江戸川乱歩





 この話は、柾木愛造まさきあいぞう木下芙蓉きのしたふようとの、あの運命的な再会から出発すべきであるが、それについては、ず男主人公である柾木愛造の、いとも風変りな性格について、一言いちごんして置かねばならぬ。
 柾木愛造は、すでに世を去った両親から、幾何いくばくの財産を受継うけついだ一人息子で、当時二十七歳の、私立大学中途退学者で、独身の無職者であった。ということは、あらゆる貧乏人、あらゆる家族所有者の、羨望せんぼうまとである所の、此上このうえもなく安易で自由な身の上を意味するのだが、柾木愛造は不幸にも、その境涯きょうがいを楽しんで行くことが出来なかった。彼は世にたぐいもあらぬ厭人病者えんじんびょうしゃであったからである。
 彼のこの病的な素質は、一体全体どこから来たものであるか、彼自身にも不明であったが、その徴候ちょうこうは、既にすでに、彼の幼年時代に発見することが出来た。彼は人間の顔さえ見れば、何の理由もなく、眼に一杯涙がき上った。そして、その内気さを隠す為に、あらぬ天井を眺めたり、ひらを使って、誠に不様ぶざまな恥かしい格好をしなければならなかった。隠そうとすればする程、それを相手に見られているかと思うと、一層おびただしい涙がふくれ上って来て、遂には、「ワッ」と叫んで、気違いになってしまうより、どうにもこうにも仕方がなくなる。といった感じであった。彼は肉親の父親に対しても、うち召使めしつかいに対しても、時とすると母親に対してさえ、この不可思議な羞恥しゅうちを感じた。したがって彼は人間を避けた。人間がなつかしいくせに、彼自身の恥ずべき性癖を恐れるがゆえに、人間を避けた。そして、薄暗い部屋の隅にうずくまって、身のまわりに、積木のおもちゃなどで、可憐かれんな城壁を築いて、独りで幼い即興詩をつぶやいている時、わずかに安易な気持になれた。
 としちょうじて、小学校という不可解な社会生活に入って行かねばならなかった時、彼はどれ程か当惑し、恐怖を感じたことであろう。彼は誠に異様な小学生であった。母親に彼の厭人癖を悟られることががたく恥しかったので、独りで学校へ行くことは行ったけれど、そこでの人間との戦いは実に無残なものであった。先生や同級生に物をわれても、涙ぐむほかに何のすべをも知らなかったし、受持の先生が他級の先生と話をしている内に、柾木愛造という名前がれ聞えたけで、彼はもう涙ぐんでしまう程であった。
 中学、大学と進むに従って、このいむべき病癖は、少しずつ薄らいでは行ったけれど、小学時代は全期間の三分の一は病気をして、病後の養生ようじょうにかこつけて学校を休んだし、中学時代には、一年の内半分程は仮病を使って登校をせず、書斎をしめ切って、家人の這入はいって来ない様にして、そこで小説本と、荒唐無稽こうとうむけいな幻想のうちに、うつらうつらと日を暮らしていたものだし、大学時代には、進級試験を受ける時の外は、ほとんど教室に這入ったことがなく、と云って、他の学生の様に様々な遊びにふけるでもなく、自宅の書庫の、買い集めた異端の書物のちりうずまって、しかし、それらの書物を読むというよりは、虫の食った青表紙や、十八世紀の洋紙や皮表紙のにおいをかぎ、それらのかもし出す幻怪な大気の中で、益々ますますこうじて来た病的な空想に耽り、昼と夜との見境みさかいのない生活を続けていたものである。
 その様な彼であったから、のちに述べるたった一人の友達を除いては、まるで友達というものがなかったし、友達のない程の彼に、恋人のあろうはずもなかった。人一倍優しい心を持ちながら、彼に友達も恋人もなかったことを、何と説明したらよいのであろう。彼とても、友情や恋をあこがれぬではなかった。こまやかな友情や甘い恋の話を聞いたり読んだりした時には、し自分もそんな境涯であったなら、どんなにか嬉しかろうと、うらやまぬではなかった。だが、仮令たとい彼の方で友愛なり恋なりを感じても、それを相手に通じるまでに、どうすることも出来ぬ障害物しょうがいぶつが、まるで壁の様に立ちはだかっていた。
 柾木愛造には、彼以外の人間という人間が、例外なく意地悪に見えた。彼の方で懐しがって近寄って行くと、相手は忠臣蔵ちゅうしんぐらの師直の様に、ついとそっぽを向くかと思われた。中学生の時分、汽車や電車の中などで、二人連れの話し合っている様子を見て、屡々しばしば驚異を感じた。彼等の内一人が熱心にしゃべり出すと、聞手の方は、さもさも冷淡な表情で、そっぽを向いて、窓の外の景色を眺めたりしている。時たま思い出した様に合点がってん合点をするけれど、滅多めったに話手の顔を見はしない。そして、一方が黙ると、今度は冷淡な聞手だった方が、打って変って熱心な口調で話し出す。すると、前の話手は、ついとそっぽを向いて、にわかに冷淡になってしまう。それが人間の会話の常態じょうたいであることを悟るまでに、彼は長い年月としつきを要した程である。これは些細ささいな一例でしかないけれど、すべてこの例によって類推出来る様な人間の社交上の態度が、内気な彼を沈黙させるに充分であった。彼は又、社交会話に洒落しゃれ(彼によればその大部分が、不愉快ふゆかい駄洒落だじゃれでしかなかったが)というものの存在するのが、不思議で仕様がなかった。洒落と意地悪とは同じ種類のものであった。彼は、彼が何かを喋っている時、相手の目が少しでも彼の目をそれて、ほかの事を考えていると悟ると、もうあとを喋る気がしない程、内気者であった。言葉を換えて云うと、それ程彼は愛について貪婪どんらんであった。そして、余りに貪婪であるが故に、彼は他人を愛することが、社交生活をいとなむことが出来なかったのであるかも知れない。
 だが、そればかりではなかった。もう一つのものがあった。卑近ひきんな実例を上げるならば、彼は幼少の頃、女中の手をわずらわさないで、自分でとこを上げたりすると、その時分まだ生きていた祖母が、「オオ、いい子だいい子だ」と云って御褒美ごほうびれたりしたものであるが、そうしてめられることが、身内が熱くなる程、恥しくて、いやでいやで、褒めてくれる相手に、極度の憎悪ぞうおを感じたものである。引いては、愛することも、愛されることも、「愛」という文字そのものすらが、一面ではあこがれながらも、他の一面では、身体からだがキューッとねじれて来る程も、何とも形容しがたいやあないやあな感じであった。これは彼が、所謂いわゆる自己嫌悪、肉親憎悪、人間憎悪とう一聯いちれんの特殊な感情を、多分に附与ふよされていたことを語るものであるかも知れない。彼と彼以外のすべての人間とは、まるで別種類の生物である様に思われて仕方がなかった。この世界の人間共の、意地悪の癖に、あつかましくて、忘れっぽい陽気さが、彼には不思議でたまらなかった。彼はこの世において、全く異国人であった。彼はわば、どうかした拍子ひょうしで、別の世界へ放り出された、たった一匹の、孤独な陰獣いんじゅうでしかなかった。
 その様な彼が、どうしてあんなにも、死にもの狂いな恋をたか。不思議と云えば不思議であるが、だが、考え方によっては、その様な彼であったからこそ、あれ程の、物狂わしい、人外境じんがいきょうの恋が出来たのだとも、云えないことはない。彼の恋にあっては、愛と憎悪とは、最早もはや別々のものではなかったのだから。併し、それは後に語るべき事柄である。
 幾何の財産を残して両親が相ついで死んだあとは、家族に対する見得みえや遠慮のめに、苦痛をしのんで続けていた、ほんの僅かばかりの社会的な生活から、彼は完全に逃れることが出来た。それを簡単に云えば、彼は何の未練もなく私立大学を退校して、土地と家屋を売払い、ねて目星をつけて置いた郊外の、さびしいあばら家へと引移ったのである。かようにして、彼は学校という社会から、又、隣近所という社会から、全く姿をくらましてしまうことが出来た。人間である以上は、どこへ移ったところで、全然社会を無視して生存することは出来ないのだけれど、柾木愛造が、最もいとったのは、彼の名前なり為人ひととなりを知っている、見知り越しの社会であったから、隣近所に一人も知合いのない、淋しい郊外へ移住したことは、その当座、彼に「人間社会を逃れて来た」という、やや安易な気持を与えたものである。
 その郊外の家というのは、向島むこうじま吾妻橋あづまばしから少し上流のKという町にあった。そこは近くに安待合やすまちあいや、貧民窟がかたまってい、河一つ越せば浅草あさくさ公園というさかをひかえているにもかかわらず、思いもかけぬ所に、広い草原くさはらがあったり、ひょっこり釣堀のこわれかかった小屋が立っていたりする、妙に混雑と閑静かんせいとを混ぜ合わせた様な区域であったが、そのとある一廓いっかくに、このお話は大地震よりは余程以前のことだから、立ち腐れになった様な、化物ばけもの屋敷同然の、だだっ広い屋敷があって、柾木愛造は、いつか通りすがりに見つけておいて、それを借受けたのであった。
 毀れた土塀や生垣で取まいた、雑草のしげるにまかせた広い庭の真中に、壁の落ちた大きな土蔵がひょっこり立っていて、その脇に、手広くはあるけれど、ほとんど住むに耐えない程、荒れ古びた母屋おもやがあった。だが、彼にとっては、母屋なんかはどうでもよかったので、彼がこの化物屋敷に住む気になったのは、一つにその古めかしい土蔵の魅力によってであった。厚い壁でまぶしい日光をさえぎり、外界の音響を遮断した、樟脳しょうのう臭い土蔵の中に、独りぼっちで住んでみたいというのは、彼の長年のあこがれであった。丁度貴婦人が厚いヴェイルで彼女の顔を隠す様に、彼は土蔵の厚い壁で、彼自身の姿を、世間の視線から隠してしまいたかったのである。
 彼はその土蔵の二階にたたみを敷きつめて、愛蔵の異端の古書や、横浜よこはまの古道具屋で手に入れた、等身大の木彫きぼりの仏像や、数個の青ざめたお能の面などを持込んで、そこに彼の不思議なおりを造りなした。北と南の二方けに開かれた、たった二つの、小さな鉄棒をはめた窓が、凡ての光源であったが、それをらに陰気にする為に、彼は南の窓の鉄の扉を、ぴっしゃりと締切ってしまった。それ故、その部屋には、年中一分いちぶの陽光さえも直射することはなかった。これが彼の居間であり、書斎であり、寝室であった。
 階下は板張りのままにして、彼のあらゆる所有品を、祖先伝来の丹塗にぬりの長持ながもちや、紋章もんしょうの様な錠前じょうまえのついたいかめしい箪笥たんすや、虫の食った鎧櫃よろいびつや、不用の書物をつめた本箱や、そのほか様々のがらくた道具を、滅茶苦茶めちゃくちゃに置き並べ積重ねた。
 母屋の方は十畳の広間と、台所脇の四畳半との畳替えをして、前者を滅多に来ない客の為の応接間に備え、後者は炊事にやとった老婆の部屋に当てた。彼はそうして、客にも傭婆さんにも、土蔵の入口にすら近寄らせない用意をした。土蔵の出入口の、厚い土の扉には、内からも外からも錠をおろす仕掛けにして、彼がその二階にいる時は、内側から、外出の際は外側から、戸締りが出来る様になっていた。それは謂わば、怪談の明かずの部屋にるいするものであった。
 傭婆さんは、家主の世話で、殆ど理想に近い人が得られた。身寄りのない六十五歳の年寄りであったが、耳が遠い外には、これという病気もなく、至極まめまめした、小綺麗こぎれいな老人であった。何より有難いのは、そんな婆さんにも似合わず、楽天的な呑気者のんきもので、主人が何者であるか、彼が土蔵の中で何をしているか、という様なことを、猜疑さいぎ穿鑿せんさくしなかったことである。彼女は所定の給金をきちんきちんと貰って、炊事の暇々には、草花をいじったり、念仏を唱えたりして、それですっかり満足している様に見えた。
 云うまでもなく、柾木愛造は、その土蔵の二階の、昼だか夜だか分らない様な、薄暗い部屋で、彼の多くの時間をついやした。赤茶けた古書のページをくって一日をつぶすこともあった。ひねもす部屋の真中に仰臥ぎょうがして、仏像や壁にかけたお能の面を眺めながら、不可思議な幻想に耽ることもあった。そうしていると、いつともなく日が暮れて、頭の上の小さな窓の外の、黒天鵞絨くろびろうどの空に、お伽噺とぎばなしの様な星がまたたいていたりした。
 暗くなると、彼は机の上の燭台しょくだいに火をともして、夜更よふけまで読書をしたり、奇妙な感想文を書きつづったりすることもあったが、多くの夜は、土蔵の入口に錠を卸して、どこともなくさまよい出るのがならわしになっていた。極端な人厭ひとぎらいの彼が、盛り場を歩き廻ることを好んだというのは、はなはだ奇妙だけれど、彼は多くの夜、河一つへだてた浅草公園に足を向けたものである。だが、人嫌いであったからこそ、話しかけたり、じろじろと顔を眺めたりしない、漠然たる群集を、彼は一層愛したのであったかも知れぬ。その様な群集は、彼にとって、局外から観賞すべき、絵や人形にしか過ぎなかったし、又、夜の人波にもまれていることは、土蔵の中にいるよりも、かえって人目を避ける所以ゆえんでもあったのだから。人は、無関心な群集のただ中で、最も完全に彼自身を忘れることが出来た。群集こそ、彼にとってこよなき隠れ簑であった。そして、柾木愛造のこの群集好きは、あの芝居のはね時を狙って、木戸口をあふれ出る群集に混って歩くことによって、僅かに夜更けの淋しさをまぎらしていた、ポオの Man of crowd の一種不可思議な心持とも、相通ずる所のものであった。
 さて、冒頭に述べた、柾木愛造と木下芙蓉との、運命的な邂逅かいこうというのは、この土蔵の家に引移ってから、二年目、彼がこの様な風変りな生活のうちに、二十七歳の春を迎えて間もない頃、よどんだ生活の沼の中に、突然石を投じたように、彼の平静をかき乱した所の、一つの重大な出来事だったのである。


