「で犯行の
「アア、その方の証拠なら、少しばかり
署長は果して、待ってましたという調子で、ポケットから彼の常用のシガレット・ケースを取出すと、
「触っちゃいけない。実にハッキリした
「つまりその眼鏡の玉が、この部屋に落ちていたという
正岡名探偵の顔が一寸緊張して、鋭い両眼が
「海岸の方に開いている裏口の、ドアの引手のガラス玉の表面に、二つも三つも、しかもそれが、この眼鏡の
署長は少々得意でない訳には行かなかった。
「ホウ、すると犯人は、その裏口から
「家主はそう断言している。
正岡氏は、かくも矢つぎ
「足跡って、どこにです」
「その指紋のあるドアの内側にも外側でも。マア来てごらんなさい。それを見ると、犯人の行動が手にとるように分るんだから」
署長は先に立って、その裏口のドアへと、階段を降りて行った。正岡警部、雑誌記者
だが、この事件については最も熱心であるべき小説家星田が、なぜ一同の一番あとになって、しかも、まるで気乗りのしない調子で、ノロノロと歩いて行ったか。実に不思議と云わねばならなかった。
彼の顔は異様に
「これです。男の靴の跡が、
署長がそれを指さしながら三人を
「靴跡は男のものが一種だけしかないようですね。被害者の女の足跡はどうしたんでしょう」
津村記者が土間を見廻しながら不審をうった。
「被害者の方は表口から入ったというような形跡はなかったのですか」
正岡警部も尋ねる。
「イヤ、表口には疑わしい足跡が発見されなかったのです。つまり、被害者はここで殺されたのではなくて、
署長はそう云って、名探偵の顔色を読むようにした。
「それも一つの考え方だね。で、このドアの外には足跡は残っていなかったのですか」
「それだよ」署長は得意げに答える。「実にハッキリ残っているのだ。しかも足跡以上のものまでもね」
「ホウ、足跡以上のもの? 一体何です」
「マア、君の目で見てくれ
署長は云いながら、もう玄関の方へ歩き出していた。
建物をグルッと
「型を取って
「そこに靴跡以上のものがあるって訳だね」
正岡警部が先廻りをして云う。
「そうなんだ。マア、来て見給え」
四人は犯人の足跡を乱さぬ為に、それと並行に二三間も離れた所を歩いて、五十
といって、そこから突然地面が固くなっているのではない。
「ね、足跡が消えたかと思うと、丁度その箇所に、こうしてタイヤの跡が残っているでしょう。云うまでもなく、奴はここへ自動車を待たせて置いて、あの空家へ往復したんです」
「素敵素敵、なんて『完全な証拠』でしょう」津村記者が大喜びで叫んだ。「すると、犯人はあの女の死骸を自動車にのせてここまで運び、この先は道が柔か過ぎるので、車を降りて、死骸を
そこは車馬の通う大道路からは、やはり五十米程離れた、広い砂地であったから、犯罪者ででもなければ、物好きにそんな難儀な場所へ自動車を乗入れる奴はない。だから、問題のタイヤの跡の
「この模様はグッド・イヤのタイヤだぜ。併し同じタイヤを使用している自動車が幾種類もあるんだから、この模様一つで犯人の車をつきとめるなんてことは思いも及ばないけれど」
正岡警部が博識を
「だが、少くも一人の犯人が自動車によって、ここまで女の死体を運んで来たということは分る。それに、犯人の落して行った近眼鏡の玉がある。指紋がある。犯人の筆蹟がある。先ず証拠は揃い過ぎる位揃っていると云ってもいいじゃないか。一方被害者の写真によって、行先不明の女を探すという手もあるんだからね。一寸考えると奇妙不可思議な犯罪には相違ないけれど、この犯人は案外早く挙がるかも知れないぜ」
署長さんは楽天家だ。
「ナンダ馬鹿にしてやがる。これじゃ『
津村記者が
