましたよ。それにしても、君は実によく気がつきますね。どっかに見張りの穴でもあるのですか」
 立去ろうとする娘の手首を掴んで、明智は笑いながら云った。
「そんなものありませんわ」
 娘はソッと手を振りほどいて、にこやかに答えた。
「僕手が洗いたいのだが」
 彼は真実必要に迫られていたのではない。そういう場合この鎖をどうするのかと、試して見たかったのだ。
 すると、娘は黙って彼の足元にうずくまってポケットから小さな鍵を出し、足首の鉄の輪を解いてくれた。
「で、僕は自由になった訳ですね。逃げようと思えば逃げられる訳ですね」
 明智はニヤニヤ笑って云った。
「アア」娘は本当にびっくりしたらしく、サッと青ざめて、矢庭やにわに服のうしろの方から、小型のピストルを取出したかと思うと、震える手に彼を狙った。
「逃げてはいけません。どうしたって逃げられないのです。あたしを困らせないで下さい。お願いです。お願いです」
 彼女は、悲し相な顔をして、本当に頼むのだ。どうもうそではないらしい。変だなと思ったが、今の明智はそんな事位構っていられない。
「冗談ですよ。冗談ですよ。逃げたりなんかするもんですか」
 と笑って見せて、娘の油断しているすきに、一飛びに飛びついて、彼女のピストルを奪いとってしまった。
「アッ、あなたは何も御存知ないのです。いけません、いけません」
 と取りすがる娘を振りはらって、ドアの外へ飛出したが、廊下は真暗で、どちらへ行ってよいか分らぬ。ためらっていると、突然、背中へコツンと堅いものが当った。
「手を上げろ。ピストルを投げろ。さもないと、君の背中に穴があくぜ」
 背中の堅いものはピストルの筒口だった。闇の廊下に一人の覆面の大男が、彼を待受けていたのだ。
 で、結局、又しても動物園の熊に逆戻りだ。明智は足に鉄の輪をはめられながら、なる程こいつは厳重だわい。うっかり出来ないぞと心を引しめた。
「余計な手数をかけるもんじゃない。おとなしく寝ているがいい」
 覆面の男は云い捨てて、娘をつれて出て行ってしまった。
 明智は仕方なくソファの上に横になったが、彼の監禁が厳重であればある程、一方福田得二郎氏に対して行われている陰謀がどれ程重大なものか察しがつく訳だ。じっとしてはいられない。
 彼は眠ったふりを装って、今晩中に足の鎖を切断してやろうと決心した。で、三十分ばかり、いびきさえ立てて、寝入ったていに見せかけたのち、ドアの鍵穴に紙を詰め、室外の物音に耳をすましながら、ポケットナイフを取出し、鎖の切断作業に取かかった。切断したままそ知らぬ顔をしていて、娘が朝の食事を運んで来た時、部屋を飛出せばよい訳だ。
 非常に骨の折れる仕事であったが、四五時間もかかって、直径三程もある鎖をやっと切り取ることが出来た。で、切断したはしを身体の下に隠して、何食わぬ顔をしていると、これはどうだ。まるで、鎖の切れるのを待兼ねていた様に、又してもドアが開いて、今度は二人の覆面の大男が、一人はピストルを構え、一人は長い麻繩を持って這入って来ると、唖の様にだんまりで、ソファに寝ていた明智を、そのままソファぐるみ、グルグル巻きにして、全く身動きも出来なくなったのを確め、黙ったまま、ノッソリと出て行ってしまった。
 さっきから、どうもそうではないかと思っていたが、これで、この部屋のどこかに見張りの穴があることが明瞭になった。
 一体どこから覗いているのかと、明智はソファに縛られたまま、首丈けを動かしてグルッと部屋を見廻したが、どこにもそれらしい隙間はない。ドアの鍵穴にはちゃんと紙が詰めてある。
 窓のない常夜とこよの部屋、眩暈めまいの様にゆれる部屋、その上に、今は又、隙間もないのに、絶えずどこからか見張られていることが分った。凡てが普通でない。どこかしら、飛んでもない思い違いがある様な、名状めいじょうがたい不思議な気持だ。
 流石の明智小五郎も、きつねにつままれた形で、次に採るべき手段も浮ばずぼんやりと正面の壁を見つめていた。
 丁度彼の目の行くあたりの壁に、例の装飾用のお面がある。真白な顔の頬と額に滑稽な赤丸を塗りつけ、細くした目の線と直角に、頓狂な縦の黒いくまを描き、紅白だんだらのとんがり帽を冠った、西洋道化師の土製のお面だ。
 彼は何気なく、そのお面を、長い間眺めていたが、そうしている内に、不思議なことに、明智の表情が変って来た。ぼんやりしていた目が、爛々らんらんと輝き出し、ゆるんでいた口元がキッと引締った。
「アハハハハ、おい、クラウン、ジョーカー、それとも君はピエロという名前かね。よくまあ、そうしてじっとしていられたもんだね。退屈じゃないかね。ハハハハハハハ、駄目だよ駄目だよ。ホラまたたきをした。ホラ口元がゆがんだ。よし給え、よし給え。君が本物の人間だってことは、とっくに分っているんだから」
 と、驚くべきことが起った。壁にかけた土製のお面がカッと目を見開き、口を動かして、これに答えたのだ。
「やっと分った様だね。だが名探偵明智小五郎にしては、ちと遅過ぎたよ」
 そこには元々土製の道化面が懸けてあったのだが、賊はそのお面と同じ化粧をして、時々壁の穴からお面を引込め、その跡へ自分の首を突出して、食事を運ぶ娘の見張りをしたり、一人ぽっちになった明智の行動を探ったりしていたのだ。
 そののち思い合わせると、この道化面の男は恐らく賊の主魁しゅかいであって、先の覆面の二人は、上野駅で明智を虜にした自動車運転手とその助手に化けていた奴であろう。
「で、君は僕の自由を奪って置いて、一体全体何をしようというのだね」
 横ざまにソファに縛りつけられた明智が云う。
「何をしようだって? それよりも、何をしたかって聞いて貰いたいね」
 壁の道化面が答える。何という珍妙不可思議な対話であろう。だが、この滑稽な姿の両人が喋る言葉は、一騎討ちの真剣勝負だ。
「エッ、それじゃ」明智は驚いて叫んだ「君はもうやっつけたのか」
「やっつけたとは? 福田の親爺のことかね」
「ヤ、それじゃ、貴様、福田氏をどうかしたんだな」
「首と胴とを別々にした丈けさ。……だが、俺の仕事はそれで終った訳じゃない。俺には先祖から伝わった大使命があるんだ。その使命の為に、俺は生れ、教育を受け、四十余年の間苦しみに苦しんで来たんだ。それが、やっと目的を達しようという時になって、貴様という邪魔者が現われた。俺は世界全体を敵に廻しても恐れない。それ丈けの用意は出来ている。だが、君という怪物のことまで、勘定に入れて置かなかった。警察も裁判所も世間も怖くはないが、君はちと苦手なんだ。俺は君がどんな男だか知っている。君なれば俺の仕事の邪魔が出来るということを知っている。問題は権力や武器や人数ではない。智力だ。残念ながら君の智力が恐ろしいのだ。そこで、少々お気の毒だが、恨みも何もない君を、こうして監禁した次第さ。だが、俺は使命を果す外に、人の命をあやめくない。俺は殺人魔じゃない。だから君も、じっとおとなしくしていてさえれれば、充分歓待はする積りだ。暫くの辛抱だ。頼みだ。じっとしていて呉れ」
 道化面は昂奮こうふんに筋張り、厚い白粉おしろいを通して、顔面が真赤に上気しているのが見える程であった。決して嘘を云っているのではないことが分る。
「いつまで?」
 明智は冷然として聞き返した。
「一ヶ月、長く見積って一ヶ月だ。どうかその間ここにじっとしていてくれ」
「なんだって。一ヶ月だって。じゃあ貴様は、福田氏の外にも……」
「そうなんだ。俺の相手はあの男一人ではないのだ。だから君に頼むのだ。どうか俺の使命を果たさせてくれ」
「イヤだ」明智は駄々子の様に云い放った「仮令たとえ君の使命が、君にとってどんなに正当なものであるにもせよ、今の世に私刑を許すことは出来ない。イヤイヤ、そんなことよりも、僕は君が気に入ったのだ、君の四十余年の陰謀と僕の正しい智慧とどちらが優れているか、それが試して見たいのだ。僕はどうしたって、ここを抜け出して見せる。繩目が何だ。錠前じょうまえが何だ。そんなものは僕にとって、全く無意味であることを、君は知らないのか」
畜生ちくしょうッ」道化面がしぼり出す様な声で叫んだ。
「じゃ貴様こんなに頼んでも、ウンと云わないのだな。どうしても、俺に無駄な殺生せっしょうをさせる気だな。それ程命が不用なのか。……だが、明智君、もう一度考え直してはくれまいか。俺は使命の為には、君の命をとる位何でもないのだ。併し、罪も報いもない人を殺しては、俺の気持がにぶる。先祖以来の大使命の手前恥しい。頼みだ。頼みだ」
 薄暗い石油ランプの光線なので、明智は気づかなんだけれど、道化面の厚い白粉を溶かして顔一面に膩汗あぶらあせの玉が浮んでいた。
 悪魔の所謂いわゆる使命とは何を意味するかはっきりは分らぬけれど、福田氏の外になお数人の命を奪うことであるらしい。仮令如何なる理由があるにもせよ。それは許すべからざる大罪だ。
 明智は如何にしても、その様ないまわしき使命にくみする気にはなれぬ。で彼は云うのだ。
「それ程僕に手を引かせたければ、ここにたった一つの方法がある」
「それは何だ。それは何だ」
「つまり、君が大使命とやらを思い切るのさ」
「畜生ッ、その広言を忘れるな。望み通り今に息の根をとめてくれるから」
 云うかと思うと、スッポリ肉仮面が引込んで、あとの穴へ、向う側から本物の土のお面がはめこまれた。
 間もあらせず、ドアが開いて、総勢四人、ドヤドヤと這入って来た。化粧丈けでなく服装まで道化師のだんだら染めを着込んだ怪人物、二人の覆面の男、これ丈けは素顔を現わしたさっきの美しい娘。
 道化師は手に不気味な注射器を持ち、覆面の二人は各々ピストルを構えて、明智が身動きでもすれば、ぶっぱなす気勢を示し、娘は何ぜか青ざめて、物悲しげな様子である。
「だが安心するがいい、痛い思いはさせない。この部屋に血を流すのがいやだし、それに、君には何の恨みもないのだから、この注射針で極楽往生をさせてやる。言い残すことはないか。思い返して命を助かる気はないか」
 最後の宣告である。危い危い。身は十重二十重とえはたえに縛りつけられ、二挺のピストルは胸の前に筒口を揃えている。鬼神きじんにあらぬ明智小五郎、如何にして、この絶体絶命の大危難を逃れ得るであろうか。

水水水


 だが、底知れぬ明智の胆力は、この土壇場どたんばを平気で笑い飛ばすことが出来た。虚勢と言えば虚勢である。併し、彼の心の内に一種不思議な感じが湧上っていた。何かしら神秘な予感があった。その微妙なものの力によって、彼は最後まで自信を失わなかった。
「お祭騒ぎは止し給え。相手はたった一人なんだぜ。しかも身動きも出来ない程縛りつけられているんだぜ。君達はこの僕がそんなに怖いのかね。ハハハハハハハ、こんなになってもまだ平気でいる僕が、薄気味悪いのかね」
 道化師はそれを聞くと、何を思ったかギョッとした様に一歩後にさがって、
「繩目は大丈夫か」
 と覆面の男を振返った。男は明智の側によって、入念に繩の結目を検べ、
「大丈夫です」
 と答えた。
「よし、それじゃ、愈々いよいよ最後だぞ。文代ふみよその男の腕をまくるんだ」
 文代と呼ばれた美しい娘は、繩の喰入った明智の腕をまくろうとして、二三歩前に進んだが、この場の激情的光景に耐え兼ねたのか、真青になって、フラフラと倒れかかった。
「馬鹿、どうしたんだ」
 道化師が娘を支えて怒鳴ったので、彼女はやっと気を取直して、明智の上にかがみ込み不器用に、長い間かかって、洋服の腕をまくった。
 明智はその時、娘の美しい顔が、目の前に迫って、意味ありげにじっと彼の目を見つめているのを感じた。スースーとはずんだ呼吸の音や、早まった心臓の鼓動さえ聞取れる様な気がした。
 次の瞬間、娘の一方の手が彼の背中に廻ったかと思うと、明智はうしろに組んでいた手先に鋭い痛みを感じ、アッと声を立てようとしたが、娘の哀願する様な一種異様の目くばせを見てじっとそれをこらえた。
 彼女は腕をまくり終って人々のうしろに退しりぞくと、道化師は注射器をかざす様にして、明智の側にしゃがみ、空いた手であらわな腕の肉をつまみ上げ、ジリジリと注射器の針を近づけて行った。
 その時、突然非常に変なことが――当の明智さえびっくりした様な出来事が起った。ガチャンとひどい音がしたかと思うとランプが消えて室内が真暗になり、熱いガラスの破片がバラバラと人々の上に落散った。誰の仕業か、天井の空気ランプに何かをぶっつけたのだ。
「ぶっ放せ。ピストルをぶっ放せ」
 道化師の極度に狼狽した声が闇の中に響いた。彼は明智小五郎が何かしら不思議な力でこの椿事を惹起ひきおこしたものと思込んだのである。だが、明智自身も何が何だかさっぱり分らず、思いがけぬ幸運をいぶかるばかりであった。
 続いて起る銃声一発二発、ただ闇の事ゆえ仲々命中はしない。
 彼はこの幸運を利用して、何とか死地を脱する工夫はないものかと、思わず両腕に力をこめると、不思議不思議、繩がズルズルとゆるむではないか。その時、明智の頭にパッと電光の様にひらめいたものがある。
 何ぜか分らぬ。併し、明智を助けたのは文代と呼ばれる賊の娘なのだ。さっき手先に鋭い痛みを感じたのは、彼女が刃物で繩を切った力が余って明智の皮膚をきずつけたのだ。彼女は繩を切った上、更らに彼の逃走を容易ならしめる為に、ランプを打ちくだいたのだろう。
蝋燭ろうそくだ。文代、蝋燭を持って来るんだ」
 道化師が慌てふためいている間に、明智は懸命の努力で遂に繩を抜け出すことが出来た。
 黒い疾風しっぷうが何かにぶつかりながら、へやを飛出し、闇の廊下をめくら滅法めっぽうに走った。そのあとを追って、「逃げた、逃げた」という狼狽の叫声。
 幸い行手に別段の障害物もなく、廊下を抜け切ると、夜ながらパッと眼界が開けた。空には一面に星が瞬いている。明智はとうとう家の外へ出たのだ。
 だが、背後には、已に、入り乱れた追手の足音が迫り、流弾それだまばかりだけれど、ピストルの釣瓶撃つるべうち。
 明智は、まっしぐらに走った。と、五六歩も行かぬ内に妙な欄干みたいなものに突き当ってしまった。
「アハハハハハハ、驚いたか小僧、ここをどこだと思っているんだ。お前泳ぎが出来るのか。イヤサ、この海が泳ぎ切れると云うのか」
 道化師の高笑いに、ハッとして欄干の下を見ると、星明りにもそれと知られる、水、水、水、真黒くうねる、果てしも知らぬ大海原だ。
 アア、ここは陸上ではなかったのだ。どこの海かは知らぬけれど、陸地を遠く離れた船の上なのだ。道理こそ、陸上では今時見られぬ石油ランプだ。窓のない密室だ。絶えず眩暈の様に動揺する部屋だ。海がいでいた為に、それに余りにも意外な場所なので、まさか船の上とは気づかなんだが、恐らくあの夜、失神している間に自動車からこの船に移され、牢獄船は岸を離れて遠く沖合に乗り出したものに相違ない。アア、船とは、船とは、犯罪者にとって、何という理想の隠れがであろう。
 明智とて水泳の心得がないではなかった。併し、見渡す限り水又水のこの大海原を、どうして泳ぎ渡ることが出来ようぞ。うしろには迫る強敵、前には果てしれぬ黒い水、折角せっかくここまで逃れながら、又しても、又しても絶体絶命である。
 と、飛鳥ひちょうの様に飛びかかる黒影こくえい、あなやと身構える明智の耳に、意外、味方の文代のいそがしい囁声ささやきごえ
「飛び込む真似をして、船べりに隠れていらっしゃい」
 たった一言、黒影はついと離れた。
 救い主の忠告である。明智は何も考えずその言葉に従った。
「この位の海が泳げないでどうするものか」
 聞えよがしに大きく叫んで、ひょいと欄干を飛越すと、いきなり、もんどりうって、船の小縁こべりにぶら下った。命の瀬戸際せとぎわ軽業かるわざだ。
 と同時に、当の明智でさえ自分が落ちたのではないかと疑った程の、ドボンという大きな水音。分った分った。文代の巧みなトリックだ。闇にまぎれて、何かしら重い品物をほうり込んだのだ。
「ヤ、飛込んだ。ボートを出せ、ボートを出せ」
 道化師のわめき声、ともの方へ走る三人の足音、そこに小さなボートがつないである。狼狽した三人は、何を考える隙もなく、それをたぐり寄せて乗り込んだ。やがて、水を切るオールの音。ボートは明智の飛込んだと覚しきあたりを漕ぎ廻って、星あかりに海面をすかし見ながら、次第に本船を遠ざかって行く。
「もう大丈夫ですわ。あの人達が帰って来るまで、どっかに隠れていらっしゃい。そしてあの人達と入れ代りに、あのボートで御逃げなさい」
 明智が甲板に這い上ると、一生懸命の少女が、彼の耳たぶに温い息をかけて、策をさずけた。
「有難う。僕は君のことを忘れませんよ。それにしても、君はどうしてあの連中を裏切って僕の味方をしてくれたんです。君は賊の一味ではないのですか」
 明智は少女の手を握って囁き返した。何かしら熱いものが、目の中に湧上って来るのをどうすることも出来なんだ。
「あたし悪者の首領の娘ですの」文代は悲しい声で云った。「でも、でも、あたし、あなたのお名前をよく知っていたのです。そして、お助けしないではいられなかったのです」
 少女は激情の余り泣き出しそうにしながら、握られていた明智の手を、じっと握り返した。その指先にこもる異様な情熱。明智は、闇の中ながら、又彼の年齢にもかかわらず、少年の羞恥しゅうちを感じて、思わず顔を赤らめないではいられなかった。

名探偵の溺死できし


 賊の一味は、闇の海上の捜査むなしく、数十分ののち本船へ引上げて来た。それと入れ違いに、艇内に身を潜めていた明智小五郎は、賊のボートを奪って、ひそかに本船を離れた。
 あとで分った所によると、賊の怪汽船は海上五里、殆ど東京湾の中心と覚しき辺りに漂っていたのだ。明智は一艘の小舟に身をたくして、はるかに明滅する、どことも知れぬ燈台の光を頼りに、腕の限りオールをあやつらねばならなかった。
 一難についで又一難、今まで不気味な程静まり返っていた天候は、恐ろしい大暴風の前兆であったのだ。海の人々は、あの十一月十八日の夜の、際立った天候の変化を、今も語り草にしている程だ。同じ夜三艘の漁船が行衛ゆくえ不明となった。賊の快速船さえも、この暴風を乗り切って、近くの避難港へたどりつくのがやっとであった。
 その死にもの狂いの避難中、賊の一人が船尾につないだボートがなくなっていることを発見して、大声に呼ばわった。だが誰一人それを怪しむものはなかった。暴風が舫索もやいづなを吹きちぎるのは珍らしいことではないのだ。
 明智は真黒な水の小山、水の谷底を、根限こんかぎり漕ぎまくった。滝津瀬たきつせの様に、頭上から降りそそぐ鹽水しおみずの痛みに、目はめしい、狂風の叫び、波濤はとうの怒号に、耳はろうし、寒さに触覚すらも殆ど失って、彼はただ機械人形の様にめくら滅法にオールを動かしていた。
 無論方角などはとっくに分らなくなっていた。引返そうにも、賊の本船からはすでに遠く遠く離れている。
 恐らくは一つ所をグルグル廻っていたのであろう。だが、ボートは進まずとも、波の小山の方で、次から次と、息をつく間もなく、迫って来た。小舟は空を突くかと波の小山の頂上へ乗り上げ、次の瞬間には、暗闇の地獄の底へと逆落さかおとしだ。小山の中腹に突入すれば、上下左右ただ渦巻うずまく水であった。その中で、人と舟とは殆ど離れ離れになってしまった。そんな時、明智は腹の底から本能的にこみ上げて来る、ギャアと云う動物的な叫声きょうせいを止めることが出来なかった。
 アア、大自然の偉力の前には、小ざかしき人間の智恵や腕力は何のせんすべもないのだ。流石の名探偵も、渦巻く怒濤、山なす狂瀾きょうらんに対しては、みじめな一箇の生物に過ぎなかった。いや、彼の身辺に同じ様に波にもまれている、一片の木切れとすら選ぶ所はなかった。
 さて、この思うだに無残なる悪戦苦闘の後、彼はよく海上五里の波浪を乗切ることが出来たであろうか。或は湾内航行の大汽船に救上げられる好運に廻り合うことが出来たであろうか。それとも若しや、若しや……
 果して翌々日二十日の朝に至って、東京市民は驚くべき悲報に接しなければならなかった。その日各新聞の朝刊は、筆を揃えて、名探偵哀悼あいとうの記事を掲げた。A新聞はいわく、
   民間探偵の第一人者
      明智小五郎氏溺死す
          福田氏惨殺犯人の毒手どくしゅ
            月島つきしま海岸に漂着した溺死体
 福田得二郎氏惨殺事件、次いで白※(「髟/(冂<はみ出た横棒二本)」、第4水準2-93-20)橋下の獄門舟事件と前代未聞の残虐に世人せじん心胆しんたんさむからしめた怪賊は、更らに毒手を伸ばして、当面の大敵たる民間探偵明智小五郎氏を不思議なる手段によって殺害したかの疑いがある。
 明智探偵は、福田氏惨殺事件の当日以来行衛ゆくえ不明を伝えられ、警視庁においても極力捜索につとめていたが、昨十九日午後四時頃、月島海岸に一箇の溺死体漂着、検死の結果、意外にもその溺死者が明智小五郎氏であることが判明した。同氏は故福川氏の依頼により旅行中のS湖畔こはんより急遽きゅうきょ上京の途中、突然行衛不明となったもので、恐らく福田氏殺害犯人の魔手に陥ったのではないかと見られていたが、今や同氏の死体発見され、愈々その疑は濃厚となった。獄門舟事件と云い、明智氏溺死事件といい、事毎ことごとに水に縁のある所を見ると、兇賊は舟を根城ねじろとして巧みに其筋そのすじの眼をくらましているのではないかと、その方面に厳重なる捜査が開始される模様である。
(右の記事のあとには、明智小五郎の略歴、探偵手柄話、親友波越警部の談話等記しあれど凡て略す)
 読者諸君は右の記事を読んで、事の意外に一驚いっきょうきっせられたことであろう。物語はまだ始ったばかりだ。それに、主人公である筈の明智小五郎は死んでしまった。これはどうしたことだ。これからあとは、一体誰が兇賊を向うに廻して戦うのかと、いぶかしくも思われるであろう。いやいや、そんな馬鹿なことがあるものか。明智小五郎は死ぬ筈がない。この人気者はまだ死んではならないのだ。新聞記事は何かの間違いに相違ないと疑いを抱かれる読者もないとは云えぬ。だが、それは物語りが進むに従って判明することだ。作者はただ世に現われた事実を語るほかはない。
 で、新聞記事が嘘でなかった証拠には、その後何の取消し記事も出なかったばかりか、明智小五郎の溺死体は、旧友波越警部の自宅に運ばれ、立派な葬儀がいとなまれた程で、世人は誰一人これを疑わず、名探偵非業ひごうの最後を惜しまぬ者はなかったのである。

怪文字


 さてお話は、それから数日の後、大森おおもりの山の手にある玉村氏本邸の出来事に移る。
 玉村邸は人家を離れた丘陵きゅうりょう続きの広大な持地面もちじめんの真中に、ポッツリと建っている。ポッツリと云っても、邸そのものがまた仲々広大なもので、明治の中頃に建てられた煉瓦れんが造りの西洋館、御殿造りの日本建て、数寄すきを凝らした庭園、自然の築山つきやまあり、池あり、四阿あずまやあり、まるで森林の様な大邸宅である。
 この玉村本邸には、一つの名物がある。それは煉瓦造りの洋館の屋根にそびえて見える、古風な時計塔だ。玉村商店は日本の宝石商の例にれず、宝石を売買する一方古くから時計の製造販売をも営んでいて、その時計屋の目印として、東京の店の屋根にのせてあった時計塔が、大地震で振り落され、改築の際には、今時時計塔でもあるまいと、そっくりそのまま大森の本邸へ運んで、記念の為に西洋館の屋根へとりつけたものであった。これが、名物、玉村邸時計塔の来歴である。
 附近の中学生達はこの時計塔を、玉村の「幽霊塔」と呼んでいた、涙香小史るいこうしょうしの「幽霊塔」という小説から思いついたもので、なる程そう云えば、丘陵の真中に、ポッツリ建っている邸といい、古風な煉瓦造りの建物と云い、なんとなく「幽霊塔」じみて見えるのだ。
 時計塔は、文字盤の直径が二間もある、べらぼうに大きなもので、古風なぜんまい仕掛けだが、余程よほど精巧に出来ていると見え、大地震に会っても、別に狂いも出来ず、現に今でも、人間の背丈せたけ程もある太い鋼鉄針が動いているし、時間時間には教会堂のかねの様な時鐘じしょうが鳴り響くのだ。
 さびしい丘の上の一軒家、幽霊塔、しかもそこに住む人は、魔物みたいな怪賊につけ狙われている玉村氏だ。不気味な犯罪事件には、何とふさわしい背景であろう。
 玉村一家の人々が、打続く怪事件に、おじ恐れていたことは申すまでもない。玉村氏は警察署に頼み込んで、門前に見張りの刑事をつけて貰うやら、新しく男の召使を雇入れるやら、見えぬ敵に対して手落ちなく防備をほどこした。
 福田氏惨殺の現場に居合わせた二郎青年や、夢魔むまの様な予感に震えていた妙子の恐怖はさることながら、父玉村氏が、かくも賊の兇手を恐れるのはどうした訳か。彼は何事も口にしないけれど、この奇怪なる復讐鬼の正体を、ひそかに思当っていたのではあるまいか。いつか二郎青年が、無遠慮にその点に触れた時、善太郎氏は、
「私自身は他人から恨みを受ける覚えは断じてない。福田の叔父さんだって、まさかそんな敵を作りはしなかったろう。ひょっとしたら、これは私や叔父さんの個人に関係したことではないのだ。玉村家の一族全体におおいかぶさっている恐ろしい執念だ。だが、聞かないでくれ。私はそれを考えた丈けでも恐ろしさにあぶら汗が流れるのだ。まさか、まさか、そんなことが……」
 と言葉をにごして、いくら尋ねても、それ以上を語らなかった。
 さてある日のことである。玉村二郎は東京の友人の所へ気ばらしに話しに出かけて、昼過ぎ頃大森の邸へ帰ったのだが、門を這入って、植込み越しにヒョイと庭を見ると、そこに変なものを発見した。
 植込みの向う側は広い砂場になっていて、テニスコートやブランコなどがあるのだが、そこの地面に、大きな8という数字が幾つも書き並べてある。棒切れか何かで書いたものであろう。ひどくまずい字だ。
 何でもないことだ。誰かのいたずらに極っている。だが、その何でもないことが、二郎青年には、特別の意味をもって迫って来るのだ。福田氏の死を予告したのもこんな数字だったと思うと、何かしらゾッとしないではいられなかった。
 彼はそのまま立去ることが出来ず、枝折戸しおりどを開いて庭へ這入って行った。8の字は砂場の真中から、一間程の距離を置いて、点々と西洋館の向側へ続いている。
 二郎はフラフラとその怪文字をたどって歩いて行く。洋館の角を曲ると、向うに進一少年が、地面にうずくまって、釘の様なもので節十何番目かの8の字を書いている所だ。
「進ちゃん、なぜそんな8の字ばかり書いているんだい」
「アア、小父おじさん」進一はびっくりして振向いた。
「こうして八八はっぱ六十四書いて置くといいことがあるんだって」
「誰に教わったの」
「よその小父さんが、そう云ったよ」
 二郎青年は何故なぜという事もなくハッとした。
「どこで!」
「今、そこで、門の所で」
「どんな人だったい」
「年寄の小父さんよ、洋服を着ていた」
 まさか、これが、福田氏の場合と同じ恐ろしい予告だとは思われぬ。だが、その年寄の小父さんというのは、一体全体何物であろう。又、何の為にそんな馬鹿馬鹿しいことを教えたのであろう。
 彼は悪夢に襲われた様な変な気持で、洋館の自分の書斎へ這入った。窓から庭を見ると、進一少年は飽きもしないで根気よく8の字を書き続けている。
 そこへ裏手の方から、音吉おときちという最近雇入れた庭掃除のじいやがやって来るのが見えた。彼は股になった木の枝にゴムをしばりつけた手製のパチンコを持っている。
「坊ちゃん、いいもの上げようかね」
 音さんがニコニコして進一に声をかける。
「ナアニ、爺や」
「パチンコって云うのですよ。知ってますか」
「どうするの?」
「鳥でも何でも打てるのです。ホラ、見ていらっしゃいよ」
 爺やは云いながら、こいしを拾って、ゴムに当てがった。
「爺やは名人ですよ。あの八ツ手の葉を打って見ましょうかね。上から二番目のですよ。ホラ」
 パチン。
「どうです。うまいでしょう。今度はと、アレ、バルコニイにお姉さまがいらっしゃる。何だか飲んでおいでなさる。オヤ、顔をしかめなすった。きっと苦いお茶でしょうね。坊ちゃん、見ていらっしゃいよ。今度はあのコップを打ってお目にかけますからね」
 それを聞くと、少年の進一でさえ変な顔をした。まして大人の二郎青年は、音吉爺さん気でも違ったかとびっくりした。
 パチン。礫が飛んだと思うと、二郎の頭の上のバルコニイで、ガチャンと瀬戸物の破れる音がして、妙子の「アレッ」という叫声が聞えた。パチンコの狙いたがわずティーカップに命中したのだ。時候に似ずホカホカと暖い日だったので、妙子はバルコニイへ出てお茶でも飲んで居たものと見える。
「マア、爺や何をするんです。びっくりするじゃありませんか」
「これはお嬢さま、何とも申訳もうしわけございません。坊ちゃんにお見せしようと思って、その屋根のすずめに狙いをつけたのだが、ついはずれまして」
 爺やは平気な顔でうそぱちを云っている。
「もう少しで怪我けがをする所だったわ。ホラ、こんな大きな石ころなんですもの。もうこんなあぶないいたずらはすといいわ」
 妙子はブツブツ小言を云う。爺やは頭をいて閉口へいこうするばかりだ。
 それ丈けの出来事である。何の他愛たあいもない一些事いちさじに過ぎない。だが、神経過敏になっている二郎には、ただ事とは思えなかった。彼は音吉爺やが、あの恐ろしい兇賊その人ででもある様に、恐怖に満ちたまなざしで、立去る彼の後姿うしろすがたを見送った。
 では、この二つの妙な出来事は、全く二郎の疑心暗鬼ぎしんあんきであったかと云うに、必ずしもそうではないことが、翌日、翌々日と日がたつにつれて、段々ハッキリして来た。

殺人第三


 その翌日、例になく早起きをした二郎が、庭を散歩しながら、何気なく玄関の前まで来かかると、音吉爺さんが、西洋館の入口の大扉を、せっせと雑巾ぞうきんで拭いているのに出合った。見ると、彼は漫然と雑巾がけをしているのではなくて、その扉へ誰かが白墨はくぼくでいたずら書きをしたのを、きとっていたのだ。
 二郎はハッと立止って、思わず声をかけた。
「爺や一寸御待ち、消しちゃいけない」
 音吉はびっくりして、手を止めたが、文字は已に大部分拭きとられて無意味な一線を残しているばかりだ。
「爺や、お前そこに書いてあった字を覚えているだろうね」
 二郎の目の色が変っているので、音吉爺さんドギマギしながら、答える。
「ヘエ、誰がいたずらをしたんだか、困った奴等です」
「イヤ、そんなことどうだっていい。爺や思い出しておくれ。何という字が書いてあったのか。まさか数字じゃあるまいね」
「ヘエ、数字、アア、そうおっしゃれば、数字だったかも知れません。あたしゃ横文字は苦手でございましてね。よく読めませんが、エートあれは幾つという字だったか」
「そこへ指で形を書いてごらん」
「形は訳ございませんよ。この横の棒の下に、こうはすっかけに一本引張ってあったんで」
「それやお前、7という字じゃないか」
「アア、そうそう、七だ、七でございますね」
 二郎は真青になって立ちすくんだ。昨日は8、今日は7だ。いたずら書きと云ってしまえばそれまでだが、この一目下ひとめさがりの数字の出現が、果して偶然の一致だろうか。下手くそな落書きみたいなもの丈けに、一層不気味にも思われるのだ。
 その翌日は、二郎の方で、例の数字の出現を心待ちに待ち構えていた。しまいには邸中をアチコチと歩いて、どこかの隅に6という字が現われていはしないかと、探し廻りさえした。すると、アア、彼は又しても怪文字に出くわしたのである。
 今度は進一少年が発見者だった。二郎が探しあぐんで、やっぱり気のせいだったかと、稍々やや安堵を感じながら自分の部屋へ戻って来ると、そこに進一少年がいて、彼が這入るなり声をかけた。
「小父さん、こんなにカレンダーめくってしまって、いたずらだなあ。今日は十一月の二十四日でしょう。それに、十二月六日だなんて」
 云われてそのカレンダーを見ると、なる程6という字が大きく現われている。
「進ちゃん、君だね。こんないたずらしたのは」
 二郎は笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
 進一がそんな悪さをしないことは分っていた。無論、何者かがその部屋に忍込んで、例の数字を書く代りに、カレンダーを破って、6という字を示して置いたのだ。前二回は屋外であったのが、今度は屋内のしかも二郎自身の部屋だ。魔術師の様な怪物は、誰にも見とがめられず、自由自在にこの邸内を歩き廻っているのだ。二郎はもう黙っている場合ではないと思った。
 翌晩日の暮れ暮れに玉村氏の自動車は、京浜けいひん国道を大森の自邸へと走っていた。東京の店からの帰りだ。二郎もこの車に父と同車していた。彼はこの頃気がかりな父の身辺を守る為に、人知れぬ苦労をしているのだ。
 話そうか、どうしようか。若しあれがただのいたずらだったら、忙しい父に無用の心配をかけることはないがと、迷っている内に、車は大森駅を過ぎて、もう山の手にさしかかっていた。とっぷり日が暮れて、ヘッドライトが点ぜられた。
「お父さん、僕はもっと用心をした方がいいと思いますね」二郎は思い切って云い出した。
「お前、あいつのことを云っているのかい。充分用心しているじゃないか。雇人も増したし、わしの往復にはこうしてお前がついていてくれるし」
「駄目ですよ。僕の想像が間違いでなかったら、あいつは、もう僕等の家の中へ這入り込んでいるんですよ」
 と、二郎は三日間の出来事をかいつまんで話した。すると父玉村氏は笑い出して、
「馬鹿馬鹿しい。お前の気のせいだよ。いくらなんでもあの大勢の雇人の目をかすめて、家の中を歩き廻ったり出来るものかね。魔法使いじゃあるまいし」
「イヤ、それが油断です。あいつは魔法使なんだ。福田の叔父さんの時で分っているじゃありませんか」
 云い争っている内に車はいつか玉村邸の長いコンクリートべいに添って走っていた。
「すると、今日は5という数字が現われる勘定だね。ハハハハハ、お前はそれを信じている様だね」
 車は門前に着いて、グルッと方向転換をした。門の脇のコンクリート塀に、ヘッドライトが幻燈の様な円光を投げた。
「僕は殆どそれを信じています。殆ど……」
 二郎はそこまで云ってハッと息を呑んだ。
「君、車を動かしちゃいけない。そのままじっとしているんだ」彼はまるで違った声になって、叫ぶ様に云った。「お父さん。ごらんなさい。あれを、あれを」
 見よ、塀に写し出されたヘッドライトの円光の中に、まるで検微鏡けんびきょうで覗いた微虫びちゅうむれかなんぞの様に、ボンヤリと、それ故に一層不気味に5という数字が現われているではないか。
 幻燈文字はエンジンの響きにつれて、塀の上で微動している。ヘッドライトのガラスにすみで書かれたものだ。それが恐ろしく拡大されて塀に写ったのだ。
 偶然であったか、故意であったか、丁度そこへ音吉爺さんが出迎えに出て来た。彼も円光の中の数字を見た。そして、「オヤッ」と一種異様の叫声を立てた。
「これは誰が書いたんだ。お前達か」
 善太郎が激しい声で運転手を叱りつけた。
「ちっとも存じませんでした。いつの間にこんなものを書きやがったんだろう」
 運転手も小首を傾けるばかりだ。恐らく、東京の店の前に停車している間に、何者かが手早く書込んだものに相違ない。
 流石の玉村氏も、この不気味な幻燈を見ては、もう二郎の臆病を笑う訳には行かなかった。この出来事が家内の晩餐ばんさんの席の話題にも上り、雇人達にも知れ渡った。玉村氏は之を波越警部にも伝え、所管署からの見張りの刑事を増して貰う交渉もした。
 今や玉村邸は、不気味な化物屋敷であった。家内の人々はお互の足音にも、ビクッとして聞耳ききみみを立てる程におびえていた。
 日が暮れぬ先から門を閉め、方々の戸締りを固め、書生は交代で寝ずの番をするし、表門裏門には私服刑事の立番だ。これではいかな魔法使いでも、忍び入る隙はあるまいと思われた。
 だが、一目下りの怪数字は、相も変らず、毎日毎日邸内のどこかに現われる。その一々を記しては退屈だから凡てはぶくが、毎朝妙子さんの飲む牛乳のびんに、墨黒々と4の字が書いてあったかと思うと、次の日は二郎青年の書斎の窓から吹き込んだ一葉の枯葉に、3の字が現われているといった調子で、2と進み、遂に1となった。それが十一月二十九日のことだ。若しこれをあと一日という通知状だとすれば、翌三十日は、いよいよその当日である。
 第一は福田氏、第二は明智小五郎、次いで怪魔の兇刃に倒れるものは、そもそ何人なんぴとであるか、賊の予告が漠然と日附を示すのみで、その人を指名しない。不気味な曖昧あいまいさが恐怖を幾倍した。
 その当日、玉村邸の人々は、誰も外出しないで、朝から一間に集って、恐怖をまぎらす為の遊戯や雑談をしていた。主人の善太郎も店を休んだ上、屈強の店員五六名を呼んで、いやが上にも厳重な防備を固めた。
 ところが予期に反して何の変哲もなく日が暮れ、八時九時と夜が更けて行っても、邸内に別状はなかった。ナアンだ思った程でもない。この厳重な固めには、流石の魔法使いも策の施し様がないじゃないか。と、人々はやや安堵を感じ始めた。
 十時には家内一同寝室に退いた。無論寝室の扉に締りをすることは忘れなかったし、玄関の書生部屋には寝ずの番が二人がんばっていた。その外には、表門裏門の刑事だ。
 二郎青年もベッドに這入ったが、なかなか睡気ねむけを催さぬ。ほかの人々は安心しても、彼丈けは怪物の神変不思議な手並てなみを、まざまざと見せつけられていたからだ。
 遙か頭の上の、例の不気味な時計塔から、葬鐘そうしょうの様な十一点鐘が聞えて来た。それから三十分もたったであろうか、二郎はふと妙な音に気づいた。
 聞える。確かに聞えている。空耳ではない。あの恐ろしいフリュートだ。福田氏の惨殺された時と同じ節廻しだ。
 二郎青年は用意のピストルを握りしめて、ベッドを飛びおりた。
 彼はフリュートの音は、已に兇行が行われたか、或は正に行われんとしているか、いずれにもせよ、一瞬の猶予ゆうよもならぬ、きわどい場合であることを知っていた。家人を起し廻っている暇はない。彼は矢庭やにわに叫び出した。訳の分らぬ雀でも追う様なわめき声を発しながら、フリュートの音に向って突進した。洋館を貫く長い廊下を走った。走りながら考えると、それはどうやら妹の妙子の部屋らしい。「アア第三の犠牲者は妹だったのか」咄嗟の場合、頭の中で合点がてんが行った。
 と見る、妙子の寝室のドアの前にうごめく黒怪物。二郎はハッと立止った。腋下から冷い汗がツーッと辷った。遂に遂に、恐るべき怪物をまのあたりに見ることが出来た。彼は死にもの狂いの声をふりしぼった。
「何者だッ。動くなッ。動くと打つぞ」
 だが、不甲斐ふがいもなくピストル持つ手がワナワナと震えていた。
「二郎さまですか」
 怪物が答えた。何ということだ。怪物は音吉爺やであったのだ。
「変なふえの音がしたもんですから、念の為に見廻ったのですが、お嬢さまの部屋が何だか妙でございますよ」
「そうか。よしッ。ドアをぶち破れ」
 二郎は気負って叫ぶ。
 幸いドアは福田邸のものの様に頑丈ではなかった。二人の気を揃えた力で、何なく開いた。
 二人ははずみをくらって、寝室へ転がり込んだ。と同時に、アッとほとばし驚愕きょうがくの叫び声。