 先にも一寸ちょっと触れて置いたが、かくも人厭ひとぎらいな柾木愛造にも、例外として、たった一人の友達があった。それは、実業界に一寸名を知られた父の威光いこうで、ある商事会社の支配人を勤めている、池内光太郎いけうちこうたろうという、柾木と同年輩の青年紳士であったが、あらゆる点が柾木とは正反対で、明るい、社交上手な、物事を深く掘下げて考えない代りには、末端の神経はかなりに鋭敏で、人好きのする、好男子であった。彼は柾木と家も近く小学校も同じだった関係で、幼少の頃から知合いであったが、おたがいが青年期に達した時分、柾木の不可思議な思想なり言動なりを、それが彼にはよく分らない丈けに、すっかり買いかぶってしまって、それ以来引続き、柾木の様な哲学者めいた友達を持つことを、一種の見得にさえ感じて、柾木の方ではむしろ避ける様にしていたにも拘らず、繁々しげしげと彼を訪ねては、少しばかり見当違いな議論を吹きかけることを楽しんでいたのである。また、華やかな社交に慣れた彼にとっては、柾木の陰気な書斎や、柾木の人間そのものが、こよなき休息所であり、オアシスでもあったのだ。
 その池内光太郎が、ある日、柾木の家の十畳の客間で、(柾木はこの唯一の友達をさえ、土蔵の中へ入れなかった)柾木を相手に、彼の華やかな生活の一断面を吹聴ふいちょうしている内に、ふと次の様なことを云い出したのである。
「僕は最近、木下芙蓉って云う女優と近づきになったがね。一寸美しい女なんだよ」彼はそこで一種の微笑を浮べて、柾木の顔を見た。それはここに云う「近づき」とは、文字のままの「近づき」でないことを意味するものであった。「まあ聞きたまえ、この話は君にとっても一寸興味がありそうなんだから。と云うのは、その木下芙蓉の本名が木下文子ふみこなんだ。君、思い出さないかい。ホラ、小学校時代僕等ぼくらがよくいたずらをした、あの美しい優等生の女の子さ。たしか、僕達より三年ばかり下の級だったが」
 そこまで聞くと、柾木愛造は、ハッとして、にわかに顔がほてって来るのを感じた。流石さすがに彼とても、二十七歳の今日こんにちでは、久しく忘れていた赤面であったが、ああ赤面しているなと思うと、丁度子供の時分、涙を隠そうとすればする程、一層涙ぐんで来たのと同じに、それを意識する程、益々目の下が熱くなってくるのをどうすることも出来なかった。
「そんな子がいたかなあ。だが、僕は君みたいに早熟でなかったから」
 彼はてれ隠しに、こんなことを云った。だが、さいわいなことに、部屋が薄暗かったせいか、相手は、彼の赤面には気づかぬらしく、やや不服な調子で、
「いや、知らない筈はないよ。学校中で評判の美少女だったから。久しく君と芝居を見ないが、どうだい、近い内に一度木下芙蓉を見ようじゃないか。幼顔おさながおそのままだから、君だって見れば思い出すに違いないよ」
 と、如何いかにも木下芙蓉との親交が得意らしいのである。
 芙蓉の芸名では知らなかったけれど、云うまでもなく、柾木愛造は、木下文子の幼顔を記憶していた。彼女については、彼が赤面したのも決して無理ではない程の実に恥しい思出おもいでがあったのである。
 彼の少年時代は、先にも述べた通り、極度に内気な、はにかみ屋の子供であったけれど、彼の云う様に早熟でなかったわけでなく、同じ学校の女生徒に、幼いあこがれをいだくことも人一倍であった。そして、彼が四年級の時分から、当時の高等小学の三年級までも、ひそかに思いこがれた女生徒というのが、外ならぬ木下文子だったのである。と云っても、例えば池内光太郎の様に、彼女の通学の途中をようして、お下げのリボンを引きちぎり、彼女の美しい泣き顔を楽しむなどと云う、すばらしい芸当は、思いも及ばなかったので、かぜを引いて学校を休んでいる時など、発熱の為にドンヨリとうるんだ脳の中を、文子の笑顔ばかりにして、熱っぽい小さな腕に、彼自身の胸をいだきしめながら、ホッと溜息ためいきをつく位が、せきやまであった。
 ある時、彼の幼い恋にとって、誠に奇妙な機会が恵まれたことがある。それは、当時の高等小学二年級の時分で、同級の餓鬼がき大将の、口髯の目立つ様な大柄な少年から、木下文子に(彼女は尋常部の三年生であった)附文つけぶみをするのだから、その代筆をしろと命じられたのである。彼は勿論もちろん級中第一の弱虫であったから、この腕白わんぱく少年にはもうビクビクしていたもので、「一寸こい」と肩をつかまれた時には、例の目に涙を一杯浮べてしまった程で、その命令には、一も二もなく応じる外はなかった。彼はこの迷惑な代筆のことで胸を一杯にして、学校から帰ると、おつもたべないで、一間ひとまにとじこもり、机の上に巻紙をのべ、生れて初めての恋文の文案に、ひどく頭を悩ましたものである。だが、幼い文章を一行二行と書いて行くに従って、彼に不思議なかんがえが湧上って来た。「これを彼女に手渡す本人はかの腕白少年であるけれど、書いているのはまさしく私だ。私はこの代筆によって、私自身の本当の心持を書くことが出来る。あの娘は私の書いた恋文を読んでくれるのだ。仮令先方では気づかなくても、私は今、あの娘の美しい幻を描きながら、この巻紙の上に、思いのたけをうちあけることが出来るのだ」この考が彼を夢中にしてしまった。彼は長い時間を費して、巻紙の上に涙をさえこぼしながら、あらゆる思いを書きしるした。腕白少年は翌日そのかさばった恋文を、木下文子に渡したが、それは恐らく文子の母親の手で焼き捨てられでもしたのであろう。其後そのご快活な文子のそぶりにさしたる変りも見えず、腕白少年の方でも、いつかけろりと忘れてしまった様子であった。ただ、代筆者の柾木少年丈けが、いつまでも、クヨクヨと、甲斐かいなく打捨てられた恋文のことを、思いつづけていたのである。
 又、それから間もなく、こんなこともあった。恋文の代筆が彼の思いを一層つのらせたのであろう。余りに堪え難い日が続いたので、彼は誠に幼い一策を案じ、人目のない折を見定めて、ソッと文子の教室に忍び込み、文子の机の上げぶたを開いて、そこに入れてあった筆入れから、一番ちびた、殆ど用にも立たぬ様な、短い鉛筆を一本盗み取り、大事に家へ持帰ると、彼の所有になっていた小箪笥の開きの中を、綺麗きれいに清め、今の鉛筆を半紙に包んで、まるで神様ででもある様に、その奥の所へ祭って置いて、淋しくなると彼は、開き戸をあけて、彼の神様を拝んでいた。その当時、木下文子は、彼にとって神様以下のものではなかったのである。
 そののち文子の方でもどこかへ引越して行ったし、彼の方でも学校が変ったので、いつか、忘れるともなく忘れてしまっていたのだが、今池内光太郎から、木下文子の現在を聞かされて、相手は少しも知らぬ事柄ではあったけれど、そのような昔の恥かしい思出に、彼は思わず赤面してしまったのであった。
 雑沓ざっとう中の孤独といった気持の好きな、柾木の様な種類の厭人病者は、浅草公園の群集と同じに汽車や電車の中の群集、劇場の群集などを、寧ろ好むものであったから、彼は芝居のことも世間並には心得ていたが、木下芙蓉と云えば、以前は影の薄い場末ばすえの女優でしかなかったのが、最近ある人気俳優の新劇の一座に加わってから、グッと売出して、立女形たておやまではないけれど、顔と身体の圧倒的な美しさが、特殊の人気を呼んで、一座の女優中でも、二番目ぐらいには羽振はぶりのよい名前になっていた。柾木は、かけ違って、まだ彼女の舞台を見てはいなかったが、彼女についてこの程度の智識は持っていた。
 その人気女優が、昔々の幼い恋の相手であったと分ると、厭人病者の彼も、少しばかり浮々うきうきして、彼女が懐しいものに思われて来るのであった。それが今では、池内光太郎の恋人であろうとも、どうせ彼には出来ない恋なのだから、一目彼女の舞台姿を見て、一寸女々めめしい気持になるのも、悪くないなと感じたのである。
 彼等がK劇場の舞台で、木下芙蓉を見たのは、それから三四日の後であったが、柾木愛造に取っては、誠に幸か不幸か、それは丁度立女形の女優が病気欠勤をして、その持役のサロメを、木下芙蓉が代演している際であった。
 二匹のたいが向き合っている様な形をした、非常に特徴のある大きな目や、鼻の下が人の半分も短くて、その下に、絶えず打震えている、やや上方にまくれ上った、西洋人の様に自在な曲線の唇や、殊にそれが、婉然えんぜんと微笑んだ時の、忘れ難き魅力に至るまで、その昔のおもかげをそのままとどめてはいたけれど、十幾年の歳月は、可憐なお下げの小学生を、恐ろしい程豊麗ほうれいな全き女性に変えてしまったと同時に、その昔の無邪気な天使を、柾木の神様でさえあった聖なる乙女おとめを、いつしか、妖艶たぐいもあらぬ魔女と変じていたのである。
 柾木愛造は、輝くばかりの彼女の舞台姿に、最初の程は、恐怖に近い圧迫を感じるばかりであったが、それが驚異となり、憧憬あこがれとなり、ついに限りなき眷恋けんれんと変じて行った。大人の柾木が大人の文子を眺める目は、最早もはや昔の様に聖なるものではなかった。彼は心に恥じながらも、知らずらず舞台の文子をけがしていた。彼女の幻を愛撫し、彼女の幻を抱き、彼女の幻を打擲ちょうちゃくした。それは、隣席の池内光太郎が彼の耳に口をつけて、ささやき声で、芙蓉の舞台姿に、野卑やひな品評を加え続けていたことが、彼に不思議な影響を与えたのでもあったけれど。
 サロメが最終の幕だったので、それが済むと、彼等は劇場を出て、迎えの自動車に這入ったが、池内は独り心得顔に、その近くのある料理屋の名を、運転手に指図した。柾木愛造は池内の下心を悟ったけれど、一度芙蓉の素顔が見たくもあったし、サロメの幻に圧倒されて、夢うつつの気持だったので、いて反対をとなえもしなかった。
 彼等が料理屋の広い座敷で、上の空な劇評などをわしている内、あんじょう、そこへ和服姿の木下芙蓉が案内されて来た。彼女はふすまの外に立って、池内の見上げた顔に、ニッコリと笑いかけたが、ふと柾木の姿を見ると、作った様な不審顔になって、目で池内の説明を求めるのであった。
「木下さん。この方を覚えてませんか」
 池内は意地悪な微笑を浮べて云った。
「エエ」
 と答えて、彼女はまじまじした。
「柾木さん。僕の友達。いつかうわさをしたことがあったでしょう。僕の小学校の同級生で、君を大変好きだった人なんです」
「マア、私、思い出しましたわ。覚えてますわ。やっぱり幼顔って、残っているものでございますわね。柾木さん、本当にお久しぶりでございました。わたくし、変りましたでしょう」
 そう云って、叮嚀ていねいなおじぎをした時の、文子の巧みな嬌羞きょうしゅうを、柾木はいつまでも忘れることが出来なかった。
「学校中での秀才でいらっしゃいましたのを、私、覚えておりますわ、池内さんは、よくいじめられたり、泣かされたりしたので覚えてますし」
 彼女がそんなことを云い出した時分には、柾木はもう、すっかり圧倒された気持であった。池内すら彼女の敵ではない様に見えた。
 小学校時代の思出話が劇談に移って行った。池内は酒を飲んで、雄弁に彼の劇通げきつう披瀝ひれきした。彼の議論は誠に雄弁であり、気が利いてもいたが、併し、それはやっぱり、彼の哲学論と同じに、少しばかり上辷うわすべりであることをまぬかれなかった。木下芙蓉も、少し酔って、要所要所で柾木の方に目まぜをしながら、池内の議論を反駁はんばくしたりした。彼女にも、劇論では、柾木の方が(通ではなかったけれど)本物でもあり、深くもあることが分った様子で、池内には揶揄やゆをむくいながら、彼には教えを受ける態度を取った。お人よしの柾木は、彼女の意外な好意が嬉しくて、いつになく多弁に喋った。彼の物の云い方は、芙蓉には少し難し過ぎる部分が多かったけれど、彼の議論に油がのってきた時には、彼女はじっと話手の目を見つめて、讃嘆に近い表情をさえ示しながら、彼の話に聞き入るのであった。
「これを御縁に、御ひいきを御願いしますわ。そして、時々、教えて頂きいと思いますわ」
 別れる時に、芙蓉は真面目な調子で、そんなことを云った。それが満更まんざら御世辞でない様に見えたのである。
 池内にあてられることであろうと、いささか迷惑に思っていたこの会合が、案外にも、却って池内の方で嫉妬しっとを感じなければならない様な結果となった。芙蓉が女優稼業にも似げなく、どこか古風な思索的な傾向を持っていたことは、寧ろ意外で、彼女が一層好もしいものに思われた。柾木は帰りの電車の中で、「学校中でも秀才でいらっしゃいましたのを、私、覚えて居りますわ」と云った彼女の言葉を、子供らしく、心の内で繰返していた。


