孤島の鬼

江戸川乱歩




はしがき


 私はまだ三十にもならぬに、濃い髪の毛が、一本も残らず真白まっしろになっている。このような不思議な人間がほかにあろうか。かつ白頭宰相はくとうさいしょうわれた人にも劣らぬ見事な綿帽子が、若い私の頭上にかぶさっているのだ。私の身の上を知らぬ人は、私に会うと第一に私の頭に不審の目を向ける。無遠慮な人は、挨拶あいさつがすむかすまぬに、ず私の白頭についていぶかしげに質問する。これは男女にかかわらず私を悩ます所の質問であるが、その外にもう一つ、私の家内かないく親しい婦人けがそっと私に聞きに来る疑問がある。少々無躾ぶしつけわたるが、それは私の妻の腰の左側のももの上部の所にある、恐ろしく大きな傷のあとについてである。そこには不規則な円形の、大手術のあとかと見える、むごたらしい赤あざがあるのだ。
 この二つの異様な事柄は、しかし、別段私達の秘密だと云うわけではないし、私は殊更ことさらにそれらのものの原因について語ることをこばむ訳でもない。ただ、私の話を相手にわからせることが非常に面倒なのだ。それについては実に長々しい物語があるのだし、又仮令たとえそのわずらわしさを我慢して話をして見た所で、私の話のし方が下手なせいもあろうけれど、聞手ききては私の話を容易に信じてはくれない。大抵の人は「まさかそんなことが」と頭から相手にしない。私が大法螺吹おおぼらふきか何ぞの様にう。私の白頭と、妻の傷痕という、れっきとした証拠物があるにも拘らず、人々は信用しない。それ程私達の経験した事柄というのは奇怪至極しごくなものであったのだ。
 私は、嘗て「白髪鬼」という小説を読んだことがある。それには、ある貴族が早過ぎた埋葬に会って、出るに出られぬ墓場の中で死の苦しみをめたため、一夜にして漆黒しっこくの頭髪が、ことごと白毛しらがと化した事が書いてあった。又、鉄製のたるの中へ入ってナイヤガラのたき飛込とびこんだ男の話を聞いたことがある。その男は仕合しあわせにも大した怪我けがもせず、瀑布ばくふを下ることが出来たけれど、その一刹那せつなに、頭髪がすっかり白くなってしまったよしである。およそ、人間の頭髪を真白にしてしまうほどの出来事は、この様に、世にためしのない大恐怖か、大苦痛を伴っているものだ。三十にもならぬ私のこの白頭も、人々が信用しねる程の異常事を、私が経験した証拠にはならないだろうか。妻の傷痕にしても同じことが云える。あの傷痕を外科医に見せたならば、彼はきっと、それが何故なにゆえの傷であるかを判断するに苦しむに相違ない。あんな大きな腫物はれもののあとなんてあるはずがないし、筋肉の内部の病気にしても、これ程大きな切口を残す様なやぶ医者は何所どこにもないのだ。けどにしては、治癒ちゆのあとが違うし、生れつきのあざでもない。それは丁度ちょうどそこからもう一本足が生えていてそれを切り取ったらさだめしこんな傷痕が残るであろうと思われる様な、何かそんな風な変てこな感じを与える傷口なのだ。これとてもまた、並大抵の異変で生じるものではないのである。
 そんな訳で、私は、このことをう人ごとに聞かれるのが煩しいばかりでなく、折角せっかく身の上話をしても、相手が信用してくれない歯痒はがゆさもあるし、それに実を云うと私は、世人せじんかつて想像もしなかった様な、あの奇怪事を、――私達の経験した人外境じんがいきょうを、この世にはこんな恐ろしい事実もあるのだぞと、ハッキリと人々に告げ知らせい慾望もある。そこで、例の質問をあびせられた時には、「それについては、私の著書に詳しく書いてあります。どうかこれを読んで御疑いをはらして下さい」と云って、その人の前に差出すことの出来る様な、一冊の書物に、私の経験談を書き上げて見ようと、思立おもいたった訳である。
 だが、何を云うにも、私には文章の素養がない。小説が好きで読む方は随分ずいぶん読んでいるけれど、実業学校の初年級で作文を教わった以来、事務的な手紙の文章などのほかには、文章というものを書いたことがないのだ。なに、今の小説を見るのに、ただ思ったことをダラダラと書いて行けばいいらしいのだから、私にだってあの位の真似まねは出来よう。それに私のは作り話でなく、身をもって経験した事柄なのだから、一層いっそう書きやすいと云うものだ、などと、たかをくくって、さて書き出して見た所が、仲々なかなかそんな楽なものでないことが分って来た。第一予想とは正反対に、物語が実際の出来事であるために、かえって非常に骨が折れる。文章に不馴ふなれな私は、文章を駆使くしするのでなくて文章に駆使されて、つい余計よけいなことを書いてしまったり、必要なことが書けなかったりして、折角の事実が、世のつまらない小説よりも、一層作り話みたいになってしまう。本当のことを本当らしく書くことさえ、どんなに難しいかということを、今更いまさらの様に感じたのである。
 物語の発端ほったんけでも、私は二十回も、書いては破り書いては破りした。そして、結局、私と木崎初代きざきはつよとの恋物語から始めるのが一番穏当だと思う様になった。実を云うと、自分の恋の打開うちあけ話を、書物にして衆人の目にさらすというのは、小説家でない私には、妙に恥しく、苦痛でさえあるのだが、どう考えて見ても、それを書かないでは、物語の筋道すじみちを失うので、初代との関係ばかりではなく、その外の同じ様な事実をも、はなはだしいのは、一人物との間にかもされた同性恋愛的な事件までをも、恥を忍んで、私は暴露ばくろしなければなるまいかと思う。
 際立きわだった事件の方から云うと、この物語は二月ふたつきばかりあいだを置いておこった二人の人物の変死事件――殺人事件を発端とするので、この話が世の探偵小説、怪奇小説という様なものに類似るいじしていながら、その実甚だしく風変りであることは、全体としての事件が、まだ本筋に入らぬ内に、主人公(あるいは副主人公)である私の恋人木崎初代が殺されてしまい、もう一人は、私の尊敬する素人しろうと探偵で、私が初代変死事件の解決を依頼した深山木幸吉みやまぎこうきちが、早くも殺されてしまうのである。しかも私の語ろうとする怪異談は、この二人物の変死事件を単に発端とするばかりで、本筋は、もっともっと驚嘆すべく、戦慄せんりつすべき大規模な邪悪、いまかつ何人なんぴとも想像しなかった罪業ざいごうに関する、私の経験談なのである。
 素人の悲しさに、大袈裟おおげさな前ぶればかりしていて、一向いっこう読者に迫る所がない様であるから、(だが、この前ぶれが少しも誇張でないことは、後々あとあとに至って読者に合点がってんが行くであろう)前置きはこの位にとどめて、さて、私のつたない物語を始めることにしよう。

思出おもいでの一夜


 当時私は二十五歳の青年で、まるうちのあるビルディングにオフィスを持つ貿易商、合資会社S・K商会のクラークを勤めていた。実際は、わずかばかりの月給なぞほとんど私自身のお小遣こづかいになってしまうのだが、と云ってW実業学校を出た私を、それ以上の学校へ上げてくれる程、私の家はゆたかではなかったのだ。
 二十一歳から勤め出して、私はその春で丸四年勤続した訳であった。受持ちの仕事は会計の帳簿の一部分で、朝から夕方まで、パチパチ算盤玉そろばんだまをはじいていればよいのであったが、実業学校なんかやった癖に、小説や絵や芝居や活動写真がひどく好きで、いっぱし芸術が分るつもりでいた私は、機械みたいなこの勤務を、ほかの店員達よりも一層いやに思っていたことは事実であった。同僚達は、な夜なカフェ廻りをやったり、ダンス場へかよったり、そうでないのはひまさえあればスポーツの話ばかりしていると云った派手はでで勇敢で現実的な人々が大部分であったから、空想好きで内気者うちきものの私には、四年もいたのだけれど、本当の友達は一人もないと云ってよかった。それが一際ひときわ私のオフィス勤めを味気あじきないものにしたのだった。
 ところが、その半年ばかり前からというものは、私は朝々の出勤を、今迄いままで程はいやに思わぬ様になっていた。と云うのは、その頃十八歳の木崎初代が初めて、見習みならいタイピストとしてS・K商会の人となったからである。木崎初代は、私が生れるときから胸に描いていた様な女であった。色は憂鬱ゆううつな白さで、と云って不健康な感じではなく、身体からだ鯨骨くじらぼねの様にしなやかで弾力に富み、と云ってアラビヤ馬みたいに勇壮ゆうそうなのではなく、女にしては高く白い額に左右不揃いなまゆが不可思議な魅力をたたえ、切れの長いひとかわ目に微妙な謎を宿し、高からぬ鼻と薄過ぎぬ唇が、小さいあごを持った、しまったほおの上に浮彫うきぼりされ、鼻と上唇の間が人並ひとなみよりは狭くて、その上唇が上方にややめくれ上った形をしていると、細かに書いてしまうと、一向初代らしい感じがしないのだが、彼女は大体その様に、一般の美人の標準にはずれた、その代りには私丈けには此上このうえもない魅力を感じさせる種類の女性であった。
 内気者の私は、ふと機会を失って、半年もの間、彼女と言葉も交わさず、朝顔を見合わせても目礼さえしない間柄であった。(社員の多いこのオフィスでは、仕事の共通なものや、特別に親しい者の外は、朝の挨拶などもしない様な習わしであった)それが、どういう魔(?)がさしたものか、ある日、私はふと彼女に声をかけたのである。後になって考えて見ると、この事が、いや私の勤めているオフィスに彼女が入社して来たことすらが、誠に不思議なめぐり合せであった。彼女と私との間にかもされた恋のことを云うのではない。それよりも、その時彼女に声をかけたばっかりに、後に私を、この物語にしるす様な、世にも恐ろしい出来事に導いた運命について云うのである。
 その時木崎初代は、自分でったらしい、オールバックまがいの、恰好かっこうのいい頭を、タイプライターの上にうつむけて、藤色セルの仕事着の背中を、やや猫背にして、何か熱心にキイをたたいていた。
HIGUCHI HIGUCHI HIGUCHI HIGUCHI HIGUCHI ……
 見ると、レタペーパの上には、樋口ひぐちと読むのであろう、誰かの姓らしいものが、模様みたいにベッタリと並んでいた。
 私は「木崎さん、御熱心ですね」とか何とか云うつもりであったのだ。それが、内気者の常として、私はうろたえてしまって、愚かにも可成かなり頓狂とんきょうな声で、
「樋口さん」
 と呼んでしまった。すると、ひびきに応じる様に、木崎初代は私の方をふり向いて、
「なあに?」
 と至極しごく落ちついて、だが、まるで小学生みたいなあどけない調子で答えたのである。彼女は樋口と呼ばれて少しも疑う所がないのだ。私は再びうろたえてしまった。木崎というのは私のんでもない思違おもいちがいだったのかしら。彼女は彼女自身の姓を叩いていたに過ぎないのかしら。この疑問は少しの間私に羞恥しゅうちを忘れさせ私は思わず長い言葉をしゃべった。
「あなた、樋口さんて云うの? 僕は木崎さんだとばかり思っていた」
 すると、彼女もまたハッとした様に、目のふちを薄赤くして、云うのである。
「マア、あたしうっかりして。……木崎ですのよ」
「じゃあ、樋口っていうのは?」
 あなたのラヴ? と云いかけて、びっくりして口をつぐんだ。
んでもないのよ。……」
 そして木崎初代はあわてて、レタペーパを器械からとりはずし、片手で、もみくちゃにするのであった。
 私はなぜこんなつまらない会話を記したかというに、それには理由があるのだ。この会話が私達の間にもっと深い関係を作るきっかけをしたという意味ばかりではない。彼女が叩いていた「樋口」という姓には、又彼女が樋口と呼ばれて何の躊躇ちゅうちょもなく返事をした事実には、実はこの物語の根本こんぽんに関する大きな意味が含まれていたからである。
 この書物かきものは、恋物語を書くのが主眼でもなく、そんなことで暇どるには、余りに書くべき事柄が多いので、それからの、私と木崎初代との恋愛の進行については、ごくかいつまんで記すにとどめるが、この偶然の会話を取交とりかわして以来、どちらが待ち合わせるともなく、私達はちょくちょく帰りが一緒になる様になった。そして、エレベーターの中と、ビルディングから電車の停留所までと、電車にのってから、彼女は巣鴨すがもの方へ、私は早稲田わせだの方へ、その乗換場所までの、わずかの間を、私達は一日中の最も楽しい時間とする様になった。間もなく、私達は段々大胆になって行った。帰宅を少しおくらせて、事務所に近い日比谷ひびや公園に立寄り片隅かたすみのベンチに、短い語らいの時間を作ることもあった。又、小川町おがわまちの乗換場で降りて、その辺のみすぼらしいカフェに這入はいり、一杯ずつお茶を命じる様なこともあった。だが、うぶな私達は、非常な勇気を出して、ある場末ばすえのホテルへ這入って行くまでには、殆ど半年もかかった程であった。
 私がさびしがっていた様に、木崎初代も淋しがっていたのだ。おたがいに勇敢なる現代人ではなかったのだ。そして、彼女の容姿が私の生れた時から胸に描いていたものであった様に、嬉しいことには、私の容姿もまた彼女が生れた時から恋する所のものであったのだ。変なことを云う様だけれど、容貌については、私は以前からややたのむ所があった。諸戸道雄もろとみちおというのは矢張やはりこの物語に重要な役目を演ずる一人物であって、彼は医科大学を卒業して、そこの研究室である奇妙な実験に従事している男であったが、その諸戸道雄が、彼は医学生であり、私は実業学校の生徒であった頃から、この私に対して、可成かなり真剣な同性の恋愛を感じているらしいのである。
 彼は私の知る限りにいて、肉体的にも精神的にも、最も高貴ノーブルな感じの美青年であり、私の方では決して彼に妙な愛着を感じている訳ではないけれど、彼の気難しい撰択にかなったかと思うと、少くとも私は私の外形についていささかの自信を持ちる様に感じることもあったのである。だが、私と諸戸との関係については、後に屡々しばしば述べる機会があるであろう。
 それはかく、木崎初代との、あの場末のホテルにおいての最初の夜は、今もなお私の忘れねる所のものであった。それはどこかのカフェで、その時私達はかけおち者の様な、いやに涙っぽく、やけな気持ちになっていたのだが、私は口馴れぬウィスキイをグラスに三つも重ねるし、初代も甘いカクテルを二杯ばかりもやって、二人共真赤まっかになって、やや正気を失った形で、それゆえ、大した羞恥を感じることもなく、そのホテルのカウンタアの前に立つことが出来たのであった。私達ははばの広いベッドを置いた、壁紙にしみのある様な、いやに陰気な部屋に通された。ボーイが一隅のテーブルの上に、ドアの鍵と渋茶しぶちゃとを置いて、黙って出て行った時、私達は突然非常な驚きの目を見交わした。初代は見かけの弱々しい割には、しんにしっかりした所のある娘であったが、それでも、よいのさめた様な青ざめた顔をして、ワナワナと唇の色をなくしていた。
「君、怖いの?」
 私は私自身の恐怖をまぎらす為に、そんなことをささやいた。彼女は黙って、目をつぶる様にして、見えぬ程に首を左右に動かした。だが云うまでもなく、彼女も怖がっているのだった。
 それは誠に変てこな、気拙きまずい場合であった。二人とも、まさかこんな風になろうとは予期していなかった。もっとさりげなく、世の大人達の様に、最初の夜を楽しむことが出来るものと信じていた。それが、その時の私達には、ベッドの上に横になる勇気さえなかったのだ。着物を脱いで、肌をあらわすことなど思いも及ばなかった。一口に言えば、私達は非常な焦慮しょうりょを感じながら、すで度々たびたび交わしていた唇をさえ交わすことなく、無論その外の何事をもしないで、ベッドの上に並んで腰をかけて、気拙さをごまかす為に、ぎこちなく両足をブラブラさせながら、殆ど一時間もの間、黙っていたのである。
「ね、話しましょうよ。私何だか小さかった時分のことが話して見たくなったのよ」
 彼女が低い透き通った声でこんなことを云った時、私はすでに肉体的な激しい焦慮を通り越して、かえって、妙にすがすがしい気持になっていた。
「アア、それがいい」私はよい所へ気がついたと云う意味で答えた。
「話して下さい。君の身の上話を」
 彼女は身体を楽な姿勢しせいにして、すみ切った細い声で、彼女の幼少の頃からの、不思議な思出おもいでを物語るのであった。私はじっと耳をすまして、長い間、殆ど身動きもせずそれに聞き入っていた。彼女の声はなかばは子守歌の様に、私の耳を楽しませたのである。
 私は、それまでにも又それから以後にも、彼女の身の上話は、切れ切れに、度々たびたび耳にしたのであったが、この時程感銘かんめい深くそれを聞いたことはない。今でも、その折の彼女の一語一語を、まざまざと思いうかべることが出来る程である。だが、ここには、この物語の為には、彼女の身の上話をことごとくは記す必要がない。私はその内から、後にこの話に関係を生じるであろう部分丈けをく簡単に書きとめて置けばよい訳である。
「いつかもお話した様に、私はどこで生れた誰の子なのかも分らないのよ。今のお母さん――あなたはまだ逢わないけれど、私はそのお母さんと二人ぐらしで、お母さんの為にこうして働いている訳なの――その私のお母さんが云うのです。初代や、お前は私達夫婦が若かった時分、大阪の川口かわぐちという船着場ふなつきばで、拾って来て、たんせいをして育て上げた子なのだよ。お前は汽船待合所の、薄暗い片隅に、手に小さな風呂敷包ふろしきづつみを持って、めそめそと泣いていたっけ。あとで、風呂敷包みを開けて見ると、中から多分お前の先祖のであろう、一冊の系図書けいずがきと、一枚のかきつけとが出て来て、その書きつけで初代というお前の名も、その時丁度ちょうどお前が三つであったことも分ったのだよ。でもね、私達には子供がなかったので、神様からさずかった本当の娘だと思って、警察の手続てつづきもすませ、立派にお前をもらって来て、私達はたんせいをこらしたのさ。だからね、お前も水臭い考えを起したりなんぞしないで、私を――お父さんも死んでしまって、一人ぼっちなんだから――本当のお母さんだと思っていておくれよ。とね。でも、私それを聞いても、何だかお伽噺とぎばなしでも聞かせて貰っている様で、夢の様で、本当は悲しくもなんともなかったのですけれど、それが、妙なのよ。涙が止めどもなく流れて仕様がなかったの」
 彼女の育ての父親が在世ざいせいの頃、その系図書きを色々調べて、随分本当の親達をたずね出そうと骨折ったのだ。けれど系図書きに破けた所があって、ただ先祖の名前や号やおくり名が羅列られつしてあるばかりで、そんなものが残っている所を見れば相当の武士さむらいの家柄には相違ないのだが、その人達の属したはんなり、住居なりの記載が一つもないので、どうすることも出来なかったのである。
「三つにもなっていて、私馬鹿ですわねえ。両親の顔をまるで覚えていないのよ。そして、人混みの中で置き去りにされてしまうなんて。でもね。二つ丈け、私、今でもこう目をつむると、闇の中へ綺麗きれいに浮き出して見える程、ハッキリ覚えていることがありますわ。その一つは、私がどこかの浜辺の芝生の様な所で、暖かい日に照らされて、可愛いあかさんと遊んでいる景色なの。それは可愛い赤さんで、私はねえさまぶって、その子のおりをしていたのかもしれませんわ。下の方には海の色が真青に見えていて、そのずっと向うに、紫色にけむって、丁度牛のた形で、どこかのおかが見えるのです。私、時々思うことがありますわ。この赤さんは、私の実の弟か妹で、その子は私みたいに置去りにされないで、今でもどこかに両親と一緒に仕合せに暮しているのではないかと。そんなことを考えると、私何だか胸をしめつけられる様に、懐しい悲しい気持になって来ますのよ」
 彼女は遠い所を見つめて、独言ひとりごとの様に云うのである。そして、もう一つの彼女の幼い時の記憶と云うのは、
「岩ばかりで出来た様な、小山があって、その中腹から眺めた景色なのよ。少しへだたった所に、誰かの大きなおやしきがあって、万里ばんり長城ちょうじょうみたいにいかめしい土塀どべいや、母屋おもや大鳥おおとりの羽根をひろげた様に見える立派な屋根や、その横手にある白い大きな土蔵なんかが、日にてらされて、クッキリと見えているの。そして、それっ切りで、ほかに家らしいものは一軒もなく、そのお邸の向うの方には、やっぱり青々とした海が見えているし、その又向うには、やっぱり牛の臥た様な陸地がもやにかすんで、よこたわっているのよ。きっと何ですわ。私が赤さんと遊んでいた所と、同じ土地の景色なのね。私、幾度その同じ場所を夢に見たでしょう。夢の中で、アア又あすこへ行くんだなと思って、歩いていると、きっとその岩山の所へ出るにきまっていますわ。私、日本中を隅々まで残らず歩き廻って見たら、きっとこの夢の中の景色と寸分違わぬ土地があるに違いないと思いますわ。そしてその土地こそ私の懐しい生れ故郷なのよ」
「ちょっと、ちょっと」私はその時、初代の話をとめて云った。「僕、まずいけれど、そこの君の夢に出て来る景色は、何だか絵になりそうだな。書いて見ようか」
「そう、じゃあもっと詳しく話しましょうか」
 そこで、私は机の上のかごに入れてあったホテルの用箋ようせんを取出して、そなえつけのペンで、彼女が岩山から見たという海岸の景色を描いた。その絵が丁度手元に残っていたので、版にしてここにかかげて置くが、この即席そくせきのいたずら書きが、後に私にとって甚だ重要な役目をつとめてくれ様などとは、無論その時には想像もしていなかったのである。
「マア、不思議ねえ。その通りですのよ。その通りですのよ」
 初代は出来上った私の絵を見て、喜ばしげに叫んだ。
「これ、僕もらって置いてもいいでしょう」
 私は、恋人の夢をいだく気持で、その紙を小さくたたみ、上衣うわぎの内ポケットにしまいながら云った。
 初代は、それから又、彼女が物心ついてからの、様々の悲しみ喜びについて、尽きぬ思出を語ったのである。が、それはここに記す要はない。かくも、私達はそうして、私達の最初の夜を、美しい夢の様にすごしてしまったのである。無論私達はホテルに泊りはしないで、夜更よふけに、銘々めいめいの家に帰った。

異様なる恋


 私と木崎初代との間柄は日と共に深くなって行った。それから一月ひとつきばかりたって、同じホテルに二度目の夜を過した時から、私達の関係はさきの少年の夢の様に、美しいばかりのものではなくなっていた。私は初代の家を訪ねて、彼女のやさしい養母とも話をした。そして、間もなく、私も初代も、銘々の母親に、私達の意中を打開うちあける様にさえなった。母親達にも別段積極的な異議があるらしくなかった。だが、私達は余りに若かった。結婚という様な事柄は、もやを隔てて遠い遠い向岸むこうぎしにあった。
 若い私達は、子供が指切りをする様な真似をして、幼い贈物を、取交とりかわしたものである。私は一ヶ月の給料をはたいて、初代の生れ月に相当する、電気石をはめた指環を買求かいもとめて、彼女に贈った。それを、私は活動写真で覚えた手つきで、ある日、日比谷公園のベンチの上で、彼女の指にはめてやったのである。すると、初代は子供みたいに、それをうれしがって(貧乏な彼女の指にはまだ一つの指環さえなかったのだ)しばらく考えていたが、
「アア、私思いついたわ」彼女はいつも持っている、手提てさげの口を開きながら云うのであった。
「分る? 私今、何をお返しにすればいいかと思って、心配していたのよ。指環なんて、私買えないでしょう。でも、いいものがあるわ。ホラ、いつかもお話した私の知らないお父さまやお母さまの、たった一つのかたみの、あの系図書きよ。私大切にして、外出する時にも、私の御先祖から離れない様に、いつもこの手提てさげに入れて持っていますのよ。でも、これ一つが私と、どっか遠い所にいらっしゃるお母さまを、結びつけているのかと思うと、どんなことがあっても、手離てばなす気がしないのだけれど、外にお贈りするものがないのですから、私の命から二番目に大切なこれを、あなたに御預けしますわ。ね、いいでしょ。つまらない反古ほごの様なものですけど、あなたも大切にしてね」
 そして、彼女は手提の中から、古めかしい織物の表紙のついた、薄い系図帳を取り出して、私に渡したのである。私はそれを受取って、パラパラとくって見たが、そこには、昔風な武張ぶばった名前が、朱線でつらねてあるばかりであった。
「そこに樋口って書いてあるでしょ。分って、いつか私がタイプライターでいたずらしていて、あなたに見つかった名前、ね、私木崎っていうよりも、樋口の方が本当の私の名前だと思っているものですから、あの時、あなたに樋口って呼ばれて、つい返事してしまったのよ」
 彼女はそんなことを云った。
「これつまらない反古の様ですけれど、でも、いつか随分高い値をつけて買いに来た人があるのよ。近所の古本屋さんですの。お母さんがふと口をすべらせたのを、どっからか聞き込んで来たのでしょう。でも、どんなにお金になっても、こればかりは譲れませんって、お断りしましたの。ですから、まんざら値打のないものでもありませんわねえ」
 彼女は又、そんな子供らしい事も云った。
 わば、それがお互の婚約の贈物であったのだ。
 だが、間もなく、私達に取って少々面倒な事件が起った。それは、地位にしろ、財産にしろ、学殖がくしょくにしろ、私とは段違いの求婚者が、突然初代の前に現れたことであった。彼は、有力な仲人なこうどを介し、初代の母親に対して、猛烈な求婚運動を始めたのである。
 初代がそれを母親から聞き知ったのは、私達が例の贈物を取交わした、丁度翌日であったが、実はと云って母親が打開けた所によると、親戚関係をたどって、求婚の仲介者が母親の所へ来始めたのは、已に一ヶ月も以前からのことだというのであった。私はこれを聞いて、云うまでもなく驚いた。だが、私の驚いたのは、求婚者が私よりは数段立勝たちまさった人物であったことよりも、又、初代の母親の心がどうやらその人物の方へ傾いているらしいことよりも、初代に対する求婚者というのが、私と妙な関係を持っている、の諸戸道雄その人であったことである。この驚きが、他の諸々もろもろの驚きや、心痛を打消してしまった程も、ひどかったのだ。
 ぜそんなに驚いたかというに、それについては、私は少しばかり恥かしい打開け話をしなければならないのであるが……。
 先にも一寸ちょっと述べた様に、科学者諸戸道雄は、私に対して、実に数年の長い間、ある不可思議な恋情を抱いていた。そして、私はと云うと、無論その様な恋情を理解することは出来なかったけれど、彼の学殖なり、一種天才的な言動なり、又異様な魅力を持つ容貌なりに、決して不快を感じてはいなかった。それゆえ彼の行為が、ある程度を越えない限りに於ては、彼の好意を、単なる友人としての好意を、受けるにやぶさかでなかったのである。
 私は実業学校の四年生であった頃、家の都合もあったのだが、むしろ大部分は私の幼い好奇心から、同じ東京に家庭を持ちながら、私は神田かんだ初音館はつねかんという下宿屋に泊っていたことがあって、諸戸とはそこの同宿人として知合ったのが最初であった。年齢としは六つも違って、その時私は十七歳、諸戸は二十三歳であったが、彼の方から誘うままに、何しろ彼は大学生でしかも秀才として聞えていた程だから、私は寧ろ尊敬に近い気持ちで、喜んで彼とつき合っていた訳である。
 私が彼の心持を知ったのは、初対面から二ヶ月ばかりたった頃であったが、それは直接彼からではなく、諸戸の友人達の間の噂話うわさばなしからであった。「諸戸と蓑浦みのうらは変だ」と盛んに云いふらす者があったのだ。それ以来注意して見ると、諸戸は私に対する時に限って、その白い頬のあたりにかすかな羞恥の表情を示すことに気づいた。私は当時子供であったし、私の学校にも、遊戯に近い感じでは、同じような事柄が行われていたので、諸戸の気持を想像して、ひとりで顔を赤くするようなこともあった。それはそんなにひどく不快な感じではなかった。
 彼がよく私を銭湯に誘ったことを思い出す。そこでは、きっと背中の流しっこをしたものであるが、彼は私の身体を石鹸のあぶくだらけにして、まるで母親が幼児に行水ぎょうずいでも使わせる様に、丹念に洗ってくれたものである。最初の間は、私はそれを単なる親切と解していたが、後には彼の気持を意識しながら、それをさせていた。それほどの事は、別段私の自尊心を傷つけなかったからである。
 散歩の時に手を引合ったり、肩を組み合う様なこともあった。それも私は意識してやっていた。時とすると、彼の指先がはげしい情熱をって私の指をしめつけたりするのだけれど、私は無心をよそおって、しかしやや胸をときめかしながら、彼のなすがままにまかせた。と云って、決して私は彼の手を握り返すことはしなかったのである。
 又、彼がそのような肉体的な事柄ではなく私に親切をつくしたことは云うまでもなかった。彼は私に色々贈物をした。芝居や活動写真や運動競技などに連れて行ってくれた。私の語学を見てれた。私の試験の前などには、我事の様に骨折ったり心配したりしてくれた。その様な精神的な庇護ひごについては、今もなお彼の好意を忘れ兼ねる程である。
 だが私達の関係が、いつまでもその程度にとどまっている筈はなかった。ある期間を過ぎると、しばらくの間、彼は私の顔さえ見れば憂鬱になってしまって、黙って溜息ばかりついているような時期が続いたが、やがて彼と知合って半年もたった頃、私達の上についにある危機が来たのだった。
 その夜、私達は下宿の飯がまずいと云って、近くのレストランへ行って、一緒に食事をしたのだが、彼はなぜかやけのようになって、したたか酒をあおり、私に呑めと云って聞かぬのだ。無論私は酒なんか呑めなかったけれど、すすめられるままに、二三杯口にしたところが、たちまちカッと顔が熱くなり、頭の中にブランコでもゆすっているような気持で、何かしら放縦ほうじゅうなものが心を占めて行くのを感じ始めた。
 私達は肩を組み合い、もつれるようにして、一高いちこう寮歌りょうかなどを歌いながら、下宿に帰った。
「君の部屋へ行こう。君の部屋へ行こう」
 諸戸はそう云って、私を引きずるようにして、私の部屋へ這入った、そこには私の万年床まんねんどこが敷き放しになっていた。彼につき倒されたのであったか、私が何かにつまずいたのであったか、私はいきなり、その万年床の上に転がったのである。
 諸戸は私の傍に突立って、じっと私の顔を見下していたが、ぶっきら棒に、
「君は美しい」
 と云った。その刹那、非常に妙なことを云うようだけれど、私は女性に化して、そこに立っている、よいの為に上気はしていたけれど、それ故に一層魅力を加えた、この美貌の青年は、私の夫であるという、異様な観念が、私の頭をかすめて通過とおりすぎたのである。
 諸戸はそこにひざまずいて、だらしなく投出された私の右手を捉えて云った。
「あつい手だね」
 私も同時に、火のような相手の掌を感じた。

 私が真青になって、部屋の隅に縮込ちぢこんでしまった時、見る見る諸戸の眉間みけんに、取返しのつかぬことをしたという、後悔の表情が浮んだ。そして喉につまった声で、
「冗談だよ。冗談だよ、今のは嘘だよ。僕はそんなことはしないよ」
 と云った。
 それから暫くの間、私達は各々めいめいそっぽを向いて、黙り込んでいたが、突然カタンという音がして、諸戸は私の机の上に俯伏うつぶしてしまった。両腕を組合せて、その上に顔をふせて、じっとしている。私はそれを見て、彼は泣いているのではないかと思った。
「僕を軽蔑しないでたまえ。君は浅間あさましいと思うだろうね。僕は人種が違っているのだ。すべての意味で異人種なのだ。だが、その意味を説明することが出来ない。僕は時々一人でこわくなってふるえ上るのだ」
 やがて彼は顔を上げてこんなことを言った。しかし、彼は何をそんなに怖がっているのか、私にはよく理解出来なかった、ずっと後になってある場面に遭遇するまでは。
 私が想像した通り、諸戸の顔は、涙に洗われたようになっていた。
「君は分っていてくれるだろうね。分ってさえいてくれればいいのだよ。それ以上望むのは僕の無理かも知れないのだから。だが、どうか僕から逃げないでくれたまえ。僕の話相手になってくれ給え。そして僕の友情けなりとも受入れてくれ給え。僕がひとりで思っている。せめてもそれ丈けの自由を僕に許してくれないだろうか。ねえ、蓑浦君、せめてそれ丈けの……」
 私は強情に押黙おしだまっていた。だが、かき口説くどきながら、ほおに流れる諸戸の涙を見ている内に、私も亦まぶたの間に熱いものが、もり上って来るのをどうすることも出来なくなってしまった。
 私の気まぐれな下宿生活は、この事件を境にして、中止された。あながち諸戸に嫌悪を感じたのではなかったが、二人の間にかもされた妙な気拙きまずさや、内気な私の羞恥心が、私をその下宿にいたたまれなくしたのである。
 それにしても、理解し難きは諸戸道雄の心持であった。彼はその後も彼の異様な恋情をてなかったばかりか、それは月日がたつに従って、愈々いよいよこまやかに、愈々深くなりまさるかと思われた。そして、会々たまたま逢う機会があれば、それとなく会話の間に、多くの場合は、世にためしなき恋文の内に、彼の切ない思いをかき口説くのであった。しかもそれが私の二十五歳の当時までも続いていたというのは、余りにも理解し難き彼の心持ではなかったか。仮令たとえ、私のなめらかな頬に少年のおもかげがせなかったにもしろ、私の筋肉が世の大人達のように発達せず、婦女子の如くつややかであったにもしろ。
 そういう彼が、突如として、人もあろうに私の恋人に求婚したというのは、私に取って、はなはだしい驚きであった。私は彼に対して恋の競争者として敵意を抱く前に、むしろ一種の失望に似たものを感じないではいられなかった。
しや……若しや彼は、私と初代との恋を知って、私を異性に与えまい為に、私を彼の心の内に、いつまでも一人で保って置きたい為に、みずから求婚者となって、私達の恋を妨げようとくわだてたのではあるまいか」
 自惚うぬぼれの強い私の猜疑心さいぎしんは、そんな途方とほうもないことまでも、想像するのであった。

怪老人


 これは甚だ奇妙な事柄である。一人の男がもう一人の男を愛する余り、その男の恋人を奪おうとする。普通の人には想像も出来ない様な事柄である。私は先に述べた諸戸の求婚運動を、若しや私から初代を奪わんが為ではあるまいかと邪推じゃすいした時、私自身私の猜疑心をわらった位である。だが、この一度ひとたびきざした疑いは、妙に私を捉えて離さなかった。私は覚えていた。諸戸はいつか、私に彼の異様な心持を、比較的詳しく打開けた折、「僕は婦人には何の魅力をも感ずることが出来ないのだ。むしろ憎悪を感じ、汚くさえ思われるのだ。君には分るかしら。これは単に恥かしいという丈けの心持ちではないのだよ。恐ろしいのだ。僕は時々居ても立ってもいられぬ程恐ろしくなることがある」と述懐したことを覚えていた。
 その性来女嫌いの諸戸道雄が、突然結婚する気になり、しかもあんなに猛烈に求婚運動を始めたというのは、誠に変ではないか。私は今、「突然」という言葉を使ったが、実を云うと、その少し前までは、私は絶えず諸戸の一種異様なしかし甚だ真剣な恋文を受取ってもいたし、丁度一ヶ月ばかり以前、諸戸に誘われて、一緒に帝国劇場を見物したことさえあった。そして、無論、諸戸のこの観劇勧誘の動機は、私に対するあの愛情にあったことは申すまでもない。それはその折の彼の様子で疑う余地はないのだ。それが僅か一ヶ月かそこいらの間に、豹変ひょうへんして私をすてて(というと、二人の間に何かいまわしい関係でも出来ていたようだが、決してそんなことはない)木崎初代に対して求婚運動を始めたのであるから全く「突然」に相違ないのである。しかも、その相手に選ばれたのが、申し合せた様に私の恋人の木崎初代であったというのは偶然にしては少々変に感じられるではないか。
 という様に、段々説明して見ると、私の疑いも満更まんざら無根の猜疑ばかりでなかったことが分るのである。だが、この諸戸道雄の奇妙な行動なり心理なりは、世の正常な人々には一寸ちょっと会得えとくしにくいかも知れぬ。そして、私のつまらぬ邪推を長々と述立てることを非難するかも知れぬ。私の様に直接諸戸の異様な言動に接していない人々にはそれももっともだ。では、私は順序を少し逆にして、後に至って分った事を、ここで読者に打開けてしまった方がよいかも知れぬ。つまり、この私の疑いは決して邪推ではなかったのだ。諸戸道雄は、私の想像した通り、私と初代との仲を裂く目的で、あんな大騒ぎの求婚運動を始めたのであった。
 どんなに大騒ぎな求婚運動であったかというと、
「そりゃ、うるさいのよ。毎日の様に世話人がお母さんを口説きに来るらしいのよ。そして、あなたの事もちゃんと知っていて、あなたのうちの財産だとか、あなたの会社の月給まで、お母さんに告口つげぐちして、とても初代さんの夫となりお母さんを養って行けるような人柄じゃない。なんて、それはひどい事まで云うのですって。それに口惜くやしいのは、お母さんが向うの人の写真を見たり、学歴や暮し向きなんか聞いて、すっかり乗気になっているのですわ。お母さんはいい人なんですけれど、今度ばかりは、私本当にお母さんがにくらしくなった。浅間あさましいわ。近頃お母さんと私はまるでかたき同士よ。物を云えば、すぐその事になって、喧嘩けんかなんですもの」
 初代はそんな風に訴えるのだ。彼女の口裏から、私は諸戸の運動がどんなにはげしいものだかを察することが出来た。
「あんな人のお蔭で、お母さんと私の間が、変になってしまったことは、一月前には想像さえ出来なかった程ですわ。例えばね、お母さんたら、近頃はしょっちゅう、私の留守中に、私の机や手文庫なんかをしらべるらしいの。あなたの手紙を探して、私達の間がどこまで行っているかを探るらしいのよ。私几帳面きちょうめんなたちですから、抽斗ひきだしの中でも文庫の中でも、キチンとして置くのに、それがよく乱れていますの。本当にあさましいと思うわ」
 そんな事さえあったのだ。大人しい、親思いの初代ではあったが、彼女はこの母親との戦いには決して負けていなかった。あくまでも意地を張り通して、母親の機嫌を損じる事などはかえりみていなかった。
 だがこの思いがけぬ障碍しょうがいは、かえって私達の関係を一層複雑にも、濃厚にもしたことであった。私は一時恐れをした私の恋の大敵を見向きもせず、ひたすら私を慕って来る初代の真心を、どんなにか感謝したであろう。丁度それは晩春の頃であったが、私達は、初代がうちに帰って母親と顔を合わすことを避けたがるので、会社がひけてから、長い時間、美しくともしびの入った大通りや、若葉のにおいのむせ返る公園などを、肩を並べて歩いたものである。休日には郊外電車の駅で待合わせて、よく緑の武蔵野むさしのを散歩した。こう目をつむると、小川が見えて来る。土橋どばしが見えて来る。鎮守ちんじゅの森とでも云う様な、高い老樹の樹立こだちや、石垣が見えて来る。それらの景色の中を、二十五歳の子供子供した私が、派手はで銘仙めいせんに、私の好きな岩絵具いわえのぐの色をした織物の帯を、高く結んだ初代と、肩を並べ歩いているのだ。幼いと笑って下さるな。これが私の初恋の最も楽しい思出なのだ。僅々きんきん八九ヶ月の間柄ではあったが、二人はもう決して離れることの出来ない関係になっていた。私は会社の勤めも、家庭のこともすっかり忘れてしまって、ただもう桃色の雲の中に、無我夢中で漂っていたのである。私は諸戸の求婚などはもう少しも恐れなかった。初代の変心へんしん気遣きづかう理由は少しもなかったからである。初代も今はたった一人の母親の叱責しっせきをさえ気にかけなかった。彼女は私以外の求婚に応ずる心など微塵みじんもなかったからである。
 私は今でも、あの当時の夢の様な楽しさを忘れることが出来ない。だが、それは本当につかの喜びであった。私達が最初口をき合ってから丁度九ヶ月目、私ははっきりと覚えている、大正十四年の六月二十五日であった。その日限り私達の関係は打断うちたたれてしまったのである。諸戸道雄の求婚運動が成功したのではない。当の木崎初代が死んでしまったからだ。それも普通の死方しにかたではなく、世にも不思議な殺人事件の被害者として、無残にこの世を去ってしまったからである。
 だが、木崎初代の変死事件に入るに先だって、私は少しく読者の注意を惹いて置きい事がある。それは初代が死の数日ぜんに、私に訴えた所の奇妙な事実についてである。これは後々のちのちにも関係のあることだから、読者の記憶の一ぐうとどめて置いてもらわねばならぬのだ。
 ある日のこと、その日は会社の勤務時間中も初代は終日青ざめて、何かしらおびえている風に見えたのだが、会社が退けて、丸ノ内の大通りを並んで歩きながら、私がそれについて聞訊ききただした時、初代はやっぱり、うしろを振返るようにしながら、私の脇にすりよって、次の様な事柄を訴えたのである。
昨夜ゆうべでもう三度目なのよ。いつもそれは私がおそくお湯に行く時なんですが、あなたも知っていらっしゃる通り淋しい町でしょう、夜なんぞはもう真暗なのよ。何の気なしに格子戸こうしどを開けて表へ出ると、丁度私のうちの格子窓の所に、変なおじいさんが立止っていますの。三度とも同じことなのよ。私が格子を開けると、何だかハッとした様に、姿勢を変えて、何食わぬ顔で通過ぎてしまうのですけれど、でも、その瞬間まで、じっと窓の所から、家の中の様子を窺っていたらしいそぶりですの。二度目までは、私の気のせいかも知れないと思ってましたけれど、昨夜ゆうべ又それなんでしょう。決して偶然な通りすがりの人じゃありませんわ。と云って御近所にあんなお爺さんは見たこともないし、私何だか悪い事の前兆の様な気がして、気味が悪くて仕様がないのよ」
 私があやうく笑いそうになるのを見ると、彼女はやっきとなって続けるのだ。
「それが普通のお爺さんじゃないのよ。私あんな不気味なお爺さんて、見たことがありませんわ。年も五十や六十じゃなさそうなの。どうしたって八十以上のお爺さんよ。まるで背中の所で二つに折れたみたいに、腰が曲っていて、歩くにも、つえにすがって、鍵のように折れ曲って、首だけで向うを見て歩くのよ。だから遠くから見ると、背の高さが、普通の大人の半分位に見えますの。何だか気味の悪い虫がってでもいる様なの。そして、その顔と云ったら、しわだらけで、目立たなくなっていますけれど、あれじゃ若い時分だって、普通の顔じゃないわ。私恐いものだから、それに暗いので、よく見なかったけれど、でも、私の家の軒燈けんとうの光で、チラッと口の所だけ見てしまったのよ。上唇が丁度うさぎのように二つに割れていて、私と目を合わせた時、てれ隠しに、ニヤッと笑った口と云うものは、私今でも思い出すと、寒気がする様よ。あんな化物みたいな、八十以上にも見えるお爺さんが、しかも夜更よふけに、三度も私の家の前に立止っているなんて、変ですわ。ねえ、何か悪い事の起る前兆じゃないでしょうか」
 私は初代の唇が色を失って、細かく震えているのを見た。余程怖かったものに相違ない。私はその時無理にも、彼女の思過しだと云って、笑って見せた事であるが、仮令たとえこの初代の見た所が真実であったとしても、それが何を意味するのか少しも分らなかったし、八十以上の腰の曲ったお爺さんに危険な企らみがあろうとも思えなんだ。私はそれを少女の馬鹿馬鹿しい恐怖として、ほとんど気にも止めなかったのである。だが、のちになって、この初代の直覚ちょっかくが、恐ろしい程当っていた事が分って来たのであるが。

入口のない部屋


 さて、私は大正十四年六月二十五日の、あの恐ろしい出来事を語らねばならぬ順序となった。
 その前日、いやその前夜七時頃までも、私は初代と語り合っていたのだった。晩春の銀座の夜を思出す。私は滅多に銀座など歩くことはなかったのだが、その夜は、どうしたのか初代が銀座へ行って見ましょうと云い出した。初代は見立てのいい柄の、仕立卸したておろしの黒っぽい単衣物ひとえものを着ていた。帯はやっぱり黒地に少し銀糸をぜた織物であった。臙脂えんじ色の鼻緒はなお草履ぞうりも卸したばかりだった。私のよくみがいた靴と彼女の草履とが、足並を揃えて、ペーヴメントの上を、スッスッと進んで行った。私達はその時、遠慮勝ちに、新時代の青年男女の流行風俗を真似て見たのであった。恰度ちょうど月給日だったので、私達は少しおごって、新橋のある鳥料理へ上ったものだ。そして、七時頃まで少しお酒も飲みながら、私達は楽しく語り合った。酔って来ると、私は諸戸なんか、今に御覧なさい私だって、という様な気焔きえんを上げた。そして、今頃諸戸はきっとくしゃみをしているでしょうね、と云って思上った笑い方をしたのを覚えている。アア、私は何という愚ものであったのだろう。
 私はその翌朝、昨夜ゆうべ別れる時、初代が残して行った、私のすきでたまらない彼女の笑顔と、あるなつかしい言葉とを思い出しながら、春の様にうららかな気持で、S・K商会のドアを開けた。そして、いつもする様に、先ず第一に初代の席を眺めた。毎朝どちらが先に出勤するかという様なことさえ、私達の楽しい話題の一つになるのであったから。
 だが、もう出勤時間が少し過ぎていたのに、そこには初代の姿はなく、タイプライターの覆いもとれてはいなかった。変だなと思って、自分の席の方へ行こうとすると、突然横合よこあいから、昂奮こうふんした声で呼びかけられた。
「蓑浦君、大変だよ。びっくりしちゃいけないよ。木崎さんが殺されたんだって」
 それは人事を扱っている、庶務主任のK氏だった。
「今し方、警察の方から知らせがあったんだ。僕はこれから見舞に行こうと思うんだが、君も一緒に行くかい」
 K氏は幾分いくぶんは好意的に、幾分はひやかし気味に云った。私達の関係は殆ど社内に知れ渡っていたのだから。
「エエ、御一緒に参りましょう」
 私は何も考えることが出来なくて、機械的に答えた。私は一寸同僚に断って(S・K商会は非常に自由な制度だった)K氏と同道して、自動車に乗った。
「どこで、誰に殺されたのですか」
 車が走り出してから、私は乾いた唇で、かすれた声で、やっとそれを訊ねることが出来た。
うちでだよ。君は行ったことがあるんだろう。下手人げしゅにんはまるで分らないと云うことだよ。とんだ目に遭ったものだね」
 好人物のK氏は、人事ひとごとでないという調子で答えた。
 痛さが余りはげしい時には、人はすぐに泣き出さず、かえって妙な笑顔わらいをするものだが、悲しみの場合も同じことで、それが余りひどい時は、涙を忘れ、悲しいと感じる力さえ失った様になるものである。そして、やっとしてから、余程日数がたってから、本当の悲しさというものがわかって来るのだ。私の場合も丁度それで、私は自動車の上でも、先方について、初代の死体を見た時でさえも、何だか他人のことの様で、ボンヤリと普通の見舞客みたいに振舞っていたことを記憶している。
 初代の家は巣鴨すがも宮仲みやなかの表通りとも裏通りとも判別のつかぬ、小規模な商家しょうかしもうたとが軒を並べている様な、細い町にあった。彼女の家と隣の古道具屋とけが平屋建てで、屋根が低くなっているので、遠くからでも目印になった。初代はその三か四間の小さな家に彼女の養母とたった二人で住んでいたのである。
 私達がそこに着いた時には、もう死体の調べなども済んで、警察の人達が附近の住人達を取調べている所であった。初代の家の格子戸の前には、一人の制服の巡査じゅんさが、門番みたいにたちはだかっていたが、K氏と私とは、S・K商会の名刺を見せて、中へ入って行った。
 六畳の奥の間に、初代はもうほとけになって横わっていた。全身に白い布が覆われ、その前に白布はくふをかけた机を据えて、小さな蝋燭ろうそくと線香が立ててあった。一度逢ったことのある、小柄な彼女の母親が、仏の枕元に泣き伏していた。そのそばに、彼女の亡夫の弟だという人が、憮然ぶぜんとして坐っていた。私はK氏の次に母親にくやみを述べて、机の前で一礼すると仏の側へ寄ってそっと白布をまくり、初代の顔を覗いた。心臓を一えぐりにやられたということであったが、顔には苦悶くもんあともなく、微笑しているのかと思われる程、なごやかな表情をしていた。生前から赤味の少い顔であったが、それが白蝋の様に白けて、じっと目をふさいでいた。胸の傷痕には、丁度彼女が生前帯をしめていた恰好で、厚ぼったく繃帯ほうたいが巻いてあった。それを見ながら、私は、今からたった十三四時間前に、新橋の鳥屋で差向いに坐って笑い興じていた初代を思出した。すると、内臓の病気ではないかと思った程、胸の奥がギュウと引締められる様な気がした。その刹那せつな、ポタポタと音を立てて、仏の枕元の畳の上に、続けざまに私は涙をこぼしたのであった。
 いや、私は余りに帰らぬ思出にふけり過ぎた様である。こんな泣言なきごとを並べるのがこの書物の目的ではなかったのだ。読者よ、どうか私の愚痴ぐちを許して下さい。
 K氏と、私とは、その現場げんじょうでも、また後日役所に呼び出されさえして、色々と初代の日常に関して取調べを受けたのであるが、それによって得た知識、又初代の母親や近所の人達から聞知った所などを綜合そうごうすると、このかなしむべき殺人事件の経過は、大体次の様なものであった。
 初代の母親は、その前夜、やっぱり娘の縁談のことについて相談する為に、品川の方にいる彼女の亡夫の弟の所へ出向いて、遠方の事故ことゆえ、帰宅したのはもう一時を過ぎていた。戸締りをして、起きて来た娘としばらく話をして、彼女の寝室にめてある方の、玄関ともいうべき四畳半へふせった。ここで一寸ちょっと、この家の間取を説明して置くと、今云った玄関の四畳半の奥に六畳の茶の間があり、それが横に長い六畳で、そこから奥の間の六畳と三畳の台所と両方へ行ける様になっている。奥の間の六畳というのは、客座敷と初代の居間との兼用になっていて、初代は勤めに出て家計を助けているので、主人格として一番上等の部屋を当てがわれていたのである。玄関の四畳半は、南に面していて、冬は日当りがよく、夏は涼しく、明るくて気持がよいというので、母親が居間の様にして、そこで針仕事などすることになっていた。中の茶の間は、広いけれど障子しょうじ一重ひとえで台所だし、光線が入らず、陰気でじめじめしているので、母親はそこを嫌って寝室にも玄関をえらんだ訳であった。何故私はこんなにこまごまと間取を説明したかというに、実はこの部屋の関係が初代変死事件をあれ程面倒なものにした、一つの素因をなしていたからである。事のついでにもう一つ、この事件を困難にした事情を述べて置くが、初代の母親は少し耳が遠くなっていた。それに、その夜は夜更よふかしをした上に一寸昂奮する様な出来事もあったので、寝つきが悪かった代りには、僅の間であったが、ぐっすりと熟睡してしまって、朝六時頃に目を覚ましたまでは何事も知らず、少々の物音には気のつかぬ状態であった。
 母親は六時に目を覚ますと、いつもする様に、戸を開ける前に、台所へ行って、仕かけて置いたかまどの下をたきつけて、少し気掛りなことがあったものだから、茶の間のふすまをあけて、初代の寝間ねまを覗いて見たのだが、雨戸の隙間からの光と、まだつけたままの机の上のおき電燈の光によって、一目でその場の様子が分った。布団ふとんがまくれて、仰臥ぎょうがした初代の胸が真赤に染まり、そこに小さな白鞘しらさやの短刀が突立つきたったままになっていた。格闘の跡もなく、さしたる苦悶の表情もなく、初代は一寸暑いので、布団から乗出したという恰好で、静かに死んでいた。曲者くせもの手練しゅれんが、たった一突きで心臓をえぐったので、殆ど苦痛を訴える隙もなかったのであろう。
 母親はあまりの驚きに、そこにベッタリ坐ったまま、「どなたか、来て下さいよ」と連呼した。耳が遠いのでふだんから大声であったが、それが思切り叫んだのであるから、たちまち壁一重ひとえの隣家を驚かせた。それから大騒ぎになって、一寸の間に近所の人達が五六人も集って来たが、入ろうにも戸締りをしたままなので、家の中へ入ることが出来ない。人々は「お婆さんここを開けなさい」と叫んでドンドン入口の戸を叩いた、もどかしがって裏へ廻る者もあったが、そこも締りのままで開くことが出来ない。でも暫くすると、母親が気が顛動てんどうしていたのでという意味の詫言わびごとをして、しまりをはずしたので、人々はやっと屋内に入り、恐ろしい殺人事件が起ったことを知ったのである。それから警察に知らせるやら、母親の亡夫の弟の所へ使つかいを走らせるやら、大騒ぎになったが、もうその頃は町内中総出の有様で、隣家の古道具屋の店先などは、そこの老主人の言葉を借りると、「葬式なんかの折の休憩所」といった観を呈していた。町内が狭い所へ、どの家からも、二三人の人が門口へ出て居るので、一入ひとしお騒ぎが大きく見えた。
 兇行のあったのは、後に警察医の検診によって、午前の三時頃ということが分ったが、兇行の理由と見做みなすべき事柄は、やや曖昧あいまいにしか分らなかった。初代の居間は、大して取乱した様子もなく、箪笥たんすなんかにも異状はなかったが、段々検べて行くと初代の母親は二つの品物の紛失していることに気附いた。その一つは初代がいつも持っていた手提袋で、その中には丁度貰ったばかりの月給が入っていた。その前夜少しごたごたしたことがあったので、それを袋から出すひまもなく、初代の机の上に置いたままになっていた筈だと母親は云うのだ。
 これだけの事実によって判断すると、この事件は、何者かが、多分夜盗やとうたぐいであったに相違ないが、初代の居間に忍び込んで、あらかじめ目星をつけ置いた月給入の手提袋を盗み去ろうとした時、初代が目を覚まして声を立てるか何かしたので、うろたえたぞくが所持の短刀で初代を刺し、そのまま手提袋を持って逃亡した。という風に想像することが出来た。母親がその騒ぎに気附かなんだのは少々変であるが、前にも述べた通り初代の寝間と母親の寝間とが離れていたこと、母親は耳が遠い上にその夜はことに疲れて熟睡していたことなど考えると、無理もないことであった。それは又、初代が大声で叫び立てる隙を与えず、咄嗟とっさに賊が彼女の急所を刺した為だとも考えることが出来た。
 読者は、私はそんな平凡な月給泥棒の話を、細々こまごましるしているのかと、さだめし不審に思われるでありましょう。成程以上の事実は誠に平凡である。だが事件全体は決して決して平凡ではなかった。実を云うと、その平凡でない部分を、私はまだ少しも、読者に告げていないのである。物には順序があるからだ。
 では、その平凡でない部分とは何であるかと云うに、ず第一は月給泥棒が、何故チョコレートのかんを一緒に盗んで行ったかということである。母親が発見した二つの紛失物の内の一つが、そのチョコレートの罐であったのだ。チョコレートと聞いて私は思い出した。その前夜私達が銀座を散歩した時、私は初代がチョコレートが好きなことを知っていたものだから、彼女と一緒に一軒の菓子屋に入って、ガラス箱の中に光っていた、美しい宝石のような模様の罐に入ったのを買ってやったのである。丸く平べったい、てのひら位の小罐であったが、非常に綺麗に装飾がしてあって、私は、中味よりも罐が気に入って、それを選んだ程であった。初代の死体の枕元に、銀紙が散らばっていたというのだから、彼女は昨夜、寝ながら、そのいくつかをたべたものに相違ない。人を殺した賊が、危急な場合、何の余裕があって、又何の物好きから、そんな下らない、お金にして一円足らずのお菓子などを、持って行ったのであろうか。母親の思い違いではないか、どっかにしまい込んであるのではないかと、色々検べて見たが、その綺麗な罐は何処どこからも出て来なかった。だが、チョコレートの罐位は、なくなろうとどうしようと、大した問題ではなかった。この殺人事件の不思議さは、もっともっと外の部分にあったのである。
 一体、この賊はどこから忍入しのびいり、どこから逃出したのであろう。先ず、この家には普通に人の出入する箇所が三つあった。第一は表の格子戸、第二は裏の二枚障子になった勝手口、第三は初代の部屋の縁側えんがわである。そのほかは壁と厳重にとりつけた格子窓ばかりだ。この三つの出入口は、前夜充分に戸締りがしてあった。縁側の戸にも一枚一枚クルルがついていて、中途からはずすことは出来ない。つまり泥棒は普通の出入口から入ることは絶対に不可能だったのである。それは母親の証言ばかりでなく、最初叫声さけびごえを聞きつけて現場に入った、近隣の五六人の人達が、充分認めていた、と云うのは、その朝彼等が初代の家に這入はいろうとして、戸を叩いた時、すでに読者にも分っている通り、表口も裏口も、中から錠が卸してあって、どうしてもあけることが出来なかったからである。又初代の部屋に這入って、光線を入れる為に、二三人でそこの縁側の雨戸をくった時にも、雨戸には完全に締りがしてあったのだ。とすると、賊はこの三つの出入口のほかから忍込み又逃去ったものと考える外はないのだが、そんな箇所がどこにあったであろうか。
 先ず最初気がつくのは、縁の下であるが、縁の下と云っても、外に現われている部分は、この家には二箇所しかない。玄関の靴脱ぎの所と、初代の部屋の縁側の内庭に面した部分である。だが、玄関の方は完全に厚い板が張りつけてあるし、縁側の方は犬猫の侵入を防ぐ為に、一面金網張りになっている。そして、そのいずれにも、最近取りはずした様な形跡はなかったのである。
 少し汚い話をする様だが、便所の掃除口はどうかというに、その便所は丁度初代の部屋の縁側の所にあったのだが、掃除口は昔風の大きなものでなく、近い頃[#「近い頃」は底本では「近頃」]用心深い家主がつけ換えたという話であったが、やっと五寸角位の小さなものであった。これも疑う余地はないのだ。又、台所の屋根についている明りとりにも、異状はなかった。それの締りをする細引きはちゃんと折釘おれくぎに結びつけたままになっていた。その外、縁側のそとの内庭のしめった地面にも、足跡などは見当らず、一人の刑事が天井板の取りはずしの出来る部分から、上に昇って検べて見たが、厚く積ったほこりの上には、何の痕跡も発見することは出来なかった。とすると、賊は壁を破るか、表の窓の格子をとりはずして、出入りする外には、全く方法がないのである。云うまでもなく、壁は完全だし、格子は厳重に釘づけになっていた。
 更に、この盗賊は、彼の出入の跡を留めなかったばかりでなく、屋内にも、何等の証拠物を残していないのであった。兇器の白鞘の短刀は、子供のおもちゃにも等しいもので、どこの金物屋にも売っている様な品であったし、その鞘にも、初代の机の上にも、その他検べ得た限りの場所に、一つの指紋さえ残っていなかった。無論遺留品はなかった。妙な云い方をすれば、これは入らなかった泥棒が、人を殺し、物を盗んだのである。殺人と窃盗せっとうばかりがあって、殺人者、窃盗者は影も形もないのである。
 ポウの「モルグ街の殺人事件」やルルウの「黄色の部屋」などで、私はこれと似た様な事件を読んだことがある。共に内部から密閉された部屋での殺人事件なのだ。だが、そういう事は外国の様な建物でなければ起らぬもの。日本流のヤワな板と紙との建築では起らぬものと信じていた。それが今、そうばかりも云えぬことが分って来たのだ。仮令たとえヤワな板にもしろ、破ったり取はずしたりすれば跡が残る。だから、探偵という立場から云えば、四分板も一尺のコンクリート壁も、何の変りがないのである。
 だが、ここで、ある読者は一つの疑問を提出されるかも知れない。「ポウやルルウの小説では密閉された部屋の中に被害者丈けがいたのである。それゆえ誠に不思議であったのだ。所が君の場合では、君が一人で、この事件をさも物々しく吹聴しているに過ぎないではないか。仮令家は君の云う様に密閉されていたにもしろ、その中には、被害者ばかりではなくて、もう一人の人物がちゃんといたのではないか」と。まことに左様である。当時、裁判所や警察の人々も、その通りに考えたのであった。
 盗賊の出入した痕跡が絶無だとすると、初代に近づき得た唯一の人は、彼女の母親であった。盗まれた二品ふたしなというのも、ひょっとしたら彼女の偽瞞ぎまんであるかも知れない。小さな二品を人知れず処分するのはさして面倒なことではない。第一、おかしいのは、仮令一隔たっていたとは云え、耳が少し位遠かったとは云え、目ざといはずの老人が、人一人殺される騒ぎを、気附かなんだという点である。この事件の係りの検事は、定めしそんな風に考えたことであろう。
 その外、検事は色々な事実を知っていた。彼女が本当の親子でなかったこと、最近は結婚問題で、絶えず争いのあったこと。
 丁度殺人のあった夜も、母親は亡夫の弟の力を借りる為に彼を訪問したのだし、帰ってから二人の間に烈しいいさかいがあったらしいことも、隣家の古道具屋の老主人の証言で明かになっている。私が陳述した所の、母親が初代の留守中に、彼女の机や手文庫を、ソッと検べていたなどと云う事も、可也かなり悪い心証を与えた様子であった。
 可哀想な初代の母親は、初代の葬儀の翌日、遂にその筋の呼出しを受けたのである。

