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*作中、ディクスン・カー著『皇帝のかぎ煙草入れ』のトリックに言及されています。未読の方はご注意ください。
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シナリオ・ライター
東の空に、工場の建物の黒い影の上に、
二月の寒い夜であった。まだ七時をすぎたばかりなのに、その町は寝しずまったように静かで、人通りもなかった。道に沿って細いどぶ川が流れていた。川の向こうには何かの工場の長い
こちら側には
(あいつに会えば、
股野重郎は元
北村克彦も股野の金を借りたことがある。しかし半年前に元利ともきれいに払ってしまった。だから股野に会うことを
股野重郎の
抜け目のない股野が、それを気づかぬはずはない。だが彼はなぜかそ知らぬふりをしていた。時たま
(しかし、今夜は破裂しそうだ。
表面は
二階の窓あかりを見ると、急に帰りたくなったが、そしてそのとき帰りさえすれば、あんなことは起らなかったのであろうが、克彦は、
中からドアをあけたのは、いつもの女中ではなくて、あけみだった。
「
「あなたが食事に来ないとわかったものだから、夕方から泊りがけで、うちへ帰らせたの。今夜は二人きりよ」
「彼は二階? いよいよあのことを切り出すつもりかな」
「わからない。でも、
「ウン、僕もそう思う」
せまいホールにはいると、階段の上に股野がたちはだかって、こちらを見おろしていた。
「やあ、おそくなって」
「待っていたよ。さあ、あがりたまえ」
二階の書斎にはムンムンするほどストーヴが燃えていた。天井を煙突の
一方の壁にはめこみの小金庫がある。イギリスものらしい古風な
克彦が入口の
股野は二つのグラスにそれをつぎ、克彦が一と口やるうちに、彼はグイとあおって、二杯目をついだ。
「直接法で行こう。わかっているだろうね、今日の用件は?」
股野はいつもの通り、太い鼈甲縁の目がねをかけ、黒のズボンに茶色のジャンパーを着て、詩人めいた長髪に
「おれは、前々から知っていた。知ってはいたが、確証をつかむまで、だまっていたんだ。その確証を
彼は三杯目のウィスキーをあおっていた。
「申しわけない。僕らは甘んじて君の処分を受けようと思っている」
克彦は頭をさげるほかなかった。
「いい覚悟だ。それじゃ、おれの条件を話そう。今後あけみには一切交渉を断つこと。口を
股野はそういって、薄い唇をキューッとまげて、吊りあがった唇の隅で、冷酷に笑った。
「待ってくれ。百万円なんて、僕にはとても出来ない。まして五百万円なんて、思いもよらないことだ。せめてその半額にしてくれ。それでも僕には大変なことだ。食うものも食わないで、働かなけりゃならない。だが、やって見る。半額にしてくれ」
「だめだ。そういう相談には応じられない。あらゆる角度から考えて、これが正しいときめた額だ。いやなら
股野は四杯目のウィスキーを、グッとほして、唇をペタペタいわせながら、
克彦にとって、問題は、しかし、金のことではなかった。あけみと交渉を断つという第一条件には、どう考えても
「君はあけみさんをどうするのだ。あけみさんまで罰する気か」
「それは君の知ったことじゃない。あれもこらしめる。おれの思うようにこらしめる」
「ねえ、君の条件は全部
「エヘヘヘヘ、つまらないことを云うもんじゃない。そういう君の
「それじゃ、おれはどうすればいいんだ。おれはあけみさんを愛している。君には
「フフン、よくもおれの前でほざいたな。それじゃ、おれの第三の条件を云ってやる。それはきさまに肉体の制裁を加えることだ」
股野は椅子から立ちあがっていた。たださえ青白い顔が、酔うと一層青ざめる。
「なにをするかッ」
夢中で相手にむしゃぶりついて行った。今度は股野の方が不意をうたれて、タジタジとなり、二人は組み合ったまま、床にころがった。お互に相手の鼻と云わず目と云わず
「そんなら、おれも殺すぞッ」
克彦は、両手に
(ばかめ、その方が一層しめやすいぞッ)
相手の背中に重なり合って、すばやく右腕を
相手は全身でもがいていた。もうこちらの腕に手をかけることさえ出来なかった。青い顔が紫色に変って、ふしくれ立っていた。
何か女の
無我夢中ではあったが、心の底の底では人殺しを意識していた。「こいつさえ死ねば、何もかもよくなる」ということを
相手はもうグッタリと動かなくなっているのに、不必要に長く締めつけていた。鶏のように相手の頸の骨が折れてしまった手ざわりを意識しながら、もっともっとと、頑強に締めつけていた。
耳の中に自分の
首をまわすのに、おそろしく骨がおれた。頸の筋がこむらがえりのようになって、動かないのだ。やっと三センチほど首をまわすと、目の隅にその人の姿がはいった。そこに青ざめたあけみが立っていた。彼女の目が飛び出すほど見ひらかれていた。人間の目がこんなに見ひらかれたのを、彼は今まで一度も見たことがなかった。
あけみは魂のない
「あけみ」
云ったつもりだが、声にならなかった。舌が石のようにコロコロして、すべらなかった。口の中に一滴の水分もなかった。手まねをしようとすると、手も動かなかった。股野の首を
躄が這うようにして、丸テーブルのそばまで行った。そして、まだしびれている手を、やっとのばして、飲みのこしのウィスキー・グラスをつかみ、あおむきになった口へ持っていって、たらしこんだ。舌が焼けるように感じたが、それが誘い水になって、少しばかり
あけみがフラフラと、こちらに近よって来た。声は出なかったけれど、口があたしにもというように動いた。克彦はいくらかからだの自由を取り戻していたので、丸テーブルにつかまって立ちあがり、ウィスキー瓶をつかんで、グラスに注ぎ、それを口へ持っていってやった。
「死んだのね」
「ウン、死んじまった」
二人とも、やっとかすれた声が出た。
克彦は股野の頸の骨が折れてしまったと信じていた。だから人工呼吸で生き返らそうなどとは、毛頭考えなかった。
十分ほど、彼はアームチェアにもたれこんで、じっとしていた。
(ここで、おれは電気計算機のように、冷静に、
克彦はあけみを愛し股野を憎み出してから、空想の中では、千度も股野を殺していた。あらゆる殺し方と、その罪をのがれるあらゆる手段を、緻密に、緻密に、毛筋ほどの隙間もなく空想していた。今、その空想の中の一つを実行すればよいのである。
(時間が大切だ。十分間に
彼は腕時計を見た。こわれてはいなかった。七時四十五分だ。飾り棚の上の置時計を見た。七時四十七分だ。
あけみは彼の横の
「あけみ、鉄の意志を持つんだ。ふたりで一と幕の芝居をやるんだ。冷静な登場人物になるんだ。君にやれるか」
あけみは、あなたのためなら、どんなことでも、というように深くうなずいて見せた。
「今夜は明るい月夜だ。今から三四十分たって、この前の通りを、誰かが通りかかってくれなければ……おお、おれは冷静だぞ。こんなことを思い出すなんて。あけみ、この前をパトロールの巡査が通るのは、あれはたしか八時よりあとだったね。いつか、君がそのことを話したじゃないか」
「八時半ごろよ、毎晩」
あけみは、いぶかしげな表情で答えた。
「うまい。四十分以上の余裕がある。どんな通行人よりも、パトロールは最上だ。それまでにやることが山のようにある。一つでも忘れてはいけないぞ。……女中は大丈夫あすまで帰らないね。月は曇っていないね……」
彼は窓のところへ飛んで行って、黄色いカーテンのすきまから空を見た。一点の雲もない。満月に近い月が、ちょうど窓の正面に
(なんという幸運だ。この月、パトロール、女中の不在。まるで計画したようじゃないか。あとは、あけみさえうまくやってくれりゃいいんだ。それも大丈夫、あれは舞台度胸は申し分がない。それに男役には慣れている。おれは人殺しを全く忘れて、舞台監督になるんだ。この際、恐怖は最大の敵だぞ。恐れちゃいけない。忘れてしまうんだ。あすこに倒れているやつは人形だと思え)
克彦は