 それ以来、世間に知られている所では、柾木愛造が木下芙蓉を殺害したまでの、半年ばかりの間に、この二人はたった三度(しかも最初の一ヶ月の間に三度丈け)しか会っていない。つまり、芙蓉殺害事件は、彼等が最後に会った日から、五ヶ月もの間を置いて、彼等がお互の存在をすでに忘れてしまったと思われる時分に、誠に突然に起ったものである。これは何となく信じ難い、変てこな事実であった。空漠くうばくたる五ヶ月間が、犯罪動機と犯罪そのものとの連鎖れんさを、ブッツリ断ち切っていた。それなればこそ、柾木愛造は、兇行後、あんなにも長い間、警察の目を逃れていることが出来たのである。
 だが、これはあらわれたる事実でしかなかった。実際は、彼は、いとも奇怪なる方法によってではあったが、その五ヶ月の間も、五日に一度位の割合で、繁々と芙蓉に会っていた。そして、彼の殺意は、彼にとっては誠に自然な経路を踏んで、成長して行ったのである。
 木下芙蓉は彼の幼い初恋の女であった。彼のフェティシズムが、彼女の持物を神と祭った程の相手であった。しかも、十幾年ぶりの再会で、彼は彼女のくらめくばかり妖艶な舞台姿を見せつけられたのである。その上、その昔の恋人が、当時は口を利いた事のなかった彼女が、優しい目で彼を見、微笑みかけ、彼の思想を畏敬いけいし崇拝するかにさえ見えたのである。あれ程の厭人的な憶病者の柾木愛造ではあったが、流石にこの魅力に打勝つことは出来なかった。ほかの女からの様に、彼女から逃避する力はなかった。彼が彼女に恋を打開うちあけるまでには、たった三度の対面で充分だったことが、よくそれを語っている。
 三度とも、場所は変っていたけれど、彼等は最初と同じ三人で、御飯をたべながら話をした。引張り出すのは無論池内で、柾木はいつもお相伴しょうばんといった形であったが、併し、芙蓉がその都度つど快く招待に応じたのは、柾木に興味を感じていたからだと、彼はひそかに自惚うぬぼれていた。池内が気の毒にさえ思われた。芙蓉は、池内に対しては、普通の人気女優らしい態度で、意地悪でもあれば、たかぶっても見せた。相手を飜弄ほんろうする様な口も利いた。その様子を見ていると、彼女は柾木の一番苦手な、恐怖すべき女でしかなかったが、それが柾木に対する時は、ガラリと態度が変って、芸術の使徒しととしての一俳優といった感じになり、真面目に、彼の意見を傾聴けいちょうするのであった。そして、会うことが度重たびかさなる程、彼女のこの静かなる親愛の情は、濃やかになって行くかと思われた。
 だが、気の毒な柾木は、実は大変な誤解をしていたのだ。芙蓉の様な種類の女性は、二つ面の仁和賀にわかと同じ様に、二つも三つもの、全く違った性格をたくわえていて、時に応じ人に応じて、それを見事に使いけるものだということを、彼はすっかり忘れていた。彼女の好意は、実は男友達の池内光太郎が彼に示した好意と同じもので、彼の、古風な小説にでもあり相な、陰欝な、思索的な性格を面白がり、優れた芸術上の批判力をめで、ただ気の置けない話相手として、親愛を示したに過ぎないことを、彼は少しも気づかなんだ。彼は自惚れの余り、池内の立場をあわれみさえしたけれど、反対に池内の方でこそ、彼をあざ笑っていたのである。
 池内の最初の考えでは、愛すべき木念仁ぼくねんじんの友達に、彼自身の新しい愛人を見せびらかして、一寸ばかり罪の深い楽しみを味わって見ようとしたまでで、その御用が済んでしまえば、そんな第三者は、もう邪魔なばかりであった。それに、彼は、柾木の小学時代の恥かしい所業については知る所がなかったけれど、近頃の柾木の様子が、妙に熱っぽく見えて来たのも、いささか気掛りであった。彼はこの辺が切上げ時だと思った。
 三度目に会った時、次の日曜日は丁度月末で、芙蓉の身体に隙があるから、三人で鎌倉かまくらへ出かけようと、約束をして別れたので、柾木はその日落合う場所の通知が、今来るか今来るかと、待ち構えていても、どうした訳か、池内からハガキ一本来ないので、待兼まちかねて問合わせの手紙まで出したのだが、それにも何の返事もなく、約束の日曜日は、いつの間にか過去すぎさってしまった。池内と芙蓉との間柄が、単なる知合い以上のものであることは、柾木も大方は推察していたので、若しかしたら、池内の奴、やきもちをやいているのではないかと、やっぱり自惚れて考えて、才子で好男子の池内に、それ程嫉妬をされているかと思うと、彼は寧ろ得意をさえ感じたのである。
 だが、池内という仲立なかだちにそむかれては、手も足も出ない彼であったから、そうして、芙蓉と会わぬ日が長引くに従って、耐え難き焦燥しょうそうを感じないではいられなかった。三日に一度は、三階席の群集に隠れて、ソッと彼女の舞台姿を見に行ってはいたけれど、そんなことは、寧ろ焦慮を増しこそすれ、彼のはげしい恋にとって、何の慰めにもならなかった。彼は多くの日、例の土蔵の二階へとじ籠って、ひねもす、夜もすがら、木下芙蓉の幻を描き暮した。目をふさぐと、まぶたの裏の暗闇の中に、彼女の様々な姿が、大写しになって、悩ましくもうごめくのだ。小学時代の、天女の様に清純な笑顔にダブッて、半裸体のサロメの嬌笑が浮き出すかと思うと、金色の乳覆いで蓋をした、サロメの雄大な胸が、波の様に息吐いきづいたり、えくぼのはいったたくましい二の腕が、まぶた一杯に蛇の踊りを踊ったり、それらの、おさえつける様な、凶暴な姿態に混って、大柄な和服姿の彼女が、張り切った縮緬ちりめんの膝をすりよせて、じっと上目に見つめながら、彼の話を聞いている、いとしい姿が、色々な角度で、身体のあらゆる隅々が大写しになって、彼の心をかき乱すのであった。考えることも、読むことも、書くことも、全く不可能であった。薄暗い部屋の隅に立っている、木彫りの菩薩像ぼさつぞうさえが、ややともすれば、悩ましい聯想れんそうたねとなった。
 ある晩、あまりに堪え難かったので、彼は思い切って、ねて考えていたことを、実行して見る気になった。陰獣の癖に、彼は少しばかりお洒落しゃれだったので、いつも外出する時はそうしていたのだが、その晩も、婆やに風呂をかせ、身だしなみをして、洋服に着かえると、吾妻橋のたもとから自動車を傭って、その時芙蓉の出勤していた、S劇場へと向ったのである。
 あらかじめ計ってあったので、車が劇場の楽屋口に着いたのは、丁度芝居のはねる時間であったが、彼は運転手に待っている様に命じて置いて、車を降りると、楽屋口の階段のかたわらに立って、俳優達が化粧を落して出て来るのを、辛抱しんぼう強く待構えた。彼はつて、池内と一緒に、同じ様な方法で、芙蓉を誘い出したことがあったので、大体様子を呑み込んでいたのである。
 その附近には、俳優の素顔を見ようとする、町の娘共に混って、意気な洋服姿の不良らしい青年達がブラブラしていたし、中には柾木よりも年長に見える紳士が、彼と同じ様に自動車を待たせて、そっと楽屋口を覗いているのも見受けられた。
 恥しさを我慢して、三十分も待った頃、やっと芙蓉の洋服姿が階段を降りて来るのが見えた。彼はつまずきながら、慌ててその傍へ寄って行った。そして、彼が口の中で木下さんと云うか云わぬに、非常に間の悪いことには、丁度その時、違う方角から近寄って来た一人の紳士が、物慣れた様子で芙蓉に話しかけてしまったのである。柾木はのろまな子供の様に赤面して、引返ひっかえす勇気さえなく、ぼんやりと二人の立話を眺めていた。紳士は待たせてある自動車を指して、しきりと彼女をいざなっていた。知合いと見えて、芙蓉は快くその誘いに応じて、車の方へ歩きかけたが、その時やっと、彼女のあの特徴のある大きな目が、柾木の姿を発見したのである。
「アラ、柾木さんじゃありませんの」
 彼女の方で声をかけてくれたので、柾木は救われた思いがした。
「エエ、通り合わせたので、お送りしようかと思って」
「マア、そうでしたの。では、お願い致しますわ。私丁度一度御目にかかりたくっていたのよ」
 彼女は先口せんくちの紳士を無視して、さも慣れ慣れしい口を利いた。そして、その紳士にあっさり詫言わびごとを残したまま、柾木に何かと話しかけながら、彼の車に乗ってしまったのである。柾木は、このはれがましい彼女の好意に、嬉しいよりは、面喰めんくらって、運転手に予ねて聞知った芙蓉の住所を告げるのも、しどろもどろであった。
「池内さんたら、この前の日曜日の御約束をフイにしてしまって、ひどござんすわ。それとも、あなたにお差支さしつかえがありましたの」
 車が動き出すと、その震動につれて、彼の身近く寄り添いながら、彼女は話題を見つけ出した。彼女は其後も池内と三日にあげず、会っていたのだから、これは無論御世辞に過ぎなかった。柾木は、芙蓉の身体の暖い触感に、ビクビクしながら、差支のあったのは、池内の方だろうと答えると、彼女は、では、今月の末こそは、是非どこかへ参りましょう。などと云った。
 彼等が一寸話題を失って、ただ触覚だけで感じ合っていた時、俄に車内が明るくなった。車が、街燈やショーウィンドウでまぶしいほど明るい、ある大通りにさしかかったのである。すると、芙蓉は小声で「マア、まぶしい」と呟きながら、大胆にも自分の側の窓のシェードをおろして、柾木にも、ほかの窓のを卸してくれる様に頼むのであった。これは別の意味があった訳ではなく、女優稼業の彼女は、人目がうるさくて、一人の時でもシェードを卸しつけていた位だから、まして男と二人で乗っている際、ただ、その用心に目かくしをしたまでであった。同時にそれは、彼女が柾木という男性にたかくくっていた印でもあったのだ。
 だが、柾木の方では、それをまるで違った意味に曲解しないではいられなかった。彼はおろかにも、それを彼女がわざと作ってくれた機会だと思い込んでしまったのである。彼は震えながら、凡てのシェードを卸した。そして、彼はたっぷり一時間もたったかと思われた程長い間、正面を向いたまま、身動きもしないでいた。
「もうあけても、いいわ」
 車が暗い町に這入ったので、芙蓉の方では気兼ねの意味で、こう云ったのだが、その声が柾木を勇気づける結果となった。彼はビクッと身震いをして、黙ったまま、彼女の膝の上の手に、彼自身の手を重ねた。そして、段々力をこめながらそれを押えつけて行った。
 芙蓉はその意味を悟ると、何も云わないで、巧みに彼の手をすり抜けて、クションの片隅へ身を避けた。そして、柾木の木彫りの様にこわばった表情を、まじまじと眺めていたが、ややあって、意外にも、彼女は突然笑い出した。しかも、それは、プッと吹き出す様な笑いであった。
 柾木は一生涯、あんな長い笑いを経験したことがなかった。彼女はいつまでもいつまでも、さもおかし相に笑い続けていた。だが、彼女が笑った丈けなれば、まだ忍べた。最もいけないのは、彼女の笑いにつれて柾木自身が笑ったことである。ああ、それが如何に唾棄だきすべき笑いであったか。若し彼があの恥かしい仕草しぐさを冗談にまぎらしてしまうつもりだったとしても、その方が、なお一層恥かしい事ではないか。彼は彼自身のお人好しに身震いしないではいられなかった。それが彼をった烈しさは、後に彼があの恐ろしい殺人罪を犯すに至った、最初の動機が、実にこの笑いにあったと云っても差支ない程であった。


 それ以来数日の間、柾木は何を考える力もなく、茫然として蔵の二階に坐っていた。彼と彼以外の人間の間に、打破り難い厚い壁のあることが、一層痛切に感じられた。人間憎悪の感情が、吐き気の様にこみ上げて来た。
 彼はあらゆる女性の代表者として、木下芙蓉を、此上このうえ憎み様がない程憎んだ。だが、何という不思議な心の働きであったか、彼は芙蓉を極度に憎悪しながらも、一方では、少年時代の幼い恋の思出を忘れることが出来なかった。又、成熟した彼女の、目やくちびるや全身のかもし出す魅力を、思い出すまいとしても思い出した。明かに、彼はお木下芙蓉を恋していた。しかもその恋は、あの破綻はたんの日以来、一層その熱度を増したかとさえ思われたのである。今や烈しき恋と、深いにくしみとは、一つのものであった。とは云え、若し今後彼が芙蓉と目を見わす様な場合が起ったならば、彼はいたたまらぬ程の恥と憎悪とを感じるであろう。彼は決して再び彼女と会おうとは思わなかった。そして、それにもかかわらず、彼は彼女を熱烈に恋していたのである。あくまでも彼女が所有したかったのである。
 それ程の憎悪を抱きながらやがて、彼がこっそりと三等席に隠れて、芙蓉の芝居を見に行き出したというのは、一見誠に変なことではあったが、厭人病者の常として、他人に自分の姿を見られたり、言葉を聞かれたりすることを、極度に恐れる反面には、人の見ていない所や、仮令見ていても、彼の存在が注意をかぬような場所(例えば公園の群集の中)では、彼は普通人の幾層倍も、大胆に放肆ほうしにふるまうものである。柾木が土蔵の中にとじ籠って、他人を近寄せないというのも、一つには彼はそこで、人の前では押えつけていた、自儘じままな所業を、ほしいままに振舞いたいが為であった。そして厭人病者の、この秘密好みの性質には、兇悪なる犯罪人のそれと、どこかしら似通にかよったものを含んでいるのだが、それはかく、柾木が芙蓉を憎みながら、彼女の芝居を見に行った心持も、やっぱりこれで、彼の憎悪というのは、その相手と顔を見合わせた時、彼自身の方で恥かしさに吐き気を催す様な、一種異様の心持を意味したのだから、芝居小屋の大入場おおいりばから、相手に見られる心配なく、相手を眺めてやるということは、決して彼の所謂いわゆる憎悪と矛盾するものではなかったのである。
 だが、一方彼の烈しい恋慕れんぼの情は、芙蓉の舞台姿を見た位で、いやされる訳はなく、そうして彼女を眺めれば眺める程、彼の満たされぬ慾望は、いやましに、深く烈しくなって行くのであった。
 さて、そうしたある日のこと、柾木愛造をして、愈々いよいよ恐ろしい犯罪を決心させるに至った所の、重大なる機縁となるべき、一つの出来事が起った。それは、やっぱり彼が劇場へ芙蓉の芝居を見に行った帰りがけのことであるが、芝居がはねて、木戸口を出た彼は、嘗つての夜の思出に刺戟しげきされたのであったか、ふと芙蓉の素顔が垣間かいま見たくなったので、闇と群集にまぎれて、ソッと楽屋口の方へ廻って見たのである。
 建物の角を曲って、楽屋口の階段の見通せる所へ、ヒョイと出た時である。彼は意外なものを発見して、再び建物の蔭に身を隠さねばならなかった。というのは、そこの楽屋口の人だかりの内に、かの池内光太郎の見なれた姿が立混っていたからである。
 探偵の真似をして、先方に見つけられぬ様に用心しながら、じっと見ていると、ややたって、楽屋口から芙蓉が降りて来たが、案の定、池内は彼女を迎える様にして、立話をしている。云うまでもなく、うしろに待たせた自動車にのせて、彼女をどこかへ連れて行く積りらしいのだ。
 柾木愛造は、先夜の芙蓉のそぶりを見て、池内と彼女の間柄が、相当深く進んでいることを、想像はしていたけれど、あたり彼等の親しい様子を見せつけられては、今更らの様に、烈しい嫉妬を感じないではいられなかった。それを眺めている内に、彼の秘密好きな性癖がさせたわざであったか、咄嗟とっさの間に、彼は池内等のあとを尾行してやろうと決心した。彼は急いで、客待ちのタキシーを傭って、池内の車をつける様に命じた。
 うしろから見ていると、池内の自動車は、尾行されているとも知らず、さもお人よしに、彼の車の頭光とうこう圏内けんないを、グラグラとゆれていたが、しばらく走る内に、こちらから見えている背後のシェードが、スルスルと卸された。いつかの晩と同じである。だが、卸した人の心持は恐らく彼の場合とは、全く違っているであろうと邪推すると、彼はたまらなくいらいらした。
 池内の車が止ったのは、築地河岸つきじがしのある旅館の門前であったが、門内に広い植込みなどのある、閑静な上品な構えで、彼等の媾曳あいびきの場所としては、誠に格好のうちであった。彼等が、そういう場所として、世間に知られた家を、態と避けた心遣いが、一層小憎こにくらしく思われた。
 彼は二人が旅館へ這入ってしまうのを見届けると、車を降りて、意味もなく、そこの門前を行ったり来たりした。恋しさ、ねたましさ、腹立たしさに、物狂わしきまで興奮して、どうしても、このまま二人を残して帰る気がしなかった。
 一時間程も、その門前をうろつき廻ったあとで、彼は何を思ったのか、突然門内へ這入って行った。そして、「お馴染なじみでなければ」と云うのを、無理に頼んで、独りでそこの家へ泊ることにした。
 手広い旅館ではあったが、夜も更けていたし、客も少いと見えて、陰気にひっそりとしていた。彼は当てがわれた二階の部屋に通ると、すぐ床をとらせて、横になった。そうして、もっと夜の更けるのを待ち構えた。
 階下したの大時計が二時を報じた時、彼はムックリとって、寝間着のまま、そっと部屋を忍び出し、森閑しんかんとした広い廊下を、壁伝いに影のごとくさまよって、池内と芙蓉との部屋をたずねるのであった。それは非常に難儀な仕事であったが、スリッパの脱いである、間毎まごとふすまを、臆病な泥棒よりも、もっと用心をして、ソッと細目に開いては調べて行く内に、遂に目的の部屋を見つけ出すことが出来た。電燈は消してあったが、まだ眠っていなかった二人のささやわす声音こわねによって、それと悟ることが出来たのである。二人が起きていると分ると、一層用心しなければならなかった。彼は躍る胸を押えながら、少しも物音を立てない様に、襖の所へピッタリと身体をつけて、身体中を耳にした。
 中の二人は、まさか、襖一重ひとえの外に、柾木愛造が立聞きしていようとは、思いも及ばぬものだから、囁き声ではあったけれど、喋りたい程のことを、何の気兼ねもなく喋っていた。話の内容はさして意味のある事柄でもなかったけれど、柾木にとっては、木下芙蓉の、うちとけて、乱暴にさえ思われる言葉使いや、その懐しい鼻声を、じっと聞いているのが、実に耐え難い思いであった。
 彼はそうして、室内のあらゆる物音を聞き漏らすまいと、首を曲げ、息を殺し、全身の筋肉を、木像の様にこわばらせ、真赤に充血した眼で、どことも知れぬ空間を凝視しながら、いつまでもいつまでも立ちつくしていた。


