作者の言葉
私は探偵小説を書くのですが、探偵小説といっても、現在では色々の傾向に分れていて、昔の探偵小説という感じからは非常に遠いものもあるのです。私が書きますものは、それは完結して見なければ分らないのですが、恐らく本格探偵小説といわれているものには当らず、そうかといって、もっとも新しい傾向である、いわばモダン型でもなく、やっぱり私好みの古臭い怪奇の世界を
そこで、もし始めてこの種の小説をお読みになる読者があったなら、私のものだけによって、今の探偵小説とはこんなものかなんておっしゃらないで、もっと外の傾向のものをも合せ読まれんことを希望致すのであります。
大正十五年十二月七日「東京朝日新聞」
半町も歩くと薄暗い公園の入口だった。そこの広い
「さて帰るかな、だが帰ったところで仕方がないな」
彼は部屋を借りている家のヒッソリした空気を思い出すと、何だか帰る気がしなかった。それに春の夜の
この公園は、歩いても歩いても見尽すことのできない不思議な魅力をもっていた。フト
彼は公園を横断する真暗な大通を歩いて行った。右の方はいくつかの広っ
「大将、大将」
気がつくと右の方の闇の中から誰かが彼を呼びかけていた。妙に押し殺したような声だった。
「ナニ」
紋三はホールド・アップにでも出っ会したほど
「大将、ちょっとちょっと、
「ソレ、何です」
「エヘヘヘ……御存知の
男はキョロキョロと
「じゃあ
紋三はそんなものを欲しいわけではなかったけれど、フと物好きな出来心から五十銭銀貨とその紙片とを交換した、そしてまた歩き出した。
「今夜は
もうヘベレケに酔っ払った
紋三は共同便所のところから右に切れて広っ場の方へ入って行った。そこの隅々に置かれた共同ベンチには、いつものように浮浪人らが
彼がそこを通り抜けようとして二三歩進んだ時、
紋三は一瞬間不思議な気持がした。頭がどうかしたのではないかと思った。だが、目が闇に慣れるに従って、段々相手の正体が分って来た。そこにたたずんでいたのは、可哀相な一寸法師だった。
十歳位の子供の胴体の上に、借物の様な立派やかな大人の顔がのっかっていた。それが
それから彼は、いつもの様に、広っぱから広っぱへと歩き廻った。気候がいいので、どこのベンチもふさがっていた。
その間を奇妙な散歩者が歩くのだった。寝床を探す浮浪人、刑事、サーベルをガチャガチャいわせて三十分ごとに巡回する
紋三は以前からこれらの人物に一種の興味を感じていた。どうかして正体をつきとめて見たいと思った。彼等の歩きっぷりなどから、あることを想像しないでもなかったが、それにしては、皆三十四十の
屋根つきの
紋三は不規則な石段を
もう大分以前に活動館などもはねてしまって、はなやかなイルミネーションは大方消えていた。広い公園にはまばらな常夜燈の光があるばかりだった。盛り時にはどこまでも響いて来る木馬館の古風な楽隊や、活動街の人のざわめきなども、もうすっかり無くなっていた。盛り場だけに、この公園の
彼は腰をおろすと、それとなく先客達を観察し始めた。一つのベンチには口ひげを
「
紋三はなぜか、ふとそんなことを思った。変に薄気味が悪かった。その上都合の悪いことには常夜燈が丁度紋三の背後にあって、それが樹の枝を通して、一寸法師のまわりだけを照していたので、この畸形児の全身が比較的はっきりと眺められた。
モジャモジャした、濃い髪の毛の下に、異様に広い額があった。顔色の土気色をしているのと、口と目が釣り合いを
荒い
紋三は彼自身の顔が蔭になっているのを幸い、まるで見世物を見る様な気持で、相手を眺めた。始めの間は
一寸法師はさい
「存外暖かいですね」
洋服が口ひげを
「ヘエ、この二三日、大分お暖かで」
遊び人風のが、小さい声で答えた。二人は初対面らしいのだが、何となく妙な組合せだった。年配は二人共四十近く見えたけれど、一方は
「どうだね、景気は」
洋服は、相手の男のよく太った身体を、ジロジロ眺め廻しながら、どうでもよさそうに尋ねた。
「そうですね」
太った男は、
やがて洋服は「アーア」と伸びと一緒に立上ったかと思うと、紋三達の方をジロジロ眺めながら、不思議なことには、再び同じベンチに、太った男とほとんどすれずれに腰をおろした。太った男はそれを感じると、一寸洋服の方を見て、すぐ元の姿勢に返った。そして、頭の毛の薄くなった四十男が、何か恥かしそうな
洋服が突然
そして又、しばらくボソボソとささやき合うと、彼等は気をそろえて、ベンチから立上り、ほとんど腕を組まんばかりにして山を下りて行くのだった。
紋三は寒気を感じた。妙な
暫らくすると、一寸法師は滑稽な身振りでベンチから降り、ヒョコヒョコと彼の方へ近づいてきた。紋三は何か話しかけられるのではないかと、思わず身を堅くしたが、幸い彼の腰かけていた場所は大きな木の幹のかげになっていたために、相手はそこに人間のいることさえ気づかぬらしく、彼の前を素通りして、一方の降り口の方へ歩いてゆくのだった。
だが、そうして彼の前を二三歩通り過ぎた時、一寸法師の
不具者は、たれも見る者がないと思ったのか、別段あわてもしないで、
紋三は一瞬間ぼんやりしていた。一寸法師が人間の腕を持っているのは、極く普通のことの様な気がした。「馬鹿な奴だな、大事そうに死人の腕なんか、ふところにいれてやあがる」何だか滑稽な気がした。
だが次の瞬間には、彼は非常に興奮していた。奇怪な不具者と人間の腕という取合せが、ある血みどろの光景を
紋三はそうして尾行しながら、何だか夢を見ている様な気持だった。暗い所で一寸法師が突然振返って、「バア」といい
一寸法師はチョコチョコと
彼等はやがて吾妻橋にさしかかった。昼間の
それまでは
「
紋三はかつて古来の死体隠匿方法に関する記事を読んだことがあった。そこには殺人者は往々にして死体を切断するものだと書いてあった。一人で持運びをするためには、死体を六個又は七個の断片にするのがもっとも手ごろだとも書いてあった。そして、頭はどこの敷石の下に
彼は相手に悟られたかと思うと少し怖くなって来たけれど、そのまま尾行をあきらめる気にはどうしてもなれないので、前よりは一層間隔を遠くして、ビクビクもので一寸法師の跡をつけた。
吾妻橋を渡り切ったところに交番があって、赤い電燈の下に一人の正服巡査がぼんやりと立番をしていた。それを見ると、彼はいきなりそこへ走りだし相にしたが、ふとあることを考えて踏み
彼は交番を横目に見て、少し得意にさえなりながら、なおも尾行を続けた。一寸法師は大通りから
片側は真暗に戸を閉めた人家、片側はまばらな
一寸法師は尾行者を意識しているのかどうか、長い間一度もうしろを見なかった。しかし、紋三の方では十分用心して、相手が一つの曲り角を曲るまでは、姿を現さない様にして、軒下から軒下を
墓地の所を一曲りすると小さな寺の門に出た。一寸法師はそこで一寸うしろを振返って、だれもいないのを確めると、ギイと
紋三は大急ぎで、元の道を引返し、杉垣の破れから寺の裏手をのぞいて見た。すると、墓地の
もう疑う余地はなかった。一寸法師は意外にもこの寺に住んでいるのだ。紋三はでも念のために杉垣の破れをくぐって庫裏の近くまでゆき、暫くの間見張り番を勤めていた。中では電燈を消したらしく、少しの光も漏れず、又聞き耳を立てても、コトリとも物音がしなかった。
その翌日、小林紋三は十時ごろまで寝坊をした。近所の小学校の運動場から聞えて来る騒がしい叫び声にふと目をさますと、雨戸の隙間をもれた日光が、彼の油ぎった鼻の
彼は寝床から手を伸して、窓の戸を半分だけ開けて置いて、
「
彼は寝起きの口を、ムチャムチャさせながら、ひとり言をいった。
どこかで、押しつぶした様な、いやな
「おれの錯覚なんだろう。人間の腕のふろ敷包みなんて、どうも余り馬鹿馬鹿しいからな」
部屋中に満ち
彼は一つ大きく伸びをして、下宿の
昨六日午後府下 千住町 中組 ――番地往来の溝川をさらっているうち人夫木田三次郎 がすくい上げた泥の中から、おもりの小石と共にしまの木綿 風呂敷に包んだ生々しき人間の片足が現れ大騒ぎとなった。戸山 医学博士の鑑定によれば切断後三日位の二十歳前後の健康体の婦人の右足を膝関節 の部分から切断したもので切口の乱暴なところを見れば外科医等 の切断したものでないことが判明したが附近には右に該当する殺人事件又は婦人の失踪届出 なく今のところ何者の死体なるや不明であるが、――署では極めて巧妙に行われた殺人事件ではないかと目下厳重調査中である。
新聞では「多分偶然の一致なんだろう。それに昨夜のは己の幻覚かも知れないのだから」
と
彼はどうするという
どういう積りか、彼は洋服箱の中から仕立おろしの
「マア、おめかしで、どちらへお出かけ?」
下の茶の間を通ると、奥さんがうしろから声をかけた。
「イイエ、一寸」
彼は変なあいさつをして、そそくさと
併し、
紋三はさえた靴音を響かせながら、門の中へ入って行った。そして昨夜の庫裏の入口に立つと、思い切って
「御免下さい」
「ハイ、どなたですな」
十畳位のガランとした薄暗い部屋に、白い着物を着た四十恰好の坊さんが坐っていた。
「一寸
「エ、何ですって、身体が不自由と申しますと?」
坊さんは目をパチクリさせて問い返した。
「
紋三は変なことをいい出したなと意識すると、一層しどろもどろになった。来る道々、考えて置いた策略なんかどこかへ飛んで行ってしまった。
「それは、お
「
紋三は疑い深か相に、庫裏の中をじろじろ眺めまわしながらいった。
「近くにはありませんな。だが、おっしゃる様な人はここにはおりませんよ」
坊さんは、変な
紋三はもう持ちこたえられなくなって、このまま帰ろうかと思ったが、やっと勇気を出して続けた。
「イヤ、実はね、昨夜ここの所で変なものを見たのですよ」彼はそういいながら、ズカズカと中へ入って
紋三はしゃべりながら
「ヘエー、そうですかねエ」坊さんはさもさも馬鹿にした調子で、「一向に存じませんよ。あなたは何か感違いをしていらっしゃるのだ。そんな馬鹿馬鹿しいことがあるもんですかね。ハハハハハハ」
「どこの方か知らぬが、あなたも
暫く問答をくり返している内に坊さんはとうとう
「一寸法師がどうの、人間の片腕がどうのと、あなたは夢でも見なすったのではないかね。知らんといったら知りませんよ。ご覧の通り狭い寺で、どこに人の隠れるような所がある訳でもない。お疑いなら
「イヤ、なにもあなたをお疑いする訳ではありませんよ」紋三はもうしどろもどろになっていた。「僕のつもりでは、そういう怪しげな男が昨夜ここへ忍び込むのを見たものですから、御注意申上げたいと思って伺ったのです。でも変ですね。僕は確に見たのですが」
「見なすったら、見なすったでもいいが、
坊さんは
「イヤどうもお邪魔しました」
紋三は仕方なく立上った。そして、ほとんど夢中で門の外まで歩いた。
「己は確にどうかしている。何という気違いじみた訪問をやったものだろう。坊主に
彼は暫くぼんやりして、門前にたたずんでいたが、ふと思いついて、お婆さんの居眠りをしている駄菓子屋の店先へやって行った。
「お婆さん、お婆さん、そこにあるせんべいを五十銭ばかり下さい」彼は欲しくもない買物をして何気なく尋ねて見た。「この辺に子供のような脊の低い、つまり小人
「
婆さんはけげんらしく答えた。
「この前のお寺ね、
「アア、
婆さんは話好きと見えて、雄弁にしゃべり続けた。だが、紋三はここでも別段に
雷門で電車に乗ってからも、彼は妙にぼんやりしていた。何か頭に薄い幕が張ったような気持だった。
「まあ、小林さんじゃありませんか」
電車が
「ホホホホホホ、ぼんやりなすっているのね」
そこには、思いがけぬ
「どちらへ?」
彼女は癖の、首をかしげて尋ねた。
実業家山野
「どうも御ぶさたしました。サアどうか」
彼は兎も角立上って席を譲ろうとした。立上る時、あまりあわてたのと、その時丁度電車がカーヴの所を通り過ぎた為に、フラフラとして、彼の手が夫人の
「エエ有難う。丁度いい所で逢いましたわ、私少し伺いたいことがありますのよ。お
「ハ、承知しました」
紋三はまるで夫人の家来ででもある様に、
上野広小路で電車をおりると、二人は肩を並べて公園の方へ歩いて行った。
「あなたおひる、まだでしょうね。私もそうなのよ。でも
どういう話があるのか、夫人は非常に大事を取っている様に見えた。しかし、紋三は夫人の話が何であろうと、彼女と肩を並べて歩くさえあるに、その上彼女と食卓を共にすることが出来るというので、もう
また彼は、今日一張羅の洋服を着て出たことを
「ねえ小林さん。いつかあなたのお
夫人は公園の入口のやや
「ハア、
「エエ、あなたにはまだお知らせしませんでしたけれど、大変なことが出来ましてね。実はあの
「エ、三千子さんが、ちっとも存じませんでした。で、いつの事なんです」
「丁度五日になりますのよ。まるで消えでもしたようにいなくなりましてね。どう考えても家出の理由も、どこから出て行ったかという様なことも、まるで分りませんの。ほんとうに
紋三はその時少からず
「イエ、別に知っている訳でもないのですが、
「私
「そうですか。ちっとも知りません。僕は昨夜から狐につままれた様な気持なんです。実際どうかしているのですね、奥さんにお逢いして知らずにいるなんて。この頃何だか頭が変なのです」
「そういえば妙に考え込んでいらっしゃるわね。何かありましたの?」
「奥さんはお読みになりませんでしたか。今朝の新聞に千住の溝川から若い女の片足が出て来たという記事がのっていましたが」
「アアあれ読みました。三千さんのことがあるものですから、私一時はハッとしましたわ。でも、まさかねえ」
夫人は一寸笑って見せた。
「ところが、僕はあれでひどい目に逢っちまったんですよ。実は僕
夫人が好奇心を起した様に見えたので、それから紋三は昨夜の
「マア、気味の悪い」夫人は
「僕もそう思うのです。そうだとすると一層いけないのですけれど……」
彼等はそうして三十分以上も上野の山内を歩きまわった。紋三は三千子の家出の
二人は精養軒で食事を済せると自動車を呼ばせて、明智の泊っている
車を降りて旅館の広い玄関を上る時などは、彼はすっかりいい気持になっていた。山野夫人が彼の恋人であって、彼女は夫の目を盗んで、彼と遭うためにこの
幸い明智は在宿であった。彼は気軽に二人を廊下まで出迎えてくれた。
日当りのよい十畳程の座敷だった。三人は
上海から帰って以来約半年の間、素人探偵明智小五郎は
山野夫人の話はかなりくだくだしいものであったが、明智はそれを彼の流儀で摘要して、必要な部分だけ記憶に
行方不明者、山野三千子、十九歳、山野氏の一人娘、昨年女学校卒業
父、大五郎、四十六歳、鉄材商、土地会社重役
母、百合枝 、三十歳、三千子の実母は数年前 死亡し百合枝夫人は継母である。
召使、小間使 二人、下 女中二人、書生、自動車運転手、助手
これだけが山野家に父、大五郎、四十六歳、鉄材商、土地会社重役
母、
召使、
「で、
彼は一応夫人の話を聞いてしまってから、改めて要点を質問した。
「ハア、本当に不思議でございますわ。先程も申します通り、三千子の寝室は洋館の二階にあるのですが、その洋館には出入口が一つしかございませんし、出入口のすぐ前には私共のやすむ部屋がありまして、洋館から出て来ればじき分るはずなのでございます。よし
「洋館の方の窓なんかも締りが出来ていたのですか」
「ハア、皆内側からネジが
「もっともお嬢さんが窓から出られるはずもありませんね。……、その
「これということもございませんでした。よいの内はピアノなど鳴している様でございましたが、九時頃私が見廻りました時には、もうよく
「妙ですね。まさかお嬢さんが消えてしまわれた訳でもありますまい。きっとどこかに手抜かりがあったのですよ」