恋人の灰


 私はそれから二三日、会社も休んでしまって、母親や兄夫婦に心配をかけた程も、一間にとじこもった切りであった。たった一度、初代の葬儀に列した外には、一歩も家を出なかった。
 一日二日とたつに従って、ハッキリと本当の悲しさが分って来た。初代とのつき合いは、たった九ヶ月でしかなかったけれど、恋の深さ烈しさは、そんな月日でまるものではない。私はこの三十年の生涯にそれは色々な悲しみもあじわって来たけれど、初代を失った時程の、深い悲しみは一度もない。私は十九の年に父親を、その翌年に一人の妹をなくしたが、生来柔弱にゅうじゃくたちの私は、その時も随分悲しんだけれど、でも、初代の場合とは比べものにはならぬ。恋は妙なものだ。世にたぐいなき喜びを与えてもくれる代りには、又人の世の一番大きな悲しみを伴って来る場合もあるのだ。私は幸か不幸か失恋の悲しみというものを知らぬのだが、どの様な失恋であろうとも、それはまだ耐えることが出来るであろう。失恋という間は、まだ相手は他人なのだ。だが、私達の場合は、双方から深く恋し合って、あらゆる障碍しょうがいを物ともせず、そうだ、私のよく形容する様に、どことも知れぬ天上の、桃色の雲に包まれて、身も魂も、溶け合って、全く一つのものになり切ってしまっていた。どんな肉親もこうまで一つになり切れるものではないと思う程、初代こそは、一生涯に、たった一度巡り合った、私の半身であったのだ。その初代がいなくなってしまった。病死なればまだしも看病するひまもあったであろうに、私と機嫌よく分れてから、たった十時間余りの後に、彼女はもう物云わぬ悲しい蝋人形となって、私の前によこたわっていたのだ。しかも、無残に殺されて、どこの誰とも分らぬ奴に、あの可憐な心臓を、むごたらしく抉られて。
 私は彼女の数々の手紙を読み返しては泣き、彼女から贈られた彼女の本当の先祖の系図帳を開いては泣き、大事に保存してあった、いつかホテルで描いた彼女の夢に出て来るという浜辺の景色を眺めては泣いた。誰に物を云うのもいやだった。誰の姿を見るのもいやだった。私はただ、狭い書斎にとじ籠って、目をつむって、今はこの世にない初代と丈け逢っていたかった。心の中で、彼女と丈け話がしていたかった。
 彼女の葬式の翌朝、私はふとある事を思いついて、外出の用意をした。あによめが「会社へいらっしゃるの」と聞いたけれど、返事もしないで外に出た。無論会社へ出る為ではなかった。初代の母親を慰問いもんする為でもなかった。私は丁度その朝は、なき初代の骨上こつあげが行われることを知っていた。アア、私はかつての恋人の悲しき灰を見る為に、いまわしい場所を訪れたのである。
 私は丁度間に合って、初代の母親や親戚の人達が、長いはしを手にして、骨上げの儀式を行っている所へ行合ゆきあわした。私は母親にその場にそぐわぬ悔みを述べて、ボンヤリかまどの前に立っていた。そんな際誰も私の無躾ぶしつけをとがめる者はなかった。隠亡が、金火箸かなひばしで乱暴に灰のかたまりをたたき割るのを見た。そして、彼はまるで冶金家やきんかが、坩堝るつぼ金糞かなくその中から何かの金属でも探し出す様に、無雑作に、死人の歯を探し出して、別の小さな容器に入れていた。私は、私の恋人が、そうして、まるで「物」の様に取扱われるのを、殆ど肉体的な痛みをさえ感じて、眺めていた。だが、来なければよかったなどとは思わなんだ。私には最初から、ある幼い目的があったのだから。
 私はある機会に、人々の目をかすめて、その鉄板の上から、一にぎりの灰を、無残に変った私の恋人の一部分を盗みとったのである。(アア、私は余りに恥かしいことを書き出してしまった)そして、附近の広い野原へ逃れて、私は、気違いみたいに、あらゆる愛情の言葉をわめきながら、それを、その灰を、私の恋人を、胃のの中へ入れてしまったのであった。
 私は草の上に倒れて、異常なる昂奮にもがき苦しんだ。「死にたい、死にたい」とわめきながら、転げまわった。長い長い間、私は、そこにそうして横わっていた。だが私は、恥かしいけれど死ぬ程強くはなかった。或は、死んで恋人と一体になるという様な、古風な気持ちにはなれなんだ。その代りに、私は死の次に、強く、死の次に古風な、一つの決心をしたのである。
 私は、私から大切だいじな恋人を奪った奴を憎んだ。初代の冥福めいふくの為にというよりは、私自身の為に恨んだ。腹の底から、そいつの存在を呪った。私は検事が如何いかに疑おうと、警察官が何と判断しようと、初代の母親が下手人だとは、どうしても信じられなかった。だが、初代が殺された以上、仮令賊の出入した形跡が絶無であろうとも、そこには、下手人が存在しなければならぬ。何者だか分らぬもどかしさが、一層私の憎しみをあおった。私は、その野原に仰臥ぎょうがして、晴れた空にギラギラと輝いていた太陽を、目のくらむ程見つめながら、それを誓った。
「俺はどうしたって、下手人を見つけ出してやる。そして、俺達のうらみをはらしてやる」
 私が陰気で内気者であった事は、読者も知る通りであるが、その私が、どうしてその様な強い決心をすることが出来たのであるか、又其後そののちのあらゆる危険に突進んで行った、あの私にげなき勇気を獲得することが出来たのであるか、私はかえりみて不思議に思う程であるが、それはすべほろびた恋のさせる所であったろう。恋こそ奇妙なものである。それは時には人を喜びの頂点に持上げ、時には悲しみのどん底につきおとし、又時には、人に比類ひるいなき強力を授けさえするのだ。
 やがて、昂奮から醒めた私は、やっぱり同じ場所に横わったまま、やや冷静に、それから私のすべき事を考えた。そして、様々に考え巡らす内に、ふと一人物のことを思出した。その名は読者も已に知っている、私が素人探偵と名づけた所の、深山木幸吉のことである。警察は警察でやるがいい、私は私自身で犯人を探し出さないでは、承知が出来ぬのだ。「探偵」という言葉はいやだけれど、私は甘んじて「探偵」をやろうと決心した。それについては、私の奇妙な友人の深山木幸吉程、適当な相談相手はないのである。私は立上ると、その足で附近の省線しょうせん電車の駅へと急いだ。鎌倉かまくらの海岸近くに住む深山木の家を訪ねる為であった。
 読者諸君、私は若かった。私は恋を奪われた恨みに我を忘れた。前途にどれ程の困難があり、危険があり、この世のほかいき地獄が横わっているかを、まるで想像もしていなかった。その内のたった一つをすら、予知することが出来たなら、私のこの向見むこうみずな決心が、やがて私の尊敬すべき友人、深山木幸吉の生命いのちをさえ奪うものであることを、予知し得たならば、私はあるいは、あの様な恐ろしい復讐の誓いをしなかったかも知れないのだ。だが、私はその時、何のその様な顧慮こりょもなく、成否はかくも、一つの目的を定め得た事が、やや私の気分を清々すがすがしくしたのであったか、足並みも勇ましく、初夏の郊外を、電車の駅へと急いだのである。

奇妙な友人


 私は内気者で、同年輩の華やかな青年達には、余り親しい友達を持たなかった代りに、年長の、しかも少々風変りな友達にめぐまれていた。諸戸道雄もその一人に相違なかったし、これから読者に紹介しようとする深山木幸吉などは、中でも風変りな友達であった。そして、私のまわり気かも知れぬけれど、年長の友達は殆ど凡て、深山木幸吉とても例外ではなく、多かれ少かれ、私の容貌に一種の興味を持つ様に思われた。仮令いやな意味ではなくとも、何かしら私の身内に彼等を引きつける力があるらしく見えた。そうでなくて、あの様にそれぞれ一方の才能に恵まれた年長者達が、青二才の私などに構ってくれる筈はなかったのだ。
 それは兎も角、深山木幸吉というのは、私の勤め先の年長の友人の紹介で知合いになった間柄であったが、当時四十歳を大分過ぎていたにも拘らず、妻もなく子もなくその外血縁らしいものは、私の知る限り一人もなく、本当の独り者であった。独り者といっても諸戸の様に女嫌いという訳ではなく、これまでに、随分色々な女と夫婦みたいな関係を結んだらしく、私の知る様になってからでも、二三度そういう女を換えているのだが、いつも長続きがしないで、暫く間を置いて訪ねて見ると、いつの間にか女がいなくなっている、といった調子であった。「俺のは刹那的一夫一婦主義だ」と云っていたが、つまり極端にほれっぽく、飽きっぽいたちなのである。誰しも感じたり云ったりはするけれど、それを彼の様に傍若無人ぼうじゃくむじんに実行したものは少いであろう。こういう所にも彼の面目めんもくが現われていた。
 彼は一種の雑学者で、何を質問しても知らぬと云った事がなかった。別に収入の道はなさそうであったが、幾らかたくわえがあると見え、かせぐということをしないで、本を読む間々あいだあいだには、世間の隅々に隠れている、様々な秘密をかぎ出して来るのを道楽どうらくにしていた。中にも犯罪事件は彼の大好物であって、有名な犯罪事件で、彼の首を突込まぬはなく、時々は其筋そのすじの専門家に有益な助言を与える様なこともあった。
 独り者の上に彼の道楽がそんな風であったから、何所へ行くのか、三日も四日も家をけている様なことが、ちょくちょくあって、うまく彼の在宅の折に行合わせるのは、仲々難しいのだ。その日も、又留守を食うのではないかと、心配しながら歩いていると、幸なことには、彼の家の半丁も手前から、もう彼の在宅であることが分った。というのは、可愛らしい子供等の声に混って、深山木幸吉の聞覚ききおぼえのある胴間声どうまごえが、変な調子で当時の流行歌を歌っていたからである。
 近づくと、チャチな青塗り木造の西洋館の玄関をあけっ放しにして、そこの石段に四五人の腕白わんぱく小僧が腰をかけ、一段高いドアの敷居しきいの所に深山木幸吉があぐらをかき、みんなが同じ様に首を左右に振りながら、大きな口をあいて、
「どこから私ゃ来たのやら
   いつまたどこへ帰るやら」
 とやっていたのである。彼は自分に子供がないせいか、非常な子供好きで、よく近所の子供を集めては、餓鬼がき大将となって遊んでいた。妙なことには子供また、彼等の親達とは反対に、近所ではつまはじきのこの奇人のおじさんになついていたのである。
「サア、お客さんだ。美しいお客さまがいらしった。君達、又遊ぼうね」
 私の顔を見ると、深山木は敏感に私の表情を読んだらしく、いつもの様に一緒に遊ぼうなどとは云わないで、子供等を帰し、私を彼の居間に導くのであった。
 西洋館と云っても、アトリエか何かのお古と見えて、広間のほかに小さな玄関と台所の様なものがついている切りで、その広間が、彼の書斎、居間、寝室、食堂を兼ねていたのだが、そこには、まるで古本屋の引越しみたいに書物の山々が築かれ、その間に、古ぼけた木製ベッドや、食卓や、雑多の食器や、罐詰や、蕎麦そば屋の岡持おかもちなどが、滅茶苦茶に放り出してあった。
「椅子がこわれてしまって、一つきゃない。マア、それにかけて下さい」
 と云って、彼自身は、ベッドの薄汚れたシーツの上にドッカとあぐらをかいたものである。
「用事でしょう。何か用事を持って来たんでしょう」
 彼は乱れた長い頭髪を、指でうしろへかきながら、一寸はにかんだ表情をした。彼は私に逢うと、きっと一度はこんな表情をするのだ。
「エエ、あなたの智恵をお借りしいと思って」
 私は、相手の西洋乞食みたいな、カラもネクタイもないしわくちゃの洋装を見ながら云った。
「恋、ね、そうでしょう。恋をしている目だ。それに、近頃とんと僕の方へは御無沙汰だからね」
「恋、エエ、マア、……その人が死んじまったんです。殺されちまったんです」
 私は甘える様に云った。云ってしまうと、どうしたことか止めどなく涙がこぼれた。私は目の所へ腕を当てて、本当に泣いてしまったのだ。深山木はベッドから降りて来て、私の側に立って、子供をあやす様に、私の背中を叩きながら、何か云っていた。悲しみの他に、不思議に甘い感触があった。私のそうした態度が、相手をワクワクさせていることを、私は心の隅で自覚していた。
 深山木幸吉は実にたくみな聞手であった。私は順序を立てて話をする必要はなかった。一語一語、彼の問うに従って答えて行けばよいのであった。結局私は何もかも、木崎初代と口を利きはじめた所から、彼女の変死までの、あらゆることを喋ってしまった。深山木が見せよと云うものだから、例の初代の夢に出て来る海岸の景色の見取図も、彼女から預かった系図書きさえも、丁度内隠しに持っていたので、取出して彼に見せた。彼はそれらを、長い間見ていた様であったが、私は涙を隠す為に、あらぬ方を向いていたので、その時の彼の表情などには、少しも気づかなんだ。
 私は云う丈け云ってしまうと、黙り込んでしまった。深山木も異様に押黙っていた。私はうなだれていたのだが、余り長い間相手が黙っているので、ふと彼の方を見上ると、彼は妙に青ざめた顔をして、じっと空間を見つめていた。
「僕の気持を分って下さるでしょう。僕は真面目まじめ敵討かたきうちを考えているのです。せめて下手人を僕の手で探し出さないでは、どうにも我慢が出来ないんです」
 私が相手をうながす様に云っても、彼は表情も変えず黙り込んでいた。何かしら妙なものがあった。日頃の東洋豪傑ごうけつ風な、無造作な彼が、こんな深い感動を示すというのは、ひどく意外に思われた。
「僕の想像が誤りでなけりゃ、これは君が考えているよりは、つまり表面に現われた感じよりは、ずっと大袈裟な、恐ろしい事件かも知れないよ」
 やっとしてから、深山木は考え考え、厳粛な調子で云った。
「人殺しよりもですか」
 私はどうして彼がそんな事を口走ったのか、まるで判断もつかず、漫然まんぜんと聞返した。
「人殺しの種類がだよ」深山木はやっぱり考え考え、彼の平常へいぜいに似ず陰気に答えた。「手提げがなくなったからと云って、ただの泥棒の仕業しわざでないことは、君も分っているだろう。かと云って、単なる痴情の殺人にしては、余り考え過ぎている。この事件の蔭には、非常にかしこい、熟練な、しかも、残忍刻薄こくはくな奴が隠れている。並々の手際てぎわではないよ」
 彼はそう云って、一寸言葉を切ったが、何故か、少し色のあせた唇が、興奮の為にワナワナと震えていた。私は彼のこんな表情を見るのは初めてだった。彼の恐怖が伝わって、私も妙にうしろを顧みられる様な気がし始めた。だが、おろかな私は、彼がその時、私以上に何事を悟っていたか、何がかくも彼を興奮させたか、その辺の事には、まるで気がつかなんだ。
「心臓の真中をたった一突きで殺していると云ったね。泥棒が見とがめられた為の仕業にしては、手際がよすぎる。ただ一突で人間を殺すなんて、何でもない様だが、余程の手練がなくては出来るものではないのだよ。それに、出入りした跡の全くないこと、指紋の残っていないこと、何というすばらしい手際だ」彼は讃嘆さんたんする様に云った。「だが、そんなことよりも、もっと恐ろしいのは、チョコレートの罐のなくなっていた事だ。俺にもまだ、何故そんなものが紛失したのだか、はっきり見当がつかぬけれど、何だかただ事でない感じがするんだ。そこにゾーッとする様なものがあるんだ。それに初代の三晩も見たというよぼよぼの老人……」
 彼は言葉尻をにごして、黙ってしまった。
 私達はてんでの考えに耽って、じっと目を見合わせていた。窓の外には、昼過ぎたばかりの日光がキラキラと輝いていたが、しつの中は、妙にうそ寒い感じだった。
「あなたも、初代の母親には疑うべき点はないと思いますか」
 私は一寸深山木の考えをただして置きたかったので、それを聞いて見た。
「一笑の価値もないよ。なんぼ意見の衝突があったところで、思慮のある年寄りが、たった一人のかかりを、殺す奴があるものかね。それに、君の口ぶりで察するに、母親という人は、そんな恐ろしい事の出来る柄ではないよ。手提げ袋は人知れず隠せるにしてもだ、母親が下手人だったら、何の必要があって、チョコレートの罐が紛失したなんて、変な嘘をつくものかね」
 深山木はそう云って立上ったが、一寸腕時計を見ると、
「まだ時間がある。明るい内に着けるだろう。兎も角、その初代さんのうちへ行って見ようじゃないか」
 彼はしつの一隅のカーテンの蔭へ入って、何かゴソゴソやっていたかと思うと、間もなく少しばかり見られる服装に変って出て来た。「さあ行こう」無造作に云って、帽子とステッキを掴むと、もう戸外へ飛出していた。私もすぐ様彼のあとを追った。私は深い悲しみと、一種異様の恐れと、復讐の念の外には何もなかった。例の系図帳や私のスケッチなどを、深山木がどこへ始末したのかも知らなんだ。初代の死んでしまった今となって、私にそんな物の入用いりようもなく、てんで念頭にも置いてなかった。
 汽車と電車の二時間余りの道中を、私達は殆ど黙り込んでいた。私の方では何かと話しかけるのだけれど、深山木が考え込んでいて、取合ってくれぬのだ。でもたった一言、彼が妙なことを云ったのを覚えている。これは後々にも関係のある大切な事柄だから、ここに再現して置くと、
「犯罪がね、巧妙になればなる程、それは上手な手品に似て来るものだよ。手品師はね、密閉した箱の蓋をあけないで、中の品物を取出す術を心得ている。ね、分るだろう。だが、それには種があるんだ。御見物様方には、全く不可能に見えることが、彼には何の造作もありはしないのだ。今度の事件が丁度密閉された手品の箱だよ。実際見た上でないと分らぬけれど、警察の人達は、大事な手品の種を見落しているに相違ない。その種が仮令目の前にさらされていても、思考の方向が固定してしまうと、とんと気のつかぬものだ。手品の種なんて、大抵見物の目の前に曝されているんだよ。多分それはね、出入口という感じが少しもしない箇所なのだ。それでいて考え方を換えると非常に大きな出入口なんだよ。まるで開っぱなし見たいなもんだ。錠がかからねば、釘を抜いたり、破壊したりする必要もない。そういう箇所は開け放しのくせに誰もしまりなんてしないからね。ハハハハハ僕の考えている事柄は、実に滑稽こっけいなんだよ。馬鹿馬鹿しい事だよ。だが、案外当っていないとはまらない。手品の種はいつも馬鹿馬鹿しいものだからね」
 探偵家というものが、何故そんな風に思わせぶりなものであるか、幼稚なお芝居気しばいぎに富んでいるものであるかということを、今に至っても、私は時々考える。そして、腹立たしくなるのだ。し、深山木幸吉が、彼の変死に先だって、彼の知っていたことを、すべて私に打開けてくれたならば、あんなにも事を面倒にしないで済んだのである。だが、それは、シャーロックホームズがそうであった様に、又はデューパンがそうであった様に、優れた探偵家のまぬがれ難い衒気げんきであったのか、彼も亦、一度首を突込んだ事件は、それが全く解決してしまうまで、気まぐれな思わせぶりの外には、彼の推理の片影へんえいさえも、傍人ぼうじんに示さぬのを常としたのである。
 私はそれを聞くと、彼が已に何事か、事件の秘密をつかんでいる様に思ったので、もっと明瞭に打開けてくれる様に頼んだけれど、かたくなな探偵家の虚栄心から、彼はそれ切り口をつぐんでしまって、何事をも云わなかった。

七宝しっぽうの花瓶


 木崎の家は、もう忌中きちゅう貼紙はりがみも取れ、立番の巡査もいなくなって、何事もなかった様にひっそりと静まり返っていた。あとで分ったことであるが、丁度その日、初代の母親は骨上げから帰ると間もなく、検事局の呼出しを受けて、巡査につれて行かれたというので、彼女の亡夫の弟という人が、自分の家から女中を呼び寄せて、陰気な留守番をしていたのであった。
 私達が格子戸を開けて入ろうとすると、出会頭であいがしらに、中から意外な人物が出て来た。私とその男とは、非常な気拙きまずい思いで、ぶつかった目をそらす事も出来ず、暫く無言で睨み合っていた。それは、求婚者であったに拘らず、初代の在世中には、一度も木崎家を訪れなかった諸戸道雄が、何故かその日になって、悔みの挨拶に来ているのだった。彼はよく身に合ったモーニングコートを着て、暫く見ぬ間に、少しやつれた顔をして、どうにも目のやり場がないという様子で、立ちつくしていたが、やっとの思いらしく私に言葉をかけた。
「ア、蓑浦君、しばらく。お悔みですか」
 私は何と返事をしていいのか分からなかったので、乾いた唇で一寸笑って見せた。
「僕、君に少しお話したいことがあるんだが、そとで待ってますから、御用が済んだら、一寸その辺までつき合ってくれませんか」
 実際用事があったのか、その場のてれ隠しに過ぎなかったのか、諸戸はチラと深山木の方を見ながら、そんなことを云った。
「諸戸道雄さんです。こちらは深山木さん」
 私は何の気であったか、どぎまぎして二人を紹介してしまった。双方とも私の口からうわさを聞合っていた仲なので、名前を云った丈けで、お互に名前以上の種々いろいろなことが分ったらしく、二人は意味ありげな挨拶をかわした。
「君、僕に構わずに行って来給え。僕はここのうちへ一寸紹介さえしといてれりゃいいんだ。どうせ暫くこの辺にいるから、行って来給え」
 深山木は無造作に云って、私を促すので、私は中に這入って、見知り越しの留守居の人々に、ソッと私達の来意を告げ、深山木を紹介して置いて、外に待合せていた諸戸と一緒に、遠方へ行く訳にも行かぬので、近くのみすぼらしいカフェへ這入った。
 諸戸としては、私の顔を見れば彼の異様な求婚運動について、何とか弁解しなければならぬ立場であっただろうし、私の方では、そんな馬鹿なことがと打消しながらも、心の奥の奥では、諸戸に対して、ある恐ろしい疑念を抱いていて、それとなく彼の気持を探って見たい、と云う程ハッキリしていなくても、何かしらこの好機会に彼を逃がしてはならぬという様な心持があって、それに深山木が私に行くことを勧めた調子も、何だか意味ありげに思われたので、お互の不思議な関係にも拘らず、私達はつい、そんなカフェなどへ這入ったものであろう。
 私達はそこで何を話したか、今ではひどく気拙きまずかったという感じの外は、ハッキリ覚えていないのだが、恐らく殆ど話らしい話をしなかったのではないかと思われる。それに、深山木が用事を済ませて、そのカフェを探し当てて、這入って来たのが余りに早かったのだ。
 私達は飲物を前にして、長い間うつむき合っていた。私は相手を責めたい気持、彼の真意を探り度い気持で一杯ではあったが、何一つ口に出しては云えなんだ。諸戸の方でも妙にもじもじしていた。先に口を開いた方が負けだといった感じであった。奇妙な探り合いであった。だが、諸戸がこんなことを云ったのを覚えている。
「今になって考えると、僕は本当に済まぬことをした。君はきっと怒っているでしょう。僕はどうして謝罪していいか分らない」
 彼はそんなことを、遠慮がちに、口の中で、くどくどと繰返していた。そして、彼が一体何について謝罪しているのか、ハッキリしない内に、深山木がカーテンをまくって、つかつかとそこへ這入って来た。
「お邪魔じゃない?」
 彼はぶっきら棒に云って、ドッカと腰をおろすと、ジロジロ諸戸を眺め始めるのだった。諸戸は深山木の来たのを見ると何であったかは分らぬが、彼の目的を果しもせず、突然分れの挨拶をして、逃げる様に出て行ってしまった。
「おかしな男だね。いやにソワソワしている。何か話したの?」
「イイエ、何だか解らないんです」
「妙だな。今木崎の家の人に聞くとね。あの諸戸君は初代さんが死んでから、三度目なんだって、訪ねて来るのが。そして妙に色々なことを尋ねたり、家の中を見て廻ったりするんだって。何かあるね。だが、かしこそうな美しい男だね」
 深山木はそう云って、意味ありげに私を見た。私はその際ではあったけれど、でも顔を赤くしないではいられなかった。
「早かったですね。何か見つかりましたか」
 私はてれ隠しに質問した。
「色々」彼は声を低めて真面目な顔になった。彼の鎌倉を出る時からの興奮は、増しこそすれ決してさめていない様に見えた。彼は何かしら、私の知らない色々なことを、心の奥底に隠していて独りでそれを吟味しているらしかった。「俺は久しぶりで、大物にぶつかった様な気がする。だが、俺一人の力では、少し手強いかも知れぬよ。兎に角、俺は今日からこの事件にかかり切るつもりだ」
 彼はステッキの先で、しめった土間にいたずら書をしながら、独言ひとりごとの様に続けた。
「大体の筋道は想像がついているんだが、どうにも判断の出来ない点が一つある。解釈の方法がないではないが、そして、どうもそれが本当らしく思われるのだが、若しそうだとすると、実に恐ろしいことだ。前例のない極悪非道だ。考えても胸が悪くなる。人類の敵だ」
 彼は訳の分らぬことをつぶやきながら、半ば無意識にステッキを動かしていたが、ふと気がつくと、そこの地面に妙な形が描かれていた。それは燗徳利かんどくりを大きくした様な形で、花瓶かびんを描いたものではないかと思われた。彼はその中へ、非常に曖昧あいまいな書体で、「七宝しっぽう」と書いた。それを見ると、私は好奇心にかられて、思わず質問した。
「七宝の花瓶じゃありませんか。七宝の花瓶が何かこの事件に関係があるのですか」
 彼はハッとした顔を上げたが、地面の絵模様に気づくと、慌ててステッキでそれを掻き消してしまった。
「大きな声をしちゃいけない。七宝の花瓶、そうだね。君も仲々鋭敏だね。これだよ分らないのは。俺は今その七宝の花瓶の解釈で苦しんでいたのだよ」
 だが、それ以上は、私がどんなに尋ねても、彼は口をかんして語らぬのであった。
 間もなく私達はカフェを出て巣鴨の駅へ引返した。方向が反対なので、私達がそこのプラットフォームで別れたのだが、別れる時、深山木幸吉は「四日ばかり待ち給え。どうしてもその位かかる。五日目には、何か吉報がもたらせるかも知れないから」と云った。私は彼の思わせぶりが不服ではあったけれど、でも、ひたすら、彼の尽力じんりょくを頼む外はなかったのである。

古道具屋の客


 家人かじんが心配するので、私はその翌日から、進まぬながらS・K商会へ出勤することにした。探偵のことは深山木に頼んであるのだし、私にはどう活動のして見ようもなかったので、一週間と云った彼の口約を心頼みに、空ろな日を送っていた。会社がひけると、いつも肩を並べて歩いた人の姿の見えぬさびしさに、私の足はひとりでに、初代の墓地へと向うのであった。私は毎日、恋人にでも贈る様な、花束を用意して行って、彼女の新しい卒塔婆そとばの前で泣くのを日課にした。そしてその度毎たびごとに、私の復讐ふくしゅうの念は強められて行く様に見えた。私は一日一日不思議な強さを獲得して行く様に思われた。
 二日目にはもう辛抱しんぼうが出来なくて、私は夜汽車に乗って、鎌倉の深山木の家を訪ねて見たが、彼は留守だった。近所で聞くと、「一昨日出かけた切り、帰らぬ」ということであった。あの日巣鴨で別れてから、そのまま彼はどこかへ行ったものと見える。私はこの調子だと、約束の五日目が来るまでは訪ねて見ても無駄足を踏むばかりだと思った。
 だが、三日目になって私は一つの発見をした。それが何を意味するのだか、全く不明ではあったけれど、兎も角も一つの発見であった。私は三日おくれてやっと、深山木の想像力のほんの一部分を掴むことが出来たのだ。
 あの謎の様な「七宝の花瓶」という言葉が、一日として私の頭から離れなかった。その日も、私は会社で仕事をしながら、算盤そろばんを弾きながら「七宝の花瓶」のことばかり思っていた。妙なことに、巣鴨のカフェで、深山木のいたずら書きを見た時から、「七宝の花瓶」というものが、私には何だか初めての感じがしなかった。どこかにそんな七宝の花瓶があった。それを見たことがあるという気がしていた。しかも、それは死んだ初代を聯想する様な関係で、私の頭の隅に残っているのだ。それが、その日、妙なことには、算盤に置いていたある数に関聯して、ヒョッコリ私の記憶の表面に浮び出した。
「分った。初代の家の隣の古道具屋の店先でそれを見たことがあるのだ」
 私は心の中で叫ぶと、その時はもう三時を過ぎていたので、早びけにして、大急ぎで古道具屋へ駈けつけた。そして、いきなりそこの店先へ這入って行って、主人の老人を捉えた。
「ここに大きな七宝の花瓶が、確かに二つならべてありましたね。あれは売れたんですか」
 私は通りすがりの客の様に装って、そんな風に尋ねて見た。
「ヘエ、ございましたよ。ですが、売れちまいましてね」
「惜しいことをした。欲しかったんだが、いつ売れたんです。二つとも同じ人が買ってったんですか」
ついになっていたんですがね。買手は別々でした。こんなやくざな店には勿体もったいない様な、いい出物でしたよ。相当お値段も張っていましたがね」
「いつ売れたの?」
「一つは、惜しいことでございました。昨夜ゆうべでした。遠方のお方が買って行かれましたよ。もう一つは、あれはたしか先月の、そうそう二十五日でした。丁度お隣に騒動のあった日で、覚えて居りますよ」
 という様な具合で、話好きらしい老人は、それから長々と所謂いわゆるお隣の騒動について語るのであったが、結局、そうして私の確め得た所によると、第一の買手は商人風の男で、その前夜約束をして金を払って帰り、翌日の昼頃使いの者が来て風呂敷に包んであった花瓶をかついで行った。第二の買手は洋服の若い紳士で、その場で人力車を呼んで、持帰ったということであった。両方とも通りかかりの客で、何所どこの何という人だか勿論分らない。
 云うまでもなく、第一の買手が花瓶を受取りに来たのが、丁度殺人事件の発見された日と一致していたことが、私の注意をいた。だが、それが何を意味するかは少しも分らない。深山木もこの花瓶のことを考えていたに相違ないが、(老人は深山木らしい人物が三日前に同じ花瓶のことを尋ねて来たのを、よく覚えていた)どうして彼は、あんなにもこの花瓶を重視したのであろう。何か理由がなくてはかなわぬ。
「あれは確かに揚羽あげはの蝶の模様でしたね」
「エ、エエその通りですよ。黄色い地に沢山の揚羽の蝶が散らし模様になっていましたよ」
 私は覚えていた。くすんだ黄色い地に、銀の細線ほそせんで囲まれた黒っぽい沢山の蝶が、乱れとんでいる、高さ三じゃく位の一寸大きな花瓶であった。
「どこから出たもんなんです」
「何ね、仲間から引受けたものですが、出は、何でもある実業家の破産処分品だって云いましたよ」
 この二つの花瓶は、私が初代の家に出入りする様になった最初から飾ってあった。随分長い間だ。それが初代の変死後、引続いて僅か数日の間に、二つとも売れたというのは、偶然であろうか。そこに何か意味があるのではないか。私は第一の買手の方にはまるで心当りがなかったが、第二の買手には少し気附いた点があったので、最後にそれを聞いて見た。
「そのあとで買いに来た客は、三十位で、色が白くて、ひげがなく、右の頬に一寸目立つ黒子ほくろのある人ではなかったですか」
「そうそう、その通りの方でしたよ。優しい上品なお方でした」
 果してそうであった。諸戸道雄に相違ないのだ。その人なら隣の木崎の家へ二三度来た筈だが、気附かなんだかと尋ねると、丁度そこへ出て来た老人の細君が、加勢をして、それに答えてくれた。
「そう云えば、あのお人ですわ。お爺さん」幸なことには彼女も亦、老主人に劣らぬ饒舌家じょうぜつかであった。
「二三日前に、ホラ、黒いフロックを着て、お隣へいらっした立派な方。あれがそうでしたわ」
 彼女はモーニングとフロックコートとを取違えていたけれど、もう疑う所はなかった。私はなお念の為に、彼がやとったという人力車の宿を聞いて、尋ねて見たところ、送り先が、諸戸の住居のある池袋いけぶくろであったことも分った。
 それは余りに突飛な想像であったかも知れない。だが、諸戸の様な、謂わば変質者を、常軌じょうきりっすることは出来ぬのだ。彼は異性に恋し得ない男ではなかったか。彼は同性の愛の為に、その恋人を奪おうと企てた疑いさえあるではないか。あの突然の求婚運動がどんなに烈しいものであったか。彼の私に対する求愛がどんなに狂おしいものであったか。それを思い合わせると、初代に対する求婚に失敗した彼が、私から彼女を奪う為に、綿密に計画された、発見の恐れのない殺人罪をあえおかさなかったと、断言出来るであろうか。彼は異常に鋭い理智の持主である。彼の研究はメスをもって小動物を残酷にいじくり廻すことではなかったか。彼は血を恐れない男だ。彼は生物の命を平気で彼の実験材料に使用している男だ。
 私は彼が池袋に居を構えて間もなく、彼を訪ねた時の無気味な光景を思出さないではいられぬ。
 彼の新居は池袋の駅から半里はんみちへだたった淋しい場所に、ポッツリと建っている陰気な木造洋館で、別棟の実験室がついていた。鉄の垣根がそれを囲んでいた。家族は独身の彼と十五六歳の書生と飯炊きのばあさんの三人暮しで、動物の悲鳴の外には、人の気配もしない様な、物淋しい住いであった。彼はそこと、大学の研究室の両方で、彼の異常な研究にふけっていた。彼の研究題目は、直接病人を取扱う種類のものではなくて、何か外科学上の創造的な発見という様な事にあるらしく思われた。
 それは夜のことであったが、鉄の門に近づくと、私は可哀想な実験用動物の、それは主として犬であったが、耐えられぬ悲鳴を耳にした。それぞれ個性を持った犬共の叫び声が、物狂わしき断末魔だんまつまの聯想を以て、キンキンと胸にこたえた。今実験室の中で、若しやあのいまわしい活体解剖ということが行われているのではないかと思うと、私はゾッとしないではいられなかった。
 門を這入ると、消毒剤の強烈なにおいが鼻をうった。私は病院の手術室を思出した。刑務所の死刑場を想像した。死を凝視した動物共のどうにも出来ぬ恐怖の叫びに、耳が被いくなった。一層のこと、訪問を中止して帰ろうかとさえ思った。
 夜も更けぬに、母屋おもやの方は、どの窓も真暗だった。僅かに実験室の奥の方に明りが見えていた。こわい夢の中での様に、私は玄関にたどりついて、ベルを押した。暫くすると、横手の実験室の入口に電燈がついて、そこに主人の諸戸が立っていた。ゴム引きの濡れた手術衣を着て、血のりで真赤によごれた両手を前に突き出した。電燈の下で、その赤い色が、怪しく光っていたのを、まざまざと思い出す。
 恐ろしい疑いに胸をとざされて、しかしそれをどう確めるよすがもなくて、私は夕闇せまる郊外の町を、トボトボと歩いていた。

明正午限り


 深山木幸吉との約束の「五日目」は、七月の第一日曜に当っていた。よく晴れた、非常に暑い日であった。朝九時頃、私が鎌倉へ行こうと着換えをしている所へ、深山木から電報が来た。逢い度いというのだ。
 汽車は、その夏最初の避暑客で可成混雑していた。海水浴には少し早かったけれど、暑いのと、第一日曜というので、気の早い連中が、続々湘南の海岸へおしかけるのだ。
 深山木の家の前の往来は、海岸への人通りが途絶えぬ程であった。空地にはアイスクリームの露店などが、新しい旗を立てて商売を始めていた。
 だが、これらの華やかな、輝かしい光景に引換えて、深山木は例の書物の山の中でひどく陰気な顔をして、考え込んでいた。
「どこへ行っていたのです。僕は一度お訪ねしたんだけど」
 私が這入って行くと、彼は立上りもしないで、側の汚いテーブルの上をゆびさしながら、
「これを見給え」
 と云うのだ。そこには、一枚の手紙様のものと、破った封筒とが放り出してあったが、手紙の文句は、鉛筆書きのひどくまずい字で、次の様に記されてあった。
貴様はもう生かして置けぬ。明正午限り貴様の命はないものと思え。しかし、貴様の持っている例の品物を元の持主に返し(送り先は知っている筈だ)今日こんにち以後かたく秘密を守ると誓うなら、命は助けてやる。だが、正午までに書留小包にして貴様が自分で郵便局へ持って行かぬと、間に合わぬよ。どちらでも好きな方を選べ。警察に云ったとて駄目だよ。証拠を残す様なへまはしない俺だ。
「つまらない冗談をするじゃありませんか。郵便で来たんですか」
 私は何気なく尋ねた。
「いや、昨夜、窓から放り込んであったんだよ。冗談じゃないかも知れない」
 深山木は案外真面目な調子で云った。彼は本当に恐怖を感じているらしく、ひどく青ざめていた。
「だって、こんな子供のいたずらみたいなもの、馬鹿馬鹿しいですよ。それに正午限り命をとるなんて、まるで活動写真みたいじゃありませんか」
「いや、君は知らないのだよ。俺はね、恐ろしいものを見てしまったんだ。俺の想像がすっかり適中してね。悪人の本拠を確めることは出来たんだけれど、その代り変なものを見たんだ。それがいけなかった。俺は意気地いくじがなくて、逃出してしまった。君はまるで何も知らないのだよ」
「いや、僕だって、少し分ったことがありますよ。七宝の花瓶ね。何を意味するのだか分らないけれど、あれをね諸戸道雄が買って行ったんです」
「諸戸が? 変だね」
 深山木は、併し、それには一向気乗りのせぬ様子だった。
「七宝の花瓶には、一体どんな意味があるんです」
「俺の想像が間違っていなかったら、まだ確めた訳ではないけれど、実に恐ろしい事だ。前例のない犯罪だ。だがね、恐ろしいのは花瓶丈けじゃない、もっともっと驚くべき事がある。悪魔の呪いといった様なものなんだ。想像も出来ない邪悪だ」
「一体、あなたには、もう初代の下手人が分っているのですか」
「俺は、少くとも彼等の巣窟をつき止めることは出来たつもりだ。もう暫く待ち給え。併し俺はやられてしまうかも知れない」
 深山木は、彼の謂う所の悪魔の呪いにでもかかったのであるか、馬鹿に気が弱くなっていた。
「変ですね。併し、万一にもそんな心配があるんだったら、警察に話したらいいじゃありませんか。あなた一人の力で足りなかったら、警察の助力を求めたらいいじゃありませんか」
「警察に話せば、敵を逃がしてしまう丈けだよ。それに、相手は分っていても、そいつを上げる丈けの確かな証拠を掴んでいないのだ。今警察が入って来ては、かえって邪魔になるばかりだ」
「この手紙にある例の品物というのは、あなたには分っているのですか。一体何なのです」
「分っているよ、分っているから怖いのだよ」
「これを先方の申出通り送ってやる訳には行かぬのですか」
「俺はね、それを敵に送り返す代りに」彼はあたりを見廻す様にして、極度に声を低め「君に宛てて書留小包で送ったよ。今日帰ると、変なものが届いている筈だが、それを傷つけたりこわしたりしない様に大切に保管してくれ給え。俺の手元に置いては危いのだ。君なら幾分安全だから、非常に大切なものなんだから間違いなくね。そして、それが大切なものだっていうことを、人に悟られぬ様にするんだよ」
 私は深山木のこれらの、余りにも打とけぬ、秘密的な態度が、何だか馬鹿にされている様で、快くなかった。
「あなたは、知っている丈けのことを、僕に話して下さる訳には行かぬのですか。一体この事件は、僕からあなたにお願いしたので、僕の方が当事者じゃありませんか」
「だが、必らずしもそれがそうでなくなっている事情があるんだ。併し、話すよ。無論話す積りなんだけれど、では、今夜ね、夕飯ゆうめしでもたべながら話すとしよう」
 彼は何だか気が気でないといった風で、腕時計を見た。「十一時だ。海岸へ出て見ないか。変に気が滅入っていけない。一つ久しぶりで海につかって見るかな」
 私は気が進まなんだけれど、彼がどんどん行ってしまうものだから、仕方なく彼のあとに従って、近くの海岸に出た。海岸には目がチロチロする程も、けばけばしい色合の海水着が群っていた。
 深山木は波打際へ駈けて行って、いきなり猿股さるまた一つになると、何か大声にわめいて、海の中へ飛込んで行った。私は小高い砂丘に腰をおろして、彼のいてはしゃぎ廻る様子を、妙な気持で眺めていた。
 私は見まいとしても、時計が見られて仕様がなかった。まさかそんな馬鹿なことがと思うものの、何となく例の脅迫状の「正午限り」という恐ろしい文句が気にかかるのだ。時間は容赦ようしゃなく進んで行く、十一時半、十一時四十分と、正午に近づくにしたがって、ムズムズと不安な気持が湧上って来る。それに、その頃になって、私を一層不安にした事柄が起った。と云うのは、果然かぜん、私は果然という感じがした。の諸戸道雄が、海岸の群衆に混って、はる彼方かなたに、チラリとその姿を見せたのである。彼が丁度この瞬間、この海岸に現われたのは、単なる偶然であっただろうか。
 深山木はと見ると、子供好きの彼は、いつの間にか海水着の子供らに取囲まれて、鬼ごっこか何かをして、キャッキャッとその辺を走り廻っていた。
 空は底知れぬ紺青こんじょうに晴れ渡り、海は畳の様に静かだった。飛込台からは、うららかな掛声と共に、次々と美しい肉団が、空中に弧を描いていた。砂浜はギラギラと光り、陸に海に喜戯きぎする数多あまたの群衆は、晴々とした初夏はつなつの太陽を受けて、明るく、華やかに輝いて見えた。そこには、小鳥の様に歌い、人魚の様にたわむれ、小犬の様にじゃれ遊ぶものの外は、つまり、幸福以外のものは何もなかった。このけっ放しな楽園に、闇の世界の罪悪という様なものが、どこの一隅を探しても、ひそんでいようとは思えなんだ。まして、そのまっただ中で、血みどろな人殺しが行われようなどとは、想像することも出来なかった。
 だが、読者諸君、悪魔は彼の約束を少しだってたがえはしなかったのだ。彼は先には、密閉された家の中で、人を殺し、今度は、見渡す限り開けっ放しの海岸で、しかも数百の群衆の真中でその中のたった一人にさえ見とがめられることなく、少しの手掛りをも残さないで見事に人殺しをやってのけたのである。悪魔ながら、彼は何という不可思議な腕前を持っていたことであろうか。

理外の理


 私は小説を読んで、よく、その主人公がお人好しで、へまばかりやっているのを見ると、自分であったら、ああはしまいなどと、もどかしく、歯痒はがゆく思うことがあるが、この私の書物を読む人も、主人公である私が、何か五里霧中ごりむちゅうに迷った形で、探偵をやるのだといいながら、一向いっこう探偵らしいこともせず、深山木幸吉のいやなくせの思わせぶりに、いい気になってひきずられている様子を見て、きっとじれったく思っていらっしゃることでしょう。私とても、こんな風にありのままに記して行くのは、自分の愚かさを吹聴する様なもので実は余り気が進まぬのだけれど、当時、私は実際お坊ちゃんであったのだから、どうも致方いたしかたがない。読者を歯痒はがゆがらせる点については、事実談ならこうもあろうかと、大目に見て貰う外はないのである。
 さて、前章に引続いて、私は深山木幸吉の気の毒な変死の顛末を書綴かきつづらなければならぬ。
 深山木はその時猿股一つで、砂浜の上を海水着の子供等と、キャッキャと云って走り廻っていた。彼が子供好きで、腕白共わんぱくどもの我鬼大将になって、無邪気に遊ぶのを好んだことは、すで屡々しばしば述べた所であるが、その時の彼の馬鹿なはしゃぎ方には、子供好きという様なことの外に、もっと深い原因があった。彼は怖がっていたのだ。例の下手な字の脅迫状の「正午限り」という文句におびえていたのだ。四十男の非常に聡明そうめいな彼が、あの様な子供だましの脅迫状を真に受けるというのは、何か滑稽な感じがしたけれど、彼にしてはあんなものでも、真面目に怖がるだけの充分の理由があったことに相違ない。
 彼はこの事件について彼の知り得たことを、殆ど全く私に打開けていなかったので、彼の様な磊落らいらくな男を、これ程まで恐怖させた所の、蔭の事実の恐ろしさは、想像だも出来なかったけれど、彼のしんから怖がっている様子を見ると、私もついつり込まれて、華やかな海水浴場の、何百という群衆に取囲まれながらも、何だか変な気持ちになって来るのを、どうにも出来なかった。誰かの云った「本当にかしこい人殺しは、淋しい場所よりも、却って大群集の真中を選ぶ」という言葉なぞも思出されるのであった。
 私は深山木を保護する気持で、砂丘をおりて、彼の喜戯していた方へ近づいて行った。彼等は鬼ごっこにも飽きたと見えて、今度は、波打際に近い所に大きな穴を掘って、三四人の十歳前後の無邪気な子供等が、深山木をその中に埋め、上からせっせと砂をかけていた。
「サア、もっと砂をかけて、足も手もみんなうずめちまわなくちゃ。コラコラ顔はいけないぞ。顔だけは勘弁してくれ」
 深山木はいいおじさんになって、しきりとわめいていた。
「おじさん。そんなに身体を動かしちゃ、ずるいや。じゃ、もっとどっさり砂をかけてやるから」
 子供らは両手で砂をかき寄せては、かぶせるのだけれど、深山木の大きな身体は仲々隠れぬ。
 そこから一けんばかり隔った所に、新聞紙を敷いて、洋傘こうもりをさして、きちんと着物をつけた二人の細君さいくんらしい婦人が、海に這入っている子供を見守りながら休んでいたが、時々深山木達の方を見て、アハアハと笑っていた。その二人の細君連が深山木の埋まっている場所からは一番近かった。反対の側のもっと隔った所には、派手な海水着の、美しい娘さんがあぐらをかいて、てんでに長々と寝そべった青年達と笑い興じていた。そのほかには、近くでは、一ヶ所に腰をすえている人は見当らなんだ。
 深山木の側を通り過ぎる者は、絶え間もなくあったけれど、たまに一寸立止って笑って行く人がある位で、誰も彼の身近かに接近したものはなかった。それを見ていると、こんな所で人が殺せるものだろうかと、やっぱり深山木の恐怖が馬鹿馬鹿しく思われて来るのだった。
「蓑浦君、時間は?」
 私が近づくと、深山木は、まだそれを気にしているらしく、尋ねるのだ。
「十一時五十二分。あと八分ですよ。ハハハ……」
「こうしていれば安全だね。君、君を初め近所に沢山人が見ていてくれるし、手元にこう、四人の少年軍が護衛してらあ。その上砂のとりでだ。どんな悪魔だってこれじゃ近寄れないね。ウフフ」
 彼はやや元気を恢復かいふくしている様に見えた。
 私はその辺を行ったり来たりしながら、さっきチラッと見た諸戸のことが気になるので、広い砂浜を、あちらこちらと、物色したが、どこへ行ったのか、彼の姿はもう見えなんだ。それから、私は深山木の所から二三間離れた場所に立止って、暫くの間ボンヤリと、飛込台の青年達の妙技を眺めていたが、少したって、深山木の方を振向くと、彼は子供等のたんせいでもうすっかり埋められていた。砂の中から首だけ出して、目をむいて空を睨んでいる様子は、話に聞く印度インドの苦行者を思出させた。
「おじさん、起きてごらんよ。重いかい」
「おじさん、滑稽な顔をしてらあ。起きられないのかい。助けて上げようか」
 子供等はしきりと深山木をからかっていた。だが、いくら「おじさん」「おじさん」と連呼しても、彼は意地悪く空を睨んだままそれに応じようともしなかった。ふと時計を見るともう十二時を二分ばかり過ぎていた。
「深山木さん。十二時過ぎましたよ。とうとう悪魔は来なかったですね。深山木さん、深山……」
 ハッとして、よく見ると、深山木の様子が変だった。顔が段々白くなって行く様だし、大きく見開いた目が、さっきから長い間またたきをしないのだ。それに、彼の胸のあたりの砂の上に、どす黒い斑紋はんもんが浮出して、それがジリジリと、少しずつ拡がっている様に見えるではないか。子供等もただならぬ気配を感じたのか、妙な顔をして黙り込んでしまった。
 私はいきなり深山木の首に飛びついて、両手でそれを揺り動かして見たが、まるで人形の首みたいに、グラグラするばかりだった。急いで、胸の斑紋の所を掻き分けて見ると、厚い砂の下から、小型の短刀の白鞘が現われて来た。そのへんの砂が血のりでドロドロになっていたが、なお掻きのけると、短刀は丁度心臓の部分に、根元までグサリと突きささっていた。
 それからの騒動は、きまり切っていることだから、細叙さいじょを省くけれど、何しろ日曜日の海水浴場での出来事だったから、深山木の変死は、誠にはれがましいことであった。私は何百という若い男女の、好奇の目を浴びながら、むしろをかぶせた死体のそばで、警官と問答したり、検事の一行が来て、現場げんじょうの検証が済むと、死体を深山木のうちへ運ぶのに附添ったり、ひどく恥しい思いをしなければならなかった。だが、そんな際にも拘らず、私は、その群衆の折り重なった顔の間に、ふと諸戸道雄の、やや青ざめた顔を発見して、何かしら強い印象を受けた。彼は黒山の様に群がった弥次馬やじうまのうしろから、じっと深山木の死体に目を注いでいた。死体を運んでいる時にも、私は絶えずうしろの方にもののけの様な彼の気配を感じていた。諸戸が殺人の行われた際、現場附近にいなかったことは明かなのだから、彼を疑うべき何等なんらの理由もなかったのだけれど、それにしても、諸戸のこの異様な挙動は、一体何を意味したのであろうか。
 それから、もう一つ記して置かねばならぬのは、さして意外な事でもないが、深山木を運んで彼の家に這入った時、たださえ乱雑な彼の居間が、まるで嵐のあとみたいに、滅茶苦茶めちゃくちゃに取散らされているのを発見したことである。云うまでもなく、曲者が例の「品物」を探す為に、彼の留守宅へ忍込んだものに相違なかった。
 無論私は検事の詳細な取調べを受けたが、その時私は凡ての事情を正直に打開けたけれども、虫が知らせたとでも云うのか(この意味は後に読者に明かになるであろう)深山木が脅迫状に記された「品物」を私に送ったことだけは、わざと黙って置いた。その「品物」について質問されても、ただ知らぬと答えた。
 取調べがすむと、私は近所の人の助けを借りて、死者と親しい友人達に通知を出したり、葬儀の準備をしたり、色々手間取ったので、あとを隣家の細君に頼んで、やっと汽車に乗ったのは、もう夜の八時頃であった。自然、私は諸戸がいつ帰ったのか、彼がその間にどんなことをしていたのか、少しも知らなかった。
 取調べの結果、下手人は全く不明であった。死者と遊んでいた子供等は(彼等の内三人は、海岸近くに住んでいる中流階級の子供で、一人は当日姉につれられて海水浴に来ていた東京のものであった)砂に埋まっていた深山木の身辺へは、誰も近寄ったものがないと明言した。十歳前後の子供であったとは云え、人一人刺殺さしころされるのを見逃がす筈はなかった。又、彼から一間ばかりの所に腰をおろしていた、の二人の細君達も、彼女等は深山木の身辺に近づいたものがあれば、気のつかぬ筈はない様な地位にいたのだが、そんな疑わしい人物は一度も見なかったと断言した。その外彼の附近にいた人で、下手人らしい者を見かけたものは一人もなかった。
 私とても同様に、何の疑わしき者をも見なかった。彼から二三間はなれた所に立ち、暫く若者たちのダイヴィングに見とれていたとは云え、若し彼に近づき、彼を刺したものがあったとすれば、それを目の隅に捉え得ぬ筈はなかった。誠に夢の様に不可思議な殺人事件と云わねばならぬ。被害者は衆人に環視されていたのである。しかも何人なんびとも下手人の影をさえ見なかったのである。深山木の胸深く、かの短刀を突きたてたのは、人間の目には見ることの出来ぬ妖怪の仕業であったのだろうか。私はふと、何者かが短刀を遠方から投げつけたのではないかと考えて見た。だが、その時のすべての事情は、全くそんな想像を許さなかった。
 注意すべきことは、深山木の胸の傷口が、そのえぐり方の癖とも云うべきものが、つての初代の胸のそれと酷似していたことが、のちに取調べの結果分って来た。のみならず、兇器の白鞘の短刀が、両方とも同じ種類の安物であったことも明かにされた。つまり、深山木殺しの下手人は、恐らく初代殺しの下手人と、同一人物であろうという推定がついた訳である。
 それにしても、この下手人は、一体全体、どの様な魔法を心得ていたのであろうか。一度は全く出入口のない、密閉されたうちの中へ、風のように忍び込み、一度は衆人環視の雑踏ざっとうの場所で、数百人の目をかすめて、通り魔の様に逃れ去った。迷信がかったことの嫌いな私であったが、この二つの理外の理を見ては、何かしら怪談めいた恐怖をさえ感じないではいられなかった。