「アア、そうそう、この犯罪には星田さんもかかり
署長はやっとそこへ気がついたように尋ねた。
「イイエ、別に――」
星田はさっきよりも一層
「それはね、こういう訳ですよ」
自然、津村が
「ホホウ、そいつは奇妙ですね。併し、物好きな読者かなんかのいたずらじゃないんですか。探偵作家の所へは、よくそういった手紙が舞い込むって云うじゃありませんか。今度の殺人事件とは、恐らく偶然の一致でしょうぜ」
署長は実際家であった。
「イヤ、ところが、どうもそうではなさそうなんです」津村はそのまま
「なる程、おっしゃる意味はよく分りますがね」署長は中途で引取って、「その今朝の男の靴跡も
「アア、そうでしたか。じゃ
津村は名探偵の同意を求めた。
「サア、それも可能ではありますね。併し、確かな証拠を握るまでは、そうと極めてしまう訳には行きませんよ」
正岡氏は、西洋小説の名探偵と同じように、捜査なかばに、彼自身の結論を発表しない
もう夕闇が迫っていた。怪犯人の靴跡も目をこらさなくては見分けられぬ程になっていた。
「では一度署の方へ寄りませんか。もう被害者の写真や指紋写真の焼きつけが出来ている時分だし……」
署長は主として正岡警部に勧めた。併し津村も星田も遠慮をする気にはなれなかったので、あつかましく両人のあとに
署長は途中空家へ立寄って、被害者の死体を解剖の為に病院へ運ぶ指図など与えて置いて、自動車の待っている大通りへと急いだ。検事、予審判事の一行の現場検証は、正岡警部達の一団が到着する以前、既に終っていたのだ。
署につくと、三人の客はあかあかと電燈のついた署長室に
署長の太い指先が、
「これが指紋だ」彼は眼鏡の玉と、ドアの引手の拡大写真を、二枚並べて見較べながら説明した。――「このレンズに出ているのは、多分右手の
三人は署長からその写真と、拡大鏡とを受取って、順番に問題の
「オヤ、この指には古傷の跡があるね」
正岡警部がすぐ
「ウン、非常に特徴があるでしょう。実に
そこには見事に整った螺旋紋の中心から、右の
「見給え星田君、これが君を
正岡警部が、最後に星田の前に写真と拡大鏡を置いて云った。
星田はやっぱり、死人のように蒼ざめていた。
彼はヒクヒクと指先を震わせながら、拡大鏡を取って、指紋を覗き込んだ。そして、ジッと、変に思われる程も長い間、それを凝視したまま動かなかった。
カタリと拡大鏡が卓上に落ちた。落ちても、星田の手は、やっぱりそれを持って写真の上に
「星田君、どうしたんです。気分でも悪いんじゃない? さっきから何だか、ひどく元気がないようだったが」
津村が驚いて星田の横顔を見つめながら、不安らしく尋ねた。
「イヤ、別に……いつもの脳貧血かも知れない。この二三日少し仕事に熱中し過ぎたものだから」
星田は、ハッとしたように顔を上げて、併し、変に舌のもつれた云い方で答えた。
星田の蒼ざめた顔を中心にして、一座が白け渡った。署長も正岡警部も、殺人事件よりは、探偵小説家の病気を気にし出した。
(局外者を犯罪現場に立会わせるのは、これだから困るんだ。素人の癖に死骸なんか見るもんだから、気分が悪くなったのだ。こういう先生は、早く帰した方がいい)
署長がそんな風に考えたのは
間もなく、二人は東京行きの二等車のクッションに肩を並べていた。どうした訳か、その箱は非常に客が少く、彼等の附近には、目も耳もなかったので、大声でないしょ話が出来た。
「だが、僕等は犯人を少し
津村は、相手の病気を心配しながらも、やっぱりそれを云わないではいられなかった。彼は別に病人の受け答えを期待していた訳ではなかった。半分は独言のつもりであった。ところが、蒼ざめた探偵作家は、それを聞くと、何故かムックリ顔を上げて、軽率な雑誌記者を
「イヤ、そうじゃないよ、君。あいつは今まで考えていたより、十倍も恐ろしい奴なんだ。不完全犯罪どころか、こんな完全な犯罪って聞いた事もない位だ」
ピリピリと、全身の末梢神経が
「だって、あれだけ証拠が残っていて、完全な犯罪って云うのはおかしいじゃないか。それとも君は、何か警察の連中の気附かない、全く別な考え方でもしているのかい」
「そうなんだ。あの連中は、まんまと一杯喰わされているんだ」
星田は待ち構えていたように答えた。蒼ざめた顔に不思議な情熱が漂っていた。
「どうしてそれを、君だけが発見したの? なぜ署長さん達に教えてやらなかったの?」
津村は半信半疑で、この小説家はやっぱり病気らしいなと疑いながら、でも激しい好奇心を
「僕でなければ気附き得ない事柄なんだ。そして、うっかりあの連中に
星田は聞く人もないのに、
津村は黙って、何か不気味らしく相手の目を見つめた。
「だが、君には相談相手になって
「エ、エ、知っていたのか、道理で、さっき正岡氏に聞かれた時、君はどこかで見たような顔だと答えたんだね」
「ウン、あの時はまだハッキリ思い出せなかったのだよ。
「オオ、京子さんと云えば、あの……」
津村もびっくりしないではいられなかった。会ったことはないけれど、話だけは
「じゃ、なぜそうと云わなかったのだ。あれが京子さんと分れば、捜査の手数がグッと
津村はいぶかしげに、セカセカと尋ねる。
「僕もそう思って、云おうとしていたんだ。ところが、丁度その時、あの眼鏡の玉を見せつけられたのでね」
「エ、なんだって? 眼鏡の玉が、それとどう関係があるんだ」
「あれは僕の眼鏡の玉に違いないのだよ。検べて見たら形も度もこれと全く同じだと思うよ」星田はそう云って、彼の鼻の上のロイド眼鏡を
「フム、それで、君自身が疑われることを恐れて、京子さんだと云うのを差控えたんだね」
「まさかそう
「第二の証拠だって?」
「ウン、そうだよ。僕は例の犯人の靴跡を見た時には、黙って逃げ出したいような気がした。あの足跡を追って歩いて行く僕自身の靴の跡が、犯人のと寸分違わない形で、一つずつ地面に残って行くんだからね。全く居たたまらない気がしたよ。幸い誰も気がつかなかったけれど……見給え、この靴は
「フーム、考えやがったな。なる程こいつはインパーフェクト・クライムどころではなさそうだね。併し、いくら証拠が揃っていたって、君にはアリバイがあるだろう。この頃は締切に追われてズッと家にいたんじゃないか」
「ところが、
星田が深夜の浅草公園をさまよい歩く習慣は、仲間のうちでは誰知らぬものもなかったけれど、と云って、それがアリバイになる訳はなかった。
「なる程、こいつは君が変な顔をしていた筈だね。何だか、僕まで怖くなって来たぜ。しっかり考えなくっちゃいけない。並々の敵ではなさそうだ」と云いかけて、津村はふとそれを思い出した。「待てよ、いいものがあるぜ。星田君。あれさホラ、例の指紋さ。まさかいくらなんでも、君の指紋まで盗み出すことは出来ないじゃないか。あの指紋一つで、君の
併し、それを聞かされても、星田は一向喜ぶ様子はなかった。彼は一層困惑した、恐怖に耐えぬ表情になって、静かに右手を、津村の目の前に差出した。
「これを見給え。僕の拇指をよく見てくれ給え」
津村はギョッとして、思わず相手の指先を握り、その拇指の腹を電燈にかざして見た。
彼は長い間、黙ってそれを見つめたまま、云う所を知らなかった。そして津村の顔までが、星田以上に蒼ざめて行くのであった。
そこには、星田の拇指には、つい
(連作第五回 了)