「でも、戸締りの方はもう間違いないのでございますが。警察でも色々調べて下すったのですけれど、刑事さんなんかも、どうも不思議だとおっしゃるばかりでございますの」
「朝の間に出て行かれた様なことはありませんか」
「それは、小間使の
「お嬢さんが家出をされる様な原因も、別にないとおっしゃるのですね」
明智は質問を続けた。
「ハア、少しも心当りがございません。ただわたくしが
山野夫人は、もう二三度もくり返した彼女の苦しい立場を、またくどくどと説明した。
「御縁談とか、
「縁談は二三あるにはあったのですけれど、どれも本人が気に染まないとか申しまして、まだ
夫人は何かいいしぶって見えた。
「では御主人が大阪の方へお
明智は夫人の急所を突いた。
「ハア、それはあの……」夫人はどぎまぎしながら「あちらに三千子の大好きな
然し、今山野夫人がいいしぶったのは、もっと別の事柄らしく見えた。
「伺っただけでは、随分不思議な出来事ですが」明智は考え考えいった。「今の少しも出口のない家の中で、お嬢さんの姿が消えてしまったという様なことも、実際そんなことは不可能なんですから、どっかに極くつまらない、後では笑い話になる様な思い違いがあったに相違ないのです。そして、その点が明かになれば、存外
「エエ、それはもう。どうかお願い致しとうございますわ。では、丁度車が待たせてございますから今からお出かけ下さいませんでしょうか」
そこで、明智の着換えをするのを待って、三人は菊水旅館を出た。明智は上海から持って来た自慢の支那服を着て、
「極くつまらないこと、素人が考えて、馬鹿馬鹿しい様なことが、謎を解く場合には随分重大な役目をつとめます。
明智はだれにともなく、ひとりごとをいっていた。
三人詰のクッションに、山野夫人百合枝を中にはさんで、右に明智、左に小林紋三が腰かけていた。紋三は車が揺れて山野夫人の膝が彼の膝を押すたびに、段々身をすくめて、隅の方へ小さくなって行った。それでいて、彼はこの始めての経験を、
車はやがて
山野氏の自宅は向島
掃き清められた砂利道を通って、自動車は日本建の玄関に横づけされた。その和風の
玄関を上ると、山野夫人はそこに出迎えた書生に、何事か尋ねている様子だったが、やがて長い廊下を通って、二人を洋館の階下の客間へ案内した。余り広くはないけれど、壁紙、窓かけ、
「
白麻で覆ったひじかけ
「ハア?」
夫人は彼の
「家出をなすったとすれば、お嬢さんの履物が一足なくなっているはずですね」
明智が説明した。
「アア、それなれば、粗末な
「着物はどんなのを……」
「
「するとつまり」明智は皮肉にいった。「一方では厳重な戸締りがあって一歩も外へ出られないはずだし、一方ではショールだとか履物だとか、家出をなすった証拠がそろっているという訳ですね」
「左様でございますの」夫人は当惑して答えた。
「じゃ、一つこの洋館の中を見せて頂きましょうか」
明智はいいながら、もう
階下は客間とその隣の主人の書斎との二室きりだった。明智は書斎を一渡り眺めてから、外の廊下の端の階段を上って行った。小林と山野夫人がその後に従った。二階は
夫人は一々戸だなや押入を開けて見せた。机の
「押入などは、その朝もよく調べましたのですが、別状ございませんでした」
夫人は少しも手抜りのなかったことを示そうとした。
「だが、幽霊ででもなければ、戸締りをした部屋を抜け出すことは出来ませんね」
明智は壁紙に触ったり、窓の締りを調べたりしながらいった。
「ひょっとしたら、お嬢さんはまだ
それを聞くと紋三は、三千子が五日間も
一通り見てしまうと三人は元の客間へ帰った。
「お嬢さんはピアノがお好きと見えますね。奥さんはお
明智は客間の大きな立型ピアノの前に立って、
「イイエ、私は一向無調法でございますの」
「じゃ、お嬢さんの外には弾かれる方はないのですね」
夫人がそれに
明智の突然の子供じみた
「いたんでますね」
明智は手を止めて夫人の顔を見た。
「イイエ、そんなはずはございませんが。ずっと三千子が使っていたのですから」
明智は最前たたいたキイをもう一度試みたがやっぱり同じ音がした。その次のキイも
「
しばらくして明智が真面目な表情で尋ねた。
「ハア、どうか」
夫人は心もち震え声で答えた。
明智は鍵盤の下部の金具を動かして、細目にふたを開き、中をのぞき込んだ。
紋三は明智のうしろから、および腰になってピアノの内部よりはむしろ明智の表情を注視した。彼はピアノの共鳴箱の空洞の中に、ある恐しいものを予期していた。腕と足とを切断された、血まみれの女の死体が、ありありと目の前に浮んだ。
だが、すっかりふたが取り去られた内部には、一見何の異状もなかった。広い空洞の奥に、縦横に交錯したスプリングが見えているばかりだった。
それを確めると、紋三はホッとして楽な姿勢に返った。そして、今の馬鹿げた空想をおかしく思った。彼は夫人と目を見合せて、一寸微笑み合った。夫人も同じ心に相違なかった。
併し、それにも
「奥さん、これは普通の家出なんかじゃありませんよ。もっと恐しい事件ですよ。びっくりなすってはいけません。このヘヤーピンはお嬢さんのでしょうね」
明智は細い金属のヘヤーピンを示した。
「ハア、それは三千さんのかも知れません」
「これが、ピアノの中のスプリングに引かかっていたのです。それであんな音がしたのでしょう。それから、お嬢さんの髪は細くって、いくらか赤い方ではありませんか」
彼はピンの
「マア、では……」
山野夫人は驚いて叫んだ。
「まさかお嬢さんが隠れん坊をなすった訳ではないでしょう。一人でこの中へ入ってふたをしめることは不可能です。すると、何者かがお嬢さんをここへ隠したと考える
「でも、あの日は一人も来客はなかったのですし、ここは一番私共の部屋に近いのですから、だれか忍び込めばすぐ分るはずでございますが」
夫人はどうかして明智の想像を否定しようとした。
「とすると、お嬢さんはその時自由な身体であったとは考えられません」明智は構わず彼の判断を続けた。「声を立てたり身動きが出来たとすれば、だれかが気づいたでしょう。恐らくお嬢さんは動くことも叫ぶことも出来ない状態にあったのです。
妙な隠し場所ですが、咄嗟の場合
最初は何か本当らしくない様な気がしたが、段々明智の説明を聞く内に、事件の性質がハッキリ分って来た。第一に気づかわれるのは、三千子の生命の安否であった。山野夫人は、それを口にするのが恐しい様子で、一寸もじもじしていたが、
「三千子は誘拐されたとおっしゃるのですか。それとも、もしやもっと恐しい事では……」
「それはまだ何ともいえませんが。この様子では楽観は出来ませんね」
「でも、三千子の身体をここへ隠したとしましても、どうしてそれを
「そうです。僕も今それを考えていたのです。ここのガラス窓なんかも、毎朝締りをお調べになりますか」
「エエ、それはもう、主人が用心深いたちだものですから、女中達もよく気をつける様にいいつかってますし、それにあんなことのあったあとですから、皆一層注意しているのでございます」
「もしかお嬢さんが見えなくなってから」明智はふと気がついた様にいった。「何か大きな品物を
夫人は明智のこの妙な考えに一寸驚いた様に見えた。
「イイエ、別にそんな大きな品物なんか、持出したことはございませんわ」
「併し、お嬢さんがお邸にいらっしゃらないとすれば、何かの方法で外へ運び出されたに違いないのです。このピアノの様子では、お嬢さんが御自分で外出されたとは考えられませんからね」明智は一寸ためらってから、「大変
「エエ、お易い御用ですわ」
そこで夫人は
雇人の内二人だけそろわなかった。小間使の小松は頭痛がするといって女中部屋で寝ていたし、運転手の
明智はそんな風に、大勢を一室に集めて
山野夫人はけげん顔の雇人達に明智小五郎を紹介して、何なりと彼の質問には、少しも遠慮せず答える様にと
「こちらのお嬢さんが行方不明になられてから、つまり四月二日ですね、あれからこっちのこのお邸に出入りした人を、出来るだけ思い出して欲しいのです」明智はすぐ
書生の
「その内に、何か大きな品物をお邸から持出した人はありませんか。来客ばかりでなく家内の人でも、だれでも構わない、兎も角何か大きな物を持って門を出た人はないでしょうか」
「大きなものといってもせいぜい
外の雇人達もそれ以上のことは知らなかった。
「裏口の方からだれか
明智は最後に二人の下女中をとらえた。
「勝手の方は、見知り越しの御用聞き位のものですわね」
女中の一人が別の女中の方を見て同意を求める様にいった。
結局何も分らなかった。自動車の助手も、主人の外にはだれものせなかった。大きな品物なんか運んだ覚えはないと明言した。もしも彼等が何物をも見逃していなかったとすれば、この上は天井裏とか
「だが、そんなことは不可能です。何か見逃しているものがある。現にあなた方はこのピアノを見逃していた。もっとあなた方が注意深かったなら、運び出されない内に、お嬢さんを見つけていたかも知れないのです。何かしら分り切ったものです。ごくつまらないことを見落しているのです。今おっしゃった外に、何かいい残しているものはありませんか。例えば書生さんは郵便配達が門を出入したことをいわなかった。もっとも郵便配達がお嬢さんを運び出すことは出来ないけれど、そんな風なごくつまらないものが
「掃除屋、衛生人夫なんかもありますね」
ふと気がついた様に紋三が
「そうだ。そんな風のものです」
「アラ、掃除屋さんといえば、ねえ
終りの方を明智にいって、小腰をかがめた。
「いつもと変ったところはなかったですか」
「いいえ、別に……、でも、何だか日取りが早い様でございました。いつもは十日目くらいなのに、今度は二三日前に来たばかりのところへ、また来たのでございます」
「ゴミ箱は勝手口にあるのですね」
「ハア、通用門の内側に置いてございます」
「その男はどんな風でした。見覚えがありましたか」
明智は一寸好奇心を起した様に見えた。
「いいえ、別に見覚えはございませんが、やっぱりいつもの様に
「その男が通用門から入ったのですね。で、ゴミを持って行く所を見ましたか」
「いいえ、ただ門の所で行違いましたばかりで、私お
「私もよく見なかったけれど、そうそう、今考えて見ると妙なことがあったわ。前の人が持って行ってから二、三日しかならないのに、
「そのゴミ箱っていうのは、大きなものかい」
紋三は明智の質問が待ち切れないで聞いた。彼はこうした異様な出来事には、人一倍ひきつけられた。彼は
「エエ、随分大きいのですわ」
「人間が入れる位?」
「エエ、大丈夫入られますわ」
そんな問答がくり返されたあとで明智達は勝手口のゴミ箱を調べに行った。正門とは反対の側の高いコンクリート塀に通用門が開いていて、その入ったすぐの所に、黒く塗った大型のゴミ箱が置いてあった。一応それを調べて見たけれど、ただ大型であることが、あの
「ゴミ箱の中へ人間を隠して、上から汚いゴミをかぶせて置く。それを衛生夫に化けた男がゴミ車に移して、どこかへ持去る。これは非常に馬鹿げた空想です。が、馬鹿馬鹿しければ馬鹿馬鹿しい程、却って本当かも知れないのです。この事件には何かしら突飛な所があります。一寸常識では考えられない様な所があります。併し、犯罪者は時に非常に突飛な馬鹿馬鹿しい思いつきをするものですよ」
明智はけげん顔の山野夫人に説明した。
それから綿密な邸内の捜索が行われた。召使達も引続き取調べられた。頭痛がするといって女中部屋に寝ていた小間使の小松には、明智がその部屋へ行って色々尋ねた。
そうして山野家の空気に
明智と小林とは、
それから二日の間は、表面何事も起らなかった。明智は彼の探偵を進めていたに相違ないし、小林紋三は小林紋三で、彼自身の判断に従って、山野家を訪問したり、浅草公園や本所の養源寺の附近をうろついて見たりしていた。山野家にも新しい出来事は起らなかった。
だが、三日目の四月十日の夜、
午前二時、その百貨店の三階の呉服売場を、若い番頭が一人の少年店員を伴って、見廻っていた。この店では毎晩、番頭、少年店員、警務さん、
昼間
売場の陳列台はすっかり
若い番頭は、物の影に注意しながら、暗い通路を歩いて行った。時々立止っては、要所要所にかけてある小箱のかぎを取出して、持っている宿直時計に印をつけた。
所々に太い円柱が立っていた。それが何か生きている大男の様に感じられた。
少年店員は懐中電燈を
一番気持の悪いのは、
この飾り人形については色々の挿話があった。若い店員がある人形に恋をしたなどといううわさがよく伝わった。夜中にそっと忍んで来て、人形に話をしたり、ふざけたりしている男もあった。今のお梅さんも、あんなに美人なのだから、ひょっとしたらだれかが恋をしていたかも知れないのだ。
そんなうわさ話が生れる程あって、この人形共は何だか
今番頭達の行手には、その三つの人形が、遠くの電燈の
「ちょっと、ちょっと、いつの間に、あんな子供の人形を置いたのです。ちっとも知らなかった」
少年店員がふと立止って、番頭の袖を引いた。
「エ、子供の人形だって、そんなものありゃしないよ」
若い番頭は怒った様な調子で、小僧の言葉を打消した。彼は怖がっているのだ。
「だって、御覧なさい。ホラ、お松さんとお竹さんが、子供の手を引いているじゃありませんか」
小僧はそういって、人形の方へ懐中電燈をさし向けた。遠いためにはっきりとは見えないけれど、そこには、お梅人形のかげになって、確に一人の子供が立っていた。
どう考えても、そこに子供人形のあるはずがなかった。変だぞと思うと
「オイ、スイッチをひねるんだ。あの上のシャンデリヤをつけて御覧」
若い番頭は、ワッといって逃げ出したいのをやっと
少年店員は、スイッチを押しに行ったけれど、面喰っている為に、急にはそのありかが分らない。番頭はもどかしがって、少年の手から懐中電燈を奪って、それを怪しい人形にさし向けながら近づいて行った。
長い陳列台を一つ廻ると、一寸
そこで丸い光は暫く躊躇していた。事実を確めるのが怖いといった風に
その者は鳥打帽を冠り、何か黒いものを着て、さっき少年店員がいった通り、一寸すまし返ってお松お竹の両婦人に手を引かれていた。だが、一見してそれは子供でないことが分った。大きな顔に大きな目鼻がついて、頬の
昼間、太陽の光でそれを見たなら、美しい生人形と畸形児との取合せが余り変なので、だれでも大笑いをしたことであろう。だが夜、懐中電燈のおぼろげな円光の中に浮び上った畸形児のすました顔は、すましているだけに一層気違いめいて、物すごく感じられた。
「オイ、そこにいるのはたれだ」
若い番頭は思い切って怒鳴りつけた。
しかし相手は答えなかった。答えの代りに丸い光の中の半身像が、丁度活動写真のフィルムが切れでもした様に、突然見えなくなった。つまり相手は逃げたのだった。
少年店員がやっとのことで、スイッチを探し当てて、一時にその辺が明るくなった。だがその時分には、畸形児は鉄柵を越え、陳列台の間を通り抜けて、どこかへ見えなくなっていた。無数の陳列台が縦横様々に置き並べてある、その間を台より低い、一寸法師が逃げて行くのでは、まるで追駈け様がなかった。
間もなく番頭の非常信号によって、宿直員全部が三階に集まった。そしてあるたけの電燈をつけて、非常に物々しい捜索が始められた。陳列台の白布は一々とりのけられ、台の下や、開き戸の中なども
ほとんど夜明け方まで大がかりな捜索が続けられたが、結局分ったのは、何
盗まれた品物がなければ、宿直員に
「あいつ臆病者だからね。きっと何かを見違えたんだよ」
という様なことで、捜索はうやむやの内におわってしまった。
その翌日所定の時間になると、百貨店のあらゆる窓やドアが開け放され、いつに変らぬ雑沓が始まった。