 それ以来、彼が殺人罪を犯したまでの約五ヶ月の間、柾木愛造の生活は、尾行と立聞きと隙見との生活であったと云っても、決して云い過ぎではなかった。そのあいだ彼は、まるで、池内と芙蓉との情交につきまとう、不気味な影の如きものであった。
 およそは想像していたのだけれど、実際二人の情交を見聞するに及んで、彼は今更らの様に、身の置きどころもない恥しさと、胸のうつろになる様な悲しさをあじわった。それは寧ろ肉体的な痛みでさえあった。池内の圧迫的な、けだものの様な猫撫ねこなで声には、彼は人のいない襖の外で赤面した程、烈しい羞恥を感じたし、芙蓉の、昼間の彼女からはまるで想像も出来ない、乱暴な赤裸々せきららな言葉使いや、それでいて、その音波の一波毎に、彼の全身が総毛立つ程も懐しい、彼女の甘い声音には、彼はまぶたにあふれる熱い涙をどうすることも出来なかった。そして、ある絹ずれの音や、ある溜息の気配を耳にした時には、彼は恐怖の為に、膝から下が無感覚になって、ガクガクと震え出しさえした。
 彼はたった一人で、薄暗い襖の外で、あらゆる羞恥と憤怒ふんぬとを経験した。それで充分であった。若し彼が普通の人間であったら、二度と同じ経験を繰返すことはなかったであろう。いや、寧ろ最初から、その様な犯罪者めいた立聞きなどを目論見もくろみはしなかったであろう。だが、柾木愛造は内気や人厭ひとぎらいで異常人であったばかりでなく、恐らくはその外の点に於いても、例えば、秘密や罪悪に不可思議な魅力を感ずる所の、あのいまわしい病癖をも、彼は心の隅に、多分に持合わせていたに相違ないのである。そして、その潜在せる邪悪なる病癖が、彼のこの異常な経験を機縁として、俄かに目覚めたものに違いないのだ。
 世にもいまわしき立聞きと隙見とによって覚える所の、むずかゆい羞恥、涙ぐましい憤怒、歯の根も合わぬ恐怖の感情は、不思議にも、同時に、一面に於ては、彼にとって、限りなき歓喜であり、たぐいもあらぬ陶酔であった。彼ははからずも覗いた世界の、あの兇暴なる魅力を、どうしても忘れることが出来なかった。
 世にも奇怪な生活が始まった。柾木愛造の凡ての時間は、二人の恋人の媾曳の場所と時とを探偵すること、あらゆる機会をのがさないで、彼等を尾行し、彼等に気づかれぬ様に立聞きし隙見することに費された。偶然にも、その頃から池内と芙蓉との情交が、一段とこまやかに、真剣になって行ったので、そのも繁く、彼等が夢現ゆめうつつの恋に酔うことが烈しければ烈しい程、随って柾木が、あの歯ぎしりする様な、苦痛と快楽の錯綜さくそう境にさまよう事も、益々その度数と烈しさを増して行った。
 多くの場合、二人が別れる時に言い交わす、次の逢う瀬の打合わせが、彼の尾行の手懸てがかりとなった。彼等の媾曳きの場所はいつも築地河岸の例の家とは限らなんだし、落合う所も楽屋口ばかりではなかったが、柾木はどんな場合も見逃さず、五日に一度、七日に一度、彼等の逢う瀬の度毎に、邪悪なる影となって、彼等につき纒い、彼等と同じ家に泊り込み、あるいは襖の外から、或は壁一重の隣室から、時には、その壁に隙見の穴さえあけて、彼等の一挙一動を監視した。(それを相手に悟られない為に、彼はどれ程の艱難辛苦かんなんしんくめたであろう。)そして、ある時はあらわに、ある時はほのかに、恋人同志のあらゆる言葉を聞き、あらゆる仕草を見たのである。
「僕は柾木愛造じゃないんだからね。そんな話はちとお門違かどちがいだろうぜ」
 ある夜のひそひそ話の中では、池内がふとそんなことを云い出すのが聞えた。
「ハハハハハハ、まったくだわ。あんたは話せないけど可愛い可愛い人。柾木さんは話せるけど、虫酸むしずの走る人。それでいいんでしょ。あんなお人好しの、でくの坊に惚れる奴があると思って。ハハハハハハハハ」
 芙蓉の低いけれど、傍若無人ぼうじゃくぶじんな笑い声が、きりの様に、柾木の胸をつき抜いて行った。その笑い声は、いつかの晩の自動車の中でのそれと、全く同じものであった。柾木にとっては、無慈悲な意地悪な厚さの知れぬ壁としか考えられない所のものであった。
 彼の立聞きを少しも気附かないで、ほしいままに彼を噂する二人の言葉から、柾木は、やっぱり彼がこの世のけもので、全く独りぼっちな異人種であることを、愈々いよいよ痛感しないではいられなかった。俺は人種が違うのだ。だから、こういう卑劣な唾棄すべき行為が、却って俺にはふさわしいのだ。この世の罪悪も俺にとっては罪悪ではない。俺の様な生物は、このほかにやって行き様がないのだ。彼は段々そんな事を考える様になった。
 一方、彼の芙蓉に対する恋慕の情は、立聞きや隙見が度重なれば重なる程、息も絶え絶えに燃え盛って行った。彼は隙見の度毎に、一つずつ、彼女の肉体の新しい魅力を発見した。襖の隙から、薄暗い室内の、蚊帳かやの中で(もう其頃は夏が来ていたから)海底の人魚の様に、ほの白く蠢く、芙蓉の長襦袢ながじゅばん姿を眺めたことも、一度や二度ではなかった。
 その様な折には、彼女の姿は、母親みたいに懐しく、なよなよと夢の様で、寧ろ幽幻ゆうげんにさえ感じられた。
 だが、まるで違った場面もあった。そこでは、彼女は物狂わしき妖女となった。振りさばいた髪の毛は、無数の蛇ともつれ合って○○○かなぐり捨てた全身が、まぶしいばかり桃色に輝き、○○○○○○○、そらざまにゆらめき震えた。柾木は、その兇暴なる光景に耐えかねて、ワナワナと震い出した程である。
 ある晩のこと、彼はこっそりと、二人の隣の部屋に泊り込んで、彼等が湯殿へ行った間に、境の砂壁の腰貼こしばりの隅に、火箸ひばしで小さな穴をあけた。これが病みつきとなって、それ以来、彼は出来る限り、二人の隣室へ泊り込むことを目論んだ。そして、どのうちの壁にも、一つずつ、小さな穴をあけて行った。彼はこのきつねの様に卑劣な行為を続けながら、ふと「俺はここまで堕落だらくしたのか」と、慄然りつぜんとすることがあった。併し、それは烈しい驚きではあっても、決して悔恨かいこんではなかった。世の常ならぬ愛慾の鬼奴おにめが、彼を清玄の様に、執拗しつような恥しらずにしてしまった。
 彼は不様な格好で、這いつくばい、壁に鼻の頭をすりつけて、辛棒しんぼう強く、小さな穴を覗き込むのだが、その向う側には、凡そ奇怪で絢爛けんらんな、地獄の覗き絵がくりひろげられていた。毒々しい五色ごしきのもやが、目もあやに、もつれ合った。ある時は、芙蓉のうなじが、眼界一杯に、つややかな白壁の様に拡がって、ドキンドキンと脈をうった。ある時は、彼女の柔かい足の裏が真正面に穴をふさいで、老人の顔に見えるそこのしわが、異様な笑いを笑ったりした。だが、それらのあらゆる幻惑の中で、柾木愛造を最も引きつけるものは、不思議なことに、彼女のふくらはぎに、一寸ばかり、どす黒い血をにじませた、きずの痕であった。それはひょっとしたら、池内の爪がつけたものだったかも知れぬけれど、彼の目の前に異様に拡大されて蠢いていた、まぶしい程つややかな、薄桃色のふくらはぎと、その表面を無残にもかきいた、生々しい傷痕のみにくさとが、怪しくも美しい対照をして、彼の眼底に焼きついたのであった。
 だが、彼のこの人でなしな所業は、恥と苦痛の半面に、奇怪な快感を伴っていたとは云え、それは、日一日と、気も狂わんばかりに、彼をいらだたせ、悩ましこそすれ、決して彼を満足させることはなかった。襖一重の声を聞き、眼前一尺の姿を見ながら、彼と芙蓉との間には、無限のへだたりがあった。彼女の身体はそこにありながら、掴むことも、いだくことも、触れることさえ、全く不可能であった。しかも、彼にとっては永遠に不可能な事柄を、池内光太郎は、彼の眼前で、さも無雑作むぞうさに、自由自在に振舞っているのだ。柾木愛造が、この世の常ならぬ、無残な苛責かしゃくに耐えかねて、遂にあの恐ろしい考を抱くに至ったのは、誠に無理もないことであった。それは実に、途方もない、気違いめいた手段ではあった。だが、それがたった一つ残された手段でもあったのだ。それを外にしては、彼は永遠に、彼の恋を成就じょうじゅするすべはなかったのである。