鼻欠けの乃木大将


 私の復讐ふくしゅう、探偵の仕事は、今や大切な指導者を失ってしまった。残念なことには、彼は生前彼の探り得た所、推理した事柄を、少しも私に打開けて置かなんだので、私は彼の死に会って、全く途方に暮れてしまった。もっとも彼は二三暗示めいた言葉を洩らさぬではなかったが、不敏ふびんな私には、その暗示を解釈する力はないのだ。
 それと同時に、一方では、私の復讐事業は、一層重大さを加えて来た。今や私は、私の恋人のうらみをむくいると共に、私の友人であり、先輩であった深山木のかたきをも討たねばならぬ立場に置かれた。深山木を直接殺したものは、かの目に見えぬ不思議な下手人であったけれど、彼をその様な危険に導いた者は、明かに私であった。私が今度の事件を依頼さえせねば、彼は殺されることはなかったのである。私は深山木に対する申訳の為丈けにでも、何が何でも、犯人を探し出さないでは済まぬ事になった。
 深山木は殺される少し前に、脅迫状に書いてあった彼の死の原因となった所の「品物」を、書留小包にして私に送ったと云ったが、その日帰って見ると、果して小包郵便が届いていた。だが、厳重な荷造りの中から出て来たものは、意外にも、一個の石膏像であった。
 それは石膏の上に、絵具を塗って、青銅のように見せかけた、どこの肖像屋にもころがっていそうな、乃木大将の半身像だった。随分古いものらしく、所々絵具がはげて白い生地が現われ、鼻などは、この軍神に対して失礼なほど、滑稽にかけ落ちていた。鼻かけの乃木大将なのだ。ロダンに、似たような名前の作品があったことを思出して、私は変な気持がした。
 無論、私はこの「品物」が何を意味するのか、何故なぜ人殺しの原因となる程大切なのか、まるで想像もつかなんだ。深山木は、「こわさぬように大切に保管せよ」と云った。又「それが大切な品だと云うことを、他人に悟られるな」とも云った。私はいくら考えても、この半身像の意味を発見することが出来ぬので、兎も角死者の指図に従って、人に悟られぬ様にわざとがらくた物の入れてある押入の行李こうりの中へ、それをソッとしまって置いた。この品のことは、警察では何も知らぬのだから、急いで届けるにも及ばなかったのだ。
 それから一週間ばかりの間、心はイライラしながらも、私は深山木の葬儀の為に一日つぶした外は何の為す所もなく、いやな会社勤めを続けた。会社がひけると欠かさず初代の墓地にもうでた。そこで私は相ついで起った不思議な殺人事件の顛末てんまつを、私のなき恋人に報告したことであったが、すぐうちへ帰っても寝られぬものだから、私は墓詣りをすませると、町から町を歩き廻って、時間をつぶしたものである。
 その間、別段の事変もなかったが、二つ丈け、甚だつまらぬ様な事ではあるが、読者に告げて置かねばならぬ出来事があった。その一つは、二度ばかり、誰かが私の留守中に私の部屋に這入って、机の抽斗や本箱の中の品物を、取乱した形跡のあったことである。私はそんなに几帳面なたちではなかったから、はっきりしたことは云えぬのだが、何となく部屋の中の品物の位置、例えば本箱の棚の書物の並べ方などが、私の部屋を出る時の記憶とは違っている様に思われたのだ。家内の者に尋ねても、誰も私の持物をなぶった覚えはないと云うことであったが、私の部屋は二階にあって、窓のそとは、他家の屋根に続いているのだから、誰かが屋根伝いに忍込もうと思えば、全く出来ぬことではないのだ。神経のせいだと打消して見ても、何となく安からぬ思いがするので、若しやと、押入の行李を検べて見たが、例の鼻かけの乃木将軍はその都度別状なく元の所に納まっていた。
 それからもう一つは、ある日、初代の墓参を済ませて、いつも歩き廻る場末ばすえの町を歩いていた時、それは省線の鶯谷うぐいすだにに近いところであったが、とある空地に、テント張りの曲馬団がかかっていて、古風な楽隊や、グロテスクな絵看板が好ましく、私はその以前にも一度そこの前にたたずんだことがあったのだが、その夕方、何気なく曲馬団の前を通りかかると、意外なことには、かの諸戸道雄が、木戸口から急ぎ足で出て行く姿を認めたのである。先方では私に気づかぬ様であったが、恰好のよい背広姿は、まぎれもなく私の異様な友人諸戸道雄であったのだ。
 そんなことから、何の証拠もないことであったが、私の諸戸に対する疑いは、益々ますます深められて行った。彼は何故初代の死後、あんなに度々木崎の家を訪れたのであるか。何の必要があって、問題の七宝の花瓶を買取ったのであるか。又彼が丁度深山木の殺人現場にまで来合わせていたのは、偶然にしては少々変ではなかったか。その折の彼のいぶかしい挙動はどうであったか。それに、気のせいか、彼が彼の家とはまるで方角の違う鶯谷の曲馬団を見に来ていたというのも、何となく異様な感じがするではないか。
 そうした外面に現われた事柄ばかりではなく、心理的にも諸戸を疑うべき理由は充分あった。私としては非常に云いにくいことではあるが、彼は私に対して常人には一寸想像も出来ない程強い恋着れんちゃくを感じているらしかった。それが彼をして、木崎初代に心にもない求婚運動を為さしめた原因であったとしても、さして意外ではないのである。更に、この求婚に失敗した彼が、初代は彼に取って正しく恋のかたきだったのだから、感情の激するまま、その恋敵を人知れず殺害したかも知れないという想像も、全く不可能ではなかった。果して彼が初代殺しの下手人であったとすると、その殺人事件の探偵に従事し、意外に早く犯人の目星をつけた深山木幸吉は、彼に取って一日も生かして置けぬ大敵であったに相違ない。かくして諸戸は、第一の殺人罪を隠蔽いんぺいする為に引続いて第二の殺人を犯さねばならなかったと想像することも出来るではないか。
 深山木を失った私は、こんな風にでも諸戸を疑って見る外には、全然探偵の方針が立たなかった。私は熟考を重ねた末、結局、もう少し諸戸に接近して、この私の疑いを確めて見る外はないと、心を定めた。そこで、深山木の変死事件があってから、一週間ばかりたった時分、会社の帰りを、私は諸戸の住んでいる池袋へとこころざしたのである。

再び怪老人


 私は二晩続けて諸戸の家を訪れたのであったが、第一の晩は諸戸が不在の為、むなしく玄関から引返す外はなかったけれど、第二の晩には私は意外の収穫を得たのである。
 もう七月の中旬に入っていて、変にむし暑い夜であった。当時の池袋は今の様に賑かではなく、師範学校の裏に出ると、もう人家もまばらになり、細い田舎道を歩くのに骨が折れる程、まっ暗であったが、私は、その一方はの高い生垣いけがき、一方は広っぱといった様な、淋しい所を、闇の中にわずかにほの白く浮き上っている道路を、目を据えて見つめながら、遠くの方にポッツリ、ポッツリと見えて居る燈火をたよりに、心元こころもとなく歩いていた。まだ暮たばかりであったが、人通りは殆どなく、たまさかすれ違う人があったりすると、却って、何かもののけの様で、不気味な感じがした程であった。
 先に記した通り、諸戸の邸は仲々遠く、駅から半里はんみちもあったが、私は丁度その中程までたどりついた頃、行手に当って、不思議な形のものが歩いているのを気附いた。脊の高さは常人の半分位しかなくて、横幅は常人以上にも広い一人物が、全身をエッチラオッチラ左右に振り動かしながら、そして、その度にあるいは右に或は左に、張子はりことらの様に、彼の異常に低い所についている頭をチラチラと見せながら、難儀相なんぎそうに歩いて行くのである。と云っては一寸法師の様に思われるが、それは一寸法師ではなく、上半身が、腰の所から四十五度の角度で曲っている為に、うしろからは、そんな脊の低いものに見えたのだ。つまりひどく腰の曲った老人なのである。
 その異様な老人の姿を見て、当然私はつて初代が見たという不気味なお爺さんを思い出した。そして、時が時であったし、所が丁度私が疑っていた諸戸の家の附近であったので、私は思わずハッとした。
 注意して、さとられぬように尾行して行くと、怪老人は、果して諸戸の家の方へ歩いて行く。一つ枝道えだみちを曲ると、一層道巾みちはばが狭くなった。その枝道えだみちは、諸戸の邸で終っているのだから、もう疑う余地はなかった。向うにボンヤリと諸戸の家の洋館が見えて来たが、今夜はどうしたことか、どの窓にも燈火が輝いている。
 老人は、門の鉄のドアの前で一寸立止って、何か考えている様であったが、やがて、扉を押して中へ這入って行った。私は急いであとを追って門内に踏み込んだ。玄関と門の間に一寸茂った灌木かんぼくの植込みがあって、その蔭に隠れたのか、私は老人を見失った。暫く様子を窺っていたが、老人の姿は現われぬ。私が門にかけつける間に、彼は玄関に這入ってしまったのか、それとも、まだ植込みのあたりにうろうろしているのか、一寸見当がつかなんだ。
 私は先方から見られぬ様に気をつけて、広い前庭ぜんていをあちこちと探して見たが、老人の姿は消えたかの様に、どこの隅にも発見出来なかった。彼はすでに屋内に這入ってしまったのであろう。そこで、私は思い切って、玄関のベルを押した。諸戸に逢って、直接彼の口から何事かを探り出そうと決心したのだ。
 間もなくドアが開いて、見知り越しの若い書生が顔を出した。諸戸に逢いいと云うと、彼は一寸引込んで行ったが、直ぐ引返ひっかえして来て、私を玄関の次の応接間へ通した。壁紙なり、調度なり、仲々調和がよく、主人の豊かな趣味を語っていた。柔かい大椅子おおいすに腰かけていると、諸戸は、酒に酔っているのか、上気した顔をして、勢いよく這入って来た。
「ヤア、よく来てくれましたね。この間、巣鴨では本当に失敬しました。あの時は何だか工合ぐあいが悪くってね」
 諸戸は快い中音ちゅうおんで、さも快活らしく云うのだった。
「そのあとでもう一度お逢いしていますね。ホラ、鎌倉の海岸で」
 決心をしてしまうと、私は存外ズバズバと物が云えた。
「エ、鎌倉? アア、あの時君は気がついていたのですか、あんな騒動の際だったので、わざと遠慮して声をかけなかったのだが、あの殺された人、深山木さんとか云いましたね。君、あの人とは余程懇意こんいだったのですか」
「エエ、実は木崎初代さんの殺人事件を、あの人に研究して貰っていたんです。あの人はホームズみたいな優れた素人探偵だったのですよ。それが、やっと犯人が分りかけた時に、あの騒動なんです。僕、本当にがっかりしちゃいました」
「僕も大方おおかたそうだとは想像していたが、惜しい人を殺したものですね。それはそうと、君食事は? 丁度今食堂を開いた所で、珍らしいお客さんもいるんだが、何だったら、一緒にたべて行きませんか」
 諸戸は話題を避ける様に云った。
「イイエ、食事は済ませました。お待ちしますからどうか御遠慮なく。ですが、お客さんと云うのは、若しやひどく腰の曲ったお爺さんの人じゃありませんか」
「エ、お爺さんですって。大違い、小さな子供なんですよ。ちっとも遠慮のいらないお客だから、一寸食堂へ行く丈けでも行きませんか」
「そうですか。でも、僕来る時、そんなお爺さんがここの門を這入るのを見かけたのですが」
「ヘエ、おかしいな。腰の曲ったお爺さんなんて、僕はお近づきがないんだが、本当にそんな人が這入って来ましたか」
 諸戸は何故か非常に心配相な様子を見せた。それから、彼はなおも、私に食堂へ行くことを勧めたが、私が固辞するので、彼はあきらめて例の書生を呼び出してこんなことを命じた。
「食堂にいるお客さんにね、ごはんをたべさせて、退屈しない様に、君とばあやとで、よくおりをしてくれ給え。帰るなんて云い出すと困るからね。何かおもちゃがなかったかしら。……ア、それから、このお客さまにお茶を持ってくるのだ」
 書生が去ると、彼はいて作った様な笑顔で、私の方に向き直った。その間に、私は部屋の一方の隅に置いてあった問題の七宝の花瓶に気づいて、こんな場所にそれを放り出して置く彼の大胆さに、いささか呆れた。
「立派な花瓶ですね。あれ、僕どこかで一度見た様な気がするんですが」
 私は諸戸の表情に注意しながら尋ねた。
「アア、あれですか。見たかも知れませんよ。初代さんの家の隣の道具屋で買って来たんだから」
 彼は驚くべき平静さで答えた。それを聞くと私は一寸太刀打たちうちが出来ない気がして、ややこころおくするを覚えた。

意外な素人探偵


「僕は逢いたかったのですよ。久しく君と打ちとけて話をしないんだもの」諸戸は酔にまぎらせて、少しく甘い言葉遣いをした。上気した頬が美しく輝き、長いまつげに覆われた目が、なまめかしく見えた。「この間巣鴨では、何だか恥かしくて云えなんだけれど、僕は君にお詫びしなければならないのです。君が許してくれるかどうか分らぬ程、僕は済まぬことをしているんです。でも、それは、僕の情熱がさせたわざ、つまり僕が君を他人にとられたくなかったのです。イヤ、こんな自分勝手なことを云うと、君はいつもの様に怒るだろうけれど、君にだって僕の真剣な気持ちは分っていてくれる筈だ。僕はそうしないではいられなかったのです。……君は怒っているでしょう。ね、そうでしょう」
「あなたは初代さんのことを云っているのですか」
 私はぶっきら棒に聞き返した。
「そうです。僕は君とあの人とのことが、ねたましくてえられなかったのです、それまでは、仮令たとえ君は僕の心持を本当に理解してれぬにもせよ、少くとも君の心は他人のものではなかった。それが、初代さんと云うものが君の前に現われてから、君の態度が一変してしまった。覚えていますか、もう先々月になりますね。一緒に帝劇を見物した夜のことを。僕は君のあの絶えず幻を追っているような眼の色を見るに堪えなかった。その上、君は残酷にも平気で、さも嬉しそうに、初代さんの噂をさえ聞かせたではありませんか。僕があの時どんな心持だったと思います。恥しいことです。いつも云う通り、僕はこんなことで君を責める権利なぞあろう道理はないのです。でも、僕はあの君の様子を見て、この世の凡ての望みを失ってしまったような気がした。本当に悲しかった。君の恋も悲しかったが、それよりも一層、僕のこの人並でない心持がうらめしくて仕様がなかった。それ以来というもの、僕が幾度手紙を上げても、君は返事さえ呉れなかったでしょう。以前はどんなにつれない返事にせよ、返事丈けはきっと呉れたものだったのに」
 いつになく、酔っている諸戸は雄弁家であった。彼の女々めめしくさえ見えるくり言は、黙っていれば、果しがないのである。
「それで、あなたは、心にもない求婚をなすったのですか」
 私はいきどおろしく、彼の饒舌じょうぜつを中断した。
「君はやっぱり怒っている。無理はありません。僕はどんなことをしてでも、このつぐないをしたいと思います。君は土足で僕の顔を踏んづけてくれても構わない。もっとひどいことでもいい。全く僕が悪かったのだから」
 諸戸は悲しげに云った。だがそんなことで、私の怒りがやわらげられるものではなかった。
「あなたは自分のことばかり云っていらっしゃる。あなたはあまり自分勝手です。初代さんは僕の一生涯にたった一度出逢った僕に取ってかけ換えのない女性なんです。それを、それを」
 喋っている内に、新たな悲しみがこみ上げて来て、私はつい涙ぐんでしまった。そして、暫く口を利くことが出来なかった。諸戸は私の涙にぬれた目をじっと見ていたが、いきなり両手で、私の手を握って、
「堪忍して下さい。堪忍して下さい」
 と叫びつづけるのであった。
「これが勘弁出来ることだとおっしゃるのですか」私は彼の熱した手を払いのけて云った。「初代は死んでしまったのです。もう取返しがつかないのです。私は暗闇の谷底へつき落されてしまったのです」
「君の心持は分り過ぎる程分っている。でも、君は僕に比べれば、まだ仕合せだったのですよ。何故と云って、僕があれ程熱心に求婚運動をしても、義理のあるお母さんがあれ程勧めても、初代さんの心は少しもゆるがなんだ。初代さんはあらゆる障碍しょうがいを見むきもせず、あくまで君を思いつづけていた。君の恋は充分すぎる程報われていたのです」
「そんな云い方があるもんですか」私はもう泣き声になっていた。「初代さんの方でも、僕をあんなに思っていてくれたればこそ、あの人を失った今、僕の悲しみは幾倍するのです。そんな云い方ってあるもんですか。あなたは求婚に失敗したものだから、それ丈けでは、あきたりないで、その上、その上」
 だが、私はさすがに、その次の言葉を云いよどんだ。
「エ、何ですって。ああ、やっぱりそうだった。君は疑っているね。そうでしょう。僕に恐ろしい嫌疑をかけている」
 私はいきなりワッと泣き出して、涙の下から途切れ途切れに叫んだ。
「僕はあなたを殺してしまいい。殺し度い、殺し度い。本当のことを云って下さい。本当のことを云って下さい」
「ああ、僕は本当に済まないことをした」諸戸は再び私の手をとってそれを静かにさすりながら、「恋人を失った人の悲しみが、こんなだとは思わなんだ。だが、蓑浦君、僕は決して嘘は云わない。それはとんだ間違いですよ。いくらなんだって、僕は人殺しの出来るがらじゃない」
「じゃ、どうしてあんな気味の悪い爺さんがここの家へ出入りしているんです。あれは初代さんの見た爺さんです。あの爺さんが現われてから間もなく初代さんが殺されてしまったんです。それから、なぜあなたは丁度深山木さんの殺された日に、あすこにいたんです。そして、疑いを受ける様なそぶりを見せたんです。あなたはなぜ鶯谷の曲馬団へ出入りしたんです。僕はあなたがあんなものに嗜好しこうを持っているなんて、一度も聞いたことがない。あなたはどうして、その七宝の花瓶を買ったんです。この花瓶が初代さんの事件に関係あることを、僕はちゃんと知っているんです。それから、それから」
 私は狂気の様に洗いざらい喋り立てた。そして、言葉が途切れるとまっ青になって、激情の余りおこりみたいにブルブルと震え出した。
 諸戸は急いで、私のそばへ廻って来て、私と椅子を分けてかける様にして、両手で私の胸をしっかりと抱きしめ、私の耳に口を寄せて、優しく囁くのだった。
「色々な事情が揃っていたのですね。君が僕に疑いをかけたのも、満更まんざら無理ではない様です。でも、それらの不思議な一致には、全く別の理由があったのですよ。アア、僕はもっと早くそれを君に打開ければよかった。そして、君と力をあわせて事に当ればよかったのだ。僕はね、蓑浦君、やっぱり君や深山木さんと同じ様に、この事件を一人で研究して見たのですよ。何故そんなことをしたか、分りますか。それはね、君へのお詫び心なんです。無論僕は殺人事件には、少しも関係がないけれど、僕は初代さんに結婚を申込んで君を苦しめた。その上当の初代さんが死んでしまったのでは、君があんまり可哀想だと思ったのです。せめて、下手人を探し出して、君の心を慰め度いと考えたのです。そればかりではない。初代さんのお母さんは、あらぬ嫌疑を受けて検事局へ引っぱられた。その嫌疑を受けた理由の一つは結婚問題について娘と口論したことだったではありませんか。つまり間接には僕がお母さんを嫌疑者にした様なものです。だから、その点からも、僕は下手人を探し出して、あの人の疑いをはらして上げる責任を感じたのですよ。併し、それは今ではもう必要がなくなった。君も知っているでしょうが、初代さんのお母さんは証拠が不充分の為に、事なく帰宅を許されたのです。昨日きのうお母さんがここへ見えられてのお話でした」
 だが疑い深い私は、この彼のまことしやかな、さも優しげな弁解を、容易に信じようとはしなかった。恥しいことだけれど、私は諸戸の腕の中で、まるで駄々子だだっこの様に振舞った。これはあとで考えて見ると、人の前で声を出して泣いたりした恥しさをごまかす為と、意識はしていなかったけれど、私をさ程までも愛してくれていた諸戸に、かすかに甘える気持ちもあったのではないかと思われる。
「僕は信じることが出来ません。あなたがそんな探偵の真似をするなんて」
「これはおかしい。僕に探偵の真似が出来ないと云うのですか」諸戸は幾らか静まった私の様子に、少しく安心したらしく、「僕はこれで仲々名探偵かも知れないのですよ。法医学だって一通りは学んだことがあるし、アア、そうだ、これを云ったら、君も信用するでしょう。さっき君はこの花瓶が殺人事件に関係あると云いましたね。実に明察ですよ。君が気づいたのですか、それとも深山木さんに教わったものですか。その関係がどういう物だか、君はまだ知らない様ですね。その問題の花瓶というのはここにあるのではなくて、これと対になっていたもう一つの方なんですよ。ホラ、初代さんの事件のあった日にあの古道具屋から誰かが買って行った、あれなんです。分りましたか。とすると、僕がこの花瓶を買ったのは、僕が犯人でなくて、寧ろ探偵であることを証拠立てているではありませんか。つまり、これを買って来て、この花瓶というものの性質をわめようとしたんですからね」
 ここまで聞くと、私は諸戸の云う所を、やや傾聴する気持になった。彼の理論は偽りにしては余りに誠しやかであったから。
「若しそれが本当ならば僕はお詫びしますけれど」私は非常にきまりの悪いのを我慢して云った。「でも、あなたは全くそんな探偵みたいなことをやったのですか。そして何か分ったのですか」
「エエ、分ったのです」諸戸はやや誇らしげであった。「若し僕の想像が誤っていなかったら、僕は犯人を知っているのです。いつだって警察につき出すことが出来るのです。ただ残念なことには、彼がどういう訳で、あの二重の殺人を犯したかが、全く不明ですけれど」
「エ、二重の殺人ですって」私は極りの悪さも忘れて、驚いて聞返した。「ではやっぱり、深山木さんの下手人も、同一人物だったのですか」
「そうだと思うのです。若し僕の考え通りだったら、実に前代未聞の奇怪事です。この世の出来事とは思えない位です」
「では聞かせて下さい。そいつはどうしてあの出入口のない密閉されたうちの中へ忍込むことが出来たのです。どうしてあの群衆の中で、誰にも姿を見とがめられず、人を殺すことが出来たのです」
「アア、本当に恐ろしいことです。常識で考えては全く不可能な犯罪が、易々やすやすと犯されたという事が、この事件の最も戦慄せんりつすべき点なのです。一見不可能に見えることが、どうして可能であったか。この事件を研究する者は、先ずこの点に着眼すべきであったのです。それが凡ての出発点なのです」
 私は彼の説明を待ち切れなくて、性急せっかちに次の質問に移って行った。
「一体下手人は何者です。我々の知っている奴ですか」
「多分君は知っているでしょう。だが、一寸想像がつき兼ねるでしょう」
 ああ、諸戸道雄は、果して何事を云いでんとはするぞ。私には、今や、朦朧もうろうとその正体が分りかけて来たような気がする。の怪老人は全体何者なれば諸戸の家を訪れたりしたのであろう。彼は今どこに隠れているのであるか。諸戸が曲馬団の木戸口に姿を見せたのは、何故であったか。七宝の花瓶は如何なる意味でこの事件に関係を持っていたのであるか。今や諸戸に対する疑いは全くはれたのであるが、彼を信用すればする程、私は種々雑多の疑問が、雲のごとく私の脳裏に浮び上って来るのを、感じないではいられなかった。

盲点の作用


 局面がにわかに一変した。
 私が前章に述べた様な様々な理由によって、この犯罪事件に関係があるに相違ないと睨んで、その為態々詰問に出掛けて行った諸戸道雄が、段々話して見ると、意外にも犯人どころか、彼も亦、亡き深山木幸吉と同じく、一箇の素人探偵であったことが分って来たのである。
 のみならず、諸戸は已にこの事件の犯人を知っていると云い、それを今私に打開けようとさえしているのだ。生前の深山木の鋭い探偵眼に驚いていた私は、ここにその深山木以上の名探偵を発見して、更らに一驚いっきょうきっしなければならなかった。長い間の交際を通じて、性慾倒錯者として、無気味な解剖かいぼう学者として、諸戸が甚だ風変りな人物であることは知っていたけれど、その彼に、かくの如き優れた探偵能力があろうとは誠に想像だもしなかった所である。意外なる局面の転換に私はあっけにとられた形であった。
 これまでの所では、読者諸君にも多分そうである様に、当時私にとっても、諸戸道雄は全く謎の人物であった。彼には何かしら、世の常の人間と違った所があった。彼の従事していた研究の異様なこと(その詳しいことは後に説明する機会がある)性慾倒錯者であったこと等が、彼をそんな風に見せたのかも知れないが、併し、どうもそれ丈けではなかった。表面善人らしく見えていて、その裏側に、えたいの知れぬ悪がひそんでいる。彼の身辺には、陽炎かげろうの様に、不気味な妖気が立昇っている、と云った感じなのである。それと、彼が素人探偵として私の前に現われたのが、余りにも突然であったのとで、私は彼の言葉を信じ切れない気持であった。
 だが、それにも拘らず、彼の探偵としての推理力は、以下に記述するが如く、実にすばらしいものであったし、又彼の人間としての善良さは、表情や言葉の端々はしばしにも見て取ることが出来た程で、私は、心の奥底には、まだ一片の疑いを残しながらも、ついつい彼の言葉を信じ、彼の意見に従うことにもなって行ったのである。
「私の知っている人ですって、おかしいな。少しも分らん。教えて下さい」
 私は再びそれを尋ねた。前章の続きである。
「突然云ったのでは、君にはよく飲込めないかも知れぬ。でね、少し面倒だけれど、僕の分析の径路を聞いて呉れないだろうか。つまり、僕の探偵苦心談だね。尤も冒険をしたり歩き廻ったりの、所謂いわゆる苦心談じゃないけれど」諸戸はすっかり安心した調子で答えた。
「ええ、聞きます」
「この二つの殺人事件は、どちらも一見不可能に見える。一つは密閉された屋内で行われ犯人の出入でいりが不可能だったし、一つは白昼群集の面前で行われて、しかも何人なんぴとも犯人を目撃しなかったというのだから、これも殆ど不可能な事柄です。だが、不可能なことが行われる筈はないのだから、この二つの事件は、一応その『不可能』そのものについて吟味して見ることが最も必要でしょう。不可能の裏側を覗いて見ると、案外つまらない手品の種がかくされているものだから」
 諸戸も手品という言葉を使った。私は深山木も嘗つて同じ様な比喩を用いたことを思い合わせて、一層諸戸の判断を信頼する気持になった。
「非常に馬鹿馬鹿しいことです。(深山木も同じことを云った)余り馬鹿馬鹿しい想像なので、僕は容易に信じられなんだ。一つ丈けでは信じられなんだ。だが、深山木さんの事件が起ったので、やっぱり僕の想像が当っていたことが、確められたのです。馬鹿馬鹿しいというのはね、偽瞞ぎまんの方法が子供だましみたいだということで。だが、そのやり方は実にずば抜けて大胆不敵なのです。それが為に、この犯罪人は却って安全であったとも云いる。サア何と云っていいかこの事件には一寸人間世界では想像出来ない程の、醜い、残忍な、野獣性がひそんでいる。一見馬鹿馬鹿しい様ではあるが、人間の智恵でなくて悪魔の智恵でなければ、考え出せない種類の犯罪なのです」
 諸戸はやや興奮して、さも憎々にくにくしげに喋って来たが、一寸押黙って、じっと私の目を覗き込んだ。私はその時、彼の目の中には、いつもの愛撫の表情がせて、深い恐怖の色が漂っているのを感じた。私もつり込まれて、同じ目つきになっていたに相違ない。
「僕はこんな風に考えた。初代さんの場合はね、皆が信じている様に、犯人は全く出入りが不可能な状態であった。どの戸口も中から錠が卸してあった。犯人が内部に残っているか、それとも共犯者がうちの中にいたとしか考えられない事情だった。それがつまり初代さんのお母さんを被疑者にしてしまった訳なんだが、併し、僕の聞いていた所では、お母さんが下手人だとも共犯者だとも考えられぬ。どんなことがあったって、一人娘を殺す親なんてある筈がない。そこで、僕はこの一見『不可能』に見える事情の裏には、何か一寸人の気づかぬカラクリが隠されていると睨んだのです」
 諸戸の熱心な話しぶりを聞いていると、私はふと変てこな、何かそぐわぬものを感じないではいられなかった。私は初めて、ハテナと思った。諸戸道雄は、一体どうして、こんなにも初代さんの事件に力こぶを入れているのであろう。恋人を失った私への同情からであろうか、あるいは又、彼の生来の探偵好きのさせた業であろうか。だが、どうも変だ、ただそれ丈けの理由で、彼はこんなにも熱心になれたのであろうか。そこには、何かもっと別の理由があったのではないかしら。後に思い当ったことであるが、私は何となく、そんな風に感じないではいられなかった。
「例えばね、代数の問題を解く時に、いくらやって見ても解けない。一晩かかっても書きつぶしの紙がふえるばかりだ。これは不可能な問題に違いないと思うね。だが、どうかした拍子に、同じ問題をまるで違った方角から考えて見ると、ヒョッコリ、何の雑作もなく解けることがある。それが解けないというのは、わば呪文にかかっているんですね。思考力の盲点といった様なものにわざわいされているんですね。初代さんの事件でも、この見方を全く換えてみるということが必要だったと思う。あの場合、出入口が全然なかったというのは、屋外からの出入口がなかったということです。戸締りも完全だったし、庭に足跡もなかったし、天井も同様、縁の下へは外部から這入れない様に網が張ってあった。つまりそとから入る箇所は全くなかった。この『外から』という考え方が禍したのですよ。犯人は外から這入って、外へ出るものという先入主がいけなかったのですよ」
 学者の諸戸は、変に思わせぶりな、学問的な物の云い方をした。私は彼の意味がいくらか分った様でもあり、又まるで見当がつかぬ様でもあり、あっけにとられた形で、併し非常な興味を以て聞入っていた。
「では、外からでなければ、一体どこから這入ったのだと云うでしょう。中にいたのは被害者とお母さん丈けなんだから。犯人が外から這入らなんだというのは、では、下手人はやっぱりお母さんだったという意味かと、反問するでしょう。それではまだ盲点にひっかかっているのです。何でもないことですよ。これはね、謂わば日本の建築の問題ですよ。ホラ覚えていますか。初代さんのうちはお隣りと二軒で一むねになっている。あの二軒丈けが平屋だから、すぐ気づくでしょう……」
 諸戸は妙な笑いを浮べて私を見た。
「じゃ、犯人はお隣から這入って、お隣から逃げ出したと云うのですか」
 私は驚いて尋ねた。
「それがたった一つの可能な場合です。一棟になっているのだから、日本建築の常として、天井裏とえんの下は二軒共通なんです。僕はいつも思うのだが、戸締り戸締りとやかましく云っても、長屋建てじゃ何にもならない。おかしいね。裏表の戸締りばかり厳重にして、天井裏と縁の下の抜け道をほったらかして置くんだから、日本人は呑気ですよ」
「併し」私はムラムラと湧起わきおこる疑問を押え兼ねて云った。「お隣りは人のいい老人夫婦の古道具屋で、しかも、あなたも多分御聞きでしょうが、あの朝は初代さんの死体が発見されたあとで、近所の人に叩き起されたんですよ。それまではあの家もちゃんと戸締りがしてあったのです。それから老人が戸を開けた時分には、もう大分弥次馬やじうまが出ていて、あの古道具屋が休憩所みたいになってしまったのだから、犯人の逃げ出す暇はなかった筈ですが、まさかあの老人達が共犯者で犯人をかくまったと思えませんからね」
「君の云う通りですよ。僕もそんな風に考えた」
「それから、もっと確かなことは、天井裏を通抜けたとすれば、そこのちりの上に足跡か何か残っている筈なのに、警察で調べて何の痕跡もなかったではありませんか。又縁の下にしても、皆金網張りなんかで通れない様になっていたではありませんか。まさか犯人が根太板ねだいたを破り、畳を上げて這入ったとも考えられませんからね」
「その通りです。だが、もっといい通路があるのです。まるでここから御這入りなさいと云わぬばかりの、く極くありふれた、それ故に却って人の気づかぬ大きな通路があるのです」
「天井と縁の下以外にですか。まさか壁からではないでしょう」
「いや、そんな風に考えてはいけない。壁を破ったり、根太をはがしたり、小細工こざいくをしないで、何の痕跡も残さず、堂々と出入り出来る箇所があるのです。エドガア・ポオの小説にね、『盗まれた手紙』というのがある。読んだことがありますか。あるかしこい男が手紙を隠すのだが、最もかしこい隠し方は隠さぬことだという考えから、無雑作に壁の状差しへ投込んで置いた所、警察が家探やさがしをしても発見することが出来なんだ話です。これを一方から云うと、誰も知っている様な極く極くあからさまな場所は、犯罪などの真剣な場合には、却って閑却かんきゃくされ気附かれぬものだということになります。僕の云い方にすれば、一種の盲点の作用なのです。初代さんの事件でも、云ってしまえば、どうしてそんな簡単なことを見逃したのかと馬鹿馬鹿しくなる位だが、それが先に云った賊は『外から』という観念に禍された為ですよ。一度『中から』とさえ考えたなら、直ちに気づく筈なんだから」
「分りませんね。一体どこから出入りしたのですか」
 私は相手にからかわれている様な気がして多少不快でさえあった。
「ホラ、どこの家でも、長屋なんかには、台所の板の間に、三尺四方位、上げ板になった所がある。ね、炭やまきなんかを入れて置く場所です。あの上げ板の下は、大抵仕切りがなくて、ずっと縁の下へ続いているでしょう。まさか内部から賊が這入るとは考えぬので、外に面した所には金網を張る程用心深い人でも、あすこ丈けは一向いっこう戸締りをしないものですよ」
「じゃ、その上げ板から初代さんを殺した男が出入りしたというのですか」
「僕は度々あの家へ行って見て、台所に上げ板のあること、その下には仕切りがなくて全体の縁の下と共通になっていることを確めたのです。つまり、犯人はお隣の道具屋の台所の上げ板から這入って、縁の下を通り、初代さんの家の上げ板から忍込み、同じ方法で逃去ったと考えることが出来ます」
 この方法によれば、神秘的にさえ見えた初代殺しの秘密を、実にあっけなく解くことが出来た。私はこの諸戸の条理じょうり整然たる推理に、一応は感服したのであるが、ただ、よく考えて見ると、そうして通路丈けが解決された所で、もっと肝要な問題が、色々残っている。古道具屋の主人がどうしてその犯人を気づかなんだのか。沢山の弥次馬の面前を犯人は如何にして逃去ることが出来たのか。一体犯人とは何者であるか。諸戸は犯人は私の知っている者だと云った。それは誰のことであろう。私は諸戸の余りにも迂回うかい的な物の云い方に、イライラしないではいられなかった。

魔法のつぼ


「マア、ゆっくり聞いて呉れ給え。実は僕は初代さんなり深山木氏なりの敵討ちに、君に御手伝いして、犯人探しをやってもいいとさえ思っているのだから、僕のかんがえをすっかり順序立てて話をして、君の意見を聞こうじゃないですか。何も僕の推察が動かすことの出来ぬ結論だという訳じゃないんだから」
 諸戸は私の矢つぎ早やな質問を押えて、彼の専門の学術上の講演でもする様な調子で、誠に順序正しく彼の話を続けるのであった。
「僕も無論その点は、あとから近所の人に聞合わせてよく知っている。古道具屋の主人なり弥次馬なりの目をかすめて犯人が逃去ったと考えることは出来ない様な状態でした。古道具屋の戸締りが開けられた時には、已に近所の人達が往来に集っていた。だから、仮令犯人が縁の下を通って古道具屋の台所の上げ板から、そこの店のなり裏口なりへ達したとしても、主人夫妻や弥次馬達に見とがめられずに戸外へ出ることは、全く不可能だったのです。彼はこの難関をどうして通過することが出来たか。僕の素人探偵はそこでハタと行詰ゆきつまってしまった。何かトリックがある。台所の上げ板に類した、人の気づかぬ偽瞞があるに相違ない。で、多分御存じだろうが、僕は度々初代さんの家の附近をうろついて、近所の人の話などを聞廻ったのです。そして、ふと気がついたのは、事件ののち、例の古道具屋から、何か品物が持出されなかったか。商売柄、店先には色々な品物も陳列してある。その内何か持出されたものはないかと云うことです。そこで、調べて見ると、事件の発見された朝、警察の取調べなどでゴタゴタしている最中に、ここにあるこれと一対の花瓶ですね、あれを買って行った者があることが分った。その外には何も大きな品物は売れていない。僕はこの花瓶が怪しいと睨んだのです」
「深山木さんも、同じことを云いましたよ。だが、その意味が僕には少しも分らないのです」
 私は思わず口をはさんだ。
「左様、僕にも分らなんだ。併し、何となく疑わしい気がしたのです。何故かと云うと、その花瓶は、丁度事件の前夜、一人の客が来て代金を払い、品物はちゃんと風呂敷包みにして帰り、次の朝使いの者が取りに来て担いで行ったというのが、時間的にうまく一致している。何か意味がありそうです」
「まさか、花瓶の中に犯人が隠れていた訳じゃありますまいね」
「イヤ、所が意外にも、あの中に人が隠れていたと想像すべき理由があるのです」
「エ、この中に、冗談を云ってはいけません。高さはせいぜい二尺四五寸、さし渡しも広い所で一尺余りでしょう。それに第一この口を御覧なさい。僕の頭丈けでも通りやしない。この中に大きな人間が這入っていたなんて、御伽噺おとぎばなしの魔法のつぼじゃあるまいし」
 私は部屋の隅に置いてあった花瓶の所へ行ってその口径を計って見せながら、余りのことに笑い出して了った。
「魔法の壺。そう、魔法の壺かも知れない。誰にしたって、僕だって最初は、そんな花瓶に人間が這入れようとは思わなんだ。それが、実に不思議千万なことだけれど、確かに隠れていたと想像すべき理由があるのです。僕は研究の為にその残っていた方の花瓶を買って来たんですが、いくら考えても分らない。分らないでいる内に第二の殺人事件が起った。あの深山木さんの殺された日には、僕は別の要件があって偶然鎌倉へ行ったんですが、途中で君の姿を見かけたものだから、つい君のあとをつけて海岸へ出てしまった。そして、計らず第二の殺人事件を目撃する様なことになったのです。あの事件について、僕は色々と研究した。深山木さんが初代さんの事件を探偵していたことは分っていたから。その深山木さんが殺された、しかも初代さんの時と同じ様な謂わば神秘的な方法でやられた。とすると、この二つの事件には何か聯絡があるのではないかと考えたからです。そして、僕は一つの仮説を組立てた。仮説ですよ。だから、確実な証拠を見るまでは、空想だと云われても仕方がない。併し、その仮説が考え得べき唯一のものであり、この一聯の事件のどの部分に当てはめて見ても、しっくり適合するとしたら、我々はその仮説を信用しても差支ないと思うのです」
 諸戸は酔と興奮との為に、充血したまなざしをじっと私の顔に注ぎ、乾いた唇をめ嘗め、段々演説口調になりながら、益々雄弁に語り続けるのであった。
「ここで初代さんの事件は一寸お預りにして、第二の殺人事件から話して行くのが便利です。僕の推理がそういう順序で組立てられて行ったのだから。深山木さんは衆人環視の中で、何時いつ、誰に殺されたのか全く分らない様な、不思議な方法で殺害された。ごく近く丈けでも、絶えずあの人の方を見ていた人が数人ある。君もその一人でしょう。その外、あの海岸には、数百の群集が右往左往うおうさおうしていた。ことに深山木さんの身辺には四人の子供が戯れていた。それらの内のたった一人さえ、下手人を見なかったというのは、実に前例のない奇怪事じゃないですか。全く想像の出来ない事柄です。不可能事です。だが、被害者の胸に短刀が突き刺っていたという事実が厳存する以上は、下手人がなければならぬ。彼は如何にしてこの不可能事を為しとげることが出来たか。僕はあらゆる場合を考えて見た。だがどんなに想像をたくましくして見ても、たった二つの場合を除いては、この事件は全く不可能に属します。二つの場合というのは、深山木さんが人知れず自殺をしたと見るのが一つ、もう一つは、非常に恐ろしい想像だけれど、戯れていた子供の一人、あの十歳にも足らないあどけない子供の一人が、砂遊びにまぎれて、深山木さんを殺したという考えです。子供は四人いたけれど、深山木さんを埋める為に、てんでんの方角から砂を集めることで夢中になっていたでしょうから、その中の一人が、ほかの子供に気づかれぬ様に、砂をかぶせる振りをして、隠し持ったナイフを深山木さんの胸にうち込むのはさして困難な仕事ではありません。深山木さん自身も、相手が子供なので、ナイフを突刺されるまでは全く油断していたであろうし、突刺されてしまっては、もう声を立てるひまもなかったのでしょう。下手人の子供は、何喰わぬ顔をして、血や兇器をかくす為に、上から上からと砂をかぶせてしまったのです」
 私は諸戸のこの気違いめいた空想に、ギョッとして、思わず相手の顔を見つめた。
「この二つの場合の内、深山木氏の自殺説は、種々の点から考えて、全く成立たない。とすると仮令それがどれ程不自然に見えようとも、下手人はあの四人の子の内にいたと考える外には、我々には全く解釈の方法がないのです。しかもこの解釈による時は、同時にこれまでの凡ての疑問が、すっかり解けてしまう。一見不可能に見えた事柄が、少しも不可能ではなくなって来る。と云うのは、例の君の所謂『魔法の壺』の一件です。あんな小さな花瓶の中へ人が隠れるというのは悪魔の神通力でも借りないでは不可能なことに思われた。だが、そう考えたのは、やっぱり我々の考え方の方向が固定していたからで、普通我々は殺人者というものを、犯罪学の書物の挿絵さしえにある様な、獰猛どうもうな壮年の男子に限るものの如く、迷信している為に、幼い子供などの存在には全く不注意であった。この場合、子供という観念は全く盲点によって隠されてしまっていたのです。だが、一度子供というものに気づくと、花瓶の謎は立所たちどころに解決する。あの花瓶は小さいけれど、十歳の子供なら隠れることが出来るかも知れない。そして大風呂敷で包んで置けば、花瓶の中は見えないし、風呂敷の結び目のたるみから出入りすることが出来る。入ったあとでそのたるみを、中から直して花瓶の口を隠す様にして置けばいいのですからね。魔法は花瓶そのものにあったのではなくて、中へ這入る人間の側にあったのです」
 諸戸の推理は、一糸の乱れもなく、細かい順序を追って、誠に巧妙に進められて行った。だが、私はここまで聞いても、まだ何となく不服である。その心が表情に現れたのか、諸戸は私の顔を見つめて、更らに語り続けるのであった。
「初代さんの事件には、犯人の出入口の不明なことの外に、もう一つ重大な疑問があったね。忘れはしないでしょう。何故犯人が、あんな危急の場合に、チョコレートの罐なぞを持去ったかということです。ところが、この点も、犯人が十歳の子供であったとすると、訳なく解決出来る。美しい罐入りのチョコレートは、その年頃の子供にとって、ダイヤモンドの指環や、真珠の首飾りにもまして、魅力のある品ですからね」
「どうも僕には分りません」私はそこで口をはさまずにはいられなかった。「チョコレートの欲しい様な、あどけない幼児が、どうして罪もない大人を、しかも二人まで殺すことが出来たのでしょう。お菓子と殺人との対照が余り滑稽じゃありませんか。この犯罪に現われた極度の残忍性、綿密な用意、すばらしい機智、犯行のすぐれた正確さなどを、どうしてそんな小さな子供に求めることが出来ましょう。あなたのお考えは余りうがち過ぎた邪推ではないでしょうか」
「それは、子供自身がこの殺人の計画者であったと考えるから変なのです。この犯罪は勿論子供の考え出したことではなく、その背後に別の意志がひそんでいる。本当の悪魔が隠れている。子供はただ、よく仕込まれた自動機械に過ぎないのです。何という奇抜な、併し身の毛もよ立つ思いつきでしょう。十歳の子供が下手人だとは、誰も気がつかぬし、仮令分った所で大人の様な刑罰を受けることはない。丁度、かっ払いの親分が、いたいけな少年を手先に使うのと、同じ思いつきを極度に押拡めたものと云えましょう。それに子供だからこそ、花瓶の中へ隠して安全に担ぎ出すことも出来たし、用心深い深山木氏を油断させることも出来たのです。いくら教え込まれたにしろ、チョコレートに執着する様な無邪気な子供に、果して人が殺されるかと云うかも知れぬが、児童研究者は、子供というものは、案外にも、大人に比べて非常に残忍性を持っていることを知っています。かえる生皮なまかわをはいだり、蛇を半殺しにして喜ぶのは大人の同感し得ない子供特有の趣味です。そして、この殺生には全然何の理由もないのです。進化論者の解説に従うと子供は、人類の原始時代を象徴していて、大人より野蛮で残忍なものです。そういう子供を、自動殺人機械に選んだ蔭の犯人の悪智恵には実に驚くじゃありませんか。君は十歳やそこいらの子供を、如何いかに訓練したところで、か程まで巧みな殺人者に仕上げることは不可能だと考えているかも知れない。なる程、非常に難しいことです。子供は全く物音を立てぬ様に縁の下をくぐり、上げ板から初代さんの部屋に忍込み、相手が叫び声を立てる暇もない程手早く、しかも正確に彼女の心臓を刺し、再び、道具屋に戻って、一晩中、花瓶の中で、窮屈な思いに耐えなければならなかった。又海岸では、三人の見知らぬ子供と戯れながら、その子供等に少しも気づかれぬ間に、砂の中の深山木氏を刺殺さしころさなければならなかった。十歳の子供に、果してこの難事が為しとげられたであろうか。又、仮令為しとげたにしても、あとで誰にも悟られぬ様に、固く秘密を守ることが出来たであろうか。と考えるのは一応尤もです。しかし、それは常識に過ぎません。訓練というものがどれ程偉い力を持っているか、この世にはどんな常識以上の奇怪事が存在するかを知らぬ人の言草です。支那しなの曲芸師は五六歳の子供に、股の間から首を出す程もそり返る術を教え込むことが、出来るではありませんか。チャリネの軽業師かるわざしは、十歳に足らぬ幼児に、三丈も高い空中で、鳥の様に撞木とまりぎから撞木へ渡る術を教え込むことが出来るではありませんか。ここに一人の極悪人がいて、あらゆる手段をつくしたならば、十歳の子供だって、殺人の奥義おうぎ会得えとくしないと、どうして断言することが出来ましょう。又嘘をつくことだって同じです。通行人の同情を惹く為に、乞食に傭われた幼児おさなごが、どんなに巧みにひもじさを装い、側に立っている大人乞食を、さも自分の親であるかの如くに装うことが出来るか。君はあの驚くべき幼年者の技巧を見たことがありますか。子供というものは、訓練の与え方によっては、決して大人にひけをとるものではないのですよ」
 諸戸の説明を聞くと、成程もっともだとは思うけれど、私は無心の子供に血みどろな殺人罪を犯させたという、この許すべからざる極悪非道を、にわかに信じたくはなかった。何かまだ抗弁の余地があり相に思われて仕方がないのだ。私は悪夢から逃れようともがく人の様に、当てもなく部屋中を見廻した。諸戸が口をつぐむと、俄にシーンとしてしまった。比較的賑かな所に住みなれた私には、その部屋が異様な別世界みたいに思われ、暑いので窓は少しずつ開けてあったけれど、風が全くないので、外の闇夜が、何か真黒な、厚さの知れぬ壁の様に感じられるのであった。
 私は問題の花瓶に目を注いだ。これと同じ花瓶の中に、少年殺人鬼が、一晩の間身をかくしていたのかと想像すると、何ともいえぬいやな暗い感じに襲われた。同時に、何とかして諸戸のこのいまわしい想像を打破る方法はないものかと考えた。そして、じっと花瓶を眺めている内に、私はふとある事柄に気づいた。私は俄に元気な声で反対した。
「この花瓶の大きさと、海岸で見た四人の子供の背丈とを比べて見ると、どうも無理ですよ。二尺四五寸の壺の中へ、三尺以上の子供が隠れるということは、不可能です。中でしゃがむとしては、幅が狭すぎるし、第一この小さな口から、いくら痩せた子供にもしろ、一寸這入れ相に見えぬではありませんか」
「僕も一度は同じ事を考えた。そして実際同じ年頃の子供を連れて来て、試して見さえした。すると、予想の通り、その子供にはうまく這入れなんだが、子供の身体の容積と、壺の容積とを比べて見ると、若し子供がゴムみたいに自由になる物質だとしたら、充分這入れることが確められた。ただ人間の手足や胴体が、ゴムみたいに自由に押曲げられぬ為に完全に隠れてしまうことが出来ぬのです。そして、子供が色々にやっているのを見ている内に、僕は妙なことを聯想した。それはずっと前に、誰かから聞いた話なんですが、牢破りの名人と云うものがあって、頭だけ出し入れする隙間さえあれば、身体を色々に曲げて、無論それには特別の秘術があるらしいのだが、とも角もその穴から全身抜け出すことが出来るのだ相です。そんなことが出来るものとすれば、この花瓶の口は、十歳の子供の頭よりは大きいのだし、中の容積も充分あるのだから、ある種の子供にはこの中へ隠れてしまうことも、全く不可能ではあるまいと考えた。では、どんな種類の子供にそれが出来るかと云うと、直ちに聯想するのは、小さい時から毎日酢を飲ませられて、身体の節々が、水母くらげみたいに自由自在になっている、軽業師の子供です。軽業師と云えば、妙にこの事件と一致する曲芸がある。それはね、足芸で、足の上に大きな壺をのせ、その中へ子供を入れて、クルクル廻す芸当です。見たことがありましょう。あの壺の中へ這入る子供は、壺の中で、色々に身体を曲げて、まるでまりみたいにまんまるになってしまう。腰の所から二つに折れて、両膝の間へ頭を入れている。あんな芸当の出来る子供なら、この花瓶の中へ隠れることも、さして困難ではあるまい。ひょっとしたら、犯人は、丁度そんな子供があったので、この花瓶のトリックを考えついたのかもしれない。僕はそこへ気づいたもんだから、友達に軽業の非常に好きな男があるので、早速聞会ききあわせて見ると、丁度鶯谷の近くに曲馬団がかかっていて、そこで同じ足芸もやっていることが分った」
 そこまで聞くと、私は悟る所があった。この会話の初めの方で、諸戸が子供の客があると云ったのは、多分その曲馬団の少年軽業師であって、私がいつか鶯谷で諸戸を見たのは、彼がその子供の顔を見極める為に行っていたのだということである。
「で、僕はすぐその曲馬団を見物に行って見た所が、足芸の子供が、どうやら鎌倉の海岸にいた四人の内の一人らしく思われる。ハッキリした記憶がないので断定は出来ぬけれど、兎も角この子供を調べて見なければならないと思った。目的の子供が東京にいたと云うのは、あの四人の内で一人丈け東京から海水浴に来ていた子供のあったことと一致する訳ですからね。だが、うっかり手出しをしては、相手に要心させて、真の犯人を逃がして了うおそれがあるので、非常に迂遠うえんな方法だけれど、僕は自分の職業を利用して、子供だけを外へつれ出すことを考えた。つまり、医学者として軽業師の子供の畸形的に発育した生理状態を調べるのだから、一晩してくれと申込んだのです。それには、興行界に勢力のある親分を抱き込んだり、座主ざしゅに多分のお礼をしたり、子供には例の好物のチョコレートを沢山買ってやる約束をしたり、仲々骨が折れたのですが」と諸戸は云いながら、窓際の小卓テーブルにのせてあった紙包みを開いて見せたが、その中にはチョコレートの美しい罐や紙函が三つも四つも這入っていた。「やっと今晩その目的を果して、軽業少年を単独でここへ引っぱって来ることが出来た。食堂にいるお客さんと云うのは、すなわちその子供なんですよ。だがさっき来たばかりで、まだ何も尋ねていない。海岸にいたと同じ子供かどうかも、ハッキリは分っていないのです。丁度さいわいだ。君と二人でこれから調べて見ようではありませんか。君ならあの時の子供の顔を見覚えているだろうから。それに、この花瓶の中へ這入れるかどうかを、実際にためして見ることも出来ますしね」
 語り終って諸戸は立ち上った。私を伴って食堂へ行く為である。諸戸の探偵談は、この世にあり相もない、まことに異様な結論に到達したのであったが、併し、私は非常に複雑でいながら、実に秩序整然たる彼の長談義ながだんぎに、すっかり堪能した形で、今は最早もはや異議を挟む元気も失せていた。私達は小さいお客さまを見る為に、椅子を離れて、廊下へと出て行った。

少年軽業師


 私は一目見て、それが、鎌倉の海岸にいた子供の一人であることを感じた。そのことを諸戸に合図すると、彼は満足らしくうなずいて、子供のそばへ腰を卸した。私も食卓をはさんで席についた。丁度その時、子供は食事を終えて書生に絵雑誌を見せて貰っていたが、私達に気がつくと、ただニヤニヤ笑って、私達の顔を眺めた。薄汚れた小倉の水兵服を着て、何か口をもぐもぐさせている。一見白痴の様に見えてその奥底に何とも云えぬ陰険な相がある。
「この子は芸名を友之助とものすけって云うのですよ。年は十二だそうだけれど発育不良で小柄だから十位とおぐらいにしか見えない。それに義務教育も受けていないのです。言葉も幼稚だし、字も知らない。ただ芸が非常にうまくて、動作がリスの様に敏捷な外は、智恵のにぶい一種の低能児ですね。併し動作や言葉に、妙に秘密的な所がある。常識はひどく欠乏しているが、その代りには、悪事にかけては普通人の及ばぬ、畸形な感覚を持っているのかも知れない。所謂先天的犯罪者タイプに属する子供かも知れないのです。今までの所、何を聞いても曖昧な返事しかしない。こちらの云うことが分らない様な顔をしているのですよ」
 諸戸は私に予備知識を与えて置いて、少年軽業師友之助の方へ向直った。
「君、この間鎌倉の海水浴へ行っていたね。あの時伯父おじさんは君のすぐ側にいたのだよ。知らなかった?」
「知らねえよ。おいら、海水浴なんか行ったことねえよ」
 友之助は、白い眼で諸戸を見上げながら、ぞんざいな返事をした。
「知らないことがあるもんか。ホラ、君達が砂の中へ埋めていた、ふとった伯父さんが殺されて、大騒ぎがあったじゃないか。知っているだろう」
「知るもんか。おいら、もう帰るよ」
 友之助は怒った様な顔をして、ピョコンと立上ると、実際帰り相な様子を示した。
「馬鹿をお云い、こんな遠い所から一人でなんか帰れやしないよ。君は道を知らないじゃないの」
「道なんか知ってらい。分らなかったら大人に聞くばかりだい。おいら、十里位歩いたことがあるんだから」
 諸戸は苦笑して、暫らく考えていたが、書生に命じて、例の花瓶とチョコレートの包みを持って来させた。
「もう少しいておくれ、伯父さんがいいものをやろう。君は何が一番好き?」
「チョコレート」
 友之助は立ったまま、まだ怒った声で、しかし正直な所を答えた。
「チョコレートだね。ここにチョコレートが沢山あるんだよ。君はこれがほしくないの。欲しくなかったら帰るがいいさ。帰ればこれが貰えないのだから」
 子供は、チョコレートの大きな包みを見ると、一瞬間さも嬉しそうな表情になったが、しかし、強情に欲しいとは云わぬ。ただ、元の椅子に腰を下して、黙って諸戸を睨んでいる。
「それ見たまえ、君は欲しいのだろう。じゃあ上げるからね、伯父さんの云うことを聞かなければ駄目だよ。一寸この花瓶を御覧。綺麗だろう。君はこれと同じ花瓶を見たことがあるね」
「ウウン」
「見たことがないって。どうも君は強情だね。じゃあ、それはあとにしよう。ところで、この花瓶と、君がいつも這入る足芸の壺とどちらが大きいと思う? この花瓶の方が小さいだろう。この中へ這入れるかい。いくら君が芸がうまくっても、まさかこの中へは這入れまいね。どうだね」
 と云っても子供が黙り込んでいるので、諸戸は更らに言葉を続けて、
「どうだね、一つやってみないかね。御褒美ごほうびをつけよう。君がその中へうまく這入れたら、チョコレートのはこを一つ上げよう。ここで食べていいんだよ。だが、気の毒だけれど、君にはとても這入れ相もないね」
「這入れらい。きっとそれを呉れるかい」
 友之助は、何と云っても子供だから、つい諸戸の術中に陥ってしまった。
 彼はいきなり七宝の花瓶に近づくと、その縁に両手をかけてヒョイと花瓶の朝顔形の口の上に飛乗った。そして、先ず片足を先に入れ、残った足は、腰の所で二つに折って、お尻の方から、クネクネと不思議な巧みさで、花瓶の中へ這入って行った。頭が隠れてしまっても、さし上げた両手が、暫く宙にもがいていたが、やがてそれも見えなくなった。実に不思議な芸当であった。上から覗いて見ると、子供の黒い頭が、内側から栓の様に、花瓶の口一杯に見えている。
「うまいうまい。もういいよ。じゃあ御褒美を上げるから出ておいで」
 出るのは、這入るよりも難しいと見えて、少し手間取った。頭と肩は難なく抜けたけれど、這入る時と同じ様に、足を折り曲げて、お尻を抜くのに、一番骨が折れた。友之助は花瓶を出てしまうと、一寸得意らしく微笑して、下へ下りたが、別に褒美を催促するでもなく、やっぱり押黙ったまま、ジロジロと私達の顔を眺めて突立っている。
「じゃ、これを上げるよ。構わないからおたべなさい」
 諸戸がチョコレートの紙函に入ったのを渡すと、子供はそれを引ったくる様にして、無遠慮にふたを開き、一箇の銀紙をはがして、口にほうり込んだ。そして、さもおいし相に、ペタペタ云わせながら、目では、諸戸の手に残っている、一番美しい罐入りの分を、残念そうに眺めている。彼の貰ったのが、粗末な紙函入りなのを、甚だ不服に思っているのだ。これらの様子によっても、チョコレートやその容器に対して、彼が誠に並々ならぬ魅力を感じていたことが分る。
 諸戸は彼を膝の上にかけさせて[#「かけさせて」は底本では「かけさけて」]、頭を撫でてやりながら、
「おいしいかい。君はいい子だね。だが、そのチョコレートはそんなに上等のではないのだよ。この金色の罐に入った奴は、それの十倍も美しくって、おいしいのだよ。ホラこの罐の綺麗なことを御覧。まるでお陽様みたいに、キラキラ輝いているじゃないか。今度は君にこれを上げるよ。だが、君が本当のことを云わなければ駄目だ。私の尋ねることに本当のことを云わなければ、上げることは出来ない。分ったかい」
 諸戸は丁度催眠術者が暗示を与える時の様に、一語一語力を入れながら、子供に言い聞かせた。友之助は、驚く程の早さで、次から次と銀紙をはがしては、チョコレートを口に運ぶのが忙しくて、諸戸の膝から逃げようともせず、夢中で肯いている。
「この花瓶はいつかの晩、巣鴨の古道具屋にあったのと、形も模様も同じでしょう。君は忘れはしないね。その晩にこの中へ隠れていて、真夜中時分、そっとそこから抜け出し、縁の下を通ってお隣の家へ行ったことを。そこで君は何をしたんだっけな。よく寝ている人の胸の所へ、短刀を突きさしたんだね。ホラ、忘れたかい。その人の枕下まくらもとに、やっぱり美しい罐入りのチョコレートがあったじゃないか。そいつを君は持って来たじゃあないか。あの時君が突きさしたのは、どんな人だったか覚えているかい。さあ答えて御覧」
「美しい姉やだったよ。おいら、その人の顔を忘れちゃいけないて、おどかされたんだ」
「感心感心、そういう風に答えるものだよ。それから、君はさっき鎌倉の海岸なんか行ったことがないと云ったけれど、あれは嘘だね。砂の中の伯父さんの胸へも、短刀をつき刺したんだね」
 友之助は相変らず、たべることで夢中になっていて、この問に対しても無心に頷いたが、突然、何事かに気づいたていで、非常な恐怖の表情を示した。そして、いきなり、たべかけのチョコレートの函を投げ出すと、諸戸の膝をとびのこうとした。
わがることはないよ。僕達も君の親方の仲間なんだから、本当のことを云ったって、大丈夫だよ」諸戸は慌ててそれを止めながら云った。
「親方じゃない、『おとっつぁん』だぜ。お前も『お父つぁん』の仲間なんかい。おいら、『お父つぁん』が怖わくってしようがねえんだ。内密ないしょにしといとくれよ。ね」
「心配しないだって、大丈夫だよ。さあ、もう一つ丈けでいい、伯父さんの尋ねることに答えておくれ。その『お父つぁん』は今どこにいるんだね。そして、名前は何とかいったね。君は忘れちまったんじゃあるまいね」
「馬鹿云ってら。『お父つぁん』の名前を忘れるもんか」
「じゃ云って御覧。何といったっけな。伯父さんは胴忘どうわすれしてしまったんだよ。さあ云って御覧。ホラ、そうすれば、このお陽さまの様に美しいチョコレートの罐がお前のものになるんだよ」
 この子供に対して、チョコレートの罐は、まるで魔法みたいな作用をした。彼は、丁度大人達が莫大な黄金の前には、凡ての危険を顧みないのと同じに、このチョコレートの罐の魅力に、何事をも忘れてしまう様に見えた。彼は今にも諸戸に答えそうな様子を示した。その刹那、異様な物音がしたかと思うと、諸戸は「アッ」と叫んで、子供をつき離して飛びのいた。変てこな、あり相もない事が起ったのだ。次の瞬間には、友之助はそこの絨氈の上に転っていた。白い水兵服の胸の所が、赤インキをこぼした様に、真赤に染まっていた。
「蓑浦君危い。ピストルだ」
 諸戸は叫んで、私をつき飛ばす様に、部屋の隅へ押しやった。だが用心した第二弾は発射されなかった。たっぷり一分間、私達は黙ったまま、ぼんやりと立ちつくしていた。
 何者かが、開いてあった窓の外の暗闇から、少年を沈黙させる為に発砲したのである。云うまでもなく友之助の告白によって危険を感じる者の仕業であろう。ひょっとしたら、友之助の所謂「お父つぁん」であったかも知れない。
「警察へ知らせよう」
 諸戸はそこへ気がつくと、いきなり部屋を飛出して行ったが、やがて彼の書斎から、附近の警察署を呼び出す電話の声が聞えて来た。
 それを聞きながら、私は元の場所に立ちつくして、ふとさっきここへ来る時見かけた、無気味な、腰の所で二つに折れた様な老人の姿を思い出していた。

