恐怖王

江戸川乱歩




死骸盗賊


 一台の金ピカ葬儀自動車が、どこへという当てもないらしく、東京市中を、グルグルと走り廻っていた。
 車内には、よく見ると、たしかに白布で覆った寝棺ねかんがのせてある。棺の中に死人が入っているのかどうかは分らぬけれど、棺をのせた葬儀車が、附添いの自動車もなく、ただグルグルと町から町へ走り廻っているというのは如何いかにも変だ。
 葬式にやとわれた帰りでもないらしい。と云って、これから傭われて行くにしては、時間が変だ。長い春の日が、もうくれるに間もないのだから。
 陽気のせいで運転手が気でも違ったのか。それとも、ガレージの所在を忘れでもしたのか。実に異様な葬儀車だが、誰一人そのあとをつけ廻している訳ではないから、別に怪しまれることもなく、いつまでもグルグル、グルグル走り廻っているのだ。
 やがて、町々の街燈の光が、段々その明るさを増し、空に星がまばたき始める頃、まるで日が暮れ切るのを待ってでもいた様に、気違い葬儀車は、牛込うしごめ矢来やらいに近い、非常に淋しい屋敷町やしきまちの真中で、ピッタリと停車した。
 車が止って、ヘッドライトが消されると、それが合図であったのか、軒燈けんとうもない真暗な、非常に古風な棟門むねもんが、ギイと開いて、門にはそぐわぬ一人の洋服男が、影の様に姿を現わした。
「うまく行ったか」
 非常に低いささやき声だ。
「うまく行きました。だが、葬式の四時から今まで、人に怪しまれぬ様に、グルグル走り廻っているのは、大抵たいていじゃありませんぜ」
 葬儀車の運転手は、運転台を降りながら、まるで泥棒の手下てしたみたいな口をいた。
「ウフフフフフ、ご苦労ご苦労。で、仏様は確かにのっかっているんだろうね」
「それや大丈夫。奴等やつら、まさか金ピカ自動車が二台も来ようとは知らぬものだから、まんまと思うつぼにはまりましたぜ。いまごろは空っぽのにせの棺が、焼場のかまどでクスクス燃えてることでしょうよ」
 話の様子では、どうやら彼は、葬儀場から、誰かの死骸を盗み出して来たものらしい。本物の葬儀車には空の棺を、こちらへは死骸の入った棺を、何かのトリックでうまくスリ替て、誰にも怪しまれず、ここまで運んで来たのであろう。
「話はあとにして、棺をうちの中へ運んでくれ給え。人でも来ると面倒だ」
「オット合点がってんだ。じゃ、手を貸して下さい」
 そこで二人の怪人物は、重い寝棺を釣って、門内へ這入はいって行った。
 東京にも、こんな古い建物があるかと思う程、時代のついた荒れ果てたやしきである。恐らく旗本はたもとかなんかの建てたものであろう。一体の造りがまるで現代のものではない。
 二人は真暗な玄関を上ると、ジメジメとしたたたみを踏みながら、奥まった座敷へ、棺を運んで行った。
 書院窓のついた、十畳の座敷だ。その部屋けは割に明るい電燈が下っているけれど、うす黒くなったふすま、破れた障子しょうじ雨漏あまもりの目立つ砂壁、すすけた天井、すべての様子がイヤに陰気で、まるで相馬の古御所ふるごしょといった感じだ。
 電燈の光で、二人の人物の風采ふうさいが明かになった。葬儀車を運転して来た男は、額が狭くて鼻が平べったく、口が馬鹿に大ぶりな、ゴリラを聯想れんそうさせる様な、実にひどい不男ぶおとこで、それが髪の毛丈けはテカテカとオールバックになでつけている様子は、ゾッとする程いやらしい感じだ。汚れた黒の背広、ワイシャツはなくて、すぐメリヤスシャツのえりが見えているという、安自動車の運転手らしい服装だ。
 もう一人は、黒天鵞絨くろビロードのダブダブの服を着て、長髪をフサフサと肩までさげ、青白い顔に黒ガラスのロイド眼鏡めがねをかけ、濃い口髯くちひげを生やした、見た所美術家という恰好かっこうである。
流石さすがは君だ。よく怪しまれなかったね」
 ロイド眼鏡が部下をねぎらう様に云った。
「ナアニ、訳もないこってさあ」ゴリラは小鼻をヒクヒクさせながら、舌なめずりをして、「きちの野郎、うまくやってくれましたよ。あいつが前以まえもって、葬儀社の運転手に住み込んでいなきゃ、この芸当は出来ませんや。あいつが、本物の葬儀車に、空っぽの偽の棺をのせて途中で待っていると、あっしが、偽の葬儀車で本物の棺を受取り、焼場へ走る道で、うまく入れ替ってしまったんです。まさか先方でも、金ピカ自動車の換玉かえだまとは気がつかないから、あの標本屋で仕入れた、誰のだか分らないおこつの入った棺を、可愛い娘の死体だと思って泣く泣く焼場へ納めたこってしょうよ」
「ウフフフフ、うまい、うまい。君達にはたんまりお礼をしなくっちゃなるまいね。……ところで、もうここはいいから、帰って花婿はなむこ支度したくをしてくれたまえ。明日あすの朝は、写真屋を忘れない様にね。判は四つ切りだよ」
「飲み込んでますよ。どんな立派な花婿姿になって来るか見てて下さい。あっしゃこんな別嬪べっぴんと結婚式を上げようとは、夢にも思いませんでしたぜ。一目、花嫁御はなよめごの顔が見たいな」
「よし給え。今見ちゃ興ざめだ。すっかり御化粧の出来上るまで辛抱しんぼうすること。僕の腕前を見せるよ。一晩の我慢だ」
「じゃあまあ、我慢して置きますかね。待遠しいことだ。精々あでやかにお頼み申しますぜ」
「ウフフフフ、いいとも。心得た」
 そこで、ゴリラは別れをつげて、外に出ると、真黒なお宮の様に見える葬儀車を、ヘッドライトを消したまま、いずこともなく運転して行った。

恐ろしき婚礼


 一人になると、ロイド眼鏡の男は、棺のふたをこじあけて、中の仏様をのぞき込んだ。
「フン、美人という奴は、死骸になっても、何となく色っぽいものだな。あんまりやつれてもいない。これならうまく行きそうだ」
 独言ひとりごとつぶやきながら、彼は、不気味な死体を、ヨッコラショと抱き上げて、外の畳の上に横たえた。
 電燈の光が、蝋石ろうせきの様な死人の顔を、まともに照らした。
 アアなんという美しい死骸であろう。年はまだ二十歳はたちには達していまい。いずれ病死したものであろうが、それにしては、さしてやつれも見えず、顔も身体からだも適度の肉附きだ。
 しかし、美しいといっても、死人のことだから、すき通った色のない美しさだ。イヤ、よく眺めていると、顔全体に、何とも云えぬいやらしい死相が浮んでいる。ゾッとする様なあの世のにおいが漂っている。いくら美人だからといって、死骸はやっぱり恐ろしいのだ。
「サア、お嬢さん、これからわたしがお化粧をして上げますよ。明日は嬉しいご婚礼ですからね」
 ロイド眼鏡は死骸に話しかけながら、部屋の隅の大トランクの中から、化粧道具を持出して来た。縁側えんがわには水を入れた金盥かなだらいが置いてある。顔料を溶かす特殊の油も用意されている。さて、これから、役者がする様に、死人の顔のこしらえを始めようというわけだ。
 横に寝かせたまま、ず水でよく顔を洗って、下地にはクリーム、それから濃い煉白粉ねりおしろい、頬紅、口紅、粉白粉、まゆずみと、男のくせにお化粧は手にったものだ。
 だが、それけでは駄目だ。いくら色艶いろつやがよくなったとて、顔の相好そうごうが生きては来ない。死人か、でなければ生命いのちのない人形だ。
 第一目が死んでいる。閉じた目を指で開いて、しばらくじっと押さえていると、そのまま開きはしたけれど、どうも生きた人間の目ではない。
 そこで彼は絵筆を取って、適度の目隈めくまを入れ、眼尻には紅をさし、乾いた眼球そのものをさえ、油絵具でいろどった。
 次は口だ。口紅ばかりいくら赤くしても、口辺こうへんの筋肉が力なくだれてしまって生気がない。そこで、くちびる両端りょうはしを指でギュッと上に押し上げたまま、二十分程も、じっと辛抱していると、すで強直きょうちょくの起り始めた筋肉は、そのまま形を変えて、如何にも嬉しげな笑いの表情となった。
 死骸がにこやかに笑い出したのだ。
「アア、あでやかあでやか、これで申分もうしぶんはない。さて、今度は頭の番だ」
 彼は娘の死体を抱き起して、大トランクにもたせかけ、手際よく髪をい始めた。髪の道具もちゃんとトランクの中に用意してあったのだ。
 仮令たとえ美術家にもせよ、髪まで結うとは、驚いた男だ。しかも、一時間程で結い上げたのは、専門家でも骨の折れる、立派やかな高島田たかしまだであった。
 顔を作り、髪を上げると、今度はトランクに用意して置いた婚礼衣裳の着附けである。扱いにくい死骸を相手に、一人では随分ずいぶん骨が折れたが、派手な紋服もんぷく金襴きんらんの帯もシャンと結べた。
 それから、やっぱり用意してあったつい掛物かけものとこにかけ、花瓶を置き、二枚の座蒲団ざぶとんを正面に並べ、その一つに、盛装の花嫁をチンと据えた。倒れぬ様に花嫁御のお尻に、トランクの支柱棒つっかいぼうだ。
 すっかり準備が整う頃には、白々と夜が明け放れた。
 それから数時間の後、午前十時という約束かっきりに、例のゴリラが意気揚々いきようようと乗り込んで来た。
「どうですい、この花婿姿は」
 彼は座敷に通ると、先ず我が姿を見せびらかした。
 紋附もんつき仙台平せんだいひらはかま、純白の羽織の紐が目立つ。
「すてきだ。一分いちぶすきもない花婿様だ。ところで、写真屋の方は?」
「もう来る時分です。やっぱり十時と云って置きましたから。……」
 と云いさして、紋附袴のゴリラはギョッとした様に言葉をきった。
「オイオイ、何をそんなにびっくりしているんだね」
「アレ」ゴリラはどもりながら、「アレが例の仏様ですかい。アレが」
 彼が驚くのも無理ではない。床の間を背にして、シャンと坐っている花嫁御は、どう見ても死人とは思われぬ。唇をキュッとゆがめてニッコリ笑っている顔の愛らしさ。今にも両手をついて、目のふちをポッと赤くして、小笠原流おがさわらりゅうのご挨拶あいさつでも始めそうに見えるのだ。
「よく出来ただろう」
「全くどうも、驚きましたね。これが死骸ですかい。あっしゃ、こんな美しい死骸なら、本当に女房にしたい位のもんですよ」
「だから婚礼をするんじゃないか」
「だって、並んで写真を写す丈けじゃ物足りないね。何とかならないもんですかね」
「ハハハハ、何とかといって、死骸を何とする訳にも行くまいじゃないか」
 そうしている所へ、玄関に人の声がした。写真屋が来たのだ。
「サア、そこへ並んで坐るんだ。気取られてはいけないぜ。グッとすまして、口はかない方がいい」
 ロイド眼鏡は、云い残して、アタフタと玄関へ出て行った。
 やがて、助手をつれた写真屋が、座敷へ通された。
「もうちゃんと用意が出来ているんです。これからすぐ式場へ出かけることになっているんで、急いでやって下さい」
 ロイド眼鏡が、セカセカとせわし相にして見せる。
 写真屋は、うちの中の様子が何だか変だと思ったけれど、前金はもらってあるし、別に苦情を云う筋はないので、早速さっそくピントを合せて、マグネシウムをいた。
「二三日中にこの家は引越しをすることになっていますから、写真は出来た時分に、こちらから取りに行きます。約束の日限をおくれない様にして下さい」
 ロイド眼鏡は写真師を玄関に送り出して、念を押して置いて、元の座敷に帰って見ると、びっくりした。
 ゴリラが死骸花嫁の手を握って、手の平に接吻せっぷんしたり、肩に手を廻して、まるで本当の新婚夫婦みたいに、何かボソボソと囁いたりしていたからだ。
「オイ冗談じゃない。つまらない真似はよせ」
 声をかけると、ゴリラハッと飛びはなれて、
「エヘヘヘヘヘ、つい、あんまり美しいもんだから」
 ときまり悪そうだ。
「サア、これでいい。花婿さま御用ずみだ。着物を着換きかえて来るがいい」
「だが、あっしゃ、どうもおちないね。こんなことをして一体どうなるんですい。あの写真が何かの種にでもなるのですかい」
「それはおれに任せて置けばいいのだ。君達は、黙って俺の指図さしずに従っていればいいのだ。二三日の内に、俺のすばらしい目論見もくろみが、君達にも分るだろう」
「それから、この娘さんの死骸は? まさかここへうっちゃらかしても置かれますまい」
「それも俺に考えがある。まあ見ててごらん。世間の奴等が、どんな顔して驚くか。君は俺の日頃の腕前をよく知っているじゃないか」
「ウフフフフフ、何だかあっしにも、薄々分らないでもないがね。定めし例によって、物凄いところを演じる訳でしょうね。だから、かしらのそばは離れられねえんですよ。ウフフフフフ」
 ゴリラは舌なめずりをして、さも嬉しげに、不気味なふくみ笑いをした。

怪自動車


 お話変って、死美人の婚礼が行われたその同じ日の夜、麹町区内のとある大通りを、一台の大型自動車が、大小四個のヘッドライトもいかめしく、すれ違うボロタクシーを尻目にかけて、豊かに走っていた。
 運転手も助手も、汗のにじまぬ背広を着て、髪もひげ綺麗きれいに手入れが届いている。せかずあわてず、大様おおように構えていて、しかもいつの間にか、一台二台とほかの車を抜いて行く。運転の手際てぎわまで何となく垢抜あかぬけがして見えるのだ。
 車内に納まっている中老紳士は、千万長者と聞えた、布引ぬのびき銀行の取締役頭取とうどり、布引庄兵衛しょうべえ氏だ。この人にしてこの自動車、この運転手、さもあるべきことだ。
 でっぷりえた赤ら顔に、白髪しらがまじりのチョビ髭、厚い唇に葉巻煙草、形けはいつもの庄兵衛氏である。だが、よく見ると、どこやら気が抜けている。日頃の張り切った力がない。
 彼は物思いにふけっていたのだ。事業上の事ではない。銀行家だって、利子のことばかり考えているとはまらぬ。もっと人間らしい悲しみに、我を忘れていたのだ。
 悲しみとは外ではない。布引庄兵衛氏は、つい数日ぜん、最愛の一人娘の照子てるこを失って、昨日葬儀をすませたばかりなのだ。ふとしたかぜが元で、急性肺炎を起し、手をつくした看病も甲斐かいなく、淡雪あわゆきの消える様に果敢はかなくなってしまった。
 もうちゃんと、婿君むこぎみも極まっていた。布引銀行の社員で、眉目秀麗びもくしゅうれい才智縦横さいちじゅうおうの好青年、鳥井純一とりいじゅんいちというのが頭取のお眼鏡にかない、相互の耳にも入れて、もう吉日を選ぶばかりになっていた。
 照子は、やまいあらたまるや、已に死を悟ったものか、父母にせがんで、鳥井純一を呼び寄せてもらい、少しもそばを離さなかった。そして、もう息を引取るという間際まぎわに、鳥井の手を握って、
「お父さまも、お母さまも、どうぞ許して下さい」
 とびながら、鳥井に最後の接吻を求めた。
 鳥井は、ポロポロと涙をこぼして、照子のもう冷たくなり始めた額に、清い接吻を与えた。
 庄兵衛氏は、その光景が、今でもまぼろしの様に目先にちらついて仕方がなかった。
「アア、可哀相に、どんなにか死にともなかったであろう。もっともだ。尤もだ」
 彼は愚痴ぐちっぽく、心で死者に囁いていた。
 そんな風に、なき愛嬢のことばかり考えていた時、突然車が急カーヴして、身体がグッと横倒しになったので、大銀行家は、ふと現実に立帰った。
 見ると、目の前によその自動車が、大きく立ちふさがっていた。あやうく衝突する所を、こちらの運転手の手際で、わずかに避けることが出来たのだ。
「どうも、すみません」
 向うの自動車の運転手が、窓から顔を出して、叮嚀ていねいに詫びている。
 こちらの運転手は、上等自動車の手前、威厳いげんを見せて、はしたなく怒鳴どなりつける様なことはせぬ。その代り、無言のまま正面を切って、相手の詫言わびごとを黙殺して、しずしずと車を出発させた。
 先方の自動車も動き出す。衝突しかけた程だから、出発する双方の車は、ほとんど窓と窓とがスレスレに接近して、反対の方角に、行きちがった。
 庄兵衛氏は、当然、先方の車の窓を見た。目の先五寸とは隔たぬむこうの窓は、見まいとしても目に写る。窓ガラスが開いていた。その中に白い花の様な顔があった。
 こちらの窓も半開はんびらきになっていたので、顔と顔とが、何の障害物もなく向き合った。
 庄兵衛氏の頭の中で、ギラギラ光る花火の様なものが、クルクルと廻転した。余りのことに声も出なければ、息さえ止ったかと思われた。
 と、聞き覚えのある、懐しい声が、「アラ、お父さま! お父さま! 助けて……」と口早くちばやに叫んだ。イヤ、叫びかけた。「助けて」の「た」が口を出ぬ先に、何者かが照子の口をふさぎ、スルスルと窓のブラインドをおろした。
 まがうかたなき我娘わがむすめ照子であった。
「アッ、照子、オイ、車を止めるんだ。あの車をおっかけるんだ」
 庄兵衛氏は、車の中で地だんだを踏みながら、怒鳴った。
 だが、こちらの運転手には、事の仔細しさいが分らぬ。何事かとたまげて、躊躇ちゅうちょしている間に、先方むこうの車は矢の様に走りだした。
「何でもいいから、今の車をおっかけるんだ。早く早く、何をぐずぐずしているか」
 庄兵衛氏の気違いめいた命令に、運転手はやっと車の方向を転じて、走り出した。随分ずいぶんスピードのある車だったが、方向転換その他に手間どった。その上、相手の車が、なりは小さいけれど、滅茶苦茶めちゃくちゃな速力だ。
 夜の大道を、四五丁も走る内に、どの横丁へそれたのか、たちまち相手の車を見失ってしまった。その辺をグルグル廻って見たけれど、どこにもそれらしい自動車は見当らぬ。
 仕方がないので、庄兵衛氏は、捜索をあきらめ、再び自邸に向って車を走らせたが、考えて見ると、何とやらきつねにつままれた感じだ。
 照子は数日ぜん彼の目の前で息を引取り、ちゃんと葬式まですました。現に彼女の棺が火葬場の竈の中へ納められるのを目撃した。その死んだ照子が、今頃自動車に乗って、町を走っているはずはないのだ。
 だが、さっきの娘は、確かに照子の顔を持っていた。あんなによく似た他人があろうとは思われぬ。のみならず、「お父さま」と呼びかけさえした。よその娘が、そんなことを云う訳はない。実に不思議だ。
 気の迷いかしら。何か奇妙な偶然が、わしにあんな幻視と幻聴を起させたのかしら。それとも、なき娘の幽魂が、冥途めいどをさまよい出て、夜の暗さにまぎれ、懐しい父に逢いに来たのであろうか。
 庄兵衛氏は、通り魔の様に、彼の目をかすめて消え去った娘の姿を、何と解釈してよいのか、途方にくれてしまった。
 余り馬鹿馬鹿しい様なことなので、自宅に帰っても、夫人の園子そのこに打明けることを差控さしひかえた。つまらぬことを云い出して、又母を泣かせるでもないと思ったからだ。
「お父さま、助けて……」と叫んだ娘の声が耳について、ひどく気掛りではあったが、まさか、こんな夢みたいな話を警察に持込んで、捜索を願う訳にも行かぬので、庄兵衛氏はきっと幻覚であったに違いないと、いても忘れる様にした。

鳥井青年


 だが、不思議はそれで終らなかった。四五日たったある朝のこと、照子のつての許嫁いいなずけ鳥井純一が、顔色を変えてやって来た。銀行へ出勤の途中、態々わざわざ寄道をして、頭取のやしきを訪れたのだ。
 丁度その時庄兵衛氏は習慣の朝湯に入っていたが、急用と聞いて、いそいで湯殿を出て、応接間へ出て来た。
「実に不思議なことが起ったのです。僕は何だか気が変になった様で、じっとしていられなかったものですから、早朝からお騒がせしてしまった訳です」
 鳥井は、頭取の顔を見ると、いきなり妙なことを云い出した。日頃沈着な青年にも似合わぬことだ。
「どうしたのだ、まあかけ給え」
 庄兵衛氏は、自分も椅子いすにかけて、卓上の紙巻煙草を取った。
「失礼なことを伺いますが、照子さんは、生前誰かと結婚なすったことがありましょうか」
 鳥井は青ざめた顔にかすかな怒気どきを含んでなじる様に云った。
 庄兵衛氏は、びっくりして相手の顔を眺めた。この男は可哀相に、照子を失った悲しさに、気でもふれたのかと疑わないではいられなかった。
「馬鹿なことを云い給え、君がよく知っている通り、照子は少しも汚れのない処女であった。あとにも先にも君がたった一人の許嫁なのだ、なぜそんなことを聞くんだね」
「これをごらん下さい。知らぬ人から、今朝これを郵送して来たのです」
 鳥井はセカセカと風呂敷ふろしきをといて、一枚の四つ切りの大型写真を取出して頭取の目の前につきつけながら、
「こいつは、一体どこの何奴どいつです、こうして写真にまで写っているからには、あなたも無論むろんご存じの人物でしょう」
 彼は目の色を変えて、つっかかる様に云うのだ。
 布引氏は、その写真を受取って、一目見ると、流石にハッと顔色を変えないではいられなかった。
 そこには、高島田に、振袖美々びびしく着飾った、我娘照子が、見も知らぬみにくい若者と並んで写っているではないか。明かに結婚の記念写真だ。
 大銀行家は、それを見つめたまま、しばらくはただうめくばかりであったが、やがて、
「これは一体誰が送って来たのだね」
 と尋ねた。
「誰だか分りません。差出人の名がないのです」
「フム、わしにもさっぱり訳が分らん、こんな男は見たこともない。又、わしの娘が、いくら酔狂すいきょうでも、こんなゴリラみたいな醜い奴と結婚などする訳がないじゃないか。いたずらだ。誰かのいたずらに極まっている」
 布引氏は怒気を含んで云い放った。
しかし、写真のトリックがこんなにうまく行く筈はありません。盛装した女の胴体に、お嬢さんの顔丈けを貼りつけたのかと思って、よく調べて見ましたが、そんな細工さいくのあとは少しもないのです。確かに本物です。それに、この台紙には写真館の名が印刷してあります。電話番号まで書いてあります。この写真屋を呼んで聞けばすぐ分ります」
「ハハハ……。写真屋を呼ぶまでもない。わしが断言する。娘は決してこんな男と婚礼なんかした事はない」
「でも、念のためです。しいたずらだとしたら、そいつを見つけだして、こらしめてやらねばなりません。それにつけても、一応写真屋に問いただす必要があると思います」
 云われて見れば、如何にもその通りだ。仮令たとえ死者とは云え、娘がこの様な侮辱ぶじょくを受けたのを、捨てて置く訳には行かぬ。
 そこで台紙にしるしてある写真館に電話をかけて、主人を呼び寄せることになった。
 間もなく、読者にはすでに顔なじみの写真師が鞠躬如きっきゅうじょとして大銀行家の応接間に現われた。
「この写真を撮った覚えがあるか」と差出された例の写真を一目見ると、彼は直様すぐさま思い出して答えた。
「記憶しております。つい四五日前に出張撮影したものでございます。非常なお急ぎでございまして、殆ど修整抜きで焼きつけました様な次第で、エエと、お名前はたしか、荒目田あらめださんとおっしゃいました。変ったお名前だったものですからよく記憶して居ります」
 写真師は愛想よく、ペラペラと喋った。
「何だって? 四五日前だって? そんな馬鹿な、どうして写真なぞとれるものか。だが、一体どこで写したのだね」
「牛込区Sまちの古いお屋敷でございました。エエと、あれは……そうそう、思い出しました。この前の日曜日でございます。子供達の学校が休みであったのを、よく覚えて居ります」
「エ、日曜日だって?」
 布引氏と鳥井青年が、ほとんど同時に叫んだ。
「それは君、本当かね」
「ハア決して間違いはございません。午後になって小雨がふり出しました、あの日でございます」
 確かに最近午後に小雨が降った日と云えば、日曜のほかにはないのだ。
「君、冗談を云っているのじゃあるまいね。この写真の女はわしの娘なのだ。急病でなくなって、今日が八日目だ。分ったかね。ここに写っている花嫁は、先週の木曜日になくなって、土曜日に火葬にしたのだ。その死人が、火葬になった翌日の日曜日に、こんな盛装をして、お嫁入りをするということが、あり得るだろうか」
「エ、エ、何でございますって?」
 今度は写真師の方がたまげてしまった。

電話の声


 あり得ないことだ。死人が自動車の窓から顔を出して父を呼んだ。死人が結婚式を上げた。今の世に怪談を信ずべきであろうか。怪談でなくて、この様な奇怪事が起り得るであろうか。
 写真師が帰ってからも、布引氏夫婦と鳥井青年とは、額を集めて、この不可解事について色々と話し合ったが、結局気味を悪がるほかには、何の思案も浮ばなかった。
「若しや照子は本当にまだ生きていて、どこかに監禁されているのではございますまいか。私、どうやらそんな風に思われて仕方がありませんわ。ねえ、あなた、何とかそれをたしかめる手だてはないものでございましょうか」
 夫人はなき愛嬢の幻を追う様な目をして、夫の智恵にすがるのであった。
「だが、それは理論上考えられないことだよ。第一お前、現にうちの仏壇に納めてある骨壺の中のものをどう解釈したらいいのだ。あれは照子のこつに間違いはないのだ。まさか死人の替玉かえだまがある筈はないからね」
 云われて見れば、それに違いなかった。火葬をして骨上げまで済ませた死人が、生きている道理がない。
 このことを警察に届けて置こうかという話も出たけれど、そんなことをすれば一層騒ぎを大きくして、折角せっかく安らかに眠っている仏のさわりにもなる訳だから、もう少しハッキリした事実をつかむまで、ソッとして置く方がよかろうということになった。
「どこかに大きな間違いがあるのだ。僕等の頭が揃いも揃って、少し変になっているのかも知れない。軽々かろがろしく騒ぎ立てることを慎まなければいけない」
 布引氏が、あらぬ噂を立てられ、世間に恥をさらすことを恐れたのは無理もない所である。
 で、鳥井青年は会社へ出勤するし、布引氏は同じく社用の為に外出するという訳で、その日は結局うやむやの内に暮れてしまったのだが、さて、その夜更よふけになって、布引氏の上にも鳥井青年の上にも、申合わせた様に、非常な事件が起った。
 先ず布引氏の方からと云うと、その同じ日の深夜、十二時に近い頃、彼は寝入ばなを女中の声に起された。
「アノ、お電話でございます。是非ぜひとも旦那様に出て頂きいとおっしゃって……」
「うるさいね。明日にして下さいって云え。一体どこからだ」
 布引氏は寝ぼけ声で女中をしかりつけた。
「アノ、アノ……」
 女中はなぜか云いよどんで、モジモジしている。見ると、異様に青ざめて、声さえ震わせて、何かにおびえている様子だ。
「どうしたんだ。電話は誰からだ」
「アノ、照子だとおっしゃいました。確かにおなくなりなすったお嬢さまのお声でございます」
 女中はやっとそれを云って、ひどく叱られはしないかと、オズオズ主人を眺めた。
「照子だ? オイ、何をつまらんことを云っているのだ。死人から電話が掛ってくる筈がないじゃないか」
「でも、是非お父さまにとおっしゃいまして、何度うかがい直しても、照子よ、照子よとおっしゃるばかりでございますの」
 女中は泣き声になっていた。
 聞くに従って、布引氏も怪しい気持に引入れられて、若しかしたら本当に照子かも知れないと感じ始めた。
 そこで、かくも、寝室の卓上電話に接続させて、受話器を取って見た。
「わたし、布引だが、あなたはどなた?」
「アア、お父さま! あたし照子です。お分りになりまして? 照子は生きていますのよ」
「オイ、照子! お前、本当に照子なのか。どこにいるのだ。一体どうしたというのだ」
 流石の老実業家も、この驚くべき電話を受けて、しどろもどろにならないではいられなかった。
「お父さま! あたし何も云えないのです。アノ、そばに人がいるんです。命じられたことのほかは何も云えないのです。でないと殺されてしまいます」
「よし、分った。安心おし、きっと救い出して上げる。で、その命じられたことを云ってごらん」
 布引氏は、電話が切れてから、交換局に先方の住所を調べさせることを考えて、わざと何気ないていを装った。
「お父さま! すみません。あたしお父さまにこんなひどいことをお願いしなければならないなんて。……アノ、ここにいる人が、お父さまにあたしを買い戻す様にお頼みしろと云いますの」
「分った、早く云ってごらん。一体どれ程の身代金みのしろきんを要求するのだ」
「五万円……それも現金で、お父さまご自身で持って来て下さらなければいけないと申しますの」
「よしよし、心配することはない。お父さまはその身代金を払って上げる。で、どこへ持って行けばよいのだね」
「それはアノ、お父さま今日写真屋さんをお呼びになったでしょう。その時牛込S町の空屋のことお聞きになりませんでした?」
「ウン、聞いた。お前今そこにいるのかい」
「イイエ、今は違います。でも、明日の朝、十時にはそこへつれて行かれるのです。そしてお父さまのお金と引換えに帰してやると申しているのです。分りまして? あのS町の空屋へ朝十時に……ね、分りまして?」
「分った、分った。安心して待っておで、お父さまがきっと迎えに行って上げるからね」
「そして、アノ、このことを警察へ云ったりなんかすると、あたし殺されてしまいますのよ。アノ、今なんにも云えませんけど、相手の人は多勢いて、それは想像もつかない程恐ろしい団体なのですから、用心して下さいましね。……アラ、何も云やしませんわ。エエ、切ります、切ります。――ではお父さま、本当に……」
 そこで、側にいた奴が、無理に受話器をかけたと見えて、バッタリ声が途絶とだえてしまった。
 布引氏が直様すぐさま交換局を呼出して、先方の電話の所を調べさせたのは云うまでもない。併し、その結果分ったことは、相手の非常な用心深さばかりであった。先方の電話はある場末の自動電話だったのだ。無論曲者くせものはもう遠くに逃げ去ったに違いない。今から何と騒いで見ても追ッつかぬ。
 布引氏は賊の申出もうしいでに従って、警察に届出とどけいでるのは見合せることにした。こういう場合に、賊の申出にさからって、飛んでもない結果をひき起した例を、屡々しばしば耳にしていたからだ。賊は五万円が目的なのだ。それさえ与えたら危害を加えることもなかろう。それに五万円は大金ではあるけれど、布引氏の資産に比べては物の数でもない。しかも何物にも換え難い一粒種の愛嬢の命が買えるのだ。「こんなやすい取引はない」と、太っ腹の布引氏は忽ち思案を定めたのである。

悪夢


 さて、お話は鳥井純一青年に移る。
 布引氏が奇怪なる電話に、亡き人の声を聞いたのと、殆ど同じ時刻に、鳥井青年は、目に見えぬ糸で引かれでもする様に、牛込区S町のかの怪しき空屋へと、近づいていた。
 彼はその夜、「恋人は果して死んだのか、生きているのか」という、悪夢の様な疑惑にとざされて、暗闇の町から町へとさまよい歩いていたが、いつの間にか殆ど無意識の内に、S町の怪屋の門前に出てしまった。
 まさか今まで、あの盛装の花嫁御がこの家にいる筈はないと思いながらも、朽ちかかった古めかしい建物が、何とはなく彼をひきつけた。
 彼はフラフラと、真暗な門内へ這入って行った。門のは一押しで苦もなく開いたのだ。
 一歩庭に踏み込むと、闇の中に物の朽ちたにおいがして、魔物の住む洞穴ほらあなへでも入った様な、何とも云えぬ不気味な感じであった。
 行手には伸びるがままに、繁茂はんもした樹木の枝が交錯し、それを分けて進むと、たちまちネットリとした蜘蛛くもの巣が顔にかかって来た。生い茂った雑草はひざを没する程で、靴の底がジメジメと、まるで泥沼でも歩いている様な音を立てた。
 彼は、その殆ど触覚ばかりの闇の中で、「アア俺は今恐ろしい夢を見ているんだな」と思った。それ程、空屋の中は暗くて、静かで、現実ばなれがしていた。
 ガサガサと木の枝を分けて、庭を折れ曲って行くと、向うの方に映画のスクリーンの様な長方形の白いものが見えた。それは縁側の雨戸が一枚あいていて、その中に蝋燭ろうそくが一本、ションボリとともっているのであった。蝋燭の赤茶けたほの暗い光が、闇に慣れた目にはスクリーンの様に白く見えたのだ。
 スクリーンに見えた理由はもう一つあった。その雨戸一枚分の長方形の中には、ボンヤリと人の姿があったのだ。
 蝋燭が、ほのおを遠ざかる程段々薄れて行く丸い光で、その人物の胸から上を、浮き出す様に照らしていた。
「アッ、照子さん!」
 鳥井青年は、思わず叫び相になって、やっと喰いとめた。
 燭台しょくだいのほのかな光にユラユラと揺れて、縁側の奥に坐っていたのは、まがう方なき布引照子であった。死んだ筈の恋人の姿であった。
 やっぱりそうだ。照子さんは生きていたのだ。そして、僕が救い出しに来るのを待っていたのだ。照子さんの不思議な心の糸が、僕をここへ引きつけたのだ。
 鳥井青年は、わきの下から冷いあぶら汗をタラタラ流しながら、泳ぐ様にして恋人の前に近づいて行った。
「マア、鳥井さん! よく来て下すったわね」
 突然、蝋燭の赤茶けた円光の中の照子が、身動きもせず、表情も変えないで云った。
 その様子が、本当に悪夢の中の様な気違いめいた感じであったけれど、青年はそんなことをうたぐっている余裕はなかった。
「アア、よかった。照子さん、僕お迎えに来たんですよ。あなた一人切りで、こんな淋しいとこにいたんですか。誰かに監禁されたのでしょう。そいつはどこへ行ったのです。奥の方の暗闇の中に見張っているのですか」
 近よって、縁側に手をついて、一間いっけん程奥に坐っている照子の方へ、顔を突き出しながら、セカセカと尋ねた。
「イイエ、誰もいないんです。あたし一人っ切りよ。あたし待ってたわ」
 照子は蝋燭の後光の中から、淋しげな冷い顔で、ニッコリともせず答えた。何となくこの世のものではない、もっと別の世界の神々こうごうしい女性の様に思われた。
「待ってたわ」という言葉が、力強く、何か妙な意味を含んで発音せられた。それが変てこな、耳慣れぬアクセントだったので、「オヤッ、これは本当に照子さんなのかしら」とギョッとした程であった。
「サア、帰りましょう。早くそこから降りていらっしゃい。僕お宅まで送ってあげますから」
 青年がせき立てても、照子は身動きさえしなかった。
「イイエ、あたし今は帰れませんのよ。それよりも、あなたここへお上り遊ばせな。そして、この静かな部屋で、二人っ切りで、ゆっくりお話ししましょうよ」
 どうも変だ。照子さんは悪者の為にひどい目にあって、気が違ってしまったのではあるまいか。鳥井はふとそんなことを考えると、ションボリと淋し相にしている恋人がいじらしくて、涙がこぼれ相になった。
 彼は動こうともせぬ照子を抱き起すために、靴を脱いで縁側を上った。
 照子は写真で見た通りの高島田に結って、それが少しくずれて、ほつれ毛が額に垂れていた。気がつくと、着ているのは派手な赤い模様の長襦袢ながじゅばん一枚で、その胸がはだかって、真白な肌があらわになっているのが、何とも云えぬ物凄いなまめかしさであった。
 鳥井青年が、少しためらったあとで、照子のやわらかい肩に手をかけるのを合図の様に、縁側の蝋燭が消えた。たった一つの光線がせると、あとは墨を流した様な真の闇であった。
「アアいけない。火を消してしまった。僕マッチ持ってますから、今つけます」
 慌ててマッチを探ろうとする手を、生温なまぬるい女の手がギュッと握った。
「イイエ、いいのよ。蝋燭なんかない方がいいわ。ね、鳥井さん、分らなくって。その蝋燭はあたしが吹き消したのよ」
 その声と一緒に、柔いフカフカしたものが、蛇の様に青年の身体にまきついて、身動きも出来なくなってしまった。相手の熱い呼吸いきが頬の産毛うぶげをそよがせた。
 青年は、あぶら汗にまみれながら、ズルズルと悪夢の中に引ずり込まれて行った。何となく気違いめいて不気味に耐えなかったが、無論抵抗する気持はないのだ。

「ホホホホ、鳥井さん。分って? この意味が」
 やっとしてから、闇の中に、ほがらかな笑い声が響いた。
「ア、その声は? あなたは誰です。照子さんではないのですか」
 グッタリと倒れていた鳥井青年が、愕然がくぜんとして闇の中に目をみはった。することも、云うことも、照子とは思えなかった。それにあのまるで違った声。照子は全く気が違ったのか。でなければ、さいぜんからの闇の中の軟体動物は照子ではなく、誰か別の女だったのか。
「イイエ、照子よ。あなたの許嫁いいなずけの照子よ。ホホホホ」
 闇の中の声が又笑った。やっぱり照子の声だ。
「あたしね、いっそ、あなたを殺してしまい度いと思うわ」
 その声と同時に、柔い蛇がスルスルと青年の首に巻きついて来た。
「およしなさい。サア、もう帰りましょう。お父さんやお母さんが、死ぬ程心配していらっしゃるのです」
 と云いかけたその最後の言葉は完全に発音出来なかった。まきついた蛇が、段々力を加えて、息を止めてしまったからだ。
「ウ、ウ、いけない。何を何をするんです。気が違ったのか……」
 青年はか弱い女の腕を払い兼ねて、七転八倒した。
「ホホホホホホ、どうもしないの。あなたをめ殺すのよ。分って? 鳥井さん」
 又まるで違う声になった。
 青年は、充血してガンガン鳴っている耳で、それを聞いた。そして、たちまちあることを悟ると、突然網の上のうおの様に、死にものぐるいにピチピチとはね廻った。
「知っている……知っている……き、貴様だ。……悪魔……悪魔」
 もがきながら、断末魔の悲鳴が青年の口をほとばしった。彼は闇の中の女が、照子ではなくて、ある驚くべき婦人であったことを、今わのきわにハッキリと知り得たのである。

恐ろしき情死


 その翌朝、約束の十時になると、布引庄兵衛氏は五万円の身代金を用意して、ソッとS町の空家へ忍んで来た。
 門をくぐり、玄関の格子戸こうしどをあけて小声で案内を乞うと、雨戸がしめてあるのか、真暗な奥の間からノソノソと、一人の男が出て来た。例の自動車の運転手の服装をした、ゴリラみたいな醜怪極まる怪物だ。
 布引氏は、服装こそことなれ、これがあの写真の花婿であることを、忽ち見てとって、何とも云えぬ不快な気持になった。
「わしは布引だが、電話で約束したものを持って来ました。直様娘を引渡してくれ給え」
 布引氏はなぐりつけてやり度い程の不快を押し殺して、おとなしく云った。
「ヤ、布引さんですか。お待ち申して居りました。マア、どうかお上りなすって」
 ゴリラは案外人間らしい口を利いた。
「イヤ、上ることはありません。すぐにここへ娘をつれて来て下さい。金はこの通り持っているんです」
「でも、お嬢さんは今着替えをしていらっしゃいますから、ちょっとお上りなすって」
「そうですか。じゃ娘のいる部屋へ案内して下さい」
 布引氏は相手が紳士の様な口を利くのに油断をして、つい玄関を上った。
「馬鹿に薄暗いじゃないか。雨戸がしめてあるのですか」
「ヘヘヘヘヘヘヘ、空屋だものですからね」
 怪物は薄気味悪く笑った。
「君が今度のことを企らんだ本人かね。あの写真を見たが、君はまさか本当にわしの娘と結婚した訳ではないだろうね」
「ヘヘヘヘヘヘ、どういたしまして。お嬢さんは大切な売物ですからね。買手のあなたを怒らせる様なことは致しませんですよ。あの写真は、ナニホンの、私共のやっている仕事が嘘でない証拠までに撮ったのですよ」
 ゴリラは柄にもなく揉手もみでをせんばかりである。
「で、娘はどこにいるのだね」
「ここでございます。このふすまの向うでございます」
 ゴリラは襖に手をかけて開こうとした。
「見た所君一人の様だが、大丈夫かね。わしが娘を受取って、金を渡さずに帰るという様な場合を考えて見ないのかね」
 布引氏はふと相手をからかって見たくなって云った。
「ヘヘヘヘヘヘヘ、そこに抜かりがあるものですか。私一人の様に見えて決して一人じゃありませんからね。その襖の中には、お嬢さんの外に、よく御存知の男もいるのですよ。ヘヘヘヘヘ、それにあなたが警察には内密で、紳士らしくたった一人で、ここへ御出でになったことも、ちゃんと偵察してあるのですよ」
「フフン、流石に悪党だね。だがわしの方にも、いささか用意があるぜ。若しわしをペテンにかけて娘を渡さない様なことがあれば、ホラ、これを見給え。わしは射撃にかけては、これで仲々名人だからね」
 布引氏は用意のピストルを出して見せた。
「イヤ、どうしまして。ペテンにかけるなんて滅相めっそうな。わたしの方も大切な取引ですからね。そのお得意様をだます様な不心得は致しませんよ。……では、どうか」
 云いながら、ゴリラはスーッと襖を開いた。
 だが、襖の奥は文目あやめかぬ暗闇だ。仮令そこに照子がいたとしても、見える訳がない。
「オヤ、真暗じゃないか」
 布引氏は襖の間から顔をさし出して、暗闇の室内に瞳を定めた。
 と、襖の蔭からニュッとばかり、何か白いものが飛び出して来て、鼻と口をふさいだ。
 ハッとして身を引こうとすると、いつの間にか、うしろからゴリラが鉄の様な両腕ではがい締めにして、小ゆるぎもさせぬ。
「ム、ム……」
 とうめきながら首を振っている内に、目の痛い様な強烈な匂が、全身にしみ渡って行った。そして、布引氏は不甲斐ふがいなくも、いつしか意識を失ってしまった。襖の蔭から飛出した白いものは、云うまでもなく麻睡薬ますいやくをしませた布で、そこにもう一人の悪党がひそんでいて、彼の不意をうった訳だ。
 どの位の時間がたったのか、ふと夢から醒める様に目を開くと、布引氏は真暗な部屋に、転がされていた。
 さては賊に一杯食わされたかと、ふところを探って見ると、あんじょう紙幣さつを包んだ風呂敷包みがなくなっている。ピストルまで持去ったと見えて、その辺をなで廻しても、手に触れるものもない。
「アア俺の思い違いだった。泥棒を紳士扱いして、度量を見せたのが、飛んでもない失策だった」
 布引氏は大人げない失敗に苦笑しながら立上った。さいわいどこにも危害を加えられた様子はない。命丈けは助けてくれたのだ。
 彼は手さぐりで、縁側に出て雨戸を開けた。兎も角、こう暗くては、自分の身のまわりを見ることも出来なかったからである。
 一枚二枚雨戸をくると、曇り日ではあったが、まぶしい程の明るさが、室内にさし込んだ。
 布引氏は、振り向いて座敷を眺めた。
 と、彼はギクンとして、そこへ棒立ちになってしまった。
 彼は、まだ麻睡の夢が醒め切らぬのではないかと疑った。
 何がかくも布引氏を驚き恐れしめたのか。読者はとっくに御存知だ。そこには世にも奇怪なる男女の情死体が重なり合って倒れていたのである。
 下になっているのは、照子さんの長襦袢一枚の姿だ。その上にのしかかって絶命しているのは、昨朝別れたままの鳥井青年だ。
 成程なるほど、賊は嘘は云わなかった。この部屋には確かに照子さんがいた。もう一人「よくご存知の男」もいた。併し、二人とも絶命してだ。
 布引氏は、あっけにとられて、不思議な情死者をマジマジと眺めていた。
 賊は何故なぜこの二人を殺す必要があったのだろう。身代金を奪ってしまえば、何も危険な殺人罪を犯すことはないではないか。
 少し近よって見ると、鳥井青年の首に青あざがあって、絞殺されていることが分った。と同時に、布引氏は照子さんの皮膚を見た。そして、我子ながら、ゾーッとして、思わず顔をそむけないではいられなかった。
 照子は顔から胸から壁の様に白粉を塗られて、ほとんど皮膚の生地は見えぬ程になっていたが、それでも、白粉のひび割れた箇所、手足などに、毒々しく、紫色の斑紋はんもんが現われていた。目は白っぽくにごって、まるで魚の目の様であったし、皮膚のある部分は已にくずれて、トロンと皮がめくれていた。
 最も無残なのはその胸であった。無数の掻ききずが所きらわずつけられ、その上、水母くらげの様にうず高くなった乳房の上に、鳥井青年の断末魔のゆがんだ指が、熊手くまでの様に肉深く喰入っていた。
 何と恐ろしい情死であろう。男はつい今しがたこときれたばかりなのに、女の肉は腐りただれて、明かに死後数日を経過したことを語っている。

恐ろしき文身いれずみ


 布引氏が、この椿事ちんじを警察に訴え出たことは云うまでもない。急報に接して、検事局、警視庁、所管警察署から係り官が駈けつけ、直ちに綿密周到なる取調とりしらべが行われた。
 現場げんじょうには、これという手掛りは何一つ残されていなかった。賊の遺留品は勿論もちろん、指紋一つ発見出来なかった。賊は空屋を無断借用していたのだから、家主を調べて見ても、何のる所もなかった。又布引氏にも、鳥井青年の知人達にも、照子さんなり、鳥井青年なりが、これ程恨みを受ける様な心当りは、全くなかった。
 だが、二つだけ明確に分っていたことがある。その第一は、婚礼写真に顔をさらしているゴリラ男だ。これが賊の同類であることは、布引氏の証言によって明かである。そこで、警察は、婚礼写真を唯一の手掛りとして、醜怪なるゴリラ男を探し出すことに、全力を傾けた。
 第二の手掛りというのは、これは読者にまだ分っていない事柄だが、この事件をらに怪奇不思議ならしめた所の「犯罪者のプロパガンダ」とわれた、大胆不敵な賊の自己紹介であった。
 賊は犯罪現場に名刺を残して行ったのだ。だが、ありふれた紙の名刺ではない。
 流石さすが事に慣れた警察官達も、この不気味千万な賊の自己紹介を発見した時には、思わず「アッ」と声を立てて、顔をそむけた程であった。
 その時、係官達は照子さんの死体をあらためる為に、そのまわりに集っていた。
 死後数日を経た腐爛ふらん死体は、何とも云えぬ悪臭を放って、触ればズルズルと皮膚がめくれて来そうで、着物を脱がせるのにひどく骨が折れた。
 厚化粧の顔丈けが、人形の様に美しくて、その首のすぐ下に、灰色の腐肉が続いているのは、何とも云えぬ変てこな感じだった。
 死体をソッとうつむけて、警察医と巡査と二人がかりで、艶かしい長襦袢をはいで行った。赤い錦紗縮緬きんしゃちりめんがグルグルとめくれて行く下から、照子さんの灰色の背中がむごたらしく現われて来た。
「ワッ、ひどい傷だ」
 誰かが、思わず叫んだ。
 灰色の背中一面、蚯蚓みみずの這い廻った様な、ドス黒い傷痕がある。だが、何という複雑な傷をつけたものであろう。イヤ、傷ではない。何だかえたいの知れぬ変てこなものだ。……イヤイヤ、やっぱり傷痕だ。でなくて、こんな恐ろしい蚯蚓ばれが出来るものか。併し、傷は傷でも、決して並々の傷ではない。
「オヤ、何だか、この傷痕は、字の恰好かっこうをしているぜ。ホラね、上のは『おそれ』という字だ。それから『怖』『王』。『恐怖王』だ。『恐怖王』だ」
 一人の刑事が叫んだ。
 如何いかにも、よく見ると、その傷痕は「恐怖王」と読まれた。まさか死体糜爛びらんのあとが、偶然この様な形を現わした訳ではあるまい。賊が故意に短刀か何かで死体をきずつけて、この恐ろしい文身を刻みつけて置いたものに相違ない。
 何の為に?
 俄かに断定を下すことは出来ぬけれど、文字の意味から想像して、これは恐らく賊の自己紹介ではなかろうか。誰しもそこへ気がついた。そして、その推察は適中していたのだ。
 それにしても、何というむごたらしい賊の思いつきであったろう。彼は美しい娘さんの身体をズタズタに斬りきざんで、奇怪千万な人肉名刺を印刷して行ったのだ。
 新聞紙の殆ど一ページを費した激情的な報道によって、この前代未聞の怪事件は、全国に知れ渡り、人々に絶好の話題を提供した。
 賊はなぜそんな残酷な人殺しをしなければならなかったのか。仮装情死の目的は一体何であったか。死美人の背中に傷つけられた「恐怖王」とは抑々そもそも何者であるか、あの写真を見ても胸の悪くなるゴリラ男は、一体人間なのか、それとも人間によく似た獣物けだものではないのか。
 人々は声を低めて、これらの恐ろしき疑問を囁きかわした。
 賊は大胆不敵にも人肉名刺によって名乗りを上げている。その上、同類ゴリラ男の写真まで、これ見よがしに見せびらかしている。しかも不思議なことに、警察のあらゆる努力にもかかわらず、賊の所在ありかは勿論、その素姓も、殺人の動機も一切合切いっさいがっさい不明であった。警視庁の名探偵達も、「こんな狐につままれた様な事件は初めてだ」と腕をこまねくばかりだ。
 ところが、賊の方では、何たる図太ずぶとさであろう、其筋そのすじの捜査を手ぬるしと考えたか、実に奇々怪々の手段をろうして、秘し隠しに隠すべき我が名を、「これを見よ、これでも君達は俺をつかまえることが出来ぬのか」と、繰返し繰返し市民の前に発表した。
 この賊、若し狂人でなかったなら、百年に一度、千万人に一人の、凶悪無残比類なき大悪党と云わねばならぬ。

米粒が五つ


 お話変って、被害者鳥井青年の友達に、大江蘭堂という奇妙な号を持つ探偵小説家があった。蘭堂なんて老人臭い号に似ず、まだ三十歳の青年作家で、その奇怪なる作風と、小説ばかりではなく実際の犯罪事件にもちょいちょい手出しをする物好きとで、その方面では可成かなり有名な人物であった。
 その様な蘭堂であったから、鳥井青年変死の顛末てんまつを聞くと、友人の不幸を嘆いたばかりでなく、一歩進んで、この奇怪なる犯罪事件をみずから探偵して見たいという野心を抱いているらしく、友達などにもその意嚮いこうを漏らしていた。
 彼はまだ独身のアパート住いであったが、恋を知らぬ木念仁ぼくねんじんではなかった。知らぬどころか、彼は世にもすばらしい恋人に恵まれていたのだ。
 花園京子はなぞのきょうこといえば、新聞を読む程の人は誰でも知っているだろう。公卿くげ華族花園伯爵はくしゃくの令嬢で、華族様のくせにオペラの舞台に立った程の声楽家で、その上、非常な美人であった。その華族令嬢が、何を物好きに貧乏小説家などを恋したのか、恐らく彼女の探偵小説好きがきっかけとなったのであろうが、これを知る者、誰一人蘭堂の果報かほううらやまぬ者はなかった。
 その花園京子が、今日も蘭堂のアパートを訪ねて来た。だが、いつもの彼女とはちがって、何となく浮かぬ顔をしている。
「変だね、君どうかしたんじゃない? いやにふさいでいますね」
 蘭堂はすぐさまそれを気取けどって尋ねた。
「エエ、少し。何だか訳の分らない妙なことがあったのよ」
 京子は洋装の胸から小さな紙包みを取出して、テーブルの上に置いた。
「妙なことって?」
「今朝早く、お友達をお見送りして、東京駅の待合室にいる時、変な男が、突然あたしに話しかけたのよ」
「それで?」
「この紙包みを、ソッとあたしに渡すんじゃありませんか。そして、『お約束の薬です。これを召上れば、あなたの声はもっともっとよくなります』って云ったかと思うと、サッサとどこかへ行ってしまったのです」
「君は、そんな約束なんかしなかったの?」
「エエ、ちっとも覚えがないの」
「で、その男というのは?」
「無論知らない人よ。こう髪を長く、おかっぱみたいにして、黒い服を着た、昔の美術家みたいなふうをしていましたわ」
 読者諸君は、この京子の言葉によって、誰かを思出しはしませんか。ホラ、ゴリラ男から布引照子の死骸を受取って、気味の悪い化粧をした男。あれがやっぱり、美術家風の黒い服を着た奴でしたね。
 だが、大江蘭堂はそれと知るよしもなく、テーブルの上の「声をよくする薬」だという紙包を開きながら尋ねる。
「で、この中には、本当に薬が入っていたの?」
「エエ、でも、何だか薄黒い米粒みたいな気味の悪いものよ」
「無論、みやしないね」
「エエ、毒薬だったら大変だわ」
 なる程、紙包を開いて見ると、薄黒い米粒が五つ、大切相に包んであった。一体薄黒い米粒なんてあるのかしら。それとも、米粒の形をした丸薬なのかしら。
 だが、蘭堂は暫くその微粒子を指先でコロコロやっている内に、何を発見したのか、矢庭やにわに立上って、書物かきもの机の抽斗ひきだしから、虫眼鏡を持出して来て、米粒の一つをつまみ上げ、熱心に覗き始めた。
「京子さん、これはやっぱりあたり前の米粒だよ。だが、なぜこんなに薄黒いのだろう。君はこれをよくもしらべて見なかったのだね」
「エエ、気味が悪くて……」
「この薄黒いのはね、字が書いてあるんだよ。米粒の表面に、虫眼鏡でも読めない程小さな字が、一杯書いてあるんだよ」
「マア、本当?」
「見てごらん。ホラ、ね、同じ三字の組合せが、何十となく、ビッシリと並んでいるだろう」
 京子が覗いて見ると、虫眼鏡の下に、丸太ん棒の様な巨大な指が二本、その間にはさまれて、大瓜おおうり程の米粒があった。そして、その表面に、
 恐怖王恐怖王恐怖王恐怖王………
 とビッシリ黒い字が並んでいた。
「オヤ、恐怖王っていうと……」
 京子はギョッとした様に探偵小説家の顔を見た。
「僕の友達の鳥井君に、恐ろしい情死をさせた奴です。あいつ、又こんないたずらをしたんだな。この間は布引照子さんの死骸に『恐怖王』と刻みつけて見せたかと思うと、今度はこれだ。奴め、ひょっとしたら、僕がこの事件に興味を持っているのを感づいたんじゃないかしら」
「マア、怖い! あたしどうしたらいいでしょう。あいつに見込まれたのじゃないでしょうか。そして、若しやあなたと……」
 京子はもう真青まっさおになっていた。
「ハハハハハハハ、僕と君とが、又情死をさせられるとでもいうの? いくら、悪魔だって、そうそう器用な真似が出来るものじゃない。安心し給え、僕がついていますよ」
 だが、伯爵令嬢はすっかりおびえ上ってしまって、帰宅する道が怖いからと、蘭堂に頼んで、邸まで送って貰った程であった。

空中の怪文字


 その翌日、大江蘭堂は鎌倉かまくらに住んでいる友人から、電話の呼出しを受けた。急に話し度い事件が起ったが、あいにく風心地かぜごこちで寝ているから、勝手ながら、こちらへお昼までに着く様に、御足労が願い度いという、書生の声だ。
 早速行って見ると、どうしたというのだ。風を引いて寝ている筈の友人は、朝から東京へ出掛けて留守だというし、書生に聞いて見ても、電話なんかかけたおぼえがないということであった。
「オヤ、こいつは変だぞ。するとやっぱり、昨日の米粒は、賊の挑戦状だったのかな。俺の留守中に、京子さんがどうかされているのじゃないかしら」
 と思うと気が気でなく、直ぐ東京へ引返そうと、友人の玄関を出た途端、ふと妙なものが彼の目にとまった。
 それは新聞の号外みたいな一枚の紙片かみきれで、初号活字でベタベタと何か印刷したものであったが、風に吹かれて、ヒラヒラと地上を飛んで行くのを、目で追っている内に、ヒョイと「恐怖王」という活字が見えた。
「オヤッ」と思って、それを追ったが、小さなつむじ風が、どこまでも紙片を運んで行くので、ついそれに引かされて、海岸へのダラダラ坂を降り切ってしまった。
 やっと紙片をつかまえて、読んでみると、例の怪賊についての号外かと思ったのが、そうではなくて、やっぱり、賊の不気味ないたずらであったことが分った。紙片には、例の米粒と同じ様に、「恐怖王」という初号活字が、まるで活字屋の見本の様に、べた一面に並んでいた。
「賊の広告ビラだな。併し、何という気違いだろう。こうして到る所に自分の名前を広告するなんて。馬鹿か、でなければ、恐ろしく自信に満ちた奴だぞ」
 稚気ちきと云えば稚気に相違ないけれど、こういう稚気のある奴に限って、ずば抜けた独創力に恵まれているものだ。東西の犯罪史をひもとけば分る様に、大犯罪者であればある程、常人には理解し難い様な、子供らしい、馬鹿げた虚栄心を持っているのだ。
 そんなことを考えながら、ヒョイと目を上げて海岸を眺めると、これはどうしたというのだ。水泳の時期をとっくに過ぎた海岸に、真夏の様なおびただしい群衆が群がっているではないか。
 その人達は無論水着を着ている訳ではなく、漁師の細君さいくん連中、海岸近くの商家の小僧さん達、中には都会風の紳士、淑女も混って、皆一様に空を眺めている。
「アア、飛行機だな」
 と気づいて、人々の視線をたどって、空を見上げると、珍らしくもない飛行機が、この黒山の見物人を引きつけている訳が分った。
 畳の様におだやかな大海原の上、晴れ渡った紺青こんじょうの空高く、一台の飛行機が、大胆な曲線を描いて飛んでいた。その飛行機の尻尾しっぽからモクモクと湧き出す黒煙の帯。これだ。海岸の群集はこの煙幕に見入っているのだ。
 逆転、横転、錐揉きりもみと、自由自在に飛び廻る鳥人の妙技につれて、夕立雲の様に毒々しい煙幕は、見る見る紺青の空を、不思議な曲線で塗りつぶして行く。
「海軍飛行機ですか」
 群集に近よって尋ねて見ると、
「サア、どこのですかね、全く不意打ちなんですよ。新聞には何も出ていなかったですからね」
 という答えだ。
「オヤッ、ごらんなさい。何とすばらしいじゃありませんか。あの飛行機は空に字を描いているんですよ。アレ、アレ」
 誰かが突然叫び出した。
 成程、よく見ると、大空に一町四方もある巨大なローマ字が、ツー、ツー、クル、クルと、先ず描き出したのは、Kの字。
 続いて、クルリ、ツーッと逆転して、モクモクと現われたのはy、それからo、f、u、o……
 最後のoを描き終った頃には、初めのKはボヤッと拡がって、形がくずれかけていたけれど、それ丈けに、思わず腋の下から油汗がにじみ出す様な、悪夢の物凄さをもって、頭の上から人を押しつける、空一杯の怪文字もんじ、Kyofuo ……キョーフオー……恐怖王!
「恐怖王、恐怖王」
 の囁きが群集の間に湧き起ったかと思うと、まるで狂気の津波の様に、たちまち拡がり高まって、海岸全体の不気味な合唱となった。
「恐怖王だ、恐怖王だ、あいつがあの飛行機に乗っているのだ」
 だが千メートルもあろうという、高空の悪魔をどうすることが出来よう。
 アレヨ、アレヨと騒ぎ立つ海岸の群集を尻目に、悪魔の飛行機は、みずから描いた煙幕文字に隠れて、見る見る機影を縮め、漠々ばくばくたる水天一髪すいてんいっぱつ彼方かなたに消え去ってしまった。

尾行曲線


 飛行機は飛び去っても、彼の残した煙幕文字は、ボヤン、ボヤンと無限に大きく拡がりながら、いつまでも怪しい蜃気楼しんきろうの様に、大空に漂っていた。
 大江蘭堂は、余りにも大がかりな悪魔のプロパガンダに度肝どぎもを抜かれたのか、群集が立ち去ったあとまでも、ボンヤリと海岸にたたずんでいたが、ふと気がつくと、十間ばかり向うの波打際なみうちぎわに、彼を見つめて立止っている、妙な人物を発見した。
「妙だ、あいつはなぜ、俺を見つめているんだろう」
 ムラムラと疑念が湧き上った。
 よもぎの様な頭髪、ボロボロの古布子ふるぬのこ、繩を結んだ帯。乞食かしらん、だが、乞食がなぜあんなに彼を見つめていたのだろう。
 こちらもじっとにらみつけてやると、乞食みたいな男は、気拙きまずそうにそっぽを向いて、トボトボと歩き出した。歩きながら、チラッチラッと振返る。その様子が如何にも怪しいのだ。
 蘭堂はあきらめ切れないで、つい乞食のあとを追って歩き出した。
 広い砂浜を、右に左に、時には逆戻りさえしながら、乞食はいつまでも歩いて行く。その歩きぶりは、全くあてのない散歩でもしている様に見えるが、こうして蘭堂を退屈させて、尾行を思切おもいきらせる算段かも知れない。
 グルグル廻りながら、やがて砂浜を三十分も歩いたであろうか、ふと気がつくと、高い石垣の上で、五六人の子供が騒いでいた。彼等は乞食と蘭堂を指さして、しきりと何かはやし立てているのだ。
「あれ字だよ。伯父おじさん達字を描いているんだよ。君、読めるかい」
「読めらい、あれ、英語のKって字だい」
 この異様な会話が、蘭堂の小耳を打った。子供は一体何を云っているのだろうと、うしろを振返って見ても、別に文字らしいものは見当らぬ。だが「Kという字」の一言いちごんは聞捨てにならぬ。
 彼はふとある事を感づいて、急な坂道を、高い石垣の上へ駈けあがって行った。
「オイ君達何を云っているの? どこに字があるの?」
 子供等に尋ねると、
「ワーイ、伯父さん自分でかいた癖に知らないのかい。ホラごらん、あれだよ、あれだよ」
 指さす砂浜を見渡すと、人通りのない広い地面に、乞食の足跡と、蘭堂自身の靴の跡と重なり合って、目もはるかに、異様な曲線を描いていた。なる程、ここへ上って見ると、その足跡がハッキリとローマ字の形になっている。
 さし渡し半町はんちょう程のべら棒な巨大文字もんじ。その余りの大きさに、我が靴跡で描きながら、少しもそれと気づかなかったのだ。
 Kyofuo ……やっぱり「恐怖王」の六文字だ。
 ハテナ、さっきの空の煙幕が、地面に影を投げているのではあるまいかと、妙な気持になって、空を眺めたが、煙幕は已に溶け去って、そこには最早もはや何のくもりもなかった。
 すると煙の文字が、地上に落ちて、そのままあの砂浜へしみ込んでしまったのかしら。流石の探偵小説家も、頭がどうかしたのではないかと、疑わないではいられなかった。
 何という無駄な、馬鹿馬鹿しい、しかもずば抜けた賊の自己宣伝であろう。死人の肌の糜爛文字、米粒の表面の極微ごくび文字、そして今は又、大空の黒雲かと見まがう煙幕文字、地上の足跡の砂文字、これは一体どうしたというのだ。
 賊は悪魔の宣伝ビラを、所きらわずき散らしているのだ。一分の米粒も賊の名刺だ。眼界一杯の大空も賊の名刺だ。
 気違いか? イヤイヤ気違いにこんな秩序あるはなわざが演じられるものではない。彼奴あいつは正気なのだ。正気でこのべら棒ないたずらをやっているのだ。こいつは大物だぞ! 布引照子さんの事件なんか、ほんの小手調べに過ぎないのだ。彼奴は今やっと、世間に彼奴の名刺をふり撒いているではないか。自己紹介が済めば、これより愈々本舞台という段取りなのではあるまいか。
 だが、そんなことを考えている時ではない。さしずめ曲者はあの乞食だ。蘭堂は乞食の歩くままに尾行したからこそ、あんな文字が現われた。つまりこの怪文字のかき手はあの乞食であったのだ。
 見ると、乞食、いつの間にか五六町向うの海岸を豆の様に小さく歩いて行く。
「ウヌ、逃がすものか」
 蘭堂は石垣を駈け降りると、一散に乞食のあとを追った。五間、十間、二十間、またたく内に二人の距離はせばめられて行く。
 乞食奴、ふり返って追手おってを見ると、矢庭に駈け出したが、どうも余り駈けっこはお得意でないらしい。ヨタヨタと妙な恰好で走って行くが、到底のっぽの蘭堂の敵ではない。
「待て、聞きたいことがある」
 とうとう、追手の猿臂えんびが乞食の襟髪えりがみにかかった。

夏子なつこ未亡人


 襟髪を掴まれた乞食は騒ぐ様子もなく、ふてぶてしく立止って、ヒョイと振返った。大江の顔と乞食の顔が一尺程の近さで、真正面に向き合った。
 海岸の鼠色ねずみいろの大空を背景に、バアと大写しになった乞食の顔。
 大江はギョッとして思わず手を離した。長い髪の毛(無論かつらに相違ない)で顔を隠していた為、今の今まで気づかなかったが、この乞食こそ、外ならぬゴリラ男であった。大江はゴリラ男を見知っている訳ではないけれど、その異様な相貌を見ては、それと気づかぬ訳には行かぬ。
 おばけの様な乱れ髪の鬘の下から、狭い額、ギョロリとした両眼、平べったい鼻、厚い唇、むき出した大きな真白い歯並はなみ彼奴きゃつは「どうだ驚いたか」と云わぬばかりに、ゲラゲラ笑っていたのだ。身の毛もよだつ、醜怪千万な笑い顔。
 彼はこの顔を見せる為に、態と大江に追いつかせたのだ。そして、例によって「恐怖王」のデモンストレーションをやって置いて、改めて逃げ出そうというのだ。
 ゴリラのことだ、力も足も人間の及ぶ所ではない。彼は大江の一瞬の放心を見すまして、矢庭に走り出した。その早いこと、足ばかりでなく、両手も使って、猿の走り方で走るかと思われた程だ。
畜生ちくしょう、待てッ」
 大江はこの怪獣に対して、不思議ないきどおりを感じないではいられなかった。何を顧慮する余裕もなく、ただ無性にしゃくに触った。彼も駈けっこでは人に劣らぬ自信がある。いきなりゴリラを追って走り出した。見渡す限り人なき砂浜を、異形いぎょうのけだものと人間との死にもの狂いの競走だ。
 ゴリラは二三丁走ると、とある砂丘をかけ上って、町の方へ曲った。林や原っぱを中にはさんで、ヒッソリとした大邸宅が建ち並んでいる淋しい場所だ。
 賊はそれらの建物の高い生垣いけがきやコンクリートべいの間を縫って、あるいは右に或は左に、クルクルと逃げ廻ったが、どう間違ったのか、塀と塀とで出来た袋小路へ駈け込んでしまった。両側とも丈余じょうよのコンクリート塀だ。突き当りは高い石垣になって、逃げ込む隙間すきまはない。
「しめた。とうとうつかまえたぞ」
 大江蘭堂は勇躍して敵に迫った。もう十間だ。もう五間だ。
 ゴリラはコンクリート塀の根元にうずくまって動かなくなった。遂に観念したのか。それとも、迫り来る追手に飛びかかろうと身構えしているのか。イヤ、そうではなかった。彼は丁度動物園の猿の様に、ピョイと身軽く塀に飛びついたかと思うと、非常なすばやさで、スルスルと、その丈余の塀を乗り越えてしまった。誰の邸とも分らぬ大邸宅の庭へ逃込んでしまった。
 蘭堂は相手の余りの素早さにあっけにとられ、一瞬間塀の下にぼんやりと突立っていた。
「あれが人間だろうか。ジャンピングの選手だって、とても及ばぬ早業だ」と思うと、相手が何か恐ろしい動物の様に感じられて、ゾッとしないではいられなかった。
 彼には、残念ながら、塀の頂上へ手をかけることさえ出来相もない。急いで表門に廻り、この邸の主人に告げて、怪物をとらえる外はなかった。
「サア、出て来い。貴様の方で出て来なければ、俺は晩まででも、ここに待っているぞ」
 蘭堂は大声で怒鳴って、敵が再び塀を乗り越して逃げ出さぬ用心をして置いて、足音を盗んで、グルッと表門に廻った。
 さいわい、門は開けっ放しになっていたので、駈け込んで洋館の入口のベルを押した。と、出会頭であいがしらに、ドアが開いて、一人の洋装婦人が顔を出した。
「マア、大江先生!」
 婦人がびっくりして叫んだ。見ると彼の熱心な愛読者として知合っている喜多川きたがわ未亡人夏子であった。
「ヤ、喜多川さんでしたか。僕、一寸ちょっとここの御主人に逢い度いのですが」
 蘭堂がせき込んで云うと、
「主人って、ここわたくしのうちですのよ」
 若い未亡人が、にこやかに答えた。
 蘭堂は彼女に逢ってもいたし、彼女から手紙も貰って住所は知っていたが、一度も訪ねたことがなかったので、この堂々たる邸宅を見て、一寸驚かぬ訳には行かなかった。
「マア、お入り下さいませ。今出掛けようとしていたのですけど、構いませんわ。サア、お入り下さいませ。本当によくいらしって下さいましたわね」
「イヤ、そうしてはいられないのです。裏庭を見せて頂き度いのです。それから、書生さんか何か男の人は居ないでしょうか」
「イイエ、あいにく書生は居りませんが、裏庭って、裏庭がどうかしましたの」
 若い未亡人は、この探偵作家気でも違ったのではあるまいかと、びっくり仰天ぎょうてんした表情だ。
「兎も角裏庭を見せて下さい。訳はあとでお話しします」
 と云い捨てて、彼は柴折戸しおりどをあけて、建物の裏手へ駈け出して行ったが、やがて、失望のていで、まだ入口に佇んでいる夏子の所へ帰って来た。妙なことをつぶやきながら。
「芝生だもんだから、足跡がないのです。やっぱり塀を越して逃げたかな」
「誰かが庭へ這入りましたの? マア、気味の悪い。誰ですの?」
 未亡人は震え上った。
「電話を貸して下さい。警察へ知らせて置かなければなりません」
 蘭堂は夏子の案内で慌しく電話室へ飛び込んだ。
 夏子が電話室の外に佇んで聞耳を立てていると、途切れ途切れに「恐怖王」だとか「ゴリラ男」だとかいう声が聞える。彼女はハッとして、色を失わないではいられなかった。
「先生、ゴリラ男がどうかしたのでございますか。もしや……」
 電話を切って出て来た蘭堂は、夏子の恐ろしく引き歪んだ顔にぶつかった。
「びっくりなすってはいけませんよ。実はそのゴリラ男が、お宅の裏の塀を乗り越えて、邸内へ逃げ込んだのです」
 それを聞くと、夏子は「マア」と息を呑んで、よろよろとあとじさりをした。

妖術


 間もなく数名の警官が駈けつけて、庭は勿論邸内くまなく捜索したが、ゴリラ男は影もなかった。恐らく、蘭堂が表門へ廻っている間に、再び塀を乗り越えて逃亡したものであろう。
 警官が立去ったあとも、夏子は蘭堂を引止めて帰さなかった。
「書生を少し遠方へ使いに出しましたので、あとは女ばかりで心細うございますから、ご迷惑でも、書生の帰りますまでお話し下さいませんでしょうか」
 そう云われて、蘭堂は一種の当惑を感じないではいられなかった。未亡人と云っても、夏子はまだ二十五六歳の若さで、その上非常に美しかったからである。しかも、いつの間にか日が暮れて、客間の装飾電燈が赤々とともり、自然晩餐ばんさんの御馳走になるという様な羽目になってしまったからである。
「恐怖王」について、或は探偵小説と実際犯罪について、色々話している間に、案の定、女中が現われて、食堂の準備の整ったことを知らせた。
 食堂も客間に劣らぬ贅沢な設備で、十人以上のお客様が出来る程広かったが、その大きな食卓の真白な卓布の上に、おいし相な日本料理が手際よく並べてあった。
「主人がなくなりましてから、コックも置きませんので、女中の手料理で失礼でございます」
 夏子はびながら、あでやかに笑って、卓上の洋酒のびんをとった。
「わたくし、おしゃくさせて頂きます」
 蘭堂は益々当惑を感じながら、仕方なくさかずきを上げた。
「俺はゴリラ男の一件を知らせてやった為に、こんな好遇を受けるのか、日頃愛読する小説の作者として尊敬されているのか、それとも……」
 蘭堂は自問自答しないではいられなかった。どうもおかしいのだ。うら若く美しい未亡人が、小説家と交りを結んだり、手紙を出したりするのが、已に変である。しかも、彼女はもう、小説家の文名にあこがれる年頃でもない。もっと別の気持があるのだ。つまり「わたくし、お酌させて頂きます」という艶かしい言葉が象徴している様な、一種の気持があるのだ。と考えて来ると、彼女から貰った手紙の、思わせぶりな文章まで思出される。
 蘭堂という筆名ははなは不意気ぶいきだけれど、彼はまだ三十歳の青年作家で、作家仲間でも評判の美丈夫びじょうぶであったから、この種の誘惑には度々たびたび出会っている仕合者しあわせものだ。従って、いくら相手が美しいからと云って、直様すぐさま感激する様なお坊ちゃんではなかったし、彼には伯爵令嬢花園京子という寸時も忘れ難い人がある為に、この若き未亡人の優遇は、当惑の外の何ものでもなかった。
 ビクビクしながら呑む酒は、酔いとならず、相手の夏子の方が、グラスに一つ二つのお相伴しょうばんに、ホンノリと上気して、段々多弁に艶かしくなって来る。
「もうおいとまします。おそくなるとうちで心配しますから」
 辞退をすると、
「家とおっしゃって、奥様もいらっしゃらない癖に」
 と忽ち逆襲だ。
「マア、およろしいではございませんか。このお酒お口に合いませんでしょう。今ね、今お口に合うのを、あたし持って参りますからね」
 夏子は少しよろめく様に立って、手で「待っていらっしゃいよ」と合図しながら、一方のドアから出て行った。
 蘭堂は酔わぬといっても、いられた強い洋酒に、頭の中が少し熱っぽくなって、この立派な邸宅での思いがけぬもてなしが、いや、そればかりではない、昼間からの空中文字、砂文字、ゴリラ男までが、何かこう本当でない、悪夢でも見ていた様な気持ちになって来るのであった。
 彼が、そうしてボンヤリと白い卓布に頬杖ほおづえをついていた時、突然、これもまた悪夢の様に、どこかの部屋から、鋭い女の悲鳴が聞えて来た。
「オヤ」と思って、聞耳を立てると、
「助けて! 助けて! 大江先生助けて!」
 という、恥も外分がいぶんもない叫び声は、確かに夏子未亡人だ。
 捨てては置けぬ。蘭堂は夢の中の様に立上って、廊下へ駈け出した。廊下のはしには、女中達が目白押しにかたまって進みもせず、かたえのへやを指さしている。明かに救いを求める叫び声は、そこのドアの中から漏れているのだ。
 彼はいきなりドアを開いて、室内に飛込んだ。
「畜生ッ、貴様まだこんな所にいたんだな」
 思わず叫んで、有り合う椅子の背を掴んだ。
 ゴリラだ。ゴリラ男が、夏子の上に馬乗りになって、その喉をしめつけている。夏子は、空色のワンピースの裾を破って、夢中にもがきながら抵抗している。
「邪魔するな。お前、あっちへ行ってろ」
 賊は猩々しょうじょうの様に真赤になって、恐ろしい目で蘭堂を睨みつけ、途切れ途切れにうなった。
せ。止さぬと、叩き殺してくれるぞ」
 蘭堂は椅子を振り上げて、ゴリラの頭上から打ちおろす身構えをした。
「早く、早く、こいつを叩きつけて」
 夏子が、みだらに顔を歪めて、息も絶え絶えに叫ぶ。
「ウヌ、これでもか」
 蘭堂は、振り上げた椅子を、力まかせに叩きつけた。
「ギャッ」
 という、けだものの悲鳴。
 ゴリラは肩先をやられて、やっと夏子の上から立上ったが、今度は蘭堂に向って、白い大きな歯をみならし、恐ろしいうなり声を発しながら、全く大猿の恰好で飛びかかって来た。
 けだものと人間とは、一かたまりに組合って、床の上を転げ廻った。蘭堂は少々柔道の心得があったけれど、野獣にかかっては、何の甲斐もなく、一転、二転、三転する内には、遂にゴリラ男の下敷きになってしまった。
「生意気な、貴様絞め殺してやるぞ」
 ゴリラの毛むくじゃらな両手が、ジリジリと喉を絞めはじめた。
 蘭堂はもう力が尽きてはね返す気力はなかった。絞めつけられた彼の紅顔は、見る見る紫色にふくれ上って行った。
「ヒヒヒ……、青二才め、どうだ苦しいか。もう少しの我慢だ。今に気が遠くなって、極楽往生おうじょうだぜ。云い残すことはないかね。ヒヒヒヒヒヒヒ、云い残そうにも口が利けまい」
 けだものは、残酷にも、ゆるめては絞め、ゆるめては絞め、しかも徐々に両手の力を加えて行った。
 と、その時突然、ビシーンという銃声が聞えたかと思うと、部屋の窓ガラスがガラガラとくだおちた。
「サアお放し、その手をお放し、でないと、今度はお前の背中だよ」
 組合った二人のうしろに、いつの間にか小型のピストルを手にした夏子未亡人が、精一杯の力で、歯を食いしばって突立っていた。ピストル持つ手がワナワナと震えている。
 流石の猛獣も飛道具にはかなわぬ。ゴリラは不承不精ふしょうぶしょうに手を放して立上ると、ジリジリとドアの方へあとじさりを始めた。
「大江先生、しっかりして下さいまし。大丈夫ですか」
 夏子はピストルを構えたまま、倒れた蘭堂の上にかがみ込んで叫んだ。
 蘭堂は喉をさすりながら、ムクムクと起き上った。まだへこたれてはいない。立上るなり大声に怒鳴って駈け出した。
「待て、畜生、今度こそ逃がさぬぞ」
 夏子が蘭堂に気をとられている隙に、ゴリラはドアの外へ逃げ出していたのだ。蘭堂はそのあとを追って廊下へ飛出した。
 ゴリラは見通しの廊下を、背を丸くして、這う様に走って行く。だが、どう戸まどいしたのか、入口とは反対の方角だ。廊下の突き当りは部屋になっている。ゴリラは、いきなりそのドアを開いて部屋の中に隠れた。間髪かんぱつれず蘭堂も同じドアから飛込む。
 それは、来客用の寝室らしく、寝台と小卓と二脚の椅子と、小箪笥こだんすほかには何もない至極しごくアッサリした部屋であった。人間の隠れる場所は寝台の下を除いてはどこにもない。窓は内部からしまりがしてある。しかも、ガラス窓のそとには鉄格子が見えている。
 それにも拘らず、蘭堂が飛び込んで見ると、そこには人影もなかったのだ。寝台の下を覗いて見たのは云うまでもない。そのほか箪笥の蔭にも、ドアのうしろにも、どこにもゴリラの姿は見えぬ。不思議だ。怪物は煙の様に消えてなくなったのだ。
 そこへ、オズオズ夏子が這入って来た。
「消えてしまったのです。まさかこの部屋に秘密戸がある訳ではないでしょうね」
 蘭堂がボンヤリして尋ねた。
「そんなものございませんわ。本当にこの部屋へ逃げましたの」
「それは間違いありません。一足違いで、僕が飛び込んだのです。ホンの五六秒の差です。それに、あいつは影も形もなくなっていたのです」
 蘭堂はやっぱり悪夢にうなされている気持だった。
 それから、長い間かかって、その寝室は勿論、すべての部屋部屋、台所の隅までも、隈なく探し廻ったが、人間はおろか一匹の猫さえも飛出して来なかった。
 ゴリラ男は忍術を使うのだろうか、それとも何か人間世界にはない猿族えんぞくの妖術をでも心得ていたのだろうか。
 だが、いくら人外じんがい生物いきものとて、煙となって立昇る筈はない。そこには何かしら人目をくらます欺瞞ぎまんがあったのだ。それがどの様なものだかは、やがて判明する時があるだろう。

浴槽の怪


 再び警察官の来邸をい、ぜん同様捜索が行われたけれど、何の甲斐もなく、騒ぎが静まって、主客が又以前の食堂に対座した時は、もう夜の九時を過ぎていた。
「ほんとうに有難うございました。先生がいて下さらなければ、わたくし、今頃はこうしてお話なんかしていられなかったと思いますわ」
 夏子は、食卓をかたづけさせ、蘭堂にお茶を勧めながら、やっと落ついた様に話し出した。
「イヤ、僕こそ。あの時あなたがピストルを撃って下さらなかったら、命がない所でした。それにしても、あなたの思い切った所置しょちには敬服しました。一寸出来ない芸当ですよ」
 蘭堂は心から命の恩を感じて、夏子を褒めたたえた。
「マア、どうしましょう。わたくし、あんな恥かしい様子をお目にかけて。……でも、ああでもしなければ、先生が危なかったのですもの」
「そうですとも、危なかったのです。あいつ本気で僕を殺そうとしていたのです」
「おたがいっこですわね。先生はあたしを助けて下さるし、あたしは先生をお救い申上げた訳ですわね。あたし何だか偶然でない様な気が致しますわ。こんな事がいつかあるのだという妙な予感を持って居りましたわ」
 このうら若い未亡人は、互に救い救われしたことが、ひどくうれし相である。
「アノ、本当にご迷惑でしょうけど、アノ、今夜お泊り下さる訳には行きません? 書生もまだ帰りませんし、し先生でもいて下さらなければ、あたし、この家で眠る気が致しませんわ。ね、お願いですわ。それに、今からでは東京にお帰りになるのも大変なんですから」
 夏子は甘える様に云って、蘭堂を見上た。
「エエ、僕は泊めて頂ければ有難いですけれど、ご婦人お一人のうちへ、あまり不躾ぶしつけですから。じゃ、書生さんが帰り次第お暇することにしましょう。汽車がなくなったっていいですよ。鎌倉には友達もあるんですから」
 蘭堂は本当に迷惑相に云う。
「マア、お堅いんですのね。恥をかかせるもんじゃございませんわ」
 夏子は小声になって、目を細めて、ニッコリとえんじて見せた。アア、その艶かしさ! 蘭堂は段々自信を失って行く様な気がした。
 しっかりしろ、誘惑に陥ってはならぬぞ。お前には心に誓った恋人があるではないか。仮令一瞬間にもしろ、花園京子のことを忘れてよいのか。あの可憐で純潔な処女と、このみだりがましき年増としま女とを、心の天秤てんびんにかけるとは、お前は何という見下げ果てた堕落男なのだ。
「では仕方がございませんわ。せめて書生が帰りますまで……先生お疲れでございましょう。それに汗になりましたでしょうから、一風呂あびていらっしゃいません? さい前いいつけて置きましたから、もう沸いている時分ですわ」
 夏子は又品を変えて、艶かしく迫った。
「イヤ僕は帰ってからでいいんです。どうかあなたご遠慮なく」
 蘭堂は我と我心と戦いながら、愈々固くなって云った。
「じゃ、あたし、一寸失礼しようかしら。先生に番兵をお願いしてお湯に這入るなんて、本当になんですけど、あたしすっかりよごれてしまって、先生と顔を合わしているのも恥しい位ですから、顔丈け洗わせて頂きますわ。ホンのちょっとですから、済みませんがお待ち下さいませね」
 夏子は娼婦しょうふの様なことを云って、蘭堂がうなずくのを見ると、そそくさと湯殿へ立去った。
 そして暫くすると、アア、今日は何という魔日まびだろう。又しても、湯殿とおぼしき方角から、けたたましい悲鳴が聞えて来た。今度はゴリラ湯殿に待伏せしていたのかしら。と思うと、蘭堂はウンザリしてしまった。
 悲鳴はいつまでも続いている。女中達はおびえてしまって、主人を助けに行くどころか、かえって湯殿の前から逃げ出しながら、「大変です。奥様が、奥様が」と口々に叫ぶばかりだ。
 うち捨てて置く訳には行かぬ。湯殿の中とは実に迷惑な場所だけれど、そんなことを云って、躊躇している場合でない。それに、ゴリラ男には重なる恨みがあるのだ。
 蘭堂は女中に湯殿のありかを尋ねて、駈けつけると、いきなりその扉を開いた。
 だが、扉を開いて一目浴室を見た時、彼はハッと目まいを感じて立ちすくんでしまった。
 そこには、ゴチャゴチャと無数の肉塊にくかいうごめいていた。人肉の万華鏡ばんかきょうみたいなものが、眼界一杯に、あやしくも美しく開いていたのだ。
 余りの怪しさに、ギョッとして、暫くは夢ともうつつとも判じ兼ねたが、やがて、気を取直してよく見ると、この浴室の不思議な構造が分って来た。
 浴室は八角形の鏡の部屋になっていたのだ。境目もなく、厚ガラスの鏡ばかりで、浴槽を八角形にとり囲み、天井までも同じ鏡で出来ている、謂わば巨大な万華鏡であったのだ。恐らくは夏子の亡夫の奇を好む贅沢ぜいたくな思いつきから、入浴の為ばかりではなく、一種の観楽境かんらくきょうとして建てられたものであろう。
 八方の鏡に反射し合って、数十数百の裸女の像を映し、それが身動きをする度毎たびごとに、万華鏡を廻した時と同じ様に、種々様々の肉塊の花を咲かせるのだ。
 浴槽の中に立上って、悲鳴を上げていた夏子は、蘭堂の顔を見ると、流石に恥らって、急いで身体を湯の中に隠し、首丈け出して、叫ぶのだ。
「先生、これ、これですの。こんな恐ろしいものが、お湯の中にブカブカ浮いていましたの」
 では、今度はゴリラ男ではなかったのか。
「失礼。女中さん達が怖がって、よりつかないものですから。……何が浮いていたのです」
 蘭堂は、少し照れて、詫びごとをしながら、聞返した。
「これ、これ」
 夏子は気味悪そうに、浴槽の片隅の一物を指さしていたが、それと同じ湯につかっているのに耐えられなくなったのか、思い切った様に、そのものを掴んで、浴槽の外へ放り出した。
 その刹那、夏子の手が三本になった。五つに分れた指が、都合十五本、それが八つの鏡に反射して、無数の手首となって躍った。
 流し場に放り出されたものは、まさしく人間の手首であった。ひじの所から切断した、見るも恐ろしい生腕なまうでであった。それが、白いタイルの上で、蒟蒻こんにゃくの様にいつまでもブルブル震えていた。
 ただ事ではない。生腕が降る訳もなく、水道の蛇口から湧き出す筈もない。何者かがソッと投げ込んで置いたのだ。何者ではない。あのゴリラ男に極っている。彼奴あいつが逃出す時、置土産おきみやげに残して行ったのだ。
 だが、ここに片腕が落ているからには、それを切られた人がなければならぬ。では、彼等は又しても、どこかで恐ろしい殺人罪を犯したのであろうか。
「オヤ、この腕には何か字が書いてある。入墨いれずみの様ですね」
 蘭堂は思わず浴室に踏み行って、不思議な生腕を覗き込んだ。
「恐……怖……王。アアやっぱりそうだ。あいつらの仕業だ。この腕には恐怖王と入墨がしてありますよ」
 又しても悪魔の宣伝文字である。
「マア、……どこに?」
 夏子は、これも我を忘れて、浴槽を飛び出して来た。八つの鏡に、全裸の美女のあらゆる向きの像が、艶かしく、イヤ寧ろ恐ろしく、クネクネと蠢いた。
 実に驚くべきことが起ったのだ。うら若き未亡人の、豊かにも悩ましき全裸身が、今蘭堂の目の前にあった。湯に暖められて艶々つやつやと上気した肌、産毛の一本一本に光る、目にも見えぬ露の玉、全身をくまどる深い陰影の線、それが鏡のおもてに、或はうしろ向き、或は横向き、或は真正面の百千の像となって、ゆらめき動くのだ。
 若しこれが通常の場合であったなら、夏子は恥しさに消えもったであろうし、蘭堂はいきなり眼を覆って逃げ出しもしたであろうが、今は常の時ではない。二人の目の前に生々しい人間の腕が転がっているのだ。恥しさも、気拙きまずさも、はては情慾さえもが、どこかへ消し飛んでしまって、彼等の心は、不気味さと恐ろしさに、全く占領されていたのである。
 蘭堂は、そうしていても果しがないと思ったのか、生腕の上にかがみ込んで、気味悪いのを我慢しながら、二本の指でそれをつまみ上げた。
 電燈にかざしてよく見ると、確に女の、しかもまだ若い女の腕だ。
「マア、可哀相に、誰かが殺されたのでしょうね」
 夏子が声をかけても、蘭堂は生腕の指先を見つめたまま、身動きもしなかった。
 やがて、徐々に徐々に、彼の顔色が変って行った。両眼は飛出す程見開かれ、口はポッカリいて、呼吸がはげしくなって行った。
「アラ、どうなさいましたの? 先生、先生」
 夏子は相手のただならぬ様子に、我が裸身を忘れて、近々と蘭堂に寄り添いながら叫んだ。
「僕はこの指に見覚えがあるのです」
「エ、なんでございますって?」
「アア、恐ろしい。僕はこの腕の持主を知っているのです。思違おもいちがいであってくれればいい。だが、よもや……」
 蘭堂は云いさして、フラフラと倒れ相になった。
 アア、彼程の男を、かくも悩乱せしめた、この生腕の主とは、抑々そもそも何人なんぴとであったか。そして又、彼の恐ろしい推察は、果して適中していたのであろうか。

令嬢消失


 大江蘭堂は、その生腕の小指にある、小さな傷痕に見覚えがあったのだ。
 彼は真青になって叫んだ。
「僕はこの腕の主を知っている。非常に親しくしている人です。奥さん、僕はこうしてはいられません。失礼させて頂きます」
 蘭堂はそのままあわただしく浴室を飛出そうとした。
「待って、待って下さい。あなたに行かれては、あたし怖くって、とてもこのうちにいられませんわ。ちょっと待って、あたしも一緒につれて行って」
 夏子は、湯に濡れてツルツルした全裸のまま、恥しさも忘れて青年に追縋おいすがり、その腕を掴んだ。
「その方、どなたですの? あなたの親しい女の方って」
「花園伯爵のお嬢さんです。僕はそれを確めて見なければ安心が出来ないのです」
 蘭堂は夏子の手をふり放して又一歩ドアに近づいた。
「あなたの恋人? エ、そうなの?」
 夏子は、ねばっこい女の力で、蘭堂の肩を持って、グルッと彼女の方へ向き返らせた。そして、顔と、むき出しの五体とで、何とも云えぬ嬌態きょうたいを示した。蘭堂はそれをマザマザと見た。うら若き女性の余りにも大胆なる肉体的表情をマザマザと見た。そして、恐ろしさに震え上った。
 そこには、しびれる様に甘い匂と、ツルツルすべっこい触感と、全身で笑みくずれている巨大なる桃色の花があったのだ。
「ごめんなさい。僕はこうしてはいられないのです。一刻も早く東京に帰って、それを確めて見なければならないのです」
 譫言うわごとの様に云いながら、蘭堂はキョロキョロとあたりを見廻した。すると、部屋の一方に掛けてある湯上りの大タオルが、救いの神の様に目についた。彼はいきなりそれを掴み取って、パッと拡げ、目の前に咲いているみだらな花を、クルクルと包んでしまった。
「奥さん、では失礼します。書生さんが帰るまで女中さん達を集めて、お話でもしていらっしゃい。それに電話さえかければ、すぐお巡りさんも来てくれます。大丈夫ですよ。大丈夫ですよ」
 一言ひとこと一言あとじさりをして、彼は遂にドアを開いた。そして、夏子のうらみの声をあとにして、アタフタと玄関へ出て行った。夜更けの町を停車場に向って走っていると、都合よくあきタクシーが通りかかったので、東京麹町こうじまちまでの値を極めて飛乗った。
 闇の大道を飛ばしに飛ばして、麹町の伯爵邸についたのは、もう夜の十一時頃であったが、夜更けを遠慮している場合ではないので、車を降りると、慌しく門の電鈴を押した。
 待ち構えてでもいた様に、書生が飛出して来て、応接間に案内した。そこには、まだあかあかと電燈が点じてある。程なく主人夫妻が揃って立現われた。
「京子さんは御無事ですか。若しや……」
 蘭堂は伯爵を見ると、挨拶は抜きにして、先ずそれを尋ねた。
「ア、もうあんたもご存知ですか。よく来て下さった。わしも途方にくれているのです」
 伯爵の返事だ。伯爵はまだ大江と京子との親し過ぎる関係については何も気づいていなかったけれど、京子の崇拝すうはいする小説家としてお茶の会などには招いたこともあるので、蘭堂が犯罪捜査などには仲々腕のあることもよく知っていたのだ。
「それではやっぱり、……で、御容態はどんなですか」
 京子は負傷をして奥に寝ているか、入院でもしたのかと、尋ねると、伯爵はけげん顔で、
「エ、容態ですって? あなた何かお聞込みになったことでもあるんですか。わしの方では容態どころか、全く行衛ゆくえが分らんのです。しかも、家中うちじゅうのものが、あれの外出するのを誰も知らないでいる間に、消える様にいなくなってしまったのです」
 その日の午前十時頃、京子の所へ一人の客があった。大きなロイド眼鏡をかけた、髭武者ひげむしゃの変な男であったが、一通の手紙を持参して、京子に渡してくれということで、書生がそれを取次ぐと、京子は手紙を読んで、こちらへお通しせよと、彼女の居間へ案内させた。
 十五分程話をして、その妙な男は帰って行ったが、その時彼を送り出した書生の話では、別に変った様子も見えなかった。
 それから一時間程して、女中が京子の居間へ中食ちゅうじきを知らせに行くと、そこにいる筈の京子の姿が見えないので、それから騒ぎになって、邸中やしきじゅうを隅から隅まで探し廻ったが、まるで蒸発してしまった様に、どこにも彼女の影さえなかった。
 調べて見ると、外出着もちゃんと揃っているし、履物はきものも一足も紛失してはいない。まさか若い女がはだしで外出したとは思われぬ。どうもさっきの客が怪しいというので、彼の持参した手紙を探して見たが、その手紙さえ消えてなくなった様に、どこにも見当らぬのだ。
 京子の友達や親戚などへ電話で問合せたがどこへも行っていない。警察へも頼んであるけれど、まだ何の吉報もない。もう外に手の尽し様もなく、ただ家中のものが青い顔を見合せて溜息をつくばかりであった。
 そこへ探偵作家大江蘭堂が飛込んで来たのだ。伯爵夫妻が待構まちかまえていた様に、彼をしょうれたのも道理である。
「で、その妙な男が帰る時、京子さんは居間に残っていらしったのですね。その時何か変った様子は見えませんでしたか」
 蘭堂は令嬢消失の次第を聞き終ると、その場に居合いあわせた書生に尋ねた。
「別にこれといって……」書生が答える。「私、お嬢さんの顔を見た訳ではないものですから。呼鈴よびりんが鳴ったので、行って見ますと、ドアの中から、お嬢さんが『この方をお送りしておくれ』とおっしゃって、それからあの男が一人でドアを開けて出て来たものですから、私はそのまま先に立って玄関へ送り出したのです」
「それから、君はもう一度お嬢さんの部屋へかなかったのですか」
「エエ、そのまま玄関わきの書生部屋に這入って本を読んでいました」
「すると、女中さんが中食を知らせに行って、お嬢さんの部屋が空っぽになっていることが分るまで、君はずっと書生部屋にいたのですか」
「そうです。書生部屋からは玄関は勿論、門の所までが見通しになっているのに、お嬢さんは一度もそこを通られなかったのです。僕は読書しながらも、絶えず門を通る人は注意していたのですからね」
「間違いはないでしょうね」
「エエ、決して。お嬢さんが庭から塀でものり越して外出されない以上、お嬢さんの姿が見えないというのは、全く考えられない事です。実に不思議です」
 恐怖王の事件に「不思議」はつきものだ。今更驚くことはない。
「それじゃ、一度僕に、お嬢さんの居間を見せて頂けませんか」
 蘭堂はまるで玄人くろうとの刑事探偵みたいなことを云って、椅子から立上った。

片手美人


 京子の居間は、十畳程の洋室で、一方の隅には彫刻のある書きもの机、廻転椅子、書棚などが置かれ、別の隅には、贅沢な化粧台、又別の隅には大きな竪型のピアノが黒く光っていた。
 蘭堂は伯爵夫妻とその部屋に這入って行ったが、流石は探偵小説家、まず絨氈じゅうたんに目を注いだ。
 焦茶色に黒い模様の、深々と柔かい立派な絨氈だ。彼はその上を歩き廻って、注意深く調べていたが、ある箇所に立止ると、ヒョイと身をかがめて、
「これは何でしょう?」
 と、その部分を指で押し試みた。
 絨氈が黒っぽいので気附かなかったが、よく見ると成程、ボンヤリと大きなしみが出来ている。
 蘭堂は、人差指につばをつけて、強く絨氈をこすって、その指を電燈にかざして見た。
「ごらんなさい。血です。やっぱりそうだった」
 彼は青ざめた顔を、激情に歪めて云った。
「エ、血ですって? では京子はもしや……、アアあなたは何もかも御存知なんでしょう。早くおっしゃって下さい。あれは殺されたのですか」
 伯爵夫人が、もう泣き声になって、わめき立てた。
「イヤ、僕もすっかりは知らないのです。ただ……」
「ただ、どうだとおっしゃるのです」
「ただ、ある所で京子さんの右の腕を見たんです。確に見覚みおぼえのある、お嬢さんの手首を見たんです。肘の所から切落きりおとされた腕丈けを」
「マア!」
 と叫んだ切り、夫人はあとを云う力もなくグッタリと椅子に倒れて、顔を押えてしまった。
「それはどこです。まさか出鱈目でたらめじゃないでしょうね」
 伯爵も上ずった声である。
「僕の思違いであってくれればいいがと、心も空にお邸へかけつけたのです。併し、この血の様子ではあれはやっぱりそうなんだ。京子さんは『恐怖王』にやられたんだ」
「エ、エ、君は今何と云ったのです。誰にやられたんです」
「恐怖王。御存知でしょう。今世間で騒いでいる殺人鬼恐怖王です。そのお嬢さんの腕には『恐怖王』と入墨がしてあったのです」
 その途端、「クウ」という様な奇妙な声がしたかと思うと、伯爵夫人の身体が、バッタリ椅子からくずれおちた。余りの驚きに気を失ったのだ。
 そこで女中や書生を呼ぶやら、気つけの洋酒を呑ませるやら、大騒ぎになったが、夫人は間もなく意識を恢復かいふくして、やっぱり怖い話を聞きたがった。伯爵が寝室へ行く様に勧めても、娘の生死が分るまではとがえんじなかった。
「僕はこう思うのです」
 騒ぎが静まると、蘭堂が話しつづけた。
「その京子さんを訪ねて来たロイド眼鏡の男というのが、てっきり恐怖王一味の奴で、この部屋でお嬢さんが声を立てぬ様にして置いて、その右腕を切断し、それを持帰って、どこかで入墨をした上、僕に見せびらかしたのです。奴等の残酷極まる遊戯です。殺人広告です。
 しかし、不思議なのは、腕丈けなら人目につかぬ様に持帰る事も出来たでしょうが、京子さんの死骸……イヤ、死骸と極った訳ではないのですが……その京子さんの身体をどこへ仕末しまつしたか。これが第一の疑問です。
 それから、もう一つは、書生さんがこのドアの外へ来た時、中からお嬢さんの声で、お客さまを送り出す様にと命じられた点です。腕をきりとられた重傷者が、そんなあたり前の口を利く筈はないのですからね。
 それでは、京子さんが腕を切られたのは、それよりもあとで、今の妙な男はこの事件には関係がないと考えるべきでしょうか。
 イヤ、イヤ、恐らくそうではないのです。賊は犯罪の捜査をむつかしくする為に、巧妙なお芝居をやって見せたのです。賊自身がお嬢さんの声色こわいろを使ったのです。それについて思い当ることがありますよ。
 恐怖王は以前布引照子という娘さんの死骸を棺のまま盗み出したことがあります。そして、その死骸に振袖を着せて婚礼の真似事をさせたのですが、照子さんのお父さんが夜、自動車で外出した時、すれ違った車の窓から死んだ筈の照子さんが顔を出して、生前の通りの声で『お父さま』と声をかけたことがあります。今考えると、あれがやっぱり上手な声色だったのです。ひょっとしたら賊は腹話術というあの手品師の秘術を心得ているのかも知れません」
 大江蘭堂はしゃべりながら、部屋の中をグルグル歩き廻って、そこに置いてある机や鏡台や、その他の家具を眺めたり指で触ったりして調べていたが、最後にピアノの前に立止ると、その蓋を開いて、
「京子さんの美しい声がもう一度聞けるかしら」
 とひとりごちながら、いたずらの様に、白い鍵盤けんばんをポンと叩いて見た。すると、ギーンという様な、少しも余韻よいんのない、変てこな音が聞えた。
「オヤ、どうしたのだ」
 もう一度違う鍵盤を叩くと、やっぱりギーンだ。
「ピアノなんか叩いている場合じゃない。大江さん、早速このことを警察に知らせなければ」
 伯爵は蘭堂の呑気のんきらしいいたずらを見て癇癪かんしゃくを起した。
「このピアノ痛んでいるんですか。ちっとも音色が出ませんね」
 蘭堂はまだ楽器に気をとられている。
「そんなこと、どうだっていいじゃありませんか」
「イヤ、そうでないのです。どうもおかしいですよ。こんな変なを出すピアノなんて、聞いたことがない」
 蘭堂は云いながら、今度は両手の指で、鍵盤の端から端まで、目茶目茶めちゃめちゃにかきならした。
 ギングン、ギングン、ギングン、……
 何とも云えぬ気味の悪い音が、部屋中に響渡った。だが、アア、あれは何だろう。金属性の音に混って、笛の様な、甲高かんだかい途切れ途切れの声が、どこからともなく聞えて来るではないか。
「オヤ!」
 蘭堂はゾッとした様に、鍵盤から手を引いた。
 併し、ピアノは黙らない。笛の様な声がいつまでも続いている。余韻にしては余り長いのだ。しかも、どこやら人の心をえぐる様な調子を持っている。
「人の声ですね、確に」
 蘭堂は伯爵夫妻と顔見合せて、囁き声で云った。
「併し、誰もいないじゃありませんか」
 伯爵はさも気味悪げに部屋の中を見廻した。
「イヤ、この中にです」
「エ、エ、ピアノの中に?」
「多分僕等の探している人です」
 云うなり、蘭堂はピアノの下部の塗り板のネジを廻して、何なくそれを開いた。
「アッ、京子さん、しっかりなさい」
 ピアノの胴の中に、さも窮屈きゅうくつらしく、妙な恰好で、京子が押し込められていた。ピアノの弦の震動が失神していた彼女の神経を呼びさまし、苦痛の細いうめき声を発した。それがあの異様な笛のとなって外部に漏れたのだ。蘭堂は愛人のグッタリした身体を抱き取って、絨氈の上に横にした。
 伯爵夫妻は、駈け寄って、令嬢の上にかがみ込んで、しきりにその名を呼んだ。
「アア、気がついた様だ。大江さん、京子が目をあきました」
 殺されたとばかり思っていた京子が、兎も角も無事でいたのだ。両親の狂喜も無理ではない。
 見るとやっぱり右手をやられている。仕合せなことには、賊が血の垂れるのを防ぐ為に、傷口を固く縛って置いてくれたので、出血も左程さほどでなく、ようやく一命をとりとめたのだ。
「オヤ、左の手にこんなものを握っていますよ。アア、あの男が持って来た手紙だ。大江さん見て下さい」
 伯爵がそれを取って差出すのを、蘭堂が開封して読下よみくだした。
 この手紙持参の男は僕の友人です。例の件につき是非お話しして置かねばならぬ事があるのです。僕が行けぬのでこの男を伺わせました。是非面会して事情を聞取って下さい。
蘭堂
京子さま
「畜生、僕の名前をかたったんだな。無論こんな手紙を書いたおぼえはありませんよ」
 蘭堂は読終った手紙を畳もうとして、何気なくその裏面を見ると、そこに赤鉛筆で大きな乱暴な文字が書きつけてあるのに気附いた。
「オヤ、これは何だろう」
 読んで見ると、これこそ正真正銘の賊の置手紙だ。脅迫状だ。
 京子、命は助けてやる。だが、今日限り大江蘭堂と絶交するのだ。彼と口を利いてはいけない。手紙を書くこともならぬ。若しこの命令に違背いはいすれば、今度こそは命がないものと思え。
恐怖王
「ハテナ、これは一体何のことだろう」
 蘭堂はその意味を理解することが出来なかった。
「京子に絶交させて俺を苦しめる為かな。だがそんな廻りくどいことをせずとも、俺をやッつける手段は外にいくらもある筈ではないか。それとも、俺の探偵上の手腕に恐れをして、こんなことを云うのかしら。イヤどうもそればかりではないらしい」
 いくら考えても分らぬ。この理解し難き文意の裏には、何かしら恐ろしい秘密が隠されている様な気がする。
「イヤ、こんなものはどうだっていいです。それより京子さんのお身体が大切だ。早く医者を呼ばなければいけません」
 蘭堂は賊の手紙をポケットに仕舞しまいながら云った。

蠢く者


 京子の傷口がえて病院から自邸に帰ったのは、それから一月ばかり後であった。その間大江蘭堂は、賊の危害をおもんぱかって、恋人を見舞うことさえ慎しんでいた。
 鎌倉の喜多川夏子は、京子の事件を知ると、すぐ様蘭堂を訪ねて見舞を述べた。無論彼女自身も、例の入墨の生腕一件について警察の取調べを受け、少からぬ迷惑をこうむっているのだ。
「私達は三人とも、同じ敵に悩まされているのですわね。恐怖王という奴は、なんてむごたらしい人非人でしょう。私共は力をあわせてあいつを防がなければなりませんわ」
 彼女はそんな風に云った。又、
「これですっかり先生の秘密が分ってしまった。京子さん、あなたの愛人なのね。ね、そうでしょう。ホホホホホ」
 といやらしいことも云った。
 蘭堂が賊の脅迫状のことを話すと、
「マア、それで先生は病院へお見舞にいらっしゃらないのね。そして、そんな憂欝ゆううつな顔をしていらっしゃるのね。お気の毒ですわ。アア、いいことがある。あたしね、先生の代理にお見舞に行って上げますわ。先生のお手紙になって、何んでもおっしゃる通り伝えますわ。ね、いいでしょう」
 などとも云った。
 夏子は病院へ京子を見舞いに行っては、その帰りには必ず蘭堂のアパートを訪ね、京子が逢いたがっていることなどを、大げさに伝えて、青年作家をからかうのであった。
 そうして逢うことが度重なるに従って、蘭堂と夏子の間に、段々遠慮がとれて行った。共同の敵を持っている点で、蘭堂の方でも、この色ぽっい[#「色ぽっい」はママ]未亡人の接近して来るのを、無下むげに退ける訳にも行かなかった。
 二人はアパートの一室で、さし向いで長い間話し込むことがあった。夏子は洋酒や食べものなどを持って来て、少しでも長く蘭堂の部屋にいようとした。お酒に酔えば、段々話が色っぽくなって行くのもむを得ないことであった。
 京子には逢えないし、一方夏子とは絶えず逢っているし、その上彼女は甚だ色っぽいので、こんな状態を続けていたら、今に京子に済まぬ事が起りはしないかと、蘭堂は不安を感じ初めた程であった。
 だが、別段のこともなく京子退院の日が来た。花園伯爵からは、目出度めでたく退院したという礼状が来た。蘭堂はもう我慢が出来なくなって、伯爵邸を訪ね、久し振りで京子の顔を見、声を聞いた。
 京子は、父伯爵の寝室の大きなベッドに寝ていた。まだ起きる程元気が恢復していないのだ。伯爵の寝室を選んだのは、そこが邸中で一番安全な場所だからだ。丁度京子の退院の日に、伯爵は二三日の旅行に出なければならなかったので、更に防備を固くして、書生の友達の腕っぷしの強い青年二人を頼んで、三人交替で寝室の入口に寝ず番をさせることにした。
 蘭堂は病人を余り昂奮させてはとの気遣きづかいから、京子が引とめるのを押し切て、寝室を辞したが、厳重な防備を見て、これならば如何いかな怪賊も手の出し様があるまいと、安心して引取った。
 アパートに帰ると、又しても喜多川夏子が彼の部屋で待受けていた。
「京子さんをお見舞なすったのでしょ。先生、大丈夫ですか。賊は一言でも口を利いたら命がないって宣言しているじゃありませんか。危くはありませんの?」
 彼女は、嫉妬しっと半分、怖がらせを云った。
「イヤ、それは大丈夫ですよ。柔道の出来る書生が三人で、寝ずの番をしているのです。しかも部屋は一番奥まった寝室で、ドアのほかには一つも出入口のない安全至極の場所です。窓にはみんな鉄格子がはめてありますしね」
 蘭堂が云うと、
「ホホホホホ、そんなことであの恐怖王が閉口すると思っていらっしゃるの。駄目よ。あいつにかかっては、入口があろうとなかろうと、番人がいようといまいと、そんなこと眼中にありやしませんわ。魔法使なんですもの。今夜あたり危くはないこと」
 と、益々いやなことを云い出すのだ。
 そこで二人は、恐怖王の力量について、盛んに議論をしたものだが、美女というものは、感情が激すれば激する程美しく見えるものである。しかも、夏子の場合は、その上に例の未亡人の色っぽさがついて廻るのだから、相手を悩ますこと一通りでない。
 結局夕方まで話込んで、又この次訪問する口実を残して置いて、夏子は帰って行ったが、その夜十二時頃、夏子の言葉がしんを為して、恐ろしい事が起った。
 もうとこについていた蘭堂は、けたたましい電話のベルに目を覚し、受話器を取ると、相手は出し抜けに、
「大江君、すぐ花園京子さんの所へ行って見給え。そして、君の敵がどんなに正確に約束を守るかを知り給え。君はよもや京子さんが握っていた赤鉛筆の警告状を忘れはしまい。サア、今すぐ行って見給え」
 と、一人で喋りつづけて、こちらの返事も聞かず電話をきってしまった。
 決してただのいたずらではない。京子の身の上に何か起ったのだ。
 蘭堂は直様外出の用意をして、花園伯爵邸へかけつけた。途中で、ふと、これが賊の手ではないか。何かしら陥穽おとしあなが用意されているのではないかと考えたが、そんなことを顧慮している余裕はなかった。ただ京子の安否が息苦しい程気遣われた。
 行って見ると、伯爵邸はもう寝静まっていた。伯爵は旅行中なので夫人を起してもらって電話の次第を話すと、夫人は、
「娘はよくやすんでいます。わたし先刻さっき見廻って来たばかりですの」
 と、けげんらしい顔つきだ。
 では、やっぱりただのおどかしに過ぎなかったのかと、一応は胸なでおろしたが、併し、念の為にと云うので、夫人と一緒に、もう一度寝室へ行って見ることにした。
 部屋の入口にがんばっている書生に尋ねると、これも別状ないとの答えだ。
 二人は鍵のかかっているドアをあけて、ソッと寝室に忍び込む。
 見ると大きなベッドのまわりには、天井から蚊帳かやの様な薄絹が垂れて、その中にスヤスヤ眠っている京子の顔が、うっすりと見えている。
「よくやすんでいますわ。さっきわたしが見廻った時と少しも変ったことはありません」
 夫人はホッと安堵あんどの溜息をつく。
 蘭堂は不躾ぶしつけにも、薄絹に顔をくッつける様にして、京子の寝顔を覗き込んでいたが、やがて、何に気附いたのか、ただならぬ様子で夫人の腕をとらえた。
「奥さん、ごらんなさい。京子さんの寝顔を。余り静かじゃありませんか。それにあの青さはどうでしょう」
「エ、何とおっしゃいます」
 夫人はギョッとして、蘭堂を見つめた。
「奥さん、念の為に、京子さんを起して見て下さい。何だか変です」
 夫人は云われるまでもなく、薄絹をまくって、寝台に近づき、白い毛布の上から京子の身体をソッと揺り動かした。
「京子さん、京子さん」
 併し返事はない。
 夫人は慌しく、毛布の下の娘の左手を探し求めて、それを握った。冷い、まるで氷の様だ。
「京子さん、どうしたのです。コレ、京子さん」
 夫人はもう半狂乱のていで、握った手を強く引いた。
 と、実に恐ろしいことが起った。
 夫人は大きな音を立てて尻餅しりもちをついたのだ。京子の左手を握ったまま。非常に滑稽こっけいな図であった。それ故に一層物凄く恐ろしかった。
 まるで人形の腕がもげる様に、京子の手がスッポリと抜けてしまったのだ。切口には幾重にも白布を巻いて、出血がとめてあった。
 蘭堂は倒れた夫人はそのままに、いきなりベッドの毛布をまくって見た。毛布の下には、両手を失った、無残な京子のむくろが横わっていた。呼吸も脈搏も絶え果てて。毛布に覆われていた為にそれまで少しも気附かなかったが、シーツは毒々しく血のりに染っている。
「オイ、誰か来てくれ給え」
 大声にどなると、見張り番の書生が二人駈け込んで来た。そして、京子の有様を見ると、アッと叫んだまま棒立ちになってしまった。
 全く不可能なことが行われたのだ。二人の書生は一瞬間も持場を去らなかった。無論夫人の外には猫の子一匹寝室へ這入ったものはない。又出たものもない。
 窓の鉄格子は別状なく、床板や天井にも何等なんら怪しむべき点はなかった。
「誰もここを出なかったとすれば、曲者はまだ部屋の中にいるのだ。君達探してくれ給え」
 だが、探せと云って、この上どこを探せばよいのだ。ベッドの下は見通しだし、ほかには人間一人隠れる様な箇所は一つもない。書生達はあっけにとられて蘭堂の顔を見た。
 蘭堂も、我と我が言葉に苦笑しながら、併しあきらめられぬと見えて、部屋の中をアチコチと歩き廻った。歩き廻っているうちに、心の平調を失っていた為か、絨氈の端につまずいて、よろよろとよろめき、そこの壁にはめ込みになっている金庫の扉に倒れかかった。
 すると、妙なことに、金庫の扉がしっかり閉めてなかったのか、ピチッと幽かな音をたてて、ほんの少しばかり動いた様な気がした。
 伯爵は盗難の用心の為に、寝室の中に金庫を備えていたのだ。併しどこの家でも金庫はいつも密閉されているものだ。その上、符号を知らねば開くことも出来ないのだから、賊を探す場合にも、金庫丈けは度外視していた。けれど、その扉が本当に閉っていなかったとすると、賊め、京子さんを殺した上に、お金まで盗んで行ったのかしら。
「奥さん、この金庫は閉めてなかったのですか」
 慌しく尋ねると、娘の死骸にとりついて泣き入っていた夫人が、やっと顔を上げて、
「イイエ、主人がしっかり閉めて置いた筈です。それに主人の外には合言葉を知りませんので、開く筈はありませんが……」
 と不思議相に答えた。
「それがどうも本当にしまっていない様なのです。開けて見ても構いませんか」
「エエ、どうか」
 夫人の許しを得て、蘭堂は扉の引手に指をかけた。そして、ちょっとそれを開きかけたかと思うと、ハッとした様に、又ピッシャリ閉めてしまった。
「どうなすったのです」
 蘭堂の表情が余り異様だったので、夫人が驚いて尋ねた。
「ハハハハハ、奥さんつかまえましたよ。もうのがしっこはありません。曲者はこの金庫の中に隠れているのです。今扉を開こうとすると、妙な手ごたえがあったのです。厚い鉄板の中で、蠢いているものを感じたのです」
 それと聞くと、二人の書生は、身構えをして金庫に近づき、その扉を開こうとした。
「イヤ、待ち給え。別に急いで開くことはないよ。先ず警察へ電話をかけるんだ。そして、ちゃんと捕縛の用意をして置いてからでもおそくはないよ。もう袋の鼠なんだから」
 蘭堂は勝ちほこって、両手をこすりながら云った。
「それにしても、金庫とは妙な隠れ場所を選んだものだね。やっこさん、君達が見張りをする以前にこの部屋へ忍び込み、金庫に隠れて時機の来るのを待っていたのだよ。それにしても、空気抜きの為に隙間の作ってあった扉を、今僕が閉め切ってしまったから奴さん、その内に息苦しくなって飛び出して来るぜ。見ていたまえ」
 警察へは早速電話がかけられた。書生達は棒切れや細引ほそびきを用意して、金庫の前に待ち構えた。
 五分、十分、十五分、息苦しい時が遅々として進んだ。
 と、案の定、金庫の中にゴソゴソと妙な物音がしたかと思うと、いきなり扉がゆるぎ出し、内部から、パッと押しあけられた。
「ワッ」
 という様なえたいの知れぬ叫声が起った。賊はとうとう我慢し切れなくなって、自から敵中に躍り出したのだ。

持参金十万円


 金庫の扉が内部からパッと押し開かれた。そして、何か黒いかたまりみたいなものが、鉄砲玉の様に飛び出して来た。
「アッ、ゴリラ! 貴様だったナ」
 蘭堂は両手を拡げて鉄砲玉に組みつこうとした。それは恐怖王の同類の、かの醜いゴリラ男であった。ステッキを持った二人の書生が、バタバタと駈けよった。伯爵夫人は両手を顔に当てて、部屋の隅に蹲ってしまった。
 だが、賊は、本当のゴリラではないかと思われる程、頑強で素早かった。彼は「ギャッ」と猿類の鳴声を発して、迫る蘭堂を突き飛ばすと、寝台の向う側に逃げ込んでしまった。その寝台の上には、京子さんの死骸が、まだよこたわっているのだ。
「大丈夫、もう逃がしっこはない。出口は一つだ。サア、ゴリラ、出て来い」
 蘭堂は鬼ごっこの鬼の様に、両手を拡げて、抜け目なく身構えした。
「君達は両方から挟みうちにしたまえ、ナアニ、大丈夫だ。あいつは武器を持っていないのだ。ちっとも怖がることはないぞ」
 蘭堂の指図に従って、二人の書生が一人ずつ、左右から寝台の向う側へ迫って行った。
 ゴリラ男は今や絶体絶命であった。うしろに窓はあるけれど、頑丈な鉄格子だ。寝台の下をくぐって逃げようにも、その向うには蘭堂が立ちはだかっている。しかも、左右の敵は、太いステッキを振りかざして、刻一刻迫って来るのだ。
 だが、この野獣は、少しも騒がなかった。兇悪なゴリラの顔に、ゾッとする笑いを浮べて、ギラギラする目で蘭堂を睨みつけた。
「ワハハハ……、俺が武器を持っていないって? 武器って、ピストルか、それとも九寸五分か。オイ、蘭堂、貴様これが見えないのか。ホラ、こんなすばらしい武器が」
 ゴリラががねの様な声で云った。ギャアギャア叫ぶばかりだと思っていたら、この猛獣は人間の言葉を知っているのだ。
 彼はそう云ったかと思うと、目にもとまらぬ早さで、寝台の上にかけ上った。オヤッ、こいつ何をするのだ。
「ホラ、これが俺の武器だよ」
 ゴリラは、いきなり京子の死骸のくびももとに両手をかけ、軽々と胸の辺までつり上げた。人間のたてである。
「アッ、何をする。離せ。離さないと」
「ワハハ……、離さないと、飛道具でもお見舞するというのかね。だが、このお嬢さんが守って下さるよ。サア、蘭堂、貴様こそ其処そこをどけ。そして、俺の帰り道をあけてくれ。いやか。いやだと云えば、ホラ、見ろ、こうだぞ、こうだぞ」
 ゴリラは歯をむき出して、威嚇いかくしながら、頸と太腿を掴んだ手を、ギュウとしめて、令嬢の死骸を弓の様に彎曲わんきょくさせた。今にも背骨がペキンと折れてしまうのではないかと思われる程。
 するとたちまち部屋の一隅から、きぬを裂く様な悲鳴が起った。
 振向くと、伯爵夫人が、飛出した両眼で、ゴリラの手元を凝視しながら、何とも云えぬ変な泣き顔になっていた。
「いけません、いけません。それ丈けは勘弁して。……大江さん、大江さん、早くあの子をとり返して」
 野獣の振舞は、余りにもむごたらしかった。夫人の悲鳴を聞かずとも、恋人の蘭堂には、仮令死骸とは云え、京子の身体がおがらかなんぞの様にへし折られるのを見ている訳には行かなかった。
「待て、お嬢さんを下に置け。そうすれば貴様を逃がしてやらぬものでもない」
 蘭堂は遂に弱音を吐いた。
「ワハハ……、参ったな。じゃ、道を開け。そこをどけ」
 ゴリラが歯をむいた。
「よし、のいてやる。その代りお嬢さんを離すんだ」
 蘭堂は云いながら、部屋の隅へあとじさりした。そこにほんのちょっとした隙があった。
 ゴリラはパッと寝台を飛降りると、矢の様に部屋の入口へ走った。京子さんの死骸を小脇に抱えたまま。慾深くも、切断された左腕さえ片手に引掴ひっつかんで。
「コラッ、お嬢さんをどうするんだ。待てッ」
 蘭堂は叫びさまドアの外へ追って出た。二人の書生もあとに続いた。
 外の廊下から、ゴリラ男が走りながらの捨てぜりふが聞えて来た。
「こいつは俺の武器だからね、うっかり手放す訳には行かんよ。貴様が俺に追いついたら、ホラ、ペキンと二つに折っちまうんだ。貴様の好きな女をね」
 そして、逃走者と追手の足音が、慌しく玄関の方へ消えて行った。
 伯爵夫人はどうしていいのか分らなかった。泣くにも泣けぬ腹立たしさであった。若しあのまま京子の死骸が帰って来なかったら、旅行中の主人伯爵に何と云って申訳もうしわけをすればいいのだろう。と思うと、俄かに胸がつぶれて、彼女は寝室を去りもやらず、主なきベッドに倒れ伏して、声もなく泣き入った。
 十分程たつと、追手の蘭堂を初め書生達が、空しく引返して来た。そのあとから、青ざめた女中達がオズオズと、寝室の入口へ顔を出した。
「奥さん申訳ありません、逃がしてしまいました」
 蘭堂はセイセイ息を切らしながら云った。
 夫人はやっと顔を上げて、キョトキョトとあたりを見廻した。
「では、あの京子も……」
「エエ、京子さんの死骸もです。僕はとりあえず附近の交番に立寄って、非常線の手配を、電話で本署に頼んでくれる様に云って来ましたが。もう手遅れかも知れません」
「見失ったのですか」
「そうです。……僕は駈けっこでは人にひけを取らないつもりなんだけれど、あいつにかかっては敵いません。あいつは全くゴリラです。人間ではありません。あんな重いものを抱えながら、まるで黒い風の様に走るのです。町角を三つばかり曲ったと思うと、もう影も形も見えませんでした。実に恐ろしい魔物です。今頃非常線の手配をした所で、恐らく無駄でしょう」
 蘭堂は申訳なさそうに説明した。
「本当です。奥さん。あいつは人間じゃありません。僕等は心臓が喉から飛出す程走ったんだがなあ」
 一人の書生が残念そうに怒鳴った。
 暫く誰も物を云わなかった。さしずめ何をすべきか、見当もつかないのだ。
 深い沈黙の中に、伯爵夫人のすすり泣きの声ばかりが、切れ切れに続いていた。
「それはそうと、奥さん、金庫の中は異状ありませんか。何か紛失したものはありませんか」
 蘭堂がふと気を変えて尋ねた。
「マア、あたし、まだしらべても見なかったのですが……」
 夫人は力なく立上って、金庫の前に行った。
 見ると、金庫の中のきり観音開かんのんびらきは、ゴリラが身を隠す為に破壊され、内部の棚は滅茶滅茶にこわされて、夥しい書類が、箱の底に押しつけられていた。
 観音開きの下部の抽斗ひきだしを開いて見ると、一つ丈け、空っぽになっていることが分った。イヤ、全く空っぽではなくて、債券の束の代りに、一枚の紙片が残されていた。
「アラッ、債券がなくなっています。マア、どうしたらいいのでしょう。そして、こんなものが……」
 蘭堂はその妙な紙片を夫人から受取りながら尋ねて見た。
「して、金額は? 余程よほど沢山ですか」
「エエ、十万円。額面で十万円なんです。それが帰らなかったら、私共はすっかり貧乏になってしまいますわ」
 気の毒な夫人は気違いの様な眼つきをして、オロオロと云った。
 蘭堂は賊の置手紙らしい紙片を読下して見た。そこにはの様な、驚くべき文句が書きつけてあった。

花園伯爵閣下、
閣下の令嬢京子さんが、私を愛するの余り、結婚を申出られたのは、私にとって、いささか有難迷惑であります。なぜと云って、私の方では、少しも京子さんを愛していないからです。
併し令嬢のせつなる願いをいなむによしなく、私は明夜みょうや私の邸宅において、はれの結婚式を挙げることに致しました。そこで今晩、私は花嫁のお迎いに上った訳です。
閣下、これは少々押しつけがましい婚姻と云わねばなりません。繰返して申しますが、私は少しも令嬢を愛していないのですから。
斯様かような場合、世のならわしとしましては、花嫁に持参金をつけるのが当然であります。私はその持参金に対して目をつむって、好まぬ結婚を致すのです。金庫在中の債券十万円、右持参金として確に受領致しました。
恐怖王身内みうちの猿類より

 アア、何ということだ。ゴリラ男は又しても、死骸と婚礼をしようとするのか。しかも今度の死骸には両手がない。昔の俗語でトクリゴという奴だ。両手のない、死骸の花嫁を、彼は一体どうしようというのだろう。
 ゴリラの再婚。そうだこのけだものはねや淋しくなったのだ。第二の死骸をめとろうとしているのだ。莫大な持参金と諸共もろともに。
 彼奴きゃつ、今度は、どの様な恐ろしい婚礼の儀式を営むことであろう。

闇を走る怪獣


「恐怖王」と自称する怪賊の正体は、少しも分っていない。
 読者は嘗つて、布引照子の死顔しにがおに奇妙なお化粧を施した一人物を知っている。それは黒い洋服を着た、青白い顔の小柄の男で、美術家の様にフサフサした長髪を肩のあたりまで垂れていた。若しかしたら、あの男こそ「恐怖王」その人ではなかったか。彼が相棒のゴリラ男に、部下に対する様な口を利いていた所を見ると、どうやらこの想像は当っていそうだ。併し、あの長髪の怪人物は、そののち一度も我々の前に姿を見せぬ。
 ただ我々が知っているのは、賊の部下に相違ないゴリラ男の奇怪なる行動ばかりだ。彼奴きゃつは伯爵令嬢花園京子を、不思議なやり方で殺害した。殺害したばかりではない。その死骸を小脇にかかえて、いずくともなく逃げ去った。
 ゴリラ男はどこへ行ったか。花園京子の死骸はどうなったか。無論警察では手を尽して捜索したのだけれど、その晩は勿論、翌日になっても、賊の行衛ゆくえは全く分らなかった。ところが、その夜になって、実に不思議なことが起った。気でも違った様な変てこなことが起った。
 というのは、事件が起ってから、殆ど一昼夜を経過した、翌晩になって、やっぱりあの時と同じ様に、京子さんの死骸をかかえて走っているゴリラ男が発見されたのだ。何ということだ。彼は二十時間以上も、死骸を抱て、東京の町をさ迷っていたのであろうか。
 その夜十一時頃、Kという警視庁捜査課に属する私服刑事が、上野うえの公園に近いある淋しい屋敷町を歩いていると、行手に当って、若い女らしい人間を小脇に抱て、エッチラオッチラ走っている、奇妙な人影を発見した。
「オイ、待て」
 と声をかけると、相手はギョッとして振向いたかと思うと、いきなり恐ろしい早さで駈けだしたが、そのチラと振向いた人物の顔は、どうも人間ではない。何か猿類に属する動物の様に感じられた。
 まさか猿が着物を着て走っている訳はないがと、K刑事は変な気持になったが、ヒョイと思い出したのは、「恐怖王」の一件だ。しかもその前晩、花園伯爵令嬢の死骸がさらわれた事実がある。さらった奴は、そうそう、ゴリラとあだなを取った「恐怖王」の手下であった。さては、あいつゴリラ男だな。そして、小脇に抱ているのは伯爵令嬢だな。
「しめた! 大物だぞ」
 刑事は、勇躍して怪物の跡を追った。
 人通りもない淋しい町だ。追うものも逃げるものも、何の障害物しょうがいぶつもなく思う存分駈けることが出来た。町角を曲り曲り、五六丁程、不思議な駈けっこが続けられた。彼等は二つの黒い塊りになって、風を切って走った。
 いくらゴリラでも重い荷物を持っていては、そうそう走れるものではない。二人の距離は段々せばめられて行った。
 このまま走っていては、瞬く内につかまるに極っている。何とかしなければならない。ゴリラ男は到頭とうとう決心した。大事な獲物を捨てて我身の安全を計る決心をした。
「エエ、これがほしけりゃくれてやらあ」
 彼は憎々しく怒鳴りながら、抱ていた死骸を地上に投げつけて更に走り続けた。
 刑事は、この不意撃ふいうちにちょっとたじろいた。令嬢の死骸に目もくれず、追跡を続ける気転きてんが利かなんだ。彼は思わず投げ出された死骸の前に立止った。
 ゴリラ男はその隙に、十間程も逃げのびることが出来た。若し、その時、彼の前方から、あの巡査がやって来なかったら、まんまと逃げおおせたかも知れない。だが、追駈おっかけながら刑事の吹き鳴らした呼笛よびこ利目ききめがあった。それを聞きつけた一人の警官が、丁度その時、賊の前面に現われたのだ。如何な乱暴者も、走り疲れた所へ、腹背ふくはいに敵を受けてはかなわぬ。烈しい格闘の末、ゴリラとうとう捕縛されてしまった。
 二人の警官は、賊の繩尻を取って、令嬢の死骸の倒れている場所へ引返した。
「君、今も云う通りこいつは恐怖王の手下のゴリラに違いない。この死骸を抱て走っていたのだからね。これは君、花園伯爵の令嬢だぜ」
 K刑事が説明した。彼等は見知り越しの間柄だ。
「フム、そうか、昨夜の一件だね。こいつはでっかい捕物だぞ」
 二人は思わぬ功名にホクホクしながら、地上の死骸を覗き込んだ。街燈の光がボンヤリと、女の洋装を照らしている。
「違いない。この服装の様子では、確に伯爵令嬢だぜ」
「ヤ、美しい顔をしている。まるで人形みたいだぜ」
 警官達の昂奮こうふんした声に混って、クスクスと忍び笑いが聞えた。
「オヤ、誰だ、今笑ったのは。貴様だな、コラ、お前何がおかしいのだ」
 K刑事は、繩尻をグイと引いて、ゴリラ男を叱りつけた。
 賊は叱られても、まだニヤニヤ笑っている様子だったが、別に口答えはしなかった。
「待ってくれ、オイ、変だぜ」
 死骸を覗き込んでいた警官が、頓狂な調子で云った。
「どうしたんだ」
「人形みたいな美しいお嬢さんだと思ったら、これは君、本当に人形だぜ。ホラ見給え、顔を叩くとコチコチ音がする」
 全くそれは人形に相違なかった。洋服屋のショウ・ウインドウに立っているマネキン人形だ。
「ワハハハ……」
 突然、ゴリラ男の傍若無人ぼうじゃくぶじんな笑声が爆発した。だが、笑われても致方いたしかたがない。飾り人形を本物の女の死体と思い込んで、目の色変えて追駈けたんだから、どうにも引込みがつかない。
 併し待てよ。この夜更けに、マネキン人形を抱て走っているのも変だし、それに、泥棒でもなければ、何も逃げ出す事はない筈だ。オヤオヤ、するとこいつは人形泥棒だったのか。
 イヤ、どうもそうではなさそうだ。ただの人形泥棒が、あんなに死にもの狂いに逃出すのも変だし、あれ程頑強に抵抗する訳もない。その上、こいつの顔が気に食わぬ。話に聞いているゴリラ男の人相とそっくりだ。
 そこで、K刑事は、いずれにもせ、何かの罪人には相違ないのだから、兎に角、その男を警視庁の留置室へブチ込んで、上役の意見を聞くことに腹を極めた。
 さて、翌朝になって、花園伯爵家の書生を呼出して、首実検をさせて見ると、はたせるかな。
「こいつです。一昨夜の賊はこいつに相違ありません」
 という答えだ。その上、同じ書生の証言によって、例のマネキン人形に着せてあったのは、令嬢京子さんが当夜着ていた洋服と寸分違わないことまで判明した。
 洋服の襟の裏に、京子さんの持物であることを示すイニシアルが縫い込んであったのだから間違いはない。
 愈々いよいよ分らなくなってきた。ゴリラ男は一体京子さんの死骸をどこへ隠してしまったのだろう。又、ぜマネキン人形なんかに、その着物を着せて持ち歩いていたのだろう。何だか狐につままれた様な、途方もない話である。
 警視庁では、K刑事の上役の捜査係長が取調とりしらべを担当して、終日ゴリラ男と根比こんくらべをして見たが、結局何のる所もなかった。
 ゴリラ男は、何を尋ねても、ろくろく返事もせず、返事をすれば出鱈目ばかり云っている。仕末におえぬのだ。
 京子の死体をどこに隠したか。マネキン人形は何の目的でどこから盗み出したか。彼の首領の「恐怖王」とは一体何者であるか。其他そのた様々の訊問じんもんに対して、何一つ満足な答えを得ることは出来なかった。
 イヤ、そればかりではない。段々訊問を続けている内に、実に恐ろしいことが起った。係長がごうをにやして、賊の頬をなぐったのがいけなかった。それまでは、ろくな答えはせぬにもせよ、兎も角おとなしく応対していたゴリラ男が、その一撃に腹を立てて、俄かにあばれ出したのだ。
 彼は、ギャッという様な、不思議な叫び声を発しながら、歯をむき出して、本物のゴリラそっくりの恐ろしい相好になって、係長にとびかかって来た。係長はすんでのことに、この猛獣の為に食い殺される所であった。イヤ、決して誇張ではない。あとになって、実際ゴリラ男の為に噛みつかれた巡査さえあったのだから。
 彼の昂奮は仲々静まらなかった。数日の間あばれ続けた。警官達の折檻せっかんが加われば加わる程、彼の兇暴はつのって行った。そして、とうとう、一巡査が彼の牙にかかって、半死半生の目に逢う様な椿事をき起すことになった。
 人々は、この男が、人類に属するか、獣類に属するかを疑わねばならなかった。猿にしては人間の肌を持ち人語を解するのが変であった。併し、人間にしては、余りにも力強く兇暴であった。
 遂には、この超人の為に、警視庁の地下室に、動物園のおりが運び込まれた。猛獣はその檻にとじこめられ、その中で訊問を受けることになった。実に前代未聞の椿事と云わねばならぬ。
 だが、それはのちのお話。我々はゴリラ男が捕縛された翌日、Dという大百貨店内に起った、奇々怪々の出来事について語らねばならぬ。

百貨店内の結婚式


 ゴリラが捕縛された翌日の午後、アパートの書斎に考え込んでいた大江蘭堂の所へ、大型の西洋封筒に入った立派やかな招待状が舞込んだ。その文言ぶんげんは次の如くであった。
何かとお骨折り下さいました私達の結婚式を、愈々本日午後五時、D百貨店に於て挙行することに致しました。万障ばんしょう御繰合おくりあわせ御列席の程願上ねがいあげ[#ルビの「ねがいあげ」はママ]げます。
恐怖王
花園京子
 果して、ゴリラ男は京子の死骸と結婚するのだ。イヤ、ゴリラ男ではない。この招待状には「恐怖王」となっている。いずれにもせよ、京子は賊の妻となって、死恥しにはじをさらさねばならぬのだ。
 だが、場所もあろうに、D百貨店とは、しかも午後五時とは。何という大胆不敵、賊はあの大群衆の中で、恐ろしい結婚式を挙行する積りであろうか。
 蘭堂は早速このことを、警視庁と花園家とへ電話で報告した。警視庁では直様D百貨店へ刑事が出張するという答えであった。
 丁度電話をかけ終った所へ、ヒョッコリ喜多川夏子が訪ねて来た。
「大変なことになりましたわね。ゴリラの行衛はまだ分りませんの」
 彼女は挨拶もしないで、そのことを云った。
昨夜ゆうべつかまったのです。併し、京子さんの死骸をどこに隠したかは、少しも白状しないということです」
 蘭堂は今朝花園家の書生から聞かされたゴリラ男逮捕の顛末を、手短てみじかに語った。
「マア、人形に京子さんの服を着せて持歩いていたんですって。変ですわね。一体何の為にそんな真似をしたのでしょう」
「それが誰にも分らないのです。ゴリラは何にも云わないのです。イヤ、不思議はそればかりではありません。ごらんなさい。今こんな招待状が舞込んだところです」
 夏子は結婚式の招待状を一読して、暫く黙り込んでいたが、ハッと嬉し相な叫び声を立てた。
「大江先生、あたし何だか分りかけて来た様な気がしますわ。エエ、きっとそうだわ。辻褄つじつまが合っているわ。あたし、名探偵になれ相な気がするわ」
 蘭堂はこの若く美しき未亡人の、少々頓狂とんきょうな性質を知っていたので、彼女の大袈裟おおげさな言葉にも、さして驚かなかった。
「何が分ったとおっしゃるのです」
「この招待状の意味がです。なぜD百貨店を式場に選んだのか、ゴリラ男がどうしてマネキン人形なんか持ち歩いていたのか、ということがですわ」
「ホウ、あなたはそれが分ったとおっしゃるのですか」蘭堂は面喰って聞返した。「D百貨店を式場に選んだことと、例の京子さんの服を着せられていた人形との間に、何か関係でもあるのですか」
「大ありよ」未亡人はさも自信ありげだ。「そこに謎を解く鍵が隠されているのですわ。一見して、何の関係もない様な、この二つの事柄に、凡ての秘密が伏在しているのですわ。オオ、嬉しい。先生にも解けない謎が、あたしに解けたんですもの」
「女探偵ですね」蘭堂はあっけにとられた。「その秘密というのを僕に教えてくれませんか」
「無論お教えしますわ」夏子は益々得意である。「でも、それよか、これから二人でD百貨店へ行って見ようじゃありませんか。そして、あたしの想像が当っているかどうか確めて見ようじゃありませんか」
 蘭堂は何だか狐につままれた感じであったが、夏子の言葉が満更ら出鱈目とも思えぬので、兎も角自動車を命じて、この色っぽい未亡人と同乗した。
「で、あなたは、賊がD百貨店で……あんな雑沓の場所で、この奇妙な婚礼式を挙げると思うのですか」
 走る車中で、蘭堂はまるでドクトル・ワトスンの様な、間の抜けた質問をしなければならなかった。
「エエ、そう思いますわ。雑沓すればする程、賊の思う壺なのよ。恐怖王のこれまでのやり方を見れば分りますわ。あいつは、悪事を見せびらかすのが大好きなんです。死人との結婚式を、大百貨店で挙行するなんて、如何にも恐怖王の思いつき相なことじゃありませんか」
「それは僕も同感だけれど……」
「先生、ゴリラ男がつかまったのは上野公園の近くでしたわね」
「エエ、……そして、D百貨店も上野公園の近くだというのでしょう。そこまでは分るけれど」
 蘭堂は一寸くやし相な表情をした。
 やがて車はD百貨店の玄関に到着した。
 二人は、買物に来た夫婦の様に肩を並べて、店内に入って行った。
「一体この華やかな店のどこの隅に、恐怖王が隠れているのです。あなたは僕をどこへ連れて行こうとおっしゃるのです」
 蘭堂は夏子に一杯かつがれているのではないかと疑った。
「六階よ。マア、あたしについて来てごらんなさいまし」
 未亡人はすましてエレベーターの昇降口へ急いだ。
 そこで、エレベーターを待つ間に、ふと蘭堂の注意を惹いたものがある。昇降口の壁に貼られた、一枚の美しいポスターだ。
「六階催し物」
「婚礼儀式の生人形と婚礼衣裳の陳列会」
 模様の様な字で、そんなことが大きく書いてある。
「夏子さん、分りました。これでしょう。あなたはこの催しものがあることを、ちゃんと新聞か何かで知っていたのでしょう」
 蘭堂は未亡人の耳の側で囁いた。
「そうよ。すっかり当てられちゃった。流石は先生ね。どうお思いになって? あたしの想像は間違っているでしょうか」
 夏子はニヤニヤしながら云った。
「余り突飛とっぴの様ですね。併し、相手が恐怖王のことだから、或はあなたの空想が適中するかも知れませんよ。兎も角、急いで行って見ましょう」
 二人はエレベーターにのって、六階へあがった。催し物場は黒山の人だかりだ。その人ごみを分ける様にして、婚礼人形の幾場面を見て行くと、最後に三々九度の盃の場面が飾りつけてあった。
 竹の柵に押し並んだ見物の頭の上から、花婿人形と花嫁人形の、うるわしく着飾った胸から上が見えていた。
「あれよ。若しそうだとすれば、きっとあれよ。前へ出て見ましょうよ」
 夏子は蘭堂の手をとって、見物を押し分けて行った。
 婚礼の飾り物をした、広い床の間を背景に、新郎新婦、仲人なこうど夫々それぞれの親達、待女郎などが、生けるが如く飾りつけてある。
 如何にも華やかな、はれがましい結婚式だ。若しこの花婿人形が恐怖王その人であり、花嫁人形が京子の死骸であったとしたら、賊の計画は実に見事に成功したものと云わねばならぬ。
 だが、あのとりすました新郎新婦が、人形ではなくて、本物の人間だなどと、そんな馬鹿馬鹿しいことがあるだろうか。
「ねえ、先生、花嫁人形がすこしうつむき過ぎてやしないこと。顔が電燈の蔭になってますわね。人形師があんな下手な飾りつけをしたのでしょうか」
 熱心に見つめていた夏子が、蘭堂の袖を引いて囁いた。
「ウン、少しおかしいですね。それに、あの顔はどこやら見覚がある」
「エエ、あたしもそう思うのよ。死顔しにがおに厚化粧ですもの、少しは相好が変る筈ですわ。一寸見たのでは京子さんに見えないけれど、でも、どっか似てやしないこと」
「そうです。見ている内に段々京子さんのおもかげが出て来た。それに、あの姿勢が人形にしては少しおかしいですね。店員を呼んで検べさせて見ましょう」
 蘭堂は群集を抜け出して、一人の店員を呼止め、何事か囁いた。店員は最初の間、取合おうともしなかったが、段々真面目な顔になって、遂には真青になって、どこかへ駈け出して行った。
 間もなく、年配の店員が常傭じょうやといの刑事探偵二人を従えて駈けつけて来た。
 見物達は、婚礼式の場面の前から追いのけられた。二人の刑事と蘭堂とが舞台に上って行った。
「やっぱりそうだ。これは人形じゃない」
 一人の刑事が、近々と花嫁人形を覗き込んで叫んだ。
「だが、この手は両方とも、コチコチ云うぜ、確に人形の手だぜ」
 今一人の刑事は、花嫁の両手を叩き合わせながら、不思議そうに云った。
「イヤ、この死人には両手がないのです。賊の為に切取られたのです。だから、手丈けは人形の手がつけてあるのです」
 蘭堂はそう説明しながら、花嫁の顔に触って見た。木にしてはあまり冷い。その上、フカフカと弾力があるのだ。
「ヤア、ひどい匂だ。どうしてこの匂に気がつかなかったのだろう。近寄って見たまえ、たまらない匂がする」
 刑事の一人が無作法に怒鳴った。
 かくして、花園京子の死体は発見されたのである。
 賊は確に彼の約束を実行した。衆人環視の百貨店内に於て、恐ろしき結婚式を挙行した。
 だが、発見されたのは花嫁ばかりだ。花婿は一体どうしたのだ。お嫁さんばかりの婚礼式なんてないことだ。
 すると、このとりすました花婿人形が、やっぱり本物の人間なのだろうか。若しやこれは、恐怖王その人の巧妙極まる変装姿ではあるまいか。
 そう思うと、蘭堂は一種異様の戦慄を感じないではいられなかった。
 彼はツカツカとその人形に近づいて、いきなり肩の辺をつきとばした。
 すると、人形は、ガタンと音を立てて、坐ったままの形で、その場に転がってしまった。着附けがくずれて、半分しかない胸部があらわになった。
「オヤ、この人形の胸になんだか書いてあるぜ」
 刑事はそれに気づいて叫んだ。
 人々は転がった花婿人形のまわりに集った。その胸を見ると、確に、すみ黒々くろぐろと、文字が書きつけてある。
花婿恐怖王の役目を勤めたるこの人形、恐怖王の身替みがわりとして逮捕なさるべくそうろう
 賊の余りと云えば傍若無人な冗談に、あっけにとられて、暫くは口を利くものもなかった。

怪画家


 大江蘭堂は、美しき未亡人喜多川夏子と共に、D百貨店花嫁人形の怪異をあばいた翌日、彼のアパートの寝台で、お昼頃まで朝寝坊をした。前夜花園家で京子のお通夜があったからだ。
 顔を洗って着物を着換きかえた所へ、書斎の方のドアをノックするものがあった。来客である。彼は寝室を出て、書斎のドアを開いた。
「ごめん下さい、大江さんのお部屋はこちらですか」
 廊下に見知らぬ男が立っていた。
 黒の背広に黒のネクタイ、大きな黒眼鏡をかけて、黒天鵞絨くろビロードのソフト帽を冠っている。イヤに色の黒い小柄な男だ、帽子の下にフサフサと長髪が垂れ、鼻の下に濃い口髭がある。洋画家とでも云った風体。
「僕、大江ですが……」
 蘭堂はこの男を全く見知らなかったので、変な顔をして答えた。
 だが、読者諸君はご存じだ。この小柄な長髪の男こそ、ゴリラ男の首領、――恐らくは「恐怖王」その人なのだ。
 このお話の初めの所で、ゴリラ男が運転手に化けて、布引照子の棺桶かんおけを盗んで来た時、例の空屋に待ち受けていて、死骸の顔に化粧をした不思議な人物、あの男だ。あの男が、大胆不敵にも大江蘭堂を訪ねて来たのだ。
「初めてお目にかかります。僕黒瀬くろせというものです。少しお話したいことがありまして」
 怪人物が、優しい作り声で名を名乗った。無論出鱈目に極っている。
「どういうご用でしょう」
 蘭堂はうさんらしく相手を見上げ見おろしている。
「アノ、実は恐怖王の一件について……」
 黒瀬と名乗る小男は、声を低くして、物々しく云った。
「恐怖王」と聞いては、逢わぬ訳には行かぬ。蘭堂は早速黒瀬をしょうじ入れた。
「ゴリラは白状したでしょうか。新聞にはそのことが何も出ていませんが」
 怪人物は椅子にかけると、何の前置きもなく初めた。
「何も云わないのです。共犯者のことも云わないし、自分の名前さえ白状しないのです。ただ、野獣の様にあばれ廻るばかりで、手におえないのです。とうとう、警察でも持て余して、動物を入れる檻の中へとじこめたということです」
 蘭堂は聞き知っているままを答えた。
「そんなにあばれるんですか。あいつが」
「本当のゴリラみたいに、食いついたり、ひっかいたりするんだそうです。巡査が腕に食いつかれて、ひどい怪我けがをしたということです」
「そうですか、じゃ、やっぱりあいつかも知れない」
 黒瀬は思わせぶりに云った。
「エ、あいつとおっしゃると? あなたはあのゴリラについて何か御存じなのですか」
 蘭堂は聞き返さないではいられなかった。
「エエ、お話の様子では、どうも僕の知っている奴らしいのです。新聞の写真を見て、あんまり似ているものだから、若しやと思って、おうかがいしたのです。あなたがこの事件に関係していらっしゃることはよく知っていましたし、それに僕はあなたの小説の愛読者だものですから、警察よりはこちらへ御伺いする気になったのです」
 そして、黒瀬は彼自身を手短に紹介した。それによると、彼は岡山おかやま県の田舎の者で、父から仕送りを受けて、絵の勉強に出て来ている、美術学生であった。
「それはよくこそ。御承知の通り、僕はあいつにはひどい目に合っているのですから、恐怖王の正体をあばくのに参考になることでしたら、喜んで伺いますよ」
「あなたは、あのゴリラ男の外に、恐怖王と名乗る元兇がいるのだとお考えですか」
「無論そうだと思います。あの野獣みたいな男の智恵では、こんな真似は出来っこはありません」
「そうでしょうね。僕もそう思うのです。ゴリラというのが僕の知っている奴だとすると、そいつは子供程の智恵もないのですからね」
「あなたはどんな関係であいつを御存じなのです」
「僕の親父おやじが、香具師やしの手から買取ったのです。そして、十何年というもの、僕のうちで飼っていたのです」
「飼っていたんですって?」
 蘭堂はびっくりして叫んだ。
「エエ、飼っていたんだよ。あいつはね。どうも純粋の人間ではない様に思われるのです」
 黒瀬は恐ろしい事を云い出した。
「今度警察へとらえられても、檻の必要があるというのは、つまりあいつが人間ではないからです。香具師というものは、お金もうけの為には、どんな真似だってしますからね。あの半獣半人がこの世に生れて来たのには、何か恐ろしい秘密があるのではないかと思います。僕の親父はあいつの子供の時分、香具師があんまり残酷に扱うのを見兼ねて、物好ものずき半分に買取ったのですが、一年二年とたつに従って、後悔しはじめたのです。大人になるにつれて、あいつが恐ろしい野獣であることが分って来たからです。あいつは本当の猿の様に、どんな高い所へでも昇ります。天井をさかさまに這うことさえ出来ます。力は大人が三人でかかっても負ける程です。僕はあいつと一緒に育ったので、よく知っています。あいつが来てからというもの、僕の家は魔物のすみかになったのです。家中の者が気が違った様になってしまったのです」
「すると、あいつは、あなたの家から逃げ出した訳ですか」
「そうです。もう六年ばかり以前のことです。僕の家に居候いそうろうをしていた男が、あいつを盗み出したのです。何の為にか少しも分りませんが、二人は――いや、一人と一匹とは、まるで駈落かけおちでもする様に、手に手をとって逃出してしまったのです。僕の家では結句厄介払やっかいばらいをしたと喜んだことですが……」
「なんだかゾッとする様なお話ですね。で、あいつは何という名前だったのです」
三吉さんきちと云うんです。以前の飼主の香具師がそう呼んでいたんです。つまり戸籍面は黒瀬三吉という事になっているんです」
「それから三吉を盗んで行った奴は?」
「イヤ、それはあとにして下さい。それが若しあの恐怖王だとすると、迂濶うかつには云えない様な気がします。その前に僕は一度ゴリラ男を見たいのです。果して三吉だかどうだか確めたいのです。あなたのお口添えで、ゴリラ男を一見する訳には行きませんでしょうか」
「無論見せてくれると思います。警察ではゴリラの素性が分らなくて困っているのですからね。その上あなたが共犯者を見知っていられるとすれば、こんな耳寄りな話はありません。喜こんで見せてくれるでしょうよ」
 そんな風に、二人の話はトントン拍子に進んで行った。
 蘭堂は、警視庁へ電話をかけて、知合いの捜査課長に話をすると、すぐその人を連れて来てくれという返事であった。

注射針


 それから一時間程のち、大江蘭堂と、怪画家黒瀬とは、捜査課長自身の案内で、ゴリラと対面する為に、警視庁の地下室の階段を降りていた。
「すると、あなたとあのゴリラとは、戸籍面では兄弟という事になっているのですか」
 捜査課長のS氏は、先に立って薄暗い段々を降りながら、尋ねた。
「エエ、僕の兄に当る訳です」
 黒瀬は真面目な声で答えた。
 何だか変な具合であった。考えて見ると、これは六年ぶりの兄弟の対面に相違なかった。何という異様な対面であろう。兄の方は一匹の野獣として、動物の檻の中にとじこめられているのだ。
 奥まった薄暗い部屋のドアが開かれると、その中に頑丈な鉄の檻があった。檻の中には動物園の熊の様に寝そべっている黒いものがあった。
「コラ、起きろ起きろ、お前に逢い度いという人があるんだ」
 S氏は靴で檻のふちをコツコツ蹴りながら、怒鳴った。
 野獣はビックリした様に、ヒョイと顔を上げてこちらを見た。ゴリラの目と黒瀬画家の目とが、カチッとぶッつかった。
「アッ、お前……」
 ゴリラが何か叫びかけてハッと口をつぐんだ。非常に驚いている様子だ。
「僕だよ三吉。覚ているかね、黒瀬正一しょういちだよ」
 画家は、ゴリラの目を見つめながら、おさえつける様に云って、檻の側へ近づいて行った。画家はゴリラに対して、一種催眠術的な力を持っている様に見えた。彼の前では、あばれもののゴリラが非常におとなしく、首を垂れてかしこまっていた。
「三吉、お前は飛んでもないことをしたんだ相だね。その上、捕まってからも、人をきずつけたというではないか。お前は何という馬鹿だろう。こんな動物の檻の中へ入れられるのも、お前の智恵が足りないからだよ。悲しいとは思わないのか。素直に何もかも白状してしまうがいいじゃないか。お前が云わなくても、こうして僕が知ったからには、僕からすっかり申上げてしまうよ。その方がお前の為なのだ。警察のかたも、お前の哀れな素性をお聞きになったら、きっと同情して下さるよ」
 黒瀬は檻の鉄棒に顔をくッつけて、涙ぐんだ声で、諄々じゅんじゅんさとし聞かせるのであった。ゴリラの方でも、久方振りの対面を懐かしがってか、黒瀬の側へすり寄って来て、じっと蹲まっていた。
 黒瀬は話しながら、鉄棒の間から手を入れて、ゴリラの背中をさすったり、その手を握ったりした。そんなにされても、ゴリラは、まるで猛獣使いの前に出たけだものの様におとなしかった。
 画家とゴリラとの不思議な対面は三十分程もかかった。彼はその間、ゴリラを説き伏せる為に、ボソボソ、ボソボソ囁き続けていたのだ。そして、結局彼の努力は報いられた様に見えた。
「とうとう説き伏せました。三吉は今度のお検べには、何もかも白状すると云っています」
 黒瀬は少し離れて待受けていた二人の方へ戻りながら云った。
 捜査課長はこの吉報にひどく喜んで、お礼を云った。
 黒瀬は何かもじもじしていたが、
「洗面所はどちらでしょうか」
 と尋ねた。
 捜査課長はドアの外へ出て、その所在を教えた。黒瀬はさいぜんから我慢していたものと見え、妙な走り方をして、その方へ急いで行った。
 そして、それっきり、この怪画家は再び姿を見せなかったのだ。洗面所へ行くと見せかけて、どこかへ逃出してしまったのだ。
 一方檻の中でも妙な事が起っていた。
「オイ、三吉、何をしている。どうしたんだ」
 捜査課長が驚いて檻に駈け寄り、又コツコツと、その縁を靴で蹴った。
 だが、今度はゴリラは何の反応も示さなかった。彼は長々と横たわっていびきをかいていた。顔が真青になって、額にビッショリ汗の玉が浮いていた。
「今話をしていた奴が、もう寝入っている。何ということだ。コラ、起きぬか、起きぬか」
 S氏は鉄棒の間から手をさし入れて、転がっているゴリラの身体を烈しくゆすぶった。だが少しも手ごたえがない。まるで死んだ様だった。数分間でこんなにもよく寝込めるものだろうか。
「変ですね、どうかしたんじゃありませんか。そいつの顔色をごらんなさい」
 蘭堂が檻を覗き込んで云った。
 ただ事ではなかった。ゴリラは死にかけているのだ。何の原因もなく、突然こんな発作が起るものだろうか。
「それにしても、あの黒瀬という人は何をしているのだろう。馬鹿に長いじゃありませんか」
 S氏がふとそれに気づいて云った。
 二人の胸に殆ど同時に、ある恐ろしい考えがひらめいた。
「オイ、君さっき出て行った黒瀬という人を探してくれ給え、洗面所にいる筈だ。大急ぎで探してくれ給え」
 S氏は外の廊下に立っていた一人の警官に命じた。
 だが黒瀬の姿は、洗面所は勿論、庁内のどこの隅にも発見されなかった。
 一方ゴリラ男の容態を見る為に医員がかけつけ、檻の戸を開いて中へ入って行った。
 彼はゴリラの身体を綿密に検べ終って顔を上げた。
「腕に注射針の痕があります」
「毒薬ですか」
 捜査課長がびっくりして聞返した。
「エエ、多分……」
 医員はある毒薬の名を答えた。
「それで生命は?」
「分りません。至急に手当てをして見ましょう。こんな頑強な男ですから、うまく命をとりとめるかも知れません」
 医員はゴリラ三吉の脈を圧えながら云った。
 二人の警官が医員の指図に従って、ゴリラを檻から出して、階上の別室へ運んで行った。
 庁内は俄に色めき立った。捜査課長は自室の電話口で、黒瀬と称する男の人相風体を怒鳴り続けた。黒瀬捕縛の非常線がはられたのだ。
 ゴリラに毒薬を注射した者は黒瀬の外にはない。何よりの証拠は彼が姿を消したことだ。ゴリラ男の奇妙な身の上話も、三吉という名前もみんな出鱈目に極っている。彼は捉われた同類に接近する為に、たくみな手だてを考え出したのだ。
 あわよくば同類を救い出す積りであったかも知れない。だが、それが絶望と分ると、彼は我身の安全をはかる為には、同類をなきものにする外はなかった。幸、まだ何も白状していないのだから、今の内に殺してしまえば、彼は永久に安全でいることが出来るのだ。
 だが、それ程ゴリラの自白を恐れた黒瀬という男は抑々そもそも何者であったか。彼こそ「恐怖王」その人ではなかったのか。

悪魔の正体


 警察の物々しい捜索にもかかわらず、黒瀬という長髪の男の行衛は、ようとして知れなかった。こんなに探しても分らぬ所を見ると、黒瀬という名が出鱈目なのは勿論、あの長髪も、チョビ髭も、黒眼鏡も、みんな変装用の道具であったかも知れない。顔色が変にあさ黒かったが、あれもひょっとしたら、巧なお化粧をしていたのではあるまいか。イヤ、そればかりではない。あいつの声は、何だか変であった。作り声をしていたに違いない。などなど、次から次へと疑いが起って来た。
 一方毒薬の為に意識を失ったゴリラ男は、普通の人であったら即死すべき所を、野獣の様な体質のお蔭で、からくも一命はとりとめたけれど、意識を取り戻しても唖の様にだまりこくって、ただ寝台の上に長くなったまま、身動きさえしなかった。気が違ってしまったのかも知れない。自然取調べは少しも進捗しんちょくしないのだ。
 その騒ぎがあってから七日目の夜のことである。
 大江蘭堂は喜多川夏子に誘われて、鎌倉の彼女の家に客となっていた。
 恋人を失った悲しみはまだ新しかったけれど、この若く美しき未亡人の、友達としての魅力は捨て難きものがあった。
 彼女は美しかったし、お金持であったし、蘭堂に並々ならぬ好意を寄せていたし、その上、女に似げなき推理の名手であって、D百貨店の花嫁人形事件では、謂わば専門家の蘭堂をさえアッと云わせた程だから、最初は嫌い抜いていた蘭堂も、いつの間にかこよなき友達としてつき合い始めたのは、無理もないことであった。
 例によって夏子のもてなしは、至れり尽せりであった。二人切で食卓を囲んで、すてきな手料理と香り高い洋酒の瓶が、幾色も幾色も並べられた。
「いくら我身が助かりたいからといって、あんなに忠実に働いたゴリラ男を殺してしまおうとするなんて、惨酷じゃありませんか」
 話は当然そこへ落ちて行った。
「でも、恐怖王にして見れば、外に仕方がなかったのかも知れませんわ」
「併し、あいつはもともと、俺は恐怖王だぞと広告しているんじゃありませんか。仮令ゴリラが本当のことを白状した所で、その為に捉えられる様なへまな真似はしない筈です。助手に使う為にゴリラを救い出す必要はあったかも知れないが、何も殺すことはなかったでしょう」
「でも、恐怖王の方には、何かそうしなければならない様な、特別の事情があったのかも知れませんわ」
 夏子はもう目の縁を赤くしながら、妙に賊のかたを持つのである。
「特別の事情って?」
 蘭堂も少し酔っていた。酔うに従って話相手が、段々美しくなまめかしく見えて来るのであった。
「例えば、恐怖王が、一方では私達の様に普通の社交生活をしていて、その仮面をはがれては困るという様な……」
 夏子はあどけない巻舌になって云った。
「ホホウ、あなたは、あの殺人鬼が、我々と同じ様な善良な社交生活を営んでいるとおっしゃるのですか」
「エエ、そうでなければ、あんな危険を冒して、ゴリラを殺しに行く筈がありませんもの。若しかしたら、恐怖王は恋をしているんじゃないかと思いますわ。恋人に身の素性を知らせたくない為ばかりに、あんな冒険をやったのではないかと思いますわ」
 そう云って、夏子はうるんだ目で、じっと蘭堂の顔を見つめた。蘭堂の方でも、何故か相手の目を覗き込まないではいられなかった。二人はお互の目を見つめたまま、長い間黙り込んでいた。そこに何かしら異様な、ゾッとする様なものが感じられた。
「ホホ…………」夏子が頓狂に笑い出した。
「サア、これを一つ召上れ。強いのよ。でも大丈夫。あたし介抱かいほうして上げるから」
 彼女は、なまめかしく云って、赤い色の洋酒をグラスについで勧めた。
 蘭堂は妙なゾッとする様な感じを払いのけようとして、それを一息に飲みほした。火の様に熱い酒だった。喉から食道がカーッとほてって、それが、胃袋に落ついた時分に、俄に脈が早くなって来た。脳髄がズキンズキンと持ち上げられる様な気がした。そして、夏子の美しい顔が、ズーッと遠く小さくなって、いつとはなく意識がぼやけて行った。
 蘭堂は、目まぐるしく変転する長い長い夢を見つづけていた。
 それは歯の根も合わぬ程恐ろしい快い悪夢であった。真暗な中に白い巨大な芋虫の様なものが、無数にクネクネとよじれ合っていた。それが様々の色に変って行った。赤い芋虫が一等恐ろしく、ゾッとする様な魅力を持っていた。
 変転する場面は、皆その様な感じのものであった。どれもこれも身の毛もよだつ悪夢であった。
 夢見ながら、触覚では、絶え間なく、暖くて柔い触手の様なものでくすぐられるのを感じていた。
 グッショリ油汗になって、ふと目を覚ますと、顔の上に何か重い柔いものが乗っかっていた。それが夏子の顔であることを悟るのに長い時間かかった。
 彼が身動きすると、夏子は顔を離して、枕元に立った。もうちゃんと着替えをすませて、お化粧さえしていた。
 まだおぼろげな意識で、ぼんやり見上げている蘭堂の頬を、軽く叩いて、彼女はニッコリ笑った。
「可愛いお坊ちゃん、お目がさめて?」
 そういったかと思うと、彼女は何か用ありげに寝室ねまの外へ出て行ってしまった。
 蘭堂はそれを見送りながら、声をかける気力もなく、三十分程もウトウトしていた。身体の節々が抜けて行く様な、快さにひたっていた。
 女中が新聞とコーヒーを枕元の小卓へ置いて行ってくれたのも、夢の中の様におぼろげであった。
 長い間かかって、やっと意識がハッキリすると、彼は毎朝の習慣に従って、枕元の新聞を取った。
 重いカーテンがおろしてあるので、寝室ねまは夕暮れの様に薄暗かった。
 彼は卓上の電燈をひねって、夜の光線で新聞を読み始めた。
「ゴリラ男」脱走す
昨夜深更○○病院から
全市に非常警戒
 四段抜きの大見出しが、彼の目に飛びついて来た。
 記事はただ病中のゴリラ男が脱走して行衛知れずという丈けで、詳しいことは分らなかったが、考えて見ると、首領恐怖王から毒薬注射を受けたのちのゴリラである。再び首領の前に頭を下げて行く筈はない。愚かものの彼とても、それ位のことは分っているだろう。
 イヤ、愚かものである丈けに、我身の危険などは顧みず、ただ恨みに燃えて、同類を裏切った首領にあだを報いようとするかも知れない。
「ゴリラの脱走を聞いて震え上るのは、一般市民でなくて、寧ろ彼の首領の恐怖王その人ではあるまいか」
 蘭堂は苦笑しないではいられなかった。彼等は同志うちを始めるに極っている。そして、どちらが勝つにしても、世間はいくらか助かるのだ。
 そんなことを考えていると、どこからか恐ろしい悲鳴が聞えて来た。「助けて……」という様に聞えたが、云い切ってしまうまでに、何かに圧えつけられた様に、パッタリ途絶えてしまった。
 確かに夏子の声であった。どうしたというのだろう。ゴリラ脱走の記事と今の悲鳴との、妙な符合が蘭堂をギョッとさせた。
 彼は大急ぎで寝台を飛び降りると、寝間着ねまきのまま、部屋を飛び出した。
 廊下には二人の女中が青くなって震えていた。聞いて見ると、今の声はどうやら二階の書斎らしいとのことだ。
 彼は階段を飛上ってその部屋へ駈けつけた。
 ドアは開かぬ。内側から鍵をかけてある様子だ。
 聞耳を立てると、部屋の中で、何者かの息遣いがハッハッと聞える。
 蘭堂はふと気がついて、ドアの鍵穴に目を当てた。
 案の定、そこにゴリラ男がいた。
 彼は何故か案の定という気がしたのだ。
 病院を逃げ出した彼は、昨夜の内にこの邸へ忍込んでいたものに相違ない。何故彼はここへやって来たのか。
 ゴリラはハッハッと息をはずませていた。牙の様な大きな歯が真赤に染って、唇からボトボトと赤いしずくがたれていた。血だ。
「そこへ来たのは、大江の野郎だな」
 突然血走った目が鍵穴を睨みつけて、赤い口が怒鳴った。
「ハハハ……、馬鹿野郎! 手前てめえはそれでも探偵のつもりか。ここは手前のかたきうちだということを知らねえのか。ハハ……。ソラ、開けてやるから這入って来い。そして、このテーブルの上の品物をよく検べて見るがいい。サア入って来い」
 ゴリラは嘲笑しながら、鍵穴に鍵をはめてカチカチと廻した。
 一押しでドアは開いた。だが、蘭堂は直様すぐさま飛び込む勇気がなかった。赤い雫のたれているゴリラの口を見ては、飛かかって行く勇気がなかった。
 躊躇している間に、ゴリラはもう向側の窓枠に足をかけていた。そして、パッと彼の姿が窓の外へ消えると、空中に不気味な笑い声が残った。ゴリラは二階の窓から庭へ飛び降りたのだ。
 蘭堂がその窓へ駈けつけた時には、ゴリラはもう塀を乗り越していた。
 今から階段を廻って追駈けたのではとても間に合わぬ。と云って、猿でない蘭堂には、この高い洋館の窓から飛降りる力はない。声を立てて往来の人の応援を求めようにも、早朝といい、林の中の非常に淋しい場所なので、人通りもないのだ。
 仕方がないので、階下に飛んで降りて、女中に警察と附近の医者へ電話をかけさせて置いて、又元の二階へ取って返した。こんな時に書生がいてくれれば助かるのだが、それも此頃このごろ丁度不在なのだ。
 ゴリラよりも気がかりなのは夏子のことだ。手傷を受けた丈けならいいが、もしや殺されてしまったのではあるまいか。
 夏子は部屋の片隅にもみくちゃになって倒れていた。調べて見ると、息も絶え脈もなくなっていた。喉をしめられた跡が紫色にふくれ上っている。右頬を喰いつかれたと見え、ザックリ肉が開いて、顔中が紅酸漿べにほおずきの様に真赤だ。素人目にも到底蘇生そせいの見込はない。
 ゴリラ男が云い残して行ったテーブルの上を見ると、そこに実に奇妙な品々を発見して、蘭堂は愕然がくぜんとした。
 一着の古い黒の背広服、黒天鵞絨ビロードのソフト帽、その横に白紙をのべて、上に黒眼鏡と、長髪のかつらと、つけ髭が並べてある。
 その側に、数枚の手紙の様なものが、キチンと重ねて、叮嚀ていねいに紙ナイフが重しにのせてある。
 蘭堂は、悪夢の続きでも見ている様な気がした。この服、この帽子、この眼鏡、凡て黒瀬と名乗った怪画家のものではないか。ゴリラに毒薬の注射をして逃げ去った、恐怖王その人と覚しき怪人物のものではないか。彼は果して変装していたのだ。長髪も口髭も、皆にせものであったのだ。
 では、一体何人なんぴとが黒瀬に化けていたのだ。あの惨虐あくなき殺人鬼「恐怖王」の正体はそもそも何者であったのだ。
 如何に不思議に見えようとも、それはここに殺されている喜多川夏子その人と考える外はない。でなくて、病院を脱走したゴリラ男が、態々夏子を殺しにやって来る筈はないからだ。
 ゴリラ男は「ここはお前の敵の家だ」と云った。夏子が若し「恐怖王」であったとすれば、如何にも敵の家に相違ない。蘭堂は我が恋人を殺害した当の敵と同じ寝室ねまに夜を明かしたことになる。
 余りに事の意外さに、蘭堂は暫くぼんやり立尽たちつくしていたが、やがて、テーブルの上の手紙の様な紙片かみきれを手に取って、むさぼり読んだ。
 それは皆「恐怖王」と自称する首魁しゅかいからゴリラ男と覚しき人物に送られた、簡単な通信文であった。
 布引照子の棺桶を盗み出す手筈を打合せた一通があった。照子の死骸を自動車に乗せて、恐怖王(すなわち喜多川夏子)が、同じ車内に隠れ腹語ふくご法によって照子の声で父布引氏に呼びかける手段を記した一通があった。花園京子の片腕を切断する打合せの一通があった。又、大江蘭堂を鎌倉におびきよせ、空中文字、砂文字によって、夏子のうちへ誘い込む手筈を通知した一通があった。
 どれもこれも、通信者相互に丈け分る様な、符号に近い文句であったけれど、事件を最初から知っている蘭堂には、なんなく判読することが出来た。
 しかも、何より恐ろしいのは、その手紙の文字が、よく知っている喜多川夏子の筆蹟に相違なかったことだ。最早や疑う余地はなかった。
「恐怖王」とは、この美しき一女性に過ぎなかったのか、余りにあっけない種明しではないか、これが本当だろうか。蘭堂はいくら証拠を見せつけられても、それを信じる気にはなれなかった。
 彼女はあの美しい顔をして、実は恐ろしい精神病者であったのだろうか。血にえた殺人狂であったのだろうか。
 だが、殺人狂としても、これらの犯罪には、何かしら一つの思想が含まれている様に見えるではないか。
 極った様に死骸に化粧を施して結婚式を行うというのには、単なる殺人狂以上の意味があり相に見えるではないか。
 それは金銭をゆすり取る手段であったかも知れない。又犯罪者の虚栄心から出た奇抜なお芝居であったかも知れない。だが、その奥にもう一つの意味が隠されてはいないだろうか。
 蘭堂は知らなかったけれど、布引照子の恋人鳥井純一は、一夜生けるが如き照子の姿に引き寄せられ、彼女の声を聞き、暖い肌触りを感じたではないか。これは一体何を意味するのだ。そこには、照子の死骸の蔭に、犯人喜多川夏子がひそんでいて、腹話術を使い、死骸の身替りを勤めたのではあるまいか。
 今又大江蘭堂は、恋人花園京子を奪われた上、一夜を夏子の家に明かすこととなったではないか。そこに一脈の相通ずるものが隠されているのではなかろうか。
 蘭堂は、そこまで深く考える余裕はなかったけれど、何とも知れぬいまわしさに、目の前が暗くなる様な気がした。
     ×     ×     ×     ×
 間もなく所轄警察から多数の警官が駈けつけて、附近を隈なく捜索したのは勿論、鉄道の駅々、街道という街道へ非常線をはって、人間ゴリラを待受けたけれど、彼はどこへ逃げ込んだのか、幾日たっても警察の網の目にかからなかった。
 一目見ればそれと分る奴だから、人中へ出て来れば、忽ち捉まるは知れている。しかも、いつまでたっても消息がない所を見ると、彼は故郷の深山へと分け入って、元の猿類に帰ってしまったのではあるまいか。
 警察でも世間でも、恐怖王の正体が一未亡人に過ぎなかったという結論では、どうも満足が出来なかった。彼等は何かしらもっとすばらしい超人を期待していた。
 ひょっとしたら、それらは凡て、奥底の知れない極悪人の、巧みにも拵え上げた偽証ではなかっただろうか。
 本当の恐怖王は、まだどこかに生き永らえていて、次の大それた計画を目論んでいるのではあるまいか。そして、夏子未亡人は、賊にとっては仇敵である大江蘭堂と恋をしたばっかりに、さし当りその筋を油断させる為の、可哀相な替え玉に使われたのではないだろうか。つまり黒瀬と称するあの怪画家と、夏子未亡人とは全く何の関係もなかったのではないか。
 あの毒薬の注射にしても、ゴリラを殺すのが目的ではなく、一時人事不省じんじふせいに陥らせ、檻の中から、逃げ易い病院へ移させる手段でなかったとは云えぬのだ。
 だが、それは永久に解き難き謎であった。再び「恐怖王」が活躍を始めるか、行衛不明のゴリラ男が姿を現わすか、それともまた、あの鎌倉の空に「恐怖王」の文字を描いた怪飛行機の操縦者が名乗って出るまでは(不思議なことに、その操縦者は、いくら探しても、いつまでたっても現われて来なかったが)これらの疑いは、いまわしき幻想でしかなかった。





底本:「江戸川乱歩全集 第8巻 目羅博士の不思議な犯罪」光文社文庫、光文社
   2004(平成16)年6月20日初版1刷発行
底本の親本:「江戸川乱歩全集 第十三巻」平凡社
   1932(昭和7)年5月
初出:「講談倶楽部」大日本雄弁会講談社
   1931(昭和6)年6月〜7月、9月〜10月、1932(昭和7)年1月〜5月
※「向うの」と「むこうの」、「群衆」と「群集」、「気持」と「気持ち」、「押さえて」と「押えて」、「確かに」と「確に」、「落ちて」と「落て」、「見舞い」と「見舞」、「残酷」と「惨酷」の混在は、底本通りです。
※底本巻末の平山雄一氏による註釈は省略しました。
入力:金城学院大学 電子書籍制作
校正:入江幹夫
2020年6月27日作成
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●図書カード