「あけみ、僕らが幸福になるか、不幸のどん底におちいるか、それは今から一時間ほどのあいだの、君と僕との冷静にかかっている。
「きっとできるわ。あなたが教えてさえくれれば」
あけみはまだワナワナふるえていたけれど、強い決意を見せて云った。ふたりの気持がこんなにピッタリ一つになったことは一度もなかった。
克彦は股野の死体のそばにしゃがんで、念のために心臓にさわって見た。むろん動いているはずはない。そんなことをしないでも、生体と死体とは一と目でわかる。その顔に現われている
紺色のベレ帽が、死体のそばに落ちていた。まずそれを拾った。太い鼈甲縁の目がねは、折れもしないで、青ざめた
(だが、このジャンパーを脱がせて、また着せるのは大変だぞ)
「あけみ、これと同じ色のジャンパーがもう一着ないか。着がえがあるだろう」
「あるわ」
「どこに?」
「となりの寝室のタンスのひきだし」
「よし、それを持ってくるんだ。いや、まだある。白い手袋が必要だ。革ではいけない。ほんとうは
「あるわ。股野が戦時中に、畑仕事をするのに買ったんですって。新らしいのがたくさん残ってるわ。台所のひき出しよ」
「よし、それをもってくるんだ。まだある。長い丈夫な
「さア、あれば洋服ダンスの中だわ。でも丈夫な紐って……ア、股野のレーンコートのベルトがはずせるわ。それから……ネクタイではだめ?」
「もっと長い丈夫なものだ」
「そうね。ア、股野のガウンのベルトがある。あれならネクタイの倍も長くて丈夫だわ」
「よし、それを持ってくるんだ。それから、……ウン、そうだ。おれはいつか、ちゃんと考えておいたんだ。君のうちには、何かの草で作った
「あるわ。洋服ダンスのそばに、かけてあるわ」
「いいか、忘れちゃいけないぞ。全部そろえるんだ。もう一度云う。軍手、ベルトが二本、箒型のブラシ、ジャンパー、そして、ここにベレ帽と目がねがある。それで全部か? いや待て、そうだ、ネクタイでいい。洋服ダンスから
「軍手、ジャンパー、ブラシ、ベルト二本、ネクタイ三本、鍵が三つ」あけみは指を折って
「よしその通り。ア、ちょっと待った。三つの鍵はいつもどこに置いてあるんだ」
「洋服ダンスの鍵なんて、かけたことないから、
「それじゃあ、股野のポケットのを使おう。これは僕がとり出す。君はほかの品を全部集めるんだ。時間がない。大急ぎだッ」
あけみはもうふるえていなかった。舞台監督のさしずのままに動く俳優になりきっていた。彼女は所要の品々を集めるために、隣の寝室へ飛びこんで行った。
克彦は死体のそばに行って、ズボンの両方のポケットをさぐった。そして、わけなく二つの鍵を見つけた。別に気味わるくも感じなかった。死体はまだ
所要の品々がそろった。克彦はそれを丸テーブルの上に並べて点検したあとで、箒型のブラシと軍手の片方を手に持って、妙なことをはじめた。箒の先をひとつまみずつにわけ、それを軍手の指の中へおしこんで行くのだ。見るまに箒を
「もうわかっただろう。君が股野の
これらは、克彦が空想殺人の中で、たびたび考えて、繰り返し検算しておいたことだ。細かい点まで、手にとるようにわかっている。
「それから、そのセーターの上からジャンパーを着るんだ。下はそのままでいい。あの窓をあけて、上半身を見せればすむのだ。軍手の男が君のうしろから抱きついている。君は窓から上半身をのり出して、軍手でおさえられた手を、引きはなしながら、助けてくれと叫ぶのだ。そういう場合だから、ただしわがれた男の声でさえあればいい。この部屋の電燈を消して、僕とパトロールの巡査とが門の前に現われるのを待って、演戯をはじめるんだ。もしパトロールが来ないようだったら、誰れでもいい通りがかりの人と一緒に門までやってくる。君は窓のカーテンのすきまからのぞいて、僕の姿が見えるのを待ってればいいのだ。そして、二声三声叫んでおいて、軍手の男にうしろへひっぱられる形で、窓から姿を消してしまうのだ。二階の窓から門までは十メートル以上はなれている。いかに明るいと云っても月の光だ。細かいことはわかりゃしない。それに、僕がうまく相手を誘導するから、万に一つもしくじる心配はない。わかったね」
あけみは、克彦の興奮した顔、自信ありげな熱弁に見とれているうちに、彼の計画の全貌が、おぼろげにわかって来た。
「わかったわ。そうして、あなたのアリバイを作るのね。股野が殺されたときに、あなたはまだ門をはいろうとしていたのだということを、証人に見せるのね。だから、その証人にはパトロールのお
「
「どんな覆面? 服装は?」
「黒い服を着ていた。こまかいことはわからなかったというんだ。覆面は目だけでなく、顔全体の隠れるやつだ。ヴェールのように、黒い布を
「わかった。あとは出まかせにやればいいのね。でも、あたし自身が犯人だと疑われることはないの? かよわい女だから、股野に勝てるはずがないっていう理窟? それで大丈夫かしら」
「それには、このベルトとネクタイと鍵だ。時間がないから一度しか云わない。よく聞いてるんだよ。僕が今にそとへ出て行くから、そのときすぐに、この部屋の入口のドアに鍵をかける。それから、窓の演戯をすましたら、君はこれだけのことを大急ぎでやるんだ。箒型ブラシから軍手をはずし、
書斎と寝室との三つのドアには、あとで犯人が鍵をかけて行ったことになるんだから、
寝室へはいったら、このネクタイのうちの二本を丸めて、自分の口の中へ押しこむのだ。そして、もう一本のネクタイでその上をしばり、頭のうしろで固く結ぶ。つまり
二人は隣の寝室へはいって行って、大型の洋服ダンスのとらびを[#「とらびを」はママ]ひらいた。やって見るまでもなく、大丈夫はいれる。すぐに丸テーブルの前に引き返した。
「さて、洋服ダンスの中へはいったら、両足をそろえて、足首にこのガウンのベルトをグルグルに巻きつけ、その端を固く結ぶ。それから、
克彦はそう云いながら、あけみの両の手首に、グルグルとベルトを巻きつけ、しばりあげた。
「さア、これでいい。手のひらを
あけみは必死になって、それを試みた。部屋の隅の壁にもたれて、うしろにベルトの輪を置き、からだをねじって、右手を入れるときには、右の方に輪をよせ、左手を入れるときには、左によせて、目の隅でそれを見ながらやるようにした。もともとゆるい輪だから、思ったほど苦労もしないで、両手を入れることが出来た。
「だが、両手を入れただけではいけない。握りこぶしを作るんだ。そして、手首のところでギュッとねじる。そうそう、そうするとベルトが手首に喰い入って、固くゆわえてあるように見える上に、そうしてねじっていれば、自然に充血して、その辺がふくれあがり、今度はもうほんとうに抜けなくなる。これは繩抜け術とはちがうが、僕らの今の場合はそうする方がいいのだ。あとは、君が洋服ダンスにとじこめられていることがわかったときに、誰かが解いてくれるんだからね。
この仕事はあわてないでもいい。ゆっくりやれる。僕がここを出ると、君が入口のドアに鍵をかけ、それから、あとで寝室のドアにも鍵をかけるんだから、窓の演戯を見て、すぐに駈けつけても、ドアを破る時間がある。そして、死体を発見すれば、そこで手間どるから、寝室へはいってくるのは、ずっとあとになる。だから自分をしばるのはゆっくりでいい。しかし全く気づかれなくても困るから、誰かが寝室へはいって来たら、君は洋服ダンスの中で、あばれて音を立てるんだ。そして注意を引くんだ。わかったね。念のために、今まで僕が云ったことを、忘れないように、もう一度君の口で云ってごらん。一つでもまちがったら大変だからね」
そこで、あけみは、この複雑な演戯の順序を、正確に
「うまい。それでいい。ぬかりなくやるんだよ。それから、ここに残った玄関の鍵と洋服ダンスの鍵は、僕がポケットに入れてそとに出る。それはこういうわけだ。君は犯人のために洋服ダンスにとじこめられた。だから、犯人は洋服ダンスにも鍵をかけて行ったはずだ。しかし、君は中にはいっているんだから、自分で鍵をかけることはできない。それで僕が持って出て、今度誰かと一緒にはいって来たとき、相手のすきをうかがって、洋服ダンスに鍵をかけておく、という順序だ。それから、玄関に鍵をかけておく意味は云うまでもない。僕たちがあとでこのうちにはいる時間をおくらせるためだ」