 彼が尾行や立聞きを始めてから一月ばかり立った時、悪魔が彼の耳元に、ある不気味な思いつきを囁き始めたのであったが、彼はいつとなく、その甘い囁きに引入れられて行って、半月程の間に、とうとうそれを、思い帰す余地のない実際的な計画として、決心するまでになってしまった。
 ある晩、彼は久しぶりで、池内光太郎の自宅を訪問した。彼の方では、あの秘密な方法で、繁々池内に会っていたけれど、池内にしては、一月半ぶりの、やや気拙きまずい対面だったので、何かと気を使って、例の巧みな弁口で、池内自身もその後芙蓉とは、まるで御無沙汰ごぶさたになっているていに、云いつくろうのであったが、柾木は、相手が芙蓉のことを云い出すのを待ち兼ねて、それをきっかけに、さも何気なく、
「イヤ、木下芙蓉と云えば、僕は少しばかり君にすまない事をしているのだよ。ナニ、ほんの出来心なんだけれど、実はね、もう一月以上も前のことだが、芙蓉がS劇場に出ていた時分、丁度芝居がはねる時間に、あの辺を通り合わせたものだから、楽屋口で芙蓉の出て来るのを待って、僕の車にのせて、家まで送ってやったことがあるのだよ。でね、その車の中で、つい出来心で、僕はあの女に云い寄った訳なのさ。だが君、怒ることはないよ。あの女は断然はねつけたんだからね。とても僕なんかの手には合わないよ。君に内緒にして置くと、何だか僕が今でも、君とあの女の間柄をねたんでいる様に当って、気が済まないものだから、少し云いにくかったけれど、恥しい失敗談を打あけた訳だがね。全く出来心なんだ。もうあの女に会い度いとも思わぬよ。君も知っている通り、僕は真剣な恋なんて、出来ない男だからね」
 という様なことをしゃべった。なぜ、そうしなければならないのか、彼自身にも、はっきり分らなかったけれど、あの一事いちじを秘密にして置いては、何だかまずい様に思われた。それをあからさまに云ってしまった方が、却って安全だという気がした。
 狂人というものは、健全な普通人を、一人残らず、彼等の方が却って気違いだと、思込んでいるものであるが、すると、柾木愛造が、人厭いであったのも、彼以外の人間を、異国人の様に感じたのも、凡て、彼が最初から、幾分いくぶん気違いじみていたことを、証拠立てているのかも知れない。
 事実、彼は最早や気違いという外はなかった。あの執拗で、恥知らずな尾行や立聞きや隙見なども、云うまでもなく狂気の沙汰さたであった。今度は彼は、それに輪をかけた、実に途方もない事を始めたのである。と云うのは、あの人厭いな陰気者の柾木愛造が、突然、新青年の様に、隅田川すみだがわの上流の、とある自動車学校に入学して、毎日欠かさずそこへ通って、自動車の運転を練習し始めたことで、しかも、彼は、それが彼の恐ろしい計画にとって、必然的な準備行為であると、真面目に信じていたのである。
「僕は最近、不思議なことを始めたよ。僕みたいな古風な陰気な男が、自動車の運転を習っていると云ったら、君は定めし驚くだろうね。僕の所の婆やなんかも、僕ががらにもなく朝起きをして、一日も休まず自動車学校へ通学するのを見て、たまげているよ。毎日毎日練習用のフォードのぼろ車をいじくっている内に、妙なもので、少しはこつが分って来た。この分なら、もう一月もしたら、乙種おつしゅの免状位取れ相だよ。それがうまく行ったら、僕は一台車を買込むつもりだ。そして、自分で運転して、気散きさんじな自動車放浪をやるつもりだ。自動車放浪という気持ちが、君は分るかね。僕にしては、実にすばらしい思いつきなんだよ。たった一人で箱の中に座っていて、少しも人の注意を惹かないで、しかも非常な速度で自由自在に、東京中を放浪して歩くことが出来るのだ。君も知っている様に、僕が外出そとで嫌いなのは、この自分の身体を天日や人目にさらす感じが、たまらなくいやだからだ。車にのるにしても、運転手に物を云ったり指図をしたりしなければならぬし、僕がどこへ行くかと云うことを、少くとも運転手丈けには悟られてしまうからね。それが、自分で箱車を運転すれば、誰にも知られず、丁度僕の好きな土蔵の中にとじ籠っている様な気持のままで、あらゆる場所をうろつき廻ることが出来る。どんなにぎやかな大通りをも、雑踏をも、全く無関心な気持で、かくみのを着た仙人の様に、通行することが出来る。僕みたいな男にとっては、何と理想的な散歩法ではあるまいか。僕は今、子供の様に、乙種運転手免状が下附かふされる日を、待ちこがれているのだよ」
 柾木はこんな意味の手紙を、池内光太郎に書いた。それは彼の犯罪準備行為を、態と大胆に曝露ばくろして、相手を油断させ、相手にうたがいを抱かせまいとする、捨身の計略であった。この場合、大胆に曝露することが、いたずらに隠蔽いんぺいするよりも、却って安全であることを、彼はよく知っていたのだ。無論その時分にも、一方では例の七日に一度位の、尾行と立聞きを続けていたので、彼はその手紙を受取ってからの、池内の挙動に注意したが、彼が柾木の奇行を笑う外に、何の疑う所もなかったことは、いうまでもない。
 随分金も使ったけれども、僅か二月程の練習で、彼は首尾よく乙種運転手の免状を手に入れることが出来た。同時に、彼は自動車学校の世話で、箱型フォードの中古品ちゅうこひんを買入れた。やくざなフォードを選んだのは、費用をはぶく意味もあったが、当時東京市中のちん自動車には、過半フォードが使用されていたので、その中に立混って、目立たぬという点が、主たる理由であった。ある理由から、彼はそれを買入れる時、客席の窓に新しくシェードを取りつけさせることを忘れなかった。前にも云った様に、彼のK町の家には、広い荒庭あれにわがあったので、車庫を建てるのも、少しも面倒がなかった。
 車庫が出来上ると、柾木はそこのドアをしめ切って、婆やに気附かれぬ様に注意しながら、二晩もかかって、大工の真似事をした。それは、彼の自動車の後部のクッションを取りはずして、その内部のうつろな部分に、板を張ったり、クッションそのものを改造したりして、そこに人一人横になれる程の、箱を作ることであった。つまり、外部からは少しも分らぬけれど、そのクッションの下に、長方形の棺桶かんおけの様な、空虚な部分が出来上った訳である。
 さて、この奇妙な仕事がすむと、彼は古着屋町で、賃車ちんぐるまの運転手が着そうな、黒の詰襟つめえり服と、スコッチの古オーバと(その時分気候は已に晩秋になっていたので)目まで隠れる大きな鳥打帽とりうちぼうとを買って来て、(か様な服装を選んだのにも、無論理由があった)それを身につけて運転手台におさまり、時を選ばず、市中や近郊をドライヴし始めたのである。
 それは誠に奇妙な光景であった。雑草の生い茂った荒庭。壁のはげ落ちた土蔵。倒れかかったあばら家。くずれた土塀。その荒涼たる化物屋敷の門内から、仮令フォードの中古ちゅうぶるにもしろ、見たところ立派やかな自動車が、それが夜の場合には、怪獣の目玉の様な、二つの頭光を、ギラギラと光らせて、毎日毎日、どことも知れず辷り出して行くのである。婆やを初め、附近の住民達は、もうその頃は噂の拡まっていた、この奇人の、世にも突飛とっぴな行動に、目を見はらないではいられなかった。
 一月ばかりの間、彼は、運転を覚えたばかりの嬉しさに、用もないのに自動車を乗り廻している、というていよそおいつつ、無闇と彼の所謂自動車放浪を試みた。市内は勿論、道路の悪くない限り、近郊のあらゆる方面に遠乗りをした。ある時は、自動車を、池内光太郎の勤先つとめさきの会社の玄関へ横づけにして、驚く池内を誘って宮城前きゅうじょうまえの広場から、上野公園を一順して見せたこともあった。池内は「君に似合わしからぬ芸当だね。だが、フォードの古物とは気が利かないな」などと云いながら、でも、少なからず驚いている様子だった。若し彼が、現に彼の腰かけていた、クッションの下に、妙な空隙くうげきこしらえてあること、又遠からぬ将来、そこへ何物かの死体が隠されるであろうことを知ったなら、どんなに青ざめ、震え上ったことであろうと思うと、運転しながら、柾木は背中を丸くし、顔を胸に埋めて、湧上って来るニタニタ笑いを、隠さなければならなかった。
 又ある晩は、たった一度ではあったけれど、彼は大胆にも、当の木下芙蓉の散歩姿を、自動車で尾行したこともあった。若しそれを、相手に見つかったならば、彼の計画は殆ど駄目になってしまう程、実に危険な遊戯であったが、併し、危険な丈けに、柾木はゾクゾクする程愉快であった。洋装の美人が、さも気取った様子で、歩道をコツコツと歩いて行く。そのななめうしろから、一台のボロ自動車が、のろのろとついて行くのだ。美人が町角を曲るたびに、ボロ自動車もそこを曲る。まるでひもでつないだ飼犬みたいな感じで、誠に滑稽な、同時に不気味な光景であった。「御令嬢、ホラ、うしろから、あなたの棺桶がおともをしていますよ」柾木はそんな歌を、心の中で呟いて、薄気味の悪い微笑を浮べながら、ソロソロと車を運転するのであった。
 彼がこんな風に、自動車を手に入れてから、一月もの長い間、辛抱しんぼう強く無駄な日を送っていたのは、云うまでもなく、池内を初め婆やだとか近隣の人達に彼の真意を悟られまい為であった。彼が自動車を買ったかと思うと、すぐさま芙蓉が殺されたのでは、少々危険だと考えたのである。だが、これは寧ろ杞憂きゆうであったかも知れない。何故と云って、表面に現われた所では、柾木と芙蓉とは、ただ小学校で顔見知りであった男女が、偶然十数年ぶりに再会して、三四度席を同じうしたまでに過ぎないし、それからでも、已に五ヶ月の月日が経過しているのだから、柾木が自動車を買入れた日と、芙蓉が殺害された日と、仮令ピッタリ一致したところで、この二つの事柄の間に、恐ろしい因果関係が存在しようなどと、誰が想像し得たであろう。どんなに早まったところで、彼には少しの危険さえなかった筈である。
 それは兎も角、流石さすが用心深い柾木も、一月の間の、さも呑気そうな自動車放浪で、最早や充分だと思った。愈々いよいよ実行である。だが、その前に準備して置かねばならぬ、二三のこまごました仕事が、まだ残っていた。と云うのは、賃自動車の目印である、ツーリングの赤いマークを印刷した紙切れを手に入れること、自動車番号を記したテイルの塗り板の替え玉を用意すること、芙蓉の為に安全な墓場を準備して置くことなどであったが、前の二つは大した困難もなく揃えることが出来たし、墓場についても、実に申分もうしぶんのない方法があった。彼はやしきの荒庭の真中に、水のかれた深い古井戸のあることを知っていた。ある日彼は、庭をぶらついていて、態とそこへ足を辷らせ、向脛むこうずねに一寸した傷を拵えて見せた。そして、その事を婆やに告げて、危いからめることにしようと云い出したのである。丁度その頃、近くに道路工事があって、不用の土を運ぶ馬力が、毎日彼の邸の前を通り、工事の現場には、「土御入用ごにゅうようの方は申出て下さい」と立札がしてあった。柾木はその工事監督に頼んで、代金を払って、二車ふたくるまばかりの土を、彼の邸内へ運んで貰うことにしたのである。馬方は、彼の荒庭の中へ馬車を引き込んで、その片隅へ、乱暴に土の山を作って行った。あとは、いつでも好きな時に、人足を頼んで、その土を古井戸の中へほうり込んで貰えばよいのである。云うまでもなく、彼は井戸を埋める前に芙蓉の死骸をその底へ投込み、上から少々土をかけて、人足だちに気附かれることなく、彼女を葬ってやる積りであった。
 さて、準備は遺漏いろうなくととのった。もう決行の日をめるばかりである。それについても、彼は確かな目算があった。というのは、屡々しばしば述べた様に、彼は其の時分までも、例の尾行や立聞きを続けていたので、彼等(池内と芙蓉と)が次に出会う場所も時間も、知れていたし、当時芝居の切れ目だったので、芙蓉は自宅から約束の場所へ出かけるのだが、そんな時に限って、彼女は態と帳場の車を避け、極まった様に、近くのある大通りの角まで歩いて、そこで通りすがりのタクシーを拾うことさえ、彼にはすっかり分っていた。実を云うと、それが分っていたからこそ、彼はあの変てこな、自動車のトリックを思いついた程であったのだから。


 十一月のある一日いちじつ、その日は朝から清々すがすがしく晴れ渡って、高台の窓からは、富士山の頭が、ハッキリ眺められる様な日和ひよりであったが、っても、肌寒いそよ風が渡って、空には梨地なしじの星が、異様に鮮かにきらめいていた。
 その夜の七時頃、柾木愛造の自動車は、二つの目玉を歓喜に輝かせ、爆音華やかに、の化物屋敷の門を辷り出し、人なき隅田つつみを、吾妻橋の方角へと、一文字いちもんじに快走した。運転台の柾木愛造も、軽やかにハンドルを握り、彼に似合わしからぬ口笛さえ吹き鳴らして、さもいそいそと嬉し相に見えた。
 何という晴々とした夜、何という快活な彼のそぶり。あの恐ろしい犯罪への首途かどでとしては、余りにも似合わしからぬ陽気さではなかったか。だが、柾木の気持では、陰惨な人殺しに行くのではなくて、今彼は、十幾年も待ちこがれた、あこがれの花嫁を、お迎いに出かけるのだった。今夜こそ、嘗つては彼の神様であった木下文子が、幾夜の夢に耐え難きまで彼を悩まし苦しめた木下芙蓉の肉体が、完全に彼の所有に帰するのだ。何人なんぴとも、あの池内光太郎でさえも、これをさまたげる力はないのだ。アア、この歓喜を何に例えることが出来よう。透通すきとおった闇夜も、闌干らんかんたる星空も、自動車の風よけガラスの隙間すきまから、彼の頬にざれかかるそよ風も、彼の世の常ならぬ結婚の首途を祝福するものでなくて何であろう。
 木下芙蓉の、その夜の媾曳の時間は八時ということであったから、柾木は七時半には、もうちゃんと、いつも芙蓉が自動車を拾う、大通りの四つ角に、車を止めて待構えていた。彼は運転台で、背を丸くし、鳥打帽をまぶかにして、うらぶれた辻待つじまちタクシーの運転手を装った。前面の風よけガラスには、ツーリングの赤いマークのはいった紙を目立つ様に張り出し、テイルの番号標は、いつの間にか、警察から下附されたものとは、まるで違う番号の、営業自動車用のにせ物に代っていた。それは誰が見ても、ありふれたフォードの、客待ち自動車でしかなかった。
「ひょっとしたら、今夜は何か差支が出来て、約束を変えたのではあるまいか」
 待遠しさに、柾木がふとそんなことを考えた時、丁度それが合図ででもあった様に、向うの町角から、ひょっこりと、芙蓉の和服姿が現われた。彼女は、態と地味な拵えにして、茶っぽいあわせに黒の羽織はおり、黒いショールで、あごを隠して、小走りに彼の方へ近づいて来るのだが、街燈の作りなした影であったか、顔色も、どことなく打沈んで見えた。
 丁度その時は、通り過ぎるから自動車もなかったので、彼女は当然柾木の車に走り寄った。いうまでもなく、柾木の偽瞞ぎまんこうそうして、彼女はその車を、辻待ちタクシーと思い込んでいたのである。
「築地まで、築地三丁目の停留場のそばよ」
 柾木が運転台から降りもせず、顔をそむけたまま、うしろ手にあけた扉から、彼女は大急ぎで辷り込んで、彼の背中へ行先を告げるのであった。
 柾木は、心の内で凱歌がいかを奏しながら、猫背になって命ぜられた方角へ、車を走らせた。さびしい町を幾曲りして、車は順路として、ある明るい、夜店で賑っている、繁華な大通りへさしかかったが、この大通りこそ、柾木の計画にとって、最も大切な場所であった。彼は運転しながら、鳥打のひさしの下から、上目使いに、前の風よけガラスに映る、背後の客席の窓を見つめていた。今か今かと、ある事の起るのを待構えていた。
 すると間もなく、案の定まぶしい燈光をさける為に、半年以前、柾木と同乗した時と同じ様に、芙蓉が客席の四方の窓のシェードを、一つ一つ卸して行くのが見えた。(当時の箱型フォードは凡て、客席と運転手台との間に、ガラス戸の隔てが出来ていた)彼が自動車を買入れた時、態々シェードを取りつけさせた理由は、これであった。柾木は、胸の中で小さな動物が、滅茶苦茶めちゃくちゃにあばれ廻っている様に感じた。一里も走りつづけた程のどが乾いて、舌が木の様にこわばってしまった。だが、彼は断末魔の苦しみで、それをこらえながら、なおも走らせるのであった。
 賑かな大通りの中程へ進んだころ、前方から気違いめいた音楽が聞えて来た。それはその町のとある空地あきちに、だいテントを張って興業していた、娘曲馬団の客寄せ楽隊で、旧式な田舎いなか音楽が、蛮声ばんせいを張り上げて、かっぽれの曲を、滅多無性めったむしょうに吹き鳴らしているのであった。曲馬団の前は、黒山の人だかりが、人道を埋め、車道は雷の様な音を立てて行交ゆきかう電車や、自動車、自転車で、急流を為し、耳をろうする音楽と、目をくらます雑踏が、その辺一帯の通行者から、あらゆる注意力を奪ってしまったかに見えた。柾木が予期した通り、これこそ屈強くっきょうの犯罪舞台であった。
 彼は車道の片側へ車を寄せて、突然停車すると、目に見えぬす早さで、運転台を飛び降り、客席に躍り込んで、ピッシャリと中から扉をしめた。そこは丁度露店の焼鳥屋のうしろだったし、仮令見た人があったところで、完全にシェードが下りているのだから、客席内の様子に気づくはずはなかった。
 躍り込むと同時に、彼は芙蓉の喉を目がけて飛びついて行った。彼の両手の間で、白い柔いものが、しなしなと動いた。
「許して下さい。許して下さい。僕はあなたが可愛かあいいのだ。生かして置けない程可愛いのだ」
 彼はそんな世迷よまよごとを叫びながら、白い柔いものを、くびれて切れてしまう程、ぐんぐんとしめつけて行った。
 芙蓉は、運転手だと思い込んでいた男が、気違いの様に血相をかえて飛び込んで来た時、殺される者のす早い思考力で、咄嗟に柾木を認めた。だが、彼女は、悪夢の中での様に、全身がしびれ、舌がって、逃げ出す力も、助けを呼ぶ力もなかった。妙なことだけれど、彼女は大きく開いた目で、またたきもせず柾木の顔を見つめ、泣き笑いの様な表情をして、さあここをと云わぬばかりに、彼女の首をグッと彼の方へつき出したかとさえ思われた。
 柾木は必要以上に長い間、相手の首をしめつけていた。離そうにも、指が無感覚になってしまって、云うことを聞かなかったし、そうでなくても、手を離したら、ビチビチ躍り出すのではないかと、安心が出来なんだ。だが、いつまで押えつけている訳にも行かぬので、おそる怖る手を離して見ると、被害者はくらげの様に、グニャグニャと、自動車の底へ、くずおれてしまった。
 彼はクッションを取りはずし、難儀をして、芙蓉の死骸を、その下の空ろな箱の中へおさめ、元通りクッションをはめて、その上にぐったり腰をおろすと、気をしずめる為に、暫くの間、じっとしていた。外には、相変らず、かっぽれの楽隊が、勇ましく鳴り響いていたが、それが実は、彼をだます為に、態と何気なく続けられているので、安心をして、シェードをあげると、窓ガラスの外に、無数の顔が折り重なって、千の目で、彼を覗き込んでいるのではないかと思われ、迂濶うかつにシェードを上げられない様な気がした。
 彼は一位の幕の隙間から、おずおずと外を覗いて見た。だが、安心したことには、そこには彼を見つめている一つの顔もなかった。電車も自転車も歩行者も、彼の自動車などには、全然無関心に、いそがしく通り過ぎて行った。
 大丈夫だと思うと、少し正気づいて、乱れた服装をととのえたり、隠し残したものはないかと、車の中を改めたりした。すると床のゴムの敷物の隅に、小さな手提鞄てさげかばんが落ちているのに気づいた。無論芙蓉の持物である。開いて見ると、別段の品物も入っていなかったが、中に銀の懐中鏡があったので、ついでにそれをとり出して、自分の顔を写して見た。丸い鏡の中には、少し青ざめていたけれど、別に悪魔の形相も現われていなかった。彼は長い間鏡を見つめて、顔色をととのえ、呼吸を静める努力をした。やがて、やや平静を取戻した彼は、いきなり運転台に飛び戻って、大急ぎで電車道を横切り、車を反対の方角に走らせた。そして、人通りのない淋しい町へ淋しい町へと走って、とある神社の前で車を止め、前後に人のいないのをたしかめると、ヘッドライトを消して置いて、咄嗟のに、シェードを上げ、ツーリングのマークをはがし、テイルの番号標を元の本物と取り換え、再び頭光をつけると、今度はすっかり落ちついた気持で、車を家路へと走らせるのであった。交番の前を通る度に、態と徐行して、「お巡りさん、私ゃ人殺しなんですよ。このうしろのクッションの下には、美しい女の死骸が隠してあるんですよ」などとひとりごちて、ひどく得意を感じさえした。


