ギリシャおよびローマ医学の概観

OUTLINES OF GREEK AND ROMAN MEDICINE

ジェイムズ・サンヅ・エリオット James Sands Elliott

水上茂樹訳




序文


 最近ヨーロッパの南西部に逗留したことが、この「ギリシャおよびローマ医学の概観」を書くことの刺激になった。本の名前はこの本の限界をあるていど示している。私の希望は現在の文明が最も深く恩恵を受けている2つの国における医療の進歩の最も重要な段階の単なる全般的な概観を与えることにあるからである。ヨーロッパ大陸の著者たちによって多数の医学史の大著が書かれていてバス、シュプレンゲル、プッシュマンのようなドイツの著者たちの著書はその例であるが、その主題はかなり無視されてきている。
 私はこの小さな著書が、医師たち、医学生たち、知識の進歩の話に興味を持ち身体の健康の研究が人類の努力において最も重要なことであることを知っている大衆にとって興味ふかいであろうと、心にいだいている。
 医学者たちは自身の歴史を無視していることで非難を受けるのは当然であり、多くの臨床家たちが彼らの技術について何も知らないのは残念なことである。このために、報告された発見の多くは再発見に過ぎない。ベーコンは言った「私が言ってきたように医学は努力した以上に断言され、さらに進歩した以上に努力されてきている。私が判断するところで努力は進歩と言うよりは円運動である。繰り返しが多くて進歩が少ないからである。」しかし、最近になり医学史はその王国に来ている。大学でこれについての講義のコースが設けられ、最近になり王立医学協会は歴史部門を設けた。
 この本に使っている資料は多くの原典から集めたものであり出来るだけ文献引用を行なってきた。しかしモンテーニュが書いているように「ここで私は摘んだ花の小さな花束だけを作り、花を括る紐以外に私のものは加えなかった。」
 私は友人のロイヤルヴィクトリア勲章士、文学博士、薬学学士、ヴィンセンチオ会員、アバディーンロイヤル診療所の老外科医であるJ・スコット・リデルに深甚な感謝を捧げなければならない。彼は校正を読み索引を作りこの本の発行にあたって配慮し、国外で書いている著者が出会う困難を除いでくれた。私はまた出版社の親切および細心な注意に感謝する。
ジェイムズ・サンヅ・エリオット
ウェリントン
ニュージーランド
1914年1月5日
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第1章 初期ローマの医学


医療の起源
 古代ローマにおける医術の起源は確かではない。医療の最初は疑いもなくテウルギア(神働:神の御業への祈願)的でありすべての原始的な人々に共通なものであった。神官と医師の任務は1人の人間に兼ね備われていて、魔術が知識の代わりをしていた。初期の人間が植物を藥品として使う努力をした道筋を追求する試みを想像できる。しばしば、その土地に固有な植物のあるものに治療効果のあることが偶然に発見され、次の場所で試み観察するようになる。アグリッパ(Cornelius Agrippa 1486-1535)はその神秘哲学の本で、人間は多くの治療法を動物から学んでいると述べている。浣腸の使用は長いくちばしの鳥がくちばしに水を吸い込んで腸管に注入していることを見て発見したのであろうとさえ言っている。幼稚で不完全な医療の実施は古代にゆっくりと進歩し、ローマで行われていたと同じように、エジプト人、ユダヤ人、カルデア(古代バビロニア南部)人、インド人、ペルシャ人、およびシナ人やダッタン人によって行われた。
 エトルリア(古代イタリア中部)人は哲学および医学にかなり堪能であり、古代ローマ人は彼らおよびサビニ(古代ローマの北東)人から知識を得ていた。サビニ出身のヌマ王(Numa Pompilius:王政ローマ第2代の王、715BC-)は物理学を学び、リウィウス(Titus Livius:英語では Livy、ローマの歴史家、59BC-17AD)によると実験の結果として稲妻に打たれて死去したとのことである。従って実験は電気の研究と考えられる。ヌマ王の十二表法に歯科手術が述べられているのは驚くべきことである。初期においてローマ人は他の民族のもっと有用な知識よりも迷信を習うことが多かったようである。ローマ人は宗教におけると同じように医療においてもコスモポリタンであった。彼らはすべての未開人たちに知られている家庭医学、かなり粗雑な手術、シビュラの書による処方箋を知っており、魔術に頼っていた。ローマ人たちが医療の知識および一般に芸術と科学を得たのはまず第1にギリシャからであるが、何時になっても知能文化においてギリシャ人には及ばなかった。
神殿
 大プリニウス(英語 Pliny 23-79AD)は次のように述べた。「ローマ人たちは600年以上にわたって実際に医学を持たなかったわけではないが、医師たちを持たなかった。」ローマ人たちはこれまでと同じ家庭薬を使い、病気および治癒の神および女神を持っていた。フェブリスは発熱の神であり、メフィティスは悪臭の神であり、フェソニアは疲れた人たちを助け、「甘いクロアキナ」は下水道を統括する。疫病に罹った人たちはアンゲロニア女神に、女たちはフルオニアとウテリナに哀願する。オッシパガは子どもたちの骨の世話をし、カルナは腹部臓器を管理する。
レクティステルニウム―アスクレピオス神殿
 アスクレピオス(Aesculapius)の父親とみなされているアポロンを祀る神殿は紀元前467年にローマに建立され、紀元前460年にエピダウロス(Epidaurus)のアスクレピオスが祀られた。10年後にローマ市内に疫病が流行したときにサルス(Salus:ギリシャのヒュギエイアに相当するローマの女神)を祀る神殿が建立された。紀元前399年にはシビュラの書の命令によって疫病を防ぐためにローマ市で最初のレクティステルニウムの大祭(lectisternium)が行われた。これはギリシャ起源の祭りであり、祈りと捧げ物の時であった。カウチ(lectus)が広げられて(sternere)神々の像が横たえられ、その前に食物をのせたテーブルが置かれた。これらの祭りは必要とあれば繰り返され、「疫病が暗闇を歩かず」「昼間に起きる破壊が無駄になる」ようにジュピター(ローマの主神)の神殿に釘を打ち込む仕掛けは、紀元前360年に始まった。適当な外科の知識が不足していた証拠として、ストリウム(紀元前309年)の戦闘の後で兵隊は戦闘よりも傷によって死亡した事実をリウィウスは記録している。アスクレピオスの信仰はローマでは紀元前291年に始まり、エジプトのイシス(Isis)およびセラピス(Serapis)の治癒能力もまた祈祷された。
 ローマの大疫病(紀元前291年)にさいして、シビュラの書により使節がエピダウロスに送られ、アスクレピオスに助けを求めた。使節はアスクレピオスの神像を持ち帰ったが、彼らの船がテヴェレ川(イ:Tevere、英:Tiber)を遡行しているときに、航海中に隠れていたヘビが船から滑り出て、アスクレピオス自身がローマ市民を助けに来たと信じていた人々が歓迎している土手に上陸した。この疫病の後紀元前291年にアスクレピオス神殿はテヴェレ川のこの島に建立された。タルクィニウス王(王政最後の王、在位536-509BC)が追い出されたときに彼らの収穫物は慣習によってこの川に投げ入れられ土がこれに蓄積されて、この島が作られた。ヘビが船から上がった不思議な出来事によって島の端にアスクレピオス神殿が立てられた。これは船首のような形に作られ、アスクレピオスのヘビはレリーフとして彫刻された。この島はアエミリア帝橋から遠くなく、壊れたアーチが一つ残っている。
 オウィディウス(Ovidius:英語名 Ovid、ローマ詩人、43BC-c.17AD)はこの神について次のように詠っている。

「私は私の神殿を出発して来た。
 このヘビは野心的な動きをしている
 私の杖は円を描いてヘビにすべての道を示している。
 彼の形は大きくなり堂々とするだろうと思う、
 そして神があるべきように変化し、ローマを助けるだろう。」
  オウィディウス「変身物語」xv)

 アスクレピオスはテヴェレ川において元のように治療を行なっていると言われた。

「そして今では市はうなだれて悲しんではいない。
 喜びが再び戻り健康が帰ってきている。」

 患者たちは医療の神が夢の中で彼らの病気につかうべき治療システムを教えてくれることを希望しながら、アスクレピオス神殿のポーチの下で眠った。病気に罹った奴隷たちは主人たちによってここに置き去られたが、数が非常に増えたのでクラウディウス帝はこの残酷なことを中止させた。アスクレピオス神殿の廃墟に現在は聖バルトロメオ教会(英語:Bartholomew)が立っている。
 しかし非常な初期から、他の国々ほどではないにしてもローマに臨床医が居なかったわけではなかった。アエミリア王(Lex Aemilia)は紀元前433年に病気に罹った奴隷を無視する医師を処罰することを規定した。プルタルコス(英語ではプルターク、c.46-120)の「大カトーの生涯」によるとローマの大使が小アジアのビチュニア王のところに送られて頭蓋骨の開頭術を受けたと記されている。
アルカガトス
 ローマにおける最初の正式な医師はアルカガトス(Archagathus)であった。彼は当局が彼を優遇して彼のために手術室を購入した紀元前219年に開業した。しかし彼の手法はどちらかと言うと乱暴でメスおよび焼灼術を多用して「屠殺者」と呼ばれるようになって嫌われ、彼は喜んでローマを離れた。紀元前154年にアスクレピオスおよび健康のコレッジが作られたが、これは現在の意味における教育コレッジではなかった。
家庭医学
 古代ローマの医師たちは学問の規則正しい課程を受けず、特定の基準が無く、普通は謝礼を払って開業している医師の弟子になって知識を得ていた。続いてアルキアテル(archiater:侍医の筆頭および地域社会の主任医師)はトレード・ギルドの様式で徒弟を受け取った。しかし大プリニウスは医学教育のこの体系を望ましくないものとし欠点を非難する理由を持っていた。彼は書いている。「人々は医師と自称する誰であろうとも、その間違いが直接に大きな危険であっても、信用する。不幸なことに医師の無知を処罰する法律は無く、医師の過誤で誰かが死亡しても仕返しをする者は無い。によって、彼は我々の危険により将来を学び、我々の死亡により実験を行い、処罰を恐れずに人間の生命を無視することが許されている。」
 ギリシャの医師たちがローマに定着する前には、医療は主としてそれぞれの家族の長の直接な任務となっていた。一家の父親はローマ法により最大の権力が与えられていて、彼の家族の上に医師であり裁判官であった。もしも彼の生まれたばかりの子供を彼の腕に抱くと彼は子供を彼の息子と認めたことになり、そうでないときに子供は何の請求をすることができない。彼は家族に最大の恐ろしい罰を加えることが可能であり、家族はこれにたいして如何なる補償を受けることはできない。
ギリシャの医師たち[#「ギリシヤの医師たち」は同行小見出し] 大カトー(Cato the Elder 234-149BC)はローマ共和国の父親のために家庭医学ガイドを書いたが、彼はインチキ医師であり完全にうぬぼれ屋であった。彼はローマで開業している医師たちを嫌った。彼らの大部分はギリシャ人であり、彼らの知識は彼より劣っていると思っていた。プルタークの言うところによると、ペルシャ王が医療を求めてヒポクラテスに頼んだときに、ヒポクラテスは「私は私の医術をギリシャの敵である野蛮人には使わない」と答えたことをカトーが知っていて、すべてのギリシャ医師は同じ規則で縛られ同じ動機で動かされている、と信ずることを望んでいた。しかしカトーは彼の時代の悪徳と贅沢を少なくすることにより大きく貢献していた。
 ローマにいるギリシャ医師たちは外国から来た冒険家であると疑いの目でみられていた。多くは疑いもなく立派な人たちであったが、ローマに来て迷信深く騙されやすいローマの人たちから金儲けをするために来ていたものも居た。立派な衣服、良い家、娯楽、はこれらの開業医が考える開業する最上の手引きであった。
 カトーの医学的な意見は当時の医学の状態に側光を投げかける。彼は無意味な呪文「フアト ハナト イスタ シスタ ダミアト ダムナウストラ!」を発してずれを直そうとした。彼はアヒル、ガチョウ、ノウサギは病人にとって軽く適当な食事であり、絶食は信頼していなかった。
クロアカ・マキシマ
 ローマで科学的医学の朝が始まる前の暗闇は長く暗かったが、古代においてもかなりの量の衛生知識が存在した。カピトリヌス丘とパラティヌス丘の間の湿地帯の水はけのための大下水溝(クロアカ・マキシマ:Cloaca Maxima)は、紀元前616年にタルキニウス・プリスクス王の命令で作られた。今日でも観光客がフォロ・ロマノでこの古代遺跡を見てテヴェレ川まで続いていることを知る。フォロ・ロマノでもカストル神殿の左にユトゥルナ(Juturna:パラティヌス丘のふもとに湧き出している治癒の力のある聖なる泉のニンフ)の聖域がある。ユトゥルナの泉(Lacus Juturunae)は四角のプールで中央に柱があり、この上にレリーフで飾られた大理石の祭壇がある。祭壇の脇には宗教目的の部屋がある。これらの部屋にはアスクレピオス、雄鶏を抱えた従者、ディオスクロイ(Dioscuri:双子)とそれらの馬、セラピス(Serapis:冥界の神)、頭の無いアポロン像が飾られている。
 クロアカ・マクシマは3段階のアーチからなっていて、最も内部の段階のアーチ型天井の直径は14フィートである。この下水溝の管理は共和国時代は監察官たちにより行われたが帝国時代にはクロアカ管理人(curatores cloacarum)と呼ばれる特別な官吏が任命され、修理および清掃の労働者は罪人が行った。これらの古代の下水溝は25世紀にわたって存在し、これらを作った人々の智慧と権力の記念物である。フリウス・カミリス(Marcus Furius Camillus:共和制ローマの政治家、446-365BC)の時代に個人の下水が公共下水に接続され、水道および雨水で洗われるようになった。このシステムは25世紀にわたって使われている。
上水道
 上水道も素晴らしい建造物であり、帝国時代のころに追加されたものもあるが、セクストゥス・ユリウス・フロンティヌス(Sextus Julius Frontinus:貴族で水道の管理人、ca.40-103)の94年に記載した9つの古代の水道のあるものは、帝国時代よりもかなり以前に建設された。例えば、アピア水道(Aqua Appia)はキリスト誕生の320年前にローマ市に届いていて約7マイルであった。アニエーネ川水道(Aqua Anio Vetus)は62マイルあり紀元前144年に作られ、ローマ平野(Campagna)を通ってティヴォリ(Tivoli:保養地)の先から水を送っている。この場所の近くに硫酸および硫酸石灰を含む乳濁した泉があり、現代も古代も皮膚病に使われている。この水は今日ほぼ一定の75度(摂氏24度)である。
 ローマ権力が外に広がっている間に、征服の追求に平和的な術の進展や科学の研究を注目されなくなり、生命そのものが非常に安価とみなされ病気や外傷の治療法は殆ど考えられなくなった。戦闘においてすべての兵士たちは戦場用の手当用品を携え、傷を受けたものは戦友から乱暴で簡単な応急手当てを受けていた。
 後になり征服が終わり、属州の安定化、安静と快楽が注目されるようになると、ギボン(歴史家、1737-1794)が示しているように、勇気が無くなりこのようにしてローマ軍団の能力は減少したが、帝国心臓部におけるこの状態はスペイン、ガリア(フランス)、ブリテン、イリュリクム(バルカン半島)からの有能で荒っぽい新兵によって埋め合わされた。
初期ローマ帝国の状態
 始まったときにこの帝国は平和であり、全体としして繁栄状態であって、属州の人たちもローマ市民と同じように、「社会生活、法律、農業、科学の真の原則はアテネの智慧によって最初に見つけ出され、今ではローマの権力によって確立され、その幸運な影響によって、野蛮人たちも同じ政府および共通の言葉によって1つになっている。彼らは学術の改良によって人類は明らかに増えていると主張している。彼らはローマ市の雄大さが増加し地方は巨大な庭園のように耕され飾られて美しさが増えていることを祝っている。そして平和の長い祭りは非常に多くの民族により、彼らの古い敵対や将来の危険を忘れて、楽しまれている。」ローマの歴史家はこのように書いていたし、これを美辞麗句や演説として好きなように一部を割引きすると、この記載の実態は歴史の事実に一致している、とギボンは述べている。キリスト教時代になるまで援助が無くみじめな人たちを常に世話するという考えは無かった。奴隷たちはしばしば家畜のように扱われ、貴族たちは平民にたいして何の同情のきずなも持たなかった。時に食物が貧しい人たちに配布され税金が免除された。しかしこれは国家の都合によるものであって真の慈善の動機によるものではなかった。主権者は育てることができない新生児を両親に殺させた。病人や貧しい人々を助ける公的な施設を設ける考えは古代ローマ人の心には入らなかった。
 ローマ帝国時代の治療術の状態を考察する前に、次章をギリシャにおける医学の興隆および進歩の考察に捧げることが必要である。何故かと言うとローマの哲学とローマの医学はギリシャからの借物であること、およびギリシャはその医学知識の一部をエジプトに負っているのが確かなことは、いくら強調しても強調し過ぎないからである。ローマ人たちは法制および政治に優れており、ギリシャ人たちは哲学、芸術および一般的に精神的な文化に天才的だったからである。
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第2章 初期のギリシア医学


アポロン
 ギリシャ神話における治療の歴史は光の神で健康の促進者であるアポロンに始まる。「イリアス」で彼は疫病を消散させるとして歓迎されており、この意味で古代の人たちは太陽の光が伝染を抑える能力のあることを良く知っていた。ケンタウロスのケイロンはアプロンとアルテルミスにより教えられ、その代わりに紀元前13世紀に生きていたと思われるアスクレピオスに教え、アスクレピオスは最後にはギリシャにおける医術の神になった。ピンダロス(Pindar:詩人、522-442BC)は次のように述べている。

「ある者にはチャームの力を試し、
 ある者には薬の入った液体を与える。
 ある手足にはお守りを置き、
 ある者は胴体から切り出し、患者を健康にする。」

アスクレピオス
 アスクレピオスは医術が巧み過ぎ、ゼウスにより稲妻に殺されるか、死の神プルトンによって殺されたと云われる。彼らはアスクレピオスがあまりに巧みで死よりも上になるのを恐れた。
神殿
 神話的なものが多いアスクレピオスの歴史のうちに基本的な事実がある。愛らしく健康的な場所に素晴らしい神殿が建立されていることである。普通は丘の上か泉の近くである。これらの神殿には病人が訪れ、ここの聖職者はアスクレピオスを祀るだけではなく治療術の知識を得る努力をしている。中心的な神殿はエピダウロスにあり、ここで病人たちは娯楽を与えられる。神殿の近くに12,000のための劇場があり、20,000の入ることができるスタディウムが準備されているからである。
ヘビ
 「こぶ」だらけの杖に巻き付いたヘビはアスクレピオスのシンボルである。現代のユーモアを持っている人はこの「こぶ」は医師が解決しなければならない厄介な(「こぶ」のような)問題であろうと言っている。お話によると、アスクレピオスが患者グラウクスの家を往診して考え込んだときに、1匹のヘビが彼の杖に巻き付いた。アスクレピオスはそれを殺したらもう1匹のヘビが薬草の葉をくわえて現れ、死んだヘビを生き返らした。病気は毒とみなされたに違いない。ヘビは毒を作り、大部分の古代において叡智および元気づけの能力を持つ評判があり、毒および病気をつくる動物は殺すだけでなく病気治療の能力があると思われていた。ヘビはアスクレピオス神殿に飼われていて、それらは無毒無害のものであった。それらは神殿の境内で自由であったが祭壇の近くにヘビの家すなわち隠れ場所を与えれていた。ヘビたちはアスクレピオスの化身として崇拝され、病人によって祭壇において「ポパナ」すなわち捧げ物のケーキを与えられる。
健康の神々
 ギリシャの神々や女神たちは病気に打ち勝つ能力を持っていた。ローマではサルス(Salus)と呼ばれたヒュゲイア(Hygeia)はアスクレピオスの娘であり聖なるヘビの世話をしていると言われた。
メランプス
 医療を行った最初の人間をギリシャ人はメランプス(Melampus)としていた。ある症例で彼はさびを使った。多分、鉄を薬に使った最初の例だったろう。彼はまたクリスマス・ローズの根を下剤に使った。彼は王女と結婚し王国の一部を彼の貢献に貰った。彼の死後に彼は神になり彼を崇拝して神殿が作られた。アスクレピオスとメランプスが神になったことは、常に尊敬されていたギリシャの医師にさらに大きな威信を与えた。しかしローマでは医業は高く評価されていなかった。
ホメロス―マカオン―ポダレイリオス
 叙事詩からは病気およびその治療法について多くの引用を得ることはできないが、ホメロスの著作から彼の時代における医学の状態をある程度は知ることができる。解剖は身体の冒涜とみなされていたので、解剖学の知識は極めて少なかった。マカオン(Machaon)はメネラウス(Menelaus:スパルタ王でギリシャ軍の副大将)付きの軍医であり、ポダラリオス(Podalarius:マカオンの兄弟)は瀉血術の先駆者であった。2人ともアスクレピオスの息子とみなされている。彼らは医師であるとともに軍人であり、トロイの城壁の前で戦った。ホメロスの英雄たちに必要な外科学は戦場におけるものであった。医師の術として軟膏と収斂剤が使われ、麻酔剤としてウツボカズラが言及され、硫黄が消毒薬に用いられていた。ホメロスによると医師は高く評価されており、外科医と内科医の2つが知られていて前者は後者よりも低く評価されているとアルクティヌス(Arctinus)は語っている。「そこでアスクレピオスは2人の息子に治療の能力を与えた。とは言っても2人のうちの1人を他より称賛した。1人には軽い手を与えて体から矢を抜き取り縫って傷を治すことができるようにした。しかし他の1人には非常に精密な心を与えて見えないことを理解できるようにし、見かけでは治らない病気を治癒させことができるようにした。」
 マカオンはネストル(Nestor:ギリシャ軍の最長老)の軍で戦った。彼の安全を心配してイドメネオ(Idomeneus:クレタ王)は1人の医師は多数人の兵士より有用であると言って彼をネストルの責任下に置き彼の戦車に載せるように命にじた。メネラウスが傷ついたときは伝令がマカオンに送られ彼はとげのある矢を引きぬき傷を吸って、慣習に従い、ケンタウルのキロンからアスクレピオスが受け取った秘密の膏薬を塗った。
アスクレピオス神殿―治療方法
 ギリシャ医療の実施は殆どすべてアスクレピオス神殿で行われ、もっとも重要な神殿はロドス島、クニドス島、コス島にあった。聖職者はアスクレピアド(Asclepiadae)と呼ばれていたが、この名前は聖職者ではない医療者にも用いられた。これらの神殿の壁には、患者の名前、病名、処方した療法を記した銘板が付けられていた。病気を詳しく観察した事実が示されている。患者たちは贈り物を神殿に持って来て、入浴、断食、祈り、いけにえ、によって前もって清浄化される。雄鶏は神への一般的ないけにえであった。多くの素晴らしい治療の成功したことは疑いも無い。精神的な暗示が大きく使われ、患者は眠り、治療はしばしば患者に夢の中で示され、これは聖職者によって説明された。彼の心中における期待および節制の結果に起きる彼の体の低い状態が治癒に導かれ、ごまかしもまた小さな部分を果たしている。しかし処方した処理の多くは称賛に値する。純粋な空気、楽しい環境、適当な食養生、および温和な習慣が推奨され、他の処理方法、運動、マッサージ、海水浴、ミネラル水や下剤や吐剤の使用、睡眠剤として毒ニンジンが使われた。もしも治癒しなかったら神の力やアスクレピアドの技術ではなく患者の信仰心が非難された。従って宗教でも医療が問題になることはなかった。ギリシャ人の叡智は何と偉大であろうか! これらの神殿は古代ギリシャの有名な医学校であった。競争心があり高度の倫理的基準に達していた。このことは学生たちが学業を終わったときに指定される誓いに示される。次章でヒポクラテスの生涯と関連してこの誓いの例が見られる。
 健康神殿すなわちアスクレピエイオン(Asklepieion)の遺蹟は1904年および1905年にテュービンゲンのヘルツォーク(Rudolf Herzog)博士とリヴァプールのカトン(Richard Caton)によって明らかにされて2000年前に存在した美しい建物が絵によって再建された。建物は丘の間に建っていた。イトスギの聖なる森が神殿の三方にあり「北にはコスの青々とした平野や右には町の白い家と木々およびエーゲ海の紫色の島が点在するトルコ石色の海が広がり、北東にはハリカルナスス(Halicarnassus)のぼんやりした山々ある。」
体育館
 体育館はアスクレピアデスが医療を行うよりずっと前から古代ギリシャで使われていた。ギリシャ人は体育を国民の重要な任務としていたので健康で力強い民族であった。運動選手たちの体をマッサージする人はアリプタエ(ariputae)と呼ばれて体育を教えたり小外科や医学を行った。マッサージは体育館での運動の前と後に行われ、身体に油と砂の混合物を塗り皮膚に擦り込んだ。体育館には3階級の人たちが居た。ギュムナシア(gymnasia)と呼ばれた館長すなわち行政官、副館長すなわちギムナスト(gymnast)、および下級者であった。館長たちは若者の食養生(diet)を決め、副館長たちは他の任務の他に病人に処方し、下級者はマッサージ、瀉血、傷の手当、浣腸、潰瘍や脱臼の処理、などなどを行った。
 ギリシャ人たちが若者の体育を強調したことは、当時において現在の人々よりも賢かったことは疑いもない。若者だけでなく成人も彼らの身体の必要に応じて運動を行なっていた。ソロン(Solon:アテネの政治家、c.638-558BC)の体育についての規則のあるものを破ると死刑に処せられた。
ルヌアールによる分類
 今やギリシャ医学の歴史の第3段階に達した。第1段階は原始的なものであり、第2段階は宗教と関係し、第3段階は哲学と関係した。ルヌアール(George Cecil Renouard:イギリスの古典史学者、1780-1867)は正確で便利である。「基礎の時代」に彼は次のように4時代を認めている。
(1)原始時代すなわち直感の時代。神話に始まり、紀元前1184年のトロイの崩壊に終わる。
(2)神聖な時代すなわち神秘な(Mystic)時代。紀元前500年のピタゴラス学派の分解で終わる。
(3)哲学の時代。紀元前320年のアレキサンドリア図書館の創設に終わる。この時代はヒポクラテスが有名である。
(4)解剖学の時代。紀元200年頃にガレノスの死に終わる。
ピタゴラス
 最も古いギリシャの医学哲学者はピタゴラス(Pythagoras 582BC-496BC)である。彼はサモス島に生まれ、最初は運動選手となったが、魂の不死についての講演を聞いて哲学研究を志し、エジプト、フェニキア、カルデア、そして多分インドに旅した。
 彼は東洋の神秘主義に魅せられて、空気は生き物で満ちていてこれが人たちに夢を、人類や下等動物に健康または病気を送っていると考えた。彼はギリシャに長いあいだ留まることはなく、盛んに旅行し、イタリア南部のクロトンにかなりの期間にわたり滞在して、5年から6年のあいだ学生に教えた。彼が作ったピタゴラス派は最初は優れたことをしたが、そのメンバーは後になって欲張りで嘘つきになり、創始者の生きているうちに怒った暴徒によって派は迫害され解散させられた。ピタゴラスは、奇怪な心を持っていた。彼は魂の移動の学説を持っていることで知られていたが、彼は偉大な数学者であり天文学者であった。彼は「数が万物の根本的な性質である」と教え、宇宙は法則によって支配されていると彼の哲学は認めていた。彼は神を数字1で、物質は数字2で、宇宙はその結合である12で、代表されるとした。これらすべては奇抜であったが、神話の改良であり体系の認識であった。
 医学の臨床において彼は主として食養生と体育を推奨し、精神の鬱状態に音楽を薦め、種々の植物性薬品を勧告した。彼は海葱の球根をエジプトからギリシャに導入し、玉ねぎの医薬効果の協力な信者であった。彼は外科学を信用せず、軟膏と湿布だけを使った。アスクレピアデスは患者を神殿で治療したが、ピタゴラス派は家から家へ、市から市へ訪ねて、巡回の医師または周期医師として知られていた。
デモケデス
 ヘロドトス(Herodotus:歴史家、ca.484BC-425BC)はピタゴラスの後継者であるクロトンのもう一人の優れた医師であるデモケデス(Democedes)について述べている。この頃に種々の市は公共医師を持っていたと記録されている。デモケデスはダレイオス王(Darius:ペルシャ王)夫人の乳腺潰瘍を治癒させたことにより奴隷から自由になった。
ギリシャの哲学者たち
 ピタゴラス派の解散によりメンバーおよび模倣者の多くはローマおよびイタリアの各地に定住した。ピタゴラスは哲学者であったが彼は神秘時代に属し、ヒポクラテスは哲学時代の偉大な中心人物であった。ヒポクラテスの著作を研究する前に、ギリシャ哲学の各派における優れた人物を考慮することが必要である。種々な医学派の諸原理はルヌアールによるとギリシャの三大宇宙進化論に依存している。
 ピタゴラスは宇宙の最高支配者を信じ、魂がすべての生物に生命を与え、鉱物にさえ魂が存在すると信じた。彼はまた前もって考えられたプレコンシーヴド目的を信じた。これらの考えは医学のドグマティズム(Dogmatism:教条主義)、ヒポクラテスの名前と関連し、この信念は近年のバイタリズムと関連する。
 レウキポス(Leucippus)とデモクリトス(Democritus)は神学を排除し、生命力は物質法則の作用にたいし二次的なものと考え、原子は身体内のポア(pore)を通して動き健康や病気の状態を決定すると信じた。この哲学に関係すると言われたのはメトヂスム(Methodism:方法主義)の医学派で、紀元前1世紀にローマに住んでいたプルサ(Prusa)のアスクレピアデス(Asclepiades)およびその弟子のテミソン(Themison 50BC)が創始した。医学思想の第3の学派であるエンピリシズム(Empiricism:経験主義)は経験のみが教師であり、遠い原因を思索するのは怠け者であると教えた。エンピリシズムの人たちはこの考えをスケプティック(Sceptic:懐疑論者)とかゼテティック(Zetetic)として知られている哲学者たちの考えに基いている。この哲学者たちは限界より外のものを理解しようとして心を悩ますのは無用であると教えたパルメニデス(Parmenides)やピロ(Pyrrho)の信奉者である。彼らは現代の不可知論の先駆者であった。
 後の時代の折衷主義者も他の医学派を構成した。彼ら教条学派、方法学派、経験学派、の見解から選択をすることを除いて、一定のシステムを持たなかった。
 階層としてギリシャ哲学者たちは元素を構成している物質の基本的な形を信じていて、その見解はオウィディウスの「変身物語」に示されている。

