偉大なる夢

江戸川乱歩




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作者の言葉


 夢を尊重せよ。われらの陸海軍は皇国こうこく三千年の夢を実現しつつあるではないか。偉大なる夢と月々火水木金々の努力、くして偉大なる現実は生れるのだ。夢無くして科学は無い。科学の進歩は天才の夢に負う所如何に多大であるか。科学史の毎頁まいページがこれを証明している。現実に先行する夢なくして現実の進歩はない。今や完全なる勝利か、しからずんば国民一人残らずの死あるのみである。眼前の現実に跼蹐きょくせきして、いたずらに物資の不自由をかこつことをやめよ。卑小なる保身を離れて、偉大なる夢を抱け。私は一つの夢を語ろうとする。無論、昔日せきじつの悪夢を語るのではない。昔日の悪夢はことごとくかなぐり捨て、私の力の許す限りにおいて、大いなる正夢を語ろうとするのである。


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巨人の脈搏


 世界の国という国がその総力をかたむけ、大地球の全面をゆるがして戦いつつある時、日本国の威力が東半球を風靡ふうびし、つい四五年前までの国民には架空の夢でしかなかった偉大なる事業が、いま彼等の眼前に実現されつつある時、前線の勇士達は、その一人一人が神となって今の世の神話を創造しつつある時、聖戦完遂かんすいの心臓部、日本陸軍省はひねもす夜もすがら、頼もしく力強き搏動をつづけていた。
 この巨大なる心臓は、些々ささたる戦況に一喜一憂いっきいちゆうすることなく、如何いかなる場合にも冷静にがっしりと規則正しく脈っていたが、しかし極めてまれには、大いなるうれい、大いなる喜びのために、その鼓動を早めることがないとは云えなかった。陸軍大臣官房の少年給仕高橋喜一たかはしきいちは、少年の敏感さをもって、時としてこの巨大なる脈搏の変調を直感することがあった。
 今日も、高橋少年はその変調をひしひしと身に感じていた。実にただならぬ気配であった。真珠湾しんじゅわん攻撃の歴史的報告がもたらされた時、昭南島しょうなんとう攻略、コレヒドール攻略の快報に接した時、巨人の心臓も流石さすがに大きく脈搏ったのであるが、今日の気配はそれらとは全く種類を異にし、しかもそれらの場合と同じほどの、あるいはそれ以上の重大性を持っているかに直感せられた。もしかしたら、これは喜びの胸騒ぎではなくて、大いなる憂いのためのものではないのかと、一少年給仕すら、全身に脂汗あぶらあせの流れるような興奮を覚えたのである。午後三時頃から、大臣室に隣りする小会議室に何かしらきわめて重大な秘密会議が開かれていた。高橋少年はこの種の会議は列席者が少なければ少ないほど、かえって重大であることをよく知っていたが、今日の会議の列席者はごく少数であった上に、その顔振れが日頃の省内の会議などとは全く違っていることが、ず彼に異様な感じを与えたのである。
 会議室のドッシリと重いならのドアを開き、それぞれ常にない緊張の面持で室内に消えた人々のうち、半数以上は顔見知りの高官であった。陸軍大臣、参謀次長、航空技術本部長、兵器行政本部長、ことごとくが最高の長官ばかりである。
 外に背広服の人が三人、その内の一人は、同僚の少年給仕が失礼にもクスクスと忍び笑いを漏らしたほど風采ふうさいの上がらぬ老紳士であった。五尺に足らぬ小男の上に、少し腰が曲っているので、まるで一寸法師のような感じがした。折目の全く見えぬ羊羹ようかん色の黒の背広、行儀悪く背広の襟をはみ出している鼠色のカラー、今にもほどけ落ちそうなネクタイ、その上に棕櫚箒しゅろぼうきのように伸び放題にした胡麻鹽ごましお頭の痩せた黒い顔が乗っている。何週間もったことがないのであろう、白髪まじりの赤茶けたひげが、頬と頭とをおおい隠し、あまり恰好のよくない大きな鼻の上に、小さな玉の古風な眼鏡が、今にもズリ落ちそうにひっかかっている。どう見ても陸軍大臣と同席する風采ではない。
 密閉された大扉の中で、会議は三時間以上もつづいた。その間、省内の人々は会議室前の廊下に近づくことすら禁じられていた。大臣の秘書官さえも例外ではなかった。これほど厳重な秘密会議は数ヶ月来例のないことである。会議半ば午後五時頃、一度だけ密閉された大扉が開いた。そして、その中へ立入る光栄を与えられたのは高橋少年ともう一人の給仕であった。屋内電話によって、航空技術本部長自身の口から、七人分のサンドイッチと紅茶が命ぜられたのである。
 二人の少年は食堂から、大きな盆にのせた紅茶とサンドイッチを会議室に運んだ。高橋少年は、こういう場合の会議室内の光景に慣れていた。そこには一種のお芝居ともいうべきものが演ぜられているのを常とする。会議の参列者達は、それが真剣な会議であればあるほど、給仕などの入って行った時には、フッツリと密談をやめて、取ってつけたような冗談を取交わし、さも呑気のんきらしく笑い興じているのである。日頃真面目な陸軍大臣の口から、思わず吹き出すような洒落しゃれが飛び出すのは、必ずそういう場面においてであった。
 ところが、今宵は全く様子が違っていた。談話がフッツリ途切れたのはいつもの通りであったが、予期した冗談をいうものは一人もなく、一座はシーンと静まり返っていた。日頃物に動ぜぬ高官達の顔が、何事かただならぬ興奮に青ざめているかとさえ思われた。室内の空気までが、はち切れんばかりに緊張していた。
 その中にただ一つだけニコニコしている顔があった。例の不精鬚の風采の上がらぬ老紳士である。敏感な高橋少年は、一目見たばかりで、一座の中心人物が、陸軍大臣でも参謀次長でもなく、意外にもこの怪老人であることを直感した。ニヤニヤした不精鬚を取り囲んで、六つのいかめしい顔が、緊張に青ざめて微笑だもしない有様は、何だかびっくりするような、途方もない光景であった。
 陸軍大臣は肘掛椅子に深々ともたれ、右手で口髭をおさえるようにして、上眼遣うわめづかいに宙を見つめていた。引締った頬が緊張のためにピリピリ震えているのではないかとさえ思われた。参謀次長はふとった身体を前かがみにして両手を膝につっ張り、じっと老怪人を見つめていた。その大きな両眼が異様に鋭くキラキラとかがやいていた。高橋少年には、それが決して憤りの表情ではなく、驚嘆と歓喜の混り合った表情のように感じられた。
 他の二人の軍服の長官は、申し合せたように腕組みをして、青ざめた顔でじっと前方をにらんでいた。その目の輝きは、おさえても圧え切れぬ興奮を語るものであった。
 背広の二人の人物も、その表情は同様であった。一人は無闇に煙草をふかしていたが、一吸いごとに煙草持つ手を灰皿に叩きつけて、まだたまりもしない灰を落そうとしていた。その手先が、かすかに震えているのが、高橋少年には何か恐ろしいもののように感じられた。
 二人の少年は、自分達の息遣いにさえ注意しながら、うやうやしく紅茶とサンドイッチの皿を配りおわると、追われるように室を出た。室内の緊張が彼等にも感染していたものと見え、楢の大扉を閉めた時には、ホッと溜息が出たほどであった。
 陸軍省の給仕達は、省内の出来事について、何かと噂することを堅く禁じられていた。ことに大臣官房附きの二少年は、高官の前に出ることが多いため、一層厳重なしつけをうけていたので、仲間同士でさえ、心に思うままを口に出すことはしなかった。二人はそのまま何気なく彼等の控室に下った。
 神経質な高橋少年は、その夜自宅に帰って床に入ってからも、会議室の異常な光景を忘れることができなかった。彼の経験によると、そういう重大な会議のあった数日後には、必ず何らかの形で世間を驚かすような発表が行われるのを常とした。あの奇妙な老紳士を取り囲んでの秘密会議は、一体どんな発表となって現われるのであろうと、彼はそればかり心待ちにしていたが、一週間たっても、一ヶ月たっても、それらしい出来事は何も起らなかった。高橋少年にとって、その日の重大秘密会議は永遠の謎であった。

脳髄の断崖


 高橋少年を不思議がらせた老紳士は、会議が終ると、陸軍省の自動車によって、鄭重ていちょうに自宅まで送りとどけられた。
 老紳士は自動車の客席におさまると、何かブツブツひとりごとを云いながら、じっとしていられないように、しきりと身動きをした。果ては狭い車内に立ち上ろうとでもするように、幾度も腰を上げては、天井で頭を打った。自動車が急に曲った時などは、客席の床に尻餅しりもちをついたほどである。
 会議室では老紳士はニヤニヤ笑っているばかりで、興奮していたのは他の六人の高官達であったが、今や老紳士自身が興奮しはじめ、まるで酔っぱらいのようにもがき狂っているのだ。狂いながらも、彼は大事そうに小脇に抱えた大きな折鞄おりかばんを、決して手離さなかった。その中には余程大切なものが入っているのに相違ない。
 車上の人の狂態にはお構いなく、間もなく車は麻布区あざぶく××町の古い屋敷町に着いていた。そして、とある横丁の生垣に囲まれた住宅の、低い石門の前に停車した。表札には、「五十嵐東三いがらしとうぞう」とある。
 自動車を帰すと、老紳士は躍るような足どりで自宅の玄関に辿たどりついた。いつもとはまるで様子の違う主人を、びっくりして出迎えている女中に、
新一しんいちはいるか。ウン、いるなら、すぐわしの書斎へ来るように云ってくれ。大事な話があるからとな。いいか、すぐにだよ」
 といい捨てて、着換えもせずに奥まった書斎へ急いだ。
 しっかり抱えていた大きな折鞄を、ドサリと机の上に置いて、廻転椅子に腰かけたが、腰かけたかと思うと、すぐにまた立ち上って、書斎の中をグルグルと歩き廻る。歩きながら、まるで演説でもしているように、両手を顔の前で振り動かすのだ。
「お帰りなさい」
 開け放しの扉の外に、二十五六歳の青年が立っていた。老紳士とは似てもつかぬ整った顔立ちの、非常に色の白い青年である。銘仙飛白めいせんがすりあわせをキチンと着て、素足にスリッパを穿いている、その足が女のように白くて美しい。
「ウン、新一か。お前に話があるんだ。お母さんはどうしている。寝ているのか」
「エエ、まだとても起きられませんよ。もう二三日は寝かせておかなくっちゃ」
「ウン、あれの持病にも困ったもんだな。しかし、そんなことはマアどうでもいい。お前に話があるんだ。今夜は、お前に一大事を打ちあけなくちゃならん。お前は明日から警視庁の翻訳係をやめるんだ。いいか。そして、わしの助手をやってもらわなくちゃならん」
「エ、勤めをやめるって?」
 新一はあっけにとられて、まるで別人のようにはしゃいでいる父の顔を眺めた。彼は今まで父にこんな躁狂的そうきょうてきな多弁な半面があろうとは、少しも知らなかったのである。
「ウン、マアいいからそこへ坐れ。話があるんだ。びっくりするような話があるんだ。お前がびっくりするばかりじゃないよ。日本中がびっくりするんだ。イヤ、世界中がびっくりするんだ」
 新一は長椅子に腰をおろして、心配らしく父の顔を見つめた。五十嵐氏はその前を行ったり来たりしながら、狂人のように喋べりつづける。
「新一、お前は顔がお母さんに似ているばかりじゃない。心持もお母さんそっくりだ。わしとは顔も性格もまるで違う。何となくうちとけない親子だった。お前とはついぞしみじみと話をしたこともなかった。だが、今夜は何もかも打ちあける。新一、お前もお母さんも、このわしが何者であるか、少しも知ってはいないのだ。むろん、七年前、城東航空機製作所をやめるまでの、工学博士五十嵐東三については、お前達もよく知っていた。しかし、その後わしが何をしていたか、現在のわしが何者であるか、同じ家に住んでいながら、お前達は、まるで知らないのだ。
 わしはこの七年間、お前達からも、友達からも気違い扱いを受けて来た。頭が変になった失職技師として物笑いの的になって来た。世間の凡人共の目には、わしは正に一人の気違い親爺にすぎなかったのだ。彼等には偉大なる夢を理解する力がなかった。彼等は一に二をたせば三だとしか考えられないのだ。それが八にも十にもなり得ることを知らぬのだ。おこがましいことを云うようだが、わしが世間から受けた軽蔑は、コペルニクスが当時の世間から受けた軽蔑と同じものであったのだ」
 新一は目を丸くして、狂ったような父の饒舌じょうぜつを聴いていた。日頃控え目で黙り屋の父が、こんな誇大妄想狂のような熱弁を振おうとは、全く思いもかけぬことであった。夢でも見ているのではないかと、わが目わが耳を疑う外はなかった。
 五十嵐老博士は、まだ長椅子の前を右に左に歩きつづけながら、顔を赤らめ、目を輝かせ、二十歳の青年の情熱をもって、止めどもないお喋べりをつづけるのであった。
「新一、お前は語学の方をやったのだから、数学には暗い。わしの専門のことは理解する力がない。だが、わし達科学者の任務がどこにるかは知っているだろう。それは不可能を可能にすることだ。昔の人間は鳥の飛翔力に憧れた。人間が自在に空を飛び得たらという不可能な夢を抱いた。科学者は、その不可能を可能にしたのだ。
 鳥以上の速さで空を飛び得るようになると鳥などという生物を相手にしないで、今度は音という無生物を競争者とした。世界中の科学者が、音の速度をのりこすために脂汗をしぼっている。人間の力で音の速度をしのいだものは、今のところ砲弾ばかりだが、飛行機は砲弾の早さに憧れているのだ。音よりも早く飛ぶということは、うしろの物音は絶対に聴くことが出来ないということだ。背中で爆弾が破裂しても、その音が聞えないのだ。新一、この意味が分るかね。わしはうしろに音のない状態を創造するために、七年というもの夢中になって来たのだよ」
 老博士はこの時、歩きつづけていた足を止めて、新一に隣り合って長椅子に腰をおろした。白皙はくせき長身の子と、白髪まじりの不精鬚につつまれた異相矮躯いそうわいくの父とは、まことに奇妙な対照である。
 老人が聴手のとなりに腰かけたのは、声を低めるためであった。彼は一大事を打ちあけるかのごとく、突然し殺したようなささやき声になった。
「ところが、そういう苦労をしている間に、一つの奇蹟が起ったのだ。いいかね。凡庸ぼんような科学者の頭はいかに努力しても算術級数的にしか進まないものだ。航空機にのせる発動機の力を一千馬力から千五百馬力、二千馬力とじりじり増して行くということぐらいしか考えつけないのだ。
 しかし、天才的な科学者の頭には、奇蹟がおこる。彼の能力は幾何きか級数的に進む。イヤ、それどころではない、断崖的に進むことがあるのだ。全く常識では想像もおよばないような奇蹟的着想を掴むことがあるのだ。誰でも知っている歴史上の例を上げれば、コペルニクスがそうだ。ダーウィンがそうだ。アインシュタインがそうだ。
 生物の進化は、一から二と算術級数的にじりじり進むものだが、時としては断崖的進化の起ることがある。進化論では、これを突然変異といっているが、それがつまり奇蹟なのだ。その奇蹟が、脳髄の奇蹟が、新一、このわしに起ったのだよ。
 いいかね。わしは音波の速度と競走することをやめて、光波と競走しだしたのだ。むろん、音などとは比較にならぬ速度を持っている光に追いつくことは、まだ遠い夢にすぎないが、かくそこに一つの飛躍が起ったのだ。光と同じ早さで飛ぶということが何を意味するかお前に分るかね。それは飛んでいる当人には、この世の時間というものが無くなることなのだ。し光を追い越す早さで飛べたならば、時間が逆転し出すのだ。歴史がさかさまになるのだ。弾丸たまが的から銃口に飛び帰るのだ。
 あの超遠距離砲を発明したドイツ人が、弾道に成層圏を利用するという着想を得たのは、確かに断崖的飛躍であった。飛行機の速度を増すために通路を成層圏にもとめるという着想も、脳髄の奇蹟の一つだということができる。わしもむろん、それに無関心ではない。しかし、わしの考えは、動力そのものに集中されていたのだ。動力の突然変異だ。わしはその秘密をにぎった。
 わしは砲弾よりも早い航空動力を発見した。もうわしの競争相手は光の外にはなくなったのだ。その機構はお前にさえ、まだ説明する時期ではない。またたとえ説明しても、お前には理解する力がないのだ。わしの頭の中でその機構が完成したのは、一年前のことであった。それを具体的な設計図にあらわすために、半年あまりを要したのだ。わしはも寝ないで、細かい数字と取り組んだ。あらゆる細部を再検討した。あとは、もう試作に着手するばかりとなった」
 老博士の声はいよいよ低く、いよいよ力がこもって来た。
「今から三月ほど前、わしはこの設計図を、極秘の内に航空技術本部の最高技術官に見せたが、その男をすっかり納得させるのに一ヶ月半もかかったのだ。わしはその男の私宅にお百度をふんで、人を遠ざけた部屋で二人さし向いになって、幾晩も議論を戦わせた。細かい数字の計算をやった。その結果、流石に疑い深いその男も、とうとうわしの設計が確実無比であることを承認した。もっとも優秀な専門家を納得させるのにさえ、それだけの手数と時間を要したのだよ。
 わしの設計を確認した時、その男は、本田ほんだという少将の工学博士だが、丁度さいぜんわしがしていたように、わしの目の前で部屋の中をグルグル歩きまわった。そして、何度も両手を振り上げて、えたいの知れぬわめき声を立てたものだ。
 それから、この試作計画を国家が採用するまでに、また一ヶ月半の手間がかかった。本田少将が関係方面の最高首脳者を説得してくれたのだが、誰も急には信用しなかった。それほどわしの新動力は断崖的着想なのだ。不可能の幕が一枚ずつはがれて、可能の実体をつかむために、聴手の頭は一世紀の飛躍をしなければならなかったのだ。
 だが、とうとう今日の最終会議まで漕ぎつけることができた。わしは今日初めて陸軍大臣と参謀次長に会った。お二人とも、わしの着想については、あらかじめ聞いておられたが、何をいうにも専門家ではないのだから、いよいよ採用という決定を見るまでには、ずいぶん手数がかかった。今日も陸軍省の会議室で、三時間もついやして理論の蒸し返しをやったものだ。むろん十分に分っていただくことはできなかったが、航空技術本部長と本田少将の裏書きが物をいって、最後の断案が下された。いくら費用がかかっても構わん、至急、試作に着手せよということであった。
 しかしわしの設計図をそのまま使うわけには行かない。航空技術本部から、機構の細部について、いろいろな註文が出ている。それに全体としての航空機は、決してわしの能力で設計できるものではない。機体設計の専門家の助力をわなければならぬし、成層圏航空の権威者にも参加して貰わなければならぬ。完全な設計図ができるまでには、昼夜兼行でやっても二ヶ月はかかるのだ。その間、わしとわしの共働者のために、長野県の山奥にある或る貴族の別荘が貸し与えられることになった。
 エ、新一、わしがこれほど興奮している意味が分るかね。陸軍大臣が顔色を変えたほんとうの意味が分るかね。わしの動力は、成層圏という無抵抗の通路を勘定に入れないでも、現にどこの国の飛行機でも飛んでいる亜成層圏を通るとしても、東京ニューヨーク間を五時間で飛べるのだよ。五時間だよ。エ、新一、あらゆる細部にわたる精密な計算がこれを確証しているのだ。本田少将がおどり出した意味がここにあるのだよ。
 一千台の新爆撃機が、翼を揃えてニューヨークの空に殺到する日を考えてごらん。ロンドンの空を蔽う時を考えてごらん。国民が快哉かいさいを絶叫する声が聞えるようじゃないか。そこでこのわしが何者であるかということが分ったかね。エ、新一、わしは一体何者だね」
 老博士は椅子から立ち上って、また室内をグルグルと廻りはじめた。目に見えぬ敵に突撃でもするかのように、握り拳を打ちふりながら、いつまでも歩くことをやめなかった。

予感


 老博士の無邪気な若々しい興奮は、それから三十分ほどしてやや下火になっていた。
「ワハハハハ、わしがこんなに快活に身振りをしたり、怒鳴ったりしたのを、お前は物心ついてから見たことがないだろう。わしも今夜は中学生時代に返ったような気がしている。
 新一、わしは今妙なことを思い出したよ。子供の時分、お婆さんから何度も聞かされた昔の富籤とみくじの話だ。千両とかの一番籤に当った奴が、嬉しさの余り気が狂ったという話だよ。非常な喜びは人間を気違いにするものだ。だから、今夜はわしも少々気が変になっているのかも知れない。
 人間の智慧による航空技術が果しもなく進歩するという事は、わば宿命的な必然なのだ。今度の発見にしたって、わしが気づかなければいつかは誰かが気づくはずだ。ただわしは幸運な先鞭せんべんをつけたというまでだよ。だが幸運には違いない。殊にこの世界大戦のさなかに、日本人のわしがそれを発見したというのは、何か厳粛な天意のような気がする。わし自身のことは兎も角、おこがましい云い分だが、国家の一大幸運だ。十時間で地球を一周するという、この新しい飛行速度は、確実に戦局を一変させる威力を持っている。今日も戦術の最高権威者がそれを保証せられたくらいだ。
 目下の戦局を一変させるということは、つまり歴史を変えることだ。新しい歴史を創造することだ。日本の一技術者五十嵐東三が、五尺に足らぬこのみすぼらしい老人が、世界の歴史を作りかえるということになるのだ。エ、新一、わしが少しばかり気が変になるのも無理ではないだろう」
 長椅子の横の小卓に、番茶を入れた大きな湯呑みが二つ並んでいた。いまがた女中に運ばせたものだ。博士はその一つを取って、ゴクゴクと一息に飲み干し、そのまま腕組みをして目をつむって、深々と長椅子に身を沈めた。
 全く聞き役ばかりを勤めていた新一は、この時、同じ長椅子の上で、グッと父の方に向き直って、やや改まった調子で口を切った。
「僕にはまだ、よくのみこめませんよ。僕は科学のことは分らないし、それに夢のように大きな問題なんだもの。しかし、僕はお父さんの言葉をそのまま信じる。そして、そういうお父さんの子である事を誇らしく思います。
 お父さんが永い間、何だかむずかしい科学上の問題と取り組んで、苦しんでいたことは知っています。だが、それがこれほど大きな問題だろうとは誰も知らなかったのです。
 お母さんなんか、世間体を苦にして、いろいろ口やかましく云いましたね。僕だって、心の中ではお母さんに同感していなかったとは云えない。お父さん、勘弁して下さい。すみませんでした。
 お父さんの発明が、世界の歴史を変えるということは、僕のような凡人には、まだ漠然ばくぜんとしか分らない。余り大きすぎて、その意味が掴めないのです。しかし、僕は喜んでお父さんの助手をつとめますよ。警視庁の方へは明日にも辞職願を出します」
「ウン、そうするがいい。わしの助手をやっている内には、だんだん、科学者というものが、どんな風にして歴史を作り変えて行くかということが分って来る筈だ」
 老博士は瞑目めいもくしたまま、静かに答えた。さい前までの躁狂的興奮は、最早もはや全く去ったように見えた。
「ところで、お父さん、僕はさっきから、一つお父さんに注意したいと思っていることがあるのですよ」
 新一は、少し声を落して、真剣な顔つきでいった。
「ウン、何だね?」
「そのお父さんの重大な発明が、敵国に知れる心配はないかということです」
「それは大丈夫だよ。このことを打ちあけて話した人は、お前をまぜて七人しかない。しかもその大多数は、そうだね、七人のうち五人までが、専門家ではないのだから、わしの考案を学問的に理解してはいない。お前もその一人なんだがね。
 残る二人、というのはさっき話した本田少将と、もう一人同じ役所の優秀な技術官だが、この二人は十分わしの発明を理解している。そうでなければ、これが陸軍に採用される運びにはならなかったわけだからね。しかし、この二人の専門家でも、理解はしているが、それなら、わしに代ってこれを設計することができるかというと、そうは行かない。この考案の最も根本的な部分は、わしでなければ分らないのだ。設計図にも現われていない。それがどういう原理にもとづくかということを、ごく抽象的に説明してあるに過ぎない。その抽象原理を具体化するために、わしは丸三年の日子にっしを費している。しかも、ある極めて偶然な幸運がなかったら、到底完成することができなかったほどの難問題なのだ。つまり、この考案の肝腎要かんじんかなめの部分は、わしの頭の中だけにあるのだよ」
「それならば心配はありませんね。しかしたとえ原理だけにもしろ、敵国に知られることは、戦略上からいって、非常な不利ですよ」
「新一、お前は警視庁に勤めたせいか、馬鹿に疑い深いね。陸軍技術関係の最も重要な位置にいる帝国軍人が、国を売るような真似をすると思うのかね」
 新一はそれを聞くと、急いで手を振った。
「イヤ、僕はそんなことを云っているんじゃないのです。お父さんの話をした七人の外に、このことを知ったものが、あるかどうかということです」
「むろん、そんなものがある筈はない」
「お父さん、僕を疑い深いというけれど、お父さんこそ、現代の諜報技術をよく知らないのですよ。諜報技術も科学の一種です。そんなことができる筈はないと思うようなことを、技術の力で易々やすやすとやってのけるのです。不可能を可能とするのです」
 新一は白い頬を少し赤らめて、熱心にいうのである。
「お父さんは、本田少将を納得させるのに一月半もかかったといいましたね。度々その人の家を訪問したのでしょう。そこには家族もいるし、雇人もいる筈です。又、お役所には給仕や小使もいます。そういう人達は、お父さんが話している席へお茶を運んだり、用事で呼ばれたりしたに違いありません。その時、何か重要な会話を小耳にはさまなかったとは云えないじゃありませんか。
 立ち聞きをするという手もあります。専門のスパイなれば、その部屋のちょっと気のつかぬ場所にマイクロフォンを仕かけて、遠くから盗聴することだって出来ます」
 老博士は古風な老眼鏡の中で、目をぱちくりさせた。
「フン、流石は警視庁仕込みだな。だが、仮りに日本人にそういう売国奴がいるとしてもだね。敵国への通信のみちが全く断たれているじゃないか。日本で自由に生活している敵国人なんて一人もいないのだし」
「中立国の外人が沢山いますよ。その中には素姓の曖昧あいまいなのがないとは云えません。それから重慶じゅうけいから潜入して来る支那人もいないとは限りませんからね。
 僕は警視庁外事課の翻訳係を拝命して、まだ一年余りだけれど、その短い間にも随分いろいろな実例を見ました。間諜かんちょうという奴は実に油断のならぬものです。まるで手品師ですからね。どんな小さな隙間すきまからでも入って来るのです。そして忽ち諜報網を張りめぐらしてしまう。今日本に敵国の間諜がいないなんて思ったら、飛んでもない間違いです。有形無形の間諜が、国内の到るところにウヨウヨしているといってもいいくらいですよ」
 老博士は長椅子から立ち上り、曲った腰をグッとのばして、両手を頭の上に振り上げ、体操でもするような恰好をした。
「ウン、分った。分った。わしの記憶するところでは、これまでに盗み聴きなんかされた心配は全くないと思うよ。だが、今後はその点を余程注意しなければならん。その方の専門家のお前が助手になってくれるんだから、マア安心なわけではあるがね」
「エエ、設計のお手伝いは駄目だけれど、その方では、いくらかお役に立つかも知れません。僕もこれからは十分に注意しますよ。僕はさしずめ、お父さんの発明の護衛役ってわけなんですね」
 父と子は顔見合せて、声を立てて笑った。
 老博士は例の大型の折鞄を大事そうに小脇に抱えて寝室へ退いたが、新一は一人あとに残って、長い間、長椅子に腰かけたまま身動きもしなかった。父の発明の重大さがようやく分って来たのであろう。それが地球全体の運命を左右することを、今こそひしひしと感じはじめたのであろう。彼の美しい顔は心もち青ざめ、白い額から恰好のよい鼻にかけて、細かい脂汗の玉が浮かび、うつろな両眼は、眼前三尺の空間を見つめたまま、いつまでも動かなかった。

白堊館の密話


 大統領ルーズベルトは白堊館階上の私室に入って、ぴったりドアを閉めると、赤ん坊のような足どりでヨタヨタと安楽椅子に辿りつき、深いクッションの中へ、ぐったり身を沈めた。ドアの外には、戦争以来うるさくつきまとっている拳闘選手上りの巨大漢が、例の如く腕組みをして、厚い唇をへの字に結んで突立っているにちがいない。だが、部屋の中には誰もいない。大統領はやっとのことでただ一人になることが出来たのである。
 彼はひどく疲れていた。日頃疲れを知らぬことを自慢にしていた彼も、人間の心力、体力には限りがあるという事実を認めないではいられなかった。それに、持病の下半身の小児麻痺が、再び悪化しはじめていた。以前のように車椅子のご厄介やっかいになるほどではないが、長い距離を歩く時は、人杖ひとづえにすがらなければ、転倒のおそれがあった。従来彼はそれを明るい気分で征服し来ったのであるが、今では、時折妙な気持に襲われることがあった。腰から下に全く力がないというこの肉体上の欠陥が、知らずらずの内に彼の精神をも不具にしているのではないかという、通り魔のようなゾッとする不安である。
 彼は大きな椅子の凭れに埋まったまま、両肘を張り、両の握り拳の背を目にあてて、黒ずみゆるんだまぶたを、ゴシゴシとこすった。これは彼の手癖にすぎないのだが、全体の姿勢がぐったりとやつれているので、大統領が子供のように泣き出したのではないかと見誤れるのであった。
 彼の脳髄の整理棚は、あらゆる重要な書類ではち切れそうになっていた。その内から比較的重要でない書類をき出して、破り捨て忘れ去ることが彼の最も大きな仕事の一つとなっていた。でなければ、更に重要な新らしい書類の入れ場所がないからである。
 整理棚の中には、赤紙の目印をつけた書類が幾つかあった。これは彼の脳髄に焼きついたようになって忘れるに忘れられず、異常な圧迫感をもって彼を苦しめている国内国外の諸事実であるが、その中でも「ニッポン」という見出しのあるものは、棚の中で一きわ目立つ圧迫的な書類であった。
 彼は日本の経済力、生産力を軽蔑していた。自国の国民性に引比ひきくらべて、日本人もその点で間もなくをあげるものと思い込んでいた。ところが、最近、各方面から集まって来る秘密情報は、彼のこの確信をぐらつかせるようなものばかりである。経済力の薄弱は、日本国民の奥底の知れぬ忠誠心と忍耐力によって、十二分におぎない得るのではないかという不安が、万事に楽観的な彼の心の隅にも、不吉な黒雲となってモクモクとき上っていた。
 しかし、それよりももっと恐ろしいのは、日本の持つ人間の量と質の問題であった。彼の国では国民の動員がほとんどその極限に達しているのに、日本では二十歳以下の青年は、まだ軍隊に召集されていない。「あの小さな島の中に、十七歳から二十歳までの若者が、全く手つかずのまま、ウジャウジャと無数に待機しているのですぞ」というのがマーシャル参謀総長の口癖であった。その声が今、脅かすように彼の耳朶じだを打っているのである。
 その量よりも質の点に至っては、更に不気味であった。日本人は欧米人の科学では割り切れない何か神秘な力を持っているように思われた。「奴らは死ぬにきまっている場合でも、傍目わきめもふらず死そのものに向かって突進して来るのです。奴らは怪物です。ハラキリを平然として一つの儀式としてやってのける国民ですからね。われわれの心理では想像も出来ない人種ですよ」いつか前線から帰った一将軍が異様に真剣な表情で彼に告げたのが思い出された。
 ルーズベルトはもう一度握り拳の背でたるんだ瞼をこすった。そして、心中の不安を払い除けでもするように、大きな手の平で、椅子の肘掛けをトントンと叩きながら、部屋の中を見廻した。テーブルの上には古代戦艦の模型、壁には舵輪だりんの装飾、額の中はあらゆる時代の船の絵と写真、ヨット遊びやバハマ湾の魚釣りの楽しい記憶がよみがえった。それらの楽しみが遠い昔の夢のように感じられた。この頃ではウォーム・スプリングスの別荘へも、すっかり遠退いている。健康のための温浴水泳さえ心にまかせぬ忙しさだ。
 今宵とても、公式の政務は終ったけれど、まだ寝室へ退くことは出来ない。先程、陸軍長官スチムソン自身、軍の機密局長オブライエン同伴で、重要な報告にやって来るという電話があり、階上の私室で待っていると答えて置いたからである。
 大統領はポケットから大きなパイプを取出し、煙草をつめライターの火を点じた。それをくわえてスパスパやりながら、両手を肘掛けに突張って、不自由な身体を起すと、ヨチヨチと窓際まで歩いて行き、厚いカーテンの合せ目をソッとかきわけて、真暗な庭の芝生を見おろした。
 市中の燈火管制は、対外宣伝の意味もあって、この頃ややゆるめられているが、白堊館のまわりは殆んど空襲管制に近い暗さであった。庭のところどころに燐光燈が薄ボンヤリと光っている外は、墨を流したような一面の闇である。目がなれるに従って、その闇の中に闇よりも黒いものが、あちこちにうごめいているのが見分けられる。大統領の身辺を遠巻きにする護衛兵達だ。
 ルーズベルトはパイプを銜えたまま、チェッと舌打ちをした。何だか大犯罪者が警官隊に取り囲まれてでもいるような、不愉快な錯覚を感じたからである。廊下には拳闘選手が口をへの字に曲げて立っている。階段にも下の廊下にも数え切れない程の護衛がいる。しかも、今待ち受けている相手というのが、軍の機密局長である。明けっぱなしな大統領は、そういう圧えつけられるような雰囲気が大嫌いであった。
 少しイライラしはじめた頃、ようやくドアが開いてスチムソン長官が、四十五六歳のひどく背の高い痩せた男をともなって入って来た。両人とも背広姿であった。大統領はうやうやしくたたずんでいる機密局長の顔をじっと見つめた。むろん顔見知りではあるが、直接口を利いたことは殆んどなかったので、人伝ひとづての噂以上に彼の人物を知っているとは云えなかった。痩せ細った鋼鉄のような感じの男であった。
「一時間前、機密局は例のF3号から、重大な通信を受取ったのです。そのことをオブライエン君の口から直接お耳に入れておきたいと思います」
 スチムソン長官は大統領に近よって、殆んどささやくような声で云った。
「F3号というと、東京のですね」
 ルーズベルトは椅子に戻りながら、やはり小声で聞き返した。全世界に散在するアメリカ諜報機関の中でも、F3号というのは特別の意味を持つ重要な人物であることを、彼はしばしば聞かされていたのである。
 それから、三人は部屋の中央に鼎坐ていざして、たとえ壁やドアに耳があっても聴き取れぬほどの小声で話しはじめた。先ず恭しく口を切ったのは機密局長オブライエンであった。
「日本の航空科学が予想以上に進歩していたことは、われわれの一驚するところですが、今日の暗号電報はさらに驚くべき事実を報じてまいりました。民間科学者の中から恐るべき人物があらわれたのです。その男の数年間にわたる苦心の考案が日本陸軍に採用され、彼は陸軍の数名の科学者と共に山中にこもって、設計図を作製しつつあります。試作機の着工も遠くないというのです」
「性能は?」
 大統領は、太い指でしきりと耳たぶを引っぱりながら、顔をしかめて訊ねた。
「東京ワシントン間を五時間で飛ぶというのです」
「五時間?」
 ルーズベルトは耳たぶをもてあそぶことをやめないで、一層顔をしかめ、よく揃った大きな歯並を見せて、きしるような声を出した。
「そうです。少くともF3号の電文はそれを確言しております。F3号がどういう人物であるかは、閣下も御存じのことと思います。彼はかつて嘘を書いたことがありません。われわれが成層圏爆撃機を完成しない間に、日本人の魔法使いめが、それ以上のものを考え出したのです。発明の要点は動力にあるのだと書いてあります。詳しいことはむろん分りません。私の機密局にいる若い科学者は、ロケットの外にそういうものはあり得ないと云っていますが、ロケットかどうかは分りません。何にしても驚くべき速力です」
「その電報の経路は?」
 大統領はこの夢のような報告を容易に信じようとはしなかった。
「いつもの通り、中立国経由の暗号電報です。S市駐在のH三十二号が中継しております。F3号の発信に間違いありません」
「フーン、それで、長官はこれをどう考えられるのですか」
 大統領は膝に肘をつき、拇指おやゆびと人差指で大きな顎をささえるようにしながら、持前のふてぶてしい顔つきになってスチムソンを見た。彼は多年の習練によって、自己に不利な情報を受取った場合には、傲岸ごうがんな落ちつき払った微笑を浮べる術を会得していた。今もその微笑が彼の口辺にただよっているのである。
「まだ実物が出来上ったわけではありません。設計が机上の設計のみにおわる場合があることは、われわれもしばしば経験しているところです。しかし、このF3号はいつもお話ししている通りの特殊な人物です。彼が嘘を云ったことは一度もありません。また彼の電文によれば、日本の最高技術者がこれを認め、陸軍がこれを採用したというのですから、決して油断はできません。日本人という奴は、実に奥底の知れぬ不気味な国民です」
 陸軍長官のつぶらな目の奥に一抹の恐怖の色が見えた。すべての欧米人が日本にたいして抱く一種神秘的な恐怖感が、今この老政治家の心をも支配していたのである。
「で、F3号への返電は?」
 大統領は少しも表情を変えないで、簡潔に訊ねた。
「むろん指令を与えなければなりません。私はそのお指図をうけたまわるために参ったのです」
 機密局長が例の恭しい口調で云った。
「ウム、よろしい、あらゆる手段を講じて、その設計図をワシントンに送る。もしそれが不可能ならば、設計図その他の関係文書をことごとく灰にしてしまう。むろん考案者およびその秘密に関与した人間は天国に行かなければならない。地上から抹殺されなければならない。長官、これがわたしの考えです」
「同感です。しかし、大任ですね。F3号は今度こそ命がけの任務を授かったわけです」
 陸軍長官は厳粛な表情になって大統領の顔を見つめた。
 オブライエン局長はこの指令を手帳に書き取るような愚かな真似はしなかった。ただその意味を正確に復唱したのち、急いで事務室にかえるために立ち上った。陸軍長官も立ち上った。大統領も両手を椅子の肘掛けにつっぱって、やっと身を起した。そして、例のふてぶてしい微笑を浮べたまま、無言の内に両人に握手をあたえ、彼らを見送るように、赤ん坊の歩き方でヨタヨタと足を運んだ。
 陸軍長官と機密局長とはドアの方に進んでいたので、その時何が起ったかを理解することが出来なかった。彼等は突然ドシンという鈍い物音を聴いた。それにつづいて、恐ろしく甲高い笑い声が爆発した。
 両人はギョッとして、その方を振り向かないではいられなかった。すると、彼等のすぐうしろ、華美な絨毯じゅうたんの上に、大統領ルーズベルトの巨体が、ぶざまに尻餅しりもちをついている途方もない光景が眺められた。
 二人は大急ぎで大統領の両脇に近づき、その巨体を抱き起そうとしたが、彼は「大丈夫、大丈夫」と大きな手を振って見せながら、てれかくしの哄笑をつづけた。足部小児麻痺によるこの失策が、おかしくておかしくてたまらないというように身もだえをし、真赤な顔になって、よく揃った大きな歯をむき出し、狂気のように笑いつづけるのであった。