乃木将軍の秘密


 何者かは知らねど、相手がとび道具を持っていて、しかもそれが単なるおどかしでないことが分っていたものだから、私達は犯人を追跡するどころか、私も書生も婆やも、青くなってその部屋を逃げ出し、期せずして警察へ電話をかけている諸戸の書斎へ集ってしまった。
 併し諸戸丈けは、比較的勇敢であって、電話をかけ終ると、玄関の方へ走って行って、大声で書生の名を呼び、提灯ちょうちんをつけてこいと命じた。そうなると、私もじっとしている訳にも行かず、書生を手伝って、提灯を二つ用意し、已に門の外へかけ出している諸戸のあとを追ったが、闇夜の為見通しがつかぬので、犯人がどちらへ逃げ去ったのか、全く分らない。それから、若しやまだ庭内に潜伏しているのではないかと、提灯をたよりに、ザッと探して見たが、どこの茂みの蔭にも、建物の窪みにも、人の姿を見出すことは出来なかった。無論犯人は、私達が電話をかけたり提灯をつけたり、ぐずぐず手間取っていたに、遠く逃去ったものに相違ないのだ。私達は手をつかねて、巡査の来着を待つ外はなかった。
 暫くすると管轄の警察署から数名の警官が駈けつけて呉れたが、田舎道を徒歩でやって来たので、大分時間が経過していて、ただちに犯人を追跡する見込みは立たなんだ。近くの電車の駅へ電話をかけて手配するにしても、もうおそ過ぎた。
 第一に到着した人達が、友之助の死体を調べたり、庭内を念入りに捜索したりしている間に、やがて、裁判所や警視庁からも人が来て、私達は色々と質問を受けた。止むなく凡ての事情を打開けると、其筋そのすじをさしおいて、要らぬおせっかいをするものでないと、ひどく叱りつけられたばかりか、其後度々呼出しを受けて、何人もの人に同じ答えを繰り返さねばならなかった。云うまでもなく、私達の陳述によって、警察を通じて、鶯谷の曲馬団に変事が伝えられ、そこから死体引取りの人がやって来たが、曲馬団の方では、この事件の犯人については全く心当りがないとのことであった。
 諸戸は例の異様な推理――少年軽業師友之助が、二つの事件の下手人だという推理を、警察の人達にも、一応物語らねばならぬ羽目となったものだから、警察では一応は曲馬団にも手入れをして、厳重に取調べを行った模様であるが、座員には一人として疑わしい者もなく、やがて曲馬団が鶯谷の興行を打上げて、地方へ廻って行ってしまうと同時に、この曲馬団に対する疑いも、そのまま立消えとなった様子であった。又、警察は、私の陳述によって、八十位に見える例の怪老人のことも知ったのであるが、その様な老人は、如何程いかほど探索しても、発見することが出来なかった。
 十歳のいたいけな少年が二度も殺人罪を犯したり、八十歳のよぼよぼの老翁が、最新式のブローニングを発射して、その十歳の少年を殺したなどというかんがえは、余りに荒唐無稽こうとうむけいつ幻想的であった為か、常識に富む其筋の人々の満足を買うことが出来なかった様である。それには、諸戸が、帝国大学の卒業生ではあったけれど、官途かんとにもつかず、開業もせず、奇怪千万な研究に没頭していたからでもあろうし、又、私はといえば、恋に狂った文学青年みたいな男だったものだから、警察では、私達を、一種の妄想狂――復讐や犯罪探偵に夢中になった変り者――という風に解釈したらしく、邪推かも知れぬけれど、諸戸のかの条理整然たる推理をも、妄想狂の幻として、真面目には聞いてくれなかった様に思われた。(十歳やそこいらの子供の、チョコレートに引かされての自白などは、警察ではまるで問題にしなかった)つまり、警察は警察自身の解釈によって、この事件の犯人を探したらしいのだが、併し、結局これという容疑者さえもあがらず、そのままに一日一日と日がたって行くのであった。
 曲馬団からは、損害賠償という様な意味で、多額の香奠こうでんをまき上げられるし、警察からはひどく叱られた上に、探偵狂扱いにされるし、諸戸はこの事件にかかり合ったばっかりに、散々な目に会わされたのであるが、併し、彼はその為に元気を失う様なことはなく、却って一層熱心を増したかに見えた。
 のみならず警察が幻想的な諸戸の説を信じなかったと同じ程度に、諸戸の方でもかかる事件に対しては余りにも実際的過ぎる警察の人々を度外視しているらしく思われた。その証拠には、私はその後、深山木幸吉の受取った脅迫状に記されてあった「品物」の事、それを深山木が私に送るといったこと、送って来たのは意外にも一箇の鼻かけの乃木将軍であったことなどを、諸戸に打開けたのだが、諸戸は取調べの時それについて一言いちごんも陳述せず、私にも云ってはならぬと注意を与えた程である。つまり、この一聯の事件を、彼自身の力で、徹底的に調べ上げようとしているらしく見えた。
 当時の私の心持というと、初代殺しの犯人に対する復讐の念は、当初と少しも変らなんだが、一方では事件が次々と、複雑化し、予想外に大きなものになって行くのを茫然見守っている形であった。殺人事件が一つずつ重なって行くに従って、真相が分って来るどころか、反対に益々不可解なものになって行くのを、余りのことに、空恐ろしくさえ感じていた。
 又諸戸道雄の思いがけぬ熱心さも、私にとっては理解しがたき一つの謎であった。先にも一寸述べたことであるが、彼が如何に私を愛していたからと云って、又探偵ということに興味を持っていたからと云って、これ程迄熱心になれるものではなく、それには何かもっと別の理由があったのではないかと疑われさえしたのである。
 それは兎も角、少年惨殺事件があってから数日というものは、私達の周囲もゴタゴタしていたし、正体の分らぬ敵に対する恐れに、私達の心も騒いでいたので、無論私は度々諸戸を訪問してはいたのだけれど、ゆっくり善後策を相談する程、お互に落ちついた気持になれなかった。私達が次にるべき手段について語り合ったのは、そんな訳で、友之助が殺されてから数日も経過した時分であった。
 其日も私は会社を休んで(事件以来、会社の方は殆どお留守になっていた)諸戸の家を訪ねたのであるが、私達が書斎で話し合っていた時、彼は大体次の様な意見を述べたのであった。
「警察の方では、どの程度まで進んでいるのか知らぬが、余り信頼出来相もないね。この事件は、僕の考えでは、警察の常識以上のものだと思う。警察は警察のやり方で進むがいいし、僕達は僕達で一つ研究して見ようじゃないか。友之助が真犯人の傀儡かいらいに過ぎなんだ様に、友之助を射った曲者も同じ傀儡の一人かも知れない。元兇は遠いもやの中に全く姿を隠している。だから、漫然と元兇を尋ねたところで多分無駄骨むだぼねに終るだろう。それよりも、近道は、この三つの殺人事件の裏には、どんな動機が潜んでいるか。何がこの犯罪の原因となったか。ということを確めることだと思う。君の話によると、深山木氏が殺される前受取った脅迫状に、『品物』を渡せという文句があった。恐らく犯人にとっては、この『品物』が、何人なんびとの命に換えても大切なものであって、それを手に入れる為に今度の事件が起ったと見るべきであろう。初代さんを殺したのも、深山木さんを殺したのも、君の部屋へ何者かが忍込んで、家探しをしたらしいのも、凡てこの『品物』の為だよ。友之助を殺したのは、無論元兇の名前を知られない為だ。ところで、その『品物』は仕合せと今我々の手に這入っている。鼻かけの乃木将軍にどれ程の値打があるのか、全く分らぬけれど、兎も角彼等の『品物』というのは、その乃木将軍の石膏せっこう像に違いないらしい。だから、我々はさしずめ、この変てこな石膏像を調べて見なくてはなるまいね。この『品物』については警察は何も知らないのだから、僕等は非常な手柄を立てることが出来ぬものでもない。それについてね、僕のうちや君の家は、もう敵に知られていて危険だから、別に人知れず僕等の探偵本部を作る必要がある。実はその為に、僕は神田かんだのある所に、ちゃんと部屋を借りて置いたよ。明日、君は例の石膏像を、古新聞に包んで、つまらない品の様に見せかけ、用心の為車に乗って、そこの家へ来てくれ給え。僕は先に行って待っているから、そこでゆっくり石膏像を調べて見ようじゃないか」
 私は云うまでもなく、この諸戸の意見に同意して、その翌日打合わせた時間に、自動車を傭って、神田の教えられた家へ行った。それは神保町じんぼうちょう近くの学生町の、飲食店のゴタゴタと軒を並べた、曲りくねった細い抜け裏の様な所にある、一軒のみすぼらしいレストランで、二階の六畳が貸間になっていたのを諸戸が借り受けたものであった。私が急な梯子はしごあがって行くと、大きな雨漏りのあとのついた壁を背にして、赤茶けた畳の上に、いつになく和服姿の諸戸が、ちゃんと坐って待っていた。
「汚い家ですね」
 と云って私が顔をしかめると、
わざとこんな家を選んだのさ、下は西洋料理屋だから、出入ではいりが人目につかぬし、このゴタゴタした学生町なら、一寸気がつくまいと思ってね」
 諸戸はさも得意らしく云った。
 私はふと、小学生の時分によくやった探偵遊戯というものを思い出した。それは普通の泥棒ごっこではなくて、友達と二人で、手帳と鉛筆を持って、深夜、さも秘密らしく近くの町々を忍び歩き、軒並の表札を書留めて廻り、何まちの何軒目には、何という人が住んでいるということをそらんじて、何か非常な秘密を握った気になってよろこんでいたものである。その時の相棒の友達というのが、馬鹿にそんな秘密がかったことが好きで、探偵遊びをするにも、彼の小さな書斎を探偵本部と名づけて、得意がっていたのだが、今諸戸がこの様な所謂「探偵本部」を作って得意がっているのを見ると、三十歳の諸戸が、当時の秘密好きな変り者の少年みたいに思われ、私達のやっていることが子供らしい遊戯の様にも感じられるのであった。
 そして、そんな真剣の場合であったにも拘らず、私は何だか愉快になって来た。諸戸を見ると、彼の顔にも、どうやら浮き浮きとした、子供らしい興奮が現われている。若い私達の心の片隅には、確かに秘密を喜び、冒険を楽しむ気持があったのだ。それに、諸戸と私との間柄は、単に友達という言葉では云い表わせない種類のものであった。諸戸は私に対して不思議な恋愛を感じていたし、私の方でも、無論その気持を本当には理解出来なかったけれど、頭丈けでは分っていた。そして、それが普通の場合の様に、ひどくいやな感じではなかった。彼と相対あいたいしていると、彼か私かどちらかが、異性ででもある様な、一種甘ったるいにおいを感じた。ひょっとすると、その匂が、私達二人の探偵事務を一層愉快にしたのかも知れないのである。
 それは兎も角、諸戸はそこで、例の石膏像を私から受取って、暫く熱心に検べていたが、雑作もなく、謎を解いてしまった。
「僕は石膏像そのものには、何の意味もないことを、予め知っていた。何故と云って、初代さんは、こんなものを持っていなかったけれど、殺されたのだからね。初代さんが殺された時盗まれたのは、チョコレートを別にすれば、手提袋丈けだが、手提げの中へこの石膏像は這入らない。とすると、何かもっと小さなものだ。小さなものなれば、石膏像の中へ封じこむことが出来るからね。ドイルの小説に『六個のナポレオン像』というのがある。ナポレオンの石膏像の中へ宝石を隠す話だ。深山木さんは、きっとこの小説を思出して、例の『品物』を隠すのに応用したものだよ。ホラ、ナポレオン、乃木将軍、非常に聯想的じゃないか。で、今検べて見るとね。汚れているので目立たぬけれど、この石膏は確かに一度二つに割って、又石膏で継ぎ合わせたものだよ。ここの所に、その新しい石膏の細い線が見えている」
 云いながら、諸戸は石膏のある個所を、指先に唾をつけて、擦って見せたが、なる程その下に継目つぎめがある。
って見よう」
 諸戸は、そう云ったかと思うと、いきなり石膏像を柱にぶっつけた。乃木将軍の顔が、無惨にもこなごなになってしまった。

弥陀みだ利益りやく


 さて、こわれた石膏像の中には、綿が一杯詰っていたが、綿を取りのけると、二冊の本が出て来た。その一つは、思いもかけぬ木崎初代の実家の系図帳で、嘗つて彼女が私に預け、思い出して見ると、私が最初深山木を訪ねた時、彼に渡したままになっていたものである。もう一つは、古い雑記帳様のもので、殆ど全頁、鉛筆書きの文字で埋まっていた。それが如何に不思議千万な記録であったかは追々に説明する。
「アア、これが例の系図帳だね。僕の想像していた通りだ」諸戸はその系図帳の方を手に取って叫んだ。
「この系図帳こそ曲者なんだ、賊が命がけで手に入れようとした『品物』なんだ。それはね、今までのことをよく考えて見れば分ることなんだよ。先ず最初、初代さんが手提袋を盗まれた。尤も当時すでに系図帳は君の手に渡っていたけれど、その以前には初代さんはこれをいつも手提げに入れて側から離さなんだというのだから、賊はその手提げさえ奪えばいいと思ったのだよ。ところが、それが無駄骨に終ったので、今度は君に目をつけたが君は偶然にも賊の手出しをする前に、深山木氏に系図帳を渡してしまった。深山木氏がそれを持ってどこかへ旅行をした。そして、恐らく有力な手掛りを掴むことが出来た。間もなく例の脅迫状が来て、深山木氏は殺されたのだが、今度も又、当の系図帳は已にこの石膏像の中に封じて君の手に返っていたので、賊は空しく深山木氏の書斎をかき乱したに過ぎなかった。それで再び君が狙われることになった。だが、賊も石膏像とは気づかぬものだから、君の部屋を度々探しはしたけれど、遂に目的を果さなんだ。おかしいことに、賊はいつもあとへあとへと廻っていたのだよ。という順序を想像すると、賊の命がけで狙っていたものは、確かにこの系図帳なんだよ」
「それで思い当ることがありますよ」私は驚いて云った。「初代さんがね、僕に話したことがあります。近所の古本屋が、いくら高くてもいいから、その系図帳を譲ってくれと、度々申込んだ相です。そんなつまらない系図帳に大した値打がある訳はないのですから、考えて見ると、古本屋は恐らく賊に頼まれたのですね。古本屋に尋ねたら、賊の正体が分るのじゃないでしょうか」
「そんなことがあったとすると、愈々いよいよ僕の想像が当る訳だが、併し、あれ程の考え深い奴だから、古本屋にだって、決して正体を掴まれちゃいまいよ。先ず古本屋を手先に使って、穏かに系図帳を買い取ろうとした。それが駄目と分ると、今度はひそかに盗み出そうとした。君がいつか話したね、初代さんが例の怪しい老人を見た頃、初代さんの書斎の物の位置が変っていたって。それが盗み出そうとした証拠だよ。だが、系図帳はいつも初代さんが肌身離さず持って歩くことが分ったものだから、次には……」
 諸戸はそこまで云って、ハッと何事かに気づいた様子で、真青になった。そして、黙り込んで、大きく開いた目でじっと空間を見つめた。
「どうかしたの?」
 と私が尋ねても、彼は返事もしないで、長い間押黙っていたが、やがて、気をとり直して、何気なく話の結末をつけた。
「次には……とうとう初代さんを殺してしまった」
 だが、それは何か奥歯に物のはさまった様な、ハキハキしない云い方であった。私は、その時の、諸戸の異様な表情をいつまでも忘れることが出来なかった。
「ですが、僕には、少し分らない所がありますよ。初代にしろ、深山木さんにしろ、何故殺さなければならなかったのでしょう。殺人罪まで犯さなくても、うまく系図帳を盗み出す方法があったでしょう」
「それは、今の所僕にも分らない。多分別に殺さねばならぬ事情があったのでしょう。そういう所に、この事件の単純なものでないことが現われている。だが、空論はよして、実物を検べて見ようじゃないか」
 そこで、私達は二冊の書き物を検べたのだが、系図帳の方は、嘗つて私も見て知っている様に、何の変りとてもない普通の系図帳に過ぎなかったけれど、もう一冊の雑記帳の内容は、実に異様な記事に満たされていた。私達は一度読みかけたら、余りの不思議さに、中途で止すことが出来ない程、引いれられて、最初にその雑記帳の方を読んでしまったのだが、記述の便宜上、その方はあと廻しにして、先ず系図帳の秘密について書き記すことにしよう。
「封建時代の昔なら知らぬこと、系図帳などが、命がけで盗み出す程大切なものだとは思えない。とすると、これには、表面に現われた系図帳としての外に、もっと別の意味があるのかも知れぬ」
 諸戸は、一枚一枚念入りに、ページをめくりながら云った。
「九代、春延はるのぶ、幼名又四郎またしろう享和きょうわ三年家督かとくたまわる二百こく文政ぶんせい十二年三月二十一日ぼつ、か。この前はちぎれていて分らない。藩主はんしゅの名も初めの方に書いてあったのだろうが、あとは略して禄高ろくたか丈けになっている。二百石の微禄じゃ、姓名が分ったところで、何藩の臣下だか容易に調べはつくまいね。こんな小身者の系図に、どうしてそんな値打があるのかしら。遺産相続にしたって、別に系図の必要もあるまいし、仮令必要があったところで、盗み出すというのは変だからね。盗まないまでも、系図が証拠になることなら、堂々と表だって要求出来る訳だから」
「変だな。ごらんなさい。この表紙の所が、態とはがしたみたいになっている」
 私はふと、それに気附いた。先に初代から受取った時には、確かに完全な表紙だったのが、苦心をしてはがした様に、表面の古風な織物と、芯の厚紙とが別々になって、めくって見ると、織物の裏打ちをした何かの反古ほごの、黒々とした文字さえ現われて来た。
「そうだね。確かに態々わざわざはがしたんだ。無論深山木氏がしたことだ。とすると、これには何か意味がなくてはならないね。深山木氏は何もかも見通していたらしいのだから、無意味にこれをはがす筈はない」
 私は何気なく、裏打ちの反古の文字を読んで見た。すると、その文句がどうやら異様に感じられたので、諸戸にそこを見せた。
「これは何の文句でしょうね。和讃わさんかしら」
「おかしいね。和讃の一部分でもなし、まさかこの時分お筆先でもあるまいし。物ありげな文句だね」
 で、文句というのは、次の様に誠に奇怪なものであった。
神と仏がおうたなら
たつみの鬼をうちやぶり
弥陀みだ利益りやくをさぐるべし
六道ろくどうつじに迷うなよ
「何だか辻褄つじつまの合わぬまずい文句だし、書風もお家流まがいの下手な手だね。昔の余り教養のないお爺さんでも書いたものだろう。だが、神と仏が会ったり、巽の鬼を打やぶったり、何となく意味ありげでさっぱり分らないね。併し、云うまでもなく、この変な文句が曲者だよ。深山木氏が、態々はがして検べた程だからね」
「呪文みたいですね」
「そう、呪文の様でもあるが、僕は暗号文じゃないかと思うよ。命がけで欲しがる程値打のある暗号文だね。若しそうだとすると、この変な文句に、莫大な金銭的価値がなくてはならぬ。金銭的価値のある暗号文と云えば、すぐ思いつくのは、例の宝の隠し場所を暗示したものだが、そう思ってこの文句を読んで見ると、『弥陀の利益を探るべし』とあるのが、何となく『宝のありかを探せ』という意味らしくも取れるじゃないか。隠された金銀財宝は、如何にも弥陀の利益に相違ないからね」
「アア、そう云えばそうも取れますね」
 えたいの知れぬ蔭の人物が(それはかの八十以上にも見える怪老人であろうか)あらゆる犠牲を払って、この表紙裏の反古を手に入れようとしている。それは反古の文句が宝の隠し場所を暗示しているからだ。それをどうかして嗅ぎつけたのだ。とすると、事件は非常に面白くなって来る。我々にこの古風な暗号文が解けさえすれば、ポオの小説の「黄金虫」の主人公の様に、たちまちにして百万長者になれるかも知れないのだ。
 だが、私達はそこで随分考えて見たのだが、「弥陀の利益」が財宝を暗示することは想像し得ても、あとの三行の文句は、全く分らない。その土地なり、現場の地形なりに、大体通じている人でなくては、全然解き得ないものかも知れぬ。とすると、私達はその土地を全く知らないのだから、この暗号文は、(仮令暗号だったとしても)永久に解くすべがない訳である。
 だがこれが果して、諸戸の想像した様に、宝のありかを示す暗号だったであろうか。それは余りにも浪漫的ロマンチックな、虫のいい空想ではなかったか。

人外境便り


 さて私は、奇妙な雑記帳の内容を語る順序となった。系図帳の秘密が、若し諸戸の想像した通りだとすれば、むしろ景気のよい華やかなものであったに反して、雑記帳の方は誠に不思議で、陰気で薄気味の悪い代物であった。我々の想像を絶した、人外境の便りであった。
 その記録は今も私の手文庫の底に残っているので、肝要な部分部分をここに複写して置くが、部分部分と云っても、相当長いものになるかも知れない。だが、この不思議な記録こそ、私の物語の中心をなす所の、ある重大な事実を語るものなのだから、読者には我慢をしても読んで貰わねばならぬ。
 それは一種異様な告白文であって、こまかい鉛筆書きの、仮名や当て字沢山の、ひどい田舎訛いなかなまりのある、文章そのものが、已に一種異様な感じを与えるものであったが、読者の読み易い為に、文章に手を入れて訛りを東京言葉に直し、仮名や当て字は、正しい漢字に書き換えて、写して置いた。文中の括弧や句読点も全部私が書入れたものである。

 歌の師匠にねだって、内しょで、この帳面とエンピツを持って来てもらいました。遠くの方の国では、誰でも、心に思ったことを、字に書いて楽しんでいるらしいですから、私も(半分の方の私ですよ)書いて見ようと思うのです。
 不幸(これは近頃覚えた字ですが)ということが、私にもよくよく分って来ました。本当に不幸という字が使えるのは、私だけだと思います。遠くの方に世界とか日本とかいうものがあって、誰でもその中に住んでいるそうですが、私は生れてから、その世界や日本というものを見たことがありません。これは不幸という字に、よくよくあてはまると思います。私は、不幸というものに、辛抱し切れぬ様に思われて来ました。本に『神様助けてください』という言葉が、よく書いてありますが、私はまだ神様という物を見たことがありませんけれど、やっぱり『神様助けて下さい』と云いたいのです。そうすると、いくらか胸が楽になるのです。
 私は悲しい心が話したいです。けれども、話す人がありません。ここへ来る人は、私よりもずっと年の多い、毎日歌を教えに来る助八すけはちさんという、この人は自分のことを「おじじ」と云っています。おじいさんです。それから、物の云えない、(唖というのです)三度ずつ、御飯を運んでくれるおとしさんと、(この人は四十歳です)二人丈けで、おとしさんは駄目にきまっているし、助八さんもあんまり物を云わない人で、私が何か聞くと、目をしょぼしょぼさせて、涙ぐんでばかりいますから、話しても仕方がありません。その外には自分丈けです。自分でも話せるけれど、自分では気が合わないので、云い合いをしている程、腹が立って来ます。もう一つの顔がぜこの顔と違っているのか、なぜ別々の考え方をするのか、悲しくなるばかりです。
 助八さんは、私を十七歳だと申します。十七歳とは、生れてから、十七年たったことですから、私はきっと、この四角な壁の中に十七年住んでいたのでしょう。助八さんが来るたんびに、日を教えて下さいますから、一年の長さは少し分りますが、それが十七年です。随分悲しい長い間です。その間のことを、思い出し思い出し書いて見ようと思います。そうすれば私の不幸がみんな書けるに違いないのです。
 子供は母の乳を呑んで大きくなるものだそうですが、私は悲しいことに、その時分のことを少しも覚えていないのです。母というのは女のやさしい人だということですが、私には母というものが、少しも考えられません。母と似たもので、父というのがあることも知ってますが、父の方は、あれがそうだとすると二三度ったことがあります。その人は、「わしはお前のお父つぁんだよ」と申しました。怖い顔の片輪者でした。
〔註、ここにある片輪者とは、普通の意味の片輪者にあらず。読進むに従い判明すべし〕
 私が一番初めに覚えているのは、今から考えると、四歳か五歳の時のことでしょうと思います。それより前は、真暗で分りません。その時分から私は、この四角な壁の中に居りました。厚い壁で出来た戸の外へは、一度も出たことがありません。その厚い戸は、いつでも外から錠がかけてあって、押しても叩いても動きません。
 私の住んでいる四角な壁の中のことを、一度よく書いて置きましょう。長さの計り方をハッキリ知りませんから、私の身体の長さを元にして云いますと、四方の壁はどれでもおよそ私の身体の長さを四つ位にした程あります。高さは私の身体を二つ重ねた程です。天井には板が張ってあって、助八さんに聞くと、その上に土をのせて、かわらが並べてあるのだそうです。その瓦のはしの方は窓から見えて居ります。
 今私の坐っている所には畳が十枚敷いてあって、その下は板になって居ります。板の下には、もう一つ四角い所があります。梯子を降りて行くのです。そこも広さは上と同じですが、畳がなくて、色々な形の箱がゴロゴロところがっています。私の着物を入れた箪笥たんすもあります。お手水ちょうずもあります。この二つの四角な所を部屋とも云い、ドゾウ(土蔵)とも云う様です。助八さんは時々クラとも云っています。
 クラにはさっきの壁の戸のほかに、上に二つと下に二つの窓があります。皆私の身体の半分位の大きさで、太い鉄の棒が五本ずつはめてあります。それだから、窓から外へ出ることは出来ません。
 畳の敷いてある方には、隅に蒲団が積んであるのと、私のおもちゃを入れた箱があるのと、(今その箱のふたの上で書いて居ります)壁の釘に三味線しゃみせんがかけてある丈けで、外にはなんにもありません。
 私はその中で大きくなりました。世界というものも、人の沢山かたまって歩いている町というものも、一度も見たことがありません。町の方は本の絵で見たきりです。でも山と海は知って居ります。窓から見えるのです。山は土が高く重なった様なものですし、海は青くなったり白く光ったりする真直ぐな長いものです。それがすっかり水なのだそうです。みんな助八さんに教えてもらいました。
 四歳か五歳かの時を思い出して見ますと、今よりはよっぽど楽しかった様に思われます。何も知らなんだからでしょう。その時分には、助八さんやおとしさんはいないで、おくみというお婆さんがいました。皆片輪者です。この人がひょっとしたら母ではないかと、よく考えて見ますが、乳もなかったし、どうもそんな気がしません。ちっともやさしい人ではなかった様です。でもあまり小さい時分だったので、よく分りません。顔や身体の形も知りません。あとで名前を聞いて覚えている位です。
 その人が時々私を遊ばせてくれました。お菓子やご飯もたべさせてくれました。物を云うことも教えてくれました。私は毎日、壁をつたわって歩き廻ったり、蒲団の上によじ登ったり、おもちゃの石や貝や木切れで遊んだりして、よくキャッキャと笑っていた様に覚えて居ります。アア、あの時分はよかった。何ぜ私はこんなに大きくなったのでしょう。そして、色々なことを知ってしまったのでしょう。
(中略)
 おとしさんが、何だか怒った様な顔をして、今お膳を持って降りて行った所です。お腹が一杯の時は、きっちゃんがおとなしいので、この間に書きましょう。吉ちゃんと云ってもよその人ではないのです。私の一つの名前なのです。
 書き始めてから五日いつかになります。字も知らないし、こんなに長く書くのは初めてですから、なかなかはかどりません。一枚書くのに一日かかることもあります。
 今日は、私が初めてびっくりした時のことを書きましょう。
 私やほかの人達は、みんな人間というもので、魚や虫や鼠などとは別の生きたものであって、みんな同じ形をしているものだということを、長い間知りませんでした。人間には色々な形があるのだと思い込んで居りました。それは、私が沢山の人間を見たことがないものだから、そんな間違った考えになったのです。
 七歳位の時だと思います。その時分まで、私はおくみさんとおくみさんの次に来る様になったおよねさんの外には人間を見たことがなかったものですから、あの時およねさんが、難儀をして私の巾の広い身体を抱き上げて、鉄棒てつのぼうのはまった高い窓から、外の広い原っぱを見せてくれた時、そこを一人の人間が歩いて行くのを見て、私はアッとびっくりしてしまったのです。それまでにも、原っぱを見たことは度々ありましたが、人間が通るのは一度も見ませんからです。
 およねさんは、きっと「馬鹿」という片輪だったのでしょう。何にも私に教えてくれなんだものですから、その時まで、私は、人間のきまった形を、ハッキリ知らなんだのです。
 原っぱを歩いている人は、およねさんと、同じ形をして居りました。そして、私の身体は、その人とも、およねさんとも、まるで違うのです。私は怖くなりました。
「あの人や、およねさんは、どうして顔が一つしかないの」と云って私がたずねますと、およねさんは「アハハハハ知らねえよ」と云いました。
 その時は、なんにも分らずにしまいましたが、私は怖くって仕様がないのです。寝ている時、一つしか顔のない、妙な形の人間が、ウジャウジャと現われて来るのです。夢ばっかり見ているのです。
 片輪という言葉を覚えたのは、助八さんに歌を習う様になってからです。十歳位の時です。「馬鹿」のおよねさんが来なくなって、今のおとしさんに代って間もなく、私は歌や三味線を習い始めたのです。
 おとしさんが物を云わないし、私が云っても聞えないらしいので、妙だ妙だと思っていますと、助八さんが、あれは唖という片輪者だと教えてくれました。片輪者というのは、あたりまえの人間と違う所のあるものだと教えてくれました。
 それで、私が「そんなら、助八さんも、およねさんも、おとしさんも、みんな片輪じゃないか」と、云いますと、助八さんはびっくりした様な大きな目で私を睨みつけましたが、「アアひでちゃんや吉ちゃんは気の毒だね。何にも知らなかったのか」と云いました。
 今では、私は三冊本をもらって、その小さな字の本を、何べんも何べんも読みました。助八さんはあまり物を云いませんけれど、それでも長い間には色々なことを教えて下さいましたし、この本は助八さんの十倍も又色々のことを教えて下さいました。それでほかのことは知りませんが、本に書いてあることはハッキリ知って居ります。その本には沢山人間や何かの絵もかいてありました。それですから、人間というもののあたり前の形も今では分りますが、その時は妙に思うばかりでした。
 考えて見ますと、私もずっと小さい時から、何だか妙に思っていたことはいたのです。私には二つの、違った形の顔があって、一つの方は美しくて、一つの方は汚いのです。そして、美しい方は、私の思う通りになって、物を云うことでも、心に思った通りに云うのですが、汚い方のは、私が少しも心に思わないことを、うっかりしている時に、喋り出すのです。止めさせようとしても、少しも私の思う通りにならないのです。
 くやしくなって、引掻ひっかいてやりますと、その顔が、怖い顔になって、呶鳴どなったり、泣きだしたりします。私は少しも悲しくないのに、ポロポロ涙をこぼしたりします。そのくせ、私が悲しくて泣いている時でも、汚い方の顔は、ゲラゲラ笑っていることがあります。
 思う通りにならないのは、顔ばかりでなくて、二本の手と二本の足もそうです。(私には四本の手と四本の足があります)私の思う通りになるのは右の方の二本ずつの手足だけで、左の方のは、私にさからってばかりいます。
 私は考えることが出来る様になってから、ずっと、何かしばりつけられている様な、思う様にならない気持ばかりしていました。それはこの汚い顔と、云う事を聞かぬ手足があったからです。だんだん言葉が分る様になってからは、私に二つ名前のあること、美しい顔の方が秀ちゃんで、汚い顔の方が吉ちゃんだということが、どうしても妙で仕方がなかったのです。
 その訳が、助八さんに教えてもらって、ようよう分りました。助八さん達が片輪ではなくて、私の方が片輪だったのです。
 不幸という字は、まだ知らなんだけれど、本当に不幸という心になったのは、その時からです。私は悲しくて悲しくて、助八さんの前でワーワー泣きました。
「可哀相に、泣くんじゃないよ。わしはね、歌の外は何も教えてはならんと、言いつけられているので、詳しいことは云えぬが、お前達はよくよく悪い月日のもとに生れ合わせたんだよ。ふたごと云ってね。お前達はお母さんの腹の中で、二人の子供が一つにくっついてしまって、生れて来たんだよ。だが、切り離すと死んでしまうから、そのままで育てられたのだよ」
 助八さんがそう云いました。私はお母さんの腹の中ということが、よく分らないので、尋ねましたが、助八さんは、黙って涙ぐんでいるばかりで、何も云わないのです。私は今でも、お母さんの腹の中の言葉をよく覚えていますが、その訳は教えてくれないので、少しも知りません。
 片輪者というのは、ひどく人に嫌われるものに違いありません。助八さんとおとしさんの外には、きっとその外にも人がいるのですが、誰も私の側へ来てくれません。そして私もそとへ出られないのです。そんなに嫌われる位なら、いっそ死んだ方がいいと思います。死ぬということは、助八さんは教えてくれませんけれど、本で読みました。辛抱出来ない程痛いことをすれば、死ぬのだと思います。
 向うで、そんなに私を嫌うなら、こちらでも嫌ってやれ憎んでやれというかんがえが、つい近頃出来て来ました。それで、私は、近頃は、私と違った形の、あたり前の人を、心の内で片輪者と云ってやります。書く時にもそう書いてやります。

のこぎりと鏡


〔註、この間に幼年時代の思出おもいで数々記しあれど略す〕
 助八さんは、よいお爺さんだと云うことがだんだん分って来ました。けれども、よいお爺さんではありますけれども、誰か外の人から(ひょっとしたら神さまかも知れません。それでなければ、あの怖い「お父つぁん」かも知れません)やさしくしてはならんと、いいつけられているのだということが、よくよく分って来ました。
 私は(秀ちゃんも吉ちゃんも)話がしたくて仕様がないのに、助八さんは歌を教えてしまうと、私が悲しんでも、知らん顔をして行ってしまいます。長い間ですから、時々話をすることもありますが、少し少し喋ると、何か目に見えないものが、口をふさぎに来た様に、黙ってしまいます。「馬鹿」のおよねさんの方が、よっぽど沢山喋りました。けれども、私の聞き度いことは、少ししか云いませなんだ[#「云いませなんだ」は底本では「言いませなんだ」]
 字や物の名や、人間の心のことを覚えたのは、たいがい助八さんに教えてもらったのですが、助八さんは「わしは学問がないのでいかぬ」と申されましたから、字も沢山は教えてもらいません。
 ある時助八さんが三冊本を持って上って来て、「こんな本がわしの行李こうりの中に残っていたから、絵でも見るがいい。わしにも読めぬから、お前にはとても字を読むことは出来ないけれど、わしが色々な話をすると、ひどい目に合わされるから、この本を読めなくても、読んでいる間には、お前のよい話相手になるだろうから」と云って、三冊の本を下さいました。
 本の名は「子供世界」と「太陽」と「思出の記」です。表紙に大きな字で書いてありますから、本の名だと思います。「子供世界」というのは面白い、絵の沢山ある本で、一番よく読めました。「太陽」は色々なことが並べて書いてあります。半分位は今でもむずかしくて分りません。「思出の記」というのも、悲しい楽しい本です。度々読むと、この本が一番好きになりました。それでも沢山分らない所があります。助八さんに尋ねても、分ることも、分らぬこともあります。
 絵も、字で書いてあることも、遠い遠い所の、まるで私とは違ったことばかりですから、分る所でも本当に分っているのではありません。夢みたいに思えるばかりです。それから、遠い所にある世界には、もっともっと、私の知っている百倍も、色々な物や考え方や字などがあるのだそうですが、私は三冊の本と、助八さんの少しの話丈けしか知りませんから、「子供世界」に書いてある太郎という子供でさえ知っていることで、私の少しも知らない様なことが、沢山沢山あるでしょうと思います。世界では、学校というものがあって、小さい子供にでも沢山沢山教えて下さるのだそうですから。
 本を貰いましたのは、助八さんが来る様になってから、二年位あとでしたから、私の十二位の年かも知れません。けれども、貰ってから二年か三年は、読んでも読んでも、分らぬことばかりでした。助八さんに訳をたずねても、教えて下さる時は少しで、あとはたいがいおとしさんの唖みたいに、返事をしなさいませんでした。
 本が少し読める様になったのと、本当に悲しい心が分る様になったのと、同じでした。片輪というものが、どの位悲しいものかということが、一日ずつ、ハッキリハッキリ分って来ました。
 私が書いているのは、秀ちゃんの方の心です。吉ちゃんの心は、私の思っている様に別々なものとすると、秀ちゃんには分りません。書いているのは、秀ちゃんの方の手なのですから。けれども、壁の向うの音が聞える位には吉ちゃんの心も分ります。
 私の心は、吉ちゃんの方が、秀ちゃんよりも、よっぽど片輪です。吉ちゃんは本も秀ちゃんの様に読めませんし、お話をしても、秀ちゃんの知っていることを、沢山知りません。吉ちゃんは力だけ強いのです。
 それですけれども、吉ちゃんの心も、私が片輪者だということを、ハッキリハッキリ知って居ります。吉ちゃんと秀ちゃんは、そのことを話しする間は、喧嘩をしません。悲しいことばかり話します。
 一番悲しかったことを書きます。
 ある時御飯のおかずに、知らぬおさかながついて居りましたので、あとで助八さんにお肴の名を聞きましたら、章魚たこと申しました。章魚というのは、どんな形ですかと尋ねますと、足の八つあるいやな形の魚だと申しました。
 そうすると、私は人間よりも章魚に似ているのだと思いました。私は手足が八つあります。章魚の頭は幾つあるか知りませんが、私は頭の二つある章魚の様なものです。
 それから章魚の夢ばかり見ました。本当の章魚の形を知りませんものですから、小さい私の様な形のものだと思って、その形の夢を見ました。その形のものが、沢山沢山、海の水の中を歩いている夢を見ました。
 それから少しして、私の身体を二つに切ることを考え始めました。よくしらべて見ますと、私の身体の右の方の半分は、顔も手も足も腹も秀ちゃんの思う様になりますが、左の半分は顔も手も足も少しも秀ちゃんの思う様になりません。左の方には、吉ちゃんの心が這入っているからだと思います。それですから、身体を半分に切ってしまったら、一人の私が、二人の別々の人間になれると思いました。助八さんとおとしさんの様に、別々の秀ちゃんと吉ちゃんになって、勝手に動いたり、考えたり、眠ったり出来ると思いました。そうなれたらどんなに嬉しいでしょうと思いました。
 秀ちゃんと吉ちゃんを別の人間としますと、秀ちゃんのお尻の左側と、吉ちゃんのお尻の右側とが、一つになってしまっているのです。そこを切ればちょうど二人の人間になれます。
 ある時、秀ちゃんが吉ちゃんに、この考えを話しましたら、吉ちゃんも喜んでそうしようと申しました。けれども、切る物がありません。のこぎりとか庖丁ほうちょうとかいうものを知って居りますが、まだ見たことがありません。そうすると、吉ちゃんが、喰いついて切ろうと申しました。秀ちゃんが、そんなことは出来ませんと云うのに、吉ちゃんは、えらい力で喰いつきましたが、私はキャッと云って、大きな声でなき出しました。秀ちゃんの顔も、吉ちゃんの顔も、一っしょに泣き出しました。それで、吉ちゃんは一ぺんだけでこりてしまいました。
 一ぺんこりても、又片輪者のことを思い出したり、喧嘩をしたりして、悲しくなりますと、又切ろうと思いました。ある時、助八さんにのこぎりを持って来て下さいと申しましたら、助八さんは、何をするのかと聞きましたから、私を二つに切ると申しましたら、助八さんはびっくりして、そんなことをしたら死んでしまうと申しました。死んでもいいからと云って、ワアワア泣いて頼んでも、どうしても聞いて下さいませんでした。
(中略)
 本がよく読める様になった時分に、私は(秀ちゃんの方です)お化粧という言葉を覚えました。「子供世界」の絵の女の子の様に、身体や着物を美くしくすることと思いましたので、助八さんに聞きますと、頭の髪を結んだり、おしろいという粉をつけることだと申しました。
 それを持って来て下さいと申しますと、助八さんは笑いました。そして、可愛想にお前もやっぱり女の子だからなあと申しました。又、けれども、風呂に這入ったことがない様では、おしろいなんてつけられぬと申しました。
 私は風呂というものを聞いて知って居りましたけれど、見たことがありません。一月ひとつきに一度位、おとしさんが(それも内しょだということですが)たらいにお湯を入れて、下の板敷きへ持って来て下さいますので、私はそのお湯で身体を洗うばかりです。
 助八さんはお化粧するには、鏡というものが要ることも教えて下さいましたが、助八さんは鏡を持っていないから、見せて貰うことは出来ませなんだ。
 けれども、私があんまり頼むものですから、助八さんは、これでも鏡の代りになるからと云って、ガラスというものを持って来て下さいました。それを壁に立てて覗いて見ますと、水に映るよりも、よっぽどハッキリと、私の顔が見えました。
 秀ちゃんの顔は、「子供世界」の絵の女の子よりも、ずっと汚いけれども、吉ちゃんよりは、よっぽど綺麗ですし、助八さんや、おとしさんや、およねさんよりも、よっぽど綺麗です。それですから、ガラスを見てから、秀ちゃんは大層嬉しくなりました。顔を洗って、おしろいをつけて、髪を綺麗に結んだら、絵の女の子位になれるかも知れんと思いました。
 おしろいはなかったけれど、朝水で顔を洗う時、一生懸命にこすって、顔を綺麗にしようと思いました。頭の髪も、ガラスを見て、自分で考えて、絵に書いてある様な風に結ぶことを習いました。初めは下手でしたけれど、だんだん髪の形が絵に似て来るようになりました。私が髪を結んでいる時に唖のおとしさんが来ると、おとしさんも手伝って下さいました。秀ちゃんがだんだん綺麗になって行くのが、嬉しくて嬉しくて仕様がありませなんだ。
 吉ちゃんは、ガラスを見ることも、綺麗になることも好きでないものですから、秀ちゃんの邪魔ばかりしましたが、それでも時々「秀ちゃんは綺麗だなあ」と云って、ほめました。
 けれども、綺麗になる程、秀ちゃんは、前よりももっと片輪者が悲しくなりました。いくら秀ちゃんだけ綺麗にしても、半分の吉ちゃんが汚いし、身体の巾があたり前の人の倍もありますし、着物も汚いし、秀ちゃんの顔だけ綺麗にしても、悲しくなるばかりです。それでも、吉ちゃんの顔だけでも、綺麗にしようと思って、秀ちゃんが水でこすったり、髪を結んだりしてやりますと、吉ちゃんは怒り出すのです。何という分らない吉ちゃんでしょうか。
(中略)

恐ろしき恋


 秀ちゃんと吉ちゃんの心のことを書きます。
 前に書いたように、秀ちゃんと吉ちゃんは、身体は一つです。心は二つです。切り離してしまえば、別々の人間になれる程です。私は、だんだん色々なことが分って来たものですから、今までの様に、両方とも自分だと思うことが少しになって、秀ちゃんと吉ちゃんは、本当は別々の人間だけれど、ただお尻の所でくっついている丈けですと思う様になって来ました。
 それで、主に秀ちゃんの心の方を書きますが、その心を隠さずに書くと、吉ちゃんの方が怒るにきまって居ります。吉ちゃんは、字が秀ちゃんの様に読めませんから、少しはいいけれど、それでもこの頃は疑い深いから心配です。それで、秀ちゃんは、吉ちゃんが眠っている間に、そっと身体を曲げて、内しょで書くことにしました。
 先ず初めから書きます。小さい時分は、片輪ですから、思うようにならないものですから、それが腹が立って、我儘わがままを云い合って、喧嘩ばかりして居りましたが、心が苦しかったり悲しかったりすることはありませなんだ。
 片輪ということが、ハッキリ分ってからは、喧嘩をしても今までのように、ひどい喧嘩はしませなんだ。それでも、だんだん違った、心の苦しいことが出来て来ました。秀ちゃんは、片輪というものが汚くて憎いと思いました。それですから自分が汚くて憎いのです。そして、一番一番汚くて憎いのは、吉ちゃんです。吉ちゃんの顔や身体が、いつでもいつでも、秀ちゃんの横にちゃんとくいついているかと思うと、いやでいやで、憎らしくて憎らしくて、何ともいえない気持になりました。吉ちゃんの方でも同じでしょうと思います。それで、ひどい喧嘩はしません代りに、心の中では、今までの何倍も喧嘩をして居りました。
(中略)
 私の身体の半分ずつが、どこやら違っていることを、ハッキリ心に思うようになったのは、一年位前からです。たらいで身体を洗う時に、一番よく分りました。吉ちゃんの方は、顔が汚いし、手も足も力が強くてゴツゴツしています。色も黒いのです。秀ちゃんの方は色が白くて、手や足が柔かいし、二つの丸い乳…………………………………………………
 吉ちゃんの方が「男」で、秀ちゃんの方が「女」ということは、ずっと前から助八さんに聞いて知っていましたが、その訳が一年位前から、分りかけて来ましたのです。「思出の記」の今まで分らなんだ所が、沢山分って来る様に思われました。
〔註、所謂暹羅シャムの兄弟に類する癒合双体ゆごうそうたいの生存を保ちし例は、間々ままなきにあらねど、この記事の主人公の如きは、医学上甚だかいし難き点あり。賢明なる読者は、已にある秘密を推し給いしならん〕
 二人の人間のくっついた片輪だものですから、私は一日に五度も六度も、あたり前の人の倍も梯子はしごをおりて、(中略)
 そのうちに、秀ちゃんの方に今までと違ったことが起って来ました。(中略)私はびっくりして、死ぬのではないかと思って、ワーワー泣き出しました。助八さんが来て、訳を云って下さるまでは、心配でしっかりと吉ちゃんの首にしがみついて居りました。
 吉ちゃんの方にも、もっともっと違ったことが起って来ました。吉ちゃんの声が太くなって、助八さんの声の様になって来たのもそうですが、吉ちゃんの心がひどく変って来たのです。
 吉ちゃんは手の指でも、力は強いけれど、細かいことは出来ません。三味線でも、秀ちゃんみたいに、かんどころがよく分りませんし、歌でも、声が大きいばかりで、ふしが妙です。その訳は、吉ちゃんの心があらくて、細かいことが、よく分らないためでしょうと思います。それですから、秀ちゃんがとおものを考える間に、吉ちゃんは一つ位しか考えられません。その代りに、考えたことを、すぐ喋ったり、手でやったりいたします。
 吉ちゃんはある時「秀ちゃんは、今でも別々の人間になりたいか。ここの所を切り離したいか。吉ちゃんは、もうそんなことはしたくないよ。こんな風にくっついている方が、よっぽど嬉しいよ」と申しました。そして、涙ぐんで、赤い顔をいたしました。
 なぜか知りませんが、その時秀ちゃんも顔があつくなって来ました。そして、今まで一度も知らなんだ様な、妙な妙な気持がしました。
 吉ちゃんは、少しも秀ちゃんをいじめぬ様になりました。ガラスの前でお化粧する時にも、朝、顔を洗う時にも、夜蒲団を敷く時にも、少しも邪魔をしませんで、お手伝いをいたしました。何かすることは、みんな「吉ちゃんがするからいいよ」と申して、秀ちゃんが楽な様に楽な様にといたしました。
 秀ちゃんが、三味線を弾いて、歌を歌って居りますと、吉ちゃんは、今までの様に、あばれたり呶鳴ったりしませんで、じっとして、秀ちゃんの口の動くのを、見つめて居りました。秀ちゃんが髪を結ぶ時でも、同じでした。そして、うるさい程、「吉ちゃんは秀ちゃんが好きだよ。本当に好きだよ。秀ちゃんも吉ちゃんが好きだろう」と、いつもいつも申しました。
 今まででも、左側の吉ちゃんの手や足が、右側の秀ちゃんの身体に触ることは沢山ありましたが、同じ触るのでも、違った触り方をする様になりました。ゴツゴツと触るのではありませんが、虫が這っている様に、ソッと撫でたり、掴んだりいたします。それですけれども、そこの所が熱くなって、トントンと血の音が分るのです。
 秀ちゃんは、夜びっくりして、眼をさますことがあります。暖い生きものが、身体中を這い廻っている様な気持がして、ゾッとして眼を醒すのです。夜はまっ暗で分りませんから、「吉ちゃん起きていたの」と聞きますと、吉ちゃんは、じっとしてしまって、返事もいたしません。左側に寝ている吉ちゃんの、いきや血の音が、肉をつたわって、秀ちゃんの身体に響いてくるばかりです。
 ある晩、寝ている時、吉ちゃんがひどいことをいたしました。秀ちゃんは、それから、吉ちゃんが嫌いで嫌いで仕様がない様になりました。殺してしまい度い位嫌いになりました。
 秀ちゃんは、その時寝ていていきがつまりそうになって、死んでしまうのではないかと思って、びっくりして眼を醒しました。そうしますと、吉ちゃんの顔が秀ちゃんの顔の上に重なって、吉ちゃんの唇が秀ちゃんの唇をおさえつけて、いきが出来ぬ様になっていたのです。けれども、吉ちゃんと秀ちゃんとは、腰の横の所でくっついて居りますので、身体を重ねることが出来ません。顔を重ねるのでも、よっぽどむずかしいのです。それを、吉ちゃんは、骨が折れてしまう程、身体をねじまげて、一生懸命に顔を重ねて居りました。秀ちゃんの胸が横の方からひどく押されるのと、腰の所の肉が、ちぎれる程引ぱっているので、死ぬ程苦しいのです。秀ちゃんは「いやだいやだ吉ちゃん嫌いだ」と申して、めちゃくちゃに、吉ちゃんの顔を引掻きました。それでも、吉ちゃんは、いつもの様に、喧嘩をしませんで、黙って顔をはなして寝てしまいました。
 朝になりますと、吉ちゃんの顔が傷だらけになっていましたが、それでも吉ちゃんは怒りませんで、一日悲しい顔をして居りました。(中略)
〔註、この不具者は羞恥を知らざるが故に、以下露骨なる記事多ければ、凡て略しつ〕
 私一人丈けで勝手に寝たり起きたり考えたり出来たら、どんなに気持がいいでしょうと、あたり前の人間を羨ましく羨ましく思いました。
 せめて、本を読む時と、字を書く時と、窓から海の方を見ている時丈けでも、吉ちゃんの身体が離れてほしいと思いました。いつでもいつでも、吉ちゃんのいやな血の音が響いていますし、吉ちゃんのにおいがしていますし、身体を動かすたんびに、ああ私は悲しい片輪者だと思い出すのです。此頃このごろでは、吉ちゃんのギラギラした目が、顔の横から、いつでも秀ちゃんを見て居ります。鼻いきの音がうるさく聞えますし、怖いような匂がしますし、私はいやでいやでたまりません。
 ある時吉ちゃんが、オンオン泣きながら、こんなことを申しました。それで、私は少し吉ちゃんが可愛想になりました。
「吉ちゃんは秀ちゃんが好きで好きでたまらんのに、秀ちゃんは吉ちゃんが嫌いだもの、どうしよう、どうしよう。いくら嫌われても、離れることは出来んし、離れなんだら、秀ちゃんの綺麗な顔やいい匂がいつでもしているし」と申して泣きました。
 吉ちゃんは、しまいに無茶苦茶になって、私がいくらいやいやと申しても、力ずくで、秀ちゃんを抱きしめようといたしますが、身体が横にくっついているものですから、どうしても思う様になりません。それで私はいい気味だと思いますが、吉ちゃんはよっぽど腹が立つと見えて、顔に一杯汗を出して、ギャアギャア呶鳴どなって居ります。
 それですから、よく考えて見ますと、秀ちゃんも吉ちゃんも、同じ様に、片輪者を悲しく悲しく思って居るのです。
 吉ちゃんの一番いやなことを二つ書きます。吉ちゃんは此頃毎日位………………………癖になりました。見るのが胸がむかむかする位いですから、見えぬ様にして居りますが、吉ちゃんのいやな匂や無茶苦茶な動き方が伝わって来ますので、死ぬ位いやに思います。
 又、吉ちゃんは、力が強いものですから、いつでも好きな時に、力ずくで、吉ちゃんの顔と秀ちゃんの顔と重ねて、秀ちゃんが泣出そうとしても、口を押えて声の出ぬ様にいたします。吉ちゃんのギラギラする大きな目が、秀ちゃんの目にくっついてしまって、鼻も口もいきが出来ぬ様になって、死ぬ程苦しいのです。
 それですから、秀ちゃんは、毎日毎日、泣いてばっかり居ります。(中略)

