女性史研究の立場から

高群逸枝




学問の自由1


 日本歴史の新しい検討ということがもとめられている。女性史の一研究者として、私はこの際若干の感想をのべてみたい。わが国の歴史研究が狭く浅く、政治史にかたよっている点は、すでに多くの人からいわれてきたとおりであるが、敗戦を機会にそれらのことはむろん反省せられねばならない。
 根本の問題は学問の自由、真理の探求であるが、学者がつねに政治的制圧をうけることはまぬがれえない。
 私の経験からいえば、女性史なども、なにか社会や男性に反抗する危険思想ででもあるかのように思われがちで、ずいぶん不愉快な圧迫や俗見とも戦わねばならなかった。
 私は、昭和十三年に、足かけ八年の労作になる女性史第一巻を「母系制の研究」として世に出した。この題目など、とくに、現行家族制の父系思想からみて、好ましくない印象をもたれたことも、うなずけないことではない。私は江戸時代の儒者たちが、天照大神の男性説を唱えねばならなかった心持がいまだに残って学問研究を妨げているのを残念に思う。
 上梓に際し、出版書肆からは、わざわざ当局の注意事項が伝達された。それはかなり非常識なものであった。
 学問の自由について、なお一つ付け加えたいことは、歴史家自身についてである。わが国の歴史家には、独立心がとぼしく、研究の方法のごときも、とかく外来の史学や方法論をそのまま尺度としようとし、みずからそれを生み出そうとはしない場合が多いといわれる。したがって演繹的、説明的な態度が多くとられ、帰納的、実証的な方法は一般に欠けているという。このことは自省されねばならないと思う。

史観の革新2


 女性史は、まったく新しい分野を開拓するものであって、この研究が進められて行けば、当然従来の史観の誤謬を訂正する部分も多いはずである。
 私もこの研究に専念するようになって、まだ十五、六年ぐらいにしかならないけれども、それについて気づいている事例はすくなくない。私は第一巻「母系制の研究」を出してから、第二巻「招婿婚の研究」に没頭し、まだ成稿の運びにいたっていないが、この招婿婚の問題にしても、考えさせられることが多い。
 招婿婚の語は、一般に学術語化しているから、私も便宜上用いるわけであるが、語義からいえば、matrilocal marriage(母所婚)か、わが古語の妻問(ツマドヒ)とするのが正しいであろう。もっともわが国では、同様式のものを時代によって「妻問」と「婿取」(ムコトリ)とに呼び分けている。すなわち妻問(またはヨバヒ)の語は、「記紀」「風土記」「万葉」「伊勢」等にまで見え、それ以後の「源氏」「栄華」等から、終焉期の「徒然草」等にかけては「婿取」とかわっている。
 これには理由があるのであって、前者は原則として夫婦別居の時代で、文字通り夫が妻を問う―モルガンの対偶婚に似た―婚姻の時代である。後者は妻家を起点としての一夫一婦的同居の原則が樹立された時代であるが、これを社会経済史的にみるならば、前者は原則的にいって氏族共有を反映しており、後者は荘園私有に基礎している。
 つまり招婿婚は、国初以前から室町におよぶ長期間継続した著名な現象であるが、その内面に母系族制から父系のそれへの完全移行を、きわめて秩序正しく具体的に裏づけているのである。
 くわしいことは、拙著にゆずるほかないが、とまれこうした事実があきらかになれば、家族制も爾余の制度とおなじく発展的なものであり、俗間に、「わが固有の家族制度」などと現行家族制に固定性、永遠性を付与していることの虚妄も消散するであろう。
 まして、従来のわが歴史家たちが、招婿婚を特殊の小現象と片づけたり、好ましくない習俗と見なして、故意に不問に付すようなことをあえてしていた非学問的な態度も是正されるであろう。
 見て見ぬふりをしたり、ことさらに軽視したりすることをやめて、なにごとも謙虚に、学問の対象としてとりあげ、さらにそれを人類史的関係にまで引きあげ、普遍化することにこそ、学者の本領はあるべきであろう。
 アメリカの社会学者モルガンが、微々たるハワイの一習俗に、人類の始原社会を想定し、革新的史観を樹立したことなど学ぶべきであろうと思う。