「どの元素が変わらないと言うのだろうか、
 この数字にもあれにも結び付けられていない
 この無限の世界は古いと云われているから
 しかし4種もの基本物質が存在している
 4種の異なる物質。2種は空に昇り
 そして他の2種は地中に下がる。
 最初に火が、羽を広げて、高みに登る、
 純粋で重さが無く、空高く存在する
 次に気は詰まっていないので中身のない空間にある
 火に続いて飛んで第2の場所を占める
 しかし重い水は、その性質が導くように、
 地の窪みに横たわり、母なる地が静まる。
 すべての物はこれらが混じり、すべてが含まれ、
 そしてこれらに全ては再び溶けている。」

 火は非常に純粋になった物質の形と考えられていて生命または魂にさえ似ている。
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第3章 ヒポクラテス


彼の生涯と著作
 「医学の父」と呼ばれるヒポクラテスはギリシャの黄金時代である紀元前460年にコス島に生まれた。彼はアスクレピアドの家庭に生まれ、言い伝えによると父側はアスクレピオスまで、母側はヘラクレスまで遡ることができる。彼は医学教育を父親からとヘロディコス(Herodicus)から受け、哲学をソフィストであるゴルギアス(Gorgias)、およびデモクリトス(Democritus)から教えられたと言われている。後に彼はデモクリトスの精神障害を治した。
 コス島には有名な医学校があり、そこの神殿には彼の先輩たちの経験を蓄積したノートが残っていたが、ヒポクラテスは勉強のためにギリシャの種々な町、とくにアテネを訪れた。彼は鋭い観察者であり自分の観察の注意深いノートを取った。彼の黎明は高く、彼の著作はプラトンやアリストテレスが引用しアラビアの著者たちによろ引用がある。彼の弟子たちは自分の著作をヒポクラテスの名前で刊行したし、その他に多くの偽作があるので次の本のうちでどれ程が彼の真の著作であるか知ることができない。しかし本物であると意見が同意されているのは「予後論」、「箴言」のうちの7冊、「空気、水、場所について」「急性病の養生について」、「流行病」の1と3、「関節について」「骨折について」「脱臼整復法」および「誓い」であり、殆ど真とみなされているのは、「古代医学」「外科学」「規範」「瘻管」「潰瘍」「痔」「神聖病テンカンについて」である(訳注:現在では予後論、急性病の養生、および流行病の1と3、のみを真作とみなすことが多い)。アレキサンドリアの大図書館にあった有名なヒポクラテス集典にはピタゴラス、プラトン、アリストテレスの著作が含まれている。
 医学の歴史においてヒポクラテスの天才より優るものがない。彼は自然および理性により理解できる原因に病気をたどり、自然を治癒に全く充分なものと認識し、医師は自然の侍女に過ぎないものとした。彼は神秘な態度は無く、すべての見せかけを笑って医学の問題を率直に論じ、完全な勇気を持ち自分の限界および失敗を認めた。彼が生きていた時代を考えると、知識を愛すること、観察の力、論理的な能力、または勇気と信頼性、のうちどの性質も重要であり、どれを最も尊敬すべきか決めるのは困難である。
 ヒポクラテスおよびドグマティスト(教条学派)の信念の中心的な原則は、身体内で地、水、気、火の四元素および血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の四体液が適当な割合および作用に、健康が依存することであった。これらの正当な結合はクラーシス(crasis)として知られ健康において存在する。もしも病気が有利に進行すると、これらの体液は変化し結合する(coction:調理)。これは病的な物質排出の準備(crisis:峠)であり臨界日(critical days)として知られる一定の時に起きる。ヒポクラテスはまた異常流出(fluxion)の理論を持ち、これは今は理解できるように鬱血状態である。
 彼の時代の公的な意見は人体解剖を禁止していたが、限られた程度にヒポクラテスが解剖を行なっていたことは確かである。彼は動脈と静脈の違いや神経と腱の違いを知らなかったし種々の膜はすべて類似の機能を持つと思っていたが、彼の著作は関節や脳のようなある部分については正しい知識を示している。このように解剖学の知識が無かったことは生理学において奇抜な見解を示すことになり、数多くの尊敬すべきものの間でヒポクラテスの著作を損なっている。
 殆どすべての医学(内科学)および外科学の知識は近代のものであるとする信念は我々を喜ばし自己満足させるものであるが、ヒポクラテスの時代の知識状態を研究することによりこれは変わってくる。病気を散発性、流行性、風土性、と分類するのは彼のお蔭であり、彼は急性病を慢性病から区別した。彼は病気の原因を2つ、すなわち気候、水、栄養のような一般的なもの、と不適当な食物や運動不足のように個人的なもの、に分けた。
 彼は外観の観察に基いて自分の結論を出し、そのようにして新時代を開始した。彼による病気の外部兆候の観察は非常に完璧であり、この点で及ぶ者はいなかった。顔、眼、舌、聴覚、原、睡眠、呼吸、排泄、身体の姿勢、などなどであり、すべてこれらは診断および予後の判定において彼を助けた。彼は予後判定にとくに注目して「最良の医師は、まずベッドサイドにおいて患者の現在、過去および将来を見抜き明らかにし、患者たちが発言で省略したものを追加することにより、予後判定ができる者である。彼は彼らの信頼を得て、彼らは彼の知識が優れていることを確信して、彼の手に完全に任せることを躊躇しない。それとともに彼は将来の予見に応じて彼らの現在の条件をより良く処理することができる。」
 彼は医学史について書いている。これは現代においては無視されている研究である。遠い過去から何らかの考えを採用して、利益を得たり少なくとも先駆者たちの教えに示唆のあることを見つける賢い人達は居ない。ヒポクラテスは自然治力(vis medicatrix naturae)を認識した最初の一人であり、彼は常に自然を助けることを殆どいつでも目指していた。しかし、介入を必要と考えたときには、乱切、吸出し、瀉血のように思い切った手段を使った。彼はマンドラゴラ、ヒヨス、および多分ケシ汁の麻酔剤を使い、緩下剤として「マーキュリー」と呼ばれた植物物質(ヤマアイ)、ビート、キャベツを盛んに使い、スカモニアおよびエラテリウムのような腸内浄化下剤を使うのを躊躇しなかった! 彼は胸腔内や腹腔内の液体を打診および聴診により診察し、液体を穿刺によって取り除き、それとともに液体をゆっくりと流れだすようにして失神の危険を減らすことを知っていた。彼はまた蓄膿の手術を行った。ヒポクラテスの胸の診察法と関連して、この「医学の父」は間接的ではあるがラエンネックに聴診器を発見させたと考えるのは理屈にあっている。ヒポクラテスは熱病に液体食を処方し、その患者に冷水または大麦水を飲ませ、高熱のときには冷たいスポンジ処理(水枕)を推奨した。彼の著作には脳溢血、テンカン、結核、痛風、丹毒、ガン、その他の今日に普通な病気にたいする彼の見解が記されている。
彼の医学への影響
 解剖学以前の時代ではあったがヒポクラテスは外科学の領域において驚くべく熟練していた。彼は潰瘍の治療に種々のローションを持っていた。このローションのあるものは殺菌能力を持ち、最近も使われている。骨折の治療についての彼の意見は適切であり、彼は副木使用の名人であり、折れた骨を誤った場所につけるのは外科医にとって不名誉であるとしていた。複雑骨折にさいして彼は骨の突き出た端を切除した。彼は関節の解剖学の非常に簡単な知識を持ち、ヒップ関節病をよく知っており、関節の手術を行うことができた。間違いなく体育館では事故が普通に起きていて、骨折、脱臼の処理は広範囲に行われ、巧妙であった。ヒポクラテスは膀胱の検査でゾンデの使用を理解し、直腸の検査、瘻管および痔の手術にスペキュラを使うことを知っていた。彼は内反足の原因を理解し、包帯によって治すことができた。彼は産科手術にも巧みであった。彼は頭蓋骨のトレパネーション(穿孔)を行った。彼の時代にこれは普通の手術だったようである。彼は頭の傷についてはっきりとした適切な見解を持ち、頭蓋の小さな傷が非常に重大になることを知っていた。ヒポクラテスはトレパネーション処理の指示を与え、頭蓋骨の縫合と骨折を間違えないように手術者に注意を与えた。
 彼は一般に理解されているほどには手足の切断について記載していないが、壊疽にさいして手足を切断していた。必要とあれば脱臼を整復するのに機械的な装置を使い、脱臼の整復その他の手術に使えるように、手術室にレバーで調節できる手術台を置くよう医師たちに推奨した。腫瘍の切除は非常な古代におけるインド医療で行われていたが、ヒポクラテスの外科では普通のことではなかった。ヒポクラテスは産科学についてかなり多く記載し理論の多くは今日では不条理であるが、彼が推奨した処理は有効である。婦人科学に関して、「空気、水、場所」で、不純な水を飲むと子宮水腫を起こすと書いているのは興味深い。このことに言及しているアダムズ(ヒポクラテスの英訳者)は胞虫を頭においていたが、ヒポクラテス自身、翻訳者、批評家は卵巣の卵巣の胞状奇胎病を子宮の胞虫嚢病と間違えている。真の著作と思われている本で婦人病についての記載は少なく、彼は婦人科について殆ど知識が無かったのであろう。ヒポクラテス集典のうちで真の著作と考えられていない部分には婦人科の記載が多い。そこには木や鉛で作られたゾンデや拡張器、子宮カテーテルが記載されている。腰湯が使われ、燻蒸消毒は婦人科臨床で盛んに使われた。ペッサリーはリントまたはウールを縦長に巻いて作られ、局所において軟化、収斂、浄化に使われ、テント、座薬にも関連していた
 食養生について、ヒポクラテスは綿密な観察と的確な判断を示している。一般に持たれている現在の見解は食物および摂食についての彼の指図と細かい点まで一致している。著作「古代医学」において、人は経験により種々の植物性食物の性質を見つけなければならず、健康に適当なものは病気において不適であること、およびこれらの発見の蓄積は医療の源である、と言っている。
 シデナム(Thomas Sydenham c.1624-1689:イギリスの名医)協会が開始しアダムズ博士が完成し、1849年に刊行された素晴らしい著書「ヒポクラテスの真の著作」から「規範」(The Law)と「誓い」(The Oath)をここに引用する。前者は医療が従わなければならない標準についてのヒポクラテスの見解であり、後者はすべてのアスクレピアンが従わなければならないことである。

「規範」

「(1)医術はすべての術のうちで最も気高いものである。しかし実施している人たちが無知なため、および考えが無く判断する人たちによって、現在のところ他の術よりも下になっている。私にとって彼らの誤りは、市中では医学療法と関連して不名誉なことを除いて処罰されないことであり、それに詳しい者を傷つけないことである。このような人たちは悲劇で導入される者たちのようなものである。何故かというと彼らは形、衣服、俳優の外見を持っているが、俳優ではない。従って医師の称号を持つものは多いが、実際には非常に少ない。
「(2)医学の有能な知識を得ようとするものは次のような利点を持つ必要がある。すなわち、自然な性質、教育、研究のために有利な地位、初期教育、労働愛、レジャー、である。まず、自然の能力が必要である。何故かと言うと、自然が反対すると他のすべては無駄になる。しかし自然がもっとも優れた所に導くなら、学生が考えて適当と思う術の教育がなされて、教育に適した場所の初期の弟子になる。彼はまた仕事に労働への愛および忍耐を持込んで教育が根を張って適当で豊かな果物を生み出さなければならない。
「(3)医学の教育は土地における栽培と似ている。何故かと言うと自然の性質はいわば土壌である。我々の教員の見解は種のようなものである。若いときの教育は適当な季節に土地に種を撒くようなものである。教育を行う場所は大気によって野菜になる食物である。勤勉な勉強は畑を耕すようなものである。そして、今はすべての物に力を与えてそれらを成熟させる時である。
「(4)すべてこれらの医学を学ぶ必要条件を持ってきて、その真の知識を入手したら、幾つかの市を旅していて、名前だけでなく実際に医師と認められるであろう。しかし意見であるにしろ現実であるにせよ、無経験は、自助努力が無く満足が無く、臆病と図々しさを持っているので、それを持つものにとって、悪い財産であり悪い友達である。何故かと言うと臆病は力の缺如を裏切り、図々しさは技能の缺如を裏切る。実際に知識と意見の2つが存在し、一つはその所有者が真に知るようにし、他は無知にする。
「(5)神聖なこれらのものは神聖なる人たちのみに授けるべきである。そして、神聖で無い者に医学の秘密を入手する前に与えるのは不法である。」

「誓い」

「医師アポロン、アスクレピオス、健康ヒギエイア、万能の治療女神パナケイア、及び全ての神々および女神に誓う。私自身の能力と判断に従って、この誓約を守ることを。この医術を教えてくれた師を実の親のように敬い自らの財産を分け与えて必要ある時には助ける。師の子孫を自分の兄弟のように見て、彼らが学ばんとすれば報酬なしにこの術を教える。著作や講義その他あらゆる方法で、医術の知識を師や自らの息子また医の規則に則って誓約で結ばれている弟子達に分かち与え、それ以外の誰にも与えない。自身の能力と判断に従って、患者に利すると思う治療法を選択し、害と知る治療法を決して選択しない。依頼されても誰にも人を殺す薬を与えないし、そのような助言をしない。そして同様に婦人に流産の道具を与えない。私は生涯を純粋と神聖を貫き、医術を行う。膀胱結石に截石術を施行はせず、それを生業とする者に委せる。どんな家を訪れる時も、女性と男性の相違、自由人と奴隷の相違を問わず、不正を犯すことなく、医術を行う。医に関するか否かに関わらず、他人の生活について見たり聞いたことの秘密を遵守する。この誓いを守り続ける限り、私は人生と医術とを享受し、全ての人から尊敬されるであろう! しかし、万が一、この誓いを破る時、私はその反対の運命を賜るだろう!」

 古代のこの偉大な医師の著作のすべてを展望しようとする試みは大仕事である。しかし、彼の心の偉大な力は充分に明らかになっており、彼は彼の先駆者たちより先に居て、後継者へのモデルである。コス島ではヒポクラテスの名前だけで有名になっていて、人々の混乱した心の中ではギリシャ正教の多くの聖人の1人としてしか見做されていないことは不思議なことである。
 リトレ(Littr※(アキュートアクセント付きE小文字) 1801-1881:ヒポクラテス集典の翻訳者、フランス語辞典の著者)が言った。「医学の歴史と科学の始まりを探すと、最初に出会うのはヒポクラテス集典として知られているものである。医学はこの始原に直接に達するとここで終わる」。それ以前に医学が開拓されていなかったのではないし、数が多くなかったのではない。しかしコス島のこの医師の前に作られたものはすべて破壊された。我々はばらばらとなり繋がっていない断片の残りだけを持っている。ヒポクラテス集典だけは破壊を免れた。そして不思議な環境によって、この後だけでなく前にも大きなギャップが存在する。ヒポクラテスからアレキサンドリア学派が確立されるまでのあいだ、およびアレキサンドリア学派そのもの、の医学著作はその後の著者たちによる引用および断片の他には完全に失われている。従ってヒポクラテス集典だけが古代医学文書の廃墟の中に残っている。
 シデナムはヒポクラテスについて「どんなに賛美しても彼を充分に賛美することはできない」とし、彼を「あの神の老人」、「医学のロムルスであり、彼の天は彼の術の最高天である」と言った。
 ヒポクラテスはテサリア(英:Thessaly)で死去したが何歳であったかは確かでない。著者により85歳から109歳まで異なるからである。死は彼の令名にとって偉大な平等主義者ではなかった。
 ヒポクラテスには2人の息子、テサロス(Thessalus)とドラコ(Draco)が居た。前者はマケドニアのアルケラオス王(Archelaus)の医師で後者はアレキサンデル大王の夫人の医師であった。2人はドグマティズム学派の創設者であり、この学派は主としてヒポクラテスの教えおよび箴言に基づくものであった。ドグマティズム学派は病気の明瞭な原因ではなく基本的な隠れた原因を追求し、アレキサンドリアでエンピリック学派が創設されるまで、議論の余地が無く支配していた。
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第4章 プラトン、アリストテレス、アレキサンドリア学派およびエンピリシズム


 2人の優れた哲学者のプラトン(Platon 427-347BC)とアリストテレス(Aristoteles 384-322BC)はヒポクラテスの教えによって影響された。
プラトン
 プラトンは学殖の深いモラリストであり、すべての時代における最も鋭い知性を持っていたが、医学の進歩には何らの貢献もしなかった。彼は医療を行わなかったが哲学の一つの領域として学び、観察と研究をする代わりに健康と病気の問題を直感と考察によって解決しようとした。彼の概念は不正確であり現実離れしていた。
 彼はヒポクラテスの体液病理学を丹念に仕上げた。世界は4元素からなっていて、火はピラミド型、地は立方形、気は8角形、水は20辺形の原子からなると、彼は思っていた。骨髄は3角形からなり脳は骨髄が仕上げられたものである。心は骨髄を支配し、2者が分離すると死である。骨と筋の目的は骨髄を温度変化にたいして守ることである。プラトンは「プシケ」を3つに分けた。理性は脳、勇気は心臓、欲情は肝臓、にある。子宮は過度の欲情を刺激する、と彼は信じた。炎症は胆汁の具合が悪いことにより、発熱は元素の影響によるものであった。感覚についての彼の意見は興味深い。例えば、臭いは一時的なものである、何故かと言うと外的な形が無いからである。味は味の原子を心臓およびプシケに運ぶ小血管の結果だからである。(訳注:ふつうプシケ(soul)を心、プネウマ(spirit)を霊と訳す)
アリストテレス
 アリストテレス(Aristotle)は紀元前334年に生まれ、マケドニア王の医師でアスクレピアドの家系のニコマコス(Nichomachus)の息子であった。彼の生まれつきの趣味は自然の研究であり、彼は比較解剖学および自然史(生物学)の創始者として大きな名誉を受け、当時の医学に大きく貢献した。アリストテレスはアテネに行ってプラトンの弟子になり、この偉大な2人の交際は20年続いた。42歳のときにアリストテレスはマケドニアのピリポス(Philippos、英:フィリップ)王から15才の王子、後のアレクサンドロス大王(Aleksandros、英:アレキサンダー)の家庭教師に任命された。この強い王子は間もなく自然史の研究に興味を持った。教師と生徒、すなわちアリストテレスとアレキサンドロスは最初の大きな自然史博物館を創設し、標本はその当時に知られていた世界の各地から送ってきた。アリストテレスは哲学の本の他に「動物の研究」「睡眠と覚醒」「長生きと短命」「動物の諸部分について」「呼吸について」「動物の移動について」「動物の生殖について」を書いた。彼は比較解剖学研究において解剖のための材料を弟子のアレキサンドロスから供給されて非常に助けられた。アリストテレスはヒトとサルの解剖学の違いを指摘し、ゾウや鳥の解剖、孵卵のさいに見られる発生段階の変化、を記載した。彼はまた魚や爬虫類の解剖を研究した。反芻動物の胃は彼の興味を引き起こし、その構造を記載した。心臓はアリストテレスによると心の座であり、感情の生まれる場所であった。それは、ここに自然の火があり、運動、知覚、栄養が中心に存在するからである。横隔膜は、心の座である心臓を胃の不純な影響から分離していると彼は信じていた。彼は神経が靭帯や腱に近いという信念から先には進まず、神経は血管と同じように心臓から始まっているという信じていた。彼は大動脈と心房に名前をつけ、筋の動きを研究した。彼はまた過剰受胎(superfaetation:受胎後に再び受胎が起きて同時に進行する。動物では確認。人間では無確認)が可能であるとした。
 アリストテレスがカルキス(Chalcis)に引退したときに、彼はチュルタモス(Tyrtamos)を彼のリュケイオン(Lyceum:学園)の後継者としてテオプラストス(Theophrastus 371-c.287BC)の名を与えた。テオプラストスは植物学の創始者であり「植物の歴史」を書いた。彼はまた石について書き、物理的、倫理的、医学的なことを書いた。