幽霊塔


 妙子は寝台からすべり落ち、あけに染って倒れていた。右腕のつけ根に、グサリ突刺つきささって、まだブルブル震えている短刀。
 家内中のものが妙子の寝室へ集って来た。見張番の刑事はこのことを警察署へ報告した。やがて、駈けつけて来た係官の取調べ。それをこまごま書いていては際限がない。
 例によって犯人の通路は全く不明であった。窓もドアも凡て内部からしっかり締りが出来ていた。玄関の寝ずの番も、居眠りをしていた訳ではなく、表門裏門の刑事達も部署を離れていた訳ではない。殆ど奇蹟である。犯人は文字通り魔法使であったのだろうか。信じ難い奇怪事だ。
 だが、まだしも仕合せであったのは、二郎の気附き方が早く、大声で怒鳴った為に、犯人は殺人の目的を果す暇なく、ただ、短刀の一突きで、そのまま逃出してしまったことだ。可成かなり重傷ではあったけれど、致命傷ではない。妙子は恐怖の余り一時気を失ったばかりだ。
 負傷者は時を移さず大森外科病院へ運ばれたが、彼女はその前に已に意識を恢復かいふくしていた。刑事が「犯人の顔を見たか」と尋ねると、「顔は見なかったが七尺もある様な、恐ろしい大男だった。何かしら天井につかえ相な黒いかたまりだった」と答えた。分ったことはただそれ丈けで、他には髪の毛一筋の手掛りもなかった。短刀は玉村氏が事件以来護身用にと妙子に与えて置いた品であったし、今度は福田氏の場合と違って、壁に巨人の手型も見当らなかった。
 だが、たった一つ丈け、犯人の残して行ったものがある。それは巨人の手型などに比べて、もっと現実的な、怪賊の傍若無人をそのまま語っている様な、恐ろしい代物であった。
 というのは、一枚の白いカードが妙子を突刺した短刀の根元に、丁度つばででもある様に、つらぬかれていたのだ。しかもそのカードには、いつもの不気味な筆蹟で、4という数字が大きく書いてあった。
 妙子が病院へ運び去られたあとで、現場に居残った人々の間に、初めてこのカードが問題になった。そこに記された4という数字は、一体全体何を意味するのかということが問題になった。
「犠牲者の番号をつけるのなら、3とあるべきです。それに、この数字はこれまで、いつも犯行の予告に使われて来た。それ以外の用途はなかった。とすると、この4というのが、やっぱり、次の兇行までの日限を示すものではないでしょうか」
 一人の刑事が、誰しも念頭に浮べながら、余りの恐ろしさに口にすることをはばかっていた点に触れた。
「最初は十四日の猶予がありました。次は八日、そして今度は四日と縮められたのです。兇行のテンポは次々と早くなって行く、……と考える外はないではありませんか」
 彼は冷酷に云い放って一座の人々を眺め廻した。
 アア何という兇悪無残、何という人非人、怪物は、今人を殺しながら、その刹那、已に次の兇行を予告しようとしているのか。
 果して、この想像は適中した。次の日には配達された手紙類のどれにもこれにも、漏れなく、赤鉛筆で小さく3の字が記入してあったではないか。直ちに郵便局を検べ集配人をただしたが、何のる所もなかった。その翌日は、外出から帰った長男一郎の折鞄おりかばんの中から、2と記したカードが現われた。
 一郎は家内中での気丈者きじょうものであった。彼は魔法使を妄想している人々の迷信を笑った。七尺位の男は、広い世間にいないとはまらぬ。それは幽霊や魔法使いでなくて、一箇の殺人狂に過ぎないのだ。密閉された部屋へ這入るといって、人々は驚いているが、それもこちらに手落ちがあって、気附かないでいるのだ。油断さえしなければ、ナアニ、相手も人間だ。そうビクビクすることはないと考えていた。
 ところが、今度はこの笑っている本人の折鞄から、幽霊文字が現われたのだ。外出中一度も身辺を離さなかった折鞄の中からだ。それでも、一郎は恐れなかった。恐れる代りに憤慨ふんがいした。手品使いみたいな怪賊の悪戯いたずらいかった。で、彼も亦、弟の二郎などと同じ様に、賊を探し出し引捕えることを心願する一人となった訳である。
 か様にして遂に数字の1となり、明くれば予告の当日となった。玉村邸の防備は前と同様、外に手の尽し様もないのである。
 だが、その当日になって、一寸意外な事が起った。というのは、賊は昨日最後の1という通告を発して置きながら、どういう訳か、更らに今日も、妙な幽霊通信を送って来たのだ。しかも、それの現われたのが、非常に突飛な場所であった。
 その日のお昼過ぎの事、一郎は一間に集る家人から離れ、ただ一人庭に出て、建物の廻りを見廻っていた。この建物のどこかに、人の気附かぬ様な、秘密の出入口が出来ているのではないかと疑ったからだ。
 で、そうして歩き廻っている内に、秘密の出入口などはなかったけれど、その代りに、妙なものを発見した。何気なく目を上げて、遙か屋上の例の時計塔を眺めていると、その文字盤の表面に、遠くて読めぬけれど、何か文字らしいものを記した紙切れが、ベッタリ貼りつけてあるのに気がついた。
「オヤオヤ、兇行の日延べかな?」
 一郎は、紙切れの文字が一字丈けでないらしいのを見て、変なことを考えた。
「よしよし、一つあすこへ昇って、あの手紙をはがして来てやろう」
 一郎は即座に決心して、誰にも知らさず、洋館の二階に上り、塔への特別の階段を昇って行った。気丈な彼は、こんなことで騒ぎ立てて、神経過敏になっている人々をおびやかすこともないと思ったのだ。
 とうとう怪賊は時計塔を利用した。幽霊犯人と幽霊塔、何という不気味にもふさわしい組合せであろう。だが、それにしても、賊は一体どうして、あんな所へ貼紙をすることが出来たか。屋根伝いに上へ昇るのは訳はない。問題は、賊が如何にして人目に触れず、邸内に忍び込み、屋上を這い廻ることが出来たかという点にある。夜のうちに? だが夜とても邸のまわりには厳重な見張り番がついているではないか。
 やっぱり怪物だ。魔法使だ。アア危い。一郎は深くも考えず賊の恐ろしい罠におちいろうとしているのではなかろうか。

断頭台


 薄暗い階段を昇りながら、ふとあることに思い当ると、流石豪胆ごうたんな一郎も、思わずゾッとして、腰のポケットに用意していたピストルを握りしめた。
 白昼とは云え、場所は不気味な幽霊塔だ。薄暗い幾曲りの階段、頂上の文字盤の裏には、見通しの利かぬ複雑な機械室、人間一人隠れる場所はどこにだってある。若しや、あの文字盤の貼紙は賊のトリックではあるまいか。それにつられて昇って来る犠牲者を、塔中の暗闇にようして殺害しようという、恐ろしい企らみではないだろうか。
 併し、強情我慢の一郎は、おびえて引返す様なことはしなかった。彼はピストルを胸の前に構え、一段昇る毎に、前後を見廻しながら、注意深く進んで行った。
 今にも、今にもと、寧ろ敵の襲撃を待構える気持だったが、案外別段のこともなく、頂上の機械室に達した。
 機械室は小工場といってもよい程の大がかりなものである。ギリギリとみ合っている巨大な歯車の群、この室の心臓とも云うべきゼンマイ仕掛けを包んだ、べらぼうに大きな鉄の箱、鉄の柱、鉄の腕木、鉄の心棒、それらによって作られた複雑極まる陰影。頭の上には、直径三尺もある大振子おおふりこが、金属性のキシリを立て、ゆっくりゆっくりと左右に揺れている。
 一郎はその機械室の一隅に立って、じっと息を殺し耳をすました。彼は鉄砲玉の様に飛びついて来る怪物を予期して、一瞬たりともピストルの手をゆるめなかった。だが、いくら待っても、何の変ったことも起らぬ。機械のまわりをグルッと廻って見たが、どこの隅にも、怪しいものの影はない。
 やや拍子抜ひょうしぬけのていである。彼はさい前からの臆病過ぎた用心が恥しくなって、苦笑しながらピストルをポケットに入れ、文字盤の裏へ近づいた。
 彼の頭の辺に、シャフトといった方がふさわしい様な、恐ろしく太い時計の針の心棒が横わり、その下の、丁度彼の胸のあたりに、俗に幽霊塔の目と云われている、大きな二つの穴が開いている。これは別段さしたる用途もないのだけれど、ボンボン時計のネジを捲く二つの穴になぞらえて、装飾旁々かたがた機械室に光線を取る為に開けてあるのだ。
 一郎は例の貼紙が、裏側から見て左の方の穴の真下に当ることを記憶していた。彼はその穴から首を出して、貼紙の位置を見定め、次に右手を穴の外へ出来る丈け伸ばして、それをはがそうとした。だが、残念なことに、もう少しのことで手が届かぬ。棒切れでもないかと機械室を見廻したが、適当な品も見当らぬ。
 彼はどうしたものかと思案しながら、一寸の間、ボンヤリそこに佇んでいたが、突然、彼の様子が変った。何かしら非常に恐ろしいものに出くわした様に、身体を固くして、物凄く見開いた目で、空間の一箇所を睨みつめた。彼は全神経を耳に集中しているのだ。何か奇妙な音が聞えるのだ。
 大振子のキシリではない。確かに笛のだ。あの怪物の兇行につきものの、物悲しい笛の調べだ。
 アア、今兇行が行われようとしている。だが、何所どこで、誰に。あり得ないことだ。家族の内の誰が屋根なんぞへ上っているものか。屋根の上には犠牲者はいないのだ。それにもかかわらず、笛の音は明かに塔の外の屋根の上から響いて来る。
 彼は笛の主を見る為に、文字盤の穴から首を出して、下の方に見える西洋館の屋根を眺めた。だが、そこには人の影もない。恐らく怪物は時計塔の裏側にいるのであろう。笛の音色によって想像するに、奴は屋根の上をあちこちと這い廻っているらしい。今にこちら側へ現われるかも知れぬ。どうかして一目、怪物の姿を見たいものだと、彼は長い間穴の外へ首を突き出していた。
 ところが、そうしている間に、つて聞いたこともない滑稽こっけいな、併し同時に身の毛もよだつ程恐ろしい事柄が起った。
 一郎は少し前からくびのうしろに、妙な圧迫を感じていたが、屋根に気をとられて、それが何であるかを考える余裕がなかった。だが、その圧迫感は、やがて、ジリジリと、不気味な鈍痛に変り、はては、耐え難き痛みとなった。
 最初は何が何だか訳が分らなかった。怪物が上の方から彼の油断を襲ったのではないかと、一時はギョッとしたが、頸を圧えているものは、何かしら非人間的な、機械的な物体であることが感じられた。
 彼は申すまでもなく、首を引込めようとした。だが、もう遅かった。見えぬ物体の為に圧迫され、顎が穴の縁につかえて、どうもがいても、首を引出すことは出来なかった。
 頸の痛みは刻一刻増すばかりだ。その時、やっと、彼を苦しめている物体が何物であるかということが分った。彼は笑い出した。真底からおかし相に笑い出した。世の中にこんな滑稽なことがあるだろうか。彼の首を押えていたのは、大時計の針であった。
 針といっても、長さ一間、はば一尺もある鋼鉄製のつるぎだ。その楔型くさびがたの鋭くなった一端が、彼の頸の肉にジリジリと喰い入っているのだ。
 彼は頸に力を入れて、その針を押上げようとした。だが、大ゼンマイの力は、存外強かった。針はビクとも動かぬ。力を入れれば入れる程、頸の肉がちぎれる様に痛むばかりだ。
 吹き出し度い程馬鹿馬鹿しい出来事だった。しかし、哀れな人間の力には、この巨大なる機械力を、どう喰い止めるすべもないのだ。
 余りの不様ぶざまさ恥しさに、助けを求めることを躊躇ちゅうちょしている間に、大振子の一振り毎に、針は遠慮なく下って来た。最早や耐え難い痛みだ。
 彼は叫び出した。三十歳の洋行帰りの紳士が、時計の針にはさまれて悲鳴を上げた。だが、叫んでも叫んでも、誰も救いに来るものはなかった。彼が時計塔へ昇ったことは誰も知らぬ。仮令この大空の悲鳴が階下の人々に聞えたとしても、まさか、そんな所に苦しんでいる人間があろうとは、想像もしないであろう。
 遙か地上を眺めても、その辺に、人影はない。見張りの刑事達のいる表門裏門は、屋根が邪魔になってここからは見えぬ。塀の外は二三丁の間人家もない丘陵だ。
 耳をすますと、怪しい笛の音は、いつかバッタリやんでいた。あの笛は彼を穴から覗かせるトリックに過ぎなかったのだ。賊はこうなることを、ちゃんと見極めていたのだ。そして、目的を果して、いずれかへ立去ってしまったのだ。
 アア、時計の針の断頭台。何という奇怪な、魔術師といわれる悪魔にふさわしい思いつきであったろう。鋼鉄製の剣には、心がないのだ。慈悲じひなさけもないのだ。それは文字通り、時計の針の正確さで、そこに介在かいざいする人間の首などを無視して、秒一秒下へ下へと下って来るのだ。
 叫び続ける一郎の顔は、頸動脈けいどうみゃくを圧迫されて、醜くふくれ上って来た。髪は逆立ち、血走った両眼は開く丈け開いて、今にも飛び出し相に見えた。
 ミリミリと頸骨が鳴った。圧迫された気道は已に呼吸困難を訴え始めた。最早や叫ぶ力も失った。断末魔は数秒の後に迫っている。
 その最後の土壇場で、彼の飛び出した目が、すぐ下に貼りつけてある紙片の文字を読んだ。そこにはの様に記してあった。
午後一時二十一分

 アア、何という皮肉。賊は犠牲者が命を終る正確な時間を、そこに記して置いたのだ。何故といって、時計の長針が、覗き穴の上を通過するのが、丁度二十一分に当るのだから。

花園洋子


 お話変って、丁度その時階下の一室に集っていた人々は、どこからか響いて来る微かな悲鳴を聞いた。彼等は思わず顔を見合わせて、聞耳を立てた。確かに人の泣き声だ。しかも、その声の調子にどこやら聞覚えがある。
「ア、兄さんがいない。兄さんはどこへ行ったのです」
 一座を見廻していた二郎が叫んだ。誰も答える者はない。皆真青な顔をして黙り込んでいる。
「僕、探して来ましょう」
 二郎は立上って、廊下へ出た。廊下のはしから端へと兄を尋ねて歩いた。二階へ上った。そこにも兄の姿は見えぬ。併し叫び声は、どうやら上から聞えて来ることが分った。彼はふと思いついて、時計塔への階段の下に立止った。もう叫声は聞えぬ。だが念の為だ。彼はいきなり駈け上った。三段一飛びの勢いで頂上の機械室に達した。
 見ると、歯車の間にうごめく人影。又しても彼だ。
「オイ、音吉じゃないか。そこで何をしている」
 二郎の怒鳴り声に、相手はハッとした様に振返った。音吉爺やだ。
「オイ、音吉、お前そこで何をしているのだ」
 二郎がつめ寄ると、音吉爺やは意外にも、かえって「丁度よい所へ」と云わぬばかりの様子で、小暗い隅に横わっている一物を指さした。よく見ると、それは探していた兄一郎のグッタリとなった死骸の様な身体であった。
「どうしたんだ。誰が兄さんをこんな目に……」
 二郎は愕然として倒れた兄にかけ寄った。
 一郎は首のまわりに真赤な輪を巻いた様な、むごたらしい傷を受けていたが、さいわい、命に別状はなかった。彼は力ない声で、事の次第を物語ることさえ出来た。
 それによると、一郎を救ったのは音吉爺やであった。彼は二郎と同じく悲鳴を聞きつけて、塔に昇り、きわどい所で、大時計の機械を止め、時針を逆行させて、危く一郎の命をとりとめることが出来たのだ。
 と聞いて見ると、兄の助かったのは嬉しいけれど、二郎は妙にがっかりしないではいられなかった。音吉爺やはただの忠僕ちゅうぼくに過ぎなかったのか。イヤイヤどうもそれは信じられぬ。あいつは妹の妙子に石つぶてを投げたではないか。又彼女がきずつけられた時、ドアの処でモゾモゾしていたのは誰であったか。外に出入口の全くない部屋で人が傷ついていた。しかもそのドアには締りがしてあったというのだ。あり得ないことだ。戸締りをしたのは、犯人自身――即ち音吉爺やその人であったとしか考えられぬではないか。
 では、なぜ彼は、そのままにして置けば死んでしまったに違いない一郎を助けたのか。それは従来の犯人のやり口から想像するに、玉村一家の悲嘆と恐怖とを出来る丈け長びかせ深める為の一手段であったかも知れない。つまり一すんだめし五だめし、蛇の生殺なまごろしに類する、比類なき残虐だ。
 と云って、何の確証もないのに、事を荒だてては却って不利である。よしよし、これからは、探偵になった積りで、一つあいつの一挙一動を厳重に見張っていてやろう。確かな紹介者があって雇ったのではあるけれど、もっとよく身元も検べて見なければなるまい。そして、何かしら、のっぴきならぬ確証を掴まないで置くものか。と、二郎は斯様かように心を極めた。
 一郎は首のまわりの妙な傷痕を別にすると、二三日ですっかり元気を恢復したが、妙子の方はそうは行かぬ。まだ外科病院で高熱に悩まされているのだ。
 ある日、妙子の友達の花園洋子が、彼女の病床を見舞った帰りがけに、玉村邸に立寄った。というのは、妙子の見舞は謂わば口実であって、事件の為にしばらく顔を見せなかった二郎青年にう為である。洋子は東京の名ある女流音楽家の内弟子うちでしで、玉村一家とは妙子を通じて懇意こんいの間柄、二郎とは父玉村氏も黙認している程の恋仲であった。
 二人は人を避け、庭の木影の捨て石に肩を並べ、ホカホカと暖い陽をあびて、話をした。だが、今日は、いつもの様に甘い話ばかりではなかった。
「何だって? 僕が毎日手紙を上げたって? そんな筈はないよ。兄きや妹のことで、手紙どころではなかったのだからね」
 洋子が変なことを云ったので、二郎はびっくりして聞返した。
「でも、ちゃんとあなたの名前でお手紙が来ているのですもの」
「じゃ、どんなことが書いてあった? 僕は全く覚えがないんだ」
「それが分らないの。二郎さん、しらばくれているんでしょ。暗号の手紙なんか書いて置いて」
「暗号?」二郎は何かしらハッとした。「暗号って、どんな?」
「まだ、あんなこと云っていらっしゃるわ。文句もなんにもなくて、ただ数字が書いてある切りなんですもの。暗号じゃなくって」
「エ、エ、数字だって? 数字だって?」
「エエ、五から始まって、一日に一つずつ減って行くの、四、三、二、一、という具合に」
 二郎はそれを聞くと、真青になって、思わず立上った。
「洋ちゃん、それ本当かい。オイ、大変だぜ。その手紙は、福田の叔父さんを殺した、あの賊が書いたのだ。兄貴も妹も、同じ手でやられたのだ」
「マア!」と云った切り洋子は真青になった。
「で、『一』という手紙はいつ受取ったの。若しや……」
「エエ昨日ですわ。そしてね、『一』と大きく書いた下に、急にお話したいことあり、明日必ず御出おいで下さい。とあなたの手で書いてありましたわ。で、妙子さんの御見舞を兼ねて、やって来たのじゃありませんか。おどかしちゃいやですわ」
「おどかすもんか。それはにせ手紙なんだ。僕の手を真似て、あいつが書いたのだ。あいつは何だって出来ないことはないのだからね」
彼奴あいつって?」
「あいつさ。七尺以上の大男で、フリュートの巧い……」
 と云いさして、二郎はふと黙ってしまった。彼の顔に見る見る恐怖の表情が浮んだ。目は木立を通して、五六間の向うを凝視している。
 洋子もびっくりして、二郎の視線をたどると、木立越しに、ゆっくりと歩いて行く、一人の人物を発見した。
「あれ誰?」
「シッ」
 二郎は手真似で制して、その人物が彼方に去って行くのを待った。そして、その影が見えなくなると、やっと安心して、洋子の問いに答えた。
「近頃雇入れた、庭掃除の爺やで音吉というのだ」
「あの人、さっき門の所でいました。叮嚀ていねいにおじぎしてましたわ」
「あいつ、僕達の話を立聞きしていたのかも知れない」
「でも、あの人に聞かれては、いけませんの?」
「イヤ、そういう訳でもないが」
 と、二郎は曖昧に言葉をにごしてしまったが、犯人の魔手が、玉村一家を呪う余り、その一員である彼の恋人にまで及んで来たかと思うと、怪物の心理の、底知れぬあくどさに、奥歯がギリギリ鳴って来るのをどうすることも出来なかった。
 彼は父善太郎氏を始め、まだ邸内に警戒を続けていてくれた警察の人々に、このよしを伝え、洋子が帰宅する際には、厳重な護衛をつけて貰う様に取計らった。
 ところが、その相談を済ませて、父の書斎からホールへ出て見ると、ついさっきまでそこにいた洋子の姿が消えていた。彼女と話していた兄の一郎丈けが、一人ぼんやりたたずんでいる。
「洋子さんは?」
「君の部屋へ行ったんじゃないかい」
「僕の部屋へ?」
 二郎はもう唇の色をなくして、自分の書斎へ飛んで行った。誰もいない。廊下へ出て、「花園サーン」と呼んで見たが、答えはなくて、何事が起ったのかと、召使達が集って来るばかりだ。
 二郎は気違いの様に、門へ走って行って、そこに立番をしていた書生を捉えた。
「花園さんが、ここから出て行くのを見なかったか」
 と尋ねると、半時間程誰も通らぬとの答えだ。
 そこで、召使や刑事達と手分けして、邸内隈なく探し廻ったが、恋人は蒸発してしまった様に、どこにもその姿を見せなかった。

大魔術


 一日二日とたつに従って、花園洋子の誘拐は確実となった。東京の女流音楽家、郊外の実家、その他心当りは漏れなく問合わせて見たが、洋子はどこにもいないことが分った。
 二郎は音吉爺やの身辺を抜かりなく監視していたけれど、これといって、変なそぶりも見えぬ。
 時々三十分か一時間程外出することはあるが、それは皆行先の分っているお使いばかりだ。
 新聞記者は警視庁と競争の形で、花園洋子行衛捜索に走り廻った。各新聞の社会面は、玉村家怪事件で埋められ、その外のあらゆる記事は、おしげもなく編輯者の屑籠くずかごに放り込まれてしまった。
 事件全体が、どうも正気の沙汰さたではない。殊に玉村二郎にとって、この一ヶ月の出来事は、凡て凡て、一夜の悪夢としか考えられなかった。だが、夜が明けて日が暮れて、又夜が明けて日が暮れて、いつまでたっても事態は変化せぬ。夢ではない。夢ではない。では俺は気が狂ったのではないかしら。そして、一生涯、この恐ろしい幻を見続けるのではないかしら。
 事実、彼は少々気が変になっていたのかも知れない。誰にしたって、恋人が水の様に蒸発してしまったら、この世が全く別のものに見えて来るのは当り前だ。
 彼はもう余り考えなかった。ただ歩き廻った。邸の庭と云わず、邸の附近の町と云わず、ただ当てどもなく歩き廻った。心のすみでは、どこかの木蔭から、或は軒下から、ヒョッコリ洋子が現われてくるのを期待しながら。
 その日も、二郎は何の当てもなく、大森の町を歩き廻ったのだが、ふと気がつくと、今まで一度も通ったことのない、まるで異国の様な感じの町筋に出ていた。すぐ目の前に、田舎びた、古めかしい一軒の芝居小屋が建っている。ハタハタと冬空にはためく十数本ののぼり。そこには、一度も聞いたことのない奇術師の名前が染出してある。
「アア手品だな」
 と空ろな頭で考えて、小屋ののきに並んだ絵看板を眺めると、様々な魔奇術の場面が、毒々しい油絵で、さも奇怪に、物凄く、描いてある。古風な骸骨がいこつ踊り、水中美人、人間の胴中へ棒を通して担いでいる有様、テーブルの上で笑っている生首、どれもこれも、一世紀前の、手品全盛時代の、物懐しい場面ばかりだ。
 虫が知らせたのであろうか、彼はその小屋へ、フラフラと這入って見る気になった。まだ夕方で、演芸も大物はやっていなかったけれど、それでも、久しく忘れていた少年時代の好奇心が蘇って、小奇術の一つ一つが、ひどく彼の興味をそそった。そうして、他愛もなく手品などに見入っていることが、この頃の彼にとっては、得難えがたい休息でもあったのだ。
 番数が進んで、日が暮れる頃から、段々大奇術に這入って行った。座長の手品師は、いつも鈴のついたとがり帽子をかぶって、顔を白粉おしろいで塗りつぶし、西洋の道化服を着て登場したが、田舎廻りにも拘らず、その手並みの見事なことは、大人の二郎でさえ余りの不思議さに、あっけにとられる程だった。
 水中美人、骸骨踊り、笑う生首、と演芸は一幕毎ひとまくごとに佳境に這入って行った。見物達は、もうすっかり、奇怪な夢の国の住民になり切って、酔った様に舞台の神技に見入っていた。
 二郎は何も知らなかったけれど、若し読者諸君が、この手品の見物の中に混っていたならば、舞台の上の一人物を見て、アッと叫声を発する程も、驚き恐れたに相違ない。ぜといって、水中美人の演芸で、大きなガラス製タンクに横わった女、テーブルの上に、チョン切られた生首をのせて、ゲラゲラ笑った女は、諸君が亡き明智小五郎と共に、品川沖の怪汽船の中で出会ったことのある、あの怪物の娘の、文代という美しい少女であったからだ。して見ると、座長の道化服は、あの時明智に恐ろしい毒薬の注射針をした、復讐鬼その人であろうか。そうとしか考えられぬ。では、彼等は、狙う玉村一家に間近い、この大森の町に、手品師と化けて入り込んでいたのか。
 何と云う大胆不敵。若し文代の顔を見覚えているものがあったらどうするのだ。併し、考えて見ると、文代が怪賊の娘だと知っている人は、明智小五郎の外には、この世に一人もいないのだ。その明智小五郎は死んでしまった。そこで一見無謀に見える賊の手品興行も、実は安全至極な一種のかくみのに過ぎなかった。
 そうとも知らぬ二郎の前に、幾幕目いくまくめかの緞帳どんちょうが捲き上げられた。
 背景は一面の黒天鵞絨くろびろうど、舞台も客席も真暗になって、スポットライトの様な、青白い光線が、舞台の一箇所を僅かに照らしている中に、たった一つ、玉座の様に立派な椅子が置いてあるばかりだ。そこへ、燕尾服えんびふくの説明者が現われて、前口上まえこうじょうを述べる。
「ここに演じまするは、当興行第一の呼び物、摩訶まか不思議の大魔術、座長欧米漫遊のせつ習い覚えましたる、美人解体術でございます。あれなる椅子に婦人をかけさせ、座長自ら剣をって、首は首、手は手、足は足と、切断致し、バラバラになった五体を組み合わせて、再び元の婦人を作り上げる、一度死にました婦人が、立上ってニッコリ笑いまするという、名づけまして、美人解体の大魔術にござります」
 説明者が引込むと、二郎には分らぬけれど、賊の娘の文代が、洋服美々びびしく着飾って現われる。続いて、例の道化姿の座長が、手に青竜刀せいりゅうとうの様な大ダンビラをひっさげて出て来る。
 挨拶あいさつがすむと、文代は正面の椅子に腰かける。座長と二人の助手が、その前に立ちふさがって、文代の着物をはぎ取ってしまう。パッと飛びのく彼等のうしろに、現われた姿は、見るも恥かしい、赤はだかの若い娘だ。全身をぐるぐる捲きに縛られた上に、顔全体を隠す様な、はばの広い布の目隠しをされ、猿轡さるぐつわさえはめられている。
 云うまでもなく、この三人がかりで、娘の姿を隠す様にして、着物をぬがせるのが、トリックで、その間に、椅子がクルリと廻転して、娘に似せた裸体はだか人形が正面に現われ、本物の娘は、黒天絨鵞の[#「黒天絨鵞の」はママ]うしろへ姿を消してしまうのだ。
 そうとは知りながらも、現われでた裸体人形の、余りに見事な細工に、二郎は我目を疑わないではいられなかった。文楽ぶんらくあやつり人形が、人形のくせに息使いをするのと同じに、この等身大の手品人形も、確かに呼吸いきをしている。青白いスポットライトが震えているのか、それとも、人形の胸が脈打っているのか、恐らくは幻覚であろうけど、ふっくらとした、二つの乳房が、ムクムクと動く様にさえ見えるのだ。
 二郎は、両眼がボーッとして来る程も、裸体人形を見つめていた。見つめている内に、ムラムラと恐ろしい想像が湧上って来る。若しや、あれは本当の人間ではないかしら、あの笑いの面みたいな顔をした不気味な道化師は、何喰わぬ顔で、毎日毎日、一人ずつ生きた娘を殺しているのではあるまいか。
 そればかりではない。あの人形の身体は、腿の線、乳のふくらみ、頸から顎へかけての特徴がどうも今見るのが初めてではない。どっかで見た様な、と思うと、その人形が、益々ますます誰やらに似て来るのだ。
「アア、俺はまだ悪夢の続きを見ているのかしら」
 二郎はともすれば、そんな気持になる。そして、一寸気を許すと、眩暈めまいの様に、青や赤の風船玉みたいな物が、目の前を、滅多やたらに飛び違う。
 さて、愈々美人解体が始まった。笑の面の道化師は、滑稽な程物々しい大ダンビラを、真向にふりかぶって、ヤッとかけ声諸共もろとも、裸体人形の腿に打ちおろした。パッと上る真赤な噴水。コロコロと舞台前方に転がり出す美人の片足。猿轡の中から、かすかに漏れる悲痛なうめき声。
 人形がうめく筈はない。きっと黒幕のうしろで誰かが声丈け真似ているのだとは思いながら、二郎は、そのうめき声を聞くと、ハッと飛び上る程、驚かないではいられなかった。アア、やっと分った。あの身体、あの声、何から何まで、裸体人形は、花園洋子に生き写しなのだ。
 已に両足を切落したダンビラが、右腕に及ぼうとした時、二郎は我を忘れて、座席を立上ると、いきなり花道へ飛上り相にしたが、ハッと気がついて、やっとのことでみずから制した。
 だが、この余りにも残虐なる魔術を見て、気が変になったのは二郎丈けではなかった。見物の婦人の多くは、悲鳴を上げて顔に手を当てた。中には脳貧血を起しそうになって、席を立った者もある。
 舞台では、美人解体作業がグングン進んで、両手両足の切断を終り、次には、重いダンビラが横ざまにひらめいたかと見ると、チョン切られた美人の首が、まりの様に宙を飛んで、切口から仕掛けの赤インキが、滝津瀬とほとばしった。
 あけに染まった生首、両手両足が、舞台のあちこちに、人喰い人種の部屋みたいに、ゴロゴロと転がっていた。
 椅子の上に取り残された、首も手足もなんにもない胴体は、不気味なドラッグの蝋人形の様に、チョコンと坐っていた。
 二郎はそのむごたらしい有様を見て、花園洋子その人が、その様な目に合ったと同じ恐れと悲しみに、唇の色を失って、ワナワナと震えていた。そんな馬鹿馬鹿しいことがある筈はないと、我と我が心を叱りながらも、胸の底からこみ上げて来る一種異様の戦慄をどうすることも出来なかったのだ。
 手品師も、見物を余りに恐怖せしめることをはばかったのか、解体の残虐場面は、またたく間に終って、次には、陽気な、美人組立て作業が始まった。
 突如として起る、下座げざの華やかな行進曲。そのジンタジンタの楽隊に合わせて、道化師は、身振り面白く、舞台一面に転がった人形の首や手足を、拾っては、椅子の上の胴体へと投げつけるに従って、足は足、手は手と、元の場所へ、ピッタリと吸いつく、見る見る、バラバラの五体が一つにまとまって行くのだ。
 そして、最後に、ヒョイと首がのっかったかと思うと、その首がいきなりニコニコ笑い出す。道化師が繩をとき、猿轡をはずしてやると、美人は立上りさま、しっかりした足どりで、舞台の前方に進み出で、自分で目隠しをとって、なまめかしく挨拶する。その顔は、まがいもなく、さっきの美しい女太夫おんなだゆう、即ち賊の娘の文代なのだ。
 二郎は、この美人組立てのトリックも知っていた。いつの間にか椅子が廻転して、本物の娘が、首手足を背景と同じ黒天鵞絨で隠し、胴体ばかりに見せかけて腰かけている。手品師は、バラバラの手足を投げると見せて、自分のうしろの背景の隙間に隠す、その刹那、娘の手足を覆った黒布が一つ一つ落ちて、丁度手足が生えて行く様に見えるのだ。
 二郎が驚き恐れたのは、そんなトリックなどではなかった。さっき大ダンビラで切断された人形も、今立上って挨拶している娘と同じ様に生きてはいなかったか。吹き出したのは、赤インキではなくて、本当の血潮であり、あのうめき声は、真実断末魔のむごたらしい苦悶くもんだったのではないか。という悪夢の様な考えであった。
 二郎は、寒い気候にも拘らず、身体中にネットリ汗をかいて、已におろされた緞帳を見つめていたが、丁度舞台の娘が背景の裏へ這入ったなと思われる頃、幕のうしろから、たった一声ではあったが、「キャッ」という、確かに若い女の悲鳴が聞えた様に思った。
「アア、きっと、あの娘が、殺されたもう一人の娘の、バラバラの死体を見たのだ。そして、恐怖の余り叫び出そうとしたのを、誰かが口に手を当てて、黙らせてしまったのだ」
 と、彼のいまわしい幻想は、どこまでも拡がって行くのである。
 まだあとに幾幕か残っていたけれど、彼はもう、じっと手品を見ている気がしなかった。フラフラと立上って、無神経に笑い興じている見物達の間を通って、木戸口を出た。
 小屋の外には、美しい星空の下に、真黒な家々が、シーンと押し黙って並んでいた。人通りも殆どなく、墓場の様に滅入めいった田舎町だ。
 彼は邸へ帰る為に、五六歩あるきかけて、ふと立止った。何となく、この罪悪をとじこめた様な芝居小屋を、離れ去るにしのびない感じである。
 彼はそこへ行って、何をするという確かな考えもなく、夢中遊行の様な足どりで、小屋の楽屋口へと歩いて行った。
 角を曲って、建物の背面に出ると、そこに半間程の小さな出入口が、ポッカリ口を開いていた。薄暗い電燈が、ボンヤリと、地面を長方形に区切っている。その中に、異様な大入道みたいなものが映っているのは、入口を這入った所に、誰かが佇んでいるのであろう。
 二郎はまるで泥棒みたいに、足音を盗んで、オズオズとそこへ近づいて行った。そして、出入口の板戸に手をかけ、ソーッと頭丈け突き出して、中を覗いて見た。
 大劇場と違って、楽屋口の番人も何もいない。ガランとした、薄汚い廊下がある切りだ。その出入口の彼のすぐ目の前に、何をしているのか、一人の男が向うを向いたまま、人形ででもある様に、身動もせず突立っている。
 その時、二郎が手をかけていた板戸が、身体の重みで、カタンと鳴った。ハッとうろたえて、覗いていた首を引込めようとした瞬間、物音に驚いた目の前の男が、ヒョイとこちらを振向いた。
 顔と顔とがぶつかった。
 二郎は一目その顔を見ると、まるでお化けにでも出会った様に、「ワッ」と、途方とほうもない叫声を立てたかと思うと、いきなりクルッと向きを変えて、滅茶苦茶めちゃくちゃに駈け出した。そのお化けが、うしろから追っかけて来るかの様に。
 楽屋口に佇んでいた男というのは、意外千万にも、或は当然至極にも、彼が数日来疑い恐れていた、あの庭掃除の音吉爺やであったのだ。

麻の袋


 駈け足が、急ぎ足となり、やがて並足なみあしとなった。いつ方角を取り違えたのか、行っても行っても玉村の邸には出ず、同じ町筋を何度も何度もどうどう巡りをしている内に、二郎はいつか見も知らぬ町はずれの真暗な林の中を歩いていた。
 木立ちを通して、向うの方にチラチラと人家の明りは見えているけれど、闇夜のせいか、或は立並ぶ年を経た樹木のせいか、深山へでも迷い込んだ様な気持である。大森の山の手には、こんな森とも林ともつかぬ空地が所々にあって、昼間なれば何でもないのだが、闇夜ではあり、さい前からの変な気持の続きで、やっぱりそれも、悪夢の中の物凄い場面の様に思いなされるのであった。
 二郎には、それが、行っても行っても尽きぬ、怪談の森の様に感じられた。いや、彼は、もっと怖いことさえ考えていた。というのは、子供の時分よく聞かされた、お化けの話の中に、一人の子供が、真暗な町角で、朱盆しゅぼんみたいな顔をした、恐ろしいお化けに出会い、キャッと云って逃げ出して、別の町角まで来ると、よその小父さんに出会ったので、そのことを話す。小父さんが「そのお化けはこんな顔だったかえ」と云いながら、ニューッと顔を近づける。その顔が、何と、さっきのお化けとそっくりの朱盆に変っている。というのがあった。二郎は今、それと同じ恐怖を想像して、想像した丈けで、ゾーッと、髪の毛が逆立つ思いだった。
「きっと、きっと、あいつが、この林のどこかに隠れていて、今にも、バアと云って飛び出して来るに違いない」
 彼は夢の中の心理状態で、それを妄信もうしんしていた。「あいつ」というのは、勿論、音吉爺やであったのだ。
「今にも、今にも」
 と、念仏みたいに、頭の中で繰り返しながら歩いていると、果して、行手の木蔭にうずくまっている、妙な人影を発見した。「ソラどうだ。あれが音吉に極っている」と闇をすかして、見れば見る程、やっぱり、それが音吉爺やのうしろ姿に相違ないことが分って来た。
 ギャッと叫び相になるのを、やっとこらえて、消えて行く思考力を、一生懸命呼び戻しながら、自分も木蔭に身を隠して、じっと様子を見ていると、音吉の方でも、何か大木の向側にあるものを熱心に見守っている様子である。
 何を見ているのかと、色々苦心をして、覗いて見るけれど、音吉の小楯こだてにとっている大木の幹が邪魔になって、その上闇夜の暗さに、そう遠くまで見通しが利かぬので、ただもどかしい思いをするばかりだ。
 暫くそうして我慢をしていると、突然、音吉の向うの闇の中に、もう一つ、蠢く黒影を発見した。ハッと思う間に、その黒い影がこちらへ歩いて来る。
 次の瞬間、恐ろしいうめき声と共に、二つの黒影が闇の中にもつれ合った。音吉がその男に飛びついて行ったのだ。
 二人は地上をコロコロ転がりながら、掴み合っている。相手も弱くはなかったが、老人の癖に音吉の腕力は恐ろしい程であった。
 見る間に、男は音吉の為に組みしかれて、悲鳴を上げた。
 事情は分らぬけれど、音吉を助ける筋はない。それに、相手の男は、今にも絞め殺され相な悲鳴を上げているのだ。
「コン畜生」
 と叫びさま、二郎は音吉目がけて組みついて行った。
 三つの黒影が、木の根にぶつかりながら、ともえとなって掴み合った。
 だが、いくら強いといっても、一人と二人では勝負にならぬ。組みしかれていた男が、はね起きた。余る力で音吉を突き飛ばして置いて、サッと飛びのくと、いきなり闇の中へ逃げ去ってしまった。
 取残された二郎こそ、迷惑である。彼は、まさか主人がこんな所へ来ているとは知らぬ音吉の為に、散々な目に合わされた末、先の男に代って、同じ様に組みしかれてしまった。
「貴様は何者だ」
 老人とも思われぬ強い声が尋ねた。
「手を離せ。俺は君の主人の玉村二郎だ」
「エッ、あなた、二郎さんですか」
 音吉は、さも驚いたらしく、押えていた手を離して立上った。
「どうして、こんな所へお出でなすったのです」
「君こそ、どうしてここにいるのだ。今の男をどうする積りだったのだ」
 二郎は逃がすものかと、音吉の胸ぐらを掴みながら、詰問きつもんした。
「イヤ、何でもないのです」音吉はしらばくれて、「あなたの御存じのことではありません。サア、その手を離して下さいませ」
「離すものか」
「では、この爺をどうしようとおっしゃるのです」
「分り切っているじゃないか。警察へ引渡すのさ」
「警察ですって。……、あなた、なにか思い違いをしていらっしゃる」
「思い違いなもんか。俺はすっかり知っているぞ。貴様が犯人だ。福田の叔父さんを殺したのも、妙子や兄さんを傷つけたのも、洋子さんを誘拐したのも、みんな貴様の仕業だ。俺はそれをちゃんと知っているのだ」
「それが思い違いです。わたしは、あなたが疑っていらっしゃることは、薄々感づいていました。併し、こんな思いがけない邪魔をなさろうとは、まさか知らなかったです」
「邪魔だって。僕が何の邪魔をした。今の男を殺そうとする邪魔をしたとでもいうのか」
「アア、もう今から追駈けた所で間に合わぬ。奴等はどっかへ姿を隠してしまったに極っている。チェッ、飛んでもないことが起ったものだ」音吉は残念そうに舌打ちをしたが、ふと気を変えて、「それじゃ、あなたの疑いをはらす為に、御目にかけるものがありますから、こちらへ来てごらんなさい。わたしも、それを確めて見なければならないのですから」
 二郎は、そんなことを云うのが、相手のトリックかも知れぬと考えたので、油断なく音吉のたもとを掴んだまま、あとに従って行った。
「あなたマッチをお持ちでしたら、一寸すって見て下さいませんか」
 音吉が云うので、二郎は、袂を離さず、あいている方の手で、ポケットから、ライターを取り出しカチッとそれを点火した。
 音吉はゆらめく火影ほかげに、暫くあちこち地面を眺めていたが、
「アア、ここだ」
 と呟いて、地面の一箇所を指さした。
 見ると、三尺四方ばかり、今掘返した様に、土の色が変って、そのそばに、一挺のくわが転がっている。
 音吉は鍬を拾うと、いきなりその地面を掘り出した。
 音吉が何か見せるものがあるというのは、嘘ではないらしい。二郎は、いくらか安心して、その時まで掴んでいた挟を離し、相手の土掘り仕事を助ける為に、ライターを地面に近づけてやった。
「そこに何があるのだ」
「はっきりしたことは分りません。併し、わたしの想像では……」
 音吉は鍬を動かしながら答える。
「君の想像では?」
「非常に恐ろしいものです」
 と云った切り、彼は、ムッツリ黙り込んで、土掘りに余念がない。
 やがて、掘返された土の中に、麻の袋の様なものが見えて来た。
 その時、二郎の頭に突如として、ある恐ろしい考えがひらめいた。「そんなことがあるものか」と打消す下から、その想像は、段々はっきりと、毒々しい血の色で、彼の心中に拡って行った。
「サア、手伝って下さい」
 音吉が云うままに、二郎はその袋に手をかけた。二人がかりでやっと持上る程の、重い袋だ。
「音吉、これは一体何だ、この袋の中に這入っているのは」
 二郎は震え声で尋ねた。
「多分、わたしの想像していたものです。併し、あなた、この中を見る勇気がおありですか」
 二郎は袋を放り出して、いきなり逃げ出しい様な気がした。
「もう一度、明りをつけて下さい」
 二郎が又ライターに点火すると、その淡い光の中で、音吉は袋の口を解いた。そして、底の方を持って、一振り振ると、袋の口から地面へ、ゴロゴロと転がり出したものは、……
 大方それと察していた二郎も音吉も、実際その切り離された人間の腕や足を見た時には、思わずアッと叫んで、飛びのいた。
「人形ではなかった。やっぱり、生きた人間だった」
 二郎が上ずった声で云った。
「そうです。あれは人形ではなかったのです」
 音吉は、彼もやっぱり、さっきの美人解体術を見ていたかの様に、合槌あいづちを打った。
「で、一体、これは誰の死骸なのだ」
「それを確めなければならないのです」
 二郎と音吉とは、じっとお互の目を睨み合った。二人共、調べて見るまでもなく、死骸の主を知っているのだ。
 音吉は、袋の底から、死骸の首を探り出して、二郎のライターに近づけた。まだ目隠しをされたままだ。音吉は片手でそれを解いた。ハラリと落ちる布のうしろから、現われたのは、アア、果して、果して、行衛不明となっていた、二郎の恋人、花園洋子の、変り果てたおもざしであった。
「気違い! 気違い!」それを一目見るや、二郎自身気が違いでもした様にどなり出した。「気違いでなくて、あんな馬鹿馬鹿しいことをする奴があるものか。何の必要があって、千人の見物の前で、こんなむごたらしい目に合わせたのだ。気違いでなければ人殺しを見世物か何ぞの様に心得ている、極悪人だ」
「復讐ですよ」音吉が低い声で云った。「ホラ、忘れましたかね、隅田川の獄門舟を。あれと同じ思いつきです。犠牲者を、出来る限りむごたらしく、出来る限り多人数の前で、お仕置きするのが、犯人の目的なのですよ」
 二郎は、音吉の静かな声におびえて、クラクラと眩暈を感じた。
「で、つまり、こうして、一度埋めた洋子さんの死骸を、僕の目の前で、態々わざわざ掘出して見せるのも、やっぱり犯人の目的に叶う訳だね」
 二郎は最後の意力をふるい起して云った。
「と、おっしゃるのは?」
「やっぱり、貴様が犯人だと云うのだ。でなくて、庭掃除の爺やが、何の為に今時分、こんな所へ来ているのだ。殺人事件の度毎に、いつも現場附近をうろついていたのは、どうした訳だ。それから、それから、パチンコで妙子を狙ったり、玄関の戸の暗号通信を拭きとると見せかけて、僕の注意を惹いたのは一体誰だったのか」
 一寸の間、妙な沈黙が続いた。音吉が何かを決し兼ねている様子だ。が、暫くすると、突然、全く聞き覚えのない声が、音吉の口から響いて来た。
「アア、君はまだ疑っているのですね。どうも是非ぜひがない。では、二郎さん、僕の顔をよく見てごらんなさい」
 音吉は、二郎のライター持つ手を、グッと引寄せて、自分の顔を照らして見せた。
 そこには、一度も見たことのない、荒々しい一人の男が立っていた。かがんでいた腰がシャンと延びた。うなだれていた首が、まっすぐになった。
「まだ分りませんか」
 云いながら、音吉は、白髪まじりのかつらをかなぐり捨て、け眉毛をはぎ取り、胡麻鹽ごましお無精髭ぶしょうひげをむしり去った。その下から現われたのは、(老人らしい皮膚の斑点はんてんや、陽に焼けた顔色は、咄嗟とっさに洗いおとすことが出来なかったけれど)明らかに、まだ三十代の、精悍せいかんな一男子であった。
 二郎はあっけにとられて、まじまじと相手の顔を見つめていたが、ハッとある相似そうじに気付くと、真青になって、まるで幽霊にでも出逢った様に、ヨロヨロとあとじさりをした。
 彼はある人物の写真を思い出したのだ。その写真と、今目の前に立ちはだかっている人物とが全く同じに見えることが、彼を極度に怖がらせたのだ。

明智小五郎


「アア、あなたはしや、……嘘だ嘘だ。あり得ないことだ」
 二郎はまるで幽霊にでも出会った様な恐怖の表情で、あとへあとへと退しざって行った。
「分りましたか」
 二郎は躊躇した。その名前を口にするのが、何となく恐ろしかったのだ。併し、彼はとうとう云った。
「明智小五郎……」
「そうです」
 音吉爺やの明智小五郎が答えた。
「併し、私は信じることが出来ません。あなたはとっくに死んでしまった人です」
「現にこうして生きているではありませんか」
「でも、あの新聞記事は? 月島海岸にうち上げられたあなたの死体は? 波越さんのお宅での告別式は? そして、あの立派な葬式は?」
「みんな賊をあざむく為の非常手段です。今度の賊は犯罪史上に前例もない程恐ろしい奴です。四十年の間考えに考え抜いて着手した一家鏖殺おうさつ事業です。しかも僕を唯一の邪魔者と目ざし、犯罪に先だって僕を誘拐した用意周到さ、並大抵の手段では奴に対抗することは出来ない。非常の事件には非常の手段が必要です。僕は波越君と相談して、あの突飛な芝居をやった。新聞社を欺き世間を欺き、そして犯人を油断させたのです。僕は玉村さんの邸へ入り込んで、あなた方の身辺を守護する為には、どうしても、犯人に僕が死んだと見せかける必要があったのです」
 アア、それで一切が明瞭になった。犯罪が起る度毎に、音吉爺やが現場にウロウロしていたのは、彼が犯人でなくて探偵であったからだ。妙子が危く命をとりとめたのも、一郎が時計の針の断頭台から救われたのも、凡て明智小五郎の素早い行動のお蔭であった。彼がパチンコで妙子を狙ったことについては、後に分った所によると、あの時妙子は、知らずして毒薬の入った紅茶を飲もうとしていた。どこに賊が潜んでいるかも知れぬ。大声を出しては不得策だ。そこで、咄嗟の機転で、彼は丁度手にしていたパチンコを使い、コップを割って、飲むことが出来ない様にしてしまったのだ。
「分りました。僕は飛んだおさまたげをしてしまった。そうと分れば、こうしてはいられません。すぐ芝居小屋へ駈けつけましょう。警察へ知らせましょう」
 二郎は今度は、落ちつき払っている明智の態度に、イライラし始めた。
「イヤ、それはよしましょう。あなたはお宅へ御帰りなさい。僕もすっかりやり直しだ」
 明智は妙なことを云う。
「どうしてですか」
「僕はそんな普通の警察官のやり方を好まないのです。手遅れと分っている賊を今更追駈けて見た所で何の甲斐がありましょう。あの奸智かんちけた賊のことだ、今夜の様なずば抜けた冒険の裏には、綿密細心な逃亡手段が準備されているに極っています。今頃あの小屋を包囲して見た所で、無論手遅れ、中はもぬけの空です」
「では、さしずめ採るべき手段は?」
「家へ帰ることです。そして寝てしまうのです。ただ明智が生きていたなんて、家族の方にも決して云っちゃいけませんよ。それが最も大切な点です。あとは何もやきもきなさることはありません。僕に任せて置いて下さい。もう音吉爺さんの変装も駄目になってしまったから、僕は全く別の第二の手段に……」
 突然明智の言葉が途切れた。ライターの淡い光に、彼の表情が見る見る緊張し、云い知れぬ喜びに輝いて行くのが見えた。彼の長い身体が、目に見えぬ早さで折れ曲り、踊り上ったかと思うと、四五間うしろの暗闇で、「アッ」という叫び声がした。さい前の賊がノコノコ立戻って、二人の様子を窺っていた。明智の投げたつぶてがそいつに命中したのだ。
追駈おいかけるんだ」
 明智が叫んで駈け出した。
 飛礫つぶてにひるまぬ賊が、闇の木立を縫って飛ぶ様に逃げて行く。追われる者も追う者も森を離れ、夜更けの町を黒い風の様に走った。
「馬鹿な奴だ。……あいつが今迄森の中にいたとすれば……まだ望みを失うのは早い。……うまくすると、賊の首領は芝居小屋にいるぞ」
 走りながら、明智が途切とぎれ途切れに叫ぶ。
 賊の首領は洋子の死体が発見されたことをまだ知らないのだ。とすると、大胆不敵の彼のことだ。平気で奇術を演じ続けているかも知れない。
 恋人のかたきを捕える望みがあると分ると、一緒に走っていた二郎の胸に今更の様にムラムラとあの道化師の怪物に対する憎悪ぞうおが湧き上って来た。
 踏みつけて、叩きつぶして、眼の玉をくり抜き、歯を一本一本引抜いてもあきたらぬ、気違いの様な烈しい憎悪だ。
 競馬馬の様に首を延ばし、身体を四十五度に倒して、走り走る。夜更けの田舎町、誰一人とがめる者もない。
 五間の隔りが四間となり三間二間と縮まって行った。だが敵も去るもの、僅かの所で仲々捕まらぬ。一度は明智の右手が、賊の肩に触れさえしたが、残念残念、もう決勝点まで来てしまった。
 その芝居小屋は、木戸口は往来に面し、楽屋口はその横手の袋小路ふくろこうじを這入った裏側にある。賊は無論楽屋口の方へ走り込んで行った。
 賊がこの小屋へ来た所を見ると、首領はまだ場内にいるのだ。忠実な部下は首領に急を告げる為に、楽屋へ飛込んだものに相違ない。
「二郎君、君はここで見張っていてくれ給え。楽屋口は袋小路だ。逃げ道はこの所しかない。奇術師らしい奴が出て来たら、容赦なく捕えるんだ。それから、木戸番に命じて警察へ電話をかけさせて呉れ給え」
 明智は二郎を残して置いて、楽屋口へ走った。

屋根裏の捕物


 楽屋に踏み込んで、座員の部屋を片っぱしから覗き廻ったが、何というす早さ、どこへ逃げたのか人影もない。
 背景を廻って舞台へ出ると已に緞帳はおろされ、その向うから見物のどよめき、女の悲鳴さえ聞えて来る。
「オイ、俺は警察のものだ。見物席の方へ逃げた奴はないか」
 明智はまだ緞帳の綱を結んでいた道具かたを捕えていた。
「ヘイ、一人も。みんな楽屋の方へ逃げました」
 その男が奇術師一行と関係のないことは、一見して分った。道具方の一同はその小屋に附属しているのだ。
 舞台には奇術に使用する、黒天鵞絨張りの大きな箱が据えられ、その下の床板には夥しい血液の跡。これ程の血のりを、仕掛けの赤インキと信じていたにもせよ、見物も道具方も、何の疑う所もなかったのは、賊の所業が人間の想像力のけたをはずれて、余りにもずば抜けていたからに相違ない。
 明智は念の為に、そこにある天鵞絨張りの奇術道具の箱を開いて見たが、中は空っぽだ。まさかそんな所へ隠れる筈はない。
 彼は道具方を案内役にして舞台裏に引返した。大道具の立並んだ間を通り過ぎて、奈落ならくの入口へ来ると、別の道具方が待受けていて、囁き声で報告した。
「あっちへ逃げましたぜ。ホラ、あの手品の道具の積んである所です」
 広い舞台裏の一隅に、旧劇用の駕籠かごだとか、張りぼての手水鉢ちょうずばちだとか、はげちょろの大木の幹などと一緒に、奇術用の大道具小道具が、天鵞絨や金糸きんし銀糸ぎんし房飾ふさかざり毒々しく、雑然と置き並べてある。舞台裏全体にたった一つ、高い天井から電燈がぶら下っているばかりだから、そのゴタゴタした隅っこは、殆ど暗闇も同然、屈強くっきょうの隠れ場所だ。
「奈落へ逃げた奴はないか」
「ありません。あっしはずっとここにいたんだから、見落す気遣きづかいはありません」
 明智は道具方に教えられた薄暗い隅へ突き進んだ。道具方二人も、あとに続く。威勢のいい彼等には、泥棒を追駈けるなんて、こんな面白い遊戯はないのだ。
 明智は道具類の作る迷路に踏み込んで行った。美人鋸挽のこぎりびきの車のついた大きな箱、剣の刃渡りのドキドキと光ったダンビラの梯子はしご、ガラス張りの水槽、脚に鏡をはりつめたテーブルなどが、種々様々のグロテスクな、不気味な陰影を作って、数知れぬ隠れ場所が出来上っている。
「刑事さん、いますよ、いますよ」
 道具方の一人が、側へ寄って来て、ソッと囁く。明智は刑事にされてしまった。
「どこに?」
「ホラ、あの箱の中でさあ」道具方は横に長い棺桶かんおけみたいな黒い箱を指さしながら、聞えるか聞えないかの小声だ。「ふたの隙間から覗いたんですが、驚きましたぜ、あの中に、長々と寝そべっていやあがる。変てこな衣裳いしょうをつけた奴ですよ」
 三人はその箱を囲んで立った。蓋に手をかけたのは明智だ。中の奴はコトリとも音を立てず、息を殺して静まり返っている。開けたら飛びかかってやろうと、身構えをしているのかも知れない。そいつの手には恐ろしい兇器が握られているかも知れない。
 息づまる瞬間。
 パッと蓋がはねのけられた。三人は思わず身構えをした。だが、中から飛びかかって来るものはなかった。覗いて見ると、暗い箱の中に、横たわる人影、白い肌。きらびやかな飾り衣裳。女だ。
「ハハハハハハ、笑わせやがら」
 道具方の別の一人が、いきなり手を突込んで、その女を掴み上げた。見ると、手は手、足は足とバラバラの女人形に衣裳がかぶせてあったのだ。
「人形ですぜ。ホラ、あの『美人解体術』の種になる奴でさあ」
 なおも奥へ進んで行くと、背景の大道具が重なり合っている、建具屋の倉庫みたいな場所へ出た。一層薄暗く、一層陰影に富み、かくれ場所の多い部分だ。
 三人は背景と背景との作る洞穴ほらあなの様な隙間を選んで這入って行った。闇の中に、蜘蛛くもの巣とほこりと泥絵具の匂いばかりだ。
 明智の鋭い直覚が人の気配を感じた。彼は手を伸ばして頭の上にぶら下っている二本の棒を掴んだ。足だ。背景の上部に平蜘蛛の様にへばりついていた逃亡者の一人だ。
 力をこめて引っぱると、バリバリと背景の布の破れる音。併し、曲者は声も立てずに、床上に降り立った。
 明るい場所へ引出して姿を見れば、道化服の首領ではない。古めかしいタキシードを着込んだ奇術助手だ。
「座長はどこにいる」
 明智が男の腕をねじ曲げて尋ねる。非常手段だ。男は存外あっけなく閉口してしまって、どもりながら答えた。
「あすこ、あすこ」
 指さす方を見ると、背景で出来たトンネルの向側に、ボンヤリと見える、道化姿。
 三人は男を捨てて、その方へ忍び寄る。先に立つのは若い道具方だ。
 向うの道化服はいつまでも同じ場所に立っている。妙なことには、何の為か両手をはねの様に伸ばして、ゆらゆらと動かしている。
「オイ、待った」
 明智がやっと気附いて叫んだ時には、もう先頭の道具方が相手に飛びかかっていた。そして、ひどく額を打って跳ね返されていた。
 それは奇術に使う大鏡だった。どこかにいる道化服の怪物が、斜めになった鏡に写っていたのが、あたりが薄暗い為本物と間違ったのだ。
 本物はどこにいるのだ。
 二人の道具方が明智の視線を追って見上げると、意外にも、曲者は舞台上の天井に張り渡した針金の上を、両手で調子を取りながら、渡っている。道化者の滑稽な綱渡りだ。
 何という奇抜な隠れ場所。若し鏡の助けがなかったら、一寸急には発見出来なかったかも知れない。
 舞台下手の出入口に近く、天井に達する直立の梯子はしごがある。三人はそこへ飛んで行って天井へと駈け昇った。道具方は慣れたもの、明智も引けは取らぬ、三匹の猿だ。
 追手に驚いた道化者は、針金を渡り尽し、屋根裏の横木を伝って、見物席の天井の上へ逃込んだ。三人も遅れず同じ穴から這い込む。
 屋根裏の大捕物おおとりものだ。
 格天井ごうてんじょうの隙間から、逆様の夕立ちみたいに射し込む光線の糸。その外には何の光もない、べら棒に広いがらんどうの暗闇だ。
 曲者の白いダブダブの道化服が白い光の糸を、チラチラと通り過ぎる。
 古い天井には所々、足を踏み抜く程の大きな穴があいている。天井裏を這う間に、そんな穴に出くわすと、遙か下方の見物席の全景が、手に取る様に眺められる。そこにはもう、一人も見物人はいない。不意の椿事ちんじに驚いて、先を争って帰ったのであろう。僅かに物好きな弥次馬やじうまが五六人、劇場事務所の人々などが、曲者が屋根裏に逃げ込んだと聞いたのか、舞台の方へ走っている。その中に玉村二郎の姿も見える。アア、警官も到着した。木戸口からなだれ込む数名の制服姿。アア、流石の魔術師ももうふくろねずみだ。
 やがて曲者は、表側の屋根裏の隅っこへ追いつめられた。相手は三人、身をかわして逃げ出す見込みはない。絶体絶命だ。
 彼は三角に狭まった隅っこに身をかがめて、じっと動かなかった。猫に追いつめられた鼠が、反対に猫に飛びかかろうとする時の、あの物凄い姿勢だ。下から洩れて来る光の糸が、その部分部分をしまにして、一層不気味に浮上がらせている。
 追手が三方からジリジリと獲物目がけて這い寄って行く。
 突然曲者の右手にキラッと光ったものがある。ア、短刀だ。愈々鼠は猫に刃向って来るつもりだ。
 道具方二人は逃げ腰になった。明智も足場を定めて、防戦の身構えをした。そして、なおもジリジリと敵に近づいて行く。
 と、途方もない不思議なことが始まった。賊は短刀の刃先を追手に向ける代りに、我と我が喉に当てて、今にも自殺し相な様子を示す。驚いて一歩退くと、短刀の手を卸すが、又近づくと、その切先がのどへと飛上る。
 アア、何ということだ。賊は近づくと自殺するぞとおどかしているのだ。しかも本当に喉笛を掻切る勇気もないのだ。これがあの世間を騒がせている大胆不敵の怪賊の仕草しぐさであろうか。一生涯を復讐事業に捧げた人物の行いであろうか。彼の従来の傍若無人なやり口に比べて、この無気力な態度は、余りにも烈しい相違ではないか。
 そこまで考えた時、明智の胸にある恐ろしい疑いが閃いた。彼はゾッとした。「しまった」と思うと、流石の名探偵も、胸から背中から、冷たい油汗がにじみ出すのを感じた。
 いや、そんな筈はない。一座の内で道化服を着ていたのは、座長の怪人丈けだ。小人数の一座に同じ風体の道化師が二人も居る筈はない。その証拠には道具方も「あれが座長だ」と云って疑う様子もなく追撃を始めたではないか。
「オイ、君は座長ではないのか」
 尋ねて見ても、相手は恐怖の為に即座に返事も出来ない様子だ。
「君は一体誰だ。座長でない者が、どうしてそんな服装をしているのだ」
「座長ではありません」やっと相手が震え声で答えた。「軽業師の木野きのってもんです」
 それを聞くと明智は相手の兇器を無視して、飛びかかって行ったかと思うと、えりがみを掴んで、男の顔を下からの細い光線の中へ、グイとねじ向けた。見ると全く人違いだ。取るにも足らぬ若造だ。容貌は奇怪な化粧で分らぬけれど、顔の輪廓がまるで違う。遠方と暗さの為に、こうして近々と眺めるまでは、年齢や顔の輪郭までは見極めることが出来なかったのだ。
 明智は若者を虫けらの様に突き離して置いて、元来た梯子の方へ引返し、おそまきながらもう一度舞台裏を検べて見ようとした。
 だが、入口の穴まで来て、下を見卸すと、梯子の昇り口に群がりよる一団の人々。警官、座方の者、弥次馬、それに玉村二郎まで、全員こぞって、屋根裏目ざしてあつまって来た所だ。
「二郎君、木戸口の見張りはどうしたんだ」
 明智は烈しい口調で尋ねた。
「木戸口の見張ですって、そんなことどうだっていいじゃありませんか。手下の奴等が逃げてしまっても、首領さえ捕えれば」
 二郎は呑気のんきな返事をした。無理はないのだ。道化服の怪人は明智を初め三人のものに、屋根裏へ追いつめられた。もう何も表口裏口を見張っている必要はない。それよりも明智に協力して屋根裏の怪賊を捕えなければならぬ。一刻も早く恋人の敵の顔が見てやり度い。と二郎が考えたのは、誠に自然である。二郎がその考えだから様子を知らぬ警官にしても、座方の者にしても、もう犯人は捕まったことと思って、ただ屋根裏へと殺到したのだ。
 直ちに場内から表の往来まで隈なく捜索したが、已に手遅れ、首領の怪物も、部下の連中も、娘の文代まで、行衛知れずになっていた。
 道化服の若者を取調べて見ると、彼は近頃元の親方の所から、多分の金を持逃げして、怪賊の一座にかくまわれていた者で、さっき「美人解体術」が終って間もなく、座長が「木戸口にデカらしい奴が来ているから、万一の用意に、お前は俺の道化服を着て白粉を塗って、姿を変えているがよかろう」と注意してくれたので、その通りにしていると、今の捕物騒ぎだ。すねに傷持つ彼は、テッキリ自分が捕縛されるものと思い込み、持前の軽業で、綱渡りから天井裏への逃走となったのである。彼は泥棒などする男に似合わず極度の小心者で、短刀を用意していたのも、繩目の恥を受けるよりは、いっそ自殺したがましだと、本当に考えたからであった。併しいざとなると、やっぱり駄目で、結局捕縛されてしまったが、聞けば、泥棒をしたのも、慾心からではなく、色女に貢ぐ為だったという事だ。
 無論これは、例の怪物の、悠々ゆうゆうせまらぬ、からかい顔の逃走トリックであった。流石さすがの明智もそこまで手早い用意が出来ていようとは知らず、思いもかけぬ失策を演じてしまったのだ。

五色ごしきの雪


 明智の立場は苦しかった。非常な苦労をして死を装い、折角せっかく爺やに化けて玉村邸内に入込んでいたのを、心なき二郎青年の失策から、賊の前に正体を曝さねばならぬこととなり、しかも、その大犠牲を払って追跡した賊には、まんまと一杯喰わされてしまったのだ。周囲の人々、引いては世間に対する不面目はしばらく別にしても、彼の自尊心がこの恥辱に耐え得なかった。こうなっては、もうどんなことがあっても、賊の巣窟そうくつをつきとめないでは我慢が出来ぬ。前後の利害を打算しているいとまはないのだ。彼は木戸口の所に黙然もくねんと佇んだまま、全気力を頭脳に集中した。全く不可能な事柄を、為しとげなければならぬのだ。あれ程探して分らぬ賊の行衛を、今ただちにつきとめようというのだ。
 彼はつて怪汽船の密室で、身動きもならぬ繩目を受け、怪賊の為にあわや毒薬を注射されようとした、あの危急な場合を想起していた。その時彼を救ってくれたのは、当の怪賊の娘文代だった。全くあり得ないことが起ったのだ。
 だが、あの時、彼は五官以外の感覚で、それを予期していた。少しも絶望を感じなかった。今夜も同じ不思議な感覚がある。心の隅を名状し難い微妙な何者かがくすぐっている。それは例えば少年の日の恋の思出の如く、ほのかにも匂やかな感情だ。
 定めもなくあたりを見廻わしていた明智の目が、ピッタリと、闇の地上に釘づけになった。長い長い間そこを見つめていた。やがて、彼の固い頬が徐々にくずれ、しわんだ眉が開くと、にこやかな微笑が顔全体を占領した。
「二郎君、君が恋人を失った気持が、今こそ分る様な気がします。アア、君は変な顔をしてますね。なぜだと云うのですか。それはね、僕にも非常に美しい恋人が出来たからですよ」
 明智はこんな際にも拘らず、彼にも似ぬ感情的な調子で、妙なことを云い出した。無論二郎には何のことだか分らなかったが、あとになって考えて見ると、我が明智小五郎が生涯で初めて恋を感じたのは、その芝居小屋の木戸口に立って、暗い地面を見つめていた時であった。誰に対して? それは追々おいおいに分ることだ。
「サア、これから賊を追っかけるのです。多分僕達は奴の巣窟をつきとめることが出来るでしょう」
 明智が感情を振り払って叫んだ。二郎も警官達も、彼は気でも違ったのかと怪しまないではいられぬ。
「何を目当てに追跡するのです」
「マア、僕に任せて置いて下さい。十中八九諸君を失望させることはないと思います」
 云いながら、彼はもう町を右へと歩き出した。さもさも確信のある様に。
 有名な素人探偵の云うことだ。人々も彼に従って歩き始めた。二郎と警官四名、同勢六人だ。
 町角へ来る度に、明智は何の躊躇ちゅうちょもなく、一方の道を選んで進む。まるで目に見えぬ道しるべでもある様に。
 五六丁歩くと東海道線の踏切りだ。その辺から、夜更けながら、町筋が明るくなる。
「アア、分りました。明智さん。あなたはあれを目当てに歩いているのですね」
 二郎が町の明りでそれを発見して叫んだ。人々が彼の指さす地上を見ると、行手にずっと続いている、粉の様に小さな五色の色紙、今までは道路が暗いのと、紙切れが余りに小さい為に、つい気附かなんだが、振返えると、うしろにも同じ様に、かすかに断続する紙の雪。
「明智さん、一体誰がこんな目印を残して行ったのです。そして、これが賊の逃げた道だということが、どうして分るのです」
 二郎が尋ねる。
「紙テープと同じ様に、手品に使う、紙を刻んだ五色の雪です。それをほんの少しずつ、地面へ落して行った。これをたどって来れば賊の住家に達するという目印です。幸い今夜は風がないので、散りもしないで残っていたのでしょう」
「併し変ですね。あの賊がそんな目印を態々わざわざこしらえて置くなんて。考え得ないことじゃありませんか」
「賊ではありません。あいつの娘の文代という女です」
「賊だって、賊の娘だって、同じ訳です。そんな馬鹿なことが」
 二郎は今度こそ、明智が発狂したのではないかと、本当に心配になり出した。
「イヤ、君が変に思うのはもっともです。併しあの娘は親子のきずなで悪魔に従ってはいるものの、父親とは正反対の心の優しい女です。以前から父親の悪行をにくんでいたのですが、今夜こそ、もう耐らなくなって、いっそ父親を警察へ引渡そうと決心したのでしょう。それには又、僕の苦しい立場を救ってやろうという、優しい思遣おもいやりもあるのです」
 明智は歩きながら、嘗つての怪汽船内での不思議な出来事を手短かに話して聞かせた。
 今度の事件では、名探偵を絶体絶命の窮地から救うものは、いつも目ざす怪賊の実の娘なのだ。何という不思議な因縁であろう。成程なるほど、成程、さっき明智が恋人が出来たと云ったのは、この文代のことだったかと、二郎もつい引入れられて涙っぽい気持ちになった。明智はと見ると、彼の目も、思いなしか、異様にギラギラ光って見えるのだ。
 急ぐ程に、いつしか町を離れた淋しい海岸に出ていた。静かとは云っても、流石に頬を打つ潮風。寄せては返す波の音。もうその辺には目印の五色の雪も残っていない。
 見ると行手の丘にポッツリ建っている一軒家。大森の町を出離れて森ヶ崎に近い場所ではあるが、妙な所に思いもかけず、妙な洋館があったものだ。孤独好きな人の別荘か、画家のアトリエか、古風な建て方のささやかな木造洋館だ。
 近づいて様子をうかがうと、どの窓も密閉されているが、何となく怪しげな気配。それに今来た道を通っては、この家より外に行き所はないのだ。
 警官は手別てわけをして建物をとり巻く。明智と二郎とは入口を叩いてさり気なく案内を乞う。中に人が住んでいる事は、ほのかにれる燈火ともしびによっても察しられるのだが、戸を叩いても返事はない。シーンと静まり返って、中では、目を見合わせた連中が、黙り込んで、外の様子に聞耳を立てている感じだ。
「感づいたのでしょうか」
「我々とは知るまい。ただ、場合が場合だから用心しているのでしょう」
 暗闇に立っていることゆえ大丈夫とは思ったけれど、二人は充分用心して、屋内から隙見すきみされてもそれと気附かれぬ様、ドアのすぐ横にうずくまって様子を窺った。
 やや暫くたって、闇の中に、うっすりと、光の線が現われ、それが徐々に太くなって行く。誰かが入口のドアを細目にあけて、外を見ているのだ。家内の淡い光を背に受けて、クッキリと黒い影法師が浮き出し、ドアの隙間が拡がるにつれて、それが洋装の女であることが分って来た。
「どなた?」
 何かを期待している様な低い声。確かに賊の娘の文代だ。
 闇の中にしゃがんでいた明智がヒョイと立上って、一尺の近さで娘と顔を見合わせた。暗いけれど、顔形が分らぬ程ではない。娘はハッと身を引き相にしたが、相手が予期していた人物と知ると、今度は何とも形容の出来ない複雑な表情で、泣き出し相な顔をしながら、ためらい勝ちに、幽かに幽かに目礼の様なことをした。
 何と云う不思議な対面であろう。何という奇妙な知己ちきであろう。一人は追うもの、一人は追われるもの、彼等は永久にかたき同志の間柄だ。顔を見合わすのも、今が二度目、親しく語り合ったことは一度もない。ただ娘は実行したのだ。言葉の百層倍も雄弁に実行して見せたのだ。明智の方では、一度ならず二度までも、この比類なき乙女の純情に、彼女が賊の娘であるが為に、一層強く打たれないではいられなかった。
「早く、早く」
 娘は乾いた舌で囁く。明智と二郎とは、娘に導かれて家に這入った。這入った所は、三坪程の小さなホールになっている。
「大丈夫ですか。僕達がつけて来たことを感づいてやしませんか」
「まだ大丈夫です。奥には二人しかいません。お父さんと、森の中であなたに見つかった男です。外の座員達は思い思いの方角へ逃げました。奥では今お酒を呑んでいます。早く捕えて下さい。今度こそお父さんを逃がさないで下さい」
 文代は彼女の切ない思いを細々こまごまと語りたかった。玉村一家の人々を救う為には、実の親ながら、極悪非道の父を警察へ引渡す外はないと、けなげにも心を極めるまでの、云うに云われぬ苦しさ悲しさを、しみじみ聞いてほしかった。併しこの危急の場合、そんな余裕はないのだ。
「先ず第一にあたしを縛って下さい。あたしは極悪人の子です。一味の者です」
 娘は明智に身体をすりつける様にして、強い調子で囁く。
「どうして? 君はもう我々の味方じゃないか」
「でも縛って下さい。そうでなければ、あたしは大きな声を立てます。親を売った娘は縛られるのが当り前です」
 可哀相な文代は、もう泣き出し相な声だ。明智にも二郎にも、彼女の心持がよく分った。かくも一応縛ってやるのがむしろ慈悲である。二人は彼女の云うがままに、明智の細い帯を解いて、ホールの柱へ、型ばかりに文代を縛りつけた。
 丁度その時、奥の間を忍び出た賊の部下(洋子の死体を埋めた男)が、玄関の横手の小部屋に潜み、ドアの蔭からこの様子をうかがっていたが、玄関の三人は少しも気づかなかった。その小部屋には、やっぱり手品の道具であろうか、寝棺ねがんの様な黒い箱が置いてある。中には何が這入っているのか、文代すら少しも知らぬのだ。若しそれを知っていたら、彼女は決して、その夜明智を手引きする様な愚かな真似はしなかったであろうものを。
 文代を縛り終った明智と二郎とは、外の警官を呼び込む前に、先ず敵の様子を探って置こうと、まるで泥棒みたいに足音を盗んで奥へ奥へと忍込んで行った。
 鍵の手の廊下は真暗だ。両側の部屋にも燈火あかりはない。ただ突き当りの通風窓からボンヤリ明りがさしているばかりだ。賊はその部屋にいるのであろう。
 ドアの外までたどりついた明智は、鍵穴に目を当てて、室内を覗き込んだ。いるいる。服装が変り、顔の白粉は消えたけれども、テーブルにひじを突いてさかずきめているのは、確かに怪賊だ。視野が狭いので、もう一人の男は見えぬが、多分怪物と向き合って、同じ様に酒を呑んでいるのであろう。
 だが変なことに、賊はただ盃を嘗めるばかりで、一向話をする様子がない。ただああして二人が睨み合っているのかしら。それとも、若しや、……
「こいつは油断がならぬぞ」と立ち直ろうとした時には、已に遅かった。グーッと背中を押して来る固いもの。
「手を上げろ」
 押しつける様な声。いつの間に来たのか、賊の部下が、両手にピストルを持って、その筒口を明智と二郎の背中に当てがっていた。
 不意をつかれた両人は、ただ命ぜられるままに手を上げる外には、何を考える暇もなかった。
「もう出て来てもよござんす。二人の奴はとりこにしました」
 男が呼ぶと、ドアが開いて怪物が姿を現わす。悪魔と名探偵の二度目の対面。だが両人とも特別の感情を示すでもなく、平気な顔を見合わせた。
「これはよく御訪問下すった。実は、こういうこともあろうかと、心待ちにしていた訳ですよ」
 賊はニヤニヤと不気味に笑いながら挨拶した。
 流石に明智は答えない。冗談に応酬するには余りに不利な立場だ。
「ところで、あなたを何とお呼びしましょうかね」賊はさもさも愉快らしく手をすり合わせて、一言一言自分の言葉をあじわう様に、
「音吉爺さんですか。それとも明智小五郎君ですか。イヤ、そんなことは兎に角、折角の御訪問ですから、一つ私の商売の大魔術という奴をお目にかけましょうかね。何もおもてなしが出来ませんので、マア御馳走ごちそう代りという訳ですよ」
「それでは、どうかこちらへ」
 手下の男までが、首領を真似て馬鹿叮嚀ていねいだ。その癖ピストルの筒口では、二人のとりこの背中をつついて、案内どころか牛でも追う様に、無理やり元の入口へ押して行くのだ。
 明智も二郎もされるがままになって、玄関のホールへ戻って来た。首領もあとからついて来る。
「サア明智君、これです。君がさっき縛って置いた私の娘の顔を見てやって下さい」
 明智は背中をピストルで突かれて、よろよろと前にのめり、危く文代にぶつかり相になった。が、それと同時に筒口が背中を離れた。今だ。明智は一飛びで、娘のうしろに廻り、彼女の身体をたてにして、どうして持っていたのか、ポケットからピストルを取出すと、いきなり文代のうなだれた頭部へ狙いを定めた。残念ながら、咄嗟とっさの場合その外に方法がなかったのだ。
 無論撃つつもりはない。ただ賊と対等の立場を得る為だ。
 だが、アア何という恐ろしい奴だ、怪物はそれを見ると、ゲラゲラ笑い出した。
「ハハハハハハハ、お撃ちなさい。その女が死んだところで、わしは少しも痛痒つうようを感じない。イヤ、かえって御礼を申上げ度い位のものだ」
「だが、君は、僕がこれを撃てば、娘さんが傷つくばかりではない。その銃声で外にいる警官達が飛込んで来ることを、勘定に入れていますか」
 明智が初めて口を開いた。彼の目は憎悪に燃えている。野獣にも劣る極悪人の態度に、彼は流石に激昂しないではいられなかった。
「無論、それに気附かぬ私ではない。何百人の警官が這入って来ようと、君がその娘を殺せば、わしの手助けをしたも同然だ。君もわしの一味として捕えられなければなるまい。ワハハハハハハハ。明智君、まあ気を静めて、その女の顔を見るがいい」
 それを聞くと、明智は何かしらギョッとしないではいられなかった。彼は淡い光の中で、縛られた娘の全身を眺めた。変だ。はっきり記憶していないけれど、どうも服装が違う様だ。だが、それが一体何を意味するのだ。たった二三分の間に、ここでどんなことが起ったというのだ。ひるむ心をはげまして、彼はうなだれた娘の顔を覗き込んだ。アア、果して果して、彼女は文代ではなかった。明智も二郎も熟知している全く別の女性であった。
 驚くべき魔術師の怪技かいぎ。いつの間に、どうして、しかもこの娘が!
 流石の名探偵も、
「アッ」と叫んだまま、次に採るべき手段を考える力さえ失ってしまった。

奇妙な取引


 人違いだ。文代ではない。薄暗いので、今の今まで気附かなかったが、文代と同じ服装をした、別の娘だ。アア、何という早業、いつの間に、人間のすり替えが行われたのであろう。
 だが、もっと驚くべきことは、その娘が、知らぬ人でなかったことだ。知らぬどころか、大森外科病院の病室に寝ているとばかり信じていた、玉村妙子その人であったことだ。
 彼女は、さっき明智が、文代にした通り、グルグル巻きに縛られ、猿轡さるぐつわをはめられて、物を云うことも、身動きすることも出来ず、涙に濡れた青ざめた顔で、じっと二人を見つめている。
 明智も二郎も、それを見ると、「アッ」と云ったまま立ちすくんでしまった。
「ハハハハハ、魔術師の早業がお目にとまりましたか。流石の名探偵どのも、ちと面喰めんくらいの形ですね」
 悪魔は、醜く顔を歪めて、毒々しく笑った。彼のピストルは、素早く妙子の脇腹にくっついている。形勢は一転して、今度は明智の方がおどかされる立場になった。
 あとで分った所によると、その日、玉村妙子は、もう傷口も殆どえたので、退屈の余り、病室を出て、病院の庭を散歩していたが、ちょっと看護婦が目を離している間に、どこへ行ったのか、姿が見えなくなってしまった。
 夕方になっても、帰らぬので、玉村邸へ電話をかけると、無論やしきへは来ていないという返事だ。そこで、警察へ届けるやら、捜索隊が八方に飛ぶやら、大騒ぎとなったが、その時分には、当の妙子は、とっくにこの海岸の一軒家へさらわれて来ていた。
 先に、賊の住家すみかの玄関脇の一室に、棺桶の様な長い箱が置いてあったことを記したが、妙子はその中にとじこめられていたのだ。そして、明智達が奥の方へ這入って行った留守に、賊の手下の奴が、柱に縛られていた文代と、棺桶の中の妙子とを、手早くすり替えてしまったのだ。名探偵の裏をかいて、アッと云わせてやろうという、例の魔術師の虚栄心である。
「素敵素敵、さすがは魔術師程あって、あざやかなものだね。君にかかっちゃ、僕のいたずらなどは子供だましさ」
 明智はこのお芝居が面白くてたまらぬという調子で、ニコニコ笑いながら、手にしていたピストルをポイと床の上へほうり出した。
 賊の手下が、素早くそれを拾い上げて、ポケットに入れた。
「オイオイ、そんなもの、大切だいじ相にしまい込んでどうするんだね。そいつは、君達の手品の楽屋で拾って来た、おもちゃのピストルだよ」
 若者はそれを聞くと、一寸たじろいだが、何食わぬ顔で、
「手品の小道具がなくなっちゃ、明日から興行が出来ないからね」
 とへらず口を叩いた。
「ところで、我々の勝負だが、この場の形勢は一体どちらに勝目があると思うね。君も満更まんざら馬鹿ではないのだから、その位の目先は利く筈だが」
 明智は手下などは相手にせず、賊の首領に向きなおって、大胆不敵の応対を始めた。
「俺の方には武器がある。人質もある。だが君の方は空手だ」
 賊が大様に答えた。
「この家をとり巻いている警官達を忘れた様だね」
「その連中が這入って来るまでには、妙子が死んでしまう。この娘の命と引換えなら、悪くない取引きだよ」
「ハハハハハ、嘘を云っても駄目だ。ホラ、君の顔はそんなに青いじゃないか。妙子さん一人の為に、君は四十年も苦労したのかね。君の目的はもっと外にあった筈だ。それを棒に振って、絞首台に上る程、あきらめのいい男でもあるまい。ハハハハハハ、そんな取引きは、悪くないどころか、君の方が大損をする訳だぜ」
 賊は急所をつかれて、グッと詰った。彼の額に見る見る苦悶の色が現われた。
「ヨシ、それまで知っているなら、痩我慢やせがまんはよして、ギリギリ決着の取引きをしよう。実際、俺は不意を打たれてびっくりしたのだ。偶然妙子をここへ連出してなかったら、俺は破滅してしまう所だった。この娘がいるばっかりにやっと助かるのだ。サア、妙子を売ろう。気を静めて、値をつけてくれ」
 流石に悪党だ。未練らしく躊躇していない。
「君の自由か。……若しいやだと云ったら?」
「ズドンと一発、妙子と心中だ。この世がおしまいになるばかりだ」
「高い取引だ。だが、妙子さんの一命には換えられぬ。承知した。君は自由だ」
卑怯ひきょうな真似をするんじゃあるまいな」
「ハハハハハ、妙子さんを受取って置いて、君を捕縛させるというのか。安心し給え。仮令君の様な悪党に対してでも、そんなことをするのは、僕の潔癖が許さんよ。さあ、繩を解き給え」
「だが、外に待っている連中を、どうして説き伏せるのだ。警察の奴らが、まさかこの取引を承知する筈はないぜ」
「ハハハハハ、段々弱音を吹くね。だが、あの連中は僕に任せて置き給え。君等は裏口から逃げればいいのだ。警官達は僕が表口へ集めてしまう」
 か様にして、不思議な商談が成立した。
 妙子は自由の身となって、兄の二郎の腕に抱かれた。二人の賊と、別室に隠れていた文代とは、手を引合って裏口へと走った。
「オイ、文代さんを大切にして上げてくれ給え。君にはしい娘さんだ」
 明智は賊のうしろから声をかけた。文代を一緒に逃がしてやるのは、何となく残りおしい感じがしたけれど、賊の実子とあっては、無理に引離す訳にも行かぬ。
 賊の一団が裏口を出ぬ先に、表へ飛出した明智が、合図の口笛を吹いた。建物を包囲していた警官達が残らず集って来た。
「諸君、賊はどこかの部屋へ逃込んでいるのだ。暗いのでハッキリしたことは分らぬ。それに相手はピストルを持っているから、注意して向ってくれ給え」
 警官達は、身構えをしながら、幾つかの部屋を、次から次へと探して行った。
 そのひまに、賊の一団が、裏口から外の闇へと、行方知れず逃去ったことは云うまでもない。

ダイヤモンド


 玉村商店宝石部の第一等の得意先に、牛原耕造うしはらこうぞう氏という金満家きんまんかがあった。二年程前、アメリカから帰った、謂わば成金紳士で、社交界には余り名を知られていないが、一種の宝石道楽で、この二三ヶ月の間に玉村商店から買上げた額は、到底由緒正しい貴族富豪などの及ぶ所ではなかった。
 買上げた宝石を、誰に与えるのか、夫人も子供もない全くの独り者で、小石川こいしかわ区内の、もと旗本はたもとの邸だという、古い大きな家を買求めて、数人の召使と共に住んでいた。
 アメリカ式な、無造作むぞうさな人物で、自分で自分の自動車を操縦して、よく玉村商店へ遊びに来たが、話し好きで、どことなく愛嬌あいきょうがあったので、主人の玉村氏ともじき懇意を結び、お互に訪問し合う程の間柄であった。
 前章の出来事があってから、約一ヶ月の後、年を越して一月の終りに近いある日のこと、玉村氏は、一郎と二郎と妙子の三人の子供を連れて、牛原氏の晩餐会に招かれた。
 約束はもう二三ヶ月も以前から出来ていたのだけれど、得二郎氏変死以来引続く凶事に、晩餐会どころではなく、長い間び延びになっていたのが、この一月程、何の変事も起らず、流石の悪魔も退散したかと思われる程無事な日が続いたので、ようやく約束を果す運びになったのである。
 併し、明智小五郎の兼ねての注意に基き、玉村氏は、この何の危険もない晩餐会にも、屈強の書生数名を、護衛として同伴することを忘れなかった。
 約束の午後六時、物々ものものしい二台の自動車が、小石川の淋しい屋敷町にある、牛原氏邸の玄関に横づけになった。
 上機嫌のニコニコ顔で、召使と共に出迎いをした牛原氏は、玉村氏の一行四人を、奥の客間へと招じた。同伴の書生達は、別間に酒肴しゅこうの用意が出来ているというので、その方へつれられて行った。
 客間は、主人の例の無雑作で、畳の上に絨毯を敷き、椅子テーブルを並べて、洋室らしくしつらえたもので、贅沢な洋風家具と、床の間のある天井の低い座敷とが、妙にチグハグで、明治初年の錦絵などにある、西洋間という感じがした。
 中央の大テーブルには、已に主客五人分の食事が用意されてあった。
「サア、どうかおかけ下さい。ご馳走ちそうは何もありませんが、今晩は、料理よりも、妙子さんのピアノと、それから、お約束の私の秘蔵のダイヤモンドをお目にかけるのが、ご馳走です」
 牛原氏は愛想よく振舞った。
 玉村氏が今晩の招待に応じた第一の理由は、この牛原氏自慢の宝石を見る為であった。それは最近ある外国人から手に入れたもので、話に聞いただけでも、非常に珍らしい石であることが想像された。是非一度拝見したいと云うと、それでは晩餐会にお出でなさい。必ずお見せしますと、とうとう今晩引ぱり出されることになったのだ。
 子供達を同行することは、一応辞退したけれど、牛原氏が承知しなかったし、そればかりでなく、暫く消息を絶ってはいるが、例の復讐鬼がいつ魔手を伸ばさぬとも限らぬので、一家の者が少しでも離れ離れになることを避ける為に、かくは四人一緒に出かけて来たのである。
 牛原氏が一人舞台で、みんなを笑わせたり、謹聴させたりしている内に、食事は終った。
「それでは、例のダイヤモンドをお目にかけましょう」
 食卓の白布が取除けられると、牛原氏は立上って別室に退いたが、間もなく、天鵞絨張りの小函こばこを持って帰って来た。
「これです。一つお目利めききが願いいものです」
 待兼まちかねていた玉村氏は、直様すぐさまその小函を受取って蓋を開いた。
 五つの頭が、四方から小函の上に集る。
 電燈の光を受けて、ギラギラと、火の様に燃え輝くそら豆大の見事な宝石。古風なロゼット型の十カラット以上の品だ。
「マア、美しい」
 妙子が第一番に感嘆の叫び声を上げた。
「すてきだ」「見事なものだ」「すばらしいダイヤだ」と誰も彼も讃美を惜しまなかった。
 だが、流石専門家の玉村氏は、石に見入ったまま、容易に口を開こうとはせぬ。
如何いかがです。玉村さん、一万円は買いかぶりではありますまいか」
「買いかぶりどころか、非常な掘出しものです。その倍以上の値打ちは確かに……」
 と云いかけて、玉村氏はふと口をつぐんだ。指でつまみ上げていた石が、ポロリと卓上に落ちた。彼は何かしら非常な驚きにうたれた様子だ。
「玉村さん、どうなすった。あなたの顔は真青ですよ」
 牛原氏がびっくりして尋ねた。
「私は、この石を知っています。確かに見覚えがあります。あなたは何者から、これをお買いになりました」
「アメリカの商人です。今は本国へ帰っている男です」
「その人は、本国から持って来たのではありますまいね。日本で手に入れたものでしょうね」
「サア、本人は本国から持って来た様に云ってましたが」
「それは嘘です。裏に肉眼で見えない程のきずがあります。同じ瑕の石が二つある筈がありません。これは確かに盗んだものです」
「エ、なんですって? これが贓品ぞうひんだとおっしゃるのですか」
「そうです。その宝石には、殺人罪さえ伴っているのです」
「いつ、どこで、誰が盗まれたのです」
「昨年の十一月、私の弟が盗まれました」
「それじゃ、あの獄門舟の惨殺事件の折にですか」
 牛原氏は、非常な驚きにうたれて叫んだ。
「そうです。福田得二郎が、あの魔術師と呼ばれる兇賊の為に惨殺された時、ロゼット型のダイヤモンドが紛失したことは、当時の新聞にも出ました。その品は、私の店の番頭が、フランスの同業者から買って帰ったもので、それを弟の得二郎が懇望するので譲ってやったのでした。牛原さん。これは今度の犯人を探し出す為には、大変な手掛りです。その本国へ帰ったアメリカ人が、誰から譲り受けたかという事が、分らないものでしょうか」
「そうでしたか。これがあの時のダイヤでしたか。よろしい、探って見ましょう。本人は国へ帰りましたが、親しくしていた友人がいる筈です。明日、早速その男を訪ねて、ただして見ましょう」
 一しきり、その宝石が巡り巡って、牛原氏の手に入った奇縁について、驚きの言葉が取交わされた。
「イヤ、もうその話は止しにしましょう。私が必ず元の譲り主を探し出してお目にかけますから御安心なさい。それはそれとして、今晩は折角こうして御出でを願ったのですから、一つ愉快にやろうじゃありませんか。妙子さんのピアノが、是非うかがい度いものですね」
 牛原氏は話題を転じて、白けた一座を明るくしようと努めた。
 だが、妙子にしては、二度も賊の為に恐ろしい目にあった記憶が去りやらず、不気味な宝石を見ては、猶更なおさらピアノなどに向う気持にはなれぬらしく、打ち沈んで辞退するばかりだ。
「ハハハハハ、いやにしめっぽくなってしまった。こいつはいけませんね。それでは、一つ交換条件を持出しましょう。私はね、この頃十六ミリの小型活動写真に凝っているのです。自分で脚本を作って、書生などを役者にして、お芝居を撮ったのがあるのです。一つそいつをお目にかけましょう。その代り映画を御覧になったあとで、きっとピアノを聞かせて下さるのですよ。よござんすか」
 小型映画、しかも牛原氏自作の映画劇とは初耳であった。三人の兄妹は勿論もちろん、父玉村氏さえ、ちょっと興味を感じて、流行の小型映画というものについて、色々質問を発した位であった。

殺人映画


 結局、牛原氏の誘い上手に乗って、一同その小型映画を見ることになった。
「この部屋では駄目です。別に私のスタディオが出来ているのですよ。穴蔵というと、気味が悪いですが、ナアニ、この家の元の持主が作って置いた、小さな地下室があるのです。そこは、昼でも真暗まっくらなものですから、スタディオにはもってこいの場所で、映画の道具一式そこに置いてありますし、スクリーンも、そこの壁に張ってあるのです」
 地下室と聞くと、一同の好奇心は一層つのった。何か別世界を覗くといった、一種異様の興味が若い兄妹達をそそった。
 牛原氏は先に立って、客間の隣りの、ガランとした空部屋に這入り、そこの押入れを明けると、中の床板が揚げ蓋になっていて、その下に、地下への階段が出来ていた。
「何だか気味が悪い様ですね」
 玉村氏が笑いながら云った。
「酔狂な真似をしたものですね。ひょっとしたら、この家はもと賭博ばくち打ちか何かが住んでいたのかも知れませんよ」
 牛原氏は事もなげに答えて、ズンズン階段を降りて行く。一同は主人の気軽な調子にはげまされ、薄気味悪く思いながらも、まさかあの様な深い企らみがあろうとは、知るよしもなく、あとに従って地下室へと降りた。
 降り切った所に、頑丈な鉄の扉があって、その外に沢山煉瓦れんがが積んである。一体何をする為の煉瓦であろうか。
 地下室というのは六畳敷き程の狭い部屋で、天井も床も四方の壁も、古風な赤煉瓦で出来ていて、一方の壁に映写用の白布はくふが張ってあり、器械類、簡単な椅子テーブルなどがゴチャゴチャと並んでいる。
 牛原氏は小型テーブルの様な台の上に、器械を据えて、映写の準備をしていたが、それが終ると、一同を椅子にかけさせ、
「サア、始めますよ」
 と云いながら、パチンと電燈を消した。
 あやめもかぬ真の闇。闇の中で、カタカタカタとクランクの音が聞えると、正面のスクリーンに、薄ボンヤリと、抜けの悪い画が動き始めた。
 よく見ると、牛原氏自身の邸が背景に使われている。そこの色々な部分が、巧みに取入れられ、その背景の前で、見知らぬ登場人物が、事件の筋を運んで行く。
 素人しろうと現像のボンヤリした不明瞭な画面が、一種異様の凄味すごみとなり、何かこう、恐ろしい悪夢でも見ている様な気持だ。
 音楽も説明も何もない沈黙の映画。音といえばクランクの廻転ばかり。登場人物は、黙々として笑い、泣き、語っている。真のパントマイムだ。
 背景は現在のこの邸だけれど、物語の時代は明治の初期らしく、人物の髪の形、衣裳の着つけなどが、古い錦絵を思出させる、古風な姿である。
 夜会巻きの美しい女が出て来る。ある男の愛妾あいしょうだ。その二人の色っぽい場面が幾つも現われる。
 この女には、幼馴染の情夫がある。それが主人のいない折を見て、忍んで来る。不義の幾場面が巧みに描かれる。
 だが、ある時、遂に主人が、この忍男しのびおとこを発見する。すさまじき憤怒ふんぬの形相。煩悶はんもん懊悩おうのうの痛ましい姿、彼は真底から女を愛していたからだ。
 彼は、併し、何気ないていで、伝手つてを求めてその忍男と近づきになる。女の主人は四十歳位、忍男は五つ六つ年下だ。二人とも妻も子もある立派な暮しをしている。
 うらみを包んだ不気味な笑顔。相手の真意を計り兼ねてビクビクしている不安の表情。
 女の主人は、その奇妙な交際を続ける一方では、とある広い邸を買入れて、そこの地下に、煉瓦造りの穴蔵の様なものを作らせる。買入れた邸というのは、牛原氏のこの邸だ。地下の穴蔵というのは、今一同が映画を見ている、この地下室だ。
 この頃から、見物達の頭に、不気味な錯覚が起り、映画と現実とが不思議な交錯を始める。
 画面では、職人の手で穴蔵が殆ど完成する。あと半坪程、煉瓦の壁が残っているばかりだ。主人は、どういう訳か、そこで仕事を中止させて、職人達を帰してしまう。
 彼はくわを持って、未完成の部分の壁を、掘り始める。見る見る土の洞窟が出来て行く。その時代には珍らしい地下室、異国的な赤煉瓦、そこで奇妙な穴掘りを続ける、長い髪の毛の明治男。何とも云えぬ、不思議な景色である。
 人一人這入れる程の穴が出来上った。
 その穴を眺めた四十男のゾッとする様な笑い顔。
 彼は穴蔵を出て、着物を着換えて、客間にじっと待っている。その客間というのは、映画を見ている一同が、さっき食事をした部屋だ。洋風家具がなくて、座蒲団ざぶとん煙草盆たばこぼんに変っているが、部屋は同じあの部屋だ。
 そこへ、約束があったものか、忍男が訪ねて来る。主客の前に酒肴が運ばれる。形は違うけれど、やっぱり今夜と同じ晩餐の饗応きょうおうである。
「アア、きっと食事のあとで、地下室へ案内するのだ。全く同じことが起るのだ」
 予想は的中した。主人は立上って、恨重なる忍男を伴い、次の部屋へ来ると、さっきと同じ押入れを開き、同じ上げ蓋を開いて、地下への階段を降り始めた。スクリーンの出来事と、さっきの現実とが、ピッタリ同じ順序で進んで行く。故意か偶然か。余りにもいぶかしき一致ではないか。
 室内の場面には、玄人くろうとの様にライトが用いられ、地下室の暗黒も巧みに撮影されている。
 主人も客も、フラフラに酔っぱらっている。主人が、恐ろしい意味をこめて、ゲラゲラ笑うと、まだ気づかぬ客も、同じ様にゲラゲラ笑った。二人の酔っぱらいの、不気味な大写し。
 主人がさっき掘った洞穴を指さすと、客はそれを通路と誤ったらしく、壁の穴へとつき進んで、土の中へ転がり込む。
 ハハハハハハ。ワハハハハハハハ。土の中へ転がったままたまらぬ様に笑っている、可哀相な忍男の大写し。
 と、主人の態度が一変した。彼は本当に酔っていたのではない。シャンとすると、驚くべき敏捷びんしょうさで、そこに置いてあった煉瓦を取り、こてを持ち、漆喰しっくいをすくって、壁の穴へ、煉瓦を二重に積み始めた。
 壁の奥では、酔っぱらいが、何も知らずに笑っている。彼の前に、恐ろしい速度で煉瓦の壁が積上げられて行くのを、空ろな目で眺めている。
 煉瓦積みの単調な場面が暫らく続く。
 やがて、恐ろしい作業が殆ど完成した。あと五六個の煉瓦を余すばかりだ。
「アハハハハハハハ、こいつは耐らぬ。何という滑稽ないたずらだ。オイ、この思いつきは素敵だぞ。お前はうまいことを考えたものだね」
 壁の中の、洞穴の大写し。そこに笑いこけた忍男が、そんなことをわめいているのが、ありありと想像される。
 外の男は、とうとう最後の煉瓦をはめ込んで、ハタハタと着物の汚れをはたいている。満足そうな薄笑い。そして、穴蔵を出て、鉄のドアをしめて、足どりも軽く階段を昇り、元の客間へ帰ると、残っていた酒をガブガブ呑んで、舌なめずりをしながら、ニタニタと、身震いの出る様な笑い顔。
 と、場面はもう一度穴蔵に戻る。完全にとじこめられた、壁の奥の真暗な土の中の大写し。酔っぱらいの忍び男は、もう一生涯そこを出る望みがないのも知らぬ体で、まだゲラゲラ笑い続けている。アア、何という戦慄すべき笑いであったろう。
 それがパッと消えると、暫くは時間の経過を示す為の暗黒、そして、再び現われたのは、やっぱり元の壁の中だ。
 男はもう笑っていない。すっかり酔が醒めたのだ。恐怖に飛出し相な両眼。何をわめくのか、大きく開いた唇。虚空こくうを掴む断末魔の指先。
 彼は凡てを悟ったのだ。女の主人が彼の不義を知っていて、恐ろしい復讐をしとげたことを気づいたのだ。どんなに叫んでも、もがいても、永久に出ることの出来ない、生きながらの埋葬を悟ったのだ。早くも漆喰しっくいが固って、押しても叩いても厚い煉瓦の壁はビクともしない。
 無駄とは分っていても、併し、彼はもがかぬ訳には行かなかった。土の中の見るも無残な気違い踊り。網にかかった鼠の様に、ガリガリと壁を掻いて狂い廻った。
 この世のものとも思われぬ、恐怖の表情の大写し。そして、徐々に徐々に溶暗…………。
 恐ろしき映画が終った。穴蔵の中は真の闇、感動の余り誰も口を利くものはない。死の様な沈黙の数秒。
 やがて、闇の中から、牛原氏の妙に押しつけた声が聞えて来た。
「玉村さん。この写真の意味がお分りでしたか」
 玉村氏は、恐ろしい予感に震えて、返事をする気力もない。
「お分りになりませんか。では、教えてあげましょう。今から五十年以前、ああしてこの穴蔵へとじこめられた、みじめな男は、かく云う私の父親なのです。そして、この世にも恐ろしい復讐をなしとげた人物は、玉村さん、あなたのお父さんの幸右衛門こうえもんという人でした。あなたは、まさかこんな出来事があったのはご存じないかも知れぬ。だが、密通者奥村源次郎おくむらげんじろうが、妻子を残して行方不明になったことは、お聞きおよびでしょう。世の中では、源次郎が何か悪いことをして、身を隠したのだと取沙汰しました。誰もこの恐ろしい復讐の犠牲になったことは知りませんでした。併し、たった一人、本当のことを知っている者があった。彼は苦心を重ねてこの穴蔵の秘密を探り出したのです。そして、とうとう源次郎の死体を発見し、源次郎が煉瓦を傷けて書き残した、異様な遺書を読んだのです。そして、彼の生涯を復讐事業に捧げる決心をしたのです。それが誰であったかは、云わずともお察しでしょう。源次郎の一子奥村源造げんぞうです。すなわちかく云う私なのです」
 闇の中の声がパッタリ途絶えた。
「牛原さん、冗談はいい加減にして下さい。いたずらが過ぎますぜ。こうして私達を思う存分怖がらせて置いて、あとで大笑いをなさろうという訳でしょう。ハハハハハ。その手には乗りませんよ」
 玉村氏は震え声で、夢中になって打消した。それを信じるのが、余りに恐ろしかったのだ。
「冗談ですって?」
 闇の中の不気味な声が答えた。
「あなたは冗談やなんかでないことを、知り抜いておいでなさる。さっき、例のダイヤモンドをお見せした時から、あなたは心の隅で私を疑っていた。若しやこの男が、あの魔術師といわれる兇賊ではあるまいかとね。その通りですよ。私が得二郎氏を殺した本人であればこそ、あの宝石を持っていたのですよ。私は半生を復讐事業の為めに捧げました。ただ父の遺志を果す為に生きて来ました。そして、やっと、今晩、その目的を達したのです。玉村一家を亡ぼしてしまう時が来たのです。玉村さん。私の嬉しさが、あなたには分りますか。気違いになり相ですよ」
「少しも知らないことだ。わしの子供達は一層無関係だ。父親のあだを、その子と孫が受けなければならぬ道理はない。君は血迷っているのだ。気が違っているのだ。無関係なわし等を苦しめて、どうしようと云うのだ」
 玉村氏は必死に抗弁した。
「それが知り度いのですか。知りたければ、スクリーンの裏の煉瓦の中を検べてごらんなさい。私がどうして、こんな気持になったか、分り過ぎる程分りますよ」
 云ったかと思うと、ガタガタと走り去る足音、バタンとしま鉄扉てっぴの音、そして、その外から聞えて来る、ゾッとする様な悪魔の笑い声。
 一郎と二郎とは、闇の中を扉に突進して、それを開こうとあせったが、頑丈な鉄板は二人や三人の力で、ビクともすることではない。
 電燈をひねって見たが、外のスイッチが切ってあると見えて、点火しない。
「駄目です。お父さん、僕達はとじこめられてしまいました」
「お父さま、兄さん、どこにいらっしゃるのです。あたし怖い!」
「しっかりするのだ。みんな気を落してはいけない。ナアニ、まだ助からぬときまった訳ではないよ」
 親子兄妹が、恐ろしい闇の中で呼び交わした。
 扉の外では、五十年以前に、玉村幸右衛門氏がやったと同じことが行われていた。悪魔は、鉄扉の外へ更らに煉瓦を積上げているのだ。コトコトという物音はそれに違いない。さっき通りすがりに見た、煉瓦の山は、その為に用意されてあったのだ。
「こう暗くては、どうすることも出来ない。マッチはないか」
 玉村氏の声に応じて、一郎は所持のライターを点火した。
 赤黒く見える煉瓦の穴蔵、暗闇よりは一層物すさまじき光景である。
 どんなにあせって見ても、急に出られぬことは分っている。それよりは、兎も角、奥村源造の云い残して行った、壁の中を検べて見よう。ひょっとしたら、その奥の土を掘って、外へ抜け出せぬものでもない。
 玉村氏はそこへ気づくと、一郎のライターをたよりに、壁の側へよって、そこに下っているスクリーンを引きちぎった。
 そのうしろの煉瓦の壁は、ところどころ漆喰がとれて、たやすく抜き出せる様になっている。
 三人の男は、力を合わせて、煉瓦の抜き取りにかかった。一枚一枚、煉瓦を取り去るにつれて、ポッカリと、地獄の入口の様な、真暗な穴が拡がって行く。
 間もなく、二尺程の空虚が出来た。
「それを貸しなさい。一つ中を覗いて見よう」
 玉村氏は一郎のライターを受取って、それをかざしながら、中へ首をさし入れて、闇の洞穴を覗いた。
 覗いたかと思うと、彼はアッと叫んで、大急ぎで首を引いた。何とも云えぬ恐怖の表情、土気色つちけいろの顔、鼻の頭に浮んだ玉の油汗、子供等は嘗つて、この様に恐ろしい父親の顔を見たことがなかった。
 一郎も二郎も、それにおびえて、思わずあとじさりした。
 妙子は、余りの怖さに、キャーッと絹を裂く様な、叫声さけびごえを立てた。

恐ろしき遺書かきおき


「何です。何があったのです」
 一郎と二郎とが殆ど同時に叫んだ。
「骸骨だ。五十年前に生埋めにされた男の骸骨がいこつだ。あいつの云ったことは、嘘ではなかったのだ」
 父玉村氏が、あえぎながら云った。
 だが、ただ骸骨を見ただけで、あんなに驚き恐れるというのは、何だか妙に思われた。元気な一郎二郎の兄弟は、いきなり壁に突進して、煉瓦の隙間に手をかけると、力を合わせて、壁を引き試みた。
 すると、ガラガラと煉瓦がくずれ、そのうしろに、深い洞穴が現われた。煉瓦は、あらかじめその部分丈け取りはずして、いつでもくずれる様、ソッと積み上げてあったのだ。
 洞穴の中には、ボロボロに破れた着物を着た骸骨が、くずれもせず、断末魔の苦悶の姿をそのまま、しかたまっていた。
 骨ばかりで、どうして原形を保っていることが出来たか。土の上に寄りかかっていたからか。或は復讐鬼の奥村源造が、骨をつぎ合わせて、そんな形をしつらえたのか。いずれにもせよ、着物を着た骸骨の、生けるが如き断末魔の形相は、ゾッとする程恐ろしいものであった。
 土の中へ食い込んだ両手の指、異様な恰好に折れ曲った両足、よじれた胴体、食いしばった、むき出しの歯並、恐ろしい洞穴みたいな両眼。それが気違いの様に取乱とりみだして、断末魔の踊りを踊っているのだ。
 流石の兄弟も、父親同様、「ワッ」と云って、顔をそむけないではいられなかった。女の妙子は、もう見ぬ先からふるえ上って、床に顔を伏せたまま身を縮めていた。
 自分達は少しも知らぬ事とは云え、これが父なり祖父なりに生埋めにされた男かと思うと、善太郎氏も一郎も二郎も、何とも云えぬ変な気持になった。
 どんなにか恐ろしかった事だろう。どんなにか苦しかったことであろう。煉瓦にとざされた地底の暗闇。永久に抜け出す見込みのない墓穴。そこで、この男は、だんだん乏しくなって行く空気にあえぎながら、ガリガリと土を掻いて、息の絶えるまで、もがき苦しんだのである。
 善太郎氏は、思わず洞穴の前にひざまずいて死者の苦悶をやわらげ、なき父の罪障消滅を祈る為に、念仏を唱えたが、ふと見ると、床に落散っている煉瓦の塊に、何かしら文字の様な掻き傷のあるのに気がついた。
 アア、さっき奥村源造が、煉瓦に刻んだ遺書かきおきと云ったのは、これのことだなと思うと、恐ろしさに身震いが出たが、恐ろしければ恐ろしい程、それを読んで見ないではすまされぬ気持ちで、あちこちにちらばった煉瓦の塊を継ぎ合わして、字とも絵とも見分けがたい掻き傷を、(恐らく懐中ナイフか何かを持っていて、暗闇の中で書きつけたものであろう)苦心して読み下して見ると、それは、次の様な身の毛もよだつ文句であった。(みさおというのは、彼が不義を働いた、幸右衛門のめかけの名だ)
操、ミサオ、ミサオ。
モ一度顔ガ見タイ。
ダガ、モウ出ラレヌ。一生涯出ラレヌ。
アア苦シイ。息ガ苦シイ。
真暗ダ。何モ見エヌ。
ミサオ、ミサオ、ミサオ。
オレハ死ヌ。モウ死ヌ。
ミサオ、コノ敵ヲ討ッテクレ。
オレヲ生埋イキウメニシタ奴ハ玉村幸右衛門ダ。敵ヲ討ッテクレ。
アイツヲ、アイツノ子ヲ、アイツノ孫ヲ、オレト同ジ目ニ合ワセテクレ、アイツノ一家ガ栄エテイテハ、オレハ死ニ切レヌ。死ニ切レヌ。
息ガ出来ヌ。苦シイ。胸ガ破レソウダ。
ミサオ、ミサオ、ミサオ。
 煉瓦の掻き傷は無論こんなに順序正しく現われていた訳ではない。或は大きく、或は小さく、或は縦に、或はななめに、或は横に、断末魔の苦悶をそのまま、しどろもどろに書きちらしてあるのを、乏しいライターの光で、苦心をしながら、やっと読み得たのだ。
「お前の親爺おやじがどんな残酷な私刑をやったかが分ったか」
 不気味な声が響いて来た。鉄の扉に小さな覗き穴があって、そこから源造が喋っているのだ。
「悪魔! 貴様の父は不義を働いたのだ。他人の愛妾を盗んだのだ。その報いを受けるのは当り前だ。僕達がこんな不合理な復讐をされる筈はない。貴様は血迷っているのだ。気が違ったのだ。開けろ! この扉を開けろ」
 血気の二郎がたまり兼ねて、鉄扉を乱打しながら叫んだ。
「ワハハ……。不義だと? 他人の妾を盗んだと? 何も知らぬくせに、ほざくな。盗んだのはお前達の親爺の幸右衛門の方だぞ。俺はちゃんと検べ上げてあるのだ。金にあかして、人の恋人を横どりしたのだ。横どりして置きながら、不義呼ばわりをして、あまつさえ、こんな残酷な目に合わせたのだ。それが証拠に、見ろ。恋人が行衛不明になったと知ると、妾の操は、名も分らぬ病にかかって、日に日に痩せ細って行ったじゃないか。そして妾としての用が足りなくなると、幸右衛門は、操を妾宅から追出してしまった。
 その時、操は妊娠していた。幸右衛門はそれが不義者源次郎の子だということを知っていた。それは本当だった。
 操には身寄りのものもなかったので、みじめな裏長屋で、その子を生み落すと、間もなく病死してしまった。みなし子は、人の手から手へと渡って、大きくなって行った。
 親も兄弟も親戚もなんにもない、一人ぼっちの幼児おさなごが、この世から、どんな待遇を受けるかということを、君達は知っているか。学校へもはれず、ろくろく食うものも食わないで、朝から晩までこき使われ、何かというと恐ろしい折檻せっかんを受けた。そのみなし子というのは、かく云う俺だ。おれは源次郎と操の間に生まれた、呪いの子だ。
 俺は世を呪った。分けても俺達親子をこんな目に合わせた、幸右衛門を呪った。と同時に、この広い世界に、たった一人ぼっちの我身が淋しくてたまらなかった。俺は行衛不明の父を捜すために、どれ程骨を折ったことだろう。
 とうとう、この穴蔵を発見し、無残な父の骸骨と対面したのは、十七の年だった。俺は煉瓦の遺書かきおきを読んだ。そして、幸右衛門という奴は、母と俺とを、ひどい目に合わせたばかりでなく、父の源次郎を、生埋めにした下手人であることが分った。俺は父の骸骨に復讐を誓った。その時幸右衛門はもう死んでいたけれど、相手が死んだ位で、この深い恨みが消え去るものではない。父が死ねばその子、子が死ねば孫と、玉村一家の最後の一人までも、俺はこの恨みをむくいないでは置かぬと誓ったのだ。俺は一生涯を復讐事業に捧げる決心をした。貴様達に、俺の親爺が受けたと同じ、苦しみを与えた上、一人残らず殺してやろうと決心したのだ。俺の生涯は、ただその準備の為に費された。犯罪学の書物に読みふけった時代もあった。毒薬の研究に没頭した時代もあった。ピストルの射撃も練習した。手品師の弟子入りもした。軽業かるわざも習い覚えた。そして、身体を練り、知恵を磨く一方では、復讐事業の資金を貯蓄する為に、あらゆる辛酸しんさんめた。
 やっと四十年の努力は報いられた。俺は世間から魔術師と云われる腕前になった。資金も余る程貯えた。そこで、愈々いよいよ復讐事業に着手したのだ。俺は自信があった。計画は少しの遺漏いろうもなく運ばれることと信じていた。
 ところが、いざ復讐に着手する間際になって、全く思いもかけぬ障害が起った。素人探偵の明智小五郎だ。あいつが外国から帰って来て、例の「蜘蛛男」事件で、すばらしい働きを見せたのだ。俺はこの恐ろしい男と戦わねばならなかった。俺は戦った。だが、あいつの為に、俺の計画は半ば以上齟齬そごを来たしてしまった。いつも際どい所で、あいつが飛び出して来るのだ。妙子の場合がそうだ。一郎の場合がそうだ。俺は、あいつの虚をく為に、心にもなく、玉村一家以外の人をさえ襲わなければならなくなってしまった。
 いや、計画がさまたげられるばかりではない。今では俺の身が危いのだ。ぐずぐずしてはいられぬ。そこで、俺は計画を早めて最後の幕を切って落すことにした。実を云うと、子供達を一人一人滅ぼして行って、さんざん恐れと悲しみを味わせた上、一人残った父親を、この穴蔵へおびき寄せる手筈だった。だが、そんな悠長な順序を踏んでいる余裕がなくなった。俺の楽しみは薄らぐけれど、仕方がない。とうとう今夜、最後の幕を切って落したのだ。
 サア、これで俺の云うことはおしまいだ。あとは、この扉の外へ、五十年前に貴様の親爺がやった様に、煉瓦を積んで、貴様達を生埋めにするばかりだ。
 精々せいぜい苦しむがいい。そして、俺の親爺の苦しみがどんなものであったかを、つくづく味って見るがいい」
 悪魔の長談義が終ると共に、覗き穴の蓋がカチンと閉って、外には又しても、煉瓦積みの物音が始まった。
 これで悪魔の復讐の動機が分った。彼の四十年の労苦も明かになった。だが悪魔はなぜか、彼の結婚について、その妻の死について、残された一人娘の文代について、何事も云わなかった。穴蔵にとじこめられた四人の者は、そんなことを疑っている暇もなかったが、考えて見ると、いくら復讐の為とは云え、可愛い一人娘を、平然として悪事の道連れにしている、源造の気が知れぬではないか。彼は娘がいとしくはないのであろうか。それとも、他に何か深い事情でもあったのかしら。針で突いた程の抜目もない悪魔のことだ。娘の文代についても、さかのぼっては彼の結婚そのものにさえ、何かしら深い深い企らみが隠されていたのではなかろうか。

燃える骸骨


 親子四人は、声を限りにわめきののしったけれど、復讐鬼はもう相手にしなかった。彼はただ黙々として煉瓦積みを続けていた。が、間もなく、その物音さえもしなくなった。扉の外に、完全な煉瓦の壁が出来上ったのである。
 狭いといっても、六畳程の部屋だ。昔の奥村源次郎の様に、急に窒息する気遣いはない。だが上下四方とも厚い煉瓦で完全に密閉された穴蔵だ。いつかは酸素もなくなるであろう。いや、それよりも、空腹の方が先に来るかも知れぬ。いずれにもせよ、じっとしていたら、死ぬ外はないのだ。
 煉瓦の壁を打破る様な、鋭利な武器はない。たった一ヶ所、外へ抜け出す可能性があり相に思われるのは、源次郎の横わっている洞穴だが、そこの土を掘る為には、恐ろしい骸骨に手を触れなければならぬ。死者の悪念におびえ切った四人のものは、まだその洞穴へは入って行く勇気がなかった。
 彼等は乏しいライターの光に、お互の顔を見合わせて、冷い床の上に坐ったまま、黙り込んでいた。
 黙っていれば、黙っている程、底冷えのする地底の夜気と共に、生埋めの恐ろしさが、ひしひしと身に迫って来る。
「アア、駄目だ。ライターのベンジンがなくなってしまった」
 一郎がおびえて叫んだ時には、ライターはもう、螢火ほたるびの様な果敢はかない光になっていた。
「この上光までなくなっては耐らない」
 二郎が唸る様に云った。
「アア、どうしましょう。怖いわ」
 妙子は父親の膝にすがりついた。
 だが、消え行く燈火を、どうとり止めることが出来よう。螢火が淋しく二三度またたいたかと思うと、ライターはとうとう消えてしまった。
 闇と寒さと、墓場の様な恐ろしい静寂せいじゃくの中に、四人の者は、お互の身体に触れ合うことによって、僅かに一人ぼっちでないのを確めながら、どうする智恵も浮ばず、黙りこくっていた。
「誰かマッチを持っていないか。一本でもいい。お前達の顔を見ないで、こうしているのはたまらない」
 善太郎が我慢がし切れなくなって云った。
 一郎も二郎も、その言葉に励まされて、ポケットというポケットを探して見た。
「アア、あった。だが、たった三本です」
 二郎が情ない声で云った。
「あったか。早くつけてくれ。早く暗闇を追っぱらってくれ」
 シュッという音がしたかと思うと、部屋中が日の出の様に明るくなった。闇に慣れた目には、マッチの光さえ非常にまぶしく感じられた。
 四人は、その光の中で、これが最後という様に、お互の顔を眺め合った。
 丁度その時、マッチの軸がまだ燃え切らぬ内に、非常に変なことが起った。
「兄さん、ちょっと、あれ動いてやしない? ネ、動いてるわね」
 妙子のゾッとする様な囁き声に、一同例の洞穴を見ると、ゆれるほのおのせいではない。確かに、着物を着た源次郎の骸骨が動いている。
「アッ、こちらへ歩いて来る。アレー」
 妙子の悲鳴に、男たちもギョッとして立上った。
 骸骨は断末魔の苦悶の姿をそのまま、洞穴を出て、一歩二歩と歩くともなく漂うともなく、こちらへ近づいて来る。幻覚ではない。り固った五十年の妄執もうしゅうが、生命なき髑髏どくろを歩かせたのであろうか。
 一同はそれを見ると、余りの不思議さ、物凄さに、思わずタジタジとあとじさりをしたが、その途端、二郎の指の力がぬけて、まだ燃えているマッチが床に落ちた。
 と同時に、ボッという恐ろしい音がしたかと思うと、部屋の中が真昼の様に明るくなった。
 床に落ち散っていたフイルムに火が移ったのだ。
 小型とは云え、十数巻のフイルムが、映写したまま、鉋屑かんなくずの山の様に放り出してあった。それが瞬く内に燃え尽す光景は、形容も出来ないすさまじさであった。
 狭い密室内は、むせ返る煙の渦に満たされ、螺線形らせんがたのフイルムを燃え走る火焔は、のたうち廻る無数の真赤な蛇だ。
 まるで火山の噴火孔ふんかこう熔鉱炉ようこうろ真唯中まっただなかに落ちこんだのと同じこと。まばゆさに目をあいていることも出来ぬ。鼻をつく異臭にむせて、息も絶え絶えの焦熱しょうねつ地獄だ。
「ア、お父さん。……それは何です。……どうなすったのです」
 き込みながら、二郎が非常な恐怖に撃たれて、あえぎあえぎ叫んだ。
 一郎も、妙子も、苦悶の内に、夢見心地で父の恐ろしい姿を眺めた。
 善太郎氏は、煉瓦の壁にもたれて、全身をねじ曲げ、両手は空を掴み、額には蚯蚓みみずの様な静脈をふくらませて、今にも窒息しそうに悶えていたが、ゾッとしたことには、その格好が、源次郎の骸骨が示していた苦悶の有様と生写しなのだ。
 骸骨はと見ると、洞穴を歩き出したまま、まるで善太郎氏の影の様に、寸分違わぬ姿勢で、すぐ隣の壁に凭れていた。
「キャーッ」という妙子の悲鳴、一郎と二郎も何か訳の分らぬことをわめきながら、父の奇妙な姿に飛びかかって行った。死霊のたたりを追っ払おうとしたのだ。
 父子三人は折り重なって部屋の隅に倒れた。倒れると同時に、眼の前に、真黒な無数の玉が群がって来て、何が何だか分らなくなってしまった。
 ふと気がつくと、フイルムの山は已に燃え尽して、立ちこめた煙もやや薄らいでいたが、椅子テーブルに移った火が、まだメラメラと燃えていた。
 一郎と二郎は、よろよろと立上ると、それに近づき、椅子やテーブルを投げつけ、踏みくだいて、火を消した。むせ返る煙を、少しでも少くしたかったのだ。
 ことごとく踏み消した積りで、元の場所に帰って、グッタリと倒れたが、どういう訳か、まだ部屋の中が薄明るく、チロチロと自分達の影が動いて見える。
 変だなと思って、その方を振向くと、分った分った。源次郎の骸骨の、ボロボロになった着物に火が移って、チョロチョロと鬼火の様に燃えているのだ。
 着物が湿っているので、威勢いせいよくは燃え上らぬ。青い焔が、着物の裾や袖を、人魂ひとだまみたいに、不気味に這っている。
 明滅する焔に、下方から照らし出された骸骨の顔は、陰影の加減で、ある時は笑い、ある時は泣き、或は落ちくぼんだ目を怒らせ、今にも食いつかんばかりの、物凄い憤怒の形相となる。
 妙子は失神した様に俯伏うつぶしていたから、この恐ろしい光景を見なかったけれど、残る三人は、見まいとしても引きつける、死霊の怨念に、目をそらす力もなく、呼吸も止まる思いで、それを眺めていた。
 突然二郎が歯を喰いしばって唸り出した。
「畜生め、畜生め」
 うなったかと思うと、彼はとうとう、物狂わしく、骸骨めがけて飛びかかって行った。見ているに耐えなかったのだ。恐ろしければ恐ろしい程、その相手にぶつかって行かないではいられぬ、不思議な衝動にかられたのだ。
 彼は、子供が泣きわめきながら、強い相手に向って行く、あの死にもの狂いの格好で、両腕を滅茶滅茶に振り動かし、燃える骸骨と、目に見えぬ死霊に向って突進した。

深夜の婦人客


 お話変って、旗本屋敷の地下室に、この恐ろしい地獄の光景が展開されていた、丁度その時、我々の素人探偵明智小五郎は、近頃借り受けた、おちゃみずの「開化アパート」の新しい住居で、物思いに耽っていた。
 明るい快活な明智小五郎ではあったが、彼とても、探偵事件がうまく運ばぬ様な時には、憂欝ゆううつに沈み込むこともあるのだ。
 借り受けているのは、表に面した二階の三室で、客間、書斎、寝室と分れているのだが、彼は今その書斎の、大きな安楽椅子に、グッタリと身を沈めて、彼の好きな『フィガロ』という珍らしい紙巻煙草を、しきりと灰にしていた。
 作者は七年程前に、「D坂の殺人事件」という物語で、書生時代の明智を読者に紹介したことがある。当時彼は煙草屋か何かの二階借りをしていて、その四畳半の狭い部屋に、書物の山を築き、書物に埋って寝起きしていたのだが、彼の書物好きは今でも変らず、「開化アパート」の書斎にも、外遊の間、友人に預けて置いた蔵書を取寄せ、四方の壁を隙間もなく棚にして、内外雑多の書籍を、ビッシリ並べている。いや、棚ばかりではない。例の調子で、デスクの上にも、安楽椅子の肘掛けにも、電気スタンドの台の上にも敷きつめた絨毯の床の上にさえ、ふせたのや、開いたのや、様々の書物を、まるで引越しの様に散らかしているのだ。
 それは兎も角、デスクの置時計は、もう十一時を示しているのに、寝ようともせず、彼は一体何を思い耽っているのであろう。外でもない玉村宝石王一家を襲う、魔術師の様な怪賊のことだ。
 大森海岸の一軒家で、妙子を取戻してからもう一ヶ月にもなる。その間、決して探偵の手をゆるめた訳ではないのだが、不思議な賊はようとして消息を断ったまま、どの方面にも影さえささぬのだ。
 海岸の一軒家を始め、例の魔術の興行された芝居小屋、海岸一帯の汽船など、心当りは漏れなく調べて見たけれど、用意周到な怪賊は、髪の毛一筋の手掛りさえ残して置かなかった。相手には、四十年の長い間、練りに練った用意があるのだ。どんな小さな行動でも、一つ一つ、ちゃんと練り上げたプログラムに従ってやっているのだ。こうすればどうなると、あらゆる場合が考慮されているのだ。いくら明智が名探偵であっても、こんな相手にかかっては、そう易々やすやすと勝利は得られぬ。
 魔術師の事を考えていると、いつの間にか頭に浮んで来る二人の女性があった。玉村妙子と賊の娘の文代である。
 妙子とはS湖畔のホテルで仲好しになり、今度の事件も、半分は妙子の為に手を染める様になったのだが、彼女との交際では、どちらかと云えば妙子の方から近づいて来た。甘い眼遣い、甘い言葉が、明智を虜にしてしまったのだ。管々くだくだしいので一々は書かなかったけれど、事件が起ってからも、彼は度々妙子と二人切りで話をする機会があった。だが、妙なことに、二人の交際が深くなればなる程、明智の胸から恋らしい心持が薄れて行くのが感じられた。彼は妙子と友達以上の関係へ進んでいないのを、むしろ喜びさえした。
 それは、非常に幽かではあったが、妙子の性質に、何かしらしっくりしないものがあったせいもある。だが、もっと大きな原因は、賊の娘の文代の出現であった。悪人の父とは似てもつかぬ美しい顔、美しい心、燃える様な純情。いつかの夜、玉村二郎に述懐じゅっかいしたのでも分る様に、明智は賊の娘を恋し始めていた。文代の方でも明智を慕っている気持は、品川沖の怪汽艇での出来事以来、分り過ぎる程分っている。
 何と云う不思議な因縁いんねんであろう。名探偵はかたきと狙う賊の娘を恋している。娘の方では、真実の父親を裏切ってまで、明智に好意を示そうと、いたましくも悶えている。
「フフフ……、貴様は何という馬鹿者だろう。相手は殺人鬼の娘だ。出来ない相談だ。そんな妄想は綺麗さっぱり、西の海へ吹飛してしまえ」
 明智はフィガロの紫色の煙の中で、苦々にがにがしげに呟いた。
 と、丁度その時、何かの暗合の様に、隣の客間のドアに、ホトホトとノックの音が聞えた。
 十一時過ぎの来客だ。少しも当てがない。誰だろうと思いながら、物憂ものうく立って行って、ドアを開いた。
 廊下にションボリ佇んでいたのは、外套の毛皮の襟で顔を隠した、洋装の女であった。
「お間違いではありませんか。僕は明智というものですが」
 明智は予期せぬ来客に面喰って尋ねた。
「イイエ」
 女は毛皮の下から幽かに答える。
「では僕をお訪ねになったのですか。あなたはどなたです」
 女はやや暫くためらっていたが、やがて決心した様に、
「どうか、お部屋へ入れて下さいまし。誰かに見つかるといけません」
 と、さもあわただしく云うのだ。
 商売柄、明智はさして驚きもせぬ。何か犯罪に関係があるなと思ったので、云うがままに室内にしょうじ入れて、ドアを閉め、スチームの暖房装置に近い椅子を勧めた。
夜中やちゅう失礼だと思いましたけれど、大変なことが起ったものですから」
 女は詫言わびごとをして、やっと外套を脱いだ。
「ア、君は、文代さんじゃないか」
 女の顔を一目見ると、明智がびっくりして叫んだ。今も今とてその人のことを考えていた、賊の娘の文代に相違ないのだ。
「エエ、あたしここまで抜け出してくるのが、やっとの思いでした。サア、早く外出の御用意をなすって下さいまし。玉村さん御一家の方々の命にかかわる大事です。父を捕えて下さいまし。あの悪者の父をこらしめて下さいまし」
 文代は泣かんばかりに云うのだ。娘が父を捕えてくれとは、よくよくのことである。
 聞いて見ると、文代は隅田川の川口に碇泊ていはくしている、例の怪汽艇の一室にとじこめられていたのだが、次の室で賊の部下達が話しているのを聞いて、小石川の旗本屋敷の陰謀を知り(彼女は前章に記した賊の悪企みを、手短かに語った)非常な苦心をして汽艇を抜け出し、タクシーを飛ばして明智の住いへかけつけたというのだ。明智が「開化アパート」に移ったことは、とっくに賊の方に知れていて、自然文代の耳にもはったのだ。
 又、先日来の大捜索に、この怪汽艇がどうして其筋そのすじの目をのがれたかと云えば、外部をすっかり塗り変えて、真面目な貨物船と見せかけていた上、多くは港外の海上をあちこちして、同じ場所に半日とは碇泊しなかったからである。
「あたし、それを聞きましたのは、夕方の五時頃でしたが、父の部下の一人をだまして、戸をあけさせるのに、つい今しがたまでかかったのです。それは苦労を致しましたわ。で、もうこんなにおそくては、あとの祭りかと思いましたけれど、一番恐ろしいことは、まだ済んでいないかも知れぬと、それを頼みに先生のお力を拝借はいしゃくに伺ったのです。なんぼ父親のすることでも、四人もの命が奪われるのを、黙って見ている訳には行きません」
「一番恐ろしいことと云うのは?」
 明智が尋ねると、文代は物云う暇も惜し相に、早口に答えた。
「その穴蔵を抜け出すには、骸骨の置いてあった、煉瓦の破れた所から、土を掘って地上へ出る外はありません。四人の方はきっとその方法をお選びなさるに違いありません。ところが、それは父の思う壺なのです。ちゃんとそのことを見越して、恐ろしい仕掛けが出来ているのです。そこの土を上の方へ掘って行きますと、深い水溜みずたまりの底へ出ます。その水溜りへは、庭の大きな池から水が通う様になっていて、一度土がくずれると、池の水が悉く地下の穴蔵へ流れ込み、中にいた人は溺死しなければならぬのです。アア、こういう内にも、四人の方は、もうその水責めにあっていらっしゃるかも知れません。サア早くいらしって下さいまし」
 それを聞くと、明智は少しもためらわず、書斎にかけ込んで、卓上電話に向い、警視庁の波越警部の自宅を呼出した。
 犯罪捜査を生命とする波越警部は、枕下まくらもとに官服と電話器とを置いて眠る習慣だったので、取次を待つ面倒もなく、直様聞慣れた相手の声が出た。
 明智は手短かに仔細しさいを語り、小石川の旗本屋敷の所在を教えて、先方で落ち合う約束をして電話を切った。警部の方では、電話で小石川警察に手配を依頼した上、自分も数名の警官を伴い、直ぐ現場げんじょうに自動車を飛ばす筈であった。
 明智は電話を継ぎ直して、近所のタクシーを呼ぶと、元の客間へ引返した。
「お聞きの通りです。何だったら、あなたは、ここに待っていてはどうです」
「イイエ、構いません。あたし、その家の様子をよく知っていますから、ご案内致しますわ」
 文代は眉を上げて、固い決心を示した。実の父親の捕物に、案内役を勤めないではいられぬ、悲しい娘の心。何という因果なめぐり合わせであろう。
 その深夜、お茶の水と、まるうちを出発した二台の自動車が、一台には明智と文代、一台には波越警部と四名の部下をのせて、小石川の高台へと走った。
「間に合いますかしら。あたし、何だか胸がドキドキして……」
 文代が気をもんでいたと同じく、別の車では波越警部が、
「今度こそは、兇賊を捕えないで置くものか」と汗ばむ拳を握っていた。

地底の滝


 穴蔵では、源次郎の骸骨に飛びかかって行った二郎が、とうとうそれを滅茶苦茶に叩きつぶしてしまった。同時に骸骨の着物に燃え移っていた焔も消えて、地下室は再び文目あやめもわかぬ暗闇になった。
 それから、室内の毒煙も薄らぎ、一同半狂乱の気が静まるまでには、たっぷり三十分程もかかった。
 その間、玉村父子四人は、闇の中に、生きているか死んでいるか分らぬ状態で、倒れていた。
 だが、やがて、正気に帰った善太郎氏が、闇の中から声をかけた。
「オイ、一郎も二郎も妙子も、しっかりするのだ。わしらは、どうしてでも、この穴蔵を抜け出さなければならぬ。今も考えて見たのだが、それには、たった一つの方法がある。骸骨のとじこめられていた、洞穴の土を掘って、地面へ抜け出すのだ。大して深い筈はないのだから、皆が力を合わせたら、出られぬということはない」
「アア、僕も今それを考えていた所です。焼け残った椅子の脚で、土を掘ればいい」
 一郎が応じた。二郎とても異存はない。
 そこで大切な二本目のマッチがともされ、妙子を除く三人の男が、てんでに椅子の脚を持って洞穴に集った。
 それから半時間程の間、闇の中に穴掘りが続けられた。寒中にも拘らず、一同汗びっしょりになって、滅多無性めったむしょうに働いた甲斐あって、思ったよりも仕事がはかどった。
「もう一息だ。何だか天井が柔くなって来たのを見ると、もうすぐ地面だぞ」
 一同一層元気を出して働く内に、ふと気がつくと、天井からポトリポトリ何かのしずくが落ち始めた。
 変だなと思う間もなく、雫は雨となって降り注ぎ、一同アッと云って飛びのいた時には、泥まじりの滝津瀬と変じて、おびただしい水が、ドッとばかり、穴蔵へと落ち込んで来た。
 三人は、元の地下室の、洞穴から一番遠い片隅に避難して、もうやむかと耳をすましていると、やむどころか、滝の音は益々高くなるばかりだ。
 室一杯に、轟々ごうごうと波うつ水は、やがて、足を浸し、瞬く内に膝頭ひざがしらへと昇って来る、その早さ。
「二郎、マッチ、マッチ」
 父の声に、二郎は最後のマッチを点じて、室内を眺めた。
 洞穴の滝は同じ勢で落ちている。へや全体が波立つプールだ。
「オヤ、妙子はどうしたのだ」
 気がつくと、妹の姿が見えぬ。水におぼれたのかと、マッチを振って、あちこち見廻す内に、悲しや軸木じくぎが燃え尽した。しかも、水は刻々に膝を没し、已に腰に及ばんとしている。妙子を探しているいとまはない。
 この調子で、滝が止まらなかったら、間もなく、水面は腹から胸、胸からくびと這い上って、遂には全身を隠してしまうだろう。どこにはけ口もない密室だ。溺死の運命は免れぬ。
 それにしても、この夥しい水は、一体どこから落ちて来るのだろう。
「アア、分った。わしらは賊のはかりごとにかかったのだ。あの洞穴の上に大きな池を作って、穴を掘れば、必ずその底へ掘り当てる様に仕掛けてあったのだ」
 玉村父子は、みじめなどぶ鼠の様に、罠にかかったのだ。水罠にかかったのだ。
「畜生ッ、どこまで執念深い悪党だろう。僕達はあせればあせる程、かえって最後を早める様なものだ」
 だが、いくら憤慨ふんがいして見たところで、水が引く訳ではなかった。
 水面は已に腰に達した。しかも、滝津瀬は轟々と落ち続け、いつやむべしとも思われぬのだ。

地上と地下


 明智と文代が、旗本屋敷に到着した時には、已に所管警察署から数名の刑事が屋内に踏込んで、部屋部屋を捜索していた。
 明智が這入って行くと、波越氏から話があったと見えて、警官達は別に異議も云わず、寧ろ彼を歓迎する様に見えた。
「家の中はもぬけの空です、猫の子一匹いません」
 主だった私服刑事が報告した。
「玉村さん親子四人のものが、地下室にとじこめられているのです。地下室は調べて見ましたか」
 明智が尋ねる。
「ところが、地下室が見つからぬのです。どこに入口があるのだか、少しも見当がつきません」
 刑事が困惑して答えた。
「イヤ、それなれば、僕の方に案内者があります。妙な因縁で賊の娘がこの出来事を密告したのです。……文代さん、地下室はどこにあるのですか」
 明智が呼ぶと、文代は庭に面した縁側から駈け込んで来た。
「大変です。早くしないと間に合わぬかも知れません。今庭の池を見て来ましたが、水がグングン減っているのです。玉村さんはやっぱり土を掘って逃出そうとして、悪人の罠にかかっておしまいになったのです」
 彼女は青ざめた顔で、早口に云い捨てて、例の客間の隣の妙な部屋へ走って行った。一同もそれに続く。
「この押入れの中に、穴蔵の入口があるのです」
 文代は説明しながら、自分でふすまを開いたが、一目その中を覗くと、アッと叫んで身を引いた。
 アア、何という大胆不敵の怪物であろう。彼は已に警官隊の来襲を察して、単身この穴蔵の入口に敵を待伏せしていたのである。
 押入れの中の上げ蓋が二三寸開いて、その下から、蛇の鎌首の様な人間の片腕が覗き、恐ろしいブローニングの筒口が、じっとこちらを狙っているのだ。
 明智も刑事達も、この怪物の死にもの狂いの抵抗には、流石にゾッとして、立ちすくまないではいられなかった。
     ×     ×     ×     ×     ×
 穴蔵の闇の中では、親子三人のものが、お互に手をとり合って、刻一刻増して来る水の中に、何とせんすべもなく立ち尽していた。
 妙子は已に溺れてしまったのか、いくら呼んでも答はない。探そうにも暗闇の水の中、見当もつかねば、無闇に歩き廻る訳にも行かぬ。
 水面は、腰から腹、腹から胸と、恐ろしい速度で這い上り、うっかりすると渦巻く水に足をとられそうだ。
 やがて、胸から頸へと迫る水、身体が浮上って、もう立っていることも出来ない。時は極寒、凍った水がまるで鋭い刃物の様に、身にこたえる。
「お父さん大丈夫ですか」
 兄弟は老いたる父を気遣い、両方から、そのふとった身体を抱く様にして、時々声をかけて励ますのだ。善太郎氏は、もう観念をしたのか、物悲しい低い声で念仏を唱え始めた。
     ×     ×     ×     ×     ×
 地上では、一人の心利いた刑事が、どこからか太い竹竿たけざおを探して来て、その先に手頃の石を括りつけた。ピストルのたまの当らぬ様、押入れの外に身を隠して、その竹竿で怪物の手からピストルを叩き落そうというのだ。
 一同ピストル射場の外に出て、息を殺していると、刑事は竿の先を押入の天井まで上げて、ねらいを定め、怪物の腕を目がけて非常な勢で叩きつけた。
 ドシンというひどい物音。
 顔をそむけ、耳に蓋をしていた文代は、この物音に、アッと悲鳴を上げた。父の腕が叩きつぶされたかと思うと、流石に耐え難い苦痛を感じたのだ。
 腕はひしがれた。ピストルは手を離れて押入れの外へふっ飛んだ。
 ソレッと云うと、一同ひしがれた腕の上に折り重なる。と突如として起る哄笑こうしょう
「畜生め、一杯食わせやがった」
 竹竿の武器を考えついた刑事が口惜くやしさに、歯をむき出して叫んだ。
 怪物の腕と思ったのは、手袋に芯を入れて、巧みにこしらえた贋物にせもので、ピストルは子供のおもちゃに過ぎなかった。それが、暗い押入れの中ゆえ、はっきり見分けがつかなかったのだ。
「馬鹿馬鹿しい。こんな案山子かかしの為に、二十分も無駄に費してしまった」
 それが賊の目的であった。万一救いの人々が駈けつけた場合ここで暫く食いとめて置けば、その僅かの相違が、穴蔵の玉村親子に取っては、生死の瀬戸際せとぎわだ。念には念を入れた賊の用意である。
 案山子と分ると、刑事達は素早く上げ蓋をはねのけ、先を争わんばかりに、穴蔵へと下って行った。
 だが、その階段の下には、第二の関所が待構えている。積上げた煉瓦は、仮令完全に固っていなくとも、それをとりのけるには、随分手数がかかる。それから鍵をかけた鉄扉だ。刑事達の力で、果してこれを打破ることが出来るであろうか。
     ×     ×     ×     ×     ×
 穴蔵の水は、もう頸までの深さになった。
 一郎も二郎も、いつの間にか床から足を離して泳いでいた。善太郎氏は二人に助けられて、辛じて身体を浮べている。
 暗中の水泳がいつまで続くものでない。凍った水に、身体は段々無感覚になって行く。
「もう駄目だ。もう我慢が出来ない」
 一郎が譫言うわごとの様に、無残な叫び声を発した。
「もう力が尽きた。一層死んだ方がましだ」
 二郎もすすり泣きをして、兄の身体にしがみついた。父玉村氏は、已に死人も同然、グッタリとなって、物を云う力もない。
 アア、折角の文代の純情も、明智や刑事達の努力も、僅かの相違で仇となり、遂に玉村親子は、この穴蔵で凍え死にをしてしまう運命ではなかろうか。

消失きえうせた令嬢


 復讐鬼の方には、悪魔は悪魔ながらの理窟もあろうけれど、敵を討たれる玉村氏一家のものは、我身に何の覚えもないことだ。親が若気の至りで、どの様な悪いことにしたにもせよ、それ故に、子や孫が一人残らず、この苦しみを受けなければならぬという道理はない。
 父善太郎氏は、親の報いとあきらめもしようけれど、可愛い子供が三人まで、同じを見せられるとは、余りと云えば残酷だ。そればかりではない。一郎と妙子とは、已に一度、ひどい手傷を負わされている。その外、善太郎氏の弟の得二郎氏は無残の最期をとげ、二郎の恋人花園洋子は、手足をバラバラに斬りさいなまれたではないか。
 アア、何という貪慾どんよくな復讐鬼であろう。彼は玉村家の、最後の一人までも、イヤ、一家のものばかりではない。その近親にまで手を延ばして、残酷無比の殺戮さつりくを行おうとしているのだ。最早もはや復讐ではない、立派な殺人狂である。天はかくの如き大悪魔の跳梁ちょうりょうを、いつまで許して置くのであろう。
 イヤイヤそうではない。自然の摂理せつりというものは存外公平である。企みに企んだ悪事にも、つい思いもよらぬ抜け目があるものだ。
 魔術師の場合では、文代の内通がそれであった。彼女は穴蔵水責めの悪企みを小耳にはさみ、隅田川の川口に碇泊していた、賊の汽艇を抜け出して、玉村親子の危難を、名探偵明智小五郎に急報し、彼を案内して旗本屋敷へ駈けつけたのである。
 明智はこのことを、電話で警視庁の波越警部に報じて置いたので、深夜ながら、警視庁と小石川警察と、両方から数名の警官が出張し、玉村氏が同行して、別間に待たせてあった書生達と力を合わせ、被害者の救出すくいだしに努力した。
 救助者の一群は、秘密の階段を駈け降りて、穴蔵の入口に殺到したが、厳重な鉄扉の外に、煉瓦の壁が積み上げてあるので、容易に破れるものでない。
 若し一人や二人の救助者であったなら、恐らく玉村親子の息のある内に、救出すことは、到底不可能であっただろうが、多人数の力は恐ろしい、てんでに道具を探し出して来て、煉瓦の継目つぎめをこじるもの、叩くもの、蹴飛ばすもの、汗みどろの奮闘で、やっと壁をくずし、鉄扉の錠前を破ることが出来た。
 扉を開くと、一度にドッとあふれ出す濁水、先に立った警官達は、はずみを食って、階段の根本まで押し流される騒ぎであったが、兎も角も、親子三人のものを、助け出すことに成功した。
 地上の一室へ運んだ時には、三人ともグッタリとなって、ほとんど死骸も同然であったが、焚火たきびをするやら、湯を沸かすやら、手を尽した介抱に、善太郎氏も一郎も二郎も、日頃健康な人達のことゆえ、難なく気力を恢復した。
 意識を取戻した善太郎氏が、第一に尋ねたのは、
「妙子は、妙子はどうしました」
 と、愛嬢の安否であった。
 人々は、暗闇の水中で、妙子さんの姿がなくなったよしを聞くと、早速穴蔵へ降りて、くまなく捜索したが、不思議なことには、影も形もない。扉は厳重に閉っていたのだし、水の落ち込む穴から地上へ抜け出すなんて、屈強な男子にも出来ない芸当だ。とすると妙子さんは、一体全体どこへ消え失せてしまったのであろう。
 イヤ、消え失せたのは、妙子さんばかりではない。魔術師の奥村源造も、どこへ逃げ去ったのか、何の手掛りも残さず、それに、もっとおかしいのは、肝腎の明智小五郎と賊の娘文代の二人が、いつの間にどこへ立去ったのか、探しても探しても影さえ見えぬのだ。
 では、彼等は一体どこに何をしていたのか、玉村父子は首尾よく危難を逃れたのだから、その方は一先ずお預りとして置いて、作者は明智と文代の其後そのごの行動を、読者諸君にお知らせしなければならぬ。
 玉村父子救出すくいだしの見込みが立つと、明智はもう、その場にクズクズはしていなかった。彼は早くも、妙子さんの姿のないことを見て取り、文代に尋ねると、
「アア、あたし思出しました。あの人達は、妙子さん丈け命を助けて、船へ連れて来る様な相談をしていたのです」
 との答えだ。
「それにしても、どうして穴蔵から連れ出したのでしょう。特別の通路でもあるのですか」
「エエ、あたし、それも知って居ります。穴蔵の壁に小さな隠し戸がついていて、そこから、邸の外の原っぱへ抜けられるのです」
 あとで検べて見ると、穴蔵の煉瓦の数枚が、倉庫の扉の様に、外から開く仕掛けになっていた。賊はその外へ廻って、目ざす妙子さんを、闇の穴蔵から、ソッと連れ出して行ったものに相違ない。父も兄達も、あの騒ぎの最中なので、それに気づかなかったのだ。
「では、すぐそこへ案内して下さい。あなたはなぜ早く、それを云わないのです」
 文代は叱られて、答える術を知らなかった。彼女は最初からそこへ気づかぬではない。だが、そこには、まだひょっとしたら父が潜伏していないとも限らぬ。いくら正義の為とは云え、恋の為とは云え、父を売るのに、躊躇を感じない娘があるだろうか。これ程苦しんでいるものを、まるで思いやりもない様な、明智の言葉がうらめしかった。
 と云って、もうここまで来たものだ、今更ら父をかばい立てしている訳には行かぬ。
「エエ、ご案内しますわ」
 彼女は悲しい決意を示して答えた。
 行って見ると、洞穴の入口は、蓬々ぼうぼうと生い茂った雑草に覆われて、一寸見たのでは少しも分らぬ様になっていた。
 その雑草をかき分けて、用意の小型懐中電燈を点じて、穴の中へ這い込んで見たが、大方想像していた通り、そこにはもう、人の影もなかった。
「アラ、こんなものが落ちていましたわ」
 文代が目ざとく、土の中から拾い上げたのは、銀製のヘヤピンである。見覚えとてないけれど、妙子さんのものに相違ない。
「やっぱりそうだ。もう今頃は、あいつの船へ連れ込まれている時分かも知れません。サア、船へ行きましょう。まさか、あなたを置去りにして出帆しゅっぱんしてしまうこともないでしょう。僕をその船へ案内して下さい」
「エエ、それはもう、あたし覚悟していますけれど、あなたお一人では……」
「ナニ、心配することはありません。グズグズしていては、手おくれになります。それに大勢で向うよりも、僕一人の方が却って仕事が仕易いのです。僕はもうちゃんと、その手だてを考えてあります」
 そこで、二人は手を取って、大通りまで駈け出すと、タクシーをやとって、隅田河口かこうへと飛ばした。
 文代の指図で車の止った所は、月島海岸の見渡す限り人気もない、淋しい広っぱであった。川口の航路をさけて、遙か彼方に、一艘の小型汽船が、泊るともなく漂うともなく浮んでいる。淡い檣燈しょうとうの光で、やっとその所在が分るのだ。
「何か合図があるのですか」
 親船からはしけを呼ばねばならぬ。それには賊の定めた合図がある筈だ。
「エエ」
 文代は答えて、ポケットからマッチを出すと、それをシュッとすって、二三度振り動かし、燃えかすを海の中へ投げ捨てた。
 暫く待つと、ギイギイとオールのきしり、小型ボートが白い小波さざなみを立てて、岸に近づいて来た。
 明智はす早く岸の石垣に隠れる。
「文ちゃんかい」
 ボートから低い声が尋ねた。
「エエ、お前、三次さんじさん?」
「そうだよ。もう親父さん帰っているぜ。文ちゃんはどこへ行ったと、えらく探していたぜ」
「お父さん、一人で帰ったの」
「インヤ、例のお嬢さんと二人連れさ」
 低い声だけれど、明智はこの問答を、すっかり聞き取った。
「三次さん、ちょいとここまで上ってくれない。荷物があるのよ」
 文代は兼ねての打合わせに従って、三次を上陸させようとした。
「荷物だって、何を又買い込んで来たんだね」
 それとも知らぬ、お人好しの三次は、ボートをもやって、ノコノコと石段を上って来た。
「文ちゃん、荷物って、どこにあるんだい」
「ここよ」
「どれ、どこに」
 と、三次が覗く石垣の蔭から、ヌッと現われた黒い人影。
「ヤ、貴様、一体誰だッ」
「ハハハハハハ、びっくりしなくてもいい。声さえ立てなければ、無闇むやみに発砲する訳じゃないんだから」
 明智がおとなしい口調で答えた。だが彼の右手には、ピカピカ光るピストルの筒口が、三次の胸板を狙っている。

魔術師の激怒


 さてそれからどんなことがあったか、暫くして、賊の本船に文代と三次とが帰りついたところを見ると、我が明智小五郎は、残念ながら三次の為にひけを取ったものと見える。それとも、わざと一先ずこの二人を本船に帰して、おもむろに怪賊逮捕の策略をめぐらしているのかも知れない。
 お話変って、妙子さんをさらって、本船に戻った魔術師の奥村源造は、すばらしく上機嫌であった。彼は警官隊が玉村父子救助に駈けつける以前、已に例の旗本屋敷を立去っていたので、あの様な騒ぎがあったことを少しも知らなかった。善太郎氏も、一郎も、二郎も、穴蔵の濁水におぼれてしまったものと信じ切っていた。
 あの厳重な穴蔵、妙子をつれ出した抜け穴は、誰も気づく筈はないし、仮令たとえ気づいた所で、これも外から厳重に締りをして置いたから、破れるものではない。親子三人は、天変地異でも起らぬ限り、死の運命はまぬがれぬ。その上し救助者が飛込んで来ても、穴蔵の降り口には、例のピストルの案山子かかしがしつらえてある。万に一つも失敗はない筈だ。と、彼が安心し切っていたのも、決して無理ではなかった。
 彼は部下を集めて、船中の酒盛りを始めた。
「みんな喜んでくれ。俺はとうとう完全に念願を果したのだ。あいつの一家をみなごろしにしてしまったのだ。サア、充分呑んでくれ給え。あすの朝、もう一度上陸して今夜の仕事の結果を確めたら、我々の仕事はおしまいだ。どこか遠くの海岸へ逃げて、そこで解散だ。諸君にはタンマリお礼をする。一生困らぬ丈けのことはする積りだ。そして、俺は今夜盗み出して来た玉村の娘と一緒に、外国へ高飛びだ。ハハハハハハハ、愉快愉快、れはやっと重荷をおろした。生れてからこんな嬉しい気持は初めてだ」
 源造は一人でしゃべり、一人で飲んだ。
 シャンパン酒が、次から次と、ポンポン景気のよい音を立てた。
 部下の者共も、有頂天になっていた。彼等は玉村一家を恨む訳ではなく、そこの人達がみなごろしになったからとて、別段嬉しいこともなかったが、一生困らぬお礼の金が有難かった。酒もまわらぬ内に、目先にチラつく札束に酔っぱらっていた。
 彼等は深い事情は何も知らなかった。ただおびただしい礼金に目がくれて、奥村源造を首領と仰いでいるに過ぎない。金の為ならどんな悪事でも平気にやってのける、前科者ばかりであった。
 段々よいが廻って、ドラ声をはり上げて歌うもの、洋服姿で変な踊りを始めるもの、場所は海岸離れた船の中、どんなに騒ごうがあばれようが、何の気兼きがねもないのだ。
 文代と三次が帰って来たのは、丁度その騒ぎの最中であった。
「かしら、文ちゃんが帰って来ましたぜ」
 部下の一人が這入って来て報告した。
「文代が?」
 今まで笑い興じていた源造の顔が、キュッと不快らしくひん曲った。事毎ことごとに仕事の邪魔立てをする文代が、憎くて仕様がないのだ。
「ここへ連れて来い。少し言い聞かせることがある。みんな、暫くの間別の部屋で飲んでいてくれ」
「かしら、文ちゃんを折檻せっかんするのはよしたらどうです。目出度めでたい日だ。勘弁かんべんしておやりなさい」
 部下の一人がとりなし顔に云った。彼等は皆美しい文代に好意を寄せていた。それよりも、あの娘をここへ呼んで、皆におしゃくでもさせた方がいい。と云いたげな面持おももちである。
「いいから、暫くあっちへ行っててくれ。何も折檻なんかしやしない。ちょっとないしょの話があるんだ」
 酔っぱらった首領の真赤な額に、蚯蚓みみずの様な静脉じょうみゃくがふくれ上って、血走った目がギロリと光った。
 それを見ると、一同縮み上って、ゾロゾロと別室へ退却した。彼等は、首領の云い出したらあとへは引かぬ、依怙地えこじな気性をよく呑みこんでいたからだ。
 引違いに、たった一人で這入って来たのは、源造にとっては一人娘の文代である。
「お前、どこへ行っていた」
 源造が酒臭い息と共に怒鳴りつけた。
「ちょっと、お化粧の道具を買いに……」
「嘘を云え。こんな夜更よふけに、どこの店が起きている。お前、明智の野郎と媾曳あいびきをしていたのだろう」
 ズバリと云って娘の顔を睨みつけた。流石の文代も、この不意うちに、ギョッとして、思わず赤くなった。
「マア、何を云っていらっしゃるの。そんなことが……」
「ア、やっぱりそうだな。そのうろたえ方を見ろ。とうとう尻尾しっぽを掴んだぞ。さあ白状しろ。いつか明智をこの船から、オオ、そうだ部屋も同じこの部屋だ。ここから逃がしてやったのは、さては貴様だったな」
 源造はムラムラと起る癇癪かんしゃくに、いきなり手にしていたコップを、我が娘めがけて投げつけた。コップは文代のほおをかすめ、背後の壁に当って、こなごなにこわれてしまった。
「アレ!」
 と叫んで逃げようとするのを、腕を掴んで引き戻し、そこへ押しころがすと、あり合わせた細引きをむちにして、ビシリビシリ叩き始めた。
「さあ白状しろ。親の命がけの仕事をさまたげようとする不孝者め。それ程あいつがいとしいか。うぬ、白状しろ」
 ビシリビシリ、細引の鞭は、文代のふっくらとした太腿ふとももへ、刃物の様に食い入るのだ。
「いくら親でも、いくら親でも、悪事の味方は出来ません」
 文代は、痛さをこらえ、父を睨みつけて、ハッキリと云ってのけた。
「うぬ、うぬ、よくも云ったな。どうするか見ろ」
 源造の怒りは極点に達した。
 彼は手ぬるい鞭を投げ捨てて、足を上げると、固い靴のかかとで、いやと云う程、文代の脾腹ひばらを蹴りつけた。
 文代は、「ウーン」とうめいたまま、動かなくなってしまった。
 酔っぱらっていた源造は、手加減が出来なかったのだ。娘が気絶したのを見ると、流石に驚いたが、それを介抱する様な彼ではない。
「ざまを見ろ。……サア、今度は娘を上陸させた野郎の番だ。オーイ、誰かいないか。三次を呼んで来い。三次の野郎をここへ引張って来い」
 首領の怒号に、部下のものが駈けつけたが、文代の倒れているのを見ると、顔色を変えて立ちすくんでしまった。彼等は源造の癇癪がどんなに恐しいものであるかを、よく知っていたのだ。
「三次はどこにいる。あいつをここへ引っぱって来い」
 彼等は首領の命令に、アタフタと部屋を出て行ったが、暫くすると、妙な顔をして戻って来た。
「かしら、三次はどこへ行ってしまったのか、姿が見えません。機関室にも、荷庫にぐらにも、どこにもいません」
「ナニ、いない。そんなことがあるものか。ボートはあるのか」
「エエ、ボートはともにもやってあります」
「まさかあいつが身投げをした訳ではあるまい。よし、貴様達がかばい立てするなら、俺が探しに行く。若しもあいつがいたなら、承知しないぞ」
 源造は、娘が気絶したことで、一層腹を立てていた。その入れ合わせに、三次も同じ目に合わせてやらねば、承知出来ぬと思った。
 彼はよろめく足を踏みしめて、船の中をあちこちと歩き廻った。部下の者共も、それを傍観している訳にも行かず、懐中電燈を振り照らしながら、彼のあとについて来た。
 なる程三次はどこを探してもいなかった。
畜生奴ちくしょうめ、悪いと知って、どこかへ隠れてしまったのだな。だが、いつまで隠れていられるものか。朝になったら、うぬ、どうするか」
 源造は拳を振り振り、元の船室へ帰って来たが、一歩そこへ足を入れたかと思うと、「アッ」と叫んで立ちすくんだ。
 三次がいたのだ。あれ程探しても見えなかったのも道理、彼は源造が出て行ったあとへ、入れ違いに忍び込んで、気絶した文代を介抱していたのだ。見れば文代は正気に返って、三次となにかボソボソ話し合っているではないか。
 源造はどぎもを抜かれて暫くは言葉も出なかったが、それ丈けに怒りは二倍三倍になって爆発した。
「三次ッ、あれ程云いつけて置いたことを忘れたのか。なぜ俺に無断で文代を上陸させたのだ」
 叫びざま、飛びかかって行って、三次の横面をはり倒した。と、思ったのだ。だが、源造の鉄拳よりも、三次の方が素早かった。彼はヒョイと身をかわして、くうをうたせ、知らん顔をして突立っている。
 よごれたふく、まぶかく冠ったもみくちゃの鳥打帽とりうちぼう、そのひさしの下から、機械の油で真黒になった顔がのぞいている。
 源造は面喰めんくらった。日頃お人好しで薄のろの三次が、首領に敵対する気構えを見せたからだ。
「貴様、俺に手向う気か」
 怒鳴りつけても、相手はどこを風が吹くかと、平気な顔で黙りこくっている。
 変だ。何かしらあり得ないことが起ったのだ。こいつは決して日頃の三次ではないのだ。
 光といっては、薄暗い石油ランプ、しかも相手の顔はその影にあるので、ハッキリは見えぬ。源造は、いきなり三次の鳥打帽を引ったくって、彼の顔をむき出しにした。
「アッ、キ、貴様、一体誰だッ」
 源造の口から、思わず頓狂とんきょう叫声さけびごえがほとばしる。その男は三次ではなかった。服装は三次のものだが、中味が違っていたのだ。
「ハハハハハハハ、お見忘れですか」
 男はニヤニヤ笑っている。
「誰だッ、名前を云え」
 源造は、酒の酔いもさめはて、真青まっさおになってヨロヨロとよろめいた。
「よくごらんなさい。僕ですよ」
 見ていると、黒く汚れた下から、本当の顔が、段々浮上って来る。アア、このモジャモジャの髪の毛、この広い額、この鋭い眼光、外にはない。彼奴きゃつだ、彼奴だ。
「明智小五郎……」
 源造はうめく様に呟いた。
「とうとう、僕の念願が届きましたね」明智はやっぱり笑いながら、「今度こそはもうのがしませんよ」
 彼は云いながら、素早く身をひるがえして、入口のドアを締め、その前に立ちはだかった。部下の者に邪魔されぬ用意だ。彼等はまだ三次を探して船内をうろついているのであろう。一人も姿を見せなかった。
 正義の巨人と、邪悪の怪人とは、ここに三たび相会あいかいした。四つの目が、焔をはいて睨み合った。室内に、名状し難き殺気がみなぎり渡った。

八対一


「ワハハハハハハハハハハ」
 突如として、笑いが爆発した。奥村源造が腹を抱えて笑い出した。
「オイ、探偵さん。こいつは愉快だね。一足おそかったよ。おそかりし探偵さんだ。ワハハハハハハハ、俺はもうお先きに仕事を済ませてしまったのだよ。君が妨げようとして、あんなにもがき廻っていた仕事をだぜ。オイ、分るかね。玉村一家のものは、今頃どこにどうしているか、君は知っているかね」
 勝ちほこった源造が、気違いのようにわめいた。だが、明智がそれに驚く筈はない。
「旗本屋敷の穴蔵で、水責めにあっているとでも云うのですか」
 彼は皮肉な調子で聞返した。
「ゲッ、それでは、キ、貴様、あれを、……」
 源造は極度の狼狽ろうばいに、口も利けぬ。見る見る、額には玉の汗が浮んで来た。
「ご安心なさい。玉村親子は、無事に救われました。今頃は邸に帰って、暖いストーブの前で、おくれた晩餐ばんさんをやっている時分ですよ」
 それを聞いた源造の顔は、絶望にひん曲った。一刹那、サッと血の気が失せたかと思うと、次の瞬間には、顔中が紫色にふくれ上り、額の静脉が虫の様にうごめいた。明智は生れてから、こんな恐ろしい人間の表情を嘗つて見たことがなかった。
 絶望の悪魔は、両手で頭を抱えて、ヨロヨロと椅子に倒れ込んだ。そして、血走った目を不気味にキョロキョロさせて、取るべき手段を思いめぐらすと見えたが、やがて、徐々に奇妙な安心の色が浮んで来た。彼は激情の余り、ついそれを胴忘どうわすれしていたのだ。
「だがね、探偵さん」
 源造は考え考え切り出した。
「君は、いつかの森ヶ崎の西洋館を忘れたかね。あすこで一体どんなことがあったのだろう。エ、思い出して見給え。ホラ、君と俺と妙な取引きをやったことがあるじゃないか」
 だが、それにも明智は驚かなかった。
「ウン、覚えていますよ。あの時は君の方に妙子さんという人質があって、結局僕の負けになったのですね」
 オヤ、こいついやに落ちついているな。と思うと、源造は少し不安になって来たが、屈せず喋り続ける。
「ホラ見給みたまえ。あの時と今と、一体どう違うのだ。君は、妙子が今どこにいるか、知っているのかね」
「知っていますとも」明智はニヤニヤ笑った、「向うの小部屋に閉め込んであるというのでしょう。ところが、僕はあの部屋の鍵を手に入れたのですよ。そして、妙子さんにピストルを二挺渡して、その鍵で内側から締りをして置く様に云って来たのですよ。で、誰かが、例えば君の部下が、あすこへ這入ろうとすれば、第一ドアが開かぬし、仮令それを叩き破っても、妙子さんのピストルで、お陀仏だぶつ。と云う訳なのです」
 源造は心を落ちつける為に、長い間黙り込んでいた。この様な強敵に対しては、あわててはいけない。ゆっくり考えて、最善の手段をとらねばならぬ。
「で、つまり俺をどうしようというのだね。君は一人だ。俺の方には七人の部下がいる。おまけに、この船はどこへでも走り出すのだ。俺の云った人質というのは、なにも妙子ばかりではないのだぜ」悪魔は不気味な嘲笑を浮べ、いきなり人差指を明智につきつけた、「君だよ、人質というのは。飛んで火に入る夏の虫という、古いせりふがあったっけね。フフフフフフフフ」
 彼は含み笑いをしながら、部屋の隅の机に近づいて、その抽斗ひきだしを開き、何かを取出そうと、手をさし入れたが、探しても探しても、その品物がないのを知ると、ハッとして明智の顔を見つめた。
「君の探しているのは、これじゃありませんか。君の留守中に、抜かりなく拝借して置きましたよ。僕だって、命は惜しいですからね」
 明智はそう云いながら、ポケットからピストルを出して、相手に狙いを定めた。
「畜生ッ」
 源造は、又しても先手をうたれて、地だんだを踏んだ。しかし、ピストルを持つ相手に飛びかかる訳にも行かぬ。
「サア、文代さん。外へ出ましょう。僕達はまだ仕残した仕事があるのです。お父さんですか。ナニ、お父さんは暫くこの部屋で御休息願うことにしましょうよ」
 明智の言葉に、文代はオズオズと立上って入口へ近づいた。
「コラ、文代、貴様きさま親を裏切る気か」
 源造の恐ろしい目が、刺す様に睨みつけた。
「お父さん。私も一緒に牢屋ろうやへ行きます。死刑になる運命なら、私も一緒に死にます。どうか堪忍かんにんして下さい」
 文代は泣きながら、父をあとに残して部屋を出た。明智はそのドアへ、外から鍵をかけた。(鍵はさい前、ピストルと一緒に手に入れて置いたのだ)流石の源造も、相手が飛道具を持っているので、どうすることも出来なかった。
「サア、君はこれを持っていて下さい。そして、奴等が手向いし相だったら、構わずぶっ放して下さい」
 明智はピストルを文代に渡して、部下の者を捕縛ほばくする為に、甲板へ出て行った。
 と、出会いがしらに、一人の部下にぶつかった。
「オイ、三次じゃねえか。どこにいたんだ。みんなで大探しをしているんだぜ」
 淡い檣燈しょうとうの光で、おぼろな姿を認めて、相手が叫んだ。
「ウン、俺はここにいるんだ。お前みんなを呼び集めて来な。三次が見つかったって」
 声も違う、云うことも変だ。併し相手は何も気づかず、いきなり大声で怒鳴った。
「オーイ、みんなア、三次がいたぞオ。ここにいたぞオ」
 やがて、ゾロゾロ集って来た七人の前科者。みんな酔っぱらっているうちに、比較的正気な奴が、ふと明智の姿に疑いを起してツカツカと近づいて来た。
「三次だって、オイ、こんな三次があるもんか。こいつ一体どこのどいつだ」
「成程、三次じゃねえ。ヤイ、貴様は誰だッ」
 人違いと分ると口々にどなりはじめた。
「僕は明智小五郎っていうのだ」
 明智がおだやかな声で答えた。
「ワア」というどよめき。七人のものは、油断なく身構えた。
「みんな、手向いすると、うちますよ」
 明智のうしろから、文代がピストルを構えて、姿を現わした。
「や、文ちゃんじゃねえか。これは一体どうしたというのだ」
 酔のさめ切らぬ一人が、頓狂な声を立てた。
「どうもしない。君達を一人残らず縛り上げて、牢屋へぶち込もうという訳さ」
 明智がほがらかに云い放った。
 七人の者は、酒宴の最中だったので、武器を身につけていない。それはみんな船尾の彼等の部屋に置いてあるのだ。
 武器の方へ、武器の方へ、一同云い合わさねど、心は一つだ。ジリジリとその方へあとじさりを初めた。
 明智と文代は、それを追って一歩一歩進んで行く。
 七人の一番うしろの奴が、とうとう船尾の部屋のドアを探り当てた。彼はそれを開いて中に飛込む、続いて一人、又一人、残らず部屋へ這入ってしまった。
 明智はそこまでは、相手のすに任せていたが、最後の一人が中からドアを締めようとした時、飛鳥ひちょうの素早さで、片足を部屋の中に入れ、全身の力でドアを押しのけて、文代と共に、中へ入り込んでしまった。
 だが、明智ともあろうものが、何という向う見ずな振舞ふるまいをするのだ。それでは敵の思うつぼではないか。見よ、彼等は已に七人が七人とも、てんでにピストルを握って、今這入って来た明智達に狙いを定めているではないか。
「僕はうまうま君達の計略にかかった様だね。ピストルが七挺と。さて、どこを狙ったもんだろうね。額か胸か、それともこうして笑っている口の中へぶち込むかね」
 明智は云いながら、額を、胸を、口を、指さして見せた。
 七人の者は、相手の余りの大胆さに気を呑まれて、やや暫く立ちすくんでいたが、
「ぶっ放せッ」
 一人が叫んで、引金を引くと、一同気を取り直して、カチン、カチンと発砲した。
「オヤ、妙だね。カチンカチンと云ったばかりで、たまが飛出さぬ様だね。ハハハハハ、もう一度やってごらん」
「うぬ」
「畜生ッ」
 てんでに叫んで、又カチンカチンとやって見たが、やっぱり駄目だ。
「君達は、僕がこの船に来てから、今まで何もしないでいる程ボンクラだと思うのかね。そいつはちっと不服だぜ。僕はすっかり戦闘準備をととのえて置いたのだ。それでなくて、一人ぽっちで、船一そう乗取ろうなんて、出来ない相談だからね」
 アア何という恐ろしい探偵だ。彼は単身賊の汽船をとりこにしようとしているのだ。
「見給え。ここに細引が積んである。これが今に君達の身体へまきつこうという訳なのだ。この部屋へ逃込むことを見通して、ここに捕繩ほじょうまで用意して置いたのだぜ」
 賊共は、余りのことに開いた口がふさがらぬ。悪人であればある程、段違いの相手に出会うと、却って意気地なくへこたれてしまうものだ。七人のやつは、蛇に見こまれたかわずの様に、ひっそりと静まり返ってしまった。
 管々くだくだしく書くまでもない。文代のピストルにおどかされながら、彼等は瞬く内に、一人一人、身動きもならぬ様に縛り上げられてしまった。
 明智は捕虜どもをその部屋に締め込んで置いて、再び元の首領の部屋へ取って返した。
 来て見ると、源造をとじこめて置いた部屋では、恐ろしい騒ぎが始まっていた。ドアが風をはらんだ帆の様にふくらんで、メリメリメリメリと物凄い音を立てている。激怒した猛獣が、怒号しながら檻を破ろうとしているのだ。
「アラ、どうしましょう」
 父ながら、余りの恐ろしさに、文代は明智の腕にすがりついて、悲鳴を上げた。
「構いません、疲れるまで、やらせて置きましょう。決して心配することはありません」
 だが、果して心配しなくてもよいのだろうか。見よ、ドアの鏡板は已に破れたではないか。メリメリ、メリメリ、それに勢を得た猛獣は荒れに荒れて、とうとう扉に出入り出来る程の大穴をあけてしまった。
 アッと思う間に、その穴から、源造の身体が、鉄砲玉の様に飛び出して来た。明智が文代の手からピストルを取って身構える間もあらばこそ、悪魔は巨大な蝙蝠こうもりの様に、風を切って甲板へと飛び出した。
 叶わぬと見て、海へ飛込むつもりだ。アア、ここで逃がしたら折角の苦心が水の泡だ。魔術師とまで呼ばれた怪賊、どの様な恐ろしい再挙を目論もくろまぬとも限らぬ。それを明智は、どうして平気でいるのだろう。賊を追駈けようともせず、あとからノソノソ歩いて行く。
 その頃は已に東の空が白んで、甲板はもう薄明るくなっていた。
 源造はそこへ走り出すや、いきなり一方のふなばたへ駈け寄って、飛込む身構えをしたが、ひょいと海面を見おろすと、思わず、
「ギャッ」と悲鳴を上げた。
「ハハハハハハハ、どうですね。今度こそは、完全に僕が勝利を得た様ですね」
 あかつきの空に高らかに響く明智の笑い声。
 海面には、かすむ朝もやを隔てて、水上署すいじょうしょの大型ランチが、手ぐすね引いて待ち構えていたのだ。艇上にはピストルを握った警官の群、見れば、その中に警視庁の波越警部も混っている。いまがたこのランチが到着したことを、明智はちゃんと知っていて、賊が逃げ出しても一向慌てなかったのだ。
 進退きわまった怪賊は、キョロキョロあたりを見廻していたが、やがて、「オーッ」と猛獣の様なうなり声を立てたかと思うと、いきなり手近かに開いていた昇降口から、船倉へと駈けおりて行った。一体全体何をする積りであろう。
 明智はやっぱり慌てもせず、ノソノソと賊のあとからおりて行く。
 見ると、源造は、真暗な船底で、しきりとマッチをすっていたが、やがて、パッと燃え上ったのは、油のしみた布屑ぬのくずだ。彼はそれを片手に掴んだかと思うと、一隅いちぐうに置いてあった箱の中へ、ヒョイと投げ込んだ。
「アッ、危いッ。爆発薬です」
 文代の絹を裂く様な叫声さけびごえ
 そこには賊の最後の武器が残っていたのだ。悪魔は絶望の極、恨み重なる明智を道づれに、船もろとも、我身を粉微塵こなみじんにしようと決心したのだ。まことに一代の兇賊にふさわしい最期と云わねばならぬ。
 だが、アア何というみじめなことだ。滑稽千万にも、肝腎かんじんの爆薬が、いつまでたっても、線香花火ほどの音さえ立てぬではないか。
「それを僕が見逃がして置いたとでも思うのですか。触ってごらんなさい。火薬は水びたしですよ。ホラ、ここにあるこのバケツで、海の水を一杯、さい前ぶっかけたばかりです。いつまで待っても、爆発なんかするものですか」
 恐ろしい名探偵が、とどめをさした。
「アア、俺は、俺は……」
 源造は気違いの様に、我が髪の毛をかきむしった。そして、いきなり明智に武者振むしゃぶりつき、
「お願いだ。殺してくれ。殺してくれ。この上生恥いきはじをさらすのは耐らない」
 と世迷言よまいごとをわめき立てた。
「お父さん、お父さん」
 文代も、父のあまりのみじめさに、声を上げて泣き出した。
 可哀相だ。併しそれだからと云って、この罪人を許す訳には行かぬ。まして、ゆえもなく殺すことが出来るものではない。
「何という醜態です。悪人なら悪人らしく、正しい裁きをお受けなさい」
 明智がつき放したので、源造はたわいもなく船底にぶっ倒れたが、暫くすると、ふと何か思い出した様子で、ピョコンと起上り、半狂乱の体で階段を駈け昇って、自分の部屋へ飛込んで行った。
 戸棚を探すと、あった、あった、黄色い小さな薬瓶。これさえあれば、何も生恥をさらすことはない。
 彼は目をつむって、その薬をゴクリと飲みほした。そして、グッタリと椅子に腰をおろし、空ろな目で、遠くの方をじっと見つめていた。
「アア、とうとうそれを飲みましたね」
 明智が這入って来て、やっぱりニコニコしながら声をかけた。
「どうです。苦しいですか。あの薬どんな味がしましたね。変じゃなかったですか。シャンパンみたいな味がしなかったですか」
 源造はそれを聞くと、不気味な表情で、ニヤニヤ笑った。余りのことに、もう驚く力もないのだ。笑ったかと思うと、両手を顔に当てて、さめざめと泣き出した。
「アア、ひどい。あんまりひどい。俺はこれ程のむくいを受けなければならないのだろうか。最後の毒薬まで、シャンパン酒と入れ替えて置くなんて。君は悪魔だ。……悪魔だ」
 流石の明智も、この体を見ると、少々後悔しはじめた。あまり手落ちなくやり過ぎたのではなかろうか。職務とは云え、少し無慈悲すぎたのではなかろうか。と、自から疑う程の気持になった。
 だが、悪魔はどこまでも悪魔であった。彼はもう泣いてはいなかった。泣くどころか、顔中を筋だらけにし、小鼻をいからし、口をひん曲げ、世にも恐ろしい呪いの言葉をはき始めた。
 それを聞くと、明智はやっと安堵した。やっぱり俺のやり方は正しかったと思った。それ程も、悪魔の呪咀じゅそは恐るべく憎むべきものであった。

断末魔


 彼は激怒した。半狂乱となった。はてはさめざめと泣き出した。両手を顔に当てて、うずくまって血の涙を流した。
 血の涙を流した。読者諸君、それが単なる作者の形容ではないのだ。真実、顔を覆った彼の指の間から、節くれ立った指の間から、ボトボトと真赤なしずくがたれたのだ。
 明智も、文代も、それを見るとギョッとした。くやしさに唇を噛んだ位の血の量ではなかったからだ。
「どうかしたのか。オイ、どうかしたのか」
 明智が駈け寄って、源造の顔から彼の両手を離そうとしたが、彼の手はにかわづけになった様に、離れなかった。
 彼は、うずくまった姿勢を少しも変えず、ポトポト血をたらしながら、きずつける野獣の様に、物凄く唸るばかりだ。たまり兼ねた文代は、父の側にしゃがみ、その顔を覗く様にして泣声を立てた。
「お父さん、お父さん。どうなすったの。そんなに泣かないで下さい。あたしが悪かったわ。あたしが裏切りをしたばっかりに、お父さんをこんな目に合わせて、……でも仕方がありませんわ。いさぎよく死刑になって下さいね。あたしきっと、お父さんの死刑になるその日に死んで見せるわ、そしてあの世へ行ってから、存分孝行しますわ。それで堪忍して、ね、堪忍して!」
 叫ぶ様に喋りつづける。娘の悲痛な言葉が耳に這入ったのか、源造はやっと両手を離して、顔を上げた。だが、それは決して彼の激怒がおさまったからではなかった。顔を上げると同時に、彼の右手は、いきなり文代を突飛ばした。
 文代は「アレー」と叫んで、部屋の隅へぶっ倒れる。
「馬鹿野郎め。どいつもこいつも大馬鹿野郎め。ワハハハハハハハ」
 猛獣の咆哮ほうこうするが如き罵声ばせいが、部屋中に響き渡った。
 仁王立におうだちになった源造の顔は、赤鬼の様に血に染っていた。口から溢れる血が、両手でおさえていた為に、顔中に拡がったのだ、彼は舌を噛切って自殺しようとしたのだが、気力が足らず、失敗した。怒号する声の呂律ろれつが廻らぬのは、それが為だ。
「サア、どうだ。俺はこうして死ぬんだぞ。こればっかりは邪魔が出来まい。探偵さん。何をボンヤリしているんだ。折角捕えた犯人が、死骸になってしまうぜ。ホラ、俺はこうして、もう一度、ウント舌を噛めば、のたうち廻って死んでしまうんだぜ」
 わめくにつれて、傷ついた口中から、タラタラと血が流れ、顎を伝ってしたたり落ちた。
「お父さん、お父さん。堪忍して」
 突き倒された文代が、起き上って、又しても半狂乱の父親にすがりついた。
「エエ、うるさいッ。すべたの知ったことかッ」
 恐ろしい怒号と共に、彼女は再び投げ飛ばされた。
「サア、探偵さん。見ていてくれ。俺が舌を噛み切ってのたうち廻る所を。だが、その前に云って置き度いことがある。いいか。貴様は俺に勝った積りで、得意がっている様子だが、オイオイ、ボンクラ探偵さん。俺はまだまだ負けてしまったのじゃないぜ」
 源造は、血泡に染まった口辺を、ペロペロとなめずりながら、火の様な息を吐いて、怒鳴り続けた。
「俺は死ぬ。貴様の目の前で死骸になって見せてやるのだ。併しね、それで君達が安心したら、ドッコイ飛んだ間違いだぜ。玉村親子にそう云ってくれ。俺の身体は死ぬ。だが、恨みに燃えた怨霊おんりょうは、あいつらをみなごろしにしてしまうまでは生きているのだ。あいつらの側を一すんと離れず、つきまとっているのだ」
 血に染った口が、三日月型に、大きく大きく拡がったかと思うと、彼は已に生きながら怨霊にでもなったかの様に、不気味な声で、「ヒヒヒ……」と笑った。
 流石の明智も、この物凄い有様には、ゾッと総毛立って、答えるすべを知らなかった。
「オヤ、貴様嘘だと思っているな。ホラ、その顔に……その顔に書いてある」
 血まみれの源造が、ヒョイと手を上げて、明智の顔を指さした。
「今の世に怨霊のたたりなんてあるものかと、たかをくくっているんだな。だがね、探偵さん。俺は魔術師なんだ。生きている間は、あたり前の人間に真似の出来ない芸当をやって見せた俺だ。死んだからと云って、安心は出来まいぜ。俺の霊魂は俺同様に、妖術を使うのだ。ヒヒヒ……、嘘だと云うのかね。……ヒヒヒ……嘘だと云うのかね。……見ているがいい。玉村一家の奴等がどんな風にして死に絶えて行くか。よく見ているがいい」
 云い度いだけ云ってしまうと、彼は暫く、恐ろしい目で空間を睨んでいたが、
「サア、見てくれ。見てくれ」
 と突拍子とっぴょうしもない声でわめいたかと思うと、見る見る、額の血管を恐ろしい程ふくらませ、顔中を筋だらけにして、無残な泣き顔になったが、いきなりギュンと歯を噛みしめて、その場に悶絶もんぜつしてしまった。舌を噛み切ったのだ。
「アッ」と云って、駈け寄ったが、最早やほどこすすべもなかった。
 源造は仰向きに倒れ、手足を亀の子の様にもがきながら、断末魔の苦悶に陥っていた。もう目は黒目がつり上って、白くなり、鼻は小鼻を開いて、ヒクヒクと痙攣けいれんし、口は呼吸の出来ぬ苦しさに、歯をむき出し、唇を裂いて、これ以上開き様もない程、大きく大きく開き、その喉の奥に、血まみれの肉塊が、大きなせんの様に固っていた。噛み切られた舌が、縮み込んで、呼吸を止めてしまったのだ。
 鮮血は、泉の様に、口から顎へ、顎から床へと流れ落ちた。世にかくまで無残な死に方があるだろうか。明智は見るに耐えなかった。明智でさえそうなのだ。娘の文代が、余りの恐ろしさに気絶したのは決して無理ではない。
 彼女は父の断末魔に接し、その血みどろの形相を一目見るや、ウーンとのけぞって、そのまま気を失ってしまった。
 と同時に、明智のうしろの、ドアの側にも、別のうなり声が聞え、バッタリ人の倒れる音がした。驚いて振向くと、そこにも、気を失って倒れている女性があった。妙子だ。ただならぬ騒ぎをききつけて、彼女はいつの間にかここへ忍び出て来たのだ。そして、敵ながら、源造の恐ろしい苦悶を見て、脳貧血を起したのだ。
 明智は当惑してしまった。一人は死にひんし、二人は気を失って、三人三様の姿で、ぶっ倒れている。しかも、明智の為に手を貸してくれる人とては、誰もないのだ。
 当惑して佇んでいる内に、魔術師源造は遂に動かなくなってしまった。足をふんばり、手は宙を掴んだまま、青ざめたろう人形の様にほし固ってしまった。藍色あいいろに近い死相と、その上を網目に流れる鮮血が、ゾッとする程物凄く見えた。
 部屋の中には、動くものとては何一つなかった。文代と妙子は死人も同然だし、当惑して立ちつくしている明智まで、生人形の様に動かなかった。
 石油ランプは、窓から忍び込む暁の光に、色うすれて、虫の鳴く様な音を立てながら明滅していた。部屋中に朝のたそがれが立ちこめて、陰気な情景を、一層陰気に描き出していた。

まだら蛇


 それより少し前、水上署の大型ランチが、賊の汽船に横着よこづけになった。
 艇上の波越警部は、船内の明智を、しきりと呼び立てたけれど、何の答えもなく、第一賊船の甲板上には、いつまで待っても、人影さえ現われぬので、業をにやして、兎も角ランチから汽船へと、乗移って見ることにした。
 さて、波越警部達が、どうして朝まだき、賊の汽船を襲うに至ったか。そして、際どいところで、賊が海中に身を投じて逃げ去ろうとするのを、食いとめることが出来たのか、偶然にしては少し話がうますぎるではないか。
 イヤ、決して偶然ではなかった。これもまた明智小五郎の機智が奏効そうこうしたのだ。
 前夜の三時頃、一人の巡査が月島の海岸近くを巡廻中、海辺の石垣の方から、異様なうめき声、イヤむしろ叫び声の響いて来るのを耳にした。
 不審に思って、駈けつけて見ると、海老えびの様に、両手と両足を背中で結びつけられた人物が、石垣の上を転がりながら、悲鳴を上げていた。
 用意の懐中電燈で照らして見ると、立派な背広服を着た、併し余り人相のよからぬ男が、繩目の痛さに耐え兼ねて、オイオイ泣いているではないか。
「どうしたんだ。喧嘩けんかでもしたのか」
 と声をかけながら、ふと洋服の胸を見ると、そこに手帳でも破ったらしい紙切れが、婦人の頭髪用のピンで止めてある。
「オヤオヤ、変なものが止めてあるぞ」
 と、引きちぎって、調べて見ると、紙切れには、鉛筆の走り書きで、次の様な妙な文句が書きつけてあった。
この者魔術師一味の小賊なり、直ちに警視庁波越警部に引渡されたし。
明智小五郎
「魔術師」と読んで、巡査は飛上った。しかも手紙を書いた人物が、有名な明智小五郎なのだ。
 彼はもよりの交番に飛込むと、直ちに警視庁を通じて、このことを波越警部の私宅へ報じた。警部は深夜ながら、時を移さず現場に駈けつけ、怪しの男を、手ひどく訊問じんもんした。この場合、拷問ごうもん類似の処置も止むを得なかった。そして、遂に賊の口から、委細の事実を聞出すことが出来たのだ。
 明智としては、別に警察の応援を望んでいなかったかも知れない。併し、このちょっとしたいたずらが、案外な効を奏した。
 波越警部は、水上署すいじょうしょに事の次第を告げて、大型ランチの出動を促し、水上署の警官達と共に、自から数名の刑事をひきいて、それに同乗し、夜明け前の隅田川の、黒い浪を蹴立けたて、賊船にと急いだのである。
 お話は元に戻る。波越警部は、船内から答えのないのを不審に思いながら、数名の部下と共に賊船の舷側げんそくをよじ昇り、甲板をあちこち探しながら、偶然にも、一人の死体と、二人の気絶者と、生人形の様に突立った明智小五郎との、あの恐ろしい沈黙の部屋へと近づいて行った。
「ヤ、蛇だ」
 刑事の一人が頓狂な声を立てたので、驚いてその方を見ると、外へ開け放たれたドアの下から、ニョロニョロと、小豆あずき色の、小さなまだら蛇が、這い出して来るのが眺められた。
 人々は何ぜか、ゾッとして立ちすくんだ。
 思いもよらぬ船の上で、突然蛇に出くわしたからでもあった。その蛇の頭部が、菱形ひしがたにふくらんで、毒蛇の相を現わしていたからでもあった。だが、その外に、もっと別の感じがあった。
 その蛇は形は小さかったが、背後に、何かしら大入道の様な、巨大なものの影が感じられた。ものにでも出会った様な、言葉では云い現わせぬ、一種異様の戦慄が、人々の背筋を走った。
 蛇は、立ちすくむ人々を尻目にかけて醜怪な鎌首をもたげながら、踊る様な恰好に、左右に身体を振り動かし、部屋の外へ廻って、見えなくなってしまった。
 蛇を追って二三歩進むと、開いたドアから、室内の異様な光景が眺められた。
「ア、明智さん。ここでしたか。……だが、この有様は……」
 波越警部は二の句がつげなかった。
 何という陰惨無残の活人画であろう。青ざめた蝋人形の様に、転がった二人の娘。断末魔の苦悶をそのままに、血まみれの指で、空間をかきむしった、怪賊の死体。夢見るが如く、ボンヤリ佇んでいる明智小五郎。
「明智さん。僕ですよ。波越ですよ」
 ポンと肩を叩かれて、明智はやっと正気に返った。そして、警部に問われるままに、有りし次第を語った。
「ヤ、御苦労でした。大成功です。賊の首魁しゅかいが死んでしまったのは、少々残念だが、これも天罰と云うものでしょう。手下共は皆あちらの部屋に縛ってあるのですね。一網打尽いちもうだじんでしたね」
 そこで警部は、刑事達に命じて、気絶した二人の女性をベッドのある部屋に運び、人工呼吸を施させたところ、二人とも、間もなく意識を取り戻した。それがすむと、船尾の部屋の七人の小賊共を引立てて、警察ランチへと乗移らせた。
 それらの処置が一段らく終った時、元の船室に立戻った警部が、ふと思い出して、まだゆめめ切らぬ面持の明智に云った。
「この船には蛇がいますね、賊が飼っていたのでしょうか」
 それを聞くと、明智の顔色が、サッと変った。
「エ、何ですって。あなたはその蛇を、ごらんになったですか」
 その声が、余り頓狂だったので、今度は警部の方で、びっくりした。
「見ました。小さいけれど、何だか毒蛇みたいな、いやな恰好をしていました」
「どこで? どこで見たのです」
「アア、そうそう。さっき、この部屋から這い出して来るところを見たのですよ。だが、あなたは、なぜそんなにびっくりなさるのです」
「僕は幻を見たのだと思っていました。だが、あなたの目にも映ったとすると、幻ではない。一体そいつはどちらへ行ったのです」
 警部が、船室の外を曲って見えなくなった由を答えると、明智はセカセカとその方へ歩いて行って、隅々を探し廻ったが、あの蛇が今時分までその辺にいる筈はない。
 彼は空しく引返して来て、彼らしくもない恐怖の表情を浮べながら、妙なことを云い出した。
「奥村源造の死にざまは、さっきもお話した通り、目も当てられぬ無残なものでした。あいつは恐ろしい執念に我れと我が身を苦しめて、ゾッとする様な呪の言葉を叫びつづけながら、もだじにに死んでしまったのです。……
 僕はそれを、どうすることも出来ないで、じっと眺めていました。息絶えて動かなくなった死骸から、俺の怨霊は永久に生きているのだという、あの恐ろしい叫び声が、まだ聞えて来る様な気がしました。……
 奴の指先きの、かすかな動きが、ピッタリ止まると同時に、つまり、奴が全く死に切った刹那、ふとあいつの血だらけの顔を見ると、僕は思わず逃げ出したい衝動を感じました。なぜと云って、あいつの顔には、毒々しい小豆色の小蛇が、まるでそこから吹き出した血のりのかたまりででもある様に、のたうっていたからです。……
 その小蛇は、しばらくの間、顔の上をノロノロと這い廻って、焔の様な黒い舌で、血のりをめていましたが、やがて、顎を伝って、首から床へと這い降りると、何とも云えぬ、丁度奥村源造の呪いの言葉を思出させる様な、いやないやな恰好に、鎌首をもたげながら、スルスルと僕の方へ這い寄って来るではありませんか。……
 僕はギョッとして、その辺にあり合う棒切れを掴むと、いきなり小蛇をなぐりつけようと身構えましたが、蛇もその勢に恐れをなしたのか、僕をよけて、部屋の外へ消えてしまったのです。ただそれ丈けのことです。でも、これが偶然の出来事でしょうか。船の中に蛇がいたのも変です。しかもその蛇が、あいつが息を引取ると同時に、血のりの中から湧出す様に、姿を現わしたのは決してただ事でありません。若しやあの蛇が、死体から抜け出した奴の執念深い怨霊なのではあるまいかと思うと、笑って下さい、僕は何かに身を縛られた様になって、立ちすくんだまま動けなくなってしまったのです」
 聞いていた波越警部も、その小蛇が、背筋を這ってでもいる様に、ゾッと気味悪くなって来た。
 彼等は両人とも、怪談を信じる様な、古風な人間ではなかった。それにも拘らず、何か物の怪に襲われた様な、異様な戦慄を感じたのは何故なにゆえであったか。若しや、この小蛇こそ、明智が想像した通り、怪賊魔術師が、死をもってこの世に送り出した、復讐の魔虫まちゅうではなかったのであろうか。

悪夢


 だが、兎に角事件は落着した。あれ程世間を騒がせた怪賊魔術師も、遂に自滅してしまった。八人の部下(船中で捕えた七人と、月島海岸にころがっていた一人)は、ことごと収監しゅうかんされた。賊の娘の文代は、明智に味方し、実の親を捕縛させた苦衷くちゅうをめで、いずれは無罪放免ときまっていても、一応未決監みけつかんに収容せられた。
 玉村氏は勿論、警察でも、賊の余類がどこかに潜伏していはしないかとその点は最も厳重に訊問したが、如何なる拷問も、ないものを生み出すことは出来ぬ。文代さえも、ほかに余類のないことを宣誓したからには、最早疑う余地はない。賊の一味は完全に滅亡したのだ。よし又、仮令一人や二人残っていた所で、玉村氏に何の恨もない部下のものが、利益にもならぬ他人の復讐事業を続ける筈もないのだ。
 玉村家に久し振りで明るい生活が戻って来た。彼等は地底の水責めで、半病人のていだったが、中にも妙子さんは、賊の恐ろしい最期を見て気絶してからというもの、大熱たいねつを出して、寝込んでしまった程だが、それは肉体上のこと、精神的には、又もとののうのうした幸福な日が戻って来た。
 二ヶ月余り、何のお話もなく過去すぎさった。
 怪賊のお蔭で一層有名になった、玉村宝石店は、群小同業者を圧して、メキメキと営業成績を上げて行った。家族一同の健康もすっかり恢復かいふくした。しかも、時は弥生やよい、早い桜がチラホラ咲き初めようという季節だ。父善太郎氏は勿論、兄妹達も、うって変ったこの世の楽しさに、いつしか、あのいまわしい事件のことも忘れ勝ちになって行った。
 だが、事件は果して真に落着したのであろうか。奥村源造の死に際の呪いの言葉は、単なるいやがらせに過ぎなかったのであろうか。それにしても、あの小豆色の小さな毒蛇は、一体何を意味しているのだろう。
 ある朝のこと、妙子さんと貰い子の進一少年との寝室(進一少年はこの物語の初めの方で顔を見せた切り、事件にとりまぎれ、ついその存在を忘れられていたが、彼は玉村家の血筋ではないので、賊の迫害こそ受けなかったけれど、家族一同の苦しみを、少年は少年丈けに、恐怖もし心配もしていたのだ)から、何とも形容の出来ぬ、物凄い悲鳴が、家中に響き渡った。
 まだ家族のものは、床を離れぬ早朝であったので、一同その声にハッと眼をさましたが、久しく忘れていた、いまわしい記憶が、ふと心の隅によみがえって来た。「又か」「又なにか恐ろしい事件が起ったのではないか」父も子もゾッと肌寒く感じないではいられなかった。
 かけつけて見ると、妙子さんは、白いベッドの上に半身を起して、開ける丈け開いた目で、キョロキョロとあたりを見廻していた。同じベッドの進一少年も、妙子さんの胸にしがみついて震えている。だがさいわいにも、両人ともどこも怪我をしている様子はない。
「夢を見たのか。びっくりするじゃないか」
 善太郎氏が、たしなめる様に云うと、妙子さんは強くかぶりを振って、
「夢じゃありません。たしかにこのシーツの上にとぐろを巻いていたんです。あたし、何か重くなったものだから、目を覚したのですもの。……」
「とぐろをまいていたって?」
「エエ、あなた方、今廊下で、誰かにお逢いにならなかって? 大きな、角力取すもうとりみたいな人に」
 それを聞くと、一同ギョッと色を変えた。角力取りみたいな男! 読者は記憶せられるであろう。第一回の殺人事件は、魔の様な巨人の仕業であったのだ。普通人の倍もある血の手型。闇の中を走り去った、七八尺もある様な大入道おおにゅうどう。あれだ。「角力取みたいな」という言葉が、たちまちその当時の巨人の幻を描き出した。
 その後、賊は魔術師の様な怪人物と分ったので、あれも魔術的な一種の変装であったのだろうと、警察でも、明智小五郎さえも、殊更ことさらその巨人について穿鑿せんさくをしなかった。捕縛した小賊共には一応尋ねて見たけれど、誰もその不気味なトリックを知っているものはなかった。
「角力取りだって? お前そんな奴を見たのか」
 善太郎氏はただならぬ気色けしきで尋ねた。
「エエ、たった今、そのドアをくぐって、出て行ったばかりなのよ。あなた方の目につかなかったはずがありませんわ」
「お前が、叫び声を立ててからか」
「エエ、そうよ」
「それじゃ逃げ出す暇はない。わしらは、廊下の両側からかけつけたのだから、誰かが見なければならない筈だ。一郎、二郎、お前達そんなものを見はしなかっただろうね」
「馬鹿なことがあるものですか」一郎が例によって、怪談を否定した。「僕等は勿論誰にも会やしないし、第一、そんなべら棒な大男が、家の中に這入って来る道理がないじゃありませんか。妙子は夢を見たのですよ。どうせ、胸に手でものせていたんだろう」
「イイエ、お兄さま、夢じゃないのよ。なんぼあたしでも、夢なんかでこんなに騒ぎやしませんわ」
「マアいい。それで、角力取りみたいな奴が、どうしたんだね。……君のシーツの上にとぐろでも巻いていたのかね」
 一郎はからかい顔だ。
「マア!」妙子は憎らしげに兄を睨んで置いて、父親の方へ向き直った。「お父さま、とぐろを巻いていたのは、小さな、小豆色の蛇ですのよ。ホラ、ここに、まだシーツの上がくぼんでやしないこと」
「エ、小豆色の蛇だって」
 善太郎氏は非常な恐怖の色を浮べた。彼は恐ろしく蛇嫌いであった。ヘビと聞いた丈けでも顔色が変る程であった。だが、今非常な恐怖を感じたのは、ただそれ丈けの理由ではない。
 一郎も二郎も、それを知らなかったけれども、善太郎氏は明智小五郎から、賊の最期について詳しい話を聞いていた。例の怪しげな蛇の一件も、それが賊の所謂いわゆる怨霊かも知れないという怪談めいた一節も、ことごとく聞知っていた。珍らしい小豆色の蛇、おまけに角力取りみたいな大男、いずれも怪賊魔術師を思出させる者共ではないか。彼が恐れおののいたのも無理ではなかったのだ。
「その蛇は、どこへ行った」
 彼は青ざめて、キョロキョロ身辺を見廻しながら尋ねた。
「あたしが、びっくりして飛起きると、チョロチョロとベッドを伝い降りて、ドアの方へ走って行きました。そして、その入口の所で、鎌首をもたげて、まるで人間みたいに、じっとあたしの顔を見つめているのです。それから……」
「それから?」
「それから妙なことが起ったのです。又一郎兄さまに叱られるかも知れませんわ。余り変なのですもの。あすこの鼠色の壁から浮き出す様に、一人の天井につかえ相な、大男が現われて、ハッと思う内に、スーッと、外へ出て行ってしまったのです。そして、蛇も、その人がいなくなると見えぬ様になってしまいました」
「ハハハハハハ、まるで石川五右衛門の忍術だね。鼠の代りに蛇を使って」
 案の定、一郎がお茶を入れた。
 だが、善太郎氏は笑えなかった。忍術と聞くと一層変な気持になった。
 若しや奥村源造はまだ生きているのではあるまいか。船の中で死んだのも、共同墓地へ埋葬せられたのも、彼の所謂魔術ではなかったのか。死んだと見せかけ、どこかに潜伏していて、ほとぼりのさめた今頃又姿を現わし始めたのではあるまいか。若し生きているとしたら、あいつは蛇の忍術だって使いかねぬ怪物だ。とそんなことまで考えた。
 それから一郎二郎の兄弟や、書生達に命じて、家中くまなく捜索させたが、角力取りみたいな奴は勿論、小豆色の小蛇も、どこにも姿を見せなかった。
「お父さん、気になさることはありませんよ。夢です。妙子が夢を見たのですよ」
 一郎に云われると、成程そうかとも思うので、善太郎氏は警察沙汰にする様なこともなく、その日はそのまま済んでしまったが、二三日たった夜のこと、又しても恐ろしいことが起った。しかも今度は、当の善太郎氏が襲われたのだ。
 ――庭の池の亀を見ていると、その可愛らしい亀の頭がニューッと伸びて、小豆色のまだら蛇になった。
 蛇嫌いの善太郎氏は「ギャッ」と云って、逃げ出したが、走っても走っても、蛇の頭がすぐうしろにあるのだ。そいつは亀の胴体から、紐の様に無限に伸びて来るのだ。
 庭の向うに一郎、二郎、妙子の兄妹が笑い興じていた。善太郎氏は「助けてくれ」と叫びながら、その中へ入って行った。そして、三人に囲まれながら、うしろを見返ると、細い紐の様な小蛇が、いつのまにか、胴廻り一抱えもある様な、庭一杯の大蛇に変っていた。
「アッ」と思う内に、親子四人とも、その大蛇の為に、グルグル巻きに巻き込まれてしまった。むせ返る様な蛇の体臭、ヌルヌルした肌触り。
 大蛇は、徐々に四人を絞めつけながら、空一杯の鎌首をもたげ、火焔の様な舌をはいて、頭の上から、ただ一呑みと迫って来る。……
 我れと我が悲鳴に、ヒョイと目を開くと、ベッドの中でビッショリ汗をかいていた。今のは夢であったのだ。
「アア、夢でよかった」
 善太郎氏はホッと安心して、寝返りをしようとしたが、オヤッ、何だか掛け蒲団ぶとんの上に乗っているものがある。ズッシリと重い一物だ。
 彼は鎌首をもたげて(それが夢の中の蛇とソックリの格好に見えた)その方を眺めた。眺めたかと思うと、今度こそは、本当に「ギャッ」と絞め殺される様な悲鳴を上げた。妙子の場合と同じだ。掛蒲団のシーツの上に、小豆色のまだら蛇が、とぐろを巻いていたのである。
 善太郎氏が飛び起ると、蛇は床を這って素早く逃げてしまった。と同時に、黒い影が(なんとそれが出羽ヶ嶽みたいな巨人だったではないか)スーッとドアの外へ姿を消した。あとになって考えて見ると、その大入道は、さい前から、部屋の隅で、善太郎氏の寝姿をじっと見守っていたらしいのだ。
 それから起ったことは、妙子の場合と全く同じであった。蛇も角力取りも、煙の様に消え去って、どこを探しても、影さえなかった。
 ただ違っている点は、角力取りの消え去ったあとに一枚の紙切れが落ちていたことだ。
 しかもゾッとしたことには、その紙切れには「奥村源造」と、簡単ながら、非常に恐ろしい四文字が書きつけてあった。怨霊は彼の名札を残して行ったのだ。

奇中の奇


 遂にこのことが警察沙汰になった。明智小五郎も再び事件の依頼を受けた。
「魔術師はまだ生きている」
 どこからともなく、そんなささやきが起って、全市に拡がって行った。
 警察でも、捨て置き難く、協議の結果、奥村源造の墓をあばいて、死体が紛失してはいないかと、確めて見るという騒ぎになった。
 源造の死体は、後日の為に土葬にしてあったので、着衣や骨格は元のまま残っている筈だ。そして、事実残っていた。あらゆる点が源造の死体に相違ないことを示していた。彼はやっぱり死んでいるのだ。死体が夜な夜な墓場を抜け出して、蛇使いの大入道に化けて出るなんて、ベラ棒な怪談を信じる訳には行かぬ。
 これには何かしら、死人の残して行ったトリックがある。死後必ず復讐がとげられると思えばこそ、彼奴あいつは自殺したのだ。死人が生前組立てて置いたトリックによって、罪を犯すというのは、非常に珍らしいことではあるけれど、犯罪史上先例がないでもない。
 そこで、当時まで未決監にいた一味の者共が、厳重な訊問を受けた。だが、部下の者八人が八人とも、誰一人首領の秘密を打開けられているものはなかった。文代にも今度の事は全く見当さえつかなかった。
 玉村一家の人々は、又しても極度に神経過敏となった。殊に善太郎氏は、大嫌いな蛇がからんでいるだけに、怖気おじけをふるって、極度に用心深くなった。
 家内のもの四人の寝室がとりかえられた。同じ廊下に面した四つの洋室が、奥から一郎、妙子、善太郎氏、二郎の順で割当てられた。幸いその廊下は奥が行止りになっているので、窓さえ用心すれば、通路と云っては廊下の入口たった一箇所であった。廊下の窓も四つの寝室の窓も、窓という窓は鎧戸よろいどを閉め切った上、ガラス戸はすべ釘着くぎづけにしてしまった。廊下の端には、交替で寝ずの番が立った。しかも、しんにつく時には、四人とも、各自の部屋のドアに、内側から鍵をかけることにした。
 善太郎氏は、それでもまだ安心が出来なかった。自分の家ではあるけれど、若しや知らぬ間に、部屋の中に秘密戸でも出来ていはしないかと明智小五郎の助けを借りて、四つの寝室を、床と云わず天井と云わず、壁と云わず、一寸角いっすんかくも余さず、綿密に検査して、どこにも異状のないことを確めた。
 糸の様に細く伸るという蛞蝓なめくじの様な怪虫なら知らぬ事、どんな小さい蛇さえも、全く這入る隙はなかった。まして蛇使いの大入道なぞ、絶対に忍び込む余地はない。ずこれで安心だ。と善太郎氏は思った。だが、その安心が、非常な間違いであったことが、間もなく分る時が来た。
 数日は何事もなく過去った。だが、右の用心を施してから丁度一週間目の深夜、人々は、物悲しい横笛フリュートに、ふと夢を破られた。
 アア、あのふえの音色! 曲の調子! どうして忘れることが出来よう。得二郎氏の殺された時にも、妙子や一郎が傷けられた時にも、これと全く同じ、物悲しげな笛の音が聞えたではないか。
 まっ先に飛び起きたのは二郎であった。彼がその笛の音を一番よく聞き慣れていたからだ。
 こんな時には、ドアに鍵をかけて置いたのが非常な邪魔になる。鍵を探して、もどかしくドアを開けて、廊下に飛び出して見ると、向うの端に寝ずの番の書生がボンヤリと立っている。
「誰か通りやしなかったか」尋ねて見ると、
「イイエ」
 とけげん顔だ。まさか角力取りみたいな奴を見逃がす筈はない。マアよかったと思いながら、耳をすますと、いつしか笛の音はやんでいる。
「君、妙な笛の音を聞かなかった?」
「エエ、聞きました。僕も変だと思っているのです」
「どの辺から聞えて来た?」
大旦那おおだんなのお部屋です。確かに」
 二郎はそれを聞くと、まさかとは思うものの、やっぱり気になるので、念の為に父の部屋を開けて見ることにした。
 鍵は四部屋とも共通のものであったから、外からドアは開く。なるべく音のせぬ様に鍵を廻すと、彼はソッと寝室の中を覗き込んだ。覗き込むやいなや、彼の口から何とも云えぬ恐ろしい悲鳴がほとばしった。
 笛の音で、已に目を覚ましていた、外の二人も、二郎の声に驚いて飛び出して来た。
「どうしたんだ。二郎」
「お父さんが、お父さんが、……」
 一郎も妙子もドアの前に来て、二郎の指さす所を見た。そこには、父善太郎氏が、イヤ、善太郎氏の死骸が、ベッドを転がり落ちて、倒れていた。
 両手は喉のあたりをかきむしる格好に、空を掴み、顔は苦悶に歪んで、歯をむき出し、白くなった目は、飛び出すかと見開かれていた。
 二目と見られぬ無残な形相だ。併し、それよりも一層恐ろしい一物が、死人の頸に巻きついていた。小豆色の蛇だ。源造の怨霊だ。善太郎氏は恐らく、睡眠中この蛇に頸をしめつけられて、死んだものに相違ない。
 死体の上には、例によって、早咲きの桜の花弁が、雪の様にきちらしてあった。死体を飾るこの花びら、さい前聞えた横笛フリュートの葬送曲、凡てがつての奥村源造のやり口である。
 蛇は人々の立騒ぐ物音に驚いたのか、死人の頸を離れ、スルスルと床を這って逃げようとした。
「畜生め、畜生め」
 気の強い一郎は、いきなりそれを追って、蛇の頭を革のスリッパで踏みにじった。
 蛇はピチピチ躍り廻って、一郎の足に巻きついて来たが、頭を踏み砕かれては、おしまいだ。もろくもグッタリと死に絶えてしまった。
 一方では二郎と妙子とが、父を蘇生そせいさせようと、色々介抱して見たが、善太郎氏は遂によみがえらなかった。
「だが、一体この蛇は、どこから入って来たんだろう」
 悲歎ひたんの数分間が過ぎて、やっと気を取直した二郎が云った。
 ドアには少しも隙間がなかった。庭に面した窓のガラス戸は、皆釘づけになっていた。天井の通風孔には、厳重に金網が張りつめてあった。それらを凡て調べて見たが、どこにも破損した箇所はない。
 不思議だ。蛇だけならまだしも、蛇の外に人間が入って来た筈だ。そして、善太郎氏の死に切ったのを見届けて、又煙の様に出て行った筈だ。なぜと云って、蛇には横笛も吹けないし、花びらも撒けないからである。
 魔術師奥村源造は死んでしまった。彼の死体は共同墓地で腐っている。それにも拘らず、奥村源造は生きているのだ。彼は彼自身の名札を示し、生前と寸分違わぬ不思議の手段によって、敵と狙う玉村氏を殺害したのだ。
 読者諸君、この奇怪事を何と解釈すればよいのであろうか。寝室は釘づけにした箱の様に密閉されていた。その中へ蛇がったのさえ不思議であるのに、蛇の何百倍も容積のある一人の人間が、自由に出入りしたのだ。手品の箱なら種仕掛けもあろう。だが、この部屋には絶対に仕掛けのないことが分っている。つまり、全然不可能なことが行われたのだ。
 一郎も二郎も妙子も、父を失った悲歎に加うるに、この不可解事を見せつけられ、まるで思考力を喪失そうしつしたかの如く、茫然として為すすべを知らなかった。
 兎も角も警察に知らせなければならぬ。一郎は電話室へ走って行って警視庁と明智のアパートへこのことを報じた。
 やがて、波越警部と明智小五郎がやって来た。彼等は同じ事件で、同じ玉村家で再び顔を合せた。
 綿密此上このうえもない調査がくり返された。併し、何の新発見もない。
「明智さん。あなたのご意見は? 残念ながら、僕には、まるで見当がつきません」
 波越警部は正直に打開うちあける外はなかった。
「そうです。不可解と云えば不可解です」明智は流石にいつものニコニコ顔ではなかった。「密閉されたる部屋に人間が出入り出来ないのは、云うまでもありません。仮令彼が合鍵を持っていたとしても、見通しの廊下にちゃんと番人がいたのですからね。
 しかも、あの書生は、一点疑う余地のない人物です。もう三年も此家このいえに雇われている上に、正直者と評判の男です。又仮令あの男が犯人を見逃がしたとしても、家の中には沢山の召使達がいるのだし、玄関にも裏口にも人の忍び入った形跡がないのだから、不思議はやっぱり同じ事です。
 そういう考え方をすれば、不思議は色濃くなるばかりです。併し、殺人が行われたからには、犯人が入らなかった筈はない。波越さん、あなたは『蜜柑の皮をむかずして中身を取出す法』というのをご存じですか。高等数学の数式上では、それが可能なのです。つまり、この犯罪は、中学などでは教えない、高等数学に属するものかも知れませんね」
 明智は妙なことを云い出した。一体高等数学の犯罪なんて、あるものかしら。又、高等数学を心得た犯人は、そんなに易々と密閉された部屋に入り得るものだろうか。
「目の角度を変えるのです。同じ物体でも、正面から、うしろから、横から、斜めからと、色々な見方がある。そして、見方を変えるに従ってその物体も、ある場合には、まるで違ったものに見えるではありませんか」
 波越警部は、明智の云う意味がボンヤリと分って来る様な気がした。
「では、若しやあなたは、……」
 彼はハッとした様に顔色を変えて、明智の目の中を覗き込んだ。ボンヤリと分って来た意味が余りにも意外な、恐ろしい事柄であったからだ。

異様な捕物


 さて、怨霊のたたりは、それで終ったのではない。善太郎氏の次には三人の兄妹がある。彼等は父の死を悲しんでいる暇もなく、早くもつぎばやに襲いかかる怨霊の魔力に悩まされなければならなかった。
 一郎と二郎とは、西洋風に毎朝ベッドの中で、コーヒーを飲む癖があった。その朝も(善太郎氏の葬儀をすませて数日後のことだ)小女の持って来たコーヒーを飲んだが、間もなく、烈しい腹痛を覚え、くだしを始めた。
 二人とも、その朝のコーヒーが余り苦かったので、半分程しか飲まなかったが、若しすっかり飲んでいたら、一命にも関するところであった。分析の結果、コーヒーの中に、ある毒物が混入してあったことが分ったのだ。召使一同厳重に取調べられたが、一人も疑わしい者はなかった、皆永年ながねん玉村家の恩顧おんこを受けたものばかりであった。
 今度は毒蛇ではない。あのいまわしい生物いきものは、已に死んでしまった。仮令生きていたところで、蛇が毒薬を混ぜる筈もないのだ。やっぱり人だ。だが、復讐鬼一味のものは、今は一人も残っていないことが明らかになっているではないか。とすると……とすると……いくら考えても、全く不可解と云う外はない。
 こうじ果てた波越警部は、今日も又、彼の唯一の智恵袋明智小五郎を訪ねて、残念ながらその教えを乞う外はなかった。
 開化アパートの書斎へ警部が入って行った時、明智は、机の上に大型の書物を開いて、読みっている様に見えた。グロースの犯罪心理学だ。
「読書ですか」
 波越氏が、独逸ドイツ語のページを覗き込みながら、云った。
「イヤ、本を開いて、考えごとをしていたのです。読んでいた訳ではありません」
 明智が、ボンヤリした顔を上げて、答えた。
「何を考えていたのです。奥村源造の怨霊についてですか」
「イイエ、もっと人間らしいことです。美しい幻です。僕だって、犯罪以外のことを考えない訳ではありません」
「ホウ、美しい幻? 景色ですか。絵ですか。それとも歌ですか」
 警部も柄にない云い方をする。
「もっと美しいものです。人の心です。純情です」
「純情? といいますと」
「奥村文代を、早く出獄させてやる訳には行かぬでしょうか」
「アア、賊の娘の文代ですか。成程成程、あの娘は可哀相です。あれは最初から、我々の味方だったのですからね。悪魔の様な父親との間にはさまって、どんなにか心を痛めたことでしょう。無論無罪放免ですよ。ただ時期の問題です」
「いつ頃でしょう」
「ハハハ……、あなたの美しい幻というのは、つまりその文代のことだったのですね。あの美しい文代が、あなたの為に、どれ程つくしたかということは、僕もよく知っていますよ。文代の恋がなかったら、玉村家の人は、とっくに死に絶えていたのですからね」
「僕はなぜか、あの娘のことが忘れられないのです。父親とは似てもつかぬ、身も心も美しいあれの幻が、目先にちらついて仕方がないのです」
 明智は子供らしく、ありのままを告白して、少し顔を赤らめさえした。
「仮令犯罪者の娘でも、文代なれば、あなたがどれ程親しくなさろうと、僕は苦情を云いませんよ。あんな純情の女は滅多にあるものではありません。……玉村の妙子さんと比べても、決して見劣りがしませんからね。顔も心も」
 明智は妙子の名を聞くと、なぜかまゆをしかめた。
 妙子とは嘗つてS湖畔にボートを浮べて、友達というよりは、恋人の様に語り合った記憶がある。玉村家の事件に手を染めたのも、妙子さんの切なる依頼があったからだ。波越警部も薄々それは感づいていたに違いない。と思うと、恥かしさ、腹立たしさに、彼は不快の表情を隠すことが出来なかった。今では彼は妙子がゾッとする程嫌いなのだ。文代を知ったからばかりではない。もっともっと深い理由があった。
 波越警部は、明智のこの心持を察しる程敏感ではなかった。彼は云いたいままを口にした。
「妙子さんと云えば、今度の毒薬事件について、あなたが冷淡だといって、不平をこぼしていましたっけ。もっと熱心になって下さる様に、お願いしてくれということでしたよ」
 明智は黙って、やっぱり眉をしかめたままだ。返事をするのも不愉快だという顔付である。
「イヤ、妙子さんばかりじゃない。僕も実は、あなたの本当の御意見が聞き度いのです。あなたは玉村善太郎氏が殺された時、この犯罪は高等数学だと云いましたね。僕はその後ずっと、あれが気掛りになっているのです。どう考えて見ても、その意味が分らないのです」
 波越氏は、話を本題に導いて行った。
「凡ての既成観念をうっちゃってしまうのです。赤ん坊の様な単純な頭になって、出直すのです。大人というものは、浮世の雑念に捉われ過ぎて、却って本当のことが分らない。ありありと見えている物が、見えないのです」
 明智は禅宗坊主みたいな云い方をした。探偵学もある意味で禅と同じ様なものかも知れない。こいつが、実際家の波越警部には一番苦手だ。彼は苦笑しながら、
「サア、そこが分らないのですよ。君の所謂いわゆる『盲点』という奴でしょうが、僕には、そのありありと見えているものが、まるで見えないのです。併し、あなたには、本当にそれが見えているのですか」
 と逆襲した。
「見えていますとも」
 明智は平然として答えた。
「すると、つまり、君は玉村氏を殺し、一郎二郎の兄弟に毒を盛った真犯人を、知っている訳ですか」
 警部の鉾先ほこさきは益々鋭い。併し、明智は少しも驚かぬ。
「知っているのです」
 驚いたのは警部の方だ。無理もない。この素人探偵は、警察があれ程騒いでも、片鱗へんりんさえ掴み得ぬ謎の犯人を、知っているというのだ。
「まさか冗談ではありますまいね。僕は真面目まじめなのです」
「冗談ではありません」
「では、聞かせて下さい。その真犯人は何者です。どこにいるのです」
 波越警部は、意気込み烈しくつめよった。
「今夜十時まで待って下さいませんか。決して逃げる心配はありません。かっきり十時に犯人をお引渡ししましょう」
 明智はまるで、ありふれた世間話でもしている調子だ。
「エ、エ、なんですって、すると君は、その犯人を已に捉えているのですか。どこです。どこにいるのです」
「そんなに慌てることはありません。今、その場所を云いますから、よく覚えて下さい。そして、あなた一人で、かっきり十時に、そこへ来て下さい。多分犯人をお引渡し出来ると思います。場所は本郷ほんごう区のKまちです。電車で云えば肴町の停留所で下車して、団子坂だんござかの通りを右へ、三つ目の細い横町を左へ折れて、生垣いけがきに挟まれた道を一丁程行くと、石の門のある古い西洋館があります。まるで化物屋敷みたいな、あれ果てた空家同様の建物です。その石門を入って、建物の裏へ廻ると、三つ並んだ窓があります。その一番左の端の窓が開いていますから、そこから部屋の中へ入って下さい。電燈もない真暗闇ですが、その闇の中に僕がお待ちしている訳です。少しも危険はありません。必ず一人でおで下さい」
 明智の云うことは愈々変だ。何という奇妙な捕物であろう。
「よく分りました」警部は明智の指定した道順を復誦ふくしょうして見せた。「だが、どうして君はその犯人を探し出したのです。そいつは一体何者です」
「非常に意外な人物です。無論あなたもご存じの者です」
「誰です、誰です」
 警部は思わずせき込んで尋ねる。
「……」
 明智が、波越氏の耳に口を寄せて、何事かボソボソと囁いた。
「そ、そんな馬鹿なことが!」
 警部は飛上らんばかりに驚いて叫んだ。
「あり得ないことです。いくらなんでも……何か確証があったのですか。それについて」
「詳しく云わなければ分りませんが、無論証拠もあるのです」
 それから、明智は三十分程もかかって、その真犯人を発見するに至った顛末てんまつを、詳しく物語った。それを聞いてしまうと、波越氏もやっと明智の意見に承服した。そして、十時には必ず指定の場所へ行くことを約して、辞し去った。

緋色ひいろのカーテン


 って、明智のアパートに第二の訪問者があった。玉村妙子さんだ。午前、彼女から電話で予告があったので、明智の方でも心待ちにしていたのだ。楽しからぬ待人まちびとではあったが。
 併し、妙子さんは美しかった。文代びいきの明智の目にも、顔形の美しさでは、妙子さんの方が数段まさって見えることを否定出来なかった。
 彼女は、肉体の線があらわに見える様な、絹の春服を身に纒い、顔にも手にも、念入りのお化粧を施していた。
「あたし、おそくなってしまって。お待たせしましたでしょうか」
 彼女は薄絹の手袋をぬぎながら、あでやかに笑って見せた。
 明智は外套がいとうを脱がせてやる為に、うしろに廻らねばならなかった。
「お待ちしていました。兄さん達のお加減は如何ですか」
「エエ、有難う。まだ起きられませんけど、大分いい様ですの。本当に御心配をかけまして」
 妙子はソファに腰かけながら、まだ外套を手にして立っている明智を、なまめかしく見上げた。読者も知っている通り、彼女は明智を愛していた。彼の方で避ける程、追いすがって来る様に見えるのだ。
 明智は妙子のソファと向き合った長椅子に身を沈めた。
 妙子はお礼やら、父を失った悲しみやら、えたいの知れぬ犯人の恐れやら、女らしくクドクドと話し続ける。
 いつまで待っても、用件が分らぬので、明智はとうとうしびれを切らして、ぶっきら棒に尋ねた。
「で、ご用件は?」
 妙子は「マア!」という表情で、やさしく睨んで見せたが、
「外の用件がある筈はございませんわ。父を殺した犯人を探し出して頂き度いのです。そして、私達兄妹を安心させて頂き度いのです。あんな毒薬騒ぎが起る様では、怖くって、オチオチ邸にいることも出来やしませんわ。……その後何か手掛りがございまして? 安心の為に詳しくお話し下さいませんでしょうか」
「そんなに御心配なさらなくても、もう明日からは、決して何事も起りませんよ」
「マア、それでは何か判りましたのね。聞かせて下さいまし。どうか」
 妙子は熱心の余り、我を忘れたかの様に、ソファを立って来て、長椅子に明智と膝を並べて腰かけた。
「ね、それを、聞かせて下さいませんか?」
 彼女は、さも無邪気らしく、明智の膝に手をかけて、その上によりかかる様に身体をくねらせて、下から、明智の顔を見上げるのだ。
 明智は、ピッタリと密着した相手の膝の、すべっこい暖味あたたかみを感じた。彼自身の膝の上で、グリグリと蠢く相手の指先を感じた。そして、我顔の真下にある彼女の唇から立昇る、なまめかしき薫りを呼吸した。
 アア、何という大胆な令嬢であろう。
 明智は極度の困惑を感じた。妙子さんは美しいのだ。彼女の身体はなまめかしいのだ。そしてその愛すべき生物いきものが、今彼の膝の上に、身を投げかけているのだ。
 彼は心の底から湧き上って来る身震いを、どうすることも出来なかった。恐ろしいのだ。何とも形容し難い恐怖だ。
「そんなに聞きいのですか」
 明智はやっとおのれを制して云った。
「エエ、聞きとうございますわ」
 恐ろしいことには、物を云う度に、妙子の赤い唇が段々接近して来るのだ。
「犯人が分ったのです」
「マア、犯人が……」
 驚きの余り、妙子の顔が、一刹那青ざめて見えた。
「何者でございますの? その、犯人は」
 まるで救いをでも求める様な、弱々しい表情になって、なよなよと明智の膝にもたれながら、少し呼吸をせわしくして尋ねる。
「知り度いですか」
 明智はよりかかって来る、柔い肉塊を、ソッとかわす様にして云った。
「エエ、無論知りとうございますわ」
「あなた、勇気がおありですか」
「マア」妙子は息を引いた。「勇気ですって? どうして勇気がるのでしょう」
「犯人は、ある空家にいるのです。そいつの顔を見る為には、淋しい空家に入らねばなりません」
「でも、そんな。あたし犯人を見たいとは思いませんわ。ただ、捕まえて下されば……」
「無論捕縛します。併し、あなたは犯人が憎くはありませんか、一目見てやり度いとは思いませんか」
「エエ、父のかたきですもの、憎くない筈はございません。でも、そんな怖い男に逢うのは……」
「イヤ、男ではないのです。犯人は女性なのです。しかもあなたのよく知っている人です。面と向ってあなたに危害を加え得る様な、強い女ではありません。その上相手に悟られぬ様に、こっそり隙見すきみをする方法もあるのです」
「マア、あたしの知っている女の人でございますって? 誰でしょう。ちっとも心当りがないのですが」
「非常に意外な人物です」
「アア、若しや奥村源造の娘の文代ではありませんか」
「違います。文代はまだ未決監にいるのです。もっともっと意外な人物です。今夜十時になれば、そいつは捕縛されるに極っています。明朝は世間に知れ渡ってしまうのです。若し、それまで待ち切れなかったら、その空家へ行ってソッと隙見をなさいませんか。波越さんも僕も無論そこへ行くのです。あなたは多分犯人が逮捕される現場を見ることが出来ましょう」
「それは、一体どこの空家でございますの」
 妙子は、もう明智の膝を離れて、犯人逮捕の吉報に夢中になっていた。無理もない。父が惨殺されたばかりか、奥村源造には、彼女自身も、度々死ぬ様な目に合わされている。そいつの片割れが発見されたとあっては、昂奮しないではいられぬのだ。
 明智は、さいぜん波越氏に教えた通りの道順を、繰返した。併し、妙子には裏の窓から入れとは云わなかった。
「その石門を入ると突当りに玄関があります。ドアを押せば開く様になっています。あなたは、一人でそのドアを入って、廊下を真直に歩いて行くと、開け放った広い部屋に出ます。その部屋の右側に、緋色のカーテンが下っている。カーテンの向側には、別の小部屋があって、電燈がともっています。あなたは、緋色のカーテンの合せ目を開いて、そっと中を覗けばよいのです。そこに犯人がいるのです」
 何という奇妙な方法だろう。妙子も波越警部と同じく、なぜそんな廻りくどいことをするのかと、不審を抱かないではいられなかった。
「犯人を見ようと思えば、今僕の云った順序を、完全に守って下さらねばいけません。若し間違うと、非常に困る事が起るのです」
 明智は更らにもう一度、空家への道順と、隙見の方法を繰返した。
「でもあたし、何だか気味が悪うございますわ。あなたとご一緒に行けるといいのだけれど」
「それは駄目です。あるトリックによって、犯人をその部屋へおびき寄せるのが、僕の仕事なのです。そして、波越警部に引渡すまでは安心が出来ません」
「では、波越さんにお願いして、おとも出来ないでしょうか」
「それも駄目です。そんなことを頼めば、なぜ秘密を打開けたかと、僕が叱られますよ。あなたは一人でいらっしゃい。でなければ、酔狂すいきょうな真似はおよしになった方がよいでしょう」
 取りつくしまがなかった。
 彼女はなおも執拗しつように、犯人の名を聞かせてくれとせがんだけれど、明智は固く口をつぐんで語らなかった。
 明智に分れてアパートを出た妙子は、その不気味な空家へ行って見ようか、どうしようかと、とつおいつ、長い間思案をしていたが、とうとう行って見ることに心を極めた。
 早く敵の顔が見たいという憎しみ、一体誰だろうという好奇心、小説的な冒険の誘惑、色々な心持が、彼女を行け行けとそそのかした。併し、若しそれ丈けの理由であったら、彼女は行かなかったかも知れない。
 外に一つ、どうしても行かずにはいられない理由があった。翌朝まで待てば分ることを、その僅かの時間さえ待っていられない、せっぱつまった気持があった。見るのも恐ろしい。だが、待つのは猶更なおさら恐ろしい。何とも云えぬいらだたしさに、彼女は息づまる様な苦悶を味った。
 彼女は、わざと肴町で自動車を降りて、団子坂通りを指定の空家へと歩いて行った。
 横町を曲ると、陰気な住宅街で、頭より高い生垣が、両側にまるで八幡やわた藪不知やぶしらずみたいに、うねうねと続いていた。
 闇夜は距離を二倍に見せる。さ程でもない道のりを、妙子は、この生垣の中で、迷児まいごになってしまうのではないかと思った程だ。
 だが、やっとそれらしい石門が見つかった。星明りにぼんやり見える西洋館の屋根は、真黒な大入道の様であった。余りの不気味さに、
「いっそ帰ろうかしら」
 と引返しかけたが、といって、犯人の隙見をあきらめる気にはなれぬ。単なる好奇心なら、引返しもしたであろう。だが、彼女には、彼女の外は誰も知らぬ、好奇心以上の、せっぱつまった必要があったのだ。
 足音を忍ばせて、門を入り、雑草の生いしげった地面を、玄関へとたどりついた。
 押して見ると、ドアは音もなく開いた。真直まっすぐな廊下の突当りに、幽かな光が見える。多分あれが犯人のいる部屋なのであろう。
 心臓が異様に波打ちはじめた。
 アア、もう少しで、ほんの数秒の後には、真犯人を見ることが出来るのだ。と思うと、妙子は苦しさに息がつまり相だった。身がすくんで、ヘナヘナとくずおれ相な気がした。
 だが、全身の気力をふるい起して、やっとそれに打勝った。
 彼女は、広い廊下を抜足ぬきあし差足さしあし、まるで彼女自身が、何かの怨霊ででもある様に、音もなく、奥へ奥へと進んで行った。
 明智の言葉にたがわず、広い部屋に出た。右手を見ると、向側むこうがわの電燈が、緋色のカーテンを、美しく照らしている。
 愈々いよいよその時が来たのだ。
 あのカーテン一枚を隔てて、向側には、恐ろしい犯人がいるのだ。
 仮令相手が女にもせよ、気づかれては大変だ。絹ずれの音も、幽かな空気の動揺も、注意しなくてはならぬ。
 妙子はつま先で歩きながら、息を殺して、カーテンに近づいた。
 じっと聞耳をたてても、何の気配も感じられぬ。犯人は、身動きもせず、誰かを待受けているのではなかろうか。誰を? 若しかしたら、妙子その人を待受けているのではないか。と思うと、身体中の産毛うぶげが、ゾーッと逆立った。
 だが、ここまで来たものだ。今更ら躊躇している場合でない。入口で手間取ったので、約束の十時はとっくに過ぎた筈だ。
 妙子はソッとカーテンの合せ目に指をかけた。そして、ジリリ、ジリリ、動くか動かぬか分らぬ程の速度で一ずつ一分ずつそれを開いて行った。

真犯人


 糸の様な、細い細い光線が、合せ目を漏れて、妙子の青ざめた顔に、一筋の線を引いた。
 彼女は血走った目で、その隙間から、向うの室内を覗いた。細く区切られた眼界には、何者の姿も見えぬ。
 息をつめて、不格好な逃げ腰になって、一分ずつ、一分ずつ、カーテンの隙間を拡げて行った。
 アア、今にも、カーテンの蔭に待構えている曲者が、パッと、猛獣の様に飛びかかって来るのではあるまいか。
 妙子はつめている息が、そのまま絶えて、死ぬのではないかと思った。心臓の鼓動がピッタリ止ってしまった様な気がした。
 だが、不思議なことには、カーテンのむこうには、人影もない。いつまで待っても、飛びかかって来る気配はせぬ。
 少しずつ大胆になりながら、彼女はカーテンを段々広く開いて行った。もう部屋の隅々まで一目に見える。誰もいない。といって、人の隠れる様な場所も見当らぬ。
 カーテンの合せ目から、ひょいと首をつき出して、グルッと部屋の中を見廻した。全く空っぽだ。
 まさか、明智が、妙子さんをかついだ訳ではないだろう。でも、あんなに時間に念を押して置きながら、この有様は少し変だ。
 彼女は、サッとカーテンを開いて、部屋の中へ這入って行った。イヤ、這入って行こうと、一歩足を踏み出した。
 踏み出すと同時に、彼女はギョッと立ちすくんでしまった。
 部屋の正面にも、今彼女が開いたのと同じ色のカーテンが下っていた。それが、まるでこちらの真似をする様に、サッと開かれ、その向うから一人の人物が――美しい女が現われたのだ。
 明智は犯人は女だと云った。すると、この娘が恐ろしい殺人者なのであろうか。
 妙子は真青になって、両眼を飛出す程見開いて、じっと相手を見つめた。
 相手の方でも、余程驚いたらしく、やっぱり異様に青ざめて、びっくりした目でいつまでもこちらを見つめている。
 ほの暗い電燈の光が、二人の女の、不可思議な対面を、異様な陰影で描き出していた。
 暫くすると、相手を見つめている妙子の顔に、ホッと安堵の色が浮んだかと思うと、彼女は突然ゲラゲラ笑い出した。しかも、その次の瞬間には、ハッと何事かを思い出した様に、世にも恐ろしい恐怖の表情を示して、「キャーッ」と本当に絹を裂く様な、鋭い悲鳴を上げた。
 その声が、ガランとした部屋の中に、物凄くこだまして、余韻よいんも消えやらぬ内に、妙子は已に、長い廊下を玄関へと走っていた。幽霊にでも追っかけられているものの様に、あとをも見ず、死にもの狂いに走っていた。
 と、玄関の暗闇の中から、影の様な人物が、ニューッと現われて、妙子の行手に立ちふさがった。
「アハハハハハハハ、逃げようたって、逃げられやしないぜ」
 その男はふてぶてしい声で云って、ギュッと妙子の肩を掴んだ。巨大な手の平、恐ろしい力、小雀の妙子は、振り切る力もなく、ヘナヘナとその場へくずおれてしまった。

壁の穴


 丁度その時、赤いカーテンの部屋の隣室では、電燈もつけぬ真暗な中に、三人の人物が、妙な格好で一かたまりになって、古壁の小さな穴を覗いていた。
 誰があけたのか、壁に一すん程の丸い穴があって、そこから隣の部屋が見通しなのだ。
 穴の正面に例の妙子の開いたカーテンが下っているので、覗いている三人には、妙子が、外からそのカーテンを開いてから、悲鳴を上げて逃げ出すまでの、一切の挙動、表情が、手に取る様に眺められた。
「明智さん、妙子はどうして、あんな恐ろしい悲鳴を上げて、逃げ出したのです」
 妙子の姿が消えて、やっとしてから、三人の内の一人が、壁の穴から目を離し、囁き声で云った。
「あの顔を見ましたか」
 明智と呼ばれた、黒い影が聞き返した。
「エエ、見ました。僕は妹があんな恐ろしい顔をしたのを、見たことがありません。何だか全く別の女みたいな気がしました」
 妙子を妹と呼ぶのを見ると、この人物は、玉村家の兄弟の一人に相違ない。
「人間は、一生の内、くまれに、ああ云う表情を示すことがあるのです。あの表情の意味がお分りですか」
 明智の声が云った。
「恐怖の表情です。人間の顔があんなにも恐怖を現わすものかと思うと、怖くなりました」
 別の声が囁いた。どうやら玉村一郎らしい。すると、最初の一人は弟の二郎であろうか。それにしても、彼等は一体何の為に、この空家へ忍込んで、壁の穴なぞ覗いているのであろう。
「ですが、妹は何を見て、あんなにも驚き恐れたのでしょう。僕は不思議で仕方がないのです」
 一郎が云った。
 すると、彼等は壁の穴の位置の関係で、妙子が見たさっきの女の存在を、少しも気づかないでいるのだ。
「犯人を見たのです。お父さんを殺した真犯人を見たのです」
「エッ、何んですって、ではやっぱりこの向うの部屋に、その真犯人がいるのですか。でも、この穴から見たのでは、部屋の中は、全く空っぽじゃありませんか」
 二郎が不審らしく聞返した。
「本当に、この向うに犯人がいるのですか。いるのなら、なぜ躊躇なさるのです。早く捉えなければ、……」
 一郎も責める様に云った。
「躊躇している訳ではありません。今頃は波越警部が、犯人を捉えている時分です」
 アア、そう云えば、さい前、波越氏が、明智と何か囁き交して、どこかへ立去った。成程犯人を捕えに行ったのか。併し……
「それにしても、変だな。犯人はこの隣の部屋にいるのじゃありませんか。それに、覗いて見ても、部屋の中はいつまでも空っぽで、犯人は勿論、波越さんが這入って来た様子もありませんよ」
 二郎が穴を覗きながら、囁く。
「空っぽ? エエ、その通り、そこには誰もいないのです」
 明智が妙な云い方をした。
「では、さっき、妹が犯人を見たとおっしやったのは?」
「妙子さんは確かに犯人を見たのです。併し、その部屋に犯人が隠れていた訳ではないのです」
 妙子は犯人を見た。しかも、そこに犯人はいなかった。論理的に全く両立し難い事実だ。謎々ではあるまいし、明智は一体何を云おうとしているのだろう。
「ハハハハハハハ、不審に思われるのはごもっともです。こちらへいらっしゃい。隣の部屋へ行って見ましょう。謎はすぐ解けますよ」
 明智が大声に笑ったので、他の二人はヒヤリとした。若し犯人に聞えたらどうするのだ。
 明智が先に立って廊下へ出たので、一郎二郎の兄弟も、分らぬながらあとに続く。グルッと一廻りすると、今まで穴から覗いていたカーテンの部屋に出た。
 三人はさい前妙子がした通り、真赤なカーテンの外側に立って、その合せ目をソッと開いて見た。
「サア、這入ってごらんなさい」
 明智に云われて、先ず部屋に踏み込んだのは二郎であった。
 と同時に、部屋の突当りに下っているもう一つのカーテンが、サッと開いて、一人の洋服男が現われた。二郎は、その男と顔を見合せて、ハッと立ちすくんだ。
 が、次の瞬間、彼は極り悪げに笑い出した。
「フフフフフ、ナアンだ、鏡か」
 部屋の正面の壁に、大姿見おおすがたみが懸っていたのだ。カーテンも、そこから現われた人物も、みなこちら側のそれが写って見えたに過ぎない。先方の男というのは、つまり二郎その人であったのだ。
 アア分った。さい前妙子が驚いたのも、この鏡であったのだ。彼女はそこに写った我が影に恐れて逃げ出したのだ。
 だが、そうだとすると、犯人は一体どこにいるのだ。
「さっきあなたは、妙子が犯人を見てびっくりしたのだとおっしゃった様ですが」
 一郎が、少し青ざめて明智の顔を見た。
「そうです」
「そいつはどこへ行きました」
「どこへも行きません。最初からいないのです」
「すると…………」
 一郎にも二郎にも、明智の云う意味が、おぼろげに分って来た。併し、それは口にすべく、余りに恐ろしい事柄だ。
「妙子さんは、この鏡の中に、恐るべき真犯人の姿を発見したのです」
 明智がとうとうそれを云った。
「アア、それでは……、まさか、まさか」
 一郎が、思わず叫んだ。
「ではあなたは、妹が実の父を殺した犯人だとおっしゃるのですか」
 二郎が恐ろしい見幕けんまくでつめ寄った。
「今、その証拠を、あなた方にお目にかけたではありませんか」
 明智は冷静な調子で答えた。
「妙子さんはこの鏡を見て、最初ギョッとしたが、次の瞬間には、今二郎君が笑った様に笑いました。鏡ということが分ったからです。併し、更らにその次の瞬間には、あの女の顔から、笑いの影がサッと消えて、恐ろしい恐怖の表情となり、その口からはたちまちゾッとする様な悲鳴がほとばしりました。どこの世界に、鏡に写った自分の影を、あの様に恐れる者がありましょう。鋭い彼女は、咄嗟の間に、僕のトリックに気附いたのです。僕が、このカーテンの蔭に犯人がいると云ったのは、つまり鏡に映った妙子さんその人を意味していたことを悟ったのです」
 兄弟は、彼等の妹の顔に現われた、この世のものならぬ恐怖の表情を見た。なる程、そう云われて見れば、妙子自身が真犯人ででもなければ、あんな恐ろしい表情をする筈はない。併し、肉親の娘が、その父を殺すなんて、考えられないことだ。
「動機は? 妙子には父を殺す動機がありません」
 二郎が叫んだ。
「動機ですか、至極しごく簡単ですよ」明智は少しも騒がぬ。「妙子はあなた方の妹でも、善太郎氏の娘でもなかったからです」
 低い声であったが、これは実に晴天せいてん霹靂へきれきだ。一郎も二郎も、余りに意外な明智の言葉に、あっけにとられて、暫くは口も利けなかった。
 明智ともあろうものが、出鱈目でたらめを云う筈はない。さっきの妙子の異様な表情といい、明智の断言といい、どうも嘘ではないらしい。
「では妙子は一体誰の子です。どうして僕の家にいたのです。僕はあれの赤ん坊の時分から知っているのですよ」
 一郎がなおも抗弁した。
「びっくりしてはいけません。妙子は怪賊奥村源造の実の娘です」
「え、そんな馬鹿なことが。…………」
「イヤ、お疑いなさるのも無理はありません。併し、それは僕が調べ上げた間違いのない事実です。生れたばかりの赤ん坊が、病院で取り替えられたのです。しかも、その取替えは、奥村源造の深い企らみであったのです。彼はある看護婦を買収して、偶然同じ頃生れた、自分の娘と、あなた方の本当の妹さんとを、ひそかに取替えさせたのです」
「エ、エ、すると、若しや、あの文代という賊の娘が……」
「そうです。文代さんこそ、あなた方の血を分けた妹さんです。これには確かな証人があります。当時の看護婦が未だ達者でいるのです」
「併し、なぜそんな恐ろしい真似をしたのです。僕には理由が解りません」
 二郎が口を挟む。
「源造の恐ろしい復讐心です。彼はこの取替え子によって、我が実の娘を玉村家の人として成長させ、物心つく頃になって、ソッと親子の名乗りをとげたのです。そして、復讐事業の手助けをさせたのです。実に恐ろしい企らみではありませんか。あなた方が真実の妹として愛していた、あの妙子さんこそ、復讐鬼の美しい廻し者であったのです。実の子がかたきの家庭の一員と信じられている、悪魔にとってこれ程好都合なことはありません」
 云われて見ると、一郎も二郎も、段々思い当る所があった。実の妹と信ずればこそ、別に疑いもしなかったものの、考えて見れば、妙子の挙動には、日頃どことなくおかしい点がないでもなかった。
 明智は説明を続ける。
「妙子が賊の娘であったとすれば、今までどうにも解釈の出来なかった、様々の不可思議がたちどころに氷解するではありませんか。犯人はいつも家の中にいたのです。いくら厳重に戸締りをし、見張りをつけても、実の娘が犯人なのだから、防ぎ様がないのです」
「分りました、では、僕達を妙子に会わせて下さい。直接あれの口から聞き度いのです。妙子はさだめし波越さんの手で捉えられているのでしょうね」
 二郎が、明智の説明を、もどかしげに打切って尋ねた。
「そうです。波越君は、妙子を捉えて、あちらの部屋で待っている筈です。そこには妙子の外に意外な共犯者や、さっき云った元看護婦のお婆さんなども、呼びよせてあるのですよ」
 明智は云いながら、もうその方へ歩き出した。

意外な共犯者


 玄関脇の客間風な一室に、いつの間にか明々あかあかと電燈が点ぜられ、その光が廊下まで流れ出していた。その中から甲高かんだかい女の声が、漏れ聞えていた。
 三人は明智を先頭に、そこへ入って行った。
 と見ると、夜叉やしゃの様に荒れ狂っている、一人の女性があった。妙子だ。彼女は邪悪なる正体をむき出しにして、彼女を捉えた波越警部に食ってかかっているのだ。
「妙子さん、虚勢を張っても駄目です。君の兄さん達は、さっき君が鏡を見て顔色を変えた有様を、すっかり覗いていたのです。あの恐ろしい表情なり挙動なりが、何よりも雄弁な証拠です」
 明智が半狂乱の妙子に憐む様に云い聞かせた。
「オオ、兄さま、あたしどうしましょう。こんな、ひどいうたがいを受けてしまって」
 妙子は、兄達に対して、最後のお芝居を演じて見せた。
 一郎も、二郎も、もうその手には乗らなかった。彼等は昨日まで妹であった女を、怖い目で睨みつけた。
 明智も妙子のお芝居には取合わず、さっきの説明を続けた。
「妙子さん、今僕が、あなたのして来たことを、兄さん達に、かいつまんでお話ししますから、間違っている点は訂正して下さい。君は、奥村源造の実の娘であることを知ると、お父さんや兄さん達にあだを報いる為に、日夜にちや心を砕きました。復讐事業に着手する前に、君が先ず計画したのは、この僕を懐柔かいじゅうして、邪魔立てさせない様にすることでした。S湖畔のホテルで、僕と偶然に出合ったと見せかけ、君の美しさで、あらかじめ僕の活動を封じることでした。……
 やがて福田得二郎氏殺害事件が起りました。福田氏の下手人は、妙子さん、あなたでした。横笛フリュートの葬送曲、死体にまき散らした花びら、血なまぐさい中にも、女性的な感傷を忘れなかった君の心持を、僕は面白く思います。犯罪学上に特異なる一例を残すことでしょう。……
 それから、君は波越君に対して、僕をS湖畔から電話で呼び寄せることを希望しました。これは無論、途中で僕を引っさらって、事件の落着するまで、例の汽船の中へ幽閉して置く為でした。……
 それから、矢つぎ早に様々の陰謀が計画され、玉村家の人達は、屡々しばしば生命をおびやかされました。君の実父の奥村源造は外から、君は邸内にって、あい呼応し、着々として復讐事業を進めて行ったのです。……
 併し、若し君が少しでも疑われる様なことがあったら、源造の四十年の計画もたちまち水の泡です。大事の上にも大事をとらねばなりません。そこで、君はうら若い娘にも似げなく、大胆不敵な決心をしました。即ち、玉村一家の人が襲われる場合には、必ず君が第一の犠牲者になって見せることです。そうして、完全に疑いをさけようとしたのです。現に君は、二度もひどい負傷をしています。あの様な手傷を負ったその人が、実は犯人の片割れであろうなどと、誰が考えましょう。実に恐ろしい、思い切った欺瞞ぎまん手段でした。君の様な勝気な娘さんでなくては真似も出来ない芸当です。……
 併し、君はいつも手傷を負いながら、その負傷の箇所が、生命には別状ない安全な部分に限られていた。この点が先ず僕の注意をいたのです。そこへ持って来て、最後の水責めの際、君丈けは、抜け穴から救い出され、船中へ連れ去られた点、源造は君を人質にしたのだと言っていたけれど、何となくおかしく思われたのです。……
 そういう訳で、君は、あらゆる不可能事を可能にする魔術師の役目を勤めた。例えば、賊からの手紙なりその他の通信なりが、幽霊の様に、ヒョイヒョイと玉村家の邸内に現われた奇怪事なども、君がその通信の配達人を勤めていたとすれば、実に何の訳もないことです。謎は忽ちに解けるのです。……
 蛇の一件にしろ、善太郎氏殺害にしろ、君なれば実に易々やすやすと行うことが出来た訳です。なぜと云って、お父さんは、むしろ君の身を案じて、寝室も隣同士にしていた位ですからね。なる程廊下に書生が見張り番をしていた。併し、令嬢であるあなたが、お父さんの部屋へ這入ったところで、少しも疑念を抱く筈はありませんし、又買収という手もあったのです。……
 サア、これで大体あなたの悪事を数え上げた訳です。どこか間違った点がありますか」
 明智が語り終ると、妙子はてばちに、落ちつき払って、抗弁を始めた。
「ホホホホホホ、まあ流石さすがに見事な推理でございますわね。でも、卑怯ですわ。謎の解けない苦しまぎれに、あたしが玉村家の娘でないなんて。ホホホホホホ、あんまり馬鹿馬鹿しくて」
「おしなさい。今更ら何とごまかしても、もう駄目です。僕はすっかり調べ上げたのです。れっきとした証人もあるのです」
 明智はあくまでおだやかな調子で云う。
「マア、証人ですって? それは一体誰ですの」
「K私立病院の看護婦です。あなたの生れる時お世話をした看護婦を発見したのです。その女が、奥村源造から莫大な礼金を貰って、殆ど同時に出産した文代さんと君とを取替えたことを、とうとう白状したのです」
「マア、古めかしいお話ですこと。二十年も前の昔話が、何の証拠になりましょう。どんなこしらえごとだって仕組めますわ」
「ハハハハハハ、君はたかをくくっているのですね。耄碌もうろくしたお婆さんの証言なんか、どうだって云いくるめられると思っているのですね。だが、妙子さん、証人はその看護婦一人ではないのですよ」
「アラ、まだございますの? 随分お集めなさいましたのね」
 妙子は愈々ふてぶてしい態度を見せた。
 明智は唇の隅に妙な笑いを浮べながらドアを開けて、隣室に待たせてあった人物を招き入れた。そこには、薄暗い電燈の下に、ひどく時代の違った二人の男女が、神妙に呼ばれるのを待っていたのだ。
 入って来たのは、元看護婦の老婆と、彼女に手をとられた幼い子供であった。
「アラ、進一ちゃん!」
 妙子はその少年を一目見ると、思わず甲高い叫び声を立てた。進一というのは、読者も知っている様に、妙子が貧家のみなし児を貰い受けて、我子の様にいつくしみ育てていた、まだいたいけな少年である。

大団円だいだんえん


「みなさん」明智は一段声を高めて始めた。「妙子さんは、悪事に荷担して人殺しまでしたとは云え、実父である源造のめいを守って、祖父の復讐をとげたのですから、この人の立場としては、ある意味では尤もな点もあり、寧ろ同情すべきですが、妙子さんがその復讐の手段として、罪もないこの少年を、手先に使い、日夜側に置いて、一個の恐るべき野獣として育て上げた点だけは、人道上断じて許すことの出来ない罪悪です。……
 波越君、福田氏殺害事件と、今度の玉村氏惨殺事件に出没した例の巨人の秘密はここにあったのです。妙子さんは進一少年に異様な教育を施した。この子供の頭から、あらゆる道徳観念、正義観念を追い出して、遠い先祖の野獣から伝わった、残忍刻薄な性質ばかりを発達させて行った。そして、全く良心の影さえ持たぬ、一個の陰険極まる小野獣を作り上げてしまったのです。……
 実に戦慄すべき事実です。育て方によっては人間がこんな怪物になり切ってしまうかと思うと、ゾッとしないではいられません。一見普通の子供と少しも違わぬこの進一少年は、人殺しをむしろ快楽とする異常児です。田舎の子供がかわずを殺して喜ぶ様に、この少年は人間の胸に短刀をつきたてて喜ぶのです。なにしろまだ物心もつかぬ幼児です。その上貧家に育ち、早く両親に分れて、道徳的訓練を微塵みじんも受けて居らぬ。そこへ、命の親とたのみ親しむ妙子さんから、不思議な教育を受けたのです。無邪気な殺人鬼となりおおせたのも無理ではありません。……
 福田氏の場合も、玉村氏の場合も、殺人は内部から完全に締りをした、出入口のない部屋の中で行われました。これが解き難い謎として我々を苦しめたのです。ところが、こんな小さな子供が共犯者であったとすると、あの謎もなんなく解くことが出来るのです。ドアの上部の換気用の回転窓。あれです。あんな狭い所から人間が出入りしようとは、誰も考えても見ません。どんな小柄の大人にだって、これは全く不可能だからです。ところが進一少年の様な幼児おさなごとなると、問題は別です。骨の細い幼児なら、あすこをくぐって、部屋へ出入りすることが出来るのです。アア何という巧みな思いつきでしょう。如何に疑い深い警察官でも、まさかこんな、九歳や十歳の幼児が共犯者だとは気がつきませんからね。……
 妙子さんは進一少年をつれて被害者の部屋に這入り――這入るのは家族のことですから、訳はありません――殺害の目的を果し、例の笛を吹き花を撒いて死者を葬ると、ドアの鍵を進一少年に渡して、妙子さんは先に部屋を出、少年は中から戸締りをして置いて、猿の様に回転窓に昇りつき、そこから、外の廊下へおりて逃げ去る、という順序です。
 例の巨人は、妙子さんが進一少年を肩の上にのせ、その上からマントをはおって、逃げ出して見せ、殺人事件に奇怪な怪談味をそえ、警察をまどわせる手段としたのです。壁に押されていた巨人の手型も、その怪談を一層本当らしく見せかける為の拵えものに過ぎません。……
 妙子さん、これで僕は、あなたの秘密をすっかり曝露ばくろした訳です。それに証人は二人も揃っています。いくら君が強情を張っても、もうのがれる道はありませんよ。それとも、ここで進一君に、殺人の順序を尋ねて見ましょうか。イヤ、実演させることも出来るのです。この子は、もうすっかり僕になついて、僕の命令なら何だってやりますよ」
 妙子は、今や絶体絶命の土壇場である。彼女の青ざめた額には、不気味な玉の汗が浮び、つり上った目は、真赤に血走っていた。
 彼女はじっと空間を見つめて、無言のまま立ちつくしていたが、やがて、その打ちふるう右手が人知れず、虫の這う様に、少しずつ、胸の方へ上って行った。
「アッ」
 と云う叫声、飛鳥の様に飛びついて行く明智。突きとばされて、よろよろと倒れる妙子。
 人々は何事が起ったのかと、あっけにとられて眺めるばかりだ。
「何をするのです。危いじゃありませんか」
 明智は、妙子の手からもぎ取ったピストルを、てのひらの上でもてあそびながら、叱りつけた。
「一郎君と二郎君を道づれにして、自殺をする積りだったでしょう。君はまだ執念を捨てないのですね」
「アア、あたしは自殺をすることも出来ないのですか。あんまりです、あんまりです」
 妙子は床の上に身を投げて、遂に泣き伏してしまった。
 雄弁な自白だ。明白な服罪ふくざいだ。それにしても、宝石王玉村家の令嬢と持てはやされ、女王の様にふるまっていた妙子が、又、稀代きだい毒婦どくふとして、世間を、警察を、思うがままに飜弄していた彼女が、この服罪は余りと云えばみじめであった。
 一郎と二郎とは、昨日まで我が妹といつくしんだ、妙子のこの有様を見るに耐えなかった。
「父を殺した憎い奴ですが、かりそめながら兄妹のちぎりを結んだ女です。どうかいたわってやって下さい。……オイ、妙子、もう覚悟を極めるがいい。いつまで泣いていたところで、仕方がないのだから」
 一郎が、恨みを忘れて、やさしく声をかけた。
 だが、俯伏した妙子は、その慰めの言葉も聞えぬもののごとく、毒婦にも似合わしからぬ、未練な泣声をやめなかった。
 しんと静まり返った空家の一室、赤茶けた電燈の光、黙り返っている一団の人々、その中に、怪美人妙子の、甲高い泣声ばかりが、恨めしく、悲しく、いつまでもいつまでも続いていた。
     ×     ×     ×     ×     ×
 かくして、怪賊魔術師はほろびた。妙子は直ちに刑務所に収容され、それと入れ代る様にして、可憐の文代さんが自由の身となった。彼女が賊の娘ではなくして玉村宝石王の実子、一郎二郎の実の妹であることを聞かされた時、どの様な歓喜を味ったか、それは読者の想像に任せて置けばよい。
 玉村家は一郎が相続して、宝石店の経営に当り、二郎はその熱心なる共働者であった。父を失った兄弟は、文代さんという、美しく優しい妹を得て、世にもむつまじい三人兄妹が出来上った。
 文代さんは、最早や賊の娘ではなかった。父にそむいた裏切りものでもなかった。彼女は今や何の遠慮も気兼きがねもなく彼女の恋を楽しみ得る身の上であった。
「文代さん、事務所へ出勤かい」
 二郎兄さんにそんな風にからかわれる日が来た。
 妙子は明智小五郎の女助手を志願して、彼の事務所の開化アパートへ、毎日の様に通い始めたのだ。
 怪賊魔術師の娘であった丈けに、彼女は探偵助手には持って来いだ。その後文代探偵が、明智を助けて、どの様なすばらしい手腕を見せたか。そして、遂に彼女が明智夫人と呼ばれる様になるまでのいきさつはどうであったか。それらの顛末てんまつは「吸血鬼」という別の物語に譲って、「魔術師」物語は、これにて大尾たいびとして置きましょう。





底本:「江戸川乱歩全集 第6巻 魔術師」光文社文庫、光文社
   2004(平成16)年11月20日初版1刷発行
   2013(平成25)年2月20日2刷発行
底本の親本:「江戸川乱歩全集 第八巻」平凡社
   1931(昭和6)年5月
初出:「講談倶楽部」大日本雄弁会講談社
   1930(昭和5)年7月〜1931(昭和6)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「一人ぽっち」と「一人ぼっち」、「格好」と「恰好」、「囁声」と「囁き声」、「魔法使い」と「魔法使」、「つぶて」と「つぶて」と「飛礫つぶて」、「輪廓」と「輪郭」の混在は、底本通りです。
※底本巻末の平山雄一氏による註釈は省略しました。
入力:門田裕志
校正:大久保ゆう
2022年6月26日作成
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●図書カード