支配人は、一応出入口の係員を呼んで一寸法師のお客を見なかったかと尋ねたが、昨日も今日もだれ一人そんな不具者に気づいたものはいなかった。結局昨夜の騒ぎは若い店員の
盗まれた品物もなく、曲者の忍び込んだ箇所もない。その上若い番頭が主張する様な不具者なんか、昨日閉店以前に入った形跡もなく、今日開店後出て行った様子もない。(そういう不具者なればだれかの目につかぬはずはないのだが)だから若い番頭の見たのは、単に彼の幻覚に過ぎなかったか、それとも又、少年店員の中のいたずらものが、臆病な彼をおどかしてやろうと、態と人形の真似なんかしていたのかも知れない。という様な事で、結局発見者が同僚達の
だが、その日のお昼頃になって、例の三階の呉服売場に途方もない騒ぎが起った。
桜の造花の下の三美人人形は、まだ最近飾られたばかりなので、三階中の人気を集め、そのまわりは、いつも黒山の人だかりがしていたにも拘らず、不思議とだれもそこへ気づかなかった。大人達にとっては、恐らくその着想が、余りにも奇抜過ぎたのであろうか、それを発見したのは二人の小学生徒であった。
彼等はおそろいの
「ねえ、兄さん、この人形はおかしいよ。右の手と左の手と、まるで色が違っているんだもの、この作者は下手だねえ」
一方の小学生が人形の作者を批評した。
「生意気おいいでないよ」兄の方は周囲の見物達に気を兼ねて弟をたしなめた。「御覧よ。あの
「だって、右と左であんなに感じが違っちゃつまらないや。そりゃ、細工は細かいけど……でも、やっぱり変だな、右の手は小さな
彼は思わぬ発見に息をはずませて、叫ぶ様にいうのであった。「死人の手」という
注意して見れば、色合といい、小皺の様子といい、生毛といい、もう死人の手首に相違はなかった。だが、常識家の大人達は、まだ彼等自身の目を疑っていた。そんな馬鹿馬鹿しい事が起るはずはないと思いつめていた。
「ねえ、
小学生は遂に一人の婦人をとらえて彼の発見を裏書きさせようとした。
「まあ、いやだ。そんなことがあるものですかよ」
婦人は何気なく打ち消したけれど、でもどうした訳か、問題の手首を、まるで食い入る様に見つめていた。
「訳はないわ、あんたそんなに確めたけりゃ、柵の中へ入って触って見ればいいんだわ」
別の婦人が、からかう様にいった。
「そうだね、じゃ僕たしかめて
いうかと思うと小学生は柵を乗り越えてお梅さんの
「こんなもんだよ」
小学生はお梅さんの右手を引抜いて、高く見物達の方へふりかざした。それを見ると、ワワワワワワという様な一種のどよめきが起った。今まで着物の袖で隠れていた手首の根元の方は、
百貨店でお梅人形の騒ぎがあった同じ日の午後、明智小五郎は山野家の玄関を訪れた。丁度山野夫人が居合せて、彼は
「三千子さんの指紋が欲しいのですが、もう一度御部屋を見せて頂けないでしょうか」
「サア、どうか」
山野夫人は先に立って二階の三千子の部屋へ上って行った。
書斎も化粧室も、この前見た時に比べて、まるで違う部屋の様に、
「この瓶を拝借して行って差支ありませんか」
「ハア、どうか。お役に立ちましたら」
明智はポケットから麻のハンケチを出して、
客間に帰ると、明智はテーブルの上に、今の化粧品の容器類と、吸取紙と、外に一枚の紙切れとを並べた。この最後のものには、何者かの片手の指紋がハッキリと押されてあった。明智はそこへひょいと一つの
「奥さん。この紙切れの五つの指紋と、御嬢さんのお部屋にあった吸取紙や、化粧品の指紋と比べて御覧なさい。虫眼鏡で大きくすれば、素人でもよく分りますよ」
「マア」夫人は青くなって、身を引く様にした。「どうかあなたお調べ下さいまし。私には何だか怖くって……」
「イヤ、僕はもうさっき調べて見て、この両方の指紋が同じものだってことを知っているのですが、奥さんにも一度、見て置いて頂く方がいいのです」
「あなたが御覧なすって、同じものなれば、それで十分ではございませんか。私などが見ました所で、どうせよくは分らないのですから」
「そうですか……ではお
山野夫人は、フラフラと身体がくずれ相になるのをやっと
「で、その死骸というのは一体どこにあったのでございますか」
「銀座の――百貨店の呉服売場なんです。実にこの事件は変な、常軌を逸した事柄ばかりです。そこの呉服売場の飾り人形の片手が、昨夜の間に、本物の死人の手首とすげ換えられていたというのです。警務係をやっている者に知合がありまして、早速知らせてくれたものですから、
「ハア、ルビイの指環をはめていましたのも本当でございますが、でも三千さんの手首が百貨店の売場にあったなんて。まるで夢の様で、私一寸本当な気が致しませんわ」
「御もっともですが、これは少しも間違いのない事実です。やがて今日の夕刊には、この事件が詳しく報道されるでしょうし、警察でもいずれこれをお嬢さんの事件と結びつけて考える様になるでしょう。御宅にとっては、お悲しみの上に、非常に御迷惑な色々の問題が起って来るかも知れません」
「マア、明智さん、どうすればいいのでございましょう」
山野夫人は、目に一杯涙をためて、一種異様のゆがんだ表情で、明智にすがりつくようにいうのであった。
「早く犯人を探し出して、お嬢さんの死骸を取戻すほかはありません。こうなれば警察の方でも十分捜索してくれるでしょうし、案外早く解決がつくかも知れません。その後、御主人は御帰りないのですか」
「ハア、主人はこちらから電報を打ちまして一昨日帰ってもらったのでございますが、ひどく
「それはいけませんね。だが、御主人も余り御気落がひどい様ですね。じゃ、今日は御目にかかれませんかしら」
「ハア」夫人はいい
「では、僕はこれで
もう一つは、お宅の蕗屋という運転手です」明智は何かニヤニヤ笑って夫人の顔を見た。「奥さんはお隠しなすっていた様ですが、それは御無理とは思いませんが、お隠しなさるということはどちらかといえば却って人に
その蕗屋が丁度お嬢さんの行方不明と前後して、御暇を頂いて郷里へ帰っているというのは、御主人が御考えなすった通り、何か意味があり相に見えますね。で僕も御主人と同じ道を取って、蕗屋のあとを追って見たのです。四月二日以後の彼のあらゆる行動を調べて見たのです。ところが、彼は三日の夕方突然御主人に
御主人は大阪で蕗屋にお逢いなすっているのではありませんか。お目にかかってその模様をお伺い出来ないのは残念ですが、蕗屋はお嬢さんの今度の変事には、恐らく何の関係もないのでしょう。ただ、彼は何かを知っているかも知れませんがね」
明智はそういって、山野夫人をじっと見つめた。夫人は青ざめて、涙ぐんで、さしうつむいているばかりだ。明智は彼女の表情から何事をも読むことが出来なかった。
「表面に現れている点だけでいえば、この際一番疑わしいのは小間使の小松です」明智は一段声を低くしていった。「彼女にとって、お嬢さんは恋の
「イイエ、あれに限ってそんな恐しいことを致すはずはございません」山野夫人はあわてて明智の言葉をさえぎった。「あれは不幸な娘でございます。両親ともなくなってしまって、ひどい
「そうです。僕も小松がそんな女だとは思いません」明智は頭の毛を指でモジャモジャやりながら、「ただ、表面の事情があの女に嫌疑のかかる様な風になっていることを申上げたのです。だが、小松に罪のないことはよく分っていますが、罪はなくても何か知っていることがあるかも知れません。この間も僕は、あの女の寝間へ行って、色々尋ねて見たのですが、何を聞いても知らぬというばかりで、顔さえも上げられないのです。強いて尋ねるとしまいにはしくしく泣き出すのです。あの女は何かしら秘密を持っていることは
明智は山野夫人のどんな微細の表情の動きをも見逃すまいとする様に、彼女の青ざめた顔をのぞき込んだ。そして、ごく平凡な調子で次の話題に進んで行った。
「この事件には、妙な不具者が関係している様に思われます。俗に一寸法師という奴です。もしやそんなものに御心当りはありませんか。多分御聞及びでしょうが、小林君も先夜そんなものを見たということですし、今度の百貨店の事件にもどうやら同じ一寸法師が関係しているらしいのです。
「マア」山野夫人は真から気味悪そうに身震いした。「小林さんから聞きました時は、あの人が何か見違えたのだろうと思っていましたが、マア、ではやっぱり、そんな不具者がいるのでございましょうか。イイエ、私少しも存じませんわ。小さい時分見世物で見ました外には、一寸法師なんて久しく見たこともございませんわ」
「そうでしょうね」明智は夫人の目を見続けていた。「それについて妙なことがあるのですよ。小林君は一寸法師が養源寺へ入る所を確に見たのですが、お寺でもそんなものはいないといいますし、近所の人も見た事がないというのです。
今度も又それと同じことが起ったのです」明智は話しつづけた。「そうして店員が夜中に一寸法師を見たにも拘らず、その前日も翌日もそんな不具者が出入口を通った様子がないのです。といって窓を破って出入した跡もありません。いつの時も、
明智は何かしら知っていた。知りながら態と何食わぬ顔をして、いわば不必要な会話を取交している様な所が見えた。彼は最初から一つの計画を立てて、お芝居をやっているのかも知れなかった。
「それから、今度の事件でもっとも不思議なのは、これは
明智はそこでポッツリと言葉を切って、山野夫人の青ざめた顔を眺めた。不自然に長い間そうしてじっとしていた。
山野夫人は、明智の鋭い眼光を意識して、さしうつむいたまま震えていた。彼女は余りの恐しさに
「で、もしこれが深い計画によって行われた出来事だとしますと、その意味はたった一つしかありません。つまり、犯人は外にあるのです。お嬢さんの死体の一部を公衆の面前にさらけ出している奴は、犯人ではなくて、そういう驚くべき手段によって、別に本当の犯人を脅迫しているのです。何かためにする
山野夫人はその時、ハッと顔を上げて明智を見た。二人は無言のまま、じっとにらみ合った。お互にお互の胸の奥まで突通す様な、恐しい眼光を取交した。が、次の瞬間には、山野夫人はテーブルに顔を伏せて、はげしく泣き出していた。
そこへドアが
「奥様」彼はおずおずと夫人を呼びかけた。「大変な物が参りました」
夫人はやっと涙を圧えて、顔を上げた。
「ただ今、こんな小包が参りました」
書生は持っていた細長い木箱をテーブルの上に置いて、チラと明智の方を見た。
小包は粗末な木箱で、厳重に釘づけになっていたが、書生が無理にあけたのであろう、蓋が半分に割れて、中から何か油紙に包んだものがはみ出していた。
細長い木箱は午後の第一回の郵便物の中に混っていた。差出人の記名はなかったけれど、いずれどこからかの到来物に相違ないと思って、書生の山木は何気なく蓋を開いた。(ここでは封書の外の小包だとか書籍類などは、書生が荷造りを解いて主人の所へ差出す習慣だった)だが、
明智は書生の説明を聞きながら箱の中から油紙に包んだ品物を取出して、丁寧に包みを解いた。中からは
「君、奥さんをあちらへお連れしてくれ給え。これをごらんにならん方がいい」
明智は手早く包みを箱の中へ押し込んで叫んだ。
山野夫人は、併し、凡てを見てしまった。彼女は立上って無表情な顔で一つ所を見つめていた。顔色は
「君、早く」
明智と書生とが同時に夫人をささえた。夫人はもう立っている力がなかった。彼女は無言のまま書生に
明智は夫人が行ってしまうと、又包みを解いて中の物を取出し、暫く眺めていた。余程注意しないと、皮膚がズルズルとめくれて来そうだった。それは若い女の左の手首だった。これと百貨店にさらされたものとが丁度一対をなしているのではないかと思われた。
彼は棚の上にあった
それから、先程のハンカチを解いて、三千子の化粧品の容器類を取出し、それの表面に残っている指紋と、今手帳に写した指紋とを虫眼鏡でのぞき比べた。
「やっぱりそうだ」
彼はため息と一緒に、低い声で
「奥様から、御調べがすみましたら失礼ですが御
「アア、そうですか。それは御心配のない様に御伝え下さい。ですが、一寸でいいから御主人に御目にかかれないでしょうか」
「イエ、それも大変失礼ですが、主人はお嬢さんのことで、非常に神経過敏になっておりますので、出来るだけは、色々なことを耳に入れないで置きたいとおっしゃって、凡て秘密にしてありますので、この際なるべくならお会い下さいません様にということでした」
「そうですか。じゃ僕は帰ることにしますが、この箱は君がどこかへ大切に保存して置いて下さい。いずれ警察から人が来るでしょうから、それまでなるべく手をつけない様にね」
明智は化粧品のハンカチ
山野大五郎氏は大阪から帰って以来、床についた切りだった。軽度の発熱が続いて、絶えず烈しい頭痛が伴った。医師は流行感冒だといっていたけれど、その発熱の原因が一人娘の三千子の失踪にあることは疑うまでもなかった。大阪行の結果が失望に終った上に、留守中明智小五郎の意外な発見によって、三千子の行方不明が単なる家出なんかでないことが分ってから、彼の
大五郎氏は家人に顔を合せることを
山野夫人は、不気味な木箱の贈物を見てから、まるで病人の様になって、居間にとじこもっていた。夕食の時間になっても、茶の間へ顔を出さなかった。小間使のお雪が、心配して
七時が打って暫くすると、何を思ったのか百合枝は着換えをして、大五郎氏の部屋へ入って行った。大五郎氏は
夫人は主人に薬を勧めたり、部屋を乾燥させない為に
「私一寸
とおずおずいった。
「相談にでも行くのか」
大五郎氏は、
「ハア、度々ですけれど、お加減がそんなにお悪くない様でしたらほんの一時間かそこいらお暇が頂きたいのですが」
「私は差支ないから、行くなら、気をつけて行って来るがいい」
大五郎氏は何か別の考え事をしている様な、
「では一寸行って参りますから」
山野夫人はそういって立上ろうとして、ふとそこに拡げてある夕刊に気がついた。次から次へと起って来る、様々の出来事に、ついぼんやりしてしまって、彼女は大変なことを忘れていた。今日の夕刊は主人に見せてはならないのだった。
そこには予期した通り、いや予期以上の
大五郎氏がその記事を読んだことは疑うまでもなかった。だが、読んで
山野夫人は、お雪に行先を告げて、外出の用意をさせた。お雪は山木さんでもお連れなすってはと勧めたけれど、近所のタクシーを雇うからそれには及ばないといって、彼女はただ一人で門を出た。
門の外は、両側とも長い塀が続いて、所々に安全燈が鈍い光を放っているのが、一層暗さを引立てている様に見えた。人通りなどはまるでなかった。
彼女は
二三町も行くと、道は隅田川のさびしい
堤に出て、少し行って、だらだら坂を
だが、夫人がそれ程用心深くしていたにも拘らず、彼女は一人の尾行者を悟ることが出来なかった。彼女が邸の門を出るとから[#「出るとから」はママ]、小間使のお雪が、彼女以上の用心深さで、彼女の跡をつけていた。
三囲神社の境内は、墓場の様に静だった。堤の上の安全燈からさす光の
山野夫人は探る様にして自然石の間を縫って行った。そして、
「奥さんですか」
すると、句碑のうしろから、白いものが現れて、ささやく様に声をかけた。その男は和服に春の外套を着て、大型の鳥打帽を
「エエ」
山野夫人がかすかに答えた。震え出すのを一生懸命に
「僕のいったことはうそじゃないでしょう。いっただけのことは、ちゃんとやってのけるのです」
不思議な男は、太いステッキによりかかりながら、夫人の顔をのぞき込む様にしていった。
「僕は命を捨ててかかっているのですよ。どんなことだってやっつけます。これ以上のことだって。サア、返事を聞かせて下さい。僕の願いを承知してくれますか、どうですか」