アレキサンドリア学派


その起源と影響
 「世界が最初に経験した最高の知恵者の1人は、紀元前331年にワシの目で現在アレキサンドリアである他に比較しようのない利点のある地点を見て、これを2つむしろ3つの世界を結合させる強力な計画を考えついた。彼の名前をつけた新しい市にヨーロッパ、アジア、アフリカが集まって交流した。」とキングスレー(Charles Kingsley 1819-1875:歴史家、小説家)は書いた。アレキサンドリア学派はギリシャ文化の崩壊後に世界の学問の中心になり、アレキサンドロス帝国が分割されるとエジプトの分前はプトレマイオス1世(Ptolemy)の手に落ち、彼はアリストテレスの指導のもとにアレキサンドリア図書館を創設した。これは最初は5万冊の蔵書から始まり最後は70万冊の本からなっていた。アレキサンドリア大学へ来た学生すべてはアレキサンドリア図書館に無い本を持っていたら図書館に寄贈することを強制された。プトレマイオス1世はまた医学および外貌学の研究を助成した。エウメネス(Eumenes)もまた同じようにペルガモン(Pergamos)に図書館を創設した。ここでアレキサンドリア大図書館の歴史を辿るのは有益である。ギリシャ、ローマ、インド、エジプトの文献収集物はブルケイオン(Brucheion)と呼ばれた地区にあった有名な博物館内にあった。この場所はユリウス・カエサルによるアレキサンドリア包囲にさいして火事で破壊された。マルクス・アントニウス(英:Mark Antony)はクレオパトラ(Cleopatra)の急な要求によってペルガモンから本や原稿をアレキサンドリアに送った。図書館の他の部分はアレキサンドリアのセラペウム(ジュピター・セラピウス神殿)にテオドシウス1世のときまで置かれたが、391 ADに大司教テオフィルスに率いられたキリスト教信者の暴徒群により殆ど完全に破壊された。641年にアレキサンドリアがオマール・カリフのアラビア軍により占領されたときに破壊は完全になった。プトレマイオスはアレキサンドリアの博物館に城壁内に住んでいる非常に学のある人たちを集め俸給を与えた。この全システムは大学に非常のよく似ている。文法、詩学、神話学、天文学、および哲学が研究され、医学の研究に大きな注目が寄せられた。エウクレイドス(Euclid)は数学の教師であり、アレキサンドリアのヒパルコス(Hipparchus)は天文学の父であった。医学の教育と天文学の教育は長いあいだ確実な事実の観察に基いていた。アレキサンドリア学派は千年近くを耐え抜いていて、その歴史は2つの期間に分けられる。すなわちプトレマイオス時代の紀元前320年から紀元前30年までと、紀元前30年から紀元後640年までである。第2の時期は想像的哲学およびグノスティックの宗教哲学の研究が特徴であり科学的な時期ではなかった。
 ユリウス・カエサルはアレキサンドリア学派に困難を持ち込んだ唯一のローマ皇帝ではなかった。残忍なカラカラ帝は学者から俸給や特権を取り上げ、科学的な展示や討論を禁止したからである。最近のローマ・カラカラ浴場の発掘で図書館の遺蹟が発見され、ある考古学者たちはカラカラの図書館はアレキサンドリアの本や羊皮紙写本を受け取っていると思っている。
結石切除術
 コス島およびクニドス島のアスクレピアドは病気の現象について構造的な関係を示すこと無く論争をしていた。彼らと同時期の彫刻家と同じように彼らは生命作用の表現を完全に外見からのみ学んでいだ。彼らは死体を取り扱わなかった。何故かと言うと彼らの法律では誰も神殿の中で死ぬことを許されなかったからである。しかし初期のアレキサンドリア人たちにはこのような制約が無かった。そしてアリストテレスの自然史および比較解剖学における発見の優れたことを見て、人体の構成を実際の解剖から記載するようになった。このようにしてアレキサンドリアで医学の解剖学の時代がはじまり、これはエジプトがローマ人たちに支配されるまで続いた。アレキサンドリアでは医学が盛んになり、三つの大きな専門分野。すなわち、外科学、薬学、食養生学(diet)が確立され、種々の手術が行われた。(訳注:ギリシャ医学におけるdietは現在のような痩せる食事や食事療法ではなく、食事を含み毎日の正しい生活を意味している。)専門家によって膀胱結石切除術が行われた。アレキサンドロスの息子シリア王(紀元前150年)アンティオコス(Antiochus)の後見人ディオドトスの扇動により膀胱結石切除術師が膀胱結石と言って10才のアンティオコスを殺す忌まわしい殺人事件が起きた。
 紀元前150年ごろにエッセネ派と呼ばれる薬物と毒物を研究するセクトが創設された。構成員はすべて医師のわけではなかった。首謀者の一人はミトリダテス王でありミトリダティクム(Mithridaticum)として知られている薬の発見者である。この古代における有名な特効薬はヘンルーダの葉20枚、数粒の塩、2個のクルミ、2個のイチジクからなり、毎朝服用し、続いてワインを飲む。
ヘロピロス―エラシストラトス―クレオンプトロス
 2人の有名な医学者で解剖学者のヘロピロス(Herophilus 335-280BC)およびエラシストラトス(Erasistratus 304-250BC)が初期のアレキサンドリアにおいて医学を教えていた。彼らは死体解剖だけでなく罪人の生体解剖も行ったと記録されている。この学派のもう1人の医師クレオンブロトス(Cleombrotus)はアンティオコス(Antiochus)王の診察を行って100タレント(約1万5000ポンド)を受け取った。
クリュシッポス
 アレキサンドリア学派と関係して何人かのクリュシッポス(Chrysippus)がいる。1人はエジプト王プトレマイオス1世ソーテール(Ptolemy Soter 367-282BC)の侍医でエラシストラトスの教師であった。このクリュシッポスは最近のフリードリッヒ・エスマルヒ(Esmarch:ドイツの外科軍医、1823-1908)と同じように四肢切除の前に血液を取り除き、また水腫の治療に蒸気浴を使ったと云われる。
解剖学
 アレキサンドリアで解剖学は適切に研究された。
 ヘロピロスは解剖学で多くの発見を行い、彼がつけた名称は今日も使われている。たとえばヘロフィルスの静脈洞交会、筆尖、十二指腸である。彼は神経と脳のあいだの接続や脳の種々の部分を記載し、彼は運動神経は脳の膜から起き感覚神経は実質の中から起きると考えてはいたが、2種の神経の重要な違いを認識していた。彼は第四脳室をプシケ(心)の座であると思っていた。彼は動脈の拍動を心臓によるとしたが、肺静脈を肺から心臓の左側へ空気を送ると考え、そして機能を決定して居なかったが乳糜管を観察していた。ヘロピロスは肝臓および脾臓の解剖を行なって、後者は動物の節約行為の結果とみなしていた。彼は産科手術に多くの知識を持っていた。病理学に関する彼の考えは、病気は体液の腐敗によるという信念より先には進んでいなかった。麻痺は神経の異常によると教えた時に彼はより科学的であり正確であった。
 エラシストラトスはクリュシポス(Chrysippus)の下およびアリストテレスの義理の息子であるメトロドロス(Metrodorus)の下で学んだ。ヘロピロスはコス島の学生、エラシストラトスはクニドス島の学生、であった。従って2つのギリシャの大きな医学校の教えがアレキサンドリアに持ち込まれた。エラシストラトスの弟子であったコス島のクセノポン(Xenophon)は出血を止めるための血管結紮を最初に行ったが、この重要な処置は後になって長いあいだ行われなくなった。これは医学史研究が無視されたからであった。悲しいことであるが、エラシストラトスおよびヘロピロスは人間の生体解剖が死体解剖と同じように医学教育に必要な部分と考え、少数の罪人の苦痛は、生きている人の解剖によって得られる知識により病気および苦しみから解放される無罪の人々が得られるものに比べると、何でもないと信じていた。この残酷で不法な行為は続き、「研究者たちは生体における特定の臓器の位置、色、形、大きさ、配置、硬さ、柔らかさ、滑らかさ、表面的な広がり、それらの隆起、および湾曲を研究することができた。」
エンピリシズム
 これらの教師たちの弟子は不幸なことに非常に思索的になり、役に立たない討論を好むようになり、大プリニウスは「学校で座り、静かに聞くことは、立ち上がって砂漠を彷徨って、毎日、新しい植物を探すより」楽であると言い、紀元前3世紀にエンピリシズム学派が創設され、これは以前のスケプティシズム(Scepticism:懐疑論)に似たものであった。これは「エンピリシストの三脚」すなわち「偶然」「歴史」「アナロジー」に基づくものであった。発見は偶然になされ、知識は前例の回想の蓄積であり、同様な環境で役に立った処理を行う、ことを意味している。ヘロピロスの弟子だったコス島のピリノスは先生から教わったすべての解剖学は病気の治療に全く役に立たなかったと宣言した。ピリノスはガレノスの言うところによると、医学における最初の分裂セクトであるエンピリシズム・セクトを創設した。ケルスス(Aulus Cornelius Celsus c.25BC-c.50AD)はこのセクトについて、彼らは明白な原因が必要なことを認めているが、自然は不可解なので軽視しないように言っている。このことは病気の神秘的な原因を熱心に探し求めている哲学者と医師のあいだで合意の得られないことに示される。もしも医師が推論によって作られるなら、哲学者が最高の医師になるであろう。哲学者は言葉に富んでいるからである。もしも病気の原因がすべての場所で同じであるとしたら、同じ療法が至るところで適用されるべきである。病気からの回復は確かであり試みたことから求めるべきである。すなわち経験からであり、経験はすべての他の術で我々を導いている。農夫や舵手は彼らの仕事について推論はしないが、仕事を実行している。論考は医学とは関係が無い。何故かと言うと、互いに反対の意見を持つ医師たちは患者を同じように健康に回復させる。彼らは討論している神秘的な病因を研究して治療法を手に入れるのではなく、彼らが患者に使用した療法の経験から得るのである。医学は最初に推理によって発見されたものではなく、医学の発見の後で理論が求められた。彼らは尋ねた。推理は経験と同じ処方をするだろうか、または違うものだろうか? もしも同じなら役に立たないし、違ったら有害である。
アレキサンドリアのセラピオン
 紀元前3世紀から2世紀のあいだに多くの医師たちは病気についての注釈を書いて、ヒポクラテスの教えを攻撃した。これらの中で、紀元前3世紀に住んでいた経験学派エンピリシストであるアレキサンドリアのセラピオン(Serapion)が皮膚病の治療に最初に硫黄を使い、ヘラクリデスがヘルニアの嵌頓を記載したことは注目すべきことである。セラピオンはピリノスの体系に手直しを加え、エンピリシズムの体系にアナロジーの原理を加えた責任者である。エンピリシズムの創設はアレキサンドリアの医学学派の衰亡を特徴付けた。我々はこのセクトの教えを完全に記載し、同時にその誤りを明らかにしたことで、ケルススに感謝する。セラピオンは医学ドグマティズムの砦であるコス学派からの転向者であり、殆どすべての背教者と同じように、以前に同意していた人たちにたいする敵意と反感で夢中であった。クニドスはエンピリストたちの砦であった。
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第5章 共和国の終わりと帝国の初めにおけるローマ医学


プルサのアスクレピアデス
 ビテュニア(小アジア北西)出身のプルサのアスクレピアデス(Asclepiades)は紀元前1世紀のはじめにおけるローマの有名な医師であった。彼はアレキサンドリアおよびアテネで雄弁術と医学を学んだ。彼はローマで雄弁術の教師になったが、キケロ(Cicero 106-43BC)の友人であったにも拘わらずあまり成功しなかったので、雄弁術でなく医療に変更した。彼は非常な能力を持ち抜け目が無かったが、解剖学や生理学の知識は無かった。そしてこれらが医学の基礎であると考える人たちを非難した。彼は特にヒポクラテスを痛罵した。これは理由が無いわけではなく、ヒポクラテスの弟子たちは先生の教えをまるで宗教のように持ち上げ、元来の考えと進歩を放逐して、あまりにも彼の権威に密接に結びついていたからである。
メトヂスト(方法主義者)
 アスクレピアデスは多数の弟子を持ち、彼の教えはメソジスト学派(方法学派)の創始に導いた。彼の最も重要な金言は「安全で速く快適な治療」(tuto, celeriter, ac jucunde)であり、彼は医師のできることが一義的に重要であり、(ヒポクラテスの)「自然治癒力」(vis medicatrix naturae)は二義的なものに過ぎないと信じていた。このように彼はヒポクラテスの教えに真っ向から反対した。彼は薬を殆ど信用しないか全く信用せず、主として食養生、運動、およびマッサージに頼り、ある程度は外科に頼った。ワインを気前よく処方する彼の医療は彼の人気を高めた。ワインを水で非常に希釈するのが習慣であったが、アスクレピアデスは薄めないかまたは少しだけ薄めたワインを処方した。彼は気管支切開や気管切開を行い、適当な例では足首水腫の乱切を推奨し、穿刺ではできるだけ小さい開口にするように忠告した。彼はまた腰の自然脱臼を観察していた。彼はローマ共和国で非常に有名で、哲学とくにエピキュリアン(快楽主義)哲学に通じていた。彼は解剖学を殆ど全く知らなかったがインチキ医師ではなかった。彼は観察力に非常に優れ生まれつきの洞察力を持っていて、彼の成功はギリシャ医師およびその方法がローマで定着するのに主として貢献した。彼がヒポクラテスの治療書について言った厳しい冗談がある。彼はこの本を「死についての熟慮」と呼んだ。プリニウスが言うところによるとアスクレピアデスは自分は病気では死なないことに賭けていたそうである。彼は賭けに勝って老年まで生きていて事故で死亡した。
ラオディケイアのテミソン ラオディケア(Laodicea シリア)のテミソン(Themison)は紀元前1世紀の医師で方法学派創始者であるプルサのアスクレピアデスの弟子であった。彼の原子および穴(pore)についての見解は健康と病気の非常に簡単な説明に導いた。何故かと言うとこれらの穴は狭くなるか広がるかのどちらかでなければならず、医師の目的は狭くなった穴を広げるか、または逆に広げることであると、彼は考えていたからである。この簡単になった医学体系は、多種類の薬を使わないことになり、この単純化によって容易に学習できるようになった。メトヂストのこの体系を皮肉る反対者がこれは6月間で習うことが出来ると言い、後にガレノスはあざけってこの派の臨床医は「テサリアのロバ」と呼んだ。
 学術学派の大きな欠点はヒポクラテスの叡智に完全に頼ったことであり、方法学派の欠点は力量不足と詭弁であった。
 彼の無茶苦茶な理論にもかかわらず、テミソンは臨床に巧みであった。彼はリューマチを最初に記載した医師であり、また医学でヒルを最初に使った先駆者と思われている。彼が書いたといわれている象皮病の本は本当に彼の本かどうかは完全に明らかではない。彼が狂犬病について書くのを心配していたことを注目しなければならない。彼は若い時に見た症例であまりに強く恐怖を覚え、この病気について考えるだけで彼はその症状のあるもので苦しむようになった。
 方法学派の見解は学術学派および経験学派ほど極端ではなかった。ケルススは方法学派について書いた。「まったく何の原因も無いという知識は治療方法とは少しも関係は無く、そして病気の何らかの一般症状を観察することで充分であり、そして3種類の病気があって1つは結合であり、もう1つは解くことでであり、3番目はこれらの混合である、と彼らは主張した」と。
 違う時代にテミソンと言う男人かの医師がいた。ユウェナリス(ローマの詩人、英語で Juvenal、c.60-c.140)が次のように皮肉ったのは多分方法学派の創始者だろう。ユウェナリスが次のように皮肉ったのは多分メトヂストの創始者だろう。
「短い秋にテミソンは、何と多数の患者を片付けたことだろうか。」
 治癒は自然だけの功績であり、死は完全に医師の技術不足による、という冗談は古くからのものである。
 テミソンはローマ共和制の終わる頃に生きていたが、今や皇帝たちの下における医療の状態を考察するときになった。
ユリウス・カエサルの傷
 最初の三頭政治家の一人であるユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar 100-44BC 英:ジュリアス・シーザー)はガリアとブリテンに侵略して勝利を収めた。これらの大勝利の後で、ライバルであるポンペイウス(英:Pompey 106BC-48BC)と戦場で出会わなければ剣を鞘に収めることは出来なかった。カエサルはポンペイウスをテサリアのファルサロス(Pharsalos)で破り(紀元前48年)、エジプトに追った。ポンペイウスはエジプトで殺され、彼の最後の手下は遂にスペインで破られ、ユリウス・カエサルは紀元前45年にローマに戻り、終身インペラトールであると宣言した。紀元前44年3月15日に彼は暗殺された。この偉大な人物の経歴は戦場における外科学を助成したであろうが、彼の皇帝としての支配はあまりにも短く、一般に言うと平和な学術、とくに医学学術を進歩させるのに、この時代の状況はまりにも激しかった。ユリウス・カエサルはローマ市のすべての医学開業医にローマ市民の権利を与えた。
 ユリウス・カエサルの死に関連して、外科医アンティストゥスの意見によると数多い傷のうちで胸に受けた2番目の傷以外に致死的なものは無かったと、スエトニウス(Suetonius:歴史家、ca.70-ca.140)は書いている。
 オクタヴィアヌス(Gaius Julius Caesar Octavianus Augustus:初代皇帝、63BC-14AD)は第2期三頭政治家の1人に任ぜられ、他の2人はマルクス・アントニウス(Marcus Antonius)、マルクス・アエミリウス・レピドゥス(Marcus Aemilius Lepidus)であった。まずレピドゥスは三頭政治家から除かれ、オクタヴィアヌスとアントニウスが争った。この争いのあいだに大工事がマルクス・アグリッパにより行われ、アクワ・ユリアとして知られる水道が作られた。歴史の大事件としてはアクティウムの海戦(紀元前31年)がある。この海戦でオクタヴィアヌスはマルクス・アントニウスとクレオパトラの同盟軍を打ち破り、数年内にアウグストゥス・カエサル皇帝となった(紀元前27年)。彼の統治のもとにローマは非常に栄えた。ここで我々は彼の優れた統治のもとにおける医学および衛生の状態を考察しよう。
 ローマ帝国は外国にたいする寛容な精神があり、「ローマ世界において行われている種々の信仰を人々はすべて同じように真であると考え、哲学者は同じように誤りと考え、行政官は同じように役に立つと思っていた。」そしてこのようにして寛容は相互の甘えだけでなく、宗教的な協調を生んだ(ギボン)。
哲学の体系
 流行していた哲学体系は、ストア派、プラトン哲学、アカデミー学派、エピキュリアン、であり、これらの中でプラトン主義者だけが唯一神になんらかの信仰を持ち、神は彼らにとって最高の存在であるよりは(プラトン哲学の)イデアであった。賢者および愚者の両者の大目的は彼らの国民性を高貴なものにし、彼らの信仰、彼らの儀式、彼らの迷信、はすべて強力なローマの光栄であった。
 教育のあるローマ人はラテン語とギリシャ語の両方を話したり書いたりすることが可能で、後者は科学者や文学者が使う伝達手段であった。
 アウグストゥス時代の初めにおけるローマ市民の人口は50万人以下ではなく、多分これ以上だったろう。中層階級が無く、比較的に少数の紳士階級と数多い庶民(plebs、populace)および多数の奴隷からなっていた。セクストゥス・ポンペイウスとの戦争の後で、敵に見方をしていた3万人以上の奴隷を主人に渡して処罰させたことを、アウグストゥス帝は誇っていた。奴隷たちは主人にとっては家財とみなされていた。庶民は貧困者の心を持っていて、彼らを満足させ平和に保つためには、食べ物を与え、闘技場アリーナで残酷な見世物を見せればよかった。アウグストゥスはサーカスおよび円形劇場で野獣狩りを26回行い約3,500匹の動物を殺したと書いた。多数の観客がサーカス・ゲームを見ているのを宮殿から眺めるのが彼の習慣であった。
この国の状態
 一般に国内で農業が盛んであり、冬のあいだ牛に与える種々の草の供給によって家畜の群れが増加し、鉱山や漁業およびすべての形の工業に大きな注目がなされた。ウェルギリウス(70-19BC 英語では Virgil ヴァージル)は彼の美しく豊かな農村を賛美した。

「しかし違う、木の豊かなメデランドではない、
 美しいガンジス河、金色の沈殿が厚い河の神ヘルムスが、
 イタリアの賛美に調和する‥‥
 ここに永遠の泉があり、夏がここにある
 夏でない月々に、2倍の群れがいる。
 この木は2倍の果物を与える、
 この国の市が多く誇らしいことにも気をつけよう
 力強い苦労の成果が町から町へ
 ぎざぎざした絶壁がうねりそびえる
 そして河は古代の壁の下を滑る。」

 ローマの市は医学開業には適した場所ではない、下層階級は低級であって金使いが荒く、そして比較的に少数の上層階級は専制的で堕落的で迷信的で利己主義で残酷である。小プリニウスはローマ人のうちで最良の一人であったが、キリスト教信者の生活の純粋さを調べようと試み、新しい宗教に属する2人の女性牧師補を迫害するのをためらうことなく彼は「極端な程度に至った頑固な種類の迷信だけを発見することができた。」かれの行為と見解はこの帝国のローマの紳士の本性を雄弁に語っている。アウグストゥスの下に居た貧しい人たちの状態を言うと、ローマの200,000人は戸外の救済を受けていた。金持ちは欲求が示し富が可能なすべての贅沢をすることができたが、下層階級の人たちが大きく必要としたのは食物であった。ローマ市は主として輸入小麦に頼らなければならなかったが、当時におけるこの値段は法外的に高くなっていた。これは不足によるもので、時には海賊行為と海の危険によるが、しばしば商人が供給を「買い占める」ことによる。そして国は皇帝を通して無料または市場の値以下で穀物を分配することになる。ローマに住んでいる50,000人の外国人のうち多数は相場師であったと計算されている。
ローマの医師
 帝国の都市はインチキ医師の狩場であった。彼らは自分たちに大げさな名前をつけ派手な衣装をつけていた。彼らは学生たちや感謝している患者の行列を従えていた。時に患者たちは、もしも治癒したらその後ずっと奉仕すると約束させられた。学生たちの行列は疑いもなく神経質の患者にとってむしろ迷惑であり、マルティアリス(Marcus Valerius Martialis ca.40-102 英:Martial、詩人)は次のように書いた。

「ちょっと具合が悪かっただけです、医師のシンマクスさん
 100人の学生さんを同伴して私の周りに群がり、
 100本の氷のような指が私の額を冷やしました。
 貴方が来るまで熱は無かったんです、私は今は殆ど死んでいます。」