わが女性史3


 わが国の女性史には、以上に述べたような族制と関連して、一つの大なる特徴があるのではないかと私はおもう。
 スペンサーによれば、女性史の概念は、圧迫からの解放史として理解されており、これはだいたい父系に開幕するヨーロッパ諸国の歴史においては、そのとおりであるとされるが、わが国では、有史以後長期間女性の地位は高いものがあり、中世において低く、現代においてふたたび解放されつつあるという三つの段階がみられる。
 これは、モルガン等の母系説の示唆によって社会学者らの主張する史前社会における女性の高地位説に照応するものであり、つまりそれらの史前社会が、わが国では有史以後長期間にわたって遺存していたことを物語るものである。
 すなわち、前に述べたように、母系族制がその懐中で漸次父系のそれを発展確立せしめながらも、なお組織的に根幹をなしていたことの中に、わが上代女性の高地位の理由は求められるであろう。
 この点で、スペンサーの学説は我には当たらない。しかるに、スペンサーの学説をそのままわが国にあてはめて、漫然わが古代女性の低地位説を唱え、男尊女卑思想を正当化する滑稽をあえてしているものが多い。
 もっとも、これらのひとびとも、わが古典にあらわれた女性の地位の高さを、全然無視することはできないが、天照大神を男性化すると同じ考え方で、「景行紀」や中国の「魏志」などに見えるわが女性酋長のことなどでも、局部的な変態として片づけるといった具合いであって、まったく学者的な良心を喪っているのである。
 中国史中に、日本の官名を「たま」というと見えているところの国魂時代に、女性国魂が存在していただろうことは、「伊勢風土記」の神武事跡中に見え、崇神以後大化にいたる国造時代には、女性国造があったことも、「古事記」や「播磨風土記」等に徴せられる。
 これらの俗は永く地方に伝統し、鎌倉時代の地頭制に、女性地頭が、「吾妻鏡」などに多く見えているのも、その遺存の一例であろうとおもう。
 また、女性の高地位と恋愛の自由とは伴うものである。中国の「閨」や、ギリシャの「女部屋」のように、女性圧迫は貞操の監禁からはじまるのであるが、「記紀」はもちろん「万葉」や平安文学などにみても、恋愛の自由の一般的なものであることを否定はできまい。
 夫婦観も平等であり、たがいに相手を「つま」(はし)―すなわち半身とよびあい、一体観に立っている。したがってその貞操も相互的で、紐を結び合うことであらわしており、一方的強要はない。中世以後の夫婦観の主従的であること、貞操の一方的強要、恋愛の不自由―すなわち、女性の低地位とあきらかに区別ができる。
 江戸時代の儒者たちは、上代の男女関係を目して、口をきわめて淫乱、醜悪とののしっているが、江戸文化そのものはどうかといえば、すべてが売色的であり、いわゆる公娼制がさかり、巷には醜業婦があふれている状態である。ここには色情はあるが、恋愛はない。戯作文学と「万葉」とを一瞥しただけでもすぐわかることであって、いずれが醜悪であるかはもはや論外であろう。
 女性の高地位はまたその文化面においても立証せられる。私たちは平安時代に、日本文学の双璧たる「枕」「源氏」をもっている。また仮名国史「栄華」をもっている。これらの高い著作は、はたして彼女ら個人の特異的才能にのみ帰せらるべきものであろうか。
 すでに、最古の古典たる「古事記」が、稗田阿礼なる女性の誦習にもとづくらしいことをも、私たちは知っている。彼女はおそらく一国文化の建設ないし保存を担当した女性語り部の一人であったと思う。
 かかる伝統があってこそ、のちに仮名文字の造出を契機として、一時に百花繚乱たる姿を現じたのである。
 しかし、世のいわゆる国文学解説者は、この一連の伝統を知らざるかのごとく、訓詁註釈にのみ熱心なること比々然りである。
 とくに、もう一つ女性的観点から付け加えていいたいことは、この女性文学の本質が母心母愛に根拠し、事物を愛情の目で見る偉大な「物のあはれ」的世界観を確立していることである。たとえば、人事の推移にたいする温かな達観、自然や子供や小鳥等にたいする独特の見方等、それはたくさんあげられると思う。
 昔から婦人の間には「見直し聞直し」といって、悪いとされることをも善く見直し、醜聞として伝わってくることをも聞き直すようにする―というように、すべてに愛の母心が強調されている。「物のあはれ」的世界観にしても、ひっきょうここから生まれたのであり、この観点に立って、あらためて再検討するならば、この問題は、過去の、また同時に将来の「女性文化のありかた」というような示唆をすら含まないだろうか。

研究の意義4


 私はこの稿の最初に、母系制の研究がわが国に歓迎されない理由として、現行家族制との抵触をあげたが、女性の生活はこの制度から大いなる制約を現在受けており、この制度の支持者は、女性の隷属的地位を固定化、合理化するために、その家父長制をもって、原初からの固有のものであるときめてしまっている。「母系制の研究」もつまりこれを批判するものを内蔵するがゆえに忌避せられるのであるが、かれらが原初に家父制度を仮定している根拠には二つある。一はわが古代における父系系譜の存在、他は一夫多妻現象である。
 しかし、古代の父系系譜は、いわば酋長相続の便宜から起こっているもので(これは詳説を要するが)、モルガンにおけるイロクォイ族の世襲酋長に接続する形態であり、したがってわが古代族長の権限は、ほとんどイロクォイの場合に似たものである。
 また、わが一夫多妻の現象は、ローマ、中国等のように、一夫のもとに多妻およびその所生族が同居従属しているものではなく、一人の男子が各家の女性を妻問し、その妻や所生は各家に分散して所属しているもので、夫および父には依存しない。したがって父系はあり得ても、家父長の実体はあり得ない。
 また、中国などの家父長制をみれば、その親族組織は親等的で、その内部に幾つかの夫婦と子の小家族を擁しているが、わが古代にあっては、祖子(オヤコ)、妹背(イモセ)、兄弟(エオト)等の類別的親族組織で、その内部に包含しているのは、親母(イロハ)、親兄(イロセ)、親姉(イロネ)、親弟(イロト)、親妹(イロモ)等の母子の小家族であって、この小家族が父を欠いていることは、親父(イロチ)という語がまったく古語中に見当たらないことでわかるのである。
 つぎに、もう一つ例を加えよう。中国やローマの家父長制では、家族的祭祀を執行するものは男性であって、女性は与らないのである。しかるに、わが国では、氏の祭祀にも、氏の連合たる国の祭祀にも、すべて宗家の女性がこれに当たった。これは、伊勢や賀茂に歴代の皇女が斎宮であったのを見てもわかると思う。氏では、尾張氏の熱田社の祭司宮簀姫、物部氏の石上社の祭司伊香色謎なども数えられよう。くだっては「権記」長保二年の条に、藤原道長がその女彰子の立后宣旨を請う理由として、藤原氏の氏祭は氏后によって行なわれるのであるが、現在の氏后定子皇后は出家により司祭ができないから、道長が氏の長者として代わって司っているが、それは神旨にそむくことであろう。そこで女御彰子に后位の宣旨を請うて司祭を掌らしめたいといっているのがみえる。
 この俗は、室町時代におよぶも遺存しており、近衛政家の「後法興院記」によれば、同家の霊祠には、代々の嫡女が「御霊所」または「奥御所」とよばれて奉仕している。民家でも同じであって、お袋という言葉があるが、これは母または本家の刀自をさすが、語義は祭司を意味する。
 戦国時代頃から、民衆が自己防衛のために宮座―つまり、従来からあった村落共同体の氏子組織を強化したが、この頃になると、さすがに時代色を反映して、男性祭祀が前面に出てきたが、仔細にみると、なおどこかに遺存していることも多い。
 こうしたわが女性祭祀の圧倒的な現象は、決していうところの家父長社会のものではあり得ないと思われる。
 以上の二三の例からいっても、女性史研究の意義はひろくみとめられてよいものであり、ねがわくは同学者の輩出参加によって、新史学建設に寄与したいと思う。
〈一九四六年〉





底本:「日本の名随筆 別巻99 歴史」作品社
   1999(平成11)年5月25日第1刷発行
底本の親本:「高群逸枝全集 第七巻 評論集 恋愛創生」理論社
   1967(昭和42)年2月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2015年1月1日作成
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