「もう駄目ですわ。ここまで来てはもう取返しがつきませんわ」夫人は泣き出し相な声でいった。「きっと、すっかり分ってしまいます。それに、明智さんを頼んでしまったのですもの。あの人は恐しい人です。底の底まで見通している様な気がします。あなたは、それならそれで、なぜもっと早くいってくれなかったのです。せめて明智さんなんか頼まない先に」
「明智ですって、フフン」不思議な男は鼻の先で笑った。「あの男がどうしたというのです。何も恐れることなんかありませんよ。こんなことになったのもあなたが悪いのだ。僕を見くびって、たかをくくっていたのが悪いのだ。口ばかりではあなたが驚かないから、実行する外なかったのだ。今になって泣き言をいったって何になるものか。だが、決して絶望することはありませんよ。凡ての秘密は僕が握っているのだ。三千子さんが殺されたことが分った所で、だれが殺したんだか、死骸がどこにあるのだか、警察にしろ、素人探偵にしろ、だれがどんなに探したって分りっこはありません。だから少しも心配することなんかありゃしない」
お雪は出来るだけ二人に接近して、句碑の蔭から彼等の密話を聞こうとした。彼女は怖い事よりも妙な好奇心と一種の正義の感情で一杯になっていた。それに日ごろから彼女とは人種でも違う様に
「だから、安心しているがいいのだ、私さえ怒らさなければ、万事大丈夫なんだ。だが、あなたは今晩どういう口実で
男の低い圧えつける様な声が続いた。
「片町まで行って来るといって」
夫人は
「あなたの伯父さん所ですね。じゃ二三時間は大丈夫だ。堤の上にタクシーが待たせてあるから、私と一緒にお出でなさい。二時間もすればきっと返してあげる。何もビクビクすることはない。だが、もしあなたが私の申出を拒絶なさると、飛んでもないことになりますよ。私は一切
「あなたが、そんなひどい人だとは思わなかった。悟りすました
「ウフフフフフフフ」奇怪な男は気味悪く声を殺して笑った。「私は十年の間待っていたのだよ。あなたは知るまいけれど、私はその長い間あなたのことばかり思い続けて来たのだ。私がどんなに苦しんだか、色々な馬鹿馬鹿しい
男は、そういったまま、自信に満ちた様子で、境内を出て
三囲神社から半町程上手の堤に沿って、ポッツリと一軒の
自動車はただちに、けたたましい音を立てて、
お雪は物蔭に立って、くやし相に車のあとを見送った。もうどうすることも出来ない。邸に帰る外はないのだ。だが、彼女は明智に報告すべき事柄を、少くとも二つ丈けは心にとめていた。その一つは怪しい男が夫人を連れ去った自動車の番号――二九三六という数字。もう一つは不思議な男の姿なり声音なり、
余り意外な人物を思い出したので、お雪は変な気がした。頭がどうかしているのではないかと思った。だが、あの一寸びっこを引く歩き方は、どうしてもその人に相違なかった。肩の
奇怪な人物と山野夫人とをのせた自動車は広い通り細い町を幾度か曲り曲りして、とある物さびしい町角に停った。出発する時から窓のカーテンがおろしてあったので、山野夫人は彼女がどこに運ばれるのか少しも見当がつかなかった。たびたび行先を尋ねたけれど、男はニヤニヤ笑うばかりで少しも答えなかった。
「サア、来ました」
自動車が停ると、男は夫人をうながして車を降りた。彼は出発以前に比べると、人が違った様に変にむっつりしていた。
夫人は車を降りた時、町に見覚えはないかと思って、さびしい往来を見廻したけれど、まるで知らない所だった。余り長く走った様にも思わなかったのに、その辺の様子はどっか非常に遠い田舎町の感じを与えた。
男はステッキを力に、足を引きずる様にして、存外早く歩いた。彼は物もいわず、うしろを振りむきさえしなかったけれど、夫人はそのあとについて行く外はなかった。それから又細い通りを幾度も曲って、三町ばかりも歩くと、おそろいの小さな門のついた、
男は自動車の運転手にさえ、彼の
不思議な男と山野夫人とが自動車を降りて、暗い町に姿が消えたころ、運転手と並んで運転台に腰かけていた助手が、借り物の派手なオーバを脱いで、一枚の紙幣と一緒に運転手に渡しながらいった。
「ヤ、有難う。じゃこれは少しだけれど、お礼の印だから。助手の人にもよろしくいって下さい」
助手にばけて運転台に腰かけていたのは、外ならぬ小林紋三だった。彼は本物の助手から借りていたオーバを脱ぐと、その下に例の一張羅の空色の春外套を着ていた。
彼は自動車を降りて、半町ばかり先を歩いて行く男女のあとを、用心深く尾行した。そして、彼等が小さな門のある家に入る所まで見届けた。
紋三はそれから執念深くその家の前に見張りを続けていた。
幸い家の
紋三は、暗い路地の中に身をひそめて、根気よく立番をしていた。こんな風に自動車の助手に化けたり、暗の中で不思議な人物の見張りをしたりすることが、彼をいくらか得意な気持にさえした。
格子戸を開けて入ると、一坪程の土間があって、三畳の玄関、そこからすぐに二階への
二階は六畳と四畳半の二間切りだった。男はその六畳の座敷に入って、ふすまをピッタリとたて切った。
「立っていたって仕方がないでしょう。そこに
男は気味悪く笑いながらいった。そして、自分も一枚の座蒲団を取って、外套のままその上に腰をおろした。彼は足を曲げるのが非常に困難らしく、長い間かかって、やっと
「いやに堅くなってますね。もっとくつろいじゃどうです」
彼は眼鏡の奥から蛇の様な目を光らせて、夫人を見た。
「ここにはだれもいないのですか」
百合枝は隅の方に小さく坐って、
「まあいない様なものです。耳の遠い婆さんが雇ってあるのだけれど、あなたがいやだろうと思って顔を出さない様にいいつけてあるのです。つんぼも同様の婆さんだから、大丈夫ですよ。少々大きな声をしたって聞える
男はその時まで冠っていた大きな鳥打帽を脱いだ。その下にはモジャモジャした短い毛が汚らしく生えていた。不思議なことには、そうして帽子を脱ぐと、彼の
「マア」
それを見ると、百合枝はびっくりして息を引いた。
「ハハハハハハハ、これかね」男は頭をかき廻す様にして「これはかずらですよ。顔が違って見えるかね。これ位のことで驚いちゃいけない。もっとひどいことがあるんだ。だがどんなことがあったって、あなたはもう私のものだ。逃げようたって逃げられるものじゃない。逃げればあなたの身の破滅なんだからね」
男は鼻の上に醜い皺をよせて、奇怪な笑い方をした。彼は少しずつ仮面をぬいで、残忍な正体を現し始めていた。
「ワハハハハハハ」彼は突然歯をむき出して気違いの様に笑った。「百合枝さん。アア、今こそ
男は威圧的な態度を一変して、身もだえをしながら哀願した。いつのまにか、外套姿の長い身体が、横倒しになって、奇怪な長虫の様に、身をくねらせながら、百合枝の方に近づいて来た。
「あなたは一体だれです。私の知っているあなたではないのですか。だれです、だれです」
百合枝は一層隅の方へ身をすくめながら、
「あなたはそれが知りたいのですか。じゃ、今教えて上げる」
横たわっていた男が、飛び上る様にはね起きて、つと電燈の方へ手を伸したかと思うと、パチッという音がして、突然部屋が真暗になった。
二階の雨戸がすっかり閉っている上に、外の
百合枝夫人はその中で、ある身構えをしてじっと男のいた方角を見つめて居た。彼女は何よりも今度の事件の真相が暴露することを恐れた。その秘密を保つ為にはどんな犠牲も忍ばねばならぬと覚悟を極めていた。それに、
今にも飛びかかって来るかと思ったのに、男は不思議と鳴りをひそめていた。暫くの間は部屋の向うの隅から、何かカタカタいう物音に混って、彼の荒い息づかいが聞えて来るばかりだった。
「不意に電気を消したりしてびっくりするじゃありませんか。早くつけて下さい。でないと、私帰りますよ」
百合枝は
「帰れるものなら、帰ってごらんなさい。そんな強がりをいったって駄目だ。あなたはどうしたって帰ることは出来ないんだ。電気を消したのはね、あなたが怖がるといけないからだよ」
そして、ゾッとする様な含み笑いが、
「あなたは忘れているだろうが、始めて山野の
途切れ途切れの切ない声だった。それが一こという度に、闇の中を、はう様に百合枝の方へ近寄って来た。事実声の主は少しずつ、少しずつ、彼女の方へにじり寄って来るらしく、黒いもののうごめく
百合枝は変な気持だった。ただ怖いのではなくて、何かこう不気味な獣に襲われている様な、妙なすごさだった。それに不思議なことには、相手の告白を聞いている内に、その蛇の様な執念に、ある魅力を感じ出していた。それは憐みの情というよりも、もっと肉体的な一種の
突然柔かいものが彼女の膝をはい廻って、逃げる暇も与えず、つと彼女の手を握った。冷く汗ばんだ男の
「アラ」
百合枝は、思わず低い叫びを上げて、それを振り離そうとした。だが、思い込んだ男の手は、
それと同時に妙な音が聞え始めた。百合枝は最初、男が
百合枝は男の激情に引入れられて、彼女もいつの間にか、不思議な興奮を覚えながら、片手を男のなすがままに任せて、黙って彼の泣き声を聞いていた。手の上に雨の様に降りかかる涙の感触が、彼女の恐怖を少しずつやわらげて行った。
「百合枝さん、百合枝さん」
男は泣きじゃくりの
彼女はいつの間にか抵抗力を失っていた。それ
だが、暫くすると、突然彼女は恐怖の叫び声を立てて、男の腕から身を逃れ様とあせった。そうしている間に、彼女は相手の身体に起ったある恐しい変化に気づいたのだった。
さい前から彼女の手が無意識に男の身体を探っていた。そして、ふと足の方に触れた時、今まで彼が坐っているとばかり思っていたのが、その実畸形的に短い足を一杯に伸して、立っていることを発見した。彼の顔は彼女の顔と同じ高さにあった。それでいて彼女は坐っているのに、相手は明かに
相手が一寸法師と分ると、いかに覚悟を
だが、相手は彼女が悟ったと見ると、
「
「声を立てるなら立てて見るがいい。ソラ、まさか忘れはしまい。そんなことをすればお前の身の破滅だぞ。いいか。山野一家の滅亡だぞ」
一寸法師は、起上った百合枝の腰のあたりにからみついて、おどし文句を並べながら、相手のひるむすきを見て、短い足を彼女の足にからみ、恐ろしい力で彼女を倒そうとした。
百合枝は叫ぼうにも叫ぶ自由を奪われ、逃げ出そうにも、逃げ出す力を失い、まるで悪夢にうなされている気持だった。畸形児は不気味な軟体動物の様に、ぺったりと彼女の半身に密着して、腰のあたりを締めつけた両腕は、刻一刻その力を増して行くのだった。
小林紋三はうそ寒いのを我慢して、執念深く路地の入口に立ちつくしていた。まだ夜更けというでもないのに、その町はいやに暗くて静だった。どの家もどの家も、まるで空家の様に、黙りこくっていた。
彼は山野夫人が二階に上った
ふと何か聞えた様に思って、耳をそばだてると、遠くの方から力ない赤ん坊の泣き声が聞えて来たりした。
紋三はこの数日、長い間の
そして、遂には夫人の秘密を握ることが出来た。恋という曲者が、彼を異常に敏感にしたのだ。夫人の一挙一動、どんな
だが、相手の奇怪な人物が何者だかは、まるで見当がつかなんだ。ふと、どこかで一度逢った人の様な気がしないでもなかったが、それ以上のことは少しも分らないのだ。分っているのは、
だが、夫人にどんな秘密があろうと、紋三は彼女をにくむ気にはなれなかった。にくいのは相手の男だった。彼は男に対して烈しい
様々の醜い場面が、まざまざと目の先にちらついた。そこには
待っても待っても彼等は出て来る様子がなかった。さい前からほとんど一時間も闇の中に立っていた。妄想は
彼は半狂乱の
「ご免なさい」
家の中はシーンとしずまり返っていた。
「だれもいないのですか」
彼は二度も三度も大声に怒鳴ったが、何の返事もなかった。彼は思い切って玄関の障子を開けた。それでもまだだれも出て来ないので
紋三は、万一とがめられた所で、何とでもいい逃れの道はつくと
彼はいきなり靴を脱いで玄関に上ったが、
「アラマア、ちっとも存じませんで、どなた様でございます」
老婆はなじり顔に、大声でいった。
「どうも失礼、いくら呼んでも返事がないものだから、こちらに山野の奥さんが見えているでしょう。実は急な用事が出来てお迎いに来たのですよ」
「どなた様で、今旦那はお留守でございますが」
老婆は耳が遠いらしく、とんちんかんな返事をした。
紋三は二言三言問答をしている内に、もどかしくなって、老婆など相手にしないで、勝手にその辺の障子やふすまを開いて、山野夫人のありかを探した。だが、階下には
彼は老婆が止めるのも聞かないで、二階へ上って行った。今にもだれかに怒鳴りつけられるかと、身構えさえして階段を上ったが、不思議なことには、そこにも人の
「この人はまあ、何という無茶なことをなさる。旦那はお留守だといっているじゃありませんか。私のほかにはねこの子一匹いやしないのですよ」
老婆はノコノコ二階までついてきて、紋三を監視しながら、ぶつぶつつぶやいた。
「だが、確にこの家へ入るところを見たんだが。変だな。君はうそをいっているね」
しかし何をいっても、ほとんど老婆には通じなかった。彼女は段々声を大きくして、しまいには隣近所に聞える様な悲鳴を上げた。
紋三は押入なども一々開けて見て、
紋三は又しても狐につままれた気持だった。考えて見ると今度の事件には、妙に幾度も同じ様なことが起った。三千子も部屋の中で消失した。例の気味の悪い一寸法師は、養源寺の庫裏へはいったまま消えてなくなった。そして今夜は山野夫人の番だ。紋三はうんざりした。
彼は老婆に
「このごろ己の頭はどうかしているのか。それとも、悪人が
まるで悪夢にうなされている様な感じだった。彼は電車道を探して暗い町を歩きながら、ふと子供の時分に聞いた、狐や
その翌朝、小林紋三は妙にぼんやりした顔をして、山野家の玄関に現れた。彼は一晩中悪夢にうなされ、その夢と昨夜の出来事とが混り合って、どこまでが現実でどこまでが夢だか、よく分らない気持だった。すっかり嘘の様な気もした。
気のせいか、山野の邸は以前とはどこかしら違った感じを与えた。門内の砂利道にゴミが落ちていたり、玄関の敷台に
取次に出た書生の山木も変に
「奥さんは?」
彼は奥の方をのぞき込む様にして、小さな声で尋ねた。
「いらっしゃいません」
紋三はそれを聞くとギョッとした。
「いつから?」
「エ?」
山木は変な顔をして、紋三を見た。
「昨夜から御帰りがないのだろう」
「いいえ、
「アア、明智さんとこへ」紋三はてれ隠しに口早やにいった。彼は恥しさで真赤になっていた。「じゃ、昨夜は、どっかへお出ましじゃなかったの」
「昨夜は片町の御親戚へいらっしゃいました」
書生は平然として答えた。
「で、
「九時ごろでしたよ」
書生が又変な顔をした。九時といえばまだ紋三があの暗い路地にうろうろしていた時分だった。彼は益々分らなくなった。山野夫人があの厳重な見張りをどうして抜け出すことが出来たか。そんなことは到底不可能だ。とすると、昨夜のはやっぱり一場の悪夢に過ぎなかったのか。彼は兎も角一度夫人に会って見たいと思った。
「じゃ、まだ明智さんとこにいらっしゃるだろうね」
「エエ、つい今し方お出かけだったのですから」
「その
「どうもよくない様です。熱が高くって、今朝から看護婦が二人来る様になったのですが、何だかどうも、
「小松といえば、頭痛がするとかいって寝ていたあれだね」
「エエ、心当りへ電話をかけたり、使をやったりしたのですが、今の所行方不明です。それに又、今朝は早くから警察の人達がやって来る始末でしょう。奥さん一人で大変なんです」
「警察では、何か手がかりでもついたのかい」
紋三は一々出し抜かれた様で、いい気持はしなかった。
「駄目ですよ、何も分ってやしないのです」書生ははき出す様にいった。「例の片腕の小包のことを、明智さんから通知したのでしょう。で、それを調べに来たのですよ。あのやかましい百貨店の片腕事件が、うちのお嬢さんの事件と関係があることが分ったものだから、警察でもやっと本気に騒ぎ始めたのですよ。そんな訳で、お嬢さんのなくなったことは、主人には今まで内密にしていたのが、すっかり分ってしまって、一層病気がひどくなったのです。実際滅茶滅茶です。我々にしたって夜もろくろく