 邸について、車を車庫に納めると、もう一度身の廻りを点検して、シャンとして玄関へ上り、大声に台所の婆やを呼び出した。
「お前済まないが、一寸使いに行って来ておくれ。浅草の雷門かみなりもんの所に、○○という洋酒屋があるだろう。あすこへ行ってね、何でもいいから、これで買える丈けの上等の葡萄酒ぶどうしゅを一本取ってくるのだ。サア、ここにおあしがある」
 そういって、彼が十円札を二枚つき出すと、婆やは、彼の下戸げこを知っているので、「マア、お酒でございますか」と妙な顔をした。柾木は機嫌よくニコニコして「ナニ、一寸ね、今晩は嬉しいことがあるんだよ」と弁解したが、これは、婆やが雷門まで往復する間に、芙蓉の死骸を、土蔵の二階へ運ぶ為でもあったけれど、同時に又、この不可思議な結婚式の心祝いに、少々お酒がほしかったのでもあった。
 婆やの留守の三十分ばかりの間に、彼は魂のない花嫁を、土蔵の二階へ運んだ上、例の自動車のクッションの下の仕掛けを、すっかり取りはずして、元々通りに直して置く暇さえあった。こうして彼は、最後の証拠を堙滅いんめつしてしまった訳である。
 この上は、あかずの土蔵へ闖入ちんにゅうして、芙蓉の死骸そのものを目撃しない以上、誰一人彼を疑い得る者はない筈であった。
 間もなくなかきょうせる柾木と、木下芙蓉の死体とが、土蔵の二階でさし向いであった。燭台しょくだいのたった一本の蝋燭ろうそくが、赤茶けた光で、そこに恥もなくよこたわった、花嫁御の冷い裸身を照らし出し、それが、部屋の一方に飾ってある、等身大の木彫りの菩薩像ぼさつぞうや、青ざめたお能の面と、一種異様の、陰惨な、甘酸っぱい対照を為していた。
 たった一時間前まで、心持の上では、千里も遠くにいて、寧ろ怖いものでさえあった、世間並に意地悪で、利口者の人気女優が、今何の抵抗力もなく、赤裸々のむくろを、彼の眼前一尺にさらしているかと思うと、柾木は不思議な感じがした。全く不可能な事柄が、突然夢の様に実現した気持であった。今度は反対に、軽蔑したり、憐んだりするのは、彼の方であった。手を握るはおろか、ほおをつついても、抱きしめても、ほうり出しても、相手はいつかの晩の様に、彼を笑うことも、あざけることも出来ないのだ。何たる驚異であろう。幼年時代には彼の神様であり、この半年の間は、物狂おしきあこがれの的であった木下芙蓉が、今や全く彼の占有に帰したのである。
 死体は、首に青黒い絞殺のあとがついているのと、皮膚の色がやや青ざめていた外は、生前と何の変りもなかった。大きく見開いた、瀬戸物の様なうつろな目が、空間を見つめ、だらしなく開いた唇の間から、美しい歯並はなみと舌の先が覗いていた。唇に生色がなくて、何とやら花やしきの生人形いきにんぎょうみたいであったが、それ故に、却って(十二字削除)皮膚は青白くすべっこかった。仔細に見れば、二の腕や腿のあたりに生毛うぶげも生えていたし、毛穴も見えたけれど、それにもかかわらず、全体の感じは、すべっこくて、透通すきとおっていた。
 非現実的な蝋燭の光が、身体全体に、無数の柔い影を作った。胸から腹の表面は、砂漠の、砂丘の写真の様に、蔭ひなたが、雄大なるうねりを為し、身体全体は、夕日を受けた奇妙な白い山脈の様に見えた。気高くそびえたみね続きの、不可思議な曲線、なめらかな深い谷間の神秘なる蔭影、柾木愛造はそこに、芙蓉の肉体のあらゆる細部にわたって、思いもよらぬ、微妙な美と秘密とを見た。
 生きている時は、人間はどんなにじっとしていても、どこやら動きの感じを免れないものだが、死者には全くそれがない。このほんの僅かの差違が、生体と死体とを、まるで感じの違ったものに見せることは、恐ろしかった。芙蓉はあくまでも沈黙していた。あくまでも静止していた。だらしのない姿を曝しながら、しかりつけられた小娘の様に、いじらしい程おとなしかった。
 柾木は彼女の手を取って、膝の上でもてあそびながら、じっとその顔に見入った。強直ごうちょくの来ぬ前であったから、手はくらげの様にぐにゃぐにゃしていて、その癖非常な重さだった。皮膚はまだ、日向水ひなたみず位の温度を保っていた。
「文子さん、あなたはとうとう僕のものになりましたね。あなたの魂が、いくらあの世で意地悪を云ったり、嘲笑あざわらったりしても、僕は何ともありませんよ。なぜって、僕は現にこうして、あなたの身体そのものを自由にしているのですからね。そして、あなたの魂の方の声や表情は、聞えもしなければ、見えもしないのですからね」
 柾木が話しかけても、死骸は生人形みたいに黙り返っていた。空ろな目が、かすみのかかった様に、白っぽくて、白眼の隅の方に、目立たぬ程、灰色のポツポツが見えていた。(それの恐ろしい意味を、柾木はまだ気づかなかったけれど)顎がひどく落ちて、口があくびをした様に見えるのが、少し気の毒だったので、彼は手で、それをグッと押し上げてやった。押し上げても、押し上げても、元に戻るものだから、口を塞いでしまうのに、長い間かかった。でも、塞いだ口は、一層生前に近くなって、厚ぼったい花弁の重なり合った様な恰好かっこうが、いとしく、好ましかった。可愛らしい小鼻がいきんだ様に開いて、その肉が美しく透通って見えるのも、云い難き魅力であった。
「僕達はこの広い世の中で、たった二人ぼっちなんですよ。誰も相手にしてくれない、のけ者なんですよ。僕は人に顔を見られるのも恐ろしい、人殺しの大罪人だし、あなたは、そう、あなたは死びとですからね。私達はこの土蔵の厚い壁の中に、人目をさけて、ひそひそと話をしたり、顔を眺め合っているばかりですよ。淋しいですか。あなたはあんな華やかな生活をしていた人だから、これでは、あんまり淋し過ぎるかも知れませんね」
 彼はそんな風に、死骸と話し続けながら、ふと古い古い記憶を呼起よびおこしていた。田舎いなか風の、古めかしく陰気な、八畳の茶の間の片隅に、内気な弱々しい子供が、積木のおもちゃで、彼のまわりに切れ目のない垣を作り、その中にチンと坐って、女の子の様に人形をいだいて、涙ぐんで、そのお人形と話をしたり、頬ずりをしたりしている光景である。云うまでもなく、それは柾木愛造の六七才の頃の姿であったが、その折の内気な青白い少年が、大きくなって、積木の垣の代りに、土蔵の中にとじ籠り、お人形の代りに芙蓉のむくろと話をしているのだ。何という不思議な相似であろう。柾木はそれを思うと、急に目の前の死骸がゾッと総毛立つ程恋しくなって、それが遠い昔のお人形でもある様に、芙蓉の上半身を抱上げて、その冷たい頬に彼の頬を押しつけるのであったが、そうしてじっとしていると、まぶたが熱くなって、目の前がふくれ上って、ポタポタと涙が流れ落ち、それが熱い頬と冷い頬の合せ目を、顎の方へツーツーと辷って行くのが感じられた。
 土蔵の中は全く別世界であったし、相手が魂のない生人形であったから、柾木はあらゆる恥を忘れ、子供の様に顔をしかめて、しゃくり上げながら、泣きたい丈け泣き、しゃべり度いことを喋った。二人の顔の間が、○○○○○○○○、○○○○○○○○○○○○○○、○○○○、○○○○○○○○○○○○○○○○、○○○○○○○○○○○○○○。○○○○○○○○○○、○○○○○○○○○○○、○○○○○○○、○○○○○○○○ばならなかった。
 か様にして、厭人病者と死骸との、此世このよのものならぬ狂体は、不気味に、執拗に、その夜一夜、のあけるまでも、続けられたのである。