 インチキ医師の他に薬売り(pharmacopola)が居た。彼らは薬品を小部屋で売ったり、市や農村で売り歩いた。帝国時代に正しい開業医の医薬は薬品、発見者、含量、使われる病気、服用法、のラベルをつけて売られた。薬売りは医薬品だけでなく化粧品も売り、巡回商人のあるものは毒薬も売っていた。正式な医師たちは薬屋がすでに混合した薬品を買っていたが、薬屋は現在のように医師と同じように処方をしていた。脱毛剤は非常に流行し、ふつう亜ヒ酸と生石灰からなり、植物の根やジュースからも作られた。これらは最初は女性のみにより使われたが、後には女性的な男性も使った。毛を抜くために使う毛抜きも発見され、大部分の脱毛剤は毛抜きの使用後に使うことが奨励された。毛を抜く任務は奴隷が行った。
奴隷と自由化された奴隷
 アウグストゥス時代の医療者の大部分は奴隷または自由になった奴隷であった。責任または名誉のある地位は自由化された奴隷が任ぜられた。その例としてネロは彼が居ないときにローマの管理を自由化奴隷のヘリウスに任せた。キケロは彼の自由化奴隷のティロに友情および愛情の手紙を書いた。大きな家庭の主人は能力と性格で1人の奴隷を選び一家の医学顧問として訓練し、その医師が有能な時には自由を与えた。
ルキウス・ホラティラウス(ローマの医師)
 ローマの1つの大きな家庭で400人の奴隷がいたが、その主人が暗殺されるのを防ぐことが出来なかった理由で、すべて死刑に処せられた。医師は時に奴隷の手足を切って不具にする不愉快な役目をさせられたことが記録されている。奴隷医師の値段は60ソリディ(ローマの金貨)と決められていた。ローマの多くの医師は小部屋を持っていてそこで処方したり混合薬をつくる自由化奴隷であり、自由化奴隷または奴隷の、助手または学生によって助けられた。これまで示してきたように、ローマの医師たちはギリシャにおけるのと同じような尊敬を受けてはいなかった。ローマには奴隷医師とは全く違う階級の医師が居たことを理解しなければならない。これから述べるアウグストゥス時代のインチキ医師ルシウス・ホラティラウスについての記載は、フェルナン・マザード氏がソシエテ・ヌヴェルに書いたものを、1911年のブリティッシュ医学雑誌から引用したものである。
「彼はハンサムな男でナポリからローマに来た。彼の服装はわいせつな絵で飾られたトガ(ローマの上着)と小さなアジアのミトラ(帽子)であった。当時の彼の仲間と同じように彼は毒薬を売り、5−6種類の新しいワインと毒物のどちらかと言うとでたらめな混合物を売っていた。彼は最初の患者であるティトゥス・クナエウス・レノを幸運にも治癒させ、患者は詩人だったのですぐに彼の聖なる詩人(vates sacer)となり、上流社会の女性たちが彼の患者になった。ホラティラウスの医療は儲かり数ヶ月で15万セスタースを貯金することができた。彼が治療しているローマ貴婦人スルピシア・パラスが突然に死亡した。これは彼の無知または不注意によるものだったと思われるが、彼が毒殺したと疑われて訴えられた。この出来事は彼の職業を終わらせるのではないかと思われたが、神秘的な言葉と治癒の約束でたぶらかすことによって人々の信用を回復するのに長い月日は必要としなかった。彼は3種類の治療を行っていた。すべて水浴で、高温、微温、冷温の前または後に、奇跡的医薬品が処方された。ホラティラウスは内科および外科のあらゆる種類の病気を扱った。彼は当時に女性の手にあった産科も行った。ローマに落ち着いて10年後に彼は600万セスタースを集めていた。彼はトゥスクルムに別荘を持ち毎月3回行って、非常に美しい環境で贅沢な生活を送ったが、そこで彼は悪運に襲われた。彼は果樹園をとくに誇りにしていた。ある日、鳥がイタリアに似たものが無いような種類のイチジクをだいなしにしているのを見た。将来に同じような略奪を防ぐために彼はイチジクの木に毒を加えた。歩き続けながら彼はいろいろの種類の果実をあちらこちらで摘み取った。摘み取った果実を食べながら彼はワインを飲み、気が付かないで集めた毒入りのイチジクを口に入れ、すぐに痙攣を起こして死亡した。しかし死ぬ前に彼は自分自身の墓碑銘を書いたと言われている。マザード氏はこれが見つかったと信じている。『スルピシア・パラスの霊が復讐した。自分自身に毒を与えた医師ホラティラウスがここに横たわる。』もしも墓碑銘が本物であれば、彼の死に様はこれが事故であることを示している。自分の薬を服用するほど勇気のあるインチキ医師は居ないからである。」
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第6章 皇帝たちの統治、ネロ帝の死去まで


アウグストゥス帝
 法的な地位が紀元前27年に確立する前にアウグストゥスは多くの改革を行った。アグリッパはアウグストゥスの影響のもと紀元前34年にマルキア(Marrcia)水道を改修し、アウグストゥスは大下水を修理し主な道を拡大した。道路委員会は紀元前27年に任命された。ウィルゴ水道は紀元前19年に建設された。専門職や商売の利益促進のために作られた多くのコレギアすなわちギルドは政治的な目的で誤用されてきたが、アウグストゥスはその多くから勅許状を取り上げた。公共事業や上水を監督するためにクラ(cura)すなわち委員会が任命された。テヴェレ川を浚渫し、綺麗にし、広げて、氾濫し難くした。70フィート以上の高さの新しい建物を建てさせなかった。アウグストゥスはまた火ぜきを作った。彼は市がレンガで建てられているのを見て、大理石で建てさせた。
 彼は「公衆衛生の占い」(Augury of Public Health)のような多くの古い宗教的習慣を元に戻し、自分自身を民衆の儀礼および習慣に近づけた。彼は敬虔な心(pietas:ラテン語)とローマ人が呼ぶ任務の心を教えこみ、贅沢取締の法律によって市民たちの道徳を良くしようと試みた。哲学者たちは知性と理性に訴えることによって同じ方向で良くすることを希望したが、この方法も同じように効果が無かった。結婚と出産増加が奨励され、両親は優遇され、特権を与えられた。アウグストゥスの叡智と用心深さは、不思議なことに騙され易さおよび迷信を伴っていた。彼は前兆を熱心に信じ、占星術に大きな重要性を付け加えた。彼の天宮図は彼がやぎ座で生まれたことを示していた。
彼の病気―アントニウス・ムサ
 彼は若い時にはハンサムで運動家に見えたが、種々の病気で苦しんだ。彼は注意深く多くの病気にたいし自分の健康に注意し、主としてだらしなく浴場を使うのを避けた。しかし彼はしばしば油で摩擦し、温室内で汗をかき、その後に生温い水に入り、火で温めたり、太陽の熱にさらしたりした。彼の神経によっては海水またはアルブラ(スイスの川)の水を使ったりすることがあり、木の桶(彼はスペインの名前である Dureta を使っていた)の上に座り、手と足を交互に漬けた。医師はアントニウス・ムサ(Antonius Musa:植物学者)で彼の像は民衆の寄付によりアスクレピオスの像の近くに建てられた。肝臓の鬱血の発作で熱が緩和できたかったときに、アントニウス・ムサは皇帝に低温浴を推奨し、希望した効果を生んだ。歴史家のスエトニウス(ca.70-ca.140)はこれを「破れかぶれで疑わしい療法」と書いていたが、この同じ医師は他の破れかぶれで疑わしい療法を行なっていた。彼はアウグストゥスが苦しんでいた坐骨神経痛を、痛む場所を杖で適当に打つことによって治すことができた。アントニウス・ムサはアウグストゥスから勲章を受け、皇帝はまたすべての医師たちから税その他の公衆としての責任を免除した。
 アウグストゥスの時代に自然哲学は殆ど進歩せず、ウェルギリウスはその進展を強く要求した。研究として人体解剖学は導入されず、生理学は殆ど知られなかった。医療において診療の標準はヒポクラテスの著書であり、薬物学は薬の発見者たちの気まぐれな意見をそれとなく示す治療からなっていた。
マエケナス
 大プリニウスは彼の時代において水浴治療が主な治療法であると書いたが、これは帝国全体において成立し、確かに最も好まれたものであった。アウグストゥスの友人であり顧問であったマエケナス(Maecenas 70BC-8BC)が書いた詩の気持ちについてセネカ(1BC-65AD)は厳しかったが、これは当時に最も恐れられた病気の1つであるマラリアを示したものであった。

「手と足が痛風で拷問にかけられるが、
 ガンは深く根を張るが
 麻痺は私の弱いももを震わせるが
 肩の恐ろしい塊が起き上がるが
 たるんだ歯肉から歯が落ちる。
 もしも生命があればすべて良い。」

 アウグストゥスの時代にマラリヤはローマ市および近くにおける主な死因の一つであった。
 アウグストゥスが死ぬことになった病気は紀元後14年に慢性下痢から起き、皇帝は彼がそうである真のローマ人らしく、最後の日に立派な静かさと勇気を示した。
ティベリウス帝
 ティベリウス(Tiberius Julius Caesar 42BC-37AD:第2代皇帝)は紀元後14年に帝位を継いで悪業を始めた。彼が引き立てても何も知識の得られないことは、ガラスを鍛えることを発見した芸術家の工場や装置が破壊されたことを、プリニウスは記載している。暗殺者およびすべての忌まわしい行為をするものはこの暴君の親友であった。
 ティベリウス帝と一緒に住んでいた星占術者のトラシルス(Thrasyllus)は魔術を強く信じていた。この治世はケルススの著作によって医学史において有名である。
カリグラ帝
 ガイウス帝(Gaius Julius Caesar Augustus Germanicus:第3代、愛称カリグラ Caligula)は4才のときに皇帝となり、最も非人間的な行為を行った。罪人は野獣に餌として与えられ、貴族ですらこの狂った暴君の命令で熱い鉄で顔に焼印を押された。
クラウディウス帝
 カリグラの後を継いだクラウディウス帝(Tiberius Claudius Nero Caesar Drusus:第4代)は大きな水道や下水のように重要な事業を完成させた。しかし彼の時代に学問の状態は低かった。クラウディウス帝の自由化奴隷のクラウディス・エトルスクス(Claudius Etruscus)はマルティアリス(Marcus Valerius Martialis 40-102:詩人、英:Martial)によって引用された浴場を作った。クラウディウス水道のアーチの遺蹟は今でも残っている。
ネロ帝―セネカ―占星術
 トラシルスはティベリウス治世における占星術師トラシルスの息子であり、ネロ(Nero Claudius Caesar Augustus Germanicus 37-68:第5代皇帝)にたいして帝位の価値を予言したと言われている。もしもネロが家庭教師セネカの忠告に留意していたら、医師を良く取り扱ったであろう。セネカは書いていた。「人々は医師の苦労にたいして謝礼を払っている。彼の親切さにたいし人々は恩義を負っている。」「教師および医師に大きな尊崇と愛を負っている。我々は彼らから非常に貴重な利益を得ている。医師からは健康と生命を。教師からは高貴な文化と魂を。どちらも我々の友人であり、我々は心からなる感謝に値する。彼らの売ることができる術ではなく、彼らの率直な親切として。」ネロ時代における魔術の実行は非常に増加してすべての魔術師に追放命令が出される程になった。しかしこれは魔術師たちの人気を低めることにはならなかった。彼らは見せかけの迫害のもとで実際に繁栄し、公衆の困難や危険がある時に尊敬される。占星術はカルデア(バビロニア南部)人に由来したものであり、紀元前3世紀ごろギリシャに入った。これはすべての階級、とくにストア主義哲学者に受け入れられた。紀元前319年にコルネリウス・ヒスパルスはカルデア人たちを追放し10日以内にイタリアを退去するように命令した。紀元前33年に彼らはマルクス・アグリッパによって追放され、アウグストゥスもまた彼らにたいして勅令を出した。彼らは時には死刑に処せられたが、彼らの職業は儲かるものであるに違いなく、処せられる罰は厳しかったが彼らはこの職業を続けた。彼らにたいする刑罰は断続的にしか行われなかった。彼らは皇帝を始めとして全ての階級から相談を受けていた。
主治医(宮廷医)
 ネロの治世に多数の医師がいたが誰も特に優れてはいなかった。大アンドロマコス(Andromachus:クレタ島生まれ)ネロの侍医で「主任医師(archiater)」の称号を持っていた。
 この称号は興味深い。聖ヒエロニムス(英 St. Jerome ca.340-420:ラテン語聖書の完成者)はこの名前をキリストに使った。
 その当時に archiater(主任医師)には2階級があった。1つはラテン語で archiatri sancti palati(宮廷医)で、他は archiatri populares(民衆主任医)であった。前者は皇帝に仕え、後者は民衆を診療する主任医師であった。ネロは前者の主任医師を任命したが、この名前はコンスタンティン帝(272-337:キリスト教を公認)のときまでラテン語では使われず、この二つの階級に分かれたのは多分その頃からのことであろう。宮廷医は位が高く、医師のあいだにおける争いの裁判官であった。主任医師は多くの特権を持っていた。彼および彼の妻と子供たちは税を払う必要が無かった。地方では兵隊たちに宿を貸す義務は無いし、牢屋に入れられることはなかった。この特権は特に高位の主任医に適用された。宮廷医が皇帝に仕えなくなると「元宮廷医」の称号を得る。この称号は「医師の伯爵」を意味し、帝国内で高位の貴族である。
 民衆主任医は貧乏な病人を診療し、市の大きさによってそれぞれの市は7人から10人の民衆主任医がいた。ローマ市には14人のこれらの公務員がいて、その他に女神ベスタの処女のために1人と体育館に1人がいた。彼らは貧乏人を診療することにより政府から金を受け取っていたが、彼らの診療はこれだけには限られてはいないで、金持ちの患者たちから充分の謝礼を受け取っていた。彼らの診察室は宮廷医のものほど立派ではなかったが、もっと贅沢であった。彼らは民衆そのものから投票で決定された。
 ネロが声をよくするために受けた治療についてスエトニウスは書いている。「彼は背を下にし鉛の板を胸の上に載せ、吐き薬と下剤で胃と腸を空にし、果物や彼の声に有害なものを食べるのを控えた。」彼は多額の費用で海水および温泉水を供給する公衆浴場を造り、ローマで最初に公衆体育館を造った。
女性毒殺者
 ネロの治世に一群の女性毒殺者の居たことを信ずる理由がある。ネロはこれらの1人のローカストと呼ばれる女性を雇い、彼女がブリタニクス(Britannicus 41-55:ティベリウス帝の息子)を毒殺した後で彼女に広大な領地を与え、彼女の邪悪な商売を習う弟子を与えた。
ローマの眼科医
 またネロの時代には非常に無知な眼科医たちもローマにいたが、マルセイユのデモステネス・ピラレテス(Demosthenes Philalethes)は非常に有名で彼の眼病についての本は何世紀にもわたって使われた。ローマの眼科医たちは殆どいつでも軟膏を使い、そのための軟膏の壺に貼った約200枚のシールが見つかり、それには発見者および所有者の名前が書いてあった。これらのインチキ眼科医はガレノスの頃に非常に多く、ガレノスは彼らを罵った。「お前は以前は眼科医だったのに、今では剣闘士だ。以前には医師だったのに、剣闘士としては何をするのか」「眼が霞んだヒュラスは貴方に6ペンスを払った。クウィントゥスよ。1つの眼は見えなくなった。彼はまだ3ペンスを払うだろう。急いでそれを受け取りなさい。短いほど貴方の利益になる。彼が盲目になったら全く払わないだろう。」アレキサンドリアの眼科医たちは非常に有能だった。そして彼らの弟子たちはローマ帝国の時期のいろいろな時代にめざましく巧みであった。彼らの文献は失われたが、彼らは白内障の手術をすることができたと信ぜられている。
 ネロが紀元後68年に死亡するとユリウス・カエサルの子孫は絶えた。
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第7章 アウグストゥス帝からネロ帝死去までの時代の医師たち


ケルスス―彼の生涯と著書
 ケルススはアウグストゥス帝およびティベリウス帝の頃の人で、彼の著書の引用によるとテミソンと同じころかまたは少し後と思われる。彼はヴェロナで生まれたと言っているが、彼の文章のスタイルは彼がかなりのあいだローマに住んでいて、多分ローマで教育を受けたのであろう。医学史について大プリニウスの言うところによると、ケルススはローマで医術を開業してはいないし、彼が医術の実行を科学および文学の追求と結びつけていたことは確かであり、彼の医術は一般的に行なっているのではなく、彼の友達および身内に限っていた。彼の著作は彼がびょうきについて臨床およびかなりの量の医学の経験を持っていることを示している。彼は医学だけでなく歴史、哲学、法律、弁論術、農業、および戦術について書いた。彼の医学の大著述「De Medicina」は8冊からなっていた。彼は正しく医学史から始め、ついで学術学派と経験学派の論争の善悪を論ずることに進んだ。最初の2冊は一般原則および食養生を取り扱い、残りは特定の病気についてであり、3冊目と4冊目は内科病についてで、5冊目と6冊目は外的な病気と薬学であり、最後の2冊はが科学についてであって、大きく優れた点と重要性についてである。彼の治療法ではプルサのアスクレピアデス影響および自然に反抗するのではなく助けるヒポクラテスの原則を見分けることができるが、彼の著作のあるものは独創性を示している。ヒポクラテスへの彼の傾倒は彼自身の力を尽くすのを邪魔して、この点で、後継者たちにとって悪い例となった。
 彼はメスを使うのを躊躇しなかったが、同時代の人たちほどではなかった。彼は自由に下剤を使ったり瀉血をすることを主張した。彼は先輩たちの正式な体液説から離れることは決して出来なかった。
彼の医学への影響
 (1)外科学 ケルススはローマで外科的手術の過程を完全に記載した最初の著者であったが、手術を行ったのは彼の時代が最初と思ってはいけない。何故かというと外科学は内科学よりもずっと進歩していたからである。多くの大手術が行われ、新しいものと思われている多くの手術が古代人によって理解されていたことを習うことは現在の医師たちにとって非常に教育的であろう。一般に医療、とくに外科学が、非常に最近に至るまで優れた状態に達していないと思うのは、これ以上大きな誤りは無い。膀胱内で結石を破壊する手術はアレキサンドリアでアンモニウス・リトトモス(Ammonius Lithotomos 287BC)に考案され、次のように記載されている。
「フックまたはカギ状の部分を結石の上にきつく固定して振っても外れないようにして逆方向に回転しないようにする。次に先端が薄いが鈍い適当な厚さの鉄の器具を使って、結石に当てて他の端を叩いて割る。器具が膀胱そのものに直接に接触しないようにし、結石が割れることにより何もその上に落ちないようにする。」
 鼻、唇、耳、の形成手術は一般に近年になって工夫されたものとみなされているが、ケルススは記載している。
 彼はアレキサンドリアで行われたように結石切断術および眼の手術を記載している。両者は多分インドから導入されたものであろう。皮下尿道切断術もまた彼の時代に行われた。
 頭部穿孔(Trephining)は長いあいだ良く知られていた外科手術であった。四肢切断法についての詳細が記載されている
 脱臼および骨折についてのケルススの教育は極めて高度のものである。脱臼は炎症が起きる前に整復すべきであり、骨折で癒合に失敗した場合には、彼は牽引ならびに切断した骨の末端を互いにこすることによる癒合促進を指摘している。もしも必要なら、癒合促進の軽度の方法の後で彼は骨の端までの切開を推奨し、開放した切開および骨折の治癒は同時に治癒するであろう。
 腸管嵌頓による破裂のさいに下剤を与えるのが危険であることをケルススが知っていたことは興味深い。複雑でない破裂に彼は整復術および手術によって元に戻すことを推奨している。腸管の焼灼は手術の一部である。彼はまた耳から異物を取り除く注意深い方法を与えている。
 ケルススは出血について非常に詳細に書き、1本の血管で2箇所の結紮を行い、結紮のあいだで切断する方法を記載している。単純な環状切開によって壊疽のさいに四肢切断をする方法は比較的近年まで使われた。彼はカテーテル使用、顔の形成外科手術、胸壁の膿瘻治療のための肋骨切断、白内障手術、洗浄器を使って治癒できる耳の病気、および甲状腺腫の手術、を記載している。これらの甲状腺腫の手術は一般に最近の外科学の進歩と思われている。
 ケルススはまた歯科についても知識を持っていた。何故かと言うと彼は鉗子で歯を抜くこと、ぐらぐらの歯を金線で結わえること、および朽ちて穴の開いた歯の空間にコショウの実を押し込んで壊す方法、などを書いているからである。彼はまた多くの最も困難な産科手術を記載している。
 クロロフォルムやエーテルが導入されるよりも何世紀も前にケルススが生きていたことを思い起こし、遠い昔に行われたものであることを考えると、これらは驚くべきことである。
 良い外科医である性質としてケルススは次のように書いた。「彼は老人であってはいけない、彼の手は安定し落ち着いていなければならず、左手は右手と同じように使えなければならない。眼ははっきりしていて、心は静かで元気がよくなければならい。その結果、あたかも患者の叫び声が彼に何の印象も与えないかのうに、手術にさいして急ぐことなく、必要以上に切ることはない。」
(2)解剖学 ケルススは内部臓器の位置をかなり良く知っており、胸や女性骨盤の解剖を良く知っていた。骨の知識はとくに完全であり正確であった。彼は、篩骨の多孔性の骨板、縫合、歯、および骨格一般を含めて、頭の骨を非常に充分に記載した。ケルススは三半規管を知っていたとポータル(Portal)は言っている。彼は関節の構造を理解し、軟骨はその成り立ちの一部であることを指摘している。
 ケルススは書いた。「生体を解剖するのは残酷であるし不必要なことである。しかし死体の解剖は学習者にとって必要である。彼らは位置および順序を知らなければならないし、これには死体は生体や怪我している人よりは良く示すからである。しかし生きている人だけで観察される他のことは怪我人の回復にさいして見ることができるだろう。これは少し時間がかかるがもっと優しい。」
(3)内科学 彼による発熱の治療は優れている。彼は発熱を病的な物質を投げ出す自然の努力であると理解していたからである。彼の処方はそれほど複雑ではなく、彼の直接の後継者のものに比べるともっと実用的で有効であった。彼は浣腸と人工的給食の使用を理解していた。精神障害の場合には、これに伴う不眠の治療に麻薬を使うと良くなることを知っていた。彼はまた病的幻覚を理解していた。彼はまたある種の眼病にローションと軟膏を推奨した。
 ケルススは瀉血を行なっていたが、彼は使いすぎにたいし非常に強く反対した。彼の時代にローマの医師たちは瀉血を非常に極端に行なっていた。ケルススは書いた。「静脈から血液を取り出すのは新しいことではないが、血液を取り出さない病気が殆ど無いことは新しいことである。以前に医師たちは若い男性および妊娠していない女性から血液を抜いていて、我々の時代まで子供、妊娠婦人、老人たち、から瀉血することはなかった。」強く、多血質の人たちから血を抜くのは余計に供給される血液が外に出られるようにしたのであり、弱く貧血の人たちは悪い体液を除くために治療される。従ってどんな病人もこの強烈な治療を逃れることができなかった。」
 吐剤はケルススの時代には盛んに使われた。暴飲暴食にふける人たちはこれを使って食物への食欲を刺激しようとし、重い食事をとった後で次の暴飲暴食のために胃を準備した。多くの美食家は毎日吐剤を使った。ケルススは言った。もしも老年に達しようとするなら吐剤をしばしば使うべきでない、と。
 ケルススは編集者として優れていて、治療術への最も尊敬すべき貢献を、以前の医学著者から選ぶ能力を持っていた。彼が学問に大きな愛情を持ち、彼が医学の研究に引き寄せられたことは素晴らしいことであった。彼は貴族であり、彼の階級のものはこの種類の研究は自分たちの身分にとって威厳が低いと考えていたからである。
 ローマにおける文学はアウグストゥスの治世に最高になり、ケルススの文体は当時の大文学者に並ぶものとされた。彼は内科学または外科学の大権威者としては後の医学著者により引用されなかった。そしてプリニウスは彼を臨床医師としてではなく文章家として紹介した。ケルススは新しいシステムを作る努力はしなかったし新しい医学セクトを創始しなかったので、彼に弟子が居なかったのは不思議ではない。
 後の世紀になって彼の著作は学生たちの教科書になった。含まれている情報からだけではなく、文章として優れていたからである。
 ケルススの著作のこれまでの概要のうちの一部はヘルマン・バス(Hermann Baas)やベルド(Berdoe)の著作に負っている。
シドンのメゲス
 シドン(Sidon)のメゲス(Meges 20BC)はケルススの時代のすぐ前に開業していた著名な外科医であった。彼はケルススによってこの時代の最も巧みな外科医とみなされ、彼の著作は今では何も残っていないが、ケルススが引用し、プリニウスが紹介している。メゲスはテミソンの門下であった。彼は結石を切る道具を発見し、乳がんについて、および膝の脱臼について書いた。エウデムスと呼ばれた何人かの著名な医師たちがいた。そのうちの1人は紀元前3世紀の解剖学者であり、ガレノスによるとヘロピロスおよびエラシストラトスと同時代の人であった。彼は神経系の解剖学と生理学に大きな注意を示していた。しかし、ローマの医師で他にもエウデムスが居て、彼はティベリウス帝の息子の夫人の陰謀に巻き込まれた。彼は紀元後23年に夫を毒殺する彼女の計画を助けた。彼は拷問されティベリウスの命令によって処刑された。
テュアナのアポロニオス―疑わしい奇跡
 テュアナ(Tyana)のアポロニオス(Apollonius)はアウグストゥス帝の時代、紀元前4年に生まれ、古代および近代の著者たちによる、彼の奇跡(と思われるもの)と救世主キリストのあいだの類似性によって主として知られている。ピロストゥラトス(Philostratus ca.170/172-247/250)が記述した彼の行為は異常であり信じ難く、キリストが特有な能力と主張し彼の弟子たちに信じられているもので、エクレクティク(折衷主義者)たちは反対して提出した。アポロニオスはプラトン派、懐疑派、エピクロス派、アリストテレス派、ピタゴラス派の哲学を学び、ピタゴラス派の哲学を採用したと言われている。彼は若いときにピタゴラス派哲学の禁欲主義を学んだ。彼は動物の肉および強い酒を避け、白い亜麻の衣服を着て、木の皮のサンダルを履き、頭髪を長く伸ばしていた。5年にわたり彼は神秘的な沈黙を保ち、この期間に哲学の真理が彼に明らかになった。彼は小アジアの三博士と話をしインドのバラモンたちから不思議な秘密を習った。ギリシャでは神殿や信託を訪ね、彼の治癒能力を試した。ピタゴラスのように遠く広く旅行し、行ったどこでも哲学を論じ、魔法の能力は非常に有名になった。聖職者は彼に神の名誉を与え、治すようにと病人を彼に送った。彼がローマについたのはネロが魔術師追放の勅令を出したすぐ後であった。彼は執政官テレシヌスと皇帝の下劣な友人ティゲリヌスの前で裁判を受けた。テレシヌスは哲学が好きなことにより、ティゲリヌスは魔術が怖かったので、彼は無罪になった。続いてアレキサンドリアでアポロニオスは魔術の力でウェスパシアヌス(後の皇帝)を皇帝にすると断言し、後にウェスパシアヌスの息子のティトゥス(後の皇帝)の友人になった。ドミティアン(テイトスの弟)が皇帝になったときにアポロニオスは地方を反対させ、彼はローマに送られるように命令された。彼は自首し皇帝の前に喚問された。彼はネルウァ(Nerva:後の皇帝)を賛美し、すぐに投獄して鎖で繋ぐように命令された。彼は奇跡的に逃げ、残りの日々をエフェススで送ったと言われている。
 アポロニオスと医術の関係は旅行において彼がアスクレピオスの神殿を訪ねたこと、病人の治療、および、証拠が無い自然法則への勝利、と関係している。彼は死人を立たせたり、悪魔を追い払うなど、キリストの生涯から借用したと思われる奇跡を行ったと言われている。彼が哲学者でありピタゴラスの信奉者であることは疑いも無い。全体として彼の経歴は奇跡が関係する部分を除いて信ずることができる。彼が自分自身で奇跡の能力があると主張していないことは注目しなければならない。ニューマン(Newman)が彼の「アポロニオスの生涯」で、アポロニオスの奇跡についてのことは、キリストの奇跡物語に由来しているものであって、救世主キリストの評判を落とそうとする人々がでっち上げたものと考えている。彼を異教のキリストにしようとする試みが最近になり蘇っている。
 臨床医学の領域でたぶん彼はペテンで成功したのだろうが、暗示による正しい方法も使ったであろう。そして疑いも無く、勉学および今日では知られていない治癒能力や医学知識の種目を持った人々のあいだを旅行することによって、医学知識を得たのであろう。
ウェティウス・ウァレウス
 ウェティウス・ワレウス(Vettius Valleus)は馬術家の身分であって医学には何の名誉も与えなかった。彼はクラウディウス帝の夫人であるメサリナのみだらな友達の1人であり、紀元後48年に処刑された。彼はテミソンの理論の信奉者であり、プリニウスによると新しい医学セクトを創始したとのことである。しかし殆どすべてのメソヂストはメソヂスムの教義に何か加えたり除いたりして新しいセクトを創始しようとしていたとのことである。
スクリボニウス・ラルグス
 スクリボニウス・ラルグス(Scribonius Largus c.45AD)はクラウディウス帝の医師であり、ブリテンに従った。彼は何冊かの医学書を書き、頭痛から治るのに電気を使った。
アンドロマコス
 大アンドロマコス(Andromachus)はネロの医師であり最初の宮廷医であった。彼はクレタ島に生まれた。彼は彼の名前がついた複雑な薬「テリアカ・アンドロマキ」(Theriaca Andromachi)の発見者であった。彼はこれを作る指示を174行の詩にした。この詩をガレノスは引用して、指示を忘れないようにし似たものに変えないようにするためにアンドロマコスは詩にしたと言った。
 小アンドロマコス(Andromachus)は上記の最初の宮廷医の息子であり、父親と同じようにネロの医師であった。彼は3部からなる薬学の本を書いた。
トラレスのテサロス
 リディア出身のトラレス(Tralles)のテサロス(Thessalus)はネロの治世にローマに住んでいて、自分の本の1冊を皇帝に献呈した。彼は医学の知識が無いペテン師であったが、能力と自信を充分に持っていた。彼は言った。医学はすべての術の上を行くものであり、彼はすべての他の医師の上を行く、と。彼の父親は織手であり、テサロスは同じ職業につき、医学の訓練は受けたことは無かった。このことは彼が医師として大評判になり開業医として財産をつくることを妨げなかった。最初に彼はメトジスト(方法主義者)の見解に関連したが、その後に適当と思うようにその見解を直し、彼が新しい真の医学システムの創始者であると大衆とたぶん自分が思うようになった。彼は非常に無礼で尊敬のない言葉で先人たちを罵り、彼の前には誰一人として医学の科学を進歩させることは何もしなかったと言った。生まれつきの賢明さのほかに、彼は自己宣伝の大きな能力を持ち、金持ちや影響力を持つ人たちをおだでることができた。彼はお世辞の名人であった。ガレノスはしばしば彼を言及していたが、いつでも軽蔑を伴っていた。テサロスは6ヶ月で医術を教えることができたし、そのように公言していた。そして彼は職人、織手、コック、屠殺者、などの一行を連れていて、彼らは彼の患者を殺すことも治すことも許されていた。テサロスの時代の後ではローマの医師たちは往診のときに学生たちを連れて行くのは慎むようになった、とシュプレンゲルは述べている。
 彼は慢性および頑固な症例を治療する方法を始めた。治療の最初の3日は植物薬品である吐剤および厳しい食養生であった。次に断食が続き、そして最後は強壮剤および健康増進剤であった。彼は痛風にイヌサフラン(コルヒチンを含む)を使ったと言われている。アッピア街道のテサルスの墓はプリニウスの時代には見ることができた。それには「医師の勝利者」という尊大な意匠が記されていた。テサルスの成功は大衆が本人自身の意見に従ってある男の評価をするという皮肉な信念を証拠づけているようである。
プリニウス
 大プリニウスは紀元後23年から紀元後79年まで生きていて、ポンペイとヘルキュラネウムが破滅したヴェスヴィウスの噴火にさいして死亡した。彼は科学者ではなかったが、すべての情報を驚くべく大量に記録した。彼は真と誤りを区別したり真理に比較的な価値を与えることが出来なかったので、この情報の多くは不正確であった。
 自然史についての彼の膨大な本は自然史に属すると正しく見做すことのできない多くの主題を含んでいる。これは36冊の本と1冊の索引からなっていて、2000冊から編集した2万の重要な事柄を取り扱っていると著者は言っている。
 プリニウスは医師ではなかったが彼は医学について書き、当時の医学知識の状態の絵を描いた。主題についての彼自身の意見は価値が無い。彼は魔術を医学の一分野と思っていて、それぞれの病気に幾つもの治療法があると思うほど楽天的であった。人体、魚、植物、から得た医学の価値についての彼の記載は正確であるよりはむしろ絵のようである。
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第8章 紀元1世紀および2世紀