書生はニキビ面をしかめて、大袈裟にこぼして見せた。
紋三はそれだけ聞いてしまうと山野家を辞して、夫人の跡を追い赤坂の明智の宿に向った。彼の頭には様々の事柄がモヤモヤと渦を巻いていた。疑問の人物が一日一日ふえて行く様にも見えた。第一が例の奇怪な一寸法師、暇を取った運転手の蕗屋、昨夜の不思議な眼鏡の男、今また小間使小松の失踪、それに彼の敬愛する百合枝夫人もまた、渦中の人に相違ないのだった。
昨夜のことはまさか夢ではないのだから、いくら好意に解釈しても、夫人がこの事件でかなり重要な役割を演じていることは
だが、万一その疑いが事実だったとしても彼は決して夫人を憎まないばかりか、寧ろ彼女と共にその罪の発覚を恐れ秘密を保つ為に努力したに相違ない。そして、この様な夫人の弱味を握ったことを彼女との間の永久の
「併し、まさかそんなことはあるまい。もし夫人にやましいところがあれば、最初から明智なんか頼まないだろうし、昨夜の今日、彼女の方から明智を訪ねるというのも
それを考えると少し安心が出来た。
そうした物思いに
「山野の奥さんはみえていないのですか」
紋三は座りながら、まずそれを聞いた。
「今、帰られたところだ。もう一足早ければ逢えた」
明智は相変らずニコニコして紋三を迎えた。
「そうですか、急いで来たんだけど、……それはそうと、その後何か手がかりでも見つかりましたか」
年齢や社会的地位は違っても、昔の下宿友達の心易さが、つい口を軽くした。それに紋三は昨夜の冒険でいくらか思い上っていた。彼の様な素人があの重大な秘密をかぎつけているのに、名探偵といわれる明智がまだ何事も知らないらしい
「イヤ、発見というほどのこともないよ」
明智は落ちついていた。
「この事件はかなり難かしそうですね。あなたにも似合わない進行が遅いじゃありませんか」
紋三はついそんな口が利いて見たくなった。いってしまってからハッとして明智の顔色を読んだ。
「随分変な事件だからね」だが明智は別に
紋三はいきなり赤くなってしまった。明智がどうして昨夜の出来事を知っているのか、不思議で仕様がなかった。彼のニコニコ顔がにわかに薄気味の悪いものに思われて来た。
「君は、今山野夫人から何か聞いたと思うかも知れないが、その心配はない。奥さんは決して君の変装を感づきはしなかった」明智は紋三の表情を
「じゃ、あなたは奥さんが今度の犯罪に何か関係があると思うのですか」
紋三は明智の底意が知りたかった。
「関係のあることは明白だ。併しなぜ夫人が自ら進んで僕なんかに探偵を依頼したか、そして今になってそれを後悔し始めたか、この点がよく分らない。大体あの女自身が一つの疑問だよ。非常に
「もしそうだとすると、最近にその自信を失う様な事件が起った訳ですね」
「僕だって、これで中々働いているんだよ。彼女にもしうしろ暗い点があれば、心配し出すのは無理ではない。君なんか、僕が手をつかねて遊んでいた様に思っているだろうが、どうして、そんなものじゃないよ。現に君の昨夜の行動だって、すっかり分っているのだからね」
「昨夜の行動っていいますと?」
「ハハハハハ、しらばくれても駄目だ。自動車の番号まで調べがついているんだから。君が昨夜助手に変装して夫人ともう一人の男をのせて行った車は、君だって知るまいけれど、二九三六という番号なんだ」
「じゃ昨夜、あなたもどっかに隠れていたんですか」
「ソラごらん。とうとう白状してしまった。想像なんだよ。多分君だと思ったものだから、鎌をかけて見たんだよ。種をあかすとね。山野の
「その通りです。どうして分りました」
紋三は明智の名察にめんくらって、夫人のためにその
「やっぱりそうだったか。じゃ
明智は手文庫の中から、細長く破れた幾つかの紙切れを取だし、丁寧に皺をのばして、卓上に並べ、順序をそろえて継ぎ合せた。
明智は妙な紙切を継ぎ合せてしまうと、それを卓の隅におしやって置いて、手文庫の中から次々と色々な品物を取出した。例のピアノのスプリングに引懸っていた黒い金属の
小林紋三はこの驚くべき光景を見て、あっけにとられてしまった。その品々は凡て今度の事件の証拠品に相違ないのだが、いつの間に明智がこれだけのものを集めたか、一々説明を聞かないでも、その物々しい様子を見ただけで、ついさっきまで明智に対して抱いていた、多少の軽蔑の念が、あとかたもなくなってしまった。
「どうだい小林君、僕が怠けていなかったしるしだよ。この品々は間もなく僕の手を離れる。僕の友人の
明智はそれらの品物を愛撫する様にひねくり廻しながら、一寸奥底の知れない薄笑いを浮べていった。骨董屋の親父が古道具の値ぶみでもしている恰好だった。
「どれから始めるかな」彼はさも楽しげに見えた。「そうそうO町の家のことを話し始めていたね。君は驚いた様だが、実はこんな種があるんだよ。この破れた紙切だ。一寸読んで見給え」
それは半紙の半分程の分量の紙が、細かく切り裂かれた上に、所々焼けこげがあって、多分手紙の切れはしなのであろうが、とても完全に読むことは出来なかった。
……御依頼により埋葬仕 ……と小生とかの蕗屋の三人のみに有之 ……右につき篤 と御談合申上度 ……郷表 (一二字分不明)六三中村 ……御一読の上は必ず火中……
どう見直してもこれ以上は分らなかった。「
紋三は明智の廻りくどい話し方をもどかしく思った。明智のいっているのは昨夕山野夫人をつれ出した人物に相違ない。あの怪しげな男が夫人を脅迫していることは明白だ。だが、あの男が犯人でないとすれば、脅迫されている方の、三千子にとっては継母の百合枝夫人こそ、恐しい殺人者なのではあるまいか。彼はその外に考え様がない様に思った。明智も山野夫人を疑っているには相違ないのだが、果して彼女を犯人だと思っているかどうかは不明だった。
「ですが、この紙切れはどこから見つけ出したのです」
紋三はその点を明かにすれば、何か分り相な気がしたのだ。
「僕の腹心のお雪が拾ってくれたのだ。手紙の受取主は山野の奥さんだ。奥さんがここの文句にある通り、読んでしまってから細かく切り裂いて、丸めて、台所の
紋三はそれだけ聞くと、いよいよ彼の疑いを確めることが出来た様に思った。
「では、手紙の受取人が奥さんだとすると、この(御依頼により)というのは、奥さんの御依頼によりですね。(埋葬)というのは三千子さんの死体をどっかへ
彼は矢つぎ早に想像を進めて行った。そして、実はビクビクしながら明智の表情をうかがった。
「そういう風にも考えられる、併し断定は出来ない。断定すれば犯人は山野夫人と極ってしまって、世話はないのだけれど」
明智はニヤニヤ奥底の知れない笑い方をした。
「でも外に考え様がないじゃありませんか」
と紋三は明智に本音は吐かせないでは置かぬ意気込みだった。
「奥さんを疑おうとすれば、まだほかにも材料があるよ」明智は落つき払っていた。「このショールと手提と、それからこの手文庫の中の
「つまり山野夫人が三千子さんを家出と見せかけるために、その品々を隠して置いた訳ですね。そうだとすれば、なおさら夫人が疑わしいじゃありませんか」
紋三はこの新しい証拠品にギックリしながら、しかし一層烈しく突っ込んで行った。
「疑わしいだけで、まだ夫人が犯人だなんて極める訳には行かないよ」明智は軽く受流した。「君がそんなに夫人を疑うなら、試みにその反対の見方をして見ようか。まず第一は夫人が進んで僕に事件を依頼したこと、これは前にもいった通り犯罪者の高を括った大胆なお芝居だとしても、手紙が十分焼けてしまうまで見極めずに立去ったことだとか、大切な証拠品を自分の部屋の押入れの隅などへ、一寸探せばすぐ分る所などへ入れて置いたことだとかは、ピアノの指紋を消したり、死体をゴミ箱へ隠したりした手際とは
明智は態とらしく曖昧ないい方をして、暫く紋三の顔を眺めていたが、やがて、又しても意外なことをいい出した。
「だが夫人には、不利な証拠が次から次へと出て来るのだ。これなどもその一つだがね」
彼は卓上の妙な石膏のかけらを、指紋をつけない様に注意してつまみ上げた。
「これがやっぱり、夫人の部屋の押入れの奥から出て来たのだ。ショールなんかにくるんで
紋三は困った様な顔をして、明智を見た。
「イヤこういったばかりでは分るまいが、それについては先ずこのヘヤーピンを研究して置く必要がある」明智は
「それだけ証拠がそろっていても夫人が
「ないとはいわない。断言するのは少し早計だと思うのだ。この事件は見かけは簡単の様だけれど、その実かなりこみ入っている。先にいった怪物が関係しているだけでも、かなり特異な事件だ。一寸法師が生々しい片腕を持歩いたり、百貨店の飾り人形に死人の腕が生えたり、妙に常軌を逸した、人間らしくない所がある。それは兎も角、今もいう様に兇器が石膏像であったこと、死体をピアノの中へ隠したことなどから考えると、この殺人は決して準備されたものではない。恐らく犯人にとっても思いがけない出来事なんだ。まさか殺すつもりではなかったのが、ついこんな大事件になってしまった形だ。だが、それだから一層探偵の方は面倒なんだ。準備された犯罪は、どこかに計画の跡がある。その跡をたどって行けば、何かをつかむことが出来る。今度のはそれがまるでないのだからね」
「でも証拠という証拠が皆山野夫人を指さしているじゃありませんか」
「まあ待ち給え、まだ少し残っている。議論はあとにして兎も角一応説明してしまおう。僕もまだ
これは山野夫人からもらって来た、三千子さんの最近の写真なんだが、この写真を見ても、三千子さんの性質が想像出来る」
明智は卓上の大型の写真を取って、つくづく眺めながらいった。それは山野の家族一同がそろって
「僕は三千子さんばかりでなく、運転手の蕗屋の顔が知りたくて態とこの大勢で撮ったのをもらって来たのだよ。そこにある破れた手紙によると、蕗屋がこの事件に何かのかかわりを持っていることは確だからね」明智は一寸説明を加えた。「僕は人間の顔を見ることが好きだ。じっと相手の顔を見つめていると、そこから何かしらわいて来るものがある。その人物の過去のあらゆる物語が小さな顔面に結晶している様な気がする。それを一つ一つほぐして行くのは非常に面白い。この三千子さんの表情なんかも色々なことを語っている。第一に来るのは人工という感じだ。作りものという感じだ。髪の結い方、化粧の仕方、洋服の着こなし、これだけを見ても、どんなに技巧のうまい女だか分る。それにこの巧な表情を見るがいい、これは決して生地のままの三千子さんじゃない。舞台に
明智は段々雄弁になって行った。何か非常にうれしいことでもある様子だった。併し、
「小松がいなくなったことは知っているのですか」
「山野の奥さんから聞いた。僕は今それについて一つの考えが浮んで来たのだ。ひょっとしたら、この事件の中心人物はあの女かも知れないのだ」
明智は頭の毛を指でかき回しながらいった。彼は妙に興奮していた。紋三はやっぱり小松を疑っているなと思った。三千子に取っては恋敵の小松なのだから、若しあんなおとなしやかな娘でなかったら、彼女こそまっ先に疑わるべき人物だった。だが、紋三のこの推察は、少しばかり見当違いであったことが、後に到って分った。
「その手紙の話をしていたんだね」明智はふと気がついた様に話を元に戻した。「僕はそれを三千子さんの書斎のイスのクッションの中から見つけ出した。最初三千子さんの机なんかを調べた時に、手紙の束を見たけれど、妙に当り前のものばかりで、興味をひかなんだ。若い女の所にはもっとはなやかな手紙があってもいいと思った。で、次に行った時には、どこか秘密の隠し場所でもないかと綿密に探して見た。本棚なんかも調べた。すると、この令嬢が案外にも探偵小説の愛読者だったことを発見した。内外の探偵本がそこにずらりと並んでいたのだ。くすぐったい気持だ。三千子さんが探偵趣味家だとすると、いささか捜査方針を替えなければいけないと思った。そこで今度は探偵好きの隠し相な場所を探した。そして、最初に気づいたのがイスのクッションだった」
明智はおかし相に笑った。
「ところが、驚いたのは、クッションの中に隠されていた
手紙の日付は両方とも――年二月となっていた。つまり約一ヶ年以前に書かれたものだ。
……己 は貴様をのろう。貴様の歓心を買うために己がどんな苦労をしたか。とうとう己は泥坊とまでなり下った。貴様とつき合って行くためには、貴様に軽蔑されないためには己はその外に方法がなかったのだ。詐欺 で訴えられて、己は今ひかれて行くのだ。いつか貴様に金策を頼んだことを覚えているか。あの時に何とかしてくれたらこんなことにならないで済んだのだ。併し貴様は、とっくに変心していた。もう一人の男の所へ行くのを急いで、己のいうことなんか聞きもしなかった。あの時の己の心持が想像出来るか。恋の恨みと罪の恐れだ。己はもう半分気違いだった。己は幾度も短刀を懐 にして貴様の邸のまわりをうろついた。だがどうしても機会がなかった。己はこの怨 みをはらすまでは、警察の手を逃れたいと、下宿に帰らないで木賃宿 に泊っていた。貴様のすべっこい頬っぺたに、短刀を突込んで、グリグリかき回してやることばかり考えていた。だがもう駄目だ。己はとうとうつかまってしまった。刑事に泣きついてやっとこの手紙を書く暇をもらった。いいたいことは山程もあるが、もう時間がない。ただ一つ約束して置くことがある。己は何年食 い込むか知らぬが、牢を出たら誓って復讐してやる。己は今からその日を楽しみにしている。貴様も首を洗って待っているがいい。……
もう一つの封書は、その十日程前に書かれたもので、それにはたった一度でいいから逢ってくれという、哀訴歎願の言葉が綿々と書きつらねてあった。葉書には三月二十七日の日付があった。三千子変死の一両日
お喜び下さい。やっとお目にかかれる様になりました。近日中に是非 お目にかかってお約束を果すつもりです。例のお約束を。K
「こんな葉書を受取って黙っていたのですね。怖くなかったのでしょうか」紋三は読み終って不審をはさんだ。
「僕もそれを考えたのだが、ひょっとしたら山野さんには打開けてあったかも知れない。僕は実はまだ一度も山野さんに逢っていないのだよ、熱がひどいらしいので。だが警察の保護なんか願っていないことは確だ。それをやるのは随分恥さらしだからね。三千子さんも蕗屋を
「それだと、今度の事件は、この執念深い失恋者の復讐だったかも知れない訳ですね」
紋三は次々と現れて来た証拠品に面食った形だった。彼は今日この菊水旅館に来るまでは、幾分事件の真相をつかんだ気持でいたのが、明智の話を聞いている内に段々自信を失って行った。これらの証拠品が一体何を指し示しているのだか、明智がどんな判断を下しているのだか少しも分らない。不思議なことには証拠が一つ現れる
「サア、その点も今のところ確なことはいえないが、もしこの男が下手人だとすると、色々つじつまの合わぬところが出来て来る。第一あの晩には外部から人の入った形跡が少しもないのだからね。といって丁度この男が出獄した時に、三千子さんが殺されたというのは、偶然にしては一致し過ぎている様にも思われる。北島は一年の
紋三は、明智が態と曖昧ないい方をして彼をじらしているのではないかと思った。同時にふと例の一寸法師の醜い姿が浮んだ。彼はこの頃何か不可解な事実にぶっつかると、すぐあの畸形児を思い出す様になっていた。
「この北島の行方は分っているのですか」