奇妙な通信


 毎日一枚か二枚ほか書けませんので、書き始めてから、もう一月ひとつき位になりました。夏になりましたので、汗が流れて仕方がありません。
 こんなに長く書くのは生れてから始めてですし、思い出すことや、考えることが下手ですからずっと前のことや近頃のことが、あべこべになってしまいます。
 これから、私の住んでいる土蔵が、牢屋ろうやというものに似ていることを書きます。
「子供世界」の本の中に、悪いことをせぬ人が、牢屋というものに入れられて、悲しい思いをすることが書いてありました。牢屋というものはどんなものか知りませんが、私の住んでいる土蔵と似ている様に思いました。
 あたり前の子供は、父や母と同じ所に住んで、一しょに御飯をたべたり、お話をしたり、遊んだりするものではないかと思いました。「子供世界」にそのような絵が沢山書いてありました。これは遠い所にある世界だけのことでしょうか。私にも父や母があるなら、同じ様に、楽しく一しょに住むことが出来るのではありませんでしょうか。
 助八さんは、父や母のことを聞いても、ハッキリ教えて下さいません。怖い「お父つぁん」に逢わせて下さいとたのんでも、逢わせて下さいません。
 男と女ということが、ハッキリ分らない前には、吉ちゃんと、よくこのことをお話いたしました。私はいやな片輪者ですから、父も母も、私を嫌って、こんな土蔵の中へ入れて、私の形が、ほかの人に見えぬ様になさったのかも知れません。それでも、目の見えぬ片輪者や、唖の片輪者が、父や母と一しょに住んでいることが、本に書いてあります。父や母は、片輪者の子供は、あたり前の子供よりも、可哀想ですから、大層大層やさしくして下さいますことが、書いてあります。なぜ私だけはそうして下さいませんのでしょうか。助八さんにたずねましたら、助八さんは涙ぐんで「お前の運が悪いのだよ」と申しました。外のことは少しも教えて下さいませなんだ。
 土蔵のそとへ出たい心は、秀ちゃんも吉ちゃんも同じでしたが、土蔵の厚い壁の様な戸を、手が痛くなる程叩いたり、助八さんやおとしさんの出る時に、一しょに出るといって、あばれ廻るのは、いつでも吉ちゃんの方でした。そうすると、助八さんは、吉ちゃんの頬をひどく叩いて、私を柱にしばりつけてしまいました。その上に、外へ出ようと思って、あばれた時には、御飯が一ぺんだけたべられないのです。
 それで、私は助八さんやおとしさんに内しょで、外へ出ることを、一生懸命に考えました。吉ちゃんとそのことばかり相談いたしました。
 ある時、私は窓の鉄の棒をはずすことを考えました。棒のはまっている、白い土を掘って、鉄棒をはずそうとしたのです。吉ちゃんと、秀ちゃんと、代り番こに、指の先から血が出る程、長い間土を掘りました。そして、とうとう一本の棒の片方かたっぽう丈けはずしてしまいましたが、すぐ助八さんに見つかって、一日ご飯がたべられませんでした。
(中略)
 どうしても、こうしても、土蔵の外へ出ることは出来ないと、思ってしまいましたら、悲しくて、悲しくて、暫くの間は、私は毎日毎日、背のびをして、窓の外ばかり見て居りました。
 海はいつもの様に、キラキラと光って居りました。原っぱには、何もなくて、風が草を動かして居りました。海の音がドウドウと、悲しく聞えて居りました。あの海の向うに世界があるのかと思いますと、鳥の様に飛んで行けたらいいでしょうと思いました。けれども、私みたいな片輪者が、世界へ行きましたら、どんな目に合わされるか知れないと思いますと、怖くなりました。
 海の向うの方に、青い山の様なものが見えて居ります。助八さんがいつか、「あれは岬というもので、ちょうど牛が寝ている形だ」と申しました。牛の絵は見たことがありますが、牛が寝たらあんな形になるのかしらんと思いました。又、あの岬という山が、世界の端っこか知らんと思いました。遠くの遠くの方を、いつまでもじっと見ていますと、目がぼうっとかすんで来て、知らぬ間に涙が流れています。
(中略)
 父も母もなく、牢屋の様な土蔵におしこめられて、生れてから一度も、外の広い所へ出たことがないという「不幸」だけでも、悲しくて悲しくて、死んでしまいたい程ですのに、近頃では、その外に、吉ちゃんがいやないやなことをしますので、時々、吉ちゃんを絞め殺してやろうかと思うことがあります。吉ちゃんが死ねば、きっと秀ちゃんも一しょに死んでしまいますでしょうから。
 ある時、本当に吉ちゃんの首をしめて、吉ちゃんが死に相になったことがありますから、そのことを書きます。
 ある晩寝ています時、吉ちゃんが、百足むかでが半分にちぎられた時の様に、本当に、無茶苦茶にはね廻りました。あんまりひどくあばれるので、病気になったのかと思った位です。秀ちゃんが好きで好きで仕様がないと云って、秀ちゃんの首や胸をしめつけたり、足をねじまげたり、顔を重ねたりして、無茶苦茶にもがき廻るのです。そして(中略)私はゾッとする程汚い嫌な気持がしました。そして、吉ちゃんが、憎らしくて憎らしくてたまらない様になりました。それで、私は本当に殺すつもりで、ワッと泣き出して、吉ちゃんの首を、二つの手で、グングン締めつけました。
 吉ちゃんは苦しがって、前よりもひどくあばれました。私は蒲団をはねのけてしまって、畳の上を、端から端へ転げ廻りました。四つの手と四つの足を、めちゃくちゃに、振り廻しながら、ワーワー泣きながら、転がりました。助八さんが来て、私を動かぬ様に押えてしまうまで、そうして居りました。
 そのあくる日から、吉ちゃんは、少しおとなしくなりました。
(中略)
 私はもうもう、死んでしまいたい。死んでしまいたい。神様助けて下さい。神様どうか私を殺して下さい。
(中略)
 今日、窓の外に音がしたものですから、覗いて見ますと、窓のすぐ下の塀の外に、人間が立って、窓の方を見上げて居りました。大きい、肥えた男の人間です。「子供世界」の絵にある様な、妙な着物を着て居りましたから、遠くの世界の人間かも知れないと思いました。
 私は大きな声で「お前は誰だ」と云いましたが、その人間は何も云わず、じっと私を見て居りました。何となくやさしそうな人に見えました。私は色々な事が話したいと思いましたが、吉ちゃんが怖い顔をして邪魔をしますし、大きな声を出して助八さんに聞えると大変ですから、ただその人の顔を見て笑ったばかりです。そうしますと、その人も私の顔を見て笑いました。
 その人が行ってしまうと、私はにわかに悲しくなりました。そして、どうかもう一度来て下さいと、神様にお願いしました。
 それから、私はいいことを思い出しました。若しあの人がもう一度来て下さったら、話は出来ませんけれども、遠くの世界の人間は、手紙というものを書くことが本に書いてありましたから、私は字を書いて、あの人に見せようと思いました。けれども、手紙を書くのには長い間かかりますから、この帳面をあの人のそばへ投げてやる方がいいと思いました。あの人はきっと字がよめましょうから、この帳面を拾って、私の不幸な不幸なことを知って、神様の様に助けて下さるかも知れません。
 どうかもう一度、あの人が来て下さいますように。

 雑記帳の記事は、そこでポッツリと切れていた。
 読者に解り易いために、原文の仮名違いや当て字や、どこの訛りかはしらぬけれど、ひどい田舎訛りを大体東京弁に訂正したので、原文の無気味な調子を、そのまま伝えていないかも知れぬ。読者は、一行一行当て字や仮名違いだらけで、文字も殆ど体を為さず、何か別世界の人類からの通信ででもある様な、汚い鉛筆書きの雑記帳を想像して下さればよい。
 この雑記帳を読み終った時、私達(諸戸道雄と私と)は、暫く言葉もなく、顔を見合わせていた。
 私は俗に暹羅シャムの兄弟と云われる、奇妙な双生児の話を聞いていないではなかった。暹羅兄弟と云うのは、シャン、エンという名前で、両方共男で、剣状軟骨部けんじょうなんこつぶ癒合双体ゆごうそうたいと名付ける畸形双生児であったが、そうした畸形児は、多くの場合死んで生れるか、出生後しゅっしょうご間もなく死亡するものであるのに、シャン、エンはその不思議な身体で六十三歳まで長命し、両方とも別々の女と結婚して、驚いたことには二十二人の完全な小児の父となったと云うことである。
 だが、そういう例は、世界でも珍らしい程だから、まさか吾々の国に、そんな無気味な両頭生物が存在しようとは、想像もしていなかった。しかも、それが一方は男で、一方は女で、男の方が女に執念深い愛着を感じ、女は男を死ぬ程嫌い抜いているという様な、不思議千万な状態は、悪夢の中でさえも、つて見ぬ地獄と云わねばならぬ。
「秀ちゃんという娘は実に聡明ですね。如何に熟読したといっても、たった三冊の本から得た知識で、誤字や仮名違いはあっても、これ丈けの長い感想文を書いたのですからね。この娘は詩人でさえありますね。だが、それにしても、こんなことが、果してあり得るでしょうか。罪の深いいたずら書きじゃないでしょうね」
 私は医学者諸戸の意見を聞かないではいられなかった。
「いたずら書き? いや、恐らくそうじゃあるまいよ。深山木氏がこうして大切にしていた所を見ると、これには深い意味があるに違いない。僕はふと考えたのだが、この終りの方に書いてある、窓の下へ来たという人物は、よく肥えた、洋服姿だったらしいから、深山木氏のことじゃあるまいか」
「アア、僕も一寸そんな気がしましたよ」
「そうだとすると、深山木氏が殺される前に旅行した先というのは、この双児ふたごのとじこめられている土蔵のある地方だったに相違ない。そして、土蔵の窓の下へ深山木氏が現われたのは、一度ではなかった。なぜと云って、深山木氏が二度目に窓の下へ行かなんだら、双児はこの雑記帳を窓から投げなかっただろうからね」
「そう云えば、深山木さんは、旅行から帰った時、何だか恐ろしいものを見たと云っていましたが、それはこの双児のことだったのですね」
「アア、そんなことを云っていたの? じゃ愈々いよいよそうだ。深山木氏は僕達の知らない事実を握っていたのだ。そうでなければ、こんな所へ見当をつけて、旅行をする筈がないからね」
「それにしても、この可哀想な不具者を見て、何故救出すくいだそうとしなかったのでしょう」
「それは分らないけれど、直ぐぶっつかって行くには、手強てごわい敵だと思ったかも知れぬ。それで一度帰って、準備をととのえてから、引返す積りだったかも知れぬ」
「それは、この双児をとじこめている奴のことですね」私はその時、ふとある事に気附いて、驚いて云った。「アア、不思議な一致がありますよ。死んだ軽業少年の友之助ね、あれが、『お父つぁん』に叱られるといってましたね。この雑記帳にも『お父つぁん』という言葉がある。そして、両方とも悪い奴の様だから、若しやその『お父つぁん』というのが、元兇なんじゃありますまいか。そう考えると、この双児と今度の殺人事件との聯絡がついて来ますからね」
「そうだ。君もそこへ気がついたね。だが、そればかりじゃない。この雑記帳は、よく注意して見ると、色々な事実を語っているのだよ。実に恐ろしい」諸戸は、そう云って真底から恐ろし相な表情をした。
「若し僕の想像が当っているならば、この全体の邪悪に比べては、初代さん殺しなんか、殆ど取るに足らない程の、小さな事件なんだよ。君はまだ悟っていない様だが、この双児そのものに、世界中の誰もが考えなかった程の、恐ろしい秘密が伏在しているんだよ」
 諸戸が何を考えているのか、ハッキリは分らなんだけれど、次々と現われて来る事実の奇怪さに、私は何か奥底の知れぬ不気味なものを感じないではいられなかった。諸戸は青い顔をして考え込んでいた。その様子が、彼自身の心の中を、深く深く覗き込んでいると云った感じであった。私も雑記帳をもてあそびながら、黙想に耽っていた。だが、そうしている内に、私はある驚くべき聯想にぶっつかって、ハッとして我に返った。
「諸戸さん。どうも妙ですよ。又一つ不思議な一致を思いつきましたよ。それはね。あなたにはまだ話さなかったか知らんが、初代さんがね、捨て子になる前の、二つか三つの時分の、夢の様な思出話をしたことがあるんです。何だか荒れ果てた淋しい海辺に、妙な古めかしい城みたいな邸があって、そこの断崖になった海岸で、初代さんが生れたばかりの赤ちゃんと遊んでいる景色なんです。そういう景色を夢の様に覚えているというのです。私はその時そこの景色を想像して絵に描いて初代さんに見せたところが、そっくりだというものですから、その絵を大切にしていたんですが、いつか深山木さんに見せて、そのまま忘れて来てしまったのです。でも、僕はハッキリ覚えてますから、今でも書くことが出来ますよ。ところで、不思議な一致というのは、初代さんの話では、その海の遥か向うの方に、牛の寝た形の陸地が見えていた相ですが、この雑記帳にも、土蔵の窓から海を見ると、向うに牛の寝た姿の岬があると書いてあるじゃありませんか。牛の寝た様な岬はどこにでもあるでしょうから、偶然の一致かも知れないけれど、海岸の荒れ果てた様子といい、海の形容と云い、この文章は、初代さんの話そっくりなんです。暗号文を隠した系図帳を初代さんが持っていた。それを盗もうとした賊とこの双児とは何か関係があるらしい。そして、初代さんも双児も、同じ様な牛の形の陸地を見たという。とすると、それは何となく同一の場所の様に思われるじゃありませんか」
 この私の話のなかばから、諸戸はまるで幽霊にでも出逢った人みたいな、一種異様な恐怖の表情を示したが、私が言葉を切ると、ひどくせき込んだ調子で、その海岸の景色をここで描いて見せてくれと云った。そして、私が鉛筆と手帳を出して、ザッとその想像図を描くと、それをひったくる様にして、長い間画面に見入っていたが、やがて、フラフラと立上って、帰り支度をしながら、云った。
「僕は今日は頭がメチャメチャになって、考えがまとまらぬ。もう帰る。明日あす僕の家へ来てくれ給え。今ここでは、怖くて話せないことがあるんだから」そう云い捨てて、彼は私の存在を忘れたかの如く、挨拶も残さず、ヨロヨロとよろめきながら、階段を降りて行くのであった。

北川刑事と一寸法師


 私は諸戸の異様な挙動を理解することが出来なくて、独り取残されたまま、暫くはぼんやりしていたが、諸戸は、「明日来てくれ、その時すっかり話をする」と云ったのだから、兎も角、私は一先ひとまず帰宅して明日を待つ外はなかった。
 だが、この神田の家へ来る道さえ、乃木将軍の像を古新聞などに包んで、用心に用心を重ねた位だから、その中に入っていた大切な二品を、私の自宅へ持帰るのは、非常に危険なことに相違ない。私は左程さほどにも感じぬけれど、死んだ深山木といい、諸戸といい、曲者はただこの品物を手に入れたいばっかりに、人を殺したのだと云っている。それにも拘らず、今諸戸が、この品物の処分法を指図もしないで、喪心そうしんていで立去ったというのは、よくよくの事情があったことであろう。そこで、私は色々考えた末、曲者はまさかこのレストランの二階まで感づいていないだろうと思ったので、二冊の帳面を、そこの長押なげしに懸けてあった、古い額の、表装の破れ目から、ぐっと押こんで、一寸見たのでは少しも分らぬ様にして置いて、何食わぬ顔で、そのまま自宅に立帰ったのである。(だが、この私の即興的な――内心いささか得意であった隠し場所が、決して安全なものでなかったことが、あとで分った)
 それから翌日のお昼頃、私が諸戸を訪問するまで、別段のお話もない。その間を利用して、一寸変った書き方をして、私が直接見聞したことではないけれど、ずっと後になって、本人の口から聞知った所の、北川きたがわという刑事巡査の苦心談を、ここにはさんで置くことにする。時間的にも、丁度この辺の所で、起った出来事なのだから。
 北川氏は先日の友之助殺しに関係した池袋署の刑事であったが、他の警察官達とは少しばかり違った考え方をする男であったから、この事件に対する諸戸の意見をも真に受けた程で、署長の許しを乞い、警視庁の人達さえ手を引いてしまったあとまでも、根気よく尾崎おざき曲馬団(例の鶯谷に興行していた友之助の曲馬団のこと)のあとをつけ廻して、困難な探偵を続けていた。
 その時分尾崎曲馬団は、逃げる様に鶯谷を打上げて、遠方の静岡県のある町で興行していたが、北川刑事は、殆ど曲馬団と一緒に、その地へ出張して、みすぼらしい労働者に風を変えて、もう一週間ばかりも、探索に従事していた。一週間といっても、引越しや、小屋組みで四五日もかかったので、客を呼ぶようになったのはつい二三日前であったが、北川氏は臨時傭いの人足になって、小屋組みの手伝いまでして、座員と懇意こんいになることをつとめたから、若し彼等の間に秘密があれば、とっくに知れていなければならぬ筈なのに、不思議と何の手掛りを掴むことも出来なかった。「友之助が七月五日に鎌倉へ行ったことがあるか」「その時誰が連れて行ったか」「友之助の背後に八十位の腰の曲った老人がいないか」などということを、一人一人に当って、それとなく尋ねて見たけれど、誰もかれも知らぬと答えるばかりであった。しかもその様子が決して嘘らしくはなかったのである。
 一座の道化役どうけやくに、一人の小人がいた。三十歳の癖に七八歳の少年の背丈せいで、顔ばかりが、本当の年よりもふけて見える様な、無気味な片輪者で、そんな男にあり勝ちの低能者であった。北川氏は最初この男丈けは別物にして、懇意になろうとも、物を尋ねようともしなかったが、段々日がたつにつれて、この小人は低能には相違ないけれど、仲々邪推深く、嫉妬もすれば、ある場合には、普通人も及ばぬ悪戯もする。ひょっとしたら、態と低能を装って、それを一種の保護色なり擬態なりにしているのではないかしら、ということが分って来たので、却ってこんな男に尋ねて見たら、案外何かの手掛りが掴めるかも知れぬと思う様になった。そこで、北川氏は根気よくこの小人を手なずけて、もう大丈夫と思った時分に、ある日次の様な問答を交したのだが、私がここへはさんで、記して置き度いというのは、この変てこな問答のことなのである。
 それはよく晴れた星の多い晩であったが、打出しになって、あと片づけも済んだ時分、小人は話相手もないものだから、テントの外に出て、一人ぼっちで涼んでいた。北川氏はこの好機をのがさず、彼に近寄り、暗い野天で無駄話を始めたものである。つまらぬ世間話から、深山木氏が殺された、問題の日の出来事に移って行った。北川氏はその日、鶯谷で曲馬団の客になって、見物していたといつわり、出鱈目でたらめにその時の感想などを話したあとで、こんな風に要点に入って行った。
「あの日足芸があって、友之助ね、ホラ池袋で殺された子供ね、あの子がかめの中へ入ってグルグル廻されるのを見たよ、あの子は本当に気の毒なことだったね」
「ウン、友之助かい。可哀想なはあの子でございよ、とうとうやられちゃった。ブルブルブルブル。だがね、兄貴、その日に友之助の足芸があったてえな、おまはんの思い違いだっせ。俺はこう見えても、物覚えがいいんだからな。あの日はね、友之助は小屋にいなかったのさ」
 小人はどこのなまりとも分らない言葉で、併し仲々雄弁に喋った。
「一両賭けてもいい。俺は確かに見た」
「駄目駄目、兄貴そりゃ日が違うんだぜ。七月五日は、特別の訳があって、俺ぁちゃんと覚えているんだ」
「日が違うもんか。七月の第一日曜じゃないか。お前こそ日が違うんだろ」
「駄目駄目」
 一寸法師は闇の中で、おどけた表情をしたらしかった。
「じゃあ、友之助は病気だったのかね」
「あの野郎、病気なんぞするものかね。親方の友達が来てね、どっかへ連れてかれたんだよ」
「親方って、お父つぁんのことだね。そうだろ」と北川氏は例の友之助の所謂「お父つぁん」をよく記憶していて、探りを入れたものである。
「エ、何だって?」一寸法師は突然、非常な恐怖を示した。「お前どうしてお父つぁんを知っている」
「知らなくってさ。八十ばかりの、腰の曲ったよぼよぼのお爺さんだろ。お前達の親方ってな、そのお爺さんのことさ」
「違う違う。親方はそんなおやじじゃありゃしない。腰なんぞ曲っているものか。お前見たことがないんだね。尤も小屋へは余り顔出しをしないけど、親方ってのは、こう、ひどい傴僂のまだ三十位の若い人さ」
 北川氏は、なる程傴僂だったのか、それで老人に見えたのかも知れないと思った。
「それがお父つぁんかい」
「違う違う。お父つぁんが、こんな所へ来ているものか、ずっと遠くにいらあね。親方とお父つぁんとは、別々の人なんだよ」
「別々の人だって。するとお父つぁんてのは、一体全体何者だね。お前達の何に当る人なんだね」
「何だか知らないけど、お父つぁんはお父つぁんさ。親方と同じ様な顔で、やっぱり傴僂だから、親方と親子かも知れない。だが、俺ぁ止すよ。お父つぁんのことを話しちゃいけないんだ。お前は大丈夫だと思うけど、若しお父つぁんに知れたら、俺はひどい目に合わされるからね。又箱ん中へ入れられてしまうからね」
 箱の中と聞いて、北川氏は現代の一種の拷問具ごうもんぐとも云うべき、ある箱のことを聯想したが、それは同氏の思違いで、一寸法師の所謂「箱」というのは、そんな拷問道具なんかより幾層倍も恐ろしい代物であったことが、あとで分った。それは兎に角、北川氏は相手が案外組しやすくて、段々話が佳境かきょうに入るのを、ゾクゾク嬉しがって、胸を躍らせながら、質問を進めて行った。
「で、つまり何だね。七月五日に友之助を連れてったのは、お父つぁんでなくて、親方の知合なんだね。どこへ行ったね、お前聞かなかったかね」
「友のやつ、俺と仲よしだったから、俺丈けにそっと教えてくれたよ。景色のいい海へ行って、砂遊びをしたり泳いだりしたんだって」
「鎌倉じゃないの」
「そうそう、鎌倉とかいったっけ。友のやつ親方の秘蔵っ子だったからね。ちょくちょく、いい目を見せて貰ったよ」
 ここまで聞くと、北川氏は諸戸の突飛とっぴな推理(初代殺しも、深山木氏を殺したのも、直接の下手人は友之助であったという)が、案外当っていることを、信じない訳には行かなかった。だが、迂闊うかつに手出しをするのは考え物だ。親方というのを拘引こういんして、じつを吐かせるのもいいが、それでは却って、元兇を逸する様な結果になるまいものでもない。その前に彼の背後の「お父つぁん」という人物を、もっと深く研究して置く必要がある。元兇はその「お父つぁん」の方かも知れないのだから。それに、この事件は単なる殺人罪ではなくて、もっともっと複雑な恐ろしい犯罪事件かも知れぬ。北川氏は仲々の野心家であったから、すっかり自分の手で調べ上げてしまうまで、署長にも報告しない積りであった。
「お前さっき、箱の中へ入れられるって云ったね。箱って一体何だね。そんなに恐ろしいものかい」
「ブルブルブルブル、お前達の知らない地獄だよ。人間の箱詰めを見た事があるかい。手も足もしびれちまって、俺みたいな片輪者は、みんなあの箱詰めで出来るんだよ。アハハ……」
 一寸法師は謎みたいなことを云って、気味悪く笑った。だが、彼は馬鹿ながらも、どこかに正気が残っていると見えて、いくら尋ねても、それ以上は冗談にしてしまって、ハッキリしたことを云わないのだ。
「お父つぁんが怖いんだな。意気地なし。だが、そのお父つぁんてな、どこにいるんだい。遠い所って」
「遠い所さ。俺ぁどこだか忘れちまった。海の向うの、ずっと遠い所だよ。地獄だよ。鬼ヶ島だよ。俺ぁ思い出してもゾッとするよ。ブルブルブルブル」
 という訳で、その晩は何と骨折っても、それから先へ進むことが出来なかったけれど、北川氏は自分の見込みが間違っていなかったことを確めて、大満足であった。同氏はそれから数日の間、根気よく一寸法師を手なずけ、相手が気を許して、もっと詳しい話をするのを待った。
 そうしている内に、段々「お父つぁん」という人物の、えたいの知れぬ恐ろしさが、一寸法師や友之助が、あんなに恐れおののいた訳が、北川氏にも少しずつ分って来る様な気がした。一寸法師の物の云い方が不明瞭なので、たしかな形を掴むことは出来なかったけれど、ある場合には、それは人間ではなくて、一種の不気味な獣類という感じがした。伝説の鬼というのは、こんな生物いきものをさして云ったのではないかとすら思われた。一寸法師の言葉や表情が、おぼろげに、そんな感じを物語っているのだった。
 又「箱」というものの意味も、ぼんやりと分って来る様であった。ほんの想像ではあったけれど、その想像にぶっつかった時、流石さすがの北川氏も余りの恐ろしさに、ゾッと身震いしないではいられなかった。
「俺は、生れた時から、箱の中に這入っていたんだよ。動くこともどうすることも出来ないのだよ。箱の穴から首丈け出して、ご飯をたべさせて貰ったのだよ。そしてね、箱詰めになって、船にのって、大阪へ来たんだ。大阪で箱から出たんだよ。その時俺ぁ、生れて始めて広々した所へ出されたんで、怖くって、こう縮み上ってしまったよ」
 一寸法師はある時、そう云って、短い手足を生れたばかりの赤ん坊みたいに、キューッと縮めて見せるのだった。
「だけど、これは内証だよ。お前丈けに話すんだよ。だからね、お前も内証にして置かないと、ひどい目に合わされるよ。箱詰めにされっちまうよ。箱詰めにされたって俺ぁ知らないよ」
 一寸法師は、さもさも怖わそうな表情で、附加えた。北川刑事が、おかみの威力を借りず、少しも相手に感づかせぬ穏和な方法によって、「お父つぁん」という人物の正体をつきとめ、ある島に行われていた想像を絶した犯罪事件を探り出したのは、それから更に十数じつの後であったが、それはお話が進むに従って、自然読者に分って来ることだから、ここでは、警察の方でも、こうして、特志とくしなる一刑事の苦心によって、曲馬団の方面から探偵の歩を進めていたことを読者にお知らせするに止め、北川刑事の探偵談はこれで打切り、話を元に戻して、諸戸と私との其後の行動を書き続けることにする。

諸戸道雄の告白


 神田の洋食屋の二階で、不気味な日記帳を読んだ翌日、私は約束に従って池袋の諸戸の家を訪ねた。諸戸の方でも、私を待ち受けていたと見え、書生がすぐさま例の応接間へ通した。
 諸戸は室の窓やドアすべて開けはなして、「こうして置けば立聞きも出来まい」と云いながら、席につくと、青ざめた顔をして、低い声で、次の様な奇妙な身の上話を始めたのである。
「僕の身の上は誰にも打あけたことがない。実を云うと僕自身でさえハッキリは分らない位だ。何故ハッキリ分らないかということを、君丈けに話して置こうと思う。そして、僕のある恐ろしい疑いをはらす仕事に、君にも協力して貰いたいのだ。その仕事というのは、つまり初代さんや深山木氏のかたきを探すことでもあるんだから。
 君はきっと、今まで僕の心持ちに不審を抱いていたに違いない。例えば、何故僕が今度の事件に、こんなに熱心にかかり合っているか、何故君の競争者になって、初代さんに結婚を申込んだか、(君を慕って、君達の恋をさまたげようとしたのは本当だが、併しそれ丈けの理由ではなかったのだ。もっと深い訳があったのだ)何故僕が女を嫌って男性に執着を覚える様になったか、又、僕は何が為に医学をおさめ、現にこの研究室で、どんな変てこな研究を続けているか、という様なことだ。それが、僕の身の上を話しさえすれば、凡て合点がってんが行くのだ。
 僕はどこで生れたか、誰の子だか、まるで知らない。育ててくれた人はある。学資をみついでくれた人はある。だがその人が僕の親だか何だか分らない。少くともその人が親の心で僕を愛しているとは思えない。僕が物心を覚えた時分には、紀州きしゅうのある離れ島にいた。漁師の家が二三十軒ポツリポツリ建っている様な、さびれ果てた部落で、僕のうちも、その中では、まるでお城みたいに大きかったけれど、ひどいあばら家だった。そこに、僕の父母と称する人がいたが、どう考えても本当の親とは思えない。顔もちっとも似ていないし、二人とも醜い傴僂の片輪者で、僕を愛してくれなかったばかりか、同じ家にいても広いものだから、父などとは殆ど顔を合わすこともない位だったし、それにひどく厳格で、何かすれば、必ず叱られる、むごい折檻せっかんを受けるという有様だった。
 その島には小学校がなくて、規則では、一里も離れた向岸の町の学校へ通うことになっていたけれど、誰もそこまで通学するものはなかった。僕はだから、小学教育を受けていないのだ。その代り、家に親切な爺やがいて、それが僕に「いろは」の手ほどきをしてくれた。家庭がそんなだから、僕は勉強を楽しみにして、少し字が読める様になると、家にある本を手当り次第に読んだし、町へ出るついでにはそこの本屋で色々な本を買って来て勉強した。
 十三の年に、非常な勇気を出して、怖い父親に、学校に入れてくれる様に頼んだ。父親は僕が勉強好きで、仲々頭のいいことを認めていたから、僕の切なる願いを聞くと、頭から叱ることをしないで、少し考えて見ると云った。そして、一月ばかりたつと、やっと許しが出た。だが、それには実に異様な条件がついていたのだ。先ず第一は、学校をやる位なら、東京に出て大学までみっしりと勉強すること、それには、東京の知合いに寄寓きぐうして、そこで中学校に入る準備をし、うまく入学出来たら、そのあとはずっと寄宿舎と下宿で暮すこと、というので、僕にとっては願ってもない条件だった。ちゃんと東京の知合いの松山まつやまという人に相談をして、その人から引受けるという手紙まで来ていた。第二の条件は、大学を出るまで国に帰らぬこと、というので、これは少々変に思ったけれど、そんな冷い家庭や、片輪者の両親などに未練はなかったから、僕はさして苦痛とも感じなかった。第三は学問は医学を勉強すること、なお医学のどの方面をやるかは、大学に入る時分に指図するが、若しその指図にそむいた場合は直ちに学資の送金を中止することというので、当時の僕にとっては大していやな条件ではなかった。
 だが、段々年がたつに従って、この第二第三の条件には、非常に恐ろしい意味を含んでいたことが分って来た。第二の、僕を大学を出るまで帰らせまいとしたのは、僕の家に何かしら秘密があって、大きくなった僕に、それを感づかれまい為であったに相違ないのだ。僕の家は荒れすさんだ古城の様な感じの建物で、日のささない陰気な部屋が沢山あって、何となく気味の悪い因縁話でもあり相な感じであったし、その上、幾つかの明かずの部屋というものがあって、そこにはいつも厳重に錠前がおろしてあって、中に何があるのだか少しも分らない。庭に大きな土蔵が建っていたが、これも年中あけたことがない。僕は子供心にも、この家には、何かしら恐ろしい秘密が隠されていると感じていた程であった。又、僕の家族は、親切な爺やを除くと、一人残らず片輪者だったことも、変に薄気味が悪かった。傴僂の両親の外に、召使だか居候いそうろうだか分らない様な男女が四五人もいたが、それが申合せた様に、盲人だったり、唖だったり、手足の指が二本しかない低能児だったり、立つことも出来ない、水母くらげの様な骨無しだったりした。それと今の明かずの部屋と結びつけて、僕は何とも云えない、ゾッとする様な不快な感じを抱いたものだ。僕が親の膝元へ帰れなくなるのを、寧ろ喜んだ気持が君にも分るでしょう。親の方でも、その秘密を感づかれない為に、僕を遠ざけようとしたのだ。それには、僕がそんな家庭にも似合わず、敏感な子供で、親達がおそれを為したせいもあるのだと思うがね。
 だが、もっと恐ろしいのは第三の条件だった。僕が首尾よく大学の医科に入学した時、国の父親からの云いつけだといって、以前寄寓きぐうした松山という男が僕の下宿を訪ねて来た。僕はその人にある料理屋へ連れて行かれ、一晩みっしりと説法された。松山は父親の長い手紙を持っていて、その文面にもとづいて意見を述べた訳だが、一口に云えば、僕は普通の意味の医者になって金を儲けるにも及ばぬし、学者となって名をあげる必要もない。それよりも、外科学の進歩に貢献こうけんする様な大研究を為しとげて欲しいということであった。当時欧州大戦がすんだばかりで、滅茶苦茶になった負傷兵を、皮膚や骨の移殖によって、完全な人間にしたとか、頭蓋骨を切開して、脳髄の手術をしたり、脳髄の一部分の入替えにさえ成功したという様な、外科学上の驚くべき報告が盛んに伝えられた時分で、僕にもその方面の研究をしろという命令なのだ。これは両親が不幸な不具者である所から、一層痛切にその必要を感じる訳で、例えば手や足のない片輪者には、義手義足の代りに、本物の手足を移殖して、完全な人間にすることも出来るという様な、素人考えも混っていたのだ。
 別段悪いことでもないし、若しそれを拒絶したら学資が途絶とだえるので、僕は何の考えもなくこの申出もうしいでを承諾した。そうして、僕の呪われた研究が始まったのだ。基礎的な学課を一通り終ると、僕は動物実験に入って行った。鼠だとか兎だとか犬などを、むごたらしくきずつけたり殺したりした。ギャンギャン悲鳴を上げ、もがき苦しむ動物を、鋭いメスで切りさいなんだ。僕の研究は主として、活体解剖学という部類に属するものだった。生きながら解剖するのだ。そうして、僕は沢山の動物の片輪者を作ることに成功した。ハンタアという学者はにわとりのけづめを牡牛おうしの首に移植したし、有名なアルゼリアの「さいの様な鼠」と云うのは、鼠の尻尾しっぽを鼠の口の上に移植して成功したのだが、僕もそれに似た様々の実験をやった。蛙の足を切断して、別の蛙の足を継いで見たり、二頭のモルモットをこしらえて見たりした。脳髄の入替えをする為に、僕は何匹の兎を無駄に殺したことだろう。
 人類に貢献する筈の研究が、裏から考えると、却って、飛んでもない片輪の怪物を作り出すことでもあった。そして、恐ろしいことには、僕はこの片輪者の製造に、不可思議な魅力を感じる様になって行った。動物試験に成功する毎に、父親の元にほこらしげに報告した。すると、父親からは、僕の成功を祝し、激励する長い手紙が来た。大学を卒業すると、父親はさっき云った松山を介して、僕にこの研究室を建ててくれた上、研究費用として、月々多額の金を送る様にしてくれた。それでいて、父親は僕の顔を見ようとはしないのだ。学校を卒業しても、先の条件を堅く守って、僕の帰省も許さず、自分で東京へ出て来ようともしない。僕は、この父親の一見親切らしい仕打ちが、その実、微塵みじんも子に対する愛から出たものでないことを感じないではいられなかった。いやそればかりではない。僕は父親のある極悪非道な目論見もくろみを想像して身慄みぶるいした。あれは僕に顔を見られることさえ恐れているのだ。
 僕が親を親と感じない訳はまだある。それは僕の母親と称する女に関してだが、その傴僂の醜悪極まる女が、僕を子としてでなく、一個の男性として愛したことだ。それを云うのは、非常に恥しい丈けでなく、ムカムカと吐き気を催す程いやなのだが、僕は十歳を越した時分から、絶間たえまなく母親の為に責めさいなまれた。お化けの様な大きな顔が、僕の上に襲いかかって、所嫌わずめ廻した。その唇の感触を思出した丈けで、今でも総毛立つ程だ。あるむず痒い不快を感じて目を醒すと、いつの間にか母親が僕の寝床に添寝そいねしていた。そして、「ね、いい子だからね」と云いながら、ここで云えない様なことを要求した。僕はあらゆる醜悪なものを見せつけられた。その堪え難い苦痛が三年も続いた。僕が家庭を離れたく思った一半いっぱんの理由は、実はこれなのだ。僕は女というものの汚さを見尽みつくした。そして、母親と同時に、あらゆる女性を汚く感じ憎悪する様になった。君も知っている僕の倒錯的な愛情はこんな所から来ているのではないかと思うのだよ。
 それから、君は驚くかも知れないが、僕が初代さんに結婚を申込んだのも、実は親の命令なのだよ。君と初代さんが愛し合う前から、僕は木崎初代という女と結婚しろと命じられていた。父の手紙と例によって松山が父の使いみたいに頻々ひんぴんとやって来るのだ。偶然の一致とは云え、不思議な因縁だね。だが、今云う通り僕は女を憎みこそすれ、少しも結婚の意志が無かったので、親子の縁を切り、送金を絶つとさえおどかされたけれど、何とかごまかして、結婚の申込みをしないでいた。ところが、間もなく、君と初代さんの関係が分って来た。そこで、僕はガラリと気が変って、君等の邪魔をする意味で、父の命令に従う気になった。僕は松山の家へ行って、その決心を伝え、結婚の運動を進めてくれる様に頼んだ。それからのことは、君も知っている通りだ。
 今これ丈けの事実を話せば、君はそこからある恐ろしい結論を引き出して来ることが出来るかも知れない。現在僕達の知っている丈けの材料があれば、おぼろげながら、一つの筋道を組立てることも不可能ではないのだ。だが、昨日あの双生児ふたごの日記を読むまでは、そして、君から初代さんの幼時の記憶にあったという景色のことを聞くまでは、流石さすがに僕も、そこまで邪推する力はなかった。それが、アア、恐ろしいことだ。昨日君の描いて見せた、荒れ果てた海岸の景色が、僕にとって、どんなに手ひどい打撃であったか。君、あの海岸の城の様な家は、この僕が十三の年まで育ったいまわしい場所に相違ないのだよ。
 思い違いや偶然の符合にしては、三人の見た景色が、余りに一致し過ぎているじゃないか。初代さんは、牛の寝た形の岬を見た。城の様な廃屋を見た。壁のはげ落ちた大きな土蔵を見た。双生児も、牛の形の岬も見た。そして、彼等は大きな土蔵に住んでいた。それはどちらも、僕の育った家の景色にピッタリと一致しているのだ。しかし、この三人は別の方面でも不思議なつながりを持っている。僕に初代さんと結婚することを強要したからには、僕の父は初代さんを知っていたに相違ない。その初代さんの下手人を探偵した深山木氏が、双生児の日記を持っていた所を見ると、初代さんの事件と双生児との間には、直接か間接か、いずれにもしろ何かのひっかかりがなければならぬ。しかも、その双生児は、僕の父の家に住んでいるとかしか考えられないのだ。つまり我々三人は(その一人は双生児だから、正しく云えば四人だが)目に見えぬ悪魔の手にあやつられた、哀れな人形でしかないのだ。そして、恐ろしい邪推をすれば、その悪魔の手の持主は、外ならぬ僕の父と称する人物であるかも知れないのだよ」
 諸戸はそう云って、恐怖に満ちた表情で、丁度怪談を聞いている子供がする様に、ソッとうしろを振返るのであった。私は彼の所謂結論というのが、どんな恐ろしい事柄だか、まだまだ飲込めなかったが、諸戸の奇怪至極しごくな身の上話と、それを話している彼の一種異様の表情から、何かしら世の常ならぬ妖気を受けて、よく晴れた夏の真昼であったのに、ゾッと寒気を覚え、全身が鳥肌立って来るのを感じたのである。

悪魔の正体


 諸戸は更らに語りつづけた。私は、蒸しあつい日であったのと、異様な昂奮の為に、全身ビッショリと、あぶら汗を流していた。
「君、今僕がどんな変てこな心持でいるか、想像出来るかい。この僕の父親がね、殺人犯人かも知れないのだ。それも二重三重の殺人鬼なんだ。ハハハハハハハ、こんな変てこなことって、世の中にあるものかね」
 諸戸は、気違いみたいな笑い方をした。
「だって、僕にはまだよく分らないのですが、それは君の想像に過ぎないかも知れませんよ」
 私は慰める意味でなく、諸戸の云う事を信じ兼ねた。
「想像は想像だけれど、外に考え様がないのだ。僕の父は何故僕と初代さんと結婚させようとしたのだろう。それは初代さんのものが、夫である僕のものになるからだ。つまり例の系図帳が我が子のものになるからだ。そればかりではない。もっと邪推することが出来る。父は系図帳の表紙裏の暗号文を手に入れる丈けでは満足しなかったのだ。若しあの暗号文が、財宝のありかを示すものだとしたら、それ丈けを手に入れた所で、本当の所有者である初代さんはまだ生きているのだから、どんなことで、それが分って取戻されないものでもない。そこで、僕と初代さんと結婚させれば、そんな心配がなくなってしまう。財宝も、その所有権も父の家のものになる。僕の父はそんな風に考えたのではないだろうか。あの熱心な求婚運動は、そうとでも考える外に、解釈の下しようがないじゃないか」
「でも、初代さんが、そんな暗号を持っていることが、どうして分ったのでしょう」
「それはまだ、僕等に分っていない部分だ。だが、初代さんの記憶にあった例の海岸の景色から想像すると、僕の家と初代さんとは、何かの因縁で結ばれていることは確かだ。若しかしたら、僕の父は小さい時分の初代さんを知っているのだ。それが、初代さんは三つの時に大阪で捨てられたので、多分父にも最近までは行方が分らないでいたのだろう。と考えると、初代さんが暗号文を持っていることを、父が知っていたとしても、少しも不合理ではない。
 まあ聞き給え。それから、あらゆる手段を尽して求婚運動を試みた。けれども母親を口説き落すことは出来ても、当の初代さんを承知させることは不可能だった。初代さんは、君に身も心も捧げ尽していたからだ。それが分ると、間もなく、初代さんは殺された。同時に手提袋が盗まれた。何故だろう。手提袋の中に何か外に大切なものが入っていただろうか。一ヶ月分の給料を盗む為に、誰があんな手数のかかる方法で殺人罪など犯すものか。目的は系図帳にあったのだ。その中に隠された暗号文にあったのだ。同時に、求婚運動が失敗したからには、後日のわざわいの種である初代さんをなきものにしようと、深くも企んだ犯罪なのだ」
 聞くに従って、私は諸戸の解釈を信じない訳には行かなかった。そして、その様な父を持った諸戸の心持を想像すると、何となぐさめてよいのか、口を利くさえはばかられた。
 諸戸は熱病患者の様に、無我夢中に喋り続けた。
「深山木氏を殺したのも、同じ悪業の延長だ。深山木氏は恐るべき探偵的才能の持主だ。その名探偵が系図帳を手に入れたばかりか、態々紀州のはじの一孤島まで出掛けて来た。もう捨てて置けない。探偵の進行を妨げる為にも、系図帳を手に入れる為にも、深山木氏を生かして置けない。犯人は(アア、それは僕の親爺のことだ)当然こんな風に考えたに違いない。そこで、深山木氏が一たん鎌倉に引上げるのを待って、初代さんの場合と同じ、誠に巧妙な手段によって、白昼群集のまっただ中で、第二の殺人罪を犯したのだ。何故島にいる間に殺さなかったか。それは、父が東京にいたからだ、とは考えられないだろうか。蓑浦君、僕の父はね、僕にちっとも知らさないで、此間このあいだからずっと、この東京のどこかの隅に隠れているかも知れないのだよ」
 諸戸は、そう云ったかと思うと、ふと気がついた様に、窓の所へ立って行って、外の植込みを見廻した。つい目の先の繁みの蔭に、彼の父親がうずくまってでもいるかの様に。だが、どんよりと薄曇った真夏の庭には、木の葉一枚微動するものはなく、物音も、いつもやかましく鳴続なきつづける蝉の声さえも、死に絶えた様に静まり返っていた。
「どうして僕がそんなことを考えるかと云うとね」諸戸は席に戻りながら続けた。「ホラ、友之助の殺された晩ね、君がここへ来る道で腰の曲った不気味な爺さんに会ったと云った。しかも、その爺さんが僕の家の門内へ這入ったと云った。だから、友之助を殺したのはその老人かも知れないのだ。僕の父はもう随分の年だから腰も曲っているかも知れない。そうでなくても、ひどい傴僂だから、歩いていると、君が云った様に、八十位の老人に見えるかも知れない。その老人がアレだとすると、僕の父は初代さんの家の前をうろうろした時分から、ずっと東京にいたと考えることも出来るじゃないか」
 諸戸は、すくいを求めでもする様に、目をキョトキョトさせて、ふと押し黙ってしまった。私も、云うべきことが非常に沢山ある様でいて、つい口を切る言葉が見出せず、ムッツリと黙り込んでいた。長い沈黙が続いた。
「僕は決心をした」やっとしてから、諸戸が低い声で云った。
昨夜ゆうべ一晩考えて極めたのだ。僕は十何年ぶりで、一度国へ帰って見ようと思う。国というのは和歌山県の南端の、Kという船着場から、五里程西へ寄った海岸にある俗称岩屋島いわやじまという、ろくろく人も住んでいない荒れ果てた小島で、これが嘗つては初代さんが住み、現にあの怪しい双生児の監禁されている孤島なのだ。(伝説によれば、そこは昔、八幡船ばはんせんの海賊共の根拠地であった相だ。僕が、暗号文が財宝の隠し場所を示すものではないかと疑ったのも、そういう伝説があるからだよ)そこは父母の家ではあるけれど、実の所、僕は二度と帰るまいと思っていた。廃墟みたいな薄暗い邸を想像した丈けでも、何とも云えぬ淋しい様な怖い様な、いやあないやあな感じがする。だが、僕はそこへ帰ろうと思うのだ」
 諸戸は重々しい決心の色を浮べて云った。
「今の僕の心持では、そうする外にみちがないのだ。この恐ろしい疑いを抱いたまま、じっとしていることは、一日だって出来ない。僕は父親が島へ帰るのを待って、いや、もうとっくに帰っているかも知れないが、父親と会って一か八か極めたいのだ。が、考えても恐ろしい、若し僕の想像が当って、父があの兇悪無残な殺人犯人であったら、アア、僕はどうすればいいのだ。僕は人殺しの子と生れ、人殺しに育てられ、人殺しの金で勉強し、人殺しに建ててもらった家に住んでいるのだ。そうだ、父が犯人と極ったら、僕は自首して出ることを勧めるのだ。どんなことがあったって、父親に打勝って見せる。若しそれが駄目だったら、凡てを滅ぼすのだ。悪業の血を絶やすのだ。傴僂の父親と差し違えて死んでしまえば事が済むのだ。
 だが、その前に、して置かねばならぬことがある。系図帳の正統な持主を探すことだ。系図帳の暗号文では、三人もの命が失われているのだから、恐らく莫大な値打があるに相違ない。それを初代さんの血族に手渡す義務がある。父の罪ほろぼしの為丈けにでも、僕は初代さんの本当の血族を探出して、幸福にして上げる責任を感じる。それも、一度岩屋島へ帰れば、何とか手懸りが得られぬこともなかろう。いずれにせよ、僕は明日にも、東京を立つ決心なのだ。蓑浦君、君はどう思う。僕は少し昂奮し過ぎているかも知れない。局外者の冷静な頭で、この僕の考えを判断してはくれないだろうか」
 諸戸は私を「冷静な局外者」と云ったが、どうしてどうして冷静どころではなかった。神経の弱い私は、寧ろ諸戸よりも昂奮していた位である。
 私は諸戸の異様な告白を聞いている内に、一方では彼に同情しながらも、段々と正体を現わして来た初代のかたきに、暫らく余事にまぎれて忘れていた恋人の痛ましい最後をまざまざと思い浮べ世界中でたった一つのものを奪われた恨みが、焔となって心中に渦巻いていた。
 私は初代の骨上げの日、焼き場のそばの野原で、初代の灰をくらい、ころげ廻って、復讐を誓ったことを、まだ忘れてはいなかった。若し諸戸の推察通り、彼の父親が、真犯人であったとしたら私は、私があじわった丈けの、身も世もあらぬ歎きを、彼奴きゃつにも味わせた上で、彼奴の肉を啖い、骨をえぐらねば気が済まなんだ。
 考えて見ると、殺人犯人を父親に持った諸戸も因果であったが、恋人の敵が親しい友達の父親だと分り、しかも、その友達は私に親友以上の愛着と好意をよせている、この私の立場も実に異様なものであった。
「僕も一緒に連れて行って下さい。会社なんか首になったって、ちっとも構やしない。旅費は何とでもして都合しますから、連れて行って下さい」
 私は咄嗟に思立って叫んだ。
「じゃ、君も僕の考えが間違っていないと思うのだね。だが、君は何の為に行こうというの」
 諸戸は我身にかまけて、私の心持など推察する余裕は少しもなかった。
「あなたと同じ理由です。初代さんの敵を確める為です。それから、初代さんの身内を探出して系図帳を渡す為です」
「それで、若し初代さんの敵が僕の父親だと分ったら君はどうする積り?」
 この問いに会って、私はハッと当惑した。だが、私は嘘を云うのはいやだ。思切って、本当の心持を打ちあけた。
「そうなれば、あなたともお別れです。そして……」
「古風な復讐がしたいとでも云うの?」
「ハッキリ考えている訳じゃないけれど、僕の今の心持では、そいつの肉をくらってもあきたりないのです」
 諸戸はそれを聞くと、黙り込んで、怖い目でじっと私を見つめていたが、ふっと表情がやわらぐと、突然ほがらかな調子になって云った。
「そうだ、一緒に行こうよ。僕の想像が当っているとすると、僕は君に取って謂わば敵の子だし、そうでなくても、人か獣か分らない様な僕の家族を見られるのは、実に恥しいけれど、若し君が許してくれるなら、僕は父や母に対して肉親の愛なんて少しも感じないのみか、却って憎悪を抱いている位なのだから、いざとなれば、君の味方をしてもいい。君と君の愛した初代さんの為なら、肉親はおろか、僕自身の命をかけても惜しくは思わぬ。蓑浦君、一緒に行こう。そして、力をあわせて、島の秘密を探ろうよ」
 諸戸はそう云って、目をパチパチさせたかと思うと、ぎこちない仕草しぐさで私の手を握り、昔の「義を結ぶ」といった感じで、手先に力を入れながら子供の様に目の縁を赤らめたのである。
 さて、かようにして、私達は愈々いよいよ、諸戸の故郷である紀州のはじの一孤島へと旅立つことになったのだが、ここで一寸書添えて置かねばならぬことがある。
 諸戸が父親を憎む気持には、その時口に出して云わなんだけれど、あとになって思い合わせると、もっともっと深い意味があったのだ。それは如何なる犯罪にもまして、恐るべく憎むべき事柄だった。人間ではなくてけだものの、この世ではなくて地獄でしか想像出来ない様な、悪鬼の所業だった。諸戸は流石に、その点に触れることを恐れたのである。
 だが、私の弱い心は、その時、三重の人殺しという血腥ちなまぐさい事柄丈けでヘトヘトに疲れ果ててそれ以上の悪業を考える余地がなかったのか、これまでの凡ての事情を綜合すれば、当然悟らねばならぬその事を、不思議と少しも気附かなんだ。

岩屋島


 相談がまとまると、私達は何よりも先ず、神田の洋食屋の二階の、額の中へ隠して置いた、系図帳と双生児ふたごの日記のことが気掛りであった。
「日記にしろ系図帳にしろ、僕達が持っていては非常に危険だ。暗号文さえ覚え込んで置けば、外のものに別段値打ちがある訳ではないから、一層いっそ二つとも焼き捨ててしまう方がいい」
 諸戸は、神田へ走る自動車の中で、こんな意見を持出した。私も無論賛成であった。
 だが、洋食屋の二階に上って、心覚えの額の破れ目から手を入れて探って見ると、どうした事か、その中は空っぽで、何の手答えもない。下の人達に尋ねても、誰も知らぬ。第一昨日からその部屋へ這入った者は一人もないとの答えであった。
「やられたんだ。彼奴あいつは我々の一挙一動を、少しも目を離さず見張っているんだ。あんなに注意したんだがなあ」
 諸戸は賊の手並に感嘆して云った。
「だが、暗号文が敵の手に渡っては、一刻も猶予出来ませんね」
「愈々明日立つ事にめた。もうこうなっては、逆にこちらからぶっつかって行く外に手段はないよ」
 その翌日、忘れもせぬ大正十四年七月二十九日、私達は旅支度も軽やかに、南海の一孤島を目ざして、いとも不思議な鹿島立ちをやったのである。
 諸戸はただ旅をすると云い残して、留守は書生と婆やに預け、私は神経衰弱を治す為に、友達の帰省に同行して、田舎へ行くとの理由で、会社を休み、家族の同意をも得た。丁度七月の末で、暑中休暇に間もなかったので、家族も会社の人達も、別段私の申出を怪しみはしなかった。
「友達の帰省に同行する」事実れに相違なかった。だが、何という不思議な帰省であったろう。諸戸は父の膝元へ帰るのだ。併し、父の顔を見る為ではない。父の罪業をさばき父と闘う為に帰るのだ。
 志州ししゅう鳥羽とばまでは汽車、鳥羽から紀伊きいのK港までは定期船、それから先は所の漁師にでも頼んで渡して貰う外には、便船とてもないのである。定期船と云っても、現在では三千トン級の立派な船がかよっているが、その時分のは、二三百噸のボロ汽船で旅客も少く、鳥羽を離れると、もう何だか異郷の感じで、非常に心細くなったものである。そのボロ汽船に一日ゆられて、やっとK港に着くとK港そのものがうら淋しい漁師村に過ぎないのに、更らに断崖になった人も住まぬ海岸を、海上五里、言葉さえ通じ兼ねる漁師の小舟で、殆ど半日を費して、ようやく岩屋島へ着くのである。
 途中別段のこともなく、私達は七月三十一日の昼頃、中継ぎのK港に上陸した。
 桟橋さんばしすなわち魚市場の荷上所で、魚形水雷みたいなかつおだとか、はらわたの飛び出した、腐りかかったさめだとかが、ゴロゴロところがり、磯のと腐肉のにおいがムッと鼻をついた。
 桟橋を上った所に、旅館料理と看板を出した、店先に紙障子の目立つ様な、汚らしい家がある。私達はとりあえずそこへ這入って、材料丈けは新鮮な、鰹のさしみで昼食ちゅうじきをやりながら、女房をとらえて、渡舟の世話を頼んだり、岩屋島の様子を尋ねたりした。
「岩屋島かな。近いとこやけど、まだ行って見たこともありませんけど、何や気味の悪いとこでのんし。諸戸屋敷を別にして六七軒も漁師のうちがありますやろか。見るとこも何もない、岩ばっかりの、離れ島やわな」
 女房は分りにくい言葉でこんなことを云った。
「その諸戸屋敷の旦那が、近頃東京へ行ったという噂を聞かないかね」
「聞かんな。諸戸屋敷の傴僂さんが、ここから汽船に乗りなしたら、じき分るさかいに、滅多に見逃しやしませんがのんし。そやけど、傴僂さんとこには、帆前船ほまえせんがあるさかいにのんし。勝手にどこへでも舟を着けて、わしらの知らん内に、東京へ行ったかも知れんな。あんた方、諸戸屋敷の旦那を御存知かな」
「いや、そういう訳じゃないが、一寸岩屋島まで行って見たいと思うのでね。あすこまで舟を渡してくれる人はないだろうかね」
「サア、天気がええのでのんし、生憎あいにく皆漁に行ってるさかいになあ」
 だが、私達がしきりに頼むものだから、方々尋ね廻って、結局一人の年とった漁師を傭ってくれた。それから賃銭の交渉をして、サアお乗りなさいと用意が出来るまでには、気の長い田舎のことで、小一時間もかかった。
 舟はチョロと称する小さい釣舟で、二人乗るのがやっとであった。「こんな舟で大丈夫か」と念を押すと、老漁夫は「気遣きづかいない」と云って笑った。
 沿岸の景色は、どこの半島にもよく見る様な、切り立てた断崖の上部に、こんもりと森の端がふちどり、山と海とが直ちに接している感じであった。幸い海はよくいでいたけれど、断崖の裾は、一帯に白く泡立って見えた。諸所に胎内くぐりめいた穴のある奇巌がそそり立っていた。
 日の暮れぬ内に島に着かぬと、今夜は闇だからというので、老漁夫は船足を早めたが、大きく突出した岬を一つ廻ると、岩屋島の奇妙な姿が眼前に現われた。
 全島が岩で出来ているらしく、青いものはほんの少ししか見えず、岸は凡て数丈もある断崖でこんな島に住む人があるかと思われる程であった。
 近づくに従って、その断崖の上に、数軒の人家が点在するのが見えて来た。一方の端に何となく城廓じょうかくを思わせる様な大きな屋根があって、その側に白く光っているのが、問題の諸戸屋敷の土蔵らしかった。
 舟は間もなく島の岸に達したが、安全な舟着場へ這入る為には、断崖に沿って暫く進まなければならなかった。
 その間に一箇所、断崖の裾が、海水の為に浸蝕されて出来たものであろう、真暗な奥行きの知れぬ洞穴ほらあなになっている所があった。舟は洞穴の半町ばかり沖を進んでいたのだが、老漁夫は、それを指差して、こんなことを云った。
「この辺の者は、あの洞穴の所を、魔のふちと云いますがのんし、昔からちょいちょい人が呑まれるので、何やらのたたりや云うてのんし、漁師共が恐れて近寄りませんのじゃ」
「渦でもあるの」
「渦という訳でもないが、何やらありますのじゃ。一番近くでは、十年ばかり前にのんし、こんなことがありましたげな」
 と云って、老漁夫は次の様な、奇妙な話をしたのである。
 それはこの老漁夫ではなくて、知合いの別の漁師の実見談なのだが、ある日、目のギョロギョロしたみすぼらしい風体の男が、飄然ひょうぜんとK港に現われて、丁度今の私達の様に、岩屋島へ渡った。その時頼まれたのがその漁師であった。
 四五日たって、同じ漁師が夜網の帰りがけ、夜のしらじら明けに、偶然岩屋島の洞穴の前を通りかかると、丁度引汐ひきしお時で、朝凪あさなぎの小波さざなみが、穴の入口に寄せては返す度毎に、中から海草やごもくなどが、少しずつ流れ出していたが、それに混って、何だか大きな白いものが動いているので鮫の死骸かと見直すと、驚いたことには、それが人間の溺死体であることが分った。身体全体はまだ穴の中にあって、頭部からソロソロと流れ出しているのだ。
 漁師はすぐ様舟を漕ぎ寄せて、そのお客様を救上げたが、救上げて二度びっくりしたことにはその溺死体は、まぎれもなく、先日K港から渡してやった旅の者であった。
 多分崖から飛込んで自殺をしたのだろうということで、そのままになってしまったが、古老の話を聞くと、その洞穴は昔からの魔所で、いつの場合も、溺死体は半分身体を洞穴に入れて、丁度その奥から流れ出した格好をしている。こんな不思議なことはない、恐らく奥の知れない洞穴の中に、魔性ましょうのものが住んでいて、人身御供ひとみごくうを欲しがるのだろうという伝説さえある位で、魔の淵という名前も、そんな所から起ったのではあるまいかということであった。
 老漁夫は語り終って、
「それでのんし、こんな廻り道をして、なるだけ穴のそばを通らぬ様にしますのじゃ。旦那方も、魔物に魅入られぬ様にのんし、気をつけんといかんな」
 と、気味の悪い注意をしてくれた。だが、私達はそれを、何気なく聞流してしまった。後日、この老漁夫の物語を思出して、ギョッとしなければならぬ様な場合があろうとは、まさか想像しなかったのである。
 話している間に、舟は島の一隅の一寸した入江になった所に這入っていた。その部分丈け、岸は一間位の低さになって、天然の岩に刻んだ石段が、形ばかりの舟着場になっていた。
 見ると、入江の中には五十トン位に見える伝馬てんまの親方みたいな帆かけ船がつないであり、外にも、汚い小舟が二三見えたが、人間は一人もいなかった。
 私達は上陸すると、老漁夫を帰して、一種異様の感じに胸躍らせながら、ダラダラ坂を登って行った。
 登り切ると、眼界が開けて、草もろくろく生えていない、だだっ広い石ころ道が島の中心をなす岩山を囲んで、見渡す限り続いていた。そのむこうに、例の城廓みたいな諸戸屋敷が、荒廃の限りを尽してそびえていた。
「成る程、ここから見ると、向うの岬が、丁度牛の寝ている恰好だ」
 云われてその方を振向くと、如何にも、今舟で廻って来た岬の端が、牛の寝た形に見えた。いつか初代さんが話した、赤ちゃんのお守りをして遊んでいたというのは、この辺ではないかしらと思って、私は妙な気持になった。
 その時分には、もう島全体が夕闇に包まれて、諸戸屋敷の土蔵の白壁が、段々鼠色にかすんで行くのだった。何とも云えぬ淋しさだ。
「無人島みたいだね」私が云うと、
「そうだね。子供心に覚えているよりは、一層荒れ果てて、すさまじくなっている。よくこんな所に人が住んでいられたものだ」諸戸が答えた。
 私達はザクザクと小石を踏んで、諸戸屋敷を目当てに歩いて行ったが、少し行くと、妙なものを発見した。一人の老いさらぼうた老翁ろうおうが、夕闇の切岸きりぎしの端に腰かけて、遠くの方を見つめたまま、石像の様にじっとしているのだ。
 私達は思わず立止って、異様な人物を注視した。
 すると、足音で気づいたのか、海の方を見ていた老翁が、ゆっくりゆっくり首をねじまげて、私達を見返した。そして、老翁の視線が諸戸の顔にたどりつくと、そこでピッタリ止って、動かなくなってしまった。老翁はいつまでもいつまでも、穴のあくほど諸戸を見つめていた。
「変だな、誰だろう。思い出せない。きっと僕を知っている奴だよ」
 一町もこちらへ来てから、諸戸は老翁の方を振返りながら云った。
「傴僂ではなかった様だね」
 私は怖々こわごわそれを云って見た。
「僕の父のことかい。まさか、何年たった所で、父を見忘れはしないよ。ハハハハハハ」
 諸戸は皮肉な調子で低く笑うのだった。

諸戸屋敷


 近寄ると、諸戸屋敷の荒廃の有様は、一層はなはだしいものであった。くずれた土塀、朽ちた門、それを這入ると、境もなくてすぐ裏庭が見えているのだが、不思議千万なことには、その庭が、まるで耕した様に、一面に掘り返されて、少しばかりの樹木も、あるものは倒れ、あるものは根こそぎにして放り出してあるといった塩梅あんばいで、目も当てられぬ乱脈であった。それが屋敷全体の感じを、実際以上に荒れすさんだものに見せていた。
 怪物の真黒な口みたいに見える玄関に立って、案内を乞うと、暫くは何のいらえもなかったが、再三声をかけている内に、奥の方から、ヨタヨタと一人の老婆が出て来た。
 夕暮の薄暗い光線のせいではあったが、私は生れてから、あんな醜怪な老婆を見たことがなかった。背が低い上に、肉が垂れ下る程もデブデブえ太っていて、その上傴僂で、背中に小山の様なこぶがあるのだ。顔はと云うと、しわだらけの渋紙色しぶかみいろの中に、お玉じゃくしの恰好をした、キョロンとした目が飛出し、唇が当り前でないと見えて、長い黄色い乱杭歯らんぐいばが、いつでも現われている。その癖上歯うわばは一本もないらしく、口をふさぐと、顔が提灯の様に不気味に縮まってしまうのだ。
「誰だえ」
 老婆は、私達の方をすかして見て、怒った様な声で尋ねた。
「僕ですよ。道雄ですよ」
 諸戸が顔をつき出して見せると、老婆はじっと見ていたが、諸戸を認めると、びっくりして、頓狂とんきょうな声を出した。
「オヤ、道かえ。よくまあお前帰って来たね。あたしゃもう、一生帰らないのかと思っていたよ。そして、そこの人はえ」
「これ、僕の友達です。久し振りで家の様子が見たくなったものですから、友達と一緒に、はるばるやって来たんですよ。丈五郎じょうごろうさんは?」
「マアお前、丈五郎さんだなんて。お父つぁんじゃないか。お父つぁんとお云いよ」
 この醜怪な老婆は諸戸の母親だった。
 私は二人の会話を聞いていて、諸戸が父親のことを丈五郎という名で呼んだのも異様に感じたが、それよりも、もっと不思議なことがあった。と云うのは、老婆が「お父つぁん」と云った。その調子が、気のせいか、軽業少年友之助が死ぬ少し前口にした「お父つぁん」という呼声と、非常によく似ていたことである。
「お父つぁんはいるよ。でもね、此頃このごろ機嫌が悪いから、気をつけるがいいよ。まあ兎に角、そんな所に立っていないで、お上りな」
 私達は黴臭かびくさい真暗な廊下を幾曲いくまがりかしてとある広い部屋に通された。外観の荒廃している割には、内部は綺麗に手入れがしてあったけれど、それでも、どこやら廃墟といった感じをまぬがれなんだ。
 その座敷は庭に面していたので、夕闇の中に広い裏庭と、例の土蔵のはげ落ちた白壁の一部がぼんやり見えたが、庭にはやっぱり、無残に掘返したあとが歴々ありありと残っていた。
 暫くすると、部屋の入口に、物の怪の気配がして、諸戸の父親の怪老人が、ニョイと姿を現わした。それが、もう暮れ切った部屋の中を、影の様に動いて、大きな床の間を背にして、フワリと坐ると、いきなり、
「道、どうして帰って来た」
 と、とがめる様に云った。
 そのあとから、母親が這入って来て、部屋の隅にあった行燈あんどんを持ち出し、老人と私達の間に置いて、火をともしたが、その赤茶けた光の中に浮上った怪老人の姿は、ふくろうの様に陰険で醜怪なものに見えた。傴僂で背の低い点は、母親とそっくりだったが、その癖、顔丈けは異様に大きくて顔一面の女郎蜘蛛じょろうぐもが足を拡げた感じの皺と、兎みたいに真中で裂けている醜い上唇とが、一目見たら一生涯忘れることが出来ない程の深い印象を与えた。
「一度家が見たかったものだから」
 と、諸戸はさい前母親に云った通りを答えて、かたわらの私を紹介した。
「フン、じゃあ貴様は約束を反古ほごにした訳だな」
「そういう訳じゃないけれど、あなたに是非尋ねたいことがあったものだから」
「そうか。実は俺の方にも、ちと貴様に話したい事がある。マア、いいから逗留とうりゅうして行け。本当を云うと、俺も一度貴様の成人した顔が見たかったのだよ」
 私の力では、その時の味を出すことが出来ないけれど、十何年ぶりでの、親子の対面は、ざっとこんな風な、誠に変てこなものであった。肉体ばかりでなくて、精神的にも、どこか片輪な所があると見えて、言葉や仕草や、親子の情という様なものまで、まるで普通の人間とは違っている様に見えた。
 そんな変てこな状態のままで、この不思議な親子は、ポツリポツリと、それでも一時間ばかり話をしていた。その内今でも記憶に残っているのは、次の二つの問答である。
「あなたは近頃どこかに旅行をなすったのじゃありませんか」
 諸戸が何かの折に、その点に触れて云った。
「いんや、どこへも行かない。のうおたか
 老人は傍にいた母親の方を振向いて助勢じょせいを求めた。気のせいかその時老人の目が、ある意味をこめてギョロリと光った様に見えた。
「東京でね、あなたとそっくりの人を見かけたんですよ。若しかしたら、私に知らせないで、こっそり東京へ出られたのかと思って」
「馬鹿な。そんな、この年で、不自由な身体で、東京なんぞへ出て行くものかな」
 だが、そう云う老人の目が、やや血走って、額が鉛色に曇ったのを、私は見逃さなんだ。諸戸は強いて追及せず、話頭を転じたが、暫くすると、又別の重要な質問を発した。
「庭が掘返してある様ですが、どうしてこんなことをなすったのですか」
 老人は、この不意撃ちに会って、ハッと答えにきゅうしたらしく長い間押黙っていたが、
「ナニ、これはね、のうお高、ろくめの仕業だよ。ホラお前も知っている通り、家には可哀想な一人前でない連中を養ってあるが、その内に六という気違いがいるのだよ。その六が、何の為だか庭をこんなにしてしまった。気違いのことだから、叱る訳にも行かぬのでね」と答えた。私にはそれが、出まかせの苦しい言訳いいわけだとしか思えなんだ。
 その夜は、同じ座敷に床を取って貰って、私達は枕を並べてしんについた。でも、二人とも昂奮の為に仲々眠れない。と云って迂闊な話も出来ぬので、まじまじと押黙っていたが、静かな夜に心がすんで行くにつれて、寝静まった広い屋敷のどこかで、細々と異様な人声が、切れては続いているのが、聞えて来た。
「ウウウウウウ」
 と細くて甲高い唸り声だ。誰かが悪夢にうなされているのかとも思ったが、それにしてはいつまでも続いているのが変である。
 ボンヤリした行燈あんどんの光で、諸戸と目を見交しながら、じっと耳をすましている内に、私はふと例の、土蔵の中にいるというあわれな双生児のことを思出した。そして、若しやあの声は、一つ身体につながり合った男女の、世にも無残な闘争を語るものではないかと、思わずゾッと身をすくめた。
 あけ方にウトウトとして、ふと目をさますと、隣のとこに諸戸の姿が見えぬので、私は寝過したかと慌てて飛び起きて、洗面所を尋ねる為に廊下の方へ出て行った。
 不案内の私が、広い家の中を、まごまごしていると、廊下の曲り角から、母親のお高がひょいと飛出して、私の行手をさえぎる様に立はだかった。猜疑心の強い、不具の老婆は、私が何か家の中を見廻りでもするかとうたぐったものらしい。だが、私が洗面所を尋ねると、やっと安心した様子で、「アアそれならば」と云って、裏口から井戸の所へ案内してくれた。
 顔を洗ってしまうと、私はふと昨夜の唸り声とそれに関聯して土蔵の中の双生児のことを思出し、嘗つて深山木氏が覗いたという、塀外へいそとの窓を一度見たくなった。あわよくば双生児が、その窓の所に出ているかも知れないのだ。
 私はそのまま朝の散歩というていを装い、何気なく邸内を忍び出し、土塀に沿って裏の方へ廻って行った。外は大きな石塊いしころのでこぼこ道で、僅かの雑草の外には、樹木らしいものもない、焼野原の感じであったが、表門から土蔵の裏手に行く途中に、一箇所丈け、丁度砂漠のオアシスの様に、丸く木の茂った所があった。枝を分けて覗いて見ると、その中心に古井戸らしく、苔蒸こけむした石の井桁いげたがある。今は使用していないけれど、この淋しい孤島には立派過ぎる程の井戸である。昔は、諸戸屋敷のほかに、ここにも別の屋敷があったのかも知れない。
 それは兎も角、私は間もなく、問題の土蔵のすぐ下に達した。無論土塀はあったけれど、蔵が土塀に接して建っているので、外からでも極く間近く見える。予期した通り、土蔵の二階には、裏手に向って小さな窓が開いていた。鉄棒のはまった所まで、例の日記の通りである。私は胸を躍らせながら、その窓を見上げて、辛抱強く立ちつくしていた。はげ残った白壁に、朝日が赤々と照映えて、開放的な海のかおりが、ソヨソヨと鼻をうつ。凡てが明るい感じで、この土蔵の中に例の怪物が住んでいるなどとは、どうにも考えられないのだ。
 だが、私は見た。暫く傍見わきみをしていて、ひょいと目を元に戻すと、いつの間にか、窓の鉄棒のうしろに、胸から上の、二つの顔が並び、四本の手が鉄棒を掴んでいた。
 一つの顔は青黒く、頬骨の立った、醜い男性であったが、もう一つのは、赤味はなかったけれど、きめのこまかい真白な若い女性の顔であった。
 少女の一杯に見開いた目が、私の見上げる目とパッタリ出会うと、彼女は此世の人間には見る事の出来ない様な、一種不思議な羞恥の表情を示して、隠れる様に首をうしろに引いた。
 だが、それと同時に、何ということだ。この私もまた、ハッと顔を赤らめて、思わず目をそらしたのである。私は愚かにも、双生児の娘の異様なる美しさに、不意を撃たれて、つい胸を躍らせたのであった。

三日間


 諸戸の想像した通りだとすれば、彼の父の丈五郎は、その身体しんたいの醜さに輪をかけた鬼畜きちくである。世に比類なき極重悪人である。悪業成就じょうじゅの為には恩愛の情なぞを顧るいとまはないであろう。又道雄の方でも、已に度々述べた様に、決して父を父とは思っていない。父の罪業をあばこうとさえしている。この世の常ならぬ親子が、一つ家に顔を見合わせていたのだから、遂にあの様な恐ろしい破綻はたんが来たというのは、誠に当然のことであった。
 平穏な日は、我々が島に到着してから、たった三日間であった。四日目には私と諸戸とはもう口を利くことさえ叶わぬ状態になっていた。そして、その同じ日、岩屋島の住民が二人、悪鬼の呪いにかかって、例の人食いの洞穴、魔の淵の藻屑もくずと消える様な悲惨事さえ起った。
 だがその平穏無事な三日間にも、記すべき事柄がなかったのではない。
 その一つは、土蔵の中の双生児についてである。私が諸戸屋敷に最初の夜を過した翌朝、土蔵の窓の双生児を垣間かいま見て、その一方の女性(つまり日記にあった秀ちゃん)の美貌にうたれたことは前章に記した通りだが、異様なる環境がこの片輪娘の美しさを際立きわだたせたとしても、その垣間見の印象が、あれ程強く私の心を捉えたというのは何とやらただごとではない感じがした。
 読者も知る様に、私はなき木崎初代に全心の愛を捧げていた。彼女の灰を飲みさえした。そして、諸戸と一緒にこの岩屋島へ来たのも、初代の敵を確かめたいばっかりではなかったか。その私がたった一目見たばかりの、しかも因果な片輪娘の美しさにうたれた。美しさにうたれたというのは、別の言葉を使えば、愛情を感じたことである。恋しく思ったことである。そうだ、私は白状するが、片輪娘秀ちゃんに恋を感じたのである。アア、何という情ないことだ。初代の復讐を誓ったのは、まだ昨日の様に新らしい事ではないか。現に今お前は、その誓いを実行する為に、この孤島へ来ているのではないか。それが、到着するかしないに、人もあろうに人外の片輪娘を恋するとは、知らなんだ。私は、こうも見下げ果てた男であったのかと、その時はそんな風に我と我身を恥じた。
 併し、如何に恥しいからと云って、恋する心は、どうにも出来ぬ真実である。私は何かと口実を設け、我が心に言訳をしながら、ひまさえあれば、ソッと邸を抜け出して例の土蔵の裏手へ廻るのであった。
 ところが、二度目にそこへ行った時、それは最初秀ちゃんを垣間見た日の夕方であったが、私にとって、一層困ったことが起った。と云うのは、その時、秀ちゃんの方でも、一方ならず私を好いていることが分ったのだ。何と云う因果なことだ。
 たそがれの霞の中に、土蔵の窓がバックリと黒い口を開いていた。私はその下に立って、辛抱強く娘の顔の覗くのを待っていた。待っても待っても、黒い窓にはいつまでたっても何の影もささぬので、もどかしさに、不良少年みたいに、私は口笛を吹いたものだ。すると、寝そべっていたのが、いきなり飛び起きた感じで、秀ちゃんのほの白い顔が、チラと覗き、アッと思う間に、何かに引ぱられでもした様に、引込んでしまった。一瞬間ではあったが、私は秀ちゃんの顔が、私に向ってニッコリ笑いかけたのを見逃がさなんだ。そして、「吉ちゃんの方がやいていて秀ちゃんを覗かせまいとするんだな」と想像すると、何とやらくすぐったい感じがした。
 秀ちゃんの顔が引込んでしまっても、私はその場を立去る気にはなれず、未練らしくじっと同じ窓を見上げていたが、ややあって、窓から私を目がけて、白いものが飛出して来た。紙つぶてだ。足元に落ちたのを拾い上げて、開いて見ると、次の様な鉛筆書きの手紙であった。
ワタシノコトワ、本ヲヒロウタ人ニキイテ下サイ、サウシテワタシヲ此所ココカラダシテ下サイ、アナタワ、キレイデ、カシコイ人デスカラ、キツト助ケテ下サイマス。
 非常に読みにくい字だったけれど、私は幾度も読直してやっと意味を取ることが出来た。「アナタワ、キレイデ」というあからさまな表現には驚いた。例の日記帳の記事から想像しても、秀ちゃんの綺麗という意味は、我々のとは少し違って、必ずしもいやらしい言葉ではないのだが、でも、それを判読した時には私は独りで赤くなった。
 それから、同じ土蔵の窓に、実に意外なものを発見するまでの三日間、私は五六度もそこへ行って(たった五六度の外出に私はどんな苦心をしたことだろう)人知れず秀ちゃんと会った。家人に悟られるのを恐れて、お互に言葉を交わすことは控えたが、私達は一度毎に、双方の目使いの意味に通暁つうぎょうして行った。そして、随分複雑な微妙な眼の会話を取交すことが出来た。秀ちゃんは字は下手だったけれど、又世間知らずであったけれど、生れつき非常にかしこい娘であることが分った。
 目の会話によって、吉ちゃんが秀ちゃんをどんなにひどい目に合わせるかが分った。殊に私が現われてからは、やきもちを焼いて、一層ひどくするらしい。秀ちゃんはそれを目と手真似で私に訴えた。
 ある時は秀ちゃんをつきのけて、吉ちゃんの青黒い醜い顔が、恐ろしい目で長い間私の方を睨む様なこともあった。その顔の不快な表情を、私は今でも忘れない、ひがみとねたみと無智と不潔との、獣の様に醜悪無類な表情であった。それが、まるで睨みっこみたいに、瞬きもせず、執念深く私の方を見つめているのだ。
 双生児の片割れが醜悪なけだものであることが、秀ちゃんへの憐みの情を一倍深めた。私は一日一日と、この片輪娘が好きになって行くのをどうすることも出来なんだ。それが私には何だか前世からの不幸なる約束事の様にも感じられた。顔を見交わす度毎に、秀ちゃんは早く救出して下さいと催促した。私は何の当てがあるでもないのに、「大丈夫大丈夫、今にきっと救って上げるから、もう少し辛抱して下さい」と胸を叩いて、可哀想な秀ちゃんを安心させる様にした。
 諸戸屋敷には幾つかの開かずの部屋があった。土蔵は云うまでもなく、そのほかにも、入口の板戸に古風な錠前のかかった座敷があちこちに見えた。諸戸の母親や男の召使などが、それとなく、絶えず私達の行動を見張っていたので、自由に家の中を歩き廻ることも出来なんだが、私はある時、廊下を間違った体に装って、ソッと奥の方へ踏み込んで行き、開かずの部屋のあることを確めることが出来た。ある部屋では、気味の悪い唸り声が聞えた。ある部屋では、何かが絶えずゴトゴト動いている気配がした。それらは凡て、動物の様に檻禁された人間共の立てる物音としか考えられなんだ。
 薄暗い廊下にたたずんで、じっと聞き耳を立てていると、云い知れぬ鬼気に襲われた。諸戸はこの屋敷には片輪者がウジャウジャしていると云ったが、開かずの部屋には、土蔵の中の怪物(アア、その怪物に私は心を奪われているのだ)にもました、恐ろしい片輪共が檻禁されているのではなかろうか。諸戸屋敷は片輪屋敷であったのか。だが、丈五郎氏は、ぜなれば、その様に片輪者ばかり集めているのであろう。
 平穏であった三日間には、秀ちゃんの顔を見たり、開かずの部屋を発見した外、もう一つ変った事があった。ある日私は諸戸が父親の所へ行った切り、いつまでも帰らぬ退屈さに、少し遠出をして、海岸の船着場まで散歩したことがあった。
 来た時には夕闇の為に気づかなんだが、その道の中程の岩山のふもとに、一寸した林があって、その奥に、一軒の小さなあばら家が見えていた。この島の人家は凡て離れ離れに建っているのだが、そのあばら家は、殊に孤立している感じだった。どんな人が住んでいるのかと、ふと出来心で、私は道をそれて林の中へ這入って行った。
 その家は、家というよりも小屋と云った方がふさわしい程の小さな建物で、しかも、到底住むに耐えぬ程荒れすさんでいた。その小屋の所は小高くなっていたので、海も、例の対岸の牛の寝た形の岬も、さては、魔の淵と云われる洞窟さえも、凡て一望の内にあった。岩屋島の断崖は複雑な凸凹を為していて、その一番出張でばった部分に魔の淵の洞穴があった。
 奥底の知れぬ洞穴は、魔物の黒い口の様で、そこに打寄せる波頭が、恐ろしい牙に見えた。見つめていると、上部の断崖に魔物の目や鼻さえも想像されて来る。都に生れ都に育った世間知らずの私には、この南海の一孤島は、余りにも奇怪なる別世界であった。数える程しか人家のない離れ島、古城の様な諸戸屋敷、土蔵にとじ籠められた双生児、開かずの部屋に監禁された片輪者、人を呑む魔の淵の洞窟、凡てこれらのものは、都会の子には、奇怪なるお伽噺でしかなかったのだ。
 単調な浪の音の外には、島全体が死んだ様に静まり返って、見渡す限り人影もなく、白っぽい小石道に、夏の日がジリジリと焦げついていた。
 その時、く間近い所で咳払いの音がして、私の夢見心地を破った。振向くと、小屋の窓に一人の老人が寄りかかって、じっと私の方を見つめていた。思い出すと、それは、私達がこの島に着いた日、この辺の岸にうずくまって、諸戸の顔をジロジロと眺めていた、の不思議な老人に相違なかった。
「お前さん、諸戸屋敷の客人かな?」
 老人は私が振向くのを待っていた様に話しかけた。
「そうです。諸戸道雄さんの友達ですよ。あなたは道雄さんを御存じでしょうね」
 私は老人の正体が知り度くて、聞返した。
「知ってますとも、わしはな、昔諸戸屋敷に奉公して居って、道雄さんの小さい時分抱いたり負んぶしたりした程じゃもの、知らいでか。じゃが、わしも年をとりましたでな。道雄さんはすっかり見忘れておいでの様じゃ」
「そうですか。じゃ、なぜ諸戸屋敷へ来て、道雄さんに逢わないのです。道雄さんもきっと懐かしがるでしょうに」
「わしは御免じゃ。いくら道雄さんに逢い度うても、あの人畜生にんちくしょうの屋敷の敷居をまたぐのは御免じゃ。お前さんは知りなさるまいが、諸戸の傴僂夫婦は、人間の姿をした鬼、けだものやぞ」
「そんなにひどい人ですか。何か悪いことでもしているのですかね」
「いやいや、それは聞いて下さるな、同じ島に住んでいる間は、迂闊なことを云おうものなら、我身が危い、あの傴僂さんにかかっては、人間の命は、塵芥ちりあくたやでな。ただ、用心をすることや、旦那方はこれから出世するたっとい身体や。こんな離れ島の老人に構って、危い目を見ぬ様に、用心が肝腎やな」
「でも丈五郎さんと道雄さんは親子の間柄だし、私にしても、その道雄さんの友達なんだから、いくら悪い人だと云って、危いということはありますまい」
「いや、それがそうでないのじゃ。現に今から十年ばかり前に、似た様なことがありました。その人も都から遥々はるばる諸戸屋敷を尋ねて来た。聞けば丈五郎の従兄弟いとことかいうことであったが、まだ若い老先の長い身で、可哀想に、見なされ、あの洞穴の側の魔の淵という所へ、死骸になって浮上りました。わしはそれが丈五郎さんの仕業だとは云わぬ。じゃが、その人は諸戸屋敷に逗留していられたのや。屋敷の外へ出たり、舟に乗ったりしたのを見たものは、誰もないのや。分ったかな。老人の云うことに間違いはない。用心しなさるがよい」
 老人はなおも、諄々じゅんじゅんとして諸戸屋敷の恐怖を説くのであったが、彼の口ぶりは何となく、私達も、十年以前の丈五郎の従兄弟という人と、同じ運命に陥るのだ、用心せよ、と云わぬばかりであった。まさかそんな馬鹿なことがと思う一方では、都での三重の人殺しの手並を知っている私は、若しやこの老人の不吉な言葉がしんすのではあるまいかと、いやな予感に、目の先が暗くなって、ゾッと身震いを感じるのであった。
 さて、その三日の間、当の諸戸道雄はどうしていたかと云うと、私達は、毎晩枕を並べて寝たが、彼は妙に無口であった。口に出して喋るには、心の苦悶が余りに生々し過ぎたのかも知れない。昼間も、彼は私とは別になって、どこかの部屋で、終日傴僂の父親と睨み合っているらしかった。長い用談をすませて、私達の部屋へ帰って来る度にゲッソリと、やつれが見え、青ざめた顔に、目ばかりが血走っていた。そして、ムッツリと黙り込んで、私が何を尋ねても、ろくろく返事もしないのだ。
 だが、三日目の夜、遂に耐え難くなったのか、彼はむずかった子供みたいに蒲団の上をゴロゴロ転りながら、こんなことを口走った。
「アア、恐ろしい。まさかまさかと思っていたことが本当だったのだ。もう愈々いよいよおしまいだ」
「やっぱり、僕達が疑っていた通りだったの」
 私は声を低めて尋ねて見た。
「そうだよ。そして、もっとひどい事さえあったのだよ」
 諸戸は土色の顔をゆがめて、悲しげに云った。私は、色々とかれの所謂「もっとひどい事」について尋ねたけれど、彼はそれ以上何も云わなかった。ただ、
「明日はキッパリと断ってやる。そうすれば愈々破裂だ。蓑浦君、僕は君の味方だよ。力を協せて悪魔と戦おうよ。ね、戦おうよ」
 と云って、手を延ばして私の手首を握りしめるのだった。だが、勇ましい言葉に引きかえて、彼の姿の何とみじめであったことか。無理もない、彼は実の父親を悪魔と呼び、敵に廻して戦おうとしているのだ。やつれもしよう。青ざめもしよう。私は慰める言葉もなく、僅かに彼の手を握り返して、千万の言葉にかえた。

影武者


 その翌日とうとう恐ろしい破滅が来た。
 お昼過ぎ、私が独で唖の女中の御給仕で(これが秀ちゃんの日記にあったおとしさんだ)御飯をすませても、諸戸が父親の部屋から帰って来ぬので、独で考えていても気が滅入るばかりだものだから、食後の散歩旁々かたがた、私は又しても土蔵の裏手へ秀ちゃんと目の話をしに出掛けた。
 窓を見上げて暫く立っていても、秀ちゃんも吉ちゃんも顔を見せぬので、私はいつもの合図の口笛を吹いた。すると、黒い窓の鉄格子の所へ、ヒョイと一つの顔が現われたが、私はそれを見て、ハッとして、自分の頭がどうかしたのではないかと疑った。何ぜと云って、そこに現われた顔は、秀ちゃんのでも吉ちゃんのでもなくて、父親の部屋にいるとばかり思っていた、諸戸道雄の引きゆがんだ顔であったからだ。
 何度見直しても、私の幻ではなかった。まぎれもない道雄が、双生児のおりに同居しているのだ。それが分った刹那、私は思わず大声に叫び相になったのを、素早く諸戸が口に指を当てて注意してくれたので、やっと食い止めることが出来た。
 私の驚き顔を見て、諸戸は狭い窓の中から、しきりと手真似で何か話すのだが、秀ちゃんの微妙な目とは違って、それに話す事柄が複雑過ぎるものだから、どうも意味が取れぬ。諸戸はもどかしがって、一寸待てという合図をして首を引込めたが、やがて、丸めた紙切れを私の方へ投げてよこした。
 拾い上げて拡げて見ると、多分秀ちゃんのを借りたのであろう、鉛筆の走り書きで、次の様にしたためてあった。

 少しの油断から丈五郎の奸計かんけいに陥り、双生児と同じ監禁の身の上となった。非常に厳重な見張りだから、到底急に逃げ出す見込みはない。だが、僕よりも心配なのは君だ。君は他人だから一層危険だ。早くこの島から逃げ出し給え。僕はもうあきらめた、凡てを諦めた。探偵も、復讐も、僕自身の人生も。
 君との約束にそむくのを責めないでくれ給え、最初の意気込みに似ず気の弱い僕を笑わないでくれ給え。僕は丈五郎の子なのだ。
 懐かしい君とも、永遠におさらばだ。諸戸道雄を忘れてくれ給え。岩屋島を忘れてくれ給え。そして、無理な願いだけれど、初代さんの復讐などということも。
 本土に渡っても警察に告げる事丈けは止して下さい。長年の交誼こうぎにかけて、僕の最後の御頼みだ。

 読終って顔を上げると、諸戸は涙ぐんだ目で、じっと私を見おろしていた。悪魔の父は、遂にその子を監禁したのだ。私は道雄の豹変ひょうへんを責めるよりも、丈五郎の暴虐を恨むよりも、形容の出来ない悲愁に打たれて、胸の中が空虚うつろになった感じだった。
 諸戸は親子という苟且かりそめきずなに、幾度心を乱したことであろう。遥々はるばるこの岩屋島を訪れたのも、深く思えば、私の為でもなく、初代の復讐などの為では無論なく、その実は、親子という絆のさせた業であったかも知れないのだ。そして、最後の土壇場になって、彼は遂に負けた。異様なる父と子の戦いは、かくして終局をつげたのであろうか。
 長い長い間、土蔵の窓の諸戸と目を見交していたが、とうとう彼の方から、もう行けという合図をしたので、私は別段の考えもなく、殆ど機械的に諸戸屋敷の門の方へ歩いて行った。立去る時、諸戸の青ざめた顔のうしろの薄暗い中に、秀ちゃんの怪訝けげんな顔がじっと私を見つめているのに気づいた。それが一層私を果敢はかない気持にした。
 だが、私は無論帰る気になれなんだ。道雄を救わねばならぬ。秀ちゃんを助け出さねばならぬ。仮令道雄が如何いかに反対しようとも、私は初代の敵を見捨ててこの島を立去ることは出来ぬ。そして、あわよくば、なき初代の為に、彼女の財宝を発見してやらねばならぬ。(不思議なことに、私は何の矛盾をも感じないで、初代と秀ちゃんとを、同時に思うことが出来た)諸戸の頼みがなくても、警察の力を借りるのは最後の場合だ。私はこの島に踏み止まって、もっと深く探って見よう。滅入めいっている諸戸を力づけて、正義の味方にしよう。そして、彼の優れた智恵を借りて、悪魔と戦おう。私は諸戸屋敷の自分の居間に帰るまでに、雄々おおしくもこの様に心をめた。
 部屋に帰って暫くすると、久しぶりで傴僂の丈五郎が醜い姿を現わした。彼は私の部屋に這入ると、立ちはだかったまま、
「お前さんは、直ぐに帰る支度をなさるがいい、もう一時でもここの家には、いや、この岩屋島には置いておけぬ。サア、支度をなさるがいい」
 と呶鳴った。
「帰れとおっしゃれば帰りますが、道雄さんはどこにいるのです。道雄さんも一緒でなければ」
「息子は都合があって逢わせる訳には行かぬ。が、あれも無論承知の上じゃ。サア、用意をするのだ」
 争っても無駄だと思ったので、私は一先ず諸戸屋敷を引上げることにした。無論この島を立去る積りはない。島のどこかに隠れていて、道雄なり秀ちゃんなりを、救出すくいだす手だてを講じなければならぬ。
 だが、困ったことには、丈五郎の方でも抜目なく、一人の屈強な下男をつけて、私の行先を見届けさせた。
 下男は私の荷物を持って先に立って歩いて行った。先日私に話しかけた不思議な老人の小屋の所へ来ると、いきなりそこへ這入って行って、声をかけた。
とくさん。おるかな。諸戸の旦那の云いつけだ。舟を出しておくれ。この人をKまで渡すのや」
「この客人が一人で帰るのかな」
 老人はやっぱり、此間このあいだの窓から半身を出して、私の顔をジロジロ眺めながら、答えた。
 そこで結局、下男は私を、その徳さんと云う老人に預けて帰ってしまったのだが、丈五郎が、謂わば彼の裏切者であるこの老人に私をたくしたのは、意外でもあり、薄気味悪くもあった。
 とは云え、この老人が選ばれたことは、私にとって非常な好都合である。私は大略たいりゃくこと仔細しさいを打あけて、老人の助力を乞うた。どうしても今暫く、この島に踏止ふみとどまっていたいと云い張った。
 老人は、先日と同じ筆法で、私の計画の無謀なことを説いたが、私があくまでも自説をまげぬので、遂に我を折って、私の乞いを容れてくれたばかりか、丈五郎をたばかる一つの名案をさえ持出した。
 その名案というのは。
 疑深い丈五郎のことだから、私がこのまま島に留まったのでは、承知する筈もなく、引いては私を預った老人が恨みを買うことになるから、兎も角一度本土まで舟を渡して見せなければならぬ。
 それも、徳さんが一人で舟を漕いで行ったのでは、何の利目ききめもないのだが、さいわい、徳さんの息子が私と年齢も、背恰好も似寄りだから、その息子に私の洋服を着せ、遠目には私に見える様に仕立てて、本土へ渡すことにしよう。私は息子の着物を着て徳さんの小屋に隠れていればよいというのであった。
「お前さんの用事が済むまで、息子にはお伊勢いせ参りでもさせてやりましょうわい」
 徳さんは、そんなことを云って笑った。
 夕方頃徳さんの息子は私の洋服を着込んで、そり身になって徳さんの持舟に乗り込んだ。
 私の影武者を乗せた小舟は、徳さんを漕ぎ手にして、行手にどの様な恐ろしい運命が待構えているかも知らず、夕闇迫る海面を、島の切岸に沿って進んで行った。

殺人遠景


 今や私は一篇の冒険小説の主人公であった。
 二人を送り出して、今まで徳さんの息子が着ていた磯臭いボロ布子ぬのこを身につけると、私は小屋の窓際にうずくまって、障子の蔭から目ばかり出して、小舟の行手を見守っていた。
 牛の寝た姿の岬は、夕もやに霞んで、黒ずんだ海が、鼠色の空と溶け合い、空には一つ二つ星の光さえ見えた。風がいで海面は黒い油の様に静かであったが、丁度満ち潮時で、例の魔の淵の所は、遠目にも渦を為して、海水が洞穴の中へ流れ込んでいるのが見えた。
 小舟は凹凸おうとつの烈しい断崖に沿って、隠れたかと思うと、又切岸の彼方かなたに現われて、段々魔の淵へ近づいて行った。数丈の断崖は、真黒な壁の様で、その下を、おもちゃみたいな小舟が、あぶなげに進んで行く。時たま海面を伝って、虫の鳴く様なの音が聞えて来た。徳さんも、息子の洋服姿も、夕闇にぼかされて、もう豆の様な輪廓丈けしか見えなかった。
 もう一つ岩鼻を曲ると、魔の淵の洞穴にさしかかる丁度その角に達した時、私はふと小舟の真上の切岸の頂に何かしらうごめくもののあるのに気附いた。ハッとして見直すと、それはまぎれもなく一人の男、しかも背中が瘤の様にもり上った傴僂の老人であることが分った。あの醜い姿をどうして見違えるものか。丈五郎だ。だが、諸戸屋敷の主人公が、今頃何用あって、あんな断崖の縁へ出て来たのであろう。
 その傴僂男は、鶴嘴つるはし様のものを手にして、うつむいて、熱心に何事かやっている。鶴嘴に力をこめる度に、鶴嘴のほかに、動くものがある。よく見ると、それは断崖の端に危く乗っている一つの大岩であることが分った。
 アア、読めた。丈五郎は、徳さんの舟が丁度その下を通りかかる折を見計らって、あの大岩を押し落し、小舟を顛覆てんぷくさせようとしているのだ。危い。もっと岸を離れなければ危い。だがここから叫んだ所で、徳さんに聞える筈もない。私はみすみす丈五郎の恐ろしい企らみを知りながら、犠牲者を救う道がないのだ。天運を祈る外にはせんすべがないのだ。
 傴僂の影が一つ大きく動いたかと見ると、大岩がグラグラと揺れて、アッと思う間に、非常な速度で、岩角に当っては、無数のかけらとなって飛び散りながら、小舟を目がけて転落して行った。
 大きな水煙が上って、暫くすると、ガラガラという音が、私の所まで伝わって来た。
 小舟は丈五郎の図に当って顛覆した。二人の乗り手は影もない。岩に当って即死したのか。それとも舟を捨てて泳いでいるのか、残念ながら遠目にはそこまでは分らぬ。
 丈五郎はと見ると、執念深い傴僂男は、ただ舟を顛覆した丈けではあきたらぬと見え、恐ろしいいきおいで鶴嘴を使い、次から次とその辺の大岩小岩を押し落している。すると、まるで海戦の絵でも見る様に、海面一帯に幾つもの水煙が立っては崩れるのだ。
 やがて、彼は鶴嘴の手をやめて、じっと下の様子を窺っていたが、犠牲者の最後を見届けて安心したのか、そのまま向うへ立去った。
 凡ては一瞬間の出来事だった。そして、余りに遠いので、何かしらおもちゃの芝居みたいで、可愛らしい感じがして、二人の生命を奪ったこの悲惨事が、それ程恐ろしいこととは思えなんだ。だが、これは夢でも幻でもない、厳然たる事実なのだ。徳さんとその息子とは、人鬼の奸計によって、恐らくは魔の淵の藻屑もくずと消えてしまったのだ。
 今こそ丈五郎の悪企わるだくみが分った。彼は最初から私をなきものにする積りだったのだ。それを屋敷内で手を下しては何かと危険だものだから、舟にのせて、島との縁を切って置いて、舟の通路になっている断崖の上に待伏せ、魔の淵の迷信を利用して、徳さんの舟が、人間以上のものの魔力によって転覆した如く装おうとしたのだ。それゆえ彼は便利な銃器を使わず、難儀をして大岩を押し落したりしたのである。
 渡船とせんほかの漁師に頼まず、不仲ふなかの徳さんを選んだのにも理由があった。彼は一石にして二鳥を落そうとしたのだ。彼の悪事を感づいている私をなきものにすると同時に、以前の召使で彼に反旗をひるがえした、それ故彼の所業をある程度まで知っている徳さんを、事のついでに殺してしまおうと企らんだのだ。そして、それが見事図に当ったのだ。
 丈五郎の殺人は、私の知っている丈けでも、これで丁度五人目である。しかもよく考えて見ると、恐ろしい事に、その五つの場合は、ことごとく、間接ながら、この私が殺人の動機を作ったと云ってもよいのだ。初代さんは私がなかったなら諸戸の求婚に応じたかも知れない。諸戸と結婚さえすれば彼女は殺されなくて済んだのだ。深山木氏は、いうまでもなく、私さえ探偵を依頼しなければ、丈五郎の魔手にかかる様なことはなかった。少年軽業師もそうだ。又徳さんにしろ、その息子にしろ、私がこの島へ来なかったら、又影武者なぞを頼まなかったら、まさかこんなみじめな最後をとげることはなかったであろう。
 考える程、私は空恐ろしさに身震いした。そして、殺人鬼丈五郎を憎む心が、昨日に幾倍するのを覚えた。もう初代さんの為ばかりではない、外の四人の霊の為にも、私はあくまでこの島に踏み止まって、悪魔の所業をあばき、復讐の念願をとげないでは置かぬ。私の力は余りに弱いかも知れない。警察の助力を乞うのが万全の策かも知れない。だが、この稀代の悪魔が、ただ国家の法律で審かれたのでは満足が出来ぬ。古めかしい言葉ではあるが、目には目を、歯には歯を、そして、彼奴きゃつの犯した罪業と同じ分量の苦痛をめさせないでは、此の私の腹が癒えぬのだ。
 それには、丈五郎が私をなきものにしたと思い込んでいるのをさいわい、先ず出来る丈け巧みに、徳さんの息子に化けおおせて、彼の目を逃れることが肝要だ。そして、ひそかに土蔵の中の道雄としめし合わせて、復讐の手段を考えるのだ。道雄とても、今度の殺人を聞いたなら、それでも親の味方をしようとは云わぬであろう。又、仮令道雄が不同意でも、そんなことに構っては居られぬ。私はあくまでも念願を果す為に努力する決心だ。
 仕合せなことに、そののち幾日たっても、徳さんの死骸も、息子の死骸も発見されなかった。恐らく、魔の洞穴の奥深く吸込まれてしまったのでもあろう。それ故、私は首尾よく徳さんの息子に化けおおせることが出来た。尤も、いつまでたっても徳さんの舟が帰らぬので、不審がって私の小屋を見舞いに来る漁師もないではなかったが、私は病気だといって、部屋の隅の薄暗い所に二つ折の屏風を立てて、顔をかくしてごまかしてしまった。
 昼間は大抵小屋にとじこもって人目を避け、夜になると闇にまぎれて私は島中を歩き廻った。土蔵の窓の道雄や秀ちゃんを訪ねるのは勿論、島の地理に通暁して、何かの折に役に立てることを心掛けた。諸戸屋敷の様子に心を配ったのは云うまでもないが、時には、人なき折を見すまして、門内に忍び入り、開かずの部屋の外側に廻って、密閉された戸の隙間から、内部の物音の正体を窺いさえした。
 さて読者諸君、私は斯様かようにして、無謀にも世に類なき殺人魔を向うに廻して、たたかいの第一歩を踏み出したのである。私の行手にどの様な生き地獄が存在したか。どの様な人外境が待ち構えていたか。この記録の冒頭に述べた、一夜にして私の頭髪を雪の様にした、あの大恐怖について書き記すのも、左程遠いことではないのである。

屋上の怪老人


 私は影武者のお蔭で危く難を逃れたが、少しも助ったという気持はしなかった。徳さんの息子に化けている私は、うっかり小屋の外へ姿を現わすことも出来ず、まして舟を漕いで島を抜け出すなんて思いも寄らぬことであった。私はまるで、私の方が犯罪人ででもある様に、昼間はじっと徳さんの小屋の中に隠れて、夜になるとコソコソと外気を呼吸したり、縮んでいた手足を伸ばす為に小屋を這い出すのであった。
 食物は、まずいのさえ我慢すれば、当分しのぐ丈けのものはあった。不便な島のことだから、徳さんの小屋には、米も麦も味噌もまきも、たっぷり買い溜めてあったのだ。私はそれから数日の間、えたいの知れぬ干魚をかじり、味噌を嘗めて暮した。
 私は当時の経験から、どんな冒険でも苦難でも、実際ぶっつかって見ると、そんなでもない、想像している方がずっと恐ろしいのだ、ということを悟った。
 東京の会社で算盤をはじいていた頃の私には、まるで想像もつかない、架空のお話か夢の様な境遇である。真実私は一人ぼっちで、徳さんのむさくるしい小屋の隅に寝転んで天井板のない屋根裏を眺め、絶間ない波の音を聞き、磯の香を嗅ぎながら、此間このあいだからの出来事を、みんな夢ではないかと変な気持になったことも度々であった。それでいて、そんな恐ろしい境遇にいながら、私の心臓はいつもの通り、しっかりと脈うっていたし、私の頭は狂った様にも思われぬ。人間は、どんな恐ろしい事柄でも、いざぶつかって見ると、思った程でなく、平気で堪えて行けるものである。兵士が鉄砲玉に向って突貫出来るのも、これだなと思って、私は陰気な境遇にも拘らず、妙に晴々した気持ちにさえなるのであった。
 それは兎も角、私は先ず第一に諸戸屋敷の土蔵の中に幽閉されている、諸戸道雄に事の仔細しさいを告げて、善後の処置を相談しなければならなかった。昼間が怖いと云って、暮れ切ってしまっては、電燈もない島の事だから、どうすることも出来ない。私は黄昏時たそがれどきの、遠目には人顔もさだかに分らぬ時分を見計らって、例の土蔵の下へ行った。心配した程のこともなく、島中の人が死絶えたかと思う様に、どこにも人影はなかった。でも、私は目的の土蔵の窓の下にたどりつくと、丁度その土塀のきわにあった一つの岩を小楯こだてに身を隠して、じっと、あたりの様子を窺った。塀の中や土蔵の窓から人声でもれはせぬかと聞き耳を立てた。
 夕闇の中に、蔵の窓は、ポッカリと黒い口を開けて、黙りこんでいる。遠くの波打際から響いて来る単調な波の音の外には何の物音もない。「やっぱり夢を見ているのではないか」と思う程、凡てが灰色で、声も色もない、うら淋しい景色であった。
 長い躊躇ちゅうちょの後、私はやっと勇気を出して、用意して来た紙つぶてを、狙いを定めて投げると、白い玉が、うまく窓の中へ飛込んだ。その紙に、私は昨日からの出来事をすっかり書き記し、私達はこれからどうすればいいのかと、諸戸の意見を聞いてやったのである。
 投げてしまうと、又元の岩の蔭に隠れて、じっと待っていたが、諸戸の返事は仲々戻って来ぬ。若しかしたら、彼は私がこの島を立去らなかったのをいかっているのではないかと心配し始めた頃、もう殆んど暮れ切って、土蔵の窓を見分けるのもむずかしくなった時分に、やっと、その窓の所へボンヤリと白い物が現われ、紙つぶてを私の方へ投げてよこした。
 その白いものは、よく見ると諸戸ではなくて、懐しい双生児の秀ちゃんの顔らしかったが、それが、闇の中でも、何となく悲しげに打沈んでいるのが察しられた。秀ちゃんは已に諸戸から委細のことを聞知ったのであろうか。
 紙つぶてを拡げて見ると、薄闇の中でも読める様に、大きな字の鉛筆書きで、簡単にこんなことが記してあった。云うまでもなく諸戸の筆蹟である。
「今は何も考えられぬ。明日もう一度来て下さい」
 それを読んで、私は黯然あんぜんとした。諸戸は彼の父親ののっぴきならぬ罪状を聞かされて、どんなにか驚き悲しんだことであろう。私と顔を合わせることさえ避けて、秀ちゃんに紙つぶてを投げさせたのを見ても、彼の気持が分るのだ。
 私は、土蔵の窓からじっと、私の方を見つめているらしいボンヤリと白い秀ちゃんの顔に、うなずいて見せて、夕闇の中を、トボトボと徳さんの小屋に帰った。そして、燈火ともしびもつけず、獣の様に、ゴロリと横になったまま、何を考えるともなく考えつづけていた。
 翌日の夕方、土蔵の下へ行って合図をすると、今度は諸戸の顔が現われて、の様な文句を認めた紙切れをひょいと投げてよこした。
「こんなになった私を見捨てないで、色々苦労をしてくれたのは、感謝の言葉もない。本当のことを云うと、僕は、君がこの島を去ったものと思って、どんなにか失望していただろう。僕は君と離れては、淋しくて生きていられないことが、しみじみ分った。丈五郎の悪事もはっきりした。僕はもう親子という様な事は考えないことにしよう。父は憎いばかりだ。愛情なんて少しも感じない。却って他人の君に烈しい執着を覚える。君の助けを借りてこの土蔵を抜け出そう。そして、可哀想な人達を救わねばならぬ。初代さんの財産も発見せねばならぬ。それはつまり君を富ませることだからね。土蔵を抜け出すについては僕に考えがある。少し時期を待たねばならぬ。その計画については、追々おいおいに知らせることにしよう。毎日人目のない折を見計らって、出来る丈け度々土蔵の下へ来て下さい。昼間でもここへは滅多に人も来ないから大丈夫です。併し、丈五郎に君の生きていることを悟られては一大事です。用心の上にも用心して下さい。それから不健康な生活で、病気などせぬ様に、くれぐれも祈ります」
 諸戸は一度ぐらついた決心をひるがえして、親子の義理を断ったのである。だが、その裏には、私に対する不倫なる愛情が、重大な動機となっていることを思うと、私は非常に変てこな気持になった。諸戸の不思議な熱情は、私には到底理解出来なかった。寧ろ怖い様にさえ思われた。
 それから五日の間、私達はこの不自由な逢瀬おうせを続けた。(逢瀬とは変な言葉だが、その間の諸戸の態度は、何となくこの言葉にふさわしかった)その五日間の私の心持なり行動なりを詳しく思出せば、随分書くこともあるけれど、全体のお話には大して関係のないことだから、凡て略すことにして、要点丈けをつまんで見ると、
 あの謎の様な出来事を発見したのは、三日目の早朝、諸戸と紙つぶての文通をする為に、私が何気なく土蔵に近づいた時であった。
 まだ朝日の昇らぬ前で、薄暗くもあったし、それに島全体を朝もやが覆っていて、遠目が利かなんだせいもあるが、何よりもそれが余り意外な場所であった為に、私は例の塀外の岩の五六けん手前まで、まるで気附かないでいたが、ふと見ると、土蔵の屋根の上に、黒い人影がモゴモゴと蠢いているではないか。
 ハッとして、矢庭やにわにあと戻りをして、土塀どべいの角になった所へ身を隠して、よく見ると、屋根の上の人物というのは、外ならぬ傴僂の丈五郎であることが分った。顔を見ずとも、身体全体の輪廓でたちまちそれと分るのだ。
 私はそれを見ると、諸戸道雄の身の上を気遣わないではいられなかった。この片輪の怪物が姿を見せる所、必ず兇事が伴った。初代が殺される前に怪老人を見た。友之助が殺された晩には、私がその醜い後姿を目撃した。そしてつい此間は、彼が断崖の上で鶴嘴をふるうと見るや、徳さん親子が魔の淵の藻屑と消えたではないか。
 だが、まさか息子を殺すことはあるまい。殺し得ないからこそ、土蔵に幽閉する様な手ぬるい手段をとったのではないか。
 いやいや、そうではない、道雄の方でさえ親に敵対しようとしているのだ。それをあの怪物が我子の命を奪う位、何躊躇するものか。道雄があくまで敵対すると見極めがついたものだから、愈々彼をなきものにしようと企らんでいるに相違ない。
 私が塀の蔭に身を隠して、やきもきとそんなことを考えている間に、怪物丈五郎は、少しずつ薄らいで行く朝もやの中に段々その醜怪な姿をハッキリさせながら、屋根の棟の一方の端に跨って、しきりと何かやっていた。
 アア、分った。彼奴きゃつ鬼瓦をはずそうとしているのだ。
 そこには、土蔵の大きさにふさわしい、立派な鬼瓦が、屋根の両端に、いかめしく据えてあった。東京あたりでは一寸見られぬ様な、古風な珍らしい型だ。
 土蔵の二階には天井が張ってないだろうから、あの鬼瓦をはがせば、屋根板一枚の下はすぐ、諸戸道雄の幽閉された部屋である。危い危い、頭の上で恐ろしい企らみが行われているとも知らず、諸戸はあの下でまだ眠っているかも知れない。と云って、あの怪物のいる前で、口笛を吹いて合図をすることも出来ず、私はイライラするばかりで、何とせんすべもないのである。
 やがて、丈五郎はその鬼瓦をすっかりはずして小脇に抱えた。二尺以上もある大瓦なので、片輪者には、抱えるのもやっとのことである。
 さて、次には鬼瓦の下の屋根板をめくって、道雄と双生児の真上から、丈五郎の醜い顔がヒョイと覗いて、ニヤニヤ笑いながら、愈々残虐な殺人にとりかかる。
 私はそんな幻を描いて、脇の下に冷汗を流しながら、立竦たちすくんでいたのだが、意外なことには、丈五郎は、その鬼瓦を抱えたまま、屋根の向側へおりて行ってしまった。邪魔な鬼瓦をどこかに運んで置いて、身軽になって元の所へ戻って来るのだろうと、いつまで待っても、そんな様子はないのである。
 私はオズオズと塀の蔭から例の岩の所まで進んで、そこに身を隠して、なおも様子を窺っていたが、その内に朝もやはすっかりはれ渡り、岩山の頂から大きな太陽が覗き、土蔵の壁を赤々と照らす頃になっても、丈五郎は、遂に再び姿を見せなかったのである。

神と仏


 先程から、たっぷり三十分はたっているので、もう大丈夫だろうと、私は岩蔭に身を潜めたまま、思い切って、小さく口笛を吹いて見た。諸戸を呼出す合図である。
 すると待構えていた様に、蔵の窓に諸戸の顔が現われた。
 岩蔭から首を出して、大丈夫かと目で尋ねると、諸戸がうなずいて見せたので、私は用意の手帳を裂いて、手早く丈五郎の不思議な仕草について書き記し、その辺の小石を包んで、窓を目がけて投込んだ。
 暫く待つと諸戸の返事が来た。その文句は大体の様なものであった。
「僕は君の手紙を見て、非常な発見をした。喜んで呉れ給え。僕等の目的の一つは、間もなく成就することが出来相だ。又、僕の身にさし当り危険はないから安心し給え。詳しく書いている暇はないから、ただ君にして貰い度いこと丈け書く。それによって、君は充分僕の考を察することが出来よう。
 1、危険をおかさぬ範囲で、この島のあらゆる隅々を歩き廻り、何か祭ってあるもの、例えば稲荷いなり様のほこらとか、地蔵様とか、神仏に縁あるものを探し出して、知らせて下さい。
 2、近い内に諸戸屋敷の傭人やといにん達が、何かの荷物を積んで、舟を出す筈だ。それを見つけたら、すぐに知らせて下さい。その時の人数もしらべて下さい」
 私はこの異様な命令を受取って、一応は考えて見たけれど、無論諸戸の真意を悟ることは出来なんだ。と云って、又紙つぶてで、尋ね返していては、時間をとるばかりだし、いつ丈五郎が土蔵の中へ這入って来ぬとも限らぬので、諸戸の思慮を信頼して、私はすぐ様その場を立去った。
 それから諸戸の命令に従って、なるべく人家のない所、人通りのない所と、まるで泥棒の様に隠れ廻って、終日島の中を歩き廻った。仮令人に出会っても化けの皮がはげぬ様、深く頬冠りをし、着物は無論徳さんの息子の古布子ふるぬのこで、手先や足に泥を塗って、一寸見たのでは分らぬ様にしてはいたが、それでも、昼日中、野外を歩き廻るのだから、私の気苦労は一通りではなかった。それに、海辺とは云え、もう八月に入っていたので、炎天を歩き廻るのは随分苦しかったけれど、この様な非常の場合、暑さなど気にしているひまはなかった。だが、そうして歩いて見て分ったことだが、この島は何という寂れ果てた場所であろう。人家はあっても、人がいるのかいないのか、長い間歩いていて、遠目に二三人の漁師の姿を見た外には、終日誰にも出会わないのだ。これなら何も用心することはないと、私はいささか安堵あんどすることが出来た。
 私はその日の夕方までに、島を一周してしまったが、結局神仏に縁のあるらしいものを二つ丈け発見した。
 岩屋島の西側は海岸で、それは諸戸屋敷とは、中央の岩山を隔てて反対の側なのだが、殆ど人家はなく、断崖の凹凸が殊に烈しくて、波打際に様々の形の奇巌が、そそり立っている。その中に一際目立つ烏帽子えぼし型の大岩があって、その大岩の頂に、丁度二見ふたみうら夫婦めおと岩の様に、石で刻んだ小さな鳥居が建ててある。何百年前かこの島がもっと賑かであった時分、諸戸屋敷のあるじが城主の様な威勢をふるっていた時分、その海岸の平穏を祈る為に建てられたものであろう。御影石みかげいしの鳥居は薄黒い苔に覆われて、今ではその大岩の一部分と見誤る程に古びていた。
 もう一つは、同じ西側の海岸の、その烏帽子岩と向き合った小高い所に、これも非常に古い石地蔵が立っていた。昔はこの島を一周して完全な人道が出来ていたらしく、所々その跡が残っているのだが、石地蔵はその人道に沿って、道しるべの様に立っているのだ。無論おまいりをする人なぞはないものだから、奉納物もなく、地蔵尊と云うよりは、人間の形をした石塊いしころであった。目も鼻も口も、磨滅して、のっぺらぼうで、それが無人の境にチョコンと立っている姿を見た時は、私はギョッとして思わず立止った程である。台座に可成かなり大きな石が使ってあるので、転びもせずに、幾年月を、元の位置に立尽していたものであろう。
 あとで考えたことだけれど、この石地蔵は、昔は島の諸所に立っていたものらしく、現に北側の海岸などには、石地蔵の台座と覚しきものが残っていた程である。それが、子供の悪戯などで、いつとなく姿を消して行き、最も不便な場所であるこの西側の海岸の分丈けが、幸運にも今だに取残されていたものに相違ない。
 私の歩き廻った所では、島中に、神仏に縁のあるものと云っては、右の二つ丈けで、その外には、諸戸屋敷の広い庭に、何様の祠だか知らぬけれど、可成立派なおやしろが建ててあったのを覚えている位のものである。だが、諸戸が私に探せと云ったのは、諸戸屋敷の内部のものでなかったのは云う迄もない。
 烏帽子岩の鳥居は「神」である。石地蔵は「仏」である。神と仏。アア、私は何だか諸戸の考えが分り出して来た様だ。それは云うまでもなく、例の呪文の様な暗号文に関聯しているのだ。私はその暗号文を思出して見た。
神と仏がおうたなら
巽の鬼をうちやぶり
弥陀の利益をさぐるべし
六道の辻に迷うなよ
 この「神」とは烏帽子岩の鳥居を指し「仏」とは例の石地蔵を意味するのではあるまいか。それから、アア、段々分って来たぞ。この「鬼」というのは、今朝丈五郎が取りはずして行った土蔵の屋根の鬼瓦に一致するのではないかしら。そうだ。あの鬼瓦は土蔵の東南の端にのせてあった。東南は巽の方角に当るのではないか。あの鬼瓦こそ「巽の鬼」だ。
 呪文には、「巽の鬼を打破り」とある。ではあの鬼瓦の内部に財宝が隠してあったのかしら。若しそうだとすれば、丈五郎はもうとっくに、あの鬼瓦を打割って、中の財宝を取出してしまったのではあるまいか。
 だが、諸戸がそこへ気のつかぬ筈はない。丈五郎が鬼瓦を持去ったことは、私がちゃんと通信したのだし、その通信を読んで、彼は初めて何事かに気附いたらしいのだから、この呪文にはもっと別の意味があるに相違ない。鬼瓦を割る丈けならば、第一の文句は不必要になってしまうのだから。
 それにしても「神と仏と会う」というのは一体全体何の事だろう。仮令その「神」が烏帽子岩の鳥居であり、「仏」が石地蔵であったとした所で、その二つのものが、どうして会うことが出来るのだろう。やっぱりこの「神仏」というのは、もっと全く別なものを意味しているのではあるまいか。
 私は色々と考えて見たが、どうしてもこの謎を解くことは出来なんだ。ただ今日の出来事でハッキリしたのは、私達が嘗つて東京の神田の西洋料理店の二階へ隠して置いた、暗号文と双生児の日記帳とを盗んだ奴は、当時想像した通り、やっぱり怪老人丈五郎であったということである。そうでなければ、彼が鬼瓦をはずした意味を解くことが出来ない。彼はそれまでは、庭を掘り返したりして、無闇に諸戸屋敷を屋探ししていたのだが、暗号文を手に入れると、一生懸命にその意味を研究して、遂に「巽の鬼」が土蔵の鬼瓦に一致することを発見したものに相違ない。
 若しや丈五郎の解釈が図に当って、彼は已に財宝を手に入れてしまったのではあるまいか。それとも、彼の解釈には、非常な間違いがあって、鬼瓦の中には何も入っていなかったかも知れない。諸戸は果してあの暗号文を正しく理解しているのかしら。私はやきもきしないではいられなかった。