 その翌朝よくあさ、北側の小さな窓の、鉄格子のむこうから、晩秋のうららかな青空が覗き込んだ時、柾木愛造は、青黒く汚れた顔に、黄色くしぼんだ目をして、部屋の片隅の、菩薩の立像の足元にくずおれていたし、芙蓉の水々しいむくろは、○○○○○○○、悲しくも既に強直して畳の上に横たわっていた。だが、それは、ある種の禁制の生人形の様で、決して醜くなかったばかりか、寧ろ異様になまめかしくさえ感じられた。
 柾木はその時、疲れ切った脳髄を、むごたらしく使役して、奇妙な考えに耽っていた。最初の予定では、たった一度、芙蓉を完全に占有すれば、それで彼の殺人の目的は達するのだから、昨夜ゆうべの内に、こっそりと、死骸を庭の古井戸の底へ隠してしまう考えであった。それで充分満足する筈であった。ところが、これは彼の非常な考え違いだったことが分って来た。
 彼は、魂のない恋人のむくろに、こうまで彼を惹きつける力がひそんでいようとは、想像もしていなかった。死骸であるが故に、却って、生前の彼女にはなかったところの、一種異様の、人外境の魅力があった。むせ返る様な香気の中を、底知れぬ泥沼へ、果てしも知らず沈んで行く気持だった。悪夢の恋であった。地獄の恋であった。それ故に、この世のそれの幾層倍、強烈で、甘美で、物狂わしき恋であった。
 彼は最早や芙蓉のなきがらと別れるに忍びなかった。彼女なしには生きて行くことは考えられなかった。この土蔵の厚い壁の中の別世界で、彼女のむくろと二人ぽっちで、いつまでも、不可思議な恋にひたっていたかった。そうする外には何の思案も浮ばなかった。「永久に……」と彼は何心なにごころなく考えた。だが、「永久」という言葉に含まれた、ある身の毛もよだつ意味に思い当った時、彼は余りの怖さに、ピョコンと立上って、いきなり部屋の中を、忙し相に歩き始めた。一刻も猶予のならぬことだった。だが、どんなに急いでも慌てても、彼には(恐らく神様にだって)どうすることも出来ないのだ。
「蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、蟲、ゝゝゝゝゝゝゝゝゝゝ」
 彼の白い脳髄のひだを、無数の群蟲ぐんちゅうが、ウジャウジャ這い廻った。あらゆるものをくらいつくす、それらの微生物の、ムチムチという咀嚼そしゃくの音が、耳鳴りの様に鳴り渡った。
 彼は長い躊躇ちゅうちょのあとでわ、朝の白い光線に曝された、恋人の上にかがみ込んで、彼女の体を注視した。一見した所、死後強直が、さき程よりも全身に行渡って、作り物の感じを増した外、さしたる変化もない様であったが、仔細に見ると、もう目がやられていた。白眼の表面は、灰色の斑点はんてんで、殆どおおい尽され、黒目もそこひの様に溷濁こんだくして、虹彩こうさいがモヤモヤとぼやけて見えた。そして、目全体の感じが、ガラス玉みたいに、滑っこくて、固くて、しかもひからびた様に、うるおいがなくなっていた。そっと手を取って眺めると、拇指おやゆびの先が、片輪みたいに、てのひらの方へ曲り込んだまま、動かなかった。○○○○○○○○○○○、○○○○○○○○○○。
 彼は胸から背中の方へ目を移して行った。無理な寝方をしていたので、肩の肉が皺になって、そこの部分の毛穴が、異様に大きく開いていたが、それを直してやる為に、一寸身体を持上げた拍子に、背中の畳に接していた部分が、ヒョイと彼の目に映った。それを見ると、彼はギョクンとして思わず手を離した。そこには、かの「死体の紋章」と云われている、青みがかった鉛色の小斑点が、已に現われていたのだった。
 これらの現象は凡て正体の曖昧あいまいな、極微有機物の作用であって、死後強直というえたいの知れぬ現象すらも、腐敗の前兆をなす所の、一種の糜爛びらんであった。柾木は嘗つて、何かの書物で、この極微有機物には、空気にて棲息せいそくするもの、空気なくとも棲息するもの、および両棲的なるものの三類があることを読んだ。それが一体何物であるか、何処どこからやって来るかは、非常に曖昧であったけれど、兎に角、目に見えぬ黴菌ばいきんの如きものが、恐ろしい速度で、秒一秒と死体をむしばみつつあることは確かだった。相手が目に見えぬえたいの知れぬ蟲丈けに、どんな猛獣よりも一層恐ろしく、ゾッとする程不気味に感じられた。
 柾木は、ほのおの見えぬ焼け焦げが、見る見る円周を拡げて行くのを、どうすることも出来ない時の様な、恐怖と焦燥とを覚えた。立っても坐ってもいられない気持だった。と云って、どうすればよいのか、少しも考えが纒まらなんだ。
 彼は何の当てもなく、せかせかと梯子段はしごだんを降りて母屋おもやの方へ行った。婆やが妙な顔をして「ご飯に致しましょうか」と尋ねたが、彼は「いや」と云った丈けで、又蔵の前まで帰って来た。そして、外側から錠前を卸すと、玄関へ走って行って、そこにあった下駄げたつっかけ、車庫を開いて、自動車を動かす支度したくを始めた。エンジンが温まると、彼はそのまま運転台に飛乗って、車を門の外へ出し、吾妻橋の方角へ走らせた。賑かな通りへ出ると、その辺に遊んでいた子供達が、運転台の彼を指さして笑っているのに気づいた。彼はギョッとして青くなったが、次の瞬間、彼が和服の寝間着姿のままで車を運転していたことが分った。ナアンダと安心したけれど、そんな際にも、彼は顔を真赤にして、まごつきながら、車の方角を換え始めた。
 大急ぎで洋服に着換えて、再び門を出た時も、彼はどこへ行こうとしているのだか、まるで見当がついていなかった。その癖、彼の頭は脳味噌がグルグル廻る程、忙しく働いていた。真空、ガラス箱、氷、製氷会社、しおづけ、防腐剤、クレオソート、石炭酸、…………死体防腐に関するあらゆる物品が、意識の表面に浮上うきあがっては沈んで行った。彼は町から町へ、無意味に車を走らせた。そして、非常な速度を出している癖に、同じ場所を幾度も幾度も通ったりした。ある町に氷と書いた旗の出ている家があったので、彼はそこで車を降りて、ツカツカと家の中へ這入って行った。みせに青ペンキを塗った大きな氷室ひょうしつが出来ていた。「もし、もし」と声をかけると、奥から四十ばかりのお神さんが出て来て、彼の顔をジロジロと眺めた。「氷をくれませんか」と云うと、お神さんは面倒臭そうな風で、「いか程」といた。無論彼女は病人用の氷の積りでいるのだ。
「アノ、頭を冷すんですから、沢山たくさんりません。少しばかり分けて下さい」
 内気の虫が、彼の言葉を、途中で横取りして、まるで違ったものに飜訳してしまった。
 なわでからげてもらった小さな氷を持って、車に乗ると、彼は又当てもなく運転を続けた。運転台の床で氷がとけて、彼の靴の底をベトベトにぬらした時分、彼は一軒の大きな酒屋の前を通りかかって、そこの店に三尺四方位の上げ蓋の箱に、鹽が一杯に盛り上っているのを発見すると、又車を降りて、店先に立った。だが、不思議な事に、彼はそこで鹽を買う代りに、コップに一杯酒をついで貰って、車を止めたのはそれが目的でもあったかの様に、グイとあおった。
 何の為に車を走らせているのか、分らなくなってしまった。ただ、何かにウオーウオーと追駈けられる気持で、せかせかと町から町を走り廻った。呑みつけぬ酒の為に、顔がかっかとほてって、肌寒い気候なのに、額にはビッショリ汗の玉が発疹はっしんした。そんなでいて、併し、頭の中の、彼の屋敷の方角に当る片隅には、絶えず芙蓉の死体が鮮かに横わっていた。そして、その幻影のクッキリと白い裸体が、焼け焦げが拡がる様に、刻々に蝕まれて行くのが、見えていた。「こうしてはいられない。こうしてはいられない」彼の耳元で、ブツブツブツブツそんな呟きが聞えた。
 無意味な運転を二時間余り続けた頃、ガソリンが切れて、車が動かなくなった。しかも、それが丁度ガソリン販売所のない様な町だったので、車を降りてその店を探し廻り、バケツで油を運搬するのに、悲惨な程間の抜けた無駄骨折りをしなければならなかった。そして、やっと車が動く様になった時、彼は始めて気附いた様に「ハテ、俺は何をしていたのだっけ」と暫く考えていたが、「アアそうだ。俺は朝飯をたべていないのだ。婆やが待っているだろう。早く帰らなければ」と気がついた。彼は側に立止って彼の方を見ていた小僧さんに道をいて、家の方角へと車を走らせた。三十分もかかって、やっと吾妻橋へ出たが、その時また、彼自身のやっていることに不審を抱いた。「御飯」のことなどとっくに忘れていたので、車を徐行させて、ボンヤリ考え込まなければならなかった。だが、今度は意外にも、天啓てんけいの様にすばらしい考えがひらめいた。「チェッ、俺はさっきから、なぜそこへ気がつかなかったろう」彼は腹立たしげに呟いて、併し晴々した表情になって、車の方向を変えた。行先は本郷の大学病院わきの、ある医療器械店であった。
 白く塗った鉄製の棚だとか、チカチカ光る銀色の器械だとか、皮をいた赤や青の毒々しい人体模型だとか、薄気味悪い品物でうずまっている、広い店の前で、彼は暫く躊躇していたが、やがて影法師みたいにフラフラとそこへ這入って行くと、一人の若い店員をとらえて、何の前置きもなく、いきなりこんなことを云った。
「ポンプを下さい。ホラ、あの死体防腐用の、動脈へ防腐液を注射する、あの注射ポンプだよ。あれを一つ売って下さい」
 彼は相当ハッキリ口を利いたつもりなのに、店員は「へ?」と云って、不思議相に彼の顔をジロジロ眺めた。彼は、今度は顔を真赤にして、もう一度同じことを繰返した。
「存じませんね、そんなポンプ」
 店員はボロ運転手みたいな彼の風体ふうていを見下しながら、ぶっきら棒に答えた。
「ない筈はないよ。ちゃんと大学で使っている道具なんだからね。誰かほかの人に訊いて見て下さい」
 彼は店員の顔をグッとにらみつけた。果し合いをしても構わないといった気持だった。店員はしぶしぶ奥へ這入って行ったが、暫くすると少し年とった男が出て来て、もう一度彼の註文を聞くと、変な顔をして、
「一体何にお使いなさいますんで」
 と尋ね返した。
「無論、死骸の動脈へフォルマリンを注射するんです。あるんでしょう。隠したって駄目ですよ」
「御冗談でしょう」と番頭は泣き笑いみたいな笑い方をして、「そりゃね、その注射器はあるにはありますがね。大学でも時たましか註文のない様な品ですからね。あいにく手前共には持合せがないのですよ」と一句一句、叮嚀に言葉を切って、子供に物を云う様な調子で答えた。そして、気の毒相に柾木の取乱した服装を眺めるのだった。
「じゃ、代用品を下さい。大型の注射器ならあるでしょう。一番大きい奴を下さい」
 柾木は自分の言葉が自分の耳へ這入らなかった。ただ轟々ごうごうのどの所が鳴っている様な感じだった。
「それならありますがね。でも、変だな。いいんですか」
 番頭は頭を掻きながら、躊躇していた。
「いいんです。いいからそれを下さい。サア、いくらです」
 柾木は震える手で蟇口がまぐちを開いた。番頭は仕方なく、その品物を若い店員に持って来させて、「じゃあまあお持ちなさい」と云って柾木に渡した。
 柾木は金を払って、その店を飛び出すと、それから、今度は近くの薬屋へ車をつけて、防腐液をしこたま買求め、あわただしく家路についたのであった。


 ギャッと叫んで逃げ出す程、ひどくなっているのではないかと、柾木は息も止まる気持で、階段をあがったが、案外にも、芙蓉の姿は、却って、朝見た時よりも美しくさえ感じられた。触って見れば強直状態であることが分ったけれど、見た所では、少しむくんだ青白い肉体が艶々つやつやしくて、海底に住んでいる、ある血の冷い美しい動物みたいな感じがした。そして、(以下三行削除)朝までは、まゆが奇怪にしかめられ、顔全体が苦悶の表情を示していたのに、その表情は(二十一字削除)今彼女は、聖母の様にきよらかな表情となって、彼がふさいでやった唇の隅が、少しほころび、白い歯でニッコリと笑っていた。目が空ろだったし、顔色が蝋の様に透通っていたので、それは大理石に刻んだ、微笑せるそこひ(盲目のしき魅力)の聖母像であった。
 柾木はすっかり安心した。さっきまでの焦燥が馬鹿馬鹿しく思われて来た。若し芙蓉のこの刹那せつなの姿を、永遠に保つことが出来たら、そして、○○○○○○○○○○○、○○○○○○○○○○○○○○○○○○していられたら。
 かなわぬことと知りながら、彼は果敢はかないねがいを捨て兼ねた。
 彼は医学上の智識も技術も、まるで持合わせなかったけれど、物の本で、動脈から防腐剤を注射して、全身の悪血あくけつし出してしまうやり方が、最も新しい手軽な死体防腐法であることを読んでいた。防腐液のうすめ方も記憶していた。そこで、はなはだ不安だったけれど、兎も角、それをやって見る事にして、階下から水を入れたバケツや洗面器などを運んで(婆やに気附かれぬ為に、どれ程みじめな心遣いをしたことであろう)フォルマリンの溶液を作り、注射の用意をととのえた。書物には○○○○○○○○○○○(○○○○)○○○○○○○○○○、○○○○○○○○、○○○○○○○、○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○。うなぎみたいにヌメヌメと滑るのを、拇指と人差指で逃がさぬ様におさえて置いて、ナイフを当てがって、ブッツリ切ると、○○○○、○○○○○○○○○○○○、○○○○○○○○○○。
 柾木は、まるで彼自身が手術でも受けている様に、まっ青になって、烈しい息づかいをしながら、針をつけないガラスの注射器に、防腐液を含ませ、その先端のとがった部分を動脈の切口にさし込み、継目つぎめの所を息が洩れぬ様に指で圧え、一方の手で、ポンプを押した。だが、こんな作業が彼の様な素人しろうとに出来るものではなかった。彼の指がしびれた様になって、云うことを聞かなかったせいもあるけれど、いくら圧しても、ポンプの中の溶液は減って行かぬのだ。いらいらして、力まかせにグイグイ圧すと、○○○○○○○○○○○○、○○○○○○○○○、○○○○○○、逆に彼の腕にはねかかる。何度やっても同じ事だ。そこで彼は、まるで器械いじりをする小学生の様に、汗みどろの真剣さで、あるいは血管との継目を糸でしばって見たり、或はもう一本の静脈にも同じことをやって見たり、あらゆる手段を試みたが、丁度器械いじりの小学生が、骨を折れば折る丈け、却って器械を滅茶苦茶にしてしまう様に、○○○○○○大きくするばかりであった。結局、彼が無駄な素人手術を思いあきらめたのは、もう夜の十時頃であったが、(何と驚くべき努力であったろう。彼は午後から、殆ど十時間の間、この一事いちじに夢中になっていたのだ)その頃には、用意の洗面器が、(以下二行削除)
 ○○○○○○○○○○○○○、○○○○掃除したり、バケツの水で手を洗ったりしている内に、失望の隙につけ込んで、睡魔が襲い始めた。昨夜一睡もしていないのだし、二日間ぶっ続けに、頭や身体を極度に酷使したので、如何いかに興奮していたとは云え、もう気力が尽きたのである。彼は、バケツや洗面器の赤黒くよどんだ汚水を始末することも忘れて、クラクラとそこへぶっ倒れたまま、いきなりいびきをかき始めた。泥の様な眠りだった。
 殆ど燃え尽きて、ジージーと音を立てている、蝋燭の光が、死人の様に青ざめた顔の、鼻の頭にあぶら汗を浮べ、大きな口を開いて泥睡でいすいしている柾木の気の毒な姿と、その横に、真白に浮上って見える、芙蓉のむくろのなまめいた姿との、奇怪な対照の地獄絵を、赤々と照らし出していた。