「今のところ分っていない。だがこれが警察の手に渡れば、前科者でもあるし、そう骨折らないで探し出せるだろう。それは兎も角、ここにまだ少しばかり証拠品が残っていた」明智は卓上の化粧品類と吸取紙を目で示して、「君はもう夫人から聞いて知っているだろうが、例の百貨店の片腕と、それから
明智は
「三千子さんは随分おしゃれだったと見えて、化粧品の種類は驚く程あった。手の化粧品や爪磨き粉、やすり、バッファーなんかも一通りそろっていた。だがその中で、指紋のよく出ているのはこれだけで、あとは容器の表面がザラザラしていたり、紙製だったり、滑かなものでも、大部分は指紋がちっとも残っていないので役に立たない。鏡の表面だとか
明智は容器を一つ一つ、つまみ上げて、大切相に並べ替えて行った。
「過酸化水素キュカンバー、緑の
明智はその最後の品を、何か楽しげにいつまでも
「それだけは指紋がついてない様ですね」
紋三はふと気がついて尋ねた。
「外側はふいた様に綺麗になっているがね、ソラ御覧、中のクリームに、こんな完全な指の跡がついているから」
明智はそういって、いたずら小僧みたいなズル相な表情をした。
最後の
「サア、これで僕の発見しただけのものは、すっかり御目にかけた。今度は君の方の話を聞こうじゃないか、昨夜の話を」
明智は卓上の品々を手文庫の中へしまいながら紋三を
「イヤ駄目ですよ」紋三は頭をかいた。「あなたが知っている以上のことは何もないのです」
彼は昨夜山野夫人達がいつの間にか
明智はその不思議な事実を、一向驚きもしないで、興味のない顔で聞き流した。そして、ふと何か思いついた様に、突然まるで違ったことを尋ねた。
「三千子さんは血色のいい方だったかい。写真ではよく分らないが、どっちかといえば赤味がかったつやつやした顔じゃなかったの?」
「イヤ、その正反対ですよ。別に身体が弱かった様にも聞きませんが、どっか病的なすさんだ感じで、顔なんかも青白い
紋三は変な顔をして明智を見た。明智はしきりと例の頭の毛をかき回す癖を始めていた。
やがて明智はしゃべるだけしゃべってしまうと、相手がまだ何か聞きたそうにしているのも構わず、もう用事が済んだという調子で、女中を呼んでお茶を命じた。
間もなく紋三は
「あの中で、化粧品と吸取紙は三千子さんの指紋を確めるだけのものだから別として、
紋三は明智の弁護があったにも拘らず、どうしてもこの考えを捨てることは出来なかった。彼は又、今までに現れた疑わしい人物と、想像し得べき殺人の動機について考えて見た。
「
紋三の考えはどうしてもそこへ落ちて行った。彼はまだ生々しい昨夜の奇怪な経験を忘れることが出来ないのだ。
もう夜の一時を過ぎていた。浅草公園もその時刻になると、流石に人足が途絶え、よいの内雑沓する場所だけに、余計さびしさが身にしみた。殊に
その五重の塔の裏手の、さびしいうちでも、もっともさびしい箇所に、何の樹だか、神木とでもいい相な大樹が枝を張っていた。遠くの安全燈の光は、五重の塔の表側の方にさえほとんど届かないのだから、その裏の
その夜は空に星の光もなく、大樹の下は常よりも一層暗く、すさまじく見えた。時々ホウ、ホウと怪しげな鳥の鳴声が聞えて来た。
「オオ、兄貴、オオ、兄貴、寝たのかえ」
大樹の
「起きてる」
どこからか、もう一つの声が答えた。同じ様に
「遅いじゃねえか。
「大丈夫、慣れてらあな。まあ寝ているがいい」
それ切り声はしなくなった。こもは元の様に、一枚の捨て
暫く沈黙が続いた。雨雲が低くたれて、死んだように風がなかった。薄気味の悪い静けさだった。
やがて、かすかにかすかに物のきしる音が聞え始めた。それがほとんど十分間も絶えては続き、絶えては続きしていたが、五重の塔の大きな扉がそろそろと開いて、その真黒な口の中から、二人の青年が忍び出た。二人共荒い
「誰だい。アア、お前達か、またうめえ仕事をやったな」
「うまくないよ。今日はぽっちりだよ」
青年達は
「俺はいいが、ここにいる
もう一つの声がいった。よく見ると、大樹の黒い幹の根許に、一際黒く大きなうつろが口を開いていた。そのうつろの中に何者かが巣を食っている様子だった。
「分っているよ。ソラ、こんなのが三枚だ。くたびれちゃったから、少し息をつきに出て来たんだ。もう今夜はこれでおしまいだ」
青年達はこの塔の内部の、貴重な金具を
「ホウ、ホウ、ホウ」
突然少し
「オオ、合図だ。危ねえ危ねえ」
こもはそうつぶやいて動かなくなった。青年達も大急ぎで元のとびらの中へ隠れた。サーベルの音が塔の向うに聞え始めたころには、
だが、彼等はそうしてお巡りさんの目を逃れることが出来たけれど、もう一つの目には少しも気がつかなんだ。塔の縁の下に
「オオ、兄貴、このごろ暫く顔を見せなかったが又どっか荒し廻ってたんじゃねえのか」
巡査の跫音が遠ざかるのを待って、こもが話しかけた。
「ウンニャ、ちっとばかり忙しいことがあってね。ここんところ、いたずらの方は
うつろの中の声が答えた。
「因果な
「ウフフ、覚えていやあがる。お前だから何もかも話すがね。今世間じゃ大騒ぎさ。今日の新聞なんか、おれのまいた種で、三面記事が
うつろの中の悪魔は、この驚くべき事実をこともなげに打明けて、さもさも愉快でたまらぬという様に、奇怪な笑い声を漏した。笑い声の間には、無気味な歯ぎしりの音が混っていた。彼は歯ぎしりをかんで狂喜しているのだ。
こもは余りのことに返事も出来ないのか、暫く何の声も聞えなかった。
「てめえ、いいやしめえな。もしいおうもんなら、こんだ、てめえがあの通りの目に逢うんだぞ、いいか」
うつろの中から又しても気味の悪い笑い声だった。
「とんでもねえ、お前とおれの仲じゃあねえか。口が腐ってもいうもんじゃあねえ。それに、いつも兄貴にゃあ、厄介をかけてるんだからな」
「だろうな。そうなくちゃならねえ。おらあな、定公、自分でも分ってる。因果な身体に生れついたひがみで気狂いになっているんだ。こう、世間の満足な奴らがにくくてたまらねえんだ。奴らあ、おれに取っちゃ
押し殺した声が、歯ぎしりと共に高まって、うつろの中に物すごく響いた。
そして又暫く沈黙が続いた。
「オオ、兄貴、
耳を澄せば
「定公、だれもいめえな」
「大丈夫だ」
それを聞くと悪魔は始めて、うつろの中からのっそりと姿を現した。醜い一寸法師だった。彼は注意深くあたりを見廻してから不具者にも似合わぬす早さで、大木の幹をよじ登り、枝から枝を伝わって、
「燃える燃える。風がねえけれど、この分じゃあ十軒は確だ」
梢から悪魔の呪い声が、でも
火は公園から西に当って、十町程の手近に見えた。半鐘の
やがてハタハタと忍びやかな、然しあわただしい跫音がして、二人の汚ない少年が塔のうしろへ駈込んで来た。
「あれは、お前達がやっつけたのか」
「そうよ」こもの
その声を聞きつけたのか、大樹の葉がガサガサ鳴って、サルの様な畸形児が地上に飛び降りた。
「うまくやったな。定公、
彼は大急ぎで懐中から一枚の紙幣を取出すと、それをこもの中から出ている手に握らせながら、口早にささやいた。そして、彼の小さな身体は飛びはねる恰好で、
六区を抜けて広い通りに出ると、深夜ながら威勢のいい
火事は
蒸汽ポンプの水を吸う音と、消防達の必死のかけ声の外には、妙に物音がしなかった。多勢の見物共は押し黙って、あちこちにかたまり合っていた。火は黙々として燃えた。風のない為に焔が殆ど垂直に立昇り、火の粉は見物共の頭上に落ちて来た。真赤な
ホースを漏れる水の為に、雨降り
背広の男は一方の群集に混って、
だが、やがて蒸汽ポンプの威力は、さしもの火勢を徐々に
一寸法師は先程からの狂乱にグッタリと疲れて、しかし同時にすっかり
一寸法師は暗い町の軒下から軒下を縫って、
畸形児は暗い所暗い所と選って、公園をつき切ると、やっぱり吾妻橋を渡って、本所区の複雑な町々を、幾つも曲った末、一軒の不思議な構えの家の格子戸の中へ消えた。
一寸
背広の男は、青ざめた顔で、その不思議な家を眺め廻した。彼は一寸法師がこんなところへ入ったことを意外に思っている様子だった。標札をすかして見ると、「人形師
一寸法師は、中に入って格子戸に締りをすると、ほっと息をついた。だが、彼は尾行者のあることなぞは少しも気づいていなかった。気違いめいた興奮の為にほとんど我を忘れた
入った所には縦に長い土間が続いて、その横に、旧式な商家に見える様な障子のない広い
畸形児は、土間の突当りの開き戸をあけて、裏の方まで通り抜けになっている細い庭を、奥の方へ入って行った。
「だれだえ」
すぐ横手の障子の中から寐ぼけた声が尋ねた。
「おれだよ」
一寸法師は簡単に答えて、さっさと歩いて行った。障子の中の人は、別段それを
表に取り残された背広の男は、戸の隙間から家の内部を覗いたり、ぐるっと町を廻ってその家の裏手を調べて見たり、方々の標札を覗き廻って町名番地を確め手帳に控えたり、殆ど二時間
吾妻橋を渡ると、彼はふと気がついた様にそこの自働電話に入り、一寸手帳を見て赤坂の菊水旅館の番号を呼んだ。相手が電話口に出るまでに十分程もかかった。
「菊水さんですね」彼は
彼は明智の出て来るのを、足踏みしながら待つのだった。
小林紋三が明智を訪ねて様々の証拠品に驚いた日、小間使小松の失踪が発見された日、そして三千子の殺害事件がいよいよ警察沙汰になった日からもう三日目であった。
その間には色々重大な出来事が起っていた。陰の事件としては斎藤という男が一寸法師の残虐極まる行動を見たのもその一つであったが、表だったものでは、明智の提供した証拠品がもととなって、実行的な警察は、先ず第一の嫌疑者として三千子に復讐を誓った北島春雄の行方を捜索して、ある木賃宿に潜伏中の彼を苦もなくとり押えた。北島は
押入から発見された数々の証拠品によって、山野夫人が取調べを受けたことはいうまでもない。だが、彼女はその品々について全く覚えがなく、だれかが彼女を
だが、少くとも小林紋三だけは、その位のことで夫人の無罪を信ずることは出来なかった。中之郷O町の怪しげな家については、紋三がそれを口外しなかったのは無論だが、何故か明智までも沈黙を守っているらしく、警察は山野夫人とかの不思議な跛の男との密会事件を少しも知らない様子だった。紋三はそれを夫人のために
日々の新聞紙が、山野家の珍事について書き立てたことはいうまでもない。百貨店の片腕事件が
ところが、意外なことは、その最中に、山野夫人が又しても例の異様な男の誘いに応じ、二度目の密会をとげるために、今度は大胆にも
ところが、丁度その折を選んだ様に、夫人にとって実に危険なことが起った。夫人の秘密は遂に暴露する時が来たかと思われた。
紋三は山野夫人が片町へ行っていないことを電話で確めたけれど、この前の様にすぐ後を追う元気はなかった。一方では夫人の安否が気遣われたが、又一方では、この間の晩の出し抜かれた気持を思い出すと、そうして心配しているのが馬鹿馬鹿しい様でもあった。妙な嫉妬みたいなものが、彼をひどく憂鬱にした。
夫人の行先は中之郷O町の例の家に相違ないのだが、そこへ行って、もしいやなものを見る様だとたまらないと思った。といって夫人の帰るのを書生部屋で山木とにらみ合って待っているのは
「これは
紋三はふとそんな風に考えた。それというのが、彼はこの事件で夫人の勤めた役割を明智の口から早く聞きたかったのだ。
明智は今日も宿にいた。いつの間に働くのだか分らない様な男だった。
「ヤア、丁度いい所だった」
紋三が女中のあとについて部屋にはいると、例によって明智のニコニコ顔があった。
「実はね、三千子さんの事件が大体
「じゃ、犯人が分ったのですか」
紋三はびっくりして尋ねた。
「それはとっくに分っていたさ。ただね、今日まで発表出来ない訳があったのだよ。それについて、実はこれから捕物に出かけるのだ、今に警視庁の連中が僕を迎えにくることになっている。僕が指揮官という訳でね。それに今日は珍しく刑事部長御自身出馬なんだ。
「例の一寸法師じゃありませんか」
「そうだよ。だが、あいつはただの不具者じゃない。畸形児なんてものは、多くは白痴か低能児だが、あいつに限って、低能児どころか、実に恐しい
「ではやっぱり、あの不具者が三千子さんの下手人だったのですか」
「いや、下手人じゃない。この間もいった様に下手人は別の所にいる。だが、あいつは下手人よりも幾層倍の悪党だ。我々はまず何をおいてもあいつを
「それは一体だれです」
紋三は息をつめて尋ねた。山野夫人の美しい笑顔が目先にちらついた。
丁度その時宿の女中がはいって来て、明智に一枚の名刺を渡した。
「アア、刑事部長の一行がやって来たんだ。すぐ出かけなきゃならない。君も一緒に行って見るか。話の残りは自動車の中でも出来るんだが」
明智はもう立上って着換えを始めていた。
旅館の門前に警視庁の大型自動車が止っていた。一行は刑事部長の外に私服の刑事二名、そこへ明智と紋三とが同乗した。
「君の注意があったから、
部長は彼程の地位にも拘らず、まだ肥らないで、狐の様な感じのやせた男だった。一見何か軽々しい様でもあったが、暫く見ていると妙なすご味が出た。普通こんな場合出て来る人でないだけに多少そぐわぬ感じがあった。
「何ともいえないね。不具者ではあるが、地獄から這い出して来た様な悪党だからね。実際人間じゃないよ。小人の癖に恐しく素早くて、猿の様に木昇りが上手だ。それに
明智は車の席につきながらいった。
「だが、感づいて逃げ出しゃしまいね。見張りは大丈夫かね」
「大丈夫、僕の部下が三人で三方からかためている。皆信用の出来る男だ」
自動車が走り出すと、前の座席とうしろの座席では話が通じ
「例の中之郷O町の
「そうとは知らなかった。馬鹿馬鹿しい訳ですね。一体どこへ抜けているんです」
紋三は変にあっけない気がした。
「養源寺の裏手へ抜けているんだ。君は気づいていたかどうか。養源寺は中之郷A町にある。そのA町とO町とは背中合せじゃないか。つまりA町の養源寺から入ってO町へ抜けることも出来れば、O町の例の家から養源寺の寺内を通ってA町へ抜けることも出来るんだ。表通りを廻れば二三町もあるけれど、抜道からでは隣同志だ。ところが、養源寺といえば、いつか君が一寸法師の入るのを見た寺だ。ね、大体見当がつくだろう。これが
「なる程背中合せに当りますね。ちっとも気がつかなんだ」
「だが彼奴の逃道はもう一つあるんだ。同じA町の養源寺の墓場の裏手に、これも背中合せだが、妙な人形師の店がある。あの不具者はここの家からも
「すると、あの寺の和尚や、その人形師なんかも仲間なんですね」
「無論そうだね。仲間以上かも知れない」明智は例の人をじらす様ないい方をした。「そこで、今日はその三方の入口から包囲攻撃をやる訳なんだ」
「では
「その男は跛だったね」
「エエ、跛でした」
「じゃ、それがあの一寸法師なんだよ。顔に見覚えはなかったかい」
「鳥打帽子と大きな眼鏡で隠していて、それに暗かったのでよく分りませんが、だって、一寸法師がどうしてあんな大男になれるのです」
「そこだよ。その点が又、奴の悪事の
「でも、どうしてそんなことが出来たのです」
「奴は子供の時分
「義足ですって、そんな馬鹿げたことで、うまく分らないでいたのですか」
「馬鹿馬鹿しいだけに、
「じゃ、その義足をはめた男というのは一体だれです」
「養源寺の和尚さ」
話の通じ
署では署長を始め彼等の来着を待構えていた。一同車を降りて二三の打合せを済ませると、そこの刑事なども
刑事達は刑事部長の手前、素人探偵の指図に従わねばならなかった。彼等は養源寺、O町の家、人形師の
「私が合図をするまでは、どんな奴でも逃さない様にして下さい。女であろうが子供であろうが、家から出る者は一応止めて置いて下さい」
明智は何度もくり返して頼んだ。そして彼自身は紋三と一人の刑事を従えて養源寺の門内に入って行った。
庫裏の障子を開けると、汚ない
「君は向うの菓子屋のお爺さんだったね」明智が声をかけた。「お
「ヘエ、おいでになりますよ。どなた様で」
「忘れたのかい。二三日前に君の店で買物をしたんだが。実は今日は警察の御用で来たんだが、一寸お住持をここへ呼んでくれ給え」
爺さんはかしこまって、奥の方へ住持を探しに行ったが、暫くすると変な顔をして戻って来た。
「どうも見えないんですよ。ちっとも気がつきませなんだが、いつの間にお出ましなすったのか」
「そうかい。兎も角一度上らせてもらうよ。警察の御用なんだからね」
明智はそういったまま、手早く靴を脱いで上に上った。爺さんは
紋三はそれと同時に、ある驚くべき事実に気がついた。今までは夫人を脅迫している男が何者とも知れなかったので、一種の嫉妬を感じていたに過ぎないのだが、明智の明言する所によれば、その男こそ
紋三がそんなことを考えている内に、明智はずんずん本堂の方へ踏み込んで行った。ガランとした本堂にはもう
明智は注意深く堂の隅々、物の陰などをのぞき廻って、二三の広い部屋を通り過ぎ、最後に庭に降りると、
墓地ももう大方暗くなっていた。往来に面した方の
「ホラ御覧なさい。あすこの黒板塀が細く破れているでしょう。丁度あの
明智は刑事の方をふり向いて、丁寧にいった。刑事はいなむ訳にも行かぬので、指図に従って板塀の方へ歩いて行った。O町の例の家の側はまばらな竹垣になっていて、少し無理をすれば、どこからでも出入りが出来る様に見えた。
「君、一寸ここを見給え」
明智はふと立止って、墓地の一方の隅の
「これはお寺のゴミ捨場になっているらしいのだが、僕は二三日前の晩ここへ忍び込んで、このゴミの中をかき探したり、新しい墓地をあばいて見たりしたのだよ。三千子さんの死骸がこの辺に隠されているかと思ったのだ」明智は何でもない事の様にいった。「それはね、ホラ山野の邸から三千子さんを運び出すのに、だれかが衛生夫に化けてゴミ車を利用した形跡のあったことは君も知っているだろう。ゴミ車は吾妻橋の所で
「すると衛生夫に化けたのもやっぱり
「いやあの不具者には重い車なんかひけない。それは彼奴じゃないよ」
彼等は低い声で話しながら竹垣の方へ歩いて行った。竹垣をくぐるとすぐの所にずっと石垣が続いて、そこから地面が一段高くなっていた。明智はその石垣を
隠し戸の内部は、壁と壁の間の、人一人やっと通れる程の狭い通路になっていた。彼等は手探りでその中へ入って行った。紋三はふと子供の時分の隠れん坊の遊びを思い出していた。そんな風に恐しいというよりは、何か可憐な感じがしたのだ。
少し行くと先に立った明智が「
「ここが丁度押入の裏側に当るのだよ」明智がささやき声でいった。「静にしていたまえ」
彼等は暫くの間、その真暗な
部屋の方からは暫くは何の物音も聞えて来なかったが、やがてピッシャリと障子をしめる音がして「百合枝さん、だれかに感づかれる様なことはしまいね」男の太い
薄い板張と襖があるきりなので、向うの話声は手に取る様に聞えた。
「早く
「それは己にしたって同じことだ。だが、まだまだ心配することはない。己の力はお前も知っているだろう」
その圧えつける様な太い声が、あの畸形児かと思うと変な気がした。声だけは人並以上に堂々としているのが、滑稽でもあり、物すごくも感じられた。
「それじゃ引上げようか。持物を忘れない様に気をつけるんだ」
その声が段々こちらへ近づき、畳を踏む音と一緒に、そっと襖を開ける気勢がした。
明智は暗の中で紋三の腕を握って合図をすると、板ばりの一部に手をかけて音のしない様に
やがて一番上の行李がソーッと取のけられ、そのあとへ一本の腕がニョイと出て、二番目の行李の紐をつかむとズルズルと向うへ引っぱって行った。紋三の腕を握っている明智の手がピクピク動いた。
行李がのけられた。その向うから和尚の坊主頭がバアと覗いた。二三尺の距離で八つの目がぶっつかった。
「ワッ」
という様な音だった。四人が同時に何事かを叫んだのだ。
和尚はいきなり奥の四畳半の方へ逃げた。明智が行李を
猿の様に木登りのうまい畸形児にとっては、屋根の上こそ屈竟の逃げ場所だ。彼は
「小林君、そこの窓から刑事を呼んでくれ給え」
いい残して明智も屋上に
屋根が尽きると、畸形児は電柱や塀を足場にして次の屋根へと移った。ある時は一間ばかりの所を、両手で電線につかまって渡りさえした。一寸法師の
そうなると明智はとても
正体をあばかれた畸形児は、もう死にもの狂いだった。逃げたとて、逃げおおせる見込はないのだけれど、そんな事を考える余裕はない。彼はせめて人形師安川の家までたどりつこうとあせるのだ。
やがて、畸形児の行手に一軒の
一寸法師は最後の力を
追手達は身構えをしながら、瓦を一枚一枚
追手は同じ様に煙突を登る
だが畸形児には別の考えがあった。煙突には船の帆柱の様に、頂上から太い針金が三方に出て、その一本が狭い空地を越して、向う側のゴミゴミした長屋の屋根に届いていた。彼はケーブルカーの様にその針金をすべって、向う側に渡る積りなのだ。もしそれがうまく行けば、そこは複雑な迷路みたいな町だし、夕暗のことだから、うまく逃げおおせることも、
命がけの軽業が始まった。白衣の怪物が空に浮いた。針金を握って足を離すと、ハッと思う
針金が手の平に食い入って、
墜落した一寸法師は、そのまま気を失った。空地にいた人達が声を上げてそのまわりに
小林紋三は明智の指図に従い、表の方の窓を開いて、大声に怒鳴った。そしてそこに見張りをしていた刑事が駈出すのを見送ると、一瞬間、ぼんやりと突っ立っていた。明智の跡を追って屋根に上ったものか、ここに
屋根の上の騒ぎも段々遠ざかり、階下の老婆はどうしたのか姿を見せず、そのさ中に、異様な静寂が来た。世界が切離された感じだった。
「奥さん」
紋三は夫人の肩に手をかけて低い声で呼んだ。すると突然夫人が、起き上って叫び出した。
「私です。三千子を殺したのは私です。お巡りさんにそういって下さい。小林さん、お巡りさんの所へ連れて行って下さい」
青ざめた顔が涙にぬれて、脣が醜く
「イエ、その前に、
彼女は紋三の腕にすがる様にしてわめいた。充血した目が人の来るのを恐れて、キョトキョトあたりを見廻した。
紋三も興奮のために青ざめていた。不思議な戦慄が背中をはった。なめてもなめても脣が
「奥さん逃げましょう」
彼の声はかすれ震えていた。
「早く、家へつれて行って」
「僕と、僕と一緒に、逃げましょう」
百合枝は激情の為に立上る力もなかった。紋三の肩に
紋三は老婆をつきのけて入口へ走った。そこにあり合せた下駄を
電車通りも無難に越して、彼等はいつか隅田川の
「そちらへ行くんじゃありません、今
「イイエ、私はどうしても、一度家へ帰らなければならない。離して、離して」
夫人はか弱い力をふり絞って、邸の方へ曲ろうとしたが、紋三がしっかり抱き込んで、そうはさせなかった。
「心配しないだっていいです。僕はどこまでもあなたと一緒に行きます。サア、
紋三は夫人を引ずりながら、上ずった声でいった。それでも彼女は暫くの間、紋三の腕の中でもがいていたが、やがて力がつきた。紋三は夫人の身体が突然しっとりと柔かく、重くなったのを感じた。彼女は身も心も疲れ果てて、あらがう気力も
紋三は殆ど夫人を
紋三の足は二人分の重味の為にもういうことを聞かなくなっていた。息切れがして胸がはじけ相だった。丁度その時休み場所には
百合枝は元のままの姿勢でそこに仰臥していた。顔だけがクッキリと浮び、
紋三は濡れたハンカチを片手にボンヤリとその美しい姿を眺めた。昨日までは愛すればこそ、一種の恐れをさえ抱いていたこの人と、今
彼はそこに膝をついて、百合枝の首を抱き上げると、彼女の脣へ、濡れたハンカチの代りに、いきなり自分の脣を持って行った。そして、彼がまだ小さい子供だった時分、隣に眠っていた
「アラ、私どうしたのでしょう」
やがて、接吻の雨の下から、百合枝の脣がいった。
彼の余りの激情が彼女の眠りをさましたのか、それとも彼女は凡てを知っていて、態と今気のついた
「どうです、歩けますか」彼はさっきのハンカチを百合枝の口に当てがって「もう少しの我慢です。この辺を右に折れて行けば、
「イエ、もう駄目ですわ。逃げたって駄目ですわ。あいつがもうすっかり白状してしまったに違いないのですもの」
「何をいうのです。だから逃げるんじゃありませんか。それともあなたが、とても逃げおおせないと思うのだったら」彼は
「マア、あなたは……どうして死ぬことなんかおっしゃるのです」
「だって、あなたは絞首台が怖くないのですか。無論僕だって逃げられるだけは逃げた方がいいと思うのだけれど、でもいよいよ逃げられなくなった時は、死ぬ外ないじゃありませんか」
「それはそうですけど。……」
百合枝はそういったまま、暗の中に坐って、長い間黙っていた。紋三も彼女の一方の手を握り
「あなた、どこまでも私の味方になって下さるわね」
「どうしてそんなこと聞くのです。分りませんか」
「分ってますわ。でも、私が今まで通り山野の
「エエ」
「どんなことがあっても?」
「誓います」
「じゃいいますが、三千子を殺したのは私ではないのです。外に下手人がいるのです」
「エ、それは一体だれです」
紋三はびっくりして尋ねた。
「山野です。私の夫の山野です。ですから、私は一刻も早く家に帰って、あの人を逃さなければなりません」
「だって、山野さんは三千子さんの実の親じゃありませんか。そんな馬鹿なことがあるもんですか。よし又そうとした所で、逃すなんて、あの大病人をどうしようというのです。それに、お邸には今頃はもう警察の手が廻っているに相違ないのですよ」
「アア、やっぱり駄目ですわね。でもひょっとしてあの不具者がうまく逃げてくれたら、そうすれば秘密がばれないで済むかも知れないのです」
「あいつですか。あいつが秘密の鍵を握っているのですか。それで、あなたはあんな奴の命令に従っていたのですね。御主人の罪を隠したいばかりに」
「その外に私に出来ることはなかったのです」百合枝は涙声になった。「そのことが分った時から、私は山野の家名と主人の安全のために、命を捨てても尽さなければならないと決心したのです。それが私のなくなったお母さまの教えなのです」
「…………」紋三はボンヤリして相手の激情を眺めていた。
「あなたは主人と私との関係をよく御存じないでしょうが、私の家にとっては山野家は大切な恩人なのです。私がひどく年の違う主人にとついだのも、主人のために犠牲になる決心をしたのも、皆私のなくなった両親の志をついだのです。私の気性としてそうしないではいられなかったのです」
「ですが、それにしても僕には分らないことがあります」紋三はやっと気を取り直していった。「あなたは焼き捨てたと思っているでしょうが、あなたの受取った変な手紙が明智さんの手に入ったのです。例の不具者があなたをO町の家へ呼び出す為に書いた手紙です。それには確か、御依頼の三千子さんの死体を
紋三は照れ隠しに、様々の証拠を並べ立てた。
「マア、そんなものが私の部屋にあったなんて、ちっとも知りません。明智さんが見つけなすったのですか」
「イイエ、小間使のお雪です。あれが明智さんに買収されていたのですよ」
美しい夢を台なしにされた紋三は、
「マア、そうですの。でもそれはちっとも知りませんわ。さっきおっしゃった手紙なら覚えがありますけれど、あれまで明智さんの手に這入っているのですか。……あの手紙なんです。私が初めて本当の下手人を知ったのは。不具者が山野の頼みで死骸の始末をしたことを打明けて、私を脅迫して来たのです。私と主人の関係や私の気性をよく知っているものだから、その弱味につけ込んで、私を思う様にしようと企らんだのです。あの手紙は一番最初明智さんがいらしったあのあとで受取ったのですよ。あの時まで三千子が死んだことさえ半信半疑でした。でなければ、私が三千子をどうかしたのだったら、何で明智さんなんかお願いするものですか」
紋三は余りにことが意外なのと、飛んだ思い違いをして、夫人と一緒に死のうとまでいい出した恥かしさ、この納まりをどうつけていいのだか、見当がつかなくなってしまった。
すっかり秘密を打開けてしまった百合枝は、もう何も
「では、あの手紙に書いてあった三人の内の不明な一人は」やっとしてから、紋三はいやに事務的な調子に変って尋ねた。「山野さんだったのですか。つまりあの不具者が山野さんの頼みを引受けて死体を埋めた訳ですね」
「そうですの」夫人は答えは答えたけれど、もうどうでもいいという様な、なげやりな調子だった。
「それがうそでないことは、丁度三千子がいなくなってから、主人は店のお金を随分持ちだしているのです。支配人が心配して私に話してくれたのですが、主人にそんな大金の入用があったとは思えないのです。私はあの手紙を見ると、すぐそこへ気がつきましたの。そしてそのお金はもしかしたら、半分は運転手にやったのかも知れません。主人があの男を態々大阪まで追っかけて行ったのは、三千子を誘拐したのを、取戻すためだといってましたけれど、あとでは秘密を口外させないために、お金をやりにいったのだと分りました。でも私は主人を疑う様な
「蕗屋がどうかして秘密を知ったのですね」
「エエ、はっきりしたことはいえないんだけれど、あのゴミ車を
「兎も角御邸へ帰って見ようじゃありませんか。まさかさっきの様に僕と駈落して下さいとはいえませんからね」紋三は
「私こそお願いしますわ」
夫人が他意なく縋ってくるのを見ると、
やがて二人は森を出て堤の上を山野家の方へ歩いていた。
「ですが、分らないのは山野さんの心持です。全体どうして、実の娘さんを殺す気になったのでしょう」
「山野は商売人にも似合わない堅苦しい男ですの、そしてカッとなると、随分思い切ったことをやるたちですから、多分三千子のふしだらを感づいて
「それじゃ、三千子さんと小松とは
紋三は非常に意外な気がした。
「そうですのよ。姉妹でいて、二人はまるで気質が違うのです。三千子さんは大のおてんば、小松の方は商売人の腹に出来た子に似合わない、それはそれはよく出来た、おとなしい娘です」
もうすっかり暗くなった堤の上を、二人はとぼとぼと歩いた。一つは身も心も疲れていたせいもあるが、一つは早く帰って真実に直面するのが恐しく、自然歩みが
「その実の娘同志が」夫人は語り続けた。「一人の男を、相手もあろうに運転手なんかを、争っているのを知れば、ああした山野のことですから、カッとせずにはいられなかったのでしょう。その心持はよく察しられますわ。地獄の様な気がしたに違いありません。そのふしだらな娘の一人が、やっぱり御自分のふしだらが生んだ罪の子だと思うと、たまらなかったのですわ。考えて見ると山野は本当に気の毒なんです」
「なぜ自首して
「だって、人一人殺したんですもの、仮令罪は軽くても、世間に顔向けが出来ませんわ。人一倍世間を気にする主人が、何とかして隠してしまおうとしたのは、ちっとも無理ではないのです。山野自身の安全だけでなくて、家名という様なものを心配したのですわ。なぜといって、もしこのことがパッとすれば、山野のふしだらから、娘達の醜い争いがすっかり知れ渡ってしまうのですから」
「三千子さんだけを折檻なすったのは、どういう訳でしょうか」
「それは公然の娘ですもの、主人はそんなことまで、几帳面に考える様なたちですの。それに、主人の愛が、どっちかといえば、不幸な小松の方へ傾いていたことも考えて見なければなりません。おてんば娘は主人の気風に合わないのですわ」
「奥さん、一寸黙ってごらんなさい」突然紋三が夫人を制した。「うしろからだれかついてくる奴があります」
話をやめて、耳をすますと、確に人の気勢がした。それが尾行者に相違ないことは、こちらが足を止めると、向うもピッタリと立止まってしまうのだ。
「誰です。私達に御用でもおありなんですか」
紋三が虚勢を張って大きな声を出した。
「小林さん、私ですよ」
すると、その男はノコノコ物蔭から出て、心安い調子でいうのだ。
「とうとう見つかっちゃった。O町から
それを聞くと紋三は重ね重ねの醜態にカッとなった。さっきの森の中のことまで、この男の口から明智に伝わるのかと思うと、いい様のない
「何だってあとを尾けたんです」
「ごめん下さい。明智さんのいいつけなんです。私はあのO町の家の前に、あなた方の出ていらっしゃるのを、待っている役目だったのです」
「すると、僕等が逃げ出すことが、ちゃんと分っていたのですか」
「そうの様です。あなた方のあとを尾けて、もしお邸へお入りになればいいけれど、そうでなかったら、どこまでも尾行して、お二人の話なんかも詳しく
「じゃなんだね。明智さんはあの家に奥さんのいることを知っていて、態と僕をつれ込んだ訳だね。そして、二人が逃げ出して、色々なことを話し合うのを立聞きさせようという手はずだったのだね」
「万一の場合なんですよ、万一そんなことが起ったら、こうしろという命令だったのですよ。何でも奥さんが飛んだ誤解をしていらっしゃるから、もしものことがあってはいけないということでした」
その
仕事場の一方には出来上った様々の人形が不思議な群像をなし、その
彼はいよいよ本当の犯人を引渡すからというので、友達の間柄の田村検事や、刑事部長などを、そこへ呼び集めたのであった。丁度畸形児捕物から引続いてのことだったし、外にも重大な理由があって、人形師の仕事場が説明の場所に選ばれた。明智にしては、これが当日のもっとも重要なプログラムなのだ。
彼はこれまでの経過を一応説明してしまうと、いよいよ本題に入って行った。
「つまり三千子殺しの犯人として疑うべき人物が五人あった。第一は養源寺の和尚
明智は例によって、思わせぶりな物のいい方をした。これが彼の探偵生活での、いわば唯一の楽しみなのだ。併しそれが聴手の好奇心を
「ところが、ここにもう一人、第六の嫌疑者が現れました。それはたった今、私の部下が山野夫人と小林君のあとをつけて、夫人の告白を聞いて確めることが出来たのです」明智は隅田堤での一部始終をかいつまんで話した、「これは山野夫人の不思議な行動から、私も早く気づいてはいたのです。しかし貞淑な夫人の数々の人知れぬ心遣いは、夫人には誠にお気の毒な訳ですが、全く無駄であったのです。山野氏は決して実子殺しの罪人ではありません」
驚くべきは、明智はそうして
「併し、夫人が山野氏が
彼は台の上の例の焼残りの手紙を取って、それを手に入れた径路、文面
聞手は凡て意外な顔色であった。たった一人、安川国松だけが、明智の話も耳に入らずブルブルふるえていた。
紋三も最初は意外な感じがした。いよいよ間違いないと思っていた山野氏まで犯人でないとすると、最早疑うべき
「あの写真だ。明智があの写真を見て、つまらないおしゃべりをした。あれだ。あれをもっとよく考えて見ればよかったのだ」
それは
「そこで、嫌疑者が一人もなくなった訳ですが、殺人行為があった以上、犯人のないはずはありません」明智の説明は続いた。「犯人は確にあったのです。ただそれが余りに意想外な犯人であるために、何人も、山野夫人すらも、気がつかなかったのです。私は御約束通り、今夜その犯人を御引渡し致します。ですが、その前に、私が真犯人を発見するに至った径路をかいつまんで御話して置き
又しても明智の思わせぶりであった。田村検事はもどかしさに、ガタリと足を組み直した。
「明智君、いやに気を持たせるじゃないか。まずその犯人を明かしてからにし給え」
「さては」明智は愉快相にニコニコして、「君にもまだ見当がつかないと見えるね。併し、まあ順序よく話させてくれ給え」
「どうも、君の話は小説的でいけない。なるべく簡単に」
「私が最初、この事件にある不調和を見出したのは、この化粧品のクリームの瓶からです」明智は台の上の白いポンピアン・クリームの[#「ポンピアン・クリームの」は底本では「ボンピアン・クリームの」]
これは右の人さし指の指紋です。こちらの水白粉の同じ指のと比較しますと、不思議によく似てはいますけれど、ですから肉眼で見たのでは区別がつかぬ程ですが、レンズで見ればまるで別人の指紋であることが分ります。三千子という人は非常なおしゃれで、化粧台には、この外にまだ沢山の化粧品があったのですが、妙なのは、それには少しも指紋がついていない。一度でも使用した化粧品の瓶に指紋がついていないというのは、一寸考えられないことです。使用するたびに瓶をふく訳でもありますまい。これは何か
紋三は何だかうれしい様な気持だった。彼の想像の当っていたことが、段々明かになって行くのだ。
「その証拠には、この指紋の残っている化粧品は、
明智の説明は段々
「化粧品が準備された偽証であることは、この吸取紙によっても分ります。これもやっぱり偽証の一つなのです」彼は桃色の吸取紙を示した。それの表面には拇指のインキの指紋がハッキリと現れていた。「これが三千子の書きもの机の真中にのせてあった。態と目につく場所へ置いたことは一見して分るのです。それから、ここに文字を吸取った跡がかすかに残っている。一寸見たのでは、ポツポツと点線になっていて読めませんが、鉛筆で跡をつけて見るとハッキリした文字が現れて来る。だが、文句に注意すべき点はない。ただ女らしい文章の一部分が現れているに過ぎません。ところで、ここに別に三千子の
明智はそこに用意してあった懐中鏡を取ると、吸取紙の上にかざして、聞手の方に見える様にした。田村検事などは、すぐそばまで顔を持って行って、感心した様に二つの筆蹟を見比べるのであった。
「こうして右文字に直して見ると全く別人の筆蹟です。つまり、この吸取紙は三千子のものではないのです」
「すると何だね」田村検事が驚いていった。「エート、一寸法師が持歩いた腕なんかは、三千子のものでないことになるね。それらの指紋がうそだとすると」
「そうだよ。三千子のものではなかったのだよ」
「そんなことをいえば、この事件は根本からくつがえって来る訳だが」
「くつがえって来る。出発点から間違っている」
明智は平気で答えた。田村氏の顔色は
「では、明智君、三千子は死んでいないというのか」
「そうだ。三千子は死んではいないのだ」
「じゃあ、君は……」
田村検事は、ある感情の交錯のために顔を青くして、明智をにらみつけた。
「そうだ」明智は検事の表情を読む様にして「その通り。君の考えは当っている。三千子は被害者ではないのだ」
「被害者ではなくて……」
「加害者なのだ。三千子こそ犯人なのだ」
「すると、被害者はどこにいる。三千子は一体だれを殺したのだ」
「待ち給え、大体見当はついているのだが」明智は検事を制して置いて、隅の方に小さくなっている人形師をさし招いた。「安川さん。つかぬことを聞く様だが、ここに並んでいる人形は皆
「ヘイ、左様で」人形師は脣をなめなめ答えた。「皆
「この奥の方に並んでいるキューピー人形は、随分大きなものだが、やっぱり花屋敷へ飾るのかね」
「ヘイ、左様で」人形師はもう目に見える程震え出していた。
「だが、このキューピー人形は、昨日まで
「…………」人形師の挙動が凡てを語っていた。
明智はやにわに、邪魔になる生人形共を引き倒して、その奥のキューピー人形に近づいた。そして、その辺に落ちていたハンマーを拾うと、人形のおどけた顔面を目がけて、烈しい一撃を加えた。人形の顔がくずれ、
「これが気の毒な被害者です」
明智が指で土をかきのけて行くと、その奥から、黒髪を乱した
「申すまでもなく、これは小間使の小松です。可哀相に両手両足を半分に切られて、丁度……そうです、丁度一寸法師そのままの姿で、この、ニコニコした福の神の体内に、ぬりつぶされていたのです。恐しい不具者の呪いです。だが……」
明智はふと口を
「これはきっと、頭の傷だけでは死に切らなかったので、指で
異様な沈黙が来た。物慣れた警察の人々も、この前代未聞の残虐を正視するに堪えなかった。皆息をのんだ
「すると、三千子が恋敵の小松をこんな目に逢せた訳だね」やっとしてから、田村氏が溜息と共にいった。
「そうだよ」流石の明智もいくらか青ざめていた。「犯罪の裏には恋だ。三千子と小松との蕗屋に対する恋、一寸法師の山野夫人に対する恋、この事件は凡て恋から出発している」
「だが、この人形の中へ塗りこめたのは」
「それは三千子じゃない。やっぱり一寸法師だ。そして、この安川という男も共犯者だ。僕が人形師を怪しいとにらんだのは、一寸法師が昨夜ここへ入るのを見届けたからでもあるが、もう一つは、一寸法師が普通の人間に化けていた、その
「だが、明智君、どうも変だね」田村氏はふと何事かに気づいて、明智の説明を
「だが、事件のあった翌日から、小松は病気になった。そして人に顔を見られることを恐れる様な所があった。僕が彼女の病床を見舞った時にも、枕に顔をうずめて、僕の方を正視出来なかった。そればかりではない。彼女の不用意に投出された指には、マニキュアが
「では若しや、アアそんな馬鹿馬鹿しいことがあるだろうか。……」
「僕も最初はまさかと思っていた。だがこれを見給え。この写真に気づいた時から僕の意見は確定したのだ」
明智はそういって、台の上から山野家一同の撮した写真を取って、田村氏や刑事部長の方へさし出した。それには、三千子の顔に妙ないたずらがしてあった。彼女の眉を、すっかり
それを見ると田村氏と刑事部長は顔を見合せて感嘆した様に「似ている」と
「似ているでしょう。三千子の眉をとって、眼鏡をかけさせ、技巧たっぷりの表情を、もっと静にすれば、小松と見分けがつきません。それも道理です。小松というのは実は山野氏の隠し子で、三千子とは
「それはどういう意味だね。小間使に化けて見たところで、罪が消える訳でもあるまいが」
「さっきもお話した北島春雄という命知らずがいたのだ。丁度その前日彼は牢を出て三千子に不気味な予告の葉書を出している。失恋に目のくらんだ狂人だ。殺されるかも知れない。三千子はその日も、この命知らずのことで頭が一杯になっていた。丁度その時あの変事が起ったものだから、一つは北島の復讐をのがれるために、一つは小松殺しの嫌疑を避けるために、又一つには、山野夫人に、
「それを家内中が知らなかったというのは、おかしいね」
「いや、たった一人知っていた人がある。それは三千子の父親の山野氏だ。丁度事件の起った時分に洋館にいたのだからね。山野氏は家名を重んずる厳格な人だけに、却て三千子の計画に同意した。そして、三千子と一緒になって凡てを秘密の内に葬り去ろうとした。小松に化けた三千子に金を与えて家出させたのも、養源寺の和尚や蕗屋を買収したのも山野氏だった。山野氏のそんなやり方が、夫人の疑いを招くことになり、結局事件を面倒にしてしまった形なんだ」
「すると、例の不具者は、小松の死体を埋ることを引受けて、その立場を利用して山野氏からは金をしぼり、一方夫人を脅迫していた訳だね」
「そうだ。山野氏にしては、あの坊主がまさかあんな悪党だとは知らないからね。なぜか非常に心易い仲だった。不具者
「実に複雑な事件だね。だが、君の説明で大体の筋道は分った。それでは、約束通り犯人を引渡してくれるだろうね。一体三千子はどこに隠れているのだ」
刑事部長は始めて彼の大切な役目に気づいた様に、厳格な調子でいった。
「引渡すことは引渡すがね」明智は沈んだ調子で答えた。「三千子さんも気の毒なんだ。ふしだらな点は確に彼女が悪いのだけれど、それも複雑な家庭に育った一人娘であることを考えると、こんなことになったのも彼女ばかりの罪ではないのだ。それに、彼女は今非常に
「分った分った。なるべく君の希望に添うことにしよう。兎も角早く犯人の
「なに、三千子さんはここの
明智が合図をすると、住居の方の障子が開いて、そこから明智の部下と小間使姿の三千子と、そして、意外なことには運転手の蕗屋までが一緒に立現れた。三千子はいたましく泣きぬれて、目を上げる力もなかった。
「蕗屋君も最初からこの家にいたのです」人々の不審顔を見て取って明智が説明した。「これもやっぱり山野氏が養源寺の和尚を過信した結果なんですが、死体運搬をした蕗屋君は、やっぱり連類に相違ないので、和尚が勧めるままに、かくまい方を
そうして明智の説明が一段落つくと、三千子、蕗屋、安川国松の三人は、兎も角近所の原庭署へ連行されることになった。しおらしくすすり泣く三千子、青ざめた蕗屋、ブルブル震えている安川、一瞬間部屋の空気はうち湿って見えた。三人の刑事が、彼等をひっ立てる様にして、あとに随った。そして、彼等が今仕事場の入口を出ようとした時だった。
「三千子さん、一寸」
じっとキューピー人形を眺めていた明智が、ふと何かに気づいた調子で、三千子を呼び止めた。
「あなたは、この死人の首の指のあとに覚えがありますか。あなたは小松の首を絞めたのですか」
三千子は一寸の
「いいえ。私、そんなこと致しません」
「本当に?」
「エエ」
明智はそれを聞くとにわかに快活になった。彼は例によって、ニコニコしながら、盛んに長い頭髪をかき廻した。
「田村君、一寸待ち給え。ひょっとしたら、真犯人は三千子さんではないかも知れんよ」
「なんだって?」検事はあきれて明智の顔を眺めた。「君はたった今、三千子さんが犯人だと断言したじゃないか」
「いや、それが少々間違っていたかも知れないのだ」
「間違っていたって?」
「この被害者の首の指の痕だね。三千子さんの指にしては、
「すると?」
「若しや、これは……」
丁度その時、明智の部下の斎藤が、表の方から
「明智さん、一寸」
明智は彼を隅の方へつれて行って、ひそひそと何かささやき交した。
「僕の想像は間違っていなかった」明智は
「それは一体何者だ」
田村氏と刑事部長が殆ど同時に叫んだ。
「一寸法師です。今この斎藤君がもたらした新事実を報告しましょう。一寸法師は病院のベッドで息を引取りました。彼はその
紋三はその時の異常な光景を、長い間忘れることが出来なかった。明智は髪の毛をつかみながら仕事場の板敷をふみならして、あちらへ行ったりこちらへ行ったり、歩き廻る。三千子、蕗屋の両人は今までの泣き顔に、恥しげなほほ笑みを見せる。山野邸に人が走る。吉報を聞いて喜ばしさの余り、重病の山野氏が夫人を同伴してかけつける。
「なに、殺人罪ではないのですからね。それに若い娘さんのことだし、多分無罪になるかも知れませんよ」
田村検事も、肩の荷をおろしたという風で、ニコニコしながら、実業家山野氏を
それから、三千子、蕗屋、安川国松の三人は一先ず原庭署へつれて行かれたが、田村氏の言葉もあるので、誰も彼等の身の上を気づかうものはなかった。ただ安川人形師だけが周囲の喜びをよそに、うちしおれているのが余計あわれに見えた。
小林紋三は明智と連立って、人形師の家を出た。彼等は事件が円満に解決した満足で、自然多弁になっていた。タクシーの帳場までを歩きながら、色々と事件について語り合った。
「めでたし、めでたしですね。あなたのこれまで関係された事件でも、これ程都合よく運んだものは少いでしょうね」
紋三がお世辞めかしていった。
「都合よくね」明智は意味ありげな調子だった。「何も
「それはどういう意味でしょうか」
紋三は変な顔をして尋ねた。
「例えばだね、小松の絞め殺されていることが、キューピー人形を
素人探偵明智小五郎は、春のよい
「一寸法師」は新聞連載の折、新聞社に活字がない為、漢字を仮名にしたり、当て字を使った個所が非常に多いのですが、それを一々元の漢字に直す程、文字から来る感じを重んずる種類の小説でありませんので、態とそのままにして置きました。一日分ずつ書いたのを纏 めた為に、続き具合のおかしい所もありますが、それも直さないで置きました。(作者)