片輪者のむれ


 同じ日の夕方、私は土蔵の下へ行って、例の紙つぶてによって、私の発見した事柄を諸戸に通信した。その紙切れには、念の為に烏帽子岩と石地蔵の位置を示す略図まで、書加えて置いた。
 暫く待つと、諸戸が窓の所に顔を出して、の様な手紙を投げた。
「君は時計を持っているか、時間は合っているか」
 突飛な質問である。だが、いつ私の身に危険が迫るかも知れないし、不自由極まる通信なのだから、前後の事情を説明している暇のないのも無理ではない。私はそれらの簡単な文句から彼の意のある所を推察しなければならないのだ。
 幸い私は腕時計を、二の腕深く隠し持っていた。捻子ねじも注意して捲いていたから、多分大した時間の違いはなかろう。私は窓の諸戸に腕をまくって見せて、手真似で時間の合っていることを知らせた。
 すると、諸戸は満足らしく肯いて、首を引込めたが、暫く待つと、今度は少し長い手紙を投げてよこした。
「大切なことだから、間違いなくやってくれ給え。大方察しているだろうが、宝の隠し場所が分り相なのだ。丈五郎も気附き始めたけれど、大変な間違いをやっている。僕等の手で探し出そう。確かに見込みがある。僕がここを抜け出すまで待っていられない。
 明日空が晴れていたら、午後四時頃(もっと早く行く方が確かだ)烏帽子岩へ行って、石の鳥居の影を注意してくれ給え。多分その影が石地蔵と重なる筈だ。重なったら、その時間を正確に記憶して帰ってくれ給え」
 私はこの命令を受取ると、急いで徳さんの小屋へ帰ったが、その晩は呪文のことの外は何も考えなかった。
 今こそ私は、呪文の「神と仏が会う」という意味を明かにすることが出来た。本当に会うのではなくて、神の影が仏に重なるのだ。鳥居の影が石地蔵に射すのだ。何といううまい思いつきだろう。私は今更らの様に、諸戸道雄の想像力を讃嘆しないではいられなかった。
 だが、そこまでは分るけれど、「神と仏が会うたなら、巽の鬼を打破り」という巽の鬼が、今度は分らなくなって来る。丈五郎が大間違いをやっているというのだから、土蔵の鬼瓦ではないらしい。と云って、その外に「鬼」と名のつくものが、一体どこにあるのだろう。
 その晩は、つい疑問の解けぬままに、いつか眠ってしまったが、翌朝、この島には珍らしいガヤガヤという人声に、ふと目を覚ますと、小屋の前を、船着場の方へ、聞き覚えのある声が通り過ぎて行く。疑いもなく諸戸屋敷の傭人達だ。
 私は諸戸に命じられていたことがあるものだから、急いで起上って、窓を細目に開いて覗くと、遠ざかって行く三人の後姿が見えた。二人が大きな木箱を吊って、一人がその脇につき添って行く。それが双生児の日記にあった助八爺さんで、あとの二人は、諸戸屋敷で見かけた屈強な男達だ。
 諸戸が先日「近い内に諸戸屋敷の傭人達が、荷物を積んで、舟を出す筈だ」と書いたのはこれだなと思った。私はその人数を彼に知らせることを頼まれているのだ。
 窓を開いてじっと見ていると、三人連れは段々小さくなって遂に岩蔭に隠れてしまったが、待つ程もなく、舟着場の方から一そう帆前船ほまえせんが、帆を卸したまま、私の眼界へ漕ぎ出して来た。遠いけれど、乗っているのはさっきの三人と、荷物の木箱であることはよく分った。少し沖に出ると、スルスルと帆が上って舟は朝風に追われ、見る見る島を遠ざかって行った。
 私は約束に従って、早速このことを諸戸に知らせなければならぬ。もうその頃は、昼間出歩くことに馴れてしまって、滅多に人通りなぞありはしないと、多寡たかくくっていたので、何の躊躇もなく、私は直様すぐさま小屋を出て、土蔵の下へ行った。
 紙つぶてで事の仔細を告げると、諸戸から、勇ましい返事が来た。
「彼等は一週間程帰らぬ筈だ。彼等が何をしに行ったかも分っている。もう邸の中には手強い奴はいない。逃げるのは今だ。助力を頼む。君は一時間ばかりその岩蔭に隠れて僕の合図を待ってくれ給え。僕がこの窓から手を振ったら、大急ぎで表門へ駈けつけ、邸内を逃げ出す奴があったら引捉えてくれ給え。女と片輪ばかりだから、大丈夫だ。愈々戦争だよ」
 この不意の出来事の為に、私達の宝探しは一時中止となった。私は諸戸の勇ましい手紙に胸を躍らせながら、窓の合図を待ち構えた。諸戸の計画がうまく行けば、私達は間もなく、久し振りで口を利き合うことが出来るのだ。そして、私がこの島に来たときからあこがれていた秀ちゃんの顔を、間近に見、声を聞くことさえ出来るのだ。この日頃の奇怪なる経験は、いつの間にか、私を冒険好きにしてしまった。戦争と聞いて肉が躍った。東京にいた頃の私には、思いも及ばなかった気持である。
 諸戸は親達と戦おうとしている。世の常のことではない。彼の気持はどんなだろうと思うと、その刹那の来るのをじっと待っている私も、心臓が空っぽになった様な感じである。それにしても、彼は腕力で親達に手向う積りなのであろうか。
 長い長い間、私は岩蔭にすくんでいた。暑い日だった。岩の日蔭ではあったけれど、足下の砂が触れない程焼けていた。いつもは涼しい浜風も、その日はそよともなく、波の音も、私自身が聾になったのではないかと怪しむ程、少しも聞えて来なかった。何とも底知れぬ静寂の中に、ただジリジリと夏の日が輝いていた。
 クラクラと眩暈めまいがしそうになるのを、こらえこらえして、じっと土蔵の窓を見つめていると、とうとう合図があった。鉄棒の間から、腕が出て、二三度ヒラヒラと上下するのが見えた。
 私は矢庭に駈け出して、土塀を一廻りすると、表門から諸戸屋敷へ踏み込んで行った。
 玄関の土間へ這入って、奥の方を覗いて見たが、ヒッソリとして人気ひとけもない。
 仮令対手あいては片輪者とは云え、奸智かんちにたけた兇悪無残な丈五郎のことだ、諸戸の身の上が気遣われた。あべこべにひどい目に会っているのではあるまいか、邸内が静まり返っているのが何となく不気味である。
 私は玄関を上って、曲りくねった長い廊下を、ソロソロとたどって行った。
 一つの角を曲ると、十間程も続いた長い廊下に出た。巾は一間以上もあって、昔風に赤茶けた畳が敷いてある。屋根の深い窓の少い古風な建物なので、廊下は夕方の様に薄暗かった。
 私がその廊下へヒョイと曲った時、私と同時に、やっぱり向うの端に現われたものがあった。それが恐ろしいいきおいで、もつれ合いながら私の方へ走って来るのだ。余り変な恰好をしているので、私は急にはその正体が分らなんだが、そのものが、見る見る私に接近して、私にぶっつかり妙な叫声をたてた時、初めて私は双生児の秀ちゃんと吉ちゃんであることを悟った。
 彼等はボロボロになった布切を身にまとい、秀ちゃんは簡単に髪をうしろで結んでいたが、吉ちゃんの方は、時々は散髪をして貰うのか、百日鬘の様な不気味な頭であった。二人共檻禁を解かれたことを、無性に喜んで、子供の様に踊っていた。私の前で、私の方に笑いかけながら、踊り狂う二人を見ていると、妙な形のけだものみたいな感じがした。
 私は知らぬ間に秀ちゃんの手を掴んでいた。秀ちゃんの方でも、無邪気に笑いかけながら、懐かし相に私の手を握り返していた。あんな境遇にいながら、秀ちゃんの爪が綺麗に切ってあったのが、非常にいい感じを与えた。そんな一寸した事に、私はひどく心を動かすのだ。
 野蛮人の様な吉ちゃんは、私と秀ちゃんが仲よくするのを見て、たちまち怒り出した。教養を知らぬ生地きじのままの人間は、猿と同じことで、怒った時に歯をむきだすものだということを、私はその時知った。吉ちゃんはゴリラみたいに歯をむき出して、身体全体の力で、秀ちゃんを私から引離そうと、もがいた。
 そうしている所へ、騒ぎを聞きつけたのか、私のうしろの方の部屋から、一人の女が飛び出して来た。唖のおとしさんである。彼女は双生児が土蔵を抜け出したことを知ると、真青になって矢庭に秀ちゃん達を奥の方へ押し戻す恰好をした。
 私はこの最初の敵を、苦もなく取押えた。対手は手をねじられながら、首を曲げて私を見、忽ち私の正体を悟ると、ギョッとして力が抜けてしまった。彼女は何が何だか少しも訳が分らぬらしく、従ってあくまで抵抗しようともしなかった。
 そこへ、さっき双生児が走って来た方角から、奇妙な一団が現われて来た。先頭に立っているのは、諸戸道雄、そのあとに不思議な生物が五六人、ウヨウヨと従っていた。
 私は諸戸屋敷に片輪者がいることは聞いていたが、皆明かずの部屋にとじ籠められていたので、まだ一度も見たことがなかった。多分諸戸は、今その明かずの部屋を開いて、この一群の生物に自由を与えたのであろう。彼等は夫々それぞれの仕方で、喜びの情を表わし、諸戸になついている様に見えた。
 顔半面に墨を塗った様に毛の生えた、俗に熊娘くまむすめという片輪者がいた。手足は尋常であったが、栄養不良らしく、細々と青ざめていた。何か口の中でブツブツ云いながら、それでも嬉し相に見えた。
 足の関節が反対に曲った蛙の様な子供がいた。十歳ばかりで可愛い顔をしていたが、そんな不自由な足で、活溌にピョンピョンと飛び廻っていた。
 小人島が[#「小人島が」は底本では「小人が」]三人いた。大人の首が幼児の身体に乗っている所は普通の一寸法師であったが、見世物などで見かけるのと違って、非常に弱々しく、くらげの様に手足に力がなくて、歩くのも難儀らしく見えた。一人などは、立つことが出来ず、可哀想に三つ子の様に畳の上を這っていた。三人共、弱々しい身体で大きな頭を支えているのがやっとであった。
 薄暗い長廊下に、二身一体の双生児を初めとして、それらの不具者共が、ウジャウジャとかたまっているのを見ると、何とも云えぬ変な感じがした。見た目は寧ろ滑稽であったが、滑稽な丈けに、却ってゾッとする様な所があった。
「アア、蓑浦君、とうとうやっつけた」
 諸戸が私に近寄って、つけ元気みたいな顔で云った。
「やっつけたって、あの人達をですか」
 私は諸戸が丈五郎夫婦を殺したのではないかと思ったのだ。
「僕達の代りにあの二人を土蔵の中へ締込んでしまった」
 彼は両親に話しがあると偽って、蔵の中へおびき寄せ、咄嗟とっさの間に双生児と共に外へ出て、うろたえている二人の片輪者を、土蔵の中へとじ籠めてしまったのである。丈五郎がどうして易々と、彼の策略に乗ったかというに、それには充分理由があったのだ。私は後になってそのことを知った。
「この人達は」
「片輪者さ」
「だが、どうして、こんなに片輪者を養って置くのでしょう」
「同類だからだろう、詳しいことはあとで話そうよ。それより僕達は急がなければならない。三人の奴等が帰るまでにこの島を出発したいのだ。一度出て行ったら五六日は大丈夫帰らない。その間に、例の宝探しをやるのだ。そして、この連中をこの恐ろしい島から救い出すのだ」
「あの人達はどうするのです」
「丈五郎かい。どうしていいか分らない。卑怯ひきょうだけれど、僕は逃げ出す積りだ。財産を奪い、この片輪の連中を連れ去ったらどうすることも出来ないだろう。自然悪事を止すかも知れない。兎も角僕にはあの人達を訴えたり、あの人達の命を縮めたりする力はない。卑怯だけれど、置去りにして逃げるのだ。これ丈けは見逃してくれ給え」
 諸戸は黯然あんぜんとして云った。

三角形の頂点


 片輪者は皆おとなしかったので、その見張りを秀ちゃんと吉ちゃんに頼んだ。性悪しょうわるの吉ちゃんも、自由を与えてくれた諸戸の云いつけには、よく従った。
 唖のおとしさんには、秀ちゃんの手真似で、諸戸の命令を伝えた。おとしさんの役目は、土蔵の中の丈五郎夫婦と、片輪者達の為に三度三度の食事を用意することだった。土蔵の扉は決して開いてはならぬこと、食事は庭の窓から差入れることなどを繰返し命じた。彼女は丈五郎夫婦に信服していた訳ではなく寧ろ暴虐な主人を恐れ憎んでいた位だから、訳を聞くと少しも反抗しなかった。
 諸戸がテキパキと事を運んだので、午後にはもう、この騒動のあと始末が出来てしまった。諸戸屋敷には、男の傭人は三人しかいず、それが皆出払っていたので、私達はあっけなく戦いに勝つことが出来たのだ。丈五郎にして見れば、私は已にないものと思っているし、土蔵の中の道雄は、まさか親に対してこんな反抗をしようとは思いがけぬものだから、つい油断をして肝腎の護衛兵を皆出してやったのであろうが、そのきょに乗じた諸戸の思い切ったやり口が、見事にこうそうした訳である。
 三人の男が何をしに出掛けたのか、どうして五六日帰って来ないのか、私が尋ねても、諸戸は何故かハッキリした答えをしなかった。そして、「奴等の仕事が五六日以上かかることは、ある理由で僕はよく知っているのだ。それは確かだから安心し給え」と云うばかりであった。
 その午後、私達は連立って、例の烏帽子岩の所へ出掛けた。宝探しを続ける為である。
「僕は二度とこのいやな島へ来たくない。と云って、このまま逃出してしまっては、あの人達に悪事の資金を与える様なものだ。若し宝が隠してあるものなら、僕達の手で探出しい。そうすれば、東京にいる初代さんの母親も仕合せになるだろうし、また沢山の片輪者を幸福にする道も立つ。僕としてもせめてもの罪亡ぼしだ。僕が宝探しを急いでいるのは、そういう気持からだよ。一体なれば、これを世間に公表して、官憲の手をわずらわすのが本当だろうが、それは出来ない。そうすれば僕の父親を断頭台へ送ることになるんだからね」
 烏帽子岩への道で、諸戸は、弁解する様に、そんなことを云った。
「それは分ってますよ。外に方法のないことは僕にもよく分っていますよ」
 私は真実その様に思っていた。暫くして私は当面の宝探しの方へ話題を持って行った。
「僕は宝そのものよりも、暗号を解いて、それを探し出すことに、非常な興味を感じているのです。だが、僕にはまだよく分りません。あなたはすっかり、あの暗号を解いてしまったのですか」
「やって見なければ分らないけれど、何だか解けた様に思うのだが、君にも、僕の考えていることが大体分っているでしょう」
「そうですね。呪文の『神と仏がおうたなら』というのは、烏帽子岩の鳥居の影と石地蔵とが一つになる時という意味だ。という位のことしか分らない」
「そんなら、分っているんじゃないか」
「でも、巽の鬼を打破りってのが、見当がつかないのです」
「巽の鬼というのは、無論、土蔵の鬼瓦の事さ。それは君が僕に教えて呉れたんじゃありませんか」
「すると、あの鬼瓦を打破れば、中に宝が隠されているのですか。まさか、そうじゃないでしょう」
「鳥居と石地蔵の場合と同じ考え方をすればいいのさ。つまり、鬼瓦そのものでなくて、鬼瓦の影を考えるのだ。そうでなければ、第一句が無意味になるからね。それを丈五郎は、鬼瓦そのものだと思って、屋根へあがってとりはずしたりしたんだ。僕は蔵の窓からあの人が鬼瓦を割っているのを見たよ。無論何も出やしなかった。併し、そのお蔭で僕は、暗号を解く手がかりが出来たんだけれど」
 私はそれを聞くと、何だか自分が笑われている様に感じて、思わず赤面した。
「馬鹿ですね。僕はそこへ気づかなかったのです。すると丁度鳥居の影が石地蔵に一致した時、鬼瓦の影の射す場所を探せばいい訳ですね」
 私は、諸戸が私の時計について尋ねたことを思い出しながら云った。
「間違っているかも知れないけれど、僕にはそんな風に思われるね」
 私達は長い道をこんな、会話を取交わした他は、多く黙り込んで歩いた。諸戸が非常に不愛相で、私を黙らせてしまったのだ。彼は父親を押籠めた不倫について考えていたに相違ない。父という言葉を使わないで、丈五郎と呼び捨てにしていた彼ではあるが、それが親だと思うと、打沈むのはすこしも無理ではなかった。
 私達が目的の海岸へ着いた時は、少し時間が早過ぎて、烏帽子岩の鳥居の影は、まだ切岸の端にあった。
 私達は時計の捻子を捲いて、時の移るのを待った。
 日蔭を選んで腰を卸していたけれど、珍らしく風のない日でジリジリと背中や胸を汗が流れた。
 動かないようでも、鳥居の影は、目に見えぬ早さで、地面を這って、少しずつ少しずつ、丘の方へ近づいて行った。
 だが、それが石地蔵の数間手前まで迫った時、私はふとある事に気づいて、思わず諸戸の顔を見た。すると、諸戸も同じことを考えたと見えて、変な顔をしているのだ。
「この調子で進むと、鳥居の影は石地蔵には射さない様じゃありませんか」
「二三間横にそれているね」諸戸はがっかりした調子で云った。「すると僕の考え違いかしら」
「あの暗号の書かれた時分には、神仏に縁のあるものが、外にもあったかも知れませんね。現に別の海岸にも、石地蔵の跡がある位だから」
「だが、影を投げる方のものは、高い所にある筈だからね、外の海岸にこんな高い岩はないし、島の真中の山には神社の跡らしいものも見えない。どうも、「神」というのはこの鳥居としか思えないのだが」
 諸戸は未練らしく云った。
 そうしている内に、影の方はグングン進んで、殆ど石地蔵と肩を並べる高さに達した。見ると、丘の中腹に投じた鳥居の影と、石地蔵との間には、二間ばかりの隔たりがある。
 諸戸はそれをじっと眺めていたが、何を思ったか、突然笑い出した。
「馬鹿馬鹿しい。子供だって知っていることだ。僕達は少しどうかしているね」云いさして彼は又ゲラゲラ笑った。「夏は日が長い。[#「長い。」は底本では「長い、」]冬は日が短い。君、これは何だね。ハハハハハ、地球に対して太陽の位置が変るからだ。つまり、物の影は、正確に云えば、一日だって同じ場所へ射さないということだ。同じ場所へ射す時は、夏至げし冬至とうじの外は、一年に二度しかない。太陽が赤道へ近づくとき、赤道を離れる時、その往復に一度ずつ。ね、分り切ったことだ」
「成程、本当に僕達はどうかしていましたね。すると、宝探しの機会も一年に二度しかないということでしょうか」
「隠した人はそう思ったかも知れない。そして、それが宝を掘出しにくくする屈強の方法だと誤解したかも知れない。だが、果してこの鳥居と石地蔵が、宝探しの目印なら、何も実際影の重なるのを待たなくても、いくらも手段はあるよ」
「三角形を書けばいい訳ですね。鳥居の影と石地蔵を頂点にして」
「そうだ。そして、鳥居の影と石地蔵との開きの角度を見つけて、鬼瓦の影を計る時にも、同じ角度丈け離れた場所に見当をつければいいのだ」
 私達はそんな小さな発見にも、目的が宝探し丈けに、可成昂奮していた。そこで、鳥居の影が、正しく石地蔵の高さに来た時の時間を見ると、私の腕時計は丁度五時二十五分を差していたので、私はそれを手帳に控えた。
 それから、私達は崖を伝い降りたり、岩によじ昇ったり、色々骨を折った末、鳥居と石地蔵の距離を計り、鳥居の影と石地蔵との隔りも正確に検べて、その三つのものの作りなす三角形の縮図を、手帳に書き記した。この上は明日の午後五時二十五分、諸戸屋敷の土蔵の屋根の影がどこに射すかを確め、今日検べた角度によって、誤差を計れば、愈々いよいよ宝の隠し場所を発見することが出来る訳である。
 だが、読者諸君、私達はまだ完全に例の呪文を解読していた訳ではなかった。呪文の最後には「六道の辻に迷うなよ」という不気味な一句があった。六道の辻とは一体何を指すのか、私達の行手には、若しやその様な地獄の迷路が待ち構えているのではあるまいか。

古井戸の底


 私達は、その夜は諸戸屋敷の一間に、枕を並べて寝たが、私は度々諸戸の声に目を覚さなければならなかった。彼は夜中やちゅう悪夢にうなされ続けていたのだった。親と名のつく人を、監禁しなければならぬ様な、この日頃の心痛に、彼の神経が平静を失っていたのは無理もないことである。寝言の中で、彼は度々私の名を口にした。私というものが、彼の潜在意識中に、そんなにも大きな場所を占めているのかと思うと、私は何だか空恐ろしくなった。仮令同性にもしろ、それ程私のことを思い続けている彼と、こうして、そしらぬ顔で行動を共にしているのは、余りに罪深いわざではあるまいか。と、私は寝られぬままに、そんなことを真面目に考えていた。
 翌日も、例の五時二十五分が来るまでは、私達は何の用事もない身体であった。諸戸には、却ってそれが苦痛らしく、一人で海岸を行ったり来たりして時間をつぶしていた。彼は土蔵のそばへ近寄ることすら恐れている様に見えた。
 土蔵の中の丈五郎夫婦は、あきらめたのか、それとも三人の男の帰るのを心待ちにしているのか、案外おとなしくしていた。私は気になるものだから、度々土蔵の前へ行って、耳をすましたり、窓から覗いて見たりしたが、彼等の姿も見えず、話声さえしなかった。唖のおとしさんが窓から御飯を差入れる時には、母親の方が、階段をおりて、おとなしく受取りに来た。
 片輪者達も一間に寄り集って、おとなしくしていた。ただ私が時々秀ちゃんと話をしに行くものだから、吉ちゃんの方が腹を立てて、訳の分らぬことを呶鳴る位のものであった。秀ちゃんは、話して見ると、一層優しくかしこい娘であることが分って、私達は段々仲よしになって行った。秀ちゃんは智恵のつき始めた子供の様に、次から次と、私に質問をあびせた。私は親切にそれに答えてやった。私は獣みたいな吉ちゃんが、小面憎いものだから、態と秀ちゃんと仲よくして、見せびらかしたりした。吉ちゃんはそれを見ると、真赤に怒って、身体をひねって、秀ちゃんに痛い目を見せるのだ。
 秀ちゃんはすっかり私になついてしまった。私に逢いたさに、えらい力で吉ちゃんを引ずって、私のいる部屋へやって来たことさえある。それを見て、私はどんなに嬉しかったであろう。だが、あとで考えると、秀ちゃんが私をこんなに慕う様になったことが、とんだ禍の元となったのである。
 片輪者の中では、蛙みたいに四足で飛んで歩く、十歳ばかりの可愛らしい子供が、一番私になついていた。シゲという名前だったが、快活な奴で、一人ではしゃいで、廊下などを飛び廻っていた。頭には別状ないらしく、片言まじりで仲々ませたことを喋った。
 余談はさて置き、夕方の五時になると、私と諸戸とは、塀外の、いつも私が身を隠した岩蔭へ出かけて、土蔵の屋根を見上げながら、時間の来るのを待った。心配していた雲も出ず、土蔵の屋根の東南の棟は、塀外に長く影を投げていた。
「鬼瓦がなくなっているから、約二尺丈け余計に見なければいけないね」
 諸戸は私の腕時計を覗きながら云った。
「そうですね。五時二十分。あと五分です。だが、一体こんな岩で出来た地面に、そんなものが隠してあるんでしょうか。何だか嘘みたいですね」
「併し、あすこに、一寸した林があるね。どうも、僕の目分量では、あの辺に当りやしないかと思うのだが」
「アア、あれですか。あの林の中には、大きな古井戸があるんですよ。僕はここへ来た最初の日に、あすこを通って覗いて見たことがあります」
 私はいかめしい石の井桁いげたを思い出した。
「ホウ、古井戸、妙な所にあるんだね。水はあるの」
「すっかり涸れている様です。随分深いですよ」
「以前あすこに別に邸があったのだろうか。それとも、昔はあの辺もこの邸内やしきうちだったのかも知れないね」
 私達がそんなことを話し合っている内に、時間が来た。私の腕時計が五時二十五分を示した。
「昨日と今日では、幾分影の位置が違うだろうけれど、大した間違が生じることもあるまい」
 諸戸は影の地点へ走って行って、地面に石で印をつけると、独言の様に云った。
 それから私達は手帳を出して、土蔵の影の地点との距離を書入れ、角度を計算して、三角形の第三の頂点を計って見ると、諸戸が想像した通り、そこの林の中にあることが分った。
 私達は茂った枝をかき分けて、古井戸の所へ行った。四方をコンモリと樹枝が包んでいるのでその中はジメジメとして薄暗かった。石の井桁によりかかって、井戸の中を覗くと、真暗な地の底から、気味の悪い冷気が頬をうった。
 私達はもう一度正確に距離を測って、問題の地点は、その古井戸に相違ないことを確めた。
「こんなあけっ放しの井戸の中なんて、おかしいですね。底の土の中にでも埋めてあるのでしょうか。それにしても、この井戸を使っていた時分には、井戸さらいもやったでしょうから、井戸の中なんて、実に危険な隠し場所ですね」
 私は何となく腑に落ちなかった。
「さあそこだよ。単純に井戸の中では、あんまりきょくがなさ過ぎる。あの用意周到な人物が、そんなたやすい場所へ隠して置く筈がない。君は呪文の最後の文句を覚えているでしょう。ホラ、六道の辻に迷うなよ。この井戸の底には横穴があるんじゃないかしら。その横穴が所謂『六道の辻』で、迷路みたいに曲りくねっているのかも知れない」
「あんまりお話みたいですね」
「いや、そうじゃない。こんな岩で出来た島には、よくそんな洞穴があるものだよ。現に魔の淵の洞穴だってそうだが、地中の石灰岩の層を、雨水が浸蝕して、とんでもない地下の通路が出来て、この井戸の底は、その地下道への入口になっているんじゃないかしら」
「その自然の迷路を、宝の隠し場所に利用したという訳ですね。若しそうだとすれば、実際念に念を入れたやり方ですね」
「それ程にして隠したとすれば、宝というのは、非常に貴重なものに相違ないね。だが、それにしても、僕はあの呪文にたった一つ分らない点があるのだが」
「そうですか。僕は、今のあなたの説明で全体が分った様に思うのだけれど」
「ほんの一寸したことだがね。ホラ、巽の鬼を打破りとあっただろう。この『打破り』なんだ。地面を掘って探すのだったら、打破ることになるけれど、井戸から這入るのでは、何も打破りやしないんだからね。それが変なんだよ。あの呪文は一寸見ると幼稚の様で、その実仲々よく考えてあるからね。あの作者が不必要な文句などを書く筈がない。打破る必要のない所へ、『打破り』なんて書く筈がない」
 私達は薄暗い木の下で、暫くそんなことを話し合っていたが、考えていても仕様がないから、兎も角、井戸の中へ這入って、横穴があるかどうかを検べて見ようということになり、諸戸は私を残して置いて、邸に取って返し、丈夫な長い縄を探し出して来た。漁具に使われていたものである。
「僕が這入って見ましょう」
 私は、諸戸より身体が小さくて軽いので、横穴を見届ける仕事を引受けた。
 諸戸は縄の端で私の身体を厳重にしばり、縄の中程を井桁の石に一捲ひとまきして、その端を両手で握った。私が降りるに従って、縄をのばして行く訳である。
 私は諸戸が持って来てくれたマッチを懐中すると、しっかりと縄を掴んで、井戸端へ足をかけて、少しずつ真暗な地底へとくだって行った。
 井戸の中は、ずっと下まで、でこぼこの石畳になっていたが、それに一面こけが生えていて、足をかけると、ズルズルとすべった。
 一間程下った時、私はマッチを擦って、下の方を覗いて見たが、マッチの光位では深い底の様子は分らなかった。燃えかすを捨てると、一丈余り下の方で、光が消えた。多少水が残っているのだ。
 更らに四五尺下ると、私は又マッチを擦った。そして、底を覗こうとした途端、妙な風が起ってマッチが消えた。変だなと思って、もう一度マッチを擦ると、それが吹き消されぬ先に、私は風の吹き込む箇所を発見した。横穴があったのだ。
 よく見ると、底から二三尺の所で、二尺四方ばかり石畳が破れて、奥底の知れぬ真暗な横穴があいている。不恰好な穴の様子だが、以前はその部分にもちゃんと石畳があったのを、何者かが破ったものに相違ない。その辺一帯に石畳がゆるんで、一度はずしたのを又差込んだ様に見える部分もある。気がつくと、井戸の底の水の中から、楔型くさびがたの石塊が三つ四つ首を出している。明かに横穴の通路を破ったものがあるのだ。
 諸戸の予想は恐ろしい程適中した。横穴もあったし、呪文の「打破る」という文句も、決して不必要ではなかったのだ。
 私は大急ぎで縄をたぐって、地上に帰ると、諸戸に事の次第を告げた。
「それはおかしいね。すると僕達のせんを越して、横穴へ這入った奴があるんだね。その石畳のとれた跡は新しいの」諸戸がやや昂奮して尋ねた。
「イヤ、大分以前らしいですよ。苔なんかの具合が」
 私は見たままを答えた。
「変だな。確かに這入った奴がある。まさか呪文を書いた人が、態々石畳を破って這入る訳はないから、別の人物だ。無論丈五郎ではない。これはひょっとすると、僕達より以前に、あの呪文を解いた奴があるんだよ。そして、横穴まで発見したとすると、宝はもう奪い出されてしまったのではあるまいか」
「でも、こんな小さな島で、そんなことがあればすぐ分るでしょうがね。船着場だって一箇所しかないんだし、他国者が入り込めば、諸戸屋敷の人達だって、見逃す筈はないでしょうからね」
「そうだ。第一丈五郎程の悪者が、ありもしない宝の為に、あんな危い人殺しまでする筈がないよ。あの人には、きっと宝のある事丈けは、ハッキリ分っていたに相違ない。何にしても、僕にはどうも宝が取出されたとは思えない」
 私達はこの異様な事実をどう解くすべもなく、出ばなをくじかれた形で、暫く思い惑っていた。だが、その時、私達が若しいつか船頭に聞いた話を思出したならば、そして、それとこれとを考え合わせたならば、宝が持出されたなどと心配する事は少しもなかったのだが、私は勿論、流石の諸戸も、そこまでは考え及ばなんだ。
 船頭の話というのは、読者は記憶せられるであろう。十年以前、丈五郎の従兄弟と称する他国人が、この島に渡ったが、間もなくその死骸が魔の淵の洞穴の入口に浮上ったという、あの不可思議な事実である。
 併し、そこへ気づかなんだのが、結句けっくよかったのかも知れない。なぜといって、若しその他国人の死因について、深く想像をめぐらしたならば、私達はよもや地底の宝探しを企てる勇気はなかったであろうから。

八幡の藪知らず


 兎も角横穴へ這入って、宝が已に持出されたかどうかを確かめて見る外はなかった。私達は一度諸戸屋敷に帰って、横穴探険に必要な品々を取揃えた。数挺の蝋燭、マッチ、漁業用の大ナイフ、長い麻縄(網に使用する細い麻縄を、出来るだけつなぎ合わせて、玉を拵えた)等の品々である。
「あの横穴は存外深いかも知れない。『六道の辻』なんて形容してある所を見ると、深いばかりでなく、枝道があって、八幡の藪不知みたいになっているのかも知れない。ホラ『即興詩人』にローマのカタコンバへ這入る所があるだろう。僕はあれから思いついて、この麻縄を用意したんだ。フェデリゴという画工の真似なんだよ」
 諸戸は大げさな用意を弁解する様に云った。
 私はその後「即興詩人」を読み返して、彼の隧道トンネルじょうに至る毎に、当時を回想し、戦慄を新たにしないではいられぬのだ。
「深きところには、やはらかなる土に掘りこみたる道の行き違ひたるあり。その枝の多き、その様の相似あひにたる、おもなる筋を知りたる人も踏み迷ふべきほどなり。われは穉心おさなごころに何ともおもはず。画工はまたあらかじ其心そのこころして、我を伴ひりぬ。先づ蝋燭一つともし、一つをばなほころものかくしの中にたくはへおき、一巻ひとまきいとの端を入口に結びつけ、さて我手を引きて進み入りぬ。忽ち天井低くなりて、われのみ立ちて歩まるゝところあり……」
 画工と少年とは、斯様かようにして地下の迷路に踏み入ったのであるが、私達も丁度その様であった。
 私達はさっきの太い縄にすがって次々と井戸の底に降り立った。水はやっとくるぶしを隠す程しかなかったけれど、その冷さは氷の様である。横穴は、そうして立った私達の、腰のあたりに開いているのだ。
 諸戸はフェデリゴの真似をして、先ず一本の蝋燭をともし、麻縄の玉の端を、横穴の入口の石畳の一つに、しっかりと結びつけた。そして、縄の玉を少しずつほぐしながら、進んで行くのだ。
 諸戸が先に立って、蝋燭を振りかざして、這って行くと、私が縄の玉を持って、そのあとに続いた、二匹の熊の様に。
「やっぱり、仲々深そうだよ」
「息がつまる様ですね」
 私達はソロソロと這いながら、小声で話し合った。
 五六間行くと穴が少し広くなって、腰をかがめて歩ける位になったが、すると間もなく、洞穴の横腹に又別の洞穴が口を開いている所に来た。
「枝道だ。案の定八幡の藪不知だよ。だが、しるべの縄を握ってさえいれば、道に迷うことはない。先ず本通りの方へ進んで行こうよ」
 諸戸はそう云って、横穴に構わず、歩いて行ったが、二間も行くと、又別の穴が真黒な口を開いていた。蝋燭をさし入れて覗いて見ると、横穴の方が広そうなので、諸戸はその方へ曲って行った。
 道はのたうち廻る蛇の様に、曲りくねっていた。左右に曲る丈けではなくて、上下にも、或時は下り、或時は上った。低い部分には、浅い沼の様に水の溜っている所もあった。
 横穴や枝道は覚え切れない程あった。それに人間の造った坑道などとは違って、這っても通れない程狭い部分もあれば、岩の割目の様に縦に細長く裂けた部分もあり、そうかと思うと、突然非常に大きな広間の様な所へ出た。その広間には、五つも六つもの洞穴が、四方から集って来て、複雑極まる迷路を作っている。
「驚いたね。蜘蛛手の様に拡がっている。こんなに大がかりだとは思わなかった。この調子だと、この洞穴は島中端から端まで続いているのかも知れないよ」
 諸戸はうんざりした調子で云った。
「もう麻縄がのこり少なですよ。これが尽きるまでに行止まりへ出るでしょうか」
「駄目かも知れない。仕方がないから、縄が尽きたらもう一度引返して、もっと長いのを持って来るんだね。だが、その縄を離さない様にし給えよ。大切だいじの道しるべをなくしたら、僕等はこの地の底で迷子になってしまうからね」
 諸戸の顔は赤黒く光って見えた。それに、蝋燭の火が顎の下にあるものだから、顔の陰影が逆になって、頬と目の上に、見馴れぬ影が出来、何だか別人の感じがした。物云う度に、黒い穴の様な口が、異様に大きく開いた。
 蝋燭の弱い光はやっと一間四方を明るくする丈けで、岩の色も定かには分らなんだが、真白な天井が気味悪くでこぼこになって、その突出とっしゅつした部分から、ポタリポタリとしずくが垂れている様な箇所もあった。一種の鍾乳洞である。
 やがて道は下り坂になった。気味の悪い程、いつまでも下へ下へと降りて行った。
 私の目の前に、諸戸の真黒な姿が、左右に揺れながら進んで行った。左右に揺れる度に彼の手にした蝋燭の焔がチロチロと隠顕した。ボンヤリと赤黒く見えるでこぼこの岩肌が、あとへあとへと、頭の上を通り越して行く様に見えた。
 暫くすると、進むに従って、上も横も、岩肌が段々眼界から遠ざかって行く様に見えた。地底の広間の一つにぶっつかったのである。ふと気がつくと、その時、私の手の縄の玉は殆どなくなっていた。
「アッ、縄がない」
 私は思わず口走った。そんなに大きな声を出したのではなかったのに、ガーンと耳に響いて、大きな音がした。そして、直ぐ様、どこか向うの方から、小さな声で、
「アッ、縄がない」
 と答えるものがあった。地の底のこだまである。
 諸戸はその声に、驚いてうしろをふり返って、「エ、なに」と私の方へ蝋燭をさしつけた。
 焔がユラユラと揺れて、彼の全身が明るくなった。その途端、「アッ」という叫声がしたかと思うと、諸戸の身体が、突然私の眼界から消えてしまった。蝋燭の光も同時に見えなくなった。そして、遠くの方から、「アッ、アッ、アッ……」と諸戸の叫声が段々小さく、幾つも重なり合って聞えて来た。
「道雄さん、道雄さん」
 私は慌てて諸戸の名を呼んだ。
「道雄さん、道雄さん、道雄さん、道雄さん」と谺が馬鹿にして答えた。
 私は非常な恐怖に襲われ、手さぐりで諸戸のあとを追ったが、ハッと思う間に、足をふみはずして、前へのめった。
「痛い」
 私の身体の下で、諸戸が叫んだ。
 なんのことだ。そこは、突然二尺ばかり地面が低くなっていて、私達は折重なって、倒れたのである。諸戸は転落した拍子に、ひどく肘をうって、急に返事をすることが出来なかったのだ。
「ひどい目にあったね」
 闇の中で諸戸が云った。そして、起上る様子であったが、やがて、シュッという音がしたかと思うと、諸戸の姿が闇に浮いた。
「怪我しなかった?」
「大丈夫です」
 諸戸は蝋燭に火を点じて、又歩き出した。私も彼のあとに続いた。
 だが、一二間進んだ時、私はふと立止ってしまった。右手に何も持っていないことに気づいたからだ。
「道雄さん、一寸蝋燭を貸して下さい」
 私は胸がドキドキして来るのを、じっとこらえて、諸戸を呼んだ。
「どうしたの」
 諸戸が、不審そうに、蝋燭をさしつけたので、私はいきなりそれを取って、地面を照らしながら、あちこちと歩き廻った。そして、
「何でもないんですよ。何でもないんですよ」
 と云い続けた。
 だがいくら探しても、薄暗い蝋燭の光では、細い麻縄を発見することが出来なかった。
 私は広い洞窟を、未練らしくどこまでも、探して行った。
 諸戸は気がついたのか、いきなり走り寄って、私の腕を掴むと、ただならぬ調子で叫んだ。
「縄を見失ったの?」
「エエ」
 私はみじめな声で答えた。
「大変だ。あれをなくしたら、僕達はひょっとすると、一生涯この地の底で、どうどうめぐりをしなければならないかも知れぬよ」
 私達は段々慌て出しながら、一生懸命探し廻った。
 地面の段になっている所で転んだのだから、そこを探せばよいというので、蝋燭で地面を見て歩くのだが、段々になった箇所は、方々にあるし、その洞窟に口を開いている狭い横穴も一つや二つではないので、つい、どれが今来た道だか分らなくなってしまって、探し物をしている内にも、何時いつ路をふみ迷うか知れない様な有様なので、探せば探す程、心細くなるばかりであった。
 後日、私は「即興詩人」の主人公も、同じ経験を嘗めたことを思い出した。鴎外おうがいの名訳が、少年の恐怖をまざまざと描き出している。
「この時われが周囲にはせきとして何の声も聞えず、ゞ忽ち断へ忽ち続く、物寂しき岩間のしづくの音を聞くのみなりき。……ふと心づきて画工の方を見やれば、あないぶかし、画工は大息つきて一つところを馳せめぐりたり。……その気色けしきたゞならず覚えければ、われも立ちあがりて泣きいだしつ。……われは画工の手に取りすがりて、最早もはや登りゆくべし、こゝにはりたくなしとむつかりたり。画工は、そちはき子なり、えかきてやらむ、果子をや与へむ、こゝに銭もあり、といひつゝ衣のかくしを探して、財布を取り出し、中なる銭をば、ことごとく我に与へき。我はこれを受くる時、画工の手の氷の如くひややかになりて、いたく震ひたるに心づきぬ。……さてしてあまたゝび我に接吻し、かはゆき子なり。そちも聖母に願へ、といひき。絲をや失ひ給ひし、と我は叫びぬ」
 即興詩人達は、間もなく糸の端を発見して、無事にカタコンバを立出でることが出来たのである。だが、同じ幸運が私達にも恵まれたであろうか。

麻縄の切口


 画工フェデリゴと違って、私達は神を祈ることをしなかった。その為であるか、彼等の様に、たやすく糸の端を見つけることは出来なんだ。
 一時間以上も、私達は冷やかな地底にも拘らず、全身に汗を流して、物狂わしく探し廻った。私は絶望と、諸戸に対する申訳なさに、幾度も、冷い岩の上に身を投げて、泣き出したくなった。諸戸の強烈な意志が、私を励ましてくれなかったら、恐らく私は探索を思い切って、洞穴の中に坐ったまま、餓死を待ったかも知れない。
 私達は何度となく、洞窟に住む大蝙蝠の為に、蝋燭の光を消された。奴等は不気味な毛むくじゃらの身体を、蝋燭ばかりではなく、私達の顔にぶっつけた。
 諸戸は辛抱強く、蝋燭を点じては、次から次と、洞窟の中を、組織的に探し廻った。
「慌ててはいけない。落ちついていさえしたら、ここにあるに相違ないものが、見つからぬという道理はないのだから」
 彼は驚くべき執拗さで、捜索を続けた。
 そして、遂に、諸戸の沈着のお蔭で、麻縄の端は発見された。だが、それは何という悲しい発見であったろう。
 それを掴んだ時、諸戸も私も、無上の歓喜に、思わず小躍りした。「万歳」と叫びそうにさえなった。私は喜びの余り、掴んだ縄をグングンと手元へたぐり寄せた。そして、それが何時いつまででもズルズルと伸びて来るのを、怪しむ暇もなかった。
「変だね。手答えがないの?」
 側で見ていた諸戸が、ふと気附いて云った。云われて見ると変である。私はそれがどの様な不幸を意味するかも知らないで、勢いこめて、引き試みた。すると、縄は蛇の様に波うって、私を目がけて飛びかかり、私ははずみを食って、尻餅しりもちをついてしまった。
「引っぱっちゃいけない」
 私が尻餅をついたのと、諸戸が叫んだのと同時だった。
「縄が切れているんだ。引張っちゃいけない。そのままソッとして置いて、縄を目印にして入口の方へ出て見るんだ。中途で切れたんでなければ、入口の近くまで行けるだろう」
 諸戸の意見に従って、蝋燭を地につけ、横わっている縄を見ながら、元の道を引かえした。だが、アア、何という事だ。二つ目の広間の入口の所で、私達の道しるべは、プッツリと断ち切れていた。
 諸戸はその麻縄の端を拾って、火に近づけて暫く見ていたが、それを私の方へ差出して、
「この切口を見給え」
 と云った。私が彼の意味を悟り兼ねて、もじもじしていると、彼はそれを説明した。
「君は、さっき君が転んだ時、縄を強く引張った為に、中途で切れたと思っているだろう。そして、僕に済まなく思っているだろう。安心し給え、そうではないのだ。だが、我々にとっては、もっと恐ろしいことなんだ。見給え。この切口は決して岩角で擦り切れたものじゃない。鋭利な刃物で切断した跡だ。第一、引張った勢いで擦り切れたものなら、我々から一番近い岩角の所で切れている筈だ。ところが、これは殆ど入口の辺で切断されたものらしい」
 切口を検べて見ると、成程、諸戸の云う通りであった。更らに私達は、入口の所で、つまり私達がこの地底に這入る時、井戸の中の石畳に結びつけて来た、その近くで切断されたものであるかどうかを確める為に、縄を元の様な玉に巻き直して見た。すると、丁度元々通りの大きさになったではないか。最早や疑う所はなかった。何者かが、入口の近くで、この縄を切断したのである。
 最初私がたぐり寄せた部分がどれ程あったか、ハッキリしないけれど、恐らく八間位であっただろう。だが、私達が転ぶ以前に切断されたものとすると、私達は端の止っていない縄を、ズルズルと引ずって歩いていたかも知れないのだから、現在の位置から入口まで、どれ程の距離があるか、殆ど想像がつかなんだ。
「だが、こうしていたって仕様がない。行ける所まで行って見よう」
 諸戸はそう云って、蝋燭を新しいのと取換え、先に立って歩き出した。その広い洞窟には幾つもの枝道があったが、私達は縄の終っていた所からまっすぐに歩いて、つき当りに開いている穴に這入って行った。入口は多分その方角であろうと思ったからである。
 私達は度々枝道にぶっつかった。穴の行止りになっている所もあった。そこを引返すと、今度は以前に通った路が分らなくなった。
 広い洞窟へも一度ならず出たが、それが最初出発した洞窟かどうかさえ分らなんだ。
 一つの洞窟を一週しさえすれば、必ず見つかる麻縄の端を発見するのでも、あんなに骨を折ったのだ。それが枝道から枝道へと、八幡の藪知らずに踏み込んでしまっては、もうどうすることも出来なんだ。
 諸戸は「少しでも光を発見すればいいのだ。光のさす方へ向いて行けば、必ず入口へ出られるのだから」と云ったが、豆粒程の幽かな光さえ発見することが出来なかった。
 そうして滅茶苦茶に一時間程も歩き続けている内に、現在入口に向っているのだか、反対に奥へ奥へと進んでいるのだか、島のどの辺をさまよっているのだか、さっぱり分らなくなってしまった。
 又しても、ひどい下り坂であった。それを降り切ると、そこにも地底の広間があった。広間の中程から、少しつまさき上りになって来たが、構わず進んで行くと、小高く段になった所があって、それを登ると行止りの壁になっていた。私達はあきれ果てて、その段の上に腰をおろしてしまった。
「さっきから同じ道をグルグル廻っていたのかも知れませんね」私は本当にそんな気がした。
「人間て実に腑甲斐ふがいないもんですね。多寡がこんな小さな島じゃないか、端から端まで歩いたって知れたものです。又僕達の頭のすぐ上には、太陽が輝いて、家もあれば人もいるんだ。十間あるか二十間あるか知らないが、たったそれ丈けの所を突き抜ける力もないんですからね」
「そこが迷路の恐ろしさだよ。八幡の藪不知っていう見世物があるね。せいぜい十間四方位の竹藪なんだが、竹の隙間から出口が見えていて、いくら歩いても出られない。僕等は今、あいつの魔法にかかっているんだよ」諸戸はすっかり落着いていた。「こんな時には、ただあせったって仕方がない。ゆっくり考えるんだね。足で出ようとせず、頭で出ようとするんだ。迷路というものの性質をよく考えて見るんだ」
 彼はそう云って、穴へ這入って初めて煙草をくわえて、蝋燭の火をうつしたが、「蝋燭も倹約しなくっちゃあ」と云って、そのまま吹き消してしまった。文目あやめもわかぬ闇の中に、彼の煙草の火が、ポッツリと赤い点を打っていた。
 煙草好きの彼は、井戸へ這入る前、トランクの中に貯えてあったウェストミンスタアを一箱取出して、懐中して来たのだ。一本目を吸ってしまうと、彼はマッチを費さず、その火で二本目の煙草をつけた。そして、それがなかば燃えてしまうまで、私達は闇の中で、黙っていた。諸戸は何か考えているらしかったが、私は考える気力もなく、ぐったりとうしろの壁へよりかかっていた。

魔の淵の主


「このほかに方法はない」闇の中から、突然諸戸の声がした。「君はこの洞穴の、凡ての枝の長さを合せると、どの位あると思う。一里か二里か、まさかそれ以上ではあるまい。若し二里あるとすれば、我々はその倍の四里歩けばよいのだ。四里歩きさえすれば確実にそとへ出ることが出来るのだ。迷路という怪物を征服する方法は、この外にないと思うのだよ」
「でも、同じ所をどうどうめぐりしていたら、何里歩いたって仕様がないでしょう」私はもう殆ど絶望していた。
「でも、そのどうどうめぐりを防ぐ手段があるのだよ。僕はこういうことを考えて見たんだ。長い糸で一つの輪を作る。それを板の上に置いて、指で沢山のくびれを拵えるのだ。つまり糸の輪を紅葉の葉みたいに、もっと複雑に入組んだ形にするのだ。この洞穴が丁度それと同じことじゃないか。謂わばこの洞穴の両側の壁が、糸に当る訳だ。そこで、若しこの洞穴が糸みたいに自由になるものだったら、凡ての枝道の両側の壁を引きのばすと、一つの大きな円形になる。ね、そうだろう。でこぼこになった糸を元の輪に返すのと同じことだ。
 で若し、僕等が、例えば右の手で右の壁に触りながら、どこまでも歩いて行くとしたら、右側をつたわって行って行止まれば、左側を、やっぱり右手で触って、一つ道を二度歩く様にして、どこまでもどこまでも伝って行けば、壁が大きな円周を作っている以上は、必ず出口に達する訳だ。糸の例で考えると、それがハッキリ分る。で、枝道の凡ての延長が二里あるものなら、その倍の四里歩きさえすれば、ひとりでに元の出口に達する。迂遠な様だが、この外に方法はないのだよ」
 殆ど絶望に陥っていた私は、この妙案を聞かされて、思わず上体をしゃんとして、いそいそと云った。
「そうだそうだ。じゃ、今からすぐそれをやって見ようじゃありませんか」
「無論やって見る外はないが、何も慌てる事はないよ。何里という道を歩かなければならないのだから、充分休んでからにした方がいい」諸戸はそう云いながら、短くなった巻煙草を、威勢よく投げ捨てた。
 赤い火が鼠花火の様に、クルクルと廻って二三間向うまで転って行ったかと思うと、ジュッといって消えてしまった。
「オヤ、あんな所に水溜みずたまりがあったかしら」
 諸戸が不安らしく云った。それと同時に、私は妙な物音を聞きつけた。ゴボッゴボッという、かめの口から水の出る時の様な、一種異様の音であった。
「変な音がしますね」
「何だろう」私達はじっと耳をすました。音は益々大きくなって来る。諸戸は急いで蝋燭を点し、それを高く掲げて、前の方をすかして見ていたが、やがて驚いて叫んだ。
「水だ、水だ、この洞穴は、どっかで海に通じているんだ。潮が満ちて来たんだ」
 考えて見ると、さっき私達はひどい坂を下って来た。ひょっとすると、ここは水面よりも低くなっているのかも知れない。若し水面より、低いとすると、満潮のめ、海水が侵入すれば、外の海面と平均するまでは、ドシドシ水嵩みずかさが増すに相違ない。
 私達の坐っていた部分は、その洞窟の中で一番高い段の上であったから、つい気附かないでいたけれど、見ると、水はもう一二間の所まで迫って来ていた。
 私達は段を降りると、ジャブジャブと水の中を歩いて、大急ぎで元来た方へ引返そうとしたけれど、アア已に時機を失していた。諸戸の沈着が却って禍を為したのだ。水は進むに従って深く、もと来た穴は、已に水中に埋没してしまっていた。
「別の穴を探そう」私達は、訳の分らぬことを、わめきながら、洞窟の周囲を駈け廻って、別の出口を探したが、不思議にも、水上に現われた部分には、一つの穴もなかった。私達は不幸なことには、偶然寒暖計の水銀だめの様な、袋小路へ入り込んでいたのだ。想像するに、海水は、我々の通って来た穴の向う側から曲折して流れ込んで来たものであろう。その水の増す勢が非常に早いことが、私達を不安にした。潮の満ちるに従って這入って来る水なら、こんなに早く増す筈がない。これはこの洞窟が海面下にある証拠だ。引潮の時僅かに海上に現われている様な、岩の裂目から、満潮になるや否や、一度にドッと流れ込む水だ。
 そんなことを考えている間に、水は、いつか私達の避難していた段のすぐ下まで押し寄せていた。
 ふと気がつくと、私達の周囲を、ゴソゴソと不気味に這い廻るものがあった。蝋燭をさしつけて見ると、五六匹の巨大なかにが、水に追われて這い上って来たのであった。
「アア、そうだ、あれがきっとそうだ。蓑浦君、もう僕等は助からぬよ」
 何を思い出したのか、諸戸が突然悲しげに叫んだ。私はその悲痛な声を聞いただけで、胸が空っぽになった様に感じた。
「魔の淵の渦がここに流れ込むのだ。この水の元はあの魔の淵なんだ。それですっかり事情が分ったよ」諸戸はうわずった声で喋りつづけた、「いつか船頭が話したね、丈五郎の従兄弟という男が諸戸屋敷を尋ねて来て、間もなく魔の淵へ浮上ったって。その男がどうかしてあの呪文を読んで、その秘密を悟り、私達の様にこの洞穴へ這入ったのだ。井戸の石畳を破ったのもその男だ。そして、やっぱりこの洞窟へ迷い込み、我々と同じ様に水攻めにあって、死んでしまったのだ。それが引潮と共に、魔の淵へ流れ出したんだ。船頭が云っていたじゃないか、丁度洞穴から流れ出した恰好で浮上っていたって。あの魔の淵の主というのは、つまりは、この洞窟のことなんだよ」
 そう云う内にも、水は早や私達の膝を濡らすまでに迫って来た。私達は仕方なく、立上って、一刻でも水におぼれる時をおくらそうとした。

暗中の水泳


 私は子供の時分、金網の鼠取り器にかかった鼠を、金網の中に這入ったまま、たらいの中へ入れ、上から水をかけて殺したことがある。外の殺し方、例えば火箸ひばしを鼠の口から突き刺す、という様なことは恐ろしくて出来なかったからだ。だが、水責めも随分残酷だった。盥に水が満ちて行くに従って、鼠は恐怖の余り、狭い網の中を、縦横無尽に駈け廻り、昇りついた。「あいつは今、どんなにか鼠取りの餌にかかったことを後悔しているだろう」と思うと、云うに云えない変な気持ちになった。
 でも、鼠を生かして置く訳には行かぬので、私はドンドン水を入れた。水面と金網の上部とがスレスレになると、鼠は薄赤いくちさきを、亀甲きっこう型の網の間から、出来る丈け上方に突き出して、悲しい呼吸を続けた、悲痛なあわただしい鳴声を発しながら。
 私は目をつむって、最後の一杯をみ込むと、盥から眼をそらしたまま、部屋に逃げ込んだ。十分ばかりして、恐々こわごわ行って見ると、鼠は網の中で、ふくれ上って浮いていた。
 岩屋島の洞窟の中の私達は、丁度この鼠と同じ境涯であった。私は洞窟の小高くなった部分に立上って、暗闇の中で、足の方から段々這い上ってくる水面を感じながら、ふとその時の鼠のことを思い出していた。
「満潮の水面と、この洞穴の天井と、どちらが高いでしょう」
 私は手探りで、諸戸の腕を掴んで叫んだ。
「僕も今それを考えていた所だよ」諸戸は静かに答えた。「それには、僕達がくだった坂道と、昇った坂道と、どちらが多かったか、その差を考えて見ればいいのだ」
「降った方が、ずっと多いじゃありませんか」
「僕もそんなに感じる。地上と海面との距離を差引いても、まだ降った方が多い様な気がする」
「すると、もう助かりませんね」
 諸戸は何とも答えなかった。私達は墓穴の様な暗闇と沈黙の中に茫然と立ちつくしていた。水面は、徐々に、だが、確実に高さを増して、膝を越え、腰に及んだ。
「君の智恵で何とかして下さい。僕はもう、こうして死を待っていることは、耐えられません」
 私は寒さにガタガタ震えながら、悲鳴を上げた。
「待ち給え、まだ絶望するには早い。僕はさっき、蝋燭の光でよく調べて見たんだが、ここの天井は上に行く程狭く、不規則な円錐形になっている。この天井の狭いことが、若しそこに岩の割目なんかがなかったら、一縷いちるの望みだよ」
 諸戸は考え考えそんなことを云った。私は彼の意味がよく分らなんだけれど、それを問い返す元気もなく、今はもう腹の辺までヒタヒタと押し寄せて来た水に、ふらつきながら、諸戸の肩にしがみついていた。うっかりしていると、足がすべって、横ざまに水に浮き相な気がするのだ。
 諸戸は私の腹の所に手をまわして、しっかり抱いていて呉れた。真の闇で、二三寸しか隔っていない相手の顔も見えなんだけれど、規則正しく強い呼吸が聞え、その暖かいいきが頬に当った。水にしめった洋服を通して、彼のひきしまった筋肉が暖く私を抱擁ほうようしているのが感じられた。諸戸の体臭が、それは決していやな感じのものではなかったが、私の身近かに漂っていた。それらの凡てが、闇の中の私を力強くした。諸戸のお蔭で私は立っていることが出来た。若し彼がいなかったら私はとっくの昔に水におぼれてしまったかも知れないのだ。
 だが、増水はいつやむとも見えなかった。またたく間に、腹を越し、胸に及び、喉に迫った。もう一分もすれば、鼻も口も水につかって、呼吸を続ける為には、我々は泳ぎでもする外はないのだ。
「もう駄目だ。諸戸さん僕達は死んでしまう」
 私は喉のさける様な声を出した。
「絶望しちゃいけない。最後の一秒まで、絶望しちゃいけない」諸戸も不必要に大きな声を出した。「君は泳げるかい」
「泳げることは泳げるけれど、もう僕は駄目ですよ。僕はもう早く一思いに死んでしまいたい」
「何を弱いことを云っているんだ。何でもないんだよ。暗闇が、人間を臆病にするんだ。しっかりし給え。生きられる丈け生きるんだ」
 そして、遂に私達は水に身体を浮かして、軽く立泳ぎをしながら呼吸を続けねばならなかった。
 その内に手足が疲れて来るだろう。夏とは云え地底の寒さに、身体が凍えて来るだろう。そうでなくても、この水が天井まで一杯になったら、どうするのだ。私達は水ばかりで生きられる魚類ではないのだ。愚かにも私はそんな風に考えて、いくら絶望するなと云われても、絶望しない訳には行かなんだ。
「蓑浦君、蓑浦君」
 諸戸に手を強く引かれて、ハッと気がつくと、私はいつか夢見心地に、水中にもぐっているのであった。
「こんなことを繰返している内に、だんだん意識がぼんやりして、そのまま死んでしまうのに違いない。ナアンだ。死ぬなんて存外呑気な楽なことだな」
 私はウツラウツラと、寝入ばなの様な気持で、そんなことを考えていた。
 それから、どの位時間がたったか、非常に長い様でもあり、又一瞬間の様にも思われるのだが諸戸の狂気の様な叫声に私はふと目をさました。
「蓑浦君、助かった。僕等は助かったよ」
 だが、私は返事をする元気がなかった。ただ、その言葉が分ったしるしに、力なく諸戸の身体を抱きしめた。
「君、君」諸戸は水中で、私を揺り動かしながら、「いきが変じゃないかね。空気の様子が普通とは違って感じられやしないかね」
「ウン、ウン」
 私はぼんやりして、返事をした。
「水が増さなくなったのだよ。水が止まったのだよ」
「引潮になったの」
 この吉報に、私の頭はややハッキリして来た。
「そうかもしれない。だが、僕はもっと別の理由だと思うのだ。空気が変だもの。つまり空気の逃げ場がなくて、その圧力でこれ以上水が上れなくなったのじゃないかと思うのだよ。そら、さっき天井が狭いから、若し裂け目がないとしたら、助るって言っただろう。僕は初めからそれを考えていたんだよ。空気の圧力のお蔭だよ」
 洞窟は私達をとじ籠めた代りには、洞窟そのものの性質によって、私達を助けてくれたのだ。
 その後の次第を詳しく書いていては退屈だ。手っ取り早く片付けよう。結局私達は水責めを逃れて、再び地底の旅行を続けることが出来たのだ。
 引潮までは暫く間があったけれど、助かると分れば、私達は元気が出た。その間水に浮いていること位なんでもなかった。やがて引潮が来た。増した時と同じ位の速度で、水はグングン引いて行った。尤も、水の入口は、洞窟よりも高い箇所にあるらしく(それがある水準まで潮が満ちた時、一度に水が這入って来たのだが)その入口から水が引くのではなかったけれど、洞窟の地面に、気附かぬ程の裂け目が沢山あって、そこからグングン流れ出して行くのだ。若しそれがなかったら、この洞窟には絶えず、海水が満ちていたであろう。さて数十分の後、私達は水のかれた洞窟の地面に立つことが出来た。助ったのだ。だが、講釈師ではないけれど、一難去って又一難だ。私達は今の水騒ぎで、マッチをぬらしてしまった。蝋燭はあっても、点火することが出来ない。それに気づいた時、闇の為見えはしなかったけれど、私達はきっと真青になったことに相違ない。
「手さぐりだ。ナアニ、光なんかなくったって、僕等はもう闇になれてしまった。手さぐりの方が却って、方角に敏感かも知れない」
 諸戸は泣き相な声で、負けおしみを云った。

絶望


 そこで、私達はさい前の諸戸の考案に従って、右手で右側の壁に触りながら、突当ったら又反対側の壁を後戻りする様にして、どこまでも右手を離さず、歩いて見ることにした。これが最後に残された、唯一の迷路脱出法であった。
 私達ははぐれぬ為に、時々呼び合う外には、黙々として果知れぬ暗闇をたどって行った。私達は疲れていた。耐えられぬ程の空腹に襲われていた。そして、いつ果つべしとも定めぬ旅路である。私は歩きながら、(それが闇の中では、一箇所で足踏みをしているときと同じ感じだったが)ともすれば夢見心地になって行った。
 春の野に、盛花もりばなの様な百花が乱れ咲いていた。空には白い雲がフワリと浮んで、雲雀ひばりがほがらかに鳴き交していた。そこで地平線から浮上る様な、鮮かな姿で、花を摘んでいるのは、死んだ初代さんである。双生児の秀ちゃんである。秀ちゃんには、もうあのいやな吉ちゃんの身体がついていない。普通の美しい娘さんだ。
 幻というものは、死に瀕した人間への、一種の安全弁であろうか。幻が苦痛を中絶してくれたお蔭で、私の神経はやっと死なないでいた。殺人的絶望がやわらげられた。だが、私がそんな幻を見ながら歩いていたということは、とりも直さず、当時の私が、死と紙一重であったことを語るものであろう。
 どれ程の時間、どれ程の道のりを歩いたか、私は何も分らなんだ。絶えず壁に触っていたので右手の指先が擦りむけてしまった程だ。足は自動機械になってしまった、自分の力で歩いているとは思えなんだ。この足が、止めようとしたら、止まるのかしら、と疑われる程であった。
 恐らく、まる一日は歩いたであろう。ひょっとしたら二日も三日も歩き続けていたのかも知れない。何かにつまずいて、倒れる度に、そのままグーグー寝入ってしまうのを、諸戸に起されて又苦行を続けた。
 だが、その諸戸でさえ、とうとう力の尽きる時が来た。突然彼は「もう止そう」と叫んで、そこへ蹲ってしまった。
「とうとう死ねるんだね」
 私はそれを待ちこがれていた様に尋ねた。
「アア、そうだよ」諸戸は、当り前の事みたいに答えた。「よく考えて見ると、僕等は、いくら歩いたって、出られやしないんだよ。もうたっぷり五里以上歩いている。いくら長い地下道だって、そんな馬鹿馬鹿しいことはないよ。これには訳があるんだ。その訳を、僕はやっと悟ることが出来たんだよ。何て馬鹿野郎だろう」
 彼は、烈しい息づかいの下から、瀕死の病人みたいな哀れな声で話しつづけた。
「僕は大分前から、指先に注意を集中して、岩壁の恰好を記憶する様にしていた。そんなことがハッキリ分る訳もないし、又僕の錯誤かも知れぬけれど、何だか、一時間程間を置いては、全く同じ恰好の岩肌に触る様な気がするのだ。と云うことは、僕達は余程以前から、同じ道をグルグル廻っているのではないかと思うのだよ」
 私は、もうそんなことはどうでもよかった。言葉は聞取るけれど、意味なんか考えていなかった。でも、諸戸は遺言みたいに喋っている。
「この複雑な迷路の中に、突当りのない、つまり完全な輪になった道がないと思っているなんて、僕はよっぽど間抜けだね。謂わば迷路の中の離れ島だ。糸の輪の例えで云うと、大きなギザギザの輪の中に、小さい輪があるんだ。で、若し僕達の出発点が、その小さい方の輪の壁であったとすると、その壁はギザギザにはなっているけれど、結局行き止まりというものがないのだ。僕達は離れ島のまわりをどうどう廻りしているばかりだ。それじゃ、右手を離して、反対の左側を左手で触って行けばいい様なものだけれど、だが、離れ島は一つとは限っていない。それが又別の離れ島の壁だったら、やっぱり果しもないどうどう廻りだ」
 こうして書くと、ハッキリしている様だけれど、諸戸は、それを考え考え、寝言みたいに、喋っていたのだし、私は私で、訳も分らず、夢の様に聞いていたのだから、今考えて見ると、滑稽である。
「理論では、百に一つは出られる可能性はある。まぐれ当りで一番外側の大きな糸の輪にぶつかればいいのだからね。併し、僕達はもうそんな根気がありゃしない。これ以上一足だって歩けやしない。愈々絶望だよ。君一緒に死んじまおうよ」
「アア死のう。それが一番いいよ」
 私は寝入ばなのどうでもなれという気持で、呑気な返事をした。
「死のうよ、死のうよ」
 諸戸もその同じ不吉な言葉を繰返している内に、麻酔剤の利いて来る様に、段々呂律ろれつが廻らなくなってきてそのままグッタリとなってしまった。
 だが、執念深い生活力は、その位のことで私達を殺しはしなかった。私達は眠ったのだ。穴へ這入ってから一睡もしなかった疲れが、絶望と分って、一度に襲いかかったのだ。

復讐鬼


 どれ程眠ったのか、胃袋が焼ける様な夢を見て、目を醒した。身動きすると、身体の節々が、神経痛みたいにズキンズキンした。
「目がさめたかい。僕等は相変らず、穴の中にいるんだよ。まだ生きているんだよ」
 先に起きていた諸戸が、私の身動きを感じて、物優く話しかけた。
 私は、水も食物もなく、永久に抜け出す見込のない闇の中に、まだ生きていることをハッキリ意識すると、ガタガタ震い出す程の恐怖に襲われた。睡眠の為に思考力が戻って来たのが、呪わしかった。
「怖い。僕、怖い」
 私は諸戸の身体をさぐって、擦り寄って行った。
「蓑浦君、僕達はもう再び地上へ出ることはない。誰も僕達を見ているものはない。僕達自身だって、お互の顔さえ見えぬのだ。そして、ここで死んでしまってからも、僕等のむくろは、恐らく永久に、誰にも見られはしないのだ。ここには、光がないと同じ様に、法律も、道徳も、習慣も、なんにもない。人類が絶滅したのだ。別の世界なのだ。僕は、せめて死ぬまでの僅かの間でも、あんなものを忘れてしまいたい。今僕等には羞恥も、礼儀も、虚飾も、猜疑も、なんにもないのだ。僕達はこの闇の世界へ生れて来た二人切りの赤坊あかんぼうなんだ」
 諸戸は、散文詩でも朗読する様に、こんなことを喋りつづけながら、私を引寄せて、肩に手を廻して、しっかりと抱いた。彼が首を動かす度に、二人の頬と頬とが擦れ合った。
「僕は君に隠していたことがある。だが、そんなことは人類社会の習慣だ、虚飾だ。ここでは隠すことも、恥しいこともありゃしない。親爺のことだよ。アン畜生の悪口だよ。こんなに云っても、君は僕を軽蔑する様なことはあるまいね。だって、僕達に親だとか友達だとかあったのは、ここでは、みんな前世の夢みたいなもんだからね」
 そして、諸戸はこの世のものとも思われぬ、醜悪怪奇なる大陰謀について、語り始めたのであった。
「諸戸屋敷に滞在していた時、毎日別室で、丈五郎の奴と口論していたのを、君も知っているだろう。あの時、すっかり奴の秘密を聞いてしまったのだよ。
 諸戸家の先代が、化物みたいな、傴僂の下女に手をつけて生れたのが、丈五郎なのだ。無論正妻はあったし、そんな化物に手をつけたのは、ほんの物好きな出来心だったから、因果と母親に輪をかけた片輪の子供が生れると、丈五郎の父親は、彼等母子をいとい憎んで、金をつけて島の外へ追放してしまった。母親は正妻ではないので、親の姓を名乗っていた。それが諸戸なのだ。丈五郎は今では樋口家ひぐちけあるじだけれど、あたりまえの人間を呪うの余り、姓までも樋口をきらい、諸戸で押し通しているのだ。
 母親は生れたばかりの丈五郎をつれて、本土の山奥で乞食みたいな生活をしながら、世を呪い人を呪った。丈五郎は幾年月この呪いの声を子守歌として育った。彼等はまるで別の獣ででもある様に、あたり前の人間を恐れ憎んだ。
 丈五郎は成人するまでの、数々の悩み苦しみ、人間共の迫害について、長い物語を聞かせてくれた。母親は彼に呪いの言葉を残して死んで行った。成人すると、彼はどうしたきっかけでか、この岩屋島へ渡ったが、丁度その頃樋口家の世継ぎ、つまり丈五郎の異母兄に当る人が、美しい妻と生れた許りの女の子を残して死んでしまった。丈五郎はそこへ乗込んで行って、とうとう居坐ってしまったのだ。
 丈五郎は因果なことに、この兄の妻に恋をした。後見役といった立場に在るのを幸い、手を尽してその婦人を口説いたが、婦人は『片輪者の意に従うなら、死んだ方がましだ』という、無情な一言を残して、子供をつれ、ひそかに島を逃げ出してしまった。丈五郎は真青になって、歯を食いしばって、ブルブル震えながら、その話をした。それまでとても片輪のひがみから、常人を呪っていた彼は、その時から、本当に世を呪う鬼と変ってしまった。
 彼は方々探し廻って、自分以上にひどい片輪娘を見つけ出し、それと結婚した。全人類に対する復讐の第一歩を踏んだのだ。その上、片輪者と見れば、家に連れ戻って、養うことを始めた。若し子供が出来るなら、当り前の人間でなくて、ひどいひどい片輪者が生れます様と、祈りさえした。
 だが、何という運命のいたずらであろう。片輪の両親の間に生れたのは僕だった。似もつかぬ、極く当り前の人間だった。両親はそれが通常の人間であるという丈けで、我子をさえも憎んだ。
 僕が成長するにつれて、彼等の人間憎悪は益々深まって行った。そして、遂に身の毛もよだつ陰謀を企らむ様になったのだ。彼等は手を廻して、遠方の生れたばかりの貧乏人の子を買って歩いた。その赤坊が美しくて可愛い程、彼等は歯をむき出して喜んだ。
 蓑浦君、この死の暗闇の中だから、打開けるのだけれど、彼等は不具者製造を、思い立ったのだよ。
 君は支那の虞初新志という本を読んだことがあるかい。あの中に見世物に売る為に赤坊を箱詰めにして不具者を作る話が書いてある。又、僕はユーゴーの小説に、昔仏蘭西フランスの医者が同じ様な商売をしていた様に書いてあるのを読んだ覚えがある。不具者製造というのは、どこの国にもあったことかも知れない。
 丈五郎は無論そんなことを知りゃしない。人間の考え出すことを、あいつも考え出したに過ぎない。だが、丈五郎のは金儲かねもうけが主眼ではなく、正常人類への復讐なんだから、そんな商売人の何層倍も執拗で深刻な筈だ。子供を首丈け出る箱の中に入れて、成長を止め、一寸法師を作った。顔の皮をはいで、別の皮を植え、熊娘を作った。指を切断して三つ指を作った。そして出来上ったものを、興行師に売出した。此の間三人の男が、箱を舟につんで出帆したのも、人造不具者輸出なんだ。奴等は港でない荒磯へあの舟をつけ、山越しに町に出て、悪人共と取引をするのだ。僕が奴等は数日帰って来ないと云ったのは、それを知っていたからだよ。
 そう云うことを始めている所へ、僕が東京の学校へ入れてくれと云い出したんだ。親爺は外科医者になるならという条件でぼくの申出を許した。そして、僕が何も気づいていないのを幸、不具者の治療を研究しろなんて、体のいいことを云って、その実不具者の製造を研究させていたのだ。頭の二つある蛙や、尻尾が鼻の上についた鼠を作ると、親爺はヤンヤと手紙で激励して来たものだ。
 奴が何ぜ僕の帰省を許さなかったかというに、思慮の出来た僕に不具者製造の陰謀を発見されることを恐れたんだ。打開けるのにはまだ早過ぎると思ったんだ。又、曲馬団の友之助少年を手先に使った順序も容易に想像がつく。奴は不具者ばかりでなく、血に餓えた人間獣をさえ製造していたのだ。
 今度僕が突然帰って来て、親爺を人殺しだと云って責めた。そこで、奴は初めて、不具者の呪いを打ちあけて、親の生涯の復讐事業を助けてくれと、僕の前に手をついて、涙を流して頼んだ。僕の外科医の知識を応用してくれと云うのだ。
 恐ろしい妄想だ。親爺は日本中から健全な人間を一人もなくして、片輪者ばかりで埋めることを考えているんだ。不具者の国を作ろうとしているのだ。それが子々孫々の遵守じゅんしゅすべき諸戸家のおきてだと云うのだ。上州辺じょうしゅうへんで天然の大岩を刻んで、岩屋ホテルを作っている親爺さんみたいに、子孫幾代の継続事業として、この大復讐を為しとげようと云うのだ。悪魔の妄想だ。鬼のユートピアだ。
 そりゃ、親爺の身の上は気の毒だ。併し、いくら気の毒だって、罪もない人の子を、箱詰めにしたり、皮をはいだりして、見世物小屋にさらすなんて、そんな残酷な、地獄の陰謀に加担出来ると思うか。それに、あいつを気の毒だと思うのは、理窟の上丈けで、僕はどういう訳か真から同情出来ないのだ。変だけれど、親の様な気がしないのだ。母にしたって同じことだ。我子をいどむ母親なんて、あるものか。あいつら夫婦は生れながらの鬼だ。畜生だ。身体と同じに心まで曲りくねっているんだ。
 蓑浦君、これが僕の親の正体だ。僕は奴等の子だ。人殺しよりも幾層倍も残酷なことを、一生の念願にしている悪魔の子なのだ。僕はどうすればいいのだ。悲しむのか。だが悲しむには余りに大きな悲しみだ。怒るのか。だが怒るには余りに深い憎みだ。
 本当のことを云うとね。この穴の中で道しるべの糸を見失った時、僕は心の隅でホッと重荷を卸した様に感じた。もう永久にこの暗闇から出なくてすむかと思うと、いっそ嬉しかった」
 諸戸はガタガタ震える両手で、私の肩を力一杯抱きしめて、夢中に喋り続けた。しっかりと押しつけ合った頬に、彼の涙がしとど降りそそいだ。
 余りの異常事に、批判力を失った私は、諸戸の為すがままに任せて、じっと身を縮めている外はなかった。

生地獄


 私は尋ねたくてウズウズする一事があった。だが、自分のことばかり考えている様に思われるのがいやだったから、暫く諸戸の昂奮の鎮まるのを待った。
 私達は闇の中で、抱き合ったまま、黙り込んでいた。
「馬鹿だね、僕は。この地下の別世界には、親もないし、道徳も羞恥もなかった筈だね。今更ら昂奮して見た所で、始まらぬことだ」
 やっとして、冷静に返った諸戸が、低い声で云った。
「すると、あの秀ちゃん吉ちゃんの双生児も」私は機会を見出して尋ねた。「やっぱり作られた不具者だったの」
「無論さ」諸戸ははき出す様に云った。「そのことは、僕には、例の変な日記帳を読んだ時から分っていた。同時に、僕はあの日記帳で、親爺のやっている事柄を薄々感づいたのだ。何故僕に変な解剖学を研究させているかって云うこともね。だが、そいつを君に云うのはいやだった。親を人殺しだと云うことは出来ても、人体変形のことは、どうにも口に出せなかった。言葉につづるさえ恐ろしかった。
 秀ちゃん吉ちゃんが、生れつきの双生児でないことはね、君は医者でないから知らぬけれど、僕等の方では常識なんだよ。癒合双体は必ず同性であるという動かすことの出来ない原則があるんだ。同一受精卵の場合は男と女の双生児なんて生れっこないのだよ。それにあんな顔も体質も違う双生児なんてあるものかね。
 赤坊の時分に、双方の皮をはぎ、肉をそいで、無理にくっつけたものだよ。条件さえよければつかぬことはない。運がよければ素人にだってやれぬとも限らぬ。だが、当人達が考えている程、芯からくっついているのではないから、切離そうと思えば、造作もないのだよ」
「じゃ、あれも見世物に売る為に作ったのだね」
「そうさ。ああして三味線を習わせて、一番高く売れる時期を待っていたのだよ。君は秀ちゃんが片輪でないことが判って嬉しいだろうね。嬉しいかい」
「君は嫉妬しているの」
 人外境が私を大胆にした。諸戸の云った通り礼儀も羞恥もなかった。どうせ今に死んじまうんだ。何を云ったって構うものかと思っていた。
「嫉妬している。そうだよ。アア、僕はどんなに長い間嫉妬し続けて来ただろう。初代さんとの結婚を争ったのも、一つはその為だった。あの人が死んでからも、君の限りない悲歎を見て僕はどれ程せつない思いをしていただろう。だが、もう君は、初代さんも秀ちゃんも、その外のどんな女性とも、再び逢うことは出来ないのだ。この世界では、君と僕とが全人類なのだ。
 アア、僕はそれが嬉しい。君と二人でこの別世界へとじ籠めて下すった神様が有難い。僕は最初から、生きようなんてちっとも思っていなかったんだ。親爺の罪亡ぼしをしなければならないという責任感が僕に色々な努力をさせたばかりだ。悪魔の子としてこの上生恥いきはじを曝そうより、君と抱き合って死んで行く方が、どれ程嬉しいか。蓑浦君、地上の世界の習慣を忘れ、地上の羞恥を棄てて、今こそ、僕の願いをれて、僕の愛を受けて」
 諸戸は再び狂乱の体となった。私は、彼の願いの余りのいまわしさに、答える術を知らなかった。誰でもそうであろうが、私は恋愛の対象として、若き女性以外のものを考えると、ゾッと総毛立つ様な、何とも云えぬ嫌悪を感じた。友達として肉体の接触することは何でもない。快くさえある。だが、一度それが恋愛となると、同性の肉体は、吐気を催す種類のものであった。排他的な恋愛というものの、もう一つの面である。同類憎悪だ。
 諸戸は友達として頼もしくもあり、好感も持てた。だが、そうであればある程、愛慾の対象として彼を考えることは、堪え難いのだ。死に直面して棄鉢すてばちになった私でも、この憎悪丈けはどうすることも出来なんだ。
 私は迫って来る諸戸をつき離して逃げた。
「アア、君は今になっても、僕を愛してくれることは出来ないのか。僕の死にもの狂いの恋を受入れるなさけはないのか」
 諸戸は失望の余り、オイオイ泣きながら、私を追駈けて来た。
 恥も外聞もない、地の底のめんない千鳥が始まった。アア、何という浅間しい場面であったろう。
 そこは、左右の壁の広くなった、彼の洞窟の一つであったが、私は元の場所から五六間も逃げのびて、闇の片隅に蹲り、じっと息を殺していた。
 諸戸もひっそりしてしまった。耳をすまして人間の気配を聞いているのか、それとも、壁伝いに盲目蛇みたいに、音もなく餌物に近づきつつあるのか、少しも様子が分らなんだ。それ丈けに気味が悪い。
 私は闇と沈黙の中に、目も耳もない人間の様に、独りぼっちで震えていた。そして、
「こんなことをしている隙があったら、少しでもこの穴を抜け出す努力をした方がよくはないのか。若しや諸戸は、彼の異様な愛慾の為に、万一助かるかも知れぬ命を、犠牲にしようとしているのではあるまいか」
 などと考えていた。とは云え、私も独りぼっちで、又闇の旅行を続ける気にはなれなんだ。
 ハッと気がつくと、蛇は既に私に近づいていた。彼は一体闇の中で私の姿が見えるのであろうか。それとも五感の外の感覚を持っていたのであろうか。驚いて逃げようとする私の足は、いつか彼のもちの様な手に掴まれていた。
 私ははずみを食って岩の上に横ざまに倒れた。蛇はヌラヌラと私の身体に這い上って来た。私は、このえたいの知れぬけだものが諸戸なのかしらと疑った。それは最早や人間と云うよりも不気味な獣類でしかなかった。
 私は恐怖の為にうめいた。
 死の恐怖とは別の、だがそれよりも、もっともっといやな、何とも云えぬ恐ろしさであった。
 人間の心の奥底に隠れている、ゾッとする程不気味なものが今や私の前に、その海坊主みたいな、奇怪な姿を現わしているのだ。
 地獄絵だ。闇と死と獣性の生地獄だ。
 私はいつかうめく力を失っていた。声を出すのが恐ろしかったのだ。
 火の様に燃えた頬が、私の恐怖に汗ばんだ頬の上に重なった。ハッハッと云う犬の様な呼吸、一種異様の体臭、そして、ヌメヌメと滑かな、熱い粘膜が、私の唇を探して、ひるの様に、顔中を這い廻った。
 諸戸道雄は今はこの世にいない人である。だが、私は余りに死者を恥しめることを恐れる。もうこんなことを、長々と書くのは止そう。
 丁度その時、非常に変な事が起った。そのお蔭で、私は難を逃れることが出来た程に、意外な椿事ちんじであった。
 洞窟の他の端で、変な物音がしたのだ。蝙蝠こうもりかにには馴れていたが、その物音はそんな小動物の立てたものではなかった。もっとずっと大きな生物が蠢いている気配なのだ。
 諸戸は私を掴んでいる手をゆるめて、私は反抗を中止して、じっと聞耳を立てた。

意外な人物


 諸戸は私を離した。私達は動物の本能で、敵に対して身構えをした。
 耳をすますと、生き物の呼吸が聞える。
「シッ」
 諸戸が犬を叱る様に叱った。
「やっぱりそうだ。人間がいるんだ。オイ、そうだろう」
 意外にも、その生き物が人間の言葉を喋った。年とった人間の声だ。
「君は誰だ。どうしてこんな所へ来たんだ」
 諸戸が聞返した。
「お前は誰だ。どうしてこんな所にいるんだ」
 相手も同じことを云った。
 洞窟の反響で、声が変って聞えるせいか、何となく聞覚えのある声の様でいて、その人を思い出すのに骨が折れた。暫くの間、双方探り合いの形で、黙っていた。
 相手の呼吸が段々ハッキリ聞える。ジリジリと、こちらへ近寄って来る様子だ。
「若しや、お前さん方は、諸戸屋敷の客人ではないかね」
 一間ばかりの近さで、そんな声が聞えた。今度は低い声だったので、その調子がよく分った。
 私はハッとある人を思出した。だが、その人は已に死んだ筈だ。丈五郎の為に殺された筈だ。……死人の声だ。一刹那、私はこの洞窟が本当の地獄ではないか、私達は已に死んでしまったのではないか、という錯覚を感じた。
「君は誰だ。若しや……」
 私が云いかけると、相手は嬉し相に叫び出した。
「アア、そうだ。お前さん蓑浦さんだね。もう一人は、道雄さんだろうね。わしは徳だよ。丈五郎に殺された徳だよ」
「アア、徳さんだ。君、どうしてこんな所に」
 私達は思わず声を目当に走り寄って、お互の身体を探り合った。
 徳さんの舟は魔の淵の所で、丈五郎の落した大石の為に顛覆した。だが、徳さんは死ななかったのだ。丁度満潮の時だったので、彼の身体は、魔の淵の洞窟の中へ吸い込まれた。そして、潮が引き去ると、ただ一人闇の迷路にとり残された。それから今日まで、彼は地下に生きながらえていたのだった。
「で、息子さんは? 私の影武者を勤めてくれた息子さんは?」
「分らないよ、大方鮫にでも食われてしまったのだろうよ」
 徳さんはあきらめ果てた調子であった。無理もない。徳さん自身、再び地上に出る見込みもない、まるで死人同然の身の上なんだから。
「僕の為に、君達をあんな目に合わせてしまって、さぞ僕を恨んでいただろうね」
 私は兎も角も詫言わびごとを云った。だが、この死の洞窟の中では、そんな詫言が、何だか空々しく聞えた。徳さんはそれについては、何とも答えなかった。
「お前達、ひどく弱っている塩梅だね。腹が減っているんじゃないかね。それなら、ここにわしの食い残りがあるから、たべなさるがいい。食い物の心配は要らないよ、ここには大蟹がウジャウジャいるんだからね」
 徳さんが、どうして生きていたかと、不審に耐えなんだが、成程、彼は蟹の生肉でうえをいやしていたのだ。私達はそれを徳さんに貰って、たべた。冷くドロドロした、しょっぱい寒天みたいなものだったが、実にうまかった。私はあとにも先にも、あんなうまい物をたべたことがない。
 私達は徳さんにせがんで、更らに幾匹かの大蟹を捕えて貰い、岩にぶつけて甲羅を割って、ペロペロと平げた。今考えると不気味にも汚くも思われるが、その時は、まだモヤモヤと動いている太い足をつぶして、その中のドロドロしたものをすするのが、何とも云えずうまかったものだ。
 飢餓きがが恢復すると、私達は少し元気になって、徳さんとお互の身の上を話し合った。
「そうすると、わしらは死ぬまでこの穴を出る見込みはないのだね」私達の苦心談を聞いた徳さんが、絶望の溜息を吐いた。
「わしは残念なことをしたよ。命がけで、元の穴から海へ泳ぎ出せばよかったのだ。それを、渦巻うずまきに巻き込まれて、とても命がないと思ったものだから、海へ出ないで、穴の中へ泳ぎ込んでしまったのだよ。まさかこの穴が、渦巻よりも恐ろしい、八幡の藪知らずだとは思わなかったからね。あとで気がついて引返して見たが、路に迷うばかりで、迚も元の穴へ出られやしない。だが、何が幸になるか、そうしてわしが、さ迷い歩いたお蔭で、お前さん達に逢えた訳だね」
「こうして食物が出来たからには、僕達は何も絶望してしまうことはないよ。百に一つ、まぐれ当りで外に出られるものなら、九十九へんまで、無駄に歩いて見ようじゃないか、何日かかろうとも、何月いくつきかかろうとも」
 人数がふえたのと、蟹の生肉のお蔭で、私は俄に威勢がよくなった。
「アア、君達はもう一度娑婆しゃばの風に当りたいだろうね。僕は君達が羨ましいよ」
 諸戸が突然悲しげに云った。
「変なことを云いなさるね。お前さんは命が惜しくはないのかね」
 徳さんが不審そうに尋ねた。
「僕は丈五郎の子なんだ。人殺しの、片輪者製造人の、悪魔の子なんだ。僕はお陽様が怖い。娑婆に出て、正しい人達に顔を見られるのが恐ろしい。この暗闇の地の底こそ悪魔の子にはふさわしい住家かも知れない」
 可哀想な諸戸。彼はその上に、私に対する、さっきのあさましい所業を恥じているのだ。
「尤もだ。お前さんは何にも知らないだろうからね。わしはお前さん達が島へ来た時に、よっぽどそれを知らせてやろうかと思った。あの夕方、わしが海辺にうずくまって、お前さん達を見送っていたのを覚えていなさるかね。だが、わしは丈五郎の返報が恐ろしかった。丈五郎を怒らせては、一時もこの島に住んではいられなくなるのだからね」
 徳さんが妙なことを言い出した。彼は以前諸戸屋敷の召使であったから、ある点まで丈五郎の秘密を知っている筈だ。
「僕に知らせるって、何をだね」
 諸戸が身動きをして、聞返した。
「お前さんが、丈五郎の本当の子ではないということをさ。もうこうなったら何を喋っても構わない。お前さんは丈五郎が本土から、かどわかして来た、よその子供だよ。考えても見るがいい、あの片輪者の汚らしい夫婦に、お前さんの様な綺麗な子供が生れるものかね。あいつらの本当の子は、見世物を持って方々巡業しているんだよ。丈五郎に生写しの傴僂だ」読者は知っている、嘗つて北川刑事が、尾崎曲馬団を追って静岡県のある町へ行き、一寸法師に取入って、「お父つぁん」のことを尋ねた時、一寸法師が「お父つぁんとは別の若い傴僂が曲馬団の親方である」と云った。その親方が、丈五郎の実の子だったのだ。
 徳さんは語りつづける。
「お前さんも、どうせ片輪者に仕込むつもりだったのだろうが、あの傴僂のお袋がお前さんを可愛がってね、あたり前の子供に育て上げてしまった。そこへ持って来て、お前さんが、中々利口者だと分ったものだから、丈五郎も我を折って、自分の子にして、学問を仕込む気になったのだよ」
 何ぜ自分の子にしたか。彼は悪魔の目的を遂行する上に、真実の親子という、切っても切れぬ関係が必要だったのだ。
 諸戸道雄は悪魔丈五郎の実子ではなかったのである。驚くべき事実だ。

霊の導き


「もっと詳しく、もっと詳しく話して下さい」
 諸戸がかすれた声で、せき込んで尋ねた。
「わしは親爺からの、樋口家の家来で、七年前に、傴僂さんの遣り方を見るに見兼ねていとまを取るまで、わしは今年丁度六十だから、五十年と云うもの、樋口一家のいざこざを見て来た訳だよ。順序を追って話して見るから、聞きなさるがいい」
 そこで、徳さんは思い出し思出し、五十年の過去にさかのぼって樋口家、即ち今の諸戸屋敷の歴史を物語ったのであるが、それを詳しく書いていては退屈だから、に一目で分る表にして掲げて置く。

慶応けいおう年代)樋口家の先代万兵衛まんべえ、醜き片輪の女中に手をつけ海二かいじが生れた。これが母に輪をかけた傴僂の醜い子だったので、万兵衛は見るに耐えず、母子を追放した。彼等は本土の山中に隠れて獣の様な生活を続けていた。母は世を呪い人を呪ってその山中に死亡した。
(明治十年)万兵衛の正妻の子春雄はるおが、対岸の娘琴平梅野ことひらうめのと結婚した。
(明治十二年)春雄梅野の間に春代はるよ生る。間もなく春雄病死す。
(明治二十年)海二が諸戸丈五郎という名で島に帰り、樋口家に入って、梅野が女主人であるを幸、ほしいままに振舞った。その上梅野に不倫なる恋を仕掛けるので彼女は春代を伴って、実家に逃げて帰った。
(明治二十三年)恋に破れ世を呪う丈五郎は、醜い傴僂娘を探し出して結婚した。
(明治二十五年)丈五郎夫妻の間に一子生る。因果とその子も傴僂であった。丈五郎は歯をむき出して喜んだ。彼は同じ年当歳の道雄をどこからか誘拐して来た。
(明治三十三年)実家に帰った梅野の子春代(春雄の実子樋口家の正統)同村の青年と結婚す。
(明治三十八年)春代長女初代を生む。これが後の木崎初代である。丈五郎に殺された私の恋人木崎初代である。
(明治四十年)春代次女みどりを生む。同年春代の夫死亡し、実家も死に絶えて身寄りなき為、彼女は母の縁をたよって、岩屋島に渡り、丈五郎の屋敷に寄寓することになった。丈五郎の甘言かんげんにのせられたのである。この物語の初めに、初代が荒れ果てた海岸で、赤ちゃんをお守りしていたと語ったのは、この間の出来事で、赤ちゃんというのは次女緑であった。
(明治四十一年)丈五郎の野望が露骨に現われて来た。彼は梅野に敗れた恋を、その子の春代によって満たそうとした。春代は遂に居たたまらず、ある夜初代を連れて島を抜け出した。その時次女の緑は丈五郎の為に奪われてしまった。
  春代は流れ流れて大阪に来たが、糊口ここうに窮して遂に初代を捨てた。それを木崎夫妻が拾ったのである。

 以上が徳さんの見聞に私の想像を加えた簡単な樋口家の歴史である。これによって初代さんこそ樋口家の正統であって、丈五郎は下女の子に過ぎないことが分った。若しこの地底に宝が隠されてあるものとすれば、それは当然なき初代さんのものであることが、愈々明かになった。
 諸戸道雄の実の親が何所の誰であるかは、残念ながら少しも分らなんだ。それを知っているのは丈五郎丈けだ。
「アア、僕は救われた。それを聞いては、どんなことがあっても、僕はもう一度地上に出る。そして、丈五郎を責めて、僕の本当の父や母の居所を白状させないではおかぬ」
 道雄は俄かに勇み立った。
 だが、私は私で、ある不思議な予感に胸をワクワクさせていた。私はそれを徳さんに聞きたださなければならぬ。
「春代さんに二人の女の子があったのだね、初代と緑。その妹の緑の方は、春代さんが家出をした時、丈五郎に奪われたというのだね。数えて見ると、丁度十七になる娘さんだ。その緑はそれからどうしたの。今でも生きているの」
「アア、それを話すのを忘れたっけ」徳さんが答えた。「生きています。だが、可哀想に生きているという丈けで、まともな人間じゃない。生れもつかぬ双生児の片輪にされちまってね」
「オオ、若しやそれが秀ちゃんでは?」
「そうだよ。あの秀ちゃんが緑さんのなれの果ですよ」
 何という不思議な因縁であろう。私は初代さんの実の妹に恋していたのだ。私の心持を地下の初代さんは恨むだろうか、それとも、このめぐり合わせは、凡て初代さんの霊の導きであって、彼女は私をこの孤島に渡らせ、蔵の窓の秀ちゃんを見せて、私に一目惚れをさせたのではないだろうか。アア、何だかそんな気がしてならぬ。若し初代さんの霊にそれ程の力があるのだったら我々の宝探しも首尾よく目的を果すかも知れない。そして、この地下の迷路を抜出して、再び秀ちゃんに逢う時が来るかも知れない。
「初代さん、初代さん、どうか私達を守って下さい」
 私は心の中の懐しい彼女のおもかげに祈った。

狂える悪魔


 それから又、地獄巡りの悩ましい旅が始まった。蟹の生肉に餓をしのぎ、洞窟の天井から滴り落ちる僅かの清水にかつを癒して、何十時間、私達は果しもしらぬ迷路の旅を続けた。その間の苦痛恐怖色々あれど、余り管々くだくだしければ凡て省く。
 地底には夜も昼もなかったけれど、私達は疲労に耐えられなくなると、岩の床に横わって睡った。その幾度目かの眠りから目覚めた時、徳さんが頓狂に叫び立てた。
「紐がある。紐がある。お前さん達が見失ったという麻縄は、これじゃないかね」
 私達は思いがけぬ吉報に狂喜して、徳さんの側へ這い寄ってさぐって見ると、確かに麻縄だ。それでは、私達はもう入口間近かに来ているのであろうか。
「違うよ、これは僕達が使った麻縄ではないよ。蓑浦君、君はどう思う。僕達のはこんなに太くなかったね」
 道雄が不審相に云った。云われて見ると、成程私達の使用した麻縄ではなさそうだ。
「すると、僕達の外にも、誰かしるべの紐を使って、この穴へ這入ったものがあるのだろうか」
「そうとしか考えられないね。しかも、僕達のあとからだ。なぜと云って、僕達が這入った時には、あの井戸の入口に、こんな麻縄なんて括りつけてなかったからね」
 私達のあとを追って、この地底に来たのは、全体何者であろう。敵か味方か。だが、丈五郎夫妻は土蔵にとじ籠められている。あとは片輪者ばかりだ。アア、若しや先日舟出した諸戸屋敷の使用人達が帰って来て、古井戸の入口に気づいたのではあるまいか。
「兎も角も、この縄を伝って、行ける所まで行って見ようじゃないか」
 道雄の意見に従って、私達はその縄をしるべにして、どこまでも歩いて行った。
 やっぱり、何者かが地底に入り込んでいたのだ、一時間も歩くと、前方がボンヤリと明るくなって来た。曲りくねった壁を反射して来る蝋燭の光だ。
 私達はポケットのナイフを握りしめて、足音の反響を気にしながら、ソロソロと進んで行った。一曲りする毎に、その明るさが増す。
 遂に最後の曲り角に達した。その岩角の向側に、はだか蝋燭がゆらいでいる。吉か凶か、私は足がすくんで、最早や前進する力がなかった。
 その時、突然、岩の向側から異様な叫び声が聞えて来た。よく聞くと単なる叫び声ではない。歌だ。文句も節も滅茶滅茶の、嘗つて聞いたこともない兇暴な歌だ。それが、洞窟に反響して、一種異様の獣の叫び声とも聞えたのだ。思いがけぬ場所で、この不思議な歌を聞いて、私はゾッと身の毛もよだつ思いがした。
「丈五郎だよ」
 先頭に立った道雄が、ソッと岩角を覗いてびっくりして、首を引込めると、低い声で私達に報告した。
 土蔵にとじ籠めて置いた筈の丈五郎が、どうしてここへ来たか。なぜ妙な歌を歌っているのか。私はさっぱり訳が分らなんだ。
 歌の調子は益々高く、愈々兇暴になって行く。そして、歌の伴奏の様にチャリンチャリンと、冴返った金属の音が聞えて来る。
 道雄は又ソッと岩角から覗いていたが、やがて、
「丈五郎は気が違っているのだ。無理もないよ。見給え、あの光景を」
 と云いながら、ずんずん岩の向側へ歩いて行く。気違いと聞いて、私達も彼のあとに従った。
 アア、その時私達の目の前に開けた、世にも不思議な光景を、私はいつまでも忘れることが出来ない。
 醜い傴僂親爺が、赤い蝋燭の光に半面を照らされて、歌とも叫びともつかぬことをわめきながら、気違い踊りを躍っている。その足下は、銀杏いちょうの落葉の様に、一面の金色こんじきだ。
 丈五郎は洞窟の片隅にある幾つかのかめの中から、両手に掴み出しては、踊り狂いながら、キラキラとそれを落す。落すに従って、金色の雨はチャリンチャリンと、微妙な音を立てる。
 丈五郎は私達の先廻りをして、幸運にも地底の財宝を探り当てたのだ。しるべの縄を失わなんだ彼は、私達の様に同じ道をどうどう巡りすることなく、案外早く目的の場所に達することが出来たのであろう。だが、それは彼にとって悲しい幸運であった。驚くべき黄金の山が、遂に彼を気違いにしてしまったのだから。
 私達は駈け寄って彼の肩を叩き、正気づけようとしたが、丈五郎はうつろな目で私達を見返すばかり、敵意さえも失って、訳の分らぬ歌を歌い続けている。
「分った、蓑浦君。僕達のしるべの麻縄を切ったのは、この親爺だったのだ。奴はそうして僕達を路に迷わせて置いて、自分は別のしるべ縄で、ここまでやって来たのだよ」
 道雄がそこへ気づいて云った。
「だが、丈五郎がここへ来ているとすると、諸戸屋敷に残して置いた片輪達が心配だね。若しやひどい目に合わされているのじゃないだろうか」
 その実私は、ただ恋人秀ちゃんの安否を気遣っていたのだ。
「もう、この麻縄があるんだから、外へ出るのは訳はない。兎も角一度様子を見に帰ろう」
 道雄の指図で、気違い親爺の見張番には徳さんを残して置いて、私達はしるべの縄を伝って、走る様に出口に向った。

刑事きた


 私達は無事に井戸を出ることが出来た。久し振りの日光に、目がくらみ相になるのを、こらえこらえ、手を取り合って諸戸屋敷の表門の方へ走って行くと、向から見馴れぬ洋服紳士がやってくるのにぶつかった。
「オイ、君達は何だね」
 その男は私達を見ると、横柄おうへいな調子で呼び止めた。
「君は一体誰です。この島の人じゃない様だが」
 道雄が反対に聞返した。
「僕は警察のものだ。この家を取調べにやって来たのだ。君達はこのうちと関係があるのかね」
 洋服紳士は思いがけぬ刑事巡査であった。丁度幸である。私達は銘々めいめい名を名乗った。
「嘘を云い給え。諸戸、蓑浦の両人がここへ来ていることは知っている。だが、君達の様な老人ではない筈だよ」
 刑事は妙なことを云った。私達をとらえて「君達の様な老人」とは一体何を勘違いしているのだろう。
 私と道雄とは不審に堪えず、思わずお互の顔を眺め合った。そして、私達はアッと驚いてしまった。
 私の目の前に立っているのは、最早や数日以前までの諸戸道雄ではなかった。乞食みたいなボロボロの服、あかづいた鉛色の皮膚、おどろに乱れた頭髪、目はくぼみ、頬骨の突出た骸骨の様な顔、成程刑事が老人と見違えたのも無理ではない。
「君の頭は真白だよ」
 道雄はそう云って妙な笑い方をした。それが私には泣いている様に見えた。
 私の変り方は道雄よりもひどかった。肉体の憔悴しょうすいは彼と大差なかったが、私の頭髪は、あの穴の中の数日間に、全く色素を失って、八十歳の老人の様に真白に変っていた。
 私は極度の精神上の苦痛が、人間の頭髪を一夜にして白くしたという不思議な現象を知らぬではなかった。その実例も二三読んだことがある。だが、そんな稀有けうの現象が、かく云う私の身に起ろうとは、全く想像の外であった。
 だが、この数日間、私は幾度死の、或は死以上の恐怖に脅かされたことであろう。よく気が違わなんだと思う。気が違う代りに頭髪が白くなったのだ。まだしも、それが仕合せと云わねばならぬ。
 同じ人外境を経験しながら、諸戸の頭髪に異常の見えぬは、流石に彼は私よりも強い心の持主であったからであろう。
 私達は刑事に向って、この島に来るまでの、又来てからの、一切の出来事を、かいつまんで話した。
「何ぜ警察の助けを借りなかったのです。君達の苦しみは自業自得というものですよ」
 私達の話を聞いた刑事が、最初に発した言葉はこれであった。だが、無論微笑しながら。
「悪人の丈五郎が、僕の父だと思い込んでいたものですから」
 道雄が弁解した。
 刑事は一人ではなかった。数人の同僚を従えていた。彼はそのうちの二人に命じて、地底に這入り、丈五郎と徳さんとを連れてくる様に命じた。
「しるべの縄はそのままにして置いて下さい。金貨を取出さなければなりませんから」
 道雄がその二人に注意を与えた。
 池袋署の北川という刑事が、例の少年軽業師友之助の属していた、尾崎曲馬団を探る為に、静岡県まで出掛け、苦心に苦心を重ね、道化役の一寸法師に取入って、ある秘密を聞出したことは先に読者に告げて置いた。その北川刑事の苦心が効を奏し、私達とは全く別の方面から、遂にこの岩屋島の巣窟をつき止め、かくは諸戸屋敷調査の一団が乗込むことになったのであった。
 刑事達が来て見ると、諸戸屋敷で、男女両頭の怪物が烈しい争闘を演じていた。云うまでもなく、それは秀ちゃん吉ちゃんの双生児だ。
 兎も角、その怪物を取り鎮めて、様子を聞くと、秀ちゃんの方が雄弁に事の仔細を語った。
 私達が井戸に這入ったあとで、私と秀ちゃんの間を嫉妬した吉ちゃんが、私達を困らせる為に、丈五郎に内通して、土蔵の扉を開いたのだ。無論秀ちゃんは極力それを妨害したが、男の吉ちゃんの馬鹿力には敵わなんだ。
 自由の身になった丈五郎夫妻は、鞭を振って忽ち片輪者の一群を、反対に土蔵に押しこめてしまった。吉ちゃんが功労者なので、双生児丈けは、その難を免れた。
 それから、丈五郎は吉ちゃんの告口で私達の行方を察し、不自由な身体で自から井戸に下り、私達の麻縄を切断して置いて、別の縄によって迷路に踏み込んだのであろう。丈五郎の傴僂女房と唖のおとしさんがその手助けをしたに相違ない。
 それ以来秀ちゃんと吉ちゃんは、敵同士であった。吉ちゃんは秀ちゃんを自由にしようとする。秀ちゃんは吉ちゃんの裏切りをののしる。口論が嵩じて、身体と身体の争闘が始まる。そこへ刑事の一行が来合わせた訳である。
 秀ちゃんの説明によって、事情を知った刑事達は、直ちに丈五郎の女房とおとしさんに縄をかけ、土蔵の片輪者達を解放し丈五郎を捕える為に地底に下ろうと、その用意を始めている所へ、丁度私達が現われたのだ。
 刑事の物語によって以上の仔細が分った。

大団円


 さて、木崎初代(正しくは樋口初代)を初め深山木幸吉、友之助少年の三重の殺人事件の真犯人は明かとなり、私達の復讐をまつまでもなく、彼は已に狂人となり果ててしまった。又、その殺人事件の動機となった樋口家の財宝の隠し場所も分った。私の長物語もこの辺で幕をとじるべきであろう。
 何か云い残したことはないかしら。そうそう、素人探偵深山木幸吉氏のことがある。彼はあの系図帳を見た丈けで、どうして岩屋島の巣窟を見抜くことが出来たのだろう。いくら名探偵と云っても、あんまり超自然な明察だ。
 私は事件が終ってから、どうもこのことが不思議で堪らぬものだから、深山木氏の友人が保管していた故人の日記帳を見せて貰って、丹念に探して見た所、あったあった。大正二年の日記帳に、樋口春代の名が見える。云うまでもなく初代さんの母御だ。
 読者も知っている通り、深山木氏は一種の奇人で、妻子がなかった代りには、随分色々な女と親しくなって、夫婦みたいに同棲していたことがある。春代さんもその内の一人だった。深山木氏は旅先で、困っている春代さんを拾ったのだ。(初代さんを捨て子にした後の話だ)
 同棲二年程で、春代さんは深山木氏の家で病死している。定めし死ぬ前に、捨て児のことも、系図帳のことも、岩屋島のことも、すっかり深山木氏に話したことであろう。これで、後年深山木氏が例の樋口家の系図帳を見るや否や、岩屋島へ駈けつけた訳が分る。
 系図帳は樋口春雄(丈五郎の兄)からその妻の梅野に、梅野からその子の春代に、春代から初代にと伝えられたものであろう。無論彼等はこの系図帳の真価については何事も知らなかった。ただ正統の子が持ち伝えよという先祖の遺志を守ったに過ぎない。
 では丈五郎はどうして、あの呪文がその中に隠してあることを知ったか。彼の女房の告白によれば、丈五郎がある日先祖の書遺した日記を読んでいて、ふとその一節を発見したのだ。そこには家に伝わる財宝の秘密が系図帳に封じこめられてあるという意味が記してあった。だが、それは春代の家出後だったので、折角の発見が何にもならなんだ。それ以来丈五郎は傴僂息子に命じて、春代の行衛ゆくえ探しに努めたが、当てのない探し物故仲々目的を達しなかった。大正十三年頃に至って、やっと今では初代がその系図帳を持っていることが分った。それから丈五郎がその系図帳を手に入れる為に、どれ程骨を折ったかは、読者の知っている通りである。
 樋口家の先祖は、広く倭寇わこうと云われている海賊の一類であった。大陸の海辺かいへんかすめた財宝をおびただしく所有していた。それを領主に没収されることを恐れて、深く地底に蔵し、代々その隠し場所を云い伝えて来たが、春雄の祖父に当る人がそれを呪文に作って系図帳にとじこめたまま、どういう訳であったか、その子に呪文のことを告げずして死んだ。徳さんの聞き伝えた所によると、その人は、卒中で頓死とんしをしたらしいということである。
 それ以来、丈五郎が古い日記帳の一節を発見するまで、樋口の一族はこの財宝について何事も知らなかった訳である。
 だが、この秘密は、却って樋口一族以外の人に知られていたと考うべき理由がある。それは十年程以前、K港から岩屋島に渡り、諸戸屋敷の客となって、後に魔の淵の藻屑と消えたあの妙な男があるからだ。彼は明かに古井戸から地底に這入り込んだ。私達はその跡を見た。丈五郎の女房は、その男を想い出して、あれは樋口家の先祖に使われていた者の子孫であったと語った。それでは多分、その男の先祖が財宝の隠し場所を感づいていて、書遺しでもしたものであろう。
 過去のことはそれ丈けにして、さて最後に、登場人物の其後を、ごく簡単に書き添えて、この物語を終ることにしよう。
 先ず第一に記すべきは、私の恋人秀ちゃんのことである。彼女は初代の実妹の緑に相違なく、樋口家の唯一の正統であることが分ったので、地底の財宝はことごとく彼女の所有に帰した。時価に見積って、百万円に近い財産である。
 秀ちゃんは百万長者だ。しかも、現在ではもう醜い癒合双体ゆごうそうたいではない。野蛮人の吉ちゃんは、道雄のメスで切離されてしまった。元々本当の癒合双体ではなかったのだから、無論両人とも何の故障もない一人前の男女である。秀ちゃんの傷口が癒えて、ちゃんと髪を結い、お化粧をし、美しい縮緬ちりめんの着物を着た彼女が、私の前に現われた時、そして、私に東京弁で話しかけた時、私の喜びがどれ程であったか、ここに管々しく述べるまでもなかろう。
 云うまでもなく、私と秀ちゃんとは結婚した。百万円は、今では、私と秀ちゃんの共有財産である。
 私達は相談をして、湘南しょうなん片瀬かたせの海岸に立派な不具者の家を建てた。樋口一家に丈五郎の様な悪魔が生れた罪亡ぼしの意味で、そこには自活力のない不具者を広く収容して、楽しい余生を送らせる積りだ。第一番のお客様は諸戸屋敷から連れて来た、人造片輪者の一団であった。丈五郎の女房や唖のおとしさんもその仲間だ。
 不具者の家に接して、整形外科の病院を建てた。医術の限りを尽して片輪者を正常な人間に造り変えるのが目的だ。
 丈五郎、彼の傴僂息子、諸戸屋敷に使われていた一味の者共は、凡てそれぞれの処刑を受けた。初代さんの養母木崎未亡人は、私達の家に引取った。秀ちゃんは彼女をお母さんお母さんと云って、大切にしている。
 道雄は丈五郎の女房の告白によって、実家が分った。紀州の新宮しんぐうに近いある村の豪農で父も母も兄弟も健在であった。彼は直ちに見知らぬ故郷へ、見知らぬ父母の下へ、三十年振りの帰省をした。
 私は彼の上京を待って、私の外科病院の院長になってもらう積りで、楽しんでいた所、彼は故郷へ帰って一月もたたぬ間に、病を発してあの世の客となった。凡て凡て好都合に運んだ中で、ただ一事、これ丈けが残念である。彼の父からの死亡通知状に左の一節があった。
「道雄は最後の息を引取る間際まで、父の名も母の名も呼ばず、ただあなた様の御手紙を抱きしめ、あなた様のお名前のみ呼び続け申候もうしそうろう





底本:「孤島の鬼 江戸川乱歩ベストセレクション※(丸7、1-13-7)」角川ホラー文庫、角川書店
   2009(平成21)年7月25日初版発行
   2011(平成23)年6月5日4版発行
底本の親本:「江戸川乱歩全集 第4巻 孤島の鬼」光文社文庫、光文社
   2003(平成15)年8月20日初版1刷発行
初出:「朝日」博文館
   1929(昭和4)年1月号〜1930(昭和5)年2月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「あと」と「あと」、「嘗て」と「嘗つて」、「かえって」と「かえって」、「はなはだしい」と「はなはだしい」、「恰好」と「格好」、「気持ち」と「気持」、「巾」と「幅」、「船着場」と「舟着場」、「お伽噺」と「御伽噺」、「邸」と「屋敷」、「手提てさげ」と「手提てさげ」、「まんざら」と「満更まんざら」、「現れ」と「現われ」、「打開け」と「打あけ」、「心持」と「心持ち」、「暫く」と「暫らく」、「浅間しい」と「あさましい」、「不気味」と「無気味」、「昂奮」と「興奮」、「枕元」と「枕下」、「成程」と「なる程」と「成る程」、「叫声」と「叫び声」、「用心」と「要心」、「雑作」と「造作」、「這入る」と「入る」、「手掛り」と「手懸り」、「にわか」と「にわか」、「ぶっつかって」と「ぶつかって」、「明かず」と「開かず」、「行方」と「行衛」、「檻禁」と「監禁」、「引汐」と「引潮」、「懐かしい」と「懐しい」、「助る」と「助かる」、「かきつけ」と「書きつけ」、「きずつけ」と「傷つけ」、「もって」と「って」、「わずか」と「わずか」、「おろか」と「愚か」、「ひとり」と「ひとり」、「取交とりかわし」と「取交とりかわし」、「赤坊あかんぼう」と「赤ん坊」、「思立おもいたった」と「思い立った」、「極め」と「わめ」、「風呂敷包ふろしきづつみ」と「風呂敷包み」、「探出して」と「探し出して」、「我子」と「我が子」、「引ぱられ」と「引っぱられ」、「見逃す」と「見逃がす」、「美しく」と「美くしく」、「殆ど」と「殆んど」、「確め」と「確かめ」、「転り」と「転がり」、「怖く」と「怖わく」、「必ずしも」と「必らずしも」、「見交し」と「見交わし」、「忍込み」と「忍び込み」、「逃去った」と「逃げ去った」、「聞返し」と「聞き返し」、「掘返し」と「掘り返し」、「一突」と「一突き」、「突き刺され」と「突刺され」、「えらんだ」と「選んだ」、「た」と「寝た」、「双児ふたご」と「双生児ふたご」、「云い」と「言い」、「そっと」と「ソッと」、「可成」と「可也」、「群衆」と「群集」、「転覆」と「顛覆」、「調べ」と「検べ」、「捨て子」と「捨て児」、「八幡の藪不知」と「八幡の藪知らず」、「何故」と「なぜ」と「何ぜ」、「可哀相」と「可哀想」と「可愛想」、「乃木大将」と「乃木将軍」、「凹凸」と「凸凹」、「の」と「の」、「背」と「脊」、「移殖」と「移植」、「系図書」と「系図書き」、「思い出し」と「思出し」、「御飯」と「ご飯」と「ごはん」、「不審に堪え」と「不審に耐え」、「見るに堪え」と「見るに耐え」の混在は、底本通りです。
※「何人」に対するルビの「なんぴと」と「なんびと」、「身体」に対するルビの「からだ」と「しんたい」、「彼奴」に対するルビの「きゃつ」と「あいつ」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:岡村和彦
校正:きりんの手紙
2020年9月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード