妻のこと

江戸川乱歩




 この本を編集して、目次を並べてみたとき、祖先のことは書いてあるのに、直接の父母のことがないのはおかしいと思ったので、あとから「父母のこと」を書き加えたが、すると今度は、父母のことがあって、もっと直接な妻のことが何も書いてないのはおかしいという感じがした。息子や孫は、これから先が長いのだから、しいて書くにも及ばないが、私と同伴している妻のことに触れないのは、やっぱりおかしいのである。そこで、ごく簡単に書き加えることにした。
 妻は村山隆子りゅうこといって、今は三重県鳥羽市に編入された坂手という島の米穀、酒、雑貨商(田舎によくある「よろず屋」である)の娘であった。当時は坂手村といい、漁師ばかりの島で、隆子の父は雑貨商は人まかせで、村に一つの小学校の先生をしていたという。この父は早く歿して、私は会っていないが、そういう田舎にしては好学の人であったようだ。
 母がしっかりもので、父の歿後、隆子の兄の年少の間は、一人で店を切りまわしていた。村山家は代々万右衛門を名乗り、そういう商売をしている家は、ほかに一軒しかなかったので、まず村での資産家であった。今は隆子の兄も半ば隠退して、その長男が店をやっている。
 隆子は高等小学校は対岸の鳥羽町へ舟で通い、それから、坂手からは遠くにある亀山町の三重県立女子師範に入学し、下宿したり寄宿舎に入ったりして、そこを卒業し、卒業と同時に、自宅のある坂手村の小学校に奉職した。
 私は大正六年の十一月ごろから、大正八年の正月まで、神戸鈴木商店の経営していた鳥羽の造船所に勤めたが、その大正七年のことだと思う。私は若い同僚たちと「鳥羽お伽会」というものを作り、鳥羽町の劇場や、付近の小学校などでお伽話の会をひらき、同僚たちといっしょに、演壇でお話をして喜んでいたものだが、あるとき、近くの坂手村小学校でも、この会を開くことになり、その交渉に出かけたとき、教員室ではじめて隆子に会ったのである。そして、お互に認めあったらしいのである。そのころの隆子は田舎にしてはととのった理知的な顔をしていたし、笑顔もよかった。進歩的な考えも持っているようにも見えた。それから文通がはじまり、まあラブレターのやり取りをしたものである。
 しかし、私は恋愛と結婚とを別物に考えていた。まことに申し訳ないわけだが、私の性根は別項、「恋愛不能者」に告白しているとおりで、結婚を予想する恋愛ではなかった。それ故、手紙は書いても、ほとんど会わなかったし、接吻はもちろん、握手一つしたこともないのである。
 ところが、私は鳥羽に一年余りいるうちに、料理屋などに片っぱしから借金を作り、とうとう居たたまらなくなって、夜逃げをしてしまった(作家になってから、その借金は返済した)。そして、東京へ出て、何のあてどもなく放浪しているうちに、私の母方の祖母が死に、そのヘソクリの二千円余りを私の弟と、私の甥が折半して分けてもらったので、私は兄弟三人で、千円のもとでで、東京の団子坂通りに古本屋の店をひらくことにして、やっと窮況を脱した。
 しかし、いくら物価のやすい時分でも(大学出の月給が四、五十円)千円で商売ができるものではない。その上に、鳥羽でのグレン隊仲間であった旧友が、二人も会社を首になって上京し、私たちの店へ同居することになり、その友達と商売そっちのけで浅草歌劇の後援会などをやったものだから店の本は売り喰いで、補充がつかず、棚にはだんだん隙間ができてくる。仕方がないので、隙間には本の外箱だけを並べてごまかすという惨状であった。
 そこで、商売は弟二人にまかせて、私は東京パックの編集を引き受けたり、レコード・コンサートで儲けたり、ついには、深夜チャルメラを吹いて車を挽き廻る支那ソバ屋までやったものである。
 そのさなかに、鳥羽造船所の旧友から手紙が来た。村山隆子が病気をして死にかけているというのである。狭い村のことだから、私としきりに文通していたことは、村中に知れわたっていた。隆子は私のラブレターによって、結婚におちつくものと信じていた。その相手の私が夜逃げをして、音信をたってしまったのだから、彼女にしては村に顔むけができない。つい気病みが昂じて入院まですることになったのである。
 むろん私は隆子から逃げたのでなく、借金から逃げたのだし、その借金のために音信もたったのだが、ラブレターが気まぐれであったことは、常識上は弁解の余地がない。たとえ手さえ握ったことのない仲であっても、ラブレターはしばしば書いているのだから、無責任にはちがいない。
 その隆子が瀕死の病気ときいて、私は独身主義をなげうつ決心をした。そして、求婚の手紙を出した。独身主義者がラブレターを書いてはいけないということもないと思うが、常識としては、やはりいけなかったのである。私の独身主義は結局そのころのデカダン思想から来たものだが、中学時代の先生が(この人は多分恐妻家だったのだろう)何かの講義の中で「男子なすあらんとするものは、妻などめとらず、生涯その仕事を妻とすべきである」と説いたのが、耳の底にこびりついていた。私はデカダンながらも、一方では、何かをなそうという気持も持っていた。又、一方では、いつ自殺したくなるかもわからないという心配もあった。足手まといの妻子はほしくなかった。それともう一つは、私は多くの家庭の夫婦喧嘩を見ていた。夫婦というものは実に嫌悪すべき状態だと思いこんでいた。手近かなところで、それも独身主義の理由の一つになった。
 そういう信念みたいなものを持っていることを隆子は知らなかった。というよりも、私が固い独身主義を前提としたラブレターを書かなかったのがいけなかったのである。隆子は恋愛遊戯などできない生真面目な娘であった。それも時々二人が会って、話をしていれば、私の気持がわかったのであろうが、会って話をしたことは、ほとんどなく、ラブレターだけのつき合いであった。
 しかし、私はいつわりのラブレターを書いたわけではない。愛していたことは間違いない。だから、私のために病気をしているときいて、すまないと思ったし、身に余る光栄とさえ感じた。そして、私達は結婚したのである。
 隆子が旅ができるようになって、兄につれられて上京し、団子坂の店へきたのは、折あしく支那ソバ屋をやっている最中であった。着物といえばボロのカーキ服ただ一着、ほかの着物や服は皆質入れし、蒲団まで質屋へ持って行って、借り蒲団をしている状態だった。だから、隆子の持って来た衣類なども、次々と質入れするという始末で、生真面目な彼女は全く驚愕してしまった。それでも里へ帰りはしなかった。なにかしら私の進歩的に見える思想に魅されていたからであろう。これぎりの男でないと信じていたからであろう。
 しかし、結婚式は画家の伯父の家で、正式にやった。私は借り着の紋付で、挨拶とも演説ともつかぬことを喋ったものである。支那ソバ屋をやっても、単なるおちぶれとは考えず、何かしら昂然たるものを持っていたにはちがいないのである。
 しかし、妻をめとって支那ソバ屋もつづけられないし、前に世話をしてもらった就職先をしくじっているので、敷居が高くてごぶさたになっていた同郷の政治家、川崎克先生のところへ、つらをおしぬぐって、再度の就職を頼みに行ったものである。すると川崎先生は別に叱りもせず、東京市社会局へ入れて下さった。だが、私という男は、またしても、その社会局を、半年でしくじってしまったのである。悪事を働いたわけではない。ただ毎朝起きて、きちんきちんと勤めに出る根気がなかったのである。毎朝同じ時間に起きて同じ出勤をくりかえすことが、私という男には耐えられなかったのである。それからあとの職業転々も、理由はすべて、このなんでもないことにあった。小説家になって、やっと朝起きなくてもよくなり、毎日きまりきった勤めをしなくてすむことになったので、やっと助かったのである。
 簡単にといいながら、つい長くなってしまった。だが職業転々の一々に及んでいては際限がないので、これにとどめるが、隆子はその転々に伴うあらゆる苦労をなめたのである。質屋通いはもちろんのこと、あすの米がなくても、友達を何人も居候に置いて威張っているような時期もあったし、又、あるときは、わずかの期間ではあったが、妻と、まだ赤ん坊の子供だけを大阪の父の家にあずけ、私は東京に帰って下宿生活をしているというような、つらい思いもさせた。又、小説家になってからも、自分の能力にあいそをつかし、できるならば廃業したいと、妻に下宿屋をやらせ、私は地方を放浪して廻っているようなこともあった。小さい下宿屋から、大きな下宿屋に移り、妻が下宿の主婦をつとめて、痩せ細っていた時期が四年以上もつづいたのである。
 妻は明治三十年生れ、二十七年生れの私とは三つちがいである。結婚したのは大正八年だから、私は数え年二十七歳、妻は二十四歳のときであった。私達の一人息子が生れたのは大正十年。だから、今は数え年三十七歳となり、今年小学校へ入る男児と、この四月で誕生の女児との親である。五中、一高、東大の順コースを経て、現在は私の家のすぐ前の立教大学の助教授をやっている。かつて苦労を重ねた私の妻も、今はまず安楽な身の上といってもよいのである。





底本:「日本の名随筆 別巻18 質屋」作品社
   1992(平成4)年8月25日第1刷発行
親本の底本:「江戸川乱歩全集 第二二巻」講談社
   1979(昭和54)年11月20日
初出:「わが夢と真実」東京創元社
   1957(昭和32)年8月25日初版発行
入力:浦山敦子
校正:noriko saito
2023年9月19日作成
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