「まあ、そこまで! あなたの頭は恐ろしく緻密なのね。それで、あたしが洋服ダンスにとじこめられる意味は?」
「わかってるじゃないか。犯人は股野にだけ
と同時に、われわれの方から云えば、君を洋服ダンスにとじこめる意味は、君も被害者の一人であって、決して犯人の仲間ではないということを証明するためだ。わかったかい」
あけみは深くうなずいて、
「これで演戯の方はすんだ。だが、もう一つやる事がある。君はあすこの金庫のひらき方を知っているね」
「股野はあたしにさえないしょにしていたけれど、自然にわかったの。ひらきましょうか」
「ウン、早くやってくれ」
克彦はあけみが金庫をひらいているあいだに、ストーヴの前に立って、石炭をなげこみ、灰おとしの把手をガチャガチャ云わせていた。
「その中に借用証書の
「ええ、あるわ。それから現金も」
「どれほど?」
「十万円の束が一つと、あと少し」
「貯金通帳や株券なんかはそのままにして、証文の束と現金だけ、ここへ持って来るんだ。金庫はあけっぱなしにしておく方がいい」
あけみがそれを持ってくると、克彦は証文の束をパラパラと
「それ、どうなさるの?」
「ストーヴで焼いてしまうのさ。現金もいっしょだ」
「人助けね」
「ウン、犯人が人助けのために、証文を全部焼いて行ったと思わせるのだ。むろん犯人自身の証文もこの中にあるというわけだよ。股野は担保もとらなかったし、公正証書も作らなかったので、この証文さえなくしてしまえば、一応返済の責任はなくなるのだ。しかし、帳簿が残っている。帳簿を見れば、債務者がわかる。そこで警察は、帳簿の債務者を
貴重な三分間を
「じゃすぐに用意をはじめるんだよ。ぬかりなくね」
云いのこして、入口を出ようとすると、あけみが息をはずませて追いすがって来た。
「うまく行けばいいけれど、そうでなかったら、これきりね」
両手が肩にかかり、涙でふくれた目が、近づいて来た。可愛らしい唇が、いじらしくすすり泣いていた。ふたりは唇を合わせて、長いあいだ、しっかりと抱きあっていた。
あけみが中からドアにカチッと鍵をかける音を聞いて、階段へ急いだ。もう手袋をはめているから、何にさわっても構わない。玄関のドアに中から鍵をかけた。それから台所でコップをさがしてつづけざまに水を飲んだ。そして、玄関の鍵はそこの戸棚の中へ入れておいた。
台所のそとの地面は、天気つづきでよく乾いていた。その上、敷石があるのだから、足跡は大丈夫だ。コンクリート塀についている勝手口の戸を、二センチほどひらいたままにして、狭い裏通りに出た。そとの石ころ道もよく乾いていた。
真昼のような月の光だ。人に見られてはいけない。あたりに気をくばりながら、グルッと廻って表通りに出た。誰にも会わなかった。どこの窓からも
どぶ川が月の光をうけて、キラキラと銀色に光っていた。海の底のような静けさだ。向うに立っている何かの木の丸い葉もチカチカと光っていた。こちら側の生垣のナツメの葉もチカチカと光っていた。
(なんて美しいんだろう。まるでお
こんなくだらない街角を、これほど美しく感じたのは、はじめての経験だった。
彼は口笛を吹き出した。
(だが待てよ。もう一度検算して見なければ……)
克彦はたちまち現実に帰って、不安におののいた。
(窓からの叫び声を聞いて、玄関に駈けつけ、うちの中にはいるまでの時間が重大だぞ。そのあいだに仮想犯人はいろいろのことをやらなければならない。あとから考えて、その時間がなかったという計算になっては大変だ。危ない危ない。犯罪者の手抜かりというやつだな。エーと、よく考えて見なければ……
仮想犯人は、股野が窓から助けを求めた直後に、彼をしめ殺してしまうだろうか。いや、そうじゃない。金庫を開かせなければならない。そうでないと証文を焼くことが出来ない。だが、ひらかせるのはわけもないことだ。頸に廻した手を締めたりゆるめたりして、脅迫すればよい。殺されるよりは金庫をひらく方がましだから、股野は金庫をひらく。ひらかせておいて、すぐしめ殺すのだ。そして、死骸はそこに捨てて、証文をとり出し、ストーヴに投げこみ、現金はポケットに入れる。仮想犯人はそうするにちがいない。これを一分か二分でやらなければいけない。あけみが主人の叫び声を聞きつけて、上がってくるにちがいないからだ。いや、その前にもう一つやることがある。洋服ダンスを物色して、ベルトやネクタイを取り出すことだ。仮想犯人はそこに洋服ダンスがあることを知っていたとすればいい。そうすれば紐類を探すとき、まず洋服ダンスをあけて見るのはごく自然だ。だが、そんなことがまっ暗な中でできるか? 寝室にも窓からの月あかりがある。ちょっと暗すぎるかな? 犯人は懐中電燈を持っていたことにしてもいい。そして、ベルトとネクタイを用意して、あけみを待っている。これも一分間にやらなければいけない。そのときにはもう、あけみは書斎にはいっているかも知れない。いずれにしても、あけみをとらえて、すぐ猿轡をはめ、声を立てないようにしておいて、手足をしばる。そして、洋服ダンスにとじこめる。これを二分か三分にやらなければいけない。ずいぶんきわどい芸当だが、やってやれないことはなかろう。合せて四分か五分、仮想犯人のために、これだけの余裕は見てやらなければならぬ。それより早く玄関のドアを破ってはいけないのだ。つまり、仮想犯人が裏口から逃げ出してしまってから、ドアを破るという段取りにする必要がある。その手加減が、一ばんむずかしいところだ。……よし、なんとかやって見よう)
克彦は目まぐるしく頭を回転させて、咄嗟の間に、これだけのことを考えた。この寒さに、全身ビッショリの
それからまだ
ふり返ると、果してパトロールの警官であった。二人連れではない。この辺は一人で巡廻するのであろう。
克彦は歩き出した。二十歩もあるくと、股野家の門であった。門の外に立って、二階の窓を見た。窓の押し上げ戸が音を立ててひらかれた。室内はまっ暗だ。カーテンをかき分けるようにして、人の顔がのぞいた。ベレ帽、太い鼈甲縁の目がね、白い大きな手袋、茶色のジャンパー。
白い手袋がうしろから彼の口を覆っていた。苦しそうにもがいている。そして、おさえられた手袋のすきまから、
「助けてくれ……」
という、しわがれ声の悲鳴がほとばしった。
克彦はハッとして立ちすくんでいる恰好をした。うしろから、駈け出してくる靴音が聞こえた。パトロールの警官にも、低い塀ごしにあれが見えたのだ。
「助けて……」
もう一度悲鳴が。しかし、その声は途中でおさえられた。そして、窓の人影は、白い手袋に引き戻されるように、室内の闇に消えてしまった。あとには、月の光を受けたカーテンが、ユラユラとゆれているばかりだ。
「あなたは?」
警官は門内に駈けこもうとして、そこに突ッ立っている克彦に不審を
「ここは僕の友人の家です。いま訪ねて来たところです。僕は映画に関係している北村克彦というものです」
「じゃ、いま窓から叫んだ人をご存知ですか」
「今のは僕の友人らしいです。股野重郎という元男爵ですよ」
「じゃ、はいって見ましょう。どうも、ただごとではないですよ」
(よしよし、これで一分ばかり
克彦と美少年の警官とは前後してポーチに駈けつけた。ドアを押しても開かないので、ベルを押して押しつづけたが、何の答えもない。
「妙ですね、家族は誰もいないのでしょうか」
「さア、主人と細君と女中の三人暮らしですが、主人だけというのはおかしい。細君も女中もあまり外出しない方ですから」
(又、一分はたった。ボツボツ裏口へ廻ることにしてもいいな)
「仕方がない。裏口へ廻って見ましょう。裏口もしまっていたら、窓からでもはいるんですね」
「あなた裏口への道を知ってますか」
「知ってます。こちらです。もっとも、あいだに板塀の仕切りがあって、そこの戸を開かなければなりませんがね」
板塀の戸はしまっていた。警官はその戸を押し試みて、ちょっと考えていたが、なにか自信ありげな口調になって、
「この板戸を破るのはわけないですが、裏口もしまっていたら、手間がかかって仕方がない。それよりも、玄関へ戻って、ドアをひらきましょう」
と云って、もうその方へ走り出していた。
「玄関のドアを破るのですか」
「いや、破る必要はありません。見ててごらんなさい」
警官はポーチに戻ると、ポケットから黒い針金のようなものを取り出した。そして、その先を少し曲げてドアの鍵穴に入れ、カチカチやって見て、また引き出しては曲げ方を変え、それを何度も繰り返している。
(オヤオヤ、これは
だが、一分もたたないうちに、カチッと音がして、錠がはずれ、ドアがひらいた。その時は急いでいるので、そのまま屋内に踏みこんだが、ずっとあとになって、この美少年の警官は、錠前破りについて、こんなふうに説明した。
「僕は探偵小説を愛読してますが、中から鍵のかかっているドアを、急いでひらく場合には、巡査が体当りでドアを破るのが
さて、二人はまっ暗なホールに踏みこんだが、シーンと静まり返って、人の
「もしもし、だれかいませんか」
「股野君、奥さん、姉やもいないのか」
二人が声をそろえてどなっても、何の反応もなかった。
「誰もいないのでしょうか」
「構いません、二階へ上がって見ましょう。ぐずぐずしている場合じゃありません」
(また今のまに、一分ほど経過したぞ。もういくらせき立てても大丈夫だ)
ふたりは階段を駈け上がって、書斎のドアの前に立った。
「さっきの窓はこの部屋ですよ。主人の書斎です」
克彦は云いながら、ドアの把手を廻した。
「だめだ。鍵がかかっている」
「ほかに入口は?」
「隣の寝室からもはいれます。あのドアです」
今度は警官が把手を廻して見た。やっぱり鍵がかかっている。
「オーイ、股野君、そこにいるのか。股野君、股野君……」
答えはない。
「仕方がない。また錠前破りですね」
「やって見ましょう」
警官は例の針金を取り出して、鍵穴をいじくっていたが、前よりも早く錠がはずれて、ドアがひらいた。
ふたりはすぐに室内に踏みこんで行ったが、まっ暗ではどうにもならぬ。克彦は心覚えの壁をさぐってスイッチをおした。
電燈がつくと、ふたりの目の前に、茶色のジャンパーを着た、長髪の男が倒れていた。
「アッ、股野君だ。このうちの主人です」
克彦が叫んで、そのそばにかけよった。
「さわってはいけません」
警官はそう注意しておいて、自分もじっと股野の顔を覗きこんでいたが、
「死んでいますね。頸にひどい傷がついている。
克彦が事務机の上を指さすと、警官は飛んで行って受話器を取った。
電話をかけ終ると、ふたりで二階と一階との全部の部屋を探し廻ったが、夫人も女中も不在であることがわかった。
「犯人は多分、われわれと入れちがいに、裏口から逃げたのでしょうが、もう追っかけても間に合いません。それよりも現状の保存が大切です」
警官はそう云って、再び二階へ引きかえした。書斎の隣の寝室は、両方のドアに鍵がかかっていたので、そこで手間どることをおそれて、あとまわしにしておいたのだった。警官はまた例の針金をポケットからとり出して、まず廊下のドアを開いた。そして、寝室にはいると、ベッドの下など覗いていたが、すぐに、書斎との境のドアに取りかかった。
克彦はそのすきに、さりげなく洋服ダンスの前に近づき、ポケットの鍵で、うしろ手に錠をおろし、その鍵は洋服ダンスと壁とのすきまへ投げこんでおいた。むこう向きになって錠前破りに夢中になっている警官は、少しもそれに気づかなかった。
やっと書斎との境のドアがひらいた。警官はホッとして、死体のある書斎へはいろうとしたが、そのとき、どこかでガタガタと音がした。
「オヤ、いま変な音がしましたね」
警官が克彦の顔を見た。克彦は洋服ダンスを見つめていた。またガタガタと音がして、洋服ダンスがかすかにゆれた。若い警官の顔がサッと緊張した。
彼はツカツカと洋服ダンスの前に近づいて、とびらに手をかけた。ひらかない。
「だれだッ、そこにいるのはだれだッ」
中からは答えがなくて、ガタガタいう音は一層はげしくなる。
警官は腰のピストルを抜き出して、右手に構えた。そして、こんどはもう針金を使わないで、左手で力まかせにとびらを引いた。観音びらきだから、鍵がかかっていても、ひどく引っぱれば、はずれてしまう。パッととびらがひらいた。そして、そこから大きな物体がゴロゴロと、ころがり出して来た。
「アッ、あけみさん」
克彦がほんとうにびっくりしたような声で叫んだ。
「だれです、この人は」
「股野君の奥さんですよ」
警官はピストルをサックに納め、そこにしゃがんで、あけみの猿轡をはずし、口の中のネクタイを引き出してやった。
そのあいだに、克彦はうしろ手にしばられた手首を調べて見た。うまくやったぞ。ベルトが手首の肉に喰い入って、自分でしばったという疑いの余地は全くなかった。これなら大丈夫だと、克彦はわざと足首のベルトを解く方にまわり、手首の方は警官にまかせた。
すっかりベルトを解くと、あけみのからだを二人で吊って、そこのベッドに寝かせた。
「水を、水を」
あけみが、哀れな声で
あけみが少しおちつくのを待って、若い警官は手帳を取り出し、一と通り彼女の陳述を書きとったが、あけみの演戯は申し分がなかった。
今日の夕方から女中を自宅に帰したので、彼女は、主人とふたりのおそい夕食のあとかたづけのために、台所にいた。主人の書斎で何か物音がした、叫び声がきこえたように思った。様子を見るために二階にあがって、書斎のドアをひらくと、中はまっ暗で、ただならぬ気配が感じられた。壁のスイッチを押そうとして、手をのばしたとき、いきなり、うしろから組みつかれ、口の中へ絹のきれのようなものを押しこまれ、物も云えなくなってしまった。
それから、そこへ押しころがされ、両手をうしろにまわして、しばられ、両足もしばられたが、そのあいだに、窓からの月あかりで犯人の姿が、おぼろげに見えた。黒っぽい背広を着ていたように思う。背が非常に高いとか、低いとか、ひどく痩せているとか、太っているとかいう印象はなかった。つまり、からだにはこれという特徴がなかった。顔は全く見えなかった。黒っぽい鳥打帽をかぶり、ヴェールのように黒い布を顔の前に垂らしていた。全く口をきかなかったので、声の特徴もわからない。
主人の股野が、うつぶせに倒れているのも、月あかりで見た。殺されているのか、気を失っているのかわからなかったが、覆面の男にやられたことはまちがいないと思った。金庫のとびらが開いているのも、チラと見た。だから強盗かと思ったが、どうも普通の強盗ではないような感じを受けた。
それから、犯人はしばり上げたあけみを抱いて、寝室の洋服ダンスの中に入れ、そとから鍵をかけた。そして、そのまま立ち去ったらしく思われる。犯人は全く無言で、敏捷に働いたので、最初猿轡をはめられてから、洋服ダンスにとじこめられるまで、三分とかかっていないであろう。
あけみは話の途中から、ベッドの上に起き上がって、思い出し、思い出し、大体そういう意味のことを話した。彼女はその役になり切っていた。話しぶりも真に迫っていた。彼女は大胆にも、主人の股野重郎には愛情を感じていないことをすら、言外ににおわせた。
美少年の警官は、この美しい夫人が、夫の無残な死にざまを見たら、どんなに
いつの間にか九時半をすぎていた。その頃から股野家は
あけみは、捜査一課長や警察署長の前で、同じことを
克彦自身もいろいろ質問を受けた。彼は今夜のことだけは別にして、すべて正直に答えた。あけみを愛していることを悟られても構わないという態度をとった。遠方からの殺人目撃者という、不動のアリバイが、それほど彼を大胆にしたのだが、それだけに、彼の話しぶりには少しの不自然もなかった。
鑑識課員は、股野の死因が、強力なる腕による扼殺であること、ドアの把手その他室内の
鑑識課員はまた、ストーヴで紙束が焼かれたらしいことも見のがさなかった。そして、あけみの証言によって、それが借用証書の束であることが判明して、現金十数万円が金庫の中から紛失していることも明らかとなった。それに関連して、股野の事務机のひき出しから、貸金の帳簿が
捜査官たちは、何も云わなかったけれども、捜査が股野の現在の債務者の方向に進められることは、容易に推察された。恐らく貸金帳簿に記入されている人々が、虱つぶしに調べられることであろう。
股野は両親も兄弟もなく、孤独な
あけみの両親は
翌日は日東映画の社長をはじめ股野の友人たちが多勢やって来て手伝ってくれたが、一ばん事情に通じているのは克彦だったから、中心になって立ち働かないわけにはいかなかった。そして、事件から三日目に、股野重郎の葬儀は無事に終った。
克彦もあけみも、この
それから一カ月余りが過ぎ去った。はじめのあいだは、あけみの家へも、克彦のアパートへも、警察の人が度々やって来て、うるさい受け答えをしなければならなかったが、それも当座のあいだで、この頃では忘れたように、事件関係の出入りがなくなってしまった。
克彦は十日ほど前から、アパートを引きはらって、あけみの家に同居していた。愛し合うふたりにとって、これはごく自然の成りゆきである。知人たちも、別にそれを怪しまなかった。克彦にしては、
彼の殺人は、考えて見れば、正当防衛と云えないこともなかった。相手に殺されそうになったから殺したのだ。したがって、計画殺人に比べて、精神上の苦痛は遙かに少なかった。そのせいか、ふたりとも、夜の悪夢に悩まされるようなことも、全くなかった。正当防衛を
彼らは幸福であった。前からの女中一人を使っての
(世の中って、なんて甘いもんだろう。おれの智恵が警察に勝ったんだ。そのほか誰一人疑うものもない。つまり世の中全体に勝ったんだ。これこそ「完全犯罪」ではないだろうか。今になって考えて見ると、おれは実にうまい智恵を絞ったもんだな。殺人者自身が、遠くから殺人の場面を目撃する。こんなトリックは探偵作家だって考え出せないだろう。いや、ないこともない。「皇帝の
もう大丈夫だと安心すると、思いあがりの気持が、だんだん強くなって来た。彼の心から、若しもという
そんな或る日、つまり事件から一カ月余りたった或る日、この事件を担当していた警視庁の花田警部が、久しぶりでヒョッコリ訪ねて来た。花田は
二階の書斎に
「やっぱりこの部屋をお使いですか。気味がわるくはありませんか」
花田警部が、ジロジロと部屋の中を見廻して、笑いながら云った。
「別にそうも感じませんね。僕は股野君のように、人をいじめませんから、この部屋にいたって、あんな目に会うこともないでしょうからね」
克彦も微笑していた。
「奥さんもよかったですね。北村さんのようなうしろ
「なくなった主人には悪いのですけれど、あたし、あの人と一緒にいるのが、なんとも云えないほど苦しかったのです。ご存知のような憎まれものでしたから」
「ハハハハハ、奥さんはほんとうのことをおっしゃる」警部はほがらかに笑って、「ところで、おふたりは結婚なさるのでしょうね。世間ではそう云っていますよ」
克彦はこんな会話が、どうも普通でないような気がしたので、話題を変えた。
「そういう話は、しばらくお預けにしましょう。それよりも、犯人はまだあがりませんか。あれからずいぶん日がたちましたが」
「それを云われると、今度は僕が恐縮する番ですよ。いやな言葉ですが、これはもう迷宮入りですね。あらゆる手段をつくしたのですが、結局、容疑者
「と云いますと」
「股野さんの帳簿にあった債務者を、全部調べ終ったからです。そして、一人も疑わしい人物がなかったからです。大部分は確実なアリバイがありました。アリバイのない人たちも、あらゆる角度から調べて、全部『白』ときまったのです」
「債務者以外にも、股野君には敵が多かったと思いますが……」
「それも出来るだけ調べました。あなたや奥さんからお聞きしたり、そのほかの映画界の人たちから聞いた股野さんの交友関係は、すっかり当って見ました。こちらも容疑者皆無です。こんなきれいな結果は、実に珍らしいのですよ。どこかに奥歯に物のはさまったような感じが残るのが普通です。今度の事件にはそれが全くありません。実にきれいなものです。不思議なくらいです」
克彦もあけみもだまっていた。
(さすがは警視庁だな。そんなにきれいに調べあげてしまったのか。こいつは少し用心しなくちゃいけないぞ。あれはおれのやり過ぎだったかな。証文なんか焼かないでおいた方がよかったのじゃないかな。証文を取られていたやつが犯人らしい。しかも、その中に犯人がいないとなると、警察はその奥を考えるだろう。確実に見えるアリバイをつぶすことしか、あとには手がないわけだ。そうすると、おれのアリバイも再検討ということにならぬとも限らないぞ。いや、そんなことは出来っこない。なにをビクビクしているんだ。おれは殺人現場から十メートル以上離れていたじゃないか。物理学上の不可能事だ。そしてそれにはパトロールという、確実無比の証人があるじゃないか)
「それでね、今日はもう一度、あなた方に考えていただきたいと思って、やって来たのです。前にお聞きしたほかに、うっかり忘れていたような、股野さんの知人、多少でも恨みをもっていそうな知人はないでしょうか。これは、
「さア、そういう心当りは、いっこうございませんわ。あたし股野と結婚してから三年にしかなりませんので、それ以前の事は、全くわからないと云ってもいいのですし……」
あけみはほんとうに、もう思い出す人がない様子であった。
「股野君は、誰にも本心をうちあけない、孤独な秘密好きの性格でしたから、僕だけではない、誰にも深いことはわかっていないと思います。別に日記をつけるではなし、
「そう、そこが僕らの方でも、悩みの種ですよ。こういう場合に、本心をうちあけた友人がないということは、捜査には何よりも困るのです」
花田警部はそこで事件の話をうち切って、雑談にはいった。彼の話は実に面白くて、克彦もあけみも、事件のことなどすっかり忘れて、興にのったほどである。警部も克彦も、ウィスキーのグラスを重ね、だんだん
花田警部は、その日、三時間以上もなが居をして帰って行ったが、それからというものは、三日に一度、五日に一度、訪ねてくるようになった。
真犯人と警視庁の名探偵とが、親しい友達としてつき合うというのは、克彦のような性格にとって、こよなき魅力であった。花田警部の来訪が
女中のきよを仲間に入れて、マージャンに興ずることもあった。トランプもやった。もう三月中旬をすぎていたので、暖かい日曜日などには、花田を誘って三人で外出した。そして夜は、
そういう場合に、元女優あけみの美しさと社交術はすばらしかった。酒がまわると、花田警部はあけみにふざけることもあった。ひょっとしたら、彼がこんなにしばしば遊びに来るのは、あけみに
克彦と花田のあいだに、探偵小説談がはずむこともあった。
「北村さんは、探偵映画のシナリオを幾つもお書きでしたね。一つ二つ見ていますよ。商売がら僕も探偵小説は好きな方です」
花田はなかなか読書家のようであった。
「犯人を隠す映画はどうもうまく行きませんね。僕の書いたのはその方なんだが、大体失敗でした。やっぱりスリラーがいい。それか倒叙探偵小説ですね。犯人が最初からわかっていて、しかもサスペンスとスリルのあるやつに限ります」
「どうです、股野の事件は映画になりませんか」
「そうですね」克彦は、考え考え答えた。あのときの演技と、仮想犯人の行動とが、こんぐらがりそうになった。いつでも、そこをハッキリ区別して考えていなければいけない。まあ、喋りすぎないことだ。「月に照らされた窓から、被害者が助けを求めるところなんか、絵になりますね。それから、この人が」と、そばのあけみを
「窓のところはいい場面になるでしょうね。あなたは自分でごらんになったんだから、余計印象が深いでしょう。月光殺人事件ですかね」
(あぶない、あぶない、窓のことを余り話していると、何か気づかれるかも知れないぞ。こんな話はしないに限る)
「花田さんも、なかなか詩人ですね。血なまぐさい犯罪捜査の中にも、時には詩があるでしょうね。物の哀れもあるでしょうね」
「物の哀れはふんだんですよ。僕はどうも犯人の気持に同情するたちでしてね。わるいくせです。捜査活動に詩人的感情は
そして、ふたりは声を合せて笑ったものである。
そんなふうにして、事件から二カ月近くもたった頃、ある日、また花田が訪ねて来て、克彦をギョッとさせるような話をした。
「私立探偵の
これは克彦にとって、全くの不意うちであった。わきの下から、冷たいものがタラタラと流れた。顔色も変ったかも知れない。
(しっかりしろ。こんなことで顔色を変えちゃ、折角の苦労が水の泡じゃないか。平気だ、平気だ。明智小五郎であろうと誰であろうと、あのトリックを見破れるやつがあるはずはない。証拠になるような手掛りは、これぽっちもないんだからな。だが、おれとしたことが、明智小五郎の名を、今まで一度も考えなかったなんて、どうしたことだろう。まるで
「今度の事件についても」花田は話しつづけていた。「明智さんの意見を聞いて見たのです。面白い事件だと云ってますよ。一度現場をごらんになったらどうですかと誘って見たのですが、見に行かなくても、君の話を詳しく聞けばいいと云われるので、その後も、時々明智さんを訪ねて、捜査の経過のほかに、ここのうちの間取りだとか、金庫やストーヴや洋服ダンスの位置だとか、そのほかこまごました道具のこと、戸じまりのこと、前の道路と門と建物の関係、裏口の模様、それから、あなた方のお話しの内容などを、詳細に話して聞かせているのです。そして、明智さんの意見も聞いているのですよ」
克彦は花田の顔をじっと見ていた。そこから何かを読み取ろうとした。花田は妙な顔をしていた。唇の隅に笑いが漂っていたけれども、それは皮肉な微笑とも取れた。全体にとりすました表情であった。
(ハハン、そうだったのか。マージャンをやったのも、トランプをやったのも、酒を飲んだのも、みんな明智小五郎の
だが、平気で応対するということが、人間である克彦には恐ろしく困難であった。それは神と闘うことであった。
「それで、明智さんは、どんなふうに考えておられるのですか」
彼はごく自然な――と自分では信じている――微笑を浮かべて、さりげなく訊ねた。
「この犯罪は手掛りが皆無のようだから、物質的証拠ではどうにもなるまいという意見です。心理的捜査のほかはないだろうという意見です」
「で、その相手は?」
「それはたくさんありますよ。一応白くなった連中が全部相手です。とても僕一人の力には及びません。ほかに二人の課のものが、これにかかりきっていますが、心理捜査なんて、全く慣れていませんからね。むずかしい仕事ですよ」
「警視庁も、次々と大犯罪が起っているので、忙しいでしょうしね」
「忙しいです。今の人員ではとてもさばききれません。しかし、迷宮入りの事件については、われわれは執念深いのです。全員を動かすことはできませんが、ごく一部のものが、
(そうかなあ。そうだとすれば、日本の警視庁も見上げたもんだな。これはうるさいことになって来たぞ。だが、そんなことは花田の誇張だ。新聞記事だけでも、迷宮入りの事件がたくさんあるじゃないか。警察なんかに、それほどの万能の力があってたまるものか)
「たいへんですね。しかし面白くもあるでしょうね。犯罪捜査はいわば人間狩りですからね。
克彦はふと挑戦して見たくなった。意地わるが云って見たくなった。
「ハハハハハ、あなたはやっぱり文学者だ。そこまで掘りさげられちゃ、かないませんよ。だが、
そこでまた、ふたりは声を合わせて笑った。
その夜、ベッドの中で、克彦はあけみに、この事件に明智小五郎が関係していることを話して聞かせた。あけみの顔色が変った。彼女は克彦の腕の中でふるえていた。ふたりだけになると、お互に弱気が出るのは止むをえないことだった。
彼らは午前三時ごろまでボソボソと話し合っていた。あけみはサメザメと泣き出しさえした。彼女の弱気を見ると、克彦も心細くなった。
「あけみ、ここが一ばんだいじなところだ。平気にならなければいけない。平気でさえいれば、何事も起らないのだ。ほかの誰でもない自分自身に負けるのだよ。それが一ばん危険だ。絶対に証拠が無いんだからね。お互に弱気にさえならなければ、しのぎ通せるんだ。幸福がつづくんだ。いいか、わかったね」
克彦は口の
それからまた数日後の夜、花田警部が訪ねて来たときには、克彦とあけみの心理に一転機を来たすような恐ろしいことが起った。彼らにとって、それからあとの十数日は、恐怖と闘争の連続であった。恐怖とはわが心への恐怖であり、闘争とはわが心との闘争であった。
その夜は、女中のきよを
「いけません。奥さま、花田さんがいけません」
女中のきよが花田に抱きつかれでもしている様子だった。
あけみは階段の中途から、興ざめ顔に引き返して来た。克彦は書斎のソファにグッタリとなっていた。顔は酔いのためまっ赤だった。あけみはその横に、倒れるように腰かけた。酔っていても、何かしら不安なものがおそいかかって来た。どこか廊下のすみの暗いところに、幽霊が立っているような気がした。股野の幽霊が。……こんな奇妙な感じは初めてのことであった。
そこへ、ドタドタと恐ろしい足音をたてて、酔っぱらいの花田が階段をあがって来た。そして、ふたりの前に現われた。きよがキャッキャッと言いながら、そのあとを追って来た。
「奥さん、手品を見せましょうか。いま下でこのボール紙の菓子箱の
花田はフラフラしながら、マージャン
「このボール紙から、いかなるものが出来上がりましょうや、お目とめられてご一覧……」
彼はボール紙を左手に鋏を右手にもって落語家の「紙切り」の
克彦の背中をゾーッと冷たいものが走った。酔いもさめて、急に頭がズキンズキンと痛み出した。あけみはほんとうに幽霊でも見たような顔をしていた。目が大きくなって、可愛らしい口がポカンとあいていた。
「ハイッ、まずこのような奇妙キテレツなる形に切りとりましてございます。さて、持ちだしましたる一つの手袋……」
彼はポケットから、交通巡査のはめるような軍手に似た手袋の片方をとりだし、それを今切りとったボール紙の五本の指にはめていった。
ある瞬間には、事件の夜、あけみがやったのと全く同じ形になった。もう見てはいられなかった。あけみは悲鳴をあげないのがやっとだった。西洋の女のように気を失うことはなかったが、でも、失神と紙
(まずいことをした。こんな男を、心やすく出入りさせたのが失敗のもとだ。これも平気を装う逆手だったが、それがやっぱりいけなかった。しかし、これは警視庁捜査課の智恵じゃないぞ。明智小五郎のさしがねにきまっている。明智の体臭が漂っている。恐ろしいやつだ。あいつはそこまで想像したんだな。だが、むろん単なる想像にすぎない。試しているんだ。この試錬にうち勝つかどうかで、おれたちの運命がきまるのだ。なにくそッ、負けるもんか。相手は花田じゃない。目に見えぬ明智のやつだ。さア、なんでもやって見ろ。おれは平気だぞ。証拠のないおどかしなんかに、へこたれるおれじゃないぞ。……だが、あけみは? ああ、あけみは女だ。事は女からバレるのだ……)
彼はとなりのあけみの腕をグッと握った。「しっかりしろ」と勇気づけるために、男の大きな手でグッと握ってやった。
「
花田は調子にのって、うきうきと口上を述べた。そして、横で笑いこけている女中のきよを手まねきして、かたわらに立たせ、
「持ちいだしましたるは、レーンコートのベルトにござります」
それは
あけみが克彦の方へ倒れかかって来た。びっくりして顔を見たが、気を失ったのではない。心の緊張のために、からだの力がぬけてしまったのであろう。克彦はその手先をグッと握って、彼女が平静でいてくれることを神に祈った。そして、彼自身は酔いにまぎらせて、目をつむっていた。見ていれば表情が変るにちがいない。ここで変な表情を見せてはならないのだ。
(ああ、いけない。あけみ、お前はどうして、そんなに目を見ひらいているのだ。心の中を見すかされてしまうじゃないか。いい子だから、こちらをお向き)
彼は花田にさとられぬように、肩を動かして、ソッとあけみの顔を自分の方に向けさせた。
「サテ、みなさま、これなるベルトで、やつがれの手首を
きよはクスクス笑いながら花田が揃えて前に突き出している手首を、ベルトでしばった。
「ごらんの通り、これなる美人が、やつがれの両手を力まかせにしばってくれました。これではどうにもなりません」
彼は手首を抜こうとして、大げさな仕草をして見せた。どうしても抜けないという身ぶりをして見せた。
「きよちゃん、それでは、僕の胸のポケットからハンカチを出して、僕の手首の上にかけておくれ」
きよが命ぜられた通り、縛った手首の上にハンカチをかぶせた。
「ハイ、この厳重な繩目が一瞬間にとけましたら、お
ハンカチの下で何かモゾモゾやっていたかと思うと、パッと両手を出して見せた。ベルトはきれいに抜けていた。
克彦は勇気をふるって、パチパチと手を叩いた。かすれた音しか出ないので、何度も叩いているうちに、よく響く音が出だした。彼は少しばかり自信を回復した。あけみにも手を叩けと合図をしたが、彼女は音のない拍手を二三度するのがやっとだった。
「ただいまお目にかけましたるは、藤田西湖
またハンカチの下でモゾモゾやり、パッと手をあげたときには、最初の通り、両の手首がベルトで厳重にしばられていた。克彦とあけみは、また心にもない拍手をした。こわばった顔で、手先だけをうち合わせた。
「ハハハハハ、どうです。見事なもんでしょう。さア、これで手品はおしまい。夜も更けたようですから、おいとましますが、お別れにもう一杯」
花田はテーブルの上のグラスに手ずからジョニー・ウォーカーをついで、それを顔の前にささげながら、ヨロヨロとソファの方へやって来る。同じソファにかけられたら、あけみがふるえているのを悟られる。相手が来ぬ先に、克彦はサッと立ち上がって、自分もテーブルのグラスをとり、ウィスキーをつぎながら、
「さア、乾杯、乾杯!」
と叫んで、花田の前に立ちはだかり、
「あ、そうそう明智さんがね。あの日はどうしてあんなに月がさえていたのだろう。偶然の一致だろうか、それとも、と小首をかしげていましたっけ。ハハハハハ、じゃ、これでお開きといたしましょう」
トンとグラスをテーブルにおいて、そのまま廊下の
ふたりは花田が帰ったあとで、ウィスキーを何杯もあおった。これ以上の心痛には耐えられなかったからだ。
酒の力を借りてグッスリ寝込んだ。しかし、長くはつづかなかった。真夜中にポッカリと目をさました。隣のあけみを見ると、青ざめた恐ろしい顔をして、目ばかり大きく見ひらいて、じっと天井を見つめていた。頬が痩せて病人のように見えた。克彦はいつもの勇気づけの言葉をかける気になれなかった。彼の方でも頭が一ぱいだった。
(明智という男は恐ろしいやつだ。恐ろしいやつだ)
そういう文句が、巨大な
心理的攻撃はそれで終ったわけではない。それからの数日というもの、恐ろしい毒矢が矢つぎばやに、これでもかこれでもかと、ふたりの身辺に
その翌日、あけみはうちにいたたまれなくて、
彼女は二階にあがると、書斎にいた克彦の前を無言で通りすぎて、寝室にはいってしまった。克彦はそれを追って、寝室に行き、ベッドに腰かけて両手で顔を覆っている彼女の肩に手をおいた。
「どうしたんだ。なにかあったのか」
「あたし、もう持ちこらえられないかも知れない。ズーッと
あけみの語調には、なにか捨てばちなものが感じられた。
克彦は寝室の窓のカーテンのすきまから、ソッと前の道路を見た。
「あいつかい? 黒いオーバーを着て、
「そうよ。花田さんの部下だわ。気がついたのは渋谷の駅なの。あたしと同じ電車に乗っていて、いっしょに降りたのよ。そして、姉さんのうちまでズーッと。あたし、あすこに三時間もいたでしょう。だからもう大丈夫だろうと思って、姉さんのうちを出ると、いつのまにか、あとからコツコツやってくるの。ウンザリしちゃったわ。こんなふうに毎日尾行されるんじゃ、やりきれないわ」
「神経戦術だよ。証拠は一つもありやしないんだ。こういういやがらせをして、僕たちが
「あなたはいつもそんなこと云うけれど、嘘を隠し通すって、ほんとに苦しいことね。もうたくさんだわ。あたし、多勢の前で、大きな声でわめいてやりたくなった。股野を殺したのは北村克彦です。その共犯者はあたしですって」
(やっぱり女だな。もうヒステリー症状じゃないか。こいつは、ひょっとすると、おれがいくらがんばっても、だめかも知れんぞ)
「ねえ、あけみ、君は女だから、ふっと弱気になることがあるんだ。思い直してくれ。若し僕らが参ってしまったら、ふたりの生涯は台なしなんだぜ。僕だけじゃない、君も共犯として裁判をうける。そして、恐ろしい牢屋に入れられるんだ。そればかりじゃない。たとい刑期が終っても、金は一文もないし、世間は相手にしてくれない。それを考えたら、どんな我慢でも出来るじゃないか。ね、しっかりしてくれ」
「そんなこと、あたしだって知ってるわ。でも、理窟じゃだめ。このいやあな、いやあな、地獄の底へ沈んで行くような気持は、どうにもならないんですもの」
「君はヒステリーだ。睡眠不足だよ。アドルムをのんで、グッスリ寝たまえ。少しでも苦しみを忘れることだよ。僕はウィスキーだ。あの懐かしいジョニー・ウォーカーだ」
しかし、それで終ったわけではない。来る日も来る日も、あけみがちょっとでも外出すると、必ずうしろから、コツコツとついて来た。うちにいれば、昼も夜も、門のそとに黒い外套の男が立っていた。
「奥さま、へんなやつが、勝手口のそとに、ウロウロしてますよ。いま買いものから帰ったら、そいつがあたしの顔を見てニヤッと笑いました。泥棒じゃないでしょうか」
きよが、息せききって報告した。ああ、そちらにもか。泥棒でないことはわかっていた。
「黒い外套に、鼠色のソフトをかぶった男?」
「いいえ、茶色のオーバーに鳥打帽です。人相のわるいやつです」
(すると、見張りがふたりになったんだな)
あけみはいそいで二階にあがって、カーテンのすきまから、表通りを見た。ここにもいる。どぶ川のふちの電柱にもたれて、横目で二階をジロジロ見ている。いつもの黒いオーバーのやつだ。
そして、その夜は、おもて裏の見張りが三人になった。克彦は書斎のアームチェアを窓際によせて、それにかけたまま、カーテンの隙間から覗いていた。暗くてハッキリは見えぬけれど、ひとりは電柱の蔭、ひとりは散歩でもしているていで、うしろ手を組んで、ノソリノソリと、向うの町角まで歩いては、また戻り、また戻りしていた。
(
工場の煙突の上に巨大なまっ赤な月が出ていた。しかしあの夜の満月とちがって、今夜は片割れ月だ。まがまがしい片割れ月だ。
(このお化けみたいな赤い月が、おれに人を殺させたんだ。あの夜の月はたしかに凶兆だった。だが、今夜の月は……)何の凶兆なのであろう。「キクッ、キクッ」という、いやな声が、寝室の中から聞えて来た。ああまた泣いている。あけみが小娘のように泣いているのだ。克彦は両手で頭を抱えて、ソファの中で、からだを二つに折った。キリキリと
(まだ負けないぞ。いくらでも攻めて来い。おれは、あくまで、へこたれないぞ)
それから睡眠薬の力で泥のような眠りについたが、朝、目がさめると、また気力が回復していた。
「オイ、今日はふたりで散歩に出よう。いい天気だ。動物園へ行ってみようか。そして
女中のきよが、びっくりして見送った。ふたりは
わざと自動車を避けて、電車に乗ったが、不思議なことに、今日だけは尾行がつかなかった。動物園にはいったとき、この辺に待ち伏せしているのではないかと、
ふたりにとって、こんなのびのびした楽しい日は、珍らしいことであった。日のくれごろ、上機嫌で家に帰った。家の前にも、いつもの人影はなかった。
(いよいよ尾行や見張りのいやがらせも、これでおしまいかな。ずいぶん烈しい攻撃だったが、おれもよく踏みこたえたものだて)
克彦はうきうきした足どりで玄関をはいった。あけみも初春の
「あの、さっき、花田さんがいらっしゃいました。そして、お書斎の机の上に手紙を書いておいたから、読んでいただくようにって、お帰りになりました」
いつものきよの語調とは、どこかちがっていた。なんだか、いやにオドオドしている。
花田と聞くとウンザリした。(まだ幽霊がつきまとっているのか。だが、今日のはお別れの手紙かも知れないぞ。そうであってくれればいいが)彼は二階へ急いで、その手紙を探した。事務机のまんなかに、克彦の
たちまち、今日一日の楽しさが消し飛んでしまった。
(明智がやってくる。あの恐ろしい明智がやってくる)
いつのまに上がって来たのか、あけみがうしろから覗いていた。彼女も唇の色をなくしていた。目が飛び出すほどの大きさになって、喰い入るように用箋を見つめていた。
お留守でしたので書き残します。明智小五郎氏が、是非 一度おふたりにお会いして、お話が伺 いたいと申されますので、明日午前十時ごろ、僕が明智さんをお連れします。どうかおふたりとも、ご在宅下さい。
ふたりとも何も云わなかった。物を云うのが恐ろしかった。いよいよこれで解放されたかと思っていたのが、逆に最悪の状態になったのだ。花田
北村克彦様
ふたりは無言のまま、食堂におりて、テーブルについたが、お
「どうかしたのかい? 加減でもわるいの?」
「いいえ」
口の中でかすかに答える。そして、叱られた小犬のような目で、こちらを盗み見る。
すべてが不愉快であった。食事もそこそこに、ふたりは二階に上がった。克彦は飾り棚のジョニー・ウォーカーを取り出して、グラスに二杯、グイグイとあおった。寝室にはいって、着更えをすると、あけみはベッドに横たわり、克彦はベッドのはじに腰かけた。今夜はふたりで充分話し合わなければならない。
「あなた、どうしましょう。もうおしまいだわ。あたし、もう
「おれもウンザリした。だが、まだ負けられない。こうなれば、どこまでも根くらべだ。相手には確証というものが一つもないのだからね。われわれが白状さえしなければ、決して負けることはないんだ」
「だって、花田さんでさえあれでしょう。手袋とベルトの手品を見せつけられたとき、あたし、もうだめだと思った。相手はすっかり知り抜いているんだもの。股野が死んだあとで、あたしが替玉になって、窓から助けてくれと云ったことも、軍手のトリックも、そうして、あなたのアリバイを作ったことも、それから、あたしが自分で自分を縛って、洋服ダンスにとじこめられたように見せかけたことも、何から何まで、すっかりバレてしまっているじゃありませんか。この上、明智さんが乗り込んで来たら、ひとたまりもないわ」
「ばかだな。知っているといっても、それは想像にすぎないんだ。なるほど明智の想像力は怖いほどだが、あくまで想像にすぎない。だからこそ、あんな手品なんかで、僕らに神経戦を仕掛けているんだ。ここでへこたれたら、先方の思う壺じゃないか。おれは明智と会うよ。会って堂々と智恵比べをやって見るんだ。蔭にいるから、変に恐ろしく感じるけれど、面と向かったら、あいつだって人間だ。おれは決して尻尾をつかまれるような、へまはしない」
少し話がとだえたとき、あけみが突然妙な目つきになった。
「あなた、怖くない? あたし、その辺に何だかいるような気がする。いつかの晩も、廊下のくらがりに、幽霊が隠れているような気がした。それとおんなじ気持よ」
「また変なことを云い出した。君のヒステリーだよ」
しかし、克彦は、いきなり立って、書斎からウィスキー瓶とグラスを持って来た。そして、またグイグイとあおった。
「あなた、どうしてあの晩、股野ととっ組みあいなんかしたの? どうして頸なんかしめたの? どうして殺してしまったの。あなたが殺しさえしなければ、こんなことにはならなかったんだわ」
「ばかッ、何を云うのだ。あいつが死んだからこそ、君は金持ちになったんじゃないか。おれとこうしていられるんじゃないか。それに、おれは別に計画して股野を殺したわけじゃない。あいつの方で、おれの頸をしめて来たから、おれもあいつの頸をしめたばかりだ。
そしてまた、彼はウィスキーをグイグイとやった。口では強いことを云っていても、酒にたよらなければ、どうにもならないのだ。
「あなた、ね、今、へんな音がしたでしょう。何かいるんだわ。あたし、怖い」
あけみは、いきなり、克彦の
そのとき、廊下の方のドアがスーッとひらいて、ひとりの男がはいって来た。
克彦とあけみは互にひしと抱き合って、彼らの方こそ幽霊ででもあるような、恐ろしい
「ア、花田さん……」
すると、男はゆっくりとベッドに近づきながら、
「僕ですよ。花田ですよ。あなた方はお気の毒ですねえ。今ドアのそとで、あなた方のお話を聞きましたが、こういう苦しみをつづけていては、死んでしまいますよ。それよりも、気持を変えて、楽になられたらどうでしょうね」
(じゃあ、こいつは立ち聞きをしていたんだな。すっかり聞かれてしまった。だが、だが、どこに証拠があるんだ。そんなこと喋べらなかったと云えば、おしまいじゃないか)
「君は何の権利があって、人のうちへ無断ではいって来たんだ。出て行きたまえ。すぐに出て行ってもらおう」
「ひどいことを云いますねえ。僕は君のマージャン友達、トランプ友達、そして、呑み仲間じゃありませんか。だまってはいって来たって、そんなに
花田はニコニコ笑っていた。
「楽になるとは、どういう意味だ」
「つまり、告白をしてしまうんですよ。あなた
花田はいやに丁寧な云い方をした。
「ばかな、そんなことは君たちの空想にすぎない。僕は白状なんかしないよ」
「ハハハ、なにを云ってるんです。たった今、君とあけみさんとで、白状したばかりじゃありませんか。あれだけ喋べったら、もう取り返しがつきませんよ」
「証拠は? 君が立ち聞きしたというのかい。そんなこと証拠にならないよ。君は
「否定はできそうもありませんねえ」
「なんだって?」
「ちょっと、そこをごらんなさい。ベッドの枕の方の壁ですよ。電燈がとりつけてある
克彦もあけみも、花田のおちつきはらった語調に、ゾーッとふるえ上がって、そこへ目をやった。電燈の光にさえぎられて、腕金の根もとなど、少しも気がつかなかったが、見ると、そこに妙なものが出っぱっていた。小さな丸い金属製のものだ。
「あなた方のお留守中にね、女中さんを納得させて、この壁に小さな穴をあけたのです。そして、そこからお隣の
克彦はここまで聞いたとき、もうすっかり諦めていた。花田の背後にいる明智の恐ろしさが、つくづくわかった。
(おれの負けだ。こうまで準備が出来ていようとは、夢にも知らなかった。明日の十時に明智が訪問するという置き手紙も、おれたちを不安の絶頂に追いやって、さっきのような会話をさせる手段にすぎなかったのだ。彼らはおれたちがそろって外出する時を、待ちかまえていた。そして、今日の機会をとらえて、きよを説き伏せ、味方にして、マイクロフォンの細工をやったのだ。きよがオドオドしていたわけがわかった。おれはきよの態度を見て、なぜ疑わなかったのだろう。なぜ警戒しなかったのだろう。だが、ここまで来ると、もう人間の力には及ばない、おれがぼんくらなのじゃない。嘘を最後までおし通すことなど、人間には不可能なのだ)
「証人は警察のものばかりじゃありません。隣の松平さんのご主人が立ちあっています。それから、女中のきよも、今は、その離れ座敷にいるのです。そして、今夜の会話を記録したテープは、その場で、みんなの立ちあいのもとに、封印をするのです。……おわかりになりましたか。これであなたがたは、すっかり楽になったのですよ。もう今までのような苦しみや、いさかいをつづけるには及ばないのですよ」
語り終った花田警部は、いつになく
「花田さん、僕の負けです。皆さんに余計なご苦労をかけたことをお
それを聞くと、花田はちょっと困ったような顔をして考えていたが、すぐに
「それは多分、君のまちがいですよ。なるほど僕は、いろいろな手段によって、君に心理的な攻撃を加えました。それは止むを得なかったのです。君のトリックが余りに巧妙であって、物的証拠が一つも挙がらなかった。しかし、そのまま手を引いてしまったのでは、罪あるものを罰し得ないことになります。そこで心理的な手段を用いるほかはなかったのです。しかし、この心理攻撃はいわゆる拷問とは全く性質がちがいます。拷問というのは、その
克彦は深く首を垂れたまま答えなかった。