アテナイオス―生気学派―折衷学派―聖アガティノス
 ストア派でアリストテレス学派であるキリキア(Cilicia:小アジア)のアテナイオス(Athenaeus)は、生気学派(プネウマ学派)をローマで紀元後69年ごろに創始した。この学派はプラトンの哲学によって促進されたものである。プネウマ(生気、大気)すなわちスピリットは彼の意見では健康の原因であり病気の原因であった。彼らは動脈の拡張はプネウマを前の方向に送り出し、動脈の収縮は反対の方向に送り出すと信じた。プネウマは心臓から動脈に移る。彼らの理論はまた元素と関係する。このようにして熱と湿の結合は健康を保ち、熱と乾燥は急性疾患を起こす。冷と湿は慢性疾患を起こし、冷と乾は精神の低下を起こし、死亡のときには乾と寒の両者がある。これらの変わった意見にも拘わらず生気学派は科学をあるていど進歩させ、それまで知られていなかった幾つかの病気に気がついていた。ガレノスは大気学派について、「彼らは自分たちの意見を捨てるぐらいなら、自分たちの国に背くだろう」と言った。生気学派のセクトの創始者が非常に大量の著作を書いたことは、オリバシオス(オレイバシオス:Oribasius c.320-400)が1つの著書の27巻を引用していることに示される。生気学派の教えはガレノスで有名な折衷学派の教えに急速に道を譲った。折衷学派は教条学派、方法学派、および経験学派、の教えを調和させることを試み、それぞれのセクトの最良の教えと思うものを採用した。折衷学派は、同じではないが、エピシンテティク学派に似ている。エピシンテティク学派はアテナイオスの弟子でアガティノス(Agathinus)が創始したものである。彼はスパルタに生まれた。ガレノスがしばしば引用しているが、著作は1つも現存していない。
アレタイオス
 カッパドキア(中央アジア)のアレタイオス(Aretaeus)は紀元1世紀ネロ帝やウェスパシアヌス帝の治世にローマで開業した。彼は内科学についての1冊の本を刊行しこの本は現存している。この本は病気の諸症状を正確に記載し、診断のために役に立っている。彼は腎臓が腺の性質を持っていることを最初に明らかにし、カンタリデスを抗刺激剤に初めて使った。アレタイオスがヒポクラテスの教えに密接に従ったことは驚くべきことではないが、ヒポクラテスが健康回復のために必須と考えた「自然力」のあるものは調べるのが正しいと考えた。彼は瀉血に反対せず、強力な下剤を使い麻薬もまた使った。彼は同時代の医師たちに比べるとどのセクトの意見にも拘っていなかったし、彼の意見は驚くべく正確であり治療は信頼できるものであった。アレタイオスはアスクレピアデスが最初に提案した気管切開手術に反対し、「炎症の熱は傷から強くなり窒息をひきおこし、患者は咳をする。そして患者がこの危険を逃れても、傷口は両方が軟骨であって一緒に成長しないので融合しない。」彼はまた象皮病は感染性であると信じていた。アレタイオスの著書は8冊からなり種々の原語の多くの版があった。数章だけが失われている。
アルキゲネス
 アルキゲネス(Archigenes)は聖アガティノス(Agathinus)の弟子でありユウェナリスが述べている。アルキゲネスはシリアに生まれ、トラヤヌス帝(98-117)の治世にローマで開業した。彼は新しく非常に曖昧な言葉を著作に導入した。彼は脈拍について書き、ガレノスが注釈を書いた。彼はまた熱の分類を提案したが、この問題についての彼の見解は思索的な理論であって、実際的な経験や観察に基づくものではなかった。彼の貢献は赤痢の治療に阿片を提案したこと、および肝臓膿瘍の症状および進行を正確に記載したこと、である。権威者のあるものは彼が生気学派のセクトに属すると考えている。
ディオスコリデス
 ディオスコリデス(Pedanius Dioscorides 40-90)は薬物学(Materia Medica)の有名な参考書の著者であった。時代が違うと同名の医師が何人か居た。彼は1世紀にプリニウスより少し後に生きていたが、正確な時期は疑いがある。彼の5冊の本は彼の死後に何世紀も薬物学の標準的な著書であった。彼は薬品として使われる全ての材料について編集し、それらの性質および作用を記載した。これは多大の知識と努力を必要とし、この当時にどのような薬が使われているかを示す役割がある。この頃以後に実際に薬物学のすべては変化した。彼は主として正統な教条学派の信念を持っていたが、彼が推奨する多くはこのセクトの学説からなるのではなく、明らかに経験学派的なものであった。ディオスコリデスの記載は短いし、彼の先駆者の誤りが彼の本にあるので、彼が述べている多くの薬品を同定するのは困難と言うか不可能である。
 ガレノスが医学の臨床における権威者であったのと同じように、ディオスコリデスは薬物学(Materia Medica)の権威者であり、この2人の後を継ぐ者たちは盲目的に従うことで主として満足していた。1806年に英国ではディオスコリデスが記載したギリシャの植物を図解する膨大な著作が刊行された。
カシウス・フェリクス
 カシウス・フェリクスは紀元1世紀に生きていたと思われているが実際には彼の履歴は何も知られていない。彼は医学および物理学についての84の質問と回答からなる1冊の本を書いた。
ローマにおける疫病流行―古代の外科器具
 79年にヴェスヴィアス噴火の後でローマで大疫病があった。歴史家は噴火の後の大気の汚染によるものとした。国の荒廃した部分からの難民はローマ市に群がり、市にはひどい貧困とゴミの蓄積があり、これは疑いなく疫病の真の原因だった。当時における熱の手当は最良のときでも非常に不完全であり、疫病のときに予防と治療は全く存在しなかった。ローマ市および近郊では毎日1万人が死亡したと計算されている。ポンペイの発掘により紀元1世紀の終わりに向けての外科学の知識の状態の多くが明らかになった。ヴルペス教授は遺蹟から見つかった外科の道具について書いていて、ナポリ博物館には古代の外科道具のコレクションがある。膣と直腸のスペクラが見つかった。また脳の表面から骨折による骨片を取り除くピンセットもあった。ヴルペス教授が動脈鉗子と想定した道具があった。発見された他の道具としては、腫瘍を取り除くための鉗子、(ケルススにより記載された道具のように)水腫のときに叩く道具、7種類のゾンデ、青銅のカテーテル、89種類のペンチ、種々なナイフ、骨を持ち上げるもの、ランセット、スパーテル、焼灼器、鋸、および、頭骨用の冠状のこ、があった。
ヘロドトス
 ヘロドトスの名前を持つ何人かの内科医や外科医が居た。この名前の有名な外科医が紀元100年ごろにローマに居た。彼はアテナイオス(Athenaeus)の弟子であり、ガレノスおよびオリバシオスによって引用されている。このヘロドトスはバスによるとザクロの根をサナダムシの治療に使うことの発見者であった。
ヘリオドロス
 ヘリオドロスはローマの有名な外科医であり、ヘロドトスと同じころ生きていた。彼はユウェナリスと同時代人であった。彼は内尿道切開を行い、四肢切断、頭部外傷、ヘルニアについて記載した。
カエリオス・アウレリアノス
 カエリオス・アウレリアノスはたぶん紀元1世紀に生きていたのだろう。しかしガレノスと同時代でありライバルであると信じていた著者も存在した。その理由は片方は他方について述べないし、また述べられていないからである。しかし、この観点はこの専門の初期のリーダーによる医学倫理の標準から見て不必要に過酷だからである。
 彼の著述のスタイルからカエリオス・アウレリアノスはギリシャまたはローマに生まれたのではないと考えられる。彼はまったく方法論学派のセクトに属していて、彼の著述はこのセクトの教えを非常に完全に明らかにするのに重要である。
 彼はそれ以前には記載されていない幾つかの病気について述べていて、症状について大事な知識を持っていた。彼は病気を2つのクラスすなわち急性症と慢性症に分けていて、方法学派の言葉使いによると収縮(constriction)の病気と拡張(relaxation)の病気である。アウレリアノス自身は病気の原因には関わらなかった。彼の方法はある病気がどのクラスにあるかを見つけて、それに応じて処置をした。彼はこのように非常に実際的であり、満足すべき基盤の上で充分に治療を行った。彼の主な弱点は種々の相違と少しづつの変化を認めなかったことであり、彼は彼の学派が認めている2つのクラスにまりにも重点を置き過ぎたことであった。
 彼は病気が属しているクラスを自分で満足したと確かめるまで、積極的な療法を控えた。カエリオス・アウレリアノスは急性症について3冊の本、慢性症について5冊の本を書いた。彼は水腫を叩いて治した患者の症例、および矢で肺を貫通したが治った患者の症例、を記載している。彼は気管支切開を非難する点でアレタイオスと一致した。彼の本は文章の良いスタイルでは書かれていなかった。
ソラノス
 エペソス(Ephesus)のソラノスは方法学派の優れた医師であり、トラヤヌスおよびハドリアヌスの治世にローマで開業していた。彼は女性の病気についての優れた著作をした。このうちで15世紀にコピーされたギリシャ語の草稿はパリの王立図書館でディーツ(Dietz)によって発見された。ディーツはプロイセン政府の依頼によってヨーロッパの公共図書館を調べていた。悪い保存状態ではあったが、同じ研究者はまたこの著作の別なコピーを、ヴァティカン図書館で発見した。ソラノスの著作の一部はオリバシオスの著述の中に保存されている。ソラノスが非常に優れた産科医であり婦人科医であったことは疑いが無い。子宮、その靭帯、および子宮で起き易い移動についての彼の記載は解剖学の実際的な知識を示している。古代の医学書著述者と違って、以前の著者たちからコピーした種々の方法を記録する方法を採用せず、彼の教科書は体系的であった。病気を記述するにあたって、彼は歴史的な前置きから始めて、その病因、症状、経過、および種々の病相おける治療に進んだ。産科学についての記述は、産科学が彼の時代には良く理解されていたことを示している。難産(dystocia)、子宮の炎症、および子宮脱についての彼の著述はたぶん最良のものである。彼はまた子宮切断についても記述している。彼がスペキュラを使っていたことは興味深い。彼は助産婦の資格について述べている。彼女は解剖学を非常によく知る必要は無いが、食養生、薬品学、および胎児回転のような小手術、の訓練が必要である。彼女はすべての不正および犯罪行為、誘惑から陥ることはなく、迷信的であったり強欲であるべきではない。
 子宮内反症の問題を取り扱うのにあたって、ソラノスはこれが臍帯の牽引によるのであろうことを指摘した。他の方法が失敗したときに彼が胎児切断を考えたことは注目に値する。
 彼の時代にハンセン病は非常に流行していた。多分これはまず東洋からポンペイを経て運び込まれたに違いない。ソラノスが使ったこの病気の治療法のあるものはガレノスの著述に見られる。ソラノスは他の医学分野についての本を書いたが、見せかけのものと彼が書いた真のものを区別するの困難である。同じ名前の他の医師が存在した。ガレノスは薬学についてソラノスの本を引用し、カエリオス・アウレリアノスは熱についての本を引用した。彼はまたテルトゥリアン(Tertullian)により引用され、パウルス・アエギネタ(アエギナのパウルス)によってはメジナチュウ(guinea-worm)を記載した最初のギリシャ人とされている。ソラノスは聖アウグスティン(Augustine)の意見によると「最も後期な医学権威者」(Medicinae auctor nobilissimus)であった。彼は魔術を公然と批難していることから判るように、当時の偏見や迷信とは全く無縁であった。
エペソスのルフス
 エペソス(Ephesus)のルフスもまたトラヤヌス帝の治世(98-117)に暮らしていた。彼の本はガレノスの時代より前のアレクサンドリアにおける解剖学の知識の状況を明らかにしている。反回神経はその頃に発見されたばかりであった。彼は脾臓を役に立たない臓器と考えていた。彼は頸動脈ではなくてこの神経を圧迫すると声が出なくなること、この神経は脳から出ていて、感覚神経と運動神経であることを理解していた。心臓は生命の座であり、心臓の左心室は右心室よりも小さく壁の厚いことを観察していた。捻ると血管からの出血を抑えられることを彼は知っていた。彼は眼の水晶体に膜のあることを示した。彼はまた痛風についての38章からなる本を書いた。ルフスの著作の多くは失われたが、断片は他の医学書に残されている。
マリヌス
 マリヌスは紀元1世紀から2世紀にかけて生きていた解剖学者で医師であった。クウィントゥスは弟子の1人と言われている。
 マリヌスは解剖書20冊を書き、ガレノスはこれについて抄録および解析を書いた。ガレノスはマリヌスが解剖学を回復させた1人であると言った。彼は腸管の腺組織を研究し、海綿と比較しこれの機能は周囲の構造を濡らし滑らかにすると考えた。彼はまたヒポクラテスの金言についてコメンタリーを書いた。彼が小プリニウスの医師であったポストゥミウス・マリヌスと同一人か否か確かでない。
クウィントゥス
 クウィントゥスは紀元2世紀の前半にローマで有名であった。ガレノスと同じように同業者たちの嫉妬および虐待を受け、彼らは彼が患者たちを殺したとのでっちあげをし、彼は市から逃げざるをを得なかった。彼は解剖学の達人と言われたが1冊も医学書を書かなかった。医学史学者のうちには彼がガレノスの師であったと言うものも居るが確証は無い。
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第9章 ガレノス


彼の生涯と著作
 ふつう英語でガレンと呼ばれているガレノス(ラテン語:Claudius Galenus)は他の医学著者よりも医学の進歩に著述によって影響した。彼の影響は14世紀にわたる素晴らしいもので、彼自身の独創的な貢献もあるが、主として彼の同時代の医学知識および彼の先輩の研究の展望を、百科全書として書いたのが特徴である。彼の著作には彼自身の生涯についての大量の情報が存在している。彼はハドリアン帝の治世の紀元後130年にペルガモンに生まれた。彼の父親は学者であり、母親はかなりジャジャ馬であった。ガレノスは子供のときに父親の例および指示に多く学び、15才のときにストア派、プラトン派、アリストテレス学派、快楽主義派、の哲学者たちに学んだ。「彼はプラトンの理想主義、アリストテレスの現実主義、エピキュリアンの懐疑主義、ストア派の唯物主義から出発した」、とムーア博士は書いている。17才のときに父親の見た夢により医学を専攻することになった。彼は当時における最も優秀な人の下で勉強した。彼はスミルナに行って医師ペロスおよびプラトン主義者アルビヌスの弟子になり、コリントスではヌメシアヌスのもとで、アレクサンドリアではヘラクリアヌスの講義を聞き、キリキア、フェニキア、パレスチナ、クレタ島、キプルス島、へ行った。29才のときにアレクサンドリアからペルガモンに帰り(紀元後158年)、剣闘士学校の医師に任命され、有名になった。
 紀元後163-4年に彼は初めてローマに行き4年のあいだ滞在し、彼は解剖学およびヒポクラテスとプラトンについて書いた。彼は開業医として有名になり、希望したら皇帝に付きそうことも出来ただろう。しかし皇帝付きの医師になるとローマを離れたいと思ったときに難しいだろうと思った。彼は公開の講義および討論を行い、「名講演者」であるだけでなく「名研究者」と呼ばれるようになった。彼の成功は嫉妬を呼び、あまり成功していないライバルに毒殺されることを恐れた。彼がローマを離れた理由は確かではないが、可能性のある理由はグリーンヒル博士の「ギリシャとローマの伝記と神話」に論じられている。この頃ローマで疫病が起こったが、彼がこのために患者を見捨てたことはありそうもない。多分、彼はローマが好きでなく故郷が懐かしかったのであろう。彼はペルガモンには非常に短期間だけ居ただけで、彼はヴェネティアに居たマルクス・アウレリウス帝(121-180AD)およびルキウス・ウェールス帝(130-169AD)に呼び戻された。後者はローマに帰る途中に卒中で死去し、ガレノスは首都までマルクス・アウレリウスに従った。皇帝はこの後すぐに戦争をするためにドナウ川に向かいガレノスはローマに残るのがアスクレピオスの意思であると言って残ることを許された。ガレノスは皇帝の息子であるコモドスの世話を父親の不在中に行った。そして、この頃(紀元後170年)ガレノスは有名なテリアカ(万能薬品)をマルクス・アウレリウス帝のために処方し、帝は少量づつ毎日服用した。その後、セプティミヌス・セウェルス帝は同じ医師の同じ薬を約30年にわたって使った。記録によると哲学者エウデミウスはテリアカを使いすぎたための重病をガレノスによって治してもらったが、この治療法とはこの同じ薬の少量を服用することであった。
 ガレノスは数年のあいだローマに留まり前回と同じように著作をし開業した。彼は再びペルガモンに戻り、多分2世紀の終わりころローマに居たと思われる。199年に生きていたことは確かであり、多分カラカラ帝の治世には住んでいたようである。
 彼は偉大な医師だっただけでなく、あらゆる面で広い教養を持った男であった。宗教に関して彼は一神教信者であった。彼の時代にキリスト教信者は迫害されていて、彼はこの新宗教の信者とは接触しなかったし、この問題についてゆがめられた話を聞いていたと思われる。しかしアラビア語伝記者が引用している失われた彼の本の1冊で、キリスト教信者が徳を愛していることを彼は高く評価している。
 彼は有名になって医学開業が金もうけになることを知ったのは疑い無い。そして執政官ボエティウスの夫人を治して350ポンドを受け取ったことが記録されている。
彼の医学への影響
 ガレノスは厚いのや薄いのや500以上の参考書を書いた。大部分は医学が主題であったが、倫理学、論理学、文法学、も含まれていた。彼のスタイルは優れていたが、どちらかと言うと冗長であり、彼は古代のギリシャ哲学者を引用するのを好んだ。彼の時代の前には既に見たように種々の医学セクトのあいだの論争があった。教条学派ドグマティストおよび経験学派エンピリシストの信奉者たちのあいだには数世紀にわたる相反対する論争があり、折衷学派エクレクティシスト、生気学派、エピシンテティストはガレノスの時代の直前に起きた。ガレノスは如何なるセクトにも奴隷的に隷属するのに反対し、「彼の一般的な信条として彼は教条学派セクトに所属するとかんがえられるだろう。彼の方法は事実の観察で得られるすべての知識を一般的な理論的原理にまで切り詰めるからである。実際に、彼はこれらの原理を経験および観察から引き出すと宣言し、経験を集めるのに彼が努力していること、および観察をするにあたっての彼の正確さについて、大量の証明を我々は持っている。しかし少なくともある意味において、彼が全ての医学的推理の基本としている原理と関係の無い個々の事実や経験の詳細は、殆ど価値が無いと彼は考えていた。この基本点において、従って、ガレノスの追求した方法は我々が今では科学的研究の正しい方法と考えているものと全く反対である。そしてまさしく、これは間接的な経路ではあるが、大部分の例において彼が最終的な目的に達することができた自然の天才の力である。ガレノスはヒポクラテスを尊敬していて、常に最も深遠な尊崇の言葉で彼について語り、彼の原則の上で行動し、彼の原理を説明し、これらを新しい事実と観察によって支えている、のに過ぎないと言っている。しかし実際のところ、実体および様相にせよヒポクラテスとガレノスのあいだのように異なり、前者の平易性と後者の難解さおよび優雅さのように強くコントラストしている、著作者は殆ど居ない。」
 ガレノスの著作の種々な版のリストはスミス博士の『ギリシャ人およびローマ人の伝記および神話の辞典』に取り扱っている医科学の分野に従って分類した参考書の表題があり、この分類に従うのが便利である。

※(ローマ数字1、1-13-21) 解剖学と生理学についての著作


 ガレノスは解剖学の研究が必須であると主張し、この点において、医師は正確な人体構造を知らないでも病気を理解できると信じていた、方法学派および経験学派の観点とは衝突していた。彼の解剖学著書は元来15冊であった。終わりの6冊は今ではアラビア語の翻訳版だけ存在し、そのうちの2冊はオクスフォード大学のボーレアン図書館に保存されている。
 解剖のための指針は彼が名人であったことを示している。門脈とその分かれを解剖するのに、例えば彼はゾンデを門脈に差し込み、周囲の組織を切断するのに伴ってゾンデの先端を次第に前進させ、最終的には細い枝を明らかにする。彼は吹管の使用および解剖に使う他の道具について記載した。彼は動物の腸骨動脈と腋窩動脈について結紮実験を行い脈の止まるのを見たが重篤な症状の原因にはならなかった。そして頸動脈を結紮しても死なないことを見た。しかし頸動脈を結紮しても声が出なくなることは無く、声が出なくなるのは神経を動脈と一緒に不注意に結紮したことによる。彼は動脈管(ボタロー氏管)および動脈の3層構成を最初に記載した。
 ガレノスは非常に多種類の下等動物を解剖しているが、ローマで人体解剖を行った可能性は著しく低い。ドイツとの戦争でマルクス・アウレリウスに従った医師が野蛮人の死体を解剖したことを彼は書いている。解剖学者としてのガレノスが犯した間違いは、下等動物の解剖で正しいことは人に応用して正しいという仮定であった。
 ガレノスは、身体のすべての部分は一定の機能を果たすのを目的として、存在していることを認識して、生理学の進歩を大きく助けた。アリストテレスはプラトンと同じように「自然は何も無駄にしない」と教え、ガレノスの哲学はアリストテレスの教えによって大きく影響された。ガレノスは自分の働きを「造物主の名誉における宗教的な賛歌であり、造物主はその目的に完全に応じて、すべてのものを創る全能性の証明」と見なしている。彼は人類の手をサルの手の研究から導き出し、脳の蜘蛛膜の知識を持っていなかったにもかかわらず、種々の部分、例えば手や脳膜の構造を絶対的に完全なものと見なした。幾つかの比較的に重要でないことを理解しなかった故に彼の結論を批判するのは不当なことである。
 彼は運動神経を実験によって切断し筋の麻痺を起こしてその機能を発見した。広頚筋、背側骨間筋、膝窩筋を初めて記載した。彼は脈拍についての最高権威者であり、拡張期ヂアストール収縮期シストールおよび、ヂアストールの後の間隔とシストールの後の間隔からなっていることを理解した。アリストテレスは動脈が空気を含むと考えていたが、ガレノスは血液を含んでいると考えていた。何故かと言うと、動脈を傷つけると血液が噴出するからであった。彼は血液循環の発見からあまり遠くはなかった。彼は心臓の外見が筋であることを記載して、これが自然の熱の源と考え、激しい感情の座とした。彼は人骨の解剖学をよく知り、学生たちにアレクサンドリアに行って骨を取り扱い正しく研究するように忠告した。吸気は胸の拡張と関係し空気は篩骨のくし状板を通して頭蓋骨内に入り、同じ道を通って外に出て体液を脳から鼻に運び出すと考えた。しかしこの空気の一部は残って脳の前室で生気(vital spirit)と結合し、最終的には霊(soul)の座である第4脳室から出されるとした。アリストテレスは心臓が霊の座であり、脳は比較的に重要でないと教えていた。

※(ローマ数字2、1-13-22) 食養生および衛生についての著作


 ガレノスは運動と体操の強力な支持者であり、とくに狩猟を称賛した。彼は若者には冷浴を推奨した。高齢は「冷たく乾いて」いるので、温浴とワインにより治療すべきとした。ワインはとくに高齢者に適当と考え、年をとると1日に3食、他は2食とした。彼は食料としてブタ肉を高く評価し、運動家の力はこの種の食料が無いと保つことができない、と言った。

※(ローマ数字3、1-13-23) 病理について


 ガレノスは四元素の理論を信じ、推測を進めて更に細かい分類を信じた。「火は熱と乾。気は熱と湿、気は蒸気のようなものである。水は冷で湿、地は冷で乾。」人には3つの素がある、すなわち、精、個体、体液である。そして健康と病気のあいだに生命と関係して8つの気質がある。彼は生気学派の教えから多くのものを残し、プネウマは霊と異なり霊と身体のあいだの媒体である。気が鼻を通して脳室の成分と作用するという彼の理論からは彼がクシャミ薬を使用しクシャミが役立つという彼の信念が説明される。ガレノスの炎症分類は彼の病理学は彼の解剖学および生理学ほど正確なものでないことを示している。彼は(a)血液だけの過剰による単純な炎症、(b)プネウマと血液の過剰による炎症、(c)黄胆汁が介入した丹毒性炎症、(d)粘液が存在したときの硬変性または癌性炎症、を記載している。彼は病気の原因を近因と遠因に分類し、前者を傾向性と興奮性に細分類することにより、大きな貢献をした。

※(ローマ数字4、1-13-24) 診断について


 彼は「限界日」の理論に大きく依存した。ある程度これは月によって影響されていると考えられた。脈拍についての彼の研究は診断に非常に役立った。彼は疑いなく診断学者として優れており、これは彼の長期にわたる種々で費用がかかる医学教育および彼の判断の偉大な自然力によるものであった。神の助けによって誤りを犯したことはないと彼は主張したが、彼の最も熱心な尊敬者であっても彼らが「never」を「hardly ever」したら熱意の不足することはないであろう。

※(ローマ数字5、1-13-25) 薬学、薬品学、および治療学


 この主題においてガレノスはディオスコリデスのように有能ではなく、ディオスコリデスの教えを他の医学著作者の教えと同じように採用した。ガレノスの著作には複合医薬の長いリストがあり、幾つかの薬が同じ病気に推奨され、非常にはっきりとした自信は無かった。彼は種々のいかがわしい薬に高い値段を払い、言うのは悲しいことだが、彼の時代には一般的であり迷信的なローマ以外のどこでも無いように、魔除けを非常に信頼していた。薬品は治療効果ではなく、固有な乾燥度すなわち湿り気、冷たさすなわち熱、のような質によって彼自身が分類した。ある薬は第一度の冷たさであり、第二度ではない。不思議で馬鹿らしいガレノスの学理にパウルス・アエギネタ(Paulus Aegineta:ビザンティンの医師、c.625-c.690)が密接に従っていたことは、薬物学からの次の引用が示している。

 コジアオイ(ロック−ローズ) 弱い冷却力のある収斂性の低木。その葉と新芽は乾燥性で傷を凝集させる。しかし花はもっと乾燥性であって、第二度である。従って飲むと赤痢などすべての種類の下痢を治す。
 フェルム(鉄) 水の中でしばしば消すとそれはかなりの乾燥力を与える。従って飲むと、これは脾臓の病気に対応する。

 しかし、ガレノスの治療学の教えおよび臨床の多くの特徴は称賛する価値がある。彼は二つの基本方針を宣言した。(1)病気は自然に反するものであり、「病気そのもの」に反するものによって打ち勝つ、(2)自然は自然と関係するものによって保存すべきである。侵入した病気は追い出すべきであるが、患者の力と構造は保全すべきであり、すべての霊において病気の原因は処置すべきであり症状は処置すべきでない。弱い患者に強い治療は行うべきでない。

※(ローマ数字6、1-13-26) 外科学


 ガレノスは静脈切開(瀉血)にランセットを使用し、エラシストラトスの弟子たちに反対してこの術を擁護していたが、ローマの医師たちの習慣に従って外科治療は殆ど行わなかった。彼はカリエスの治療に胸骨の一部を切除し、また側頭動脈の結紮をしたと言われている。

※(ローマ数字7、1-13-27) 婦人科学


 婦人科学についてガレノスは表面的以上の知識は持たず、女性の病気の外科学については全く無智であった。彼は子宮およびその付属装置の解剖学について、ソラノスのようにはよく知らなかったが、以前の人たちより卵管(Fallopian tubes)についてはよく知っていた。彼は子宮転位の原因について誤った考えを持っていた。誤ってガレノスが書いたとされている何冊かの本には女性の種々の軽い病気の治療が扱われている。
 ガレノスは広範な教養を持つ男であり、彼の随筆の一つは医師が医学以外に知識の他の部門に親しむことを説得するのが目的で書かれていた。哲学者として彼はプラトンおよびアリストテレスとともに引用されていて、彼の哲学的な著作はアラビアの著者によって大いに使われた。彼は哲学においても、医学におけると同じように、種々の思想の学派の教え研究し、特にどのセクトに縛り付けられることはなかった。彼は確実さに到達できないという懐疑派の信念に反対し、非常に困難なときには自分の判断を保留するのが、彼の習慣であった。例えば心(soul)の本体に関連して、彼は定まった意見に到達できていない、と書いた。
 診察における医師の恥ずべき行為についてガレノスは述べている。時に何人かの医師が診察をすることがあり、しばらくのあいだ患者を忘れたように見えることがあり、激しい論争をする。彼らの主な目的は自分たちの論証の巧みさを示すことであり、彼らの議論は時に殴りあいになる。これらの恥ずべき行為は彼の時代にはむしろ多かった。
 ヒポクラテスの場合と同じようにガレノスの場合に、どの著述が真であり、どれが偽物であるか言えないことがしばしばある。彼は自分がヒポクラテスの後継者であると思っているように見え、「私の前には誰も病気を取り扱う真の方法を与えたものはない。私は告白する、ヒポクラテスは今まで道筋を示してきた、しかし彼は入ってきた最初のものだったので、希望したように遠くまで行くことができなかった‥‥彼はすべて必要な区別をせず、古代の人たちが簡明にしようとして普通に起きるように、しばしば曖昧であった。彼は複雑な病気について非常に少ししか話していない。言い換えると、彼は他人が完成するであろうものをスケッチした。彼は道を開いたが、後継者が広げて平にするために残している。」ガレノスは病理学においてヒポラテスの体液説に厳しく従い、治療学についても彼に大きく従った。
 ガレノスの医学についての見解がどのようにして一般的に受け入れられ、彼が死んだあとで長いあいだ知識の領域で長いあいだ独裁者になったかは興味深い推論である。彼は素晴らしい男ではあるが、決して天才ではないし、自分のセクトを創りはしなかった。彼に権力のあった理由は、彼の著作は彼の時代までの医術の百科事典的知識を提供し、自分自身の注釈と追加を加え、大きな保証を持って書き、最終的であると感じさせたからである。これは彼がヒポクラテスの始めたところで終わっていたことを断言したからである。世界は政治的および哲学的な争いに疲れていて、権威者を待っていた。ローマの戦争は権力をただ一人の男である皇帝の手に渡した。哲学者と医師たちの討論と口論は同じような結果を与え、医学の世界ではガレノスに皇帝の紫衣が与えられた。
 従って、ガレノスの著作の効果は、最初には、医学知識に付け加えて医学知識を強固にすることであったが、彼の影響はすぐに進歩にたいする障害となった。16世紀および17世紀においてさえガレノス主義は議論の余地の無い支配力を持っていた。
 ガレノスの家はフォロ・ロマーノのロムルス神殿(訳注:ローマの始祖ロムルスとは無関係)に向かいに建っていた。この神殿には紀元530年に法王フェリックス四世が、ディオクレティアン帝(245-312)のときの殉教者である2人のアラビア人無償医師、聖コスマと聖ダミアノを、祀った。
 ガレノス死去の年月日は正確に知られていないが、たぶん紀元200年であろう。
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第10章 ローマおよびビザンチン時代の後期


下降の始まり
 ガレノスの死は古代における医学の下降を示しており、この下降はローマ帝国の転覆と同時のものであった。誰でも知っているようにローマ帝国の下降と崩壊は皇帝の不品行と無能、大衆の贅沢な生活と不道徳、国内においては高圧的な軍人の独裁、そして異邦人の敵の攻撃が徐々に増加したこと、の結果であった。ローマは急速に異邦人の手に落ち、その権力は失われた。395年にビザンチン帝国が創設され、東ローマ帝国、ギリシャ帝国、または下級帝国と呼ばれ、千年以上は続き、名前を首都からビザンティウムまたはコンスタンティノーブルと呼ばれた。この帝国で医学は弱いまたは病的な存在を保った。このビザンティン期にある程度は目立った医師がいたが、彼らは主として解説者であり、医学は前進するよりはむしろ後退した。
新プラトン主義
 ネオプラトン主義は医術に強い影響を与えた。これはプロティノス(Plotinus:205-270)によって創始され、3世紀にわたりキリスト教にたいするて恐るべきライバルであった。ネオプラトニストは人が直感的にエクスタシーと呼ぶ能力によって「絶対」を知ることができると信じていた。ネオプラトニズムは非常に広い範囲の思想を含んでいる。本質的にこれは哲学と宗教を結合したものであり、アレクサンドリアの知的人の運動からおきたものであった。これは多くの神秘主義、魔術、心霊主義を含み、このシステムの追随者は進行すると病気を治すのにある種の運動やシンボルの有用性の信者になった。彼らはキングスリー(Charles Kingsley 1819-1875)が書いたように「エクスタシー、千里眼、痛みの無感、今ではメスメリズムと呼ばれている治癒、の妖精の国。これらの新しい謎はすべて智を求める遠い昔の古い本の中にある。」人類が知識を求めるに当って円を描いて進行することは素晴らしい。
 紀元の最初の数世紀にキリスト教が医学の研究に及ぼした影響は次章で述べることにしよう。
アンテュロス
 アンテュロス(Antyllus)はたぶん古代における最も優れた外科医だったろう。彼は4世紀の終わる前に生きていたと思われる。オリバシオスが引用しているがガレノスは述べていないからである。彼が生きていたのは300年の頃だったろう。彼には大量の著作があったが、その後の著者が引用したもの以外は消滅してしまった。彼の著作の断片は集められ1799年に出版された。アンテュロスは動脈瘤の手術をした。これは袋を横にして切り開き、血塊を取り出し、血管を上と下に保持し、肉芽を形成して傷が治るようにする。この手術は麻酔も消毒も無くて行われたので、死亡者は多く二次的な出血も非常に多かった。アンテュロスは吃り治療の手術、白内障、腱切断による拘縮の治療を行った。彼はまた頸部の大きくなった腺を除いた。これはアンテュロスが動脈を切る前に結紮したときの方法の一部であり、医学史の研究を無視していたのでこの方法は後になり「再発見」された。彼は頸部の手術において頸動脈および内頚静脈を避けるように指示した。
 アンテュロスの著作の断片はパウルス・アエギネタによって保存され、古代になされた仕事の質を示している。これは気管切開手術についての彼の記載であり、次の如くである。
「この手術を行うのにあたり、喉頭の下、気管の一部を第3、第4の環の部分で切り開くとよい。これは全部を切開するのは危険だからである。この場所は肉がついていないし、近くの別れた部分に血管が無いので、広くて便利だからである。従って患者の頭を後ろに倒すと、気管は前に来て見やすくなるので2つの環のあいだを横断して切断すると、軟骨ではなく、軟骨を結合している膜が切断される。もしも手術者が少し臆病だったら、最初に皮膚をフックで伸ばして別ける。それから気管に進んで血管を別ける。とよい。もしも何かが邪魔だったら、切り口を入れてもよい。」この手術はアンテュロスの300年前にアスクレピアデスにより提案されていた。
オリバシオス
 オリバシオス(Oribasius)はガレノスが生まれたペルガモンで紀元326年ごろに生まれた。彼はゼノンのもとで勉強し、アレクサンドリアで講義をし臨床をし、主教により追い出されたが、後にユリアヌス帝(英語:Julian 361)の命令によって元に戻された。ユリアヌスが小アジアに監禁されたときにオリバシオスは帝と知り合いになり親友になった。ユリアヌスがカエサルになっとときにオリバシオスはゴールに随伴した。この旅行でオリバシオスはパトロンの要求に従い、ガレノスの著書の要約を作り、すべての以前の医学著者たちの著書のコレクションを含めるまで拡大した。この仕事が最終的に完成したときに、これは70冊の本からなり、「Collecta Medicinalia」と名付けられた。彼はまた友人および伝記作家エウナピウスのために病気とその治療のための2冊の本、および解剖学とガレノスの諸著作のための参考書を書いた。彼はまた自分自身のためにガレノスのサルという題を手にいれた。エウナピウスによる伝記「オリバシオスの生涯」によると、ユリアヌス帝はコンスタンティノプルにオリバシオス専門役人を新設したが、ユリアヌスが死去するとオリバシオスは追放されて「異邦人」のあいだで医療を行ったが、大評判になった。この追放のあいだに彼は良い家庭の金持ちの婦人と結婚し、息子たちの1人エウスタティウス(Eustathius)に彼の最初の大きな本の要約本を与え、この小さな本は「Synopsis」と呼ばれた。最終的に彼は追放から帰り、再び非常に名誉ある位置につき、これは彼が逆境に耐えた大きな忍耐に相当するものであった。
 オリバシオスの1つの版は6巻で Daremberg と Bussemaker によりフランス政府の援助のもとに1851年および1876年にパリで刊行された。この版の著者たちはオリバシオスのこの本の原典を求めるのに苦心をした。この主な著者はガレノス、ヒポクラテス、ソラノス、ルフス、アンテュロス、であった。オリバシオスは殆ど全く編集者ではあったが、幾らかは独自の著作を書いていた。彼は中耳および唾液腺について貢献した。彼はまた珍しい病気の狼つき(lycanthropy)について記載した。これは患者自身が狼と考え、夜中に家から出て墓のあいだを放浪するものであった。
 オリバシオスは当時における最も賢い男とされた。彼のマナーと話し方はチャーミングであり、異邦人たちは彼をほとんど神様であると考えていた。
マグヌス
 マグヌスはメソポタミアの生まれでゼノンの弟子でアレクサンドリアで講義をした。彼は雄弁であり論理的な能力を持ち、「尿」についての本を書いた。この本はテオフィルス(Theophilus:700年頃、尿検査の創始者)によって引用されている。
ヤコブス・プシクリストゥス
 ヤコブス・プシクリストゥスはコンスタンティノプルで開業(457-474)した有名な医師であった。彼の治療は大成功だったので「救世主」と呼ばれた。
アダマンティウス
 アレクサンドリアのアダマンティウスは医学を教えるのと開業の両方をした。彼はユダヤ人医師で415年にアレクサンドリアを追放されてコンスタンティノープルに定着した。
 メレティウスはキリスト教の修道士で権威者によると4世紀に生きていたが、もっと後の6世紀か7世紀に生きていたかも知れない。彼は人の自然について書いたが生理学への貢献としては価値が無い。
ネメシオス
 エミッサ(Emissa)の主教のネメシオス(Nemesius)は4世紀の終わりに「De Natura Hominis」を書き、2つの重要な発見に非常に近づいた。すなわち胆汁の機能と血液循環であった。前者について彼は書いた。「黄胆汁は自分自身のためにも他の目的のためにも成立っている。何故かと言うと消化および排泄物を外に出す。従って一面では栄養臓器であり、その他に生命力のように一種の熱を身体に与える。従ってこの理由により自分自身のために作られる。しかし血液を浄化するので、このためにも作られているようである。」
 血液循環と関連してネメシオスは書いた。「脈拍の動き(生命力とも呼ばれる)は心臓の主として左心室から起きる。動脈は大きな激しさをもって、運動は心臓から始まり、一種の一定のハーモニーと順序で、拡張し収縮する。動脈は拡張するにあたって近くの静脈から血液の薄い部分を引き寄せ、その血液の放出物、言い換えると蒸気は生命スピリットの栄養物となる。しかし収縮するにあたって、心臓が煤を口や鼻から呼気として出すときに、全身から秘密の通り道を経てこれの持つどんな煙でも外に出す。」
 この本は1636年に最初に英語に訳された。
 ネメシオスはまた宗教および哲学について書いた。彼はハーヴェイの発見を予期できるほど充分には進んではいなかったが、彼の医学的における貢献は大きい。
アエスティウス
 アミダ(メソポタミア、現在トルコ)のアエティオス(Aetius)は5世紀の終わりまたは6世紀の始めに生きていた。彼はアレクサンドリアで勉強しコンスタンティノプルに定着して宮廷侍従になり、ユスティニアヌス大帝(483-565)の侍医になった。彼はキリスト教信者であることを公言した最初の有名な医師であった。薬を調合するにあたって次の祈りを小さい声で言うことを奨励した。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神よ。この薬にこれこれの効能を与え給え。」喉にささった骨を抜くときに医師は大声で次のように言うように、「イエスキリストが墓からラザロを出し、ヨナがクジラから出たように、殉教者で神の召使であるブラシウスよ、『骨よ、出てくるか、下がれ。』と命ぜよ。」
 アエティオスは『医学についての16の書』を書いた。これには独自のことも書いたが、主として当時の医学知識を編集したものが役に立った。彼はある種の東洋の薬、たとえばクローヴや樟脳、を述べた最初の著者であり、東洋とくにエジプトのキリスト教信者の呪文や魔除けをよく知っていた。
 その頃に使われていたすべての家伝薬、お守り、魔除け、が書きだされ、当時に広がっていた迷信や無学についての気持ちの悪い絵が示された。アエティオスの著作の外科学および婦人科学の部門は大部分に優れていた。彼は切断した動脈を捻ったり結紮し、傷を冷たい水で洗浄した。結石切断の手術で彼はナイフの刃を管で保護することを推奨した。彼はとくに麻痺のさいには、その時代に流行していた排液線および焼灼止血を使った。彼はアルキゲネスを引用した。「頸のうなじにかさぶたをつくるのを私は決してためらうべきではない。ここでは脊髄が高まって、それぞれの側に2つある‥‥それで潰瘍がしばらくのあいだ続くなら、完全な回復を疑うべきでない。」
トラレスのアレクサンドロス
 トラレスのアレクサンデルは525年から605年まで生きた。彼は医師の子で5人の兄弟の1人であり、彼らはすべて学問で優秀であった。彼は哲学と医学を勉強しフランス、スペイン、およびイタリーを旅行して知識を広げた。彼はローマに永住し非常に称賛された。彼は盛んに開業するには年老いたときに、ガレノスの教えにあるていど従い暇を見て病気についての12冊の本を書いた。これらの本のスタイルはエレガントであり、病気についての彼の記載は正確であった。病気で頸静脈を開いたのはトラレスのアレクサンデルが最初であり、鉄その他の有用の治療法を使った。しかし迷信を信ずる時代であり、彼は騙されやすかった。テンカンに彼は7週間にわたり河口で疲れきって難船した船の帆布の一部を、仙痛には右太腿につけたヒバリの心臓を、腎臓の痛みにはヘラクレスがライオン退治をしている魔除けを、推奨した。痛風の悪魔よけには呪いを使い、これは口頭または月が欠けたときに金箔に書いた。オリーブの葉に適当な献辞を書いて日が上る前に集めるのはマラリア熱にたいする彼の特効薬であった。アレクサンデルは時にこのような治療法が魔除けとして役に立たないと疑っていたようであったが、彼の金持ちの患者は理論的に正しい治療を受け入れないと言い、それで治療に役立つと言われている別の方法を使わざるを得なかった。
疫病
 ユスティニアヌス帝の時代に大災害が世界を荒廃させた。紀元526年にアンタキア(英語で Antioch、古代シリア王国の首都)は地震で破壊され250,000人が死亡したと云われる。しかし人類への最も恐ろしい天罰は542年とそれに続く年のものであり、ギボン(Edward Gibbon 1737-94)が書いたように「ユスティニアヌス帝およびその後継者たちの時に大地の人口は減少した。」プロコピオス(Procopius)はこの時期の歴史家(訳注:政治家、名文家。本書では医師にもなっている)であった。この恐ろしい病気は Serbonian bog(エジプトの湖)とナイル川の東川床に始まった。「そこから二重の道を通り、東に広がってシリア、ペルシャ、インドを越えて西に入り込み、アフリカ海岸に沿ってヨーロッパ大陸に行く。2年目の春に3、4月のあいだに、コンスタンティノプルは疫病に襲われる。そしてプロコピオスは病気と症状の進行を、医者の眼で見て、ツキジデス(Thucydides)がアテネの疫病を記載した巧みさと熱意で張り合った。感染は時には調子の狂った空想で発表され、犠牲者は危機を聴き見えない幽霊の足音を感ずるや否や絶望した。しかし、ベッド内、街路、いつもの仕事で大多数は、軽い熱で、実際に非常に低く、患者の脈拍も顔色も危険が近づいている感じはなかった。同じ日、次の日、または次の日に、リンパ腺が腫れる。特に鼠径部、脇の下、および耳の下に腫れる。これらのよこね、すなわち腫れ物を開くとレンズマメの大きさの黒い物質が見つかる。もしも最初にそれが膨れ上がり膿になると患者は病的な体液の自然排出によって救われる。しかしこれらが固く乾き続けると壊疽が急速に起きて、一般に5日が彼の生命の最後である。熱にはしばしば昏睡や意識混乱が伴う。病人の身体は黒い膿疱や皮下の化膿で覆われる。発疹が起きるには体調があまりにも弱かったときには血液の嘔吐に続いて腸管の壊疽が起きる。この疫病は妊婦にとって一般に致死的である。しかし1人の子供が死んだ母親から生きて引っぱり出された。しかし3人の母親は胎児が感染して失われたのに生き続けた。若者はもっとも危険であった。そして女性は男性よりも感染しにくかった。しかし地位や職業専門とは無関係に攻撃される。そしてコンスタンチノプルの医師たちは熱心であり巧みであったが、彼らの技はこの病気の種々な症状や頑固な激しさによってまごつかされた。同じ療法が正反対の効果を産み予期できない事柄が死または回復の予知を判らなくする。葬式の順序や墓場の権利が困らせられた。友達や召使が無くて残されたものは埋葬されないで街路や寂れた家に残される。そして司法官は死体を手当たり次第に集め、陸上または水上で輸送し、市の領域外の深い穴に埋葬することが許された‥‥この極端な状況における死者の数についての事実は残っていないし推測さえ無い。私がようやっと見つけたのは3ヶ月のあいだに5,000人であり、そして様々の曲折を経て毎日10,000人がコンスタンティノプルで死んでいることが見つかった。東部の多くの市は空になり、イタリアの幾つかの地域で作物やワインが萎びて残った。」
 東洋から西洋への病気の拡散は中世になって十字軍のさいに十字軍兵士が病気を故郷に持ち帰ったときに再び示された。面白いことに故郷で病院を監督した聖ヨハネ騎士団は白衣を着ていたが、これは古代にアスクレピアドを区別するものであった。
モスキオン
 モスキオンは多分6世紀に生きていたのだろう、そして女性の病気の専門家であった。ソラノスが忘れられたときに、彼の著作が研究された。しかし時の経過とともにモスキオンの著述はソラノスの著述の省略版の翻訳に過ぎないことが判った。「さらに、ウェーバーとエルメレンスにより、モスキオンの元来の著作もソラノスに直接に基づくものではなく、4世紀にカエリオス・アウレリアノスが書いたものを基礎にしたもので、これはソラノスから引用したものであった‥‥これらの異なる版を見てこの本の歴史を追跡するのは興味深い。ラテン語を話す婦長や助産婦のためのラテン語初版は5世紀に、西ローマ帝国が滅びる前に出版されと考えられ、ギリシャ語の妹の版は6世紀に東ローマ帝国すなわちギリシャ語を話すコンスタンティノプル帝国の成立と丁度一致するものである。そして教養の無いラテン語の版はその後になり西ヨーロッパで再び学問が行われるようになった後の時期のものであることを示している。」モスキオンの本は152の問答からなる問答式入門書である。
パウルス・アエギネタ
 パウルス・アエギネタ(アエギナのパウルス)はギリシャの医者として最後に有名であり、最も有名な一人であった。彼はたぶん7世紀にアエギナ島で生まれたであろうが、生きていたのがいつかには疑問がある。彼はトラレスのアレクサンダーとアエティオスを引用していて、従って6世紀にせよ7世紀にせよ彼らよりも後まで生きていたことになる。パウルスの著作は編集であるが、著者としての能力と経験のあることが示されている。彼は何冊かの本を書いているが主著である1冊だけが残っている。これは「医学についての7冊の本」として知られている。バンチョリのアダム博士はシデナム協会のためにこの本を訳し、序文はこの本の範囲を示している。「最初の本には衛生学に関係するすべて、それから保存したもの、種々の年齢、理由、気性、その他と関係する病気、訂正、を見るであろう。それから種々の食物の力と利用、を目次の章にあるように見るであろう。2番目の本には発熱の理論の全部が説明され、大便排泄、臨界日、その他、のようにそれと関係する現象が前置きされ、そして熱と一緒に起きる症状で終わる。3番目の本は話題の病気に関係して頭のてっぺんから始まって足の爪までの問題、などである。短く言うと、4番目の本は外部の病気を取り扱う。5番目は傷と毒のある動物に噛まれたときものである。6番目は最も重要で外科についてであって独自の観察を含み、7番目の本は薬品の性質に関することを含んでいる。」パウルスは産科についての有名な本を書いている。この本は今では失われているが、アラビア人のあいだで彼は「男の産婆さん」の称号を得た。
 外科学についての6番目の本はアダムズが見たように、「我々が古代から受け取った外科手術の最も完全な体系を含んでいる。」多くの重要な外科学理論が述べられている。例えば全身に対して局所の消耗、そして自由な外部切断。彼は最初に種々な静脈瘤を記載し、アンテュロスが記載したように気管切開の手術をする。彼は膀胱から結石を除くのに側面手術を好み、乳房ガンの切断に十字切開を行う。彼はまたアンテュロスと同じように動脈瘤の手術をする。短く言うとパウルスは現在に行っているように多くの手術をおこなっている。彼は天職を行うために旅行をして、ビザンティン帝国およびアラビアで一生のあいだに名声をあげただけでなく、何世紀にもわたって大きな影響を及ぼした。彼の著述は中世における外科学の数少ない教師の一人であるアルブカシス(Albucassis)を奮い立たせた。
医療の衰退
 パウルス・アエギネタの時代の後に内科学および外科学の臨床は急速な低下を起こし、そして5世紀にわたって進歩は起きなかった。中世は医学史において暗く憂鬱な期間であり、我々が古代の人たちに匹敵する技と知識を見つけるには比較的に最近まで来なければならず、急速に卓越するようになるのは現代になってからである。
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第11章 愛他主義および医療へのキリスト教の影響


エッセネ派―カバラ派の人たちとグノーシス派の人たち
 (ユダヤ教の)エッセネ派セクトは彼らの信仰の他にキリスト教の教えの一部を含んでいた。全能の神はサインとシンボルによって機嫌をとらなければならないと彼らは考えていた。言葉は彼らによると人間への神の直接の贈り物であり、従って言葉を表現するサインは非常に役に立つものであった。従ってお守りとカバラのサインを使うことにになり、これらはこのセクトが設立されるずっと前から存在したもので、むしろいつでも使われるべきものである。お守りは各人が身につけるべきものであった。ユダヤ人は聖句箱または聖句を書いた羊皮紙を持っていた。紀元1世紀にユダヤ人、ピタゴラス派、エッセネ派、および、その他の神秘主義者のセクトが結合して、カバラ派とグノーシス派を創設した。彼らの信条はペルシャの魔術、アスクレピアードの夢、ピタゴラス派の数字、デモクリトスの原子説を含んでいた。アレクサンドリアのソフィストは実際に魔術を科学とみなしていた。初期クリスチャンの一部はグノーシス派であり、東洋の哲学が滲み込んでいた。カバラ派の人たちおよびグノーシス派の人たちによると、病気の原因はデーモンであった。これらのセクトは悪い魂がどこに潜んでいるか見つけようとして尋ね、お守りと護符によって彼らを悪魔払いした。種々の幾何学図や装置は悪い魂に反対する力を持っていた。これらの図の1つは2つの三角形が組み合っているダビテの星であった。これは神のシンボルとして使われて、カバラ派とグノーシス派だけでなく、ユダヤ人も使用した。初期キリスト教信者はグノーシス派と対立し、キリスト教と東洋哲学を不思議に混在させているグノーシス派を拒絶し忌み嫌った。
キリスト教伝道の目的
 キリストは奴隷にたいする迫害がたぶん最悪のときに世界に来た。「『彼』は奴隷制度を直接には非難しなかった。この理由は『彼』の伝道の本質を研究すると判るであろう。『彼』は個人を回心させるために来たのであり、『彼』の言葉は無数の直喩により『彼』の教えた原理は長期間かかるゆるやかな発展によって成功する、と信じていたことを示した。世界の唯一の真の革新は、制度または政府の改革によるのではなく、プラトンが求めた――愛の力――と同じような力、しかし完全で『彼』的なモデルで『彼』自身への愛による個人の性格の変化、によってのみ得られることを、『彼』は疑いなく示した。それは魂における『神の王国』であり、これは人の社会に神の王国を持ち来すものであり‥‥そしてこのキリスト教システムは最終的にすべてこれらの人間社会進歩の基礎に見つかるであろう。しかしこれは個人を目的として始まるものであって、社会が目的ではない。そして愛情および道徳の傾向の全変化だけを目的としている」(ブレイス)。
ストア派の人たち
 ストア派の道徳の教えはキリスト教に次ぐだけであり、監禁および虐げられたものたちへの人間的な処理の理論を導入した。しかしストア派の人たちは、多くのキリスト教信者たちと同じように、彼らの原則に従っていつでも行動を起こすことはなかった。セネカは、手足を切断した奴隷の肉片を魚に与えて楽しんでいたストア派の1人について話していた。ユウェナリス(皮肉屋、詩人、60-140)はストア派の影響が最高のときに、「どうしたら奴隷が人間になるだろうか」と書いた。ストア派法律家のガイウス(2世紀ごろ)はマルクス・アウレリウス帝(ストア派学者)の治下に奴隷を動物どもに分類した。
コンスタンティヌス帝とユスティアヌス帝
 コンスタンティヌス帝(c.227-334)は自己の性格としてはキリスト教の美を示さなかったが、彼の法律(キリスト教を国教とした)の枠を作った顧問たちはキリスト教の教えのもとで行動した。この皇帝は奴隷に関連した法律を通過させた。彼は大司教に書いた。「次のことが確立したことは長いあいだ私を喜ばせた。すなわち、キリスト教教会においてキリスト教聖職者の助けのもとで全ての集まった人たちの面前で行うならば、事実の記憶を保つために文書をもって集まったものたち又は証人としてどこに署名するかを知らせるならば、所有者たちは彼らの奴隷に自由を与えることができること、である」と。異教の時代にも所有者が奴隷に自由を与え、どこかの神殿に記録することができた。
 ユスティニアヌス帝の法律は主としてキリスト教の教えの影響により、奴隷の重荷を下ろすための多くのことを行った。「我々は人々を自由な条件から奴隷に移すことはしない――我々は奴隷を自由な状態にするのに多く心している。」教会の初期の神父たちの1人の言葉によると、「キリスト教信者は誰も奴隷ではない。再び産まれたものはすべて兄弟たちである。」
剣闘技
 ストア主義者は剣闘士の戦いを批難したが、これらの哲学者たちは一般人たちに影響を与えなかった。コンスタンティヌス帝はキリスト教を受け入れる前に囚人の多くを円形闘技場の野獣の犠牲にした。紀元325年に彼は次の法律を施行した。「血腥い見世物は、現状における平安および国内の平和においては我々を喜ばせない。従って全ての剣闘士に彼らの職業を禁止するように命令する」と。ローマでプリニウスやセネカのときにすら、行われていた人間を犠牲にすることは、剣闘士の競技を禁止するのと同じ影響により禁止された。
 コンスタンティヌス帝はギリシャやローマで異教の時代に盛んであった不道徳な競技や見世物を禁ずる法律を通した。
孤児院
 セネカは書いた。「奇形の子孫を我々は殺す。子供たちも同じである。もしも弱く不自然に産まれたら溺れさせる。これは怒りではなく道理である。このようにして役に立たないのを健全なものから区別する」と。ストア派のユリウス・パウルス(3世紀の法律家)はセウェルス帝(222AD)に、堕胎をしたり子供を飢えさせたり死なせた母親は、それぞれは同じに殺人とみなす。キリスト教の神父たちはこれらの悪に反対し、彼らの創始者の教えに従って行動して、そして彼らはストア派よりもずっと大きく強い力で絶えずこれらの悪い行為を批難した。ストア派はキリスト教信者たちによる多くの改革を期待していたが、ストア派は国民の多数に何らかの強い影響を及ぼすことはできず、その点でキリスト教とは違っていた。子供たちが危険に晒されることを防ぐことができない主な障害は、ローマ帝国に広がっている貧乏が著しかったことと、キリスト教信者の皇帝たちや委員会が、これらの不幸な子どもたちが寒さや飢えで死んだり貪欲な野獣によって裂かれるよりは奴隷になるより仕方が無かったからであった。実際に、異教の皇帝たちは孤児院を作ったが、これらの施設は中世に至るまで普通ではなかった。トラヤヌス帝は紀元100年に国家財政で5000人の子供たちを助け、彼はこのために基金を作った。ハドリアヌス帝(76-138AD)、アントニヌス帝(19-160AD)、マルクス・アウレリウス帝は同じような援助を行い、プリニウスは貧しい子供たちに寄付を行った。
貧乏人の援助
 キリスト教以前の時代に、人々は一緒に食事をしたり相互に助けあったり埋葬費用を準備したり、するための社交クラブが存在した。ユリアヌス帝はキリスト教徒が貧しいキリスト教徒だけではなく貧しい異教徒も援助することを批難した。暫くのあいだ、教会は貧しい人たちの面倒を見ていた。教会の敵たちは、貧乏を救うと同じ数の貧乏が作り出されると言い、よく見られるように慈善の配分では為された善が悪と混ざらないことはあり得ない。

病院


病院の創設
 病院設立の重要問題と関係して2つの相反する意見がある。1つは病院設立を完全にキリスト教の影響によるとする肯定論で、他は特に顕著なキリスト教の影響が無いとする否定論である。真理はこの2つの相反する見解のあいだにあるが、マクケイブ氏(否定)よりはブレイス氏(肯定)に近い。マクケイブ氏の心の中において、事実およびキリスト教の影響は、とくに初期および中世における教会の数多い誤りによって、判らなくなっている。そして新約聖書で明らかなキリスト教創設者の教えと、多くの非常に明らかな誤りを犯した教会の教えとのあいだの違いを、必要なときに区別することが非常に重要であり、教会のキリスト教の行為はキリスト教の創始者が説き聞かせたものとは、間もなく大きく変り、教会のキリスト教とキリストの教えとの違いはソドム(創世記19)のワインとエシュコル(民数記13)のブドウの違いであった。キリスト教がこの失墜から抜け出した事実はキリスト教が人間の作ったシステム以上のものであることを示している。
 非常に古い時代に病人は彼らの病気の治療のために神殿に留まることを許され、医学生たちが治療の指図を行った。神殿は今日の言葉の意味における病院ではないが、このシステムは後世の病院システムである。ギリシャおよびローマのアスクレピオス神殿で流行っていたシステムはこの本で既に述べた。しかしサトゥルヌス神殿は紀元4000年前にエジプトで同じ目的で役立っていた。この問題についての権威者であるライプツィヒのエベルス教授によるとヘリオポリス(エジプトの都市)は神殿と関連して疑い無く病院を持っていたと言っている。阿育アショーカ王(紀元前250年ごろ)はヒンドスタンに多くの病院を作り、仏教徒やイスラム教徒の両方ともに病院を持っていた。
キリスト教と病院
 病人たちは神殿に引きつけられた。これは聖職者――医師の世話を受けるためだけでなく、聖なる建物の部分に特別な効力があるという迷信的な信頼にもよるのであった。このようにして病んだ人々は出来るだけアスクレピオスの神殿で祭壇に近づく。「キリスト教の時にこれらの神殿が使われなかったことが病院の必要性をもっと明白にし、病院の創設に導き、この国(英国?)において修道院を圧迫したのと同じように窮乏した貧しい人たちを助け救貧法の必要性は直ぐに明らかになった。」ハドリアヌス帝の治世に軍病院の最初の告示が行われた。
聖ファビオラ―キリスト教の博愛主義
 ガレノスその他が記載しているイアトリアとか医学旅館は入院患者の為ではなく外来患者を引き受けるためのものであった。セネカはヴァレトゥディヂナリアについて言っている。これは大きな個人宅において病人のために準備した部屋である。キリスト教時代のローマにおける最初の病院は金持ちの婦人ファビオラが4世紀末に作った。これに付属したのは田舎における回復期ホームであった。プルケリア(東ローマ帝国皇女、398-453)はコンスタンティノプルに幾つかの病院を建設し、その数は増えた。パウリンは富と社会位置を捨ててエルサレムに行き、そこで聖ジェロム(ヒエロニムス)の指導のもとに病院および女子修道会を創始した。聖アウグスティヌスはヒッポ(アルジェリア)に病院を建てた。マッカベは正しくも次のように言っている。「新しい宗教聖職にヨーロッパで全く新しい社会奉仕のヒロイズムが生まれた。ストア主義のすべての話の中には、シエナのカサリン(1347-1380)がハンセン病患者の膿を吸ったりヴァンサン・ド・ポールのような例は無い」と。キリスト教が直接では無いにしても個人の性格の影響によって、病院や慈善組織の創設に重要な役割を果たしたことは明らかである。この点においてローマ教会はキリスト教信仰の教えに従った。
デモン理論が教会に認められる
 重要なのはキリスト教および教会の、病気の研究および排除に及ぼす影響の考察である。このことについて教会は極めて厳しい譴責を受けなければならない。教会が世界の科学進歩を何世紀にもわたって遅らせたと言っても誇張ではない。教会は病気を引き起こす原因の説明に、エジプト、ペルシャ、および東洋から貰ったデーモン学説を適用した。聖書そのものも記録された出来事の時におけるデーモン学の見解を反映している。もしもデーモンが病気の原因としたら、論理的に言って病気の処理は聖職者の手にあるべきであって医師には無い。聖職者は自分たちが全能者の意思を解釈するのに適しており、病気は神の摂理の直接な施し物であると思っている。
修道院医学
 オリゲネス(神学者、182-251)は言った。「飢饉、果物の不作、空気の腐敗、悪疫、を起こすのはすべてデーモンである。彼らは雲、低い大気に隠れて舞い上がり、異教徒が彼らを神として奉納する血液と香りによって惹きつけられる。」「キリスト教信者のすべての病気はこれらのデーモンの所為である。」と聖アウグスティヌスは書いた。「彼らは洗礼したばかりの信者を襲う。そうだ! 罪の無い産まれたばかりの子供すら襲う。」ヒポクラテスはキリスト教時代のずっと前に、いわゆる神聖なる病気と関係して書いた。「このような病気はすべての他の病気と同じように神聖なものであると私には思われ、。そして、どの一つの病気も他のものより神聖ではないし、より人間的ではない。しかしすべては同じように神聖である。何となれば各々は独自の性質を持ち、どれ一つとして自然の原因が無ければ起きない。」
 不愉快な物質――糞、処刑された罪人から取った脂肪、ガマガエルの肝臓、ネズミの血液、などなど、を使うと悪魔は嫌になって追い出されるだろうと、考えられた。デーモンが取り付くという同じ考えは精神障害者の非人間的な処理に導き、この点で教会の行為をムーア人(イスラム教徒)のより賢く人間的な行為と比べると教会は恥じなければならない。この信仰は医学の進歩を何世紀も絞め殺し、これは直接に教会の責任である。1583年になってもウィーンのジェスイット神父たちは12,642の悪魔祓いをしたと自慢していた。神が健康と病気の両方を取り扱うという考えは「悪魔が取り付く」ことに関連している信仰とは完全に異なる。今日、東洋の遠くの地域を旅する旅行者がデーモンが取り付く疑わしい例を話すが、これらの例とテンカンや急性躁病は研究によって区別することができない。
治癒の奇跡
 紀元の最初の数世紀に人々は神の恩恵のはっきりとした兆候を要求し、教会や修道院にある尊崇の対象は病気を治すことができると思った。ローマ教会は関係する全ての病気を治すことができる聖人と聖人の聖遺物を持っていた。聖アポロニアは歯痛に対し、聖アヴェルティンは精神障害に対し、聖ベネディクトは結石に対し、聖クララは眼痛に対し、聖ヘルベルトは恐水症に対し、聖ジョンはテンカンに対し、聖マウルは痛風に対し、聖ペルネルはマラリアに対し、聖ジェネヴィヴは熱に対し、聖セバスティアンはマラリアに対し、聖オッティラは頭の病気にたいし、聖ブラジスは頸の病気に対し、聖ローレンスと聖エラスムスは身体に対し、聖ロクスと聖ジョンは脚と足の病気に対し、聖マーガレットは子供の病気と出産の危険に対し。
聖パウロ
 主の時代における医学にたいしてキリストの地上における生涯の影響はどうであったかは、難しい問題である。主は魂を救うために来たのであり人の身体を救うためではなく、社会条件を急速に変えるためでゃなく科学を教えるためでないことは、覚えていなければならない。人の永遠の生命は非常に重要な課題であり、多くの初期のキリスト教信者は自分たちの魂を救うために身体を無視したことは疑い無い。これに対して愛の福音は、すべての人間は結合しているにせよ自由であるにせよ兄弟であり、このことは身体的な苦難において相互に助けあい慈善的な設備を創設することになった。キリスト教信者の迫害にさいして、多くのものは永遠の至福の入り口として苦難および死を喜んで受け入れた。
聖ロカ
 キリストが自分自身の目的で行った奇跡治療は彼の信者たちに普通の方法による自然治癒を無視させ、クリスチャン医師に医業を捨てさせるのではないかと主張されてきた。しかし、そうではない。クリスチャン医師であり第3の福音書と使徒行伝の筆者である聖ルカにとって、キリストによる治療の奇跡は何の問題でもなかった。彼は聖パウロの旅行同伴の医学顧問であり、トロアスからピリピ、ピリピからエルサレム、カエサリアからローマ(62AD)、の3回の旅行を一緒にしていたからである。聖パウロは書いた。「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちにとしては死の宣告を受ける思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神はこれほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださるでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。」(コリントの信徒への手紙2:8-10)聖パウロは信仰を働かせたが、それとともに「愛する医師」が処方した治療方法も使った。ダブリン大学出版部から1882年に出された非常に学問的な本で、W・K・ホバート師は聖ルカがギリシャ医学著者たちの医学用語に通じていたことを示している。聖ルカはアジア系ギリシャ人であった。ホバート法学博士は書いている。「最後にどんな病気であろうとも聖パウロにとって聖ルカほど信用する医師の無いことを忘れてはいけない。何故かと言うと全ローマ帝国でその当時において聖ルカだけが唯一のクリスチャン医師だったからである。」後になり、奇跡で病気を治すように見せることは迷信を進め科学研究を遅らせる大きな効果を持った。
プロクロス
 タキトゥス(56-117)とスエトニウスはウェスパシアヌス帝(9-79)が行ったと云われる奇跡を記録している。彼はアレクサンドリアの盲人の眼に王の唾をつけて視力を回復させたと云われる。他は手を使えなくなった人の例であり、彼は足で触れて機能を回復させた。ネオプラトン学派最後の長であったプロクロス(412-485)の経歴を追うと面白い。ギボンは言っている。「アレキサンドリアのイシドーラス(c.450-c.520)の最も優秀な二人の弟子が書いたプロクロスの生涯は、人間の理性の二番目の子供時代の最も嘆かわし像を示している」と。長い断食と祈りによりプロクロスはすべての病気を追い出す超自然の能力を持っているように振舞った。
解剖学が批難される
 教会の聖職者たちは解剖を非難して、アレクサンドリア学派やガレノスのような人たちによる進歩を、千年にわたる無智に変化させた。人体は聖なるゴーストの聖堂であったので、解剖によって汚すべきではないとのことであった。異邦人休息所および病院は修道院と結び付けられ、とくに十字軍のときには極めて有用であった。しかし、これらの教会の施設は非常に非衛生的であり、清潔は神々しさに次いで重要であるという金言は中世の聖職者のあいだでは殆ど適用されなかった。ワルシュ博士(1865-1942:カトリック系医学史家)は、宗教改革者が自分たちの去った教会の名誉に墨を塗っていることを示そうとして、これは「不幸な状態であって、法王の科学への真の反対ではなく」我々が「教会と科学のあいだの想像上の対立」の信念を持つのが問題であると言っている。法王が突発的に医学を促進し、法王の医師が任命され、教会が学問の座をコントロールすること、は認められる。修道院がラテン語の古典を保存しすべてを破壊しなかったこと、すべての聖職者は馬鹿でなく怠け者ではないこと、これらは論ずる必要がない事実である。キリスト教の敵が彼らの例を誇張しているのもまた事実であるが、すべてを述べると、事実が残る。すなわち教会は知識を促進し病気を研究する機会があったにも拘わらず、長年にわたって実際の進歩を遂げることに失敗した。これは決して極端な意見ではない。進歩がなされなかっただけでなく、ヒポクラテス、アレクサンドリア学派、ケルスス、ガレヌスによってなされた進歩が失われたことは真に近いであろう。
キリスト教は愛他主義の第一要因[#「キリスト教は愛他主義の第一要員」は同行小見出し] 結論として、古代および中世における教会の恐るべき大失敗および悪用にも拘わらず、そしてキリスト教の受けた部分的な失墜にも拘わらず、主の教えは異教者による激しく残酷な道を確かに終わらせ、医学知識と医学奉仕が重要な部分を占めているその後の愛他主義を促進させる主な要因となった。
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第12章 屋内体育場と浴場


体育


 古代ギリシャで体育は非常に重要であり身体の鍛錬は少年たちの教育にとって他のすべての勉強と同じような時間がとられ、一生のあいだ年齢および職業に応じて続けられた。ギリシャ人は身体の発展が無視されたら精神的教養が最高の段階に至ることは出来ないと完全に認識していた。サモサタのルキアノス(c.120-c.180:英語ルシアン)は古代ギリシャ人の身体的な優美さだけでなく、精神的な上品さは、彼らが行った体育によるとした。体育はまたギリシャ彫刻の優秀性における重要な要素であり、彼らの医学処理においてもっとも重要な部分であろうとした。
 不幸なことにローマの浴場とギリシャの体育館はそのうちに怠け者と好色者のいる所になった。ギリシャ人の体育運動は非常に古くからであり、最初は戦争のようなものであり、システムにはなっていなかった。それぞれの町は体育館を持っていて、非常に重要な3つはアテネにあった。
ウィトルウィウス
 ウィトルウィウス(Vitruvius c.80-c.15BC)は古代の体育館の全体的なプランを記載している。体育館には、多数の観客を入れることができるスタディウムが1つあり、運動家が練習をし哲学者や賢人が討論をしたり講演をするポーチや木陰や、浴場や、油を塗る部屋、がある。真のギリシャ式建物は彫像や芸術作品で飾られ、楽しい環境にあり、非常に美しかった。
 16才まで少年は体育および音楽と文法を教えられ、16才から18才までは体育だけ教えられる。ソロン(政治家、c.639-c.559BC)の法律は体育館の使用を規制し、非常に多年にわたりこの法律は厳しく守られた。結婚した女性は体育館には出席してはならず、スパルタのようなギリシャの一部で未婚の女性だけは別であったが、この習慣は後にゆるやかになった。
 ギュムナシアルク(体育館の長)の地位は名誉あるものだが、この地位のものは非常に金がかかった。彼は紫の衣を着て白い靴を履いていた。長官は少年や若者の道徳と行為を監督するために任命され、ギュムナシアルクは若者に害のある教えや行為をする人たちを追い出す権利があった。
 体育館の教員の長は適した体育を処方することが可能であるとガレノスは言っており、従って医学的な監督をする権力を持っていた。
 運動を始める前に少年は油を塗られ、細かい砂または粉末で処理された。食養生の規則は非常に重要視された。
 体育館のゲームは数や種類が多く、ボールゲーム、綱引き(tug-of-war)、独楽まわし(top-spinning)、5つの石を手の背に置いて上に投げ掌で受け取る、などなどであった。ロープを高いポストの上に投げ、2人の少年がロープの両端を掴み、1人が他の1人を引き上げるゲームもあった。しかし、もっとも重要な運動は、徒競走、速歩、円盤投げ、幅跳び、レスリング、ボクシング、およびダンシングであった。
 ローマの最初の公共体育館はネロ帝により作られた。共和国時代にローマ人はギリシャの体育を馬鹿にしており、最初のローマの体育館は小さく、個人の家や別荘に接続していた。
体育についての古代の医師たちの意見
 体育館は健康の神アポロンに奉納されていて、運動は医薬品治療よりも健康回復にずっと重要と思われていた。体育館の長は実際に医師であり、そのように振舞った。プラトンによるとイクスという名前の男が医学的体育の発見者であった。今日の我々と同じように、元来は身体が弱かった信用できる体育家たちが体系的な運動と食養生によって健康になっていた。
 ヒポクラテスはある時に長時間にわたる厳しい運動や余計なマッサージに反対し、彼自身のシステム、すなわち適度な運動やマッサージを推奨した。彼は適当な例では、腫れを減らすためにマッサージを行い、同じ処理が栄養を増加させ、成長と発達の増加を起こさせることを認識していた。ヒポクラテスは現在スウェーデン体操として知られている運動を述べている。これは抵抗無しに行う自由運動である。
 一般にガレノスは体育についてのヒポクラテスの教えに従っており、垢すり器を使う利点については1冊の本を書いた。オリバシオスおよびアンテュロスもまた彼らの本で彼らの判断に応じた独自の運動を推奨した。
 古代の医師たちは水腫における運動の利点について大きな信用を持っていて、アスクレピアデスはこの治療の方法を幅広く使い、それとともに楽しい薬剤を用いた。従ってプリニウスは「この医師は彼自身を人類の喜びとした」と言った。結核を患った患者はふつうアレクサンドリアに転地療養をしたが、ケルススは海の旅が最も役立つだろうと考えていた。それは船がゆれると患者の身体が運動をするからである。ゲルマニクス(ローマの軍人、15BC-19AD)は乗馬運動で治癒し、キケロは旅行とマッサージで丈夫になった。
 ギリシャおよびローマの医師が書いたものからすると、運動や体育は医学の目的のために非常に流行っていて大変に有益だという結論以外には得られない。ギリシャの運動およびローマの水浴の両方は、利点から悪用を取り去ると、今日でも利用して、医師が患者の利益のために推奨できる。現在はその方向に向かう強い傾向がある。
運動選手
 競技選手の争いは違う種類に属するものであった。彼らはギリシャの非常な初期を除いて身分の低い種類の人たちであり、彼らの身体は心を無視して発達させられていた。最も厳しい訓練を受けた人たちは大量の肉を食べ、強さよりはむしろ大きさと重さを養うようにした。規則として彼らは35才以上では争わなかった。エウリピデス(c.480-c.406BC:悲劇役者)はこれらの選手は国家にとって迷惑と考えていた。プラトンは、彼らが病気に罹りやすく行儀が悪く乱暴で残酷であると言った。アリストテレスは、競技選手は良い市民が持たなければならない活気を持たないと宣言した。
 ローマの競技選手と剣闘士の大部分はギリシャ人であった。プルタークとガレノスの両者ともに彼らを嘲笑っていた。前者は仕事の全部を非難しし、ガレノスは若者が競技選手になることを反対して6章を書いた。彼は言った。人間は神だけでなく下等動物ともリンクしていて、動物とのリンクは競技によって発展し、競技選手は食事、睡眠、激しい運動、に過度であり、従って非健康であり、他の人々より病気および突然の死が起きやすい。彼らの野蛮な力は稀な場合だけに役に立ち、戦争その他の役に立つ仕事には向かない。
 聖パウロの時に競技選手は明らかに節度があった。何故かと言うと彼は「ゲームに努力する人すべてはすべてのことに控えめである」と言ったからである。しかしローマでその歴史の大部分の時にこの種の人たちは粗野で野蛮なことで悪名が高い。

浴場バルネア


ギリシャ浴場
 ギリシャでは非常に古くから読んだり泳いだりが出来ないのは無能の印と思われていた。ホメロスの時代に温かい風呂にふけることは男らしくないと思われていた。ギリシャにおける入浴のシステムはローマのように完全ではなかったが、しかし前者の国には公共浴場と個人浴場の両者があり、古代のギリシャの壺には水泳浴場とシャワー浴場および大きな池で男子と女子が周りで泳ぐために待っているところが描かれている。ギリシャの浴場は体育館の近くにある。水浴の後で浴者は油を塗り飲み物を飲む。時にライムか木の灰から作った灰汁、硝石、および酸性白土からなるものを身体につけた。油を塗った後でタオルと垢すり器を使った。垢すり器はふつう鉄で作られていた。
 自然の温泉を治療目的に使うことは古いギリシャの著者たちによって述べられている。
ローマ浴場
 ローマの最も古い時代に水浴は流行していなかったが、共和国時代にはふつうになり、帝国の時代には国の衰亡の要因になった。セネカの言うところでは、古代ローマ人は腕や脚を毎日洗うが、全身は週に1回であった。ローマの家で浴室は台所の近くにあり、湯を供給するのに便利であった。スキピオの浴室は「古代のように小さく暗かった。」キケロの時代に公共および個人の浴場の両者が一般的であり、温湯および温気の浴場が記述されている。コンスタンティヌス帝の時代に856の浴場がローマにあった。
 最初に公共浴場は貧しい人だけにより使われたが、アウグスタス帝の母親は公共浴場に行き、後には帝自身も好むようになった。浴場は日の出のときに開き日没で閉じた。例外としてアレクサンデル・セウェルス帝(208-235)のときには夜も開いた。入場料は非常に安かった。ベルを鳴らして浴場の準備完了を知らせた。人々が贅沢な時には続け様に7回から8回も入浴し、人によっては終日そこにいた。帝国の贅沢者は1日の主食の前だけでなく、消化を助けるためと考えて食後にも入浴した。この両方による発汗は仕事や運動による真面目な発汗に代わり、高温の入湯は時には致死的な終わりの原因になった。
 ガレノスとケルススとは入湯者への指図が違っていた。ガレノスは最初にホットエア浴を勧め、次に高温水浴、次に冷水浴、そして最後に摩擦であった。ケルススは最初に発汗、次に温浴、そして最後に頭から冷水、次に垢すり器を使い、油を塗って摩擦をする。
ポムペイの浴場
 主として楽しむためのものだったポンペイの公衆浴場は一般用の公衆浴場の典型的なものであった。浴場には幾つかの入り口があり、主な入り口からは屋根のあるポーチに通じ、ここから手洗い所が開いていた。ポーチはアトリウム(中庭)の三面にあり、中庭には召使が待っており、ここは若者の運動場でもあった。劇場や剣闘士ショウの広告が中庭の壁に貼ってあった。脱衣場は受付でもあり待合室でもあった。浴場に来た人たちの衣服は奴隷たちに渡されたが、奴隷たちはふつう信用を持てなかった。フリギダリウム(低温浴室)には直径13フィート8インチで深さは4フィートより少し浅い冷水槽があった。ここには2つの大理石踏段があり、底から10インチの座席があった。水は青銅の吹き出し口から槽内に入り、外に流れ出る導管があり、オーヴァーフロウ管があった。フリギダリウムはテピダリウム(微温浴室)に開いていて、ここは炉からの熱い空気で暖められ、木炭用火鉢とベンチがあった。ポンペイの火鉢は長さ7フィートで幅は2.5フィートであった。テピダリウムはふつう美しく飾られた部屋であり、油を塗る部屋はそこから適当に離れていた。プリニウスは金持ちで贅沢なローマ人たちが使っている種々の油について記載している。テピダリウムから入浴者はカルダリウム(高温浴室)すなわち汗かき浴室に行く。2重の壁と床からなり、高熱空気が通っている。この部屋にはラブルムすなわち円形の大理石水盤があり、これには入浴者が外に出る前に頭から掛ける冷水が入っている。高温の空気を垂らした床と下層床の間を通して部屋を温める方法はより高級な家で用いられ、装置は今日でもパラティン・ヒルの建物やカラカラ大浴場の遺蹟で見られる。汗かきコースの後で入浴者は身体の汗をストリジル(肌かき器)で除く。これは馬丁が馬の汗を輪状の鉄で除くのと同じである。グトゥスは首が細い小さい瓶でストリジルに油を塗るためのものであった。プリニウスによると弱い者はストリジルの代わりにスポンジを使うこともあった。ストリジルを使ったあとにタオルで擦り、入浴者は最後にテピダリウムに入り、外気に出る前に種々の時間を費やした。
 ポンペイで使われていたボイラーは3つからなっていた。最も低いものは炉のすぐ上にあり、最も高温の湯が入っていた。次に上で側面に近いのは微温湯が入っていて、もっとも遠く離れていたのは冷水が入っていた。このシステムは経済的であった。非常に熱い湯が一番下のボイラーから取り出すと、その上のボイラーから微温湯が流れ出し、一番上から中央のボイラーに流れる。
 男性の浴場に近い入浴用部屋は女性が使用するためのものであった。
公衆浴場―カラカラ浴場
 最も重要な浴場はテルマ(therma)と呼ばれる大きな公共施設の単なる一部であった。テルマの浴場の近くにスポーツや運動のためのギムナジウム、勉強する人々のための図書館、怠け者のためのラウンジ、詩人や哲学者のためのホール、があった。彼らは討論や講演、芸術展示、そして時には森の木陰を楽しんだ。この完璧な公共施設はマルクス・アグリッパがアウグストゥス帝のときに最初に建設した。続く皇帝たちは互いに争って素晴らしいテルマを建設し、カラカラ浴場の遺蹟は今日でも素晴らしく保存された状態で残っている。これらの浴場の建設は紀元216年に始まった。長さ1050フィート、幅1390フィートの構造は殆ど信ずることができない。評価できないほど素晴らしい彫像、稀な芸術作品が遺蹟から掘り上げられた。近年になり複雑な地下の道や廊下が明らかになった。これらは鉛管を浴場に運んだり、浴場従業員としての多数の奴隷たちの通り道であった。大きな建物は中庭の壁にある窓によって良く照明され、この開口部はまた換気にも役立っていた。カラカラ浴場に隣接して大きなスタディウムおよび美しい庭園があった。非常に最近になりこれらの浴場の北西のアレッシオ・ヴァレ(谷)に大きな公共図書館の遺蹟が発掘された。カラカラがアレクサンドリアを略奪したときに彼は有名な図書館から自分の浴場を豊かにするために多数の本を運び出したに違いない。このカラカラ浴場の図書館遺蹟には写本やパピルスを展示するための何層もの円形のガレリーが存在する。浴場の周りには500の部屋がある。大ホールの天井は1つのスパンであり、屋根は青銅の棒が入ったコンクリートでありスジ入りコンクリートの初期の例である。水道パイプのための鉛はたぶんコーンウォールから運んだものであろう。
 ディオクレティアヌス帝(在位284-305年:キリスト教を大弾圧)の浴場(最大で最も贅沢)は3200人を収容した。テピダリウムは長さ300フィートで幅はほとんど100フィートであった。「高さ50フィート直径5フィートのエジプト花崗岩の8本の一本石を出発した単純な4部からなる3区画アーチである」(ミドルトン)
 医学の観点から、これらの大きな浴場は種々の病気の治療や運動に使うことが出来る。疑いなくこれらはこれらの目的に広範に使われ良い結果を与えたであろうが、しかしこれらの筋道のたつ利用はますます少なくなり、悪用が国の衰亡を促進する主な要素になった。贅沢な水浴がどの程度に使われたかを示すものとして、温かい香水やサフラン・オイルが水浴に使われたり、豊満なネロ夫人ポッパエアが500匹の雌牛からのミルクの浴槽の中で皮膚を滑らかにしたことを読むのは、興味深い。
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第13章 衛生


水の供給


供給の範囲
 古代ギリシャで市はその上に美しい噴水が作られた泉から水が供給された。ギリシャの水道管はローマのように大きなスケールではなかったが、ふつう岩に切り込まれた矩形状のチャネル、またはパイプまたは石造であった。これらの公的建造物には大きな注意が払われていた。
 フロンティヌスによるとローマの最初の上水道は紀元前312年からのことであった。
送水路
 プリニウスはクラウディア水道について次のように書いた。「もしも誰かが、浴場、貯水池、家、堀、庭、郊外の別荘、への水の公的供給、送られる距離、建造するアーチ、穴を掘る山々、埋める谷、を計算したら、全世界でこれ以上もっと素晴らしいものは無いと、告白するであろう」と。
市における割り当て
 ネルウァ帝およびトラヤヌス帝の時に上水道の監督官だったフロンティヌスは9つの水道について書いていて、そのうちで4つは共和国の時代のもので、5つはアウグストゥス帝およびクラウディウス帝の治世のものであると書いている。
「ローマの水供給の全量は毎日332,306,624ガロンであり、人口を100万人とすると1人あたり332ガロンとなり、1日あたり40ガロンは充分と考えられる。」
 ローマ人は帝国首都に大きな水道を用意しただけでなく、帝国の種々の全地域にもそれらを建設した。ローマで市の低いレベルと高いレベルに水を供給できるように水道は幾つも建造された。ローマ人が今日のように何故に地下に水道を建設しなかったかは種々の説明がなされている。水は距離が遠くても独自の水準を保つことを彼らは理解できなかったのかも知れない。また水の高圧に打ち勝つのが困難だったことを彼らは見つけたのであろう。
 パイプ内の圧縮された空気圧を下げるために、これらの導管には短い距離でシャフトが作られていた。ローマの近くからの水は石灰性の沈殿物で水路およびパイプを急速に詰まらせた。閉鎖していない水道を作ることは水漏れや障害に近づけるので古代ローマ人にとって強く魅力的だったのであろう。彼らは「水力学的な平均グラヂエント」に関連する技術的な困難を充分には理解しなかったのであろう。水を汲み上げたり仮定的な高さに上げるために機械を使わなかった。水道(水路)の両側に15フィートの土地を残しておいて境界石によって一定の距離毎に明白にした。水道の近くに木を生やさないようにして、基礎を傷つける危険が無いようにし、この水路保全の規則を破る者は重い罰金を処せられた。
 ウィトルウィウスは水を検査する規則を与え、土管を通った水は鉛から来た水より健康に良いことを指摘した。彼は水道管における「低下」は200あたり1以下であってはならないと述べた。水があまりにも速くなりすぎるのを防ぐためにサーキットをしばしば作り、主水路が壊れたときの水不足を避けるために中間貯水池を建設する。貯水池はまた灌漑に使用する。
 上水路からの水は市の壁で castellum aquarum(水の城)と呼ばれる大きな貯水槽で受け取る。この外側は美しい建物で内部は硬いセメントで裏打ちをした広い部屋であり、柱で支えられたアーチ型の屋根で覆われている。水はここから3つの小さな貯水槽に流れ込み、中央のものは2つの外側のものからオーヴァーフロウで満たされる。外側の貯水槽は公共浴場と個人の家に水を供給し、中央の水槽は公共の池や噴水に供給する。このようにして水不足のときに最初に供給の止まるのは最も重要でないものである。個人のための水量は収入の目的でこのように制限することができる。
 水道管理者(curatores aquarum)は非常に重い責任を持っていた。トラヤヌス帝の時には、彼らの命令で460人の奴隷が種々のクラスに分かれて、それぞれが水供給の保持と調節の独自の任務を果たしていた。純粋の水を供給し適当に排水するのは衛生において第一の重要なことであり、ローマ人たちがこれらのことをよく理解していたことは明らかである。

下水


 アテネの下水は煉瓦と石で作られ空気の立坑が準備されていて、水たまりに接続し、ここからパイプが下水を周りの平野の地下に送って発酵を起こさせる。
 ローマ市の主な下水道はクロアカ・マキシマであり、小下水道の大規模なネットワークが作られていた。個人住宅の簡易弁書はふつう台所の近くにあり、台所と簡易便所からの共通な下水は公共の下水(クロアカ)に排水される。トイレの床の丁度上に開いたパイプはフラッシュのための水を供給する。非常に小さな部屋がフォロ・ロマナのヴィア・サクラに発見されて使用方法について考古学者を困らせたが、衛生用小部屋と考えられている。ローマ市の下水はテヴェレ川に排水された。

屍体の処理


土葬と火葬
 ギリシャでもローマでも死体の処理に土葬と火葬が行われた。ファロ・ロマナのファウスティナ(Fausuthina)神殿の近くヴィア・サクラの下で、ロムルスがローマ市を造った前の、丘の住人たちの墓が見つかった。ローマでは十二表法の時から市内における埋葬は禁じられていた。皇帝、ウェスタの処女、凱旋式で名誉を与えられた有名人、は例外とされた。貧しい人たちのための広大な墓地が市の東側にあり、豊かな人達の墓は道端にあった。これらの遺蹟は今はアッピア街道に沿ってみられる。これらの墓の一つはスキピオの墓であり、バイロンが書いたように「今は遺灰が無い。」スキピオの墓の近くに高い階段のついたドアがあり、納骨堂(columbaria)に導かれる。これらはピジョン・ホールがあり、これは貴族の解放奴隷の遺灰を受け取るためのものである。献辞によるとこれらの解放奴隷のあるものは医師であり、他は音楽家や銀細工師であった。香料の店がフォロ・ロマナのヴィア・サクラにあった。香料は火葬にさいして火をつける前の分解の臭いを隠すためにしばしば使われた。キリスト教信者は火葬に反対して土葬を好み、香料商人の商売が悪くなったときにコンスタンティヌス帝は彼らの店を買い取った。
カタコンベ(地下墓地)
 カタコンベは殆ど完全にキリスト教信者によってのみ使われた。もしもカタコンベのすべての通路を線状に並べると、イタリアの全長になるだろうと言われている。これらは火山性の土地に掘られていてこの目的によく合っていて、最初には建築に使うセメントのために作った採石場だったのだろう。キリスト教信者が埋葬の宗教儀式に使っただけでなく、秘密の集会場にも使ったのであろう。死体は壁龕に置かれ、時には2段か3段とされ、壁龕は土や石で満たされた。
公衆衛生の法規
 我々の公衆衛生の法律に相当するものが古代にも存在した。例えば公害を起こすローマ市の工場や仕事場は市の外に移さなければならなかった。コロッセウムのスポリアリウム(spoliarium)は古代において遺体安置所に相当するものであった。
 大きな家では病気の奴隷のための離れ(valetudinarium)が用意されていた。これは感染を防ぐためと病人の看護の便利のためであった。
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補遺 古代における医師への謝礼


 古代ギリシャおよびローマの医師の謝礼は現在と大きく異る。少数の医師への謝礼は非常に多かったが、普通の医師には体面以上のものではなかった。
 セレウクス(Seleucus)は彼の息子アンチオカス(Antiochus)を治癒させたことでエラシストラス(Erasistratus)に約20,000ポンドを払った。ヘロトドス(Herodotus)の言うところによると、アエジネタンス(Aeginetans 532BC)はデモセデス(Democedes)に公費から1年あたり304ポンドを払い、その後にアテネ人たちは毎年406ポンドを払い、サモス島で彼は毎年422ポンドを受け取っていた。プリニウスによると、アルビティウス、アルンティウス、カルペタヌス、カシウス、ルブリウスは、毎年それぞれ約2,000ポンドを受け取っていたし、クィンタス・ステルティニウスは私的な患者ではもっと受け取ることができるのに、皇帝からは毎年4,000ポンドで済ませていた。外科医アルコンはガリアにおける医療で数年のあいだにほとんど100,000ポンドの財産を作った。プリニウスの言うところでは、マンリウス・コルヌタスは皮膚病を治癒させた医師に2,000ポンドを払い、執政官夫人を治癒させたガレノスへの謝礼は我々の貨幣で400ポンドであった。
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訳者解説


 オスラー、シゲリスト、ノイバーガーなど医学史専門家によるの医学史の名著を読んだ後で、ニュージーランドの外科医エリオット博士の「ギリシャおよびローマに医学の概観」を楽しんで読みました。アイルランドのプレスビテリアン牧師の子として生まれ幼児のときにニュージランドに渡り、ウィルミントンの病院の外科医となり、ボア戦争、第1次、第2次世界大戦に軍に参加し、病院の管理者、医学雑誌の編集者、小説著者、ペン・クラブ会長などもしていて、医学史専門家ではありません。それだけに、訳者のような素人には参考になりました。特徴をあげると、ギリシャ・ローマの国内情勢、患者の立場、医学=内科学ではなく外科医の観点、医学の衰退におけるローマ教会の責任、などをはっきりと述べています。
 数年前まであまり読まれていない本のようでしたが、パブリック・ドメインに入ってから、グーテンバーグ、グーグル、Archive Org その他の10以上のウェブで読むことができるし、0ドルでキンドルに送り込んでくれるようになっています。
 博士についてはインターネットに Wiki、伝記、写真が見つかりました。
蛇足:この本を読んで困るのはギリシャ人の名前です。ローマ人医師の大部分はギリシャ人であり、しかもトルコやアフリカなどで生まれ育っていることです。翻訳で固有名詞は我が国の習慣に従ってギリシャ名を使い古典発音をカナ書きにしました。調べるには英語名を探して英語 Wiki で検索なさることをお勧めします。英語の本はギリシャ人でもラテン語名または短縮して記載しています。ガレノスも英語の本ではガレンまたはガレヌスです。カナ書きも簡単ではありません。使徒の1人もピリポと思っていたら最近はフィリポが使われています。地名エペソスも英文では Ephesus ですし、聖書ではエペソ書またはエフェソ書です。(作業者注:必要と思った場合は、英文のままにされていた人名についても適宜カナ書きに変更し、原綴りや英語名を括弧で追記しています)






底本:James Sands Elliott "Outlines of Greek and Roman Medicine" (1914)
   2019(平成31)年3月15日青空文庫版公開
※見出しと本文における語句の不統一については、原稿のままとしました。
※本作品は「クリエイティブ・コモンズ 表示 2.1 日本 ライセンス」(http://creativecommons.org/licenses/by/2.1/jp/)の下に提供されています。
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翻訳者:水上茂樹
2019年3月18日作成
青空文庫収録ファイル:
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●図書カード