暗影


 五十嵐老博士の大いなる夢は、実現に向かって順調なる歩みをつづけていた。陸軍省の斡旋あっせんによって長野県上田うえだ市より程遠からぬ××温泉の裏山にある某貴族の別荘が借り入れられ、老博士を首班とする秘密設計班の人々が、その広い建物を独占していた。
 老博士の助力者として航空技術本部の木本きもと工学博士、大学助教授みなみ工学博士の外に製図専門の技師二名、その護衛役としては老博士の子息新一青年、憲兵隊司令部から特に派遣せられた私服の下士官二人、炊事係りには、南工学博士の若い妹さんと村の娘が二人、別荘番の爺やという、合せて十二人の同勢であった。
 五人の科学者がこの山奥に隠れて、昼夜兼行の大仕事に没頭していることは、陸軍最高首脳部の数名の人々の外は誰も知らなかった。家族達も主人の居所を知っているばかりで、その仕事の性質については、無論一言も漏らされてはいなかった。彼等はまったく世間との交渉を絶ち、浮世を離れて設計三昧の日夜を送っていたのである。
 別荘中でも最も広い洋室が設計室に選ばれ、そこへは五人の科学者と新一青年以外は、誰も入ることを許されなかった。設計室の片隅にはわざわざ都から運ばれた中型金庫が据えつけてあって、重要書類はことごとくその中に納められ、文字盤の暗号は老博士と新一だけが知っており、鍵は新一が預かっていた。
 この秘密設計班が仕事をはじめてから一ヶ月ほどたったある午後のこと、別荘の裏山の見晴し台に、一組の美しい男女が、満山の紅葉に包まれて語り合っていた。男は五十嵐新一青年、女は少壮科学者南博士の若い妹京子きょうこさんである。二人は一行中での年少者として親しみを感ずることも深く、当の設計の仕事に直接関係がないために時間の余裕もあり、自然語り合う機会も多く、この一ヶ月の間にすっかり仲好しになっていた。
 満山の紅葉の斜面を越えて、遙か目の下には温泉宿の瓦屋根、板葺いたぶき屋根の一かたまりが小さく眺められ、その側を流れる渓流をさしはさんで、直ちに前方の山々が同じ紅葉の錦に覆われて重なり聳えていた。見晴し台と温泉村のほぼ中間、少し右手寄りの山の中腹に、古風ながっしりした建築の西洋館がただ一軒、紅葉の中からぬっと浮き上って見える。これが五十嵐博士一行のたてこもる某貴族の別荘である。
 見晴し台は温泉客のために山の中腹を切り開いた百坪ほどの狭い平地で、中央にささやかな四阿あずまやが建っている。新一と京子とはその四阿の板の腰掛けに国民服と甲斐甲斐しい紺飛白こんがすりのもんぺ姿を並べて、眼前の眺望をほしいままにしながら語り合っているのである。
 会話が少し途切れた時、新一は夢見るような眼差でじっと青空を見つめていたが、そのまま視線を動かさないで、独語のように喋べりはじめた。
「京子さん、あなたには見えませんか、あのすばらしい爆撃機の大編隊が。空の果てを飛んでいるのです。機体はほこりのように小さくしか見えません。しかしその数は蚊柱かばしらのように無数です。空一面を覆って、東へ東へと飛んでいるのです。爆音も蚊柱の唸りほどにしか聞えません。それ程高度が高いのです。僕はそのかすかな爆音を聴きとることができます。京子さん、耳をすましてごらんなさい。ホラね、聞えるでしょう。幽かな幽かな音です。しかし、今に全世界を驚倒せしめる力強い唸り声です。今から数時間の後、あの蚊柱はニューヨーク、ワシントン、それからロンドンの空を黒雲のように覆い尽すのです。そして、その下の大都会は一瞬にして廃墟と化するのです。僕は毎日毎日、東へ東へと驀進ばくしんする大編隊の無数の埃のような幻を見るのです。蚊柱のような唸りを聴くのです。ハハハハハハ、むろん幻ですよ。しかし、それは父の発明が完成すれば、実際この目で見、この耳で聴くことのできる幻です。京子さん、分りますか、この驚くべき意味が」
 聴いている内に、京子の長いまつげに覆われた美しい眼も、夢見るようにうるんで行った。彼女もまた天の一方にその幽かな蚊柱を見、唸り声を聴いていたのである。
「エエ、分りますわ」
 僅か一言の答えであったが、彼女がどれほど新一の幻想に共鳴し感動していたかは、彼女の目がそれを語っていた。そこには隠そうとしても隠し切れぬ涙が水晶のように光っていた。
 感動が静まるまで、二人は黙って空を見上げていた。永い間一言も口を利かなかった。しかし、やがて、京子の晴れやかな頬に不安に似た影がさしはじめ、それが少しずつ深まって行った。彼女は云おうか云うまいかと、しばらくためらっているように見えたが、遂に思い切って口を開いた。
「新一さん、あなたおからだが悪いのじゃありませんの。気のせいかも知れませんが、あなたは、初めてここでお会いした頃から見ると、なんだかお痩せになったようよ。元気にはなすっているけれど、どこかしらお顔の色がすぐれませんわ。御病気か、そうでなければ何か御心配があるのじゃないかと、あたし、心がかりなものですから……」
「エエ、あなたがそれを気にしていて下さることは、僕にも分っていました。京子さん、これにはわけがあるのです。まだ父にも打開うちあけていない不安があるのです。母も知りません。母は二三日前から別荘に来ていますが、父の世話で手一杯なものですから、僕の顔色など気にしている余裕がないのです。京子さん、あなただけですよ。僕のことをそれ程気にしていて下さるのは。……ありがとう。……だから、そのあなたの好意にむくいる意味で、僕はこの秘密を先ずあなたにうちあけます。ここなら誰も聴く者はありません。安心してお話ができるのです」
「マア、やっぱりそうでしたの」
 京子は眉のあたりに皺をよせて、新一の顔を覗き込むようにしながら、思わず身をすり寄せるのであった。
「京子さん、驚いてはいけませんよ。僕らは敵のスパイに狙われているのです。どこから漏れたか、父の仕事が敵側のものに気づかれたのです。そうとしか考えられないような事が度々起るのです」
 新一は真剣な低い声で云った。
「マア」
 京子はびっくりして、軽い叫び声を発したが、急には信じられない様子で、ただ新一の顔を見つめるばかりであった。
「僕は警視庁の外事課に勤めていたので、よく知っているのですが、敵の諜報網は、厳重な監視の目を潜りぬけて、日本全国に張りめぐらされているのです。いかなる力をもってしても、それを根絶することは出来ないのです。敵国人が殆んど日本から退去した今でも、憲兵隊や外事課が忙しく活動しているのはそのためです。
 もっとも、僕はまだこの辺で敵のスパイを見たわけではありません。ひょっとしたらおもいすごしかも知れません。しかし、僕の直覚がそれを感じるのです。絶えず何者かにつき纒われているような不安を覚えるのです。
 十日程前の昼すぎ、僕は自分の部屋に入ったとき、それを感じたのです。僕の部屋を家探しした奴があるなと感じたのです。品物が取り乱されていたわけではありません。すべてのものがキチンとしている。しかし、僕が部屋を出た時とは、物の置き場所や置き方が、ひどく違っているのです。僕はみんなにそれとなく、僕の部屋に入って物を動かさなかったかとたずねて見ましたが、誰も入った人はありません。部屋の掃除は朝早くすんでいるのですから、これとは無関係です。
 そういうことが、今日までに三度ほどありました。あなたもご承知のように、僕は金庫の鍵を持っているのですからね。僕の部屋が家探しされたというのは、決して何でもないことではありません。それ以来僕は絶えず身辺に影のようなものを感じているのです。姿のない敵を意識しているのです。
 むろんそれだけではありません。もっと外にも怪しいことがあるのです。一昨日はそいつの足跡らしいものを見たのです」
「エッ、足跡ですって」
「そうです。われわれ別荘にいる者は誰も穿いていない型の靴跡です。それが設計室の窓の外についていたのです。僕はその靴跡の紙型をって保存してあります。別荘には塀があり門があるのですから、温泉客や村人がむやみに入って来る筈はありません。何か目的があって忍び込んだ奴の足跡です」
「マア……」京子は大きく目を見はったまま二の句がつげなかった。
「しかも、そいつは足音も立てないで、僕の身辺につき纒っているような気がします。時とすると、僕はそいつの息遣いさえ聴くのです。ハッとしてあたりを見廻しても、むろん誰もおりません。しかし、どこか物の蔭から僕をじっと見つめているのです。今でも、僕はそいつがごく近くにいるような気がします。……ごく近くに、……ごく近くに……」
 新一は同じ言葉を夢見るように繰返くりかえしたきり、黙り込んでしまった。彼の目はどこか遠くを見つめたまま、釘づけのように動かなくなった。そしてその目が段々大きく見開かれて行った。顔の筋肉が異常にひきしまって行った。
 京子は何かしらゾッとして、恐る恐る新一の視線を辿って見た。新一は目の下の別荘の屋根を見つめているらしく思われた。京子もそこを見た。するとハッと息を呑むような異様な光景が眺められた。
 別荘は古風な建て方の西洋館で、スレート葺きの屋根の上に、長方形の煖炉の煙出しが、ニューッと突出していた。その四角な煉瓦れんが造りの煙突の中から、今、一人の黒い洋服を着た男が、這い出しているのである。
 別荘ではむろん煖炉など焚いていないので、煙突掃除夫が来ている筈はない。そうかと云って、別荘の人々の中に、煙突の中をもぐるような酔狂すいきょうな人物がいようとは考えられぬ。見晴台から別荘までは一町以上もへだたっているので、その男の顔などは到底見分けられないが、全体の姿が別荘の人でないことは一目で分った。むろん爺やでもない。
 アア、新一の直覚は正しかったのだ。何者かが煙突から屋内に忍び込み、何事かを行って、今立去ろうとしているのだ。
 黒服の男は煙突を這い出すと、猿のように屋根の上を走って、たちまち向う側に姿を隠してしまった。煙突の中から半身を現わしてから、全く姿の見えなくなるまで、ほんの十数秒間の出来事であった。
「京子さん、あなたはあとからいらっしゃい。じゃ失敬します」新一は急がしく云い捨て、もう駈け出していた。たとえ今からでは間に合わぬまでも、敵の姿を見て、じっとしているわけには行かなかったのだ。
「待って。あたしも一緒に……」京子は脅えた声で叫んで、新一の後を追った。この淋しい山中に唯一人取残されることを恐れたのである。
 新一はその声に振り返りもしなかった。弾丸だんがんのような早さでつづら折の坂道を駈けおりていた。そして、追いすがる京子の視野から、忽ちその姿を消してしまった。
 京子は一人ぼっちで走る外はなかった。息を切らせて走った。すぐ背後うしろから、何か恐ろしいものが追い駈けてでも来るように、ひた走りに走りつづけた。

敵国の触手


「新一さん、どうかされたんですか。何かあったのですか」新一が息せききって、門を入り、母屋へと走っている横手から、体格のよい背広服の若者が、大声に呼びかけた。五十嵐博士一行を護衛するために出張している私服憲兵下士官の一人である。
「アア、あなたは気づきませんでしたか。今し方怪しい男が屋根から逃げたのです。見晴し台からそれが見えたのです」
「え、屋根から……」
「そいつは煙突から這い出して、屋根伝いに逃げたのです。設計室の煖炉の煙突です」
「アッ、煖炉の煙突。で、そいつはどちらへ逃げました」
 憲兵は警視庁外事課出身の新一を信用していた。この青年がこれほど顔色を変えているのは唯事ただごとでない。しや……
「スパイの疑い十分です。裏口の方へ逃げたらしいのです。こちらへ来て見て下さい」二人は西洋館の横手を裏門の方へ走った。新一は地面に鋭い目を注ぎながら走っていたが、炊事場の横手に来ると、ハッとしたように立止った。
「アッ、これだ。靴下の足跡です。といを伝って屋根から降りたんです。そして、ごらんなさい、この足跡はあの塀のところまでつづいている。塀を乗り越えて逃げたんです」
 二人は、その煉瓦塀の側に行って調べて見たが、新一の判断は間違っていなかった。低い煉瓦塀に、泥足のすべった跡が歴然として残っている。すぐ向うに裏門があるが、そこには人目のあることをおそれたのであろう。
「あなたはこいつを追って下さい。恐らく温泉村の方へ逃げたに違いありません。僕はみんなにこのことを伝え、設計室を調べて見ます」
「承知しました。では後のことは頼みますよ」
 専門家の二人には、くどい問答は不要であった。憲兵のたくましい姿は忽ち飛鳥ひちょうの如く裏門に走り、外の小径へと消えて行った。それは丁度設計班の人々の夕飯時であった。毎日四時半には一度仕事を中止して、入浴の後食卓につき、一休みしてから又夜の仕事に取りかかるのが日課になっていた。曲者くせものはその食事時を狙って、空っぽの設計室を襲ったのかも知れない。
 新一は勝手口から屋内に飛び込むと、階下の食堂に走って、ドアを開いた。
「みなさん、今怪しい奴が暖炉の煙突から設計室へ忍び込んだらしいのです。設計室には誰もいなかったのでしょう」
「誰もいない。二十分ほど前から空っぽだ。だが見張りがいる。山下君がいつもの部屋から、見張っている筈だ」五十嵐老博士が叫ぶように答えて、もう立ち上っていた。山下というのは今一人の憲兵下士官である。
「ところが、曲者は廊下を通らなかったのです。煙突から忍び込んだのです」
「馬鹿なッ、設計室の暖炉はちゃんと板で塞いである。忍び込める筈はない」
「とも角、行って調べて見ましょう」
 新一はそのまま裏階段を駈け上った。食堂の人々も捨てておくわけには行かず、五十嵐博士を先頭に、それにつづいた。階段を登った所に山下憲兵の小部屋がある。その部屋の扉を開けば、設計室前の廊下を一目で見渡すことができる。扉はいつも開いたままである。
「山下君、われわれが食事に降りてから、この廊下を通ったものはありませんか」
 南工学博士が部屋を覗きこんで訊ねた。京子の兄さんである。
「誰も通りません。自分は絶えず見張っておったですから、間違いありません」山下憲兵伍長が椅子から立ち上って、明瞭に答えた。
 その時新一は既に設計室の扉を開き、室内に入っていた。すぐ後ろから父老博士が続く。
「お父さん、あれをごらんなさい。僕の想像した通りです」指さすところに、巨大な暖炉が口を開いていた。大理石の堂々たる暖炉棚、その上部の壁にはめ込みになった大鏡、明治時代に建てられたこの洋館には、古風な本格の暖炉が設けてあったのだ。だが、別に蒸気暖房が設備されて以来、この石炭暖炉は、単なる装飾の役目を勤めているに過ぎなかった。
 何者の仕業しわざか、暖炉の前に立ててあった衝立ついたてはわきにのけられ、焚口が露出していたが、その中に、板をうちつけた枠のようなものが、半ば壊れて垂れ下っているのが見えた。風よけのために、暖炉と煙突の境に取りつけてあった隔壁が、無残に踏みぬかれていたのである。
「やっぱり、あいつはこの広間へ入ったのです。昔の西洋の泥棒のように、煙突から忍び込んで、又そこから逃げ出して行ったのです」
 新一のうしろから、老博士も暖炉の中を覗きこみ、新一の判断の間違いないことを確めたが、思いもよらぬ出来事に、ただあっけにとられて、暫くは茫然と立ちつくすばかりであった。
 だが、やがて老博士の心中に、突如として恐ろしい不安が湧き起った。博士の目は室の片隅に据えてある金庫に釘づけとなった。その中に例の黒の大型折鞄が入っている。鞄の中には博士が七年間の苦心を圧縮した構想とおびただしい計算のノートが充満しているのだ。他人が見ても判断の出来ない記号のようなノートだから、盗み出した奴に取っては大した値打ちもないけれど、博士自身には命に換えて大切な記録である。
 博士は猛然として金庫に飛びついて行った。昨日の午後以来、博士達の仕事は、折鞄の中のノートを必要としなかった。金庫の鍵はかけたままになっている筈だ。博士は把手ハンドルを廻して見た。把手はカチッと音を立てて回転した。引く手につれて、重い扉が音もなく開いた。鍵はいつの間にか外れていたのだ。扉が開ききった。中は空っぽである。折鞄は影も形もない。
 博士は把手を放してヨロヨロとよろめいた。だが、一同の中で、新一青年だけは少しも驚きの色を見せなかった。
「お父さん、大丈夫です」
 彼は、父を力づけるように大声に云っておいて、部屋の一方の安楽椅子に近づいて行った。革張りの大きな安楽椅子である。新一はその椅子の革のクッションに両手をかけると、グイグイと引きはがすように、それをとり外してしまった。この椅子は二重クッションになっていて、普通のクッションの上に、もう一つ厚い革蒲団のようなものが填め込みになっているのだ。
「や、誰がそんなところへ……」取外したクッションの下に大きな折鞄が隠されているのを見て、老博士は再び驚きの目をみはった。
「僕です。こういうこともあろうかと思って、僕が鍵を預かっている間、金庫はいつも空にしておいたのです。こんな単純な金庫など、その道の玄人くろうとは、鍵がなくても、文字盤の組合せを知らなくても、何の造作もなく開くことができます。現に昨日鍵をかけておいた金庫がこうしてちゃんと開かれているのですからね。僕は数日前から、何者かがこの部屋を窺っているらしい気色けはいを感じていたのです。そして相手はこの金庫を狙っているということが、僕にはよく分っていました。だから、わざと鞄を誰でも手の届く椅子の中へ置きかえて、金庫は空にしておいたのです。この大切な鞄がクッションの下などに隠してあろうとは、如何に老練なスパイでも、一寸想像もつかないでしょうからね」若い新一は得意の面持を隠すことが出来なかった。
「え、スパイだって。それじゃお前は、これをスパイの仕業しわざだというのか」
「そうとしか考えられません。この建物の持主はお金持でしょうが、今ここを占領しているのは、金に縁の遠い学者ばかりです。その学者が持ち込んだ古金庫の中に、これほどの冒険に値する大金が入っていよう筈はありません。それに遣り口が普通の盗賊とは違っています。曲者はお父さんの設計事業を妨害しようとしているのです。発明を盗もうとしているのです」
「だが、どうしてそれが分る。この発明のことを知っている者は、日本中に数人しかいない。しかもれっきとした高官ばかりだ。スパイの嗅ぎつける隙は少しもなかった筈だ」
「だから、猶更なおさら恐ろしいのです。奴のやり口には、何だか途方もない、けたはずれなところがあります。決して尋常の敵ではありません」
 新一は何者かに脅えるような目つきをして、真剣な調子で云うのであった。で、期せずしてそこに盗難対策、或はスパイ対策の会議が開かれた。三人の学者と二人の技師とは、或は長椅子に腰かけ、或は立ちはだかったまま、一時間余りもこの問題について語り合った。
 航空技術本部の木本博士は、余り口を利かなかったが、新一のスパイ説に同意していることは明かであった。若い助教授の南博士は雄弁に説を立てた。彼は間諜技術について一見識を持っていた。それは一つの科学であるといい、これを防ぐのにもまた科学的頭脳を要することを説いた。結局南博士もスパイ説にくみしたのである。
「だが、こんな山奥に敵国人が入り込んだら、忽ち発見せられるではありませんか。それともあなたは、日本人の中にそんな売国奴がいるとでもいうのですか」
 五十嵐老博士はむきになって反駁した。
「イヤ、間諜組織というやつは、そんな単純なものではありません。必ずしも敵国人がここへ入り込んでいなくても、その手先を勤める黄色人種がいないとは云えぬし、日本人にしても情を知らずして敵の薬籠中やくろうちゅうのものとなっている者がないとは限りません。間諜はあらゆる手品を使い、あらゆるカラクリを用いるのです」
 南博士は新一と同じような説を吐いた。
 一同が間諜問答を繰返している席へ、曲者の足跡を追った憲兵曹長が帰って来た。その報告によると煉瓦塀の外は石ころ路のため足跡を追跡することは出来なかったが、一応温泉村まで降りて駐在所の巡査に事の次第を告げ、本署の応援を乞い、温泉客のうちに不審の人物がいないか、厳重に取調べてくれるように依頼して帰ったということであった。この日から五十嵐博士一行の設計班は、専門の仕事の外にこの山間僻地へきちにまで伸び来った敵国の触手を、まざまざと身辺に感じながら、目に見えぬ犯人との恐るべき戦闘状態を続けなければならなかった。

破局


 警察署による温泉村の捜索は全く徒労に終った。村人の中にも、温泉客にも、これという不審の人物は発見されなかったのである。
 だが、敵は立ち去ったのではない。この土地に入り込んだ何等の形跡がないと同様、立ち去った形跡もないのである。目には見えなくても敵はすぐ近くにいると考える外はなかった。現にその後そういう徴候を屡々しばしば目撃しなければならなかったのだから。若し間諜に狙われているとすれば、設計本部を他に移してはとの説も出たが、この山奥をさえ嗅ぎつけた相手だから、いくら場所を変えても無駄であろうという意見が勝を占めた。この上はいやが上にも警戒を厳重にする外に手段はない。憲兵隊司令部の主任将校と電話による打合せによって一挙に五名の憲兵下士官が増派され、別荘は俄かに賑かになった。合せて七名の憲兵が昼夜交替制で設計室を守るのだ。無論煖炉には[#「煖炉には」は底本では「暖炉には」]頑丈な隔壁が設けられ、煙突からの通路は完全に遮断せられた。窓の下の庭園には絶え間なく憲兵の立番がある。ドアの外の廊下にも二人以上の見張り番が頑張って、ありの這入る隙間もない。
 土地の警察署も傍観していたわけではない。別荘のまわりには絶えず警官を巡廻させ、一方温泉村をはじめ附近の部落には綿密な捜査を行うなど、及ぶ限りの手段を尽したにもかかわらず、犯人を発見することが出来なかったばかりでなく、敵はこの厳重な警戒網を潜って、屡々設計室を襲いさえしたのである。
 ある時は、夜の間に設計室の窓ガラスが切り破られ、留金を外して何者かが室内に侵入した形跡が発見せられた。又ある時は、廊下に寝ずの番をしていた憲兵が、多量の睡眠剤を呑まされて、明け方まで前後不覚に熟睡していたこともあった。睡眠剤は宵のうちに炊事係の村の娘によって運ばれた紅茶の中に混入されていたことが分ったが、それが何者によって、いつの間に投入せられたかは全く不明であった。
 だが、老博士の例の折鞄はその都度安全であった。新一がその鞄の置場所を絶えず変えることに精根をつくしていたからである。金庫はもう頼りにならなかったので、彼は毎日のように違った隠し場所を選んで、重要書類の安全を計った。その隠し場所の秘密については、父の老博士すらも全くあずかり知らなかった。必要な際に新一がそれをどこからか持ち出して来るのを見るばかりであった。一行のうち憲兵を除いて、間諜防禦戦に最も深い関心を持っていたのは、新一青年と南博士であった。したがって二人はこの問題について意見を戦わす機会が多かった。
「不思議だ。憲兵隊と警察とがこれ程警戒し、捜査しているのに犯人は出て来ない。イヤ、確かに出ては来るのだが、これを捉えることも、目に見ることさえ出来ない。君はこれをどう思いますか。全く馬鹿馬鹿しくなりますね」
 南博士が腹立たしげにいう。博士は妹の京子に似て目鼻立の整った好紳士である。航空機製作技術界の一権威であるが、年はまだ三十七歳、少壮気鋭の科学者だ。
「馬鹿馬鹿しいのではなくて、恐ろしいのです。何だか途方もないカラクリがあるのじゃないかと思うと、僕は時々ゾッとすることがあります。南さん、あなたはこの別荘の中に当の敵がいるのじゃないかと、疑って見られたことはありませんか」新一が声を低くしていう。
「別荘の中に秘密の隠れ場所でもあるというのですか」
「イヤ、そうじゃありません。この別荘は何だか秘密の地下道でもありそうな感じですが、それとは別のことです。僕のいう意味は、われわれ一行の内か雇人の中に当の相手が何食わぬ顔をして混っているんじゃないかという考えです」
「ホウ、妙なことを考えていますね。すると、僕等設計の仕事をしている五人、その中にはあなたのお父さんも入っている、それから憲兵が七人、私の妹と村の娘が二人、別荘番の爺や、それからあなた、今はあなたのお母さんも滞在していられる。都合十八人ですね。この中の誰かが敵国の間諜を勤めているというわけですか。ハハハハハハ、みんな日本人ですよ」
「日本人でないものがいるかも知れません。日本語を使い、日本人の作法を心得ている者が、必ず日本人とはまっていませんからね」
「ウン、成程、途方もない着想だ。あなたは本気でそう考えているのですか」
「イヤ、考えているのではありません。そういうこともあり得るというのです。外部をこれ程捜索しても何物も発見できないとすると、こんな風にでも考える外はないじゃありませんか」
「で、あなたはその十八人の人達を一人一人研究しているのですか」
「エエ、研究しているのです」
 新一は口端に微笑の影を浮かべて、意味ありげに答える。
 南博士の妹の京子は、二人のそういう会話に加わることもあった。彼女は別に意見を吐くのではない。ただ不安らしい顔をして二人の恐ろしい話を聴いているばかりである。京子は顔色がよくなかった。新一の頬に痩せが目立つにつれて、彼女の面ざしにも窶れが加わって行くように見えた。しかし、一方では設計の事業が着々として進捗しんちょくしていた。陸軍省の肝煎きもいりによって、××温泉場から程遠からぬ新設航空機工場の一部が五十嵐超高速機試作のために提供せられ、工作機械、工員などもすっかり準備が整っていた。その工場の製図室には三十人の腕利きの製図技手が製図板を並べ、夜を日についで仕事を進め、製図の完成した部分品は直ちに外部に註文が発せられ、その製品がボツボツ工場に到着しはじめていた。
 これという出来事もなく日がたって行く。見えぬ敵はここ数日鳴りをひそめていた。再三の攻撃に何の得る所もなく、防禦軍の鉄壁の陣に辟易へきえきして敵は旗を捲いて退散したのかとさえ思われたが、実は決してそうではなかった。彼は最後の攻撃準備に時を費していたのだ。敵は従来とは全く異った角度から、無謀残忍な突撃を敢行し、遂に事態を凄惨きわまりなき破局へと導いたのである。煙突事件から二十日ほど後のある夜更けのこと、南京子はただ一人別荘の庭の芝生にたたずんで、物思わしげに月を眺めていた。空には雲の影さえなく、満月に近い月が寒々と輝き、前面の山々に異様なくまを作っている。あたりは溢れるような虫の声、遙かに谷川のせせらぎの音、荒寥こうりょうたる秋の夜景である。
 憲兵の見張りは、この夜更けにも任務を怠らず、芝生の彼方にクッキリと黒い影を引いて、靴音も立てず、灰色の幻のように往き来しているのが眺められた。
「京子さんじゃない」ハッとして振り向くと、月光の中に新一の白い顔が浮き上って見えた。
「マア、新一さん、あなたも眠れませんの」
「妙に目が冴えて寝つけないので、少しその辺を歩いて見ようかと思って」
「あたしもですわ。何だか胸騒ぎがして、床の中に入る気になれませんのよ」
「怖いような月夜ですね」
「エエ、怖いような……」二人はゾッとしたようにお互の目を覗き合った。
「あすこに憲兵さんがいます。裏の方にもう一人見張り番をしている筈です。何も怖いことはありません」
「エエ、それは分っていますわ。でも……」
 京子はそのまま言葉を切って、静かに歩き出した。まだモンペ姿のままである。新一の国民服と仲よく影を並べて、二人は段々建物を離れて行く。
「あなたは、明日の朝早く、憲兵隊司令部の望月もちづき少佐がここへ来られるのを知っていますか」
「いいえ、ちっとも。……やっぱりあのことについてですの」
「そうですよ。あなたの兄さんと相談して、一昨日電話をかけたのです。父の仕事は今一息で完成するところまで漕ぎつけました。ここ十日ばかりが最も大切な時期です。敵がこの時期を失すれば、もう万事終るのです。それだけにわれわれとしては、この十日が非常に心配なのですよ。そこで、こういうことについては一番ハッキリした考えを持っておられる兄さんと御相談して、望月少佐の出張を願うことにしたのです。僕が警視庁にいた頃、少佐とはよくお会いして懇意にしていたので、打ちとけて相談ができたわけです。少佐の方でも父の仕事がこの戦争についてどういう意味を持っているかということを大方は知っておられるので、実は自分も一度出かけたいと思っていた所だというので、すぐに話が纒まったのです。望月少佐は天才的な憲兵です。日本の憲兵隊で偉大な推理家を求めるとすれば、望月少佐をおいて他にはありません。これまで大陸方面で数々の素晴しい手柄を立てています。その大憲兵が愈々いよいよ出向いてくれることとなったのです」
「マア、そうでしたの。じゃ、あすはその方にお目にかかれるわけね」
「エエ、明日です。それまでもう十時間余りです。八時頃には着く筈ですからね。ただこの十時間が無事にすみさえすれば……」新一はそこまで云いさして、フッと言葉をとめた。何かしら異様な声を聴いたからである。
 二人はハッとして顔を見合せて立ちすくんだ。人の声だ。何とも得体の知れぬ喚き声だ。振向くと白々と月光に照らされた洋館の二階があった。ガラス戸が押し上げられ、窓の中から異様な人の姿が上半身を乗り出していた。モジャモジャの白髪が銀色に輝いていた。白い鬚に覆われた顔があった。その顔が口ばかりになって、何かわめいていた。
「助けてくれー、誰か来てくれー」
 それは五十嵐老博士であった。その部屋は博士の寝室であった。叫びながら博士はジリジリとあとへ引き戻されていた。何者かが背後の闇の中から博士の身体を抱き戻しているのだ。
「大変です。早く……」京子の叫び声。
「あなたは憲兵を探して、あとから来て下さい」
 新一は怒鳴りながら、建物に向って駈け出していた。屋内に走り込むと大声で人々を呼び起しながら階段を駈け上った。廊下には電燈がついている。部屋部屋の扉が開いて寝間着姿の人が飛び出して来る。老博士の寝室に達した頃には四五人の同勢になっていた。寝室の扉は閉っていた。内部からは何の物音も聴えない。把手ハンドルを握って廻すと扉は何なく開いた。室内の電燈は消えている。半ば開いた窓から白い月光がさしこみ床の一部分を照らしている。月光の中に俯伏うつぶせに倒れた老博士の白髪頭が見えた。
「お父さん、どうしたんです。しっかりして下さい」新一はその側にひざまずいて父の肩に手をかけた。だが、老博士は身動きもしない。
「アッ、血だ」パジャマの背中に、ベットリと液体を感じた。老博士は何者かに刺されたのである。傷の深さは分らない。致命傷か、それとも一時の失神か。ああ見えざる敵は望月少佐の到着を予知するかの如く、その直前に於いて最後の手段を決行したのである。
 それにしてもその憎むべき下手人はどこに隠れているのか。この暗闇の部屋の中にか。それとも逸早いちはやく逃亡したのであろうか。

博士夫人の行方ゆくえ


「父は殺されたのです。犯人はまだ逃げる間がありません。早く家のまわりを取り囲んで下さい。家中の電燈をつけて下さい。そして家探しをして下さい。犯人はどこかにまだいるはずです。皆さんお願いです」
 新一が上ずった声で叫んだ。五十嵐老博士はその時全く絶命していたのではないことが後になって分ったけれど、夥しい血を流し、意識を失って倒れている老人の姿を見ては、新一をはじめその場に居合せた人々が、絶命と思い込んだのは無理もないことであった。
 誰かが先ずその部屋の電燈のボタンを押した。老博士の寝室がパッと明るくなった。電燈の光によって被害者を見た人々は、「殺人」という恐るべき事実を、一層明確に意識した。
 人々はうろたえていた。新一の叫び声に応じて、部屋を飛び出し、廊下や階段を意味もなく駈け廻った。その頃はもう別荘中の人が起き出して来ていたが、人数が増すにつれて右往左往の混乱ははなはだしくなるばかりであった。
 だが、七人の憲兵はさすがに少しも取乱さなかった。交替で眠っていた憲兵も素早く昼間の服装をつけて要所要所に駈けつけていた。建物の周囲には寝ずの番が見張っていた上、新手の人々も加わって、たちまち蟻の這い出る隙間もない警戒網が張られた。
 部屋という部屋の電燈をつけて廻り、窓の幕を開いて、庭までも明るくし、犯人の逃亡に備えたのも憲兵の機転であった。
 犯人は逃げ出す暇がなかった。建物の中のどこかに潜んでいるに違いない。人々はそう信じていた。したがって彼等の狼狽ろうばいはいつまでも静まらなかった。
 憲兵を除いて最も冷静であったのは南工学博士である。彼はうろたえ廻る人々を離れて、もう一度被害者の室へ引返していた。そして偉大なる老科学者の死体の側にひざまずいて、仔細にその負傷の箇所を調べた。
 ややあって、開け放った扉の外にあわただしい足音がして、新一青年が飛び込んで来た。真青な顔が涙に汚れている。
「オオ、南さんここでしたか。盗まれました。例の折鞄の隠し場所へ行って見たのですが。ありません。無くなっているのです。スパイは父を殺した上、あの大切なノートまで奪って行ったのです」
 新一は絶望の余り泣き声になっていた。
 だが、この重大な報告に接しても、南工学博士は返事さえしなかった。それどころではないというように、被害者の身体に覆いかぶさって、しきりと何かやっている。
「南さん。どうしたのです」
 新一もその意味に気づいたのか、びっくりするような叫び声を立てて、博士の側へ寄って行った。
 南博士はやっと顔を上げて新一を見た。
「お父さんは絶命せられたのではない。かすかに脈がある」
「えッ、脈が……」
 新一は愕然がくぜんとして、息遣いも荒く、そこに跪くと父博士の手首を掴んだ。掴んだままいつまでも空間を見つめて、身動きさえしなかった。
「感じるだろう、幽かに」
「ウン、ある、ある。……医者を、早く医者を」
 新一は顎をワナワナと震わせて叫んだ。
「誰かいませんか」
 南博士の呶鳴どなる声に応じて、廊下から一人の憲兵が入って来た。二階の部屋部屋の捜索を担当していた山下伍長である。
 南博士が事の次第を告げると、今丁度他の憲兵が上田市の警察署へ電話を掛けている所だというので、警察署に頼んで同市からしかるべき医師を急行させて貰うこととし、山下伍長は同僚にこれを伝えるために階下へ降りて行った。
 あとに残った二人は、寝台から枕と毛布を取り、老博士に毛布を着せかけ、頭の下にソッと枕をあてがった。瀕死ひんしの重傷者を寝台の上に運ぶわけには行かなかったからである。そうして、負傷者の両側にしゃがんだまま、顔見合せて黙り込んでいたが、やがて、新一はふと気づいたように口を開いた。
「母はどこへ行ったのでしょう」
「え、お母さんが」
「さっきから一度も見かけないのですよ。この騒ぎに、母が一度も顔を見せないのは変です」
「まさかやすんでおられるのじゃあるまいね」
 南博士は隣室との境の扉を目で示しながらいった。その扉の向うの部屋が、ときどき来訪する五十嵐夫人の寝室に当ててあった。廊下を廻らなくても、その扉さえ開けば、老博士夫妻はおたがいに往き来が出来るようになっていた。
 新一は無言のまま立って行って、その扉を開いた。
「空っぽです。……変だなあ、お父さんを放っておいて、一体どこへ行っているのだろう」
 騒ぎにまぎれて今まで誰もそこへ気附かなかったが、重傷者の傍らにその夫人の姿が見えぬというのは、ただ事ではない。犯人は老博士に瀕死の重傷を負わせ、重要書類の入った折鞄を奪い去ったばかりでは満足せず、博士夫人にさえも何等かの危害を加えたのではあるまいか。
 新一は母の寝室に入って行って、その辺を探し廻っている様子であったが、暫くすると扉のところへ戻って来て、南博士をソッと手招きした。「黙って」という合図をして、しきりと手招きするのである。
 博士は丁度そこへ戻って来た山下伍長に、負傷者の身辺の警戒を頼んで置いて、老博士夫人の寝室へ入って行った。
 新一は無言のまま南博士を部屋の隅へ連れて行った。立ち止ったところに大きな洋服箪笥だんすが立っている。新一は観音開きの扉を目で示して、再び「静かに」という合図をした。
 何かしら途方もないことが起ろうとしていた。洋服箪笥の中からコトコト異様な物音が聞えて来るのだ。中に生きものがいる気配である。
 物音を聞かせておいてから、新一は抜き足をしながら、南博士を廊下に連れ出し、囁き声で云った。
「人が隠れているらしい。しかし妙なことに、観音開きに鍵がかかっているのです。内側からはかかりません。誰か外から鍵をかけたのです。鍵を探して見たけれど、ちょっと見つかりません。母が洋服箪笥に鍵をかけるのを見たことがないのです。大切なものが入っているわけでもないのだから、鍵なんかかけたことはないようです。だから僕は鍵のありかも知らない。その辺の机の抽出ひきだしなんか探して見たけれど、ありません。中に何者が潜んでいるにせよ、憲兵さんに立会って貰って、戸を破る外はありませんね」
 南博士がうなずくと、新一はそのままどこかへ立去ったが、間もなく一人の憲兵を伴い、金挺かなてこを持って帰って来た。
 三人は再び抜き足をして洋服箪笥の前に近づいた。耳をすますと、やはりコトコトと異様な音が聞えて来る。
「誰だッ、そこにいるのは」
 新一が大声に呶鳴どなって見たが、聞えたのか聞えぬのか、中からは何の答えもなく、同じ物音がつづいている。しかも、その音がだんだん強くなって来るのだ。
 新一は持って来た金挺を観音開きの合せ目に入れて、扉をこじあけようとしたが、厚い唐木の頑丈な箪笥だから、なかなか思うようには行かぬ。
「お貸しなさい。自分がやって見ましょう」
 もどかしく思ったのか、憲兵は新一から金挺を受取って、扉の前に立った。
「何が飛び出して来るか分りません。用心して下さい」
 憲兵は二人に注意を与えておいて、巧みに金挺を使い、苦もなく扉の錠前の部分をこじあけた。扉は自由になった。だが、中からは飛び出して来る様子もない。
 憲兵は扉をソッと開いて行った。開くにつれて電燈の光が流れ込む。その光に照らし出されたものは、手足を縛られ、猿轡さるぐつわをはめられた小柄な女の姿であった。
「アッ、お母さん」
 新一はそれと知ると飛びついて行って、観音開きをあけ放ち、その女性を箪笥の外に助け出した。五十嵐老博士夫人は、自室の洋服箪笥にとじこめられていたのである。
 縄を解き、猿轡をはずされても、夫人は口を利く気力もなく、グッタリとなって肘掛椅子によりかかっていたが、新一が階下に走って持って来たコップの水に、いくらか正気づいて、途切れ途切れにことの次第を語るのであった。
「大きな奴でしたよ。頑丈な鉄のような腕をしていました。目が醒めた時には、もう口の中へこれを押し込まれて、声を立てるどころか、息をするのがやっとでした」
 夫人は足下に落ちている猿轡の手拭てぬぐいの丸めたのを指し示した。
「きっとあいつですね。折鞄を狙っている奴ですね。あれは大丈夫ですか。盗まれやしなかった?」
「盗まれたのです。その男の顔を見ましたか」
 新一は老博士の重傷のことは、わざと語らなかった。彼は母を箪笥から助け出す前に、用心深く負傷者の部屋との境の扉を閉めておいたのである。
「アア、やっぱりね。そいつの顔は見えません。電燈が消してあったんだもの。月明りで大入道のような影をチラッと見たばかり、そのあとは何が何だか夢中でしたよ。気を失ってしまったのかも知れません。箪笥の中に入れられたということが分ったのは、随分たってからですものね。それから、どうかして人に知らせようと思って、膝で箪笥の戸を叩いたのだけれど、あの狭い中に海老のようになって押し込められていたのだから、思うように戸を叩くことさえ出来なかったのですよ」
「お母さん、その男はこれまで一度も会ったことのない奴ですか、それともどこかで会ったことがあるというような気はしませんでしたか」
 新一が妙な訊ね方をした。
「分りません。顔を見分けることも、声を聞くことも出来なかったのだもの。ただ鉄のように腕っぷしの強い男という事が分っただけです」
 夫人は椅子によりかかっているのも苦しそうに見えたので、南博士は新一を手伝って、夫人を寝台に横にならせ、暫く何も考えないでおやすみになるようにと勧めた。
 夫人はおとなしくその勧めに従って瞑目していたが、ふと非常に気がかりなことに気づいた様子で、パッと目を開いた。
「でも、なぜでしょう。なぜ私をこんな目に合せたのでしょう。折鞄がここに置いてあったわけでもないのに。……そして、お父さんはどこにいらっしゃるのです。お寝みになっているの」
 新一は急所をつかれてハッとしたように南博士と顔見合せたが、さりげなく、
「ええ。でも、そんなことはあとでいいから、一眠りする方がいい。お母さんはひどく疲れているんだから。ね、そうなさい」
 子供をあやすように云って、母の額にソッと手を置いた。夫人は云われるままに再び目を閉じた。それ以上言葉をつづける気力がなかったのであろう。グッタリとなって、しばらくすると軽いいびきを立てはじめた。
「熱が出ている。母はちょっとしたことにもよく熱を出すのです。当分は起きられないかも知れません」
 新一は夫人の額から手を引きながら、声を殺して云った。
「折鞄といえば、今度はどこに隠しておいたのです。盗まれたことは確かですか」
 南博士は新一の気を変えるためのように、突然別のことを訊ねた。
「どこだと思います」
 新一はこんな際にも拘らず、何か人をらすような云い方をして、幽かに微笑をさえ浮べた。
「どこです」
 南博士はそれに取り合おうともせず、怒ったように訊ね返す。
「設計室の金庫の中です」
「エッ、金庫の中だって。……アア、君は何という大胆なことを」
 博士はあっけにとられたように、思わず声を高くした。
「大胆ではありません。相手が金庫はいつも空っぽだと信じ切ってしまった現在では、そこが一番安全な隠し場所だったのです。考え抜いてめたのです。しかし、敵は一枚上手うわてでした。僕のこの考え方をちゃんと見抜いてしまったのです」
 憲兵はさいぜんから、寝台の方に立って二人の会話を聞いていたが、折鞄の最後の隠し場所が金庫の中であったと聞いた時には、少し顔色を動かした。しかし、それについて意見を述べようとはせず、暫くすると、足音を立てぬようにして、ソッと室外に消えて行った。

望月憲兵少佐


 犯罪の行われた時刻を正確にいうと、午前零時十三分であった。庭園を警戒していた憲兵が窓からの老博士の叫び声を耳にした時、素早く腕時計を見ておいたのである。
 それから朝の八時まで、引きつづいて別荘内の捜索がつづけられた。憲兵の半数がそれにたずさわった。部屋という部屋の押入を開き、絨毯をめくり、壁をたたき、天井、床板の継目を調べ、手のおよぶ限りの捜索を行ったが、何等の異状をも発見することはできなかった。
 上田市の警察署長が司法主任をともない、同市の外科病院長と看護婦を同車させて、自動車を別荘に乗りつけたのは、午前二時を少し過ぎたころであった。被害者が国家の重要人物であるという電話によって、署長は特に迅速な取計とりはからいをしたのである。
 五十嵐博士の負傷は、左背肩胛骨けんこうこつを貫き、左肺臓に達する刺傷ししょうで、兇器は刃渡り三センチの鋭い諸刃の短刃と鑑定された。傷はあやうく心臓を避けていたので、即死だけはまぬかれたが、老体でもあり、生命をとりとめ得るか否かは疑問であった。
 午前七時、地方裁判所から検事の一行が到着した。検事は古参の憲兵曹長と警察署長と協議の上、取敢とりあえず邸内の人々の取調べを行った。
 午前八時少しすぎ、自動車の警笛とともに、東京憲兵隊司令部の望月憲兵少佐が来着した。少佐は昨夜の事件をしっていたわけではない。
 五十嵐博士の重要書類窃盗未遂事件、護衛憲兵の増派と、五十嵐博士一行の周囲にただならぬ陰謀のおこなわれつつある情勢捨ておきがたく、新一の懇請に応じて単身現場に出向いてきたのであるが、時すでに遅く、五十嵐博士は重傷を負い、その取調べのため出張せる検事と相前後して到着する羽目となったのである。
 検事は事件の性質上、取調べの主導権を望月少佐にゆずる態度をとった。少佐はまず一室に七人の部下をあつめ、三十分以上にわたって密談をとげたのち、検事と立会いの上、あらためて邸内の人々を一人一人呼びよせ、老博士負傷前後の事情を聴取した。新一、京子、南博士らも個別に綿密な質問をうけた。
 事情聴取を終ると、少佐は五十嵐博士の病室を見舞った。医師と看護婦のほかは何人なにびとも同席させず、二十分ほどもついやして、容態を聴取ききとった上、邸内の人々が病室に立入ることを禁じ、入口に憲兵の一人を絶えず立番させることとした。息子の新一さえも少佐の許しを受けずして父を見舞う事は出来なくなった。
 五十嵐博士夫人は昨夜の打撃によって高熱を発し病床の人となっていた。検事や望月少佐の質問にも応じ得ぬほどの容態であった。人々は協議の上、老博士重傷のことは暫らく夫人の耳に入れぬこととし、その病室を他にうつすよう取計らった。
 新一が望月少佐と差向いでゆっくり話をする機会を得たのは、昼食後のことであった。京子は泊りこみの村の娘二人の外にもう二人の応援を頼み、多人数の食事の用意に忙殺された。食事が終ると検事と警察署長はすべてを憲兵隊の取計らいに任せ、医師と看護婦だけを残して、一先ず別荘を引上げて行った。その一行を見送ってから、望月少佐は新一を人なき設計室に誘いこみ、打ちとけて語り合う機会を作った。
 二人は例の大煖炉のある広間の片隅に、テーブルをさしはさんで向い合っていた。少佐はかつて折鞄の隠し場所となった二重クッションの安楽椅子にもたれ、煙草をふかしながら、ときどき窓越しに庭の芝生を見おろしていた。そこには部下の憲兵の一人が忠実に見張りを勤めている姿が小さく眺められた。
 少佐は鼠色の背広服を着ていた。五分刈り頭と日焼けのした浅黒い顔とが軍人を感じさせるほか、容貌にも言語動作にもことさら軍人らしいものはなかった。四十歳は越しているに違いなかったが、坊主頭のせいか若々しく見えた。理智的な引締った頬、美しい口髭、笑うと非常に愛嬌のある白い歯並、全体に親しみのある顔立ちであったが、その中に一重瞼の余り大きくない目だけが、時折り相手の腹の底を射通すような鋭い輝きを見せた。
「もう一日早く来て下されば、こんなことは起らないですんだかも知れません」
 新一が少佐を尊敬していることは、その見上げるような目附きによっても察せられた。この人物のいるところには如何いかなる犯罪も起り得ないと、固く信じているように見えた。
 少佐は愛嬌のある歯並を見せて笑った。
「僕が昨日来れば、相手は一昨日このことを決行していたに違いない」
「じゃ、犯人はあなたの来られるのを知っていたとおっしゃるのですか」
「無論知っていた。こいつは何もかも知っている奴です」
「敵国の間諜と考える外ありませんね」
 新一は一際ひときわ声を低くした。
「断定はできない。しかし十分考え得ることです。ところで君の意見を聞きたいのだが、万一お父さんが再起できないとすると、ここの設計事業は中止の外はないのか、それとも他の学者達の手でつづけて行くことができるのかという点です」少佐は真剣な面持で訊ねた。
「絶望ではなくても、非常な困難にぶっつかるわけです。昨夜も南博士とこのことについて話し合ったのですが、非常に重要な部分の設計がまだ完成していないのだそうです。その部分は全く父の受持ちで、父でなくては分らない点が多いのだそうです。しかし、この設計に参加した学者達は父の計画の原理は理解しているのですから、父がいなくても、時間さえかければ何とかなるだろうというのですが、その時間が非常に永くかかるかも知れない。一年かかるか二年かかるか分らないというのです。つまり犯人は父をなきものにし、父のノートを奪うことによって、この設計事業を十分妨害することが出来たわけです。そういう目的をもって行動する奴は敵国の間諜の外には無いではありませんか」
「お父さんに万一のことがあれば、お父さんの一身上だけのことではない。国家の大損失であるということは、僕もよく分っている。僕の部下達は申訳もうしわけないといって泣いているのです。僕は彼等を信じていた。今でも信じている。優秀な憲兵達です。こんな失敗を演じたことは今まで一度もないのです。彼等が取逃がすほどの敵なれば、たとえ僕がいたとしても、どうすることも出来なかったかも知れない。
 僕は部下を信じている。信じているだけに、今度の犯人が決して並々の奴でないことを感じるのです。僕の部下は、七人もいて、寝ずの番をしていて、犯人がどこからどうして逃げたか分らないなんて信じられないというのです。どこにも一分の隙さえなかった筈だ。自分達は完全に任務を果していたというのです」
「そうです。私もそう思います。犯行直後のことだけを考えても、犯人の逃げる隙は全くなかったのです。それほど敏速に警戒網が張られたのです。蟻の這い出る隙も無かったのです。それにも拘らず犯人は消えてしまった。私はふと妙なことを考えることがあります。犯人は若しや我々の中にいるのではないかと……」
「僕の部下達も同じ考えを持っている。ある者は固くその説をって譲らないほどです。しかしね、五十嵐君、それには一つの重大な反証があるんだ。犯人はここに住んでいる人々の中にはいないという確かな証拠がある」
「え、証拠が」
「動かし難い証拠だ。僕の部下達はここへ来てから人知れずいろいろな仕事をなしとげていた。その内の最も大きな仕事は、犯人の指紋を発見したことです。
 犯人は最初煙突からこの部屋に忍び込んで、金庫を開いた。僕の部下は金庫の指紋を採集したのです。それから犯人はこの部屋の窓ガラスを切って侵入したことがある。その時ガラスに残った指紋も無論採集した。最近では昨夜犯人は金庫の中から折鞄を盗み出したが、その折の指紋も調べた。又部下達は、一方ではここに住んでいる全部の人々の指紋を片っ端から採集した。爺やから女中に到るまでことごとく指紋を採った。君も例外ではありませんよ。君が食事の時手にしたコップがその資料になったのです。それらの指紋は小型写真機によって同じ大きさに写され、レンズの力を借りて比較対照せられた。その結果、ここの住人の誰の指紋とも一致しない一つの指紋が、金庫の扉にも窓ガラスにも残っていたことが確かめられたのです。
 僕の部下は、最初金庫の指紋を採った時、その滑かな面や把手ハンドルを綺麗に拭き取っておいた。犯人が再び金庫に触れることを予期したからです。だから、最初そこにあった指紋には金庫を運んだ人夫などの指あとが混っていたかも知れぬが、昨夜そこに残っていた指紋はここの住人のものの外は当の犯人の指紋でなくてはならない。しかもそこに一つの特異な指紋があったのです。最初の金庫の表面にも、窓ガラスにも残っていた同じ指紋で、ここの住人のではない指紋がハッキリと検出されたのです。
 分りますか。その特異な指紋の主は、外部から侵入したと考える外はない。彼は誰にも見咎みとがめられず侵入し誰にも見咎められず立去ったのです。僕の部下は口を揃えて、そういう事はあり得ない、信じ得ないというけれども、人間の感覚によって歴然たる物的証拠を否定することはできない。誰の目にも見えなかったとしても犯人は確かにこの家に出入していたのです」
「ああ、そうでしたか。私は少しも知りませんでしたが、憲兵さん達はそこまで調べていてくれたのですか。何も喋べらないで黙々として任務を遂行すという軍人流のやり方ですね」
 新一は感にえて、恥じ入るように云うのであった。
「その特異な指紋というのはこれです。右手の拇指おやゆびと人差指とが採集されている。外の指の痕も残っていたが、不明瞭で資料とするに足らぬのです。今のところ犯人の手掛りはこの指紋だけです。指紋によって犯人を探し出すというのは、もしそれが指紋台帳にない場合は、難事中の難事ですが、ともかく我々はこの指紋から出発する外はない。三好みよし曹長がこの写真を持って午後東京へ帰る事となっています。そして先ず憲兵隊司令部と警視庁の指紋台帳を照合して見るわけです。三好は最も信頼できる憲兵です」
 新一は少佐の手から一葉の写真を受取って、そこに黒く渦巻いている二つの指紋に見入った。肉眼では十分見分けられぬけれど、二つとも横に流れた蹄状紋ていじょうもんであった。
「こいつですね。父をあんな目に合わせた奴は。そして、この大事業を挫折させた奴は。僕は復讐しないではおきません。必ず復讐します。望月さん、今日からあなたの弟子にして下さい。僕はあなたの助手になって、こいつを捉えるのです。このスパイの奴、捉えないでおくものですか」新一は歯ぎしりをして、叫ぶように云うのであった。

指紋の主


 三好憲兵曹長は望月少佐の命を受けて、その日の午後上田市から東京への汽車に乗った。いうまでもなく五十嵐博士殺害未遂犯人の怪指紋照合のためである。
 三好曹長はまだ三十歳を少し過ぎたばかりの若々しい軍人であったが、望月少佐が大陸在任時代からの部下で、少佐の片腕として、大陸の複雑な国際犯人捜査に当り、その道にかけては豊富な経験を持つ老練家であった。
 しかし流石の三好曹長も、今度の殺人未遂事件には、少なからず面喰っていた。この事件には何かしら途方もない感じがあった。あれほど厳重に見張っていたにも拘らず、犯人は隠れみのでも身につけているかのように、全く人目に触れないで、博士の寝室に忍び込み、設計室の金庫の書類を盗み去った。
 犯人は大きな目を見はって張り番をしている数人の憲兵の前を通過しないでは、そこへ出入りすることは不可能であった。しかも憲兵は誰一人犯人の影さえ見なかったのである。隠れ簑はお伽噺とぎばなしの世界のものである。しかし何かそういう風な術を、例えば人間の身体が透明になるというような、奇怪な術を犯人が心得ていたとでも想像する外に考え方がなかった。
 三好曹長は、その詳しい内容は無論聞かされていなかったけれど、五十嵐博士一行が山荘に立てこもって、この戦局を一挙に左右するほど重要な兵器の設計に従事していることは、十分承知していた。したがって、この犯罪が国家にとって、軍にとって、如何に重大なものであるかもよく分っていた。
「こいつは一通りの犯人ではないぞ。余程の覚悟をしなくてはならんぞ」
 曹長は汽車の中で、何度となく自分自身に云い聞かせた。この犯人を捉えるかどうかは、前線の将兵が敵の拠点を占領するかしないかと同じくらい重大であった。イヤ、全戦局を左右する発明という点から云えば、そんな比較ではまだ軽すぎる。
「俺は今、ただ一人で数万の敵軍に向かって突進しているのと同じだぞ」
 と考えると、曹長はその任務の重さに、武者振いを禁じ得ないのであった。
 曹長はその夜遅く東京に着くと、自宅に一夜を過し、翌朝は先ず憲兵隊司令部に行って、彼の任務を報告し、そこで調べられるだけは調べたが、これという手掛りを掴むこともできなかったので、直ちに警視庁に赴き、知合の外事課長を通じて、犯人の指紋の照合を依頼した。
 暫らく待っていると、指紋係が一枚の指紋カードを手にして入って来た。
「ありましたよ。これです。お持ちになった写真の指紋とピッタリ一致しています」
「エッ、ありましたか」
 三好曹長は案外の吉報に飛び立つ思いであった。写真と指紋カードとを受取って、拡大鏡を借りて見比べると、拇指と人差指の指紋が寸分違わず一致していることが分った。カードの住所氏名欄には「芝区しばく××町一丁目六二番地、韮崎庄平にらざきしょうへい」と記入してある。
「どんな前科があるのですか」
「ところが、前科というほどの前科はないのです。こいつは僕が指紋を採った男で、よく覚えているのですが、変な奴ですよ。マア途方もない変りだねですね」
 指紋係はなぜかニヤニヤ笑いながら答えた。
「変り種というと。一つ詳しく話して下さいませんか」
「エエ、ようござんす。自分で指紋を採ったからといって、一々その人間を覚えていられるものではありませんが、こいつは、ひどく変っているので、幸い、よく記憶しているのです。僕はこいつのすまいも知っているのですよ」
 指紋係はその辺にあった椅子に腰をおろすといささか得意気な面持で、雄弁に語りはじめた。
「韮崎は十五六年支那に住んでいて、大東亜戦争の起る少し前に東京へ帰って来た男です。北京ペキンにも南京ナンキンにも上海シャンハイにも漢口ハンコオにも、マア支那の目ぼしい都には悉くいたことがある。方々へ転々として商売をしていたというのですね。嘘か本当か分りません。本人がそう云っているのです。
 支那の政治家とも、大抵は知合いだといって有名な政治家の書などを沢山持っている。美術品もいろいろ持っていて、当時、この男を調べた刑事の話によると、古い仏像だとか、面だとか、薄気味の悪いようなものを、実に夥しく持っているのだそうです。支那語は日本語よりもうまいくらいで、本人は支那事変が始まってからは、密偵のようなことを勤めたといって威張っているのですが、嘘か本当か分りません。その頃、警視庁で軍の方に問い合せたところ、結局、はっきりしたことは分らなかったのです。どうも出鱈目でたらめらしいのですね。
 この男は妻も子もなく、全くの一人ぼっちで暮らしていて、親戚知己もないのか、近所の人は、彼の家に客の来たのを見たことがないといっています。小金は持っているらしいのです。支那から帰ると、芝の××町に売物に出ていた外人の家を買い入れて、そこに一人で住んでいるのですからね。この家がまた、化物屋敷のような古いこわれかかった西洋館で、木造二階建の、建てた時には相当の建物だったでしょうが、何分にも年数がたっているので、全くの荒屋あばらやです。そこで自炊生活をしているのですね。
 年ですか、カードに書いてある通り明治二十八年生れですから、丁度五十ですね。なかなか立派な男で、背が高くって、顔も立派な顔をしているのです。八字髭なんか生やしているんですよ。
 ひどい変り者です。第一こいつの家の門はあいていたことがない。いつも鍵がかけてあって商人などが来ても入ることができない。夜も表からは電燈の光も見えないので、うちにいるのかいないのか見当もつかないのだそうです。つまり交友関係が全くないのですね。では、食事なんかはどうしているかというと、すべて外食らしいのです。放浪癖があるので、いえをあけて旅行することが多いらしいのですが、いつ出かけて、いつ帰ったかは、近所の人も知らないという有様です。隣組となりぐみの持て余しものですね」
「で、その男が何か罪を犯したのですか」
 三好曹長は、指紋係の話がいつまでもその点に触れないのを、もどかしがって訊ねた。
「サア、それが罪という程の罪ではないのです。ただ非常に変っているのですね。一例をいいますと、他人の邸宅へノコノコ入って行って、主人の居間に坐りこんで、平気な顔で女中にお茶を持って来いなどという。全く知らぬ家でそれをやるのです。別に物を盗んだりする訳じゃありません。そういう訴えが警察に来るのです。
 身の軽い奴でしてね。真昼間、屋根の上を伝い歩くという変な癖も持っていました。他人の家の屋根から屋根と伝って歩き廻るのです。
 それから真夜中に町を歩くのですね。そして犬を殺すのです。飼主のある犬でもなんでも、吠えついてくるやつを片っぱしからピストルで打殺す。ある夜などは同じ町内に犬の死骸が六匹も転がっていたというのですからね。
 これは飼主達から訴えがあって、損害賠償をさせられたのですが、その罪と無届でピストルを所持し、市中でそれを発射したというかどで罰せられたのです。それに以前からのいろいろの不審な行動もあって、その時は、厳重な取調べを受けました。医師の精神鑑定も行われたのですが、精神病者ではない。判断力は正常なのです。一種の極端な変りものということで放免になりました。しかし、それ以来、所轄警察署の注意人物になっているのです。尾行がつくというわけではありませんが、油断のならぬ突飛な男として、絶えず注意を払うことになっているのです。
 で、あなたのお持ちになったこの指紋は、一体どういう事件に関係があるのですか」
「殺人未遂事件です。長野県の山奥で、計画的に行われたのです。一昨晩の出来事です」
「ヘエ、あいつがね。フーン、そうですか。で、憲兵隊でお取扱いになっているのは、無論……」
「そうです。間諜の疑いがあるのです。戦争と密接な関係のある非常に重大な犯罪です。すぐその男を調べて見たいのですが……」
「分りました。幸、その男を手がけた刑事が居りますから、所轄警察署まで御案内させましょう。ちょっと課長に相談して見ますから、暫らくお待ち下さい」
 指紋係はそういって立ち去ったが、程なく給仕がやって来て、三好憲兵曹長は捜査第一課長の室に案内され、課長の紹介で北村きたむらというその刑事に会い、韮崎の住居すまいに同行して貰うこととなった。
 その自動車の中で、三好曹長は、この犯罪の重大性と犯行の超現実的とも称すべき巧みさについて語ったが、すると、北村刑事はそれに応えて、
「あいつが間諜であろうとは、全く気がつきませんでした。しかし、考えて見れば、如何にもそういう犯罪にはうってつけの男です。あいつは手品使いですからね」
 と、不明を恥じるように云った。
「手品使いといいますと」
「奇術師ですね。実に手品がうまいのです。留置中に、私達の前でやって見せたことがあるのですよ。小手先の手品でしたが、実に玄人はだしのうまさです。あいつなら、どんな大仕掛けの手品だってやり兼ねませんよ。あなたは今隠れ簑とおっしゃいましたね。そういう手品だって、あいつならやれるかも知れません」
 刑事は真面目な顔でそんなことを云った。
「支那語がうまいのだそうですね」
「エエ、それは手にったものです」
「日本人であることは確かなのですか」
「原籍は調べたのです。架空の人物ではありません。しかし、十何年も支那にいたので、あの男の顔を見知った友人というようなものが一人もないのです。原籍地は籍があるというだけで親戚も何もありません。しかし、顔立が日本人ですし、言葉にも変な所はないので、取調べの当時は、別に疑っても見ませんでしたが、若し今度の犯人があいつだとすると、何とも云えませんね。私達はまんまと騙されていたのかも知れません。
 それに、あいつの突飛な気違いめいた所業も、実はわれわれの目をあざむく一つの手段だったかも知れないのです。ああして変り者だ、気違いだという風に見せつけておけば、逆手の迷彩になるわけですからね。警察の御厄介になって事なく放免されるというのは、大きな犯罪を企らむ者にとっては、一つの逆手ですからね」
 北村刑事は、如何にも残念でたまらぬという様子であった。

火焔放射器


 愛宕あたご警察署を訪ねて署長に面会し、事情を話すと、丁度折よく韮崎の住居の近くの交番詰の巡査が居合せているというので、署長はその巡査を三好憲兵達の前に呼んでくれた。
「韮崎をお調べになるのでしたら、余程うまくやらないと、あいつ、突拍子もない男ですからね。そうですね、ああいいことがあります。あの町会は今夜八時から防空訓練をやることになっているのですよ。韮崎は群員です。必ず出て訓練に参加します。何しろ変り者ですからね、気が向けば何を始めるか分ったものじゃありません。今までまるで交際をしなかった隣組とも、近頃はよろしくやっているらしいのです。まるで軽業師みたいに身軽な男ですから、防空活動には最適任ですよ」
「ヘエ、あの男が防空訓練を。こりゃ驚いた、大変な心境の変化ですね」
 北村刑事はあっけにとられたようにつぶやいた。
「ですから、訓練に夢中になっている不意を襲われるのがいいじゃないかと思います。でないと、あいつを捉えるのはなかなかむずかしいですよ。第一、家にいるかどうか怪しいですし、たとえ家にいても、訪問者が気に入らないと、裏口から逃げ出してしまうという男ですからね。出没自在で、普通のやり方では、とても手におえませんよ」
「そうですか。それじゃ僕は今夜平服に着更えて、その男を訪問することにしましょう。いきなり逮捕しないで、一応おとなしく様子を探って見たいと思うのです。ところで、今度の事件は今もいう通り、一昨夜長野県で起ったのですが、万一韮崎がその晩東京にいたということが確認されれば、捜査方針は一変するわけです。つまり現場不在証明ですね。この点について何かお気づきのことはないでしょうか」
 三好憲兵曹長が訊ねると、巡査は手を振って見せて、
「イヤ、それはとても駄目です。あの男は外出するにも、帰宅するにも、近所の者に姿を見せたことがありません。交番の前などは一度も通ったこともないのです。幽霊みたいな奴です。近所でお訊ねになっても、とても分りますまい。防空訓練の日だけ姿を現わすのです。何だか通り魔のようだといって、附近でも評判しているくらいですからね」
 結局、それ以上のことは聞き出すことができなかった。三好曹長は今夜その巡査に韮崎の住居近くまで案内して貰う約束を結んで、愛宕署をで、北村刑事とも一応別れをつげて、憲兵司令部に帰った。
 午後八時、芝区××町一丁目、韮崎の住居の前の道路には闇中の防空訓練が行われていた。模擬焼夷弾しょういだんが炸裂し、発煙筒の黄色い煙があたりに立ちこめ、警防団のポンプが出動し、メガホンでわめく人声、バケツを手にして右往左往する男女の黒影、真実ほんとうの火事場のような騒ぎである。
 その暗闇の人群れの中に、いつの間にか国民服、巻脚絆の防空服装に身をかためた三好憲兵がまぎれ込んでいた。彼は人々と共に走り廻りながら、韮崎の姿を探し求めた。
「韮崎さんはどこです。どこにいます」
 バケツを持って走るモンペの婦人に呼びかけると、その人は立ち止って、五六間向うの闇を指さしながら、叫んだ。
「あすこにいます。あの黒い頭巾ずきんを冠った背の高い人です」
 三好は、その黒い人影に駈け寄って行った。
 パッと視界が明るくなった。第一の模擬焼夷弾が鎮火するのを待って、第二の模擬焼夷弾に点火せられたのだ。エレクトロンの白熱の火花が飛び散り、その火光が真正面から韮崎と教えられた男の雄姿を照らし出した。
 これはまた異様な風体ふうていである。真黒な国民服に黒の脚絆、鉄兜はなくて、黒ラシャ製の婦人用防火頭巾のようなものを、まぶかに冠っている。その中から防空眼鏡の大きなガラス玉がギラギラ光り、鼻下には美しい八字髭がピンとはね上っている。北村刑事から聞いていた通りの堂々たる美丈夫びじょうふである。
 訓練はそれから三十分ほどで終り、警防団員の講評があった。その間、三好憲兵は韮崎の身辺を離れず、彼の一挙一動を見守っていたが、散開となり、一同がそれぞれの家庭に引上げる時となって、その虚を突くように、彼は韮崎の側に寄って行った。
「韮崎さんですね。お疲れのところを恐縮ですが、一寸お話ししたいのですが」
 丁寧に声をかけると、韮崎は立ち止まって、三好を見おろすようにして、落ちついた声で答えた。
「どなたですか」
「三好というものです。憲兵隊のものです」
 ズバリと云ってのけたが、相手は別段驚く様子もなかった。
「どういう御用ですか」
「少しこみ入った話があるのです。立話も何ですから、差支えなかったら、あなたのお宅で」
「アア、そうですか。ではどうか」
 韮崎は先に立って歩いた。逃げ出す気配が見えたら引っ捉えようと、気をはりつめていたが、そんな様子もなく、ゆったりと歩いて行く。
 門を入って、暗闇の玄関にたどりつくと、ギイイイイときしむ音を立てて扉が開かれた。廊下は真暗で、どこかの部屋の電燈が、扉の隙間から帯のような光を投げている。
 韮崎はコツコツと靴音を立て、その電燈のある部屋に近づき、扉を開いて憲兵を招じ入れた。
 装飾も何もない、ガランとした広い部屋である。その真中に四角なテーブルが一つ、その四方にとう張りの廉物やすものの椅子が一つずつ置いてある。
 ただ一つ正面の壁に縦三尺ほどの大きな額が懸っている。それが、この殺風景な部屋の唯一の装飾である。
 三好曹長はその額を見ると、ハッと立ちすくむほどの驚きに打たれた。日本国内にこういうものが麗々しく飾られていることは、何人も予期し得ないことであった。全くの不意打ちであった。憲兵と知りながら、こういう部屋へ案内した韮崎の心持をすいし兼ねて、さすがの三好曹長も狼狽を感じないではいられなかった。
 立派な額縁の中に米大統領ルーズベルトが納まり返っていた。等身以上の拡大写真である。
 狂人か大悪党か、奥底の知れぬ韮崎は、相手の驚きなどには少しも気附かぬように、平然として椅子に腰をおろし、客にも椅子を勧めた。
「で、御用は」
 三好曹長も腰をかけたが、暫らくは心を落ちつけるために沈黙している外はなかった。
「夜分、おいそぎの御用と思いますが」
 相手はあくまで落ちつきはらっている。ゆっくりと防火頭巾を脱ぎ、防空眼鏡を取りはずした。綺麗に撫でつけた恰好のよい頭、不思議に涼しい二重瞼の目、その目を見た時、三好曹長は悪人がこういう目を持っているのかと、また新たなる驚きを感じないではいられなかった。
 だが、いつまでも黙っているわけには行かぬ。
「一昨晩、あなたはお宅においででしたか」
 少しの技巧をもろうしないで、出来るだけ単純な訊ね方をした。
「居りました。私はこの頃旅行したことはありません」
 相手も少年のように単純に答えた。
「実はある事情があって、一昨夜あなたがお宅におられたという、何か確実な証拠がほしいのですが、誰かが訪ねて来たとか、又は誰かを訪問されたとか、道で出会ったとかいう御記憶はないでしょうか」
「私は一昨日は昼も夜も家にとじこもって、一度も外出しなかったのです。訪ねて来たものもありません」
「食事はどうなさったのですか」
「この頃は自炊ですよ」
「外に何か証拠になるようなことは……」
「ありません。全く証拠絶無です。ハハハハハ、お気に入りませんか。イヤ、近所をおたずねなさっても無駄です。私の居間の窓は、いつも閉め切ってあります。厚いカーテンがあるので電燈の光も外からは見えません。防空上の言葉でいうと完全遮光室という奴ですね。ハハハハハハハ、不思議ですね。一昨夜私がこの家にいたかいなかったか。それを証明する道が一つもないなんて、これは実に不思議という外はありませんね。エ、如何です。こういうお答えではお気に入りませんか。オヤッ、あなたはひどく何かを見つめていますね。アア、あれですね。あの額ですね。あの写真の男ですね」
「そうです。僕は憲兵として、あなたがどういう意味で、あんなものを恭しく飾っておくのか、詰問きつもんしなければなりません」
「意味ですか。それは至極明瞭な意味があるのですよ。ええと、ああそうだ。ちょっとお待ち下さい。今その意味をお目にかけましょう」
 韮崎は立って行って、部屋の一方の小型の扉を開いた。三好曹長は若し逃亡の様子が見えたら、すぐさま飛びかかる用意をしたが、そこは出入口ではなくて、戸棚のような場所であった。韮崎は、そこから長方形の木箱を持ち出して来て、テーブルの上に置いた。
 ゆっくり蓋を開いて、その中から取出したのは、小銃のような形をしたものであった。長さは普通の小銃の半分ほどしかなくて、筒口が尺八のように心持ち開いている。もっと異様なのは、引金の辺から柔軟な金属のくだが出て、木箱の中の、やはり金属製の四角な容器につながっている。
「こういうものを御覧になったことがありますか。今戦場で盛んに使われている火焔放射器ですよ。小型火焔放射器とでもいいますかね。私が自分でこしらえたのです。こう見えても、私は科学者ですよ。錬金術師ですよ。この建物の中に工房があるのです。私は以前ピストルを何挺か持っていたのですが、皆警察にとり上げられてしまいました。そこで手製の玩具おもちゃを拵えたというわけです。ハハハハ、お分りになりますか」
 韮崎はそういって、その火焔放射器の筒口をあちこちと動かすのであった。ピンとはねた八字髭が、如何にも中世紀の錬金術師めいて似つかわしかった。
「で、その玩具で何をしようというのですか」
 三好曹長は平然と訊ねた。彼は多年の錬磨によって、飛道具等には驚かぬ度胸を持っていた。
「御覧なさい、こうするのです」
 韮崎は叫ぶように云って、放射器を構え、カチッと引金を引いた。筒口から一直線の白煙がほとばしったかと思うと、その尖端が恐ろしい焔となって的に吹きつけた。的はルーズベルトの半身像であった。
 ガラスのない写真像は、忽ち焔に包まれ、金色の額縁諸共もろともメラメラと燃えはじめた。
「分りましたか、大統領の火刑です。私はこれと同じ引伸し写真を何枚も作りました。むろん自分でやるのです。そして額縁に入れては、三日に一度、五日に一度、火焔放射器の性能試験をしているのです。分りましたか。どうです。分りましたか。ワハハハハハハハ」
 韮崎は燃えさかる額縁を眺めて狂気のように笑うのであった。
「ワハハハハハハハ」今度は、三好曹長の口から爆笑がほとばしった。
「お芝居はもうたくさんです。サア一緒に行きましょう。君にはまだいろいろ聞きたいことがあるのです」
「一緒に。どこへです」
「憲兵隊へです」
 二人は卓をはさんで立ちはだかっていた。笑いの影は二人の顔から跡方あとかたもなく消え去り、互の烈しい視線が、火花を発して空中に斬りむすんでいた。

大人国


「憲兵隊、よろしい。憲兵隊へ参りましょう。併し、その前にあなたに見せたいものがある。よい機会です。僕の秘密、僕の錬金術をお目にかけよう。是非見てもらいたいのです。それを見れば、僕がどういう人物であるか、あなたにもよく分るのです」
 しばらく睨み合っていたあとで、怪人物韮崎庄平が、遂に兜を脱いだという調子で、真面目に提議した。
 三好憲兵曹長は、このえたいの知れぬ相手の真意を察し兼ねて、急には答えなかった。警視庁指紋係の話によれば、韮崎は支那の仏像、骨董の類を夥しく所持していて、人にそれを見せて喜んでいるということであったが、今韮崎が見せたいというものは、それとは違うように感じられた。「錬金術」という言葉が何かしら突飛な非常識なものを聯想せしめた。
 憲兵がそんなことを考えながら無言でいる間に、米国大統領の引伸し写真像は、半ば以上燃え尽して、大きな物音を立てて床に落ちた。落ちたまま、顔の部分が燃えている。口と鼻とは既に跡方もなく、今や二つの大きな目が灰になろうとしている所であった。漆喰しっくいの天井、厚い壁、固い南洋材の床、急に燃え移るものは何もなかったが、そのまま放って置くわけには行かぬ。韮崎は燃える額縁を靴で踏みにじって火を消した。
「ハハハハハハハ、僕がこのアメリカ人に敬意を表していないことがよくお分りでしょう。僕はこいつを呪っているのですよ。つまり、呪いの人型というわけですよ。
 僕は身の明りが立てたいのです。僕がどういう人間であり、何を目論もくろんでいるかということを、のっぴきならぬ証拠品によって、あなたに認めていただきたいのです。むろん、逃げ隠れはしません。喜んで憲兵隊へもお供しましょう。ただその前にほんの少しばかり、あなたの貴重な時間を拝借したいのです。御承諾願えませんかな」
 三好曹長は、何か罠があるなと感じた。併しそれを恐れる気持は少しもなかった。こちらは予めあらゆる場合に備えて用意ができているのだ。むしろ進んで罠に懸かって見よう。それでこそ、このえたいの知れぬ怪物の正体が掴めるのだ。
「よろしい。それでは君の錬金術とやらを拝見しましょう」
 曹長は微笑しながら答えた。
「そうですか。何よりの仕合せです。ではこちらへお出で下さい。僕の工房へ御案内いたしましょう」
 韮崎も薄気味悪くニヤリと笑って、少し猫背になって、長い指の手を揉み合せながら、恭しく先に立って案内した。
 暗い廊下を少し行くと、果して地下室への入口があった。三好曹長はそれを予期していた。韮崎は床にうずくまってコトコト音を立てていたが、やがて床板の一部が揚げ蓋になって、ギイと開くと、地下から幽かな光が漏れて来た。
 韮崎は先に立って地下への階段を降りる。三好曹長は油断なく四方に目を配りながら、そのあとにつづく。揚げ蓋は開いたままである。
 階段を降り切ると、そこに又扉がある。韮崎はその扉に手をかけて、薄くらがりの中を振返った。
「この中が私の工房です。実に手狭てぜまでお恥かしいものですが、御一覧下さい」
 扉を開いて一歩その室内に踏み入った時、流石の三好曹長も、あっけにとられて、やや暫らく棒立ちになっていた。
 天井も壁も床もコンクリートで固めた非常に広い頑丈な地下室である。そこに雑然紛然として、あらゆる形状の品物が天井の電燈に照らされて並んでいる。一方の隅は鍛冶場かじばになっていて、巨大な漏斗じょうごをさかさまにしたような通気屋根の下にコークスの充満した炉の口が開き、奇妙な形の足踏みふいごが横わっている。その隣には小型旋盤が置かれ、すぐわきの床に取りつけたモーターと調革しらべかわでつながれている。その近くの壁には配電盤があり、大きなスイッチのあかがねが幾つも気味悪く光っている。
 又一方の壁際には、大きな化学実験台が置かれ、その上にはレトルト、ビーカー、フラスコ、無数の試験管などあらゆる形状のガラス容器が雑然と並び、チロチロ燃える青い瓦斯ガスの焔に、レトルトの中の液体が黄色い煙を吐いて沸々と泡立っている。
 床一面には様々の形をした金属管、金属板、木切れ、板切れなどが所狭く置き並べてあって、玩具箱をひっくり返したと云おうか、ブリキ屋の仕事場を引掻き廻したと形容しようか、実に恐るべき光景であった。しかもそれらの金属や木片が、すべて一種異様の形状に切断せられ、折り曲げられていて、一体何を造るためにこのような形状が必要なのか、常人には想像もつかない不思議な品々であった。
 更に異様なのは、この部屋には到るところに厚い天鵞絨ビロードの垂幕が下って、一箇の大地下室を幾つもに区劃くかくし、迷路のような感じを与えていることであった。それらの垂幕の背後うしろには何が隠されているのか、まことに油断のならぬ気配である。若し人が隠れようとすれば、この地下室には実に無数の隠れ場所があるわけである。
「これが私の工房ですよ。中世の錬金術師諸君も恐らくこんな工房に立てこもっていたことでしょうね」
 韮崎は、三好曹長の驚き顔を尻眼にかけて、さも得意らしくいった。この地下室では、彼の房々とした長髪や、ピンとはね上った口髭、真黒な服装などが、にわかに生彩を放ち、一層魔術師めいて感じられる。
「これは一体何を造るための工房ですか」
 三好曹長が詰問するように訊ねると、相手は奇妙な微笑を浮かべて、長い指の手を顔の前でヒラヒラと振って見せた。
「いろいろなものを造るためです。さっきの火焔放射器などもここの製品の一つですが、しかしあんなありふれたものを造るために、この工房を構えたのではありません。私の目ざすものは人間の想像を絶した遙か彼方にあるのです。
 よろしいですか。中世の錬金術師は石や鉛を黄金に変えようとして苦労をした。彼等も本来は化学者なのですが、その突飛な情熱が魔術の方向を取り、世間から魔術師扱いを受けるに至った。よろしいですか。私も実は現代の錬金術師です。私は中世の先輩達のように金を採ろうなどとはしませんが、それよりももっと突飛なことを考えているのです。しかし私は魔術師ではありません。科学者です。ただ普通の科学者などは想像もしない大きな目的を持っているという点で、大学の先生などと違っているだけなのです」
 韮崎はそこにころがっていた木箱の上に腰をおろして、落ちつきはらって長話をはじめた。証拠の品とやらは、この前説明が終ったあとで見せる積りなのであろう。三好曹長は相手のなすがままに任せ、自分も一つの木箱に腰かけて、この奇妙な演説者の顔を見守るのであった。韮崎の饒舌はつづく。
「科学が空想のあとを追って進歩して来たことは、誰でも知っている通りです。鳥のように飛びたいなあという空想が、現代の航空機を造り出す基となったのですね。魚のように水中を泳ぎ廻りたいという空想が、潜航艇を造り出したのです。古代人は一瞬にして千里を走る魔法の靴を空想しました。ギリシャ神話にはねの生えた靴を穿いている神様があります。西遊記の孫悟空そんごくう※(「角+力」、第3水準1-91-90)斗雲きんとうんに乗って一瞬に千里を走るのです。速度の夢ですね。現代の航空機、ロケットなどがこの夢に近づこうとしています。千里眼はどこの国の古代人も空想しました。千里先の蟻の数をかぞえ得る目、千里先の蚊の鳴く声を聞く耳は、誰もが夢見たところです。しかし、これも天体望遠鏡とラジオ、電波探知機などによって既に実現せられました。よろしいですか。そこで人はこういう確信を持つことはできないものでしょうか。即ち人間の考え得ることで為し得ざることはないのだという確信ですね。この世に不可能はないのだということですね。精神一到何事か成らざらんという言葉は、本来の倫理的な意味の外に、科学的な意味をも持っているということですね。不可能という文字はナポレオンの字引になかったばかりでなく、科学者の字引にもないのですよ。エ、何とすばらしい考えじゃありませんか。私はこの確信を得たのです。躍り出したくなるじゃありませんか」
 怪人物韮崎のいうところは、一応尤もであった。三好曹長もこの話を聞いている内に、科学というものの本当の意味はそこにあるのだ。科学者の真の使命はそこにあるのだと感じないではいられなかった。だが、この奇妙な男は結局何を云おうとしているのであろう。この錬金術師は何を発見したというのであろう。三好曹長は、できもしない永久運動の発明に一生を捧げて、遂に発狂した男を知っていた。狂熱的な発明家と狂人とは紙一重の違いのようにも思われる。この韮崎という怪人物も恐らくは狂人の部類に属するのではあるまいか。併し相手の思惑にはお構いなく、韮崎はかれたような饒舌をつづける。
「ところが、古来人間の描いた夢の中で、まだどこの国の科学者も手をつけていないものが、一つだけあるのですよ。ただ一つだけですよ。エ、お分りになりますか。あなたはガリバアの旅行記をお読みになったことがありましょう。ガリバアが小人国に漂着して、指の先程の人間の国の有様を見るところがありますね。小人国の住民から見れば、ガリバアは奈良の大仏どころではありません。富士山のような巨人です。小人国のいかめしい城塞は、ガリバアの靴の底でギュッと踏みにじれば、蟻の塔のようにつぶれてしまうのです。小人国の幾万の軍隊も、ガリバアがヒョイと腰をおろせば、その腰の下に敷きつぶされてしまうのです。小人国の住人から見れば、ガリバアの皮膚は象の皮の何十倍も厚くて、大砲のたまとても通りません。小人国最大の巨砲に撃たれても、ガリバアは蚊に刺されたほどにしか感じないのです。
 大人国小人国の夢は、古来どこの国でも空想されました。日本でも色々な形でそれが残っています。新しいところでは朝比奈三郎島巡りなどという奇抜なのがありますね。朝比奈三郎が小人国に腰をおろして煙草を吸っていると、小人国の人民共はその煙草の煙を大火災と感違いをし、小人国の大勢の火消しが朝比奈の膝に梯子をかけて、消防に当るというあれですね。
 そんな子供だましの空想が、科学とどんな関係があるのだと仰有おっしゃるでしょうね。そうです。昔から発明家というものは、いつも世間からそういう風に云われ、笑われて来たのです。鳥のように飛ぼうとして、紙のはねをつけて屋根から飛び降り、大怪我をした男は、その当時どんなに物笑いの種にされたでしょう。しかしその男こそ航空機発明の先覚者だったのです。大発明はいつも子供だましから出発するのです。千万人の凡人共がガリバア旅行や朝比奈島巡りの空想を子供だましと嘲笑している時、ただ一人この空想と真面目に取り組む男があればよいのです。その男だけが本当の意味の科学者なのです。
 つまり、私はこの我々の世界を小人国と仮定して、そこへ突如としてガリバアや朝比奈のような巨人を登場せしめることを考えているのです。アア、あなたはお笑いになりましたね。狂人の戯言たわごとだと仰有るのですか。よろしい、では一つ実物をお目にかけましょう。こちらへお出で下さい」
 韮崎の言動は益々出でて愈々いよいよ奇怪であった。彼はそのような巨人を見せようというのであろうか。そんな馬鹿馬鹿しいことが、一体この世に起り得るのであろうか。

鉄の指


 韮崎は一方の長い垂幕をかかげて三好曹長を区劃の内部へ案内した。だが、その中にはただ一箇の大きな水槽が置いてあるばかりで、巨人らしいものの影さえ見えなかった。それは長さ一間、幅四尺ほどの木製の水槽で、その中央に一尺ほどの模型軍艦が浮かび、一方の隅には木製の台があって、そこに玩具の砲台のようなものがこしらえてある。海戦映画の模型撮影装置という感じであった。
 韮崎はその玩具の砲台の側にしゃがんで、大砲の発射装置に指をかけながら説明した。
「この玩具から魚形水雷が飛び出すのです。よく見ていて下さい。水雷が水の中を進むのが見えます。その進路に注意して下さい。目標はあの模型軍艦の横っ腹です。よろしいですか。ソラ発射します」
 カチッと音がして、大砲の口から五六分ばかりの小さな黒い魚形水雷が水中に飛び込み、模型軍艦目がけて進んで行くのが見えた。最初魚雷の方向は正確に軍艦の中央部を指していた。その方向へと一直線に進んで行った。だが、不思議なことに、魚雷が軍艦から一尺程に近づいた時、その方向が曲りはじめた。そして艦尾へ艦尾へと曲線を描き、遂に艦体をそれて軍艦の後に鎖でつながれている一寸程の黒い物体へ、ピチッと音を立てて吸いつくように命中した。
「もう一度やってみますよ」
 韮崎はそう云って、又魚雷を発射したが、今度も同じことが起った。魚雷の進路はやはり急曲線を描いて、軍艦にではなく、尾部につないだ黒い物体へ命中した。韮崎はそれを二度三度繰り返して見せたが、何度やっても同じことが起るのであった。
「もうお分りでしょう。模型軍艦に鎖でつながれている黒いものは、強力な磁力を持っているのです。魚雷でも大砲のたまでも、その磁力圏に飛び込んだが最後、悉く引きつけてしまうのです。この黒い物体は、鎖で引かれて、水中を軍艦のうしろからお供をしているのです。そしてこの物体は魚雷や砲弾で蜂の巣のように穴があいても、御本尊の軍艦の方は、かすり傷一つ受けないという仕掛けです。つまり文字通りの不沈艦ですね。お分りになりますか。若しある国の軍艦が全部この装置を施したとすれば、海戦というものの意味が変って来るのです。魚雷や砲弾では沈められない無敵艦隊の出現ですね。この原理は空中からの投下爆弾にも応用できない訳はありません。
 これは妖怪変化の原理とも云えるのですよ。イヤ、笑いごとではありません。昔の武士が狐狸こりの妖怪を退治する話がありますね。相手は美しい女に化けているのですが、その女をいくら斬っても少しも手応えがありません。そこで武士は美人の側にころがっていた石塊いしころに斬りつけます。すると変化はキャッといって倒れるのです。美人は影で、妖怪の本体は石ころに化けていたからです。それと同じことです。この装置を施した軍艦は、撃っても撃っても命中しない妖怪艦隊なのですよ。どうです、すばらしいじゃありませんか。ところで、もう一つお見せするものがあります。こちらへお出で下さい」
 韮崎は得意の鼻をうごめかしながら、別の垂幕をかかげて三好曹長を案内した。曹長は相手の饒舌と奇妙な仕掛けに少々面喰った形で、咄嗟とっさに明確な判断を下す余裕もなく、云われるままに別の垂幕の中へ入ったが、驚いたことには、そこにも一つの立派な模型が飾られていた。
 やはり一間四方程の厚い板の台の上に、ここには西洋の都会らしい美しい市街が出来上っていた。数十階の摩天楼が林立し、その間々に教会の丸屋根や、白い石柱の立ち並んだ銀行風の大建築物などが風情を添え、道路には電車、自動車が走り、通行の群衆の姿まで、豆粒ほどの大きさで精巧に拵えてある。子供に見せたならば狂喜しそうな美しい模型市街であった。
「この市街に見覚えがありませんか。ニューヨークの一部なのですよ」
 韮崎はそういって、摩天楼の一つ一つを指し示しながら、その名称を教えた。なるほど云われて見れば、写真で見るニューヨーク市街そっくりである。
「ところで、ここにもまた一つの奇蹟が行われるのです。よく見ていて下さい」
 韮崎が模型市街をのせた台のうしろに廻って、何かしたかと思うと、地平線の丘の彼方から突如として巨大な怪物が出現した。毒々しい迷彩を施した一箇の鉄車である。その形は現代陸軍の戦車に似て、やはり無限軌道で進行するようになっていたが、その図体が恐ろしく巨大である。模型市街と比較すれば、その鉄車の全長は数町に及び、高さは最も高い摩天楼に等しく、無限軌道の鉄板の一箇が百畳敷もあろうという怪物なのだ。
 巨人国の大戦車は、ガリガリと異様な音を立てて丘を乗り越え、忽ちニューヨーク市街に近づくと見るや、行手を遮る大建築物を、無限軌道の巨大な鉄の歯によって噛みくだき噛みつぶし、見る間に市街の一部分を蹂躙じゅうりんし尽した。数分間にして、戦車の下敷きとなり、生命を失ったもの恐らく数万人に上ったことと思われる。しかもこの戦車は摩天楼を踏みつぶすばかりでなく、前後左右に数知れず装備された巨砲から絶えず煙を吐き、遠距離の建物、人命をも同時に破壊して行くのだ。如何なる要塞もトーチカもこの巨人国の戦車の前には全く無力である。どんな大都市も僅々きんきん数時間にして廃墟となり、無人の境と化し去る外はない。
「お分りになりましたか。これが私の所謂ガリバア旅行記の空想なのです。朝比奈島巡りの夢なのです。これらの着想を模型でなくて、本物として実現することができたならば、世界の動乱は忽ちにして終熄しゅうそくするのです。真の科学者の血潮を湧き立たせるに足る題目ではありませんか。凡庸な科学者達は大笑いをするでしょう。それは模型の世界でのみ可能なのだ。玩具だからできるのだ。それを実現しようなどとは、痴人の夢に過ぎない。本当の魚雷や砲弾を引きつけるような大磁力を得ることは、しかもそれを軍艦の尾部につけて曳航えいこうさせるなどということは、学問上不可能なのだ。又大戦車にしても、その車体を造ることは仮令たとえできるとしても、動力をどうするのだ。そんなべらぼうな動力を一体どうして造り出すのだ。笑うに堪えた空想であると、頭から問題にしないことでしょう。
 しかし、いつの場合にもこういう嘲笑はつきものなのです。日清戦争の頃、六万トンの鋼鉄艦を空想した者は、きっと同じように嘲笑されたことでしょう。最初の機関車の着想者、最初の航空機の着想者が、どんな嘲笑を受けたかは、あなたもよく御存じの通りです。
 むろんこれらの玩具が私の錬金術ではありません。これらを如何にして実現するかの点に私の錬金術があるのです。私は今着々として一つの方向に進んでいます。磁力を万倍し、動力を万倍するための理論と数式です。機械における朝比奈三郎を如何にして生み出すかの問題です。私は今この研究と取り組んでいるのです。先ず設計書の上で、その可能性を見出そうと夢中になっているのです。ところでね。まだいろいろお見せするものがあるのですよ。サア、今度はこちらへお出で下さい」
 韮崎の饒舌は極まる所を知らなかった。この男は一介の狂人にすぎないのか、それとも彼自身の主張する如き大発明家であるか。三好曹長は判断力の昏迷こんめいして来るのを禁ずることができなかった。併し彼の多年の経験から来た直覚は「こんな手管てくだで化かされてはいかんぞ。油断するでないぞ」と彼の耳元に囁きつづけていた。
 韮崎が案内した次の垂幕のうしろには、これは又途方もない代物が待ち構えていた。ただ見る、部屋一杯の真黒な手首である。コンクリートの壁から、突然、奈良の大仏のような大きな手の平が、ニューと突き出ていたのである。
 無論生きた巨人の手ではない。鉄板で造った巨大な手首の模型である。今まで玩具の軍艦や玩具の市街など小さなものばかり見せられて来たので、この巨人の手首は本当の大きさの数倍にも感じられ、その巨大感の空恐ろしさに身もすくむ思いであった。仁王のようにパッと拡げた五本の指、真黒な鋼鉄の指、その一本一本の太さは電柱ほどもあり、手の平の幅は人間の背丈に余る大きさである。
「小人島の住民が見たガリバアの手首です。むろんこれではまだ小さすぎるのですが、材料もなく、部屋の大きさも不十分でした。これが今のところ、私にできる精一杯の大きさです。これを更に十倍にし百倍にし、而もそれが生きた人間の手のように動く、巨人国の力学が私の目ざす所です。これはまあ、ごく初歩の見本にすぎないのですよ。側によってよく見て下さい」
 三好曹長は巨大なるものの引力に吸い寄せられる感じで、心にもなく巨人の手の平に近づいて行った。そして、その奇妙な構造を仔細に眺めていると、突然、垂幕の向うに異様な笑い声が聞えた。韮崎の声である。変だぞ。あいつ何時いつの間に幕の外へ出て行ったのかと、ヒョイと振向こうとすると、もう遅かった。巨人の鉄の指が恐ろしい勢で内側へ曲り込んで来た。抜け出そうともがくうちに、電柱のような五本の指がヒシヒシと五体をしめつける。つまり巨人の手が三好曹長をギュッと握りしめたのである。
 垂幕がゆらいで、韮崎が戻って来た。魔法使いの形相で、さもおかしそうに笑っている。
「ハハハハハハハ、どうです、この仕掛けは。巨人は生きていたじゃありませんか。ハハハハハ、あなたはもう私のとりこですよ。だんだん締って来るでしょう。今にあなたは絞め殺されてしまうのですよ。イヤ、それは冗談です。それは冗談ですがね。併し、あなたはその手を抜けることができますか、できますまい。つまりですね、あなたは朝比奈三郎に掴まれたというわけですよ。あなたを生かすも殺すも、朝比奈の思うままというわけですよ」
 巨人の指の関節は、一種の蝶交ちょうつがいになっていて、機械仕掛けによって屈伸自在なのだ。何しろ電柱ほどもある指、それが機械で動いているのだから、小さな人間の力ではどうすることもできない。だが、妙なことに、三好曹長は、さして驚いた様子もなく、鉄の指に掴まれたまま微笑を浮かべていた。
「君は僕を虜にしたというわけだね」
「まあそうですね、苦しいですか。一つあなたの力で、それを抜け出して見ては如何いかがです」
 韮崎もニヤニヤ笑いながら穏かに云った。
「抜け出せないこともあるまい。一つやって見ようかね」
「ホホウ、やってごらんになる。そいつは面白いですね。拝見しましょう」
 一方は鉄の指に全身を挟まれ身動きもできぬ姿勢のまま、一方はその前に立ちはだかり腕組みをしてこれを嘲笑しながら、二人の視線は数瞬憎悪の火花を散らして空中に斬り結んだ。
 するとその時、非常に意外なことが起った。ガチャンとはげしい音と共に、鉄の指が開いたのである。三好曹長は忽ち自由の身となってその場を遠ざかり、油断なく身構えをした。
「先ずこんな鹽梅あんばいさ」
 韮崎はそれを見ると、呆気にとられて暫くポカンと口を開いたまま棒立ちになっていたが、やがて狂気のように鉄の指に向って突進して行った。何か故障があったのだ。機械が狂ったのだ。でなければこんな途方もないことが起る筈がない。彼は鉄の手の平のあちらこちらを撫で廻して、その故障の箇所を確めようとした。
 その時、再び奇蹟が行われた。巨人の指は忽ち内部に彎曲わんきょくし始め、見る見る内に彼の主人である韮崎を握り締めてしまったのである。流石の錬金術師も、かくの如き現象が起ろうとは夢想だもしていなかったので、身を翻えす隙がなかった。鉄の指は彼の全身を完全に握りしめ、その握力は刻一刻強まって来るばかりである。
「助けてくれ……」
 機械の製作者は機械の力を熟知していた。ほうっておけば命のないことを知りすぎる程知っていた。彼は狂人の如く叫び、狂人の如くもがき、錬金術師の体面を忘れて醜態の限りを尽した。
「危いところでしたね」
 垂幕をかかげて一人の若い男が入って来た。国民服に巻脚絆まききゃはん、三好曹長と同じ服装である。
「有難う、うまくやってくれたね」
 三好曹長はその若者を振返って微笑した。
「アッ、貴様がスイッチをいじくったんだな」
 韮崎がもがきながら呪いの声を振り絞った。鉄の指は旋盤せんばんの側にあった配電盤の一つのスイッチによって操作される仕掛けであった。
「その通り。これは僕の同僚だよ。君は、僕がこの悪魔の巣へ一人ぼっちで乗り込んで来たと思っていたのかね。軍人にもその位の用意はある。数人の同僚にこの家の表と裏を固めさせておいたのだ。そして、その内の一人が万一に備えて僕の身辺を離れなかったのだ。君の目をかすめて、絶えず我々のうしろから見張っていてくれたのだ。ハハハハ、分ったかね」
 三好曹長は鉄の指にしめつけられた怪人物の前に立って、謎を解こうとでもするように、暫らくその不思議な顔を眺めていたが、やがて同僚をかえりみて静かに云った。
「スイッチを切ってやり給え。でないと、大切な間諜容疑者が絞め殺されてしまうからね」

何者


 長野県の山中にある五十嵐博士航空機設計所に滞在中の望月憲兵少佐は、東京からの長距離電話によって、怪指紋の主韮崎庄平逮捕の報告を受けた。
 少佐が電話を切って自室に帰ると、開け放った扉の向側から、一人の私服憲兵下士官が入って来て敬礼した。
「異状ありませんでした」
「御苦労、引取ってよろしい」
 開け放った扉の向側は五十嵐老博士の病室である。そこには医師と看護婦とが絶えず詰め切っているのだが、それをもって足れりとせず、望月少佐は事件前まで五十嵐博士夫人の寝室であった部屋を占領して、昼も夜も老博士の見張りをつづけているのであった。
 別室へ電話を掛けに行くちょっとの間すら、部下の憲兵を代りに残して見張りをさせるという念の入れ方である。
 憲兵が立ち去るのと入れ違いに、老博士のそく新一青年が入って来た。
「今の電話は三好さんからですか」隣室の老博士を驚かさぬように低い声で訊ねる。
「そうです。犯人が逮捕されたのです」
 これも隣室までは届かぬ囁き声である。
「エッ、犯人が。あの指紋の男ですか。一体何者です」
「警視庁の指紋カードにあったのです。芝区に住んでいる韮崎庄平という人物です。三好の報告によると、こいつが実に奇妙な男ですよ」
「で、自白したのですか」
「イヤ、なかなか自白はしません。しかし、指紋が明瞭に一致している上に、現場不在証明がないのです。あの日にどこにいたかという確証を示すことが出来ないのです」
 新一は少佐と向い合って肘掛椅子に腰をおろし、煙草に火をつけた。少佐は鼠色の背広服、新一はいつもの国民服である。少佐は開け放った扉の向側の五十嵐博士の寝台が見える地位に椅子を据えて、時々その方へ目をやっている。
「そうでしたか。それで、あなたはその男を取調べるために、東京へお帰りになるのでしょうね」
 新一がやはり低い声で訊ねると、少佐は意外な返事をした。
「イヤ、帰らないつもりです」
「エ、お帰りにならないのですって」
「犯人の真偽を確めるよりも、もっと重大な仕事があるからです。我々の目的は犯人を罰するという事よりも、あなたのお父さんの偉大なる発明を中途で挫折せしめないことです。一刻も早くそれを完成して、敵の本国大空襲を決行するというのが最大の眼目です。それにはお父さんの恢復かいふくが何よりも必要です。若しお父さんに万一のことがあれば、この事業は全く挫折してしまうということは、君もよく知っている通りです。だから、私はあくまでお父さんの身辺を守らなければなりません」
「でも、犯人が捉えられたとすれば、その必要がなくなるのではありませんか」
「イヤイヤ、その逆ですよ。犯人が捉えられたからこそ、かえってお父さんの身辺を守らなければならないのです。これは普通の殺人事件ではない、一国の運命を賭けた国際間諜団の陰謀です。一人の犯人を挙げたからといって、それで事件が終るものではありません。却ってこういう時が一番危険なのですよ」
「アア、そうでした。よく分りました」
 新一は少し顔を赤らめて恥じ入るように云ったが、暫らく考えたあとで言葉を続けた。
「例の犯人が持ち去った父の設計ノートは発見されたのでしょうか。そのことの報告はありませんでしたか」
「一応韮崎という男の住居を捜索したそうですが、今の所まだ発見されていないのです。韮崎は盗んだ覚えはないと云い張っているのですからね。それにしても、この韮崎という男は非常な変りものです。精神病者ではないかと思われるほどです。電話だから詳しいことは聞けなかったが、彼は錬金術師と自称して、地下室に不思議な工場を持っているというのですからね」
 少佐は三好曹長からの報告を新一に語り聞かせた。そして、最後に韮崎が自ら造った巨人の鉄の指によって捉えられるに至った顛末てんまつをもつけ加えた。
 この事があってから丸一日は何事もなく経過した。五十嵐老博士はまだ無意識状態をつづけていたが、上田市から来ている外科病院長の医学博士は、負傷者が漸く絶望状態を脱したという診断を下し、それを人々に告げ知らせた。望月少佐は不必要と思われるまで厳重に老博士の病室を監視しつづけた。そして、何事もなく一夜があけてその翌日の夕方、少佐の予感は的中して、実に異様な出来事が起ったのである。
 望月少佐にこの事を告げたのは、設計班の一員南工学博士の妹京子であった。その夕方、京子は下の温泉村に用事があって外出したが、その帰り道、たそがれ時のほの暗い木下道このしたみちで、新一の姿を見た。新一は何かに憑かれたように道もない茂みの中へ突き進んで行った。夢遊病者のような感じであった。京子はその時の唯ならぬ様子を、こんな風に語った。
「私が呼びかけようとしますと、新一さんは手を上げて私が物を云うのを制するように見えました。そして、一心に前の方を見つめたまま、道もない茂みの中へ入って行くのです。もう暗くてよくは分りませんでしたが、新一さんは誰かのあとを追っていたのに違いありません。茂みの奥にガサガサという物音がしていたようです。誰かがそこを這って行ったのです」
「這って行ったのですか」妙な云い方だったので、聞き返すと、京子はハッとしたように脅えた眼をみはった。
「エエ、そのものは茂みの底を這っているように感じられたのです。蛇かなんぞのように」
 新一のあとを追おうか追うまいかと躊躇ちゅうちょしているうちに、新一の姿は木下闇の茂みの中へ溶けるように消えて行った。ガサガサという物音もしなくなって、じっとその場にたたずんでいると、何か夢でも見たような異様な感じに打たれた。本当に今のは新一の姿であったのか。それとも山中のときの幻に過ぎなかったのか。京子は判断に迷った。そして何とも知れぬ恐怖に襲われ、あとをも見ずに別荘に逃げ帰ったが、帰って探して見ると、新一はどこにもいる様子がなかった。やっぱり幻ではない、新一は何者かを追って山の中へ入って行ったのだ。そう判断すると京子は直ちに兄南博士にこの事を告げ、兄と共に望月少佐の前に出て、委細を報告したのである。
 その夜から翌日にわたって附近の山中、温泉村一帯の探索が行われた。望月少佐の部下の憲兵達は勿論、設計班の学者達までも、手分けをして出来る限り探し廻ったが、新一は神隠しにでも会ったように、全く行方が分らなかった。新一が自ら失踪する筈はない。何物かにかどわかされたとしか考えられぬが、女子供ではあるまいし、大の男がそんなに易々と拐されるのは、ちょっと想像も出来ない不思議な出来事であった。
 この異常事に引続いて、新一が行方不明となった次の日の真夜中に、更らに一層驚くべき事件が起った。
 五十嵐老博士の病室は、その夜は殊更ら厳重に警戒されていた。開け放った扉の次の間には望月少佐が眠り、もう一つの出入口の外の廊下には、一人の憲兵が寝ずの番を勤めていた。病室にはこの二つの扉の他に出入口はない。
 患者の寝台の枕下に小卓が置かれ、その上にのせた絹張り傘の電燈が、室内をおぼろに照らしていた。小卓の向側は庭に開いた押上げ窓である。庭に面してはいても、ここは階上なので、長い梯子がなくては外部から侵入することはできない。庭には見張りがあり、又室内には絶えず人目がある。この方面からの攻撃は殆んど不可能と考えられていた。
 ところが、敵はその虚をついて意外の一撃を加えたのである。その夜更け、一時を少し過ぎた頃、窓の垂れ幕が風もないのに幽かに揺れて、押上げ窓のガラス戸の下部が僅かに開かれ、そこから黒い手袋をはめた手が、一匹の生物のように、室内に這い込んだのである。
 その時室内には患者の外には一人の看護婦がいるばかりであった。しかもその看護婦は寝台の枕下の椅子に腰かけて、コクリコクリと居眠りをしていた。黒い手は窓と寝台との間にある小卓に伸び、その上を巧みに這い廻って、盆の上の水薬のびんを掴むと、そのまま窓の外へ消えて行ったが、一分もたつかたたぬに、再び黒い手は窓から忍び込んで、薬壜を元の位置に置いた。壜の中身に何ものかが加えられたか、壜そのものがすり換えられたのであろう。曲者は縄梯子を用いたのに相違ない。そして、見張番の目をかすめ、僅々数分間の早業で目的を果し、いち早く逃走したものであろう。
 韮崎庄平ではない。いかな奇術師の彼も、東京と長野県の山中とに、同時に現われることは不可能である。分身の術などというものが現実に行われ得ようとは考えられぬ。別人である。韮崎よりも遙かに実際的な、恐ろしい奴がこの山中をさまよいはじめたのである。

穴居人けっきょじん


 その翌日午前十時、五十嵐老博士の逝去せいきょが発表せられた。博士夫人は同じ別荘の別室に病臥していたが、まだ高熱が去らず、歩行もむつかしい状態だったので、博士の臨終には看護婦の助けによって、辛うじて枕頭に侍することが出来たばかりであった。新一は行方不明であり、他に呼び寄せるような親戚とてもなく、老博士逝去によって生じた一切の事務は南博士と望月少佐の両人が取りしきってこれに当った。
 博士急逝の原因は殊更らには発表せられなかった。多くの人々は曲者によって負わされた傷所の悪化による逝去であろうと考えていた。本当の死因を知っているのは、主治医の外科病院長と、望月少佐と、南博士の三人だけで、南博士の妹の京子や看護婦でさえも、それを打ちあけられてはいなかった。
 老博士の遺骸は、上田市から運ばれた棺に納められて、三日の間別荘に置かれていた。云うまでもなく新一の帰宅を待つためである。しかし新一は帰って来なかった。そこで望月少佐と南博士の責任において、簡素な葬儀が取りおこなわれ、五十嵐博士の遺骸は上田市の火葬場の煙となった。
 別荘の住人一人として老博士の急逝に涙を流さぬものはなかったが、共働者の学者達、望月少佐をはじめ憲兵隊の人々の歎きは又一入ひとしおであった。個人の死をいたむというよりは、国家の損失を歎いたのである。戦局を一挙に決せんとする大計画の挫折を悔んだのである。
 望月少佐がこのことに関する全責任を一身に負うたのはいうまでもない。では少佐はこの事件から身を引いたのであるか。決してそうではなかった。逆に少佐はこれまでよりも更らに深く事件の中に身を投じて行ったのである。
 木本博士、南博士その他設計班の学者達は、善後策について慎重な協議を行い、陸軍省の指示を待って、この大事業を彼等の手によって継続して行くことを決意した。この超速航空機の設計については、五十嵐博士でなくては処理し得ない部分が非常に多かったが、それにも拘らず、学者達は万難を排して、五十嵐博士の遺業の完成に邁進まいしんすることを誓い合った。
 五十嵐老博士逝去の日から、慌しい五日間が過ぎ去った。六日目の朝、やっと寸暇すんかを見出した望月少佐は、久し振りで朝食後の山の散歩に出かけた。少佐はその日一応東京に引上げることになっていたので、別荘附近の山の風景に名残りを惜しむ散策であった。
 背広服に鳥打帽、ステッキを振りながら先ず見晴台へ登った。ここはかつて五十嵐新一と南京子とが、別荘の煙突から這い出す曲者を発見した場所である。望月少佐もそのことは新一から聞いてよく知っていた。
 少佐は見晴台の大石に腰をおろして、遙か目の下の温泉村のいらか、渓流、それよりはズッと手前の山の中腹の別荘の建物などを眺めた。曲者の這い出したという四角な煖炉の煙突ははっきり見えているが、今日は何者もそこから這い出すけはいはなかった。
 しかし、何かしら予感があった。どことも知れずこの山そのものが、少佐の心を異様に引きつけているように感じられた。少佐は見晴台から更らに山上さんじょうへの細道を辿って見ようと考えた。殆んど道とはいえないような道を小半丁も登ると、林が開けて五六坪の平らな草原に出た。ふと気がつくと足下の草の中に黒いものが落ちていた。少佐はそれを拾い上げた。万年筆である。落ちてから大して日数がたっているとも見えぬオノト万年筆である。少佐は新一が胸のポケットにはさんでいたのも確かオノトであったことを思い出した。そして、俄かに緊張した面持になって、あたりを見廻すのであった。数日前新一の捜索が行われた時、人々は別荘よりも下の山中から温泉村にかけての地域を主として探し廻り、別荘よりも上のこの辺は見逃されていたのである。
 少佐の鋭い眼は草原の一方の端に注がれた。そこが急な坂になって、土に何かの辷ったようなあとがついていたからである。近づいてよく見ると、土の斜面に靴底の一部がハッキリ印せられていることが分った。
 その斜面を降りて、注意深く茂みを分けて進んで行った。そして、道なき道を五六分も辿った時、少佐はハッとしたように立ち止って聴き耳を立てた。何か幽かに音がする。動物の唸り声か、イヤ、人のうめき声のようでもある。少佐はステッキで足下を突き試みながら、注意深く静かに声のする方へ進んで行った。
 五六歩進むと、ステッキの先が固いものに当って音がした。しゃがんで草を分けて見ると、太い松丸太が四五本、縄で縛って、蓋のように置いてある。耳をすますと、声はその下から響いて来るようだ。丸太の蓋を取りのけると、その下に井戸のような大きな穴が、ポッカリと黒い口を開いていた。
「オイ、そこに誰かいるのか」
 怒鳴って見ると、それに答えるように唸り声が高くなった。底は深くて暗いのでよくも見えぬけれど、どうやらその底に人間が倒れている様子だ。
 穴の中には直立の梯子が懸っている。少佐はそれを伝って一丈ほどの穴の底へ降り立った。上の入口よりも底は広くなっていて、一間四方ほどもある。四方は土の崩れぬよう頑丈な石垣になっている。
 そこに倒れていたのは、想像のごとく五十嵐新一青年であった。グルグル巻きに細引ほそびきで縛られ、手拭の猿轡をはめられて、物もいえず、身動きもできぬ哀れな有様で転がっていた。
 少佐は手早く猿轡をとり、細引を解いてやった。だが、新一は起き上る気力もない。
「望月さん有難う。僕はかならずあなたが助けに来て下さると信じていました。有難う。しかし、父は、父は本当に亡くなったのですか」
 その質問には望月少佐の方で一驚を喫した。
「君はどうしてそれを知っているのです」
「僕をここへとじこめた奴がそういいました。恐らくそいつが父を殺したのです」
「それは何者です」
「分りません。けだものみたいな鬚むじゃの奴です。人間よりも動物に近いような奴です。この穴を住いにしていたのですからね」
「では、そいつはまたこの穴へ帰ってくるのですか」
「イヤ、もう来ません。一昨日そいつが最後に握り飯と水を持って来てくれた時、もうここへは帰らないといって立ち去りました。その時から僕はまったく絶食しているのです」
「それでは、その男は君を死なないようにここへ監禁して置こうとしたのですね。その理由は、君にはその理由が分っていますか」
「それは僕にこの穴を発見されたからです。僕を別荘に帰しては自分の身が危い。といってあいつは父を亡きものにするという目的を果すまでは、ここを立ち去ることは出来ない。そこで僕を虜にしておいたのです。別に僕の命を取る必要はなかったのでしょう」
「なるほど、で、君はこの穴をどうして発見したのですか」
「別荘の下の道であいつを見つけて、ソッと跡をつけたのです。そのことは京子さんが知っている筈です。京子さんと別れてから、僕は道もない茂みの中を、ここまで登ってきたのです。そして、今度は逆に相手に見つけられてしまったのです。あいつは最初から僕が尾行することを知っていて、ここまでおびき寄せたのでしょう。僕たちはずいぶん烈しい取組合とっくみあいをしました。しかしとてもあいつにはかないません。恐ろしく力の強い奴です。猛獣のような奴です」
 新一はようやく起き直って穴の底の石壁に背を凭せていた。望月少佐は両手でステッキにすがるようにして、その前に蹲んでいた。二人とも穴を出ることも忘れて慌しい会話をつづけていたのである。
「意外な奴が飛び出してきましたね。こいつは韮崎庄平などとはまったく別種の人間らしい。むろん日本人でしょうね」
「日本語を使っていました。しかし本当の日本人かどうかは分りません。そこまで深く観察することは出来なかったのです」
「で、そいつは韮崎と、例の指紋の男ですね、あの男と何か連絡があると思いますか」
「分りません。その点については、こちらから尋ねてみても、なんとも答えなかったのです。しかし、無論同類でしょう。目的が同じなのですからね」
 それから望月少佐は五十嵐博士逝去のことと遺骸は上田市で荼毘だびし、遺骨は病中の博士夫人に代って南京子さんが預かっていることなどを告げ知らせた。
「あなた方に対しても、また国に対しても、まことに申訳ないと思っています。すべて僕の責任です。しかしこれについては、いつかきっとお詫びする折があると思います。十分お詫びする時がくるだろうと信じています」
 少佐は何事か期するところあるものの如く、力強くいうのであった。
「イヤ、僕こそ不甲斐ない始末です。こんなところに虜になってしまって、父の臨終さえ知らなかったのですからね。僕にしては、責任は僕にこそあると考えています。父の霊を慰めなければなりません。父はどんなに無念だったでしょう。それを思うと僕は涙が溢れ出るのです。声を上げて泣きわめいてもまだ足りないように思うのです。僕はきっと復讐してみせます。この間諜団の一味徒党を一人残らず探し出して、根絶ねだやしにし、父の無念をはらさなければなりません」
 昂奮こうふん飢餓きがとのために肉体の正調を失した新一青年は、憑かれたように悲憤の言葉を喋りつづけた。
 そこは山中の洞窟の中である。それにけだものに近い人種が穴居生活をしていたのだ。その地の底で新一はとめどもなく歎きと呪いの言葉を吐き散らすのであった。
 望月少佐は新一の顔をじっと見つめていた。何か意味ありげに、その白い美しい頬を凝視していた。
 薄暗い穴の底のこの異常な光景は、鋭いメスでえぐられるような鮮かなふかい印象を与えた。少佐にとっても、新一青年にとっても、この一瞬間には、何かしら一生涯忘れられないような異様な感銘があった。
 かくて五十嵐老博士の死を境として、事態は一転した。一方には残った学者たちによる老博士の遺業完成への精進があった。
 温泉村の別荘には、一種の殺気ともいうべきものが漂いはじめた。国運を賭けた学者たちの精進は、それほど烈しかったのである。そして、この科学者の情熱はついに実を結び得るかいなか。
 一方には間諜団捜査の大事業があった。その主人公はいうまでもなく望月憲兵少佐である。それについで、五十嵐新一青年の復讐の一念もまたあなどり難いものがあった。
 錬金術師韮崎庄平は果して間諜団の首魁しゅかいであったかどうか。新一を捉えたけだもののような穴居人はそもそも何者であったか。イヤイヤそれらの事よりも、この事件全体を覆っている一種幻怪なる雰囲気、不可説の謎、底知れぬ善悪二道の執念、それらの奥には一体何事が、何者が、いかなる秘密が潜んでいたのであろうか。

F3号


 大統領ルーズベルトは巨大なる安楽椅子の中で、腹を抱えて笑い入っていた。「エフ、エフ、エフエフエフエフ」と聞えるしゃっくりのような笑い声が止めどもなくつづいた。
 白堊館階上の例の秘密引見室である。もう夜が更けていた。電燈は極度に減光されていた。広い薄暗い室内には大統領の外にたった一人、背の高い男がヒョロリと立っているばかりであった。その男は笑い入っている大統領の安楽椅子の前に、針金のように痩せた長いからだを、さもうやうやしげに直立させていた。彼は陸軍省機密局長オブライエンであった。
 オブライエンは今宵はじめてこの大統領私室への単独伺候しこうを許されたのであるが、入って来るがいなや、大統領のこの途方もない笑い声にぶつかって、あっけにとられたのである。
「エフ、エフ、エフ、き、きみ、君は、あのジャップ・キッドという奴を見たことがあるかね。わしはさっき下の広間で、ジャップ・キッドの映画と、腹話術の人形とを見せられたのだよ。エフ、エフ、エフ、実に奇妙じゃ。日本人の猿めがウロウロキョロキョロと醜態をさらしおる。実に抱腹絶倒じゃ。エフ、エフ、エフ、ことにジャップ・キッドの人形は傑作じゃ。腹話術でキイキイと猿のような声を出しおる。あのジェンキンズという腹話術師は実に名人だね。君は見たことがあるかね」
「見ました。ジャップ・キッドの猿芝居は、あらゆる種類のものを見ております」
 オブライエンはうやうやしい態度のまま、しかしニッコリともせず、苦虫を噛みつぶしたような顔で答えた。
「アア、そうだ。こいつは君の方が専門だったね。あのジャップ・キッドを発明したのは、ひょっとしたら君の方の宣伝部じゃないのかね。こいつはいい思いつきだ。あの醜悪な猿めの芝居は、全国の興行街の人気をさらっているというじゃないか。実に傑作だ。これを発案した男には勲章をやってもいいくらいだね」
「閣下、あれを思いついたのは、決して私の部下ではございません。ブロード・ウェイの猿智恵興行師が考え出したものです。全く金儲けのために考案せられたものです。閣下、わたくしはあの興行を禁じた方がよいと考えております。ジャップ・キッドの演劇も人形芝居も映画も、一切厳禁すべきだと考えております」
「フフン、君はそう思うのだね。その理由は」
「理由は戦争に悪影響を及ぼすからです。わたくしは日頃から、日本人を猿のように殊更ら醜悪化した漫画や、ジャップを『虫けらインセクト』などと呼んで得意がっている新聞、雑誌の記事を見るたびに、実に苦々しいことと思っております。交戦国の人民を軽蔑することは、なるほど痛快には相違ありませんが、古来、相手を頭から軽蔑してかかって勝ち得た戦いはないのであります。ことに日本のごとき一種不可思議なる戦争哲学を持っている強国に対して、アメリカ人全体がそういう軽蔑感を持ってしまっては、由々ゆゆしい大事であります。
 これについては、先日前駐日大使のグルウさんとも話し合ったのでありますが、グルウさんもまったく私と同じ意見でありました。猿のような取るに足らぬ国民だと、相手を呑んでかかるのは結構ですが、そのために前線の軍人が日本人を軽蔑してしまっては大変です。日本の軍隊は決して猿の群ではないからです。
 ヒトラーは『わが闘争』の中でこれを戒めております。陸軍下士官ヒトラーの前大戦における体験です。ドイツの戦時漫画が敵国人を馬鹿にしたようなものばかり描いていたのは誤りである。前線におけるその報いは実に恐るべきものがあった。敵の強力な抵抗にぶつかって、ドイツ兵は国内で聞かされていた軽蔑すべき敵とは、全く違ったものを感じ、この不意打ちに会って気おくれを感じたのである。敵国人軽蔑の国内宣伝は厳に戒めなければならぬと書いております。グルウさんも、このヒトラーの言葉を思い出して、ジャップ・キッド劇の流行を苦々しいことだ。自慰的な独りよがりだといっておりました」
 大統領は、この苦言に耳を貸して笑いをやめた。そして、腕組みをした一方の手で顎を撫で廻した。
「なるほど、その点はグルウ君や君のいう通りだ。わたしは国内の士気を盛んにすることばかり考えていた。ジャップ・キッドの見物人の中には、やがて前線にく軍人が多数まじっているということを忘れていた。君のいうようにジャップ・キッド劇の禁止令を出さなくてはならぬかも知れん。だが、それはいずれゆっくり考えるとして、さし当って今夜の問題だ。君の報告を聞くことにしよう」
 大統領は椅子の中で居住いを直して、オブライエンの鋼鉄のように痩せた顔を見上げた。
「東京のF3号からの通信です」
 オブライエンは猫背になって、大統領に顔を近づけ、声を低くした。
「それは聞いている。通信の内容は」
「例の高速度飛行機の設計ノートを盗み出して焼き捨てたのです」
「こちらへ送る手だてはなかったのだね」
「そうです。焼き捨てる外に方法がなかったのです。それから……」
「ウン、それから」
「発明者を天国へ送ったと報じて来ました」
「民間の老科学者だったね」
「そうです。一度刺殺しようとして失敗し、二度目には毒薬で成功したといっております。この男の脳髄と一緒に、高速度飛行機の構想がほうむられたのです。日本の陸軍省が非常な期待をかけて援助していた発明がまったく無に帰したのです。F3号の大功績です。見方によっては太平洋の島嶼とうしょいくつかを占領したよりも大きな手柄です。F3号の愛国心に報いるところがなくてはなりません」
「無論、十分の論功行賞ろんこうこうしょうをしなければならぬ。差当さしあたってわたしの名で感謝の意を表しておいて下さい。そういう通報をしておいて下さい。ところで、今夜の君の話はそれだけかね」
「イヤ、まだほかにございます。やはりF3号とその同僚の活動に関する御報告です」
「ウン、東京における活動だね」
「そうです。わが駐日宣伝班の功績についてであります。今度の高速度飛行機設計ならびに試作の一件は、特別に重大でありましたために、陸軍長官を通じて閣下のお耳に入れる手続をとった次第でありますが、F3号の一団のやっております仕事は、無論これだけではありません。小さいことを申しますれば、日本商船の出航日時、航路などをわが潜水艦隊に通報して手柄を立てたことも一度や二度ではありませんが、それよりももっと重要なのは、日本国民を敗戦思想にみちびくための秘密工作です。F3号からの中継無電通報によりますと、日本国内の食糧事情は相当困難になっております。もっともこれは日本が一面において農業国であるという前提のもとに、農業国にしては随分窮屈な食糧事情になっているというに過ぎないのでありまして、かかる情報をただちに楽観材料とすることは厳に戒めなければなりませんが、日本人としては、農業国であり、食糧問題には自信を持っていただけに、現在の窮屈な状態が相当身にこたえているのであります。これこそわれわれが利用すべき敵の弱点です。この虚に乗じて敗戦思想、厭戦えんせん思想を植えつけなければ、ほかにその機会はありません。
 F3号の一団は無論そのことをよく承知しております。彼らは東京ばかりでなく、日本全国の重要都市に触手を伸ばし、あらゆる手段を用いて食糧問題に関する流言を放っております。支那方面で申しますと、上海にはQ三十一号の本拠があり、香港にはQ七号の本拠があり、香港以南の諸都市にはその部下が配置されています。これらのものがF3号と相呼応して流言を製造しているのであります。
 流言は食糧問題ばかりではありません。戦況についても、日本国民の士気を沮喪そそうせしめるためのあらゆる流言が放たれております。つい数週間前、日本領海内において、わがアメリカ艦隊が全滅の悲運に会したという流言が放たれたことがあります。むろん日本国内においてです。これは上海のQ三十一号の創意でありました。そうして一時日本人を有頂天にさせておいて、後にそれが虚報であったと分り、ガッカリした隙を狙って、厭戦思想を振りこうという工作です。しかし残念ながらこれは失敗でした。日本政府が時期を失せず明確な言明を発表して流言を粉砕したからです。そういう裏の裏を考えた流言工作すら行っているのであります」
「で、F3号の食糧問題に関する流言の結果はどうだね」
「まだはっきりした結果は分りません。兎も角食糧問題を根幹として、厭戦思想挑発のあらゆる手を打ちつつあるという報告を受取っているのであります。
 戦争以来日本に隣組という国民組織ができていることは御承知の通りですが、その隣組は月に一度または二度ぐらい全員が集まってお茶の会のようなものを開くのです。その会では色々な世間話がはずみます。ここに流言の温床があるのです。F3号の一団も恐らくこの隣組お茶の会に向かって、盛んに流言を注入しているに相違ありません。
 日本は戦争に勝つために隣組の組織を作ったのですが、逆にその隣組お茶の会が流言の温床となり、敗戦思想伝播でんぱの役割を勤めるならば、われわれにとってこれほど望ましいことはありません。アメリカ機密局は、したがってF3号の一団は、日本の隣組がそういう風にわれわれに好都合な方向に進んで行くことを衷心ちゅうしんより希望しているのであります。
 F3号の触手は軍需工場にも伸びていることは申すまでもありません。日本は今われわれの国の軍需生産力に追いつこうとして、あらゆる手段を講じております。日本中が飛行機工場になっていると申しても過言ではありません。兵隊以外のものは全国民、男子も女子も工員に変りました。そして一日でも一時間でも早く、わがアメリカの軍需生産量に拮抗きっこうしようとしているのです。日本の全国工場化の猛進ぶりは実に恐るべきものがあります。戦線において死を恐れぬ国民は、生産工場においても勇猛心をもって戦っているに違いないのです。我々は一刻もこのまま放任しておくことはできません。あらゆる手段を講じてこれを妨害しなければなりません。F3号の使命はそこに在るのです。
 F3号の一団は、重要軍需工場に触手をのばして、工員の怠業を挑発しております。食糧問題をこれに関聯せしめ、闇取引の助長をはかり、悪徳を流布るふして、工員の愛国心、正義心を破壊するために全力を尽しております」
「で、その成果は」
「やがて報告に接することと思います。F3号は高速度飛行機設計者を天国に送り、その設計ノートを灰にして、ここに重要任務に一段落を告げたので、本来の思想謀略、生産力破壊謀略に全力を注ぎはじめたのであります。そしてその活動は相当広範囲にわたり、F3号独特の執拗さで継続せられることと信じます」
「よろしい。それではF3号にわたしの名で感謝の意を表するとともに、新しい使命の成功を祈ると伝えてくれ給え」
 大統領はそういい終ると、安楽椅子にガックリと身を沈めて、物思わしげに腕組みをした。オブライエン機密局長官は、びっくりして目の前の大統領の顔を見つめた。その顔は恐ろしいほど変って見えたのである。平べったい顔面に突如として陰惨なる影を生じ、肉はたるみ、額と頬に幾百本の深い皺がきざまれ、目の下に黒いあざのごときものが現われ、一瞬間前までの闘志満々たる大統領は、たちまちにして気息奄々きそくえんえんたる瀕死の老翁ろうおうと化し去ったのである。
「オブライエン君、君だから遠慮なくいうのだが、わたしはときどきこの戦争の重荷に耐えがたくなる時がある。いま丁度この悪夢が私の上にのしかかって来たのだ。アメリカはいま生産力の絶頂にある。戦線は八方に伸ばせるだけ伸びきっている。一年以前までは敵国日本が感じていた補給戦の困難が、今こそひしひしとわれわれに襲いかかっている。食糧事情の悪化は敵国のことではない。わたし達の身辺にもそれが厳しく迫っている。農業国アメリカの農園は今や刻一刻荒廃しつつある。
 オブライエン君、わたしは大統領だ。だから国の内外の最重要事情については、君たち以上によく知っている。あらゆる機密がわたしの狭い脳髄の中で押し合っている。そして、その重圧がわたしを耐えがたくする時があるのだ。広大なる祖国アメリカの土地と人民と光栄ある歴史とが、この小さなわたしたちの身体を圧しつぶそうとするのだ。
 戦いの勝敗を決するものは、飛行機や戦車や軍艦ではない。わたし達はそういう物の力を信じ過ぎてはいけない。本当の勝敗の要素は国民だ。全国民の気力如何いかんにある。そして、ここにこそ祖国の危機がはらまれているのだ。大衆は戦線の伸びきったこの困難な状態を有頂天になって喜んでいる。ジャップ・キッドの芝居にうつつをぬかしている。そうだ。いかにも君たちのいう通りあの芝居はいけない。本当のわれわれの敵はあんなけちな道化ものではないからだ。
 日本のマツオカがヒトラーを訪ねた時、ヒトラーは日本の国体がうらやましいといったそうだが、あれは外交辞令ではない。このわたし自身も同じように感じている。敵国日本の国体が戦争にはもっとも強い国体であることを認めないわけにはゆかぬ。わたしはいつかチャーチルとこのことについて話し合ったが、あの敗けず嫌いのチャーチルすらも、日本の強味はそこにある。それが怖いのだといっていた。それが怖い。オブライエン君、それが怖いのだ。君はわかるかね、それが怖いのだ」
 大統領は悪夢にうなされているかのごとく見えた。額の大きな皺の間に、そこの生毛の先に、ビッショリ汗の玉が浮かんでいた。
 覆いをかけた薄暗い電燈の光、黒いカーテンをかけつらねた窓々、陰影のおおい広い冷たい部屋、外界の物音はまったく遮断せられ、シーンと静まりかえった大気、その暗く広い部屋のまん中、安楽椅子にうずまった大統領の頭上には、何かしら鬼気のごときものがただよっていた。東洋の神秘の国、そこの神々の怒りが、呪いの煙となって大統領をおおい包んでいるかに感じられた。
 瀕死の老翁に変貌せる大統領、夢魔にうなされている大統領、その身辺に揺曳ようえいして陰々と耳朶をうつ声なき声、朦朧もうろうとして視界を横ぎる姿なき姿、鋼鉄のごとき神経の持主オブライエンも、この神秘なる霊的現象には、一種いうべからざる戦慄を感じないではいられなかった。

滝の乙女


 ちょうどその時、東半球日本国信濃しなのの国の山中、清々しい山気と朝靄の中に、一つの奇蹟がおこなわれていた。
 五十嵐新一は父博士の死後も、温泉村の山荘に踏みとどまって、高速度飛行機設計班の学者たちと起居をともにしていた。科学者でない彼は直接設計の仕事に加わるわけではなかったが、母夫人がまだ病床に横わったまま東京に帰ることもできない状態にあったので、一つはそのために山荘の滞在が長引いていたのである。
 しかし新一青年の心の底を探って見ると、彼をこの山荘に引きつけているものは、まだその他にもあった。それは南工学博士の妹京子である。五十嵐博士の死後、この清純なる乙女の容貌に一種聖なるやつれともいうべき変化が現われて、その身辺にただならぬ気配が感じられた。新一は誰よりも先にこの変化に気づき、それとなく京子の動作に注意を怠らなかったが、ある早朝、彼は遂にその謎を解くことができた。
 まだ明け切らぬ朝靄の木立のなかを縫うように、京子の姿が温泉村の谿谷けいこくへと急いでいた。山荘の人々は誰も起き出でてはいなかった。新一青年も寝間着のまま、ガラス窓越しに、夢のような京子の姿を垣間見たのである。
 果して京子は人知れず何事かを行っているのだ。新一は手早く衣服をつけて、そのあとを追った。相手に悟られぬよう朝露に裾を濡らして尾行した。
 京子のおぼろな姿は、林を縫い草を分けて、温泉村の遙か上手の谿谷へと降りて行く。谷川のせせらぎは近づくに従ってその音色を高め、遂に滝の音と変る。木の枝越しに天降る白い帯が見える。冷たいしぶきが頬に感じられる。
 三丈ほどの断崖から、落ちる細い美しい一本の滝、その滝壺の岩の上に、何かしら神々しい白いものの姿がスックと立っている。
 新一は声を呑んでそれを見入った。黎明れいめいの山気に包まれ、滝しぶきと朝靄に霞んだその姿は、白い浴衣一枚になった京子であった。京子が滝にうたれているのであった。
 黒髪はとけて肩に流れ、白衣の長い袂はもつれて肌にまとい、瞑目した白い顔には血の気もなくて、合掌せる手先と、岩をふまえた素足の指にほのかな桃色がただよっていた。
 滝つせは黒髪を乱し、肩をうち、白衣の肌を伝い流れ、弾き飛んで、濛々たる水煙となり、神秘なる乙女の姿を神々しくぼかしていた。
 水煙の中に色をうしなった唇はかすかに動き、合掌せる手首は烈しく震えて、彼女は一心不乱に何事かを念じているのである。
 新一は乙女心の烈しさにうちひしがれて、晩秋の冷気の中に立ちすくんでいた。長い長い間、身動きもせず、息さえ止まる思いで、その神々しいものを見守っていた。手に汗を握り、涙を流し、憑かれたように立ちつくしていた。
 どれほどの時がたったのか、ふと夢がさめたようにわれにかえって見ると、すぐ目の前の林の中に、いつの間に着更えたのか、もんぺ姿の京子の現実の姿があった。
 新一は木の枝をかき分けて、その傍へ近づいて行った。京子も物音に気づいて振り返った。
「マア、新一さん、とうとうあなたに見られてしまいましたのね」
 京子はまだ青ざめた片頬に、ほのかな微笑を浮かべて、静かにいうのであった。
「毎朝、ここへ来るのですか」
「エエ」
「何を祈るためにです」
「お分りになりませんの」京子は幽かな憤りを見せて、やや烈しく聞き返した。
「分っているような、分っていないような」
 新一は曖昧な答え方しかできなかった。
「あなたは残念ではありませんの。お父さまはあんな目におあいになり、設計は駄目になり、お国は計ることもできない大きな損害をこうむったのです。男の方はそれをどう考えていらっしゃるのでしょう。なんだか暢気のんきすぎるような気がするのです。わたしはじっとしていられませんでした。でも、女には物を考える力も、事をなしとげる力もありません。ただ祈るばかりです。命を的に祈るばかりです」
 京子の烈しい言葉は、滝の音を圧して新一の耳に響き渡った。冷たい水しぶきとともにその声が彼の頬を打った。
「わたしは、五十嵐先生のあとをついで、このむずかしい仕事をなしとげようとしている兄達の念願を、どうかおかなえ下さいと祈るのです。あなたがお父さまのかたきを見つけて、お国のために仇をお討ちになれますようにと、それから、お可哀そうなあなたのお母さまの御病気が一日も早く治りますようにと祈るのです。
 そして、それらをひっくるめて、帰するところは、この大戦争にお国が勝利を得ますようにと、わたしのこの小さい生命を捧げて祈っているのです」
 新一は乙女心の烈しさにむちうたれる思いで、涙ぐんで京子の気高い顔を見上げた。
「京子さん、有難う。父のことや母のことを祈って下さって有難う。京子さん、いま僕がどんな心持でいるか、あなたには到底分りません。僕はそれを云い表わすことができないのです。今はできないのですが、しかし京子さん、よく覚えておいて下さい。この滝の前で、この林の中で、涙を流している僕を、よく覚えていて下さい。いつかお話しする折があるでしょう。僕の本当の心持をいつか詳しくお話しする折があるでしょう」
 新一は真実涙を流していた。なめらかな白い頬をキラキラ光る露の玉が、つぎつぎと辷り落ちて行くのが眺められた。
 新一は京子の手をとっていた。二人はまだ明けやらぬ山気の中に、じっと立ちつくしていた。この朝のこの一ときが、二人の運命にとって、どのような深い意味を持つかも知らずして、彼らは銘々の心の中を、静まり行く激情の波頭を静かに眺め入るのであった。

女工員


 五十嵐博士変死事件の半月ほどのち、老博士の遺志を継ぐ学者達の研究室は、不吉な××温泉村の別荘を引きはらって、そこから自動車で一時間半の高原地帯にある大和航空機製作所内に移転した。同製作所は、大東亜戦争勃発以来各地に新設せられたこの種工場のうち、もっとも大規模で優秀なものの一つで、そこの奥まった一棟が、五十嵐博士超高速航空機試作工場に当てられていたのである。
 学者達は、それぞれ社宅をあてがわれて、そこから試作工場附属の設計製図室にかよい、以前からそこではたらいていた数十名の製図技手を使用して、設計の仕事をすすめて行くのであった。
 五十嵐新一はこの移転を機会に一先ず東京に帰ることになった。その後も病状思わしからぬ母夫人を、いつまでも山中にとどめておくわけには行かなかったからである。しかし、彼は父の遺志をつぐひとびとに深い関心を寄せていたことはいうまでもなく、帰京後もなんとか都合をつけて、しばしばこの工場をおとずれていたのである。
 望月憲兵少佐も東京に引上げた。無論犯人の捜査を断念したわけではない。むしろその捜査を徹底的におこなわんがためにこそ東京に帰ったのである。
 少佐がどの方向に捜査の探針を動かしているかは誰も知らなかったが、帰京後の少佐が、その時間の大部分をこの事件のために費していたことは間違いなかった。
 南京子は兄博士のそばを離れなかった。彼女は一行とともに大和航空機製作所にうつり、兄博士を説き伏せて、そこの女工員となった。附近の村々からあつまった娘さんたちにまじって、油まみれになって、工作機械にとりついている。
「やがて兄さん達の研究が完成して、試作機の製作が始まったら、わたし、その試作工場に廻してもらいます。そしてわたしの手で五十嵐先生の飛行機を造るのです。ニューヨークやワシントンを爆撃する飛行機を造るのです」
 京子は身をもって兄博士の精進をうながしたのである。
 移転後一ヶ月が経過した。その間、表面においてはこれという出来事もなかった。南博士達の仕事は遅々ちちとして進まなかった。五十嵐博士をうしない、その設計ノートまでも盗み去られた設計班は、羅針盤をうしなった船のごときものであった。正しい進路を採って急速に船を進めることは殆んど不可能といってもよかった。
 ある日、五十嵐新一が工場を訪れた。人々が彼を歓迎したことはいうまでもない。仲間だけの晩餐会が開かれたりした。新一は数日滞在の予定であった。彼は到着の翌日、昼食後の休みの時間を、京子と二人だけで、裏山の林の中に過した。
 葉の落ちつくした雑木林に、暖い陽光の降り注ぐ小春日和であった。二人はよく乾いた深い落葉を踏みながら、肩を並べて歩いた。
「僕はいつもびっくりさせられます。あなたはその手で僕の父の飛行機を造ろうとしているのですね。敵の都を爆撃する飛行機に、あなたの魂を封じこめて置こうというのですね」
 京子は新一の讃美に応えて目を伏せた。
「わたし、そうしないではいられませんでしたの。たとえお父さまのお考えになったようなすぐれた飛行機でなくても、普通の爆撃機や戦闘機にしても、日本の女は誰でもわたしと同じことを考えるだろうと思いますわ。その一部分にでも自分の指を触れておきたい、魂を封じておきたいと考えないではいられないと思いますわ。今わたしと一緒に働いている、この近くの村の娘さん達も、みんなそういっています。こうしてわたし達が手を触れ、魂をこめ、汗を流して造った飛行機に、空の勇士がお乗りになって、地球のどこかの空で、敵の飛行機と一騎討ちをなさることを考えると、娘さん達は胸がドキドキするっていうんです。
 怖いような、嬉しいような、神々しいような、何ともいえない気持なんです。みんな憑かれたようになっているんです。こんなにはたらきたい気持になったことは、生れてから一度も無かったというんです。みんな本当に一生懸命なんです」
 京子は涙ぐんでいた。しばらく言葉が途絶え、サクサクと落葉を踏む音ばかりが耳立ったが、やがて彼女はふと何か重大なことを思い出した様子で、真剣な表情になって話し出した。
「この前、滝にうたれているところを、あなたに見られてしまいましたわね。残念なことにあれは七日しか続けられませんでした、こちらへ移ることになったものですから。でも、その七日の間に、わたし、色々なことを見たり聞いたりしましたのよ。
 滝にうたれて一心になって祈っていますと、初めは寒くって、痛くって、本当に苦しいのですけれど、しばらくすると、その苦しさが分らなくなってしまうんです。そして鳥の声が美しく聞えて来るのです。不思議なことに、神通力でもさずかったように、色々なことが見えたり聞えたりして来るのです。
 新一さん、わたし、あの滝の下で、あなたのお父さまとも度々お会いしましたのよ」
「エッ、父とですって」
「エエ、お父さまの魂とお会いしたのかも知れません。でも、わたしには、お父さまは生きていらっしゃるとしか考えられませんでした。お父さまは、拳を握りしめて、悪人め悪人めと誰かをお呪いになって、飛行機はきっと完成させて見せる。完成させないでおくものか、と何度も何度もくり返しておっしゃったのです。
 それから、わたし、望月さんがどういうお方であるかということが、あすこにいる間にハッキリ分って来ました。あの方は、わたしがそれまで考えていたよりも、ズッと奥深くて、偉い方です。わたし達の知らないことを非常にたくさん御存じなのです。あの方はきっと犯人を探し出して、あなたのために復讐して下さるに違いありません。わたしにはそれがよく分るのです」
「ウン、それは僕も信じている。僕は出来る限り、あの人のお手伝いをする決心でいるのですよ。しかし、今のところ状態は悪くなるばかりです。君はまだ聞いていないでしょうね、韮崎という被疑者が獄中で変死したことを」
「アラ、そんなことがありましたの」
 京子はびっくりして立止った。
「むろんあいつは敵の中の一人に過ぎない。外にまだ私を洞窟におしこめたけだものみたいな奴だとか、そのほかにも同類があるらしい。望月少佐は今度の事件を、大規模な敵国間諜団の仕業といっていたくらいです。しかし、我々が捕え得たのは、今のところ韮崎一人なのです。そのたった一人の大切な韮崎が、何も自白しない前に、毒を飲んでしまったのです。
 彼がその毒物をどうして手に入れたかは不明です。どこかに隠して持っていたのかも知れません。あるいは彼の自白を恐れる同類が、外部から何らかの手段で毒の入った飲食物を与えて殺したのかも知れません。僕はどうもあとの考えかたの方が本当らしく思われるのです。実に恐るべき相手ですよ」
「マア、何ということでしょう。あいつらはあなたのお父さまをあんな目にあわせ、大切なノートを盗み、その上たった一人の被疑者を殺してしまいましたのね。あいつらはこれで完全に目的を果したというわけですのね。
 新一さん、わたしは滝にうたれている間に、悪者たちのひそひそ話をハッキリこの耳で聞きましたのよ。わたし、顔を見ることは出来ませんでした。みんな西洋の泥棒のように覆面をしていたからです。場所もどこだかよく分りません。暗い地下室のような感じでした。暗くてよく分らなかったけれど、そこに、覆面の奴が五六人もあつまって、ひそひそ相談をしていたのです」
 京子は立止って、目を細くして、どことも知れぬ空間を見つめながら、声を低めて、異様なことを語りはじめた。彼女には何かしら神秘な霊媒とでもいうような特殊の感覚が備わっているのではないかと思われたのである。
「覆面の男達は外国語で喋べっていましたが、不思議にもわたしにはその意味がよく分りました。男達は日本の主だった飛行機工場に爆弾を持ち込んで、重要施設を破壊することを相談しました。種々様々の流言蜚語ひごを放つことを打合せました。イエ、そればかりではありません。もっと恐ろしいことがあるのです。その内の首領らしい覆面の男が重々しい口調でこんなことを云ったのです。
 アメリカ合衆国の空軍部隊は、おそくも三ヶ月以内に、日本本土の大空襲を決行する。空襲は雨天または曇天どんてんの夜間を期し、敵戦闘機の襲撃を避けるため、雲の上の高空より爆撃をおこなう予定である。
 その際、東京、大阪、名古屋三都市の重要施設の所在を、密かに電波によって上空に信号し、爆撃の目標をあたえるのが我々の任務なのだ。我々はその光栄の日を一日千秋の思いで待ち構えているのだというのです。東京にも名古屋にも大阪にも、そういう電波発信装置が、もうちゃんと用意されているというのです。首領はそれを実行する場合の手筈について詳しい指示を与えたのです。
 新一さん、これは夢ではありません。わたしはそれを信じているのです。ですから、なんとかしてそれまでにこの間諜共を残らず捕えなければなりません。望月さんにこのことをあなたからお伝えして頂きたいのです。京子がそれを見たんだとお伝えして頂きたいのです。
 わたしは以前から、もっといろいろなことを見たり聴いたりしているのです。それが皆ほんとうだったのです。わたし、あなたのお父さまにああいうことが起るのを知って居りました。わたしの耳に誰かがそれをたびたびささやいたのです。でも、それをあなたにお知らせすることは出来ませんでした。そんなことは云えなかったのです。わたし、独りで心配して居りましたの」
「あなたは不思議な人ですね。小さい時からそういうことがあったんですってね。あなたの兄さんがいっていました。予言者みたいな奴だって」
 二人は又ゆっくり歩き出していた。黙って足下を見ながら歩いた。落葉が足の下でカサカサと鳴った。一つの意味を持った大気のようなものが、二人を包んで、だんだんその密度を増して行くように感じられた。新一は永い躊躇のあとで、やっとそのことを口にした。
「京子さん、僕はさっき兄さんとあなたのことを話し合って来たのですよ。兄さんはかならずしも不賛成ではないような口ぶりでした。僕は実はそのことを話すために、わざわざやって来たんです」
 京子は顔を上げないで、足下を見たまま歩いていた。歩調は少しも乱れなかった。しかし俯向いた顔が真赤になっているのを隠すことは出来なかった。
「僕は東京の母のところにいても、そのことの外は考えられなかったのです。もうじっとしていられなくなったのです。あなたに逢って、それをお話ししないではいられなくなったのです。不思議なことに、いつか滝にうたれているあなたを見た時から、僕のこの感情は一層烈しくなったのです。僕はあなたを尊敬したのです。敬慕したのです。むろんあなたもそれはお分りになっているでしょう」
「エエ、わたし……」
 京子はやはり顔を上げないで幽かに答えた。耳たぶが、火のように燃えていた。
「京子さん、あなたの本当の気持を聞かせて下さい。僕はそれを聞く為にやって来たのです」
 新一はそういって立止った。京子も歩くのをやめた。二人はいつの間にか相向い合って立っていた。京子は上気した顔を上げて、非常な努力をして新一の眼を見た。二人はむさぼるようにお互の目を見つめ合った。
 京子は口を利けなかった。しかし、その目がすべてを語っていた。二人は十分お互の感情を了解することが出来た。その感情の波は共鳴作用によって、見る見る振幅を増し、あたりの大気をブルブルと震わせ、果ては怒濤どとうのごとき力をもって二人を圧倒し去るのであった。
 二人は手をとって、向い合って、幼児のように、そこに立ちつくしていた。感動の涙が胸の底から溢れて来るように感じられた。京子の目からは美しい液体が、頬を伝ってとめどもなく流れた。

爆弾


 それから二日のち、五十嵐新一の工場滞在中に、京子の霊感を確証するような一事件が突発した。
 新一は設計班の人々の仕事の進捗を見守りながら、ふたたび妨害者の現われることを警戒し、若しそういうきざしがあれば、それを未然に防ぐとともに、父博士殺害犯人を発見し、復讐することを使命としていた。それ故、彼は工場滞在中も、設計室や試作工場ばかりでなく、場内全体にわたって、探偵のような隠密の巡回を繰りかえし、八方に注意の目をくばっていたのである。
 その夕方、彼が新鋭偵察機組立工場の大きな建物の裏を歩いていると、仕事着姿の京子とバッタリ出会った。実は京子の方で彼を探していたのであった。
「新一さん、わたし今妙なものを見ましたの。この組立工場の中です。この中には誰も居りません。組立ての終った偵察機が幾つか置いてあるばかりです。丁度仕事の合間なのです。わたし、職長さんに頼まれた用事があって、今そこへ入ったのです。すると偵察機の蔭に妙な男がうずくまっていました。わたしが入って行ったのでびっくりして隠れたのです。ここの工員が何か悪さをしていたのではないかとも思いましたが、どうもそうではないのです。外から入って来たのに違いありません」
 京子は息遣いせわしく囁くのであった。
「まだいるのですか」
 新一は目で建物を示して囁き返した。
「エエ、いるかも知れません」
 新一は京子をそこに残して、建物の表に廻り、その中へ入って行った。
 巨大なる双発偵察機が一機、二機、三機、古代の怪獣のごとく唖黙って、銀色の翼を拡げていた。見上げる天井のガラス窓には、夕日の赤い色が映っているが、建物全体はもう寺院の本堂のように薄暗くなっていた。
 新一は足音を忍ばせて、巨大な機体の下を歩いて行った。シーンと静まり返っている。眼界全体が霞のような夕闇に包まれている。寒気がひしひしと身に迫る。
「誰だッ」
 彼は突然、立止って身構えをして怒鳴りつけた。偵察機の車輪の蔭に光っている二つの目に気づいたからである。
 相手はサッと車輪の向う側に身を隠した。そしてコトコトと機体のあちらへ立ち去ってゆく足音。
「待てッ」
 新一は機体をもぐって、音のする方角に突進した。
 夕闇の中に国民服を着た大きな男の後姿が見える。男はヒョイと振返って、追手が意外に近いのに驚いたらしく、矢庭に走り出して、建物の外に逃げた。新一は猟犬のようにそのあとを追った。
 建物を出て裏手に廻った時、追いつめられた男がクルリとこちらに向き直った。そして物をもいわず新一に組みついてきた。烈しい格闘が始まった。相手は恐ろしい大男である。腕力では新一に勝目はないように見えた。不幸にしてあたりに人影もなく、新一は単身この強敵と戦うほかはなかった。
     ×     ×     ×
 南京子が工場の事務所に急を告げて、守衛や工員たちと一緒に元の場所へ引返してみると、そこにはもう曲者の姿はなくて、新一が打ちのめされたように倒れていた。服は引きちぎれ、土にまみれ、顔一面に血が流れていた。
 京子は驚いて駈けより、新一の上半身を抱き起そうとした。
「イヤ、大丈夫。それより早くあいつを捕えて下さい。あちらだ。あちらへ逃げたのです」
 新一は苦痛をこらえて途切れ途切れに叫んだ。
 人々は京子だけをその場に残して、指し示された方角へ駈け出して行った。
「京子さん、あなたは事務所へ行って、技師長さんを呼んで来て下さい。医者はそのあとでもいいのですよ。なあに、大したことはありませんよ」
 京子はいわれるままに走り去ったが、ややあって技師長と医務室の主任医師とを伴って引返してきた。
「技師長さん。スパイです。恐ろしい奴です。工場内の全員にこのことを知らせて下さい。見つけ次第ひっとらえるように。それから、もっと重大なことがあります。奴は時限爆弾を持ち込んだらしいのです。僕はこの組立工場のなかで一つ見つけました。擬革の小型スーツケースです。むろん、もっと重要な場所にも仕掛けてあるにちがいありません。工場の隅から隅まで探させて下さい。全工員を動員して捜索させて下さい」
 新一はそれをいってしまうとガックリと倒れた。医師が駈け寄って、顔面の傷の手当を始めた。京子はその側に附き添って甲斐甲斐しく看護婦の役目を勤めた。
「京子さん」
 新一が彼女の手を握って目を開いた。
「エ、何ですの」
「あいつです。ホラ、あなた覚えているでしょう。僕らがまだ温泉村の山にいた頃、僕を山の上の洞穴へとじこめた奴、草の中を蛇のように這っていたとあなたがいった、あの男です。あいつが又この工場へ忍び込んだのです」
 新一は医師の手当を受けながら、ねむいような声で、途切れ途切れに云った。
「マア、そうでしたの」
 京子は一昨日、裏山で新一に語った彼女の幻覚の一つが、既にして的中したことを知って、ふるえおののいた。
 やがて新一は医務室のベッドに運ばれ、本格の手当を受けることとなった。南博士をはじめ設計班の学者達が次々と病室を見舞った。京子は職長の許しを得て、工場を休み、新一の枕頭まくらもとを離れなかった。
 結局、曲者は捉え得なかった。技師長は新一の言葉どおり、工場内の全員をして捜索に当らせたけれども、遂にそれらしい人物を発見することが出来なかった。附近の村々、乗合自動車の停車場等にも人を派して調べたが、何の手掛りも掴むことが出来なかった。
 小型スーツケースに仕掛けた時限爆弾は、工場内のもっとも重要なる三ヶ所の建物において発見せられた。その爆弾は時計を使用し、最小容積に最大の爆発力を納めた極めて巧妙な仕掛けのものであった。
 爆発時間はいずれも深夜であり、三つのうちの二つまでは、爆発と同時に火災を誘発するような場所に隠してあった。もし新一がこのことを気附かなかったならば、大和航空機製作所は一夜にして灰燼かいじんに帰していたかも知れないのである。その功績、まことに顕著と云わなければならない。
「イヤ、それは僕ではありません。南京子さんです。あの人が曲者を発見して、ソッと僕に教えてくれなかったら、とても事を未然に防ぐことは出来なかったのです。京子さんにお礼をおっしゃって下さい」
 工場長が病室を見舞って、感謝の意を表した時、新一はそういって、傍らの京子を赤面させたのである。

世紀の怪物


 事件の翌日の午後おそく、望月憲兵少佐が新一の病室を見舞った。時限爆弾騒ぎの報告を受けて、調査のために東京から駈けつけたのである。
 バラック建ての簡素な病室、木製寝台の上に、頭から顎にかけてグルグルと繃帯ほうたいを巻いた新一青年が横たわり、その枕元には南京子が看護婦に代って附き添っていた。
「そのまま、そのまま。ひどい目に会いましたね」
 起き上ろうとする新一を、手真似で止めながら、背広姿の望月少佐は、京子の直す椅子に腰をおろした。
「ナアニ、大したことはないのです。ホンのかすり傷ですよ。医者が今日一日は寝ている方がいいというものですから、こうしているのですが、本当に何でもないのです。しかし残念なことをしました。相手を組み伏せたのですがね。奴が何時の間にかジャックナイフをひろげて、逆手に持っていたのを気づかなかったのです」
 新一は元気に喋べった。
「どこをやられたのです」
「右の眉の上です。三針ほど縫ったばかりですよ」
「そうですか。それぐらいで済んだのは仕合せでした。今工場長と技師長に会って、昨日のことは一通り聞いたのですが、曲者はいつか××温泉村の山の洞穴に隠れていた奴と同一人だというじゃありませんか」
「そうです。確かにあいつでした。けだもののような大男です。今度も又逃げられてしまいました。実に申訳ないと思っています」
 新一は目を伏せて、さも口惜くやしそうに声を低めた。
「イヤ、申訳ないどころか、大手柄ですよ。工場の爆破を未然に防いだのですからね。工場では君と京子さんに非常な感謝をしておる。工場ばかりではない。国としてもあなた方に感謝しなければなりません。この新鋭工場が暫くでも機能を停止すれば、戦局に重大な影響を及ぼすわけですからね」
「それはそうかも知れませんが、相手はいつ又攻撃を加えて来るかも知れません。わざわい根元こんげんを絶つことが出来なかったのを、実に残念に思うのです。韮崎が不思議な自殺をとげた今、この曲者を取逃がしてしまっては、我々の手には何一つ残らなくなるのですからね。僕としては父の仇を討つ見込みが一応絶えてしまったわけですからね」
「イヤ、そのことについては……君のお父さんの仇を討つということについては、わたしも一半の責任を持っている。お父さんが亡くなられて以来、わたしは随分苦労をした。そして、事件の真相に向かって、歩一歩研究を進めているつもりです。何も握っていないのではない。握っているものが余りに大きく、余りに奇怪なので、それに圧倒せられ、持て余しているぐらいです。韮崎だとか今度の男などは物の影に過ぎない。そういう影を写すところの本体が別にあるのです。信じ難い程の巨大なる実在が、それらの影の奥に在るのです」
 望月少佐は謎のような異様な物の云い方をした。それを聞くと繃帯に包まれた新一の顔にほのかな赤味がさした。
「おっしゃる意味が僕にはよく分りませんが、あなたは何か重大な事実を握っておいでになるのですね。間諜団の組織とか、その首領とかについて、何か発見なさっているのですね」
 新一ばかりでなく、枕元に附き添う京子も目を光らせ、緊張した面持で望月少佐を見つめるのであった。
「そうです。推理のをその真相に向かって、だんだん狭く絞っているのです。そして、そこに現われて来る事実に驚倒しているのです。決して形容ではありません。本当に心の底から驚いているのです。
 これは、単純な探偵というような仕事ではない。歴史の研究です。わたしの研究は今嘉永かえいの昔にさかのぼっている。アメリカ東印度ひがしインド艦隊司令長官ペルリが四隻の軍艦を率いて浦賀うらがに来航した当時に遡っている。この事件の裏にはそういう歴史的秘密が隠れているのです。そこに驚くべき悪魔の陰謀があるのです」
 少佐の言葉はいよいよ奇怪であった。しかも彼はそこでプッツリ言葉を切って、じっと聴き手の顔を眺めた。新一の方でも少佐の顔を穴のあくほど見つめていた。二人とも物を云わなかった。たっぷり一分間、そうして睨み合っていた。やがて少佐が沈黙を破った。
「怪物だ。韮崎という男も、今度の曲者も怪物に相違いないが、その奥に隠れている奴は、百倍も恐ろしい怪物だ。世紀の怪物。そうだ、百年に一度やっと現われるか現われない程の、驚くべき怪物だ」
 少佐はそう云って、又プッツリと黙り込んでしまった。新一も京子も少佐を見つめたまま、金縛りにあったように身動きもしなかった。夕暮迫る灰色の窓の外に、何かしらえたいの知れぬ巨大な幻影が漂い蠢くかに感じられた。
「世紀の怪物か。そうですね、望月さん、こいつは世紀の怪物ですね」
 長い沈黙のあとで、新一は何か朗詠でもするような口調で云った。
「望月さん、僕はこいつに復讐しなければなりません。それを誓います。もう一度ここでそれを誓います」
 繃帯の中に見える頬が恐ろしく青ざめ、目は赤く血走っていた。新一はそのまま又長い間天井を見つめて黙っていたが、やがて何か非常に重大な事柄に気づいた様子で、突然、寝台から起き上りそうにした。
「望月さん、僕は今妙なことを思い出しました。妙なことです。あの時は怪我をして、血が目に流れ込んで、何も見えなかったように考えていたのですが、今、そうでなかったことが分りました。僕は見ていたのです。あいつが逃げて行く後姿を、この目の隅で見ていたのです」
「ウン、それで……」
 望月少佐は深い興味をもって、とりつかれたように口走る新一の顔を眺めた。
「奴は逃げてはならない方角へ逃げたのです。袋小路へ逃げたのです。その方角には建物が建ち並び、その中に無数の人の目があったのです。その人の目をくらますことは全く不可能です。では、奴は元に戻って別の道を取ったか。イヤ、戻らなかった。僕は失われて行く意識の隅で、非常に不思議な感じがしていたのです。
 奴はそこを突破することは出来なかった。又戻りもしなかった。つまり奴はそこで消えてしまったのです。おかしい。人間が気体となって蒸発した筈はない」
 新一は独言のように語尾を弱めて、しきりに考えはじめた。難解な謎を解こうとする人のように、目を空ろにして、心の中を見つめるように、呻吟しんぎんしていたが、暫くすると、彼の両眼が火花のように輝いた。
「アッ、そうかも知れんぞ。京子さん、急いで技師長さんを呼んでくれませんか。僕は妙なことを思いついたのです。それを確めて見たいのです」
 京子は不安らしく新一の顔を眺め、その目を望月少佐に移して、少佐の意嚮いこうを確めようとした。新一の突飛な言動を、発熱による譫言うわごとではないかと疑ったのである。少佐は幽かに肯いて、新一の言うままにする方がよいという意味を示したので、京子は直ちに病室を出て行った。
「感心な娘さんですね」
 望月少佐が京子の後姿を見送って、意味ありげな微笑を浮べた。
「そうです。感心というだけでは足りません」
 新一はこういう機会を待ち兼ねていたかのように、一種異様の情熱をこめて云うのであった。
「あの人の神々しい純情を見ていると、僕は怖くなります。後光に射すくめられるような気がするのです。そして、妙ですね、僕はこの僕の右腕をなたか何かで斬り落してしまいたいような衝動しょうどうを感じるのですよ」
 新一はギリギリと歯ぎしりを噛んで、烈しい息遣いでそんなことを云ったかと思うと、その次には、何がおかしいのか、ゲラゲラと笑い出した。
「ハハハハハハハ、この腕を、鉈でもって、ハハハハハハハ」
 望月少佐は別に驚いた様子もなく、微笑を含んで、じっと新一の顔を見ていた。そして、二人の間に妙に融和しない気拙きまずい空気が漂いはじめた時、ドアが開いて遠藤技師長が入って来た。カーキ色の仕事服を着た、黒い短い口髭のある四十五六歳の好男子である。
「遠藤さん、曲者はあの時第二工場と第三工場の間へ逃げ込んだのです。あすこには今でも見張りが立っているのでしょうね」
 新一は何の前置きもなく、性急に訊ねた。
「見張り。アア、見張りはずっと立ててあります。あの辺は一番危い場所ですからね」
 技師長は望月少佐に目礼して、面喰ったように答えた。
「すると、曲者は逃げ出す機会を失ったかも知れない。遠藤さん、見張員から何も報告はなかったのでしょうね。怪しい奴を見つけたというような」
「そういうことはなかったようです。今もそこを通りかかって、見張りの者と話をして来たのですが。昨夜ゆうべから何の異状もないということでした」
「そうですか。それじゃ行って見る値打ちがありそうです。望月さん、無駄足を踏むつもりで御同行下さいませんか。僕は何だか曲者がまだそこにいるような気がするのです」
 新一は又しても意表外のことを口走り、もう寝台の上に起き直っていた。そして、京子が止めるのも聞かず、ノコノコと部屋の隅に行って靴を穿いてしまった。
 一同はこの負傷者の物にとりつかれたような所業に圧倒された形で、茫然と眺めていた。
「望月さん、さア行って見ましょう。懐中電燈はここにあります」
 そこの椅子の上に置いてあった国民服の上衣を着て、ポケットから筒型懐中電燈を取り出して見せるのであった。
 望月少佐は絶えず微笑を含んで、新一青年の唐突な所業を見守っていたが、彼が病室を飛び出して行くのを見ると、別にそれを止めるでもなく、大股に彼のあとを追って行った。

横穴待避壕


 頭部と顔面の大部分を白い繃帯でつつんだ新一青年の異様な姿が、問題の第二、第三工場の中間の細長い空地に現われた。彼は一直線にその空地の行き止りに向ってすすんでゆく。一間ほどうしろから、望月少佐が大股に歩いてゆく。そして、その六七間あとに、遠藤技師長と京子とが不安らしく従っている。
 空地の行き止りは三間ほどの高さの崖になっていて、その崖の下部にトンネルのような入口がポッカリ開いている。横穴待避壕である。
 新一は無言のままその穴の中へ突きすすんで行く。望月少佐も足を早めてそれにつづく。横穴は二間ほどで右に折れている。そこを曲るとまったくの暗闇となった。新一はパッと懐中電燈を点じた。丸い光が黒い壁を這って、奥へ奥へとすすむ。
 新一は足音を盗むようにして歩いている。少佐もそれにならっている。二人ともまったくの無言である。
 間もなく壕の行き止りに達した。怪しい人の姿などはどこにも見当らぬ。しかし新一は何か期するところがあるもののように、懐中電燈を振り照らして地上を探し廻っていたが、やがて何を発見したのか、いきなりそこに蹲って、手を土の中に入れた。
 望月少佐はそれを見て、事の次第を察し、直ちに新一の側に寄って手助けをした。そして二人力を合せて、半ば土に埋もれていた二尺四方ほどの厚い鉄板をはがすように取りのぞいた。
 予想に違わず、その下に丸い竪穴たてあなの口が開いていた。二人は下からの射撃を避けるために身をかわしながら、サッと懐中電燈の光を穴の中に投じた。
 すると、そこに、一間あまりの竪穴の底に、土蜘蛛のような穴居人が蹲っていた。あの××温泉村の山の中にいた穴居人と同じ人物である。又しても穴の中、穴居はこの怪人物の習性となっていたのである。
 この竪穴は決して今掘られたものではない。時限爆弾持ち込み以前から、曲者の隠れ場所として、密かに用意されていたものであろう。彼は新一と格闘の後、誤って袋小路に逃げ込み、一時はこの穴に身を隠したが、その後の見張りが厳重なため、遂に逃げ出す機会を失ったものであろう。
 穴居人は不意を突かれて、懐中電燈の光の中に、みじめに蹲っていた。光を恐れる暗闇の生物ででもあるように、両手の肘で顔をおおってその隙間から、醜い皺を寄せた額と、しかめた眉と、陰険な細い目とで、まぶしそうに穴の入口を見上げていた。
 欧米人でないことは明かであったが、しかし恐らく日本人でもないであろう。日本人の中にこのような穴居の習性を持つけだものがいる筈はないからである。
「上って来い。俺は東京の憲兵隊のものだ。分ったか。もう観念して上って来い。でないと、この穴がお前の墓場になるんだぞ」
 望月少佐は底力のある低い声で穴居人に呼びかけたが、相手は陰険な表情を少しも動かさないで、黙りこくっていた。
「オイ、聞こえないのか。お前、日本語が分らんのか」
 相手は身動きもしなかった。
 少佐はもう無駄な口を利かなかった。ポケットに用意していた小型ピストルを取り出し、引金に指をかけて、新一の持つ懐中電燈の光の中にニュッと突き出し、穴居人に狙いを定めた。相手は明かにそれを見た。しかし動かなかった。
「上って来い。一から十まで数える間猶予してやる。分ったか」
 そして少佐は一、二、三、とゆっくり数えはじめた。だが、相手はふてぶてしく押し黙ったまま微動だもしなかった。
 七、八、九、十、……数え終ると同時に、引金が引かれた。穴居人の頭の上の土が飛び散って、パラパラと彼の顔にかかった。
 ここに至って怪人物はやっと御輿みこしをあげるように見えた。彼は狭い穴の中にヌッと立ち上った。そして非常にノロノロした動作で、用心深い大蜘蛛のように、地上に這い上って来た。少佐と新一とは、男の手を左右から捉えて、穴の外に引き出し、そのまま手を離さず壕の入口へと向かった。三人とも全く無言であった。曲者も別に抵抗する様子はなかった。揺れながら洞窟の地上を照らす懐中電燈の円光、そのうしろから黙々として進む三個の黒影。
 ところが、そうして十歩も進んだかと思う時、突如として、又もや意外な異変が起った。両方から引き立てている手の中で、穴居人の身体が、俄かに力を失い、海鼠なまこのようにクナクナとくずおれて行ったのである。引き起しても引き起しても、立ち上る力も歩く力もなく、相手は最早人間ではなく、非常に重い一個の物体と化したかと感じられた。
「オイ、どうしたんだ」
 懐中電燈が穴居人の醜い顔を照らし出した。口はだらしなく開いたままであった。両眼はうつろになって空を見つめ、微動もしなかった。その顔は死人の顔であった。
「死んでいる」
「自殺したのじゃありませんか」
 二人は重い死体を抱えて、ようやくにして待避壕の入口に達した。そこには技師長と京子と数名の守衛や工員が群がっていた。
「どうしたんですか、その男は」遠藤技師長が驚きの叫び声を立てて近づいて来た。
 少佐と新一青年とは、曲者をそこに横たえて、みゃくと呼吸を調べたが、男はまったく息絶えていることが分った。
「北川先生を呼んで下さい。誰か医務室へ走って下さい」
 新一の声に応じて、一人の守衛と京子とが医務室の方向に走り去ったが、ほどもなく北川医師が駈けつけて来た。
 医師は死体の側にひざまずき、先ず目と口を調べた後、人々に手伝わせて死体の上衣を脱がせ、胸、背、腕などを順次検診して行った。
「オヤッ、これは何だ」
 医師は独言のように呟いて、死体の左の二の腕の青ざめた肉をつまみ上げた。そこにポッツリ赤い斑点があった。一滴の血がにじみ出していたのである。医師はハンカチで、丁寧にその血を拭き取って、しばらくそこの皮膚を凝視していたが、ふたたび独言のように呟いた。
「注射針の痕だ」
 新一青年はそれを聞くと、何か思い当ることがあるらしく、懐中電燈を点じて、待避壕の中へ入って行ったが、暫くすると、土にまみれた小さな注射器を右手につまんで引返して来た。
「これが落ちていました。まだ中に薬が残っています。お調べになれば、どういう毒薬か、じきお分りになるでしょう」そう云って、注射器を北川医師に手渡すのであった。
 それから曲者の死体は医務室に運び込まれ、望月少佐は電話をもって名古屋憲兵隊と長野県警察部とにこのことを報じた。そして翌日午前には検事と警察部長の臨検があり、一方名古屋憲兵隊からは外事班員、鑑識班員等の臨検があり、曲者の死因は揮発性有機毒の皮下注射によるものと判定せられた。即ち犯人は逮捕の危険が迫った場合はこれによって自決する覚悟をもって、日頃から毒物と小型注射器とを用意していたのである。けだものの如き穴居人に、この科学的準備があったことは、一応意外の感じを与えたが、彼は決して無智蒙昧もうまいのけだものではなく、時限爆弾を極めて適確有効な箇所に設置した手際から察しても、見かけによらぬ頭脳を持った男であることは明かであった。
 犯人の身元は全く不明であった。着衣持物などからも何の手掛りも発見されなかった。そういう点にも、犯人は日頃から極めて綿密な注意を払っていたことが判明したばかりである。
 その夜、望月少佐の宿泊している工場職員倶楽部の建物の日本座敷を、南工学博士と新一青年とが訪ねて、三人鼎坐ていざして、事件について何かと語り合った。
「間諜団は自殺を申合せているらしいですね。もし彼らを間諜団の団員とすればですよ。韮崎という容疑者も獄中で自殺をとげ、又この身元不詳の男も自殺しました。彼らの決意は相当なものですね。恐るべき相手です。彼らの背後にもし間諜団の首領というような奴がいるとすれば、こいつは容易な人物ではありませんね」
 南工学博士は望月少佐の意見を読み取ろうとでもするかのように、相手の目の中を覗きながら云うのであった。
「おっしゃる通り、そいつは容易な人物ではありません。この間、新一君にも云ったのですが、事件の蔭に身を潜めている奴は、百年に一度ぐらいしかこの世に現われて来ないような、実に特異な人物です。いわば世紀の怪物ですね」
 望月少佐は又しても「世紀の怪物」という言葉を使った。すると事件の蔭の人物、間諜団の首領の存在が既にして推定せられ、少佐はその人物の性格までも知悉ちしつしているのであろうか。
「それに、なんですね、今までわれわれの前に姿を現わした二人の奴は、揃いも揃って非常な変り者ですね。こいつらも確かに怪物ですよ。韮崎は錬金術師だったし、今度の男は穴居人です。二人ともどこかしら常識を逸脱したところがある。一歩誤れば気違いになるような人間です。イヤ、奴らはもうとっくに気が違っていたのかも知れませんね」
 新一が彼らしい観察を下した。
「そうです。その点もこの事件の一つの大きな特徴です。それから、あなた方はこういうことに気がつきませんか。韮崎も今度の男も、あまりに易々やすやすと自決をした。少しもねばりがなく、思い切りがよすぎるという点です。僕は何だか魂のない傀儡かいらいのように感じられるのですよ。自分の意志ではなく、何か他の強力な意力によって動かされている、全くその支配下にあって、ただ機械的に動いているという感じがするのです。そういう意味で僕はこの二人の憐れむべき人物の死因は、自殺ではなくて他殺だと考えるのですよ。その下手人は云うまでもなく、例の世紀の怪物ですよ」
 望月少佐は謎のような幽かな微笑を浮べて、南博士と新一の顔をジロジロと見比べるのであった。

敵機来襲


 大和航空機製作所爆破未遂事件があってから一ヶ月余りは、少なくとも表面においてはこれという出来事もなく経過した。その間にも、大東亜戦争の戦局はいよいよ危急を告げつつあった。味方は鞏固きょうこなる内線作戦に満を持し、敵は大東亜共栄圏中断と日本本土空襲を目ざして、めくら滅法の前進をつづけていた。
 敵の醜き触手は非常の速度をもって法外に伸びきたった。伸びるにつれて触手の根元は糸のように細まり、今にも折れるかと危ぶまれたが、その危険を無視して、脆弱ぜいじゃくな触手はいよいよ伸び、従っていよいよ脆弱性を増しつつあった。
 味方は満を持して放たず、敵は遮二無二しゃにむに突き進んで腰が伸び切っている状態を国民はよく知っていた。伸び切った敵の焦慮がいつ東京空襲となって現われるかも知れぬという情況をも十分覚悟していた。
 軍官民共に敵機来襲にたいする一切の準備をととのえた。市街の到るところに広大な防火空地帯を設けるために、大規模な家屋破壊がおこなわれ、それらの家屋の居住者はもとより、広く都民の人口疎開そかいが実施せられ、国民学校児童の集団疎開も決行せられた。都民の家庭には必ず一個以上の防空待避壕が掘られ、そのほか都内の空地という空地、大道路という大道路には、大小無数の待避壕が、都民の手によって掘鑿くっさくせられた。全都の各町内ごとに数個の大貯水池が設けられ、消火用の水が満々とたたえられた。都民は今や万端の用意を終って、敵機の飛来を静かに待ち構えていたのである。
 ×月×日、午前一時、けたたましいサイレンの音が都民の夢をやぶった。警戒警報である。帝都防衛の任務をもつ各飛行場の飛行隊員はただちにその持場についた。照空燈、高射砲は敵機おそしと待ち構えた。全都の警察官、消防隊員、警防団員はそれぞれその持場を守り、隣組防空群員は防空服に身をかため、あらゆる防空準備を完了して各自の家庭に待機した。
 午前二時三十分、悲痛なるサイレンの断続音が鳴り渡り、空襲警報を伝えた。同時に帝都から一切の燈火が消え失せた。方十里の大市街に線香ほどの火光も残ってはいなかった。日頃の訓練が見事にその成果を示したのである。
 軍官民のあらゆる防空監視員は耳と目ばかりになって空を見つめていた。息づまる三十分が経過した頃、都民は都心より南方の空に照空燈の一斉放射を見、高射砲の轟きを耳にした。警防団の防空監視所からは、一点七点斑打はんだの「敵機来襲」の半鐘がけたたましく鳴り響いた。
 闇の空を掻き廻す巨大な白銀しろがねの延棒、幾十条の照空燈の光芒こうぼうは、やがて上空の一点に集中し、敵機の姿を白熱の焦点にとらえた。四発の大型爆撃機である。名にし負う「超空の要塞」。その白熱の焦点より闇の大空を覆いつくし、八方に拡がる何千尺の白銀の光芒、下界の大市街には一点の火光も絶え果てた方十里の大空に、時ならぬ人工の大後光が、銀色の蜘蛛手の極光が、壮麗の限りを尽して輝き渡ったのである。
 しかしながら都民はこの空の壮観に見とれているわけには行かなかった。工場、事業場、家庭の待避壕は全都民を収容しつくし、人々は鉄兜の下に目と耳を圧えながら、落下弾との戦闘のために、そこを飛び出す時期を今やおそしと待ち構えていた。
 大空の壮観を眺め得るものは、軍官民の防空監視員のみであった。白銀の極光は彼らの頭上を、白熱せる敵機の飛行するにつれて、それを中心として天体のごとく雄大に移動しつつあった。
 この雄大なる光芒の移動がある距離に達すると、行手の闇に幾本かの白銀の延棒が出現して敵機に焦点を合せ、新たなる極光が構成せられる頃には、従前の幾光芒は既にして後続の新敵機をその中心に捉え、大空に二重の蜘蛛手を張っていた。かようにして照空燈が新たなる敵機を捉えるごとに、偉大なる空の光の網目は、三重となり四重となり、おのおのその中心に四発大型敵機を激怒の白熱につつみながら、壮絶なる空の持ち送りをつづけて行った。
 全都は今や敵の投弾と、味方の高射砲と、敵機味方機入り乱れての爆音と、名状しがたき大音響につつまれていた。待避壕内に耳と目を圧えている都民にも、これらの恐るべき音波はひしひしと感じられ、爆弾による地響きは、大地震のごとく待避壕そのものを揺り動かし、怒濤にもてあそばれる小舟に乗っているのではないかと怪しまれるばかりであった。
 地上には一点の火光もなく、敵機の見得るものは照空燈の光源のみ、しかもその八方よりの照射に乗組員は目もくらみ、爆撃の的を見極める余裕などあろうはずもなく、敵弾はことごとく盲爆、その多くは海中または郊外の田園地帯に落下したが、しかし市街地を破壊せるものも決して僅少ではなかった。重要施設、重要工場の被害は案外少なかったけれども、民家盲爆による負傷者は数百名におよび、死者また少なからず、火災は都内の数ヶ所に起った。
 軍官の各種機関はもちろん、民防空の警防団、隣組防空群は、これらの被害にたいし沈着勇敢に戦った。家庭婦女子の中には爆撃の衝動によって失神状態におちいったものも少くはなかったが、大多数の都民は男子も女子も、訓練と同様に活動することができた。負傷者の救護、焼夷弾の消火、復旧工作等いずれも見事におこなわれた。落下焼夷弾の八割は勇敢なる婦女子の初期防火作業によって、大事に至らぬ前に消し止めることができた。火災となったものも百戸以上の延焼は一ヶ所もなく鎮火せしめ得た。これは家屋疎開による防火空地帯と、都内無数の貯水池と、警防団に配置せられたガソリンポンプとが大いに物をいったのである。
 この防衛戦にもっとも大きな働きをしたものは味方の戦闘機隊であった。敵大型爆撃機は大陸奥地の大飛行場三ヶ所から合計五十余機がいわゆる波状攻撃の態勢をとり、つぎつぎと東京爆撃に向かったのであるが、その一部は既にして大陸上空において味方戦闘機の発見するところとなり、機を失せぬ攻撃により内七機を撃墜、撃破したのを手はじめに、日本海本土周辺において九機、本土上空に侵入したる後六機、東京周辺において三機を撃墜し、あるいは不時着せしめ、敵機が東京上空に達した時には早くもその過半数を失っていたのである。
 しかし残るところ二十数機とはいえ、名にし負う「超空の要塞」である。長距離攻撃のため投下弾積載量ははなはだしく制限されてはいたが、しかもなお各機優に一トン余の爆弾、焼夷弾を抱いていたのである。それが午前三時から四時三十分までの一時間半に亙って、つぎつぎと帝都上空を襲い、黎明視界がやや明かとなるやいよいよその猛威を振い、二三重要施設の被害を見るに至ったのである。
 東京上空では味方戦闘機の攻撃は活溌におこなわれた。帝都の防空監視員たちは、照空燈の大光芒集中する白熱の焦点において、巨大なる敵機の周囲を燕のように縦横無尽に飛びまわる味方機の果敢な姿をながめ、手に汗をにぎったのである。高射砲弾によって傷つき、郊外田園地帯に不時着せるもの二機、味方戦闘機の体当りによって墜落撃破せるもの三機、内一機は市街地に墜落し火災を生じたが、他の二機は何ら被害なき空地において爆破したのであった。
 黎明が照空燈の照射を不要とするに至るや、敵の爆撃視野も明るくなったが、一方味方の攻撃にも有利となり、高射砲、戦闘機の威力はいよいよ発揮せられ、敵機の巨体は翼のマークをあざやかに見せながら、無残な錐揉み状態となり、大空に黒い煙の筋を引いて墜落してゆくのがまざまざと眺められた。かくて黎明後の獲物、高射砲による撃墜一、戦闘機による墜落三を数えたのである。
 さらに敵の帰路には幾多の関門において、味方の攻撃が待ちかまえていた。残り少なの敵機は航路もしどろもどろに大陸基地へと逃げ帰るのであったが、その途中、大陸上空において日本戦闘機の邀撃ようげきに出会い、各所において合計十余機をうしない、辛くも基地に辿りついたものは、哀れ数機に過ぎなかった。かくてこの戦闘は敵の大惨敗に終ったのである。
 敵が自慢の大型爆撃機は、わが本土と大陸の到る所にその巨大なる醜骸を曝し、乗組員は不時着して捕虜となった十数名の外は大部分無惨の死をとげたが、中には墜落寸前機体を飛び出し落下傘によって降下したものも数名あり、それらの敵は各所において警察官、警防団員と勇敢なる隣組員の協力によって拿捕だほせられた。
 ある地方では、女子青年団員が竹槍をもって降下兵を包囲し、敵が拳銃を撃ちつくすのを待って、女ばかりの手でついにこれを捕えたという、おどろくべき事例もあった。東京都内においても警防団員、隣組員の武勇伝は到るところに喧伝せられ、国民大衆の頼もしき底力を立証したのであった。
 しかしながらあらゆる武勇伝を超えて国民絶讃の的となり、全都民の涙を絞らしめ、孫子まごこの末までの語り草となって残ったものは、帝都の空に散華さんげした体当り戦闘機の諸勇士であった。
 都民は目のあたりそれを見たのである。自爆、体当りなどの事例はしばしば耳にしていたが、それを今、わが頭上に目撃したのである。照空燈の光芒の中心、白熱の敵大型機に向かって、銀色の燕のごとき戦闘機が、みずから一個の砲弾となって、その脇腹に突入して行った光景は、目撃した者の脳裏に焼きついて、永遠に忘れがたき印象を残した。それは悲壮といわんより、一種痛烈なる美しさであった。神のごとき美しさであった。

聖女


 アメリカ国民の残虐性は、東洋人の理解を超ゆるものがあった。彼らは海上においてはかならず病院船を攻撃し、陸上の爆撃においてはかならず病院に投弾し、国民学校の児童に機銃掃射をあびせた。かくして彼らは傷つけるもの、病める者、何ら戦意無きものを虐殺して快哉を叫び、鬼畜の歓声をあげるのである。
 今回の空襲においても彼らは病院に爆弾を投ずることを忘れなかった。わが戦闘機に追われて逃げ廻りながらも、山の手にある×大学病院の白い建物を見逃さなかった。
 同病院の建物の一部は、五百キロ爆弾の直撃を受けて跡方もなく破壊され、数十名の患者と看護婦は重傷を負い、十数名は即死し、残余の患者にたいしては無残なる心理的衝撃をあたえて、病院全体を名状すべからざる混乱におとしいれたのである。
 丁度その時、この病院には故五十嵐東三博士夫人が入院していた。夫人は持病の腎臓疾患が悪化して、二週間前からこの病院の一室に呻吟していた。一人息子の新一が絶えずそこを見舞っていたのはいうまでもないが、南京子も愛人の母病あつしと聞き、大和航空機製作所女工員の勤めをしばらく休んで、この病院に泊り込み、博士未亡人の看病に当っていたのである。
 ×大学病院に爆弾が投下されたのは午前四時ごろであった。同病院の屋上には、巨大な赤十字が二つまでペンキで記してあった。病院内の者は誰もこの建物が爆撃目標となろうとは考えていなかった。しかし万一の場合をおもんぱかって患者の大部分は地下室に移され、警戒警報によって駈けつけた当番の医員たちは、附近の罹災者りさいしゃ救護に当るため万端の準備を完了していた。そこへ、突如として百雷一時に落つるがごとき大音響と激震をともなって、二百五十キロ爆弾が落下したのである。既に夜の白々あけ、屋上の大赤十字が敵の目に入らなかったはずはない。敵は十分それと知りながら投弾したのである。赤十字は鬼畜空魔の大好物であった。
 病院建物の一翼が、その中に若干の医師と看護婦と患者とを包んだまま、跡方もなく吹飛んでしまった。さらにその爆風と破片は残った建物をも無残に傷つけた。ガラスというガラスはことごとく粉微塵となり、扉は倒れ、家具什器じゅうきは破壊され、目もあてられぬ惨状を呈した。
 地下室に収容せられた患者の一部も爆弾によって死傷したが、何ら肉体的傷害を受けなかったとはいえ、心理上の大衝撃によって俄かに病勢悪化した患者も少くはなかった。五十嵐博士未亡人もそういう不幸な患者の一人であった。
 五十嵐新一は毎日母の病床を見舞うことにしていたが、空襲の当日は、深夜警戒警報のサイレンを聞くと同時に、病院に駈けつけ母の枕頭に侍していた。そして、そこで深夜から朝までの間に、あらゆる激情を味わったのである。
 南京子は附添看護婦とともに、未亡人を真の母のごとく看病した。その純情と献身とは当の未亡人を泣かしめ、新一青年に深い感動を与えた。空襲の夜、京子の働きはことに目醒しく、驚異と賞讃の的となった。
 白衣の看護婦群の中にあって、京子の紺飛白こんがすりのモンペ姿はあざやかに際立って見えた。彼女は空襲警報とともに、地下室への患者の収容をはじめ万般の防空準備に率先して立働いた。はじめは看護婦のうしろについて働き、中ほどは看護婦と同列になって働き、最後にはその先頭に立ち彼女らの指導者のごとき立場において活動した。きわめて自然のうちにこの転換がおこなわれたのである。
 彼女は美しい一個の英雄として病院内のあらゆる人々の渇仰するところとなった。看護婦たちは彼女の垂範すいはんに学び、彼女の指図にしたがって、いつとも知らず彼女を指導者として遇していた。若く、かよわい一少女の比類なき熱情と勇気とが、彼女の望むと否とにかかわらず、かくのごとき情勢をかもし出だしたのである。
 紺飛白こんがすりのモンペにつつまれた京子の肉体は、不幸なる患者への同情と、赤十字を標的として爆撃した醜敵にたいする憤怒と、愛国の熱情とに燃え上っていた。美しい頬は紅潮し、澄み切った目は殉教者のごとくにかがやき、生死を超えた決意は彼女を何かしら人間以上のものにすら見せたのである。
 新一は彼女に代って母の枕頭に侍しながら、これを目撃し感動にふるえていた。愛人京子の神々しい献身と英雄的行動に魂の底からゆすぶられ、ハラハラと涙を流していた。
 午前四時二十分、ようやくにして敵機は去り、やがて空襲警報解除となったが、病院の混雑はその頃から更に一層激しさを加えたといってもよかった。
 地下室の天井には爆撃によって大穴があき、コンクリートの破片、木片きぎれ砂埃すなぼこりなどの散乱した中に、患者はベッドもなく、幕の上に毛布を敷いた応急の病床に、ところ狭くよこたわり、その枕元に附添人、看護婦などがうずくまるという有様、電燈線は切断され、天井の大穴からの明りを利用するか、それの出来ない場所はほの暗い蝋燭によって用を弁じている。
 通路もなく押し並んだ患者の間を、ヒョコヒョコと飛ぶようにして、医員、看護婦が右往左往している。危篤患者の処置に急ぐのである。
 五十嵐博士未亡人もその危篤患者の一人であった。彼女は薄い毛布の上にグッタリと横わったまま、もう口を利く力もないように見えた。迫った小刻みの息遣いに肩と胸とが苦しげに揺れている。時々薄目を開こうとするが、その目はもう瞳が上ずって白眼ばかりと見える。
 医員は彼女の脈を取りながら、静かに衰え切った顔を見つめている。新一と京子は両方からその顔を覗き込むようにして、冷たいコンクリートの床に坐り、涙を流していた。ことに京子の美しい頬には透明な液体が河のように伝い流れ、ポタポタと膝にしたたり落ちていた。
 瀕死の患者の容貌に異様の変化が現われた。彼女の暗い蔭の多い苦痛の表情が、突如として引きゆるみ、何かしら神々しいものに変ったように見えた。それと同時に彼女の瞼から泉のように涙が溢れ出すのが見えた。そして、乾いた色のない唇が物いいたげに、しきりとわななくのであった。
 医員はその意味を察して、新一に目配せをした。新一は母の顔に顔を近づけ、耳を彼女の口の前に持って行った。
 患者の力ない手がわずかに動いて、新一の肩をいだこうとするように見えた。そして、彼女の口は新一の耳に何事か一心に囁きつづけるのであった。
 新一は全神経を一方の耳に集めて、聴き取りにくい母の言葉を聴こうとした。聴くにしたがって彼の表情は緊張してゆく。瀕死の患者は今わの際に、何事か非常に重大なことをわが子の耳に囁くかに見えた。
 新一は母の言葉に答えることができなかった。その言葉の終る頃には、母の声は力なくかすれて行って、ついに声なき声となり、彼女の心臓は鼓動を止めていたからである。
 医員は目を閉じて、幽かに肯いて見せた。終焉しゅうえんの合図であった。京子はそれと知るや夫人の胸に顔を埋めてむせび泣いた。新一は土のように青ざめた顔で、じっと目の前の空間を見据えながら、声を呑んだ。
 十分間、二人は何事を為し、何事を考える力もなく、そこに坐ったまま身動きもしなかったが、医員の立ち去る物音に、新一はハッと目醒めたように死者の顔を眺めた。そこには医員の手によって白布が被せられてあった。薄い白布を通して、亡き人の面影がまざまざと浮かび上っていた。
 新一はソッと立ち上って、患者の間を縫いながら、人なき片隅へ歩いて行った。大穴のあいた天井の下、コンクリートの破片や木片などの無残に散乱した一隅に佇んで、うしろを振返った。そこに京子の涙で洗われた美しい顔があった。彼女も何とはなく新一のあとにつづいてここまで来たのである。
 新一はそこに転がっている大きなコンクリートの破片に腰をおろした。そして、しばらくうなだれていたが、やがて、何を考えたのかヒョイと顔を上げたかと思うと、血走った目で自分の左の手の平を見つめた。そして、その手の平を側のコンクリートの破片の上にのせ、右手でその辺に落ち散っている小さなコンクリートの塊りを拾い上げると、いきなり、烈しい勢いで左の手の指に叩きつけた。
 パッと飛び散る血しぶき。
「アッ」という京子の叫び声。
 新一は血まみれの左手を右手で握りしめて、その指の間からポタリポタリと赤い液体を垂らしながら、青ざめた顔、色のない唇で、気狂いのように笑っていた。
「マア、どうなすったの。大変ですわ。早くお医者さまに……」
 すがりつく京子を軽く突きのけて、新一はまだ笑いつづけていた。そして、途切れ途切れにこんなことを口走るのであった。
「京子さん、今僕がどんなことを考えているか。この頭の中にどんな複雑な思想があるか、あなたが分ってくれたらなあ。イヤ、とてもとても、あなたには分らない。わかるはずがない」
「でも、どうしてあんなひどいことをなさったの、御自分の手を」
 京子はいたいたしそうに新一の手首を、滴り落ちる血潮を、見つめている。
「こうしないではいられなかったのです。心の痛みを忘れるために、肉体を苦しめるのです。そうすれば心がいくらか楽になるからです」
 新一は京子を鋭く見つめながら、悲痛な声でいうのであった。
「お察ししますわ。お母さまがこんな目にお会いになったのですものね。お父さまは敵国の間諜のためにああいう御最期をおとげになり、今またお母さまが、敵の爆弾によって命をお縮めになったのですものね。あなたのお心持がどんなだか、わたしよく分りますわ。新一さん、わたし本当に……」
 いいさして京子は新一の身体に取縋り、烈しく泣き入るのであった。
「京子さん、有難う。でも、それが僕の苦しみの全部ではありません。あなたには到底わかって貰えないのです。あなたにさえもです。ほかに誰一人分ってくれる人はありません。京子さん、母だけがそれを知っていたのです。僕は母とこの苦しみを分け合って来たのです。そして、その母とも永遠の別れをつげなければならなかったのです」
 新一は血の滴る拳を上下に烈しく打振りながら、声を絞った。
「さいぜん、お母さまがあなたに何かおっしゃった、あのことなんですの」
「そうです。京子さん、いつかあなたにお話しする時があると思います。恐ろしいことです。心臓の血が凍ってしまうほど恐ろしいことです。アア、あなたにこれが分ったらなあ。しかし、しかし、今はいえません。いうことができないのです。決していうことが出来ないのです」
 新一はそういって、色のない唇をわなわなと震わせるのであった。

二重の地下室


 五十嵐新一が敵機の盲爆によってその母を失ってから又一ヶ月余りが過ぎ去った。その間、表面にはこれという出来事もなかったけれど、敵国間諜団の捜査については、憲兵隊は勿論、父と母との二重の仇討を念願する新一青年も亦あらゆる努力をつづけておったのである。
 ある夜のこと、目黒区の望月少佐の住居へ新一から電話がかかって来た。少佐と新一とは二十日以上も顔を合せていなかったところへ、実に突然の電話だったのである。しかもその用件は、「非常に重大な報告をもたらして今直ぐお伺いする」というのであった。
 暫くすると、いつもの国民服姿の新一が望月邸を訪れ、人を遠ざけて望月氏と密談をとげた。その報告が如何に重大な事柄であったかは、これを聴いた望月少佐のその後の行動によって十分推察することができた。
 少佐はあわただしく自から電話口に立って、諸方に電話をかけた上、夜中にもかかわらず憲兵隊の自動車を呼んで、新一と同車して、憲兵隊司令部に急行したのである。
 あらかじめ電話によって所要の人員が召集されていたので、司令部での用件は二十分にして終り、二台の大型自動車が、司令部の通用門を静かに辷り出した。望月少佐と五名の部下が残らず国民服を着用して二台の自動車に分乗し、新一は案内役として、前の車に乗っていた。
 目的地は世田谷区せたがやく××町の淋しい屋敷町であった。一同はその二町ほど手前に車を待たせて、新一を先頭にその家まで歩いた。ひのきの生垣に囲まれた平家の日本建で、低い石門に気取った板のドアが閉まって、その五六間奥にガラスの格子戸がぼんやり見えていた。
 新一は望月少佐に何かささやいておいて、門の扉を開き格子戸に近づくと、柱の電鈴ベルぼたんを三度、妙な調子をつけて押した。少佐以下六名の国民服は、門内の闇にじっとたたずんで、何事か起るのを待ち構えているように見えた。
 格子戸に大きな人の影が映って、それがソッと開かれると、新一はいきなり中へ入って行ったが、突然何か異様な物音がして、目まぐるしく人の影がもつれたかと思うと、一人の大男が右手で目を圧えて、ヨロヨロと格子戸の外へよろめき出た。その男も国民服を着ていたが、新一ではない。この家の住人である。
 それを見ると、闇の中に待機していた国民服の内の三人が、左右から大男に飛びついて、そこにし倒し、たちまち手足を縛り上げ、猿轡をかませてしまった。この三人が望月少佐の部下の憲兵であることはいうまでもない。
 新一は玄関を上って奥へ進んで行った。まるで我家のようにこの家の様子に通じているらしい。縛った大男は玄関の柱にくくりつけておいて、人々は新一のあとに従った。二間ほど奥にもう一人国民服の男がいた。その男は薄暗い電燈の下で押入れの板戸にもたれて坐っていたが、突然目の前の襖が開かれたので、びっくりして立ち上ったが、立ち上って一二歩前に進んだかと思うと、飛び込んで来た新一のために、したたか頬を打たれて、そこに転がっていた。そして憲兵によって忽ち縛り上げられてしまった。
「ごらんなさい。ここに非常ベルがある。こいつはこれを押すひまがなかったのですよ。だから地下にいる奴はまだ何も知らないのです。もっともこのベルを押したところで、今夜はどこへも通じないのですがね」
 押入れの敷居から短い紐が出て、その先に電鈴の押釦がついていた。新一はそれを指し示してそんなことを云った。「どこへも通じない」というのは、恐らく前もって切断しておいたという意味であろう。
 新一は更らに奥へ踏み込んで、奥庭に面する広い縁側でもう一人の国民服の男を縛り上げた上、また元の押入れの部屋に戻って、その板戸を開いた。押入れの中には品物が入れてあるわけではなく、床板が露出していて、そこに四角な穴があり、地下への階段が見えていた。非常に立派なコンクリート造りの床下式待避壕である。現在はどこの家にもかならず一つ以上の待避壕があるのだから、この怪しい家の地下室も人の疑惑を招く心配はなかった。
 新一は非常に用心深く、しかし極めて素早く地下室への階段を降りて行った。憲兵たちもそれにつづいたが、彼らが真暗な地下室の床に達するか達しないに、新一はまたもや一人の男を組み敷いていた。望月少佐の懐中電燈がそれを照らし出すと、二人の憲兵が組み敷かれている男に飛びついて行って、先に捕縛した三人にしたのと同じ処置をとった。すなわち手足を縛り猿轡をかませたのである。
 新一の大胆不敵にしてしかも寸毫すんごうの錯誤なき活動は望月少佐を驚歎せしめた。彼はこの怪屋の構造をそらんじ、どこにどんな見張りがいるかを、掌を指すがごとく知り尽していた。
 地下室は予想したよりも遙かに広く、十分四畳半ほどの面積があったが、懐中電燈で隅々を照らして見ても、今縛り上げた男の外には全く人の気配はなかった。では、今夜の捕物はこれでお仕舞いなのであろうか。今までの四人が、この怪屋の住人の全部なのであろうか。イヤ、どうもそうではないらしい。その証拠には新一の態度がいよいよ真剣味を加え、彼の身辺に息づまるような緊張が感じられたのである。
 新一は望月少佐に懐中電燈の光を地下室の一方の隅に向けるように合図をしておいて、その隅にしゃがむと、コンクリートの壁の床から五六寸の個所に指をかけて何かした。すると、そこに隠し戸があって、スルスルと開き、一尺四方ほどの壁の窪みが現われた。新一はその中に手を入れて、ラジオのレシーバーのようなものを取り出し、それを少佐の方にさし出して、身振りで耳に当てることを勧めた。少佐は帽子をとり、レシーバーを両耳に固定させた。
 次に新一はその隅のコンクリートの床の或る個所に指をかけて、栓でも抜くように引張った。すると、丸いコンクリートの蓋がとれて、そのあとに径一寸ほどの小さな穴が開いた。彼は手真似で少佐にそこを覗いて見よと勧めた。少佐はいわれるままに、半ば腹這いになって、その覗き穴に目を近づけた。
 望月少佐はそのことを出発に先立って新一から聞いていたのであるが、現実に覗き穴を覗き、レシーバーによって床下からの声を聴き取るにおよんで、悪人共の計画の周到巧緻に一驚を喫しないではいられなかった。待避壕と見せかけた地下室の下に更らに二重の地下室があり、その広さも第一の地下室に比べて二倍ほどであることが分った。覗き穴は漏斗型に先が開いていて、第二の地下室の全景を一望に収め得るように出来ていた。
 そこには白木のテーブルを囲んで六人の男が椅子にかけているのが斜上から眺められた。テーブルの上に大きな傘のある電燈がおかれ、その薄暗い光線が人々を照らし出していた。上から見るのでその容貌は十分には分らなかったが六人の内四人までは黄色人種、あとの二人はどうやら欧米人との混血児らしく感じられた。服装は申合せたように一様の国民服である。
 六人の者は額を集めて何かしきりと話し合っていた。云うまでもなく間諜団の秘密会議である。会話は凡て英語で行われていたが、それがレシーバーを通じて、望月少佐の耳に手に取るように聞えて来る。あとで聞くと、このレシーバーは、仲間の者が第一の地下室で番兵を勤めながら、第二の地下室の会議の模様を知るためのものであって、壁の窪みの中には、別に電話機も備えられ、上から下へ話しかけることも出来るようになっていた。見張りの男は本来なればこの電話で下の仲間に危急を告げるべきであったのが、新一の攻撃が余りに不意であり素早かったので、そのひまがなかったのである。
 十分間ほど辛抱強く聴いていると、話の中途からではあったが、これは敵国間諜団の非常に重要な会合であることが分った。六人は全国の各地方から集まった者共で、日本本土に潜伏する間諜団の全体会議ともいうべきものであることが推察された。
 十分間の密談の内にすら、関西の二つの大軍需工場の爆破陰謀が含まれていた。また敵機のわが本土空襲に相呼応して思想攪乱を行うべき密謀の一端が語られた。二人の混血児の内の一人は、もし今後故五十嵐博士の発明のごとき新兵器の考案が現われたならば、如何なる手段を講じてもその完成を不可能ならしめるのだと、昂然として叫んだ。その口吻くちぶりよりするも、五十嵐博士殺害の陰謀が彼等の一味によって行われたことは疑いの余地がないのであった。
 新一はその時少佐の肩をして合図をした。敵に悟られない先に、もう攻撃を開始すべきであるという意味を伝えたのである。
 少佐はレシーバーを頭からはずして立ち上った。新一は床の別の一隅にある隠し戸を静かに開いた。下からほの暗い光線が四角な降り口とコンクリートの階段とを照らし出した。あらかじめ打合せておいた順序に従って、少佐は腰の拳銃を取出し、先頭に立って第二の地下室への階段を降りて行った。五人の憲兵がそれにつづく。新一は最後まで隠し戸の上に残っていた。
 少佐が拳銃を構えて階段の中ほどまで降りた時、六人の怪人物は一斉に立ち上り、十二の眼が少佐を凝視した。そして、六人の右手が揃って腰のポケットに行き、六挺のピストルが取り出され、六つの筒口が少佐の胸を狙った。
 しかし少佐は少しも躊躇せず、しっかりした足どりで静かに階段を降りて行った。この豪胆極まる行動が数秒間六人の者共を畏縮せしめたかに見えたが、結局、六挺のピストルの引金は引かれたのである。だが不思議なことにカチ、カチ、カチという音がしたばかりで、弾丸たまは一つも発射されなかった。望月少佐はそのとき階段を降り尽して、六人の悪漢共の目の前に悠然と立っていた。擦り傷一つ受けないで、微笑さえしながら。
 六人の者共の顔にサッと狼狽の色が浮かんだが、彼等は更らに二度三度、無駄に引金を引き、空しくカチカチという音をさせた後、腹立たしげにピストルを床に投げ捨てた。同時に悪漢共の中から突拍子もない笑い声が起った。六人の内最も背の高い毒々しい顔をした男が、何がおかしいのかゲラゲラ笑い出したのである。そしてヨロヨロと一方の壁に歩み寄り、どこの国の言葉とも分らぬ叫び声を立てながら、壁の上部に設けられた電線のスイッチに手をかけた。それを見た他の悪漢共の顔に極度の恐怖の色が流れた。アッと声を立てる者すらあった。
 大男はなおも笑い声を立てながら、しかし真蒼になった顔に目ばかり赤く血走って、その血走った目で望月少佐を睨みつけたまま、カチッとスイッチを入れた。だが予期した異変は起らなかった。大男は気が違ったかのように何度もスイッチを上下に動かしたが、何の手応えもなかった。大男も他の五人も今はただ茫然として立ちつくすのみであった。彼等は最早あらゆる手段を失った絶望の群像に過ぎなかった。
 望月少佐は拳銃を構えたまま一歩身をよけてうしろの部下に合図をした。五人の国民服がコンクリートの階段をかけ降りて、茫然自失せる悪漢共に向かって殺到した。ほとんど格闘らしい格闘もなく、寸時にして事は終った。六人の男はことごとく後手に縛り上げられ、おとなしくそこにたたずんでいた。
 かくしてこの夜の大捕物は、殆んどあっけない程たやすく、何等の故障もなくその目的を完了したのである。

 悪漢共は数珠じゅずつなぎとなって地下室を追い立てられ、上の座敷へ連れ去られた。先に捕縛した見張りの者と合せて十名、あとは自動車の都合をつけて、司令部に連行すればよいのである。
 そして、二重の地下室の底には、望月少佐と五十嵐新一とがただ二人残っていた。
「このスイッチがもし利いたとすれば、我々は粉微塵になっていたでしょう。イヤ、この建物全体があとかたもなくなっていたでしょう。彼等の最後の手段だったのです。爆薬です。僕は前もってここに忍び込み、電線を切断しておいたのです」
 新一が説明した。
「では、彼等のピストルの弾丸を抜いておいたのも君ですか」
 望月少佐はさい前まで悪漢共のかけていた椅子の一つに腰をおろして、驚歎の面持で新一を見つめた。
「そうです。手品師のように、際どい仕事でした。奴等はここの密会が全く安全であると信じこんでいたのです。表と裏と地下室の入口の押入れの前に見張番がいます。何か事があればすぐベルを押すようになっているのです。僕はそれらのベルの電線も皆、分らぬように切っておいたのですが、奴らは不意を突かれてベルを押すひまもなかったようです。仮令押したとしても鳴りはしなかったのですがね。
 第一の地下室は防空待避所です。誰に見られても少しも差支えありません。これは町内でも自慢の退避壕なのですよ。よく他所よその警防団などが視察に来るほどです。誰知らぬ者もない名物地下室です。ところが、実はこれが人目をくらます手品の種で、その下にもう一つ本当の秘密地下室が出来ていようなどと、誰が気附きましょう。二重底の秘密箱のようなものですね。
 なおその上に万々一この待避壕を怪しむ者があったとしても、秘密の会合のある間は、ここにも見張人が頑張っていて、闖入者があれば直ちに第二の地下室へ合図をするようになっているのです。僕らは敵の虚を突いて、この最後の難関をも見事に突破しましたがね。
 しかしこれらのあらゆる見張りが駄目になっても、彼等には最後の切札があったのです。それはこの壁のスイッチです。建物と共に敵も味方も粉微塵にしてしまうという恐ろしい火薬仕掛けです」
 新一の説明を聴くに従って、望月少佐は愈々感に堪えたという面持で、しきりと肯いて見せるのであった。
「彼等を一人も傷つけないで捕縛できたのは奇蹟といってもよい程ですね。イヤ、そればかりではない。君の周到綿密な用意のお蔭で、我々一同命拾いをしたわけです。その意味でも君には非常に感謝しなければなりません」
「おめに預って恐縮です。苦心の甲斐があったというものです。何しろ僕に取っては父と母との仇討ちですからね。一月余りというもの殆んど夜も寝ないで走り廻り、やっとここまで漕ぎつけました。そして、奴らの全員がここに集まっている好機会を捉えることが出来たのは全く幸運でした。父母の霊が導いてくれたのかも知れません。これで僕もいささかお国の為に尽すことができたというものです。少くとも僕の調べたところでは、今夜ここに集まっていたのが、内地に潜入している敵国間諜団員の全部です。もう心配はありません。工場爆破計画も、思想攪乱工作も、これでおしまいです」
 新一は非常に昂奮しているように見えた。地下室の中をあちこちと歩き廻りながら、上ずった声で喋りつづけた。
「だが、新一君、僕等の仕事はまだ全く完了したとは云えないようだね」
 望月少佐は新一の言葉の途切れるのを待って静かにいった。
「エ、それはどういう意味でしょうか」
 新一は歩き廻るのをやめて、少佐と相対あいたいして椅子に腰をおろした。
「あの椅子だよ」
 少佐はテーブルの一端にキチンと行儀よく据えてある一つの椅子を指さして、意味ありげに云った。他の椅子は先程の騒ぎで皆位置が乱れているのに、その椅子だけは真直ぐに置かれたまま誰も手を触れなかったように見えた。
「エ、あの椅子とは」
「分りませんか。あの椅子だけに主がなかったのですよ。椅子は七つ、人間は六人、つまり椅子が一つだけ多いのです。来るべき人がまだ来ていなかったのではないでしょうかね。それについて思い出すのは、この上の地下室で耳に受話器をあてていた時、ここから聞えて来た話の内に、彼等の首領ともいうべき人を待っている、やがて来るのを待ちながら話しているという感じがハッキリ出ていたことです」
「アア、あなたはそれをお気附きになったのですね、そうです。我々はあの椅子の主を捉えなければなりません。お考えの通りそいつが首領なのです」
「エッ、君はそこまで知っていたのですか。それじゃ我々は少し早まったのではないかな。首領を逃がしてしまっては……」
「イヤ、逃がしたのではありません。僕はそんなへマはしなかったつもりです」
「エッ、では、それはどこにいるのです。君は居所を知っているのですか」
「待っているのです。ここに待っていれば、今にそいつの方からここへやって来るのです」
 新一は非常な自信をもって断言した。望月少佐はこの意外な言葉をさして驚く様子もなく受け入れた。少佐は微笑さえ浮かべて、軽く肯いて見せると、その首領の来着を待ちでもするように、腕を組んで、椅子の背に深く凭れて、黙り込んでしまった。新一も物を云わなかった。二人は長い間身動きもしないで、まじまじとお互の顔を眺め合った。
 二重の地下室のおさえつけるような重い空気、大きな傘に覆われた置電燈、部屋の隅々に籠る暗い影、何かしら異常なる出来事を暗示するがごとき不気味な雰囲気が、ひしひしと身に応えるのであった。
 その時、突如として、二人の頭の上にあわただしい物音が起った。人が走っている。一人ではない、二人のようだ。天井の出入口に国民服の男の姿が現われた。急がしく階段を駈け降りて来る。憲兵の一人であった。彼は階段を降り切ると不動の姿勢をとり、少佐に向かって挙手の礼をした。
「五十嵐さんに会いたいという女の人が来ています。一応お断りしたのですが、どうしても会わせてくれといって聞きません」
「どんな女だ、名前は」
 少佐がいぶかしげに訊ねた。
「南という人です」
「アア、京子さんが来たのです。ここへ連れて来て下さい。私が呼んだのです。待っていたのです」
 新一が新たなる昂奮を示して叫んだ。少佐はそれに同意して肯いて見せた。憲兵は南京子にこの旨を伝えるために引返そうとしたが、それには及ばなかった。京子が早くも階段の上部に姿を現わしたからである。
 京子はいつもの飛白のモンペを着ていた。しっくりと足に合ったズックの靴を穿いていた。顔は昂奮に青ざめていた。その白い顔が飛白かすりの濃紺に映えて、非常に美しく見えた。薄暗いコンクリートの背景の前に、その姿はなにかしら神々しいもののようにさえ感じられた。彼女はまばたきもせず新一の顔を見つめて、静かに階段を降りて来るのであった。
 新一の目も京子の姿に釘着けになっていた。彼の表情には一層の昂奮が加わったかに見えた。その顔は京子と同じく紙のように白かった。ア、新一が待っているといったのは、もしかしたらこの京子のことではなかったのか。
 それにしても長野県の大和航空機製作所に女工員として働いているはずの京子が、どうしてここに現われたのであろう。しかもこの恐ろしい捕物のさなかに、不気味な地下室へ、彼女はそもそも何の目的をもって、その美しい姿を現わしたのであろう。

大秘密


 二重の地下室の冷たい空気は微動だもせず、音というものが消え失せてしまったかのごとく異様に静まり返っていた。
 つい今し方まで間諜団の悪漢達が密議をこらしていた粗末なテーブルを囲んで、望月憲兵少佐、五十嵐新一青年、南京子の三人が息づまるような沈黙の中に顔を見合せていた。卓上電燈がテーブルの表面に赤茶けた光を投げ、その反射光線が三人の顔に不気味な陰影を作っていた。
 永い沈黙を破って口を開いたのは新一青年であった。彼はしわがれた低い声で、一大事を打ちあけるかのように、少佐の顔を見つめながら、こんな風に云うのであった。
「この主のない椅子に誰が腰かける筈であったか、僕はそれを知っていますが、望月さん、あなたも無論御承知なのでしょうね。あなたは間諜団の首領が何者であるか、とっくに御存じでしょうね」
 望月少佐は暫く考えたあとで、静かに答えた。
「知っている。だが、わたしは今までそれを発表することを恐れていたのです。わたしの推論は殆んど常識をはずれている。日本人の心持をもってしては想像だも許されない奇怪な心理を肯定しなければ、わたしの推論は成り立たないのです。そういう突飛な推論を迂濶に発表することはできない。時期を待っていたのです」
「で、その時期が来たとおっしゃるのですか、今こそその時期だとお考えになるのですか」
 新一が熱心な口調で訊ねた。
「わたしはそのように感じる。殊に誰に盗み聴かれるおそれもない地の底で、あなた方二人の前で、わたしの推論を説明するのは、非常な好機会のように考えられる」
 少佐はそこでプッツリと言葉を切って、二人の顔を意味ありげにじっと眺めるのであった。
 京子は真青になって、その目は少佐の口辺に釘着けになっていた。ソヨともせぬ冷たい空気が液体のように三人を圧えつけ、三人はいき人形のように身動きもしなかった。
 暫くたって望月少佐が低い声でゆっくりと話しはじめた。
「わたしは昔話をしなければならない。今から七八十年前の昔話です。しかもそれはどんな記録にも残っていない、歴史の裏のささやかな事実です。ささやかな併し途方もない事実です。
 わたしはその途方もない事実を、ここ二ヶ月余の間に、非常な苦労をして調べ上げた。殆んどあるかなきかの目にも見えない細い糸を辿って、七十年の国際的罪悪史を研究した。敵国の大秘密です。想像を絶する恐るべき陰謀です。
 嘉永六年浦賀に来航したペリーは、日本の眠りを醒ましてくれた恩人だから、銅像を建てなければいけないということをとなえたものがあったが、実に滑稽こっけいな話ですね。彼は二度目に浦賀へ来る前、小笠原島を占領したという事実がある。そしてそこをコッフィン島などと名づけて米人を上陸定住せしめたのです。彼はその外琉球りゅうきゅうその他日本近海の島々をことごとく武力占領することを、時の大統領フィルモアに建言している。
 だが、それまでしないでも、当時の日本はペリーなどの思惑おもわく通り動いて行った。そして安政あんせい六年には横浜その他の貿易港が開かれ、神奈川在の一寒村横浜は彼らの商業的制覇のもっとも有力な基地として繁栄したのです。
 その頃早くも或る驚くべき陰謀が企てられていた。嘉永から明治にかけての十数年は、日本に取っては維新の大事業の成就じょうじゅせられた極めて重大な時であったが、アメリカも丁度その頃南北戦争という大事件に遭遇していた。南北戦争が終ってリンカーンが暗殺せられたのは慶応けいおう元年ですからね。その次には十八代の大統領グラント将軍の来朝という印象的な出来事があった。グラント将軍は色々日本に好意を示したので、朝野の歓迎は非常なものでした。だが、このリンカーンもグラントも、私の謂う大陰謀に無関係ではなかった。彼らといえども当時のアメリカ機密局長官から折にふれ、その報告を受けておったに違いないのです。
 何者がこの途方もない陰謀を立案したかは、わたしにも分っていない。第十三代の大統領フィルモアか、十四代のピアスか、十五代のブカナンか、或はその時代の軍部首脳者か、また機密局の天才か、いずれにしてもこの陰謀の創案者は桁はずれの驚嘆すべき怪物です。
 その陰謀の種が日本の土に播かれたのは、安政の終りから慶応明治にかけての七八年の間であったと推定される。その種が幾粒播かれたか、恐らく一粒や二粒ではなかったであろうと想像するばかりです。わたしが調査したのはその内のただ一粒の種の成長の跡に過ぎない。
 文久ぶんきゅう年代、新開地横浜村に移住してきた米人にジョン・ブウリーという男があった。貿易商人の番頭であったが、後に主人から暇をとって、横浜百五十番館に英学教授の看板をかけ、月謝三で日本人の弟子をとった。その広告文が明治元年五月の「万国新聞紙」に載っている。
 ブウリーの弟子の中に花輪はなわトミという骨董商こっとうしょうの娘があった。その頃外人目当てに横浜に骨董の店を出すものが多かったが、花輪はその先駆者であった。ブウリーと花輪の家とは金儲けについて切っても切れぬ関係を結んでいたと想像すべき節がある。というのは、間もなくブウリーは花輪トミと結婚をしたからです。尤も太政官が日本人と外国人との結婚を許可したのは明治六年ですから、それまでは正式の婚姻はなかったのだが、とも角花輪トミは明治三年に新太郎しんたろうという混血児を生み落している。
 母親のトミは新太郎が三歳の時病死し、ブウリーは後添のちぞいも貰わず、新太郎の養育に専念して、新太郎が二十一歳の折これも病歿した。新太郎は外人商館の手代見習に入っていたが、その頃同じ横浜に人力車の帳場を経営していた堂本どうもとという者の娘お花を愛してこれをめとろうとしたところ、母の実家が反対して、どうしても許さぬので、新太郎はお花を連れて駈落ちしたのです。そして諸方を巡り歩いた末、静岡市に落ちついて、新太郎は丸三製氷会社の書記を勤めた。書記をやっている内に段々製氷技術を覚えて、後には技師として働くようになった。
 新太郎夫婦はそこで一男一女を挙げたのですが、男子は死亡し、女子の方が残った。新太郎の二十六歳の時生れた娘です。これは二代目の混血児ですが、見た目は殆んど日本人と変りがなかった。美しい娘でした。
 新太郎は二三の製氷会社を転々して、最後に東京下谷区したやくの東洋製氷会社工場に勤め、根岸に住居した。明治四十二年、新太郎はそこで病死し、妻のお花と娘の幸子が取残されたのです。新太郎は本来ブウリー新太郎とでも名乗るべきですが、ブウリーは新太郎の少年の頃日本に帰化し、姓も大川おおかわと改めておったので、新太郎の娘の幸子さちこは、即ち大川幸子なのです」
 望月少佐はそこでちょっと言葉を切って、煙草に火をつけ、その青い煙の中からじっと新一青年の顔を眺めたが、新一は腕組みをして目を閉じて、眠っているのではないかと怪しまれるほど静かにしていた。
「大川幸子は二十歳の頃野田のだ某という医学生と恋愛に陥り、間もなく妊娠したが、野田は幸子と結婚できない事情があって、郷里に帰ってしまった。幸子は非常な不幸に沈んだが、思いもよらぬ救いの手がのべられた。凡ての事情を知った上で彼女を妻にしたいという人が出てきたのです。それ程まで幸子を愛し幸子の容色に溺れた人があったのです。それはその頃大学の助教授であった工学士五十嵐東三氏です」
 少佐はここで又言葉を切って、二人の聴手の顔を眺めた。京子はハッとしたように目を見はって話手の顔を見つめていたが、新一青年は目を閉じたまま少しも動かなかった。
「五十嵐博士と結婚して間もなく、幸子は男児を生み落した。五十嵐はその子供を新一と名づけ、自分の子供として届出でたのです。それから二十余年の間、夫婦の間には一人の子供も生れず、新一は両親の寵愛ちょうあいを独占して成長した。新一君、それが君なのです。わたしは二月かかってやっとここまで調べ上げた。新一君、君はこのことをもう知っていたのでしょうね」
「ええ、知っていました」
 新一は目を開いて、じっと少佐の顔を見ながら、落ちついて答えた。顔色は真青であったが態度も口調も極めて静かであった。
「では、わたしの推論が正しいことを認めるのですか。ブウリーから君に至るまで四代に亙る大陰謀を、君は認めるのですか」
 新一は再び目を閉じて黙り込んでしまった。
「わたしは君の先祖を調査してブウリーに行当ゆきあたった時、わたし自身の推論の恐ろしさに身震いしないではいられなかった。ブウリーの名は戸籍簿にはない。大川新太郎で行止りになっている。大川新太郎からブウリーまで辿りつくのに、わたしは非常な苦労をした。五十嵐博士は無論君のお母さんが第二代の混血児であることは知らなかった。お母さんの方からは決して打明けなかったのだ。博士は恐ろしい間諜を妻とし子として、それに少しも気づかず研究に没頭しておられたのだ。
 この陰謀の計画者が第何代の大統領であったか、第何代の軍部首脳者であったか、わたしは知らない。併しブウリーという男が、その大使命をび、十分の訓練を受けて日本にやって来たことは間違いない。そして、出来るだけ純粋な日本婦人を選んで結婚したのだ。彼はそういう命令を受けて来たのです。そして、その日本婦人との間に生れた子供にアメリカ流の愛国心を植えつけ、日本にいながら、日本人とよく似た顔をしながら、しかも日本国に深い憎悪を抱き敵愾心てきがいしんを持ちつづけさせるように教育するのが、彼ブウリーの一生の仕事だったのです。
 二代目の混血児は更らに純粋な日本婦人と結婚して女児を生んだ。二代目の父の仕事は、今はもう日本人と少しも違わぬ顔をしている三代目の女児に、自分が受けたと同じ教育訓練を施すことであった。敵愾心と憎悪を植えつけ、沈着勇猛なる間諜に育て上げることであった。三代目の女児即ち大川幸子は、最も純粋な日本人と愛し合って四代目の男児即ち君を生んだ。そして、五十嵐博士に妻としてかしずきながら、一方君を自分と同じアメリカ人に育て上げるために、秘かなる情熱を傾けつくしたのだ。
 四代に亙って外形は真実の日本人になろうとする努力、しかも一方では日本人になればなる程アメリカ魂を濃厚にし、日本への敵愾心を強めて行く努力、これは実に恐るべき命がけの大手品です。その根気と執念とはただもう戦慄驚嘆の外はない。まるで悪夢にうなされているような恐ろしさです」
 少佐は三たび言葉を切って、新一青年の蒼白な顔を眺めた。新一はパッチリ目を開いて、少佐の目を見返すように、低い声で云った。
「あなたは悪夢にうなされていらっしゃるのですよ。僕がアメリカ人の血をひいているということは母から聞いています。また僕が父の本当の子でなかったことも知っています。しかしこの僕が四代がかりで造り上げられた間諜だなんて、恐らくあなたの夢ですよ。悪夢ですよ。あらゆる事実がそれを証明しています」
「証明だって、一体何を証明しているというんだね」
「例えば、僕は父を殺し得なかったということをです。子が父を殺すということがあり得ないばかりでなく、それは物理的に不可能だったではありませんか。あなたはこれをどうして証明しようというのです」
 新一は青ざめていたけれど、少しも狼狽してはいなかった。彼の表情には何かしら不思議なものがあった。好意と悪意と、肯定と否定との奇妙な混淆こんこうが感じられた。
「では、殺害事件そのものについて、わたしの推論を試みよう。君がそれを望むならば」
「エエ、聞かせて下さい。僕はそれを待っていたのです」
 望月少佐は居住いを直して語り始めた。
「わたしが山の研究所へ出向いて、最初に見つけたものは、金庫や窓ガラスなどに残っていた犯人の指紋だった。わたしの部下はその指紋の主を突き止めて逮捕した。だが、彼は犯人ではなかった。わたしは彼と一時間ほど会話をしてそれを悟ってしまった。彼の奇矯な性格と、その指紋が警視庁の指紋カードに採られていたこととが、彼を飛んだ目にあわせる動機となったのだ。現場に残っていたのは、指紋カードから複写したゼラチン版をしたものに過ぎなかった。本人が来たのではなくて、指紋の印判だけが現場へやって来たのだ。
 真犯人はこの可哀相な男を一応逮捕させておいて、取調べが進まぬ内に毒殺してしまった。差入れの弁当の中に毒物が入っていたのだ。この第一の替え玉が役に立たなくなると、真犯人は次に第二の替え玉を用意していた。××温泉村山中の洞穴ほらあなに隠れていた怪人物、それから大和航空機製作所の爆破を企らんだ男、今度も常人ではない、けだもののような異常な人物が選ばれた。そして、こいつこそ五十嵐博士殺害犯人だと思い込ませるように仕向けられた。この男も間諜団の一員ではなかった。韮崎と同様純粋の日本人であった。何も知らないで間諜の手先に買収せられ、命ぜられたことを機械的にやったばかりで、それが戦争にどういう影響を与えるかということには、全く無智であった。この男も韮崎と同じに毒薬自殺をとげた。イヤ自殺と見せかけて、実は毒殺せられたのだ。
 では真犯人はどこにいるのか。君は今夜ここにいたではないかというであろう。如何にも十名のものが一網打尽となった。又彼等が間諜団一味の者共であることも疑いない。併し例によって肝腎の男がいない。彼等の首領、真犯人は姿を現わさない。空の椅子があるばかりだ。
 新一君、君はさっきこの椅子の主を待っているといったが、君は君自身を待っていたのだ。五十嵐博士殺害犯人、韮崎と今一人の替玉を毒殺した下手人、アメリカ人の血を受けたペリー以来の大陰謀の主、憎みても余りある売国間諜団の首魁しゅかいは君をいて外にはないのだ」
 望月少佐の低いが力強い、叱りつけるような声がピタリと止まり、その余韻が消えうせると、三人のまわりに再び墓場の静寂が押寄せた。重い冷い空気が三人を圧えつけた。殆んど五分間も、誰も口も利かず身動きもしなかった。
 その時、さい前から一言も物をいわなかった南京子が、堪りかねたように口を開いた。二人の男子とは違い、彼女はさすがに昂奮を隠し兼ね、その声は幽かに震えていた。
「違います。それは違います。新一さんは下手人ではありません。わたし、それをこの目で見ているのでございます。あの時新一さんとわたしとは月夜の庭を肩を並べて歩いていました。そして、五十嵐博士が二階の窓から助けてくれと叫んでいらっしゃるのを見たのです。何者かが博士を部屋の中へ引戻そうとしているのを、この目でちゃんと見たのです。新一さんとわたしの立っている所から博士のお部屋まで、いくら急いでも三分かかるほど離れていたのです。
 そして、その二階の部屋へ駈けつけて見ると、博士は傷ついて倒れていらっしたのです。新一さんは外の人達と一緒にその部屋へ入ったのですから、新一さんが下手人である筈がないのです。
 まだあります。その夜は新一さんのお母さまが博士の隣の部屋でお寝みになっていたのですが、犯人はお母さまを縛って洋服箪笥の中へとじこめて逃げて行きました。新一さんにどうしてそんなことをするひまがあったでしょう。お母さまを縛って逃げた奴が下手人です。新一さんではありません。新一さんは博士が傷つけられた時には、わたしと一緒に庭にいたのです。こんなはっきりした証拠があるでしょうか。
 それから、それから、傷ついた博士がとうとうお亡くなりになったのは、あの晩犯人が博士のお薬の中へ毒薬を入れたからですが、その時新一さんは手足を縛られ猿轡をはめられて深い穴の底にころがっていたのです。そんな目にあっていた新一さんが、どうして博士の病室へ忍び寄ることが出来たでしょう。新一さんは下手人ではありません」
 京子は息をはずませて、彼女の確信するところを述べ終ると、敵意に似た目遣いで食い入るように望月少佐の顔を見つめるのであった。
「アア、そうです。京子さん、あなたのおっしゃる通りです。さっき新一君もちょっと漏らしたように、それは物理的に不可能だったのです。完全無欠のアリバイというやつですね。しかも新一君はその不可能をなしとげた。祖父から曾孫に至る四代の執念を見事に成就して見せたのです」
「信じられません。わたし、信じられません」
 京子はこの物理的不可能を絶対のものとして動かなかった。
「不可能ではない。不可能に見せかけた巧みな手品にすぎないのですよ。こういう手品はアングロサクソンの最も得意とするところです。五十嵐博士に重傷を負わせた夜は丁度満月に近い月夜であった。ここに一つの意味があるのです。その兇行の行われた時、あなたと新一君が博士の寝室の窓の見える庭を歩いていたという点にも今一つの意味があるのです。
 若しあの時、あなたが庭へ出て行かなかったならば、恐らく犯罪は行われなかったに違いない。あなたと新一君とが肩を並べて月光の下を歩いている。丁度その時、博士の寝室において兇行が演じられるというのが、絶対に必要な条件だったのです。
 犯人は無論、博士を殺してしまうつもりだった。そして一応目的を果したものと信じたのですが、実は少し急所をそれていた。博士は絶命しなかった。犯人は非常な失敗を演じたのです。そこで更らに色々な手品が必要になって来た。そこで案出せられたのが、例のいつも洞穴の中にいる怪人物です。そしてその怪人物がくさむらの中を蛇のように這って行った。新一君がそのあとを追ったなどという、怪談が生れて来たのです。あなたはあの時蛇のような怪物を目撃したわけではない。そこに立っている新一君を見たばかりです。新一君の脅えた表情と、憑かれたような行動を見たばかりです。あなたはその怪談を信じてしまった。
 そうして、新一君は行方不明になってしまった。怪物に誘拐監禁せられたと信じさせるような手段が採られた。怪物は唯一の護衛者である新一君を博士の身辺から遠ざけておいて最後の手段を講じた。――毒殺を敢行したと信じさせるように仕組まれた。そして、ここにも又新一君の完全なアリバイが成立したのです。山奥の洞穴の中に高手籠手たかてこていましめられて監禁されていた新一君が、同時に博士の枕頭に現われて毒薬を盛るなどということは全く不可能としか考えられませんからね。こうして新一君は最後の目的を達したのです」
「どうしてそういうことが出来たのでしょうか」
 京子は依然として彼女の所信を捨てなかった。愛人新一の悪業を信じまいとして惨憺たる苦闘をつづけていた。
「極めて簡単です。新一君は監禁などされていなかったからです。或は夜の更けるまであの洞窟の中に隠れていたかも知れません。併しそれは新一君の自由意志によって身を隠していたのに過ぎません。決して縛られてなぞいなかったのです。そして適当な時間に博士の寝室の外に忍び寄り、憲兵の見巡りの隙を窺って、縄梯子で病室の窓によじ登り、カーテンの間から手を入れて毒薬を盛ったのです。
 それから六日の間新一君は山中に姿をくらましていた。食事はあの替え玉のけだもののような男が麓の村から運んだのでしょう。その時にはまだ誰もあの男の顔を知らなかったのですからね。そして六日目に、わたしが山中を散歩するのを見すまして、新一君はあの男に自分を縛らせ、猿轡まではめさせて、洞穴の底に横たわっていたというわけですよ」
 不可能は実に易々と可能となった。併しもう一つの不可能は、月夜のアリバイはどうして打破ることができるのであろう。この方は全く物理的不可能であって、如何なる欺瞞ぎまんもあり得ないではないか。
「イイエ、それは一つの考え方です。そういう考え方も出来るということが分るだけです。あの月夜の晩のことが説きあかされないでは、あなたのお考えを信じることが出来ません。あの時はこの目で見たのです。博士がうしろから引戻され、短刀で刺されるのを、この目で見たのです。そして、その時新一さんはわたしのすぐ側に、肩もすれすれに立っていたのです」
 京子は愛人のために最後の抗弁を試みるのであった。

月光の妖術


 京子は燦々さんさんと降り注ぐ月光の中に、はっきりとそれを見たのであった。五十嵐老博士は窓から半身を乗り出して救いを求めていた。その時何者かが博士を室内に引き込み、博士は苦悶の叫びを上げて倒れて行った。それをはっきり見たのである。しかもその時、五十嵐新一青年は彼女と肩を並べて月光の庭に佇んでいたのだ。その新一がどうして博士を殺し得たであろう。物理的に不可能なことではないか。京子はあくまで抗弁した。彼女の健全な常識がかかる非論理を承認し兼ねたのである。
 しかし望月憲兵少佐は、確信に満ちた静かな声で説明をはじめた。地下室の冷たい空気に滲み通るようなその低い声が、徐々に京子の魂を圧倒して行くように見えた。
「それは月の光があなたの目をくらましたのです。月光の妖術とでもいいますか、犯人の巧緻を極めた手品にすぎなかったのです。
 わたしは数学の計算によって、あてはまらないものを一つ一つ取除き、そのあとに残ったただ一つのものを、表から裏から側面から吟味したのです。そしてこうでなくてはならないという最終の論理を組立てたのです。
 あばいて見れば何でもない事です。一つの幻術『目くらまし』に過ぎないのです。しかしこれを考えついた犯人の惨憺たる苦心と執念には、何か人をゾッとさせるものがあります。
 犯人は何十日という間、夜も昼もこの事ばかり考えていたに違いない。そして一つの不可能を造りあげた。被害者が月光の窓で救いを求める。そのとき犯人はそこから十間も二十間も離れた場所にいて、犯罪の現場に駈けつける。一人ではない、多数の人と一緒にです。駈けつけると、被害者はすでに傷つけられ瀕死の状態に陥っていた。犯人が被害者に手をかける隙は少しもなかった。完全無欠のアリバイですね」
「そうです。完全無欠のアリバイです。それがどうしてそうでないとおっしゃるのでしょうか」
 京子は青ざめた顔を固くして、最後の抵抗を試みた。もう無駄だということは彼女にもほとんど分っていたが、何かしら非常な焦躁にかられて、黙っているわけには行かなかったのである。少佐は静かにつづける。
「それが犯人の考え出した巧みな目くらましだからです。犯罪はあのときに行われたのではない。もっと以前、あなたと新一君とが月光の庭で出会うよりも前に、犯罪はすでに行われ、博士は傷つけられていたのです」
「でも、あんなひどい傷を負わされた博士が、どうして窓から救いを求めることができたのでしょう。それは不可能です。そんなことは考えられません。それに……」京子はギョッとしたように目をみはった。「もしあなたのおっしゃる通りだとしますと、あの時、博士は自分を傷つけた犯人に向かって、救いをお求めになったことになるではありませんか」
「そう、一応そういう事になる。そこに犯人の恐るべき幻術があったのです。京子さん、あなたは月の光にまどわされたのですよ。若し昼間だったら、この幻術は到底成功しなかった。淡い月光の中だったからこそ、あなたの目をあざむくことが出来たのです。あの時窓から半身を乗り出して救いを求めたのは、本当の五十嵐博士ではなかった。博士はすでに意識を失って部屋の中に倒れていたのです」
「でも、でも、あれは確かに……」
 京子の声はまったく生彩を失っていた。独言のような呟きにすぎなかった。
「京子さん、月光の中で博士の身代りをつとめた人物は一体何者だと思いますか。意外な人です。しかしよく考えて見れば、その人の外にこの役目を果し得る人物はいなかったのです。……それはね、五十嵐博士夫人です。新一君のお母さんだったのですよ」
 彫像のように身動きもしなかった新一青年がこの時カタンと音をさせて膝を組み直した。
 京子はもう黙っていた。一切が彼女にも分りかけて来たのである。
「新一君のお母さんは日本人の顔を持った生粋きっすいのアメリカ人であった。祖父ブウリーと父新太郎の血を受けついだ生得しょうとくのスパイであった。無論お母さんは五十嵐博士に再婚する時、今日あるを予知していたわけではない。お母さんにして見れば、新一君を立派なスパイに仕上げてゆくのに邪魔にならないような、家事にうとい学者肌の夫を選ぶ必要があった。五十嵐博士はそういう意味では理想的の人物だったのです。お母さんは、日夜飛行機の研究に没頭している博士の傍らで、まったく別個の生活をいとなんでいた。新一君を生粋のアメリカ人に、日本侵略の隠密の先駆者に育て上げるために、情熱と精根とを傾けていたのです。
 しかるに偶然にも夫五十嵐博士はアメリカに取ってもっとも恐るべき武器の発明者となり、その発明が今にも完成するという危険に際会した。だがお母さんは決して惑わず、永年連れ添う夫を祖国の犠牲いけにえに捧げる決意をしたのです。
 こうして犯罪史上に前例のない恐ろしい罪が企てられた。お母さんと新一君とは、その罪の遂行のために知嚢ちのうを絞り、夜となく昼となく密議をこらした。そしてこの驚くべき幻術が構成せられたのです。幻術は二つの大きな要素から成り立っていた。一つは世間が五十嵐博士と新一君とを真の親子と信じ何らの疑いをもっていないという屈強の要素であった。これこそ君達の幻術の基底をなすところの比類のない条件であった。しかしそれだけではまだ不十分だ。この陰謀にはもっと磨きがかけられなければならなかった。そこで第二の要素として完全無欠のアリバイが考案せられた。犯罪が行われた時、当の犯人の新一君が被害者から数十間離れた場所にいるという手品が考え出された。
 事実は、五十嵐博士とソックリの姿をした人物が窓から救いを求めた時に犯罪が行われたのではない。そのとき本当の五十嵐博士はすでに傷つき倒れていたのだ。その下手人はいうまでもなく新一君である。君はあのとき博士が死んだものと誤解した。目的を果したと信じてしまった。そこで計画の通り大急ぎで庭に出て、そこに立っていた京子さんに声をかけた。むろん京子さんがそのとき庭に出ていなかったら、そして月があのように冴えていなかったら、この兇行は延期されたに違いない。庭から博士の寝室の窓がよく見えることと、庭に誰かがいることとが、絶対の条件だったからです。
 それは必ずしも京子さんでなくてもよかったが、偶然にも最も都合のよい京子さんが庭に出ていた。そこで五十嵐博士夫人は京子さんに見せるために、あのお芝居を演じたのです。あらかじめ用意してあった鬘とつけ髯、博士のと同じ柄のパジャマ、博士の声を真似たしわがれた叫び声、月光がこれを助けたのです。わたしが月光の妖術といったのは、この事です。太陽の光でなくて月の光でなければならなかったのです。
 真の犯罪は月光の中のお芝居よりも十数分前に行われていたことを誰も知らなかった。お芝居の演じられたときに兇行があったものと信じた。そのとき新一君が犯罪現場にいなかったことは明瞭である。完全無欠のアリバイです。第一に新一君は博士の子であるということ、第二に新一君は兇行の現場にいなかったこと、一点の隙もない論理です。実に恐ろしい幻術です。
 博士夫人はお芝居を演じ終ると、鬘、つけ髯、パジャマをどこかへ隠し、自ら猿轡をはめ、自分のからだにグルグルと紐をまきつけて、洋服箪笥の中に入り、内側から戸を閉めたのです。鍵は夫人がかけたのではない。新一君があとであの部屋に入ったときにかけたのです。鍵がないないと探し廻って見せたが、その実、鍵はちゃんと新一君のポケットに入っていたのです。また、夫人は自分のからだに紐をまくことは出来たけれども、その端を結ぶことは出来なかった。この欠点は、紐を解く役割を新一君が勤める事によって完全に補い得た。つまりその紐の端は一度も結ばれなかったのです。新一君はその結ばれていない紐を解いて見せた。解く真似をしたに過ぎないのです。こうして博士夫人にも完全な反証が用意されていた。第一の反証はいうまでもなく、君のお母さんが五十嵐博士の妻であったという有力無比の事実だ。第二の反証は犯人のために縛られて洋服箪笥にとじこめられていたという欺瞞だ。実に深くも企らんだものだね」
 望月少佐はそこで言葉を切って、新一の顔をじっと見ていたが、相手が黙り込んでいるので、答を促すためにつけ加えた。
「新一君、君の意見が聴きたいものだね。わたしの推論にどこか間違った個所があったかね」
 新一はやっと顔を上げた。恐ろしいほど青ざめて、ビッショリと汗の玉が浮いている。
「望月さん、適確な推論です。あなたのお話には一点の間違いもありません」
 新一は低い嗄れた声で始めた。
「実を申しますと、僕はあなたがこの事件の真相をあばいて下さるのを待っていたのです。いつか大和航空機製作所に時限爆弾を仕掛けた男と取組み合って傷ついた時、あれもわざと自分の手で傷をつけたのですが、あの時あなたが見舞に来て下さって、ペリー来航以来の歴史を研究しているとおっしゃったので、あなたが既に真相を掴んでおられることを知りました。僕はあの時からもう覚悟をしていたのです。
 しかし僕の心持を一変させたのは、望月さんあなたではありません。もっと強い動機がほかにあったのです。それはここにいる南京子さんです。こういうことを打ちあけるのは、京子さんにも今がはじめてですが、僕を日本人にしてくれたのは京子さんです。僕は望月さんのおっしゃった通り、日本人の顔を持ったアメリカ人でした。祖国アメリカのために命がけで働いたのです。それが正しいと信じていたのです。
 ところが、父の死後間もなく、××温泉の山中で京子さんが滝にうたれて一心にお祈りをしている姿を見た時から、僕の心に非常な動揺が起ったのです。京子さん覚えていますか、僕があの時涙を流してあなたに約束したことを。僕がどんな感じでいるか、あなたには到底分らない。しかし何時か詳しくお話しする時が来る。きっとその時が来ると云ったことを。その時が今来たのです。
 その後も京子さんが日本人として日本のお国を思う心や行いが、ひしひしと僕の心を打ちつづけたのです。殊に母の入院している病院がアメリカの飛行機に爆撃された時、京子さんの殉教者のような神々しい姿を見て、僕は魂の底から揺ぶられました。
 京子さんは日本人なのに、僕はどうしてアメリカ人でなければならないのか。僕のからだには無論アメリカ人の血がみなぎっているが、純粋のアメリカ人からは四代目の曾孫にすぎない。正確にいえば僕の体内にはアメリカ人の血は八分の一しか残っていない。八分の七までが日本人の血ではないか。その僕がどうして京子さんと同じ日本人であってはならないのか。僕は京子さんの神々しい姿を見ているうちに、そこへ気がついて、愕然として夢から醒めたのです。
 母は間接ではありますが、アメリカ機の爆撃によって死にました。神を恐れぬアメリカ機は病院と知りながら爆弾を落したのです。そしてその病院にアメリカにすべてを捧げた一女性がいたのです。アメリカの無謀な盲爆がアメリカの恩人を殺したのです。母は今わの際に僕だけに囁きました。もう私はアメリカ人ではない。アメリカへの忠誠はこれで終った。お前は今日から日本人になりなさいと囁いたのです。
 僕の苦悶をお察し下さい。それのみを生甲斐としていたものが、今は生甲斐とするに足らないことが分ったのです。しかも僕は悪夢のような信念のために、取り返しのつかぬ大罪を犯してしまったのです。真実の父でないとはいえ、育ての父を手にかけるという極悪非道の罪を犯したのです。京子さん、僕があの時、母が息を引取ったすぐあとで、コンクリートの塊りで自分の指を打ちくだいたことを記憶しているでしょう。あなたは気でも狂ったのかとびっくりしていましたね。だが、僕は指一本無くしたぐらいでは到底癒すことの出来ない心の痛手にうちひしがれていたのです。
 結局、僕は日本人に立帰る外はなかったのです。その外に道が無かったのです。日本人になるということが僕にとって何を意味するか、お分りですか。若し僕がアメリカ人でないとしたら、僕が今までやって来たことは、すべて極悪非道の大罪です。何度死んでも足らないくらいです。しかし、僕の命は一つしかありません。せめてもの罪亡ぼしに、僕の知っている限りのアメリカのスパイ共を一網打尽した上で、自決するという決心をしました。そして今こそ、その時が来たのです」
 望月少佐はそれを止めようとはしなかった。京子は茫然自失していた。新一は何のさまたげもなく、用意の丸薬を飲み下すことができた。

偉大なる夢


「新一君、君に一言聞かせることがある。我慢して聞くんだ。いいか」
 望月少佐は椅子の下にくずおれている新一の肩をゆすぶった。新一は苦悶に歪んだ顔を起して、見えぬ目に少佐の声を見上げた。
「アメリカ人共は、これを聞いたら愕然として色を失うだろう。だが、日本人になった君には嬉しい知らせだ。君はお父さんに深手を負わせた。しかし殺しはしなかったのだ。新一君、安心したまえ。五十嵐博士は生きているんだぞ。そしてあの偉大な発明を殆んど完成したのだ。分るか。新一君、君のスパイとしての手柄はこれで台無しとなってしまったが、その代りに、父殺しの大罪を免れたのだ。喜びたまえ、君は君が思っている程の大罪人ではなかったのだ」
 新一の瀕死の魂はこの言葉を聴き取ったのであろう。彼の土色の顔に幽かな微笑が浮かんだかと思われた。
「君は毒薬をもって五十嵐博士を殺したと信じていた。君ばかりではない、設計班の人々の全部がそれを信じた。しかし本当は博士はあの毒薬を飲まれなかったのだ。あのときわたしは博士の病室の次の間に寝ていたが、決して眠ってはいなかった。犯人の黒い手が薬瓶をすり換えたのを、隣室の暗闇の中からじっと見ていたのだ。そして、わたしは咄嗟にこの機会を逆に利用することを考えついた。
 主治医の外科病院長に事情を打ちあけて協力を求めた。主治医は国家的な立場から医師としての良心を放棄し、極度に衰弱している五十嵐博士に麻酔薬を与え、外見上死人同様の状態にすることを承知してくれた。このことはわたしと主治医と二人だけの秘密として、設計班の人達にすら打ちあけなかった。主治医はこの困難な仕事を巧みになしとげてくれた。突然五十嵐博士の毒死が発表せられ、病中の博士夫人をはじめ設計班の人々が枕頭に集ったが、権威ある医学博士の断案を誰一人疑うものはなかった。当時衰弱の極にあった老博士の姿は、私自身さえ本当に亡くなられたのではないかと錯覚を起すほどであった。丁度その時新一君は山中の洞窟に隠れていたし、博士夫人は発熱のため長く死者の枕頭に侍することができない事情にあったので、このお芝居は一層安全に行われた。
 博士の死体を納めたと見せかけた棺が上田市で火葬に附せられたが、その棺の中には主治医の外科病院に備えつけてあった人体骨格標本が入れてあったのに過ぎない。本当の五十嵐博士を運び出すために、もう一つの棺が用意された。わたしの部下がこの棺を守って、深夜自動車で長野市に走った。博士はそこの大病院に入り、万全の手当を受けた。東京からも北沢博士がわざわざやって来られて、この大発明家の健康恢復のためあらゆる手段が講ぜられた。
 幸にして一ヶ月余りの療養の後、五十嵐博士は設計の仕事をつづけ得る体力を取戻すことができた。そこで、従来のものとは全然別個の設計班が組織せられ、愛知県下の某大工場を試作機製作所と定め、極秘の内に仕事が進められた。夜を日につぐ超人的努力が続けられた。
 大和航空機製作所に移転した設計班の学者達には、この秘密を一言も漏らさなかった。京子さんの兄さんの南博士さえもこのことは御存じなかった。わたしは当時まだ新一君がその人であると確信していたわけではないが、いずれにせよ設計班の中に間諜に通諜するものがあることを疑わなかったからです。
 新一君、聴いているか。わたしのいうことが分るか。オイ、喜びたまえ、君の罪はわたしがつぐなって上げたのだ。君は親殺しの大罪を犯しはしなかった。イヤ、それよりも、国の興亡をかけた五十嵐博士の大発明を妨げはしなかった。妨げ得なかったのだ。オイ、新一君、分るか。君は救われたのだ」
 少佐は怒鳴りながら、新一の肩をゆすぶったが、新一はこれに応えることは出来なかった。身体を動かすことは勿論、見ることも、口を利くことも出来なかった。しかし僅かに残る聴力が少佐の言葉を理解したのであろう。口辺にただよう一種不気味な微笑が、幽かに強まり拡がって行くように感じられた。
 京子は新一が恐るべき敵国人であることを知って、一時は彼を限りなく憎悪したけれども、今は彼のために涙をながしていた。それは新一が日本人となって死んで行くのだという感動の涙であった。
「新一君、まだ死んではいけない。もう一言聞かせたいことがある。昨日だ。昨日の朝五十嵐博士の超高速度飛行機は試験飛行に成功した。……試作機の製作が驚く程早く完成したのだ。神業といってもいい。あの大負傷が五十嵐博士の脳髄に超人的な力を与えた。そして博士を助ける学者達の闘志がこれをなしとげた。設計の大部分は××温泉村の設計場で出来上っていたし、試作機の部分品も大半は注文ずみだったので、試作機の製作は予想外に早く完了した。その代りに人間と費用とは惜しげもなく使用せられた。設計製図には毎日五百人の学者、技術家が働き、製作には五ヶ所の主要工場を合せて毎日夜も昼も二千人の工員が働いた。
 試作機の試験飛行は見事に成功した。詳しいことは私にも分らないが、五十嵐機の動力は旧来の発動機に特別の改良を加えたものと、一種のロケットが併用せられ、発動機で飛翔する場合は翼をひろげ、ロケットで驀進する場合には翼をちぢめて砲弾のような形になるという極めて巧妙な装置がほどこされているのだ。燕はゆっくり飛んでいるときは翼をひろげて羽搏はばたくが、非常に早く飛ぶときには翼をぴったり身につけ、身を砲弾のように細くして空を斬る。わたしは五十嵐機は丁度あれだと思う。
 成層圏に達するまではよくをひろげているが、成層圏に上昇し、いよいよ長距離飛翔に移る際には翼が胴体にぴったり食い着いて、同時にロケットの爆発がはじまるという機構らしく想像される。その試験飛行が昨日の朝、愛知県の某所で行われたが、結果は非常な好成績であった。速度は五十嵐博士の計算よりも遙かに早いほどで、東京ニューヨーク間五時間の夢はもう実現したも同様だという知らせであった。五十嵐博士は助手達に助けられて、その場に立合って居られたが、大負傷後のからだも忘れて、躍り上って万歳を叫ばれたということです」
 新一の遺骸なきがらはもういくらゆすぶっても何らの反応を示さず、一個の物体と化し去っていた。京子はその傍らの床にひざまずいて望月少佐を見上げたまま、声を上げて泣いていた。美しい頬を涙がとめどもなく流れるのを流れるに任せて小児のように泣いていた。
「京子さん、嬉しくて泣いているのですか。そうです、いよいよ驕敵きょうてきアメリカを根こそぎやっつける時が来たのです。偉大なる科学者の夢はついに実現せられたのです。戦争を一挙に終局にみちびく偉大なる力が、今われわれの手に握られたのです。
 五ヶ所の代表的航空機工場が、既に五十嵐機の製作に着手したということです。今から数ヶ月後には、何百何千の超高速爆撃機が完成せられるのです。そして、それらが太平洋を一瞬に飛び越す、無数の砲丸となって、ニューヨーク、ワシントンの空を暗くし、敵都の高層建築物を片端から破壊する日も遠くはないのです。敵策謀の本拠白堊館が大統領もろとも木端微塵こっぱみじんとなって飛び散る日が、間もなくやって来るのです。京子さん、そして、全国民が偉大なる老五十嵐博士を絶讃する日が、もう目の前に近づいているのです」
 望月少佐の声は一語一語と高く激しくなって行った。そして、この狭い地下室の底は、今や雄大無比の幻影に満たされていた。そこには太平洋の空を蔽って飛び行く五十嵐機の大編隊がまざまざと眺められ、微塵となって飛散する白堊館の一大爆音が鼓膜も破れよとばかり聞えて来た。
 少佐の歓喜の絶叫は地下室を震わせて鳴り響き、そのただ一人の聴手京子の頬には、拭いもあえぬ美しい涙が、あとからあとからと、とめどもなく流れ落ちるのであった。





底本:「江戸川乱歩全集 第14巻 新宝島」光文社文庫、光文社
   2004(平成16)年1月20日初版1刷発行
底本の親本:「日の出」新潮社
   1943(昭和18)年11月〜1944(昭和19)年12月
初出:「日の出」新潮社
   1943(昭和18)年11月〜1944(昭和19)年12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「暖炉」と「煖炉」、「聞こえ」と「聞え」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った箇所を、「江戸川乱歩全集 第14巻 新宝島」光文社文庫、光文社、2015(平成16)年6月25日初版2刷発行の表記にそって、あらためました。
※底本巻末の平山雄一氏による註釈は省略しました。
入力:金城学院大学 電子書籍制作
校正:入江幹夫
2021年9月27日作成
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