十一


 翌日柾木が目を覚ましたのは、もうお昼過ぎであった。ねむりながらも、彼の心は「こうしてはいられない。こうしてはいられない」という気持で、一晩中、闘争し苦悶し続けていたのだが、さて目が覚めると、却ってボンヤリしてしまって、昨日までのことが、凡て悪夢に過ぎなかった様にも思え、現に彼の目の前によこたわっている芙蓉の死骸を見ても、部屋中にみなぎっている、薬品のにおいや、甘酸っぱい死臭にむせ返っても、それも夢の続きで、まだ本当に起きているのではないという様な感じがしていた。
 だが、いつまで待っても、夢は醒めそうにもない。仮令これが夢の中の出来事としても、彼はもうじっとしている訳には行かなかった。そこで、彼はその方へ這って行って、ややはっきりした目で、恋人の死体をしらべたが、そこに起ったある変化に気附くと、ギョッとして、俄かに、意識が鮮明になった。
 芙蓉は寝返りでも打った様に、一晩のうちに姿勢がガラリと変っていた。昨夜までは、死骸とは云え、どこかに反撥力が残っていて、(九字削除)無生物という気持がしなかったのに、今見ると、彼女は全くグッタリと、身も心も投げ出した形で、やっと固形を保った、重い液体の一塊ひとかたまりの様に、横わっていた。触って見ると、肉が[#「肉が」は底本では「肉か」]豆腐とうふみたいに柔くて、既に死後強直が解けていることが分った。だが、そんなことよりも、もっと彼を撃ったのは、芙蓉の全身に現われた、おびただしい屍斑しはんであった。不規則な円形を為した、鉛色の紋々もんもんが、まるで奇怪な模様みたいに、彼女の身体中を覆っていた。
 幾億とも知れぬ極微なる蟲共は、いつえるともなく、いつ動くともなく、まるで時計の針の様に正確に、着々と彼等の領土を侵蝕して行った。彼等の極微に比して、その侵蝕力は、実に驚くべき速さだった。しかも、人は彼等の暴力を目前に眺めながら、どうする事も出来ぬのだ。手をつかねて傍観する外はないのだ。一度ひとたび恋人をほうむる機会を失したばかりに、生体に幾倍する死体の魅力を知りはじめ、痛ましくも地獄の恋に陥った柾木愛造は、その代償として、彼の目の前で、いとしい恋人の五体が戦慄すべき極微物の為に、徐々にしかも間違いなく、蝕まれて行く姿を、拱手きょうしゅして見守らなければならなかった。恋人の為に死力を尽して戦いたいのだ。だが、彼等の恐るべき作業はまざまざと目に見えていながら、しかも、戦うべき相手がないのだ。嘗てこの世に、これほどの大苦痛が存在したであろうか。
 彼は追い立てられる様な気持で、昨日失敗した防腐法を、もう一度繰返すことを考えて見たが、考えるまでもなく駄目なことは分り切っていた。防腐液の注射は無論彼の力に及ばぬし、氷や鹽を用いる方法も、そのかさばった材料を運び入れる困難があった外に、何となく彼と恋人とを隔離かくりする感じが、いやであった。そして、仮令どんな方法をとって見た所で、幾分分解作用をおくらすことは出来ても、結局それを完全に防ぎ得るものでないことが、彼にもよく分っていた。彼の慌だしい頭の中に巨大な真空のガラス瓶だとか、死体の花氷はなごおりだとかの、荒唐無稽な幻影が浮んでは消えて行った。製氷会社の薄暗い冷蔵室の中で、技師に嘲笑されている彼自身の姿さえ、空想された。
 だがあきらめる気にはなれなんだ。(以下三行削除)
「アア、そうだ。死骸にお化粧をしてやろう。せめて、うわべだけでも塗りつぶして、恐ろしい蟲共の拡がって行くのを見えない様にしよう」
 考えあぐんだ彼は、遂にそんなことを思立った。あきらめの悪い姑息こそくな方法には相違なかったけれど、彼の不思議な恋を一分でも一秒でも長く楽しむ為には、この様な一時のがれをでも試みる外はなかった。
 彼は大急ぎで町に出て、胡粉ごふん刷毛はけとを買って帰り(これらの異様な挙動を、婆やはさして怪しまなんだ。彼の不規則な生活や、奇矯な行為には、慣れっこになっていたからだ。彼女はただ土蔵から出て来た柾木の身辺に、病院へ行ったような、ひどい防腐剤の匂の漂っていたのを、いささか不審に思った)別の洗面器にそれを溶いて、人形師が生人形の仕上げでもする様に、芙蓉の全身を塗りつぶした。そして、不気味な屍斑が見えなくなると、今度は、普通の絵の具で、役者の顔をする様に、目の下をピンク色にぼかして見たり、眉を引いて見たり、唇に紅を塗って見たり、耳たぶを染めて見たり、その他五体のあらゆる部分に、思うままの色彩をほどこすのであった。この仕事に彼はたっぷり半日もかかった。最初はただ屍斑や陰気な皮膚の色を隠すのが目的であったが、やっている内に、しかばねの粉飾そのものに異常に興味を覚え始めた。彼は、死体というキャンヴァスに向って、妖艶なる裸像を描く、世にも不思議な画家となり、様々な愛の言葉を囁きながら、興に乗じては冷いキャンヴァスに口づけをさえしながら夢中になって絵筆を運ぶのであった。
 やがて出来上った彩色さいしきされた死体は、妙なことに、彼が嘗つてS劇場で見た、サロメの舞台姿に酷似していた。生地きじの芙蓉も美しかったけれど、全身に毒々しく化粧をした芙蓉は、一層生前のその人にふさわしくて、云い難き魅力を備えていた。蝕まれて、最早や取返す術もなく思われた、芙蓉のむくろに、この様な生気が残っていたことは、しかもそれが生前の姿にもまして悩ましき魅力を持っていたことは、柾木にとって寧ろ驚異であった。
 それから三日ばかりの間、死体に大きな変化もなかったので、柾木は、日に三度食事に降りて来る外は、全く土蔵にとじ籠って、せっぱつまった最後の恋に、明日あすなき恋人のむくろとさし向いで、気違の様に、泣きわめき、笑い狂った。彼には、それがこの世の終りとも感じられたのである。
 そのあいだに、一つ丈け、少し変った出来事があった。ある午後、粉飾せる死体のそばで、疲れ切って泥の様に眠っていた柾木は、婆やが土蔵の入口の所で引いている、呼鈴よびりん代りの鳴子なるこの音に目を覚ました。それは来客の時に限って使用することになっていたので、彼は若しや犯罪が発覚したのではないかと、ギョッとして、飛び起ると、芙蓉の死骸に頭から蒲団ふとんをかぶせて置いて、ソッと階段を降り、入口の所で暫く耳をすましていたが、思い切って厚い扉をけた。すると、そこにはやっぱり婆やが立っていて、「旦那様、池内様がおでなさいました」と告げた。彼は池内と聞いてホッとしたが、次の瞬間、「アア、奴めとうとう俺を疑い始め、様子をさぐりに来たんだな」と考えた。「いると云ったのかい」と聞くと、婆やは悪かったのかとオドオドして「ハイ、そう申しましたが」と答えた。彼は咄嗟とっさに心をきめて「構わないから、探して見たけれどいないから、多分知らぬに外出したのだろうと云って、返して下さい。それからね。当分誰が来ても、僕はいない様に云って置くのだよ」と命じて、そのまま扉を締めた。
 だが、時がたつに従って、池内に会わなかったことが、くやまれて来た。勇気を出して会いさえすれば、一かばちか様子が分って、却って気持が落ちついたであろうに、なまじ逃げた為に、池内の心をはかり兼ねて、いつまでも不安が残った。静かな土蔵の二階で、黙りこくった死骸を前にして、じっと考えていると、その不安がジリジリとお化けの様に大きくなり、身動きも出来ない程の恐怖に襲われて来、彼はその恐怖を打消す為め丈けにも、居続けの遊蕩児ゆうとうじの様な、焼けくそな気持で、ギラギラと毒々しい着色死体を物狂おしく愛撫あいぶした。

十二


 三日ばかり小康しょうこうが続いたあとには、恐ろしい破綻が待ち受けていた。そのあいだ死体に別段の変化が現われなかったばかりでなく、不思議なお化粧の為とは云え、彼女の肉体が前例なき程妖艶に見えたというのは、例えば消える前の蝋燭が、一時異様に明るく照り輝く様なものであった。いまわしき蟲共は、表面平穏を装いながら、その実死体の内部に於て、幾億の極微なるくちばしを揃え、ムチムチと、五臓を蝕み尽しているのであった。
 ある日、長い眠りから目覚めた柾木は、芙蓉の死体に非常な変化が起っているのを見て、余りの恐ろしさに、あやうく叫び出す所であった。
 そこには、最早や昨日までの美しい恋人の姿はなくて、女角力おんなずもうの様な白い巨人が横わっていた。身体がゴムまりの様にふくれた為に、お化粧の胡粉が相馬焼みたいに、無数の○○○○○○○○、網目の間から、褐色の肌が気味悪く覗いていた。顔も巨大な赤ん坊の様にあどけなくふくれ上って、空ろな目から、半開の唇から、(十九字削除)柾木は嘗つてこの死体膨脹の現象について記載されたものを読んだことがあった。目に見えぬ極微な有機物は、ぐんをなして腸腺ちょうせんつらぬき、これを破壊して血管と腹膜に侵入し、そこに瓦斯がすを発生して、組織を液体化する醗酵素はっこうそを分泌するのだが、この発生瓦斯の膨脹力は驚くべきものであって、死体の外貌を巨人と変えるばかりでなく、横隔膜おうかくまくを第三肋骨ろっこつの辺まで押上げる力を持っている。同時に体内深くの血液を、皮膚の表面に押し出し、の吸血鬼の伝説を生んだ所の、死後循環の奇現象を起すことがある。
 遂に最後が来たのだ。死体が極度まで膨脹すれば次にきたるものは分解である。皮膚も筋肉も液体となって、ドロドロ流れ出すのだ。柾木はおどかされた幼児の様に、大きなうるんだ目で、キョロキョロとあたりを見廻し、今にも泣き出し相に、キュッと顔をしかめた。そして、そのままの表情で、長い間じっとしていた。
 暫くすると、彼は突然何か思出した様子で、ピョコンと立上ると、せかせか本棚の前へ行って、一冊の古ぼけた書物を探し出した。背皮に「木乃伊みいら」と記されていた。そんなものが今更何の役にも立たぬ事は分り切っていたにも拘らず、命をかけた恋人が、刻々に蝕まれて行くいらだたしさに、物狂わしくなっていた彼は、熱心にその書物のページをくって、とうとう次の様な一節を発見した。
「最も高価なる木乃伊の製法の如し。先ず左側の肋骨ろっこつの下を深く切断し、其傷口より内臓をことごとく引き出だし、ただ心臓と腎臓とを残す。又、曲れる鉄の道具を鼻口びこうより挿入して、脳髄を残りなく取出し、かくして空虚となれる頭蓋と胴体を棕梠酒しゅろしゅにて洗浄、頭蓋には鼻孔より没薬もつやく等の薬剤を注入し、腹腔には乾葡萄其他そのたの物を填充てんじゅうし、傷口を縫合ほうごうす。かくして、身体しんたいを七十日間曹達水そうだすいひたしたる後、之を取出し、護謨ごむにて接合せる麻布をもって綿密に包巻ほうかんするなり」
 彼は幾度も同じ部分を読返していたが、やがて、ポイとその本を放り出したかと思うと、頭のうしろをコツコツと叩きながら、空目そらめをして、何事か胴忘どうわすれした人の様に、「なんだっけなあ、なんだっけなあ、なんだっけなあ」と呟いた。そして、何を思ったのか、突然階段をかけ降り、非常な急用でも出来た体で、そそくさと玄関を降りるのであった。
 門を出ると、彼は隅田堤を、何ということもなく、急ぎ足で歩いて行った。大川おおかわの濁水が、ウジャウジャと重なり合った無数の虫の流れに見えた。行手の大地が、匍匐ほふくする微生物で、覆い隠され、足の踏みどもない様に感じられた。
「どうしよう、どうしようなあ」
 彼は歩きながら、幾度も幾度も、心の苦悶を声に出した。或る時は、「助けてくれエ」と大声に叫び相になるのを、やっと喉の所で喰い止めねばならなかった。
 どこをどれ程歩いたのか、彼には少しも分らなんだけれど、三十分も歩き続けた頃、余りに心の内側ばかりを見つめていたので、つい爪先がお留守になり、小さな石につまずいて、彼はバッタリ倒れてしまった。痛みなどは感じもしなかったが、その時ふと彼の心に奇妙な変化が起った。彼は立上る代りに、一層身を低く土の上に這いつくばって、誰にともなく、非常に叮嚀なおじぎをした。
 変な男が、往来の真中で、いつまでもおじぎをしているものだから、たちまち人だかりになり、通りがかりの警官の目にも止った。それは親切な警官であったから、彼を助け起して、住所を聞き、気違いとでも思ったのか、態々吾妻橋の所まで送り届けてくれたが、警官と連れ立って歩きながら、柾木は妙なことを口走った。
「おまわりさん。近頃残酷な人殺しがあったのを御存じですか。何故残酷だといいますとね。殺された女は、天使の様に清らかで、何の罪もなかったのです。と云って、殺した男もお人好しの善人だったのです。変ですね。それはそうと、私はその女の死骸のある所をちゃんと知っているのですよ。教えて上げましょうか。教えて上げましょうか」
 だが、彼がいくらそのことを繰返しても、警官は笑うばかりで、てんで取合おうともしなかったのである。

 それから数日の後、柾木がまる二日間食事に降りて来ないので、婆やが心配をして家主に知らせ、家主から警察に届出とどけいで、あかずの蔵の扉は、警官達の手によって破壊された。薄暗い土蔵の二階には(むせ返る死臭と、おびただしい蛆虫うじむしの中に)二つの死骸が転っていた。その一人はぐ主人公の柾木愛造と判明したけれど、もう一人の方が、行衛ゆくえ不明を伝えられた、人気女優木下芙蓉の、なれの果てであることを確めるには、長い時間を要した。何故と云って、彼女の死体は殆ど腐敗していた上に、腹部が無残にきずつけられ、腐りただれた内臓が醜く露出していた程であったから。柾木愛造は(芙蓉の死毒によって命を奪われたとの判定であった)露出した芙蓉の腹わたの中へ、うっぷしに顔を突込んで死んでいたが、恐ろしいことには、彼の醜くゆがんだ、断末魔の指先が、恋人の脇腹の腐肉に、執念深く喰い入っていた。





底本:「江戸川乱歩全集 第5巻 押絵と旅する男」光文社文庫、光文社
   2005(平成17)年1月20日初版1刷発行
   2013(平成25)年5月5日3刷発行
底本の親本:「江戸川亂歩全集 第四卷」平凡社
   1931(昭和6)年8月11日発行
初出:一〜四「改造 第十一卷第六號 六月號」改造社
   1929(昭和4)年6月1日発行
   五〜十二「改造 第十一卷第七號 七月號」改造社
   1929(昭和4)年7月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「恥かしい」と「恥しい」、「気持」と「気持ち」、「思い出し」と「思出し」、「かんがえ」と「考え」、「雑沓」と「雑踏」、「唇」と「脣」、「憶病」と「臆病」、「待ち構え」と「待構え」、「クション」と「クッション」、「タキシー」と「タクシー」、「媾曳」と「媾曳き」、「横たわって」と「横わって」、「二人ぼっち」と「二人ぽっち」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った「肉か」は親本も同じでしたが、生前発行された「江戸川乱歩全集 5」桃源社 1961(昭和36)年12月30日発行の表記にそって、あらためました。
入力:門田裕志
校正:きりんの手紙
2021年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード